1996/07/24
1996/07/26
1996/07/27
1996/08/05
1996/08/12
1996/08/19
■妄想癖と占いと
1996.7.24.
たわいもない会話。「ねぇねぇ、1億円あったら、何につかう?」
おいら、こーゆー仮定が大好きだ。満たされない現実からの逃避行為だって
言ってしまえばその通りだけれど、やっぱ好きなものは仕方がない。
もう、小さい頃から今に至るまで、これはずっと続いている。
ドラえもんの道具で、例えば「もしもボックス」があったら、おいら
だったらこんな世界に行ってみたい、だとか。
広域暴力団の幹部になって、甘い汁を吸いつつも、
組員を使って道路の美化にとことんこだわって、ヤクザなやり方で
徹底的に日本の道路を綺麗にしたら、
マスコミはどんな風に取り上げるだろうか、とか。
好きな女の子が路上で襲われている時に、いかにも偶然通りかかりました的に
現れて、相手をコテンパンにして、女の子と相思相愛になっちゃうとか。
死ぬまでありとあらゆる物がタダで購入できたり利用できるパスが
手に入ったら、どんな人生になっちゃうんだろうか、とか。
「どこでもドア」があったら、静香ちゃんの入浴シーンばっかり覗きに
行ってないで、世界各国を好きなだけ旅行できるのに。でも、
パスポートを持ち歩いていないから、不法入国で捕まっちゃうのかな。
コンピューターを駆使して、究極のヴァーチャルリアリティを作る。
球形の小型ドームに入ってソファに座ると、自分は歩かずとも世界中を
一瞬にして旅できて、食い物が欲しくなると現実世界の配送ルートを
使って実際に食い物がドームに届けられる。誰もドームから出てこなくなる。
世界的な社会問題となって、おいらは大犯罪者として歴史に名を残す。
水戸黄門はイイ。最後に印籠を見せれば全て解決という
絶対的な後ろ盾を持ちつつ、普段はタダのご隠居として旅している。
例えばおいらは政界の裏で暗躍する大財閥の馬鹿息子で、持ち歩いている
携帯電話でヒトコト言うだけで、スーツにサングラスの怪しいSPが
わらわらと現れて、目の前の不愉快な酔っ払いを
シベリアに放逐してくれる。
タイムマシンに乗る。宇宙の始まりと終わりをこの目で見る……。
妄想癖は恥ずべきことだろうか。こうして書いてみると、
やっぱり恥ずべきことな気もするが(笑)、もしそうならイメージトレーニング
は恥ずべきことじゃ無いわけで、その境界線がハッキリしなくなる。
好きな女の人と二人っきりでお酒を飲みたいとか、
50万円くらいぱーっと使ってコンピューター環境を整えようだとか、
そういう、手が届きそうで届かないことならば、妄想パワーが昂じて
現実になっちゃったりすることもある。
自動車を買って乗り回したいとか、料理の鉄人が経営する店で
美味いものが食いたいとか、現実の射程にはあっても、あまり
妄想の中に出てこないシチュエーションは、不思議と現実化しない。
つまり、「妄想」と「意志」は殆ど似たようなものかも知れない。
ちょっと脇道にそれるが、「未来」が、「現在」に向かって一種の波を
送ってきていると考えている最先端を行く物理学者がいる。
それに従って考えると、予知能力というのは、『今にやってくるが
現時点ではまだ「未来」に過ぎないもの』が、我々に送ってくる
メッセージを敏感に感じる能力のことで、
物理的にも解明できるというのだ。
もしかすると、妄想パワーに磨きを掛けることは、
実は予知能力を高めるのにも役立っているんかもしれん。
恋人同士が、意識の深いところで、「あぁ、この人とはもう駄目だな」
と思っていても、意識の浅いところで「好きだなぁ、一緒にいると楽しいなぁ」
と棒読みすることはできる。
単調に「1、2、3、4、5…」と心の中で数えて、
100まで数えるうちに、その数える意識よりもさらに浅いところで、
必ず別のことを考えられるはずだ。今すぐやってみよう。単調に数える意識が
奥に追いやられるのを実感できるはずだ。意識は多階層で、並列に動作していて、
結合したり分離したりもする。妄想というのは、比較的深い意識の部分から
沸き上がってくるメッセージで、だからその人の本質を表していることが多く、
もしかしたらその人の予知能力を経由して、その人の未来を表している
ことになるのかも知れない。
突然だが、おいらは占いが好きだ。占ってもらう方じゃなくて、占って
あげる方。いろいろと占いの本を読んで勉強もしたが、おいらはおいらなりの
哲学で占いを実行する。例えば、タロットカードで言えば、おいらと
カードが織りなす「ゆらぎ」の空間に被占者を引きずりこみ、その中で
本人の深層意識に少しでも揺さぶりをかけ、活性化させ、
本人の妄想、生きる力、理想を現実にするパワーを励起させ、
結果として「本人が気付かなかった自分自身のこと」に、1つでも気付けば
成功だと思っている。要するに占師は説教垂れるのが役割なのではなく、
被占者にとっての単なる触媒であるべきなのだ。
占いとは、予言能力のことだと短絡的に思っている人が多いが、
おいらに言わせれば、それは半分当たっていて、半分間違っている。
本人が持っている予知能力のようなものを借りて予言のような形で
言葉にしているに過ぎない。
占師とは、説教垂れて、さらには叱りつけてその人の人生を
「良い」方向に導くのが仕事だと思っている人もいる。
おいらの哲学からすると、極端な話、破滅を心底望んでいる人には、
より確固たる現実として破滅が訪れるように本人の意識を拡大するのが
占師の仕事だ、ということになる。自分の価値観を押しつけるのは
占師の仕事ではない。
時間の流れと、「意識の相互関係」は、密接な関係にある。二人以上の
人間がいるから、時間は流れるのである。不思議と、自分の自我の殻が
時間の流れの中にヌルッと溶け込み、相手の深層意識を左から右へ通す
透明な触媒に自分が変えられるコンディションになることがある。
こんな時、おいらは個人的には「頭の上に星が来た」と言うが、
実質的には時空との一体感を持てるほどに自分の精神が単純化し、
落ち着いた状況になったことを意味している。プロの占師は、
どんなコンディションからでも、意識して自分をこの状況に持っていく
ことができるのだろう。
妄想が無くなってきたら、それは人生が干からびてきている証拠なのかも
知れない。楽しい未来が消えていく兆候を、未来が不思議な波に乗せて
警告してきているのかも知れない。
未来が妄想を作るのか、妄想が未来を作るのか。それは、「妄想」を
「意志」と置き換えてしまったのでは分からない。意識と時間の
深い部分での相互関係を暗示しているのだろう。
日々、妄想してますか?
………これだけ理屈をつければ、今日からも
安心して妄想に浸れるというものだ。(爆笑)
■太陽の贈り物
1996.7.26.
夏なのに、木曜日出発金曜日正午戻りの沖縄出張。これは寂しいね。
腹が減ってるだけの侘しさよりも、目の前にご馳走があるのに食えない辛さ
って感じかね?
那覇空港に着陸するのも3回目だけど、はじめて綺麗に晴れた日の光の
下の海岸線を見た。珊瑚が緑で、すっげえ綺麗なのだ。那覇空港は、
海に突き出た感じに滑走路があるので、着陸時は
正に珊瑚礁に突っ込んで行くような感じで、見とれてしまったね。
一瞬、これからコンクリの建物の中で夜まで会議して、
明日は朝イチの飛行機で東京に帰らなくちゃいけないなんてことは、
忘れてしまったくらいだ。
沖縄到着は正午くらい。沖縄の太陽は、真上から光線が「刺して」くるって感じね。
建物とか、木の葉っぱとかのコントラストが違うわ。
昼飯には、骨付きの煮豚が入ってるラーメンみたいなもの、「ソーキソバ」
を初めて食いました。美味かったぞ〜、肉は良く煮込んであって、
骨が軟骨みたいに食えてしまうの。それで350円。物価が安い!
あぁ、これから午後が会議なんかじゃなくて、海岸まで泳ぎに行けて、
しかも両隣にいるのがプロジェクトマネージャ(課長)なんかじゃなく、
かわいい女の子だったらなぁ。
………なんてことは、その時は考えなかった。そんなこと考え出したら、
あまりのギャップの激しさに、ショック死してしまう、ということを、
本能が察知してくれて、考え出さないようにしてくれてたんだろう。
本能に感謝、感謝。
ま、昼飯食った後は、目的のオフィスに入って会議して、
会議が終わったら夜は沖縄の方々とちょいと飲んで、でもってホテル帰って
寝て、朝起きてタクシー乗って一路空港へ、でやんすよ。
あ、でも、飲みの時思ったんだけど、沖縄の「ノリのいい人」のパワーって
いいなぁ。東京だと良く見かける、圧力で押してくる濃いぃ自己主張の
固まりみたいな盛り上げ役……おいらだよ……と違って、
こだわりやイヤミが無いというか、迫力はあるんだけど不思議と圧迫感が無い。
そういえば、沖縄の結婚式も凄いんだって。新郎新婦が来る前に、
親戚一同既に勝手に飲んで出来上がってて、
結婚式の中身は、もう下ネタもアリアリの学芸会の様相を呈するそうだ。
東京の夏は、じめっ、もわっ、と暑いけど、
沖縄はビシッ、カラッ、と暑い。
そういう気候って、飲みの時の陽気さと関係がありそうだなぁ。
あと、沖縄は、「どなん」や「泡盛」(古酒[クースー])みたいに、
アルコール度数のキツくて、ちょっとクセがあって美味い酒があるね。
まぁ、昼間に楽しめないなら、せめて夜に旨い酒飲むくらいはしても
バチはあたらないだろう。でもって、この「酒」も、当然
飲みの時の雰囲気に大きな影響力があるよね。
ふと、東京に帰ってきて思う。
毎日自分が暮らしている環境というのが、
一体どれくらい「自分を規定しているのか」って。
自分が盲目的に文化や生活習慣に服従している部分が
思っているよりも、ずっとずっとデカいんじゃないか、と。
改めて考えるとこれは「怖い」問題なんだな。
「自分」とか「自我」の境界線というのは、『自意識が
外側へ膨らもうとする力』と、『文化や環境といった外的条件が
自分を規定しようと内側に押し縮めてくる力』の釣り合い
みたいなもので形成されてる。
そういう「外側から押してくる力」の強さみたいなものを
ふと自覚した瞬間、
自分の「外側へ膨らもうとする力」の非力さみたいなものも
同時に感じてしまう。
一体、おいらって何者?「自分は自分だ」と信じていたいのに、
本来的に自分っていうのは、意志と環境の妥協の産物に過ぎないのか、
と思ってしまう。金が欲しいのに思ったほど手に入らないとか、
もっと偉そうな役職を望むのに、いまいち出世しないとか、
そういう種類のパラメータ(財産、地位)が、理想と現実の妥協点に来る、
というのは
特に抵抗はない。でも、「自分自身」も、そういった
相対的なものに過ぎない、と考えると、凄く怖い気がしないだろうか。
自分が水の中の「ちっちゃな空気の泡」だとは思いたくない。
………いや、そういうものに過ぎないんだ、ということを、
積極的に認めていくところから、本当の幸せが見えてくるのかも知れない。
要するに、「自分」なんて、絶対的なモノじゃない。
環境が変われば、自分もそれにあわせて色々と変形していくものなのだ。
いつも狭いところばっかり好んでいたら…。暗い場所ばかりにいたら…。
もし、自分が「こうなりたい」という変身願望があるならば、
その理想像に一番ふさわしい景色や環境を思い浮かべてみると
良いかも知れない。その理想像の「自分」が選ぶであろう服や、
レストランで注文するメニューを考えてみると面白いかも知れない。
それが、今の自分の選択と違うならば、きっとそこには何かが
暗示されている。
そうか、おいら、今まで「形から」っていうのを馬鹿にしてたのかも。
中身を磨かないで「形」だけ変えたって、仕方ないだろう、って。
そりゃ、思い上がりだったのかも知れないな。
自分は、水槽の中でふわふわと形を変える泡に過ぎないってこと、
認めたくなかったからなのかも知れない。
オッケー、いいでしょ、180度方針を変えてみましょう。
人生、やっぱ形からだよね!
沖縄の太陽に曝(さら)されて思った。自分はいくらでも変えられる、って。
■逆襲の日焼け
1996.7.27
朝起きて時計を見ると8時過ぎ。土曜日にしては結構早起きできたぞ。
外を見ると、バッチリ晴れてる。やったね、待ちに待った「晴れた週末」だっ!
先週はグズついた天気の週末で外に出ていく気がしなかったからなぁ。
おいらは、何も考えずバスタオルと海パンとブラシ程度のものを
バッグに放り込み、髭を剃ると、とっとと下総中山の駅に向かった。
そう、海に行くんである。
プールは、なんとなーく、例の病原性大腸菌「O−157」のこともあって、
ためらわれた。気にするほどのことでも無いんだけど、まぁ、わざわざ海へ
行こう、と決意するのの後押しくらいにはなったかな。
千葉までたどり着く。取りあえず、内房の岩井海岸にでも行くか、と
画策していたおいらだが、君津より先に行く電車が40分以上も出ないことが発覚、
『内房も、岩井くらいまで南下すると海は綺麗だが、
やっぱり外房の海は綺麗だぞ〜』
ということを以前聞いた記憶が脳裏を過(よ)ぎって、次の瞬間には後先考えず、
そこに停車してた外房の各駅電車に飛び乗る。もちろん、外房線の駅や、
海水浴場の知識なんて全くない。各駅停車は快速や特急の通過待ちが多く、
わりかし時間が掛かるのだが、昨日のうちに、車中の暇つぶしのためにと
今更購入した「ソフィーの世界」なんぞを読んでいると、いつの間にやら単線区間の
鄙(ひな)びた感じの景色が広がっていた。
途中、空いてる車内で目の前に座っていた、シンプルな顔立ちの
薄く日焼けしたコギャルの、キャバサンにデーハーなペディキュアが、
彼女が足を組み替える度にチラついたりもした。夏休みなんだろーなー、
学校行く時とは全然違うファッションしてるよなー、とか、
カンペキにオヤジモードに突入しつつも、いつしか「ソフィーの世界」に
没頭して脳味噌が哲学モードに遷移した。
そしたら車内検札があったので、車掌さんに「外房線の駅で、海水浴場に
行けるのはどこですか?」と聞いたら、一瞬「なんだコイツ」という顔されたが、
「このあたりはどこでも海水浴場までバスとかで行けるけど、御宿(おんじゅく)
から先の駅からなら、歩いてすぐ海岸に出れますよ」と親切に教えてくれた。
メジャーでなさそうな「御宿」という響きが良かったので、
御宿まで清算。下総中山からは1,400円ちょっと。
流石に特急とか使わないと安いわ。
家族連れがいて、子どもが「御宿って、日本一大きな駅だよね」と言っていた。
親は「ふうん?」と言っただけ。よっぽど代わりに「そらアンタ、新宿やろ」
とツッコンであげようかと思った。……あの子がこれでグレないことを祈る。
御宿に到着。外に出ると、だいぶ高くなった太陽の熱線を感じる。(嬉しい!)
潮の香りがそこはかとなくしてくる。(激嬉しい!!)
如何にも田舎という感じの改札を出ると、海岸までの道には熱帯樹が並んでいて、
日本語の看板さえ無ければ、グアムの田舎の方の海水浴場近くの町に結構似ている。
「御宿・月の砂漠」という垂れ幕をたまに見かけるが、意味不明。
でっかいリゾートホテルが幾つか見える。
やっとこ海岸に出る。いやー、海だ、海だ!ちゃんと海が青いっすよー!
幕張のドブのような海とは大違いぢゃ〜!
砂浜の入り口にある海の家に1,000円で荷物を預ける。
あと、ビーチチェアも1,000円で借りる。
そう、今日は肌を焼くのが第一目的なのれす。
でもやっぱ海にも入るぜー。うひー、慣れるまでって、どうして海の水は
こんなに冷たく感じるのだろう。
準備体操は本当ならきちんとするべきだよね(←しろよ)。
で、最初は波が来たら頭からかぶらないように飛び上がる、
程度で海と戯れてみる。
でも、これだけでも面白いなぁ。たまにデカい波が遠くから来ると、
結構ビビったりして。波涛の間隔もまちまちだしねー。
一個デカい波をやり過ごしたと思ったら、すぐ次にもミドル級の波が控えてて、
頭から思い切りかぶってしまったりしち。
波の表情は千変万化、漂ってるだけで飽きない。
取りあえず飽きる(ぉぃぉぃ)。塩水の海から上がって浮力が無くなると、
意外と筋肉が疲れていることが分かる。今年も海難事故で命を落とした人がいる。
自分の感覚だけに頼らず、ちゃんと休憩はこまめに取りましょうね。
千葉県警がヘリコプターで、ちゃんと休憩を取ろうとか、
飲酒したら泳いではだめどか、
空から説教たれてくる。金かけてるなぁ、有り難いことです、ご苦労様です。
さて、ビーチチェアに寝そべって日焼けターイム!ってか。
「サンオイルとか持ってきてないけど、まいっか。」無論、後で痛い目を見る。
それにしても、御宿の海岸なんて聞いたことも無いが、結構大きくて
立派な海水浴場なんだよねー。オジサンと家族連れしかいない狭いのを
想像してたんだけど、とんでもない。で、
目についたのが、美しい色とりどりの水着の、ピカピカの女性たち………
では無いのだ!真っ黒に焼いて、ビシッと引き締まった体の野郎ども。
(言っとくが、おいらモーホーぢゃねぇぞ。)
最近女性が綺麗になった、おいらとしては嬉しい限りであ〜る、
なんて浮かれてると、とんでもない。
それに合わせて、男性の方もみんなカッコよくなってたんですねぇ、
うーむ、市場原理。
おいらと同じくらいの年齢か、もっと若い男の中で、
おいらみたく体育座りすると段腹が醜い男なんて、ひとりも!えぇ、ひとりも
見かけませんでしたよ。むしろ、ちょっと「御宿の前にTBCじゃないの?」
って感じの女性の方が多かったかも。
とにかく野郎どもはバッチリ鍛えて焼いてるって感じだ。こいつら、
ここまで綺麗に焼いてるとこ見ると、日焼けサロンで下焼きしてきやがったな?
まじぃ、客観視すると、おいら、この浜辺で異様に浮いてるのかも。
バリバリのロックハウスにラムちゃんのフィギュアを大切そうに持って
入るくらい違和感があるのかも。しかし、そういうことは考えないことにし、
おいらは無責任な観察者に徹そうと心に決めたのれす。
昨日夜が遅かったのと、電車に3時間揺られた疲れで、
ビーチチェアの上でうとうとする。どこかで子どもが思いっきり泣いている。
ペプシマンが走ってくるんじゃないかな……CMネタはすぐ風化するぞ……。
ふと目が覚める。太陽が少し西に傾き始めたかな、という感じ。
また海に出る。肌を見ると、全然焼けてない。
今度は、デカい波が来たら、すかさず海岸の方に向き直り、
思いっきり泳ぐという遊びに没頭してみる。「ぼでぃさーふぃん」って感じぃ?
うまく乗ると、結構な勢いで体が運ばれるのが楽しい。
下手して波をモロにかぶった場合は割り切って潜水泳法、これもこれで
結構な距離を一瞬にして泳げる。バサロだのドルフィンキックだの、
潜水泳法は速いというのは、理屈は良くわからんけどなんとなく体感できる。
しかし、この遊びは結構疲れる。ひとしきり遊んだら筋肉とか結構疲れてきたので、
無理しないで浜辺に帰る。
ちょうど隣にいた女性2人組がナンパされとった。
声かけてる男の方、やはりかっこいい。やっぱ、女性は声をかけられる側で、
最終的な選択権があるんだが、もう「容姿がかっこいい」なんてのは、
声をかける男性の最低条件、これをクリアしてないならば、
今どき声をかけること自体犯罪、という感じである。はう〜。
その上で、男の性格とか話術とか趣味の良さや持ってる車のグレードで
更に篩(ふるい)にかけられるワケだ。こーゆーマスコミやらの発達した
世の中、性格だってダサ坊はそんなにいない。
ある程度「本当に中身のある人間」になるためのマニュアルだって、
潜在的にはずいぶん整備されてるんである。
流行のレストランとかのデートコースを知ってるだけの
マニュアル君とは、最近の男はレベルが違うよ。
おいらとしては、このレベルの人々と張り合うのは到底無理なので、
逆にコンプレックスも感じないんだが(少しは感じろって?)、
いくらなんでも今よりかはちっとは男を磨かないとイカンなぁ、
とは思いましたよ、えぇ。
そう思っただけでも、今日ここに来たことの収穫だったッスね。
荷物を預ける時に、ゴムバンドつきの番号札をもらうよね。
そういえば腕につけっぱなしだったなぁ。いやーな予感がするが、
この予感は夜になって焼き色が定着して、現実のものとなるのである。
また波乗りに行く。これで思い切り遊んだら、最後に乾かしがてら
もう一度焼いて、帰ることにしよう。
海の上でも男の3〜4人のグループが女性3人のグループに
ナンパ攻撃を掛けていたが、あっさり断られてた。その後、女性の方が
口々に「冗談じゃないわよねー、あんなの。」とか言ってた。
うーん、きびしー!って感じ。
お湯の出るシャワーで塩水を綺麗に洗い落として、普段着に着替えると、
なんだかほっとする。途中、カップルにシャッター押してくださいと言われる。
「ハイ、チーズ」とか言って、空を写してやろうかと思ったけど、
ちゃんと撮ってあげた。帰り、途中で東京方面への快速に乗り換える
チャンスはいっぱいあったけど、何も急ぐ必要はないので、
千葉まで鈍行で寝たりウォークマン聴いたり「ソフィーの世界」を読んだり
しながら、心地よい疲れの感覚に身を委ねていた。午後5時33分に御宿を
出て、千葉に午後7時15分に到着した頃には、すっかり夜になっていた。
下総中山に到着。西友に寄ると、ほう、今日は「土用丑の日」ですか。
取りあえず、うなぎを買う。家について鏡を見ると、鼻筋だけがテカテカに
焼けてる感じで至極みっともない。もしかして取り返しのつかないことを
してしまったかしらんと思いつつも、まぁこれも青春だよねと勝手に納得。
腕も顔も、まっくろというより「真っ赤」。やっぱり、おいらメラニン色素
自体が無いんだなぁ。この赤みが早晩全部消えると、黒味はそんなに
残らないなぁとか、ちょっと悲しくなりつつも、うな丼作って食って寝る。
夜中、目が覚める。全身がヒリヒリして、軽い吐き気までする。
濡れタオルで痛いところを冷やしたりして、なんとか凌ごうとする。
今日は、A面ばかり焼いて、B面はあまり焼かなかったし、
ウェルダンというよりはミディアム程度だったんだけど、
それで良かった。もし全身バッチリ焼いてたら、病院行きだったかも。
ゴムバンドと番号札のくっきりした跡を見ながら、次はもうちょっと気をつけて
焼こうと心に誓うんであった。
■ヤな奴
1996.8.5.
会社の必須教育で、久々「ヤな奴」に出会った。
グループ演習で同じ班に組まされたものだから、たまらない。
5日間の教育が、完璧に憂鬱なものと化してしまった。
5日間と言えば、これは結構な人生の損失だ。
どーゆーふうに「ヤな奴」なのかと言うと、「モノ知らねぇクセに我が強い」
んである。(あんたソックリやんけ、というツッコミは、ここではご容赦)
とにかく、偉そうにしたい、その場の主導権を握りたい。
それだけならば結構だ。向上心のある人は、おいら好きである。
そいつの腹が立つのは、中身が無いんである。
我が強いが中身は子供………実は、顔をチラッと見ただけで、
そういう印象を受けてはいた。
最初は下手に出て、「はぁ、そういう考え方も成立するんですかねぇ」とか、
「なるほど。でも、こういう意見も考慮に入れても面白んじゃないですか」
とか言ってたが、「全然無関係だね」「それは、ちっとも考えるに値しないね」
「そんなつまらんコトはどうでもいい」「そんなのは後回しだ」と、
とにかく自分が知ってる範囲の事以外には触れたがらないんである。
おまけに、「抽象的」な機能関連の分析演習なのに、自分が知ってる「具体的な」
運用なんかについてばっかりチクチク議論したがる。
挙げ句の果てに、ブレーンストーミングだっつーのに
出てくる意見にイチイチ「そんなの実現できないよ」とか
「関係ないだろう、それは」とか文句をつける。
こいつは、ブレーンストーミングの最低限の唯一のルール、
「無批判で」アイディアをとにかく大量に出し合う、ということも守れないのか。
グループミーティングの場はすっかりシラけた。
おいらは普通、折角、会社の通常業務時間を割いて出席する教育なのだから、
積極的に参加して何か成果を身につけて持って帰ろうと思っている、
心構えだけな立派なおいらだが、今回は無気力の方が大勢を支配して、
そんな気分にもなれなくなった。
これまでの少ない人生経験で、おいらは知っている。こーゆー奴には
何を言っても無駄なんだ。
が、忙しい業務の合間を縫って教育に来ているということを思い出し、
これじゃイカン、おいらが損する理由は何もないじゃないか、
と、思い直す。そいつは、更に追い討ちを掛けるように、
質疑応答の時間に他班からの質問にも「今はそんな細かいことは
どうでもいいでしょう」などと答えるに至っては、
おいらも、こめかみの血管が2〜3本ブチブチっと切れて、
本当に鼻血が出てきた。
グループミーティングに戻ってからは、そいつに対して、
最低限のミーティングマナーも満たしていないということ、
そいつの理論には何らアーキテクチャが感じられないこと、
いくつもの矛盾を抱えていること、検討が偏り過ぎていること、
コミュニケーションの道具としてはドキュメントが全く分かりづらい
ということ、などなどを、淡々と、
それでも要点を絞ってビシビシと指摘してやった。
分かっていた、こーゆー奴に何を言っても無駄なことは。
奴は、理論じゃ敵(かな)わないと悟るや、
「あそ、じゃ、あんた分かってるんでしょ、あと全部やってよ。
俺はもう何もしないから。」
指摘されるまでもなく、おいらは分かっている。
おいらが大人げなかったのだ。
そこまで自尊心の強い奴の首根っこをひっつかまえて、
グウの音も出なくなるまで追い込んだら、
イジけるに決まってるんだ。
結局、おいらも下手に出続けることが出来ずに、
そして、それまで抑えていた「おいらの自尊心」を回復するために、
本気になってそいつに戦いを挑んだワケなんだ。
結局、おいらは、自分がこの「ヤな奴」と同レベルなんだということを、
自ら思い知らされてしまったのだ。つまり………
人間としての器が全然大きくないということを、
はっきりと認識させられてしまった。
もう少し高いレベルから見れば、おいらとそいつのやりとりの一部始終は、
我の強い同種の人間同士の間での単なる反発現象として捉えられるだろう。
同族嫌悪と言っても良いのかも知れない。自分が情けなくなったので、
あとは適当にご機嫌をとって、自分は自分なりに演習に真剣に取り組み、
班の役に立つ情報を提供していければいいや、という態度に変えた。
要は、こんどはおいらが「いじけた」わけだ。
こういう時に、もしおいらが第三者なら、間に入ってうまく取り成したり、
わざとおどけて場を和ましたり出来るのに。
当事者になっちまっちゃあ、仕方が無い。
結局、自分から売った喧嘩なんであって、イヤな気分になったのも
自業自得だと言われればその通りなんである。
もっとじっくり様子を見て、相手の出方を伺いつつ、
教育の後半は事実そうしていたように、自分なりに教育に真剣に
取り組んでいれば良かったのである。
話し変わって会社帰りのJRのホーム。傍若無人な大学生と思(おぼ)しき集団が、
わいわいと騒いでいる。電車が入ってきた。席が結構空いている。
列の前の方にいたので、楽々と座席にありついた。例の大学生の
集団が、みんなが座りたいらしく、我先に後ろから押し込んでくるのが
不愉快だったが、まぁいいや。
ところが、その大学生の集団のうちの女性が駆け込んで座って、
その隣においらが腰を下ろしたのだが、後から入ってきた男が
「チッ」とか舌打ちをしやがる。目論見では、その女性の隣に
座りたかったらしい。しかも、その男の目からは、おいらが
「せっかくその女性が走って確保した席に、割り込んで座っちまった
サラリーマン」だと映ったらしい。迷惑な話しだ。逆恨みと言ってもいい。
相手は年寄りでもないので、席を譲る理由もない。とっとと寝に入る。
すると、隣の女性が「やめなよぉ」とか、「私たちは遊びの帰り
なんだからぁ」とか、なんか男を制止するような声を掛けている。
2番目の言葉は、サラリーマンが仕事で疲れて帰って来るんだから、
座ったっていいだろう、という意味だろうか。くそう、別においら、
割り込んだりしたわけじゃねぇぞ。何がそんなに気に入らないんだ、
こいつらは?
おいらも枯れちまって久しいジジィではない。その男と女性は
恋人なんかも知れない。だから、男の方が軽い嫉妬を覚えている
のかも知れない。アホな、隣に座ったから何だというんだ。
そのうち、「どかそうか、こいつ」という声が聞こえる。
もし、おいらのことを言ってるのだとしたら、なんっつー失礼な言葉だろう。
しかし、状況からすると「どかそう」としている「こいつ」とは、
間違いなくおいらのことだろう。寝ていたが、目をあけて声の方を
見る。そいつは、まっすぐこっちを睨んでやがった。
「バカだ、こいつ…」そう思い、その気持ちを一瞥(いちべつ)に込めて、
また寝に入った。
そいつは、おいらの目つきがよほど気に障ったらしい。
もちろん、気に障るような目をおいらは「わざと」したわけだから、当然だが。
そいつは、いきなり、襟(えり)を掴んで「てめぇ、何ガンつけてんだよ!」
だと。「ガンつける」だって、懐かしい言葉知ってるねぇ〜!
笑かしてくれるねー、座布団1枚って感じか。
おいらは、痺れるくらい思いっきり、おいらの襟を掴んだそいつの手を
叩き落とし、立ち上がって「無礼だぞ、貴様!てめぇ、自分が今、どんだけ
みっともねぇのか、わかってんのか。」と吠えてやった。
女性の方も「やめなよ…」とか言ってる。仲間の大学生と思しき軍団は
座席にありついていたので、立ち上がるのも億劫(おっくう)そうで、
遠巻きに様子を見ている。結構冷たい奴らかも(笑)。
おいらの言葉で決定付けられた通り、そいつは電車の中で
大変「みっともない」存在になった。
ここで、「ケッ」とかいう顔をすると、そいつは収まりがつかずに
また逆上するだろうから、何事もなかったように、また同じ席に座り、
寝に入った。それでもつかみ掛かかって来たいなら、好きなだけ
やってきやがれ、という気持ちで目をつぶった。
女性の方が、なにか、たわいもない話しをして、男の方の
気をそらそうとしている。こういう時、大抵女性の方が
しっかりしているもんだ。この男は結婚しても尻に敷かれるタイプだな。
まぁ、女性の方は隣だったので顔とかはあまりわからんかったが、
声や行動、雰囲気から、性格や容姿を含めて「イイ女」だったんだろうと思う。
で、男の方が、その女性に惚れてるっつーか、精神的には女性に釣り合わない
というカップルで、こういう時に勢いで「どうかそうか、こいつ」などと
吹いてみせるのが精一杯のカッコつけ、という程度の奴なんだろう。
表面的なカッコツケ一本槍で、如何にも話しが通じなそうな風体で、
顔を見た瞬間、「ヤな奴だな」と思ったが、思った通りの奴だった。
この場合は、相手がカップルだと悟った瞬間に、舌打ちされようが、
ニコッと笑って「どうぞ」と席を譲ろうとすれば良かったんだろう。
まさか、男の方も、年下なワケだし、そう言われては「いや、いいですよ」
くらいは言うだろう。計算高く考えても、
結局、おいらは座席にありつける状況は変わらないわけだし、
その場の雰囲気も随分良くなったに違いない。
よしんば男が「ありがとよ」とかいう言い方で
座ったとしたって、おいらは「立って帰るのも運動になるさね」ぐらに
思っていれば良かったのだ。
大学生の一群も、夏休みに入って、みんなで楽しく遊園地かどっかで
遊んできた帰りだったのだろう、その締めくくりにイヤな気持ちにさせて、
悪かったかも知れない。
相手を「ヤな奴」と思ったとき、相手もおいらのことを「ヤな奴」と
感じているハズである。一方的に好かれて迷惑、というケースもあるが、
大抵「ヤな奴」というのは、両者ともにそう感じあうもので、
理由・欠点も両者にそれぞれあるものである。
逆に言うと、誰にも「ヤな奴」と思われないように行動すれば、
誰のことも「ヤな奴」と思わないで人生を過ごすことが出来よう。
もちろん、そこまで極端になったら、仙人のようで気味が悪い。
世の中、本当に許せない奴や、気に入らない奴が居てもいい。
そういう感情は、生き物が生きていく上で大切なものでもある。
しかし、誰のためにもならないような「いがみ合い」を、
回避するようなパターンをたくさん知っていれば、
無駄な時間が減るし、何よりも人生は今よりもっと楽しくなるであろう。
「ヤな奴」に出会ったら、それは、無意味な喧嘩に対する
回避パターンを学習できる良い機会なんである。その結果として、
プライドを出したり引っ込めたりが、もっと巧く出来るようになれるだろう。
一般則として、自分の殻を決めて「知っている領域」だけを生きるのでは、
自分に都合の悪い状況に対する回避パターンを蓄積していくことができない。
好きな人だけがいる領域が、如何に居心地が良くても、積極的にそこから出掛けて、
未知の領域に出て、「ヤな奴」にもガンガン出会うと良いのだろう。
教育で我侭(わがまま)を撒き散らしてた奴も、電車でアヤつけてきた大学生も、
共通の目的と、ある程度の時間が持てるならば、きっと友人になれるだろう。
でも…………………おいらはテメェらが大っ嫌いだっ!(爆笑)
■自分改造計画
1996.8.12.
「ここぞ」という時以外は、ケチケチと出費を控えるおいらが、
最近ドーンとDOS/V機一式を買った。
おいらは、自分にとって価値があると納得したら、
惜しげもなく金を遣う方である。
今回、家にパソコンを買って「損しない」と踏んだのは、
ホームページを作ろうという意識があったから。
ストレートに言っちゃうと、
『家で頑張って作ったものを、見せびらかす機会がある』
ってことが、なにせ重要だったワケ。
これは、「自我」の「デジタルへの投影」という
おいらのこれまでの人生の大きなテーマの、そのまま延長線上にもある。
インターネット上のホームページという考え方は、
これからもしばらくは標準であり続けるであろうから、
「記録を残していこう」とする意欲も湧くというものである。
さて、最近のおいらは、こんな風に「自分に投資」してみたり、
突発的にどこかへ出かけたり、
いつもと少し違う行動を取ろうと勤めたり、
ということを比較的積極的にやろうとしている。
どっかのテレビ・コマーシャルよろしく
『テーマはopen-yourself』、
自分の中の可能性を引き出してやりたい、という気持ちが
それなりに盛り上がっているんである。
なぜこうなったか?抽象的な言い方だが、
- 会社の仕事に思う存分打ち込めなくなった、
という行き詰まり
- 「誰かのために生きる」「自分以外の誰かに投資する」
という状況が身の回りから消えた
という「事件」が同時に私の身に起こったのがデカい。
いやがおうにも「自分そのもの」について考えざるを得ない状況
になったワケだ。
そして更に、emu様という「直感に誠実な友人」が、
外へ飛び出すことに躊躇(ためら)いがちな
おいらの後押しをしてくれた。……ということで今に至っている。
「自分改造計画」は、今始まったばかりだ。
さて、この三連休(8/9〜8/11)、おいらは何をしていただろうか。
くだらない日常の中に、「ささやかな」自分改造計画を、
どう「さりげなく」織り込もうとしているのか、
それをご覧頂きたい。
まず金曜日。久々に両親に会ってくる。
いつもなら、寝て過ごすか、
ゲーセンで時間を潰すかしていたところだ。
上野の精養軒で、ちょっと豪華なディナータイム。
最近は、両親にも、それなりに顔を見せなくてはいけないなぁ、
などと思い始めている。
そして土曜日。内房の岩井海岸に突発的に出かける。
外房の御宿と比べると、波が全然無いと言っていい。それで、
海面にプカプカと、死体のように、たゆたってみた。
ボートを漕いでいた小学生低学年と思しきボーズ君2人が
「あぶない、ぶつかるぅ」などと叫んでいる。
あわてて立ち泳ぎモードになると、
「すんませぇん。よくそんなに上手く浮いてられるね〜」
などと気さくに話してくる。
こっちも気楽に応える。
「君もあとでやってごらん、簡単だからさっ。」
岩井は、御宿と比べてカッコイイ男女を殆ど見掛けなかった。
どちらかって言うと、家族連れが多かったなぁ。
御宿で肌を焼き過ぎて痛い目に会ったので、
今回は午後三時頃にはもう海を出ることにした。
帰りの電車の中で「ソフィーの世界」を読み終える。
やたら感動する。
夜、テレビで「聞け、わだつみの声」を見る。
戦争の悲惨さを改めて思い知らされる。
苦しいくらい泣けますね、これは。
いつもなら、もっと気楽に楽しめるヴァラエティ番組に、とっとと
チャンネルを変えていたと思う。でも、今日は最後まで見た。
おいらは戦争を知らない平和ボケ野郎だが、
戦争については、いずれ突っ込んで、抽象的になり過ぎることなく、
出来る限り「自分にとっての」
恐ろしい苦痛や生命の危機の問題として考えてみたい。
なんだかこの日は、色々と感情を掻き混ぜられ過ぎて、
体よりも精神の方が疲れてしまった。
いつもよりたくさんの夢を見たような気がするが、
忘れた(笑)。
三連休最終日の日曜日。
まずは布団干しやら風呂掃除やら洗濯やら。最近は、炊事以外の
家事は、1週間に1度しかやってないのら〜。
そのかわり、流しもピカピカに磨いてますよ、えぇ。
岩井海岸で撮影した写真をホームページ用に編集するために、
ブラウザが欲しかったので、nato氏オススメの「microsoft PLUS!」
を買う。会社でAT用のnetscapeをダウンロードして
お持ち帰りする、 という手もあったのだけど、
ここは自己投資してみることに。
ついでに、デジカメ用に充電器と充電池も買う。
折角買ったデジカメを今後もバリバリ使おうという、
自分へ言い聞かせるような感じの投資だ。
CDも2枚ほど買う。これだって、ささやかな自己への投資だ。
コンピューターに向かうと、BGMが欲しくなることが多い。
最近CDを良く買うようになったというのは、
コンピューターに向かって創作活動を一杯していこう、
という決意の、ちょっとした表れなんである。
いつも秋葉原に行くと行列が出来ているラーメン屋がある。
いつもなら面倒で並ばないのだが、この日は初めて並んでみた。
これも「自己改造計画」の一環。
あまりにも些細でくだらないこと?そうかも知れないね。
でもいいんだ、何も変わらないよりは。
そして、話の種にと、
オススメの「メニュー全部入りラーメン」(950円)を食う。
あぁ、突発的行動。ダイエット中とは思えないぞぅ。
この店、いつも行列が出来ているので、なんとなく
店員も天狗になって接客態度が悪いのではないか、と
偏見を持っていたのだが、実際に入ってみるとそんなことはなかった。
ラーメン大好き人間のnato氏にも今度オススメしてみよう。
満腹になる。そういえば、「ソフィーの世界」を
読み終えてしまったのだった。
また近いうちに読み直す気でいるが、冷却期間を置きたい気分。
取りあえず他の本を、と「書泉ブックタワー」で『脳を極める』という
タイトルの本を買った。ベストセラーの『脳内革命』の方は、
中身をちらっと読む限り、通俗的過ぎる感じがして、
今回はパス。最新の専門知識がふんだんに掲載してある方を
読みたかった。
家に帰ってCD聞きながら、岩井海岸の写真を整理し、
そして今この文章を書いている。
こうして三連休は終わったワケだ。
どうだろう、人生がルーチンワーク化してしまいそうな時、
こういう何でもないところから、少しずつ
「今までの自分ならやらなかった行動」を取ってみる、というのは。
「今までやらなかったこと」と言えば、活字嫌いのおいらが、
ここ半年の間に読んだ本は、今までの人生の中で一番多いと思う。
以下は、読めば読むほど味の出る、オススメの本ばかりです。
- 「世界を変えた科学10大理論プラス40理論」
(編集:矢沢サイエンスオフィス/学習研究社:GAKKEN MOOK)
- 「認知科学の計算理論」
(ゼノン・W・ピリシン/産業図書)
- 「量子力学の謎をとく 〜アインシュタインも悩んだ……」
(フレッド・A・ウルフ/ブルーバックス)
- 「もう一つの宇宙 〜量子力学と相対論から出てきた
平行宇宙の考え方」
(フレッド・A・ウルフ/ブルーバックス)
- 「ヒトゲノム計画とは何か 〜全世界を巻き込む
DNA解析プロジェクト」
(バードランド・ジョーダン/ブルーバックス)
- 「素粒子の世界 〜原子の中の小宇宙」
(本間三郎/NHK出版:NHK人間大学)
- 「ソフィーの世界〜哲学者からの不思議な手紙」
(ヨースタイン・ゴルデル/NHK出版)
- 「脳を究める〜脳研究最前線」
(立花隆/朝日新聞社)
これらの本は、おいらには難し過ぎて、通り一遍読んだだけでは
頭の中に入ってこない。今に至るまで、必要に応じて、もしくは
気分によって、何度も読み返している本たちである。
こうして見てみると、「現在のおいら」の興味の範囲というのが
どういう方向にあるのか、そのアウトラインが
自然と浮かび上がってくるように感じる。
そして、おいらという人格を全て記号化するのは非常に難しいけれど、
おいらの属性の「今についてだけのスナップショット」を、
簡略化して分かりやすいアーキテクチャ図に書き表すことは
出来そうな気がしている。さまざまな趣味や欲求の関係を、
レイヤー図にまとめられると思うのだ。
それは、そのうち、今のおいらのホームページに何故か欠けている
「自己紹介」のコーナーが新設されたら、
そこに掲載しようと思っている。
おいらが繰り返し興味を示してきたテーマは、量子力学、脳、
哲学に関すること。
自力で考えた道筋が、当然のこととはいえ、既に哲学の歴史の中に
あったことを発見するたびに、如何に自分の思索なんぞにオリジナリティ
が無いかってことを思い知らされると同時に、
少なくとも大勢は間違ってはいなかったのだから、
おいらは、哲学に向いてないことも無いんじゃないか、
という気持ちにもさせてくれる。
さて、ゲーデルの不完全性定理も、量子力学も、数学的な無矛盾で論理的な
やり方では、人類に手の届く範囲には限界があるということを
示しているという意味で似てないだろうか。
一方でまた、脳をとことん解明することで、人間の本質が「物理的な」
法則によってスッキリ説明できる、と考えることは、科学のメスがいよいよ
人間そのものに向けられてきたことを端的に表わしていると思う。
(しかし、その「物理的」と呼ぶところのものが、摩訶不思議な展開を
見せていることも忘れてはいけない!)
そして、量子力学の先に見え隠れする「不可知論」と、脳科学の
動機を支える柱の内の一つ「唯物論」を、
同じ地平の上にならべて、哲学の歴史の観点から眺めると、
何か面白いものが見えてこないだろうか。
哲学(フィロソフィー)とは、その語源通りに、
単に「知(ソフィア)を愛する(フィロ)ということで、
それ以上の小難しいモノでは無い、と考えるのが
おいらは好きである。
人間に生まれて、その属性としての「知への欲求」に身を委ねて、
おいらはこれからも考え続ける。まずは手始めに、
先端物理学と脳科学と哲学の知識が折り合う地点に、
自分なりのやり方で先回りしてみたいと思っている。
無限にある宇宙の内の、偶然おいらたちの居るこの宇宙の中だけで見ても、
おいらは殆ど全ての時間「産まれる前」か「死んだ後」の状態なんだ。
今、「生きている」という束の間の異常事態に直面しているのだから、
じっとしていちゃ「もったいない」じゃないか。
ほんの少しで良い。自分の輪郭を大きくしていくという
努力を、毎日ちょっとずつ続けていきたい。
■賛成に、反対
1996.8.19.
・戦争は必要ですよ、あなた!
コンピューターだって戦争の産物だし、
医学も戦争の度に飛躍的に進歩してきた。
人一人の命は地球よりも重いとか、
自分で考えたワケでもない言葉をお題目のように唱えている
平和ボケどもに、命の危うさと、それゆえの貴重さを、
思い起こさせる意味も大きい。
また、凄惨な戦争や血の革命は、常に文化的創造力の源でもあった。
理性が発展して文明が新陳代謝を起こす過程に、
命を賭けた争いは必要不可欠なのである。
一方、人間は「万物の霊長」となって、
天敵が存在しなくなったために、
種の保存のための緊張感が低下し、本能も弱体化しつつある。
その意味でも、人類には戦争は必要である。
・無能な教師はバンバン切り捨てましょう。
教師の世界に競争原理が十分導入されていないって
ことに問題があり過ぎる。
いじめや体罰の問題も、
「公務員としての教師」という姿に本質的問題があるのだ。
学習塾の教師は競争原理が十分働いており、
体罰をしても人気のある先生も多いと聞く。
生徒に人気があってクラスの成績も良い教師には
バンバン金を出すべきだし、
いじめの問題や登校拒否児童などを抱える教師は、
適切に減俸・切り捨ての処分を行えば良い。
教師も新陳代謝を良くするべきだ。
さらに、「学校」もしくは「カリキュラム」自体も
生徒と家庭がもっと自由に選べるようにするべきだろう。
人気の無い学校やカリキュラムは消えていけば良い。
学習塾が真の勉強と社交性の訓練の場で、
義務教育の場は「無駄」だと主張する子供もいる。
子供たちの多様な才能の芽を潰さないためにも、
学校の自由化は急務であろうと思われる。
・女性差別に対するヒステリックなまでの敵対意識は時代遅れだ。
女子大生の就職氷河期を女性差別と結び付けて立腹している、
就職活動なんかしてない某女子大の大学院生の話しも聞いたが、
「企業の理屈」を「知らない」で傍から騒ぐのはみっともないから
やめた方がいいだろう。
NHKの討論番組で、会場の男の「差別はいけませんが、
役割分担というか、区別というのはあって良いのでは。」
という発言に対して、カバみたいな顔の某有名女教授が
「区別から差別が派生するのは議論し尽くされていることです。
ハイ、次の質問。」だと。
ばぁか、電波パンダの役割を買って出てるアンタが
そこで説明を放棄してどうするんだ。
過去と現在は常に違うのだ。これまでの歴史の中では、
女性解放運動の果たした役割は大きい。
そして、そういった先人の努力で、
現在の価値観は変わってきたのだ。
過去の差別の事実を、小説やら何やらで読んで、
そのために自分も「歴史の被害者だ」と主張する
若い優秀な頭脳を持つ女性。
たとえば、『男が女性を虐げてきた歴史を反省して、
未だ男が中枢を支配する大企業は、償いの意味をこめて
女性の採用枠をもっと拡大しろ。』などと言う。
実際、頑張って上手く生きている女性からは、
女性問題の声が上がってくるのは期待できない。
そうなると、今現在「うまくいってない女性」が
まだ残っている女性問題を解決する推進力になるのが
現実的だろう。
その時、「うまくいっている女性」に目を向ける前に、
なぜ、被害妄想の延長線上に立って「男ども」を
ヒステリックなまでに敵視して、
問題の解決を図ろうとするのか。
今、女性差別を解決しようと声を張り上げる
ヒステリックな女性は、真の解決を「邪魔」してるんである。
そして、『女性は被害者』という潜在意識を結果的には
若い女性に埋め込んでしまっている。
過去ばかり見るな、ヒステリックに騒ぐな。前向きな活動をしろ。
・タバコ、大いに結構。
健康に害があるってことも、承知で吸ってるんだ。
大体、嫌煙家って、なんであぁヒステリーばっかりなんだ?
タバコのポイ捨てが許せない、タバコ呑みはマナーがなってない、
吐き出される煙の方が吸い込む煙より人の体に悪い、とか
ギャーギャー騒ぎ立てておいて、
道端にガム吐き捨てたり、信号無視したり、キセル乗車してるお前ら!
自分勝手もいいところだぞ。
自分のチンケな正義感を満足させるために、
まずは愛煙家を血祭りにあげよう、という精神が
そもそも腐っているんじゃないか。
そういう排他的な意識が差別を生むのだよ。
・天皇制、いいじゃない。
天皇制をちょっと肯定すると、「戦争で死んでいった人に聞かせたい!」
だなんて青筋立てて怒る奴もいる。
ふざけちゃいけない。アンタ、最愛の人を戦争で失ったのかい?
戦争を知らない人間が、そんな偉そうなこと言っちゃあいけないな。
象徴天皇制に下品に食って掛かってどうするの。
税金使われるのがイヤだって?
「礼儀正しさ」の見本を維持するための金だと思いなさい。
こんなに下品になった日本に、「完璧な上品さのサンプル」は、
存在する価値があるだろう。
・死刑制度、続けましょう。
先進諸国は「死刑なんて野蛮な制度はやめましょう」ってな流れに
向かっている。
しかし、どんなに恐ろしい極悪犯罪に対しても、死刑が待っていない世の中に
しちまって本当にいいのか?
死刑が抑止力になって犯罪が減るなんて思っちゃいないよ。
死刑囚の人権とかも、この際問題じゃない。
これから生きて法治国家を構成していく国民の、
精神的健全性にとって、死刑が必要だと言っているのだ。
オウム教主催麻原が、精神鑑定の結果、死刑どころか無罪になったら、
我々の悪や正義に対する感性は歪められてしまうのではないか。
麻原は、これから生きていく人々の
精神の健全性のために、死んで欲しい。
死刑執行の頻度は減ってもいい。
しかし、死刑制度を無くしてはいけない。
・原子力発電所建設問題。
「そんなに安全なら、東京に原発を建てれば良いだろう」って?
なるほど、建設側が「同じ事故が起こるにしても、
死ぬ人間が少ない方が良いに決まってるだろう。」と、
ハッキリ言わないのが気に入らないんだね。
言うわけあるか、ボケ。
住民は生命の問題だから全力をあげて反対すればいい。
しかし、当事者でもない人間が電力問題も何も勉強しないで
「原発反対」のプラカード持って歩いた挙げ句、
家に帰ってクーラーつけてるのは、
かえって推進派の思うツボだと悟って
止めた方がいいだろう。
・核兵器は現実問題として必要だ。
・女子高生売春は現在の社会構造の底辺を支える不可欠なものだ。
・日本では、道路にゴミがある程度散らかってるのは好ましい状態だ。
・強姦罪は死刑にするべきだ。
・公共の交通機関でも老人に席を譲る必要はない。
・教育から無条件に体罰を除去するのは、あさはかだ。
賛成に、反対。
「絶対の基準なんてものはない。」
誤解無きよう最初に断っておくけど、
上記の、戦争や教育に関する意見は、
おいらの信念とか主張とかとは全く関係がない。
よく意見が分かれる問題をピックアップして、
わざと自分の主観とは必ずしも一致しない立場を仮想的に立てて、
それに従って作文してみただけである。
そして、おいらの正直な感想として、これらの問題は
「おいらとはイマイチ関係の無いところにある」ように感じる。
ひらたく言えば今のところ「どうでもいい」問題なのだ。
では、ここで何故こんな実験をしてみたのか?
自分が信じていることだって、元を正せば、きっかけは、
小さい頃に偶然読んだ本の一文だったり、
昔の恋人が繰り返し言ってたことに
影響されただけのことかもしれない。
嫌いな奴の言ったことに反発したのが今も尾を引いてる
だけかもしれない。
一方で、もし「きっかけ」は些細でも
その信念が自分の人生にとって譲れない
信仰にまで高まっていたとしても、
それを世間一般の人に理解してもらうための
確実な手続きなんてものも存在しないだろう。
つまり、信念など、その大半が、
良く考えてみるとこだわる必要も無いことだったり、
結局誰とも分かり合えないものだったりしないだろうか。
そう突き詰めて考えると、信念は「砂上の楼閣」に過ぎない。
この状況は、宗教に頼ることでしか解決できないだろう。
だから、多くの人にとって、生きる上で、宗教は大事なのである。
ところで、おいらは今、自分の主観とは必ずしも一致しないような
「意見」を仮想的にわざわざ述べてみた。
世の中というのは、まさにこんな具合に
「砂上の楼閣」である意見を、
時には政治的・金銭的目的を伴って、
四六時中対立させあって流れている。
つまり、もはやおいら達にとっては、一つ一つの主張に絶対的な意味の
正しさを求める必要はなく、さまざまな意見が対立しているという
状況そのものだけが重要なのである。
カウンタープランを提出し続けるのは民主主義国家での王道なのだ。
だから、いつも「それは本当だろうか」と疑ってみて、
いろいろな角度から新しい意見を言えるということは、
たとえそれが「砂上の楼閣」であっても、
大切なことなのである。
人が多数集まって統計的に推移する「社会」には、
それが一番相応しい姿であるように思う。
しかし、おいらは、自分の内面に対しては、「いつもいろんな意見が
乱立していれば良い」とばかりは言っていられないと思う。
さて、いよいよ主題だ。おいらは、
「砂上の楼閣に過ぎない部分の自分」を、
一度徹底的に粉砕してみることをオススメしているんである。
そして、何よりも言いたいのは、
『それでも残るひとかけらの光り輝く信念』を、
掘り起こしてみようということなんである。
これは、自分でメスを持つ、麻酔無しの
「心の外科手術」のようなものかも知れない。
しかし、一度しか無い自分の人生を、しっかり「自分のものとして」
生き切るには、避けて通ってはいけないものなんだと思う。
だから、まずは、自分の心の中の「賛成」に、反対。