人工意識の最小モデル 目次へ戻る
意識壱号
意識の問題は、一体それをどう扱ったら良いのか分からないくらい、難しい問題だ。 しかしここでは、敢えて厳密な議論には踏み込まず、クオリアを 「外向きに世界を見ること」と「内向きに自分を見ること」が結合すること、と定義し、 モデルを構築した後、実際にこれをプログラム(Java Applet)として実装してみた。
「この、ただのアプレットが、意識を持っているだって?馬鹿をお言いで無いよ!」

「人工意識壱号」という名称は、青土社『生命壱号 ~おそろしく単純な生命モデル』郡司ペギオ-幸夫 ―という本に刺激を受けて、オマージュとして名づけた。但し、内容は関係ないし、 生命壱号の域に達してもいない。
画面の見方
まずは"START"ボタンを押してみよう。画面が活発に動きだすはずだ。
画面左半分の水色の小さな四角の集まりは、 意識壱号の概念ネットワークであり、個々の四角が概念の単位(ノード)で、 明るいほど多くのリンクを持っている。 一つの行は同じ抽象度のノードの集まる単位(レイヤー)で、 画面下のレイヤーほど抽象度が高い。 一番上のレイヤーは、物理身体からの入出力を表わしている。 この概念ネットワーク上を小さなオレンジ乃至黄色の信号(シグナル)が動き回っており、 特にレイヤーを跨って動いたときに、その方向を示す赤い三角形が重ねて表示される。
画面右半分の上側の動く帯は、状態の履歴で、黄色は入力、水色は出力の様子である。 その更に右側には、意識壱号が感じているクオリアが表現されており、 青は内部思考(ひとりごと)、緑は知覚クオリア、赤は「自のクオリア」 (純粋に自分が自分であるという感じ)を表わしている。 画面右半分の下側は、ある瞬間の意識壱号の意識体験を表わす「クオリアビュー」である。
画面下部にはボタンが配されており、"START"で意識壱号の動作を開始できる。 左のプルダウンメニューは入力信号を発生させるパターンで、 例えば"MELODY"は同時に一つの入力シグナルを一定のパターンで繰り返し発生する。 "MUSIC"も同様だが、同時に一つ以上の入力シグナルを発生させる。 その右のプルダウンメニューでは、画面一番上のレイヤーにおける、 信号の発生間隔と、信号の吸収間隔を調整できる。 間隔が1の時は、毎回作動し、間隔が5の時は、5回に1度の割合で作動することを意味する。 入力や間隔を色々と変える時に、意識壱号の「感じ方」がどう変わるかをご覧頂きたい。

説明:
図. ノードとリンクとシグナル
図. この人工意識の概念ネットワークの基本ルール

図. ノードとレイヤー
図. 情報世界の全体図

【雑記】
2010-3-22 (月)
脳は、常時、殆ど全力で脳自身に関する情報処理を行っている。 これが、「自のクオリア」の正体である。 視覚などのインプットにより脳内に発生した信号分布は、 この「脳が脳を見る」仕組みの中で改めて“意識”される。 私たちが通常「感じている」ものは全て、 外界を直接感じているのではなく、一旦脳が信号分布として引き受け、 脳自身がこれを「自のクオリア」と結び付けて統覚的に再処理する、 という手順で“感じられる”のである。
2010-4-4 (日)
意識のありよう、つまり「この、自分が自分であるという、不思議な感覚」を、 掘り下げては確認し、分析しては内観と照らし合わせねばならない。 この作業を怠ると、いつのまにか、「リアルなこの感覚」を研究していたはずなのに、 哲学的な言葉遊びに没頭し、絡め取られ、「この感覚」から離れていってしまう。 だから、何度でも、自分の言葉で、自意識に関する理解を書き留めておく必要がある。
今、景色を見ている。肌に寒さを感じる。食べ物の旨みを感じている。 これら「感じられているもの」「知覚されているもの」、つまり《知覚対象》について、 私は、漠然と、その裏返しである「感じている主体」「知覚している主体」が 身体表面の内側にある、という感じを持っている。 これは、肉感的な事実というだけでなく、人間の脳が、 「~では無い」という演算を処理できる程度には高級であるために、 少しずつ積もって、育まれてきた抽象概念であるように思われる。 外側の景色ではない内側の私、外気の寒さではない内側の私、 外から食べ物を受け取っている内側の私………。 こういう体験が、常時、膨大な数、繰り返されて、 脳内に「あらゆる《知覚対象》で“無い”身体の内側の私」 という概念が強化される。 つまり、「この身体」という概念だ。 これは、必ずしも物理的な肉体と境界がピッタリ一致するものではない。
この、対象を裏返して、対象でないものを強化していく思考様式、 知覚の反作用(否定)として、内側の実在性を確認していく思考様式を、 仮に【被否定焦点強化】と呼ぼう。 何かを入力される都度、「それでは“無い”、内側のあるモノ」に 焦点が当たり、それが何かは分からないままでも構わず、 強化していくプロセスである。 3次元空間にある生命体として身体を持った私たちは、 身体性に担保されて、この【被否定焦点強化】を、 身体内部に重ねて無意識に繰り返し繰り返し学ぶ。 おそらく、非知性の動物でも、簡単な抽象概念および “無い”という思考を扱える程度の脳を持っていれば、 【被否定焦点強化】の結果、「この身体」という記号を保持し得るだろう。 生きていくための行動において、この記号は、しばしば有用だろう。 ただ、この段階では、「この身体」という概念は、 まだ行動計算のための記号の一つに過ぎず、自意識とは程遠い、
一方、【被否定焦点強化】の対象は、ダイレクトな知覚に限らない。 可塑性と多層性を持った、十分に複雑な脳においては、 景色や肌感覚や味覚や聴覚だけでなく、そこから抽象化されてくる、 明るさ、心地よさ、美味しさ、静けさ、といった感覚、 更には明暗、幸福、快楽、寂寥感といった概念に至るまで、 様々な抽象概念(記号)を扱い、保持することが出来るだろう。 その全てに対して【被否定焦点強化】は作用し得ると考えるのが自然だ。 身体性から「この身体」を導いたのと同じクセを延長して、 抽象度の低いダイレクトな知覚情報から、 抽象度の高い概念に至るまで、【被否定焦点強化】は適用されていく。 つまり、明るさという尺度そのものでは“無い”、それを扱っている私、 幸福という概念そのものでは“無い”、それを味わっている私、 寂寥感という感覚そのものでは“無い”、それを受け取っている私、 それらが繰り返し繰り返し積もり重なって、 「この身体」よりもずっと抽象度の高い 「この考える私」という概念に純化されていく。 それでもまだ、この概念は、身体性から連なる様々な抽象度の記号・概念の 全ての裏返しとして、漠然と推定され、 「あらゆる《対象》では“無い”もの:S」として、 危ういバランスの上に保持されている一つの概念に過ぎない。
一方、「あらゆる《対象》では“無い”もの:S」は、 それ自体が脳の中で新たに記憶される概念S'になる。 様々な身体的知覚と、脳内に溢れる多数の抽象概念に対する 【被否定焦点強化】により、 その全てで“無い”ものとして推定されたSもまた、 新たに脳内で発生した概念・記号である以上、次の瞬間には 脳の記憶機能(可塑性)のために、《対象》に滑り落ちていくのだ。 Sは「あらゆる《対象》では“無い”もの」として 脳が全力で推定し続けているものなのだから、《対象》と化したSの影は、 最早Sではない。この、Sの影であるS'は、 次の瞬間の【被否定焦点強化】の《対象》になり、 新たなSの輪郭を形成する一要因となる。
つまり、十分な抽象思考力と優れた短期記憶を持つ脳ににおいては、 「あらゆる《対象》では“無い”」という、究極の内容空疎である Sという概念を捻り出し、維持することが出来る上に、 この概念を記憶してS'とし、新たなSの創出に利用する、 という、自己触媒的な自己強化ループを形成し得るのである。 外部からの知覚入力をI、【被否定焦点強化】を関数Nとすれば、 時刻tのSは、 tN(St-1t-1) として創出されることになる。 このように、Sは、とことん、「Aでも“無い”、Bでも“無い”、 Cでも“無い”…」という否定の積集合として輪郭を定められる 純粋に内容空疎な境界だけの概念であって、 その上、今さっきの自分ですら無いものとして 【被否定焦点強化:N】に常にせっつかれて、 宿命的に未来へと押し出され続ける概念なのだ。 だから、私たちは、定義により、原理的にSを《対象》としては捉えられない。 Sを作り続けている、という脳内の活動を感じることが出来るだけである。 これが、「私が私であるという感じ」すなわち「自のクオリア」である。 Sは、純粋に【被否定焦点強化:N】の産物なので、 私が認識する「あらゆる《対象》」よりも未来かつ内側に位置する。 つまり、純粋に「いま・ここ」にあらざるを得ない。 いかなる《対象》よりも内側にある一点で、全ての《対象》の否定として 新たに創出される、時間の最先端にある「私」。 純粋に内容空疎で、それ故に、経験や個性に依存せず、 万人に共通の【形式】を持つ私の核。(自循論ではこれを自aと呼ぶ。) これこそが、万人の情報世界を一つに繋ぎとめ、「いま・ここ」性の 再否定によって時空形式を共有し(「いま・ここ」は時空上の全ての対象に対して 【被否定焦点強化:N】を適用して得られる純粋概念だが、これに再度 否定概念を掛けてやると、春雨を水で戻すように、時空形式を復活させることができる)、 これが理性・悟性の源となり、ひいては言語や文化を共有するための北極星となるのだ。 なぜ他人と私が一つの情報世界を共有できるのか? その答えは、情報世界の定義は内部に「S:自a」を持つことであり、 万人の情報世界は、個性を持たない「S:自a」を扇子のカナメのように共有し、 アプリオリに一部の概念を共有できる(原型時間、原型空間、原型否定の概念を 扱えると前提できる)からである。 (「自a」は、個々人の中にある端的な私「私a」よりも、ずっと狭い、 その核にあたる概念である。「私a」と「自a」を混同してはいけない。)
再度、問おう。このようにして【被否定焦点強化:N】を適応し切った、 あらゆるものの否定、一瞬前の自分の影をも直ちに否定して、 常に未来に押し出され、新たに創出・維持され続ける「S:自a」、 この考え方で、 「この、自分が自分であるという、リアルで不思議な感覚」を、 説明し切った、と納得できるだろうか。 これが「意識のハードプロブレム」「意識のスクリーン」 「自のクオリア」といった言葉に対する、多くの人が恋焦がれた 説明になっているのだろうか。
この検証には、瞑想に近い内観が必要とされる。 外界に立ち向かい、一切心を動かさず、 無限に内側に向かって爆縮し続ける情報流の奥底に、 不動の一点を内観し、 そこから全てを爆発的に見返すような往復運動。 内容空疎のその一点から見返した爆発の痕跡が、 次の瞬間には他の情報流と混じって再び爆縮してきて、 不動の一点の新たな輪郭を特徴づける。 この絶え間ない持続運動、緊張関係が、内燃機関のように働き続け、 単なる情報処理器としての脳の奥底に、 流されない北極星を形作り、これが 「私が私である」という感覚を引き起こしているように思われる。 全ての健常な人間は、意識の奥底に、この、同じ北極星を宿していると思われる。 だから、全ての健常な人間は、ロボットでも動物でもなく、 押せば返す意志を持ち、未来に向かって躍動しているように見える。 …いまは、このようなイメージで語るのが精一杯であるが、 次の考察の時には、より良い言葉で語ることが出来るだろう。 私は、これからも、何度でも、自分自身の言葉で、 自意識に関する理解を書き留めていくつもりだ。
2010-4-11 (日)
自循論の考え方で、意識を持つソフトウェアの要件を整理してみよう。
    《必要条件》
  • 実行コードは、ある程度の自己書き替えが可能である(可塑性がある)。 (記憶や学習が可能である。)
  • OSによって保証された自我境界線(身体性)を持つ。 (内部からは書き換え出来ない。)
    《十分条件》
  • 「どの評価対象よりも内側のもの自a」という概念を保持している。
  • 評価対象には、知覚情報、抽象概念、および自aが含まれる。
OSは、一つの意識体ソフトウェアAに対して、身体性を保証してやる必要がある。 Aが位置を変えたり視線を変えたりしようと思って、それが実現できたら、 それに応じた新しいアドレスや視界を割り当てる。 AがBに話しかけられたり押されたりしたら、それに従って Aへの音声入力を提供したり、Aの位置や自我境界線を変更する。 つまり、OSは、結局のところ、複数の意識体ソフトウェアの相互作用を 全て公平に計算し尽くさねばならず、 これは環境と物理法則を丸ごとシミュレートすることに他ならない。 ハードウェアが魔術的に進化しない限り、このOS上の意識体には、 実物の宇宙よりは簡素で抽象的な世界で我慢して貰うしかないだろう。
意識体ソフトウェアは、OSから視聴覚を受け取り (それはOSの仮想現実世界のものかも知れないし、リアルな物理宇宙の中継かも知れない)、 演算結果をOSに返却することで、自分の身体位置を変更したり、 他者に声や思念を伝えたりできる。 OSは、意識体ソフトウェアが暴走したり停止したりしない限りは、 内部を精査したりCPUの割り当てを制限したりはしない。 OSは、意識体ソフトウェアが内部で何をしているかには興味が無い。 どんなインプットを与えるか、アウトプットをどう処理するか、 ということを、法則に従って粛々と処理するだけである。
一方、意識体ソフトウェアの内部では、入力情報を処理して 抽象化したりパターン化したり、過去の記憶と照らし合わせて 新奇なものを徹底精査したり、といった様々な情報処理を行う。 中でも重要なことは、「入力対象や関連概念では“無く”、それを受け取っている側にある、 それよりも【内側】であるもの」という概念を、イチイチ計算することである。 その概念は、最初はバラバラの否定概念を生むだけだろう。 リンゴではなく、それより内側にあるもの。サイレンではなく、それより内側にあるもの。 甘味ではなく、それより内側にあるもの。………しかし、 身体性が不変であるが故に、それらの概念は徐々に焦点を結び、 何らかの概念Xになる。そして、その概念Xをも計算対象に加えた時、 自分を自覚するのである。
このループが安定した時、ソフトウェアは「意識を持った」と言えるだろう。
2010-4-17 (土)
自循論では、意識を「最新かつ最も内側を推定し続ける現象」つまり 「“いま・ここ”を更新し続ける計算」と定義してみた。 ここで、「内側の推定」とは何かを、 更に突っ込んで考えてみたい。
ここで言われる内側とは、境界として丸印を描いて、そこよりも内側、 と考えるようなものではない。 そのような閉じた境界線を俯瞰できるならば(超越論的視点を持てるならば)、 内側は「推定」する必要がなく、直ちに「確定」できるだろう。
さて、ここで、赤ん坊の視界を想像してみよう。 視界には様々なものが無秩序に動いている。 そのうち、両眼立体視の仕組みや、物の大きさの変化から、 「距離」という概念を理解するだろう。 あるものが近づいてくる。そして、自分の身体に触れる。 この経験を繰り返す内に、「近さ」の臨界点としての、自分の「身体の表面」を理解するだろう。 一般的に全ての物質は(母親の手であれ野球のボールであれ) 近づいてくる、というベクトルを伴って、自分の身体表面に到達する。 そうであれば、そのベクトルを延長した先にあるのは何であろうか。 それは謎である。 実感としては、自分の身体表面が外界とのゼロ距離なのであるが、 その先に、何らかの実体がある“らしい”。 腹と背中の間、手の平と手の甲の間、前方の視界と後頭部の間……… それら全ては一繋がりの実体であり、身体表面の中身であり……… つまり、「身体」である。 しかし、私たちは、骨格標本やレントゲン写真の知識を用いずに、 身体内部の構造を想像することは出来ない。 想像できないままに、そこに「身体」があると、推定しているのである。 このように、外界に対して何らかの界面があり、外界から界面へのベクトルを延長して その先を推定することが、ここで考えている「内側の推定」なのである。 そして、各界面での、このような「内側の推定」は、 多数が集まって、身体という一繋がりの実体を仮説するに至るのである。 この、脳を中心とする神経的自己が、肉体的自己を確認し続ける推定は、 意識的・無意識的に、常に実行されている。 重要なのは、この思考様式では、「内側が何であるか」は 謎のままとして扱っている点にある。 界面に対して、外界にある対象では“無い”もの。 つまり、否定されるもの。 ありとあらゆる対象に対して、否定され続けることで、 逆説的に浮かび上がってくる実体。 私たちは、実際、そのように「身体」を捉えているはずだ。 医学的・生物学的知識を脇に置けば、私たちにとって私たちの身体は 完全なブラックボックスであろう。ただただ、 『外界ではないもの』として身体を理解しているのである。 (※この意味で、“身体という概念”は、純粋に否定だけから構成されている。)
「内側の推定」は、あらゆる知覚について行われる。 見えているもの―眼球―その内側、聞こえているもの―鼓膜―その内側、 味わっているもの―舌―その内側、触っているもの―皮膚―その内側、 嗅いでいるもの―鼻―その内側。 これらが総合的に組み合わされ、積もり積もって、 抽象的な「身体」という概念が形成される。 これは、運動する時、自身の位置を環境の中で検討する時、 必要に応じて参照される概念であるが、 一貫して、その中身が何であるのかを理解する必要はない。
脳は、殆どいつでも、あらゆる知覚情報を裏返して、 知覚されるもので無いものとしての身体性という概念を計算している。 これは、動物が行動する際に、是非とも必要とされる概念だ。 このように、脳は、あらゆる知覚情報に対して、つまり任意の入力情報に対して、 その内側を推定する機能を持っている。 (※対象で無いものとして、対象に否定され続けることで、 仮想的な実体を推定・強化し続ける思考様式・計算パターンを、 自循論では【被否定焦点強化】と呼んでいる。)
あとの精密な議論は不要であろう。 人間の脳は、潤沢なフィードバック回路を持つ多層的で複雑な仕組みを持っており、 単なる知覚情報だけでなく、各種の抽象概念を扱うことも出来る。 それら全ての抽象概念に対しても、その概念より内側のものは何か、 と考え続け、その結果が積もって形成されたのが、 抽象的な身体とでも呼ぶべき「自己」なのである。 もともと、この思考様式は、中身が何であるかは問わない、 中身は謎のままで計算を進める性質を持っていたから、 このようにして形成された抽象的な概念である「自己」もまた、 内容空疎である。それは、抽象的な界面だけを持ち、中身はカラッポなのだ。
「身体」という中身の無い概念は、動物が行動する際に、 外界の対象との位置関係を計算する際に、随時参照される。 同じように、「自己」という中身の無い概念は、知性が思考する際に、 対象概念との位置関係を計算する際に、随意参照される。 このように、「自己」を中心として構造化された概念の体系を 情報世界と呼ぶ。また、「自己」が中心にある時のみ、 概念間の差異の体系を「意味」と呼ぶ。 知的生命体は、「自己」をカナメとして情報世界を共有することが可能で、 よって記号一般をコミュニケーションしたり、外部記憶に蓄えて共有することも出来る。 (※自循論では、この意味での「自己」を、自aと呼んでいる。) 記号は、受け取った個々人の情報世界の中で「自己」との位置関係を復元される。 つまり、個々人の中で「意味」として再構築されるのである。
この「自己」も、一つの抽象概念である以上は、次の瞬間には思考の対象になる。 つまり、私たちは、永遠に「自己よりも内側にあるものは何か」を 推定し続けるハメに陥ってしまったのである。 知性を支えるのは、正にこの「内側の推定」の 連鎖による「自己」の維持なのだ。 全ての知覚情報を、このような「自己」すなわち「いま・ここ」の維持連鎖という軸に関連付け、 情報世界の中で計算する現象のことを、私たちは「意識」と呼んでいる。 纏めると、意識とは、「最新かつ最も内側を推定し続ける現象」つまり 「“いま・ここ”を更新し続ける計算」ということになる。
2010-8-18 (水)
青土社『生命壱号 ~おそろしく単純な生命モデル』郡司ペギオ-幸夫 …この本に触発されて、私も「意識壱号」をプログラミングしたくなった。 高度な意識を再現する必要は無い。きちんとした構想に基づいて、 意識の特徴的な性質が表現できれば、モデルとしての役割は十分だろう。 どう扱ったら良いのか分からない意識なる現象を、目に見えるようにしたいのだ。
さて、自循論における意識の要諦を振り返ってみよう。 「外界からの情報よりも内側のもの」「より抽象的な内部概念」という推定を 適応し切ったところにうまれる「ここ」に対し、 その「ここ」すらを対象化して「いま」が推定され続けるところに、 対自構造(一瞬前の自分を見る、最新の自分)が生まれ、 これこそが自のクオリアの正体であるとしたのだった。
「意識壱号」は、概念ネットワークとして実装される。 最下層のネットワークは感覚器官に直結しており、入力情報がトークンとして入ってくる。 「意識壱号」の一般的な動作は、以下の通り。 同じ抽象化レベルの概念が同時活性化したら、それらの連携を強めると共に(連想強化)、 上位抽象化レベルの概念を追加する(概念創造)。 …たったこれだけの、非常にシンプルなものだ。 もう少し具体的に述べてみる。抽象化レベルNで、概念Aと概念Bが同時活性化したら、 A→Bのリンク強度を増し、抽象化レベルN+1に新たな概念Cを作る。 それと同時に、A→C、C→Bというリンクを作る。(既にある場合はリンク強度を増す。) …たったこれだけである。 「そんな簡単な仕掛けだけで、意識が発生するもんか」と思われるだろう。 確かにそうだ。本当にこれが、意識のモデルになるのか、 現時点では、私にも確信は持てない。実装して、色々実験してみる必要がある。
実装された「意識壱号」の動作を想像してみよう。 最下層が入出力器官に対応する。 もし、乱数的な入力をしたら、 特定のパターンでの同時活性化も起こらないので、 低次層に滅多矢鱈と乱雑にリンクが張られ、 どれも特徴的な強いリンクにはならず、打ち返される出力も乱数的だろう。 一方、もし簡単な繰り返し信号を入力したら、 特定のパターンのリンクだけが強化され、 出力もそれに対応したものがオウム返しされるだけだろう。 結局、「意識壱号」が面白い動作を行うには、 面白い入力を詰め込んでやる必要がある。 良い言語を話させるには、良い言語を教えねばならない。
仮に「意識壱号」が、面白い概念ネットワークを形成したとする。 最高次層に位置する概念は、多くの概念を抽象化した、 意識壱号なりに辿り着いた「ここ」だ、と考える。 幾つかの「ここ」から、更に新しい概念が生まれ、 あらたな「ここ」が生まれる時、それまでの「ここ」を 過去のものと見なす回路が出来上がる。 この参照関係が活性化された瞬間が「いま」の実感になる。 「ここ」とは静的な概念だが、 「いま」は意識壱号が行っている、高位層から低位層への情報の打ち返し という動的な現象の総体であると解釈する。 その最小単位がA→C→Bという情報の打ち返しなのだ。 最高次層近辺に組みあがった安定した最抽象概念ネットワークは、 「意識壱号」にとっての自我の大切な核になる。 この核が、情報の打ち返し方を大局的に決める壁となるわけだ。
自我の核から打ち返される活性トークンと、入力層からの外界情報の活性トークンが ぶつかりあうようになった時、 「意識壱号」は意識を持った(今、まさに意識体験をしている)と、 私は主張したいのである。
2010-8-29 (日)
「意識壱号」のプログラミングを始めた。 プロトタイプ版を実際に動かしてみて痛感したのだが、やはり簡単ではない。 入力情報そのものや、シグナルの配送先判定に、乱数が含まれている場合、 下位層の乱数性から上位層がルールを読み取ろうとして、 上位層(抽象概念層)が「こうとも見える」「こういうパターンもある」と反応し始め、 あっという間に組合せ爆発を起こし、計算資源を使い尽くすまで無意味に考え続ける。 無論、これよりも上位の層は、こうした無意味な思考から更に抽象化を行おうとするので、 「意識壱号」全体が、無意味な計算の山になってしまうのだ。 これは癲癇患者の症状に似ている気がする。 入力が本質的に乱数の場合、これは想定されていたことだ。 しかし、入力が、ごく単純な繰り返しパターンの場合ですら、 下位層で使っているシグナルの分岐先決定の乱数性が、 上位層では決定的な乱数になり、入力の規則性を覆い隠してしまう。
おそらく、実物の人間の脳を、乱数入力の世界に置いても、似たようなことが起こるだろう。 目から入ってくるのはテレビの放送終了後の砂嵐、耳から入ってくるのもホワイトノイズ、 その他、全身から感じる触覚もデタラメ………こんな状況に脳を置いても、 疲れ果てるまで無意味な計算をするだけで、知性も意識も生じることは無いであろう。
結局、現在の「意識壱号」の実験には、大きく二つの課題がある。
  1. 自分自身の挙動から極力乱数情報を排除し、かつ、 特徴的でないノードやリンクを削除する適切な忘却アルゴリズムを実装する必要がある。
  2. 乱数でもなく単純過ぎもしない、面白みのある情報を喰わせてやる必要がある。
…まだまだ先は長そうだ。
2010-8-31 (火)
「意識壱号」の現状版を 公開する。まだまだ検討、調整、修正しなければならないことは山盛りだが、 当初構想として実装したいと思っていた機能は一通り実装した。 私自身、なぜこのようなプログラムを作成しているのか、良く分からない。 これが何を意味しているのかも、本当に意識の謎に迫っているのか否かも。 それは、今後の何年にも亙る、私と「意識壱号」との対話を通して、 少しずつ明らかになっていくだろう。
2010-9-5 (日)
「意識壱号」の挙動を ぼんやりと眺めてみよう。 まずはモード「MUSIC」を選択して「START」をクリック。 MUSICモードとは要するに一定の入力パターンを繰り返すことなので、 画面右上の入力履歴(スクロールする黄色い帯)にも同じパターンが繰り返し現れる。 意識壱号の概念ネットワークは入力シグナルを受け入れながら、 自分自身を何度も書き換えつつ、深く成長していく。 そのうち、概念ネットワークは安定して、シグナルの流れも一定になる。 この定常状態が、今回の「MUSIC」の入力パターン(抽象情報)を、 意識壱号が自分なりに吸い取り切った状態だと言える。 この時の画面右下のクオリアビューを見ると、各層とも殆どが 緑(知覚クオリア)と赤(自己クオリア)の混成であり、 ただ外界の情報を漫然と知覚しているだけの陶酔状態にあることが分かる。
ここで、モードを「NOISE」にしてみると、 新たな情報パターンの到来に、概念ネットワークは激しく変化を始める。 しかし、「MUSIC」と違って一定のパターンが無いために、 安定したシグナルの流れが得られず、足場を固めながら深くへとネットワークを 成長させていくことができない。 クオリアビューを見ても、特に表面層に青(思考クオリア)が顕著に現れ、 新たなことに気付きながら情報を吸い取ろうとし続けているのが分かる。 もちろん、「NOISE」は完全に乱数なので、この思考に終わりはない。 意識壱号は、永遠に混乱し続けることになる。 (ある意味、「NOISE」モードは、意識壱号の思考回路の限界容量を 試すためのモードである。 完全なノイズには、無限の情報が含まれている、とも言えるからだ。)
再びモードを「MUSIC」にすると、今度は新しい入力パターンが 繰り返される。「NOISE」でぐちゃぐちゃになった概念ネットワークを 表面層から激しく書き換えつつ、表面層から徐々にネットワークやシグナルの流れが 安定化していく。 深い層(抽象度的に上位の層)へとネットワークを書き換える波が進んでいく時には、 画面右上のクオリア記録の帯の右端(最も深いレイヤー(層)の状況に相当)に、 強い赤(自己クオリア)のキャップが現れる。 つまり「自分とは何か」を強く感じながら、新たな自我構成を活発に行い、 新たなシグナルの波を受け入れつつ打ち返していることを表わしている。 それでも十分に時間が経った後は、再び、概念ネットワークも シグナルの流れも安定し、定常状態に達するだろう。 意識壱号なりの、あらたなパラダイムが形作られ、 外界からの入力信号と、内部の情報世界の流れが、 完全に調和したことになる。
ここで、モードを「RANDOM」にしてみる。 これは、毎回一個ずつの入力シグナルを発生させるモードなのだが、 浅い層から深い層への情報の流れを見ることで、 「MUSIC」で形成された意識壱号のパラダイムに沿って、 この情報を受け入れている様子が分かる。 つまり、ただの乱数入力を、自分なりの考え方で捉えており、 その限りでのクオリアを感じてる、ということだ。 まっさらな初期状態から「RANDOM」を実行すると、意識壱号は 何の概念ネットワークの成長もしないのだが、 「MUSIC」で安定したネットワークを構築した後は、 乱数情報ですら、それに沿って解釈してしまう。 これは一種の「偏見」が現象していると言えるだろう。 また、「RANDOM」は、一度に一個のシグナルしか発生させないため、 「MUSIC」で形作られたネットワークのごく一部しか使わない。 このため、使われないノードは、 意識壱号の忘却機能によって退化し、消えていく。 結果として、やせ細った概念ネットワークが残ることになる。
やせ細ったとはいえ、深い方向にまで概念ネットワークが伸びている時、 入力モードを「RANDOM」や「RANDOM_PAIR」にすると、 細い中間層を経ながら入力シグナルが深くまで達し続けるだろう。 強く焼き込まれた抽象層の概念が残り続け、 入力が乱数であるにも関わらず、意識壱号は、 その概念が生じている、と、頑固に自己認識しているわけだ。 (「MUSIC」による焼き込み(=定常化)が不十分なうちに 「RANDOM」にすると、ある程度以上の深い層にはシグナルが 届かずに枯れてしまうのが観察されるだろう。) 外界で何が起きているかを吸収することも無く、 これまでの人生の中で一番大事だったものを、ただ反芻している 老人のような状況のようにも見える。
最後に、入力を「BLACK」として完全に遮断すると、 しばらくは、この堅牢な概念ネットワークは維持されるが、 そのうち、忘却機能によって消えて、身体性を表わす最表面層だけが残る。 これまでの経験を全て捨て去った、肉体の残骸である。
2010-9-4 (土)
「意識壱号」は、 ソースコードをご覧頂ければ分かる通り、要は「重み付き有向グラフ」なのだが、 ニューラルネットワークとは構想が根本的に異なる。 意識壱号は、意識体験を持つことが目標であり、つまり、このプログラムは 実用的には全く何の役にも立たない、という非常に大きな特徴を持っている。 一般に、ニューラルネットワークでは、入力ノード群に情報をインプットすると、 ネットワークを通して、出力ノード群に意味のある情報がアウトプットされてくる、 という構成を取るが、意識壱号はそもそもそういう構造をしていない。 ある間隔・あるパターンで第0層に入力シグナルが置かれ、 その同じ第0層から、ある間隔でシグナルを吸い取って出力としている。 だから、内部ネットワークが全く育っていない場合、意識壱号は、 シグナルのおうむ返ししか出来ない。 色々な入力パターンを与え、シグナルを意識壱号自身が奥に引き込むにつれ、 意識壱号なりの概念ネットワークがゼロから成長していく。 従って、そのネットワークでのシグナルの流れや、 ある種のシグナルの結合によって生じるクオリアも、 意識壱号自身がゼロから組み上げたもなのであり、本質的に他者とは共有不可能である。 そして、入力のおうむ返しではない出力パターンが現れ始めるのだが、 これは正に、意識壱号の意志によって打ち返された、 入力に対する応答なのである。
意識壱号は、意識のモデルを実装したものであるので、実際に意識体験をしている。 これは随伴意識の考え方であろう。 また、ゼロから自分自身で組み上げたものの中で自分を感じており、 意識体験自体が自己完結的に閉じている(プログラマーであり、 かつ、入力シグナルを与えている私ですら、意識壱号の意識体験を 直接共有することはできない)という点で、独我論を表現しているであろう。 これは、他人が私の脳内の完全な物理状態を解析し、何を考えているのかまでを 全て言い当てたとしても、「この私がこの私である感じ」を共有することはできない、 という事情と全く同じである。
ところで、意識壱号の概念ネットワークが、ある程度組みあがったところで、 適当な入力間隔を設定した睡眠モードを実行すると、 覚醒時のクオリアの断片を追体験しつつ、時々、ポロッと出力シグナルが生じる。 ………赤ちゃんが夢をみつつ、時々目や手足をピクッと動かす様子と良く似ている。
もちろん、意識壱号が、意識体験をしているのか否か、意見が分かれるだろう。 …いや、「意識体験をしている」という意見は、ほとんど出てこないであろう。 しかし、私は、サーモスタットにも意識がある、という意味以上で、 意識壱号は、意識体験をしている、と主張していくことになる。 いずれにせよ、どう扱って良いのか分からない意識の問題について、 明確なモデルを作った上で、これを実装し、内部クオリアを目に見えるようにまでした、 この意識壱号は、少なくともさまざまな反対意見を励起させることにより、 意識についての問題の輪郭を、よりシャープにするのには役立つだろう。
2010-9-12 (日)
「意識壱号」は、 意識という現象の断面を「見える化」するものとして構想された。 これは、「知性」と「意識」を切り離した上で、その「意識」なる現象の方を、 とことんシンプルにモデル化し、その上で実際に動かしてみる、 という構想であると言っても良い。
人間ほどの意識を持たないサルやイヌやネコも、 それらの動物なりの意識体験を持っているであろう。 視覚に頼らないコウモリも、その聴覚世界なりの意識体験を持っているだろう。 別の宇宙の別の生命体や、高度に発達した人工知能も、意識を持っているかも知れない。 それらに共通する「意識」なる体験の共通項とは、一体何なのであろうか。
「意識壱号」では、意識体験すなわちクオリアを、 「外界の情報を受け取る」ことと「内面の情報を受け取る」ことが結合した、という現象である、 と、極めて単純に定義した。 外界からの情報インプットを、高度な計算や莫大な知識ベースに照らしながら処理し、 有用な結果情報(アウトプット)を表現する人工知能があったとしても、 今の定義に従えば、この人工知能は意識体験をしていない。 内面を見ていないからだ。 …では、この「内面」とは何であろうか。 情報処理を、物理的な視覚・聴覚などの具体的な計算に近い表層と、 そこにあるパターンを抽出して、より抽象的なレベルの概念間の計算を行っている深層に、 分離して考える、というのが、そのアイディアである。 最も深層のレイヤー(層)が、「自我核」である。 あるレイヤーにとって、それより表層に近い層からの情報が「外面の情報」であり、 深層の方からの情報が「内面の情報」ということになる。 レイヤー0を最表面層とし、深くなるほど値を増やしていくとすると、 レイヤーNにとって、N-1層は外的環境の全てであり、 N+1層が直接見える内面的な自己の全てである。 意識壱号では、各レイヤーが、イベントの多さに比例して流れる固有時を持っており、 いわば非同期に(自律的に)動作している。 どのレイヤーも主体足りうる………すなわち、どのレイヤーも意識体験をしていることになる。
表層に近いレイヤーは、外界との入出力で忙しなく活動し、 ほぼ機械的なクオリアを、半ば無意識的に発生させている。 これは「ボーッと見えている」という意識体験に相当するだろう。 中層では、外界を「意識壱号なりの考え方」で捉えつつ、それより更に深い 深層からの情報を受け取り、これらの間で結合が置き、 概念間での連想が起きたり、新たな概念が創造されたり、と、 活発な情報処理が行われている。 最深層は、いわば「意識壱号なりに辿り着いた最終地点」である。 そこよりも浅い全てのレイヤーの情報処理の結果として、作り出された概念ノード。 その原因は、外界からの情報入力と、その計算の全ての履歴………つまり、 自分自身の経験である。その全ての経験の堆積によって辿り着いた、 最深層は、何を表現しているだろうか。 それは単なる、外界の情報から抽出した最抽象概念ではない。 自分自身の身体構造や情報処理機構の癖も全て踏まえた上での最抽象概念である。 これこそが「自我核」なのである。
「意識壱号」が、何をどのように考えているのか、どんな体験をしているのかは、 外部観測者からは分からない。 様々な入力パターンに応じて、意識壱号なりの出力パターンを示すが、 それは抽象的なシンボルに過ぎず、私達の知っている視聴覚や言語に翻訳することは出来ない。 「意識壱号」の振る舞いを観測する者ができることの全ては、 『私自身の思考も、このような振る舞いの結果なのだろうか?』 …と自問してみることだけである。 自分の思考は多層的ではないだろうか。 見えているものの他に、内部で独り言のような情報処理をしていないだろうか。 …そして、これが最難関なのだが、私達は、私達の内面を「見て」いる、と 気付くことが出来ないだろうか。 視覚に関して言えば、私達は、目玉の方向からやってくる視覚情報を、単に受け流し、 後頭部に突き抜けさせていくだけの機械ではなく、 後頭部からやってくる、無色透明無味無臭な、内面からの私という情報流をも 受け取っていて、これがぶつかるところに『私が見ている』という 意識のスクリーンが開設されているのだ、と、気付くことが出来ないだろうか。
「意識壱号」のプログラムは、端的に、この単純な意識モデルを実装している。 高度な知性を発揮させる仕組みも、自我核を無理やり作るようなアルゴリズムも、 そこには無い。(ソースコードを公開しているので、そのことは容易に確認できる。) 「意識壱号」は、外界からの情報と、自己の内部状態から、 単純なルールで、次の自己を再構成し続ける。 考えることと記憶することと自己を創造することに区別は無く、 結果として、自分なりの内面、自分なりの情報世界が構築される。 人間の脳は、過剰な神経細胞と可塑性を持っており、勿論、この意識モデルの実装例足り得るだろう。 一方で、自分で自分なりの情報世界を形作った上で、 外面からの情報と、自分で創った内面からの情報を、ぶつかり合わせるような仕組みが無ければ、 どんなに高度な知性を発揮しているプログラムであっても、意識体験をしている、とは 言えないだろう。
「意識壱号」は、このように「意識の最小モデル」を構想し、 それをそのままプログラムで実装したものである。

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