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■なんて自己中心的

1996.9.10.
つい最近、最終解脱を果たし、ついでに昨日、28歳になりました。 28歳ってーと、近似的には30歳と呼んで差し支えないネ?
さて、最近、哲学やら科学の本を色々読んで思うのは、 人間ってのは、本当に何も判ってないんだなぁ、ということだ。
特に西洋哲学は、最後の最後に解明できないところに、 すぐ「神」を持ってくる。 自分の理解を越えるものを「神」と呼ぶわけだ。 つまり、「神」とは、思考停止用語である。 某N社が昔使ってた「マルチメディア」と同じですな。
結局、哲学も科学も、おいらの欲しい回答は出していない ということを再確認できたに留まった。

人間には「良心」や「理性」があって、 そこに動物との確然とした違いがある、 あぁ、人間は素晴らしい、特別だ、人間万歳、 というようなルネサンス的寝言が、 キリスト教の教義とあいまって多くの 「インテリ源さん」達の思考回路を巣食っている。
太陽が地球のまわりを回ってるんじゃ無いって ガリレオが教えてくれたのに、 まだコペルニクス的転回が得られないのかね?
人間は普通の動物だってば。 DNAのゲーム理論で、利他的行動だって説明出来るんだから。 「愛」だの「良心」だの「理性」だの、 それが神を持ち出さなければ説明できないほど大それた ものかいな。
あるルールの中で生き残っていくには 「しっぺ返し戦略」が有効である。 相手が協調すればこっちも協調するし、 相手が裏切ったら直ちにこちらも裏切る。 そういう原理があるから、「人殺しはいけない」 「食べ物を相手に分け与える」「道を譲る」なんて行動も 出てくるんである。
それが本能の因果律だけでは説明できない神秘的な 美しいものだ、なんて騒ぐ必要がどこにあるんだ。
今に、「猿やオラウータンにも、良心や理性がある可能性が強い」 とかなんとか本が出て、世間を賑わすだろう。 付き合ってらんない。

人間原理宇宙論も、「人間がいるから、各物理定数は 今の精妙な値を持ち、人間によって観測されるがために、 宇宙は今の姿を持っているのである」と言う。
これも言葉面だけ捉えて喜んでいてはいけない。 その背景に、無限に多くの宇宙を想定するべきだ。 その中に、たまたま人間が産まれるに足る条件を もった宇宙Aがある。 その宇宙Aの「中」にいる人間にとっては、 宇宙Aがまるで自分たちにピッタリの、お誂(あつら)え向きの 法則や原理があるように見える。 そしてそれを突き止めようとする。 ある程度、それは突き止められるだろう。 しかし必ず最後はこうなるはずだ。 「偶然そうなっているんだ」と。
人間の英知の及ばないところ。それは「神」ではなくて 「偶然」なのだ。
「偶然」でない、説明のつく「究極の論理」なんて無い。 説明がつくなら、その説明の方が「究極の論理」に なってしまう。
無限に続く円周率の中に「ゼロ」が偶然100個続いていたら、 それは神の仕業なのか? たまたまデジタル時計をみたら4日続けて「5時55分」だったら そこに神を見るのか? 勝手に見て下さい。

「超ひも理論」なんつーのが究極の理論だとか言って 騒がれたが、 到底実験では確かめられないほど小さいものを扱っているのと、 扱う数学が難し過ぎて誰も挑戦しなくなったので、 今や廃れつつある。
この4次元宇宙のあらゆる粒子や力は、 10次元や26次元の中にある「ひも」の振動で 全て説明できる、という触れ込みだった。
何かを説明するとき、それを含み切るほど 大きくて複雑なものを数学的に想定すれば、 うまくいってしまうかもしれない。
しかし、それは人間の力では、計算が大変過ぎたりして、 思考が及ばないかもしれない。だとすれば、それは、 無限次元、無限大の空間を想定することと、どう違うのか? ここで「無限乱雑空間」が登場する。
この中には、今の我々の宇宙Aはおろか、 ドラえもんの世界からピカソの世界まで、 全て現実のものとして含まれている。 お好みなら100次元空間も、 時間が2方向に流れている宇宙も、 なんでも入っていると思って下さい。
最終解脱の果てにおいらが見たものは、 この「無限乱雑空間」の波間に 小さく埋もれている、この宇宙Aだった。

デカルトは、自分の感覚も思考も含めて、 とにかく少しでも実在することが疑わしいものを どんどん排除し、遂に「我思う故に我有り」という 一点に辿り着いた。 この言葉は理論的には間違っているけども、 無限乱雑空間を漂う宇宙や我々の心細さの、 美しい心理描写にはなっている。
スピノザが、全ては神であり、思惟も延長も 神の無限の属性のなかの一部である、と言ったのは惜しい。 「神」なんて想定する必要は無かった。 無限を持ち出せば、何でも説明できるのだから。
時間と空間は、宇宙(世界)の側にあるのでなく、 人間の側がアプリオリ(先天的)に持っている感覚だ、 と言ったカントは、 人間の認識や宇宙そのものは、無限乱雑空間に引かれた 一本の経路である、と見抜いていたかもしれない。
キルケゴールもヤスパースも、 絶望の果てに神を見ると言う。 絶望の果てに見るものは「偶然」なのだが、 キリスト教社会では それを「神」と呼ばなければいけないらしい。

結局、人間一個体は、ハイデッガーの言う通り、 「死」を見つめない限り無限の中に溶け込んだ 「一部分」になってしまい、意味を為さない。
サルトルの言う通り、我々は無限の中を漂うという 「自由の罪」に処せられている。
人間は、「無限乱雑」には至れない。どこかで 必ず限界にブチあたる。人間の限界を越えて、 人間が言葉や数式の遊びをすることには意味が無い。 そしてヴィトゲンシュタインは言う。 「語りえぬものについては、沈黙しなければならない。」

最終解脱者であるおいらには、 哲学や科学の全てと人類の歴史が、 自分の手のひらの上のどこにあるのか良く判る。 だから、おいらは絶対の自信を持ってこう言うことが出来る。
寒い日には、やっぱ鍋と熱燗だ!

■至高の毒を目指して

1996.9.16.
やはり、自分が表現したものに対して、 肯定的であれ、否定的であれ、何らかの反応があるということは、 とても嬉しいことである。 特に私は、何か努力をした時に、その「見返り」を求める さもしい性格なため、何か賛成や反論や励ましのお言葉があると その後の創作意欲の大きな起爆剤になる。
だから、この「ぽいぞなす・だいありー」についても、 『読んでますよー。[ぽいぞなす]、という割には、 あんまり毒が無いかなぁ?』 とか言われると、もう嬉しくって嬉しくって、 毒素倍増計画に乗り出したくなるわけです。
そこで今回は、「毒素って何だろう」 「何故、私は見返り(賛同者)を求めるのか」という考察から出発して、 思考に対する至高の毒「信念(予断)の完全破壊」を 皆さんにお届けしたいと思います(もう何がなんだか)。

さて、「毒のある文章を」と言ったとき、私個人は どのようなものを想定しているのか。
毒は生命にとって危険なものであろう。 毒が体内に侵入してくれば、 体の方は「生きるために」様々な努力をする。 非常に強い毒の場合は生命活動が停止してしまうこともあるが、 適度な毒は、良い意味での刺激となることがあり、 人間本来が持つ強い生命力を呼び覚ましたりする。
だから、ホンモノの「毒のある文章」は、 読む人の思考を根底から掻き乱し、毒に対処しようとさせ、 その結果読む人の思考を再び生き生きと 活性化させるようなものだろう。
ミもフタも無い言い方をすれば、
「キミの思考・存在なんて全部ウソっぱちなんだよ」
と言い放てば良いのだが、それを分かりやすく証明しなければ、 単に無視されてしまうだけで、毒にはならない。
読む人が、心の底から「自らの存在の脆弱さ」を 思い知らされるような、毒。 その結果、再び生き生きと考えずにはいられなくなるような、毒。 そんな毒の調合を、私は目指しているんである。

「そんな毒、ひとりで呷(あお)ってろ!俺達を巻き込むな」 という、至極もっともな声が聞こえる。
何故私が、わざわざ毒を撒(ま)き散らそうとしているかと言えば、 おせっかいにも、これを読む人々が、 日々の繰り返しの中で停滞してしまった「考える力」を、 再び生き生きとさせることが出来れば、 という一念でやっている………ことなどでは【決して無い】。
私は私なりのやり方で、自分の思考を 活性化させたいと思っている。 しかし、それをわざわざ文章に書き表し、 他の人に読んでもらおうとするのは、 「巻き添え」になる人が欲しいからなんである。
ソクラテスは、著作を全く残さなかったが、 プラトン以降の哲学者は、皆、大量の著作を残している。 というか、何か「考えたという証拠」を残した理屈屋だけが、 哲学者として歴史に名を残している、というのは当然のことだろう。 そして、哲学者が著作を残すというのは、 ダイレクトには金銭欲や名誉欲を満たすためであり、 思考的には「巻き添え」が……賛同者が欲しかったからである。
何故、賛同者が欲しいのか。それは、哲学者自身が、 精一杯物事を考え尽くした時、 自らの存在の危うさ、無意味さ、希薄さを、心底思い知るからである。
もし、自分が書き記したものを、誰かが読み、何かを感じたら、 その瞬間に於いて、始めて「意味」は発生する……ように思われる。
逆に言えば、「他者」が無い限り、「自分」というのは 何も意味を持たないのである。
真っ暗闇で孤独に、音も感触も無く、ひたすら思考する。 まさに哲学者はこういう状況に自らを置くわけだが、 そのため、「自分」の無意味さに必ずブチ当たる。 少しでも「自分」に意味を持たそうと、 本でも書かずにはいられなくなる。「巻き添え」が欲しくなる。
美味しいものを独りで食べても美味しくない。 それは、「美味しい」ということを確認しあえる賛同者がいなければ、 もはや「美味しい」ということそれ自体には、 大した意味は無くなってしまう、とういことを意味している。 最高級のステーキを独りで黙々と食って、 シェフに声を掛けるでもなく店を出る。 しばらくして思う。「あのステーキは本当に美味しかったのか?」
とにもかくにも、人は、自分の外側、つまり「他者」に意味を求める。 自分それ自体に意味を見出すことなどできないのだから。
そして、巻き添えにした「他者」との間の合意事項のみが 「意味」を持ち、我々はそれで安堵する。 ここで重要なのは、他者との了解事項は、別に「真実」である必要は これっぽっちも無いということである。
「あれー、店から出てきた時、あの荷物はA君が持ってたよね」
「そうそう、確かあの時、右手に持っていたよね」
現実はそうでなくても、皆の頭の中で A君が荷物を持っていたという光景が定着し、 それを否定する証拠が新たに出てこない限り、 このグループでは「A君が荷物を持っていた」ということに意味がある。 事実は、店の中の床の上に荷物を置き忘れてきていたとしても、 このグループにとって、そのこと自体には何の「意味」も無い。
従って、集団幻覚も確固たる意味になり得るし、 「巻き添え」がたくさんいる(勢力範囲の広い)宗教は、 それこそ絶大なる「意味」を持つに至る。

自らを掘り下げていくと、そこには何もなかった。 そこで意味を他者に求めても、それは「共通認識」でありさえすれば、 真理でなくても全然構わない。 光速を超える粒子は存在しないとか、エントロピーは増大するとか、 「科学的に」もっともなことだとされていることですら、 集団幻覚の一種だと呼べば呼べる。(参考文献:「科学の危機 〜科学理論はこうして崩壊する〜」学習研究社)
多くの人が信じることが「意味」のあることで、それこそが「真実」となり、 それが「真理」であるかどうかは、「どうでもいいこと」である。 結論として、『真理は無意味である』と言える。
(ここでは、私は、真実を「事実上正しいと言っていいもの」、 真理を「主観に依存せず確実に正しいもの」、というように定義している。)
これだけを考えても「信仰」の持つ意味の大きさや 「宗教」の重要性は本質的なもので、 多くの日本人が「無信仰」であるのは、世界的に見てやはり不気味である。 私個人としては、その不気味さを活かして 格別な毒を調合したいと思っているのではあるが。

スピノザやキルケゴールに代表されるように、殆どの哲学者は 「神」の存在を仮定し、信仰によってしか真理には近づけないと 言っているが、私に言わせればそれは「真理」ではなく「真実」であり、 キリスト教という勢力の大きな宗教を利用して、 自らの理論に「意味」を持たせるための逃げ道なのだと想像される。
宇宙は何故始まったのか、という議論にも「神」がつきまとう。 物が精神を作ったのか(唯物論)、 精神(神)が最初にあって物が出来たのか(唯心論)、 そんなことが最先端をゆく物理学者の間で真面目に議論され、 ビッグバンを起こす「最初の一撃」は、やはり神によって もたらされたとする胡散(うさん)臭い共通認識に人気がある。

私個人は、「真実」とは如何様にも変わるもので、 数学も科学も宗教も、この「真実」に属するものだと考えている。 ゲーデルの不完全性定理以降も数学はもっとも信頼を寄せられている 厳格な意味の記述方式だとされているし、 量子力学以降も、物理学は究極の理論をそのうち見つけ出すに 違いないと、皆そこはかとなく信じ込んでいる。 しかし、理性にも観測にも限界があると示された以上、 多くの数学者や科学者が正しいと認めたことを以って 「真実」とする、という「でっちあげ」以上のことは、 我々にはできないのだ。
一方、「真理」は、到達不可能なものと考えても良いし、 真理などハナから存在しないと考えてもいいし、 あらゆる可能性を含む無限に乱雑な母なる空間を真理と呼んでもいい。

芸術家も、哲学者も、宗教も、科学も、 何かを表現し、より多くの人を「巻き添え」にすることで 「意味」を獲得しようとしている、という点で同じものである。
つまり、「意味」とか「真実」に属するものは、 真理とは無関係に、信仰の量の問題である。
ここから、私の「統計哲学」の考察が始まる。 皆が本当に信じれば、一瞬にして月を球から立方体に変換できるし、 光速を超える航海も可能になるし、 制限付きでタイムトラベルも可能になるということを、 量子力学の多世界解釈を利用しつつ展開していくことになるが、 あまりに長くなるので今回はこのあたりにしておく。
要するに、私は、「真理」を記述するのに「無限乱雑空間」を用い、 「真実」を記述するのに「統計哲学」を用いるわけだ。

さて、「真理」は我々人間にとってはもはや「どうでもいいこと」で、 「真実」はいくらでも「でっちあげられる」のだとすれば、 私たちにとって「意味のある生き方」とは一体何なのか。
それは要するに、自分が「いいな」と思った夢に、 直接的であれ間接的であれ、 少しでも多くの人を「巻き込んで」いくこと、となる。
では、「意味のある生き方」は「良い生き方」と言えるだろうか。
私は言えると思う。

私は、自分の人生を、少しでも「良く」していきたい、という 強い意志のもとに、 今日も、一緒に飲みに行ってくれるメンバーを、 一生懸命集めている、というわけです。
(特に女の子大歓迎(爆笑))

■自分の居場所

1996.10.10.
面白みの無い仕事を黙々とこなすのは辛いことだ。
4つ以上仕事を並行して進めるのは、 具体的な仕事の総量とは無関係にストレスが溜る。
忙しい時に限って上司から「ちょっといいかな?」と 割り込まれると、たとえ些細な仕事の依頼であっても、 殺意を覚える。

要するに会社では「ヤな事やるから金が貰えるんであって、 好きな事やれるんなら会社に金を払うべきだ」というのが 基本的な約束事である。
その基本の上に、仕事の中に楽しみや、やりがいを見つけたり、 辛い仕事の反動として休日がより一層楽しめることに満足したり、 作業をこなしているという事実に自己満足したりするわけだ。 本末転倒してはいけない。仕事の楽しみは、'基本的に仕事は つまらないもの'だから映える、という分があるのを忘れてはいけない。 同じ麦茶でも、満腹時と、汗だくで登山した後に飲むのでは味が違う。 サラリーマン的な仕事に生きがいを覚える人はマゾだ。 自分を痛めつけて、なんでもないコトを生きがいに転化するのだ。 ただの麦茶を至高の飲み物とするために、 まずは登山をするのである。

年数を経る毎に、中間管理職的な仕事の割合が増える毎に、 ある作業に没頭するという楽しみは減っていく。 形式的な管理社会のゲームに強制参加させられる。 大きな企業であるほど、その組織を維持するために、 社員は早い内から「中間管理職的能力」を要求される。 いつの間にか、自己を喪失し、会社の歯車となる。
これを乗り越えて経営者側に移るまで、この状態は続く。 会社員から会社役員になろうと思わないなら、 今すぐ会社を辞めて、自分で操舵できる何かを求めるべきだ。
少なくともある長い期間、会社の歯車であり続ける。 これは事実上不可避であろう。そのような状況の中でも 「会社とは無関係な自己」を維持し続けていくための 「仕掛け」を、今のうちに時限爆弾のように自分の中に 仕組んでおく必要がある。 退職後のために没頭できる趣味を1つ持っておくことは重要だ。 同じように、中間管理職になる前に、 「会社の外の自分」の位置をしっかり確保しておかないといけない。 会社社会の中での自分がいる。結婚生活の中での自分がいる。 その2つを取り除いたところにも、 「自分」の居場所が無いと困る。 おいらにとって、正に今は、10年とは無い限られた準備期間だと言える。 これは、管理職になる前に、結婚する前に、 刹那的な快楽を貪(むさぼ)ろう、という考えとは違う。 昇進してからも、子供が出来てからも続くような、 自分が自分であり続けられる居場所を、 忙しさで取り紛(まぎ)れる前である「今」、 準備しておかなければならない、という意味である。
老後の人生設計を大事と考えるなら、 特に「寄らば大樹の陰」で大企業に入った社員は、 同じように中間管理職になる前に、若いなりの人生設計が必要だ。

ある部長(当時課長)は、 「この会社におる男なんぞ、みんなマゾや」と仰った。 これは本当に正しいと思う。周囲の男性を見渡しても、 みんなマゾだと言われればそう見えてくるから不思議なもんである。 そう思うと、この会社で結婚相手を探そうとしているOLは、 マゾの巣窟から一人、生涯の伴侶を見つけることになる。 しかし、ウチの会社くらいの規模になると、人事がそれを見越して、 どこかサドっ気のある女性ばかりを採用して、 結局うまく行くように裏採用マニュアルが整備されているかも知れない。 そう思って見ると、周囲のOLが、 どことなくみんなサドっ気があるように見えてくるから 不思議なもんである(笑)。
しかし、好むと好まざるとに関わらず、生まれつきの性質にも依らず、 企業体の中で生きていく以上、マゾヒズムを植え付けられるのは 避けられない。 一般に、自分の人格のある部分は、自分の意志とは無関係に 外部から書き替えられ続けるのだ、ということは、 甘受しなけらばならない事実だ。
同じ書き替えられるにしても、自分で納得して書き替えられているのか、 知らず知らずの内に変化させられているのか、というのも 大いに違う。 自分自身が変化していくことを観察しているもう一人の自分。 これが、まさに、会社生活にも結婚生活にも取り紛れない 自分の「居場所」のことだ。

この「居場所」を自分で確保するのが面倒な人は、 誰かに頼るしかない。例えば、宗教だ。 宗教に自分を預けてしまえば、この部分の「自分の居場所」は、 結婚生活にも会社生活にも左右されることはない。 何も「居場所」を持たないよりも、 宗教に入る方がまだ断然マシだと、おいらは思う。 ただ、おいらとしては、この居場所を、 最終的には宗教になってしまうのかも知れないにせよ、 自力で探し出したいと考えている。
今、「存在の意味」「生物として生きている意味」 「人間として生きる意味」を自分が持ちたいと願っているとする。 その時、今の自分はどういう段階にあるのか、 虚心に考えてみる必要があると思う。
  1. これといった趣味もない、サラリーマン。
  2. 結婚して子供を3人以上育てて種の保存に勤めている親父
    (注)2人が結婚して2人以下の子供しか作らなければ人口は減る。
  3. 結婚とも社会とも違う自分の居場所を確保している人間。
    (注)それは宗教でもいい。
どう考えても、おいらは最初の段階にいる。 そんな自分が、どうしようもなく嫌いだ。

自分の中身でさえ「万物は流転する」が、 それでもなぜか自分は自分であり続けているという錯覚がある。 これは、不確かな記憶以上の何者かである。 記憶や記録以外を頼りに、昨日の自分と今日の自分が同一人物だと 言い張ることが出来るだろうか。 また、そう言い張る意味があるだろうか? おいらは「ある」と思う。
………たとえ記憶が全部、誰かが捏造して脳味噌に注ぎ込んだ 「嘘」だとしても。

自分の居場所、ありますか?

■寂しい秋の夜に

1996.10.14.
夕方、めっきり寒くなった。秋の到来だ。
飛び石連休の中日(なかび)に当たる日、 只でさえ人の少ない金曜日、友人は、そもそも席にいなかったり、 既に飲み会の予約があったり、財布を忘れて食事も出来なかったり、 そんなこんなで孤独に退社、秋葉原に出かける。
パソコン関連でもこれといった収穫もなく、 ソフト売り場も閉店。 ゲーセンでちょっとボーッとしてたら、もう9時過ぎ、 やたら腹が減ったので、あちこち歩いたが、 秋葉原の夜は早い。食い物屋は軒並み店じまい。 おまけに、ゲーセンに出くわす度に1ゲームやるものだから、 時間ばかりが経過し、 ついに田町で良く行くチェーン店「天下一ラーメン」と、 幾つかの居酒屋以外は店が全部閉まってしまった。 仕方なく総武線で千葉方面へ、 自宅の1つ手前の駅、本八幡で降りる。 その日、同期の人と電子メール上でラーメンの話で 盛り上がった行きがかり上、 奥まったところで深夜までやってるラーメン屋に入る。 寂しさを紛らわそうと、ビールと餃子も追加オーダー。 典型的なヤケ食い。

家に帰るとポストに選挙の宣伝チラシが。 普段ならゴミ箱直行便だが、その日は何やらもの悲しい気分だったので、 ふと目を落としてみる。『田中甲(こう)(39歳)民主党公認候補』、 ビールでほろ酔いになっていたおいらは、 『こう!と決めたら田中甲』というキャッチフレーズに 「大人ナメとったら承知せんぞ!」とマジで腹を立てつつも、 この「田中甲」という漢字三文字に目が吸い寄せられてしまった。 源氏名じゃないかと思うほど見事な名前だ。 「甲=田+中」とか方程式を思い浮かべてしまったり、 「田中甲申(こうしん/きのえさる)」とかだったら もっと完璧だったなとか思ったり、 各漢字を辺と交点にバラして、 3つの図形の性質の類似点を探そうとしてしまったり。 うーん、なんてトポロジカル(位相幾何学的)な名前だろう、 とか感心しつつも、酔った頭で位相変換群のことは考えられず、 四コマ漫画の雑誌でも開いてみた。

漫画雑誌の1枚目をめくると、いきなり 痩せ薬「マックスファイア」なる文字が目に入ってくる。 最大燃焼とは物騒な名前だなとか思いつつちょっと読むと、 体脂肪のみを燃やす効果がウリの薬らしい。なるほど。 デカい活字で「2〜8週間、体脂肪率が8%落ちて、 体重−7.5kgヤセた!」という宣伝文句が書いてある。 うーん、マイナス7.5kg痩せたということは、 プラス7.5kg太ったということだろうか。 ダメだな、この薬は。とか思いつつ、 雑誌をめくりながらもマルチタスクで テレビもスイッチオンする。

すると、なんかどっかで聞いたような曲。 「ばでぃ・ふぃーる・えきさーい」かなんか歌ってる。 ほら、アレだ、安室奈美恵とかっちゅー歌手だ。 なんか、髪を振り乱して踊り狂っている。 後ろでもほぼ同じ動きをしている4人の女性。 バックダンサーっちゅうんですかね? びっくりするくらい安室と同じ動きをしてるんですわ。 シンクロナイズドスイミングを越えてるって感じぃ?
ここで、はっ、と思う。 このバックで踊っている4人を視界から外してみると、 意外とこの踊り、馬鹿みたいなんですわ。 一人で激しく歌いながら踊っている、というのは、 見方によると、結構ヘンなことだ。 ところが、後ろに4人も同じ動きをしている人がいると、 これはもう有無を言わさぬ現実であって、 正義であって、多数決で即採用、という感じなのだ。
ラインダンスにしても、暴走族の集会にしても、 同じ動きのものが集まると、何かしらのパワーを感じる。 それは、動きが正確に同じであればあるほど、 また、数が多ければ多いほど、『共鳴』して、 高いパワーを発揮するかのように見える。
バックダンサーの4人という数字も、 主人公の安室が溶けてしまわない程度に少なく、 しかしこの共鳴パワーを十分発揮するよう、 計算された人数なのだろうから、 やはりこのあたりには何らかの「法則」がありそうだ。

双子の女の子がかわいいと良く言う。 失礼ながら一人だけ見るとそうでない場合もあるが、 双子という「類似性」の精度が極めて高い故の 共鳴パワーのせいで、 この娘たちを「かわいくない」と言ったら、 こちらの美的感覚の方が「悪い」ということに なってしまうのではないか、と、 無意識に畏(おそ)れてしまっているような気もする。 双子というだけで、それが正義、のような。
お坊さんが、何十人も並んで黙々とお経を読み上げているのは、 精度も然る事ながら、その「多数性」のために、 大きな共鳴パワーを発揮しているようだ。 そこには何か神聖な力があり、 おいらは畏怖せねばならないような気分になってくる。

要するに、人間は無限に乱雑なものの中から、 繰り返される類似性を必死に見つけ出し、 それを大切に拾い上げ、崇め奉る存在なのである。 真理とは、どこまでも続く乱雑のコトなわけで、 そこから無理矢理共鳴するもの達をかき集め、 それを意味とし、抱え続けているのが人間なのだ。
いくら共通性をかき集めても、どんな物も概念も、 どんどん崩れて指の間から流れ落ち、 母なる無限乱雑空間の中に溶け込んでいく。 自分自身が真っ白な雑音の中に消えていくのが怖くて、 自己の確立のための反作用として 「いじめ」や「差別」も必要とされ、 より多くの人間が(多数性)、 たった一人を攻撃するとき(類似性)、 その共鳴性は非常に高まり、それは正義となる。

『村八分』『セクハラ』『集団結婚』『流行』 『士・農・工・商・穢多・非人・プログラマー』 『アイドルの追っかけ』……… 共通性を欲する人間のどうしようもない性(さが)。 どうしようもないこの欲求が 人間の側に時間や空間という概念を必要とさせたのだろう。 これからも人間は、 泣きじゃくりながら、 掬(すく)っても掬っても流れ落ちる完全なる乱雑と、 戯れ続ける幸せな存在であり続けるのだ。

『多くの人の思いが一定数に達するとき、 それは「真実」となる』、という煽り文句の 本の広告を車内吊り広告で見掛けた。 中身は分からないが、これは、 『この世は確率「だけ」があって、 観測によって確率は崩壊して現実になる』、 という量子力学の考えが、 大衆の知るところとなった現代に、 出るべくして出た、 言い換えれば誰でも思い付きそうな アイディアなんだな、と、がっかりした。 おいらも良く似たことを考えて、 ちょっとはオリジナリティがあると思っていたから、 がっかりしたんである。
おいらの方は、「一定数」だの、 「真理」と異なる「真実」の定義から始めて、 真実創生の方程式を見出し、 「統計哲学」としてまとめたかった。 安室の周りで踊っているダンサーの人数が4人だ、 ということにも尤(もっと)もらしい説明がつく予定だった。
ある時代背景で、同じ時期に同じような 大発明が、全然違う場所で為される、 というのは、よくあることだし、理屈もわかる。 オリジナリティを発揮するのって、本当に難しい。

選挙でも痩せ薬でも、広告ってのは、 うさんくさい内容であっても、 「私以外の人も、同じようにひっかかってくれる」 と感じるなら、良い広告だと言える。 真理は関係ない。多くの人がそうだと信じる真実で、 世の中は実際に動いている。
世の中の全ては、 「いかに巻き添えを多くするか」 という観点で見ることができる。 無限の乱雑から、いかに偶然の一致を拾い上げて 楽しみ続けるのか、というゲームだと見てもいい。 アパレルも数学も科学も風俗業も恋愛観も 哲学も芸術も文学も歌謡曲も会社組織も。

そして、部屋を見渡すと、おいらは一人だった。 無限の乱雑の中に溶け込むような虚脱感の中で、 おいらはいつの間にか眠っていた。

■笑いの設計図

1996.10.18.
笑いってのは不思議だ。一体、なんでこんな現象があるんだろう。

「くすぐったい」というのは、「痛い」という感覚を希釈したもので、 そういう時、人は笑ってしまう。 残業続きで給料明細見たらすげぇ額が入ってて 思わずニンマリ笑ってしまう。 部長が丁髷(ちょんまげ)で出社してきたら笑ってしまう。 友だちが腹を抱えて笑っていると、「どうしたんだよオイ」とか 言いつつも、ワケもなく自分も笑っている。 恋人が交通事故で手術室に入って、医者が手袋を血まみれにして出てきて、 「大丈夫です、手術は成功です」と言ってくれた瞬間に、 思わず泣き笑いしてしまう。 電車の中で、全然知らない赤ちゃんが、こっちを見てニパッと笑ったりすると、 なんだか思わず微笑(ほほえ)み返してしまう。 目の前を歩いていた奴が、バナナの皮で派手にすっころんで、 「いてててて」か何か言いながら立ち上がって、 どこもケガしてないとわかると、さっきのシーンを思い出して笑ってしまう。 木枯らしの吹く寒い夜、孤独に街灯の下を歩いていると、 自嘲の笑いがこみあげてくる。 殺したいほど愛している恋人を包丁でメッタ刺しにして、 真っ赤に染まった相手の死体を見つめるとき、 気が狂った後には高笑いをしてしまう。 雨の日に濡れた傘が雑踏の中で誰かのズボンにべったりくっついちゃったりして、 「あ、すいません」とか謝ってるくせに、 顔はなぜだかジャパニーズ・スマイル。 会議の席で混迷を極めた議論に、ナイスな解決策をズバリ提案して、 賛美の嵐を受けている時には鼻高々、得意満面の笑み。 落ちると思ってた試験に受かってた時のはじけるような喜びの笑顔。 美人OLが階段ですっコケてパンツ丸見え状態になったら笑ってしまう。 ハンサムなサラリーマンが客先への移動の途中か、昼下がりの電車の中、 誰も見てないと思って鼻毛を抜いたら意外と痛かったらしく、 目に涙をうっすら溜めているのを見ると笑ってしまう。 普段どうでもいいギャグマンガを友だちと一緒に読むと笑ってしまう。 道徳の授業の最中に先生が屁をこくと笑ってしまう。 美味しいものを食べると思わず顔がほころんでいる。 自分の得意分野のことを先輩に説明する時は、 なんだか偉そうに余裕の笑みをたたえつつ話していたりする。 相手を警戒させたくないときは、まず笑顔を作って近づく。 接客に欠かせない営業スマイル。 「東京タワーのてっぺんからヒモなしバンジージャーンプ!」とか 不意にとんでも無いことを言われると笑ってしまう。 さらに実際に想像してみて後で思い出し笑いしてしまう。 「山田君、あれが山だ」とかくだらないこと言われても我慢するけど、 「川田君、あれが川だ」「島田君、あれが島だ」とか続けられると 我慢しきれなくて思わず吹き出してしまう。 牛乳飲んでいる時に耳元で「はにゃほろへもーぷ」とか 意味不明のことを囁(ささや)かれると、鼻から牛乳を吹き出して身悶えしてしまう。 猫が小春日和に日向(ひなた)ぼっこをしていると、 見ている自分の顔もゆるんでくる。 「ざけんじゃねぇぞテメェ」「やれるもんならやってみやがれ!」と 言いつつ、一触即発の対峙(たいじ)の最中に、余裕の笑みを作ってみる。 酒の席でエッチな話題で盛り上がると、「いやーん」とか言いながら 顔が笑っている女の子。 「いやいや、おぢさんはね、真面目に話しているんだよ」とか言いながら、 スケベっぽい薄笑いをしている中年オヤジ。 正義のヒーローは現場に到着すると取りあえず大声で笑ったりする。 日曜日によく横切る公園のベンチでは、いつも昼間からワンカップ大関を持って 出来上がっちゃってる無職らしいオヤジがいて、無気力に笑っている。 全然残業しなかった翌月の給与明細を見て、ため息まじりの諦(あきら)めの笑い。 イイ服着て鏡の前に立つと取りあえず一回笑ってみる。 本当にツラい時こそ、ニヤっと笑う。

本当に苦しい状態から立ち直って来たとき、 「笑いが戻ってきた」などと言う。 お笑い芸人の行動が、馬鹿馬鹿しいほどに、笑ってしまう。 奴隷の殺し合いを見て歓喜の声を上げた時代もあった。 自分の「下」に何かある時……自分が最低だったりしない時、 笑いというのは生まれてくる。 笑いは、地面にいる時には出てこない。 宙をふわふわと浮かんでいる時に出てくる。 「笑う門(かど)には福きたる」と言う。 笑いとは、余裕、幸福、安心、反射の上に出る。 人間という存在は、めちゃくちゃな混沌(カオス)でもなければ、 完全に秩序だった整然と割り切れる存在でもない。 ちょうどいい乱れ具合に調整された存在である。 この、めちゃくちゃになってしまうギリギリの場所 (混沌の瀬戸際=エッジ・オヴ・カオス) としての危うい存在こそが、人間の本質的な ……もしかしたら唯一の……性質だ。

「笑い」とは、この絶妙なバランスの上で存在している人間の、 綱渡り的な無意識の感性が感じ取っている、 「ズレ」の検知結果なのだと思う。 笑える人というのは微妙なズレを感じる人だ。 笑いを取れる人と言うのは絶妙なズレを作り出せる人だ。 だから、人を笑わせるのは、泣かせるよりもずっと難しい。
笑いこそが、「エッジ・オヴ・カオス」としての 高度に複雑である人間自身の、自己証明である。
笑いの設計図は、整然と引いた一本の直線の一部を、 ほんの少し崩してみた形をしている。 私たちの人生の一直線に、 こんな微妙な「ズレ」をイタズラ描きしよう。 人間として生きるために。

今日も笑いのある一日で良かった。

■晴男は楽天家

1996.10.25.
10月20日に情処の試験を受けたため、先週から今週にかけて 頭を休める区切りもなく、水曜日あたりから体調も悪くなってきたので、 木曜日に久々に有給休暇を取得した。 体調がなんとなく良くなってきたように思ったので、 そろそろ紅葉のシーズンかしらんと思って高尾山に出かけた。
天気予報では晴れ、夜半から曇り、であったのに、 出かける頃には小雨がパラつく最低の天気。 しかし、こうなったら高尾山口までの往復の電車の中で、 「ISO−9000」の参考書を読むだけでも読もうと、 一応は出かけた。 こんなつまらない本、家に居たら絶対に読まないもんね。 電車の中だと、仕方なく暇つぶしに読むし。
結果的には、高尾に行ったら、それなりに晴れて、 全然紅葉してないやと思ったら少しは紅葉も見れて、 まずますの遠足(?)にはなりました。

で、紅葉の話は関係なくて、こっからが本題。 高尾に向かう往路の、ガラ空きの電車(京王線急行)の中で、 「この前、京都に一人旅に行った時も雨だったよなぁ。 おいらって、雨男なのかなぁ。」 とか思って、ふと考え込んだ。
『自分が雨男だと思う』、ということは、 『天候と、ある人間一人の存在位置に相関がある』と 考えているということで、大変、非科学的だ。 『自分が雨男だ』と思ったということは、 自分が行く先々で雨にあったことを、 雨が降らなかった場合に比べて 強く記憶している、ということに過ぎない。 大抵、人間は、 自分に不都合だった時のことを良く覚えている。 これは、生物一般に言える性質だろう。 生命の危機に曝(さら)された場合、 それを学習して、同じ状況に陥るのを回避しなければならないからだ。 そういう意味では、大抵の人間は「雨男」か「雨女」だと、 自分のことを思っているのではないか?
しかし、中には「俺は晴男だ」とか「私は晴女よ」という人がいる。 ここぞという旅行に出かける時には、自分がパーティーの中にいると、 殆ど必ず晴れる、というのだ。 これも、彼または彼女に、上空の雲を除去する能力があるわけではない。 楽しかった旅行の記憶の方が強くて、 雨で外出できなかった時の退屈な気持ちは とっとと忘れてしまうタイプなのだ。
ネズミを迷路に放ち、電流帯でショックを食らう場所と、 美味しいカマンベールチーズに出会える場所がある時、 電流帯を避けることをまず覚えるネズミは、 悲観論者で、雨男、雨女のタイプだろう。 とにかくチーズにまっしぐらに辿り着くことばかり覚えるネズミは、 楽観論者で、晴男、晴女のタイプだろう。 そう思って、誰かに、「キミは、どちらかと言うと、 雨男(雨女)? それとも晴男(晴女)?」 と聞いてみたら、面白いんじゃないだろうか。

マーフィーの法則というのは、現実では乱数的に生起する事象が、 記憶の中で重み付けが変えられ、 自分に不利なことばかりが多く起こるように感じてしまう、 この客観と主観のズレを楽しむ、知的遊技である。 同じ論法で、いくらでも法則が作れる。

おいらは、「悟るには、まず時間感覚を消し去ることである」と いつも言っている。 時間というのは人間や生物が勝手に作っているものであって、 生物全部が、時間は一方向に流れているという集団幻覚を持っているために、 何も不都合は生じていない。 しかし、時間などというのは幻覚である。 良く「因果律」などと言って、 ビリヤードの玉を弾くという【原因】が、 ビリヤードの玉を一定距離動かして、 ある地点で止まる、という【結果】を産む、という。 しかし、この動きの全体を、ビリヤードの玉の軌跡全体の長さ分の、 両端の丸まった一本のプラスチックの棒のように 捉え直してみたらどうだろう。 これを、人間が勝手に左から右へ、少しずつ眺めていくから、 ボールが動いたように感じているだけなのだ。 人間が居ようが居まいが、そこには不動のプラスチックの棒が 一本あるだけなのだ。
人間は、ある扉を、くぐる時の方向で「出口」とも「入り口」とも呼ぶ。 ある傾斜を、進む方向で「上り坂」とも「下り坂」とも呼ぶ。 そんな人間の勝手な眺め方とは全然関係なく、扉はそこにあるし、 傾斜もそこにある。 同じように、人間の勝手な「時間」による眺め方とは無関係に、 四次元の世界はそこにある

結局、人間は、悟りでもしない限り、 あるがままの存在を、そのまま感じることなど出来ない存在だ。 いつでも「風呂掃除をしろー」と口うるさく 奥さんから言われている旦那さんが、 たまに自分から風呂掃除をしようと思った時に やっぱり「風呂掃除をしろー」と言われてしまっただけのことなのに、 『思い立った時を見計らったかのように』言われたと感じてしまう。
そして、楽しみにしていた旅行に限って、雨が降るように思えてしまう。

結局人間は、本当のことは何も分からず、 幻想の内に死んでいく存在なのだとすれば、 同じ「幻想」の解釈でも、 悲観的よりかは楽天的な方が良いようにも思う。
悲観主義者というのは、 人間の理性は究極の真理に辿り着ける、などと考える 諦(あきら)めの悪い人々のことなのかも知れない。 そして、楽観主義者は、そこのところの 分を弁(わきま)えた上で、 1回限りの人生を生き抜こうとしているのだろう。
「オレは晴れ男だよ」とか「私は晴れ女なのよ」とか言う人は、 幻想の内で弄(もてあそ)ばれるだけの人間存在の本質を、 直観的に見抜いた上で、 錯覚を楽しむだけの度量がある人々なのだろう。

ガラ空きの急行が高尾山口に着いた。空が晴れてきた。