自循論入門


なぜ、この自分は、
生まれないのではなく、現実に生まれて、
膨大な喜怒哀楽を一回限り経験した後、
いつか必ず死んで、未来永劫不在となるのだろう。
自循論の動機は、「自分が自分である」と紛れもなく感じている、
この『自分』とは何だろうか、という疑問に、回答を与えることである。
そして、考え始めるや否や、その疑問は
「この自分が認識している世界とは何か」
「この自分が含まれている世界とは何か」
という疑問に直結していることに気付く。
「私」は「私」自身と同じはずだが、
「世界」を位置づける「私」と
「世界」から位置づけ返される「私」は
異なっているとも言える。
この、最小の矛盾を「自」と呼ぶ。
「自」と言えるためには、
原時間(「見る自分=現在」と「見られる自分=過去」の区別)
原空間(自分の内側と外側の区別)
原論理(自分と自分が同じか異なるかの区別)
という、原形式三点セットが必要となる。
原形式三点セットは互いに互いを必要とする。
思考三原則(同一律・矛盾律・排中律)は、
疑う余地なく当然の大前提、などと言われる。
でも、なぜ当然なのか。
「自」から析出する原形式を実装するからだ。
思考三原則は互いに互いを必要とする。
二つの自が並走することを原愛と呼ぶ。
お互いに不可知の「私」が
「世界」を共有していると
見なし合う単位である。
複数の自が無を共有して並走し、
可能な限り集まったものを相と呼ぶ。
世界が存在するためには、
それは「自」と言えるためには、と言い換えても同じだが、
物理相(自己が保存される相)
生命相(自己が目的化される相)
精神相(自己が認識される相)
という、三つの相が連立・相互依存している必要がある。
物理相、生命相、精神相は互いに互いを必要とする。
私たちの住むこの宇宙に限らず、 およそ世界が“存在”するためには、
物理相、生命相、精神相が相互依存していなければならない。
世界存在は現に大きさがあり時間が流れている。
だから、無限は無い。
生命相をスケールの中心として、
あるスケール内に物理相と精神相があり、
いずれは、スケールの上限・下限に行き当たる。
世界には有限しか存在しない。
つまり、スケールも自己規定的に自己完結している。
私たちは、最も複雑な世界に目覚めている。
もっと単純な世界に目覚めることは、
確率的に考えられない。
「在り方」には、
“実在”(主観を完全に排除できた極限に仮定される在り方)
“現実”(客観を完全に排除できた極限に仮定される在り方)
“存在”(主観と客観の入り混じった私たちの良く知る在り方)
がある。
“実在”と“現実”は極限として考えられる
到達不可能な非概念で、
“存在”を限界付けるために仮置かれる。
“実在”、“存在”、“現実”は互いに互いを必要とする。
原形式、相、様式も、互いに互いを必要とする。
こうして全ては「自」に回収される。
「自」が自ら開き自ら閉じるこの壮大な構造が、
私たちが生きる一瞬一瞬に埋まっている。

森羅万象を、「自分とは何か」という問い掛けから始まる
壮大な自己循環の中に放り込んだあと、
自分自身をも自己循環の中に放り込んで、
自循論は完成する。
そして、自循論は、日々の当たり前の生活の
至るところに溶け込んで、消える。
日常は、いつでもどこでも、
驚きに満ちた輝かしいものになる。