意外と位相に関係あるメモ

last update 2007.3.28
なんとなく分かっている気になっている「距離」とか「次元」という概念を、 数学的に厳密に定義するとどうなるのか。 その洗練された抽象思考を、イメージで理解してみよう。
集合/ 冪集合/ 宇宙/ 順序集合/ 開集合/ 閉集合/ 位相空間/ 距離空間/ ハウスドルフ空間/ 連結/ 連続関数/ 同相写像/ 被覆/ コンパクト/ 位数/ 次元/ 多様体/ 位相多様体/ 微分可能多様体/ / 加群/ / / 半群/ 商群/ 準群/ / 位相群/ 位相変換群/ リー群/ ミンコフスキー空間/ リーマン多様体/ 擬リーマン多様体/ ファイバー束
♪コラム:無限


♪コラム
■無限 infinite
  • 数学も物理もその根源に「集合」という 「全体と、それを構成する一つ一つ」という概念を置いている。 本来分割する必要もなく「ただそこにある現実」を、 切り刻めるものだと仮定して理論を組み立てた結果、 元に戻せなくなってしまっている可能性もある。 数学は、自らが組み上げた概念で、自ら苦しんでいる状況にあるのかも知れない。
  • 空間とは、単なる孤立した「大きさがゼロである点」の寄せ集めではなく、 有限の大きさを持つ“近くという概念”を繋ぎ合わせて覆い尽くされたものだ。 日常茶飯事に無限やゼロを扱う数学においても、空間に広がりを持たせるためには、 ゼロを積み上げるのではなく、 任意に小さくはあるが決してゼロではない“近く”という有限性を前提とせざるを得ない。
  • デデキントによる無限集合の定義は、 『集合Aが、Aの或る真部分集合A'と対等である』つまり、 全体と部分に1対1対応が存在する、ということだ。 例として、自然数全体と偶数全体は1対1対応が存在するので、対等である。 どの有限の区間を見ても、偶数は自然数の半分くらいしか無いので、 真部分集合であることは間違いないが、 個数も半分くらいなのでは、と思うが、 無限では個数が定義できないので、1対1対応、即ち 数えるという《プロセス》が定義できることで、 両者を対等と見做し、同じ濃度である、という言い方をする。 つまり、「数え切って結果を比較できる有限の場合の個数」と、 「数え切れないので対応付けの《プロセス》から定義した濃度」は、 本質的に概念が異なる。 大事な事は、人間が無限を扱おうとした時には、 「どこまでも近づいていく」とか「いつまでも数えられる」といったような 無限の《プロセス》を使用している、という事だ。 数学における無限とは、実体とか大きさとして扱えない無限を、 《プロセス》によって捕まえようとするものである。 (この事情は、無限を実体のように扱おうとする超準解析においても、 その定義の中に無限を既に潜ませているという意味において同様である。)
  • 有限原理主義者(無限否定原理主義者)である私としては、 『無限なるものの存在』に、人生を賭けて楯突いて行きたい。 その攻撃対象としては、数学とて例外ではない。 後の世の数学者が、今の数学を省みて、 「一般集合論に無限公理を無邪気に加えたから、 ZF集合論に対する考察の少なからぬ部分が言葉の遊びになってしまったんだ」 と言われる日が来ると、私は頑なに信じている。 無限公理 axiom of infinity は、 数学的に記述すると以下のようになる。
    x (0∈x ∧ y∈x (y∪{y,y}∈x)
    とても難しいことを書いてあるように見えるが、要するに、 0, a, {a,a}, {a,a,a}, {a,a,a,a}, … といった集合を全て含むような集合x が 存在する(∃)、と言っているだけである。 a を 1、{a,a} を 2、{a,a,a} を 3、と敢えてアラビア数字で表記するならば、 これは 0,1,2,3,… という自然数の全体を含む集合x が存在する、 と言っているに過ぎない。 しかし、実はここに重大なトリックが潜んでいる。
    1. 0という概念を根拠もなく認める。
    2. 1という存在の最小単位を根拠もなく認める。
    3. 何かに1を加えていくという操作を、いつまで繰り返していっても、 それらは全て存在すると、根拠もなく認める。
    公理なんだから「根拠もなく認める」のは良いのだが、 「存在の最小単位(量子)」という考え方、すなわち 「無限に細かいものを否定する考え方」を導入しているくせに、 それらをくっつけ合わせて出来上がる総体は、どんなに大きくなっても 否定しない、という、ご都合主義の自己矛盾を、私は読み取るのである。 現在の数学の多くの考察は無限公理を含む ZFC集合論に立脚しているので、 「無限を否定しながら無限を肯定している」という矛盾を抱えていると言える。 集合において 「何かが一個、存在する」と、有限能力による直観や思考において表明する時、 実は、そもそも私達は、あらゆる「無限なるもの」を否定しているのである。 へんちょこりんな「∃」という記号に惑わされて、 「無限なるものが存在する」ということを信じ込まされないように気をつけよう。 「存在する」ということの意味を、しっかり考えたい。
  • 有限÷無限=0
    1. 無限に対比すれば、全ての有限はゼロになる。 「永遠の命」にとって、全ての瞬間が無意味になることは想像に難くない。 言い換えると、私が日々を有意義に感じるのは、私がいつか死ぬからである。
    2. もし私が無限の寿命を持っているとすると、 たまたま今、私が生まれてから38年経過している、 という確率はゼロである。
    3. もし何か一つでも無限を認めるなら、全ては無になる。
    4. 人類はその大きさも寿命も有限である。 人類は無(ゼロ)ではなく、今あるがごとく存在していると自己認識している。 よって、人類が認識できる空間や時間(宇宙)も有限である。

■未整理
2009-12-26 (土)
連続と離散は、時間と空間に対応するだろうか?
大雑把にいって、空間とは、異なるものを並べて置くための形式である。 区別し、相互外在的に並置するために、広がりを有する。 従って空間は、本質的に「離れている」ことから成り立っているのであり、 本来はそこに「連続」という概念は含まれていないように思われる。 ある直線が、連続した点から成っている、と考える時、 私たちは必然的に「どこまで分割しても、その間がある」といったような、 極限を用いて「連続」をイメージする。 しかし、この「どこまで行っても」という解析的な考え方は、 時間の連続性と無限性を借りてきて補完されているのではないか。 つまり、純然たる空間は、本来、どこまで行っても離散的なものであり、 空間を空間として考える限り、それが隙間無く詰まっている連続なものだ、 と考える必要はない。 ところが一方、人間は思考の節約のために、理想を求めたがる。 ホンモノの宇宙空間ですら、プランク長以下では長さ自体を定義できないのに、 「どこまでも滑らかな空間」という、気味の悪い偽造品を脳内に発生させ、 それを支えるような実数とか連続といった概念を、 時間から借りてきて、でっちあげているのではないか。
ベルクソンは、時間を空間の中に展開することによって、 その持続の純粋性が分断され、汚され、もともと一体の質である体験が、 各時刻の状態の寄せ集めという無残なものにされてしまった、 と主張しているように思われる。 つまり、時間の連続性に、空間の分離性を持ち込んだことで、 時間の「持続」の純粋性が損なわれた、と言っているように思われる。 一体の質である体験が、バラバラに崩壊してしまったのだと。
では、こうも言えないだろうか。空間の分離性に、時間の連続性を持ち込んだことで、 空間の「分離」の純粋性が損なわれたのだと。 確固たる実在の居場所が、グチャグチャに攪拌されてしまったのだと。
2009-11-6 (金)
世の中には、本当は無限や連続なんて実在は無くて、 全ては有限で離散しているからこそ、 今そこにあるものの大きさはその通りの大きさで存在し、 今過ぎ去りつつある時間はその通りの速度で流れるのだ。 それでも、開かれた可能性に対する自由と、 宇宙の一体性と時間の純粋持続のために、私たちは、 本質的に無限や連続に支えられていなければならない。 無限から有限を切り取ったのは【私たち】自身なのに、 【私たち】は【私たち】の存在基盤として無限を必要としている。 物理世界に有限を押し付け、情報世界に無限だの連続だのを押し付けた、 その真犯人は誰だ? …【私たち】だ。
2009-8-9 (日)
多分、今、我々が生きている宇宙の他にも、宇宙は沢山あるだろう。 そこに知的生命がいたとすると、多分、 物理法則からして我々の宇宙とは異なるのだから、 科学技術や文化、言語の形態も、全く異なるものであろう。 それでも、数学は通じ合うような気がしてならない。 数学だけは、いかなる文明間でも共通言語になるように思われる。…何故か。
数学は、公理から出発して厳密な論理を経て様々な定理を証明していく学問だ。 では、その基盤となる「公理」には、どのようなものがあるのだろうか。 おそらく現代の数学の殆どの分野がその基礎を置く「ZFC集合論」の 10個の公理を眺めてみよう。
  1. 外延性公理 axiom of extensionality
    二つの集合の、全ての要素が等しいなら、それらの集合は同じものである。
  2. 対の公理 axiom of unordered pair
    二つの集合(a,b)のみを要素とする集合xは、存在する。
  3. 和集合の公理 axiom of sum-set
    集合x,yの全ての要素からなる集合zは、存在する。
  4. べき集合の公理 axiom of power set
    集合aの全ての部分集合からなる集合P(a)は、存在する。
  5. 空集合の公理 axiom of empty set
    要素を含まない集合は、存在する。
  6. 無限公理 axiom of infinity
    自然数の全てを含む集合は、存在する。
  7. 分出公理 axiom of separation
    集合aの要素のうち、ある論理式Aを満たす部分集合は、存在する。
  8. 置換公理 axiom of replacement
    集合aに対し、関数ψによる写像は、集合として存在する。 (集合の一意写像は集合である。)
  9. 正則性公理 axiom of regularity
    任意の論理式を満たす集合のうち、その要素は論理式を満たさないものが存在する。 (x∈x とか x∈y∧y∈x のような集合は存在しない。)
  10. 選択公理 axiom of choice
    複数の「空でない集合」から一つずつ要素を選択したものは、集合として存在する。
個々の公理を採用するか否かは、その知的存在の世界観に依存するかも知れない。 例えば、無限公理を採用しない知的存在もいるかもしれない。 選択公理を認めると、球を有限個に分割して組み立て直すと同じ体積の球が2個できる、 という直観に反する定理が得られる(バナッハ=タルスキーのパラドックス)。 公理を狭めれば、証明できる定理も限られるし、 公理を広げれば、様々な内部矛盾を抱えることになる。 未知の文明同士は、どのような数学の公理を採用しているかを確認し合えば、 どのような知的レベルにあるのかを了解し合えるのではないか。 特に、集合論における公理は、 「要素と集合」「ゼロと無限」「変化と同一視」に関する 非常に基本的な取り組みの姿勢・方針を示している。 ゲーデルの不完全性定理以降、「完全で無矛盾な唯一の数学体系」という夢は 捨てざるを得なくなったのだが、これは逆に言えば、 どのような基本方針(公理系)から、どのような 実りある豊かな定理群を導くかについて、無数の方針が存在することを意味する。 実際、人類も、置換公理や選択公理を除外したり、別の公理を付け加えたりした 新たな公理系を盛んに研究している。
私達が普通に生活している分には、 「公理」とは、常識、宗教、法律、信念、約束などであろうし、 「定理」の多くは、個々人が捻り出す「自分に都合の良い解釈」だろうし、 「証明」とは、大した厳密性もない屁理屈であろう。 しかし、数学では、その全てが普遍的に記述されなければならない。 数学は、「数(ナンバー)」だけを扱う学問ではない。 数学(mathematics)とは、ギリシア語の「μάθημα (máthema)」、 即ち科学・知識・学習を語源とし、人間が世界を認識する基本的な方法 (量・構造・空間・変化(時間))について研究する学問である。 つまり、数学とは、「私達は、知的存在として、どのように宇宙と 向き合っているか」を厳密に表現しようとしている学問なのである。
もし、他の宇宙に存在する多くの知的生命体と交信することができ、 お互いの数学を交換できたら、素晴らしい知見が得られるであろう。 その時こそ、「知性」と「意識」の問題も、明確に定式化できるに違いない。
2008-4-29 (火)
もし持続する「自認識」を前提条件に置いたら、 それだけで純粋数学や相対性理論や量子力学や時空の適切な次元数は、 必然的に導かれるのではないか。 すなわち、どのような経緯で偶然が積み重なって自意識が発生したとしても、 その自意識の群れにとっては、必ず数学があり、 情報伝達速度の上限があり、本質的な不確定性があるのではないか。 むしろ、「自意識」は、各種の物理や数学が演繹的に導出される公理として 定義されるべきではないだろうか。
2008-4-27 (日)
数学や記号論理学で「PならばQ」などと表現する時、 私はどうしても、これが静的な構造を示しているのではなく、 時間の経過を表現していると感じられるのだ。 時間が経過しているので、前者と後者は別物である。 例えば「自分は自分である」という等式表現についても、 現実の文脈では「自分Aは自分Bである」と区別されていて、 自分Aは観測対象としての一瞬間前の自分であり、 自分Bが観測主体としての「いま・ここ」の自分である。 分離規則(モーダスポネンス)((P→Q)∧P)⇒Q の例として 「私が人間なら私は哺乳類である。私は人間だ。だから私は哺乳類だ。」 も、良く考えてみると、時間経過が複雑に潜在している。 「P→Q:ある任意の瞬間に私が人間であると捉えられたならば(仮説)、 次の瞬間以降に私は哺乳類としても扱うことができる(仮説)。」 「P:具体的な時刻tで私は人間として捉えられた(事実)。」 「Q:時刻t以降、私は常に哺乳類として捉えられる(可能)。」 このように、論理式の文脈の中に位置づけられた時、 各場所にあるP、Qは、同じようでいて、 実は時間的に異なる“意味”を負わされている。 つまり、こうだ。 推論過程は、時間消費を含意する。 勿論、記号論理学では論理式の時間不変性を暗黙の前提としているので このようなややこしいことをいちいち考える必要は無いのだが、 しかし、脳内で単純に「AならばB」と考える時ですら、 現実的にも概念的にも時間消費から完全に逃れることは出来ないのだ。 推論とか命題計算といったものは、時間概念を前提としている。 あらゆる現象や思考は何らかの計算であり、時間を消費している。 このような時間は、物理現象と結び付いた「いわゆる時間」 よりも抽象度の高いものであり、「原型時間」とでも呼ぶべきものである。 暗黙的にでも明示的にでも 「同じものを違うものとして区別する仕掛け」としての「原型時間」。 この概念は物理世界にも概念世界にも至るところベッタリと染み込んでおり、 記号論理学や純粋数学ですら、逃れることは出来ないのだ。
2008-4-3 (木)
無限という概念は、実は時空概念から生まれている。 詳細にその定義を見ると、時空概念を抜きに 無限を扱うことが出来ないことが分かる。 先ず、空間の広がりとして直接的に 無限をイメージすることは誰にもできない。 「どこまでも広がっていく」とか「際限なく細かい」といった 『変化の行き着く先を明確に指定しない』ことが、 即ち無限のイメージであり、定義にもなっている。 これは単なる言葉のアヤではなく、 数学上の定義でも同様である。 それ以上に無限をうまく扱う方法など無いのだ。
「どこまでも」「どんどん」「際限なく」「ぎりぎりまで」 といった「無限」に関連して現れる表現の全ては、 「変化」を意味している。 変化とは、「同じでありながら、同じでなくなる」 (例えば、同じボールが、異なる位置に存在するようになる)ことを意味する。 「同じでありながら、同じでなくなる」という矛盾を内包するための器を、 我々は「時空」と呼んでいるのだった。 「無限」は「変化」を前提にするので、時空概念と切り離せないのだ。
このことは、かなり深刻な問題を提起する。 無限を扱う純粋数学は、物理と切り離すことは出来ず、 時間の起源である自我とも切り離せない、ということになるからだ。 数学は極めて純粋に自己完結的であると見做されているが、 実は物理や主観の構造を抜きにして語ることは出来ない、 ということが暴露されてしまうからだ。
2008-3-16 (日)
位相空間のイメージが掴めずに苦しんでいる。 閉集合というのが「収束先も自分自身である」という意味で 極限操作について「閉じて」おり、だからこそ 「端っこまでミッチリ詰まっている」「境界を含む」集合だ、 というのもイメージは出来る。 一方、開集合は「ある点にとっての、そのあたり」という意味で、 近傍の概念と密接に関係する。 どれだけ寄せ集めてもその性質が変わらないためには 「境界を含まない」集合でなければならない、というのも納得は出来る。 (「境界を含む集合」(閉集合)の群れを寄せ集めて、ある境界Aの内側ギリギリ一杯まで 敷き詰めたら、境界Aを含まない集合(開集合)を作れてしまう。) しかし、閉集合と開集合が、見事に単純・厳密・形式的な補集合の関係にあるのに対して、 「収束の概念」と「近傍の概念」は、私にとっては 対立概念・相補概念だとは感じられないのだ。 何かこう、「収束」とか「連続」を論じるためには、全体集合に対して、 「収束という操作を定めるための構造=境界を含むという概念=閉集合」と 「収束先に含まれないエリアを定めるための構造=境界を含まないという概念=開集合」を セットにして考える必要があるんだろう。漠然とそんな感じがする。 極めて抽象度が高く、 考え始めると脳が悲鳴を上げ始める。 でも、頑張って感覚的に理解したい。 極めて平易に見える位相の定義の中に、 人類が無限とか連続といったものをどう扱うべきかの エッセンスの全てが詰まっているように思われるからだ。

参考文献: