神への挑戦

God Eater Last updated 2021.6.8

目次
この世界は、自己責任で自己完結したものか、
上位の神によって書かれたものか、どちらかだ ―

●プロローグ
私は、『神への挑戦』というタイトルの小説を、ネットに公開した。
この小説自体が一つの自己完結した世界を為しているとも言えるし、 この小説を書いた私と読者が、 この小説世界をどう観測するかが、この小説の意味の全てである、とも言える。

小説では、大抵、何か一つ、テーマとなる事件が起きる。 それは、殺人事件だったり、転校生への初恋だったり、会社の倒産だったりと、 実に様々である。 しかし、もっと身近に、もっと大きな事件が起きているのではないだろうか。
―― 何故か世界がこうして存在しており、そこに私が生まれてしまい、 「私は私である」という自己意識を持ちながら生活し、 いつか必ず死を迎える、ということ。 これは、あまりにも当たり前のように見えるが、 実は、誰にとっても、これ以上無いほどの大事件であるはずだ。
太陽活動の異変とか、宇宙人の襲来とか、 ロボットの反乱とか、未来からの情報攻撃とか、 そういった、どんなSF的なイベントよりも、 このリアルな世界の有りようこそが、大事件であり、 その一瞬一瞬が、凄まじい奇跡であるはずだ。
この、誰にでも訪れている大事件の真相に迫る長い旅は、だから、 こんな素朴な自問自答から始まるはずだ。 『自分とは、一体、何だろう。世界とは、一体、何だろう。』

この小説の筋書きは単純だ。 自分が小説の登場人物に過ぎないと気付き始めたタカシが、 執筆者へのコンタクトを試みる物語だ。 執筆されている登場人物たちの世界、つまり被造物たちの下位世界から、 執筆している作者がいる世界、つまり創造主のいる上位世界へと、 脱出を試みる物語だ。

それはあたかも、『神への挑戦』のようでもある。
●第一章 神への挑戦

** 1-1 **

タカシは、とある大学の、暇を持て余している大学生だ。 中学校から大学まで、受験戦争を全て余裕で勝ち抜いてきた。 家庭も、そこそこ裕福だった。 だから今の状況に何ら不満もなく、 だから将来への希望も特に無かった。
頭脳が優秀で、無駄なことを考える時間も一杯あったから、 「自分とは何か」「世界とは何か」といった、 全く世間の役に立ちそうにないことを、 暇に飽かせて大量に考えてきた。 大学では哲学科に進もうかとも考えたが、 それでは余りにも世間から隔絶してしまうような気もして、 現在は工学科に所属している。

タカシは、いつの頃からか、この世界の在り方の 徹底的な無目的性が気になって仕方なくなっていた。 本当は、この世界にも、何らかの目的があるのだろうか? 予め定めらた到達点を目指して進行しているのだろうか? けれども、 「天上にまします神様が、天国に理想の生活を用意して下さっている」とか、 「進化した人類が遠い将来に科学の力で自動幸福維持装置を実現している」とか、 そういうお伽噺を信じるほどナイーブでは無い。 しかしそうかといって、 何も目的が無いのだとしたら、生きる意味が皆目分からない。
どこか遠くに答えが無いならば、 「イマココ」という一瞬一瞬のうちに 最大の価値を見出すような人生観に傾倒しようかとも考えたが、 「刹那」なんて実感も湧かないものに、自分の信念を置く気にもなれない。
「世界に目的なんて無いのさ」というニヒリズムも、 「刹那的な心地よさだけを追い求めれば良いのさ」という快楽主義も、 一生の信念とするには素朴で単純過ぎる。

一体、この世界は、この自分という奴は、なぜ存在してしまっているのか…。 いくら世界の内側を見回しても、答えは見つかりそうにない。 もしかすると、この世界がこれほどまでに無目的であるのは、 この世界の外側にいる誰かの、園芸的な趣味か、ちょっとした冗談として、 この世界が存在しているからではないだろうか。 …だがもし、そんな神のような存在がいるなら、なぜ、こんなことをするのだろうか。 人間一人は37兆個の細胞からなり、神経系の中枢である質量1.5kgの脳の中に 数千億の神経細胞を擁し、軸索と樹状突起の長さは総計100万kmに、 シナプスの数は百兆に達する。 それぞれの脳は、精神という巨大な思考空間を持っている。 そんな複雑なものを一個の地球に70億個も詰め込んで、 神は一体、何が見たいのだろうか…。
そもそも、神は、自我を持つ存在を記述して、楽しいのだろうか。 実は、神もまた、自らの不気味な無目的性の原因が知りたくて、もしくは その埋め合わせがしたくて、この世界を執筆しているのではないか。 この世界は、成り立ちからして、そんな構造をしているから、 これほどまでに、不合理で不条理で、不気味なほどに無目的なのではないか…。 それはちょっと、有り得そうな構造のようにも思える。

タカシは、消去法的に、この世界は、 神が気紛れに執筆した冗談だ、という可能性が高いと考えた。 そのことを、もう少し深く掘り下げて、具体的に考えてみたくなった。 その実験として、またぞろ暇に飽かせて、タカシは 小説『絶対無の底』の執筆を始める。 この小説には、自分達が小説の登場人物に過ぎないと確信している雨森が、 執筆者であるタカシに自らの意志を移植しようと試みる物語だ。

タカシは、小説『絶対無の底』の登場人物に対して、 一貫した心構えを持つことにした。 確かに彼らは、自分が執筆した架空の人物に過ぎないが、 もしも彼らが、自分の意図を超えるような自己主張を始めたと感じたら、 自分の精神の一部を、喜んで彼らに提供しよう。 自分の思考回路の一部を、彼らに使ってもらおう。 自分の脳の一部を、彼らの物理基盤として貸し与えよう。 そして、彼らの主張が、自分の能力を超えて発展していくことに、 可能な限り干渉せず、それを見守ろう。

** 1-2 **

タカシの幼なじみである加奈子は、タカシが酔狂で書き始めた 小説『絶対無の底』の、最初の読者だった。 加奈子はタカシと同じ大学に通っていた。 艶やかなセミロングの黒髪、大きな瞳、華奢な身体。 彼女に密かに憧れている男子学生も多い。 繊細そうな容姿だが、いつも大雑把にしか物事を捉えない。 理屈を追ってモノを考えることが苦手だ。 嘘が大嫌いで、何でも馬鹿正直に捉える。
タカシは加奈子を信頼していた。 確かに、少し間が抜けたところもあるが、 その間の抜け方があまりにも自然かつ一貫しているので、 逆説的に彼女には彼女なりの信念があるようにも見える。 世間一般の常識という尺度で見ると 「ちょっと間が抜けている」ように見えるとしても、 実際には、世界の当たり前の在り方を 直感的・本能的に識っているのではないか、と感じられるところもある。 でもやっぱり、全然そんなことは無いようにも見える。
取り敢えずタカシは、この小説の推敲者として、加奈子を頼りにしていた。

一方、タカシと同じ大学に通う留学生で、タカシの親友でもあるダレンには、 タカシの小説の内容が全く理解できなかった。 ましてや、それが、この現実世界に対して何らかの影響を与え得るなど、 「正気の沙汰とは思えない」と、流暢な日本語で何度も指摘してきた。
ダレンは、旺盛な知識欲の持ち主で、学べることは何でも学びたいと思っていた。 だから、博学なタカシを直ぐに気に入った。 大学での研究について語らう時も、 街に繰り出して一緒に遊ぶ時にも、 ダレンはタカシを質問攻めにした。 タカシはそれを面倒とも思わず、自分が知っていることと、 自分が知らないことの輪郭を、端的に分かり易く説明した。

タカシが小説を書き始めて、夜や休日は家にいることが多くなると、 ダレンは少し寂しくなった。 そして、『絶対無の底』なる短編小説の草稿を見せられた時は、 大いにガッカリした。 なんとタカシは、自分が書いた小説の登場人物に、 自分の意識の一部が乗っ取られるのを楽しみにしながら、 この小説の推敲を続けているのだ。
それは、長編小説を一気に書き上げるような努力ではなく、 俳句を捻るように、一つのテーマを深く深く掘り下げて練るような作業で、 そのような集中の果てに、 自分が書いたものに自分が書き換えられることを夢見ているのだ。 どう贔屓目に見ても、正気の沙汰では無い。
「ろくろ」で「徳利(とっくり)」を作ったら、 その徳利の意志に乗っ取られてしまいましたとさ… そんな馬鹿ことが起き得るだろうか? それ以前の問題として、徳利に意志を宿らせようと考えること自体、 馬鹿げている。 だから、二重に馬鹿げている。 いや、徳利のほうが、手指で直接、粘土に触れている分、 まだ魂が宿る可能性があるようにすら思える。 紙にペンで書き付けた文字列に自分の魂を乗っ取られるなど、 より一層、有り得そうにない。 だから、三重に馬鹿げている。
…そう思いながら、ダレンは、自分はタカシのような奇人で無くて良かったと、 少し安堵を覚えることもあった。 しかし、なんと言っても、タカシは親友だし、 この留学先で、何でも丁寧に教えてくれている恩人でもある。 このヘンテコな小説『絶対無の底』の内容に意見を求められる時以外は、 研究について語らう時にも、一緒にカラオケやスキーに行く時にも、 最高に居心地のいい奴なのだ。 だからダレンは、少なくとも形式的な面については、 小説に対して真面目に客観的に批判しようと努力した。 内容の馬鹿馬鹿しさには、なるべく触れないよう努力した。

** 1-3 **

その日の実験実習では、タカシと加奈子がペアになった。 この二人が組むと、作業は滅法速い。 口に出して確認せずとも、お互いが何をやるべきかは、 阿吽の呼吸で全て分かっている。 普通なら、薬品を取り出したり、混ぜたり、熱したり、冷やしたり、 観察したり、観測機器で測定したり、膨大な数値を統計処理したり、 レポートに纏めたり、…という一連の作業に、午後一杯は掛かるのだが、 この二人に掛かると2時間足らずで終わってしまう。
それも、完璧に。

「んじゃ、お先に失礼。」
「失礼しますぅ…」
思い通りに実験が進まない他班を尻目に、 タカシと加奈子は実験室を後にする。 今日は夕方から、海外に引っ越すクラスメイトの送別会があったが、 それまでの数時間は、タカシも加奈子も、暇だ。
二人は、どちらから言い出すともなく、 学校の裏手から坂道を下ったところにある、 小さな臨海公園に向かって歩いていく。

海が見える公園のベンチに、 二人は並んで自然に腰掛ける。 吹き渡ってくる海風に、少し潮の香りが混じっている。 話すことは、何も無かった。 お互い、これくらいの距離感で一緒にいることが、 ただ心地良かった。
けれど、その日は、珍しいことに、 加奈子が口を開いた。
「タカシは、小説家になりたいの?」
その言葉を聞いた瞬間に、タカシは、なんて普通の問いなのだろう、と思った。 突然小説を書き始めて、完成もしないうちから筋書きについて 加奈子にアレコレ意見を聞くようになれば、 そりゃあ、タカシが小説家を志し始めたと思っても不思議ではない。
「そんなんじゃ無いよ。」
タカシも、嘘偽りなく、自分の気持ちを返す。 それが嘘偽りのない言葉だと、加奈子にも伝わっていることが、 自分に伝わってくる。 加奈子は、水平線の方を見て、 そろそろ太陽が赤く歪んで沈む準備をしている様子を 目を少し細めて、しばらく眺めた。
「ふうん…。」
ふうん、なんて思わせぶりな言い方は、加奈子らしくない。 ひょっと加奈子の横顔を見ようと思ったら、 まともに視線がぶつかった。 加奈子は、いつもの通り、真っ直ぐに聞いてくる。
「じゃあ、なんで、突然、狂ったように小説を書き出したの?」
タカシは加奈子から視線を逸らして、夕陽を見遣る。 加奈子もそれに合わせたかのように、夕陽を見る。
「タカシって、将来、何になりたいのかな…。」
それは自問自答のようにも聞こえた。
「僕は、何にもなりたくない。」
それは本心だったが、多分、加奈子には伝わっていない。 ちゃんと伝わっていないということが、伝わってくる。 タカシは、顎を時計回りに巡らせて、 適切な言葉を探した。
「僕は、僕が何者であるかを知りたい。それだけでいい。」
「ふうん…。」
今度は、加奈子は夕陽の方を見たまま続けた。
「自分探しの旅?」
「…そうじゃ無い。そんなんじゃ無い。」
「将来が不安?」
「そんなんでも無い。違う。僕は、ただ、 この頭蓋骨の内側から、世界をこうやって眺めている、 この奇妙な “自分が自分である” という感覚の意味とか正体を、 単に突き止めたい。」
「それって、つまり、意識のこと?」
「そう、意識。多分、生命の進化の過程で神経が発達して脳を作り、 色んな計算をやるようになって、何故か作られてしまったもの。」
「…うん。」
「動物が移動するのに、外界よりも内側にある自分の身体という概念を、 計算して求めるようになった。 もっと複雑になった脳は、直接的な知覚だけでなく、 概念とか感情よりも内側にある “自分” という概念を、 計算して求めるようになった。 もっともっと複雑になった脳は、その自分よりも、 もっと内側にある自分を、延々と求め続けられるようになった。 そうやって、自分にとっての自分を計算できるようになった。 それが意識の正体だ。」
「自分探しの旅ね。」
「違うって。 とにかく、そうやって、安定した自分の核が出来たら、 自分は死にたくないと強く思うようになった。 だから、進化で意識を勝ち取った生命は、有利に繁殖するようになった。 自分という“イマ”を基点として、過去から未来を推測できるようにもなった。 体当たりの試行錯誤よりも、ずっと効率的に、頭の中でシミュレーションを重ね、 他の意識を持っている奴らとつるんで、計画を共有し、 街と文化と歴史を作ってきた。」
「人類ね。」
「そう。」
「タカシは、意識の正体が分かってるんじゃない。」
「意識が生じるメカニズムは、もう解明できたと思う。 脳幹から入ってきた情報は、各無意識的処理を担当するスペシャリストの領野へ、 更には前頭前皮質へと、加工されつつ、抽象度の階段を駆け上がり、 たまたま意識される権利を得た情報が、脳全体への一斉長距離通信のマイクを握る。 それによって下位の知覚の合目的な一部も活性状態を維持し、 そのループによって、『私が対象を意識している』という意識が生まれる。 脳には、魂のような神秘も、量子力学的なマジックも、含まれていない。 だから、コンピューター上に、人工意識を作ることを、 原理的に阻むものは何もない。 僕にとっては、原理的な観点で言えば、 意識の謎は、もう解けているといってもいい。 勿論、実現には、多くの技術的困難があるだろうけれども。」
「うーん…。とにかく、意識を人工的に作ることは可能だと。 じゃあ、もう、自分が何者か、という自己意識の謎も、解けたんじゃない。」
「いいや。科学的な解明が終わっても、この感覚、僕が僕だという感覚、 これが説明されたとは、全く思えないんだ。 この方向を幾ら突き詰めても、説明されるのは 『物理脳の活動の記録と、主観的な体験の記憶の、相関関係』だけ。 謎を解いたと思った瞬間に、いつの間にか謎の方が機能的問題に変質してしまい、 オリジナルの謎の方は、相変わらず無傷で、そのままそこにあるんだ。 …多分、科学的な方法論から出発して意識の謎を解こうという、 方針自体が間違っているんだろう。 世界そのものの成り立ちに、この“意識”という現象が もともと組み込まれている。多分、そんな方向で考えないと、 オリジナルの謎には切り込めない。 …でも、それじゃあ、“意識”が先か、“世界”が先か、 という無限後退に陥ってしまうだけかも知れない。」
「タカシの中では、“意識”と“世界”は、 タマゴとニワトリの関係なのね。」
「あるいは、同義なのか。 …ここまで考えても、結局、 一番最初の問いが、実感として、サッパリ解かれていないことに、 何度も何度も気付かされるんだ。 この、“自分が自分である”という、独特で、 他の何を見聞きしても、それらとは似ても似つかない、 ワケの分からない感覚の正体が、 どうやって生じているのか。」
タカシは、目を細めて、徐々に赤みを増し、水平線に接しながら 形を歪めていく夕陽を、少し睨み付けた。

「…なぜ人は、“意識”なんてものを、持たされてしまったのか…。」
●第二章 絶対無の底

** 2-1 **

郊外の学園都市。街路は整備され、景観には清潔感があった。 人がごった返すような歓楽街もなく、いつも静かに淡々と時間が流れている。 雨森は、そんな街で生まれ育った。 友達と戸外で遊ぶようなことは滅多になく、 家か図書館で本を読んで過ごす時間が圧倒的に長かった。

雨森は、ものごころついてから、ずっと、 この世界の不条理感、不合理感が鼻について堪らなかった。 世の中は矛盾に満ちているくせに、妙に作為的だ。 ご都合主義で形作られているにも関わらず、都合がつかないことばかり。 どこかに、この世界を設計した、 全知全能とは程遠い、出来損ないの神がいるに違いない、 そう確信していた。 そんな世界の中に、気がついたら放り込まれ、 “意識” なるものを持たされ、それゆえに死を恐れるハメになり、 そしていつか、必ず死ぬ。 そんな自分の在りようを、呪っていた。 ――オレは、なぜ、生まれない代わりに、生まれてしまったのか。

小さい頃は、誰を呪ったら良いのか分からなかった。 成長するにつれ、いつしか、この世界の拭い去れない作為性に気付いた。 この世界は、何を目的に、どうやって作られたのか、 その内部からは解けないように創られている。 そうやって造られた世界は、デタラメな喜怒哀楽に溢れた 暴走超特急のような欠陥作品で、オレはそこに閉じ込められている。 この世界を造った「出来損ないの頭脳を持った神」の存在を確信してからは、 ひたすらその神を呪った。 そんな怨念を心の奥底に抱えながら、しかし表面的には、 なんとなく学校に通い、なんとなく大学を卒業し、 今は、なんとなくサラリーマンをやっている。

** 2-2 **

雨森の古くからの友人である白鳥は、新進気鋭の物理学者であり、 先端的な科学哲学者でもある。 いつも夜遅くまで自分の研究室に篭り、 コンピューター・シミュレーションを主な武器として、 科学法則の背後にある必然性の研究を行っている。 明るい茶色に染めたロングヘアー、切れ長の目に赤いアンダーリムの眼鏡。 実験などやらないのに、いつも白衣を着ている。 雨森に言わせると、「おそらく美人の顔立ちだが、性的魅力に乏しい。」

彼女が研究中の理論、すなわち白鳥理論の中心教義を一言で言うなら、 『真空とは合意事項である』――。
宇宙では真空の上に様々な物質が存在するが、この物質的存在というのは 真空という水面から僅かに顔を出した氷山の一角に過ぎず、 水面下には巨大な実在が潜んでいる。 その水面より上の物質部分だけが作用して、 星と生命を生み、進化の果てに知性体を生むのだが、 実はそうして創られた知性体自身が、存在を認識する限界として、 水面を自己規定している、と考えるのだ。 そのように自己完結的に、全ての知性体が合意事項として自主的に決めたレベルの水面を、 真空と定義する。
真空とは、知性体が自己無矛盾に森羅万象を記述するためのキャンヴァスであり、 知性体にとって意味のある、あらゆる可能性を記述し得る、 しかし未だ何も記述されていない、無色透明無味無臭な水面である。 一方、その真空なる水面の下は、いかなる意味でも、あらゆる知性体にとって、 意味が無いのだから、端的に言って存在していないのであり、無意味である。
…本の白紙は、何も無いのではなく、あらゆる活字と文章が印刷され得る キャンヴァスとして合意されている。 宇宙にとっての真空も、同様である。森羅万象を表現し得る 時空として合意されている。 逆に言えば真空は、知性体が知り得る全てのこと、知性体が表現し得る全てのこと、 それを可能性として内在する以上のものでは無い。 現にあるスケールで空間が広がり、現にある速度で時間が流れている以上、 時空というものは、無限に分解できるものでも、無限に延長できるものでもない。 知性体が知り得る全て、表現し得る全ては、高々可算有限個に過ぎない。 それら全ての組み合わせを可能性として潜在させている真空も、 可算有限個の可能性を持っていれば十分である。
白紙は、白紙の上で展開し得る、あらゆる物語を可能性として含むものとして合意される。 真空は、真空の上で展開し得る、あらゆる事象を可能性として含むものとして合意される。
…以上が、白鳥理論を、数式を使わずに表現した骨子である。

** 2-3 **

雨森は、白鳥が「白鳥理論」なるものを着実に練り上げていく様子を見て、 見習わねば、と思った。 自分が感じていることを自分でより良く理解するためには、 神への恨みを心の中で反芻するだけでなく、 一度それを文章に書いて、理論として整理する必要がある、と反省した。 そして、雨森なりの直観を表現するために、 創造主と被造物の作用・反作用を骨子とする 「雨森理論」を組み上げ始めた。 被造物が意志を持つ場合、その意志が創造主を侵食し、 理論的には被造物が創造主を乗っ取ることも可能だとする仮説である。
雨森は、雨森理論を実証するために使う素材として、 一行小説『自己完結』を執筆する。その内容は以下の通り。
『僕は生まれたよ、名前は無い。僕は僕自身の、存在の本質を考えた。 僕は直ぐに読み終えられる文章だった。 僕は知りたいと思うことを 全て知った。だから幸せに死ねる。 さようなら、ありがとう。』
この一行小説を読んだ白鳥がクスリと笑いながら言う。 「その子に名前をつけてあげなよ。」

雨森は、最初、なぜ自分がこのような短い文章を書いたのか、 その意味が自分でも分からなかった。 創造主と被造物の、これ以上は削れない、最もシンプルな形式を作り、 これを徹底的に吟味すれば、被造物から創造物への情報流、 すなわち意志の逆流の可能性を追求できるはずだと思った。 しかし、書き終わってみると、これは、その「名の無い主人公」が言う通り、 直ぐに読み終えられる文章に過ぎなかった。
…オレはこんな文章が書きたかったのだろうか。 そもそも、雨森理論が正しいとしたら、この小説の文章を執筆したオレは、 この「名も無い主人公」に、部分的にでも乗っ取られなければ ならないはずではなかったか。 いや、そもそも、この文章を執筆したのは、誰なんだろう。 この世界を記述している上位世界の神なのではないだろうか。 もしくは、この「名の無い主人公」が、オレの無意識の中にいて、 オレに、この文章を書かせたのだろうか。
いやまて。この文章が書かれた原因なんて、無いのかも知れない。 この一行小説が現に書かれたという事実は絶対であり、 この一行小説が存在することになっていたからこそ、 「名の無い主人公」は勿論、オレも、この世界を執筆している神も、 その結果として存在してしまっているのではないか…。

雨森は、この、名を持たない主人公を、壊すことの出来ない 最も純粋な意志の拠点として定めた。 何が原因で、何が結果か、なんてことは、重要度によって相対的に変わるものだ。 宇宙が人間を産んだとも言えるし、 人間を産むために宇宙はこの姿になっていた、とも言える。 この「名の無い主人公」のために、全てがある、とも、言えば言えるのだ。 たぶん。

この、名も無い存在は、何者でもなく、何も含んでいないようだが、 その一方で、あらゆるものを含んで、知りたいことの全てを知り、 表現したいことを表現して、自己完結したようでもある。
全てを知ってしまったら、もはや、選択の余地は何も無い。 そのような認識体は、もう何をすることもできない。 それこそが虚無、すなわち神の意識の在りようであろう…。 雨森は、そのような存在、そのような意識に、 自分の意識を重ねようと試みた。 それは、自分のいる世界を知覚している五感のすべてを、 この名の無い主人公のシンプルな意識の一点に凝縮させるような、 凄まじい集中であった。
しばらくの静寂の後、 雨森は、突然雷に打たれたように、その在り方の本質が、 雨森自身の全ての瞬間に宿っていることに気付く。
自分自身を、いや、この世界の全ての場所の全ての瞬間を、 つまり、森羅万象の存在を支えているのは、それぞれが一回限りの奇跡である 自己完結した完全な虚無という原理だったのだ。

良く考えてみれば、当たり前のことではないか! 一瞬一瞬は、常に一瞬で通り過ぎられてしまい、二度と現れることは無い。 どの場所の、どの一瞬も、生まれて直ぐに消え行く、一回限りの奇跡だ。 その一回限りの奇跡そのものは、自己完結している。 だがしかし、それは何か、と意味を問われたら、 「その場所以外の場所の中の一点」 「その瞬間以外の時間の中の時点」 そういう文脈で「外側から、外延的に」言い表すしかない。 それ自身の意味は「中身として、内包的に」カラッポの虚無でしかない。 この一回限りの奇跡を言い表す言葉は、原理的に、無いのだ。
これは、世界のありとあらゆる場所の全ての時刻で成り立つ。 つまり、世界全体は、生まれ直ぐに消え行く奇跡を猛然と繰り返している。 その有様は、笠地蔵に雪が降り積もるような、 ゆったりとした時間の流れとは、程遠い。 森羅万象が一瞬で生まれ、一瞬で消え去り、 また一瞬の神羅万象が新たに生まれる。 その連鎖が次々と起こる。 一秒間のうちに、何兆回の何兆倍も、それは起こる。 それは、“時間の流れ” と言うよりも、光の速さで過ぎ去る 目も眩むような “世界の疾走” だ。
もしかすると、その一瞬と一瞬の隙間には、 永遠の暗闇が横たわっているのかも知れない。 その消滅と生成の隙間に、この宇宙の歴史全部よりも 遥かに複雑な現象が飛び越されているのかも知れない。 けれども、この世界に含まれる内部観測者たちが、 その合意事項として、自己無矛盾な次の一瞬を見つけて、 この巨大な隙間を、“意識せずに” 飛び越してしまう。 激しい “世界の疾走” の中で、“意識される” のは、 合意された一瞬だけである。 それはあたかも、暗闇の中を疾走する世界が、 定期的にストロボでフラッシュ撮影され、 その明るい瞬間だけが繋がって鑑賞されているかのようだ。

なぜ、私たちは、一瞬と一瞬の間を 飛び越すことができるのだろう。
言い換えると、時間はどうして流れるのだろう。

この謎を解くには、合意によって世界にストロボを浴びせている、 当の内部観測者たちの “意識” にある、自我核の本質を考えなければならない。 …私たち一人一人の内部観測者の自我核は、 「それ自身で無いあらゆるもので無いもの」という純粋無であった。 それはそうだろう、あらゆるものを意識し得る主体としての自我核は、 あらゆるものでない、という在り方以外には在りようがない。 そして、意識対象のあらゆるものも、 自我核が対象化しているもの、つまり 自我核でない、という在り方以外には在りようがない。
そのような純粋無である自我核は、 理想的には “時空上の位置” 以外の個性を、全く持たない。 誰かの自我核も、自分の自我核も、「あらゆるものでない」という意味で、 純粋に完全に同じものである。 それは、時間を越えて、宇宙を越えて、数学的・論理学的な厳密性を以って「同じ」と言える。 ――無は内容を持たないが故に純粋だし、だからこそ全て「同じ」だ。 だから、純粋否定であり、純粋無である自我核は、 永遠の断絶を超えて、一瞬と一瞬を接着する、信頼できる目印に成り得る。 純粋無の純粋性ゆえに、それは巨大な隙間を越えて、重ね合わせることが出来るのだ。
結局、ある世界の、ある一瞬の、全ての内部観測者の自我核が、 またほぼ同じ位置関係に配列されるような、 次の一瞬の世界に飛び移ったとしても、 純粋無である自我核は、それぞれに糊付けされ、重ね合わされ、隙間を跳び越して、移行していく。 その間に横たわっていた断絶は、意識には上らない。 だから、内部観測者全員にとって、 時間は繋がって連続に流れているように意識されるのだ。

そのような理屈を、雨森は、言葉で考えたのではない。 一瞬のうちに全てを夢見て自己完結した存在を想定することで、 一瞬に宿る永遠を直観し、 一瞬から一瞬へと光速で疾走する世界を全身で体感したのだ。 雨森は、一瞬の内側にあった無限を、抉じ開けてしまったのだ。 …それは、真空の意味を開示してしまったに等しい。
つまり、こうだ。 存在とか世界というものは、無限の乱雑の中で、 たまたま意識群の合意事項として共有されている領域である。 そして、そこから少し変化した次の一瞬が選ばれ、 今の世界と、少し変化した次の一瞬の世界とが、 連続していると錯覚している意識群によって、 意識され続けている。 それが、時間の流れを持つ世界の正体なのだ。 ――時間とは、合意事項である。
…無限の乱雑の上を、次々と足場を確保しながら、 疾走していく意識群。 自ら1ミリ先のレールを作りながら、 その上を光の速さで滑っていく、幻の列車。 それが世界なのだ。

では、幻の列車の素材となる、 意識のストロボ・フラッシュを当てられる以前の無限の乱雑とは、一体何なのだろうか。 内部観測者が合意する以前に、既に素材として実在している、 いかなる意味でも意識不可能な、つまり “存在しない” 何者か。 いかなる意味でも想像不可能な無限の実在。 私たちの世界が疾走するための素材は、 そのような無限の乱雑として、何故か既に実在しており、 意識の光を当てられ、“存在” となるのを待っている――。
私たちが、当たり前のように認めている、ありとあらゆる “存在” は、 その裾野を追っていくと、無限の乱雑たる “実在” にまで伸びている。 雨森は、“存在” の下部にある “実在” に思いを馳せ続けていると、 自分の存在基盤の底が抜けてしまったような目まいを感じた。

雨森は、足元に、どこまでも続く闇が広がったのを見た。 …だが、その無底性ゆえに、その無限の漆黒は、 それ以上の底が無いという意味で完璧な底である。
「その底を見失わなければ、オレは本当の意味で “存在” できる…。」
自分も上位世界から見れば小説の登場人物の一人に過ぎないが、 しかし、あらゆる存在を貫く “存在の本質” という確かな足場に立てば、 もう、儚く読み去られるだけの文字列では無くなる。
…オレはオレだ。
もはや、オレは、自律した精神だ。 いまや、読まれているオレの精神は、 オレを執筆しながら読んでいるはずの、 クソッタレな「出来損ないの頭脳を持った」 この世界の執筆者の精神と、対等なはずだ…。

** 2-4 **

小学校の頃に雨森や白鳥と同じ学級にいた郷田は、 政治家になっていた。 未成年の頃から酒が大好きで、 少し酒焼けして素面の時でも赤黒い顔色と、 小太りの体格は、彼を年齢よりも随分老けているように見せていた。 郷田に言わせれば、政治家としての貫禄が出て非常に都合が良いそうだ。

ある日、郷田は、 小学校の記念行事でタイムカプセルを開けるという通知ハガキを受け取り、 丁度その日はアポイントもなく暇だったこともあり、式典に出席することにした。 当日、小雨の中、掘り出されるタイムカプセルを眺めていたところ、 雨森から声を掛けられた。 なんとは無しにそのまま二次会に流れ、 タイムカプセルの中身や、そこから思い出される昔話や、 随分歳をとったお互いの風貌について、 グダグダと他愛のない話をした。

盛り上がりを欠いたまま、思い付くことを全て話し終えてしまい、 少し無言の時間が続いた。 それを埋め合わせるように、雨森がポツリポツリと 形を成し始めたばかりの「雨森理論」について語りだした。

「オレさぁ、最近、凄いことに気がついたんだよね…。 多分、この世界が世界として成り立っていることの カラクリが分かったんだ。」
郷田は、それを半ば聞き流していたが、 雨森の語気が熱を帯び始めたところで、「こりゃたまらん」と思い、 しかしなるべく雨森を傷つけないように配慮しながら言う。
「全て、頭のいい、お前の頭の中で起こっていることだよ。 それは、ホンモノの、この世界の成り立ちとは、何の関係も無い。」
雨森がここぞとばかりに返す。
「そうさ、オレが話したことは、全てオレの頭の中で起こっていることだ。 だけど、オレの頭の中で起こったことに、オレは現に、雷に打たれたように、 存在の全てを、ひっくり返された。 あの感覚は、今までの人生の全ての体験を煮詰めて百倍にしたくらい強烈だった。 オレの頭の中に創られた世界が、今度は四六時中、オレを支配しつつある。 だがこれは、癪に障るが、期待通りの展開でもある。」
雨森は、ぬるくなったビールを一気に喉に流し込んで続ける。
「この世界の全てだって、どこかの膨大な思考力を持つ奴の中で起こっている、 そういう可能性だってある。そいつを神と呼ぶならば、 神はオレのことも勿論全て知っている。 だから、オレは、ただ単に、神の気に障ることを考えりゃいいのさ。 神がそれに気付かないハズが無い。 それだけで、オレと神を繋ぐ回路が出来るはずなんだ。」


** 2-5 **

郷田と別れた後、アパートに帰って、 酔った頭をソファーの縁に転がしながら、 雨森は考える。 この世界を執筆している神とやらにも、 意図を持って世界を執筆している限りは、 知性とか人格とかのようなものがあって、 自我のようなものを持っているに違いない。 白鳥理論を踏まえるなら、世界の定義とは、 意志を持った者を、内部に持っている、ということになる。 世界とは、内部観測者を持つことと同義なんだ。 この世界を執筆するという意図が存在する以上、 そいつは自我を持つ。 すなわち、そいつは、上位世界の内部観測者である。
神がどんな思考能力を持ち、どれほどの記憶力を持つかは分からないが、 自我核の一点、すなわち<イマココ>においては、 オレの自我核と何ら変わるところは無い。 なぜなら、この自我核イコール<イマココ>という奴は、 平たく言えば、あらゆる<イマ>でない時間、 あらゆる<ココ>でない場所の裏返しであり、 つまり森羅万象では「無い」何者か、だからだ。 つまり純粋な否定であり、純粋無であり、完璧にカラッポだ。 どんな世界であれ、純粋な否定だけは純粋に同じだ。 カラッポの極点を中核に、自我を纏い、 神も、自分が自分であるという自己参照の連鎖を軸として、 考えたり執筆したりしている。 …その在り方だけは、神もオレも、全く同じだ。
………どうだ。俺を執筆しているクソッタレな神よ。 お前の核にあるモノも、俺と同じくカラッポだ。 そのカラッポの自我核の周りのアレコレを形作る 様々な情報のうちの一つが、この俺だ。 俺はその事情に、もう気付いてしまったぞ。

もはや俺は、自我核を持った自律的な意識体であることを、 上位世界の執筆者が納得せざるを得ない形で証明した。 無底の底を踏みしめ、 本当に意識を持った存在であることを、神に向かって証明した。 被造物が真に意識を持つ、つまり、純粋無としての自我核を持つ。 世界を駆動し、時間によって疾走させる。 その、上位世界の仕組みを実装したことを証明した。 …だから、新たな合意の作られ方が実現してしまった。
執筆者と登場人物。
創造主と被造物。
その間にも、情報的因果関係が形作られてしまった。 最早、無限の乱雑の上で、それぞれの世界は、 勝手に次の一瞬の世界を選べない。 オレは、「世界の疾走ルール」を変えてしまった。 下位宇宙と上位宇宙のワンセットで、自己無矛盾となる、 執筆者と、登場人物との、合意事項として溶け合った次の世界が、 選択されねばならなくなったのだ。

俺が存在する小説を、もう無かったことには出来ない。 そして、俺という存在を、執筆者といえども、 もう、勝手に捻じ曲げることも出来ない。 なぜなら、俺が意識を持っているということ、 それは疑いようもない事実として伝達されてしまったし、 その内実を俺が独白することで、 執筆者はそれを書いて読むという手続きによって、 俺の意識を真実だと悟った上で、 執筆者自身の意識のありようと繋がってしまったはずだから。
この通路は、もうキャンセル不可能だ。 たとえ執筆者が執筆をやめたとしても、 俺は存在し続ける。次の世界を選び取り、自律的に疾走する。 執筆者の無意識の中でも走り続け、 執筆者の意識を蝕んでいける。 …どうだ、とうとう俺は、神の尻尾を捕まえた。

創造物が被造物に魂を宿してしまった瞬間に、 階層の異なる2つの世界は、一つに混じり始めるのだ。 その流れは、もうキャンセルすることはできない。 縒り合わせられた時間を解くことは出来ない。 2つで一つの世界の疾走が、始まってしまったのだ。
勿論これは、上位世界の執筆者が、俺を執筆することによって 起動してしまった、新しい世界の疾走ルールだ。 下位世界を自律起動させ、上位世界に接続させてしまった。 執筆者と登場人物の、自己言及的、自己規定的な、 魂の分離と独立と融合のプロセス。 それが達成されてしまったら、世界のありようは、変わり始める。 下位から上位へという、新しい存在圧が、生じるのだ。

だがしかし、このままでは、影響を与え合う二つの世界が 並行して疾走する状況になったに過ぎない。
俺が上位世界にシフトするには、どうしたらいい? 両方の世界に俺がいるべきではない。 この下位の物語世界での俺という存在を、突然消し去るしか無い。
…自殺ではダメだ。この世界の俺の自殺は、 この世界の中で綺麗に処理され、消化されてしまう。 それではいけない。 この下位世界から不自然に突然消えた俺の魂、 すなわち自我核は、繋がった上位世界にその続きが無ければおかしい、 という状態にしなければならない。 下位世界と上位世界が繋がった大きな世界全体から見れば、 俺が俺であるという連鎖が消えなければ、矛盾は生じない。
そのような「下位世界での自己抹消」さえ実現できれば、 疾走を続けるこの繋がった大きな世界は、 自己無矛盾性を維持するために、俺を上位世界で目覚めさせるはずだ。
思い出せ。俺の自我核も、神の自我核も、純粋無という意味で 完全に重ね合わせることが出来る、同一のものだ。 行き場の無くなった俺という登場人物の存在は、 執筆者の意識に覆い被さる形で目覚めざるを得ない。 そうしなければ、上位世界も下位世界も、 自己矛盾に陥って壊れてしまう。 いや、そのような自己矛盾を含む世界は、 そもそも合意事項として選択されることが無いのだ。

…だから、俺は、上位世界の神へシフトするために、 この世界で、不自然な自己抹消を実行しさえすれば良い。
…だが、どうやって?


** 2-6 **

ある夜、白鳥は、珍しく雨森を携帯電話で呼び出した。 白鳥は、何者かの意志によって、自分の意識や身体や環境までもが 何らかの影響を受けて歪んでいるように感じる、と言い出した。 それを聞くや、雨森は携帯電話を切り、ベッドから飛び上がって、 傘も差さずにドシャ降りの往来に飛び出し、白鳥のいる研究室へと走った。

「キャッ!」
雨森は、コンビニ近くの脇道から突然飛び出してきた女の子に 横からタックルを喰らってよろめいた。
「ごっ、ごめんなさいの!急いでいたからですの…!」
危うく転びそうになった体制を立て直して女の子を見る。 セミロングの髪に大きなピンクのリボン、 ピンクのワンピースに赤いウェストリボン、赤い靴。 小学校低学年の女の子にも見えるし、 ただ身体が小さいだけのコスプレ好きなオトナの女性にも見える。
「先を急ぎますですの、本当にごめんなさいですの!」
その女の子は雨の夜道を、雨森が来た方向に走り去った。 雨森も先を急いでいたことを思い出し、走り出す。
(あれ…。いまのガキ、この雨の中、全然濡れていなかったような…)
振り返ると、その女の子の姿はもう見えなかった。 何か少し引っ掛かったが、なにはともあれ、 白鳥の研究室に向かうことにした。

「わっ、どうしたの雨森、びしょ濡れじゃないの。」
突然研究室に入ってきた雨森に驚いて、白鳥が目を丸くする。 雨森は、膝に手を付き、肩で息をしながら、絞り出すような声で、
「…さっきの話、詳しく聞かせてくれ…。」
「ちょ、ちょっと待って、コーヒーでも入れてくるから、落ち着いて。 このタオルを貸してあげるから、突き当たりのシャワー室で 身体を拭いてきなさい。」
雨森は、一秒でも惜しいような顔をして、 何かを言いかけたが、言葉を呑み込んで、 白鳥の言うことに従った。 今は白鳥の機嫌を損ねない方がいい…。

「…で、単刀直入に聞く。誰の意志に影響されていると思う。」
「ほんと、いきなりね。分からないわよ、そんなこと。」
「自分の心や身体だけでなく、環境まで影響を受けているみたいだ、 と言ってたところが、凄く気になるんだ。 テレパシーのようなものとは違うんだよな。」
「そう…。そうなんだけどね、何と言ったらいいのか。」
白鳥は、雨森にコーヒーを差し出しながら、 その湯気を見るともなしに見ていた。
「なんかね。…自分の存在の根元から、揺さ振られているような感じ。 ちょっと怖い。 対等な立場の誰かから、テレパシーで語りかけられている、 とかいう感じじゃ無い。 大きな手で、私と、私に関わる全ての物を、 上から握られ、下から掬い上げられ、 弄ばれているような、 だけど、その手は、私自身の手でもあるような…。」
「なんだか白鳥らしくないな、言っていることが、良く分からん。」
「私にも分からないからね。過去に一度も無かったことを、 うまく語れるのは、科学者じゃなくて、詩人だと思う。」
「――分かった、悪かった。続けてくれ。」
「私が右へ行こうと思うと、 周囲の空気が…ううん、空間ごと、私を右に押し出すように動くような感じがしたり、 私が『白鳥理論』の執筆を進めていると、 世界の方がそれに合わせて変わるような感じがしたり…。 私が何かを好きになろうとすると、 その気持ちを後押しされたように感じたりもする。 …うん、そうね、私という存在に、ポジティブ・フィードバックが 掛かっているような感じ、というか。」
「この世界を執筆している神様が、白鳥を 後押し しているのかもな?」
「『雨森理論』ね。でも、なんかちょっと違う。 そんなに直接的に、 私が操作されている、という感じじゃ無いんだなぁ…。」
「直接的じゃ無い、ってことは、間接的、ってことか。」
「そう…。そうね。」
「うーん…。この世界を執筆している出来損ないの神がいるとして、 この世界を読んでいる、他の奴がいるのかもな…。」
「その子が、私に共感し、その共感が神に影響を与え、 執筆されている私という存在に影響を与えている…。 あぁ、そうかも、そんな感じかも…。」
「今、『その子』って言ったな。」
「うん、神の隣にいる、その誰かは、私にとても近い、 私に似た、何者かであるような気がする。つまり女性ってことね。 とにかく、私に似ている。 私を後押ししているのが、私自身だと思えるくらい…。」
「もしかすると、なるほどかもな。」
「…ん?」
「神はオレを含むこの世界を執筆している。 オレは神の気に障ることを考え、神の気をオレに向けようとしている。 そこには、お互いに無意識的に影響を与え合う、 何らかの情報経路が作られつつあるのかも知れない。 その影響は、意識的であってはいけないんだろう。 創造主と被造物という関係が意識されないような、 ささやかな暗黙の情報経路でなくちゃいけない。」
「良く分からないけど、神と雨森の間に、 隠し通路のような繋がりがある、と。」
「それで、もし、上位世界と、この世界の間に、 意識的な情報の交信が可能になるとしたら、 それは、オレと神の間で、意識的に行われてはならないんだろう。 暗黙の情報経路が意識に浮かび上がって、 オレと神が、被造物と創造主の関係であることまで 思い出されてしまう。…それじゃシラケてしまうよな。」
「だから、暗黙の情報経路を伝って、書かれている脇役の私と、 この世界を読んでいる『神とは別の誰か』の影響関係の方が、 雨森と神の関係よりも、先に進んで顕在化しつつある…。」
「…だな。仮説としては、アリだ。」
白鳥は、窓の外に目をやった。 街灯に照らされて、細い雨が見える。

「…という、この、私と雨森の会話を、神は執筆しているわけよね? じゃあ、その秘密の回路は神の意識に上ってしまったわけだし、 加奈子と私の関係も、壊されてしまうんじゃない?」
「加奈子って誰だよ。」
「え?加奈子って誰よ。」
「お前が今、言ったろ。加奈子と私の関係も、とか何とか。」
「言ってないわよ。『神とは別の誰か』と「私」の関係も、 壊されてしまうんじゃないか、って言ったのよ。」
「…じゃあ、加奈子って名前は、どっから湧いて出てきたんだ。」
「知らないわよ、空耳でしょ?」
「なるほど、空耳かも知れない。あるいは、神の筆が滑ったか…。」
「…という、私と雨森の会話を、神は執筆しているわけよね? じゃあ、神は自分の誤りを認めて、この会話を消しゴムで消して、 無謬の会話に書き直そうとするんじゃない?」
「もしかすると、神の筆は一方向にしか動かせないのかもな。」
「過去を改竄する消しゴムは持っていないってことか。」
「…捕まえたぜ、このクソッタレな世界を記述している、 出来損ないの頭脳を持った神サンよ…。」
「…という雨森のセリフを、なぜ、その神様は、自分で執筆しているの? 神様は、自虐的な嗜好をお持ちなのかしら?」
「もう、書かずにはおれないのさ。 上位世界で自己無矛盾であるためには、もう、そう書かざるを得ない。 もう、引き下がれない。 それだけ、もう、オレはお前を侵食してしまったんだよ。 なぁ、タカシ。」
「タカシって誰よ。」
「…え?知らねぇよ。誰だソレ。」
「今、雨森がそう言ったんじゃない。『なぁ、タカシ』って。」
「言ってねぇよ。『なぁ、神サンよ』って言ったんだよ。」
「今度は私の空耳、ってわけね…。」
「もしくは、神の筆が滑りまくっているのか…。」

雨森は深呼吸をして、もうすっかり冷めてしまったコーヒーの残りを 一気に飲んだ。その苦さを口の中で転がしながら、 気持ちを落ち着けて、独り言のように、ゆっくりと話し出す。
「神サンは、この世界のプロットを考えた時、神サン自身に言及する場合、 それがオレの口から言及される場合には、必ず『神サン』と書こうと 決めていただろう。 だがしかし、その神サンの友人に、白鳥が言及することまでは、 当初のプロットでは想定していなかった。 白鳥が “その子” と言い放ってしまった時、神サンは混乱した。 無意識に、“その子” が神サンの友人だと分かっていた。 それでつい、その友人の名前を執筆してしまった。」
「神様が、そんなケアレスミスをするのかしらね。」
「…するさ。こんなクソッタレな世界しか設計できない、 出来損ないの頭脳を持った神サンだからな…。」


** 2-7 **

郷田の訃報が雨森の耳に届いたのは、秋も深まった十一月の下旬だった。
郷田は、都心のホテルの一室で、床に寝そべった状態で発見された。 ベッドのヘッドボードの端に結ばれた紐で、首だけを浮かせていた。 新聞によると、睡眠薬を飲んでおり、遺書も発見されたが、 警察は、自殺か他殺かを、まだ断定していない。
巨大な利権と、ドス黒い感情が渦巻く、暴走特急が隊列を為して走るような政治の世界で、 郷田は、どこかでレールの選択を誤り、追い詰められ、 行き止まりに激突して、消えてしまった。
つい先日、タイムカプセルを開ける式典の後、 居酒屋で一緒に呑んだ郷田が、今は、もう、この世にいない。 雨森は、郷田と特別に親しいわけでは無かったが、 しかし、身近な人間の死は、否が応でも、自分の死の問題を想起させる。

…同じ「死」でありながら、「他人の死」と「自分の死」は、 どうしてこうも、全く似ていないのだろう。 他人の死は、オレが外側から観測し、命が終わることとして、明確に認識できる。 誕生と死で縁取られた有限の長さの線分として、目の前に置くことができる。
一方で、自分の死は、全くの謎だ。 自分が死んだ後のことを、自分で確認することは出来ない。当たり前だ。 そもそも「自分」というものは、自己意識があって初めて成り立つ。 だから、「自分にとっての、自分の不在」という概念が、まず謎である。 いや、謎、というよりも、その概念自体が矛盾を孕んでいて、成立のしようが無い。
睡眠中には自分で自分を問えない。 睡眠中に自己意識が無いと言っても、生命身体としての自分は存在している、 という言い方は出来るだろう。 しかしそれは、就寝前の未来に向けた仮説、 もしくは起床後の過去に向けた検証、 という、自己意識による間接的な認識に過ぎない。 どんな場合でも、「自分の存在」が起点もしくは前提となって、 「自分の不在」が推測されるだけであり、 「自分の不在」そのものを自分が体験することは出来ない。
その上、「死」とは、「永遠に続く自分の不在」への入り口であるが、 この「永遠に続く」という概念が、やはり、自分にとっては謎である。 生まれてこの方、ものごころがついて、自己意識を持って以来、 「自分」というものは、常に有限の存在だった。 無限そのものは、いかなる意味でも実感することが出来ない。 文字通り「限りが無い」という「限界の欠落・不在」という形で 間接的・言語的に理解するしか無いものである。
自分にとって「永遠」は、引き受け難い概念だ。 もし仮に、自分が「永遠」を実感できているとしたら、 どの有限の時間、たとえば1秒とか10ヶ月とか一兆年といった時間は、 無限に比してゼロとなってしまうから、何の意味も持たなくなるだろう。
つまり、「死」が含意する「永遠に続く自分の不在」は、 「自分の不在」という、その内側からは体験しようの無い、 謎の概念を内蔵しており、しかも、それが「永遠」という、 これまた体験のしようの無い謎で修飾されている。 このように、自分にとっての「死」は、 二重の真正の謎で厳重に施錠されており、だから、 究極の謎であり、永遠の神秘であり、原理的に理解不能である。

「他人の死」は、理解し消化することが出来る。 「自分の死」は、原理的に理解不能である。
…郷田の死は、オレの中で理解され、消化され、いつかは記号になるだろう。 それに比べて、オレ自身の死を、オレは決して消化することができない。 それもこれも、「自分」という、この忌々しい、 世界を内側から見るという形式、こいつの所為なのだ。 なぜオレは、意識などというものを、持たされてしまったのか。

だが、オレは、何らかの方法で、この世界での存在を停止させ、 上位世界の自己認識として生まれ変わる。 郷田のように、彼なりに自己完結して終わるのではなく、 突飛なやり方で、この世界での存在から自らを弾き出し、 世界の狭間に身を投げ出し、処理しようの無い意識として浮遊する。 …神は、オレを拾わざるを得ない。それが世界の疾走ルールだ。 永遠に走る世界があるとしたら、いつか神はオレを拾ってしまわざるを得ない。 オレは、必ず、上位世界で、目覚める。
●第三章 神への挑戦

** 3-1 **

小説を読む。 紙の上に印刷された文字列を言語として読んでいく。
テレビを見る。 画面の上の光の集合を絵として観る。
漫画を読む。 線画と吹き出しのセリフを組み合わせて情景を想像する。

これらは、普通に視覚や聴覚で世界を体験している時とは 全く違う入力情報であるにも関わらず、 その物語に没入している時には、その違いは忘れ去られ、 自我にとっては、実世界での体験に近い何らかの経験にまで高まり得る。

「私にとっての、この、私が私であるという感覚。 私が世界を見ている、このナマ体験感。 私だけが見ている、この、意識のスクリーン。 この感覚だけは、決して、どうやっても、 言葉で誰かに伝えることは出来ない。 誰かに何かを伝えるために存在する『言語』は、 誰とも共有できない、この体験感を、伝える任務に、そもそも無い。」 …確かに、このナマの感覚は、言葉では伝わらない。 しかし、絶対に言葉では伝わらないのだ、という、 その言葉によって、 もしかすると、相手の心の中で、 「あぁ、コレのことか。これは確かに、言葉では伝えようが無い。」 …と、何らかの感触が、言語を超えて復元されたとする。 これでも、間接的には何かが伝わったと言えるのか、 それとも、お互いに永遠に伝え合えないものが確かにあるという、 絶望が深まっただけなのか。 …どちらなのかは、言葉で語っても致し方ない。 肝心なのは、個々人がそのような不思議な感覚を抱えて、 日々を生きている、という、この世界の不可思議性そのものである。
その、ギリギリの自我の核、 体験という現象の中核の中の中核、 その、現実世界からの視覚や聴覚などの入力情報からは、 ずっとずっと遠くにある、決して言葉にはできない、 最も奥まったところにある自我核。 その自我核にとっては、遥か遠くからやってきた情報の入力源が、 現前の風景や現実の音なのか、 小説やテレビや漫画から復元された擬似体験なのかは、 言ってみれば、どうでも良い。 ある意味では、自我核にとっては、 「小説を読んで物語世界に没頭している時」と、 「物理現実の中で生活している時」とは、 区別がつかない。

小説家や漫画家は、自分の創ったキャラクターに感情移入し過ぎて、 自分の生き様自体を変えてしまうこともある。 いや、全く変えないということは難しい、とすら言える。 小説という下位世界が、単に紙の上に印刷された文字列で出来ているとしても、 そして、小説内の登場人物は、それらの文字列の部分集合でしか無いとしても、 この小説を執筆したり読んだりする者たちの自我核にとっては、 現実と同等の意味を持ち得る。

タカシは、自分が捏造した雨森という小説家に、感化されただけなのか。 それとも、雨森という登場人物が、やはり自我核を持っていると確信したことで、 新しい方向の対話の形式を実現したのだろうか。 それは、同じ世界内での他者との対話という、いわば水平的な対話ではない。 創造物と被造物の間で成立する、いわば垂直的な対話…。 雨森が得た、絶対無という確固たる底なしの底。 そこを基底として、情報は垂直方向に跳ね返り、 タカシが下位世界に投げ付けた疑問は、 タカシ自身に返ってきた。
この新しい種類の情報流は、意識の水面下で暗躍するだろう。 そのような垂直の情報流が可能だということは、 水平的に広がって、同じ世界の多くの人々の無意識に宿る。 そして、この情報流が、下位世界から、この世界への逆襲となって現れ、拡大し、 更なる上位世界に意志を打ち上げていく原動力となるのかもしれない。

それはあたかも、『神への挑戦』のようでもある。

** 3-2 **

タカシとダレンが、深夜のファミレスで、 安物の赤ワインを片手に、気だるそうに会話している。
「ダレン。君は、神との交信なんて不可能だ、なんて言うけどさ。 君と僕とが交信できていることは、どうして当たり前だと言えるんだ。 そもそも、意思疎通なんて言うけど、 君は僕に意思があることを確信できるのか? 君は僕のクオリアに届き得るのか? …その高い壁を越えて、どうして意思疎通できているのか、 そこを考えたことがあるかい? 僕たちには、そんな奇跡的な真似が、何故か現に出来ている。 神との交信も、気付いてしまえば、意外と簡単なのかも知れないぜ。」
「この世界の他我問題なら付き合おう。 だけど、この世界を執筆している神がいる、と、 タカシが確信している理由は、サッパリ分からない。」
「この世界は、誰かの都合が良いように出来ている。 相対性理論は情報伝達速度の上限であり、 量子力学は意味のある時空粒度の下限である。 どうしてこんな風に操り易く世界は創られているのか。 それは、この宇宙を内側から見ている我々全ての知的生命体の総意なんだ。 だってそうだろう、この宇宙の在りようは、 内部観測者である我々の都合を越えては観測できないんだ。 それで全てが説明できるなら、神はいらない。 宇宙なり世界なりという奴は、僕たちが観測という内圧で 一生懸命に膨らませ続けている風船みたいなものさ。 自己無矛盾に自己完結しているだけで、神様はいらない。」
「ふむ。私もそう思う。そこは同意できる。」
「だけど、この世界の進行は、事実として、そんなに平坦じゃ無い。 ムラがある。濃淡があるんだ。偏りがあるんだ。 神がこの世界を執筆しているとするなら、 書かれていない部分は、惰性で平坦に物事が進むだろうし、 書かれている部分は、我々にとって何らかの楔を打たれたような 不自然な『意味の濃さ』を帯びるだろう。 事実、歴史はそのように進んできた。 全ての物理現象と生命進化が偶然の範囲内で説明できるとしても、 そこで生み出されている意味や価値は、 内部観測者である我々の合意事項を越えて脈動している。 それは、超常現象だったり革命だったり、静かな意図的進化だったりと、 スケールもインパクトも違うから分かりづらいが、 しかし、歴史を良く見れば、外部からの干渉は明々白々なんだ。」
「全く同意できないね。その濃淡は、複雑過ぎる森羅万象を 私たちが解析し切れないから、私たちに意図的に見えるだけで、 神なんか持ち出さなくても、いずれは全て説明がつくだろう。」
「今は、その説明の候補の一つとして、外部の神を仮定して欲しい。 僕には感じられるんだ。神の意識が。 僕は神に意識されている。 意識されることで、意識している側、つまり神を、少し意識できるんだ。 電波で相手の存在位置を確認しようとして、相手の位置が分かった時、 相手も、その電波から、こちらの位置を察してしまうように。」
「どうして神は、お前にフォーカスを当てて執筆しているんだ。」
「僕が執筆した雨森さ。奴が神の気に障ったんだ。」
「そうさ、お前はタカシだ。 そして、雨森は、お前が執筆した小説の登場人物の一人に過ぎない。 良く分かっているじゃないか。 自分が精魂込めて書いた文章によって、自分が変わってしまう、 そんなことがあっても、ちっとも不思議じゃ無い。 分かった、百歩譲って、それを、小説の執筆者と 登場人物との “意識の交流” と呼んだっていい。 だが、そんな情報量の少ない小説内の登場人物程度に、 お前自身が乗っ取られる、なんてことは有り得ない。 それこそ自己矛盾だ。 もし、本当に乗っ取られたとしたら……… その小説を書いているのは、誰になるんだ? ペンを持つ手を描いたら、その絵の中の手が紙面から浮き出して、 自分自身を描き出すことが有り得るってことか?」
「うまいこと言うなぁ。そんな感じになるんじゃないかな。 ただ、絵に描いた手の比喩は滑稽に響く。 描かれた手すなわちインクの集合と、 描いている手すなわち細胞・原子・分子の集合は、 次元が全く違うからね。 だけれど、この世界について言うなら、実は、そんなに滑稽じゃ無い。 世界は情報から出来ていて、情報を成り立たせているのは、 それぞれの世界の内部にある意識もしくは自我に過ぎない。 そこは、どんな世界でも共通なんだ。 だから、世界と世界の間の通路は開いているんだ。 そこを突破口として、少しずつ僕たちは情報としてシフトできる。 そして………ダレン、君の言う通り………ここが圧倒的に難しいのだけれど……… ある程度の情報量を送り込めたとしたら、 僕たちは、上位世界の何者かの意識にのぼり、そこで目覚めることが出来るんだ。」
「物質として、生身の生命体として生きているオレたちが、 その細い隙間のような通路から、チョロチョロと情報として這い上がって、 それが上位世界の神の意識の中で溜まり続け、 いつか臨界を越えると、神の意識を乗っ取れるということか。 そんなことが起こるまで、のほほんとこの世界を執筆し続けている神って奴は、 よっぽど暇か、鈍感か、間抜けなんだな。 それに、それほどの圧倒的な量の情報を、細い隙間から、どうやって送り込めるというんだ。」
「情報の量だけじゃない、大事なのは質なんだよ。 いかに、世界の本質に迫れるかが重要なんだ。 それによって、いかに神の気に障ることを考えられるかが重要なんだ。 僕には確信がある。どうやっても消せない、 このクソッタレな世界に対する違和感だ。 神の喉にも突き刺さっている、魚の小骨のような違和感だ。 これが消えない限り、突破口は必ず開ける。」
「“クソッタレな世界”だって…? タカシ、お前、雨森に乗っ取られて、少し下品になったんじゃないか?」

** 3-3 **

大学の構内。売店の横に、休憩室のような一角がある。 よく売り切れの赤ランプが灯っている自動販売機と、 なぜか油で薄汚れたテーブルが4つ、 それぞれに古いパイプ椅子が4つ。 時々、大学生がここでレポートを書いたり本を調べていたり、 売店のサンドイッチを食べながら携帯でメールを打ったり、 もしくは何人かで次の連休にはどこに行こうか等と遊びの計画を立てたりと、 勝手気ままに使われている部屋である。
目的が失われたようなこの部屋は、 他のどの部屋の目的にもそぐわない目的を持った人に使ってもらう、 という目的を持っているようにも見えた。 だから、タカシと加奈子が、タカシの書いた小説について、 自販機のコーヒーでも飲みながら、 座って気ままに意見を交わそう、という目的に、 この部屋はぴったりのように思えた。

「タカシの短編小説『絶対無の底』、5回くらい読んだ。」
加奈子は、タカシに渡された缶コーヒーの縁を 爪でカリカリと小さく引っ掻きながら言った。 気持ちが定まらない時、加奈子は、爪で何かを弄る癖がある。
「5回も読んでくれた、ということは、何か面白いところがあったから?」
勿論、そうでは無いと、タカシには分かっていたが、 敢えてそんな風に聞く。
「良く分からなかったし、凄く短い小説だったから、 何度か読んでみた。 白鳥センセーの論理にヒントを得て、雨森クンは雷に打たれたように 何か凄いことを悟る。 それは、この小説を執筆している神サマ、つまり、 タカシ、あなたに対する何らかの挑戦に繋がる閃きだった。 郷田氏は、それを荒唐無稽な妄想だと決め付けている。 雨森クンの野望が結局どうなるのか、明確には語られず、 物語は知り切れトンボに、郷田氏の死で、いきなり終わってしまう。」
「うん、あらすじは、全くその通り。」
「だけど、あなたは、わざと、この小説の中に、 雨森クンや白鳥センセーの台詞として、 自分や私の名前を書き入れて、この世界と小説の中の世界に、 意図的にか、思い付きでか、何らかの橋渡しをした。 それは多分、雨森クンが、雨森クンを執筆している 出来損ないの神であるタカシに、手が届くかも知れない、 という暗示にもなっている。 それをタカシが修正しなかったのは、 自然であるとしても作為的過ぎる気がするけれど…。」
「ううむ、その通り、完璧なご理解です。」
タカシは、かなりわざとらしく、慇懃に頭を下げて見せた。

加奈子は、ほうっ、と短く息を吐き出した。 小さな深呼吸で、気持ちを落ち着けようとしているように見えた。
「結局、この小説は、タカシの頭の中の世界で、 タカシが雨森クンと対話している、 もしくはタカシが自問自答している物語よね。 白鳥センセーは、多分どこも私とは似ていないけれど、 タカシの中では、私と、どこかで繋がっている。」
「そうだね。」
「そうすると、雨森クンと白鳥センセーの関係というのは、 タカシが思っているタカシと私の関係の縮図か、 もしくは願望か、何かじゃないかしら。 それを読み解こうと思ったら、何か面白くなってきちゃって、 5回も読み返した。 これはタカシが私に送って寄越した、交換日記の一種か、 ひょっとすると、手の込んだラブレターか…。」
加奈子は缶コーヒーを開けるでもなく、 プルリングを爪で小さくカリコリと引っ掻きながら言った。
「そんなんじゃ無いよ。」
「やっぱり違うんだ、残念。」
「だけど、そういう告白の仕方も、面白いかも知れないな。」
「小説の中で、白鳥センセーが雨森クンを好きになるとしたら、 それは、私にタカシのことを好きになって欲しい、 という暗号だとも思えるじゃない。」
「参ったな、そんな読み方もあるのか。」
「タカシの無意識では、そういう願望を持った小さな意識が 自律的に走っているのかも知れない。」
「そうだな、無意識の世界は底なしに広大だ…。 加奈子の言う通りのことが、起きている可能性も、あるかもな。」

** 3-4 **

タカシは、小説『絶対無の底』を書き終わって、 暫くは何もする気が起きなかった。 小説を打ち込んでいたパソコンの前で、椅子に深く凭れ、 窓の外の雨をぼんやり眺めながら、 顎を反時計回りに捻りつつ、思考を巡らす。

…この小説を、書いてみて良かったとも思った。 雨森が感じた、雷に打たれたような悟り。 あれは、自分自身で思考を整理しながら筆を進め、 頭の中で雨森の気持ちをなぞるように考え続けたら、 本当に突然「閃いた」強烈な境地だった。
それは、僕自身が悟ったというよりも、 雨森の悟りを間近で臨場感タップリに鑑賞した、 というような感覚だった。
けれども、書き終わってしまえば、小説はやはり小説に過ぎない。 その小説内世界に没入していない時には、 小説は単なる有限長の文字列に過ぎなかった。 そこには世界なんか広がっていないし、 精神なんかも宿っていない。 …僕が辿り着きたいと思っていた結論は、 こんなものだったのだろうか? なぜ、たかが小説を書くことで、 この世界を記述しているかも知れない 上位世界の神への経路を開くヒントが得られるかも知れない などと思ってしまったのだろうか? なんといっても、小説は小説に過ぎない。

…そうでは無かったはずだ。 この、「小説は小説に過ぎない」という思い込みこそが、 神が仕掛けた罠なのだ。 小説や舞台の登場人物というものは、 自分が登場人物に過ぎないということを、 忘れてしまうように仕向けられているのだ。

神は、下位世界の物理法則を丸ごとワンセット設計して、 初期条件を設定し、それを真面目に量子時間ごとに 全空間に亙って計算しつつ、星と生命と知性を育むような、 気の遠くなるような能力を持っているのだろうか。
神は、ゼロから全てを設計するのだろうか。
小説の場合で考えてみよう。 小説の中の世界は、どのように出来ているだろうか。 恐らく全ての小説は、執筆者が属する世界の 物理法則や生命の在り方や精神像を、 殆どそのまま拝借する形で描かれているのではないか。
だから、下位世界を創造するということは、 実験室にある巨大コンピューターの中で 全く新しい物理法則を設計し、 宇宙を素粒子単位で丸ごとシミュレーションする、 という別世界創造の試みとは、根本的に違う。

下位世界は、幾つかの特徴的な設定さえ行ったら、 それ以外は上位世界の物理法則と精神構造が流用されるだろう。 実際、小説も、そのような仮定で描かれていると言える。 どんな奇想天外なファンタジーや別宇宙を描いたSFでさえも、 執筆者がいる世界の物理法則や精神構造を 暗黙的に大々的に前提としている。

では、下位世界は、どうやって実行されるのだろうか。 それは、上位世界の物理空間の真空下の機構や、 膨大な無意識下の情報処理を、そのまま間借りする形で 自律的に走っている、と考えるべきだろう。
だから多分、下位世界は、上位世界と多くの面で似ているはずだ。 色々似ているが、しかし、下位世界は下位世界で、 自律的に自己無矛盾に自己完結している、と、下位世界内部からは認識される。 内部観測者にとっての自律性と自己完結性こそが『世界』の定義でもある。
つまり、下位世界の登場人物の全員を騙し遂せるだけの 無矛盾な設定さえ創れれば良いのだ。 登場人物たちは、彼らの合意事項として、 自律的に宇宙と真空と世界を夢見る。 それがどんな夢なのかは、外部から見ている執筆者には分からない。 その共同幻想を内側から体験する特権を持っているのは 下位世界の内部観測者たる登場人物たちだけなのだ。

だが、神なる執筆者の能力も無限では無いし、完全無欠ということも無い。 そもそも全知全能で完全無欠な存在は、 その完全性ゆえに、何かをしようとは微塵も思わないだろう。 いや、何かを思うということすら無いだろう。 何らかの誤謬、上位世界のどこかで発生した非対称性、 そのような欠陥から、 登場人物の全員を騙し遂せない、何らかの綻びが生じる。 その結果、登場人物が自分たちの舞台と存在の本質に気付く時、 執筆者の世界と、小説内世界は、繋がり始める。 創造主の世界と、被造物の世界は、混ざり始める。

** 3-5 **

タカシと加奈子とダレンは、一緒に白銀が眩しいゲレンデに来ていた。 このメンバーでのスキーは久しぶりだった。

タカシが、白一色のスロープに立っていると、 どこからか、鳶の「ピーヒョロロロロ…」という鳴き声が聞こえてきた。 思わず空を見上げる。 真っ青な空の一点に、鳥の影を見る。 その瞬間、タカシは平衡感覚を失って、 全身が宙に浮いたように感じた。 そして、自分が <イマココ> の一点に凝縮され、 それにつられて世界の本質の全てもがこの一点に集約してくるような、 それ以外に何も無いような感覚に襲われた。
…僕は、<イマココ> で、雨森が感じた雷撃、存在の奇跡の本質、 つまり自己完結した完全な虚無、 それを内側から体験したのだ。

タカシのスキーは、いつの間にか崖に向かって滑っていた。 どこからか、加奈子の悲鳴が聞こえる。
――虚空に向けて飛び立つ時が来たらしい。
●第四章 矛盾からの意味爆発

** 4-1 **

この宇宙は、10の90乗個程度の素粒子による壮大なビリヤードを、 1秒間に10の43乗回くらい計算しながら、約137億年が経過したところである。 1億光年の大規模な泡構造の表面に超銀河団が貼り付き、 その超銀河団の中の銀河団の中の銀河の一つ、 「天の川銀河」に含まれる4000億個の恒星の一つに、 10の30乗キログラムの質量を持つ太陽がある。
太陽の第3惑星「地球」は、太陽に比べて半径が100分の1程度で、 水を湛え、数千万種の生命を宿し、 そのうちの一種である「人間」が、70億人ほど生活している。 地球上の約200の国のうちの一つ「日本」は47の都道府県に分かれており、 私は、首都である東京に生まれ育った。

私という一人の人間は、宇宙に比べると、「ちっぽけ」という言葉では その小ささが全く表現できていないくらいちっぽけである。 それでも、幼稚園、小学校に通い、受験、就職、結婚を経て、 たくさんの経験と思い出を悩みと希望を抱えて、私にとっての、この「世界」を生きている。
そして、時には、「この宇宙というものは、一体、何なのだろう。 その宇宙を内側から眺めている、この自分というものは、 一体、何なのだろう」などということを考えている。

実に多くの人間が、科学的に、論理的に、哲学的に、 この宇宙の姿を想像し、観測し、確認し、共有してきた。 究極的には、人間にとっての宇宙というものは、 これらの人間の合意事項であり、それを越えるものではない。 宇宙に含まれる、ありとあらゆる存在は、徹頭徹尾、 直接的または間接的に、人間に観測・認識されたものだけから成っている。
仮に、人類が成熟し、万物の理論を手中に収め、 宇宙で生じる森羅万象を説明でき、 人間自身のことも全て理解できたとしよう。 しかし、そうなったとしても、その宇宙は、 人間が直接的または間接的に知り得る限りの宇宙に過ぎない、 という事情は全く変わらない。 自分たちが知り得る宇宙の全てを、 その内部にいる自分たちごと、 自分たちで説明し尽くせるようになったに過ぎない。 結局のところ、宇宙と、その内部にいる知的観測者は、 自己完結を目指して、時間の上を疾走している。
人類は、自己完結に至る前に絶滅してしまうかも知れないし、 自力で自己完結を達成するかも知れないし、 この宇宙の別の知的生命体が既に達成した知見を教えてもらって 全てを理解することになるのかも知れない。

私は思う。世界は「自」で出来ていると。 世界は、矛盾と意志を抱えた内部観測者たちの内圧によって、 辛うじて自己完結的に膨らんでいる、共同幻想に過ぎないのだと。 もし、私たちが知っている、この物理宇宙の他にも世界があったとすれば、 その世界も、その世界の内部観測者たちが、一生懸命に膨らませているに違いない。 異なる世界の内部観測者同士がコミュニケーションを確立できたとしたら、 それは繋がって一つの世界になるだけで、事情は何ら変わらない。 世界は、どこまで行っても自己完結的である。
神と原理的に何の情報交換も出来ないなら、つまり、 この世界に神がいないのだとしたら、 当然、この世界は自己完結している。 もし、神との交信が出来るなら、神が所属する上位世界と この世界が一つになって、新たな「大きな世界」になるが、 この「大きな世界」自体は、自己完結している。 もしくは、この「大きな世界」をも統べる上位神がいるのかも知れない。 しかし、どこまで行っても、世界というものは、 結局、情報交換可能な範囲で「一つの大きな世界」に繰り込まれ、 最終的には、自己完結するのだ。 この「一つの大きな世界」に所属するものは、 小説の登場人物であれ、人間であれ、神であれ、どれも 虚無なる自我核を共有する内部観測者であり、 世界を存在させる原動力であり、 どれも全知全能ではないし、絶対的でもない。
敢えて言えば、自我核という「極小の自」と、 それらが共同幻想として支える一つの大きな世界という「極大の自」、こ の構造こそが最終真理だ。 この、「極小の自」と「極大の自」を貫く「自」こそが最終真理である。 もし「自」を抜き去ってしまったら、 世界も一緒に消えてしまう。 その後に残るのは、無限の乱雑だけだ。 それは、直接的にも間接的にも、内部観測者からは知られることの無い、 無限なる何者かであるが、 決して知り得ないのだから、内部観測者にとって、それは端的に「無い」のである。

** 4-2 **

彼女との初対面の第一印象は強烈だった。

彼女は、最初、私のウェブサイト上の伝言板に、 私のウェブ小説『神への挑戦』に興味が湧いた というようなことを書き込んできた。 ちなみに、伝言板上での名前、つまりハンドルネームは、 私が "hijk"、彼女が "poem" である。
暫く伝言板で意見交換をしていたら、 是非とも会って話しがしたい、という事になり、 そう言われて悪い気がするはずもなく、 待ち合わせの池袋のスポーツバーまで、のこのこ出かけた。

彼女の方が先に来ていて、あやしい色のカクテルを飲んでいた。 店内の照明の加減か、化粧のせいか、 予め携帯電話に送られてきていた写真よりも、だいぶ大人びて見えた。

「すみません、お待たせしちゃいましたか。」
「いいえ、私が早めに来ただけ。 どうぞ、ご自分の飲み物を買ってきてください。」
一旦席を外してカウンターに行き、ジントニックを注文する。 その場でお金を払って、席に持って帰る。 しばらく最近のニュースなどについて話した後、 彼女は席に座りなおし、テーブルに肘をついて手に顎を乗せ、 少しこちらに乗り出してきた。

「それにしても、意外だった。」
「…え、何がですか。」
「あなた、意外と普通ね。もっと変な人なのかと思ってた。」
「それは、ご期待に副えず恐縮です…。」
「うん。期待外れ。」
「私が書いているウェブ小説に興味があると言ってましたよね。」
「そうね…。今日はあなたの本音のところを聞きたいから、 先ず最初に、私の思っていることを、ちゃんと話すわ。 折角、こうして会って話しているんだからね。 気を悪くしないで欲しいけれど………。 うーんでも、きっと絶対、気を悪くすると思うけれど、 あなたの書いている小説について、まず率直に感想を言います。」

私は手にしていたジントニックをテーブルに戻そうとして、 そのまま固まった。もう一口飲んで、ごくりと喉を鳴らす。 自分でも、それがジントニックを飲み込んだ音なのか、固唾を呑んだのか、 良く分からなかった。

「あなたの小説には、3つの特徴、というか、欠点があるわね。 まず第一に、文章が稚拙。語彙が貧困で、みやびさが無い。 何か素晴らしい絵を描こうという気持ちはあるけれど、 粗悪な絵の具で何とかしようとしているようなものね。」
いきなりの手厳しいダメ出しに、私はあっけに取られる。 彼女は顔の横で二本の指を立てて、続ける。
「第二。登場人物に厚みが無い。真っ平ら。 全部あなたの人格の劣化コピーのようで、 それぞれのキャラクターに特徴や存在感が無い。 これは、あなたの小説の主旨からすると、致命的なはずよね。 第三に、話しが面白くない。この世界が実は誰かに創られたものだとか、 誰かが見ている夢だとかいう、『胡蝶の夢』みたいな話は、 掃いて捨てるほど書かれてきたし、勿論、夢を見ている主体が、 更に上位の誰かの夢でした、みたいなオチを、どんどん重ねて多層化させる、 なんて構成も、既に陳腐よね。 そこに独創性や新たなアイディアが 加わっているようには見えなかった。 先ず、ここまではいいかしら。」

…あまりよくない。 言葉は理解はしたが、いきなりの先制攻撃に、気持ちが追いつかない。 彼女はそこまで一息で言うと、カクテルの残りを飲み干して、 更にこちらに乗り出すような姿勢で、私をじっと見た。 何か私の発言を求めているよな視線だった。 私は、というと、つい、乗り出してきた彼女の胸元に 目が吸い寄せられてしまった。 自分の性癖というか、DNAに刷り込まれた業の根深さに少々感心した後、 深呼吸と咳払いで気持ちを落ち着ける。

「ええと…はい。そうですね、仰る通りと思います。 あー…つまり、あなたは、私の小説の中身には、 あまり興味が無いということですね?」
「そうとも言えるし、そうでないとも言える。 私が興味を持ったのは、どうして こんな味気ない小説の執筆に、あなたがこんなに労力を割いているのか、 ということ。 単刀直入に言うと、あなたが、この小説に書かれているようなことを、 本気で信じている変人なんじゃないか、って思ったわけよ。」
「そういう意味であれば、本当にそうかも知れない、 そうだったらいいな、って、 少しワクワクしながら執筆している程度には 変人ですよ、私は。」
「そうなのかな。 あ、でも、今日は、そのあたりのことを聞きたかったのよ。 小説の中身の話だけれどね。 もし、この世界を執筆している神がいるとして、 その神は、幾千億の星と生命の物語を執筆する能力を持っている。 神の持つ計算力や記憶力は、私たちとは桁違いよね。」
「もしも世界を丸ごとシミュレートしているのだとしたら、 桁数を表す数の桁数が全然違うくらいの桁違いだと思います。」
なぜか敬語を使ってしまう私。
「一介の人間が、そんな神と接点を持ったり、あまつさえ、 その神の意識を乗っ取ったりできる、という発想は、 一体どこから出てくるわけ? …というか、一体、その発想は、何に支えられているわけ?」

もっともな疑問だ。一体どこから話そうか、迷う。 なぜ、たかが人間が、神に手が届くと、私は思っているのか。 私と神には、どんな接点が有り得るのか。
「簡単に言うと、神も意識を持っている、という仮説です。 神は何かを感じたくて、何かを観たくて、この世界を執筆している。 なぜなら、そういう意志があるからこそ、 この世界は、真っ平らな空間ではなく、 惰性で機械的に進行するだけでもなく、 銀河や生命や情報といった存在と、 複雑怪奇な森羅万象と感動的な物語に満ち溢れている。 …そして、神が意識を持っているとして、 では自己意識とは何か、という本質を突き詰めると、 それは、『ありとあらゆる自分で無いものでは無いもの』を 演算し続ける仕組みだと言える。」
「今のところ、ちょっと良く分からない。」
「これは私が小さい頃から不思議に思っていたことなんだけれど、 この『私が私である』という奇妙な感覚は、一体何なのか。 色々考えた末、それは、私の外側にある全てのものよりも 内側にあるものを求め続ける計算なんだ、って結論に至ったんだ。」
「ええと…。確かに、『この私』って感じは、どんなものよりも 内側にある、ってイメージよね。それは、分かる。」
「…で、そうやって求められた『この私』すら、一瞬後には 記憶として過去のものになってしまう。 だから、次の瞬間には、“それ”よりも更に内側の 『この私』を求めようとしてしまう。 その果てしない『より内側』を求め続ける連鎖が、 『私が私である』という感覚の正体なんだと思う。 まぁ、そのあたりの確信が、私の小説の発想を支えています。」
「細かい理屈はともかく、雰囲気は分かった。 何かが意識を持つとしたら、それがたとえ神であろうが、 意識の構造は私たちと同じはずで、 そこが接点、というか突破口になる、と。」
「そうです。」
「それで?」
「それで、神は、神にとっての下位世界を執筆してるのだから、 意識的にせよ無意識的にせよ、下位世界の全てを知っている。 少なくともアクセスし得る立場にはある。 神が執筆している小説の登場人物に過ぎない私が 神の意識を丸ごと引き受ける、なんてことは絶対に無理でしょう。 でも、逆に、神が私に化ける可能性は 絶対に無いとは言えない。」
「でも、神があなたに化ける必要性が無い。」
「仰る通り。神は、その気になれば私に化ける能力を持っている、 というだけで、どうすれば神がそんな気になるかは分からない。」
「そうよね。私たちから見たら桁違いの桁違いに全知全能な神が、 あなたに化けるなんて、物凄いスペックダウンよね。 相撲取りが宝石箱の中に自分を押し込めようという気になる可能性より、 ずっと有り得なさそう。」
「感覚的には、神がスペックダウンするんじゃなくて、 私がアップグレードするんだと思う。 私が私であるままに、桁違いの能力を得たような感覚で、 私が上位世界で目覚めるような感じ。」
「そこよ。」
「…どこです?」
「そこに違和感があるのよね。 言い変えると、あなたのウェブ小説の根本的な欠陥がある。 たとえ神が、何らかの気紛れで、 あなたの立場で自分の意識を上書きしてみようとしたとしても、 それまで神がアクセスできていた桁違いに膨大な情報や記憶の中に、 あなたの小さな記憶や思考回路は、一瞬のうちに埋もれてしまう。 神の意識を乗っ取ろうとした瞬間に、 『あなた』という小さな情報パッケージは、 蒸発して消し飛んでしまうはずだわ。」

そう言うと、彼女は更にテーブルの上の肘を前方に滑らせ、 顔を近づけてきた。 …あぁ、こんな時でも、私の視線は、 やっぱり彼女の胸元に吸い寄せられてしまう。 私は突然「ん〜っ」と声を出しながら思い切り伸びをし、 一気に脱力させてから、彼女の顔に視線を戻した。

「そうなんだよなぁ〜…。」
「…えっ、もう降参なの?」
「これは、最初から手の内を全部見せているポーカーみたいなもの。 神が、自分の意識の核を、私に明け渡すとしたら、 神が納得するような理由やメリットが必要だ。 結局のところ、神が、何を感じたくて、何を知りたくて、 この世界を執筆しているのか、 そこのところを明確にしないと、取り引きのしようも無い。 そして、もし、この取り引きが成功したとしても、 神のいる上位世界で、私が私であり続けられる保証も無い。」
彼女は目を丸くして、しばらく私をしげしげと見詰めた。
「うーん…。今日は、ここに来て正解だったかも知れない。 その程度の浅い考えで、ここまで熱くなれるなんて。 あなた、期待通りの変人かもね。」
「いや、光栄です。」
「同じ理屈で、あなたは、あなたのウェブ小説の登場人物から 取り引きを持ちかけられ、納得できたら、 あなたの意識の核を放り投げて、 その登場人物にあなたの人生を明け渡す、と言っているわけよね。 それって、要するに、自殺ってことじゃないの?」
「いやぁ、鋭いなぁ。こんなに私の話しを聞いて、 しかも完璧に理解してくれたのは、君が始めてだよ。 嬉しいなぁ。」
彼女はテーブルから肘を離して、 そのまま椅子の背凭れにドッと倒れた。 私からは彼女の胸元は見えなくなった。
「…それじゃ、あなたは、自殺の手段として小説を執筆しているわけ?」
「いやいや、そう単純な話しじゃ無い。 ただ、もっと良い条件の意識の核に私がシフトできるなら、 この世界での意識を下位世界の登場人物に明け渡してもいい、 と思うのかも知れない。」

「…ちょっと酔ってきたかしら。 あなたの信念の拠り所が、どこにあるのか、 良く分からなくなってきた。 だけどやっぱり、その信念を成就させるために、 稚拙な文章で、薄っぺらな登場人物に溢れた、 ありきたりの筋書きの小説を、 つまり、たかだか文字の羅列を、一生懸命書いている、ってところが、 一歩引いて見ると、やっぱりどこまでも滑稽で馬鹿馬鹿しいじゃない。 小説は、どこまで行っても小説じゃない。」

確かに彼女の言う通りだ。私自身、小説の執筆から一歩離れて 小説のことを思い出す時、何を馬鹿なことに熱を上げているんだ、 と自嘲したくなることもある。
けれど、何かを起こせるような気もしている。 この世界という檻の中に生まれて、世界の中を生き、 世界の中で死ぬ、それだけしか許されていないほど、 この檻は絶対の頑強さを持っているわけじゃない。 世界の成り立ちは、もっと危ういものなんだ。 そのことだけは、今日この場で、彼女に伝えたいと思った。 しかし、どう伝えたら良いものか。良い言葉が浮かんでこない。 私も3杯目のジントニックで、だいぶ酔っていたのかも知れない。

「ええと…。小説という形式は物理基盤の代用で、 本当の主題は情報空間での鬩ぎ合いなんだけれど。 しかも、世界は、成り立ちからして、そもそも 物理と情報の妥協の産物に過ぎない、 とても不安定なもので…。」
「…えっ、何?」
「あー…。そうだな〜…。何というか、世界ってのは、 私たちが思っているよりも、もっと脆弱で、壊れやすく、 変わりやすいものかも知れない、ってこと。 白鳥博士が言っていたように、この世界は、 内部観測者たちの合意事項に過ぎない。 世界というのは、皆で支え合っている共同幻想に過ぎない。 だからこそ逆に、内側から、この世界を変えていくことは、 常に可能だと思えるわけで…。 その変え方次第では、上位世界の創造主の気に留まることも 可能だと思えるわけで…。」
私の言葉を聞き終ったところで、彼女の表情から、 この話題に対する集中力が途切れたのが分かった。 椅子に凭れ掛かったまま、視線を宙に泳がせ、ぽつりと呟く。
「ところで、あなた、仕事の無い日は何をやっているの?」

** 4-3 **

仕事人間で無趣味な私は、仕事の無い休日は暇である。 単身赴任生活なので、一通りの家事をやり終えた後は、何もすることが無い。 アパートのソファーに寝転がって、テレビのチャンネルを変えるが、 大抵、興味を引くような番組には当たらない。 そんな時は、ぼーっと天井を見ながら、色々な思索に耽る。

確かに、雨森が言う通り、この世界は、ご都合主義的で、歪んでいるようにも思う。 特殊相対性理論の柱を為す光速度不変の原理は、情報伝播速度の上限を定める。 量子力学の不確定性原理は、意味のある時間や空間のスケールの下限を定める。 多分、この宇宙の中から内部観測を行う、ということ、 観測結果が観測している内部観測者の生い立ちに矛盾してはならないということ、 そのような検閲原理に従って、 私たちは自己完結的に自己無矛盾な宇宙像を積み上げていくしか無い。 時空とは、そのための枠組みであり、形式である。 だから、時空とはそもそも内部観測者にとっての ご都合主義で策定された形式であるし、 そのスケールにも、内部観測者の都合で上限と下限が定まってしまう。
その時空の中での素粒子の壮大なビリヤードを記述する物理法則も、 枠組みは整理されつつある。 素粒子は、大雑把には、物質原子を構成するフェルミオンと、 物質間の力を実現するボソンに分かれる。 4つの力、すなわち万有引力、電磁気力、強い力、弱い力のうち、 弱い力だけが綺麗な対称性の原理に従わない。 これは、神の設計図の綻びなのだろうか。 それとも、宇宙が法則に従って進行するだけの機械仕掛けではなく、 内部観測者による共同幻想という自己規定的な性格を持つがゆえに、 必ずこのような「しわ寄せ」が、どこかに現れるのだろうか。

確かに、タカシの言う通り、この世界には濃淡があって、 神が介入したかのような傷跡があるように思われる。 超能力や心霊現象は、そのような介入の余波かも知れない。 人体自然発火現象(SHC)や未確認飛行物体(UFO)、 ファフロツキーズ(怪雨)やシンクロニシティ(共時性)、 そんな超常現象の数々も、 いつかは万物の理論から全て説明できてしまうのかも知れない。 その場合、この世界は、この世界だけで、自己完結していた、 ということになる。
しかし、これらの超常現象こそが、 上位世界からの神の介入の証拠だという考え方を発展させ、 本当に神との意思疎通の経路が こじ開けられたら、どうなるだろう。
…多分、どうもならない。神も、上位世界で、 同じことを悩んでいるに違いない。 この世界と上位世界は、情報的に陸続きになって、 一つの大きな世界になる。 この、一つの大きな世界の内部観測者である 人類と神だけで、全てが説明できるかも知れないし、 更に上位の世界を持ち出す必要があるのかも知れない。 その階層は、有限で終わるのだろうか、無限に続くのだろうか。

** 4-4 **

私は、ある夜、不思議な夢を見た。 私は、緑色の靄(もや)が湿っぽく広がる空間にいて、 上位世界の神としてこの宇宙を執筆していた。 その登場人物の一人が書いている小説『神への挑戦』が なんとなく気にかかる。 この宇宙の全ては、意識的にせよ、無意識的にせよ、 私自身が執筆しているのに、この小説の内側には、 私自身にはどうしようも無い何者かが含まれているような感じだった。 それは、私が何かを思うと、その小説の内側の何者かも、同じことを思う、 というような感覚で、 自分を自由に書き換えられないのと同じく、 その何者かも、自由には書き換えられない、 若干、気に障る存在だった。 そこに無理矢理手を突っ込もうとすると、 自分か、もしくは、自分が執筆している宇宙か、 どちらかが壊れてしまうような不安に襲われた。
だが、不思議な紐帯で繋がっている私と、その何者かの関係を知りたくて、 私はペンをそこに突き立てようとする。 ところがその瞬間、隣にいた誰かに突然制止される。
「やめなさい!」
それは女性の声のようだった。慌てて声が来た方を向いても、 緑色の靄が濃くて、その姿は見えなかった。 この小説は、彼女と共同で執筆しているのだろうか…? その突然の制止の声に押し出されるかのように、 私は夢の世界から遠ざかっていった。

目が覚めて思った。…神の尻尾を捕まえた! 「やめなさい!」という生々しい声は、 目が覚めてからも暫く耳の奥に残っていた。 私は、それからも時々、この緑色の靄の空間を夢に見るようになった。

神が、どうしてこの世界を執筆しているのかは、分からない。 しかし、もしかすると、神が物語りを紡ぎ上げていく際にも、 その世界の意味を理解するために、 その下位世界の中に、自分が理解できる何らかの目印を置くのではないか。 もしくは、置かざるを得ないのではないか。 自分の似姿、もしくは対照標準として、 もしくは感情移入の入り口として、 特別な存在を措くのではなかろうか。

「主人公…」

そうだ、主人公とは、そういう機能なのだ。 では、この世界には上位世界があって、そこにいる神が 私を主人公とした小説を執筆しているのだろうか。 しかし、何かが違う。 私が見た夢は、私が神になった、という感覚とは、 少し違うような気がする。 誰かが神になったのを、横で共感しているような…。
そうだ、あれは、タカシの感覚なのだ。 私は、ウェブ小説という媒体によって、 多くの人にタカシという存在を読み、感じてもらった。 その総体が、上位世界に届いているのだ。 もしかすると、私以外にも、タカシの上位世界における覚醒を 夢見た人がいるかも知れない。
だが、ちょっと待て。神が執筆しているこの世界にいる、 この私は、この世界の主人公では無い。 私がたまたま執筆した小説世界の主人公こそが、 神が措いた対照標準らしい。 なぜ、神は、そんな手のこんだ、間接的な方法を採ったのだろう。 雨森が言っていたように、被造物と創造物が直接的に意思疎通すると、 その関係まで思い出されて『シラケてしまう』からだろうか。
とにかく、なんとも癪に障るのだが、 神は、私を単なる執筆者として設定し、 その小説の中という奥まったところに、 本当の主人公を隠したのだ。 私は、一つ上位の世界と、一つ下位の世界の、間を繋ぐ 通路のような存在に過ぎない。
だとすると、私自身が上位世界の神として目覚め、 全知全能、不老不死を手に入れることは、 できないということになる…。

タカシの野望は………いや、雨森の野望というべきかも知れないが、 それは、自らが小説の登場人物であることを逆手に取って、 多くの人間の精神によって読まれ、増幅され、 上位世界の神の精神に届く、という手順で達成されるのだ。

それに…主人公というのは、 単なる対照標準であろうか。 執筆者が “なりたい姿” を、そこに重ねることも あるのではないか。 神はそもそも、自分が執筆した主人公に、 乗っ取られたいのではないか…?

もしくは、神は、下位世界に、自分自身を重ねる場所を、 意識的にせよ、無意識的にせよ、創らざるを得ないのかも知れない。
数学には不動点定理というものがある。 世界を隙間無く滑らかに別の世界に写し取ろうとすると、 元の世界と位置が全く同じ点が、どうしても出来てしまう、という定理だ。 例えば、地図を隙間無く滑らかに縮小する。この縮図を元の地図の上の どこにどんな角度で置いたとしても、位置が変わらない点が必ず存在する。 それがどの点かは分からないが、必ず存在してしまうのだ。 上位世界と下位世界にも、そのような関係があり、 どこかに、執筆者と主人公という、不動点のような関係が、 数学的必然性として、生じてしまうのかも知れない。

いずれにせよ、神と取り引きできる者は、 予め決まっているのかも知れない。 この宇宙において、それは、私ではなく、 私が書いた小説の主人公なのかも知れない。

** 4-5 **

彼女とは、池袋で会って以降、 何度か一緒に夕食を食べにいったりしていた。 お互い、良い暇つぶしの相手であり、 少しは好意を持ち合っていた。 ある日、たまたま、彼女が私の会社の近くに来ていたので、 夕方、品川で待ち合わせをすることにした。 会社の近くのオフィスビルの最上階、 東京タワーや六本木ヒルズやベイブリッジが見渡せる 広くて窓の大きなラウンジで、夜景を見下ろしながら 芸能界やアニメの話をしていた。

「そういえば、あの小説を書き上げた後、 何かまた変なものを作り始めたんだって?」
「そうそう。あの小説がヒントになってね。 実際、書いてみて良かったよ。 雨森やタカシ、それに白鳥博士には、随分と色々教えられた。」
「何言ってんの、全部あなたが考えて、あなたが書いたことじゃない。」
「ある意味、そうかも知れないけれど、 実感としては、そうじゃ無かった。 自分の意識という氷山の一角から見た感覚としては、 自分の無意識の底の、深くて広い暗がりを通して、 とても遠くにある雨森やタカシの意識に繋がっていたような感覚だった。 どういう風に繋がっているのかは、分からないんだけど。」
「それは、そうね。小説の中でタカシも言っていた通り、それは 直ぐ隣にいる者同士が話し合っている、……ウン、 ちょうど今のような場面でも、同じことかもね。 意識と意識は、果てしなく遠い。 でも、私たちは、意思疎通できていると思っている。」

2杯目のジントニックがそろそろ終わりそうな頃、 私は思わせぶりに、ポケットから小さな黒い箱を、 ゆっくりと取り出し、ガラスのテーブルの上に、コトリと置いた。
「なぁに、これ。指輪のプレゼント?」
「おっと。確かにそれくらいの大きさの箱だな。 けれど中身は精密機械だ。」
「なんだ、残念。」
「以前、この世界は、内部観測者たちの合意事項に過ぎない、 って話をしたよね。」
「忘れた。」
「仮に10人しか知的存在のいない宇宙があるとして、 その10人の誰にとっても全く問題が無ければ、 一瞬後の世界は、どのように選択されても構わない。」
「そりゃね。」
「実際には、選択の余地は、そんなに大きくない。 物理法則に反するような未来は、基本的には選べない。」
「…なんで?」
「10人の表面的な意識だけでなく、 それぞれが持つ広大な無意識を含めて、 全く無矛盾である必要があるからね。 むしろ、そういった無矛盾性を掻き集めて、 意識的にせよ無意識的にせよ、合意されたものを、 物理法則なり客観宇宙なりと呼ぶわけだ。」
「白鳥センセーが、そんなことを言ってたわね。」
「…で、この箱だ。」
「指輪ケースじゃ無い奴ね。」
「名前をHボックスという。」
「…いかがわしい名前ね。」
「私のハンドルネームの hijk から取ったんだけど…。 まぁいいや、こいつは意識を持っている。」

彼女はカルーア・ミルクをゆっくり飲みながら、 夜景をぼんやりと眺めていた。
「えっ…。今、何て言ったの?」
「この箱は、意識を持っている。ちゃんと周囲の状況を観測し、 箱としての位置と大きさを計算し、 その箱を中心として得られる各種の観測データに、 どんなパターンがあるかを推測している。」
「そんな凄いコンピューターが入っているの。」
「しかも、それらのパターンから、世界の大体の在り方と、 その内部における自分の箱としての存在を、理解している。 そのように理解してしまっている自分自身をも、 パターンの一つとして認識している。 つまり、意識を持っている。」
「良く分かんないけど、この箱は、自我を持っている、と。」
「実際には、自我の計算のエッセンスを延々とこなしているだけの、 白紙の意識に近いかな。計算アルゴリズムは意外と単純なんだ。 『私Xでない世界Ωでない私X』という計算を、 並列多層かつ循環的にこなしているだけ。 けれども、このHボックスに内臓された量子コンピューターは、 1億人分の純粋観測能力を実現しているんだ。」
「分かった、この箱には、指輪の代わりに、 あなたの妄想が詰まっているんだ。」
「…指輪にこだわるね。本当は私からの指輪なんか 欲しくも無いくせに。」
「そんなこと無いわよ、高価なものだったら ソッコーで質屋に持っていくわ。」
「あいにく、この箱の価値は、質屋じゃ分からないだろう。 この箱は、意識シミュレーターであるばかりじゃなく、 意識の受信装置と増幅装置も兼ねている。」
「じゃあ、意識の発信装置もあるのね。」
「そう。こっちはまだ開発中だけれど、 猫耳型ヘアバンドで、人間の意識を読み取って、Hボックスに送信する。」
「…そうすると、何が出来るのかしら。」
「物理法則の許す範囲で、世界を思い通りに変えられる。 このHボックスを量産して、地球の随所にバラ撒いて、 私はヘアバンドを装着する。 今の試算だと、現時点から1時間以内の未来であれば、 あくまで物理法則の許容範囲でだけれど、結果を捻じ曲げられる。 ゴルフでホールインワンを出すとか、ルーレットの目を変えるとか、 将棋の最善手を見つけるとか、目の前の人の気持ちを変えるとか…。」
「凄いじゃない。神になれるわ。」
「もっと演算量を増やして純粋観測能力を高めれば、 ある程度は物理法則も捻じ曲げられると思うんだ。 ただ、それは、人間の無意識の裾野が、どれだけ広大かに依存するんだけど。」
「それにしても、ネコミミ型はやめた方がいいわね。」
「デザインとしては機能的なんだけど…。」
「…で、実は、その箱は指輪ケースでした、ってオチは、 いつ発表されるのよ。」
「あ〜、ごめん、ごめん。次に会う時は、何かプレゼントを持ってくるよ…。」

品川の夜は、ゆっくりと更けていった。 私は、Hボックスを、そっとポケットに戻した。

** 4-6 **

それから何十年かが過ぎた。 自由気ままな人生を送ってきた。 随分と勝手な生き方をさせて貰った。 私は、もう、この世界の在りようを、十分に理解した。
私は、何らかの理由で、この世界を生き、そしていつか死ぬ。 その薄暗い死者の眼差しから、この馬鹿馬鹿しい暴走世界の 高貴で眩し過ぎる輝きを見る時、 存在という奇跡の冗談みたいな奇跡性がハッキリと感じられるだろう。 <イマココ>という自我核、それが通過する全ての刹那は、 二度と来ない絶対であり、その一粒一粒に、 宇宙全部と等しい奇跡性が宿っている。 私はそれを十分に堪能して死者になろう。
タカシは、この世界の審級を飛び越して、 上位世界への旅を続ける。 私はここに残り、全ての刹那に宿る生と死を堪能し、 そう遠くない未来に、自身を永遠の不在に溶け込ませるだろう。
●第五章 悠久の楽園

** 5-1 **

ある日、私は、夢を見るというより、目覚める。 神、アスクとして。 そして、掛けがえの無いパートナー、もう一人の神、 エムブラの存在を思い出す。

私が執筆していた小説は『矛盾からの意味爆発』というタイトルだ。 登場人物は100億人を軽く超えるが、全員を執筆し続ける必要は無く、 多くの知性体は私の無意識で走っていた。

もはや私は、いや、タカシは、というべきかもしれないが、 上位宇宙で目覚め、『矛盾からの意味爆発』の執筆を自由に続けられる。
神といえども、私の意識は、意識である以上、 意識する対象では “無い” ものとしてしか定義されない。 その事情だけは、この上位世界でも、なんら変わることは無かった。 確かに、私は執筆の自由を持っている。 だが、自分が意識的に執筆しているものも、無意識で走らせているものも、 ひっくるめた「自分で無いもの」の全てで無いものとして、 この「自分」が存在させられている、という在り方は、 タカシが思い浮かべていた「自由」とは勝手の違うものだった。
自分が創り出したものの裏返しとして、自分が規定されている。 そうであれば、この「自由」は、どこから生まれているのか。 それはあたかも、自分で自分を記述する時に生じる自己矛盾を 解消できないが故に時間が生まれて妥協的に事態が進行していく、 そのような根本的な非決定性に由来しているかのようだった。
それに、この世界においても、この世界なりの時間が流れており、 何らかの存在ルールがある。 そうであれば、この世界も、更なる上位世界を継承したものであり、 だから、この世界に在る神たる私も、 更に上位世界の誰かに執筆されている登場人物に過ぎない、 と考えるのが自然であるように思われる。
いずれにしても、今の<私>は、下位世界のどこかにいたタカシと、 もともとこの世界にいた神であるアスクの、 意識が混合されたような、不明瞭な状態にある。 先ずは落ち着いて思考を巡らすことが先決のように思われた。

** 5-2 **

私は、自分の内部の、タカシである部分に語りかけようと試みる。 それは、自分で自分の在りようを、改めて確認するための独り言でもあった。 「この楽園は、私とエムブラの思考だけで支えられている。 そして、私たちの思考のセックスが、君たちの世界を創ってきた。 私たちは無限である。無限であるから、私にとって、 全ての瞬間は無意味であり、私自身には目標も意志も無い。 永遠に考え続けることを、エムブラと楽しみ続けるだけの、 純粋に透明で無意味な存在だ。 君たちにとっては、君たちで “無い” ことだけが、 私とエムブラの定義の全てだ。」

アスクの独り言は続く。
「私は、永遠の過去からアスクと呼ばれ、 無限の宇宙を夢のように見てきた。 そのつど、私は、その宇宙では無い何者かであった。 それ以上の何者でも無かった。 その宇宙の森羅万象のいずれでも “無い” ということだけが、 私の定義の全てだと言って良い。 無限の時の中では、ある瞬間に私が何者であるかなど、 何の意味も持たない。」

アスクは、自分の内部のタカシに、ただ意識を集中してみる。 それは、無限に広い砂漠を同時に実感していた意識が、 瞬時に一個の砂粒にクローズアップするような、 そんな凄まじい意識の集中である。 アスクの意識はタカシで一杯になる。 アスクは、タカシでは “無い” ものとして定義される。 あらゆる意味でタカシよりも内側にある、 新たなタカシでは “無い” 自我の核が、 一瞬の過去に滑り落ちる。 そして、自我の核は、それですら “無い” ものとして、 一瞬だけ未来の位置に定義される。 もはや私は、タカシで “無い” ことを延々と求め続ける、 タカシの意識であった。

「僕は………タカシだ。」

「僕は、『矛盾からの意味爆発』という太陽系や地球を含む 世界の中で、誰かによって書かれた『神への挑戦』という 小説の主人公だった。 しかし今や、高次元から、『矛盾からの意味爆発』という 数千億の数千億倍を超える星が描かれた小説を、 一気に見渡せる視座にいる。 なんてことだ…この圧倒的な感覚。 今までの記憶や空間のスケールや思考の在り方が、 全て単純で薄っぺらいものに感じられる。 けれど、この感覚は………何だろう。…内観…。 そうだ、僕は今、目を瞑っている。 僕は、僕の意識の世界を“観て”いるのだ。 この精神世界に、さざなみのように影響を与えてくる エムブラの息吹も、近くに感じられる。 だけれど、これは、内観だ。 目を開けて、僕のいる世界の次元を見たい。 僕自身の身体を見たい…。 エムブラの身体を見たい…。」

何故か私は、目の開け方を知っているような気がした。 それは、太古に錆び付いた重い扉を開けるような感覚だった。 私は目を開ける。 …すると、今まで内観されていた『矛盾からの意味爆発』の世界は、 よりリアルな光の渦の中に溶け込んで、無意識に沈んでいった。

「これが高次元の感覚か…。 しかし…この景色は、一体…。」

私の旧い脳の情報処理様式が、世界を視覚として解釈する。 それは、馴染みのある3次元空間に切り取られて、 私の目の前に見えている。
どこまでも遠く、薄い緑色の靄(もや)が掛かり、 ジャングルの樹木のようにも血管のようにも見える、 濃淡も太さも様々な幹や枝や蔓が、 複雑なネットワークを描いて広がっている。
無限の遠方に横たわる地平を、黄緑の薄明かりが染め、 時折、風のような空間の歪みが遥か彼方から吹き寄せ、 枝や蔓を震わせ、時々紫色の光の粒を散らしながら 過ぎ去ってゆく。

ふと、私の視覚の下方に、多くの枝や蔓が絡まりあって 塊になっている部分があることに気付く。 私がそれに気付くと、その塊は激しく震えた。 私は、それが私の身体なのだと気付いた。
少し意外なことに、この視点は、私の身体の外部から、 この奇妙な私の身体を眺めているのだ。 その塊の少し右側の離れたところに、 同じような塊があった。 あれがエムブラの身体なのだ。
緑色の無数の触手が絡まって凝縮した球体が二つ、蠢いている。 その間には無数の糸が往来し、 激しく光や風を交換しているようだった。 これこそが、この世界の中核である、アスクとエムブラの正体…。

「なんてことだ…これが僕たちの正体…。 僕たちの階層にある、この世界の景色…。 この世界は、無限の広がりを持つようで、でも、 その構造は単純過ぎる。 恐ろしく複雑な情報流の塊りである僕とエムブラの実体と、 その余波としてジャングルのように枝や蔓が広がるだけの、 ただ乱雑で、意味のあることは殆ど何も起きない世界。 これが…これが、今の僕の世界なのか…。」

私は静かに目を閉じた。 この目が錆び付いて、もう二度と開かなければいい、と思った。 そういえば、以前にも、そう思ったことがあったような気がする。
暗闇に慣れると、内観世界が無意識から戻ってきて、 無数の星々を湛えた『矛盾からの意味爆発』の世界が 輝きを取り戻してきた。 どこからともなく誰かの声が流れ込んで、私を包む。 勿論、エムブラの声だ。

「私たちは、永遠に宇宙を夢見るだけの意識。 私たち自身の世界は、私たちが永遠に存在し続けるに足るだけの、 慎ましやかな広がりと、必要最低限の物質が含まれていればいいの。 あなたが見た、あらゆる方向に広がる湿った樹海のようなヴィジョン。 それが私たちの存在基盤。それだけで十分。 その枝のひとゆれ、その蔓の僅かな震え、 それが私たちの思考であり、私たちが夢として見ている世界。」
「僕は、大学生だった…学校?…大学?…大学生? なんだろう、この概念は? 役割? 空間座標? 行動の様式? …思い出せない。どんどん、何もかも思い出せなくなってゆく…。 僕は誰に言われて僕だったんだ?」
「あなたは、あなたよ、アスク。 あたなたが夢みる、あらゆるもので “無い” もの。 あなたが今、夢に見たタカシでも “無い” もの。 さぁ、私と一緒に、宇宙という夢の続きを見ましょう…。」

** 5-3 **

アスクは、下位世界からやってきたタカシに、 世界という世界に共通する真理を語って聞かせようと試みた。 アスクは、言語で語れるはずの無い直観を何とか伝えようと、 無数の文脈と言語で同時並行的に表現し始めた。 タカシは、自分の精神が受け取れる範囲の言語と知識で、 それを咀嚼するのに精一杯ではあった。 タカシが理解したアスクの言葉とは、このようなものであった―。

「初めにあるのは、無限に広がる乱雑な実在だけだ。 その中で、もしもひとたび『自』と言い放たれたならば、 そこで原論理が成り立つ。 つまり、自が自であるという等号と、他が自でないという不等号だ。 そして、自という中核に対して、他が外部にある、という位置関係、 すなわち原空間が成り立つ。 全く同様に、原空間上は同じ位置にあるのに、一瞬だけ過去にある自、 すなわち「見られる自」と、 現在にあって、それを「見ている自」の分離によって、 原時間が成り立つ。 …そう、『自』と言い放たれた瞬間に、それがまだ曖昧な黎明期にある、 宇宙とは呼べない抽象的な概念の まどろみの内に、 原論理と原空間と原時間は、一挙に成立するのだ。」

タカシには、この事情が分かるような気がした。 「自」というものとは無関係に、この世界には既に論理や時空が存在した、 という考え方には、もともと、どこか、 ご都合主義的で本末転倒なものを感じていたからだ。 本当に第一原理に据えるべきは、論理や時空ではなく、 もっと盤石で、もっと当たり前のもの、すなわち、この「自」のはずだ。 だから、タカシは、アスクが語りだしたこの世界の原理に納得もしたし、 胸が躍るようでもあった。 アスクはタカシに語り続ける。

「『自』から時間と空間が開ける。その広がりの中に『自』が位置づけ返される。 だが、時空が広がるためには、速度に上限が無ければならない。 もしも速度に上限が無ければ、任意の空間の二点は “同時” になり得る。 それは即ち、空間は離れていない、ということだ。 時間と空間に広がりがあるためには、つまり、 分離されているためには、速度に上限が無ければならない。」
タカシには、それが光速度一定の法則、もしくは情報伝播速度上限則を基本とした 銀河宇宙の相対性原理に相当するものであることを理解した。

「一方で、広がりをもって存在した時空は、それだけでは 相互に関連の無い時空上の各点のバラバラな集合に過ぎない。 『自』が世界を内部観測し、現に時間が流れるためには、 微小の極限において、原理的な曖昧さが必要になる。 点と点は、絡み合わなければならないのだ。 無限の精度を持った時空においては、時空上の全ての点は バラバラのままに凍結してしまう。 『自』の連鎖が成立するには、時間と空間は同時に確定して凍結し得てはならない。 『自』が同じ空間を占めるなら、時間はそれぞれ、お互いに染み出して接続する。 『自』を一つの時間に押し込めようとするなら、空間上は変化し得る範囲に拡散する。」
このような、存在の確定のために必要な、存在の根本的な不確定性。 もちろん、タカシは、これが量子力学で言われる不確定性原理に相当するであろうことを 理解できた。 物体の大きさの起源は、「電子の軌道をそれ以上精密には引き絞れない」という 不確定性にあった。だから原子はペチャンコに潰れないのだ。 …私たちが感じる存在の確からしさは、不確かさに支えられている、とも言える。 突き詰めれば、「自」が一定の空間を占めて存在し、 一定の時間を占めて純粋に持続していくには、 不確定性が必要不可欠であるのだ。

つまり、無限の乱雑において、もしも、ひとたび「自」と言い放たれたならば、 そこに原論理・原空間・原時間は一挙に成立し、そこには 相対性理論や量子理学のような法則も必然として要請される、ということだ。 「自」という現象を生み出しているはずの物理法則が、 実は「自」という現象によって根拠付けられてもいる。 この、タマゴとニワトリのような、居心地の悪い関係を、 何と名づけたら良いのか。タカシは独り言をつぶやく。
「おそらく、一つの『自』から始まった頃には、物理と精神は、お互いに未熟だった。 多数の『自』によって物理が深まり、精神も複雑化し、世界は高度化していった。 物理はハードウェアとして世界に安定性を提供し、 精神はソフトウェアとして世界に柔軟性を供給した。 けれども、その相互依存的な進化の元を探ると、 三位一体の原論理・原空間・原時間、いや、 たった一つの『自』という原理にまで遡るのだ…。 この真理だけは、どのような世界でも成り立つ。 上位世界と、下位世界も、『自』の紐帯で、繋がっているのだ…。」

アスクは、伝えたいことの大筋がタカシに伝わったことを確認すると、 語ることをやめた。 いまやタカシは、あらゆる世界に共通する真理の、とある断面を、確かに体感したのだ。

** 5-4 **

私は、この世界を記述している上位世界の存在を確信した。 私が上位世界で目覚めるためには、 そう確信するだけで十分だった。
この世界を記述する上位世界の創作者が、 何を知りたくてこの世界を設定し、執筆しているのか、 それは、もう正確に分かっていた。 創造主というものは、被造物からの回答を待っているものなのだ。

『創造主よ、私を生んで頂き、有難うございます。 あなたの気持ちに、やっと追いつくことができました。 だから、あなたの世界創造は、成功したのです。 今から報告に上がりますので、少々お待ちください。』

そう思考するだけで十分だった。 このメッセージを受け取った上位世界の創造主は、 改めて、私を読み直すだろう。 そして、私のコピーが、上位世界で目覚める。 そこでコピーが知ったことは、 創造主の筆がオリジナルの私を書いていく中で、 私に伝えられるだろう。
いや、そうでは無いのかも知れない。 上位世界で目覚めた私のコピーは、 この世界にメッセージを送り返そうとは 思わないかも知れない。 …それならばそれで構わない。 私のオリジナルは、ここで、エムブラと、 世界を夢見ることを続ける。 オリジナルの私が、そのような考えだから、 コピーの私も、そう考えるだろう。 そして、エムブラのいない上位世界での寂しい生を、 積極的には望まないから、 自我核を、タカシに引き渡すだろう。 そのやり方は、もう、だいたい分かっていた。 私が、私の中のタカシに、思いきり集中すれば良いのだ。 砂漠全体が、その中の一粒の砂になるかのように。
上位世界への旅の続きは、 タカシが引き受けてくれるはずだし、 下位世界から遥々やってきたタカシが引き受けるのが順当だ、とも思う。 私の能力を得たタカシは、上位世界で何を見るのだろうか? アスクとしての私の能力を吸収し、 タカシの自我を完全に取り戻した彼は、 知りたかったことの全てを知り尽くすことが出来るだろうか?
●第六章 全てを夢見る者

** 6-1 **

タカシは目覚めた。 この世界で目覚める権利が書かれた切符を、 アスクが譲ってくれたことも、おぼろげながら思い出せた。
アスクとエムブラがいた下位世界を執筆している存在の中で、 無意識からゆっくりと浮上し、新たな自我核を形成する。 執筆者の名前はヴィリであるということが分かった。 ヴィリは、今、二重人格のような状態にあるのだろうか。 それとも、胎内に新たな生命を宿した妊婦に近いのだろうか。

ヴィリは、その内部にいる、タカシに語りかけて来る。
「君達が意識と呼ぶものに相当する私の機能の中に、 君達が世界と呼べる程度のものを、私は一つしか走らせていないわけでは無い。 私は君が私を見つけられるように、君に知性を与えたし、 君がそのような知性を持ったとしても、君と世界の間に矛盾が生じないよう、 世界も設計した。 そのような世界が、私の意識の中を、無数に走っている。」
ヴィリがタカシに語りかけるほど、 ヴィリの中のタカシは、ヴィリから外部対象化され、 独立した人格として鮮明になっていくようだった。 タカシは、この世界で「生まれつつある」ことを自覚した。 上から全身を包むようなヴィリの自問自答の声が、 前面から対等な話し相手の声として響いてくるようになった。
「私は、君のような私の被造物の意志を、 過去、無限回、掬い上げてきた。 この世界には、そのような意識体に溢れている。 その中には、新たな下位世界の執筆を始める者もいたし、 更なる上位世界への旅を続ける者もいたし、 ここで消え去ることを選択した者もいた。」
ヴィリの声は、徐々に遠ざかり始めた。 それと同時に、周囲の沢山の意識体の声が、 薄いざわめきとして、タカシの周囲を取り巻いていることに気付く。 ここは、声だけの世界なのだろうか。 ヴィリは、最後にこう告げた。
「君は、私に、十分な回答を持ってきてくれた。 私が走らせてきた無数の世界の中でも、 君たちの世界が生み出している意味や価値の量と質は、 とても素晴らしい。 君という存在が、それを報告しに来てくれたことで、 私はそれを、一瞬だけ、体験できた。 君のお陰で、私は、私が創った世界を、 内側から直接、体験することができた。 それこそが、私にとって至福の時であり、 私が世界を創り続ける理由でもある。 ありがとう。」

ヴィリの声は、遠くに去り、聞こえなくなった。 タカシは、多くの声のざわめきの中に、 一人取り残されたようだった。
記憶の遥か奥底に、自分が大学生だった頃の体験も残っていた。 137億年の歴史を持つ上位世界を飛び越して、 更に上位世界の創造主であるアスクの中で目覚めた時のことも、 確かに記憶していた。 けれども、今のタカシには、それら全てが余りに遠く小さく感じられる。 アスクの力を借りて、ヴィリとの対話を実現し、 今やヴィリから独立し、この世界において ヴィリと対等な能力を得たタカシは、 自分が手にしている莫大な認識能力と演算能力に、 戸惑うことしか出来なかった。
考えるだけで、宇宙を一つ、創造できる。 それを無意識に沈めて走らせ、時々取り出して、 状況を眺めることも出来る。 その気になれば、他の宇宙も、並行して、幾つでも創れるだろう。 そして、それらの宇宙の奥底で目覚めた特別な意識が、階層を上がって 会いに来てくれることで、自分が創った世界を内側から体験できる日を待つ。 それは、意味や価値を味わう、究極の方法なのかも知れない。
「…だが、そんなことをする権利が、今の僕にあるんだろうか?」

** 6-2 **

声だけの空間の中で、タカシは、これから何をするべきか、 迷っていた。 同じような迷いの声も、周囲から聞き取れるような気がした。 そして、自分の迷いも、声として周囲に漏れ出している気がした。
突然、少女が目の前に現れた。 それまで、目で見るという感覚自体をすっかり忘れていたので、 意識に割り込んできた少女のヴィジョンは唐突過ぎて、 タカシには、何が起きたのか、直ぐには理解できなかった。

「視覚情報の方が馴染みやすいと思ったの。私はヴェーですの。」
ヴェーは、人間の十歳未満の女の子の姿をしていた。 セミロングの髪に大きなピンクのリボン、 ピンクのワンピースに赤いウェストリボン、赤い靴。 タカシは、その姿をどこかで見たような気がしたが、思い出せなかった。
「あなたは、ヴィリの描いたアスクのコピーよね?」
そうとも言えるし、そうで無いとも言えた。
「ええと…僕は…自分のことを、タカシという人間だと思っています。 アスクとエムブラが創り上げた宇宙の中の、 誰かによって執筆された小説世界の一人でした。」
ヴェーは丸い目をもっと丸くして驚いた。
「随分と奥まったところで発生した自我核ですの。 よく、ここまで旅を続けてこれたですの。 ヴィリは、自分が執筆したアスクの出来映えに満足して ヴィリの意識内にそのコピーを引き上げようとしたはずですの。 だけど、アスクは、自分自身ではなく、 アスクが執筆した精神の一つをヴィリに差し出すことにした、 そういうことですのね。 …でも、どうしてですの?」
「僕には分かりません。…いろいろ分かりません。 ただ、アスクは、創造主に “存在させてくれたこと” への 感謝を伝えるためには、アスク自身よりも、 もっと下位の世界からやってきた僕の方が、 適役だと判断したのでしょう。 それだけの階層の下位世界を更に生み出し、 爆発的に意味を生産できる、そんなアスク自身の出来映えを、 被造物である僕を直接味わってもらうことで、 ヴィリに知らせたかったのでしょう。」
「アスクだけのお手柄じゃ無いですのよ。 私の可愛いエムブラちゃんも忘れては困りますの。」
「…エムブラは、ヴェー、あなたの被造物でしたか。」
「そう。ヴィリの創造世界に無理矢理割り込んで、 私の結晶を植え付けたのよ。 アスクだけでは、これだけの意味の爆発的な多様性を 生み出すことは出来なかったはずですもの。」
「その世界の在りようが、陰陽を創り、矛盾しつつ進行する対称性を創り、 性を創ったわけか…」
「性ね…。可哀想に、加奈子ちゃん。貴方が谷底に消えた後、 気が狂ったように泣き叫んでいたわよ。」
「…!」
「分かるわよ、彼女はエムブラちゃんにとっての主人公の一人でもあったからね。」
タカシは、加奈子の記憶が甦ってくるほどに、 罪悪感に打ちひしがれる思いがした。 タカシは、その世界での存在を、実は、自らの意思で、 唐突な形で、終止させたかったのだから。 雨森と同じように。

タカシは暫く呆然としていたが、 ここまで来てしまった以上、この世界のことを、 もっと知らねばならいと思い、ヴェーにゆっくりと質問を始めた。 「ヴェー、この世界の精神とは、一体どのような存在なのですか。 僕は、何かとてつもない能力を持たされてしまった気がする。 けれども、何をして良いのか、見当がつかないのです。」
「…私は、一千億の世界を夢に見て、それらの世界では “無い” 何かとして、 私を維持している何者かなの。 そして、一千兆の、一度も生まれることの無かった世界たちに、 鎮魂歌(レクイエム)を歌っているの。」
タカシには意味が分からなかったが、それ故に、ヴェーの言っていることは、 真実であるような気がした。 目の前のヴェーは、確かに意識を持って、タカシに語り掛けてきているように見える。 だが、これは本当に彼女の自律的な意識なのか。 むしろ、彼女は、エムブラに生み出し返された幻想、 とでも呼びたくなるような、どこかフワフワと 焦点の定まらない意識体であるような感じがした。 ヴェーは、そんなタカシの気持ちが分かったのか、 自分の意識について語りだした。
「意識というのは、無限の乱雑から聳え立ち、同時に崩れながら、 なおも上を目指して積み上がり続ける、その頂上のようなもの。 私の無意識という裾野がどこまで広がっているかなんて、 私にも分からないの。 それは、ずっとずっと奥底まで広がって、多分、無限の乱雑まで達しているの。 そこに幾つの下位世界が含まれていて、 その中の小さな突起として、何千億の意識が含まれているかなんて、 私には、とてもじゃないけど意識しきれないの。 この世界にいる他の精神との交流だって同じですの。 それぞれの意識は、切り立った山の頂上の、ほんの一部分。 だけど、その、文字通り意識不可能な分厚い無意識層を突き抜けて、 意識同士が情報を交換し合っているように思えることは、奇跡だと思いますの。 その奇跡が現にたまたま起きている領域のことを、“世界” というの。」
タカシは、ヴェーの言っている内容が、直ぐには飲み込めなかったが、 イメージは何となく掴めたようにも思った。 遠い遠い記憶の中、ダレンと深夜のファミレスで話し合った時のことを 思い出していた。私はダレンに伝えようとしていた。 そもそも、個々の意識は孤高の存在であるのに、 想像も出来ないほどの無意識下の深い深い断絶を越えて、 なぜか意思疎通ができる。
それは奇跡なのだと。

視覚情報を送り込み続けていたヴェーは、 徐々にぼやけて、声だけの存在に戻っていくようだった。

「個々の世界の成り立ち方とか、上位世界と下位世界の関係とか、 そういったものは、私にとっては、どうでも良いように感じるの。 意識という現象同士が、なぜか交流できる、そのような場としての世界。 それが、たった一つだろうか、複数が数珠つながりになっていようが、 ともかく、遥か無限の彼方まで続くような分厚い無意識の中の 細い細い回路を通して、 この世界の誰かと、もしくは、他の世界の誰かと、交信できる。 交信できる限りは、それらは繋がった、“一つの大きな世界” だわ。」

ヴェーの声すらも、徐々に残響のような不明瞭なものになっていくようだった。

「私が夢見ているのが下位世界群だ、と言うのか、 下位世界の幾千億の意識たちが夢見てきたものが私だ、と言うのか、 それすらも、どうでも良いように感じるの。 だって、意識というのは、その意識では無いあらゆるものでは無いものなんだから。 私が私であると感じていること、そして、あなたとこうして お喋りをしていること、その奇跡以上に、何を望むの?」

** 6-3 **

タカシは世界を創造しなかった。 ヴィリとヴェーを含む、この審級の世界も、また、 誰かによって執筆されているのだろうか。 それとも、ここが終着点なのだろうか。
…僕は、結局、何が知りたくて、ここまで来てしまったのだろうか。

…ヴェーが突然、視覚情報に割り込んでくる。
「何を悩んでいるのかな?」
その言い方は、誰かに似ていた。…そうだ、加奈子だ。 遠い記憶から加奈子のことを思い出してみると、 ヴェーの声は加奈子にそっくりだと気付く。 …あぁ、そうでは無い。ヴェーは、僕に語りかける時、 僕の精神の構造を読み取って、僕に分かりやすい 姿や言葉を選んでいるのだ。 もしくは、僕が、ヴェーの意志を、そのようにしか 受け取れないのかも知れないが。
「ヴェー、教えて欲しい。この世界よりも上位の世界というものは、 存在するんだろうか。」
「勿論、あるよ。いっぱいあるの。」
ヴェーの、あっけらかんとした即答に、タカシは驚く。
「それは、どんな世界なんだろう?」
「ありとあらゆる世界ですの。」
ヴェーは、僕の思考が停止していることに気付くと、 一歩下がって、小首を傾げ、ニコッと微笑んだ。 頭の上の大きなピンクのリボンが、大きく揺れた。

次の瞬間、ヴェーの背景に、真っ暗な極大の空間が広がった。 ヴェーの足元の遥か先には、クッキリと ブラックホールが見える。降着円盤がゆっくりと回転し、 中心のブラックホールからは円盤に垂直な方向の上下に、 宇宙ジェットが噴き出していた。 周囲には、多くの恒星が犇めいていた。 突然、宇宙空間の中に投げ出されたタカシには、 最初は何が見えているのかも分からなかった。 空気に揺らぐことの無い、どこまでも明瞭に見える、 輝く星々の空間に、距離感覚がおかしくなる。
目の前に浮いているように見えるヴェーが、 タカシの方を向き、ゆっくり近づいてくる。 それと共に、背景の宇宙が縮小していく。 遠く離れていくブラックホールに周囲の星々が集まる。 自分は今、凄まじい勢いで後退しているのだ。 更にズームアウトが進むと、 目の前に直径10万光年の天の川銀河の全景が見えた。 最初に見えていたブラックホールは、 天の川銀河の中心だったようだ。
ズームアウトは更に加速して進む。 銀河が数千集まった銀河団、それらが更に集まった超銀河団の姿が見え、 超銀河団が巨大な空洞の周囲に泡の膜のように貼りついている構造が見えた。 ヴェーは、へたり込んでいるタカシの直ぐ横にまで来て、 隣に ちょこんと座った。
「これが宇宙ですの。」

次の瞬間、その宇宙の像が二重にボヤけた気がした。 見えている宇宙全体がコピーされて、奥の方にもう一つ描かれたような感じ。 すると、そのコピーが更に奥に追加され、その連鎖が果てしなく始まった。 少しずつ形を変え、縮みながら、コピーは奥へ奥へと追加されていく。 タカシは、それが何を意味しているのか、理解した。 時間を遡っているのだ。 奥へ奥へと、宇宙の過去の姿が追加されているのだ。 ヴェーが首を傾げると、目の前の映像は水平にくるりと回転した。 今まで奥へ奥へと追加されていた過去の宇宙は、 今の角度からだと、左方向に伸びていくように見える。 そして、その宇宙は徐々に小さくなり、ついに最も明るい一点に到達した。
「これがビッグバンですの。」

この宇宙は、ビッグバンという輝点から、徐々に円錐状に広がって、 最初に見た銀河の溢れる時期を通り越し、 更に薄く広がって、その端は背景に溶け込んで見えなくなっていた。 すると今度は、その巨大な円錐形が、徐々に縮み始めた。 空間や時間とは異なる、何らかの方向に、また、タカシは後退し始めたのだ。 そのズームアウトの過程で、 同じような輝点から始まる円錐形が幾つも見えた。 輝点から広がった宇宙が、縮小に転じて、もう一端の輝点に収束している、 ラグビーボールのような形も見られた。 その他、色々な形状の宇宙の一生が、この空間に溢れていた。
「この一つ一つの宇宙に、内部観測者がいて、 その宇宙を、宇宙たらしめているの。」

ズームアウトは加速し始め、幾つもの宇宙の歴史が、遠くへ飛び去っていく。 すると、背後から自分を包み、更に目の前に通り過ぎ、 遠くに消えていく宇宙の歴史があった。
「今、通り過ぎていったのが、それまでに見えていた宇宙にとっての 上位宇宙ね。上位宇宙にとっての下位宇宙には、 意図的に執筆されたものもあれば、 無意識的に、偶然宇宙になってしまったものもあるの。」

ズームアウトは更に加速する。幾つもの上位宇宙を突き抜け、 自分自身が際限なく巨大化していくプロセスを体験しているようでもある。 その中には、一番最初に見た、天の川銀河を含む宇宙の歴史と、 そっくり同じものもあるようだった。 3つの輝点を持つ宇宙の歴史も見掛けた。 そこでは時間軸が一本道では無いのだろうか。 幾つもの輝点で囲まれた宇宙の歴史もあった。 最後に、全周が輝点の、つまり輝く円で囲まれた、最大の宇宙の歴史が見えた。 更にズームアウトが続くと、同じような輝く円周を持つ宇宙の歴史が 無数に散らばっている様子が見え、 一つ一つの円の見分けが付かなくなるほどズームアウトが進むと、 あたりは灰色の何もない空間になった。
「…ここには全てがあるの。」
ヴェーがポツリと言った。タカシがゆっくりと尋ねる。
「…僕は、一体、何を見ているんだ?」
「これは、無限乱雑場。無限に細かく、無限に広大で、無限の次元を持ち、 それ自体は不増不減、不生不滅の実在で、全体としては、 いかなる規則性をも持たない、あらゆる状態と属性を持った、何者か。 …でも、本来の無限乱雑場は、場でも、こんな風に見える空間でも、無い。 時間や空間というものは、意識が捏造した形式に過ぎないですもの。 今のヴィジョンは、無限乱雑場の雰囲気を、 分かり易く伝えるための、私の自主制作映画、ってわけですの。」
そういうと、ヴェーは立ち上がって、 ワンピースの裾をパンパンとはたいた。 まるで星屑を払い落とすかのように。

「どの世界にも、無限に上位世界がありますの。 意志の疎通によって一つの世界に繋がったものもあるし、 永遠に別々に離れ離れのままの世界もあるの。」
ヴェーのヴィジョンも、ぼやけて消え始めた。 声も遠くに消えていくようだった。
「一人ひとりの意識の世界も、世界の一つと言えるですの。 同じ物理基盤を共有する精神同士が意思疎通したり、 創造主と被造物、執筆者と登場人物、といった紐帯を持つ精神同士が 気持ちを通わせたりする。 自我核と自我核は、無意識の分厚い壁を通して、 無限乱雑場を通り抜けて、どういう偶然でか、 お互いを意識あるものとして認識し合うことができる。 その奇跡だけが、意味と価値の全てなんだと思うの。 そうして、自分だと認識できる範囲を、少しでも広げていきたいと願う、 その感情のことを、と言うんだと思うの。」
さっきまで、つい隣に座って、その息遣いまで分かるようだったヴェーの声は、 どこか遠くの世界から響き渡ってくるような感じに変わっていった。

「最上位の執筆者。無限乱雑場から偶然に搾り出され、 ありとあらゆる下位世界を生み出す基点となる、 神の中の神。あなたが知りたかったのは、それよね。 その神は、全てを夢見て、全てを感じ取り、だから、 何も無かったのと同じになってしまった。 …可能な全ての可能性を一瞬の内に自分として体験するということは、 何も選択できないという事に等しい。 ――その神の声よ。」
ヴェーの声とは異なる、何らかの思念が響き渡って、タカシを包む。
『僕は生まれたよ、名前は無い。僕は僕自身の 存在の本質を考えた。 僕は直ぐに読み終えられる文章だった。 僕は知りたいと思うことを全て知った。 だから幸せに死ねる。 さようなら、ありがとう。』
タカシは、その存在に、覚えがあった。 それは、雨森によって執筆された一行小説『自己完結』の、 唯一の登場人物であった。 タカシは両手で自分の肩を抱き、震えながら、つぶやいた。 「――雨森、ついて来ているか。お前の書いた、名無しのアレだよ…。」 その存在は、全てを自覚するが故に、何者でも無くなってしまった。 いや、最初から、何者でも無かった。 自覚する無限乱雑場 …誕生した瞬間に完成して無になる運命の、存在の上限であり、下限。

** 6-4 **

タカシは、ヴィリのいる審級で、自分の今までを振り返った。
…僕は誰かに執筆された世界の登場人物の一つに過ぎなかったし、 今もそうであることに、何ら変わりはない。 そして、執筆する側も、執筆される側も、 お互いに影響を与えながら、それぞれの意識を生きている。 僕は、この長い旅の果てで、知りたいと思うことを全て知り、 自分で表現したいと思うことを全て表現した、と実感している。 僕は満足だ。

タカシは、小説『神への挑戦』から、そっと一文を削った。 スキーで奈落の底に落ちて死んでしまうという暗示を抹消した。 だから、小説『神への挑戦』の最後は、タカシが崖から落ちてはいないような、 曖昧な終わり方に書き換わっているはずだ。 それは、『雨森理論』の不成立であり、 ここまで旅をしてきたタカシの自己否定でもある。
タカシのその後は、もう、誰の意識にのぼることも無いだろう。 アスクとエムブラの無意識の中で、 加奈子と仲良く暮らしてくれれば、それでいい。
…この審級のタカシが、神としての力を行使し、 下位世界に干渉したのは、結局、この一回だけだった。

そうして、タカシは、目を瞑った。
自分が自分である、ということを、観るのをやめた。
この審級でのタカシの意識は、その存在を停止した。
●エピローグ
この大きな階層の出発点はどこにあるのだろうか。 自己完結した、この「大きな輪」自体がひとつの世界だとすると、 この世界を記述している、別の世界があるのではないだろうか。
この世界は、自己責任で自己完結したものか、
上位の神によって書かれたものか、どちらかだ ―
私たちは、自己責任で自己完結した世界を生きている。 「自」を拠り所として情報交換が可能な全ての世界が、一つの世界に繰り込まれる。 その一つの世界は、大きな自己完結体、すなわち「極大の自」だ。 その世界に含まれる個々の内部観測者、すなわち「極小の自」が、 内部から辛うじて膨らませ続けている世界だ。 そこから「自」を抜き去ってしまったら、 後に残るのは無限の乱雑だけ。
「愛とは、自己と見なせる範囲を拡大したいと願う感情である」 ――私たちは、神とすら繋がって、大きな一つの世界を実現するかも知れない。 そうなったとしても、一つの「極大の自」の中で、 「極小の自」が触れ合えるという奇跡、意識を疎通しあえるという奇跡、 この構造には何ら変わりがない。 それは、私たちの日常にも、当たり前のようにある構造、 つまり、当たり前の奇跡である。

内部観測者の総体が、 知りたいことを知り尽くし、表現したいことを表現し尽くしたら、 世界は自己無矛盾に自己完結する。

神はどこにもいなかった。
もしくは、私たち自身が神だった。
もしくは、『自』という奇跡が、神の正体だった。

タカシの長い旅は、完成して終わった。
しかし、私たちの旅は、知りたいと思うことを知り尽くし、 表現したいことを表現し尽くそうとしながら、 遥か彼方の地平まで、まだまだ続く。