意外と生命に関係あるメモ

last update 2007.3.5
生命/ セントラル・ドグマ/ サイバネティクス/ オートポイエティック・システム/ 散逸構造/ ゲノム/ 染色体/ 遺伝子/ DNA/ ヌクレオチド/ RNA/ 細胞/ タンパク質/ アミノ酸/ リボソーム/ コドン/ コドン表/ 免疫機能/ 白血球/ リンパ球/ B細胞/ T細胞
ドレーク方程式/

コドン表

コドン アミノ酸
UUU フェニルアラニン
UUC
UUA ロイシン
UUG
UCU セリン
UCC
UCA
UCG
UAU チロシン
UAC
UAA (終止)
UAG
UGU システイン
UGC
UGA (終止)
UGG トリプトファン
コドン アミノ酸
CUU ロイシン
CUC
CUA
CUG
CCU プロリン
CCC
CCA
CCG
CAU ヒスチジン
CAC
CAA グルタミン
CAG
CGU アルギニン
CGC
CGA
CGG
コドン アミノ酸
AUU イソロイシン
AUC
AUA
AUG メチオニン(開始)
ACU スレオニン
ACC
ACA
ACG
AAU アスパラギン
AAC
AAA リシン
AAG
AGU セリン
AGC
AGA アルギニン
AGG
コドン アミノ酸
GUU バリン
GUC
GUA
GUG
GUC アラニン
GCC
GCA
GCG
GAU アスパラギン酸
GAC
GAA グルタミン酸
GAG
GGU グリシン
GGC
GGA
GGG


■未整理
2006-09-19 (火)
生命と 非生命の境界はどこにあるのだろうか。 自循論における生命は、 物理的宇宙を含む意味世界(情報世界)全体の縺(もつ)れに生じる「不完全な自循」として 定義されるが、その真髄を、地球での生命誕生の瞬間に遡って表現してみよう。 生命がオートポイエティック・システムであること、 現存する DNA生命の自己複製システムである セントラル・ドグマ、 生物の最も基本的な単位である 細胞から 時間を逆に辿っていくと、 生命と呼べそうな最も基本的な単位は、 『物理的形状と、それ自身が持つ情報が、一致したもの』が 奇跡的な偶然によって生じた瞬間にまで遡れる。 ある種の高分子の鎖が偶然生じた時、それは記号的に例えばA−B−Cという情報を偶然持った。 (個々の記号に対応する分子は、現在のDNA生物の ヌクレオチドを 構成するチミンやアデニンやグアニン程度の複雑さを持ったものであったろう。) A−B−Cという連鎖の強度をαとする。この情報は、それを雄型として、 別の高分子X−Y−Zを雌型として引き寄せる性質を持っている。 X−Y−Zという連鎖の強度をβとする。 AはXを、BはYを、CはZを引き寄せる科学的性質が必要である。この強度をγとする。 A−B−Cに引き寄せられたX−Y−Zは、 少なくともある一定期間は安定して存在できる高分子である。 γ<βであるとすれば、X−Y−ZはA−B−Cから遊離し、 この雌型が最初の雄型とは別の雄型A−B−Cを引き寄せる。 β<αであれば、X−Y−Zはやがて分解し、 結果としてA−B−Cが2個出来上がっている。 このような情報的関係を内包したA−B−Cという連鎖が、 上記の連鎖を可能とする十分な各種分子のある環境の中で、 偶然本当に「形として」「本当の物理的に実在する分子として」1回だけ現出することが どの程度の奇跡であるのかは分からない。 その確率は ドレーク方程式の 右辺第四項「生命を維持できる惑星で実際に生命が誕生する確率」に相当するであろう。 いずれにせよ、ある所与の環境の中で、自分自身をコピーする情報を持った形が 奇跡的に偶然発生した時、それは環境内の材料を食い尽くすまで増殖するだろう。 もし、上記のシンプルな連鎖よりも長い連鎖(たとえばA−B−C−D)が、 やはり上記の情報的関係を偶然満たせば、同じ時間内では長い連鎖のものの方が 多くの材料を消費し、効率的に勢力を伸ばすだろう。 そこから先の人間に至るまでの気の遠くなるような進化の過程はさておき、 地球の上で、生命は、今のところ材料を食い尽くすこともなく、 リサイクルしながら増殖を繰り返している。 さて、もう一度、本文の趣旨を述べよう。 生命が誕生した瞬間というのは、様々な分子の組合せの実験中に、 「分子の物理的形状と、(その時の周囲の環境の中で持つ)その分子が持つ情報が、 偶然一致した時」である。 偶然現出したその分子の物理的形状(連鎖A−B−C)は、 物理や化学の法則(例えば結合強度α、β、γ)を使い、 周囲の環境に十分存在する分子(例えばA、B、C、X、Y、Z)を前提とし、 とにもかくにも「自分自身A−B−Cを複製する」という情報を偶然持ったのだ。 この「最初の瞬間」を、穴の開くほど見つめれば、 生命自体の無目的性は厳然たる事実として諒解される。 私達は、この環境条件の下で、形状と(自分自身を複製するという)情報が一致している、 という偶然性以外の何物をも基盤としていない。 目的は無いし、環境が壊れれば、情報の前提も失われ、単に消えるだけである。 今あるが如き生命の複雑さや高級さ、進化の果てに得た自意識の独特性、 その延長に現われた言語や文化や都市といった超システム、 それら全てに最大限の畏敬の念を持ちつつ、 原初の地球の、高分子のスープの中で、 偶然「形と情報が一致した」その瞬間に思いを馳せよう。 心の中で何回でも反芻しよう。 生命性の秘密が、そこに凝縮されている。
2006-09-20 (水)
初めて非生命から生命が誕生した瞬間とは、 『ある形状が、特定環境において、 それ自身を製造する情報(プログラム)と一致した』 という奇跡的瞬間である。 それ自身はDNAの原型のようなものであり、 生命と呼ぶには相応しくないかも知れない。 一般に、各種の自己複製の機能が寄せ集まり、 共同体として生き残りを図った「細胞」が、 生命の最小単位であり、 DNAそのものは生命ではなく、生命の設計図に過ぎないと言われる。 しかし、私は、 利己的遺伝子 という考え方に、今なお何らかの説得力を感じる。 本当の奇跡、本当の大発明は、細胞の形成ではなく、 ある形状に自己複製の機能が偶然備わった瞬間にあると思うのだ。
今、大気の中に、ある分子の組合せが発生し、 その分子は大気という環境(組成・密度・温度など)の中では、 偶然、その分子自身を複製するプログラムとしても働くものとする。 その最初の奇跡である一個の分子が1分間で2つのペースで増幅するとしたら、 単純計算では1時間後に百京を超えるその分子で全天が覆われていることになる。 きっと亜種やら突然変異体も進化し、 そのうち大気生まれの知的生命体も発生するに違いない。 ただ、数十億年かけてそのような偶然が一度も起こっていないことや、 大気中の分子の密度が低過ぎることから、 将来もこんなことは起きないと思って良いだろう。 (………起きないで欲しい。)
一方、現代のコンピューターは、誰がどう見ても、その形状が、 コンピューターの置かれた環境に於いて、 コンピューター自身を製造するという情報(プログラム)として働くようには見えない。 だから、コンピューターそれ自体は全く生命っぽく無い。 では、ソフトウェアはどうだろうか。 メモリ空間上に置かれた一連のデータが、 あるOSの環境下ではプログラムとしても解釈され、 自分自身を増殖させていくとしたら………。 つまりこれはコンピューターウィルスのようなものだが、 環境をコンピューター(OS)内に限れば、 これは、『ある意味で、生命のようなもの』であろう。 (メモリの値が形状に相当し、これをCPUによって解釈・計算する時に、 自分自身の値を複製するという情報(プログラム)にもなっている。) ただ、あいにく私たちが「生命」として興味があるのは 「この物理現実の中で、形状がそれ自身を製造する情報(プログラム)にも なっているもの」であり、 今のレベルのコンピューター内での、極めて単純な環境の中での、 オモチャ以下の人工生命のシミュレーションには食指をそそられない。 私たちが普通「生命」と呼んでいるものは、 その発生の最初の瞬間からして、 環境条件として、周囲にある複製材料としての分子のみならず、 あらゆる物理・化学法則を前提としているのであり、 つまり物理世界のありようを内容しているのである。 (必然的に共有結合やイオン結合などの化学法則や 量子力学や電磁気学などの物理法則を取り込んでいるし、 自己複製のための前提としている。)
「生命」は、神秘的に考えずとも、そして「生気」なるものを仮定せずとも、 十分に奇跡であり、驚異であり、尊いものである。 今の物理学の延長上では「時間の意味論」を解き明かせそうにないが、 私は、今の物理学と「時間の意味論」が手を組むことによって、 生命や知性といったものを、より多角的に捉えられるようになると思っている。 (決して「物理学+時間の意味論」が万物の根源的な説明を与えると 言っているのではない。何かが何かを説明し切るという考え方は不毛である。 各々の説明は現実世界の断面に過ぎないし、相互補完的なものである。) また、「生命であること」と「知的であること」は 独立に議論できると思っている。 生命は進化して知的生命にまで至ったが、 「非生命かつ知的」という存在(≒人工知能)を、 我々人間が作れるという可能性は十分高まっていると思う。 一方、物理現実世界に我々が納得できるような「生命」を作れるようになるのは、 ナノマシンやピコマシンが実用化するのを待つ必要があると思う。 しかし「物理現実世界の一定環境下で、形状それ自体が 自分自身を複製するプログラムにもなっている」ものを デザインできるようになる時代は、意外と近くまで来ているのではないだろうか。
2006-09-14 (木)
大変グロテスクな喩え(思考実験)だが…。 かつて誰かのモノであった脳が切り刻まれて培養液の中に浮かんでいる。 血管や神経は適切に延長されて、間に無数の電極やチップが埋め込まれ、 総体としては一つのシステムになっている。 個々の脳の断片は生物学的には「生きている」状態である。 無線で接続された模擬身体からは五感情報が電気信号として絶え間なく送られ、 呼吸や声帯をエミュレートするソフトウェアを介して言葉を話すことも出来る。 個々の脳の断片はソフトウェアと並列動作しており、任意に切り替えることも可能である。 ソフトウェアは物理的な脳の断片の仕組みをシミュレートしており、 ソフトウェアが記録し蓄積したパターン・データが何を意味するかは 外界からは分からないが、とにもかくにも、 対応する脳の断片の入出力を可能な限り真似るように自己更新を続けている。 先ず、全てのソフトウェアが待機系であり、 システムが生体脳の断片の組合せのみで動いている時、 このシステムは生命であろうか。知性であろうか。 内臓感覚を含む模擬身体の精度が十分で、鰻の蒲焼の香ばしい匂いに たまらず消化器系を活性化させる信号を発したとして、 このシステムは意識や感覚を持っていないと言えるだろうか。 この脳の持ち主であった、かつての誰かの名前を、音声刺激として入力して、 当たり前のようにスピーカーが「はい、何でしょうか」と返してきたとして、 (トポロジカルには彼の脳そのものが機能している状態なのに) このシステムは哲学的ゾンビだとか「かつての誰か」とは別物だと言えるだろうか。 ………既にここで意見が分かれるのかも知れないが、とりあえず、今のところは、 脳の部分は全て生体から成り立っているこのシステムは、 かつての誰かさんと同じであり、意識や自我を持っているとしよう。 次に、少しずつ脳の断片をソフトウェアに切り替えていく。 会話をしている範囲では、特に変化は見られない。 そしてとうとう、最後は全てソフトウェアに置き換わってしまった。 それでも、違いが分からなかったとする。 (その「かつての誰か」が男であり、最愛の妻がチューリング・テストを行い、 合格したとする。) ………さて。彼はいつから生命でなくなったのだろうか。 彼はいつから感情を持たなくなったのだろうか。 彼はいつから自我が無くなったのだろうか。 目の前に、誰が見てもいままでと同じ彼がいるというのに………。 次に、ソフトウェアを一つずつオフラインにして、 待機系に回っていた生体脳の断片を本番系に戻していく。 そして全てのソフトウェアを棄却し、脳を外科的に一つの塊に戻し、 人工頭蓋に格納して模擬身体に突っ込む。 彼は生身の人間だったころと同じ反応を示す。 五体満足ではないが、彼は生命であり、人格を持つ、人間と言える。 (これを否定するなら補聴器をつけた老人は人間とは言えなくなる。) ………さて。彼はいつから生命になったのだろうか。 彼はいつから感情を取り戻したのだろうか。 彼はいつから自我を有するようになったのだろうか。
だから、生命と非生命、知性と非知性に、無理に境界を引かなくてもいいのだ。 動物と人間に無理に境界を引こうとして窮地に立っているキリスト教的世界観が その点においては破綻しているが如く、 生命や知性を、ことさら格別なものだということにしておきたい願いは、 いつか雲散霧消してしまうものだと構えておいた方が良い。
2006-10-07 (土)
便利」には、大便・小便がよく通るという意味もある。 人間といえども、一本の消化器の回りに ゴテゴテと四肢やら顔やらデッカイ脳やらが纏わり付いたような存在だとも見做せる。 原始的な刺胞動物の ヒドラは、 正に一本の腸に触手がついただけのような生物なのだが、 その腸の「出入り口」に密集している神経細胞が脳の起源だという説もある。 クオリアも、 ある意味「喰ったり出したりの快感」の発展形といえるだろう。
2007-2-1 (木)
人間の身体というのは本当に精巧だ。 DNAを含む一つ一つの細胞が極めて機能的であるし、 それが60兆個も集まって、運動、知覚、発声、代謝、生殖など 様々な機能を果たすし、血管や神経のネットワーク、 免疫系、消化器系など、どれを取ってもその複雑さは一国の政治システムに匹敵する。 極め付けは1000億の細胞からなる脳というシステムで、 大量のフィードバック回路を含む過剰とも思える計算と記憶の能力を持っている。 「私」という《意識》は、こんなに凄い「乗り物」にタダ乗りしているのだ。 むしろ、この《意識》という奴は、 この凄い「乗り物」のオマケで発生している残響に過ぎない、と考える方が 自然なような気さえする。
2007-3-7 (水)
どうも最近、アミロイド前駆体タンパク質にβセレクターゼとプレセニリンが 活発に作用してβアミロイドが大量に切り出されて脳内に蓄積し、 シナプスの伝達効率悪化から記憶力の低下を惹起している気がする。 一般的に、アルツハイマー病患者の大脳皮質には、 βアミロイドが沈着した老人斑が見られる。 患者数は一説によると世界で約1800万人、 日本で100万人、アメリカで400万人と言われている。 「言葉が出てこないとか、物の置忘れをするようになったら要注意」 と言われているが、最近とっさに言葉が出てこないことが多く、 マジで軽くヤバい気がします。
2007-5-20 (日)
ある十分に長い寿命Tの宇宙Uが内包する 知的生命体の「のべ総数」N、「知的レベル」Lに対して、 その知的活動の総体が蓄積記録し特定した、 その宇宙の全ての物理法則・数学定理をP=f(N,L)とする。 一方、Pによって構成され得る全ての宇宙iにおいて、 その寿命i及び それが内包する知的生命体の「のべ総数」i及び それが内包できる知的生命体の「知的レベル」iを 考えることが可能であるが、 私達の住む、この、実在する宇宙「以外の宇宙」との コミュニケーションは、宇宙の定義より不可能である。 (コミュニケーションが可能な範囲は全て連結されて1つの宇宙と考えられる。) 従って、私達の住む宇宙に対応する特定の定数c が存在して、 cg・f(Nc,Lc)、 また、 ck・f(Nc,Lc) と記述できる。NcとLcをベクトルと捉えて cと記述し、 関数を行列化してhとすれば、以上の議論は単純に c=h(c) として記述できる。
この結論をもう一度日本語に展開すると、以下のようになる。 『私達を含む、私達とコミュニケーション可能な 全ての知的生命体を「私達」と考える時、その総数が、 その最高の知的レベルを以って、宇宙の寿命のうちに明らかにした 「私達」の住む宇宙の全ての物理法則・数学定理を以って、 それが構築し得る宇宙の環境内に発生し、育まれ、到達できる 知的生命体の総数と知的レベルは、私達のそれに等しい。』
この結論は、更に以下のように言い換えることもできる。 『私達にとって意味のある宇宙は唯一つであるので、 私達の原因は私達である。
2007-6-3 (日)
日陰にも強い常緑広葉樹で覆われた林を「極相林」と言い、 ある意味、林の行き着いた安定な姿である。 ある生物が自らの生きる環境を自己構築した時、 それを「極相環境」と呼ぶとしたら、 人間が創った都市は極相環境であろう。 そこではもはや、通常の意味での自然淘汰や進化が起こる余地は無い。

参考文献: