意外と議論に関係あるメモ

last update 2012.5.4
人間同士の議論を、より有意義なものとするために
限られた人生の時間を泥沼議論で無駄にしないように。 議論のための議論を繰り返さないように。 僅かな自尊心を保持するために価値ある結論を捨てないように。

良い議論のためのガイドライン/ 論理的であるために/ ネット上の議論における注意事項/ 台詞の真意/ ディベートのルール/ 『7つの習慣』に見る、良い議論へのヒント
■良い議論のためのガイドライン

  1. 自尊心に執着しないこと。
    事実、表面的な言葉遊びによる「自尊心の確保」のための手段として、 多くの時間と言葉が費やされている。 大抵の場合、大した思慮もなく相手を悪し様に言うことで、 何か自分が偉くなったように錯覚したいというエゴイズムが根底にある。 その一方、感情的なやり取りを横から眺めると面白いのも、 「こいつら馬鹿だなー」というように、傍観者の自尊心を満たすからである。 コロシアムでの残酷な殺し合いに興じる観客の気持ちに似ている。 これらは娯楽では有り得ても建設的・生産的な結論を生むことは希である。
    また、自分が間違っていると気付いたら、直ぐに素直に認めること。 有意義な結論を得るはずの議論が、 いつのまにか「自分は間違っていない」ということを 主張することが目的になってしまわないように。 また、もし、自分の間違いを正すことが出来たのであれば、 必要に応じて相手に感謝の気持ちを述べてみよう。 相反する立場を取っていた相手に「ありがとう」と素直に言うのは難しい。 「ごめんなさい」と言うのは更に難しい。 しかし、執着すべきは自尊心ではなく発展的な議論と価値ある結論である、 ということを忘れてはならない。

  2. 主観的感情を客観的内容に優先させないこと。
    人格攻撃は、最もポピュラーな議論の泥沼化のきっかけだ。 内容よりも「相手をやっつける」ことに執心する失礼な発言は 勿論避けるべきである。 その一方、相手の発言は人格攻撃では無いのに、 受け手が人格攻撃を受けたと勘違いし、 過剰に反応することがある。 つまり、発言者が「客観的内容」について攻撃している場合にも、 受け手が勝手に「人格」を攻撃されたと思い込んで 頭に血が上ってしまうことが案外多い。 発言者が、よく物を知っていて、有能な人であるほど、 端的な言葉でビシッと問題を指摘してくる。 悪気は無いが言い方がキツい人というのも多い。 (特に電子メールや伝言板などの文字だけのメディアを使う場合は、 そうなってしまいがちだ。) その「言い方」のインパクトが強いため、 受け手の方が「お前は駄目な人間なんだ」と言われている気がして 沈んだり逆上したりしてしまうことがある。
    受け手は、言葉の「表面的な印象」を除去し、 あくまでそこから「発言の客観的な内容」だけを取り上げるよう 普段から意識しておく必要がある。 本当に自分のためになる発言に、イチイチ逆上していては、 その度に、自分が向上するチャンスを少しずつ失っていることになる。 この「実質的な内容以外を無視するフィルタ」を鍛えれば、 たとえ自分に対する個人的な誹謗・中傷にしか見えない イヤミな発言からでさえ、 自分のためになる、勉強になる「客観的内容」を拾い上げることが 出来るようになる。

  3. まずは相手のコンテキストに従うこと。
    相手の主張のうち、同意できる部分については、 面倒でも自分の言葉で繰り返して見ると良い。 これによって、何を共有しているかが分かり、 同時に何が食い違っているかがハッキリとしてくる。 こうして「議論の焦点」の在処(ありか)も明確になる。
    よく見掛けるのは、意見の相違ばかりを強調する人。 「そこは違うね」「こういう例外もあるじゃないか」 とばかり発言し、多くの人から反感を買い、集中砲火を浴び、 そうなってから「いや、その点については、 最初から反対はして無かったじゃないか」と釈明することになる。 それくらいなら、最初から、少々の労力をかけて、 「何を認め、何を認めないのか」 その両方を表明する方がずっと効率的だろう。 相手のコンテキストを無視して自分の意見ばかり述べたがる人は、 議論に参加しているというよりは独り言を叫んでいるのであり、 生産的な結果を見つけたいのではなく、 単に自尊心を満たしたいのである。
    グループAとグループB間のディベートで、 第三者グループCが審判を行っているとする。 通常、Bグループが反駁を行う時、 それがグループAの主張のコンテキストに沿っていないならば、 言っている内容がどんなに立派で正論であっても、 Bグループは反駁を行ったことにならない。 グループAは、「反駁に対する反駁」に於いて、そのことを指摘できる。 その指摘が納得できるものである場合、 審判であるグループCは、グループBの反駁を加点対象としない。 つまり、グループBは、このディベートのグループAへの反駁に於いて、 何も言わなかったのと同じになってしまうのだ。 グループAの主張の主旨とコンテキストに沿った反駁が出来なかったのは、 そもそもグループAの言っていることが理解できていないからで、 ディベートに参加できていないも同然、と見なされるわけだ。 反駁を行う時は、相手の主張のコンテキストをキチンと理解しているのか、 常に自問するようにしよう。

  4. 単なる見地の違いを議論の対象にしないこと。
    意見が違うからと言って、 どちらか一方が間違っているとは限らない。
      疑問:「あのポストは、どのようなものか?」
      説明A:「あのポストは直方体だ!」
      説明B:「いいや、あんたは間違っている。 あのポストは赤いんだ!」
    ある疑問に対する「説明」は、 その説明が属する「語彙のセット(学問領域)」 「意味の次元(意味の相)」によって、色々に成立し得る。 そして、それらが全て正解である(無矛盾である)としても 何ら不思議ではない。
    唯物論的な、「人間は単なる機械だ」という「説明」があり、 それが極めて強力で説得力があるからといって、 「人間には愛する心がある」という「説明」を、 どうして無力化することになるのだろうか。 人間のあらゆる行動を物理学的に記述出来るとしても、 物理学の語彙で愛は説明できないだろう。 つまり、物理的実在が、ある程度以上の複雑さを持つことで、 「心」のような意味の相を形成しても全く不思議ではない。 どちらの次元の説明も有意味で無矛盾であるなら、 どちらか一方を選択する必要は、もともと無い。
    なお、本当に2つの説明が相反する(どちらかが正しければ もう一方は間違いになる、つまり排他的である)場合には、 意見を単に主張しあうだけでなく、どちらが正しいかを実証する 具体的な方法を提案するべきである。 もし、そのような実現可能な提案すら出来ないのであれば、 無責任な絵空事を捲くし立てているだけか、 現状に対する不服を愚痴ってるだけか、 または、もともとの問題が無意味なのだ。 代替案や反証可能性も提示せずに批判ばかりする事は避けるべきである。 そういう癖をつけると、実は自分と相手の意見が相矛盾しているのではなく、 単に視点の違いだったのだ、と気付くことも多い。

  5. 解答不能な問いを混入させないこと。
    「時間に始まりはあるか」「宇宙に外側はあるか」 「人間や生命の存在理由は何か」「死後の世界はあるか」……… こういった、素朴で、昔から言われ続け、答えの出ていない問題は、 議論のための議論になりやすい。 議論を呼び起こすために、こういったタネを投入する故意犯もいる。 そうでなく、「神は存在するか」といった難しい問題を聞いて、 興味が湧いて、つい素朴に質問を投げかけてしまう場合、 その前に、「それは本当に自分に必要な問題なのか」 「今の議論を進めるのに有意味なことなのか」と考えてみよう。 良く考えると自分にとってはどうでも良い問題であれば、 問い掛けない方が良い。 神がいてもいなくても、今の生活にも感情にも影響が無いならば、 問い自体が無意味であると考えよう。 逆に、もし自分の感情や、今後の行動様式に影響を与えるならば ………例えば極端な例として「神がいないならば、俺は自殺する」 と考えているならば、そのこと自体もあわせて質問するべきである。 そうすることで議論の範囲が狭まり、 「無意味な抽象論が繰り返されて何も答えが出ないままに終わる」 ということも少なくなるだろう。 そして、大抵の場合は、「神がいるかいないか」は、 今自分が自殺しようかどうか考えていることとは独立の(無関係な) 問題であることが、質問をする前に分かるはずだ。
    もしくは、その「解答不能な哲学的問題」が、自分の感情や、 今後の生き方に対する意志に、深く結びついている、ということが ハッキリ分かることもあるだろう。 そうなったら、その問題には真面目に取り組む価値があり、 是非とも「問い」と「実感」との結びつきを大切にしながら 『自分なりの納得のしかた』を育てていくのが良い。 それは、一人一人にとって独自の立派な哲学になるだろう。 (それゆえ、他人に押し付けるべきものでもない。 また、自尊心を満たしたいだけのピラニア論客に、 そんな大事な「問い」をエサとして与えるのも勿体無いことだ。)
見方を変えれば、以上の項目の全部「逆」をやれば、 簡単に議論を泥沼化させることが出来る。
  • 何か答えを言う人に片っ端から反論のみをぶつける。 相手の意見のコンテキストは故意に軽視、無視し、 自分の意見だけを繰り返し強調して、 相手の意見など取るに足りないと言わんばかりの態度を取る。
  • 客観的内容より主観的感情を重視する。 「そんなことを言うような程度の人間なら、お前という人間は 一生大したことも出来ないまま死ぬだろう。」などと、 人格自体を徹底的に貶(けな)しまくる。 相手の些細な間違いをしつこく繰り返し指摘し、 相手が誠実に客観的内容を重視して非を認めても、 その間違いを犯した原因をしつこく繰り返し追究し、 感情を逆撫でることに専念する。
  • 自分の実生活と結びつかない抽象論で、 具体的な答えも出そうになく、 古来から諸説紛々としている問題を混入させる。 自分の素性は決して明かさず、いつでも煙に巻けるようにする。 いかなる決着も得られないよう、周到に用意する。
………時々見掛けますね、コンナヒト………

■論理的であるために (2012.5.4) よりロジカルで効果的な議論のために:
  1. 主張と論拠を繋ぐ「推論過程」の厳密さと端的さを重んじねばならない。
    (a)方針 (b)前提・定義 (c)事実・論拠(d)結論・主張 を混同してはならない。
  2. 可能な限り情報源を公開し、公平な議論の場を作るべきである。
    隠し持った情報源から情報を小出しにして優越感に浸るような行為は慎まねばならない。
  3. ロジカルな主張とは、論理的思考力のある相手に理解して貰える主張である。
    伝わらなくてもいい、言いたいことは言う、という態度は慎まねばならない。
  4. 自分でも上手く言い表せない、ロジカルに主張できない、という事態を、 相手の無知・無理解・性格・曲解のためだ、と、責任転嫁してはならない。
  5. 自分の発言内容を常に自己客観視できねばならない。
    自分の発言内容に、それがたまたま自分の発言であったという理由だけで、固執してはならない。
  6. 自分の正しさや一貫性を確保することを目的に、反論や批判に応じて 後から主張内容を恣意的に追加・変更・抽象化・局所化してはならない。
  7. 良く検証されていない思いつきを、直接説明を避け続け、自尊心のために 勿体ぶったり、僭称したり、大言壮語したりするのは控えねばならない。

■ネット上の議論における注意事項
ネットの特性 対策
文字だけの議論であり、行き違いが多発する 用語を、なるべく標準的、辞書的な意味で使う。 (「自分独自の単語の定義」を説明し続けるのは時間の無駄。) 文章表現は丁寧に、適切な敬意を含むように。
感情や表情を伝えづらい 先ず、共感を示す。(共感できる部分を示してから、 自分の立場を述べる。いかなる意味でも共感できないなら、 コメントを返さない方が良い。 しかし、力強い反論を述べようとしている時でさえ、 どこかで共感したからこそ、コメントを返そうと思っているものである。)
情報は質より量 100の情報流のうち、1でも自分にとって価値がある情報が得られたら、 それで十分である、と考える。(99の無駄に腹を立てない。)
匿名性のためにモラルを破る心理障壁が非常に低い 非礼なコメントには絶対に応答しない(スルーする)。
共通の目的や背景を持たない、さまざまな人が参加する 発言者の立場や人格などには触れず、発言内容の論理性のみに集中する。
テーマが曖昧 テーマを提示する者はそのスコープを明確に示すよう心掛ける、 コメントをする者は定義されたスコープを逸脱しないよう心掛ける。
情報が簡単に削除される 議論の過程や自分の発言に、今後振り返って参照する価値があると思ったら、 内容を自衛的にバックアップしておいた方が良い。

■台詞の真意
言葉の表面的な意味と真意は一致しないものです(笑)
決まり文句 意味 真意
「ここだけの話」 知っている人の少ない、価値の高い情報を、これから話しますよ。 あっちこっちで同じ話をしているんですけどね。
「絶対です」 間違いありません、信じてください。 論理的に説明できないほど曖昧なんです。
「逆に言うとね」 同じことを反対側からも見て、より多角的に分かりやすく説明します。 逆でも何でもないんだけど、もう一回聞いてくれ。
「3つの観点から回答します」 分かりやすく整理して言いますので最後まで聞いてください。 2つめを言い終わるまでに3つ目を考え付くから、最後まで聞いてくれ。
「要するに」 これまでの議論の本質を簡単に説明します。 今まで以上に長くなるかも知れないけど、オレの話を聞け。
「基本的には」
「原則的には」
より本質的な、核心を捉えた言い方をしますよ。 自分の好みをまくし立てますよ。
「だから」 既に言っていると思いますが、念には念を入れて繰り返します。 お前は頭が悪いんだから、黙ってオレの話を聞け。
「分かりました」 あなたの言うことを理解しました。 あなたの言うことはこれ以上聞きたくありません。
「なるほど」 真意を理解しました。 真意を理解するか、反論を構築するまでの、時間稼ぎをさせてください。
「ぶっちゃけた話」 秘密で、かつ、付加価値の高い話を今からします。 自分でも良くわかっていないが、オレの言うことを聞け。
「善処します」「前向きに取り組みます」 可能な限りの努力をしてみます。 理屈としては分かりましたが実行に移すつもりはありません。
「遺憾です」 残念なことだと思います。 責任を取るつもりはありません。

■ディベートのルール

◎参加者の基本的心得

◎ジャッジの基本的心得


■『7つの習慣』に見る、良い議論へのヒント
『7つの習慣 〜成功には原則があった!』
スティーブン・R・コヴィー著 キング・ベアー出版
7つの習慣の構造:
  (1)第一〜第三の習慣:「私的成功」
     まず自分をしっかりさせる。
  (2)第四〜第六の習慣:「公的成功」
     その上で、他者と発展的な関係を築き上げる。
  (3)第七の習慣:
     第一〜第六の習慣を支える基礎力を普段から養う。
議論をする前に、自分をしっかり持とう。 そして、多数の人間同士が関わり合う社会の中で、 何のために議論をするのか、目的意識を明確に持とう。
  1. 第一の習慣:主体性を発揮する
    • 他人に躍らされてないか? すぐに怒らないか?
    • 自分の行動に責任を持ち、周囲に働きかけているか?
  2. 第二の習慣:目的を持って始める
    • 惰性で生活していないか? 目的を持っているか?
    • 行動の目的は、明確で、良心に恥じない、バランスの良いものか?
    • 財産や地位が無くなっても内面に残る「能力」を涵養しているか?
  3. 第三の習慣:重要事項を優先する
    • 「重要であるが緊急でない」ことを後回しにし続けていないか?
      目先の「緊急かつ重要」なことに振り回されていないか?
    • 一週間単位の目標を立てているか?
  4. 第四の習慣:Win-Winを考える
    • 相手も自分も得をする解を、あきらめずに探そうとしているか?
    • 将来に禍根を残すような取り引きに、堂々とNO!と言えるか?
      Win-Winとならないなら、no-deal(取り引きしない)という キッパリした態度を取ることが出来るか。
      議論が平行線を辿りそうなら、「それ以上は議論しない」 という選択肢もあることを理解しておくこと。 人生の時間は短い。学ぶべきこと、議論すべきことは、 いくらでもある。これ以上の議論には価値が無いと判断したら、 お互いの時間の節約のために、 結論を出さずに議論を打ち切っても良いのである。 (なお、議論を打ち切る時に捨て台詞を吐いたり、 打ち切る人に「何だよ、逃げるのかよ」などと言ったりしてはならない。)
  5. 第五の習慣:理解してから理解される
    • 自分の経験の色眼鏡で、手っ取り早く相手を把握しようとしてないか?
      「まずは相手をそのまま受け入れる度量」を持っているか?
    • 誠意を持って自分の真意を理解してもらおうと努力しているか?
      自分の意見を押し付けるのでなく、真に理解して貰おうとしているか?
  6. 第六の習慣:相乗効果を発揮する
    • 相手と自分の相違に腹を立てず、逆に「学ぶチャンス」と思えるか?
    • 3人が協力したなら、3倍"以上"の効果を上げられるか?
      「他人に任せるくらいなら、私がやった方が効率が良い」と思わず、 誠意をもって人に仕事を任せ、チームとして、組織としての力を 発揮することをイメージできるか?
  7. 第七の習慣:刃を砥ぐ
    • 知力・体力・精神力を、普段から鍛えているか?
      勉強しているか。 運動不足、睡眠不足、不規則で偏った食事が日常化し、 精神や情緒を豊かにする習慣が欠如していないか。
    • 「計画/決意→実行→評価/反省」のサイクルを、日々回しているか?
      達成の喜びと、謙虚な反省の気持ちを、毎日持ち続けているか?
この本に書かれている内容が成立する条件や社会的背景には多少の注意を要する。 例えば、キリスト教的契約社会の色が濃く、 『あらゆる人間は、同じ良心を持つ』という 根源的公理を仮定しているように思われる。 よって、誠意は必ず伝わり、人々は一致団結できる、と結論される。 恋愛や友人関係といった卑近な話題にも役立つ面はあるが、 理性より感情が優位にならざるを得ない領域への適用には限界がありそうだ。 一方、「良識ある人々が集まっていると仮定される」 ビジネスのような世界では、 この考え方は最大の威力を発揮すると思われる。 特に、良識があり、経済的にある程度満たされており、 社会的にそれなりの地位のある人には、 この本はインパクトがあるに違いない。 何故なら、そういう人々は、この本に書かれているような理想的な習慣を 「実施する余裕があると自認し」、 かつ「怠けてそれをしていない」と思うに違いないからだ。