編集者について

編集者が、皆さんと同じ、ただの平凡な人間である事を紹介する為のページです

 (シランの名前の由来)
世界中の子供達を主宰者にした為、どうなるか知らんと言う意味で、
「シラン」というペンネームを決めました。 


(当投票所誕生までの経緯)
1966年頃(小学校)
  私(ユミの父)の小学生の頃、赤十字手帳をもらった事があります。
  この時に、アンリィ・デュナン(国際赤十字社の父)と出会いました。
  それは、私の将来の夢を作り、その後の運命の方向を決める事に
  なりました。
  自分の仕事は戦争の無い世の中を作る事にしようと決心しました。
  他の仕事が思いつかなかっただけかも知れません。
  しかし、今、これが私のライフワークと思っているのも事実です。
  追いかける夢があるのは楽しいと思いませんか?

  例え、この事に関して脇役の脇役、裏方の裏方でも。
  私がしなくても歴史の大きな流れは誰も変えられないと思います。
  せめて、私もその歴史の大きな波の端っこに乗って安心して暮らせる
  世の中への移り変わりを見たいと思うのは私だけではないと思います。

1968年頃(中学校)
  私もアメリカの女の子と文通をしていました。
  このことがある為、10才のユミがEメールで世界中の子供と
  文通をする事になったと思います。

1970年頃(高校)
  私の高校生の頃、私は福祉関係のクラブに入っていました。
  結局、その後、福祉の仕事には就きませんでしたが、仕事を
  持ってから手話を習ったりしていました。
  当投票所も投票者が来ないので各ホームページへの家庭訪問を
  して、投票依頼をすることになったのですが、投票結果がよくない時は
  まったく無駄な事をしている事になるので、せめて福祉、NGOの
  宣伝、募金、寄付も一緒にした方が良いと思い当投票所の任務の
  一つとして福祉、NGOの内容が重要な位置をしめているわけです。
  当投票所の本来の調査業務の意味が無かった事になっても、
  少なくとも、投票所を訪れた読者は募金、臓器提供を少しは見て
  くれると信じて出しています。
  今、結局、高校の時の続きをしているのかも知れません。

1973年頃
  昼間は自衛隊に勤務し、夜は4年制大学の夜間部で経済学を勉強して
  いました。 自衛隊4年任期満了、大学卒業(1978年3月)しました。

1978年頃 (正確には、1978年4月頃〜1980年3月頃)
  アメリカのロサンゼルスでハウスキーパー(家事手伝い)をしながら、
  成人学校で英語を2年間勉強しました。成人学校で色々な国籍の人と
  出会いました。 世界各地から来ていました。
  この時、車の免許試験を受けに行って、そこで臓器提供のドナー
  カードに出会いました。 20年前の話しです。

  日本に二度と戻らないつもりで行ったのですが、原因不明の病気で
  日本に2年後、戻りました。 英語でしか、このことは無理と
  思っていましたので、もう私には何も出来ないと思っていました。

  事実、20年後に、このホームページを作った時、何が、私をこの事に
  駆立てるのか分かりませんでした。 アンリィ・デュナンとの出会いが
  私を、ここまで導いたと分かったのは、1年以上、後のことでした。

1997年春(アメリカから帰って来て20年後)
  インターネットの勉強の為にテスト版として「宇宙船地球号」のホーム
  ページを出しました。  しかし、休眠状態のホームページでした。
  同名のテレビ番組が同じ頃、始まっていますが、関係ないです。

1998年春
  プロバイダーが「OR」から「NE」に変更になる為、ホームページを
  一新する事にしました。それで「世界平和の為の投票所」を作成する
  ことになりました。  作成して、登録したら、休眠状態でそのままに
  する予定でしたが、作成段階で、見えなかったものが見え始め、事態が
  差迫っている事を感じたので、動的管理体制になりました。
  その為、ユミと私で作った家族のホームページだったものが、今では
  自分達の物と言うより、投票所の組織下で、ボランティアとして、
  働らかされているような感じになってしまいました。

  事実、主宰者が私の上に存在するようになってから、そのようになってしまいました。
  投票所は、あくまで、どこの国、国連の組織、その他の組織(赤十字も含む)、
  宗教団体などに所属しないで、中立、公正な立場で、世界中に正式な意識調査、
  国民投票の提案をするNGO(世界の子供たちが主宰者の非政府組織)です。

編集者の私は、子供たちを助ける為に夢を与えるエンターティナーです。
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