着物の着付けについて


from ムーミンさん (1999年09月19日 05:49)

おばさまに聞いた話なのですけれど・・・。
素人の着方と玄人の着方とでは、襟の扱いとか色の扱いとかが違うそうです。
なにぶんにも明治時代の人なので、きものをきるのがふつうのひとですから、「着付け」ということについては、あまり気にしない人ですけれど、着付け教室のようなところで着付けられると(一時、体の自由が利かなかったときがあったもので)かなり、苦しいといっておりました。
本来なら、着物はかなり楽なそうで、何か違うとか・・・。
難しいかもしれませんが、ご近所で明治から大正時代の人がいらっしゃれば、教えてもらえるかもしれません。
もっとも、プロとしてちゃんと免状をもらうのであれば、別ですけれど、ただ着物を着たいというのであれば、男物でなくても教えてもらえる可能性があるかも・・・。

そうそう、着物を着るのであれば立ち振る舞いの問題で、日舞を習うというのも必要かもしれませんね。それからお茶も・・・。

あんまり、そこまでする必要はないとは思いますが、意外と洋装の癖が抜けないとどこか変ですから・・・。

ムーミンでした・・・。


ありがとうございまぁ〜す

 確かに、同じ「着物(和服)」でも、いわゆる晴れ着と日常生活の中で着ていたものとでは、かなり違いがあるだろうなという気はしますね。洋装でも同じ事なんでしょうけど、晴れ着というのは、洋装でいえばコルセット着用のドレスのようなものではないかと思うことがあります。なんというか、すごく拘束性が強いんですね。

 ただ、現代人が着る場合には、この拘束性というのは、物理的なものと、その人の身のこなしによって感じられるものとの2種類があると思います。

 物理的な拘束性というのは、例えばあの帯の幅と固さと長さです。着る人の身のこなしに起因する拘束性というのは、簡単に言えば、その人の動き方が着物の特性に合っていないために生じる不都合とでもいえば良いでしょうか。

 例えば、現代人は歩くときに、反対の方の手と脚を前に出しますね。そうすると、これは常に体をねじって歩いている事になりますから、着崩れの原因にもなります。でも、それでは体をねじらずに歩いてみましょうといっても、普通はなかなか出来ません。本人はそのつもりでも、たいていの場合、実は足の方がほんのわずかに早いんです。上半身と下半身が「ひとつ」にならなくて、まず足を前に出して土台を作ってから、その上に「どっこいしょ」と上半身が乗ってくる(^^;)。ただ、そのタイムラグが非常に短いので、本人も含めて慣れない人にはそれが意識できないんです。しかし身体がネジれているには違いありませんから動き難いし、その無理が着物にかかると、着崩れの原因になるわけです。

 「座る」ということ一つ取ってもそうですね。現代では、ほとんどの人が子供の頃から洋装で過ごし、しかも畳の上で正座をする機会が生活の中からどんどん減っていますから、座り方が判らない。腰のどの位置の上に、上半身をどのような形で乗せるかという、ごく基本的なことが判らなくなっているんです。でも、その形がきちんとできていないと、和装の時には窮屈だったり、また見た目にも見苦しいということが起こるわけです。

 一時期、正座は体に悪いという話がありましたけど、あれもどういう「正座」を研究対象にしたのか、非常に疑問です。普段の生活の中で正座に慣れていない助手か誰かに「お前ちょっとそこに座れ」といって正座させたのと、どこかの礼儀作法の宗家にお願いして、その正座を研究対象にしたのでは、まったく違った結論が出るはずです。こういう事があるから、「科学的に検証しました」といっても、私は必ずしも信用できないんです(笑)。

 でも「歩く」とか「座る」というのは、行住座臥という言葉があるくらいで、ごく日常的な基本動作ですから、普通は「私は歩けない」とか「私は座れない」とは思わないわけです。私はそのことを古流武術で学び取りましたが、昨晩の書き込みで日舞をお勧めしたのも、現代の動き方からすれば「非日常的な動き」である、和装に適した動きがそこにあるからなんです。

 ただ、それでは西洋的な動きはきちんとできているかというと、これも現在の日本人は、とても心もとないですね。和服の場合もそうなんですけど、洋装で女性らしい動きを身につけようと思ったら、私はとりあえずタイトスカートとハイヒールをお勧めします。そうしたアイテムによって動き難い制約を課した上で、その制約の中でも不自由なく動けるようになれば(制約を制約として意識せずに動けるようになれば)、動きの「質」は確実に、少なくともワンランクは上のものになります。

 そうした不自由な服装を、女性差別の現われと見るような種類の思想もあるようですけど(笑)、私はそういうのは、型(かた)を軽視するある種の現代武道と同じだと思っています。つまり、型の意味が判っていない。こういう批判は、型の不自由さが彼等にとっていつまでも不自由だと感じられるところから起こっています。だから、そういう人達にとって、型は不合理なものと見えるのです。

 私はこういう人達にとっての合理性を、「低次安定」と呼んでいます。だけど弁証法と同じで、低次安定レベルでの不自由さを克服すると、より高次のレベルでの合理性というものが表れて来るんです。この高次のレベルでの合理性を追求するための、身体運動としての弁証法が、つまり型稽古の本来の意味です。私は、低次安定それ自体を悪いとはいいませんけど、しかし、自分達を基準にして型稽古を排除し、したがって、より高次の合理性を排してしまう事は、間違いだと思うんですね。

 ところで、先日お尋ねの昼嬢の移転先ですが、その後、情報を下さったかたがいらっしゃいました(ありがとうございます)。以前に、昼嬢を担当してらした、O先生は、現在は新宿2丁目の「青い鳥」で、以前と同じような営業をなさっているそうです。

L.Jin-na


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