意外と相対性理論に関係あるメモ

last update 2006.1.22
相対性原理/ 光速度不変原理/ 特殊相対性原理/ 時間の遅れ/ 長さの収縮/ 質量の増大/ 同時刻の相対性/ 質量/ 重力/ 潮汐力/ 等価原理/ 一般相対性理論/ 空間の歪曲/ 絶対的な時間の遅れ/ 事象の地平線/ シュバルツシルト半径/ ブラックホール/ アインシュタイン方程式

余談
2006-10-16 (月)
意識と時間の関係を、もっと直観的に感じたいので、 この宇宙に許された最大の速度が、私の全力疾走程度である世界を考えてみる。 その場合、ある方向に歩き始めた途端、自分の身体も世界も、 その方向にギュッと縮まるのが感じられるだろう。 同時に自分の体重が重くなるのも感じられる。 全速力の半分くらいの速度で小走りすると、世界はその方向で87%ほどに縮まる。 全力の90%程度で走ると、44%………何もかもが もとの半分以下の厚さにぺしゃんこになる。 この時、自分の体重は2.3倍、かなり身重に感じるだろう。 それでも素晴らしい筋力があって、全速力の99%まで加速できたとすると、 進行方向に(自分の身体も含めて)世界の全てが14%の厚みになる。 止まっている時なら10m先のものが1.4m先、直ぐにも手の届きそうなところにある。 この時、体重は実に7.1倍、いくら健脚でも、これ以上の加速は難しいだろう………。 それと同時に、周囲の時間の進みも14%程度に遅くなる。 周囲の何もかもがゆっくりに見える。 もしも殆ど全速力にまで到達したとしたら、身体はもう全く動かせないほど無限に重く、 自分を除く周囲の時間は止まったように凍りつき、 そして遥か彼方にあったものが目と鼻の先にあるようになる。 『周囲の時間が殆ど経過しない間に、自分としては普通に時間経過を感じつつ、 何キロも先の遠くだったところに、自分としては一歩先に踏み出す程度の移動で辿り着く』 というイメージだろう。 なぜ、普通に何キロを疾駆するイメージの代わりに、目的地の方を自分に引き寄せて、 たった一歩先に到達するイメージになるのだろうか。 それは、この宇宙に許された最大の速度というのが、 「意識」が持つ時間と空間の認識に関する分解能の限界を意味しており、 限界に近づくと、本当はそれなりの時間で長距離走ったのに、 《瞬時に短距離を移動したという粗い認識》しかできなくなってしまうからではないか。 ………意識があるものでないと相対性理論に従わないような書き方になってしまったが、 時空認識全ては意識に由来するのだから、 光速度不変の原理意識の解像度に由来しており、だからこそ、その認識の限界において、 時間の遅れとか 長さの収縮が 観測(認識)されるのではないか。
2006-10-23 (月)
やはり全ての元凶は割り算だ。見せ掛けの対称性と言っても良い。
15個のりんごを「5人で分けると一人何個もらえる?」 「5個ずつわけると何人に行き渡る?」の答えはいずれも同じ割り算で3と出る。 15kmの空間距離を「時速5kmで歩くと何時間かかる?」 「5時間で行き着くには時速何kmで歩けばよい?」の答えも、いずれも3だ。 私達は、速度=空間÷時間という式に慣れている。 速度は、空間と時間から導かれる二次的なものだと感じている。 だから私達は、時間=空間÷速度という式に一瞬戸惑う。 (空間を速度で割るとは、どういう意味か?) しかし、相対性理論は、時間よりも速度の方を本質的な物理量だと 教えてくれているのではないだろうか。 空間と時間から速度を導くのではなくて、 空間を速度で刻んだときに想起されるのが時間という幻影なのだと 教えてくれているのではないか。 ………「時間」よりは「速度」の方が「より根源的なもの」なのだろうか。 私はこれまで「時間」の方がより根源的なものだと 勝手に信じてきたのであるが………。
A=B×Cと書いたら、BとCのどちらが根源的かは全く分からない。 空間=速度×時間と書いたら、 形式上は速度と時間のどちらが根源的かは全く分からない。 実は「速度」こそが変化であり差異であり認識の形式であり、 純粋な「意識」や「意味」のカタチなのではないだろうか。 そして、距離としての空間に「意識」が発生して変化や意味が生まれた時、 空間÷速度として仮定または連想される割当、幻影、形式、概念、都合……… それが「時間」の無味乾燥でカラッポな正体なのではないだろうか。 つまり、先ずは速度があり、これが意識の本質である。 意識が空間の中で自己認識を行うと、 時間という形式が仮想的に浮かび上がってくる。そういう順序なのではないか。

参考資料