初出 2001年10月25日
加筆 2002年 5月11日
HARIの私的考察

メイドさんに憧れる男性心理における私的考察

〜 あるいは、男は永遠に子供である事の証明 〜



 メイドさん、この言葉には、なんともいえない響きがある。
 かいがいしく自分の身の回りの世話をしてくれる存在。
 男は、その存在に「なに」を投影しているのだろうか。

・「メイドさん」への憧れ
 
 男が憧れるメイドさんといえば、エプロンドレスに身を包み、かいがいしく身の回りを世話してくれる美人or可愛い女性のイメージが強い。
 実際、最近はマンガやアニメ、ゲーム等で幅広い「メイドさん」物が世に出回っている。
 女性側から見れば、エプロンドレスの可愛さによる人気であろうことは想像できる。
 (実際、エプロンドレスはコスプレの定番になっている。)
 では、男はなぜメイドさんに憧れるのだろうか?
 
・「メイドさん」とは?
 
 「メイド」(もしくは「メード」)という名称は英単語「maid」から来ている事からも解るように、外来語である。
 日本本来の単語で近い意味を持つ単語は「女中」もしくは「お手伝いさん」である。
 (不思議な事に「メイド萌え」という言葉は聞いても、「女中萌え」「お手伝いさん萌え」という言葉は聞かないが。)
 メイドさんが求められるジョブ・スキル、それは家庭内における家事(炊事・洗濯・掃除)を、母親に代わって(もしくは母親をサポートして)行う事である。
 そして、時には「育児」「子供の相手」すら任せられるケースもある。
 まさに、「家事のプロ」といえよう。
 
 余談ではあるが、興味深い事をあげよう。
 国語辞典で「メイド」(もしくは「メード」)を調べると「女中」「お手伝いさん」といった言葉が出てくるが、英和辞典で"maid"を調べると、意外な意味がある事がわかる。
 「EXCEED英和辞典」より引用
 ”n. お手伝い; 少女, 未婚の女性; 処女.” 
 
・理想と現実
 
 漫画、そしてアニメにもなった「まほろまてぃっく」。
 この作品に登場するメイド「まほろ」さんこそ、「メイド萌え」が理想とするメイド像であろう。
 容姿バツグンで家事全般はプロ級の腕前、そんなメイドさんに「身も心も捧げて尽くします。」と言われた日には、たまった物ではない。
 だが、現実を見るとどうであろうか?
 先にも述べたように、メイドさんに求められるのは「家事のプロ」である。
 こういった仕事がこなせるのは、現代の「なに不自由なく育った若い女性」では無理である。(よほど両親の躾・教育がしっかりしていれば別だが)
 掃除・洗濯にしてもホテルやペンション等におけるそれと異なるし、炊事にいたってはファースト・フードでの「マニュアルに沿った仕事」とは別物である。
 現代でこういった仕事がこなせるのは、多分に「子育てがひと段落した女性」であり、そうなってくると男性の「憧れの対象」にはならない。
 (自分の母親と近い年代の女性なのだから。)
 
 では、若いメイドは存在しないのだろうか?
 メイドの歴史については、この「私的考察」から外れるので割愛するが、かつては(メイドさんの全てでは無いものの)貧しい家庭が生活の為に稼ぎに出した「娘」のつく職業だった。
 こういった家庭では、「娘」がメイドに求められる仕事を幼いうちからこなして来ているといった背景もあるのかもしれない。
 (もちろん、良家の子女が「行儀見習い」として「メイド的な仕事」をする場合もあるが、これを「メイドさん」と呼ぶには抵抗があるし、周りも「メイドさん」とは見ていないだろう。)
 しかし、それらは過去の話である。
 現在の日本において、人件費やプライバシーを考えた場合メイドさんを雇える家庭など、そうそう存在しない。
 (数年前に仕事で一緒になったインドの若い技術者は、本国に帰れば「住み込みのお手伝いさん」がいる家に住んでいると言っていたが。)
 ましてや、「使えるかどうか解らない」若いメイドを雇うなど、考えられない。
 そもそも、若い女性がバイトであっても「そういった仕事」をするとは考えにくい。
 可能性でいうならば、「美人の家庭教師がやってくる」方がはるかに高いといえよう。
 
 すなわち、「メイド萌え」となる様なメイドさんは、現実的には存在しないのだ。
 では、何故これほどまでに「メイド」が男性に流行るのか?
 「エプロン・ドレス」の可愛さだろうか?
 それとも、「メイド」という存在に何かを投影しているのだろうか?
 
・男が憧れる「メイドさん」の裏にいる存在
 
 北海道大学の入試倍率を上げ、世に「シベリアン・ハスキー」ブームを巻き起こした漫画「動物のお医者さん」では、むさ苦しい獣医学部に秘書を迎えたら・・・、とのエピソードがある。
 その中で学生達が「秘書(当然、教授の、であるのだが・・・)が来てくれれば「(汚い研究室の)掃除をしてくれたり」「(汚れた衣服を)洗濯してくれたり」「プリンを作ってくれたり」との幻想を膨らませている横で主人公・ハムテルが「それじゃお母さんだよ。」と思う(?)シーンがある。
 これは、学生たちが「秘書」の仕事を理解していないと言えばそれまでなのだが、そういった「男の発想」自体は、「漫画の世界だから」とは一概に言い切れない。
 このシーンでは「秘書」であるが、これを「メイド」に置き換えてみよう。
 (ちなみに、秘書とメイドさんでは、期待される仕事が全く異なる。)
 「メイドさんなら、やってくれそうだ。」と、男性なら思うだろう。
 このシーンは男が持つ母性への依存性を描いているといえよう。
 
 メイドさんに対して男が求めるのは「自分がめんどくさいと思う事」をやってくれ、「自分を癒してくれる存在」であり、「自分を絶対に否定しない存在」であるといえよう。
 男が何をしても寛大な包容力で許してくれ、安らぎを与えてくれる、そんな幻影を投射しているとはいえないだろうか?
 女性から見れば、「そんな女性はいない」と思いがちであるが、実は多くの男性は「そんな女性の存在」を身近に持っていた。
 
 食事の準備や自分の衣服を洗濯等、身の回りを世話してくれ、十二分に甘えられる存在。時には怒られるが、自分を嫌いにならない存在。
 メイドさんが期待されている仕事を、もう一度確認しよう。
 「炊事」「洗濯」「掃除」、そして時には「育児」
 そして、主人(自分)に献身的に尽くしてくれる存在。
 
 そう、子供にとっての母親である。
 (前出の「まほろまてぃっく」でも、主人公が「亡き母親」への想いを「メイドのまほろさん」に投影するシーンもある。)
 子供の頃の母親への想い(母性への依存)こそが、メイドさんを求める男性心理の根底にある、とは断言できないものの、少なからず影響を与えている事は間違い無いだろう。
 
・男の本質は子供かもしれない。
 
 ここで注意しなければいけないのいは、この「母性への依存」と「マザーコンプレックス」は別物であるという事だろう。
 男とは、実に身勝手な生き物であって「自分の都合の良い時(かまって欲しい時)にかまってくれる存在」「自分がめんどくさい事(掃除・洗濯・食事等)を変わりにやってくれる存在」を求めている。
 (こう考えるのは女性も同じだろうが、男性の方がより強い傾向にあると考えられる。)また、自分が疲れている時は、直接的に、あるいは間接的に癒して欲しい存在を欲している。
 その存在が、男が成長するにつれて「邪魔になってくる」存在である母親と取って代わって「メイドさん」になるのではないだろうか。
 すなわち、「男はいつまでも母性に対する依存性が残っている。」のではないか。
 こう考えてみると、男は本質的に子供である、とも考えられる。
 または、男性とは実は「大人になれない」生き物かもしれない。
 
 良い大人が同じ趣味のメンバーと語り合い、持っている品物について「勝った」「負けた」「持っている」「持っていない」と自慢しあうのは、子供が行なっている事の延長としか思えない。
 女性がブランド物(たとえば鞄)を多く収集するのと、男性がカメラや時計などを収集するのとを比べた時、行なっている行為そのものは同じであるが、根底に流れているモノは大きく異なる。
 男性の方が、子供に近いのだ。
 たとえば、同一カメラを生産時期によって複数(たとえば、初期型、中期型、後期型)持っている男性コレクターは多いが、女性が同一の鞄を生産時期が異なるからといって複数購入するといった話は、あまり聞かない。
 (女性なら、他のデザインの鞄を購入するのだろう。)
 また、「まったく同じ物」であっても、希少価値があるのなら複数所有買ってしまうという行為は、子供に多い「独占欲」からくるものであろう。
 
 ピーターパンが男性であるのは、まさに的確なのかもしれない。
 (そして、ウエンディを誘うのである。)
 
 しかしながら、それが故に人類にもたらした貢献は少なくない。
 空を飛び、水中に潜り、そして宇宙へ飛び出す。
 そういった「子供心」こそ、人類が進歩する為に必要不可欠な物であるからである。
 
 もちろん、「子供心」の使い方を間違えさえしなければ、であるが。
 


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