意外と無に関係あるメモ

本記事の内容は、本ホームページ内の伝言板 (『電魂盤』SIDE-I「理」) 内の、 bvさんと hijkの 一連の議論を単純に抜き出したものです。
大変価値のある議論をさせて頂いたことに、 この場をお借りしてお礼を申し上げたいと思います。
bvさん以外の方の、本記事の無断転載を固く禁じます。
  1. はじめまして bvさん
  2. Re: はじめまして hijk
  3. Re: はじめまして hijk
  4. 存在ハッキング bvさん
  5. Re: 存在ハッキング hijk
  6. Re: 存在ハッキング hijk
  7. ハックひっく発句 bvさん
  8. Re: ハックひっく発句 hijk
  9. 発句フック屁句 bvさん
  10. Re:発句フック屁句 hijk
  11. へんくつ bvさん
  12. Re: へんくつ hijk
  13. 中毒・イヤッ! bvさん
  14. コーヒーブレイク hijk
  15. 自己矛盾 bvさん
  16. Re: 自己矛盾 hijk
  17. あきの句 bvさん
  18. Re: あきの句 hijk
  19. ただ bvさん
  20. Re: ただ hijk
  21. Re: ただ hijk
  22. 死神 bvさん
  23. 二番目のレス bvさん
  24. Re: 死神 hijk
  25. ありがとう bvさん
  26. ていさいとやましさ bvさん
  27. 一里塚 hijk
    ■はじめまして by bv at 10月10日(金)09時44分49秒
    どこぞの掲示板で紹介されていたリンクを辿って来たのですが、
    珍しく面白いページでした。
    
    そこで、つい最近他の個人のホームページの掲示板で
    その主催者に「アホ」だの「死ね」だの散々悪態をついて
    彼の自称友人などのひんしゅくをかった挙げ句、
    勝手な私見を書き込んだのでここにもついででそのコピー
    の重要部分をご無礼やご迷惑は全く気にせず垂れ流す
    事にしました。
    ある意見へのレスから切り取ってきただけなので
    唐突に始まります:
    
    >>>
    もっと重要な点を挙げるなら、「意味」が
    「共同妄想」の中にあるという事である。
    もともとあなたが「意味」を求めてしまうのは
    何か「確かな事」が欲しくての筈だ。
    そうだとしたら「共同妄想」の中に「確かな事」
    など探して何になるだろうか。
    
    
    私は本当の問題はそれら以前の所にあると思う。
    つまり、なぜ「意味」などを探してしまうかという点である。
    それは我々の自覚、自意識と、それにまつわる
    一種の不快感にあるのだ。
    これは意外と簡単にわかる。
    
    そこで他者に関する意見は別に異存はないがここでは
    カットしてコメントせず、私の個人的な見方を言う事にする。
    
    <1>
    まず自覚がハッキリした時点で多かれ少なかれ
    「なぜ自分がいるのか?」とか疑問が発生する事
    を思い浮かべて欲しい。
    これは大して問題がないと思う。
    こういう疑問を抱かない人は自覚が「薄い」のだ。
    
    <2>
    次に疑問というものは不快感、苦痛、不安などの
    「否定的な感覚」があってはじめて発生する事に
    注目して欲しい。
    これは少し「おやっ」と思うかもしれないが、
    疑問の発生のプロセスを観察したり、過去の疑問の
    原因を探れば必ず何らかの「否定的感覚」が
    見つかるだろう。
    たとえ快感から疑問が発生しているように思えても
    その対局の不快感の連想が実際の引き金に
    なっていたりするものだ。
    
    <3>
    この二点から自覚がハッキリすると不快や不安、
    何らかの「否定的な感覚」、「何か間違っている
    感じ」がおきるのだと言えるし、実際、自覚と
    向き合ってみると何だか落ち着かない通常漠然とした
    不安とか虚無感などと呼ばれるような感覚が在る筈だ。
    ただしこれは自覚がハッキリしていない人には
    他の感覚などに妨害されてわからないらしい。
    そしてそういう人はその後に続く質問も
    自発的に抱くことがない。
    
    <4>
    人間が普通犯す間違いはこの「否定的な感覚」
    それ自体を検証しないで「他者」あるいは
    「他者との関係性の妄想としての言語や論理」に
    「否定」の「否定の試み」として「肯定的」と
    呼ばれる答えを求めてしまう事なのだ。
    
    「疑問」を設定して「答え」を求めていては
    たとえどんな答えが得られたとしても「疑問」の原因
    である「否定的な感覚」自体には何の影響もなく、
    従っていかなる哲学的な探求も役に立たないのである。
    この事がもし十分痛感されるなら、あなたは即座に
    哲学など忘れてしまい、問題自体である所の感覚の
    解明に向かってもいいのだ。
    
    <5>
    ただ、人間がこのような単純なミスを犯すには幾つか
    理由がある。
    他の生物と同様に人間も「嫌な感覚」から逃れようとする
    プログラムがある。
    自覚に伴う感覚がなぜ「否定的」に認識されてしまうかは
    ともかく、そう感知されるとそれから逃れようとし、
    自覚という自分の中には「否定的」なものしかないので
    「外側」としての「疑問や考え」、「感覚や刺激」に
    向かうのである。
    前者は自己の存在理由や意味を問い、突き進めば哲学に
    向かうし、後者はいろいろな「中毒患者」になる。
    「中毒」といっても酒や薬物に限らず、音楽の刺激や
    性的なもの、食べ物など不快感から逃げるために
    繰り返し機械的に何かを繰り返してしまうのなら
    何であれ立派な中毒なのだ。
    テレビゲームも映画もグルメも会社も趣味も人間の活動の
    ほとんどすべてがこのような中毒症状で行われている
    と私は思わざるをえない。
    人類が一応知られている事になっている過去数千年来
    基本的に愚かな行為を繰り返しているのも不思議ではない。
    
    こういう人間の現状を自分や他人につぶさに見せ付け
    られる時、あなたが自殺を考えもしないとしたら
    私はあなたの神経を疑う。
    
    <6>
    もう愚かな過ちはこの辺にしたいと思ったら、問題を
    見据える事だ。生物の自然な仕組みに逆らって、
    不快感をたっぷり味わうことだ。
    そして、そうする為にも、自分の中毒行為を洗いざらい
    晒す必要があると思う。
    それらの過程は関係性の中でも行われるのだろうが、
    自覚の問題は最終的には自分一人で極める孤独なもの
    でもある。
    それは「如何に考えるか」ではなく、
    「如何に考えずに感じるか」だと言っても良いと思う。
    
    非常にあっさりと説明したのですらすら読んでしまった
    かもしれないが、何回か読み返して欲しい。
    
    私が言っているのは「虚無感」「漠然とした不安」とか
    呼ばれる自覚に伴う否定的感覚は、それから「逃げる事」に
    よっては変るわけがないという事なのだ。(1〜4)
    そして現在逃げていない人間はほとんどいないという
    ホラー映画よりよっぽど恐い事実なのだ。(5、6)
    
    逃げ回るのが好きなら続ければいいし、
    嫌なら根本的な解決である「自我」と呼ばれる「中毒症状」
    の塊の崩壊というある種の「死」を目指すしかない。
    ただしどちらも楽では無い事だけは確かである。
    逃げ回ればだらだらといつまでも苦しい。
    肉体が死んでおしまいならめでたいが、輪廻とか転生が
    あったりしたらたとえ記憶が消されたとしても嫌だ。
    
    「死」を目指すと変な事に目一杯生きなくてはならない。
    争いや、恋愛や、何でも恐い事、嫌な事、いけないと
    思い込んでいる事を避けていると自覚を避けるのと同じで
    だらだら死ぬまで苦しみが溜まって行く。
    どんどん当たってどんどん砕ける。
    嫌われても憎まれても気にせずやりたい事をやる。
    それも、何かを避ける為にやりたいと思い込んでいる事
    ではなく、何故だかわからないままにやらないと
    気が済まない事でそれらの違いも微妙でわかりにくい
    かもしれない。
    一切の妄想に関係なく生きると言ってもいい。
    そんな事は不可能に見えるし、実際我々には不可能だ。
    何故なら我々自体が妄想の塊だからだ。
    「自我」が無くなっても「意識」がある状態があり得る
    のだが、自覚の「濃さ」というか意識の「腰の強さ」が
    ないと眠りこけるか気絶するだけだろう。
    だがそういう状態が時々起きたり、あるいは恒常的に
    なったとしても、我々がもつ如何なる「良い」という
    妄想に近づくものではない。
    結局は個人的な選択の問題であって良し悪しとは
    全然関係ない。
    だからどうしても生きてると苦しそうな人には
    このように声をかけてしまう事もあるが、
    「死」を目指したからといってうまく行く保証など
    どこにもないし、もの好きが勝手に一人で歩む道なのだ。
    大体私自身が「死んで」もいないのだから私が「死」
    について言ってる事などほとんど当てにならない。
    ただ、妄想と苦痛や不快感について言っている事は
    あなたにも自分の目で確認する事が出来るだろう。
    
    他人に生の実感を感じるという事はとりもなおさず
    自分にそれが欠けているという事であり、
    あなたが死に始めているか、死にたがっているか
    どちらかの標しなのだ。
    自覚の薄い人達は自分一人で勝手に生き生きと
    生きてる実感に溢れて生きている。
    ダイナミックなおばさんたちの電車の座席への
    動きとか、わがままな人間特有の美しさを見ればいい。
    
    一度自覚が濃くなってしまうともうそこへは
    戻れない。戻ろうとすると醜いニセモノとして
    虚栄と自己嫌悪の振り子を振る。
    
    自覚を持ったが最後、死に続ける事でしか
    本当に生きることはないし、
    同時に本当に生きること無しに死ぬ事もない。
    だからアホは死ね。
    生きる方はほっておいても付いてくるので
    余り心配する必要はない。
    人間は詰らぬ事であっけなく死ぬくせに
    死にたがるようには出来ていないのだ。
    
    自殺でさえ、他のすべての行為と同じく、
    「生きようとして」の事なのだ。
    だから安心して死ね。
    もちろん肉体を殺すのではない。
    自覚の不快感を味わい尽くす事で
    自分という他人を餓死させるのだ。
    もしあなたがそういうたぐいの物好きならば。
    
    bv 
    
    >>>
    と言うものだったのですが、
    あなたは考えて考えてしまう理由が解消されると考えますか?
    もし修行に走るというなら修行して修行してしまう理由が解消
    されると感じますか?
    
    あるいは、そもそもの問題点である「自己存在の否定的感覚」
    を見据え、またその補助的手段として思考や実践を
    行ないますか?
    

    ■Re: はじめまして by hijk HP at 10月10日(金)16時37分30秒
    はじめまして、bv様。おもしろい記事ありがとうございました〜。
    小難しい哲学用語なんか使わず、自分自身のコトバで、"自己への本質的な不安"を
    語りきってしまう筆致が魅力的でした。サルトルなんかは、このような「嫌な感覚」
    に真面目に立ち向かった哲学者の一人ですね。hijkは(生物に限らず)「自己否定」
    という"構造"に魅せられて、最近考えたりお勉強したりしています。直観的にですが
    「自己存在への否定的"感覚"」っていうキーワードには凄く共感できます。確かに、
    それを考えるのに、あらゆる形式システムは「補助手段」に過ぎないですね。
    モノが存在する限り自己矛盾は消えないし、自己矛盾が無ければ存在はありえない、
    という私の考えから(仏教的ですね)、思考や修業の無限退行がいつか停止する、とは
    実は思っていません。結局、私は、疑問の根底に真剣に取り組んでいるフリして、
    それをゲームのように楽しんでいるという意味で、bvさんの言う「中毒行為」
    の延長にいるわけですが、精神的体力のある時には、なるたけ本質的な嫌悪感に
    真面目に向き合ってみよう! と思いました。
    

    ■Re: はじめまして by hijk HP at 10月10日(金)16時49分40秒
    >>一度自覚が濃くなってしまうともうそこへは戻れない。戻ろうとすると
    >>醜いニセモノとして虚栄と自己嫌悪の振り子を振る。
    詩的な名言ですね〜。思わず暗記してしまいたくなりました、この部分!
    実は、hijkは、この「振り子」を「楽しみたい」と思っています。
    無理かなぁ。「それは本当には自覚が濃くなってないからだ」と言われそう(苦笑)
    

    ■存在ハッキング by bv at 10月10日(金)18時05分27秒
    哲学者をやっていた限り、つまりサルトルであれハイデッガーであれ、
    ヴィトゲントシュタインであれ不安や不快感、実存に立ち向かうと
    言いつつその実践はお粗末で無に等しく、言葉や思考の底無し沼
    から抜け出る事は無かったのだと感じています。
    カミユとかシモンヌ・ヴェイユのほうがよっぽど実践派であったと
    思います。
    多分、ソクラテスは自分自身の実践を終了し、他の人の実践の
    手伝いもしていたと思いますし、「無知の知」は多くの人が言うように
    「無知である自覚を持つ事でもっと知ろうと励む」のではなく、
    「否定や肯定を知らない」という事を知っているという意味だと
    私は勝手に解釈しています。
    
    人が普通追い求める「肯定的」な概念はすべて二重に仮想現実だと言えます。
    なぜなら、まず、当たり前の普通という事があり、
    そこへ生物や存在が死んでしまわない為の「否定的」概念という
    回避標識が立てられていて、これが既に第一の仮想現実とも言えます。
    「肯定」は、この「否定」から「逃げようとする」、「否定しようとする」
    「負」のベクトルであり、「否定」に裏打ちされた妄想というわけです。
    
    従って、あなたが「楽しみたい」と「肯定的」な何かを求めるのであれ、
    哲学者が言葉や論理に「肯定」を捜すのであれ、本来求めている
    ものである「否定」という第一仮想現実の解消とは全く逆の
    仮想現実、嘘の上塗りの方向をまさぐっているのですから
    それで満足する可能性はゼロなのです。
    
    これを痛感するまでは、「さかさまの努力」を延々と続け、
    「否定」を解消しようとして「肯定」という「二重否定」を
    積み上げ続け、自分で自分の首を絞めていくのですが
    皆さんそんな事は気にしていないようでおめでたいと言うか
    狂っていると言うかご苦労と言うか、何とも苦しそうに見えます。
    早い話が「否定」という苦を「肯定」という二重苦で解消しようという
    なんとも愚かな努力なのです。
    
    「仏教」とか言い出すなら、釈迦はどんな恵まれた環境にいても
    根本的な不安が解消されず、散々さかさまの努力である修行をして
    それでも解消されず、存在する限り、「否定」から逃げて動き続ける
    限り楽になる事など無い事を看破し、瞑想だか何だかして
    「否定」自体をどうにかしてしまったのだと思えます。
    ただ、その後の仏教は胡散臭くて頂けません。
    禅などが唯一本質的なことを伝えているように思いますが、
    現代人は運動不足で汚染されていてゴミ情報で脳もやられているので
    昔ながらのやり方では最後の段階に行けばともかく取っ掛かりが
    どうにも難しいのではないかと思います。
    
    そういう訳で本当の問題はこの否定的感覚をどう実感し尽くして、
    消費してしまうかという点に在るのだと考えております。
    それというのも、これを感じるや否や、ほぼ無意識的、機械的に
    そわそわとしたり、落着かなくなったり、何かやりはじめたり、
    音楽を鳴らしたり、退屈したり、生あくびをしたり、
    眠ってしまったり、中毒の禁断症状を起こして、ほんの数秒さえも
    全く無思考でしかも意識がハッキリしている状態に留まる事は
    困難なのです。
    
    また、意識の分布ともいえる問題があり、本人は無思考になった
    つもりでも、無意識下ではがんがんいろいろ動いている事も
    ありますし、寝るのも飯も忘れてそれだけに一生打ち込むくらいの
    「オタク」にならないと、結局は中途半端にわかったつもりで
    実は中毒の症状が多少変っただけの結果に終わってしまいます。
    
    宗教、魔術、神秘家の伝統、オカルト、などの一部は、
    釈迦のように否定の解消に努めた人に端を発していると
    思われるのですが、どれが現在自分という仮想現実システムの
    ハッキングに役に立つのか見つけるのは至難の技です。
    
    ですので全く無責任のようではあるのですが、
    本人が「これだ」と感じ、その途上で死んでも悔いのない
    方法で各自勝手にやるのが良いという意見に私も現在のところは
    賛成なのです。
    
    基本的には中毒の禁断症状がでて苦しくなってくれば初期的には
    良く、だんだん思考の騒音が治まって静けさが深まって来るようなら
    一応良く、最後はどうもどうなるのかわからないらしく、
    私もまだ途上なので何とも言えません。
    
    暴走して止まらないOSにこれまた暴走してるアプリがしこたま
    乗っかっていると思えば言いいわけで、一番簡単なのは電源コードを
    引き抜いて全部止めてしまう事ですが、これに相当する瞑想法が
    あります。
    ただ、また電源が入れば再発性のものはまた暴走するので、
    OSやアプリをいちいち潰していくやり方があり、
    この両方を最終的にはマスターしないと本物のハッカーとは
    言えないようです。
    最初は意識というICEを突っ込んでひたすら暴走ログを
    撮り続け、それが段々OSにフィードバックして暴走状態が
    変化してくるのです。
    そのうち無意識というOSの下部構造も見えてきて、
    暴走の実体が暴かれます。
    こうなると時々暴走が一時的に治まって、OSもアプリも
    仕様どおりにうごいたり、時にはOSの動きさえ止まったりする
    ようになります。
    
    ただ、こうなると暴走状態のシステムの基準から見ると
    「異常」としか判断されません。
    そして暴走システムネットワークは、この異状自体の伝播を
    阻止しようとしたりするのです。
    すべてただただ当たり前のことと言ってしまえるのですが、
    暴走状態からは当たり前には見えません。
    
    長くなったのでこれまで。
    

    ■Re: 存在ハッキング by hijk HP at 10月10日(金)22時22分25秒
    「否定的」から逃げて「肯定的」という浮ついた感覚に安住しても、いつかは崩れる。
    それなら、本質的な「否定的感覚」の方を消費し尽くしてしまえ! ………これには
    絶対的な力強さを感じます。無意味という基盤にズッシリ脚を置けば、あらゆる有意味は
    軽佻浮薄な戯言と切って捨てられる気がします。ちょっと疑問に思ったのが、
    現実の暴走状態を観察してデバッグし、無意識(OS)を含めて暴走が収まると、
    そこには「整然とした仕様通りの有意味の動作」があるのでしょうか。
    それとも「仕様=OSが停止していること=無意味」しか無いのでしょうか。
    究極的には無意味を拾い上げるだけ、というような気がしないでもありません。
    

    ■Re: 存在ハッキング by hijk HP at 10月11日(土)00時18分42秒
    哲学者は「実践」という意味ではお粗末………てのは、共感できます。………というか、
    大なり小なり自らの作品を世に残そうとして現に残している人の中には、
    自分で自分の首を絞める二重苦から脱却できた人は"一人もいない"のかも。(この基準は
    厳しすぎる?) ………それにしても、bvさんは、hijkなんぞの見方からすると、
    すっごく「楽しんで」生きていらっしゃるように見えます。文章もイキイキとして
    ますし………それでも本当に「肯定的な何かを求めてない」のだとすれば、
    「やっぱり人を 見かけやら文章だけから判断するってのは、間違いなんだなぁ。」
    と、深く溜め息をつく以外にないです(^_^;)
    

    ■ハックひっく発句 by bv at 10月11日(土)03時21分57秒
    基本的には「止まる事の出来ない物は何であれ暴走している」という見方を
    しています。よって、原子だろうが太陽系だろうが人間の思考だろうが
    等しく暴走していると見るわけで、そういう意味では「ある上位仮想現実
    レベルの仕様通りの(言うまでも無く常に全く無意味な)暴走の仕方
    になる事がある」とでも言えるかと思います。
    この当たりの事は結構面倒くさく、深入りすると宇宙の構造をばらしていく
    底無し沼にはまり、神秘学体系を漁ったりして何でも複雑化させてしまう事になります。
    つまり「無知無知」に徹してどうしても知ってしまう事以外知らない方が
    「否定」であれ「肯定」であれ、仮想現実の解消という点からは楽なのです。
    そこで、幾つかの要点を並べると、
    
    <1>我々にとっての「存在」は、「否定」という矛盾、ひねりである仮想現実に
    基づいている。
    <2>仮想現実はフラクタル図形のようにどんどんある種の「模倣」
    「下位相似仮想現実」の生成をする性質がある。
    <3>1と2から「肯定」が発生する。
    <4>その後は面倒なので深入りしないし、する必要もない。
    <5>人間のレベルに於いては仮想現実はかなりの多層性があり、思考空間や
    その物質的安定化であるインターネットなどで更に「下位仮想現実」の生成の
    最中である。
    <6>仮想現実自体が暴走と言えるのだが、「下位仮想現実」は「上位」から
    見れば暴走の上塗りをしている。そこで、人間という形態で老衰か事故などで
    死ぬまでは、仮想現実が完全に止まる事はないともいえるので、適当な
    (死ぬまでの一瞬の間我慢できる)上位仮想現実の暴走仕様に調整されると
    生きているのはかなり楽にはなる。
    <7>普通、暴走状態に疲れた人は徐々に上位仮想現実との調整が行われ、
    一段か二段階上位で結構楽だったり目新しかったりするので騙され、
    そこで妥協して留まる。
    <8>徹底して「暴走」それ自体を嫌うと、「存在」からつまはじきに
    してもらえることがあるが、滅多に起こらないし、そうなる方向に行く
    物好きは少ない。これは完全に「死ぬ事」であるかもしれない。
    <9>たまに事故か偶然か何だか知らないし知りたくもないが一時的や
    恒常的に上位仮想現実に調整同調してしまう事がある。
    最悪の場合は一時的に「存在」からつまはじきにされ、人間レベルの
    仮想現実維持に支障をきたしたりする。
    ちなみに全部で何段階あるのか知らないし知りたくもないが、一段上位レベル
    の暴走仕様に同調するだけで、通常の人間の幼稚な常識からかけ離れる。
    数段上位になればオカルトなど子供のお遊戯でしかない。
    「存在からのつまはじき」に至るとすべては馬鹿馬鹿しくてどうでもよく、
    かつ真剣に暴走したりもする「何でもあり」と仮想現実からは見える
    ようになったりする。
    
    そんなところです。
    「楽しんでいる」という指摘は当たっている面があり、「楽しもう」と
    「楽しみ」を求めておらず、「死ぬのは娯楽性がある」ということで
    他の人がそのような印象を持つ場合もあるようです。
    私としては早く死んでくれればそれでいいのですが「仮想現実システムのからみ」は
    一筋縄で行かず、かなりの「どアホ」でないとどこかで妥協して暴走し続けるし、
    苦しい局面もいくらでも出てきて、文字通りのたうっていることもあります。
    私も現在暴走している以上何らかの「肯定」を求めたり「否定」を避けてしまう
    傾向はありますが、これは暴走している(生きている)以上当たり前で
    良くも悪くもないがやっぱり嫌な現状といえます。
    
    存在ハッカーとしては、「肯定」を求めるクラスの一番上位(つまり無意識の
    一番最下部)で、「肯定も否定も求めずただ当たり前でいる」を「肯定」と
    認識してしまうようにヴィールスを送り込み、「否定」感知をするクラスはそこから
    逃れて「肯定」を求めるのではなく、そのまま「否定」を感知し続けるのを
    「肯定」とするようにし、「肯定」と「否定」の短絡や共振、極端な振れによる
    振り切りで、仮想現実すべてが自滅していくことが唯一の生きている目的となります。
    つまり、生きている目的は文字通りかつ厳密に「死ぬ事」「消える事」と言う事です。
    
    「否定」という根本仮想をそれ自体にぶつけているので二重に「破壊の楽しみ」
    があって、すべての暴走アプリをこの中毒に統合してどんどん自滅してしまう
    真剣かつ際どい遊びです。
    
    とにかく何を言っても、読んでも、考えているうちはダメ。
    当面は任意に数分間以上無思考無動作で目玉も動かず、瞬きさえ無く、
    息もほとんど無い状態が初期の目標と言えますが
    皆仮想現実という妄想の中で、暴走という妄想は「良い」と思い込んでいるので
    こんなことを実践する人間はあまりいないのです。
    
    「楽しい感覚」自体は別に問題でもなくそれを味わっていればいいのでしょうが、
    それを「良い」と意識か無意識のどこかで繋げた途端、すべてが問題になって
    しまいます。
    また、暴走状態ではこの繋がりを切ったり、阻止したり出来ません。
    止まる事は動く事では達成出来ないと言ってもいいのです。
    

    ■Re: ハックひっく発句 by hijk HP at 10月11日(土)14時38分33秒
    眠い目をこすって会社に向かう途中、街の看板や車内吊り広告をぼんやり眺めてたら、
    世の中が暴走状態であり、二重に仮想的である、という鮮明な感覚に襲われました。
    早速 影響を受けているってことでしょう(^^;) bvさんの存在の階層構造の説明は、
    とてもVisualでイメージ豊かなので分かりやすいです。
    「存在ハッキング」というのも「うまいnamingだなぁ」と今更気づきました(^^;) 
    ("無意識ハッキング"だと、単なる精神分析みたいでダサいし、"存在そのものの
    不快感"を含意しなくなっちゃう。) 「死の娯楽性」についても同意します。
    hijkは、「楽しみたい」という感情に、「良い」「悪い」の理屈付けは特に考えてません。
    補助手段としての"理屈"の面ではbvさんの仰ることは、わりとすんなり納得できます。
    でも、「実践」については無に等しいですから、そこは謙虚に弁えてるつもりです。
    他のHomePageでも活躍(もしくは格闘? 啓蒙?)されているようですが、特に問題が
    無ければ URL なんかを教えて頂けたらなぁ……と思いますm(_ _)m
    

    ■発句フック屁句 by bv at 10月12日(日)03時34分36秒
    暴走が何らかの理由で少し停滞する時(眠い時、ぼんやりしている時など)、
    意識の濃度が下がらないでいると通常の仮想現実から離れるのを目撃する事が
    あります。
    普通は「あれっ」とか思った瞬間に暴走が再発して戻ってしまうので、
    これに気付いたり、気を付ける人はそれ程多くありませんが、いわゆる「感性」の
    鋭い人(詩人とか、目の付け所がちょっと違う人)は、この事に注目する場合が
    あります。
    また、私の文章が頭に反響していたりすると「共鳴現象」的なもので、
    私が行なっている「実践」と同調してしまうという事もあり得ますが、
    これも暴走が下火になっていないとそれにかき消されてしまって問題になりません。
    
    「楽しみたい」なのですが、自分で「良し悪し」が無いと思っていても
    それを「求める」という事はすでに「否定」「肯定」の図式の中にあることで、
    認識していないだけで「良し悪し」はほぼ必ず何にでもあるのです。
    
    「理屈」は結局「こじつけ」であり、基本的には「何でも」、「どうにでも」
    説明する事ができ、それ自体にこだわっても仕方がないし、それは常に全面的に
    間違っているし、全面的に正しいとも言えるし、個別仮想現実プロセス間の
    メッセージ形態に過ぎないので相手プロセスがそれで何らかの反応を起こせば
    メッセージ自体は捨てられ、忘れられ、どうでもいいのです。
    ただ、いちいち新しいメッセージを吐き出すのが面倒なので、一度使ったパターンは
    どこかに収納されていて、似たようなプロセスに対しては似たようなメッセージが
    発振されるのは、どの仮想現実サブシステムもやっている事だと思います。
    
    はじめに最初の文を書き込んだのは下のHPの「サロンものモース」という掲示板です。
    
    http://www2.osk.3web.ne.jp/~deusekus/
    
    「実践」については私が現在採用同調している方法を紹介しているページが
    あるのですが、興味があればご自分で少しあれこれほじくってみて実際に
    何か試してみた上で、それでもまだ興味が薄れていなければメールでも送って下さい。
    ハッキリ言ってこれは肉体を殺すだけの自殺ではなく、すべてを抹消する「自殺」
    なので、法律上からも他人には薦められないのです。(自殺幇助の罪に問われる)
    もちろん、肉体は健康に保っておかないと出来ない作業なので、人間の法律はさほど
    気にしていないのですが、やり方によっては途中で肉体が死んでしまったり、
    直せない故障を起こしたりしますので、それなりの覚悟が必要です。
    実際の生活パターンもどんどん変ったりする場合もあるし、先の事がどんどん
    わからなくなって気にもならなくなるし、人間関係とか基本的にはすべて
    「必要最小限」という形になる可能性もあるし、普通に人間をやっていたい人には
    向きません。
    そんな訳で「よほどの物好き」、「どアホ」、そういった人が時たま足を突っ込んで
    だらだら苦しむ代わりに一挙に苦しむクレジット一括返済の道なのです。
    だらだら利子を払うのが嫌なだけかもしれません。
    それに: <1>「消滅」が本当に起こるのか保証がゼロである。
    <2>起こらなかった場合現状より我慢しやすい状況になる保証がゼロである。
    <3>結局騙されているだけかもしれない。
    <4>現世御利益はあるといえばあるのだが、それにこだわった途端消えたり、
    逆に現世不利益になったりするし、何も「期待」できない道である。
    大体「期待」がごく少なくなった人が他に「いきたい」所が無くなって入る道でもある。
    
    などなど一度はじめても途中で投げ出す不安要因が豊富に取り揃えてあり、
    途中で止めるくらいなら最初から手を付けない方がいいというもっともらしい
    理屈もあるのでまさに人生選択の「秘境」、あるいは人生洗濯の「秘教」、
    はたまた人生宣託の「卑怯」と言えましょう。
    
    
    やみのみち、やむことなきや、ひきょうなり    bv
    

    ■Re: 発句フック屁句 by hijk HP at 10月12日(日)14時18分55秒
    『時間が流れているという錯覚を消し去ろう』と決意した時に採用した方法
    (過去と未来が今の自分の両側に等しくぶら下がっていると実感しようと試みた方法)が、
    bvさんの言われる意味での『実践』に、"ほんのちょっぴり"似ているのかなぁ、とか、
    思い出に耽ってしまいました。(五感を止めて思考も止めてるのに、意識がある、
    という状態をなんとか体験してみたかった。) 無論、挫折しちゃったんですけど(^_^;)
    ここで言われている意味での『実践』に踏み出す動機としての、存在自体への不快感が
    おいらは全然希薄だと再認識します。多くの人がそうであるように、二重に仮想的な
    現実の乱痴気騒ぎの中で、最後まで自分を騙して死ぬのも、『実践』の過酷さに比べれば
    「それでもいーや」って思ってしまう。おいらって、やっぱり一般人だなぁ………。
    ダラダラ利子を払うのが嫌になったら、メールさせて頂くと思いますm(_ _)m
    
    『サロンものモース』、拝見しました。容赦無いですね(^_^;) 落語の師匠が、
    落語に向かない新入りを徹底的に虐待して落語の道を断念させるという「優しさ」
    に似たものを感じました。苦しいほどに痛快でした。また読みに行きますね。
    

    ■へんくつ by bv at 10月13日(月)00時55分38秒
    「実践」についてはおっしゃる通り「今」にハマればいいとも言えるようです。
    禅のお坊さんなどにもこの線で攻める人がいるようですが、ある人は6年かかった
    そうです。それでも希な例で、普通は何年坐禅をしようがどの段階かの仮想レベルに
    囚われ、それを見性だの悟りだのと思い込み、しかもそのレベルを味わうのも
    ほんの束の間といった例が多いと勝手に見ています。
    
    不快感の量とか質はその人が何をどうしているか見ると多少感じられるようなのですが、
    Hijkさんの場合は不快感自体はかなりあってそれがいろいろ考えたりしてしまう
    原動力になってはいるものの、数種の中毒のせいで「現実の乱痴気騒ぎ」がいかに
    過酷で冷酷で残酷なものか実感する「暇」をそがれてしまっているように思います。
    
    私から見るとみんな平気で生きているのが不思議です。
    実験用のネズミが檻にくくられて薬を打たれ、切り刻まれ、病気を移植されて
    平気で生きている、そんなように見えるので「みんなようやるなー」と感心します。
    そういうみなさんのおかげでわたしものんびり実践に打ち込めるので以前は罪悪感など
    感じてしまう事さえありました。
    
    基本的には実際の苦しみを蓄積する事で全部意識しないような仕組みに
    なっているのですが、その「つけ」が年をとるにつれ、どっと出てきます。
    しっかり感じ取らなかった存在の不快感はどの方向に逃げたかなどによって身体に
    物質的にも溜り、「凝り」を増やします。
    一度「凝り」の核が出来るとそこに溜まりやすく流れる様な「回路」が形成されて
    「癖」になります。そうなるともう中毒で、機械的にどんどん溜まり、
    一定量を超えると身体もさすがに参って病気になるのです。
    これは、「不安」、「疑問」、「思考」が必ず肉体的な緊張を伴っている事を
    観察すると間単に実感できます。
    身体は自然にこれらの蓄積をある程度解消する能力があるのですが、現代人は
    その何倍、何十倍も蓄積するので、意識的にお掃除をしないと溜まる一方です。
    病気はこれが原因で起こるものが多く、病気にならない程度の掃除は
    本当は結構簡単なのです。
    そんなわけで少し実践「的」な人の中には病気知らずの人もいたりします。
    とにかくこの世は大手の銀行とは違い、「サラ金」「暴力団金融」であり、
    「利子」はかなり高く付くのですが、いいお客に逃げられると困るので、
    大した利子ではないように錯覚させる仕組みが上手く出来ているのです。
    後で「業者」に因縁つけられるのもなんですので「金融情報」はこの辺にしておきます。
    もっとも「業者」も「弱み」があるので、どうなっても構わない人には脅しも
    すかしも効かず、彼らも嫌がって余りよって来ないようです。
    
    あちらのHPはお呼びがかからなければ書き込みはしないと思います。
    痛快なのがお好きでしたら自分でどこかの哲学掲示板に書き込みをすれば
    喧嘩を売ってくる人がいるので、「人間は主に自分の劣等感と罪悪感を他人に
    ことよせて話す」という原則をおぼえていればその人の「弱み」を叩くのは簡単です。
    今回あちらの主催者の自称友人は余計なお節介をして来て邪魔だったので
    はじめのレスで熱くなってもらって二度目に本人が言うように支離滅裂になったのを
    叩きました。ついでに主催者が少し気を取り直すようにメッセージを混ぜる道具に
    使ったところ、ようやく少しまともなレスが帰って来て「はじめまして」の文が
    書けたというわけです。
    もともとああなるとか予想などしないのですがなるようになるものです。
    
    最近痛感した事は言葉で理屈をこねているだけの人は全然苦しくなっていないし、
    苦しくなければ言葉に味も深みも出ないし相手をする気にもならないし、
    本当に苦しさを実感した人は何らかの実践に向かい必要な情報を求める以外
    インターネットやパソコン通信で遊んでいる暇はないという事です。
    
    そういう訳で私も去年の今ごろ突然、主に海外のニューズグループを2ヶ月くらい
    荒らしてその後今年の夏までほぼ無活動、その後急にホームページを二つ作ったり、
    今度は日本の哲学関係の掲示板で不安を売ったりした後無活動、
    ここ数日何故かあちらの掲示板で幾つか書き込みをし、うろついているうちに
    こっちにも流していたのですがどうやらまたほぼ無活動に戻りそうです。
    
    向こうにも書きましたがこちらに於いては「はじめまして」の文章の1〜6、
    特に1〜4、その上はじめの二つによくよく着目することが「分かれ目」であると
    感じました。
    
    Hijkさんのレスのおかげで小奇麗な「まとめ」が出てきたので有り難く
    思っていますが、まだ洗練されていないもののあちらの主催者の生の苦しみに対して
    出て来た文の方が「ちから」の点では強かったとも感じています。
    いずれにせよ他人の苦しみでも感じないと自分ではこういった理屈は余り
    考える事がないのでかなり楽しめましたし、やはり何を言っても「こじつけ」だな、
    との実感が深まり今後はますます考えずに済みそうです。
    
    今はこれまで。
    

    ■Re: へんくつ by hijk HP at 10月14日(火)01時52分06秒
    私の性格って分析し易いんでしょうか(苦笑)。先回りして自白しておけば、勿論、
    存在自体の不快感を押し込め、暴走状態の無意味さ加減に打ち拉がれないように、
    「暇」を作らないよう「多忙」の中へとブザマに逃げ回っているんです。………
    まぁ、「忙しいのが好き」な人って、大抵このタイプだと思うんですけれど。
    このまま一生逃げ切れるかも、とか時折思うのは、利子の高さを知らないからなんで
    しょうね。(bvさんは、高めの利子を払わされた経験がおありなのでしょうか…。)
    
    hijkは、現実の乱痴気騒ぎを希薄な霧のように馬鹿馬鹿しく見る目は持てるにしても、
    過酷、残酷、毒と熱の乱舞のような濃密な嫌悪を感じることが何故か出来ません。
    だから、無からの引力はあっても、有からの斥力は受けてない感じです。
    ひらったく言って、いっぺん痛い目に会わないと駄目みたいです!
    
    あと、私はbvさんほど優しくないので、論争は苦手です(^^;) 明らかに「駄目だな、
    この人は」と思ったら、何かを教える体力が無いので、あっさり逃げてしまう。
    bvさんにとって無活動・停止状態が獲得した基底状態なのでしょうが、何かの
    気紛れでまた励起状態になられたら、おいらを含む夢遊病者の頬を
    ピシピシ叩きに来て頂きたいものです。
    
    そうそう、hijkは、やっぱりまだ補助手段としての"理屈"が必要な段階だと再認識
    しました。今のまま「実践」へ切り込んだら、良くて弾き反される、悪くて玉砕です。
    無への侵入角度を計るのに、反面教師/準備運動として、やっぱり"理屈"はワリと
    役立ちそうです。(今は超数学ですが、次は是非「禅」をお勉強したくなりました!)
    

    ■中毒・イヤッ! by bv at 10月14日(火)10時14分20秒
    あまり他の人のことをとやかく言える身ではないし、
    言われるのも嫌だったりするのも感じるので
    普通こういう立ち入った事は感じられるように思っても
    言いません。
    今回は始めてしまったついででもう少しいうなら、
    Hijkさんにとって「斥力」を薄めてしまっている最大の要因は、
    酒、そしてゲームのたぐいであるように感じます。
    
    これらは他のものもそうなのですが特別な問題ではなく、
    単純なる中毒であり、足を洗うのも単純です。
    そして、足を洗う必要もない場合もあるのですが、
    試しに2ヶ月くらい酒に手を付けないとか決めて、
    自分がどういうあがき方をするのか眺めてみると
    面白いかもしれません。
    
    同じように「禅」に引かれるものがあるのなら、
    本だの理屈は一切知らないままで
    説教をしない曹洞宗の参禅会に何回かいってみる
    といいと思います。
    「吉祥寺」という寺があって、地方の寺から本物の
    禅僧が週に一回来て「風」をもってきてくれるそうです。
    
    「つけ」は払いだしてはじめてその高さに絶望します。
    サラ金と同じで借りまくっている間は感覚が麻痺していて
    実感がないのですが、「何年間これこれの生活をしてようやく
    返せる。」ということをしっかり考える時にその展望に
    胸をかきむしるようなもので、「お掃除」をはじめて
    やればやるほど溜まった「ゴミ」とその弊害、絶望的な
    作業の実感が強まるのです。
    
    峠の山道を登っていってあの尾根を超せば峠か少なくとも
    峠が見えてくるだろうとはりきっても行けば行くほど峠が
    まだまだ遥か彼方であり、一体本当に行き着けるものやら
    わからなくなって途方にくれ、さりとて元来た道を戻る
    自己欺瞞は耐えられず、一歩また一歩と進んでいるのか
    ぐるぐる同じところをまわっているのか皆目わからないまま
    それでも力尽きるまで這い登って行くといったところです。
    
    自分でも世界でも何でもいいのですが、「嫌悪」とか「苦痛」
    が拡大しないと中毒の引力圏から出られません。
    日本では、「おちゃらけて誤魔化す」と「なあなあで誤魔化す」、
    「酒をすすめあう」などの悪習が蔓延しているので、これらの
    愚かな行為に付き合っているうちは自他の愚かさを直視して
    まともな嫌悪感を持つ事すら余りないのです。
    
    いずれにせよ、一番苦しんでいる当人が苦しんでいると
    自覚していないし自覚する事を避ける癖が染み付いてるので、
    他人が何をいってもやっても基本的には無駄で、
    哀れで滑稽で悲惨でどうしようもない状態を見ても、
    「勝手にすれば」としか言いようがありません。
    それも人間は「機械的」に動くばかりで「勝手に何かする事」
    など出来ないのを知っていながら。
    
    そういうわけで私が何だかんだ言うのも、その人達の為
    というより私の個人的なお掃除の一環として時々そういう
    無駄なおせっかいの愚かさを出し尽くしてしまう為に
    起きる現象であると言えます。
    多少意識的にか無意識的にまともに苦しんでいる人の
    ゴミに火を付け、少し煽ってどうなるか見ているだけ
    でもあり、その人達が払う余計な利子が少しは減るのでは
    無いかという私自身の愚かな思考がどんどん裏切られて
    死ぬ為でもあり、少なくとも当人にとっては平和で普通の
    日常を私の個人的な目的でかき乱しているのです。
    
    とにかく酒を飲んでいると素面のつもりでも思考の切れが
    鈍ったり、どんよりとした感じが増えます。
    ゲーム等は意志薄弱な傾向を強め、自分が腹の底で
    本当にやりたい事を出来なくします。
    そして処理能力、どっしりとした「ハラ」がないと臆病な故に
    おちゃらけて攻撃をかわしたり、こびたり、なあなあに
    収めよう等とする、現在の典型的な日本人となるわけです。
    この傾向はまだまだ強まる過程にあるようです。
    
    毎日そういう人達に囲まれ、自分も同様に愚かであるのは
    なんとも嫌なものです。
    人間はそれなのに「明るい未来」とか「愛の波動で
    どーのこーの」とか愚かに中身のない言葉をわめく
    狂った機械であり、コンピューターであれば即刻スクラップ
    処分にされるのが妥当です。
    
    経済が破綻して銀行も潰れ、職もなくなり、食べるものも
    十分で無くなれば、もっと嫌な事が吹き出して来るでしょう。
    そんな「明るい未来」も当たり前の成り行きで、
    人間はまた機械的にそれに順応していくのです。
    
    やっぱり、人間って嫌ですね。
    嫌みな奴はもっと嫌でしょうけど。
    

    ■コーヒーブレイク by hijk HP at 10月14日(火)11時19分24秒
    酒とゲームといったら、自覚を薄める最高の道具ですね。
    これさえあれば、暴走したまま死ねるかもしれない。
    そのどちらも楽しむ体力が無くなってきたと最近感じて
    いるのだけれど、これは一体幸か不幸か!? 判断材料が少ない。
    
    思考の停止、実践を通して、静寂、無に収斂するにしても、
    贅を尽くして暴走中に木っ端微塵に砕け散って発散するにしても、
    そこで拾い上げるのは有意味に対置された形での"無意味"だけ。
    「ハウツー哲学」(いかに生きるか)は、おいら的には
    詰まらない。どうせ最後は中庸の徳に於いて有意味をひねり出す。
    「ホワットイズ哲学」(それは何であるか)は、おいら的には
    面白くて、常に最後は無意味を結論する。
    
    両側"無意味"の崖っぷち、"有意味"の稜線を、たどたどしく
    歩く(もしくは歩かされている!)もどかしさ。ようみんな、
    一列になって黙々と歩いておるわ。おいらも含めて。
    それは要するに「エッジ・オブ・カオス」。無意味の砂山から
    システムの複雑創発性が、やっとの思いで築き上げた楼閣。
    多分、人間は、その愚かしい「カタチ」の中でも、最上級に、
    芸術的に愚かしい。自己言及性を持つほどに。
    だから、人間以上に嫌いなものを見つけるのも難しいでしょう。
    
    一番キツい自己矛盾の環は、
    無意味を標榜しつつ、相手の無意味を笑うこと。(無意味という
    語彙が、前者・後者で異なるクラスに属していますが。)
    死を恐れているおいらは、まだbvさんのようにはなれないかぁ…。
    

    ■自己矛盾 by bv at 10月14日(火)15時41分50秒
    自己が居ることが既に矛盾なのだから
    別に笑ったって笑われたってどうでもいいんです。
    
    要は「自己矛盾」が嫌なら「自己消去」するしかないわけで、
    もしそうした好みや方向性が定まるとそこではじめて
    消えるまでの(消えるなどという事があるつもりではじめる)
    わずかな永遠の間の仮の確固たる目標や価値体系が
    現れると言えます。
    
    生きていたいなら好きなように生きればいいし、
    それに理由も正当化も何にも必要ない。
    だけど人間はそんな風に「好きなように」生きたり、
    「理由や正当化なしに」生きることも出来ずに
    中途半端に生きることになる。
    
    ところが死へまっしぐらに向かうと「生」を消費燃焼
    し尽くす必要が在るので、皮肉にも「生き生きと」
    「充足して」生きることになる。
    そして、「死」しか眼中にない為に、「理由や正当化」は
    糞食らえということでどんどん気にもならなくなる。
    
    やってるうちに言葉の定義なんかわからなくなって
    私は数字の「一」がわからなくなってしまい、
    数学的なこじつけに一挙に興味を失った。
    それから「いる」とか「死」とか、厳密な言葉や概念の
    確定が出来なくなって、かろうじて不快感が実感を
    持っているのである。
    そのような状態が「望ましい」「良い」とも思えないし言えない。
    ただ、もう私は逃げ回るのは御免だ。
    それはうんざりだ。
    
    だから個人的に「どっちがいいかよーく考えて見よう」と
    この先どうなるのかノイローゼになってみるのも
    いいかもしれない。
    
    人間なんてWin95のように少し複雑化したできの悪い
    システムなのだが、その元はWin3.1、DOS、といった具合に
    遡って行ってもできの悪いシステムである事は変らず、
    どこへ行ってもみんな必死に「否定」、あるいは「死の想像」
    から逃げて動き回り、逆に「否定」や仮想を増幅しているだけで
    ホントにうまく騙されていると思う。
    
    それから、拾い上げてしまうような「無意味」はまだ「意味」
    であり、無意味と呼ばれる有意味でしかない。
    もし本当に無に収斂する事があれば、意味などという
    妄想をこねたり、考えてしまう「誰かさん」はいないので
    「無意味」すら無いかどうでもいいのです。
    
    何かを求めるという事が既に愚かなのであり、
    考えるという在りもしない何かを求める行為は
    何重にも愚かなのです。
    
    「死を恐れる」とは一体どういう事なのかが問題です。
    「何が」恐れているのか?
    どういう感覚があるのか?
    身体のどの辺がすくんでしまうのか?
    どういう認識が起きると「恐れる」が起こるのか?
    
    とにかくすべての「嫌な事」に向かって行く事が
    「嫌な事」の解消の可能性であり、
    「苦痛や不快感」を味わう事から逃げるのは、
    勘違いしてそれらを蓄積、増幅する事なのですが、
    なにせ「存在」プログラムの第一行目に書いてある
    設定だからか、みんなそれを守って苦しみ続けるのを
    選んでしまうようです。
    一行目だろうが十行目だろうが、そんな事は気にしなくても
    いいのに、苦の一番の発生源に何度でも食らいついて
    いかないでどうやって楽になるというつもりなのだろうか。
    
    あれこれ言ってないで来たものをただ味わっていれば
    いいのに出来もしないのに避けようとしたり引っ張り
    込もうとしたり、勝手にどんどんからまって行く。
    
    具体的に「嫌な事」「不快感」「苦」を感じる事。
    それについて説明も解釈もせずに味わっている事。
    「アホ」は「アホ」のままでどんどん死ぬ事。
    死ぬ際に生きてしまうのは仕方がないのでほっておく事。
    だけどそんな事ははじめから出来ないので
    何らかの自分が引かれる準備体操をする事。
    それは禅かもしれないし、何かの瞑想とか心理的な操作とか
    肉体的なものだったり何だか知らないが、
    「訳もなく」「理屈抜きで」居る練習をする事。
    いつまでも「正当化」の「解釈」をしているようなら全然
    「死んでいない」と言う事になる。
    逆に「死にたくない」のだったらいつまでも理屈を
    こねていればいい。
    
    おしまい。
    

    ■Re: 自己矛盾 by hijk HP at 10月14日(火)23時26分31秒
    いよいよ、有意味に対置された無意味でさえもゴミ箱に叩き込む、完全な「無」の
    本領発揮、という感じで、爽雑物を全部飲み込む一大スペクタクルでした。
    ここまでの一連の流れから、hijkがどんなに苦労して儚くも有意味を拾い上げよう
    としても、絶対的な無は【再帰的に】予めそれが無意味だと約束していることが
    多くの人にも理解されるんじゃないかな、と思います。
    
    それでも相手の言葉尻の一面だけ拡大して喜ぶ愚行と謗られることを覚悟で、
    ・すべての「嫌な事」に向かって行く事が「嫌な事」の解消の可能性
    ・死へまっしぐらに向かうと、皮肉にも「生き生きと」「充足して」生きることになる。
    というのは、bvさんには珍しい"肯定的ニュアンス"のあるお言葉で、
    もしかすると hijkへの最後の"サービス"だったのかしらん、と勝手に思ってます。
    (ううぅ、勝手に思わせておいてくださいぃぃぃ。「馬鹿め、全く逆方向に
     解釈しおって!」と、おいらでさえ言いたくなりますがっ!)
    
    一連の対話編の中で『実践』は余りに重い意味を背負わされてしまったので、
    ・「訳もなく」「理屈抜きで」居る練習をする事。
    という hijk自身 折りに触れて「実行」している練習問題が出てきたのには
    少し救われた気がしました。量はともかく方向性くらいは合ってそうだな、と。
    
    ※これまで、肯定的なニュアンスの言葉を避けてみましたが、今回のレスでは
      ワリと気兼ね無く使ってます。bvさんの「無」(≠無意味)の前では、表現が
      肯定的か否定的か中立的か、も、"些細なこと"だ、という開き直りに於いて。
    
    大きな収穫として、hijkは、今後、文字ヅラの議論で「おまえなんか死んで
    しまえ!」と言われても、逆上することはなくなるでしょう(笑)。そして、そんな
    相手には、「死ね」なんて大事な言葉は、勿体無くて言えないですね。
      ※「死につつある」ということの"価値"かぁ………思いもよりませんでした。
        この次元に於いて無からの引力はいよいよ濃厚になっていきますね。
    
    ◆一度「有」を獲得してしまったら、漸近的にしか「無」へは至れない(要するに
      絶対至れない)………っつーのが、存在の不快感の一側面だったんだなぁ。
    これが、現時点で思いつく、「無」に対する hijk流の最高の賛辞です。以上!
    

    ■あきの句 by bv at 10月15日(水)09時19分51秒
    なんだか急に風邪が治ったか、風邪薬で頭がいかれてしまったような書き方ですね。
    
    >いよいよ、有意味に対置された無意味でさえもゴミ箱に叩き込む、完全な「無」の
    >本領発揮、という感じで、爽雑物を全部飲み込む一大スペクタクルでした。
    
    本当に「全部」飲まれてしまえばいいんですがね。
    
    >多くの人にも理解されるんじゃないかな、と思います。
    
    うー〜ん、hijkさんと他2、3人に話しているんですけど。
    他の人がどう誤解しようと関係なくて自分一人のことなのです。
    
    >もしかすると hijkへの最後の"サービス"だったのかしらん、と勝手に思ってます。
    
    最後というのは最後にならないとわからないものです。
    最後って何でしょうね。
    
    >少し救われた気がしました。量はともかく方向性くらいは合ってそうだな、と。
    
    量は非常に重大なんです。ゴミが少し減る事があっても、絶対量が減らない限り
    増えているだけなんです。
    
    >  肯定的か否定的か中立的か、も、"些細なこと"だ、という開き直りに於いて。
    
    詰らぬ事に少しだけこだわって言いたいことを言わないのは「溜まります」。
    詰らぬ事に少しだけこだわって言いたいことを言うのも「溜まります」。
    
    >大きな収穫として、hijkは、今後、文字ヅラの議論で「おまえなんか死んで
    >しまえ!」と言われても、逆上することはなくなるでしょう(笑)。
    
    まともに逆上さえ出来ない人間にしてしまったようで失礼しました。
    
    >  ※「死につつある」ということの"価値"かぁ………思いもよりませんでした。
    >    この次元に於いて無からの引力はいよいよ濃厚になっていきますね。
    
    個人的にはいよいよ逃げる体勢が強まって来たなと見ています。
    
    >◆一度「有」を獲得してしまったら、漸近的にしか「無」へは至れない(要するに
    >  絶対至れない)………っつーのが、存在の不快感の一側面だったんだなぁ。
    
    この理屈の付け方は「諦めたフリ」をするのに都合が良い。
    
    >これが、現時点で思いつく、「無」に対する hijk流の最高の賛辞です。以上!
    
    賛辞は愚弄嘲笑とかわらない。
    「『無』って凄いねー。ほら、わかったから、もういいでしょ。あっち行って。」
    そう聞こえてしまう。
    
    誉められて文句を言う人間が少ないので、誉めたり尊敬したりして
    追っ払うという自動的な回避手段が良く使われる。
    けなすよりも攻撃される確率が圧倒的に低いので、身の安全を気にする人には
    重宝される。
    誉めてもけなしても「評価」をしているわけであり、そこには「価値観」という
    「何かを確かに知っている」自分がいる。
    
    逃げない場合は、考え込んで黙ったり、何がなんだかわからなくなったり、
    思考が動いても単なる質問や意見という形での出方が多い。
    逃げないのは「ハラ」が据わっていなければ無理なので抵抗するにしても
    正面から向かって行かないと物事がやけにこじれたり、いろいろ歪み、
    そういう癖が付くとほうぼう捻じ曲がっていく。
    コテンパンにやられてしまえばそれは痛いが、後は守るものが無くなってしまうので
    「もうどうにでもしろ」と開き直りが出てその結果「ハラ」も据わりが良くなり
    逃げ腰が減る。
    
    しっかりとした「勝負」を避ける現在の日本の風潮では「臆病でびくついていて」
    「守るのに汲々として」その結果詰らぬ事で怒ったりむかついたりするが
    これまた詰らぬ理由で身の危険を承知で攻撃したり、しっかり恥じを晒して
    自分の愚かさを痛感したり、あるいは完全にノックアウトされて
    守ろうとしていた詰らぬものが死んだり、そういう事をしない。
    そこで憎悪や不満はますます溜まり、使われなかった攻撃性は歪んで発露される。
    病気や通り魔的犯罪、性的な攻撃性、学校だけでなくどこにでもある「いじめ」、
    そういったものは当たり前の現象であってこのままだと増える事はあっても
    減りはしないだろう。
    「ぐーの音も出なくなる」まで「敵」に食らいついていくアホな根性が
    無ければ、うじうじと陰惨に嘘と恨みをこね続けたりする。
    そして本当の敵は「存在」という「自分」なのだ。
    
    あちらのHPを覗いたら、丁度ある特定のものから下の投稿が「事故」で
    消えたそうだ。全く変な「自己」、でなくて「事故」もあるものだ。
    私が主催者ならサーヴァーの管理者に文句を言ってログを調べさせ、
    釈明を求めるところだが、掲示板のパスワードを「誰か」に知られていれば
    そういう「事故」を起こされてしまうこともある。
    こういう「事故」も居るだろうと思ったので、あらかじめすべての
    コピーを取っておこうかと一度思ったのだが、消えて困るようなものは
    ないし、面倒なので止めておいた。
    
    やむなしき、あしきいやみの、あきづきか   bv
    

    ■Re: あきの句 by hijk HP at 10月15日(水)13時26分47秒
    風邪薬で頭がイカれてるってのは、物理的にも当たってます(爆笑)。へっくしっ!
    
    大雑把に言って「無の理屈」と、「無への実践」のうち、理屈の方は確認し尽くし
    (同時に再帰的・漸近的定義の絶対的な「無」という強靱さの理屈も表面化した)、
    焦点は「実践」というイヤでも「有」「有界性」との関係のある諸問題に移りつつ
    あるようですね。bvさんのレスも、無の理屈の延長線に直交して、人間関係という
    思い切り人間臭い諸問題に焦点が移っていましたし。
    「あっちいって」なんて滅相も無いですが、「不協和音が無くなってしまった」
    とは感じています。たかが文字・記号で表現できる範囲は了解できてしまった。
    
    結局、「理屈」とゆー【補助手段】は簡単に理解・消費されてしまうわけで、
    また、最初っから本質的問題ではないとbvさんも断言されている。
    残る論点は「実践の量」という、非常に【有意味な】(無と正反対の)
    「ハウツー哲学」「宗教」の領域の問題なわけで、これには肉体の檻、社会の枷
    という各論的、プライベートの問題が、必然的に混入してきます。
    ……で、こっちの方の"議論"、"論争"には hijkは あまり興味無いということを
    ここに宣言しておきます。(境界条件を考慮して各人が勝手に決めることだから。)
    
    無論、bvさんの定義する「無」への到達方法は、生きている限り皆無です。
    (幸いなるかな我々は生物であるが故に最終的には「死」によって誰でも達成
     してしまうんですが。) 死を選択しない以上、無への漸近線を"楽しんで"いる、
    という意味に於いて、それは極めて人間臭く【有意味】でしょう。
    
    hijkは、性急に「よーし自分を変えよう」なんていう表層をいじるだけの「似非実践」
    では自分は変わらないと知っており、消費すべき時間の長さを軽んじてもいません。
    まぁ、これを「逃避」とか「問題の先延ばし」とか表現されるのかもしれないですが、
    hijkのような若僧が突発的に実践にハマる方がよっぽど軽薄で逃避的だと言えます。
    前の1年、この1年、という感じで、何らかの実行を含めて、現在進行中です。
    (その"行きつ"、"戻りつ"の改版履歴が、このホームページ、というわけです。)
    
    おおっと、ここの電魂盤のデータは、早速バックアップしておきました!
    

    ■ただ by bv at 10月16日(木)07時33分32秒
    >「あっちいって」なんて滅相も無いですが、「不協和音が無くなってしまった」
    >とは感じています。たかが文字・記号で表現できる範囲は了解できてしまった。
    
    誰が何を言ってもやっても、その言動には動機、背景がある。
    言動や、自覚している部分の「存在」は氷山の一角にすぎず、
    「背景」に目が行くようになると水面下で大きな塊がうろうろしているのが
    感じられる。
    
    上の文は、一言で言うと「もう分かったってば」、そう言っている。
    ただし「わかった」と思う時はわかってなどおらず、所詮わかった「つもり」
    に過ぎない事を都合よく忘れている。
    本当に「了解」していたら自殺したくなっていて当然なのだ。
    とにかくおとなしくなどしていられない不安、焦燥が押し迫って来て
    「どうしよう?」などとどうにもならないのを知りながら問いが止まず、
    狂気か自殺かのふちまで行ってしまう。
    だから「了解」などはされていない。現状ではできもしない。
    それも当たり前の事で不思議でも何でもない。
    全く機械的に、そうでしかありえない。
    
    >……で、こっちの方の"議論"、"論争"には hijkは あまり興味無いということを
    >ここに宣言しておきます。(境界条件を考慮して各人が勝手に決めることだから。)
    
    これは「言葉の遊びだったらいいんだけど、本質的な事は付き合いたくない。」
    と言っているので、「それは初めから感じていたので心配しなくていいよ。」
    と答えておこう。
    
    >無論、bvさんの定義する「無」への到達方法は、生きている限り皆無です。
    
    これは「方法」が無いのだから「実践」出来ないし、しなくてもよいという
    正当化の言い訳である。別にそうしろともそうした方がいいとも言っていない
    のだから、釈明などしなくてもよい。
    
    >hijkは、性急に「よーし自分を変えよう」なんていう表層をいじるだけの「似非実践」
    >では自分は変わらないと知っており、消費すべき時間の長さを軽んじてもいません。
    
    知っているのはそれだけ本質に近いのだが、簡単では無いと知っているが故に
    本当は死にたい心が在るにもかかわらずあれこれ理屈を付けて誤魔化そうとする。
    
    >まぁ、これを「逃避」とか「問題の先延ばし」とか表現されるのかもしれないですが、
    >hijkのような若僧が突発的に実践にハマる方がよっぽど軽薄で逃避的だと言えます。
    
    年はたいして関係ない。私は基本的には14の時からはじめた。結構長い準備期間が
    終わって本格的にお掃除が進みだしたのは2年前からである。
    始まる時には勝手に始まるのだが、hijkさんの場合は早い方がいいと勝手に感じている。
    
    >前の1年、この1年、という感じで、何らかの実行を含めて、現在進行中です。
    >(その"行きつ"、"戻りつ"の改版履歴が、このホームページ、というわけです。)
    
    それが感じられたので「はじめまして」の文章を持って来ました。
    
    >おおっと、ここの電魂盤のデータは、早速バックアップしておきました!
    
    前回の書き込みを読んだのか、あちらで消えた言い訳をしていたので笑ってしまった。
    その言い訳とほぼ同時に「自称友人」も不在が続いた「言い訳」をたずさえて
    復活したのでとんだ偶然だとシンクロニシティーの偉大さに感動が絶えなかった。
    「嘘付き」には特有の「匂い」がするものである。
    分裂したいだけ分裂して、繕いたいだけ繕えばいい。
    誰もが程度の差こそあれ多少は「嘘付き」なのだ。
    ただ、嘘の上塗りが重なるとやはり醜い。
    ごてごてと塗り壁のような厚化粧をしたおばさんやどんな種類のものでもいいから
    注目を浴びたい為に何でもするパンクの人達のようだ。
    
    詰らぬ話題はそこらにして、実践を始められない理由の一つは、
    実践が効いてくると溜まっていたゴミが浮上し、それに伴って
    精神的、心理的、肉体的な苦がどんどん出てくる事である。
    それらの一つ一つは、ただ味わっていれば早ければ数分、長くても数日で
    通常嘘のように消えてすっきりしたりするのだが、堰止められたダムが
    崩れる時のように、出始めは結構きつい事がある。
    その事を知っているか、あるいは何が在っても後戻り出来ないような状態に
    なっているかしないと、そこでショックを食らって当分(普通は一生)
    ある種脅えたままで人生を送るようになってしまったりするのだ。
    日ごろからいろんな「痛み」を味わって慣れていれば脂汗を流しながらでも
    意識的にはそれ程翻弄されないで済む。
    逆に言えばゴミが浮上して苦しくならないような実践は
    おままごとでしかないということである。
    
    あ、それから肉体が死ねば終わりというのはそうである可能性もあるが
    何の保証もないので余りそこに望みを託さない方がいいと思う。
    肉体に物質的に蓄積されたデータがその後の物質宇宙の展開に影響を
    及ぼさないとは言えないのである。
    変な共鳴現象でもあってその人が溜めた苦痛の結晶が肉体は火葬などされても
    他の場所か時間かに発現しないと言い切れるだろうか。
    しかも普通みな快感はまあまあきちんと味わうので、溜まるのは嫌な事ばかり
    なのだ。
    だから、輪廻とかのような事がもしあるとしたら、来世が今よりましになる
    事は期待しない方がいいのだろう。
    ただ、余り苦痛ばかり溜まると皆誤魔化しきれなくてすぐ自殺してしまうので、
    死ぬ際に光のように感じられる中和剤を投入してそれからゴミの蒸留作業を
    経て、また新たに目一杯苦しめるようにしてくれるという「うわさ」もある。
    とにかく「希望」を持たせる、「良い事」という第二仮想レベルをちらつかせて
    「悪い事、否定、死」という第一仮想レベルに直接我々が居座らないように
    うまく設定されているらしい。
    なぜなら、そこに居座ると「存在」という仮想システムが崩壊してしまうからだ。
    
    本当の「希望」とは、そんなものは知らない、わからない、求めない、
    「希望」など無い事だ。
    本当の「幸せ」とは、そんなものは知らない、わからない、求めない、
    「幸せ」など無い時だ。
    本当の「何か」とは、そんなものは知らない、わからない、求めない、
    「何か」など無い時なのだ。
    だから、力の限り、命を懸けて、本当の、絶対の「何か」を
    知ろう、わかろう、求めようとした者だけが、「何か」を手にする。
    それ以外の者は嘘で満足して嘘の上塗りを重ねる。
    ちなみに嘘は悪くもよくも無い当たり前の事だ。
    
    絶対は感覚として確かで疑いようが無く、頭では全く不確かで捉え得ず、
    そのひねりが感情を巻き込んで混乱を増幅する。
    それは全く確かで全く不確かでどうでもよくてそのうえ完全なるこだわりなのか、
    極端に走らないと詰らぬ振幅を繰り返すのみである。
    
    救急医療パックのような詰め合わせの書き込みになってしまった。
    どうせやるならということで医療の話題。
    
    風邪、薬なんか飲まなくてもだいたい治るんですよ。
    それに鼻水って脳味噌のお小水みたいなもので、他の排泄作業と同じく
    どんどん出しちゃった方が気持ちいいですよ。
    涙もそうでどんどん泣いちゃうと目がきれいになったりしますよ。
    ひたすらお布団にくるまってどんどん汗をかくのもすっきりしますよ。
    くしゃみもお掃除の一環としての効果があるので出るものは気にせず
    出してしまうのが風邪に限らず楽ですよ。
    調子の悪い時は食べ物でも情報でも何でも必要最小限にすると
    すっきりしますよ。
    普段からどうしても必要なものだけを摂取するようにしていると
    身も心もダイエットになって安上がりで、飽食しておいてから
    肥満対策の薬を金払って買うという人間の知性を象徴してるような
    生活のパターンを続ける必要も無くなりますよ。
    これを一人の人間が実行しても健康保険システムが破綻するまでの
    時間が数秒延期されるだけでしょうが、当人は医者にかかる必要が
    ほとんど無くなってしまうので関係が無いのです。
    
    無活動、静寂という薬に慣れ親しむと、酒も読書も他の中毒行為も
    単に「いらなく」なってゆく。
    ただ、この薬は滅法苦く思えたりするのだ。
    それゆえ、物好きだけが愛用する「ただ」という最も高く付く薬なのである。
    
    
    ただゆえに、のまざるものに、やみのなき      bv
    

    ■Re: ただ by hijk HP at 10月17日(金)01時28分04秒
    言語は現象的(相対的)なもんで、「了解」ってコトバ一つとっても
     hijk:  単に論理上、形式システム上では見解に不一致が無くなった
     bvさん:表層的理解でなく、「心底」意味が染み渡った時に了解と言える
    という異なる説明レベルを持つわけで、bvさんのレベルでの説明に異論はありません。
    
    医療の話題は、今病気の状態であるせいか、凄く納得してしまった。
    身体の自然な反応に任せること、必要最小限しか食べないこと………ここには
    真実の響きがあり、耳が痛い思いがしました。(更に深い暗示を感じつつ。)
    なるたけこれは留意したいと思います。(厳密に「必要最小限」はツラそうだ。)
    
    実践の痛さ。熱湯に指先だけ突っ込んでヒーヒー言ったことくらいはある
    おいらとしては、次は足くらい突っ込んでみたいと思うので準備運動が必須です。
    (また指先だけ突っ込んで弾き反されるくらいなら、やらん方がマシ。)
    それで、ふと疑問が湧いたことがあります。無限再帰の完膚無きまでの「無」を前に、
    なぜ、(a)「熱暴走状態から有限の実践で離れた、やや無に近い点」と(b)「熱暴走状態」
    を分けられるのか、と。究極の再帰性の先の無の前では(a)も(b)も同じ。実践是無意味。
    こうして、「ほら、何やったって無駄じゃん。現実を見つめようぜ」と安心して逃避できる。
    ところが bvさんは、「無」に対する絶対性は保持したまま(「ほどほどの無」なんて
    認めないまま)肉体の檻の中での「実践」を試みることにも価値を置いておられる。
    どんな"悟り"か"折り合い"の結果、「実践」が、絶対的無の前にも意味がある、と確信された
    のでしょうか。それは、突然訪れる希有な感覚なのか、ある人には全く自明のことなのか。
    おいらには確信など無いばかりか「実践」の先の到達点が絶対的な無の前には今と
    大差無いと感じていても「まぁ今よりマシ」っていう消極的な意志しかありません。
    (『極端に走らなければ詰まらぬ振幅を繰り返すだけ』という言葉に納得してるのに
     こーゆー疑問を発する自分という構造が、どうしようもなく人間臭いですが。
     しかし「無」の無限性に対する「実践」の有限性、というもどかしさが消せません。)
    
    諦めが悪いですねぇ、どうせ好きで時間感覚消去の儀式を繰り返すくせに。
    勝手にやってりゃいいのに、bvさんに認めて欲しいんですかね。やだやだ(笑)。
    
    「禅」というのは公案とか読む限り「無」へ誘うというより、裸の心しか
    感じることの出来ない「最小の自己矛盾」を感じさせる宗教と見た。なんと、
    おいらが今一番欲しているものだ。無か矛盾か無時間か量子波動か並行宇宙か、
    とにかく「感じる」には五感と思考の消去が重要だけど、沈思黙考よりも、
    滝に打たれる(笑)とか、考え尽くして思考をホワイトアウトさせてしまうような
    発散型の到達法の方が性にあってるみたい。エントロピー最大と最小は同型だし。
    
    しかし………14歳………おいら、何をやっていただろうか。自分の内側に鬱積
    なんか溜まってなくて、決められたレールを走るのに日々精一杯で、
    その状況に疑問や不快感を持つなんて、全く不可能だったな………。そう思うと、
    ゴミを溜めて溜めて溜めまくるという逆療法もアリなのかもしんない。
    

    ■Re: ただ by hijk HP at 10月17日(金)06時44分39秒
    うーむ、流石に熱に浮かされて書いてる文はスッキリ整理されてなくて駄目ですねぇ。
    ………っていうか、「無意味に諦めの悪い言葉遊び」になってしまいました。
    ここまでの bvさんの書き込みを読み返せば 答えは既に示されているコトに、
    また疑問を投げかけてるってのがアタマ悪過ぎ(苦笑)。無限性にこだわって、
    言葉遊び(理屈)の上で、なんとか『実践』を無意味化して逃避しようって「意志」
    がミエミエ。つまらん屁のツッパリしか出来なくてごめんなさい。(熱のせい。←言い訳)
    
    『実践』の価値は肯定してる。その量は絶対的に不足してる。今後も続ける。
    ただそんだけ。量の絶対的な不足を指摘されたからって、理屈(言葉遊び)で
    しのごの言い訳するのは、みっともないな。(っつーか、無意味。)
    それは「心底」了解してない、だから自殺したくなるほど切迫していない、
    今の生活だの何だのといった制約もある、っていう個別的な量的な問題。
    質的な問題、方向性、言葉遊びの形式上での bvさんとの不協和音は無くなったと
    宣言しつつ、無理に不協和音をひねりだすのは馬鹿でした。反省。
    
    本ホームページで言えば、エッセイの第5集が"理屈の方向から攻めて最後は
    崩壊・挫折する"ことの記録で、「全ての知を愛する人々へ」の「馬鹿の独白」が、
    意識の単純化という初歩の実践を試みた際の副産物。記事には、この時の
    スッキリ感だけを記述してますが、実際はそうでもありませんでした。
    平坦・単純な意識には、自分という存在が超グロテスクに見えて、
    徐々に意識が戻って『この"蠢くグロテスク"の一杯詰まった存在が、否応無く
    自分本体なのだ』という実感が濃くなった瞬間に、なんか「うわーーーっ!」って
    なっちゃって、バッと自分本体が均一な霧になってしまえばいい、確かにそう
    「願った」後に、更に意識が戻ってきて、現実の暴走状態にしっくりハマって、
    「さっきの感覚は無かったコトにしよう」(爆笑)ってなる。でも、自己への不快感、
    違和感と言ってもいい「自己の排他」の感覚に焦点絞って、一応記事を書いていたら、
    このホームページのさわやかな(←どこが!?)雰囲気にそぐわなくなってしまった
    ので、掲載は諦めました。(書いててツラくなったので断念したという説もある(笑))
    こーゆーのに面と向う純文学者が自殺するのも、ちょっと分かる気がする。
    今のおいらの生活パターンだと、折りに触れこの毒汁が懐かしくなった時に
    舐めに行くのが精一杯で、やっぱりベースは現実の乱痴気騒ぎの方ですねぇ。
    
    「肉体が死ねば終わり、というのも疑ってみろ」という部分はスゴく面白く、
    色々考えてみたい題材なのですが、今、消費しちゃうのが勿体無いので
    健康になってからじっくり考え尽くしてみたいと思います。
    

    ■死神 by bv at 10月17日(金)07時15分09秒
    結局はどう感じるかという事に帰着するようです。
    
    火事に巻き込まれているのに、その現象を解明しようとしたり、
    理屈をこねたりしてもそこで「熱さ」を多少誤魔化す事はあっても、
    火傷を負わないで済むわけではないのです。
    (注意)これはたとえである。
    
    火に手を入れて熱ければ引っ込めるのと同様に、
    「存在」が不快であるならば何かはじめるのです。
    「何やっても無駄じゃん」というのも「何もやっていない」つもりかもしれないが、
    立派に「不快からの逃避」を「やってしまっている」のです。
    それは、「安心したつもり」に過ぎず、不安や不快感や疑問が以後問題にならなく
    なることはないのです。
    
    初めから何度も繰り返し言っているように、「動き」の認識が不快なのに、
    それを避けようと「動く」ようになっているのが人間だけでなく「存在」なのです。
    
    愚鈍な現代人には火事の火の粉を感じる事も出来ないので、
    まずは多少現世御利益的な意味も含めてゴミ掃除に着手すると
    だんだんある種敏感になって、火の熱を実感するようになり、
    そうなれば自分が既に長い事知らない間に勝手に走り続けていたのを感じます。
    ところが、この火事は実は見せかけで、走れば走るほど風を呼んで火が
    消えないようになっているのです。
    そこで、走るのに疲れ、走る事が火を消さないと言う事が身に染みると
    立ち止まって逃げずに火を感じ、燃やされて、死んでしまう方を選ぶのです。
    
    ここで「火を感じる事」が不快感や不安から自動的、機械的に逃げずに
    それを味わってしまう事、「燃やされる」のが「動き」を消費するのに
    一種「目一杯生きる」事、「死んでしまう」のはもう何も分からない事と
    最終的にはあらゆる意味で死ぬ事と言えます。
    
    ヒンズー教等が言う、根本原理との合一とは「燃やされる」プロセスの
    ある種の状態とも言えるかもしれないし、一時的に「燃焼する」ことは
    誰にでもあるようにも思えます。
    ただ、普通はそういう体験を切り刻んで解釈し、「自分のもの」にして
    意味を与え、自己を守って走り続ける道具にしてしまうのです。
    
    Hijkさんの場合も以前「知っているだけにたちが悪い」というような事を
    言いましたが、なまじ「無」の匂いを嗅ぎ付けるが為に、かえって臆病に
    なって走りやすくなってしまうわけです。
    
    また、「実践」はその一部分を切り出したつもりになっていろいろ分析したりすれば
    もっともらしい裏付けも予想も付いたりするのですが、
    「先のことがわからない、気にならない」状態になっていく性質が在るので、
    「無」に再起するのだから・・・等と、「無」を味わった事もないくせに
    知った「つもり」になってそれを避ける事はおわらいぐさなのです。
    つまり、実践の先の到達点などと言う妄想が無くなるのが初歩なのです。
    
    逆療法はやり方によっては効く場合もあるようですが、今の話し方だと
    駄目だと感じました。
    一番「嫌な事」が一番の扉であり、性に合っていない「何もやらない」
    というのが結局はいいのでしょうが、気の済むまでうろうろする事になります。
    うろうろするのを長引かせたかたっら中途半端にやる事。
    うろうろするのにうんざりしていたらやる時は徹底的に馬鹿になってやる事。
    Hijkさんの場合は割と凝り性なのではまれば飽きるのも早いかもしれません。
    
    ハマる、飽きる。ハマる、飽きる。ハマる、飽きる。ハマる、飽きる。
    ゲームであれ他の趣味であれ、個々のものに目を取られていれば
    際限無くこれを繰り返しゴミを溜めていく。
    「何で俺はこんなことやっているんだろう?」と一度立ち止まって眺めると、
    それがひどく馬鹿馬鹿しく見える。
    それは、当然の事だ。実に馬鹿馬鹿しい事なのだから。
    
    そして馬鹿馬鹿しい事を繰り返す愚かな自分が嫌になって酒を飲んで
    誤魔化そうとする場合もある。
    お酒が「おいしく」なったら、その人の人生は以後機械的に鈍重になる。
    酒が癖になった人は既にアル中なのだが、簡単に感じられる特徴がある。
    それは、あたかも酔っ払いが千鳥足を「引きずる」ように、言葉や思考を
    引きずりはじめ、感性を失っていき、機械的反復が増え、愚鈍になっていく。
    癖の程度や飲む酒の種類等により、酒が入っていない時でもこのような
    状態が一般化していく。
    そうなるともうおしまいである。
    なんだかわけのわからぬ言葉をわめきながら、やりたい事も満足に出来ず、
    世間的な幸福さえおぼつかず、どんどん溜まっていってそこから抜け出る事は
    事実上不可能になる。
    学者なら頭脳を失い、詩人なら澄んだ心を失い、体育系なら運動能力を失う。
    そのうち一瞬意識がハッキリして自分の状況を感じ、立ち直ろうとしても
    物質的に肉体も侵され、ほぼ完全に無理なのが痛感されてしまうので
    アル中の進んだものには自殺が多い。
    
    睡眠薬や沈静薬、抗ウツ剤などの薬物も似たり寄ったり。
    ゲーム、テレビにラジオ、読書にインターネットも同様。
    
    「行為」事態を消費し尽くす、逃げる手段ではなくてとことんその為
    だけに何かをやる、そういう「燃やす」行為以外はすべて「溜まる」。
    そして「燃やす」行為は、「嫌な事」に対面しつづけてはじめて
    実質的に可能になる。
    
    「発散型」がいいと思うのなら「今何をしているのか、なぜそれをしているのか」を
    忘れないようにしてやってみると少しは違うかもしれない。
    人間に大した自覚などないのである。
    
    「実践」の意味というような疑問を持っているようでしたが、
    生きている限りそこは既に否定・肯定にはじまる「意味」という「嘘」「妄想」
    の世界であり、そこでは各自が勝手に「意味」を妄想しているのです。
    「意味」は、本来「走る」方角の事とも言えますが、「止まる」という「実践」に
    のみ「意味」を妄想する事で、いたずらに「走り回る」事が妨害されるのです。
    どのみち意味など妄想なのですし、生きている間は「意味を持たずに生きる」
    という事は不可能なので、「死」「停止」「静寂」「無」「闇」「完全否定」などに
    「意味」をくくり付けておくだけです。
    「完全肯定」等を目指す人が多いのですが、原理的に「完全否定」を通らないで
    「完全肯定」にはならないような気がします。
    
    私も以前ずっと間違えていたのですが、確かに仮想の絶対的な視点からは
    すべては無意味なのですが、その視点で24時間いられない以上、
    それを言い続けても仕方が無いのです。
    もし、その視点に常にいられるならば、疑問、不満、憤懣、そう言ったものは
    一切生じなくてもいいのです。
    ですから、大事な事は自分がどの視点で通常生きているかという事であり、
    他愛もない人間的な視点で生きていて生じた問題を他の視点からの観察で
    誤魔化そうとしても無駄で、元の視点に戻るや否や、問題は現実として
    そこにあるのです。
    要は自分が「仮」に取れる視点を自分が通常「居る」視点と混ぜこぜに
    しない事です。
    これをやっていると何年経っても「無意味なはずなのに意味がある」という
    自業自得の単純かつ愚かなパラドックスから抜けられません。
    
    これにはまっている人は沢山見かけました。
    言葉でも理屈でも概念でもイメージでも何でもいいのですが、
    「どの視点からみてそうなのか?」という事を意識してないと
    「支離滅裂」になります。
    
    そしてもっと重要なのは、「どうしてその視点から見てしまうか?」
    という背景に着目する事です。
    人間の取る言動はかなり、あるいはほとんど機械的であり、そのパターンも
    原理的に通常限られているので、背景に注目していると水面下で心が
    どのような動きをしているかはかなり感じる事があります。
    他人の背景に注目するのも構わないのですが、「自分がどうしてそういう
    言動、思考をしてしまうか?」ということを突き詰める事が***非常に***
    重要です。
    
    そして、そうしていれば思考以前に疑問があり、疑問は既に前提を内在しているので
    疑問に基づく思考は普遍的なものではあり得ず、疑問や行動以前に不快感や不安等の
    否定的な感覚があるという、「はじめまして」の文の2番に行き着くのです。
    そして思考は「確かな事」「普遍的な事」を求める「生存の為と合理化の為」の基本
    プログラムが在るので、真面目に考えるならば如何なる答えにも満足は出来ないのです。
    つまり、「考える事によって考えてしまった原因である否定的感覚は解消されない。」
    ということです。
    
    また、自意識、またはハッキリした自覚の発生が疑問を生む事から、
    ある種自分にとっての世界が始まると同時に否定的感覚があらわれるという1〜3番
    に繋がり、「自分が居るという事は基本的に不快、不安である」という見方がでます。
    
    後は我々が不快、不安の否定的感覚を避けようとするプログラムがある事を
    自分で観察してみれば、「自分が居る限り不快、不安があり、それを避けようと
    考えたり行動したりする。」となり、否定的感覚を避ける為に動いたのにそれは
    解消せず、かえって強まったので、「否定を否定するのは良い」という「肯定」なる
    嘘の上塗りが「理屈の上で正当化して誤魔化す試み」としてなされたのです。
    
    それからどうなるかは上の方の火事のたとえで言った通りです。
    
    だから「哲学」やろうと「学問」しようと「宗教」しようと「何」しようと、
    「肯定」を求めてやっているのであれば、それらをやってしまう原因である
    「否定」は解消されないどころかますますこんがらがって行くのです。
    まずは「否定」の何たるかをあれこれ言ってないでじっくり味わう事。
    そして生きている間ずっと味わい続ける事しか、「どうにもしようがない」のです。
    根本的な漠然とした不快感、不安感を「思春期の悩み」だとか呼んで馬鹿にするアホは
    きっとまだ「思春期」に至っていないのだろう。
    
    人間は平等になど生まれてこない。あるものは背が高いし、あるものは耳が長かったり、
    みんな違いがある。
    そして、意識の「密度」にも大きな差がある。
    ある人はそれが濃い為に自覚の不快感にさいなまれ、他の人は大した自覚もなく
    中毒の世界で平気に生きている。
    どっちがいいとか悪いとかではなく、「自覚」がハッキリした者にとっては、
    それは世界で一番の重大問題であり、それに取り組む事以外に「生きている意味」
    など妄想出来ないだけなのである。その時点で他はすべて馬鹿馬鹿しい。
    「自覚」に悩まない人間が圧倒的多数を占める地上に於いて、狂った基本プログラムが
    「正しい」「存在」に於いて、それは異常であり、異端であり、反逆者であり、邪魔物
    なので、大きな声でこれを言い続ければ実際そのように扱われる。
    だから私も自分の作業に必要な分だけ、余り目立たぬよう少数の人だけを対象に
    書き込みをしたのである。
    そしてそれが読んだ人にどう作用するかはほとんど気にしていない。
    大した作用など無い事はもともと十分知っているからである。
    もし、これらの文章を読んでそれを自分の身に当てはめてじっくり検証すれば、
    何をしつこく言い続けたのか実感できるだろう。
    
    そしてこれらの文が基本的には黒魔術的呪いでもあり、実感した人を「死」へ
    いざなう「死神」の錆びた鎌の一振りであったのを知るかもしれない。
    じょーだんだってば。
    

    ■二番目のレス by bv at 10月17日(金)07時32分14秒
    もう一つレスが出て来たのを知りませんでした。
    まぁ、頭がすっきりする事があったらもう一度
    はじめの奴から読んで見てください。
    
    「死ねば終わり」もそうなのだけど「希望」「期待」は
    肯定を求める事だから駄目なのです。
    大体何かを「求める」時は既に「肯定」を追っかけているので、
    「求めるものと心中する気がない間は駄目」なようです。
    
    それから少し醒めると誤魔化していた嫌な事がはっきり見えるので、
    パニックする人は結構居るようです。
    不安神経症とかはそれが重症で、自分ではどうにもならない
    人かもしれません。
    
    すっきりすると心の騒音が減って騒音が余計目立ちます。
    というか静寂とのコントラストが際立つといった方がいいかもしれない。
    

    ■Re: 死神 by hijk HP at 10月18日(土)01時03分45秒
    [A]『「無」や「死」に対する恐れの実感を増せば増すほど、その逃避行動として
      「走れる」。1回限りの人生を充実して生きるために是非とも必要な強大な
      動機は、「無」や「死」という「絶対的」な斥力を真正面に感じることだ。』
    ………うーん。イイ台詞だ。ホレボレする。………なぁんて自画自賛してると、
    [B]『そう理屈で言明した瞬間に、「無」や「死」の「中へ」入ることは不可能になる。
      仮想的肯定に対置された表面的な "無" しか相手にしない、と言ってるだけだ。』
    と言われてしまう。言う側も、もどかしい。『無を語るのに、何故、無以外の、否定やら
    あまつさえ肯定なんかが出てくるのか。ただの、無。この当たり前の静寂、誰でも一番
    理屈抜きで分かりそうな停止状態が、何故、一番、理解されないのだ。』
    そこを過ぎると、[C]『勝手に暴走しとれ、アホ』という気持ちにもなる。
    そこまで絶望的に「無」に親しんで、その絶対的視点に脚を置いた人だけが、
    [D]『仮想的な全てを無意味とする絶対的視点と、現に存在してしまっている自分
    の視点を混同せず使い分ける』という相補性、二重性、厚みを得るに至る。
    
    おいらは[A]が好きなんです。なんか、意識の密度も天賦の才、と言われてしまうと、
    どう頑張っても[A]の中を一生グルグル回るだけなのかもなぁ、と、溜め息一つ。
    ゲーデルの不完全性定理「盲点の無い完全な理論(形式システム)など有り得ない」は、
    完全なものへの追求は未来永劫達成されず、だからいつの世代の人もイキイキと
    生きれるのだ、と解釈した先生がいて感動したものですが、bvさんの書き込みを
    見ると、形式システムの出発点となる「公理」を立てること それ自体が、
    「嫌な事」に対面しないための壁作りに見えてくる。公理を立てる前に、
    - 何故、公理を立てようと思ったのか、それを考えることが***非常に***重要。
    - 公理を立てることで回避しようとした不安感、不快感。そっちの方を見るべきだ。
    - なのに、人は、そこにフタをして、そのフタを土台にして『考えて』しまう。
    bvさんの一番最初の問い『あなたは、考えることで、"考えてしまう理由"が解消される
    なんて信じてるんですか?』(言い回しは少し違いましたっけ)が、他の諸論と綺麗に
    つながって、元の時間に戻ったように錯覚しました。SFみたい。(←?)
    
    言葉は理路整然としてないかもしれないですけど、熱がある時の方が、へんな
    プライドとか思考力みたいなのが邪魔しないので、bvさんの言われたいことを
    すんなり感じれるという面もあるのかも。
    本質的不快感と炎のアナロジー、発散型実践へのアドバイス、理解=逃避の
    様々なカタチでの描写、各々すごく面白くて10倍のレスを付けたい気持ち
    だけはあるのですが、風邪の時は安静も大事と聞くので今日はおやすみなさいませ。
    

    ■ありがとう by bv at 10月18日(土)04時56分49秒
    うーん、上手にまとめてくれてありがとう。
    
    私は考えないで答えを得てしまう癖があったので
    元々考えるのは面倒で、遅くて、嫌いだったし、下手だったし、
    少し考えるようになったのはつい最近なので
    今でも奇麗にまとめるのは上手ではないのです。
    
    後は人によりけりですがまとめてしまうとすんなり通り過ぎてしまう
    という弊害もあります。
    自分でまとめると「あー食べた」という実感がしませんか?
    
    で、ついでに食べ過ぎの時の消化について。
    まとめた事、直感的、感覚的な瞬時の了解、理論化、
    それらは、「その瞬間」の物なので、捕まえようとしたり、
    それでいつまでも遊ばない方がいい時が多い。
    遊びたい時はさっさと思い切り遊んで、
    後は如何に重要な理論であるように思えても、
    過去の記憶にすぎないので、
    今現在の不快感なり、不快でも何でもない流れなりに
    飛び込むか食らいつくかしてあてもなく漂流していた方がいい。
    
    そして、これらは個人的な事なので他人が理解するか、どう思うか、
    そういう事は一切関係ない。
    自分という他人にさえ一切関係ないと言ってもいいのだろうから。
    
    だから、私のいった事はすべてこじつけの嘘っぱちだし、
    誰であれ、妄想グルグルが嫌になったら勝手に自分という妄想が
    納得してしまって実践に向かうこじつけをこねればいいのだ。
    
    それから、妄想の各レベルは、上位レベルの視野を保ちつつ、
    なおかつそれぞれのレベルで対処する必要があるようである。
    
    一発ですべて吹き飛ぶというのもありなのだが、
    一つ一つ片づけるのも避けて通れない模様である。
    
    細かい事で気になる事でもあったら言って下さい。
    

    ■ていさいとやましさ by bv at 10月18日(土)14時12分38秒
    これはhijkさんには関係なく、
    こっちに書き込みをするそもそものきっかけにもなった
    ゆかりの地に関する事です。
    
    またも、(つまり、以前にもそういう事があった)
    私の書き込みを契機に、HP主催者の体裁と体面への固執が爆発し、
    詰らぬ言い訳に突っ込みを入れるとそのHPが消滅するという
    現象が起こった。
    今回のHPでは主催者がまだ懲りずに最後の言い訳を残している。
    やましいところが無ければ何も気にする必要が無いのに、
    早々と消えてしまうのは私の最後の指摘がいい加減な物で
    あったにも関わらずかなり当たってしまったのであろう。
    
    以前にも同様の行為を指摘されたと自分で言っていたので、
    今回もほとぼりが冷めればまた出てくると私は見ている。
    こういう人物にとってネット上での行動は中毒性であり
    止めたくても止められなくなっている事が多いからである。
    
    去年の今ごろ、海外のニューズグループで常連のアホを叩いた時、
    その後二週間ほど彼のハンドル名が消えていたのだが、
    私が他の人へのレスで「そういえば、あの人、私が何か言ってから
    出てこなくなったねー。」と言った翌日、「実はCPUが燃えてネット
    アクセスが不可能になった」と言い訳の書き込みをして来た。
    「CPUが燃えた?!」、そんな事は通常起こらないのである。
    その後、数日すると、アクセスできないはずの彼はハンドル名を
    変えて再登場し、詰らぬ発言を再開し、あげくに他の人に
    同一人物が嘘を付いているだけである事を見破られてしまった。
    そして、また数日書き込みを休んだのだが、すぐ戻ってくるのである。
    
    今回の展開が言い訳や言い繕いの下手さ、体裁への異常なまでの
    固執、そして言い訳をせずにいられない山のように堆積したやましさ
    という共通のパターンを示した事が印象的であった。
    
    だからこそ、「虚栄と自己嫌悪の振り子を振る」と
    最初から言ったのに、良く読まなかったのか、
    自分がその状態にある事をしっかり感じたり見つめたり
    出来なかったようだ。
    
    ま、ほとぼりが冷めて(こういう人はかなり素早く冷める場合がある)
    再登場する時には、私はいないだろうが、嘘はもう少し上手く
    付いた方がいいだろう。
    そして、言い訳をするのはやましいところがあると叫んでいるのと
    同じなのを覚えておくといいのだろう。
    
    こっちのHPの主催者がコンピュータや人間といった出来の悪い
    機械の扱いに上手いのか、私を料理したのと対照的であった。
    
    関係ない、実にくだらぬ話、終わり。
    

    ■一里塚 by hijk HP at 10月18日(土)21時57分49秒
    『まとめてしまうと、すんなり通り過ぎてしまうという弊害がある』…その通りですね!
    これは、まとまる前の(伝言板にしてはかなり多めの(笑)) bvさんと hijk の)テキスト
    の後にくっつけているから許されるだろう、と思って書きました。
    「ここだけ読んですんなり分かった気になってるキミィ! おいらがどんだけ一生懸命
    悩んだか、わかってるのっ!?」……と言いたくなる。(←うわぁ、心が狭いこと(笑))
    
    ………閑話休題。「まとめ」から思い出した、ある人の言葉があります。
    『人生は、人生1回分の時間をかけなければ理解できない。』 hijkは反抗的に
    「そんなんやだ! 理屈のチカラで、30年くらいで全部理解してやる!」と
    思ったものですが、今は「人生ってそーゆーものなのかなぁ」と思ってます。
    同様に、bvさんが まとめ「だけ」を置き土産に去ってしまわれてたら、何が感じられた
    (←"分かった"と書かないところに進歩の跡が!?(笑))か。何も感じなかったでしょう。
    こんなにも"時間"を割いて頂いて、本当に感謝しています。
    
    まとめ(理屈化)は補助手段として役には立ったと思いますが、少しはマシに
    感じてみるには、あれだけの思考時間と一種の苦痛が必須だったと思ってます。
    『一つ一つ片づけるのも避けて通れない模様である。』………重い………。
    
    『ていさいとやましさ』についても、少しは bvさんの視点からの見方に慣れた
    ので、「暴走状態の人々」へのイライラ感が伝わってきます。
    しかし、hijkを含めて、99%の人は、このレベルの意味での「言い訳」を奪われて
    発狂しないでいられるほど、強くは無いだろう……という同情も感じます。(甘い??)
    
    全然関係ないですが、bvさんの語学力、凄くうらやましいです。
    hijkは、Internetというよりも、InJapanNetって感じ………(血涙)。