1997/4/20
1997/4/28
1997/4/29
1997/5/05
1997/5/17
1997/5/25
■幻覚
1997.4.20
突然、目の前の景色が全部ウソに見えた。
やることやって、取り敢えず久しぶりにボケーッとしてるかー
って感じの、けだるさを彫刻にして箱根の森に飾ったような
休日の午後。
洗濯も終わった。よく寝た。腹も減ってない。
特にゲームもやりたくない。読みたい本もない。
刺激と言えば、目の前の国道の車の騒音くらいだ。
仕方ない………風呂でも入るか。
わりと天気の良い休日の真っ昼間なのに、
外出するどころか、家の中で風呂に入る………。
新鮮だ。こんなことが、おいらにも出来たのか。
「何もしないこと」が、あれほど苦痛だったおいらが………。
既に死期が近いのだろうか。
HIJK、享年28歳。晩年の趣味、ホームページ作成。
なんかヤだ。
その日の気温も考慮に入れて、
お湯と水の蛇口の加減を微妙に調節する。
浴槽に溜まったお湯が、ぬる過ぎず、熱過ぎず、丁度イイ感じだと、
大成功を祝って湯も溢れんばかりに
勢い良くザブンと入りたくなる。
ウチは、ユニットバスだが、割と深くて広め、脚を伸ばすことも出来る。
ぼーっとする。ひたすらぼーっとする。
自分の足の指が見える。湯気の向こうに、遠くに見える。
自分の意志で右足の親指を動かそうとすると、
視界の中の右足の親指が動いた。
面白い。
足を見る。ヘソを見る。肩を見る。
しかし、肩甲骨は見えない。顎も見えない。
無理すれば脇の下は見える。
そういえば、おいらは、28年生きて来て、
自分の顔というのをまだ一度も「見た」ことがない。
見たものと言えば、肩より下の、
この首無し死体のような物体だけだ。
写真とか、鏡を使って、
この首無し死体と、自分の頭部と思(おぼ)しき物体が
連結している虚像を見たことはある。
光学とかを全面的に信頼すれば、
鏡に映った顔の虚像イコール自分の本当の顔、
ということで、それ以上悩む必要もないのかもしれない。
考えてみれば、この首無し死体でさえも、
網膜上に映った虚像に過ぎないのだし……。
でも、本当は、鏡や写真の中に映るのは、
本人の顔や目の、ごく一部分の情報だけなのかもしれない。
他人が、おいらの顔を見ても、やはり、ごく一部の情報しか
見ることが出来ないのかもしれない。
だから、おいらの写真と、実物のおいらを並べて、
他人に「似てる?」と聞けば、
「似てるどころか、同一人物だろ」と言うだろう。
塩化銀の感光剤の上に現像された、ひらべったい、
おいらのこの顔の像が、
細胞から出来ている立体の実物と同じワケがない。
他人はアテにならない。
体はさておき、顔だけは本当に見たことが無いので、
とことん懐疑的にならざるを得ない。
顔には、自分の目で見られては困る何か特別な理由でもあるのだろうか。
もし、自分の目で、自分の顔を見たら、
そりゃーもう、とんでもないコトになっているのかもしれない。
他人にどんなに「あんたの顔と、
あんたが鏡で見る顔は一緒だ」と言われても安心できない。
おいらが思っているポストの赤と、
あなたが思っているポストの赤が同じだと、
証明する手段が無いのと同様、
他人にとっての自分と、自分にとっての自分は、
同じだとは保証できない。
いや、むしろ、全く違うのかもしれない、と疑っていた方が、
真実を知った時に落胆しないで済むんじゃなかろうか。
風呂で馬鹿なことを考えてくつろいでいると、
妙にハラが減った。
冷めた白米が少々、ふりかけと、カップヤキソバしか無い。
今日はもう外出しないでヘロヘロしてると決めたので、
これらを片づけることにする。
カップヤキソバは、熱湯を注いで43秒経過したら、
一度フタをあけて、麺をほぐして「かやく」のキャベツと
良く混ぜ合わせること。
然(しか)る後、3分待たずに2分強でお湯を捨てる。
フタの裏にキャベツがべったりくっつくこともなく、
麺の表面もドロつく寸前で、
丁度良い歯ごたえが楽しめる状態になっているハズだ。
お好みで目玉焼きと、クノールカップスープか、
リケンのワカメスープを添えると更に良い。
だが、今日は汁モノが何も無いので、
腹いせにミネラルウォーターをガブ飲みすることにする。
目の前のヤキソバが、自分の口に入っていく。
カップの中のヤキソバの行く末を良く観察していると、
僅(わず)かに見える自分の唇の、
真ん中あたりを通って吸い込まれていくのが「見える」。
虚像じゃない。一安心だ。
しかし、自分の鼻とほっぺたの奥に見える、ぷにぷにと動く唇とゆーのは、
しばらく見ていると、気持ちが悪くなるものだ。
なんで、おいらの目玉のかなり近くに、
こんなグロテスクなモノが付いているのだ。目障(ざわ)りな。
いや、唇から「見れ」ば、目玉っつーのは
相当グロテスクで不愉快なモノに違いない。
白球の一部にだけ黒い円形があって、
よく見ると周囲に赤い血管が無数にある。
………そうか、自分で自分の顔が等身大に「見れ」たら、
あまりのグロテスクさに自殺を図ってしまうかもしれない。
だから、自分のことは、鏡や写真を通してしか
見れないようになっているのかもしれない。
そうだ、他人の意見や、鏡や機械を使わないで、
「自分」で「自分」が全部見えてしまったら、
そのグロテスクさ、異常さ、もしくはカラッポさ加減に、
人間は耐えることは出来ないのだろう。
だが、無意味が意味に変わる"カラクリ"は、今はそっとしておこう。
テレビの中の学生が、ポケベルと雑誌を頼りにガールフレンドを探している。
彼女と会う約束を取り付け、「ベル友」時代が終わり、
実際に会って「想像していたイメージと違う」と不服そうに呟(つぶや)く。
ポケベルの向こう側の理想像に憧れていた時の方が、
楽しかったのだろう。
男の側から見て、「女性像」というのは様々なメディアの制約の中に
姿を変え形を変えて現れる。
マンガやアニメの中の、顔の面積の4分の1を占める巨大な瞳の少女。
ポケベルの液晶面の、ハートマークを駆使した可愛いメッセージ。
テレビ、電話、手紙、ホームページ、小説、写真、それぞれの中で、
メディアの特性、制約、ルールを活かした「イイ女の虚像」が現れる。
女の側から見た「男性像」もまた然りだ。
しかし、どれ一つとしてホンモノではない。
どれも、ホンモノのごく一部の情報でしかない。
派手な、もしくは最先端のファッションに身を包み、
流行り言葉で、視聴率の高いテレビや話題のタレントのことを話す、
きらびやかな若者達、それは、実際に面と向かったにしても、
やはり「虚像」に過ぎないだろう。
おいら達は、情報の中でクルクルと舞う。
「傷つきたくない症候群」の蔓延(まんえん)。
繭(まゆ)の中に閉じこもってテレビや電話を通して安全な情報だけを得る。
実物に触れる必要はない。情報の中で遊べば。
………理想しか見たくない。自分で勝手に創り出せる理想しか。
世俗の垢(あか)に塗(まみ)れて現実を見るのは大人になってからでいい。
そして、できれば永遠に大人にはなりたくない……。
ネジはイヤだ。錆びるから。すぐ失くなるから。
ネジを幾つも創り出せる「金型」が1つあればいい。
この「金型」さえあれば、ネジはいつでも好きなだけ作れるから。
いや、「金型」すら、長い年月の間にはどんどん劣化する。
だから、金型を作るための
コンピューター上のデータ(CADデータ)だけを見つめていたい。
錆びも劣化もしない「理想」のデータを。
理想は、形にした瞬間に、誤差を含み、汚れ、
朽ちていく運命(さだめ)を負う。
論理的なものへ、精神的なものへ、理想へと「逃げ込もう」。
脳味噌の奥底に「逃げ込んだ」自分にとっては、
もはや、自分の足の親指も、肩も、唇も、
全部不完全でグロテスクでウソッパチの忌むべき虚像なのだ。
目の前のこの見事な大樹も、いずれ朽ち果てる、
不完全な「理想の影」に過ぎないのだ。
あぁ、プラトン様、あなたは2千4百年近くも前に、
この同じ大樹を見上げていたのですね。
……現実のものは、情報化された時、何らかの情報を失う。
写真も、鏡の中の自分も、受話器から聞こえてくる声も、
何か我々の「精神」が
「重要ではない」と思っているものを切り捨てることで
情報として扱うことが出来るようになったものだ。
決してホンモノではない。
現代。
我々人類の未熟な「精神」が、その「精神」のために、
『現実』から恣意的に様々なものを切って捨てる。
精神の、精神による、精神のための情報抽出。なるほど。
きっと、人類は、今この物理法則を持つ宇宙の中では、
かなり高い文明レベルを持っているのだろう。
何故なら、これ以上、現実から遊離して、
精神、理想、情報の中に入り込んでいった文明は、
自ら創り出した情報、憧れの中に溺れて、
絶滅してしまったであろうから。
自分の爪先(つまさき)を持って宙に浮かぼうとすれば、
きっと転んでしまうだろう。
それは、人類にとってワリと近い将来のことなのかも知れない。
それがイヤなら、「情報にしてしまったもの」を
「現実」に戻していく過程を、真剣に考えて見るといいのかも知れない。
「ベル友」時代を卒業して、実際に出会った男女のように。
突然電話が鳴った。女友達からの黄色い声が鼓膜に心地よい。
「何してたぁ?」
「馬鹿なコト、考えてた。」
さっきまでウソだった景色は、今はどう見てもホンモノだった。
■メッセージ
1997.4.28
あれれれ、やばいよ……。
1996年7月1日、栄えある第一歩を踏み出した(←んな大したモンかい?)
自分改造一ヶ年計画も、あと2ヶ月少々を残すのみとなってしまった。
前半で「考え方」を改築し、後半で「実践」に移る、という予定。
しかし、哲学的な「アッチの世界」に浸り過ぎてしまった。
「行って」そして「戻って」こないと意味がないのだ。
螺旋階段のように登っていくための、最初の1周なんだから。
これで終わりじゃ無いんだから。
期間限定の試行錯誤に過ぎないんだから。
それはそうと最近「いんたーねっと」デビューを果たしたんだよね。
「ぷろばいだ」に加入して、自宅にいながら
ホームページを作成したり、
電子メールのやりとりが出来るようになった。
グローバル化計画の一環として予定通りネットサーフィンを楽しんで、
そして予定通り辛(つら)くなってしまった。
流れ込んでくる情報の大洪水の中で、
ワリとあっさり自分を見失ってしまったから(笑)。
ホームページには、面白いものも数多くあり、
ポイントを絞って、1つか2つのテーマに突っ込んで
ディープに情報を収集し、まとめている。
それは、価値ある情報だ。
その一方で、ホームページを作成する環境と技術を揃えたはいいが、
発信するべきメッセージ自体を持っていないため、
途中で挫折した永遠に工事中のホームページ、
製作者本人も最早楽しんでいない意図不明のホームページの
死屍累々をも目の当たりにする。
より刺激的な、価値ある面白い情報を提供するべく、
インターネットの神輿(みこし)を担ぐ人々。
そんな中で、何か人に伝えたいこと、
もしくは人に共感して欲しい考えがある時、お行儀良く
「あなたも一緒に考えてみませんか」的な書き方をしても、
それは謙虚であるかも知れないが、
回りくどくて、せっかくのメッセージも伝わらないかも知れない。
だから、
- 『ホームページを作成し、情報を公開することの意味を、
もう一度考えて下さい』
ってゆーよーな言い回しは、
イマイチ心に伝わってこない、意味の薄い表現なのかもしれん。
自分が本当に人に伝えたい情報ならば、
いっそのこと、心にズバッと来る乱暴な文体の方が
優れているんじゃなかろーか。
力強い文体を書く、その「テンション」こそが「価値」を生むのではないか。
- 『特に発信したい情報や、提供したいサービスの構想も無いくせに、
くだらねぇ愚痴やら思い付きをチンタラ並べて、目障りなんだよ。
文芸書や哲学書や雑誌のコラムに溢れている情報を、
自分の言葉で言い直しただけの日記やらエッセイは、
あまりに無価値で非生産的な自己満足だってことに気付けよ。
何を言いたいんだか分からんボケボケの文章や
無意味なイラストを、何で公衆の面前にわざわざ曝(さら)すんだ。
ネットワーク全体の情報価値を低下させるようなゴミを増やすな。
ヤル気ねぇんなら今すぐホームページ畳んで失せてくれ。
これ以上、名画の展覧会の壁に
ラクガキを増やさんでくれ。』
……と、自分で言った言葉に、自分で傷つきまくって、
勝手にズタボロになって再起不能。
もう立ち直れましぇーん。
そんなナーバスなところもあるカワイイおいらなのだった。
その気になれば、自分を傷つけるのって簡単だね。
自分は自分の弱点を良く知っているから(涙)。
そうかー、『おめーらに、そんなコト言う資格あんのかっ!』
なんて強気な発言を良く耳に、目に、するけど、
彼もしくは彼女は、同じ言葉で自分自身を傷つけても平気なくらい
「強い」人種なんだな。
あえて「鈍(にぶ)い」と否定的な言葉を使ってもいい。
鈍さは、強さのために、必要な要素だから。
おいらは、これまで、唯一自由になる研究材料である「自分」を
外側に曝(さら)し続けることで、哲学的、心理学的な「対象」とし、疎外し、
実験を行ってきたけど、
結局「自分かわいさ」に、表現も、結果的に考え自体も、
「なまぬるい」ものになっていたのかも知れない。
必要なのは、もっと心に届くキツい表現なのかも知れない。
- 『より抽象的な思考によって、
目の前の一人の悩みを解決することは出来なくても、
何千、何万という人に役立つ、
普遍的な哲学を導くことは出来る。』
……という言葉は、おいら自身へのメッセージにするなら、逆に
- 『目の前で泣きじゃくっていた彼女の前で立ち往生した馬鹿野郎が、
現実を放棄してテメェの脳味噌の中へ逃避しただけじゃねぇか』
……と言ったほうがストレートで理解しやすいのではないか。
- 『多芸は無芸って言いますし、熱中できるものが無いとね』
……だなんて半分自嘲的な表現ならば、いっそ
- 『仕事一筋にも生きれず、趣味に突っ走る勇気も無い、
中途半端な生き方がブザマ極まりないぜ。
「多趣味」という言葉の隠れ蓑で、
あと幾つ「逃げ場所」を作れば気が済むんだ。
なにやら広い知識を持とうなんて臆病な目標を持ってる限り、
何かを捨てて一つのコトに尖(とが)ってる奴の魅力の千分の一にも満たないぜ。
辛くなるごとにアッチコッチと逃げ回って、結局誰の記憶にも残らないまま、
歴史の中へ埋もれていくんだろうな。』
……そう、こんな風に言うべきなんだろう。
良薬、口に苦し。うぅ、苦すぎる。
なんでここまで自分をイジめにゃならんのだ。
なんか、ヤになってきた。
「ぽいぞなす・だいありー」は、毒を含んでいる。
何重にも不溶性のカプセルで包んで。
だから、消化されずじまいになってしまうのかも知れない。
多くの人にも、そして、将来の自分にとっても。
- 『意味を生じる時間的・空間的に適正なスケールは、
無限の中のほんの一部に過ぎない。』
…は、情報の海の中でも人の目に留(とま)るメッセージにするなら、
- 『お前の意見も考えも人生自体も、宇宙的規模、いや、
たかが市町村規模と比べても、ゴミ以下の
くだらん、無視できる誤差の範囲内の存在に過ぎん。』
と翻訳した方がマシなのかもしれない。
そうすれば、読んだ人の心の中に、
『アホか、いつオレが、
宇宙規模で有意味になりたいとか言った?』とか、
『だからこそ身近な生活空間や、親友を、
大事にするんだろうが』とか、
何らかの「反駁」「解釈」「思考」が生まれやすくなるだろう。
そうでなければ意味がない。
これまでの様々な「言葉」も、もっと心に届く言葉に
書き直す必要があるのではないか。
それこそが、自分改造計画の後半の一つの方針なのではないか。
- 『「偶然」以外に、究極という名に値する理論は無い』
……なんて、気取った言い方は、一体誰にウケるだろう。
- 『宇宙は、人間の脳味噌と同相である』
……と言って、
ピンと来てくれる人が何人いるだろう。
「オレはそれほど暇じゃ無い!」…そう言われる気がする。
もっと身近な言葉で、ザクッと語ろう。
- 『小難しい事考えたって、所詮、人間が人間である以上、
知ることにも、やれることにも限界があるに決まってるんだ。
目の前の、楽しみや、生き生きとしたものを、
そのまま感じることが重要なんだよ。』
……これでもなんだか理屈っぽい。結局こうなるだろう。
- 『何、辛気(しんき)臭い顔してんだい。パーッと行こうぜ!』
何か、肝心の前提が抜け落ちてしまっているようにも思うけれど、
これが結論なら、それをズバッと言うべきではないだろうか。
理屈付けは後回しで良いのではないだろうか。
全ての情報を正確に伝えたいという考え方は、
情報を受け取る側には"ありがた迷惑"な場合もあるだろう。
自分の責任の範囲に於いて、詳細はズバッと切り捨て、
肝要な部分をバシッとぶつける。
その結果生じる誤解を恐れていては、
結局何も伝わらないのかもしれない。
解釈されることを「待っている」文章から、
積極的に語りかける「メッセージ」へ。
それもひとつの情報の価値だ。
■信じる心
1997.4.29
祝日だというのに朝7時に爽やかに目が覚めてしまった。
あーあ、コレは、午後くらいになって強烈に眠くなって、
仮眠するつもりが熟睡して夜に起きて、
夜中寝れなくて明日の会社がツラくなる、というパターンだな。
パターンと分かっているなら昼寝しなけりゃいいのに、進歩の無い……。
外はいい天気、気温も高い。絶対散歩するぞ、と心に決めた。
でも布団の上に横になったら(←なるなよ)、いつの間にか寝ていた。
けれど、不思議なもので、心に決めておくと、
ちゃんと目が覚める。時計を見ると、まだ午後1時。
今から身支度しても、十分に太陽を満喫できるだろう。
ちょっと体調は芳しくなかったけど、
4月とは思えない初夏のようなこの陽気、
体感しに出かけず家でグズグズ過ごしたら、
あまりにもったいない。
そんなことしたら、今年の夏が全部後手に回ってしまうような気すらした。
昼寝の前に、何度も何度も、
今年一番の暑さと強い日差しの中を歩く自分を想像した。
それは、とても清々しいイメージで、「いいな」、と思った。
目が覚めて、顔を洗ってヒゲ剃って、電車に乗って、
そうして「イメージ」は「現実」になった。
人は誰でも、「こうなったらいいな」というイメージを持っているだろう。
それは、5秒先のことかも知れないし、10年先のことかも知れない。
そして、その「いいな」という感情が、強く、絶対的であるほど、
意識的にせよ無意識的にせよ、
人はそのイメージに向かって合理的に(経済的に)行動するようになる。
それはもう、神秘的と言っても良い程で、
たかだか首から上の一部の脳味噌なんかじゃ到底理解出来ない複雑さで、
「信念」は、体の隅々の細胞まで行き渡るんである。
人間は、無限にある「可能性」の亡霊を、信念に近づくように
どんどん「現実」に結晶化させる。
または、せっかくの美しい可能性を、現実という不細工なものに崩壊させる。
その仕組みは、現代の科学の説明能力をちょっと越えている。
なんにせよ、人がその「パワー」を1つの方向に集中させた時の
「破壊力」というのは凄じい。
もやもやとした可能性の海(虚数空間)を、光り輝く信念の矢が貫き、
その軌跡に現実が結晶する。
まるで、可能性の方から、信念に引き寄せられて、
自発的に崩壊する(巨大な現実を創発する)かのようだ。
そして、それは事実なのだろう。
可能性は、信念によって"連鎖的"に崩壊するに違いない。
「信じる心」のまわりには、自分でもビックリする程の結果が集まってくる。
なんだかフラフラと生きている人には、多くのものは魅き寄せられない。
おいらは、逆に、「信じる心」が確かならば、
そこに迷いが無いならば、必ず「何か」が創発されると思うのだ。
「空を飛べる」と思っても飛べないのは、「信じる心」が足りないからだ。
現代物理学や、これまでの経験に照らして、「やはり飛べないだろう」
と、どこかで思っているからだ。
信じれば、飛べる。
「常識」なんてものは、
信じる心によって、いくらでも覆(くつがえ)る。
誰にとっても光速は等しい。そう信じよう。
この宇宙で一番速いのが光だ。
この宇宙のどんなものも、光速よりも速くにまで加速することは出来ない。
もし、そう「信じた」のなら、もう、その考えと心中するしかない。
この信念を貫くためには、
絶対的だと思っていた"時間"や"空間"の方を歪(ゆが)めざるを得ない。
だが、信じたのなら、とことん行くべきだ。
そうして、相対性理論は完成した。
「可能性」が、どう移ろいゆくのかは計算できる。
その「可能性」は、我々が観測しようとすると、
崩壊して「現実」に結晶する。
どう崩壊するのかは、特に極微の世界では予測できない。
そうだ、観測できないものは存在しないのだ。
論理の対象として良いのは、観測できるものだけだ。
そして、我々は相補的なものの両面を同時に見ることは
原理的に出来ない。
そう「信じた」のなら、それが、どれほど古典力学に反しようが、
「宇宙が美しい少数の法則で完璧に記述できる機械仕掛けの世界だ」
という希望を壊してしまうのであろうが、
とにかくどんな犠牲を払ってでも、
その信念を説明する努力を怠らないことだ。
そうして、量子力学は生まれた。
小さい頃、工作用紙で、電車やらお城やらを作っていた頃、
なんとなく、宇宙というのは究極的には「形」なのではないか、
と感じていた。
素材は関係ない。重要なのは、「形」。
だから、工作用紙でも、うまく張り合わせていけば、
きっと何でも作れる。
悪魔召喚の儀式で使われるような、何か摩訶不思議で神秘的な「形」に
うまく工作用紙を貼り合わせた時、突然、それは動き出すのだ。
そこから一枚でも紙片を剥がすと、もうその物体は動かなくなるのだが。
だから、もし、そんな「形」を幾つか発見して、
それを「単位」としてつなげていけば、世の中にあるものは、
何でも再現できるんじゃないかと思っていた。
形を模しただけでなく、ちゃんと動き、鳴き声をあげる動物を、
自分で作れるような気がした。
ただ、自分の手先が不器用なので、その「単位」になる形は、
精密に作っても、サッカーボールくらいの大きさにはなってしまうだろう。
その「単位」で作り上げた動物は、
地球よりも大きくなってしまうかもしれない…。
今、このことを思い返すと、スケール的に見方は逆になる。
この世にある全てのものをとことんバラバラにしていったら、
ある時、魔法のような単位が現れ、
しかもそこから一部を削り取ると、それは最早、魔法ではなくなり、
単なる工作用紙のような残骸が残るわけだ。
このイメージは、今でもおいらは正しいような気がしている。
魔法の仕組みの一部を紐解いたら、
そこには「たわいもないもの」しか残っていないだろう、という信念。
それともう一つ。
この魔法に支えられて生きている、おいらたち人間には、
この魔法を解く能力は無い、という信念。
おいらが工作用紙で作った、地球より巨大なウサギは、
自分でサッカーボールほどの大きさの「単位」を壊すほど、
器用では無いに違いない。
この信念が、おいらがあらゆる趣味、哲学、宗教、科学を理解する際の
中心核になっている。
だが、これに関しては、おいらの「信じる力」は、大したものでは無い。
世事に取り紛れて忘れる程度のものだし、
自分の行動規範を定めるような力も無い。
強いて言えば、「魔法を解き明かしたい」という飽くなき欲求と、
「与えられた目の前の事実を
ありのままに受け入れることが大事なのだ」
という気持ちを、自分の中に無理なく共存させるのに役立っている。
ともかく、「信じる心」は、様々な考えを引き寄せる核となり、
時に常識をひっくり返すような力を発揮するのである。
ここで、「信じる心」を、別の観点から見てみよう。
つまり、「信じる心」は、その人の行動を規制する、という見方である。
「何かを信じる」とは、それ以外の可能性を薄めることでもある。
逆に言うと、信念を持つ人は、考え方や行動に一貫性が出る。
「オレは絶対に人殺しはしない」というのが「信念」であれば、
その人が実際に人を殺す可能性は、他の人よりもずっと低くなるだろう。
信じる心を持つ人は、その点に関して、「信ずるに足る人」なのである。
信じる心を持たない人を、どうして信頼することが出来るだろうか。
そこで、宗教だ。
「わたしはキリスト教の信者です」と言う人がいる。
この人は、キリスト教の教えにあることに関しては、
他の人よりずっと信用するに足る人だ。
そういう「約束事」と「信頼関係」の上に構築されたのが、キリスト教社会だ。
つまり、キリスト教で言われていることは、
その社会では「常識」である。
ここに、一人の日本人が投入され、こう問われる。
「あなたの宗派は?」そして、この日本人は事も無げにこう答える。
「わたしは無宗教です。」
………これは怖い。
この日本人には「人を殺さない」という信念があるのだろうか。
良くわからない。とにかく未知数で不気味だ。
何かを信じて合理的に行動する気持ちがあるのだろうか。
毎日の、ちょっとした行動で思い悩んだ時、
どんな「常識」を根拠に選択を行うのだろうか。
予測不能な面が多すぎる。
おいらは無宗教だ。
そして、利己主義的な「常識」を「信念」としている。
どんなに利己主義的に行動しても、他人を傷つければ
結局自分も痛い目にあう、そんな実体験を通して軌道修正はしてきた。
けれどそれは、より完全な利己主義へのステップなのであり、
キリスト教の「信念」とは相入れないかもしれない。
おいらは無宗教ではあるが、こんな風に表明することはできる。
「利己主義的な目標を信じ、それに向かって合理的に行動しようとする人間です。」
と。………すっげえヤな奴じゃん、それって(笑)。
言い訳みたいになるけれど、おいらは非常に寂しがり屋なので、
利己的に振る舞うということと、利他的に振る舞うことの境界は
それほど明確でない。
今日はどうしても飲んで騒ぎたいと思う日に、
友人が「カネが無い」と言えば、多少はおごってあげるから来いと言う。
これは、おいらにとって極めて利己的で、かつ合理的なことだ。
困っている人を見掛けて助けてあげるのは、
それを見過ごした場合の良心の呵責を回避するためであって、
やはり「自分自身のため」にやることである。
真に自分が幸福であるにはどうしたらいいか。
それには、自分を取りまく人々の
幸福の総量が増えるように行動すればいい。
もしくは、突然誰かと立場が入れ替わってしまう魔法の世界であっても、
自分が幸福であり続けられるように行動することである。
おいらにとって、これは、非常に論理的で、経済的で、
「正しいと信じている」ことである。
キリスト教は知らないが、これで勘弁してもらえないだろうか。
もし「憧れる気持ち」が無いなら、きっと何も始まらないだろう。
もし「信じる心」が無いなら、人生は愚痴の代名詞になるだろう。
強く信じれば、可能性は爆発的な連鎖反応を起こして現実になる。
そして、信じれば、あなたは信じてもらえる人間になれるだろう。
だからって宗教にハマれって言ってるんじゃないよ。
何かを「信じて」突っ走ってる人がカッコイイ、そう言いたかっただけ。
■自分のための旅
1997.5.4
5月3日、ゴールデンウィーク後半戦スタート。
朝の10時くらいにノロノロと起きだして、しばらくボーッとしている。
おもむろに髭剃りと下着と宗教学の本をカバンに放り込み外へ出る。
東京駅を13時頃出発、新幹線は15時過ぎに名古屋に到着した。
小雨。
目的地は飛騨高山なのだが、宿代を安く上げるため、
名古屋のビジネスホテルで一泊することにしたのだ。
早速チェックイン、荷物を部屋に置いて、駅周辺を散策。
……何も無い街だ。ちょっと華やかな建物があったので
行って見ると「流行健康館」だった。無視。
「泥〜」と書いて「hiji〜」と読む町があった。
HIJKなおいらとしては、親近感を覚え、取り敢えずデジタルカメラで
撮影しておく。
嗅覚を頼りに歩いているとゲームセンターをバッチリ発見。
「電車でGo!」(TAITO)の隠しステージを華麗にオールクリアし、
ギャラリーを沸かす。
駅ビルまで戻り、「きしめん小割三品セット」とビールを所望。
うむ、きしめん、なかなか美味い。
まだ宵の口だったので、「名古屋と言えばパチンコだよねー」と、
ホテルのすぐ隣のパチンコ屋へ突入、玉砕。
テレビ見て風呂入って寝る。
翌朝5時50分起床。眠い。
7時発の臨時特急に乗り込み、朝っぱらから油っこい駅弁を食いつつイイ調子。
高山には9時30分到着、市内観光の時間は有りすぎるほどある。
駅前に降り立ってまず辺りを見回す。「あっ………チャリ!」
貸し自転車がある。観光案内所でもらった地図に縮尺がなくて、
高山の町の広さがわからなかったのと、
そもそもおいらチャリに乗るのが大好きなので、レンタルすることにした。
「ゲシュタルト号」と命名。今日一日よろしくな!
この時点では、ゴールデンウィークの観光名所、
しかも昔ながらの細い路地の多い高山で、チャリがいかに邪魔にか、
というようなことには全く考えが及んでいない。
時間は腐って醗酵するほどたっぷりある。まずは、イイ空気の中、
あさっての方向にチャリをぶっ飛ばす。当然、道に迷う。
ここで初めて案内図を開き、高山の町がエラく狭いことが判明。
町の中心を流れる宮川が高山の地理を理解するポイントになる。
まずは手当たり次第、名所の位置を確認するために、町を一周する。
30分で終了……。やっぱチャリは不要だったかなぁ。
屋台会館で、非常に綺麗で大きく立派な山車を見る。
それはそれは見事だったけど、
ガラス張りの展示室の周囲を一周しただけで「えっ、もう終わり?」
…取り敢えず、デジカメに撮りまくっておく。
同じチケットで入れる桜山日光館にも寄った。
ミニチュアの東照宮、五重の塔など、出来は驚嘆に値する。
しかし、なにゆえ、飛騨に日光のミニチュアが……?
高山屋台会館のすぐ裏手に桜山八幡宮の大層立派な社がある。
何を祀っているのか、ようわからんので、
取り敢えず「いいことがありますように」という
ワイルドカードな願い事をしておく。
さらに奥に急な石段があるので、吸い寄せられるように登っていった。
祠の横に苔むした岩が一つ。「狂人石」といい、
触わると発狂するらしい。
しかし、既に狂っているおいらが触わっても変化は無いと気付き、
何もせず立ち去る。
小高い丘の上に出ると、高山の町を一望できる。
天気予報通り、雲が徐々に切れて晴れ間がのぞいてきた。
高山の町は午後に向けて輝きを増してきた。
ちょいと小腹が空いたので、「みたらしだんご」を1本60円でゲット。
思ったよりも、とろけるような深い味わいがナイスヒット。
活気溢れる宮川沿いの朝市を、自転車を押しながら肩身の狭い思いをして通過。
どっかに置いてくりゃ良かった。
朝市では色々なものを売っていて、見ているだけでとても楽しい。
朝市と言うだけあって午後はキッパリ店を畳んでしまうので、
早起きしてきて良かったと本当に思った。
途中、地ビールを500円で飲む。色の濃いアルトタイプを所望。
ジリジリと上がりはじめた気温の中で、冷えた生ビールがメチャ美味。
即、酔いが回ってヘロる。
高山と言えば古い町並が有名だよな、と、探していると、
「古い町並」という立て札を発見。そのまんまやんけ!
町並みの雰囲気の良さ、チリン、チリンと鈴を鳴らして通り過ぎる人力車、
淡い酒や味噌の香り、そういった風情が、
今風の洋服の観光客がごった返して相殺されてしまっている感じ。
そんな中にあって、着物を来た女性もワリと多く見かけた。
拍手を贈りたい。なんだか必要以上に綺麗に見える。
飛騨高山といえば、飛騨牛に高山ラーメンでしょう。
地元の「天狗」という精肉業者と関係ありげな
「小天狗」というラーメン屋に目をつけたが、物凄い行列。
仕方なくテキトーな中華料理屋に入って牛バララーメンを注文。
うむ、ウマイじゃないか。許す。(←何を?)
オマケにデザートのシャーベットが出てきた。うーん、いいねぇ。
腹も一杯になったところで外に出ると、すっかり上天気になっていて、
とても清々しい。
高山陣屋、陣屋前朝市(ここは午後までやっていた)、郷土玩具館など、
午前中は手薄だった町の南側を中心に回る。
宮川にかかる美しい朱色の「中橋」や、
狭い川幅ながら豊富な草木に囲まれて情緒の溢れる「江名子川」を背景に、
何人かの方にデジカメでおいらを撮って頂いた。
この時点で撮影枚数は80枚を越えていた。
………長い前振りだった。ここからが本題。
午後の強い日差しの中に壮麗な佇(たたず)まいを見せる
飛騨護国神社で、それは起きた。
戦後50年の式で新装した石の柵を眺めつつ奥へ進むと、
地元の小学生が三人、ひしゃくで水を掬ったりして遊んでいる。
あたりの風景を数枚写真に撮り、残り撮影可能枚数を確認しようと、
液晶表示面を見る。すると………
今撮ったのが1枚目、残り159枚、と出ている………!
おいおい、ふざけんな、今まで撮った分、全部消えちまったんかい!?
コイツの頭も真っ白になったらしいが、
おいらの頭も真っ白になった。
特に、その時強く脳裏を過ぎったのは、
おいらのデジカメを不思議そうに見ながらも
親切に撮影してくれた人々の顔。
かなりヘビーな喪失感が襲ってきた。
それは、漠然と、やり場のない怒りのような感情に変質した。
日差しはいよいよ強くなってきた。
そうだ、「初夏の飛騨高山」という絵が欲しいなら、
この日差しの下で全部撮り直す方がいい。
そうしなさい、という神の啓示なのか……?
「違う」
別の誰かが囁いた。「もしこれが啓示なら、もっと別の意味がある」と。
一瞬、護国寺の本堂を振り返る。
強い日差しが作るコントラストの中、あたりは不釣り合いに静かだ。
なんだか訳の分からない衝動に突き動かされ、
おいらはチャリに乗って、めちゃくちゃにペダルを漕いだ。
高山の町の外周を、これでもかと飛ばしまくった。
交差点に差し掛かったら、とにかく青信号の方にハンドルを切った。
チャリを止めたくなかった。ひたすら走っていたかった。
「あーあ、これで今回の旅行は台無しになっちまったよ。」
「何故?デジカメの中身が消えたくらいで?」
「高いカネを払って、わざわざ飛騨高山まで来たのは、
画像コレクションを増やす目的があったからだよ。
昨日からずっと苦労して撮った百枚の写真がパァになったんだぜ?」
「変だねぇ、あんた、今回の旅行は、東京を離れて、
のんびりと『暇』を楽しむのが目的だったんじゃないのか?
何で自らそんなに撮影という苦労を背負い込んでいるわけ?」
「そ、それは……」
「結局あんた、暇を楽しむことが出来ないんだねぇ。
何か他人にも分かる成果を残さないと心配で心配で仕方ないんだ。
結論から言っちゃおう。あんたの孤独感の解消の仕方は、
すごく歪(ゆが)んでいるよ。」
「家に閉じこもってテレビゲームやってるよりはマシだろう?」
「そりゃそうかもしれん。でも、あんた、
それと比較する段階は終わったんだよ。
オレはもう、あんたが外へ飛び出すためのダシに使われるのは
ゴメンだよ……」
「……え?」
愛機デジタルカメラCP-100。
増設メモリを含めた原価7万円は、とっくの昔に償却して
3倍くらいお釣が来ていると思っている。
夏の強い日差しの中で外房の海の潮風に曝(さら)したり、
秋の木枯らしや冷たい雨や紅葉を撮り、
世界最大のジェットコースターで一緒に落下したり、
冬のゲレンデで雪まみれになり、
春、いくつもの花々を写し、四つ葉のクローバーを河原に探した。
そのデジカメは、今日はじめて自らの記憶を消し去った。
おいらの「自分改造一ヶ年計画」の開始から、
ずっと共に歩んできたデジカメは、
その計画の終結を2ヶ月後に控え、
当初の目的通り四季を撮りきるところまで懸命に頑張って、
今日、静かに、自らの役割が終わったことを宣言したのだ。
高山市街を大きく一周し、更にまだ自転車を漕ぎ続け、
上昇一方の気温の中で汗だくになり、
やっと気持ちが落ちついてきた頃に、おいらも静かに呟いた。
おいらの自分改造計画の起爆剤として利用してきた、
「言い分けの道具」として黙って使われてくれたデジカメに、
「ありがとう。そして、さようなら。」……と。
日はまだ十分高い。もやもやとした気持ちは吹っ切れていた。
おいらは、おいらのために、おいら自身の目で、もう一度
イチから高山の町を見て回った。
するとその時、周囲の景色に劇的な変化が起った。
これまで「写真に切り取られるための静止画の断片」の集合であった世界が、
一度に、連続した風となって網膜に流れ込んできたのだ。
「情報」としての飛騨高山を東京に持ち帰ろうとしていた自分は、
結局、仮想現実としての飛騨高山を徘徊していたに過ぎなかった。
全ての景色の断片が、ヌルリと相互に溶け合って、
「ひとつながり」のものになった。
おいらは、はじめて、この町を「感じている」と思った。
無我夢中でチャリを走らせた。「すのり川」の岸を延々と飛ばし、
古い町並も筏橋も、朝市をやっていた場所も、
鯉がたくさん泳ぐ清流・宮川から、
特に名所は無いが味のある雰囲気の堀端町も抜けて、
とにかくメチャクチャに高山の町を駆け抜けた。
その度に、町が実在のものとして自分に取り込まれた。
祭り囃子が聞こえる。御神輿の一群が通り過ぎる。
そしておいらは、今更のように、この町に、
こんなにもたくさんの「笑顔」があふれていることに気付いた。
おいらは、カメラ越しに、人の顔は全く見ていなかった。
無断で人を撮ってはいけない、という無意識のブレーキが、
こんなにも人と自分を遠ざけていたなんて……。
橋の上で、公園で、店先で、いろんな人と短い会話をかわした。
城山公園まで自転車を押して登り、そこから東山遊歩道に入った。
急な山道をどんどん登る。汗をかくことが楽しくて、
早足でどんどん登る。
市街と違って、人のまばらな東山の奥で、
おいらはほとんど馬鹿げた量のツツジの大群生に出迎えられた。
無理の中にぽっかりあいた平地のベンチで、
しばらく日光浴をしつつウトウトした。
日も傾きかけて、偶然、牛串焼きがまだ売り切れていない店を発見。
すこし塩辛かったが、すごく美味しかった。本当においしかった。
レンタル自転車屋にゲシュタルト号を返した。
彼は単なる貸し自転車134番に戻った。
今、5月4日22時4分、
名古屋発東京行新幹線のぞみ28号に乗ったところだ。
1泊2日、実質1日限りの旅行だったが、結果は上出来だった。
一見無関係な複数の事柄が、まるで1つの目的に合わせて起ることを、
カール・グスタフ・ユングは「共時性現象」と呼んだ。
自分改造計画も、偶然にも、うまいこと、終結に向けて進行している。
おいらは、純粋に自分自身のために楽しむことが出来なかった。
いつも何らかの言い分けが必要だった。
「堕落じゃ無い、何かの役に立つ。」
「自分勝手じゃ無い、皆との接点は確保してある。」
しかし、もう、楽しむことに言い分けはいらないだろう。
この一編のエッセイを、故・愛機CP-100に捧ぐ。(←まだ壊れてねーってばよ)
そして、この素晴らしいデジカメと、これを製造したメーカーさんに、
心をこめて、ひとこと、言わせて頂きたい。
壊れてんじゃねぇよ、コンチクショウ!!
■しあわせのかたち
1997.5.17
一体、おいら、どうなったら「最高に幸せ」になれるのか?
世界で一番の金持ちになったら満足か?
質素でも、毎日ぐうたらして、ゲームでもやって、
好きなだけ寝てられる生活が一番いいか?
絶世の美女を侍(はべ)らせ、歴史上にも類を見ない
一大ハーレムを作り上げれば幸せか?
絶対そうはなれない者の負け惜しみではなく、
おいらは心底、その限界状況を「不幸」だと想像する。
(ほんのちょっと、負け惜しみかも知れない(笑))
人間は、一般に言われるどんな恵まれた状況であっても、
それが"硬直化"し、"静止"しているならば、
幸せとは感じない。
……というか、人間は何らかの「変化」が無いと、
何も感じることは出来ない。
カエルの目には、静止した空間は真っ暗であることに等しい。
自分が動くか、周囲で何かが動いた時に、はじめて「見える」。
人間の心も、同じなのだ。
人間は、幸福を獲得しつつある、まさにその時に幸福を感じる。
幸福が増えていく、という「変化」の方が、
本当は幸福と呼ぶに相応(ふさわ)しい。
……しかし、人間は、誰が何と言おうと、高々、有限の存在だ。
無限に幸福を獲得し続けていくことなど、出来はしない。
それどころか普通、「幸福」は何も無いところから
湧いて出てくるものでも無い。
巨視的に大雑把には、ゼロサムゲームだ。
敢えて「幸福と不幸は等量だ」と言ってしまっても構わない。
- 幸福であり続けることは幸福ではない。
- 人間が幸福を感じるのは、
幸福を「獲得しつつある」という「変化の過程」に於いてである。
- 一方、幸福は無限に生まれ続けたりはしない。
- 長い時間で見れば、幸福と不幸は等量だ。
- 結果的に、人間は、幸福であり続けるために、
不幸であり続けなければならない。
(幸福と不幸を交互に味わい続けなければならない。)
人間は、変化、差異に反応する。
人間は、絶対的な量を知覚することは無い。
その証拠に、宇宙を含みきる高次の概念や、
クォークを遥かに下回る微小なスケールは、
それが無限に続くにもかかわらず、おいら達は
知ることも感じることもできないし、特に感じようとも思わない。
おいら達が感知することが出来るスケールでの変化にのみ、
おいら達は何らかの関心、興味を示すのだ。
プラスの変化を幸福と呼び、マイナスの変化を不幸と呼ぶならば、
大きな幸せを獲得することは、大きな不幸を背負い込むことに等しい。
趣味にのめり込むこと然り、金儲けや出世に専心すること然り、
異性と付き合うこと然り。
結局、大きな幸せを得るということは、
それと対になる不幸をぐっと飲み込むことであり、
デカい振幅で幸福と不幸を行ったり来たりしなければならないことであり、
つまり、獲得しようとする幸福のために「そこ」に
自分のエネルギーを注ぎ込み、
デカい振幅のノイズを生み出すことである。
結果、幸福-不幸は、(個人にとっては)ノイズである。
幸福とは、ノイズの中に現れる、偶然上り調子の部分の別名だ。
コインの「裏」と「表」は、全く別々のものどころか、
もともと1つの物を、ある観点で無理矢理分割した結果の名前である。
同じように、おいら達は、『時間という先入観を捨て去る』だけで、
いとも簡単に、「生と死」、「幸福と不幸」は、等価値である
ということを了解できてしまう。
片方が「無い」とすれば、もう片方も意味を失ってしまう。
「幸福」と「不幸」は、ある領域に注ぎ込んだエネルギーの両面だ。
例えば、彼女とのラブラブな時代を思い起こせば、
そこにあったのは当然「幸せ」だけではなかった。
ラブラブな時代の幸福は、
彼女との関係につぎ込んだエネルギーの一面に対する別名だ。
無論、もう一面には、「不幸」という別名が付いていた。
エネルギーを注ぎ込んでも、幸福だけが増すわけではない。
エネルギーを注ぎ込めば、ノイズが大きくなるだけだ。
勿論、大きなノイズの中には、大きな「幸福」も含まれているのだが。
- あなたが「不幸を嫌う」タイプの人間なら、ノイズを小さくすれば良い。
何事にも積極的に取り組む必要は無い。平凡が一番だ。
但し、当然、大きな幸福が唐突に舞い込んだりしてくることも
無いと考えて間違いない。
- あなたが「幸福を求める」タイプなら、ノイズを大きくするしかない。
自分が幸福を求めたい領域に、思いっきり自己のエネルギーを叩き込むのだ。
但し、勿論、反動として現れる手痛い不幸を受け止める度量が必要である。
ところで、おいらは、どういう領域にエネルギーを注いで来ただろうか。
振り返って考えるに、「本能の欲求を成就させるために
エネルギーを使うこと」が下手だったように思う。
おいらは、「自分の内側から沸き上がってくる本能」に、極めて鈍感だ。
小さい頃から受験戦争の渦中に放り込まれていたのが原因かも知れない。
中学生の頃から企業社会に放り込まれて
雇用関係や経済原理の洗礼を受けたのが原因かも知れない。
いずれにせよ、自己の本能を抑え、その結果、
やっとのことで「他人に褒めてもらう」という過程を
繰返し繰返し体験してきた。
受験だとか、社会だとか、人間が勝手に作った奥の浅い特定の規則の中で
行動を最適化するゲームには、おいらは慣れている方だろう。
狭いルールの範囲で脳味噌をあれこれ使うのが得意なのだ。
しかし、このルールがもっと少なくなると、
おいらは途端に、どうして良いか分からなくなり、立ち竦(すく)む。
ルールがどんどん緩和されて自由になったら、
最早、自分が受験やら企業やらで学んだゲームの解法など役に立たない。
本当においらが、完全に自由な人と人との波の中に投げ込まれたら、
狭い領域で培(つちか)ったゲームの攻略法など信じられない。
そこでは、何十億年の進化の中で鍛えられた、自分の本能を信用するしかない。
(しかし、人間性とか物理法則といったルールすらも無い
もっと緩和された自由、乱雑の中では、本能でさえも無力である。)
とある全面的もしくは日常的・局所的な限界状況で、
本能の声に素直に耳を傾けることができれば、
人間は「本来持っている能力」を利用することができる。
おいらには、その能力が欠如している。
あなたは、学校教育や社会生活のような
狭い(拘束力の強い)ルールの中で積み上げた経験に邪魔されずに、
自分の本能の声を素直に聴くことが出来るだろうか。
原子力発電所は是か非か。人間は本質的に戦争を回避することは出来ないのか。
死刑制度は廃止するべきか。男女は平等か。体罰は無条件で禁止すべきか。
あなたの本能は、あなたに何と語りかけているか。
残念ながら、おいらには、狭くて浅い「知識」が邪魔をして、
「本能」の声が聞こえてこない…。
おいらは本当に少しヘンなのだ。(少しか?)
たわいもない例だが、おいらは外食をすると、別に体が欲してもいないのに、
どうしても缶ジュースが飲みたくなるのだ。
学生時代、小遣いが著しく制限されていたおいらにとって、
外食というのはそれだけで心ときめく贅沢で、
その贅沢さを、食堂やレストランで出てくる
カルキ臭いコップ水を飲んで締めくくってしまうことは、
折角の心のときめきを最後で台無しにしてしまう悲しいことだったのだ。
食後に喉が渇いていても、おいらはまずい水には手をつけない。
逆に、喉が渇いていなくても、まるで義務のように、
炭酸飲料や缶コーヒーを無理して買って飲んでいた。
こうして、外食というイベントは有終の美を獲得するのだった。
最近、本能の声が素直に脳の隅々に行き渡るように、
抑制を解こうと努めるようになったら、
「食後に缶ジュースを飲まなければならない」という呪縛が解けて、
喉の渇きに対する本能からのシグナルが良くわかるようになった。
こんな些細な心理的な葛藤であれ、
社会の中で金を稼いで生活していく為の葛藤であれ、
おいら達は、本能の衝動と、社会性の理屈の狭間で、
自分に一番心地よい居場所を探して彷徨(さまよ)っている。
社会の中で器用に生きていくことにエネルギーを集中するか。
理屈抜きの本能の領域に全部のバイタリティーを叩き込むか。
実際には、両極端ではなく、一人一人がエネルギーを注ぐ
バランスを考えている。
様々な音の周波数(高低)の成分に、
色々増幅率を割り当ててみて、
一番気持ち良い音のバランスを創造する(イコライジング)のと同じく、
おいら達は、社会的領域から本能的領域まで、
どこにエネルギーを叩き込み、どの領域でのノイズを増やそうか、
日々決めている………または、選びかねている。
- 本能的領域にエネルギーを注ぎ、戦い、性欲、芸術、賭博の世界で、
激しいノイズのうねりを楽しむのか。
- 社会的・経済的ルールの支配する世界のノイズを増やして、
仕事に、経営に、金儲けに、学問に幸せを見出すのか。
- 全部の領域で極限までノイズを絞って平穏に生きるのか。
おいら達が持つ時間もエネルギーも、誰が何と言おうとそれは有限でしかない。
そのエネルギーを、どの領域に、どれくらい振り分けるのか。
そのスペクトル・グラフ。
これが「しあわせのかたち」である。
■あなただけを見つめて
1997.5.25
「信じる」とは、「それ以上考えない」ということだ。
例えば、恋人のことを「信じる」とは、
相手が本当に自分のことを大事に思ってくれるか、
浮気をする可能性がないか、などと考えることを
止めることだ。
人は常に何かを信じて生きてる。
それ以上「考えない」で正しいと見なしてしまうこと。
ある対象領域を、それ以上考えずに目をつぶってしまうこと。
………そうしなければ、人は生きていけない。
拒絶したり、無視したり、忘れたり、信じたりすることで、
人は、自分が考える範囲を、広くなり過ぎないよう、
自分が手に負える範囲に保ち続ける。
学生の頃、恋に悩み試験に追われていた時、
社会人になって仕事や家族や上司や部下の間で苦悩する時、
社長になって何百億の金を動かし何千の人の生活を守ろうとする時、
人はいつも、複雑に絡みあう幾つもの問題を前に、色々と考える。
しかし、適正に判断するために一度に見渡せる領域、その広さは、
子供だろうと学生だろうと一介のサラリーマンだろうと
大企業の社長だろうと、大した違いは無い。
むしろ、年をとった方が頭の巡りが悪くなるから、
同時に考察の対象とすることが出来る思考範囲は、どんどん狭くなる。
ただ、経験の少ない若者とは違って、
(大抵は)豊富な経験を持っているので、
「考えなくとも正しいと決める対象」(つまり「信じる対象」)が、
より抽象的・普遍的で、より多い(ことが多い)。
どんな社会的地位にあろうと、人間は高々有限の存在だから、
その限られた脳味噌で考えられる程度に問題範囲を狭める必要があり、
だから、何かを忘れ、何かを盲目的に信じる必要がある。
常にあらゆることを「何故だろう」と考え、
明確な理由を模索するのが哲学的態度ではあるが、
あらゆる哲学も、有限の存在である人間が行っている以上、
「何かに目をつぶって」「何かを信じ込んで」理論を構築している。
哲学が宗教と唯一の違うところは、「分からないこと」の輪郭を、
「理論的に明確に描き出そう」とする知的態度だけである。
宗教では、神の領域を理性で縁(ふち)取ろうなどとは考えない。
一方で哲学では、「人間には分からないもの」の輪郭を、
「人間の理性」で解き明かそうとする。
だから、あらゆる哲学は必然的に(定義から自明に)挫折する。
「生と死に挟まれた、人生の一回性は、
我々にとってどんな意味があるのか」
……たとえば、こんな問いに対して、
様々な哲学が独自のやり方で問題の再定義をし、
その定義の上で解決を試みようとする。
しかし、おいらは「どの哲学が最も正しいのか」について考察するのは、
最近飽きてきた。
何故なら、究極の回答は「無意味」であると既に分かっているわけだし、
「意味」は哲学の領域に必ずしも属さない問題だからである。
経済理論が経済政策として実践されるように、
哲学も「意味の領域」で実践されなければならない。
哲学を、現実の生活の中で展開すること。
いわば、実践哲学。
そこには、これまでの哲学とは異なる形式と語彙が必要だろう。
これが、おいらが今、興味を持っていることである。
物事を論じるには、適正な対象領域の「範囲」というものがある。
たった一つの原理が全ての範囲を有意味に説明することはできない。
(無意味な一つの原理が全ての範囲を説明することならできる。
例えば、世の中の全てはオレの夢だとか、
世界は無限に広がる乱雑の中の偶然我々が認識している部分だ、など。)
物理法則で人の心を説明することは少なくとも今のところ
不可能なことであり、従って認知論的、心理学的な語彙は、
どんなに物理が進化しようと、当面は必要であり続ける。
(素粒子の振る舞いが完全に記述されるようになっても、
「楽しそうな顔をする」とか「賑やかな方向へ歩く」という言葉が
説明できるわけではない。)
だから、科学万能の時代でも、宗教は人の心に必要なものだ。
科学か、哲学か、宗教か。それは、現実を「どの次元に投影」するか、
つまり他の「どの次元を無視」するかの選択であって、
相互に還元可能な性質を持つものではない。
ある種の人々の精神の安定のために、宗教は、
科学や哲学では理解不能なものを提供する義務がある。
そして、宗教は宗教でしか説明できない問題領域を持っているべきだ。
しかし、この科学時代に、宗教はかなり無力化してきているようだ。
頑張れ宗教。
おいら達は、あるものを見る時、何かだけを見て、他を見ない。
裸婦像を、絵の具の堆積と見るか、
生々しい女の裸のエロティシズムと感じるか、
画家が何故この絵を描いたのか、そのメッセージを読み取る対象とするか。
それは、同じ物への異なる次元、異なるレベルでの解釈である。
そして、あるレベルが他のレベルの見方で
全て説明され切ってしまうものでは「ない」。
同じように、哲学には、哲学が解決するのに相応しい問題領域があり、
哲学が何でも解決できるわけではない。
宗教も科学も同じだ。
もともと「知を愛する(フィロソフィー)」分野として渾然一体だったものが、
哲学、科学、宗教と分岐したが、最近活発になってきた学際的領域である
宗教科学、科学哲学、宗教哲学の発展は、
各々の問題領域では説明できないものの間を埋めようとし、
再び全体性を取り戻す大きな流れの現れに違いない。
こうして、様々な問題領域に対応して、固有の学問が相補的に発生する。
何か1つの学問が、全ての問題領域を説明しきることはない。
繰り返すが、全ての問題領域を説明する資格のある理論は
「無意味」だけである。
そして、世の中は本質的に無意味である。
意味は、無意味の中で、何かを信じること、
何かに目をつぶることで生まれてくる。
学問は、何かを信じ、問題領域を絞り、他には目をつぶることで
意味あるものになる。
あなたが何らかの知的態度を取るならば、
その時、「何を盲目的に信仰しているのか」「何に目をつぶっているのか」を、
出来る限り明確にしようと努力するべきだ。
そして、それこそが知的態度の本質だ。
考えることを諦め、信じるところに「偏り」、即ち「意味」が生じる。
(完全な均一は無意味であり、偏りがあって我々は始めて何かを感じる。)
- 人は、無限の可能性の中から、一部を無視し、一部だけを信じることで、
「可能性」を「現実」に変質、崩壊、結晶化させる。
- あらゆる学問は、ある部分を無視して得られる
特定の問題領域を解決するために存在する。
解決しようとする問題の領域と学問は「卵と鶏」の関係であり、
また、相補的である。
学問だけがあっても、問題領域だけがあっても意味が無い。
問題領域は、解決されるために(人間が勝手に)設定する。
- 自然科学、宗教、哲学は、
その問題領域を「人間が恣意的に」作ったのであり、
一方がもう一方を完全に説明してしまう、といったような従属関係には無い。
物理法則がどんなに精緻になろうと、それで精神活動や宗教の本質が
解き明かされるワケではない。
物理学や純粋数学も絶対的な真理ではなく、公理に於いて宗教的である。
(公理を「無条件に正しい」と信仰している。)
- 説明は常に一面的である。
自分が説明を行おうとする時、どの立場に立って説明するのか、
何に「目をつぶる」ことで論旨を展開しようとしているのか、
専門馬鹿にならないためにも、常に把握しておく必要がある。
ここで、仕事上のトラブルを想定して、
知的態度の選択に関して少し具体的に考察してみよう。
問題解決に向けて周囲の人々を動かそうと
(例えば管理者やリーダーが)何か行動を起こす時、
どんな知的態度を取るのか。
- 問題が理論的に解決可能か否かを論じることが重要なのか
- 具体的な解決策を提示できなくとも理論上1つは解があることを
説明できれば(もしくは絶対不可能であることを証明すれば)終わりなのか
- 理論的には十分可能だと既に分かっていて、
ヒト・モノ・カネが無くて困難なのか
- 無理と分かっていても一致団結して前進することが大事なのか
つまり、科学的立場、心理学的立場、経済学的立場、宗教的立場の、
どれを採択して発言しているのか。
……これがサッパリ見えない発言をしばしば聞く。
「とにかく問題を解決してくれ」と。
そういう主張は、「ハラが減った、メシ持ってこい」という
子供のダダと変わりがない。
主張に構造が見えない。行動原理が見えない。
だから誰も心底協力しようとは思わない。
何十年も人生経験を積んだ上司でも、
子供のダダ程度の発言しかしない場合がある。
そういう時、部下は、制約条件と方針をきちんと問い質すか、
または自分なりに行動指針を持ち、
上司の欠損部分を補完してあげようと努力することになる。
特に仕事がうまくいっていない時ほど、自分が今、何に目をつぶり、
何を信じ、どういう方針、行動原理で仕事を進めているのか、
意識していることが重要だ。
そうでなければ、「なんだか分からないが、仕事がうまくいかない」
という状況が延々と続くだけであり、
皆が子供のようなダダを主張しあい、
乱雑な問題はいつまで経っても乱雑なままだ。
仕事に限らない。乱雑な状況を脱却し、行動に指針と意味付けを与えるのは、
何かに目をつぶり、自信は無くとも何かを信じ、
その「偏り」の生み出すパワーの下に、突っ走っていくことである。
おいら達、人間の、たった一つの能力とは、
完全で無限な乱雑の一部を「敢えて無視」したり、
「一部だけを見つめる」ことが出来る力である。
おいら達の存在理由の全ては、絶対的な無限の乱雑の中で、
何かを信じ、何かの偏りを生じさせ、結果、何かの意味を生み出すことだ。
おいら達は生まれながらにして異端児である。
生まれる、ということは、何と異常なことなのだろう。
生まれたということ自体が異常であり、逸脱であり、だからこそ「意味」である。
エデンの園は無意味だ。
善悪の実を食べ知識を身につけ、人間は「偏る」ことが出来るようになった。
美しい、無と呼んでも差し支えない対称的な【可能性】の波動を、
人間は、知識によってブチ壊し、醜く非対称な【現実】に結晶化させる。
残念ながら、完全で、万能な理論を追い求めるその究極の先には
絶対的な無意味だけが待っている。
おいらたちは、限られた時間を限られた能力で生きる存在だ。
だから、一部分だけを信じて疑わず、他の何かには目をつぶり、
盲目的に突き進むことしかできない。
その結果、宇宙に溢れる無限の「可能性」から、不細工な「現実」を生産する。
それが、おいら達の生きる意味だ。
神を信じろ。そこに意味は生まれる。
オレを信じるな。そこに意味は生まれる。
彼、彼女を疑うな。そこに意味は生まれる。
自分の仕事に無根拠なプライドを持て。そこに意味は生まれる。
昨日より一つ余計に何かを頑張れ。そこに意味は生まれる。
生き続けて可能性を現実に崩壊させろ。そこに意味は生まれる。
おいら達に、それ以上の存在理由は、無い。