from 名無し♪さん (2004年11月27日 21:17)
というのは、その通りですね。このようなマイノリティ運動は得てして、罪悪感を相手に持たせ、「被害者」の立場から喧しく叫ぶだけのように私には思えます。
本題ですが、「同性婚」についてどう考えればいいのか。私はフェミニズム(ジェンダーフリー)に反対ですから、どちらかといえば「保守」よりの思想をもっていますが、実は「同性婚」それ自体には断固反対、という立場ではありません。
私見では龍子さんの仰る「常識の否定や相対化」こそが、どちらかといえば「保守より」(リベラル保守とでもいいましょうか)の人たちまでをも敵に回しているように見えます。
「バックラッシュ」というレッテルを貼られている論客、八木さんとか林さんが性差別主義者かといえば、そんなことあり得ない。教条的なフェミの集会などでしか通用しません。
……と話がずれてしまいましたが、フェミナチ板にも書き込みをなされている筑波大学の教員の掛谷英紀さんは著書の『日本の「リベラル」』の中で、同性婚について「同性婚などは現行の結婚制度と全く同じ扱いにすることは多数派の同意は得られないだろうし、多数派にも現行の結婚が「同性婚」と区別されることを求める権利がある、しかし少数派の権利も守る必要があるから、従来の結婚とは異なる制度にする必要がある」と言っています。その例としてフランスのバックス契約をあげているのですが、その日本版として「蝶結婚(ちょうけっこん)」という私案をあげています。
私はこれには必ずしも反対ではありません。掛谷さんが言うように「その生き方を国が公認するという意味で意義深いこと」だと思うからです。ただ、やはり同性婚というものに小さな嫌悪というか、そこまでいかなくても、なんとなく肯定し難いものを持ってしまうのは事実なのですが……。
日本という国に同性婚を認めさせる運動を続けても「常識の否定や相対化」では絶対に無理だとは思いますし、私も反対です。夫婦別姓の欺瞞はそこにあったのでは、とさえ思います。国民は深く考えなくても、その根底にある「よくわからないが受け入れにくいもの」を敏感に感じ取るのではないでしょうか。同性婚問題においては、まず当事者の間でコンセンサスを作ることが大切だと思います。もし仮にそれが「常識の否定や相対化」であるなら、残念ながら、問題が解決することはないでしょう。
この考察では、現在の法制度での「婚姻」とまったく同じものを同性間に認めるか、それともドメスティックパートナー制度なりバックス契約のようなものにするか、というところまでは、まだ踏み込めていません(^^;)。
私が「同性婚」と書いたのは、これらの内の(あるいは他の方法での)何らかの形での、同性カップルの社会的公認、および同性カップルにおける一定の権利の社会的公認という意味です。それらが認められるとして、そのためにどのような原理と現実的道筋があり得るだろうか、ということですね。
>ただ、やはり同性婚というものに小さな嫌悪というか、そこまでいかなくても、なんとなく肯定し難いものを持ってしまうのは事実なのですが……。
はい、これも名無し♪さんに限らず、同じ意見を持つ人は多いだろうと思います。性転換や戸籍上の性別変更などもそうだったと思うんですけど、特に身近に当事者がいないと具体的なイメージもわきませんし、そういうこと自体が従来の「常識」に反するという意見もあると思います。
ただ、従来の「常識」と異なることを何一つ認めないということになってしまうと、それも一種の教条主義・原理主義になってしまうわけですよね(^^;)。しかし私の考えでは、「常識」その他の規範は、特に政治的なイデオロギーによらなくても、時代の経緯と共に変化することそれ自体は避けられないと思います。たとえば「男らしさ」や「女らしさ」にしても同じことで、これらについていかなる変化も認めないというのは、かえって非現実的な主張になってしまうわけです(もちろん、「伝統」だから間違っている、というのも同じく教条主義・原理主義的な主張であって、その非現実性は同じです)。
大切なことは、変化それ自体をどういう形でも否定することではなく、変わりつつあるものの中にあって変わらないものは何か、を問うことから始めて、それを取り出してみることだと思います。これを私は「本質」とか「意味本質」と呼んでいて、たとえば世界各地に様々な形態の「家族」があったり、日本社会の中でも比較的に大家族から各家族化が進むなどの違いがあります。それにも関わらず、
ということは共通している。つまり、変わりつつあるものの中にあって変わらない、「家族」の本質であるわけです。私もある意味では自分のことを「保守的」だと思っていますが、守るべきはこの「本質」であって、それが維持されている限り、具体的な形態については時代に応じた柔軟な変化を認めるべきだと思う。そうじゃないと、かえって「本質」ぐるみ形骸化してしまうのではないか、という危惧があります。
いわゆる「保守論者」の中にも、形態のみに注目して、形骸化という問題を論じない人が多いように見受けられるのが私の不満なのですが(^^;)、古流武術という「伝統」の中に身を置いてみると、これは決して無視できない問題だと思うのです。武術というのはある意味ではとてもわかりやすい世界で(^^;)、いくら「伝統だからこれは正しいんだ」と言い張っても、斬られて死んでしまったら何にもなりません。ですから、それをいかに防ぐのかということが、どうしても伝承の上での問題になります。これが私が、形骸化を問題視し、「本質」を重視する理由の一つです。
話が逸れましたが、同性婚(上述のような広い意味での)について考える場合も、
この2つが条件だと思っていて、同性婚というのはこの基本(または原型)を前提とする「擬制」として認められる余地ならあるだろう、ということなんです。
既に述べたように、この「擬制」というのは日本でも近代以前から養子縁組が行なわれ続けているわけですから、「擬制」それ自体は今さら否定のしようがないはずですね。問題は、同性婚を新たに「擬制」として認めるか否かということであって、今の時点ではおっしゃる通り、心理的抵抗を持つ人々が多いのも事実です。ですから、そこをどのように説得してコンセンサスを成立させるのかということになる。
その際、既に指摘したような罪悪感強迫を持ち出しても、真に理解は得られないでしょう。あるいは自説に都合のよい「世界の風潮」や「学説」を持ち出して、それを進歩的な「真理」として固定し、日本は遅れている、あるいは、これに賛同しない人は遅れているというような言い方。これもありがちですが、やはり無効だと思います。そもそも同性婚の実現の要求は、「遅れている日本をなんとかしたいから」という動機が根本であるはずがない。
そうではなくて、同性婚の実現を望む人たち自身の内側から出てきた訴えかけが必要です。現状では実際にどのような不都合があるとか、そういうことですね。こういう現実に根差したアピールがあって、初めて他の人たちにも「これはなんとかしなければ」という問題意識が生じる可能性が出てくるわけです。
これは、同性婚の実現を望む人たちの側の問題であって、たとえば今の時点で「無理解なマジョリティが悪い」などと言うことには全然意味がない(^^;)。「そういうあなた達は、理解を得るために何をしたのですか?」という問題に戻ってしまうわけです。
しかし現状では、これが欠けている。同性愛者の一部のコミュニティの内部では、そういう話も出ているのかも知れませんが、(私の知る範囲では)一般向けのアピールとしては存在しないも同然ではないかと思います。ポストモダンを換骨奪胎したような「常識の否定や相対化」では、単なる知的遊戯にしか見えない。要求の切実さが伝わりませんし、「言葉ではそうも言えるけれども、実際に法制度を整えなければならないどのような現実的な必要性があるのか」という話になってしまう。訴求力に欠ける以上、そんなことを10年や20年続けたところで、何も生み出すことはないでしょう(^^;)。それから、
>多数派にも現行の結婚が「同性婚」と区別されることを求める権利がある
という部分について、このこと自体には異論はありません。ただし、当事者側からドメスティックパートナー制度なりバックス契約のようなものを求める場合には、一つ間違えると、「法律婚より事実婚のほうが正しい」というイデオロギーを前提とした要求にもなりかねないわけです(^^;)。これをやったら、掛谷氏の提案とは、まったく似て非なる文脈での要求になってしまう。まぁ、民主党左派や社民党あたりは喜ぶでしょうけど(笑)、やっぱり国民的コンセンサスは成立しないだろうと思います。
こういう主張の仕方は、「悪い権力が不当な制度を介して人民を抑圧している」という社会観を無条件に前提においていて、社会と対立することが必然であるようなバイアスを、最初からはらんでいるわけです。しかし私の考えでは、目指すべきことは「社会における合意形成」なのであって、社会(あるいはマジョリティ)と対決することでは、全然ない(^^;)。ここを間違えたら、その運動にはもう先がないと言っても、けっして過言ではないでしょう。こういう運動と、掛谷氏の提案との区別はどこでつけるかというと、やはり上に挙げた、
という条件の有無を基準としたらどうかと思うんですね。この条件を置くことによって、「法律婚より事実婚のほうが正しい」というイデオロギーを前提とする主張とは、はっきりと一線を画することができると思います。
