ナショナリズムについて


from 大畠五十六@武天老師さん (2005年02月12日 18:36)

戦史家と言う職業柄、日本とアメリカの軍事力(と言うより国力)の差を象徴するのは

『アメリカ自身、特型駆逐艦や妙高級重巡洋艦さえなければ、ロンドン軍縮条約など無かった』
『大東亜戦争にてその工業力、軍事力の差を見せ付けられた』

と言う説。ワシントン海軍軍縮条約自体、アメリカとすれば太平洋(対日)のみならず、大西洋艦隊に戦艦や補助艦艇(つまり重巡洋艦や空母など)を分割せねばならないので、五割とは言え、実質上は2・5割と、三割の日本のほうがやや有利だった(そのために日英同盟を破棄させるよう英国に要請したと言う説がある。もし、ワシントン軍縮条約そのものが破棄すれば、日本は八八艦隊計画、アメリカはダニエルズプラン計画で、数はともかく日本のほうが経済面で破産していた説もあります。

それにおいて、日本側は「月月火水木金金」の休日返上の猛演習(これを唱えたのが東郷平八郎元帥)やワシントン軍縮条約に規定されていない補助艦艇の重武装化などの量より質の増強に努めますが、その中の妙高級重巡洋艦、特型駆逐艦があまりにも優秀な性能のため軍縮条約を行ったのです。

この軍縮条約は有名な『対米七割』で、補助艦艇6・9割とも不満を出して、野党等は右翼団体「桜会」を出して「統帥権違反だ!!」とも騒ぎますが、実際の話、アメリカは両洋艦隊に艦艇を派遣せねばならない事や英国では植民地警護に不十分と不満を出す結果に終わります(そのせいか、英国は軽巡洋艦の保有量が米国より上の17・9%だったし、英国自身重巡洋艦の運用に疑いを持ち始め、建造を中止している)。

実際、日本はロンドン軍縮条約の延長線『第二次軍縮条約』には参加せずに、補助艦艇に思うまま重武装して戦艦大和を建造します。

前置きが長くなりましたが、ロンドン軍縮条約破棄後の日米の軍事力差は
日本
駆逐艦約40隻〜60隻
重巡洋艦利根級二隻
戦艦大和級二隻
空母翔鶴級二隻、隼鷹級改造空母二隻、雲龍級三隻、改造空母四隻 大鳳 計12隻

に対してアメリカは
空母エセックス級24隻、インデペンデンス級9隻、カサブランカ級50隻
巡洋艦セントルイス・クリーブランド、ボルチモア級合わせて約40〜50隻
駆逐艦(護衛駆逐艦を合わせて)約1500隻

と言う国力差を見せられる始末ともなりました。
現在においても
イージス巡洋艦62隻
イージス護衛艦四隻(日本)
との差があるように
つまり、国力などにおいていくら日本が背伸びをしようとアメリカにはかなわないと言うことです。(長くなりましたので、お後のほうはホームページを参考にしてくださいませm(__)m)

ナショナリズムにおいては「夜郎明大」「偏狭」と言うイメージがありますが、現代のところ、そのナショナリズムを偏狭とまでに言っている人間こそが、よほど偏狭だと思います。 と、言いますのは、大東亜戦争の国家総動員に対する違和感か反動によるものか、それら戦前の価値観を否定して『自由・平等・権利・個性』と唱え革新的な思想を持つのが素晴らしいとして『古きを捨てて新きを得る』とまでに国旗・国歌を攻撃するのが正義とまでに古い価値観や文化・慣習を破壊するのが革新的で、素晴らしいと左翼マスコミや団体が煽りましたが、私自身はこれを

『教育ママの正義』

だと思います。教育ママは子供を優秀な大学に入学させて、一流企業に入社させるのを正義として、それは「子供のため」とばかりにヒートアップさせます。教育ママは表面的な権威に弱く、世間体そのものに気を使いますから、子供の大事なものの価値も知らず、『友達に馬鹿にされる』『勉強して大人になりなさい』とまでに強制します。
「日の丸・君が代は強制だ、内心の自由を守れ!!」などと言う日教組左派勢力はこの強制に対して何も文句を言わず、学校内権力者として自らの名声のために子供たちを受験戦争を盛んに煽り立てる。これに対して反抗し不良グループに入るのは個性だと思うが連中はそれを思わない。この連中にも責任があるが、それを果たせず『子供の権利』などとも言うから片腹痛い偽善だ。どちらが大東亜戦争の愛国婦人会や隣組などの国家総動員などの戦前の狂気、あるいは「きな臭い空気」「軍国主義者」であるのか?
「君が代・日の丸が強制とするなら、教育ママの教育は強制ではないとも言うのか?」

共産党が反米愛国を唱えたのもある意味では「アメリカ的個人主義」についてこれず、「ソヴィエト式共産主義(国家主義)」の方が心地よろしいのではないか?とまでに思う。「個人の権利」と旗印を出し、それにより国旗国歌、神道そのものを「強制」と排斥し、校長をつるし上げにしても正義であるから罪悪感すらないとまでにやりながら、
世間体や集団には弱いと言う矛盾もさることながら、件の教育ママの様に子供が大事にしてるものを「友達に馬鹿にされる」とか「あなたのためにならない」とかで「古きを捨てて新きを得る」と言う驕りと似ている。


ナショナリズム

 私はまず、ナショナリズムそれ自体が「偏狭」であるかないか、というような議論自体が、本来は成立するはずのないものだと思うんですね。ナショナリズムを悪くいう人は、ナショナリズムの悪い点ばかりを取り上げたり、さらには曲解を加えてでも貶めるし、それに反論する側はナショナリズムの重要性や日本の美点ばかりを強調する。そういう中身のない水掛け論が、戦後だけでも半世紀以上に渡って続けられてきたわけです。

 だけど本当に意味のある議論をする気があるのなら、「どのようなナショナリズムならば好ましいか(好ましくないか)」という、「ナショナリズムのあり様」について考えることが必要で、それがずっと欠如していたのではないか。どうもそういう気がします。

 半年ほど前にこのHPで、浅羽通明氏のナショナリズム(ちくま新書)を取り上げた時にも思ったのですが、そもそもナショナリズムとは何かということを、たいして深く追求しているわけではないんですね。「ナショナリズム」と呼び得る各種の思想の、その日本近代史にはなっているけれども、根本的なところまで追求しようとしたという印象はありません。

 また、とにかくナショナリズムを否定していという左翼が、ナショナリズムについてまともに考えたりしないのは当然としても(笑)、いわゆる保守論壇にもあまりまっとうなものはなくて、なぜかというと後者は日本の独自性ばかりを強調することに請求であり過ぎるからです。日本にもアメリカにもドイツにもナショナリズムと言うものがあり得るわけですから、それぞれの国のナショナリズムを語る以前に、「ナショナリズム」それ自体とは何かという問いがあって然るべきですね。だけど、それがない(^^;)。すぐに国体とか、日本独自の文化とか、そんな話に逃げ込んでしまうわけです。

 なぜかというと、そもそも「国家とは何か」ということを考えていないからではないか。それがわからなければ、「ナショナリズム」について考えられるわけがありません。

 国家というのは、一言でいえば個々人の安全保障のためにある。この場合の「安全保障」というのは軍事的なそれに限ったことではなくて、英語で「セキュリティ,security」と言い換えた方がわかりやすいかもしれません。「福祉,welfare」といってもよいのですが、これも日本では生活保護や老人介護など、狭い意味に取られかねませんね(^^;)。

 たとえば、日本人で警察のことを「福祉機関」だと思っている人はまずいないでしょう(^^;)。だけど、犯罪被害に遭った人がいたら犯人を逮捕して出来るだけ被害回復をして…、というのも「福祉」なんです。警察は英語で police ですけど、この語源は古代ギリシャの都市国家(ポリス)であり、都市(国家)統治をも意味します。だから「内政」と言い換えてもよくて、それはすべて広義の「福祉」です。

 整理しなおすと、国家は「内政」を行うものであり(あたりまえですね)、その「内政」とは広義の「福祉・安全保障」である、ということです。もちろんこれは特定個人のために存在するのではありません。だから日本国憲法でも個人の権利は「公共の福祉」に反しない限り、という制限が明記されているわけです。

 要するに国民の日常の安全は、意識するか否かを問わず、国家に負っているのであり、逆にいえば国家というのは国民の「福祉」のためになるような存在でなければなりません。そうである限り、国民は国家のことを気遣う必然性がある。それが同時に、自分の安全についての気遣いにもなるからです。いわゆる「郷土愛」のようなものは別にして、「国家」に対する愛国心やナショナリズムというものは、このことに根拠があるわけです。

 これは、不当なことでもなければ「偏狭」なものでもありませんね。もちろん「自由」とか「平等」とか「権利」とかいうとナショナリズムが壊れるということでは、全然ない。だから、アメリカにもフランスにもナショナリズムがあるわけです。

 左翼にこの理屈が通用しないのは、彼等にとって「国家」が、「福祉」を行なう存在ではなく、資本家と結託して搾取を行なう「暴力装置」だからです(笑)。そういう「国家」が互いに争って戦争を起こすのだから、世界中で革命を起こして資本家をなくし、国家をなくせばよいというのがマルクスのプランで、だから左翼はナショナリズムを嫌うんです。特に、あくまでも世界革命を狙うトロツキストにこの傾向が顕著で、同じマルクス主義でも、スターリンのような一国革命主義と対立する立場ですね。

 共産党が「反米愛国」を言い出した1950年というのは、ご存知の通り朝鮮戦争の始まった年です。その前の5年間というのは、アメリカはソ連と共に連合国側に属していた解放勢力だとされていたわけですが、朝鮮戦争をきっかけとして、米ソのいずれにつくかという選択をする必要に迫られるわけです。といっても、ここで共産党が考えこむ必要はなくて、ソ連につくに決まってる(笑)。これは難しく考える必要はなくて、ただ共産党史を追ってゆけばことたります。

 戦前の日本共産党は非合法組織で、当時は独立した組織ではなく、「コミンテルン日本支部日本共産党」でした。戦後さっそく活動を再開、活動歴が長くて非転向を貫いた者が主導権を握ります。そうすると共産主義組織の中でも戦前の日本共産党を引き継ぐ、正当な組織だと主張できる。

マルクス→レーニン→スターリン→旧コミンテルン→日本共産党

という権威の鎖がつながるわけです。ここで「旧コミンテルン」と書いたのは、コミンテルンが戦時中の1943年に解散しているからです。その後、1947年にコミンフォルムが結成されています。1950年にコミンフォルムの日共批判を受けたり、そのすぐ後にGHQのレッドパージが始まったりで、ここから「反米」になる。正式には翌年の「51年綱領」からですが、実質的には50年から反米になるわけです。

 この時点で日共がアメリカを選択することはあり得ませんし、迷いもしなかったでしょう(笑)。古くからコミンテルンとつながりのあった共産主義者が実権を握っていたからです。言い換えれば、当時の日共の指導層は、既に戦前においてソ連を選択した者たちの集まりであり、彼等の権威は、ソ連を選択し続けることでしか保つことが出来なかったからです。

 また彼らには事実上、選択肢はありません。レッドパージは既に始まってしまっているし、ソ連を捨ててアメリカについたら、自分たちの共産党組織としての正統性も消し飛んでしまうのですから、ソ連を選ぶに決まっています。「アメリカ的個人主義」について行けるかどうか、などということは考えもしなかったでしょうし、考える必要もなかったはずです。

L.Jin-na


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