■自循論::無限乱雑空間

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無限に広いランダムな意味空間には、 「私達が知っているものの全て」が 「偶然」としてどこかに含まれている。
無限乱雑空間には全てが含まれており、だからこそ無意味である。 無限乱雑空間に、ある視点・視線を導入することで、 真空から粒子と反粒子を生み出すが如く、意味が生まれる。 無限乱雑空間に様々な視点・視線を導入すると、 私達の知っている宇宙と少しずつ違った様々な宇宙も意味として生まれる。 私達には想像もつかない意味世界も含めて、 無限乱雑空間にはその全てが含まれている。

これは半ば冗談の例であるが、 ランダムな砂のテクスチャの中に、甲冑の顔のようなものと、 右に進む脚のような二本の筋を見て取れる。
もし本当に無限にランダムな平面があったら、 どこかには、あなたやモナリザの顔も存在するし、 世界のあらゆる風景も含まれる。
「無限」というのは、ある意味、それほど馬鹿げて無意味である。
(砂のテクスチャはMicrosoft社「PowerPoint」の「塗りつぶし効果」 の「テクスチャ」から拝借した。)

2010-12-30 (木)
自循論では、「無限乱雑空間」を、 無意味な実在として無条件に前提的に認めている。 無限乱雑空間には、ありとあらゆる存在のパターンが 無限に広く細かくどこまでも広がり、 その総体には何の意図も規則性も無く、 ひたすら乱雑(ランダム)である。
無限に乱雑であれば、たまたまどこか有限な領域だけ切り出せば、 この宇宙の生涯と全く同じ領域もあるだろうし、 それとは少しずつ異なるヴァリエーションも どこかには含まれているだろう。 そして、この宇宙の生涯と全く同じ領域についても、 それが一つとは限らない。…いや、総体が無限に乱雑である以上、 必然的に、それは無限に存在することになる。
だから、無限乱雑空間の中には、 私と少しずつ異なる生涯を送ったヴァリエーションの人間は勿論、 私と一秒も一ミリも違わず“全く同じ生涯”を送った人間も、無限に含まれている。
…だがしかし、不思議なことに、「この私」にとっての「私」は一つだけだ。 どの私も、私のヴァリエーションも、それぞれ、そう思っているではあろうが、 私にとっての私の人生は一回だけなのだ。 そして、「この私」は、全く同じ人生を送った 無限に存在する「その他の私」とは、何も共有していない。
私は、知的存在の共同幻想である一つの宇宙の中の、 ある一部の有限な時空間の中に囚われて (つまり太陽系第三番惑星地球の日本に20世紀後半に生まれて 21世紀前半に死ぬという有限性の中に囚われて) 決してそこから抜け出すことは出来ない。
無限乱雑空間から、このような“閉じ込め”を切り出して自己浮上する 仕掛けのことを「自」と呼ぶ。 これは、時空を生み出し時空に囚われるための自己言及のタネのようなものだ。 そこには神も奇跡も無い。必然性も法則も無い。 …ただ、「自」は、自己責任において、自己無矛盾に存在するのみなのだ。
2011-1-3 (月)
ある情報授受の限界範囲を宇宙Uと定義しよう。相対性理論にあるような 情報伝達速度上限(光速度一定)の原理がある場合、 互いに光速度以上で離れる二点は、お互いの宇宙には含まれない。 一方、この宇宙Uに含まれる全ての知性体Xが、直接知覚したり、 観測器具などを使って間接的に認識し得る、 この宇宙Uに関する全ての正しい情報の総体をΩとしよう。
さて………「UとΩは等しいだろうか」………。 多分、「U⊃Ω」だと感じられるだろう。 知性体が知覚したり認識したりできることは限られているし、 そもそも、宇宙Uは、知性体Xを内部に宿さなかったとしても、 やはり存在したと思いたくなるからだ。 一方、宇宙UはΩそのものだ、と考えることも出来よう。 『何者からも認識されないものは、存在したことにならない』というわけだ。 だが、Ωの全ては知性体自身が勝手に自己責任で捏造した 壮大な錯覚であるとしても、完全な無から、 そのような錯覚が生み出されるとは考えられない。 やはり、Uには、Ωの及ばない何か、Ωの素材となる実在、 物自体が無ければならない。
では、この宇宙Uから、その宇宙が内包し得る全知的生命Xが認識し得る 全ての正しい情報Ωを差し引いても残る、その「もともとあった基盤」 「認識とは無縁な実在」Eとは、一体何だろうか。
E=U−Ω≠φ
定義から、Eは、Ωに含まれない…つまり、Xにとって認識不可能なものである。 認識不可能なものを知性が何かと問うことは出来ないではないか。 そう、私たちの認識世界が無から唐突に生まれたので無いとするならば、 私たちは認識不可能な実在を認めざるを得ない。 私たちが普段「宇宙」と呼んでいるものはΩの方である。 本当の宇宙Uは、私たちが絶対に認識できない成分Eを含んだ、 もっと巨大なものである。 おそらく、真空の一粒一粒の中には、私たちが絶対に認識できないものが 豊穣に含まれており、そちらの方が圧倒的に(ひょっとすると無限倍) 情報を持っているのだろう。 私たちは、真空の上に突き出た素粒子を見て、これを存在だと見做すが、 これは氷山の一角に過ぎない。真空下の氷山の本体Eこそが、 存在の基盤となる実在なのだ。 (存在は知的存在(現存在)に依存するが、実在は知的存在に依存しない。)
私たちは宇宙Uのごく一部をΩとして夢見ているに過ぎない。 その認識水面下には無限の実在Eが隠されている。 その空間は、いかなる意味でも認識不可能なのだから、 無理に何か形容詞を与えるとしても、「乱雑」としか言いようが無いだろう。 このEを含むUは、だから、「無限乱雑空間」としか呼びようが無い、 それ以上の説明を原理的に拒絶する実在なのである。
2011-1-9 (日)
講談社現代新書『時間は実在するか』著:入不二基義に、 「実在する」ということの基準が5項目、列挙されている(p.161)。 この基準を拝借して、「無限乱雑空間」は実在なのかをセルフチェックしてみたい。
『(1)みかけ(仮象)ではない、「ほんとうの姿」であるという意味。』 …自循論では、私たちが物理宇宙とか精神世界と思っているものは、 多数の自核を中心に自己完結的に維持されている共同幻想だとしている。 その共同幻想の素材、認識の光に偏って照らされる前の姿として 無限乱雑空間を置いたのだから、まさに、この「ほんとうの姿」という意味を満たしている。
『(2)心の働きに依存しない、それらから独立した「それ自体であるもの」という意味。』 …自循論では、物理宇宙も、徹頭徹尾、私たちの認識(知覚)方式に、 直接的または間接的に依存しており、その意味で物理世界と情報世界は相互依存だとしている。 そういった事情が発生する前に、独立に存在するものとして 無限乱雑空間を置いたのだから、まさに、この「それ自体であるもの」という意味を満たしている。
『(3)「ありとあらゆるものごとを含む全体」、あるいは「その全体が一挙に成り立っていること」という意味。』 …自循論では、心の働きとは単に視線を選ぶことだと考えており、その前提としては まさに「ありとあらゆるものごとを含む全体」として、無限に乱雑なものが無ければならない、 と考え、「その全体が一挙に成り立っていること」を空間として捉えたわけだ。 無限乱雑空間の性質は、この3番目の実在性の定義と実に良く符合する。
『(4)矛盾を含まない整合的なものであるという側面』 …無限乱雑空間は、単に、ありとあらゆるものごとを含み、一挙に成り立っている空間である。 それは全く無意味で、ただそこに乱雑な無限が広がっているだけで、 論理性自体を含み得ない。だから、矛盾を含むとか整合的であるとかを 考えることすらできない。
『(5)「リアル」「リアリティ」、ありありとした(いきいきとした)現実感が伴っている』 …無限乱雑空間は、自を核とする物理世界と情報世界の相互依存としての意味世界“では無い”、 その背景を為すモノ自体を表すものであり、従って定義からして 私たちはそれを認識することは出来ない。(おそらく、言語で表現することすらできない。)
こうして見ると、「無限乱雑空間」は(1)〜(3)の実在性を非常に良く満たす。 (4)に関しては中立的で、矛盾を孕んではいないが、そもそも矛盾とか整合性という基準から 最も遠いところにあるものだ。(5)に関しては全く満たさない、むしろ真逆のものである。 以上のセルフチェック結果からすると、「無限乱雑空間」は、その完璧な無意味性から考えて “実在”とは言い難いように直観されるが、ありありと実感できないことさえ受け入れるなら、 “実在”と呼ぶに相応しいものであること考えられる。
2011-1-13 (木)
自循論における「無限乱雑空間」は、 無限に細かく、無限に広大で、無限の次元を持ち、 それ自体は不増不減、不生不滅の実在であり、 全体としては、いかなる規則性を持たない、 あらゆる状態と属性を持った、何物かである。
無限乱雑空間から有限の一部分だけを有限次元で切り出せば、 そこには、たまたま、秩序を見出せる可能性がある。 それどころか、任意の有限のパターンは、 どこかのレベル、どこかの場所に、無限に見出され得る。 無限に続く乱数列の中に、任意の有限の数列パターンが 必ず見つかるのと同じことである。
私たちの宇宙も、そのような一部分である。 この宇宙は、その内部からは、ビッグバンから生まれて、 ビッグクランチかビッグリップで終わるように“見える”。 一組の物理法則を持ち、その法則に従って 原子と星と生命と知的存在が生まれ、 その知的存在が宇宙を内側から観測したり、 物理法則を発見したりしているように“見える”。
宇宙は、無限乱雑空間の中の有限な一部分として 内部の知的存在たちが浮かび上がらせている、 共同幻想である。 自らが発見した物理法則自身に従って 自らの身体(生命性)と自らの自己認識能力(知性)が 形作られているように“見える”ことは、奇跡的な偶然だと思えるだろう。 しかし、無限乱雑空間の中にあっては、 どんなに奇跡的な偶然と思えるようなパターンであっても、 それが高々有限である限り、必ず一個は含まれている。 いや、それどころか、必ず無限個含まれている。
無限乱雑空間は、それ自体は、その名の通り、 ただ無限で乱雑な実在で、その総体には何の規則性も目的も意味も無い。 何故そのようなものがあるのかと問われても、 それには何の意味も目的もない。 では、自循論では、なぜそのような無意味なものを存在の基盤として 措定しなければならないのかと問われれば、 あらゆる有意味な存在(宇宙、世界)は 知性体たちの「自」なる現象(自己認識能力)を核とした 共同幻想に過ぎないため、幻想を生み出すモトネタとして 何らかの実在が必要となるからだ。 共同幻想の方にあらゆる意味がある以上は、 モトネタとしての実在の方には、どのような意味でも意味は無い。 共同幻想のモトネタとしての無限乱雑空間は、 定義からして認識の埒外のものである。
この宇宙は、無限乱雑空間に浮かぶ、 小さな小さな島のようなものだ。 それは知性を生み出す程度に自己無矛盾であり、 意味世界として自己完結している。 この宇宙の外側には、もっと大きな世界が どんなに広がっていても構わないし、 また、この宇宙の真空の一粒、プランク長の内側には、 この宇宙全体よりも複雑な何かが潜んでいても構わない。 ただ、私たちは、私たちの知覚と認識の限界までを 宇宙とか世界とか呼んで切り出し、そこに閉じ篭っているのである。
ところで、無限乱雑空間は、何も無い「無」ではなく、あらゆる可能性を含むもので、 その性質を敢えて言葉で言うなら「乱雑」としか言いようが無いだろう。 では、そのような無限乱雑空間には、一体、 「何が」無限に乱雑に含まれているのだろうか? 物質的存在のモトネタになるようなもの、 認識の光を当てて一側面を浮かび上がらせると (特定の方法で観測すると)素粒子に見えるが、 認識の光を当てる以前のそれが、そもそもそれが何であるかは 当然、認識によっては決して分からないものである。 …素粒子の一粒、真空の一粒を見ても、その内部は 決して私たちには認識できないのであるが、 そこは無限乱雑空間であるのだから、 無限の乱雑性が含まれているはずで………だから、 その中には「この宇宙と全く同じもの」も 一個、いや、無限個、含まれていることになる。
さて、そのような、巨大という表現も不適切なほどの、 おそらく人間の想像力が生み出すものの中でも 最も複雑で大きな実在としての無限乱雑空間は、 それ自体は全く動かない、静的なオブジェである。 ここで、無限乱雑空間を色とりどりの点がどこまでもランダムに 連なっている空間だと想像してみよう。 (本当は、そのように想像してしまうと、それは 何らかの認識の光によって浮かび上がった後の 「存在」を想像していることになり、 無限乱雑空間という「実在」そのものを想像していることにはならないのだが、 イメージを膨らませるためには、このような比喩も致し方ないだろう。) 無限乱雑空間の中で、どのように視点を移動させようが、 どこまでズームイン・ズームアウトしようが、 見える景色はどこまでもどこまでも乱雑である。 (たまたま偶然、モナリザの肖像と全く同じ領域があるかも知れないし、 たまたま偶然、この宇宙の歴史全てと全く同じ領域があるかも知れない。) そして、この景色は、どこも動いていない。 点が動いたり、色が変わったり、明滅したりしているところは全くない。 そこには時間は流れていない。 それ自体は全く動かない、静的なオブジェである。
では、時間とは何だろうか。 時間とは、宇宙の歴史のような、ある有限領域の中で、 知性体が、一つの空間次元を時間化して順次眺めていく という方式を取った時に表われてくる錯覚なのである。 (知性の核にある「自分が自分であるという認識」こそが、 時間軸の中核にあることに注意しよう。 時間とは、今の自分と認識対象である一瞬過去の自分を 分離させるための仕組みであり、知性と表裏一体の関係にある。 自己認識とは、自分を時間方向に分裂させることである。) 例えば、無限乱雑空間の一部が円錐の形をしているとして、 その内部の回転軸方向にとらわれて、この円錐を 「だんだん大きくなる円」という動的な現象として認識するのは、 円錐内部に囚われて「自分は自分である」と認識しつつ 回転軸方向に推移していく知性体の都合に過ぎない。 一方で、無限乱雑空間という実在から見れば、円錐はただ静的な円錐なのである。
無限で無意味な無限乱雑空間という「実在」と、 有限で有意味な世界(もしくは宇宙)という「存在」。 どうして「実在」から「存在」を切り出すことが出来るのか、といえば、 それは「自」という仕掛けによる。 「自」という仕掛けが、無限乱雑空間から 自分で自分を引っ張り上げる形で、 イキイキと時間の流れる宇宙(という共同幻想)を、 自己完結的に浮かび上がらせるのである。 それは、縄跳びを両手で持って、縄を足の底に通し、 腕力だけで空中に浮かび上がるような奇跡であろう。
無限乱雑空間の中で、もしも「自」と言い放たれたならば、 同時発生的に、「自」の周囲には時空が張られる。 (「自」と言える以上は、「他」と区別するための原空間と、 「見る側の自aと見られる側の自b」を 分離するための原時間が要請される。) それが安定して存在するためには、物理時空が必要となり、 堅牢な物理時空は、より多くの生命と知性体を支えることになる。 つまり、安定した物理世界と、高度な情報世界は、 相互依存関係を形成することになる。 …しかし、それらは、無限乱雑空間の中の、 特定の有限な奇跡に過ぎない。 内側から見ればイキイキとした動的な世界であるが、 無限乱雑空間から見る限り、それは 静的なオブジェの凍った一部に過ぎない。
…改めて、この、無限に細かく、無限に広大で、無限の次元を持ち、 それ自体は静的な、不増不減、不生不滅の実在であり、 全体としては、いかなる規則性を持たない、 あらゆる状態と属性と可能性を持った、この無限乱雑空間を、 なんとか想像しようと試みてみよう。 …だが、それは、想像できたと思ってしまった瞬間に、 実在のイメージから存在のイメージに引き摺り下ろされていることになるため、 原理的に、決して、想像できない。 だが、だからこそ、それこそが、認識という幻想に左右されない、 正真正銘の実在なのである。
2011-1-15 (土)
講談社現代新書『時間は実在するか』著:入不二基義 には、(p.257)「無関係としての時間」という形而上学的概念が登場する。 一般的な「未来」は、ある想定がまだ具体化されていないという点で無であるが、 その無よりもさらに純度の高い無としての未来、 何が具体化されていないかすら問えないという意味での未来、 無関係という関係すら無い未来があるという。 また、一般的な「過去」は、現時点においては既に無くなってしまっているのであるが、 その無よりもさらに純度の高い無としての過去、 何かがあったと言った瞬間にそれ以前のものとして乗り越えられてしまっているという意味での過去、 無関係という関係すら無い過去があるという。
この2つは、時制や時系列の上での未来や過去の延長というよりも、 時間的未来の未来性から「まだ」という論理的性質を、 時間的過去の過去性から「すでに」という論理的性質を、 それぞれ抽出し、存在の内側から限界まで関係を広げていったとしても 更にその先の外側の「まだ」や「すでに」の領域となる 「無関係(無関係という関係でさえない無関係)としての時間」を措定し、 これを入不二基義氏の時間論の一つの基礎にしている。
これは時間的な超未来や超過去という話では全くなく、 「まだ性(未来性)」や「すでに性(以前性・過去性)」を論理的・形而上学的に目一杯使って、 時間以前の基礎を追い求めたかったが故に持ち出された論法に思われる。 実際、(p.279)「過去と未来の区別がなくなっていく」では、 無関係という関係すら無い未来は、まだ実現していない未来の前提によって 乗り越えられてしまっている「すでに性(過去性)」を持っているし、 無関係という関係すら無い過去は、過ぎ去ってしまった過去との間の関係すら 結べないままでいる「まだ性(未来性)」を持っている。 だから、ここまで抽象度の審級が上がった次元においては、 (p.282)「過去と未来の区別がなくなっていく」が、 (p.283)「過去と未来の区別がなくなっていくのは、別に困ったことではないし、 むしろ望ましい含意かもしれない」とも述べられている。
これは私の全くの推測だが、時間論をベースにして、時間の中を既に生きてしまっている 私たちの存在様式を突き詰めて、そこから析出した未来性や過去性を目一杯使って、 過去でも未来でもない「無関係(無関係という関係でさえない無関係)」に迫ることで、 時間の内側という「存在」を突破して、時間の外側にある「実在」を見出そうとしているのではないか。 そうだとすれば、そのようにして迫っていく外側の「実在」は、 自循論で言うところの無限乱雑空間と良く重なるように思われる。 私は自循論で無限乱雑空間を基本の「実在」と置いて、「自」によって「存在」を開設したが、 入不二基義氏は「無関係(無関係という関係でさえない無関係)」を基本の「実在」と置いて、 すでに生きられてしまっていることによって時間と存在が開設されると述べたいのではないか。
2011-1-21 (金)
NHK出版『西田幾太郎 <絶対無>とは何か』著:永井均 の「絶対無」の章で、「意識」についての言及がある。 (p.68)「意識は対象化する場所であって、それ自体はどこまでも決して対象化されない。」 …この「場所」という概念は慎重に扱う必要があるが、「意識は対象化されない」という部分は、 自循論の「自」の考え方とマッチしていると思う。 自循論では「見る側の自=自a」と「見られる側の自=自b」の分離が 原時間を構成するとしているが、 この自aが決して対象化され得ないこと、 時間の最先端にあって常に推定・形成されつつある極限であること、 というのが、自循論的な意識の説明付けになっているのだ。
(p.70)「無にして全ての有を包んでいる場所であるはずの意識が、さらに包まれている場所があるだろうか。 もしあるとすれば、それは「絶対無の場所」であるだろう。」 …この「絶対無の場所」は、具体的な場所を示しているのではなく、 意識と存在の側からは決して辿り着けない極限の外側を暗示する概念であり、 端的に言って、純粋に、無い。
自循論における無限乱雑空間も、それ自体は完全に無意味でなければならないものとして構想されている。 無限乱雑空間は「有」であり「実在」として構想されており、西田幾太郎の「絶対無」のような 「無さ」は徹底されていないが、「無意味さ」は徹底されている。 おそらく、西田幾太郎は、意識という「無の場所」が、意味のギリギリの限界であることを示すために、 それを越えてしまった「絶対無の場所」の「純粋な無さ」を敢えて仄めかしているのだろう。 自循論では、「自」という認識と時空の根源が、意味のギリギリの限界であることを示すために、 それ以前に位置する「無限乱雑空間」の「純粋な無意味さ」を敢えて強調している。 このように、存在の根源を探る哲学においては、その根源性を自己完結的に補強するだけではなく、 その根源の背後に回って更に何かによって根源付けできない(つまり根源性に間違いがない)ことを示すために、 主張すべき根源性の極限の外側として、「絶対無の場所」とか「無限乱雑空間」とかいった、 到達不可能な実在(世界そのもの)を措定する必要に迫られるのだろう。
おそらく、存在の内側から迫れる限り迫れる極限の総体が存在であり、これは閉集合を為す。 哲学は、その境界線(接触点)を表現するための学問なのだ。 その外側というのは、実在(世界そのもの)の中で存在の補集合を為し、これは開集合を為す。 そこは「純粋な無」「純粋な無意味」の近傍(neighborhood)とも言えるだろう。
このように、哲学を深めて行く者は、辿り着いた限界の限界性、根源の根源性を確認するために、 「それ以上先は、本当の本当に無だ、無意味だ」ということも、確認せずにはいられない。 そうでないと、言語ゲームの中でグルグル回っているだけなのではないか、 という不安を払拭できないからだ。 だから、敢えて、言語では決して到達できない場所を、言語を使って仄めかさざるを得ないのであろう。 少なくとも、私はそうだ。