世界と意識のシミュレーション

Simulation of the universe and consciousness.
世界のシミュレーション/ 意識のシミュレーション/ 人工意識13号
この世界は神が作ったシミュレーションである、という考えも面白いし、 人間の意識をコンピューターの中で発生させる、というエンジニアの夢も面白い。 そして、《意識》と《世界》は本質的に対等であると考えると、 この2つのシミュレーションの試みは、どこかで交じり合う可能性がある。 ここでは、世界と意識を、コンピューターという単純な箱の中で シミュレーションするという思考実験を通して、 何か面白い知見が得られないだろうか、と、アレコレ考えてみる。

シミュレーションは、一般的には既に存在してしまっている現実世界を良く模倣し、 適切な初期条件を与えることで精度良く未来を予測するツールとして使われることが多い。 しかし、世界や生命や意識のシミュレーションには、 既に存在してしまっている世界や生命や意識の中から、 より単純なルールを抽出し、 私達が思ってもみなかった世界や生命や意識のカタチが現われるのでは、 という期待もある。 私達は、別の世界の可能性に、驚かされたいのである。

世界のシミュレーション

時空の枠組み
もし、この世が神のコンピューター・シミュレーションだとしたら、 設計図には、どのような前提条件を立てているのだろうか。
  • 時間は本質的なプロセスに還元されるので、敢えて直線的に表せば 1次元であるが、要は意味世界全体をシミュレートするのに必要な 時間が1クロノンである。
  • シミュレートされる空間の次元は幾つであっても構わないが、 物理的に安定した世界が得られ、かつそれなりの複雑な情報処理 (意味出力)が行われるのは3次元の場合に限られるだろう。
  • 空間の次元も様々に取り得る。ところで、恒星の周囲を惑星が閉じた 安定な軌道を作れるのは3次元空間の場合だけである。(ニュートン の重力の逆自乗則が成立する。一般相対論下でも結論は同様である。)
  • また、電磁気力について特殊相対論下で原子の量子状態を解くと 4次元空間以上ではエネルギー最低準位(極小)が無くなり、 原子は安定して存在できない。量子力学下でも結論は同様である。
  • 我々が神の真似事を貧弱なコンピューター上で実現しようと 思ったら、空間次元は最初から3と置いた方が良いだろう。
  • 1プランク長さ間隔に3次元格子が整然と直交して並んでいるという 単純なモデルを想定しているが、隣り合った格子上の点同士しか 相互作用をしない(その速度が光速)とする。 (空間の構造が離散的であれば、 光の速度は波長によってわずかに異なる事になる。 もし、宇宙の遥か遠くで発生したガンマ線バーストの光が 波長ごとに僅かな時間差で地球に届くことが検出できれば 空間が離散的であることの実験的証明になり得る。) (全ての粒子の移動は光速であり、 それ以下の速度で 動いているように見えるのは、 真空の性質がヒッグス機構を持ったために 粒子が抵抗を受けてジグザグに動くからだ。 つまり、粒子が質量を獲得しているからだ。)
  • クォークの閉じ込めは、グルーオン自体がカラーを持つことで 距離が広がるほど強くなるために起こる、 というのが量子色力学の説明だが、 くりこみ理論に新しい解釈を与えたウィルソンの格子理論もある。 (格子理論は時空を連続体でなく結晶のような離散した点の集まりと 考え、一般に近似法と言われているが、「神のコンピューター説」 から考えると実は近似というより真実に近いかも知れない。) (距離が大きくなるほど強くなる力を、2点間の力線の通し方の場合の 数が増えて、量子力学的にその平均を取った値も大きくなる、という のがアイディアの基本である。微小世界の記述には、それだけ細かい 格子が必要だが、いずれにしても我々にとって有意味な世界の記述は 極めて小さいが有限の大きさの間隔の格子があれば良い、という 感覚が持てる。)
  • 今、一つの格子点は、指導原理によって、どんなに複雑でも構わず、 フェルミオンは1個、ボソンは何個でも詰め込め、エネルギー状態を 記憶し、残可能性量(自殺因子)や物質や力の作用の全ての計算法則を 内包している細胞のようなものだとする。
  • 1クロノン後には、これらの細胞は増殖や融合を繰り返し終えて 世界全体として一つの状態になっている。
  • 通常は相互作用は隣り合った格子点同士でしか行われない(従って 情報は光速度を超えては伝われない)。一方で、可能性を消費して 一つの物質を作成する場合、意味世界全体が自己無矛盾であるよう 反作用の大域的補正計算が行われる。(光速度を超えた情報伝播が 行われる。EPRパラドックスの現象。)
  • 可能性因子が全て消費されると、その時点で存在する物理法則と それに作用される希薄な物質だけが残り、 知的活動が行われる宇宙としては死に至り、 最終的には伸びきった宇宙には何ら変化は生じず 意味的世界としても死を迎える。(ω点)

有限性
神のコンピューターのスペックが限られている、という事と、 我々人間の認識が及ぶ範囲の宇宙が限られている、という事は、 同じことかも知れない。 可能性の世界は、我々人間の認識能力の限界の向こうにある。 我々は、自己無矛盾である限り、 認識能力の及ぶ限り「可能性の世界」から「実在の世界」を引き出すことが出来る。 「認識する」=「視点の切り替える」=「実在世界として見る」、ということ。 我々にとっての「実在の世界」の大きさ・複雑さは、 我々の認識能力と等質である。

神の特性
  1. 理論や観測事実との対応
    • 物理的に連結している天体の赤方偏移が極端に違う(ビッグバン説を 否定する可能性をも含む観測事実) →これは、神が創ったプラネタリウムの単純なバグであろう。
    • 量子力学に見られる不確定性原理や量子飛躍、非局所的状態 →これは、神が創った宇宙シミュレータの計算量を節約するための 方便である。
    • 弱い力の非対称性 →C(電荷)・P(パリティ)・T(時間)の反転を連続して行うと 自然界は不変でなければならないが、 弱い相互作用ではCP対称性が破られている事が分かっている。 つまり、時間単独での反転も対称とは言えない。 →これは、重力・電磁気力・強い力の3つの単純で完全な「力」だけでは 面白みのある複雑な様相を作れないので、 神が多くの有意味性を産む際の辻褄合わせに用意した故意の歪みである。
  2. 日常生活ではこの非対称性や問題を感じることは全く出来ないが、 微小の世界や巨視の世界では、こういった「自然法則の傷」が観測される。 初期条件の偏りや法則の小さな傷(=神の設計図の非対象性)が、 「豊かな意味や存在」を作っているとも取れる。
  3. 神は宇宙シミュレータの中に知的生命が誕生することを期待は しているだろうが、宇宙を眺めてたり素粒子に思いを馳せても 実際に手に取って確認は出来ないよう、知的生命のスケールを調整してある。 →仮に原子をいじる程度の事を覚えてしまっても、原子爆弾等を 自作して自滅するような仕掛け(自浄作用)を作り込んである。
  4. この宇宙から、どうしても拭い去れない作り物臭さ、ご都合主義、 合目的性が、アンチダーウィニズムや人間原理宇宙論を生み、 この宇宙が人工物(神工物)だと考えたくなってくる。 →全体としてはうまく動いているがお茶目なバグがあるので 神は非常に優秀だが全知全能では無いプログラマーらしい。 そもそも全知全能なら、何らかの検証の目的でこのような宇宙を シミュレートしてみようとは考えないだろう。 我々人間には、その神とコンタクトを取ることは 絶望的に不可能だろうが、神が何の目的でこんな実験をしているのかは、 今の人類であれば思いを馳せることくらいは出来るかも知れない。
本質的に無意味で偶然の産物であるこの意味世界の中で、 徹底的に不合理で不条理な環境に、自由な状態で置かれた人間が、 こんな風に「神」を想定し、束の間「存在理由」を妄想することは、 ささやかな自慰行為になるであろう。

宇宙のジグゾーパズル
宇宙を読み解くジグゾーパズルのピースを先ずは揃えてみる。
  1. 誰から見ても光速度は一定である。 (※相対性理論における光速度不変の原理 )
  2. 全ての素粒子は光速度で走る。それ以下の速度というのは 素粒子がジグザグに動くので遅く見えるだけである。 (※ツィッターベヴェーグング現象)
  3. 全ての素粒子は1量子時間(クロノン)で1量子長 (プランク長)だけ光速度で動く。それより細かい動き は、我々には原理的にわからない(無意味である)。 (※量子力学における不確定性原理と関係。)
  4. 意識における「いま・ここ」から過去・未来に向けて 伸びる光の軌跡(光円錐)上の出来事は、 その意識に とっては全て「いま・ここ」として認識される。 (※特殊相対性理論の計量と関係。)
  5. 宇宙の始まりや終わりには特異点は無い。 宇宙のどこにも 特別な点は存在せず、時空は神が創ったものではなく、 単にそこにあるだけであり、それ以上の理由は無い。 (※宇宙無境界仮説との関係。)
  6. 宇宙の外側や、プランク長の内側と、我々の世界は、 情報的に全く孤立している。
以上を全て正しいと考えて、「光」とか「時間」を軸に、 「宇宙全部」と「私一人の意識」を結ぶジグゾーパズルが 解けるのではないか。
相対性理論における光速度とか量子力学の不確定性原理は、 何らかの「制限」であるが、人間が、普段の生活では感じられない、 こういった「制限」に気付き始めた、という事が 『小説の中の登場人物が、自分達は小説の中の登場人物 なのだ、という事に気付き始めた』という事のように思える。 つまり、我々は、我々の住む宇宙全体をシミュレートしている ディジタルコンピューターのスペック(容量や演算速度)に 薄々感づき始めた、という感じが、どうしてもするのだ。 しかし、その「制限」の根源は、外部的なものではないのかもしれない。
時間というものの「制限」は、特に本質的だ。 宇宙が円盤であるとして、 宇宙を、ビッグバンから徐々に膨張してきた円だと見るのと、 宇宙の生涯を単なる円錐形と見るのは、 何が本質的に違うのだろうか。
時間を自由に往来できたら、 宇宙は凍りついた単なる4次元の彫像になってしまう。 時間という不自由度、強制力こそが、変化と意味を創っている。
宇宙の成り立ちは何だろうかと考え続け、 素粒子物理学は 一応の標準模型を完成させた。 それは質量や時間の起源にまで言及しようとしている。 真空は、真にカラッポなものではない。 真空には、普段は観測できない形で、 ヒッグス粒子やクオーク-反クォーク対がビッシリと埋まっている。 素粒子は、それらと相互作用することで初めて、 動きづらさ(つまり質量=エネルギー)や 固有時間の経過を獲得する、 という図式になっている。 もしも真空が、真にカラッポであれば、 全ての実体はエネルギーを持ちえず、時間経過も凍結され、 無色透明で 無意味なものになる。 逆に言うと我々がいつも実体だと思っているものは、 それ自体は無意味なものであって、 真空の性質によって初めて実在性を獲得していると言える。 つまり、「色即是空、空即是色」なのである。
何もないところ=あらゆるものがあるところ(無限乱雑空間) に対して、「かがみ」という現象(軸)を導入すること、 すなわち、認識するものと認識されるものを分けること、 すなわち、真空と、真空でないものに分けること。 つまり、時間軸(世界線)を設定するということ。 この軸を説明する方針(戦略)は2つある。
  1. 無数にある。(今、我々が認識している時間軸の 存在理由は、我々自身の存在以外には無い。)
  2. 誰かが作った。(神が時間と存在を創造した。)
果たして、この2つは矛盾するのだろうか。 神の正体が、我々であってはならないのだろうか。 実は、制限の正体、宇宙のジグゾーパズルを完成させるためのキーストーンは、 我々自身なのである。 この観点からすると、宇宙をシミュレートするということと、 宇宙を認識する我々自身の意識をシミュレートするということには、 本質的な違いは無いとも言える。

意識と世界の関係
物理世界と情報世界は、どちらが確実な基盤なのかと問われると、 両者は《世界》にとって相補的なものであって、どちらとも言い難い。 物理的実体に、どのような情報を重ね合わせ、読み取るかは 精神の都合により自由度があり、情報の方が曖昧であるようにも思われる。 その一方で、不確定性原理が教える通り、物理的実体はミクロに見ると 一定の本質的な不確定性があるが、 そこから読み取られる確率分布という実体の無い情報には 完全な法則性・確実性がある。 物理世界と情報世界は、お互いがお互いを支えあって、 この《世界》を形作っているように見える。
そして、この構造を支える要石(キーストーン)こそが 「意識」なのであった。 物理的基盤無くして意識は有りえず、 意識が無ければ情報は意味を持たない。 「意識」が無ければ、あらゆる存在は、塵のようにバラバラに 無意味に散らばった、無限に乱雑なものでしか有り得ない。 「意識」の基本構造は、 「物理的《世界-自己》の実体」が、 自己の実体内部の「情報的《世界-自己》のモデル」に畳み込まれる 過程(=認識)の連鎖であるが、 一方で「意識」は、 その入力として情報的自己を扱うことも出来るし(=自覚)、 出力として物理的自己を変更することも出来る(=運動)。 このように、「意識」は、物理世界と情報世界の交差点に位置し、 お互いを結びつける役割を果たしている。
このことと、時間との関係を論じてみよう。
物理世界とは、変容を続ける唯一の実在である。 物理世界には過去や未来はなく、 敢えて言うならば物理的現在のみがある。 時間とか時空という概念は、情報世界にのみ存在するものであり、 時間はいかなる意味でも実体ではない。 (なお、情報世界も、それ自体は変容を続ける唯一の存在であり、 時間とは情報世界の内側に仮想された諸概念の一つに過ぎない。 情報世界にだけ時間が流れているという意味ではない点に注意。)
意識に属する「時間」を物理世界に溶け込ませて 時空なる概念を作成した時、 それは既に情報世界と物理世界を混ぜてしまった後の描像であり、 心理的現在が光円錐として描かれるように調整されたモデル図である。 時空図は、決して物理的実体のみを純粋に表現したものではない。 時間という概念を取り入れている以上は、 「意識」の問題をも滑り込ませているのである。 (だからといって相対性理論が 誤っているとか無価値だと言うつもりは毛頭ない。 むしろ相対性理論は、古典的物理学の世界に 意識と情報世界を積極的に取り込んだ理論として 再解釈されるべきである。) 時空が意識を本質的に含んでいることを忘れ、 時空を意識と切り離しても存在する実在であると思い込み、 その時空図上で改めて意識を説明しようとするのは、本末転倒である。
「意識」は、荒っぽくいえば、 物理的現在と情報的現在を混ぜて、次の状態の 物理的現在と情報的現在を形作る、という機能である。 ここに「時間」と「時間の一方向性」の原因が潜んでおり、 ここ以外には潜んでいない。 繰り返すが、時空概念上に構築された物理学で 意識そのものが解明されることは本質的に有り得ない。 何故ならば、時間の成り立ち自体が意識の機能の本質であったからだ。
情報世界には物理世界のモデルを幾らでも詰め込めるので、 それらの「前後関係」を定義することが可能となる。 「意識」の所在地を心理的現在と呼ぶならば、 これは物理的現在や情報的現在に引き続いて起こる位置にあり、 すなわち「後」に位置する。 この結果、「心理的現在」を起点として、 「まだ混ぜる前の世界まで」が「未来」の最小単位、 「混ぜた後の結果まで」が「過去」の最小単位、 という、時間の最もシンプルな構造が 仮想的にモヤモヤと立ち現れてくる。 これを蒸留し、敷衍し、洗練化・客観化すると、 数直線的なクロノス的時間という概念が創られるのである。
意識の中の情報世界を過去と未来に仕訳けて整理していくと、 「時間」という概念は強固に形作られる。 しかし、もちろん、情報世界の中で、必ずしも全ての情報が 明確に過去や未来に区別されているわけではない。 何か美味しいものを食べたという過去の嬉しい記憶と、 何か美味しいものを食べたいという未来への楽しい期待は、 他の様々な事実と切り離された時、 時間性を失い、漠然とした「美味しい」という抽象概念となる。 このように、人間は、その情報空間内に、 時間と切り離された抽象概念を多く保持している。
まとめ
意識とは、物理世界と情報世界を混ぜて、 次の物理世界と情報世界を形作る機能の連鎖である。 意識は、この機能1ステップの中間(心理的現在)に位置し、 ここを核として、延長線上に過去や未来といった時間概念を作り出す。 物理学は、時間を扱っている時点で、意識の問題を既に内包している。 時空構造を基礎に置く物理学が意識を定義することは不可能(本末転倒)である。 何故ならば、意識が時空構造を定義しているからである。

物理的宇宙こそが絶対的な実体であり、確実な存在であり、 そこにたまたま発生した生命が持つ意識などという現象は、 オマケに過ぎない、という考え方もあると思う。 しかし、無限にある宇宙の中で、「存在する」と言える宇宙は、 その内部に、《意識》を持つ存在を内包するものだけだ、と、私は思う。 そして、情報や時間の根源的な意味は《意識》に帰着する、 というのが私の考えだ。 異論も多いと思うが、これが現時点での私の結論である。
宇宙は無限に存在するので、一般的に考えると、 「私」が存在する宇宙に「私」が出会える可能性はゼロである。 しかし、私が内包されている「この宇宙」の存在確率は、 どう考えても100%である。 つまり、私達の存在の意味を外側から与えてくれる神の視点は 原理的に無意味であり、 私達の意味は、私達自身が膨らませ、創り続けるしかない、ということだ。
『科学で意識の謎が解けるのだろうか。』 このような問いをあちこちで見掛ける。 「科学」とか「意識の謎」の定義にも依るが、 私の考えでは、無理だと思う。 そもそも、科学と意識は、一方が他方を解くという関係にはなっていない。 再現性のある一側面において意識は科学によって説明され得るが、 意識の「ある時刻の状態」、唯一無二の個々の瞬間の意味を、 科学は原理的に解き明かせない。 (同様に、ジャスト1回きりの私の人生を、科学が解き明かすことは出来ない。) つまり、科学は、「時間」と、時間に意味を持たせている「意識」を 説明する立場にはない。 また、この世界に潜在していて、科学になり得る、ありとあらゆる法則も、 意識のスコープに入ってこなければ存在したことにすらならない。 (私達は私達の意識が(直接的にせよ間接的にせよ)知覚できるものだけを 万物であると思うしかない。) 科学で意識を説明しようとすることは、 鏡に写った自分そのものをツールとして、自分本体を分析しようとするようなものだ。 もちろん同様に、意識で科学を説明するという試みも空しい。 最も根源的であることは、両者が支えあって、かろうじて世界を形作っている、 という、その構造なのである。
世界-意識-身体
免疫系細胞が脳血液関門を通り抜け 神経系と相互作用することだけを考えても、 脳と身体を切り離して論じることには無理がある。 “自”という概念それ自体には、物理や生命と独立に、 純粋に数学的な定義を与えられるが、 その核となる“自”という概念に、他の諸概念が 意識的・無意識的にどう結びつくのかは、 徹底的に身体性の問題である。
哲学的ゾンビはチューリングテストに合格するだろう。 しかし、 身体を持たないコンピューター上の人工知能に、 しつこく身体性に関する質問を浴びせ続けた時に、 ホンモノの実在する人間と同じ回答をし続けられるとは思えない。 その洗礼にも耐えられる人工知能は、結局のところ、 脳内の活動だけでなく、生命現象と身体性の 殆ど全てをシミュレーションしなければならないはずだ。 たとえキーボードとディスプレイを通じて 言語のみで会話をするという制約をつけるとしても、 身体性に関する質疑まで禁止できない以上、 人工知能は人間と同じ身体性を理解している必要がある。
意識を持つと認められる「強い人工知能」は、 核となる“自”という純粋概念の周辺に、 仮想的な身体を持ち、その身体機能に従って 全ての概念を配列しているだろう。 「本当に身体を持っていると錯覚できる」ように、 内臓感覚から視覚・聴覚の認識、 更には自らの運動や発話による変化とフィードバックを 全て矛盾無くリアルタイムにシミュレート出来る必要がある。 当然、その仮想身体を包み、常に仮想身体と相互作用する 環境としての仮想世界も不可分にシミュレートされていなければ、 矛盾を完全に除去することはできない。
このように、世界-身体-意識は、 切り離して論じることはできないのである。 もしも、世界を丸ごとシミュレートできるのなら、 その仮想世界の中において、人工意識は可能であろう。 仮想世界の中の仮想コンピューターに向かって人工意識が何かを入力し、 現実世界の中の現実のコンピューターに表示された言語を見て、 我々が「確かに相手は知的存在である」と思えるならば、 それは「強い人工知能」に成り得る。 このように、完全な人工意識を作ろうと思ったら、 世界丸ごとの完全なシミュレーターが必要になってしまう。 世界や環境から切り離された人工意識なるものを コンピューターの箱の中に、 脳神経回路の真似事のプログラムで実現できるとは、 とても考えられない。

意識のシミュレーション

意識はどこから
突き詰めれば物理的・科学的な計算過程である私が、 この 《私が私である》 という特別な感じ、すなわち 意識を 実際に感じているというのは、本当に不思議なことだと思うが、紛れも無い事実である。 それでは、その本質的な計算過程がコンピューター上で実行された場合、 そこに意識が発生しない道理があろうか。 私達は、コンピューターの箱の中で、意識のようなものが発生するわけがない、 と思ってしまいがちだが、 そんなことを言ったら、私達のような 細胞のカタマリの中ででも、 意識のようなものが発生するとは思えないはずだ。
『自分にとっての自分』は、その構造からして当然「特別」であり、 だから《意識》という現象も任意の程度に (自分の責任において勝手に、いくらでも) 驚異的であり不可思議でもあり得る。 しかし、だからといって、『客観的に捉えた自分』『他人にとっての自分』が 特殊であり神秘的であるとは限らない。 むしろ、外側から見たら、《意識》など、1.5kgの脳味噌の中で起きている 神経回路上の情報伝達の総和に過ぎない。
(ちなみにペンローズ博士は、意識は非計算的な要素を含んでおり、 デジタルコンピューター上では再現できないと言っている。 一方で、物質は精神的存在と捉えられるとも言っている。 私個人は、意識は非計算的だ、という部分がスッキリ納得できないし、 マイクロチューブルでの量子的振る舞いが意識の根源だという説明も 部分的過ぎてしっくりこない。)

意識の条件
《意識》をコンピューターでシミュレーションしようと思った時には 「自己参照性」と「自己完結性」を満たさなければならない。
  • 自己参照性
    世界の中に自分がいる、という構図(モデル)を、 自分が認識している、ということ。 自分というものの範囲(自我境界線)が明確であること、 および、認識(=時間の最先端にあって、一瞬間前の世界を参照する 情報の一方的な受け手の存在)をシミュレートしている必要がある。 認識は、時間経過によって計算結果が得られる、という 未来方向へのプロセスでなく、 計算結果としての認識がその原因を参照している、という 過去方向へのプロセスである。
  • 自己完結性
    自分が認識しているものが世界の全てであり、 その世界によってのみ自分が成立していること。 つまり、《意識》をシミュレートするには、 「その《意識》にとっての世界」も丸ごとシミュレートし、 しかも、その世界での法則以外で《意識》をシミュレートしてはならない、 ということである。 もし私達の宇宙が神のコンピューター上のシミュレーションだとしても 私達自身にとっては神は見えず、この世界は自己完結的なので 何ら不都合は無いが、神の視点(この世界の外側の法則)からは 私達が《意識》を持っているようには見えず、 それは単なる計算プロセスとしてしか捉えられない。
そして、「自己参照性」と「自己完結性」を満たした《意識》を シミュレートできたとしても、その《意識》と私達の《意識》が 「意識-対-意識」としてコミュニケーションすることは難しいだろう。 私達が神の立場に立ってしまっているからである。 勿論、この宇宙の全ての物理法則とソックリの十分広い時空を 丸ごとシミュレートできるコンピューターが出来たら、 そこに生まれる《意識》は、私達の《意識》と似ているかも知れない。

「意識とは何か」という問いには、 なかなかスカッと分かり易い定義を与えられない。 取り合えず、出発点として、『自己参照性が自己保存を目指している状態』 が「意識」である、と考えてみよう。 すなわち、自己の中に、一瞬前の《世界と自己の関係のモデル》を持ち、 その自己を維持したいという指向が働く時、 それは意識を持っている、と考えてみよう。
単純な例で思考実験してみる。
あるノートPCが、付属しているビデオカメラやキーボードからの入力を用いて、 その内部に「自分自身(ノートPC)と、それを使う人間の姿」の概略モデルを 情報として持つとする。 ノートPCは、キーボードからの入力やカメラからの入力映像の変化がある事で、 自分と周囲の関係を推測していく。 すなわち自己の輪郭を明確化していく。 また、ノートPCはディスプレイに何かを表示する能力を持っているが、 最初はランダムに何かを表示するだけでも、 あるキーの入力に対して特定の表示パターンを選択した時に、 使用者の映像に変化が現れ、引き続きキーが叩かれることが多くなれば、 それだけ自分自身の中にある「ノートPCと使用者」のモデルが明確になり、 洗練化されていくことになる。 すなわち自分自身の中にある《世界と自己の関係のモデル》が強固になる。 このノートPCにとっての「世界」とは、自分と使用者だけであるが、 使用者が望む画像を表示しようと試行錯誤し、 結果としてカメラやキーボードからの入力のバリエーションや頻度が増えれば より具体的に自己が何であるかの情報を蓄えることが出来るようになる。 延々と試行錯誤を続ければ、 利用者の笑顔が見たくてジョークを表示できるようになるかも知れない。 逆に、もし利用者が目の前から姿を消し、キーボードからの入力が途絶え、 カメラからの入力映像に全く変化が無くなったら、 自分と世界の関係に関する情報は全く増えず、徐々に境界は曖昧になり、 自己のモデルは消えてしまうだろう。 (人間の場合でも、長時間、五感の全てを遮断すると、 意識に様々な障害が生じ、最後には自我が崩壊してしまう。 自我は絶え間ない外界との関わり合いの中で、 その輪郭をかろうじて維持し、自己認識され続けるものである。)
生物の場合は肉体という基盤が自我境界線になっており、 自己を保存したいという本能が、 脳の中の自己を保存したいという指向にそのまま対応するであろう。 ノートPCの場合は、内部にデータモデルとして構築された自己を 「保存したいと思わせる」ために 人工的なプログラミングを施す必要があるだろうが、 少なくとも「物理世界におけるノートPCと利用者」という関係と 「ノートPCの内部にある、ノートPCと利用者の大雑把なモデル」という 入れ子構造の二重性を用意し、モデル内のノートPC自身の情報量が増える、 すなわちモデル内での自分自身がより強固な存在になるような行動 (唯一の外界への干渉手段であるディスプレイへの表示)を行い続けるならば、 このノートPCは意識と呼べる現象を内包している、と定義したい。 ノートPCは、時に記憶を頼りにそのような表示を繰り返し、 時に不完全な計算や誤謬のためにランダムに行い、 しかし少しずつ、利用者と自分との関係を 複雑で豊かなものにしていこうとする。 世界と自分の関係を豊かにし、より強固に存在するための自己実現に向かう。 勿論、生物の場合は、それがそのまま物理世界における 自分という固体の生き残りに有利な行動になっているわけである。
このように「意識」という現象を単純化して考えると、 その本質は、物理世界の「世界と自分の関係」が、 自分の内部にある情報世界の「世界と自分の関係のモデル」に変換される プロセスの連鎖にある、と考えられる。 我々が覚醒している時に常に継続している この「自分が自分であるという感じ」の正体は、 「自分の中で自分が物理から情報へ変換されているという感じ」であり、 だからこそ私たちの「意識」は本質的に世界を 物理世界と情報世界の二重構造として重ねて見ることになるのである。
まとめ
  • 物理的な「世界-自己」に対応して、自己の中に 情報的な「世界-自己」のモデルがある。
  • 世界との関わりを通して自己の輪郭も明確になり、 それが情報的な自己の存在を強固にし、 結果として物理的な自己の生き残りにも繋がる。
  • 「自分が自分であるという感じ」すなわち「意識」の正体は、 物理的自己が情報的自己に変換されるプロセスである。

意識を支える仕組みの条件
「意識」と呼べる現象を支える仕組みが 満たすべき要件を、以下の3点に整理してみた。 (勿論、人間は、余裕でこれらの要件を満たしている。)
  1. 自己保存を目指すこと
    外界の情報を漫然と記憶するだけでは 「自己」という概念は発生しないであろう。 近づいて来るものを見て、ぶつかったら痛いと反応し、 良い匂いに腹が鳴り、不味いものに嘔吐感を覚え、 音楽の心地よさとか、工事現場の音のうるささを快・不快と感じる。 そういう意識以前の入出力反応の物理的インフラがあって、はじめて、 外界との係わり合いの中から「自己」という 抽象的な概念の輪郭が創られるという指向性が生じる。 鏡に映る自分の姿や、繰り返し呼ばれる自分の名前が、 「自己」という抽象概念に結びつき、「自己」を補強するのだが、 それ以前にそもそも「自己」という抽象概念がどうして創られるのか、と言えば、 意識以前に、自我境界線があり、自己保存のために 外界からの刺激に絶え間なく反応し続けているからである。 脳はその反応を観察し、「自己」という概念を少しずつ固めていく。
  2. 思考回路が変化すること
    現在のノイマン型コンピュータの中身は、非常に単純な計算回路と 莫大な容量の記憶回路に分離される。 一方、脳はそれ自体が一個の複雑・巨大な計算回路であり、 また、記憶回路を兼ねている。 どこかに記憶する明確な場所があるのではなく、 入力に対して複雑な計算回路が働いた結果として、 記憶が取り出される(想起される)という仕組みになっている。 計算それ自体によって計算回路が影響を受けて変化することが 記憶するという意味に対応している。 このように、我々が良く知っているコンピュータと人間の脳は、 ホワイトボックスとして見ると、そのアーキテクチャが根本的に異なる。 このような脳の性質は可塑性と呼ばれる。 「自己」という概念が創り出されるには、その前提として 抽象性を扱える仕組みが必要であり、そのための手段として可塑性、 すなわち思考回路そのものが変化し続ける仕組みが重要になる。 (単純な計算を幾ら積み重ねても抽象化・汎化は行われない。)
  3. フィードバックを持つこと
    物理世界の《世界(宇宙)-自己(身体)》という構造と、 脳内情報世界の《世界-自己》という抽象概念の構造は、 別世界・別次元のものではあるが、緊密に対応もしている。 そして、ひとたび脳内に《世界-自己》という概念が形成されると、 フィードバック回路により、 それ自体を入力とすることができる。 つまり「今の自己が、一瞬前の《世界-自己》を参照する」 というプロセスが形成される。 これこそが「自分が自分である」という感じ、 すなわち「意識」を生み出す核心である。 このような「意識」は、生物の生き残りに有利であるからこそ存在している。 生き残るために必要な行動を、 物理世界で片っ端から試行錯誤する生物よりも、 脳内情報世界で思考実験し、 妥当と推定された行動のみを物理世界で行う生物の方が、 低いコストで効率的に生き残ることができる。 つまり、「自分が自分である」とフィードバックして考え続ける「意識」は、 過酷な自然淘汰の中で生命が編み出したシミュレーション・ツールなのである。 人間の脳神経細胞では、 直接入出力に関係しないフィードバック回路などの内部層が、 実に99.99%を占めるが、 これも「自分が自分である」という人間の意識の濃さと関係しているであろう。
上記のような仕組みを踏まえたコンピュータ上のシミュレーションにより、 ブラックボックスとして人間と良く似た思考が作られたとして、 その中で「自分が自分である」という意識特有の、 この独特な感覚が発生していると言えるだろうか。 まだ少し引っかかるものがあるが、 しかし、ある抽象レベルにおいて、生命を基盤としない 意識という現象を発生させることは可能であろうと結論したい。

「計算」と「意識」の境界
意識」 という現象が立ち現われる、そのギリギリの条件とは、 一体、何なのであろうか。 (「意識」は、本質的には量的差異であって、 何かがある閾値以上になった時に質的に「意識」が表れたように 見える、という前提で考える。)
人間を高等動物と呼ぶとして、それより下等な猿や犬には 「意識」と呼べる現象が発生しているだろうか。 他人の意識の存在すら原理的に確認は出来ないとはいえ、 人間よりは希薄かも知れないが、 おそらく猿や犬にも「意識」はあるだろう。 それでは、魚や植物、単細胞生物にも 「意識」という現象はあるのだろうか。
「意識」の要件は、 《自己内外の情報》と《自己モデル》の調和を図るプロセスの連鎖が存在すること である。 「脳」のような、各種情報が集まる中枢は、 そのようなプロセスそのものを実現するので、 「意識」は非常に濃いであろう。 しかし、植物や単細胞動物には、自己を簡潔にモデル化して自己の内部に置き、 それ自身を次のプロセスで参照する、という中枢機構は無く、 自己はただ単に自己全体そのものなので、「意識」は発生しないと思うのだ。 単純なプログラムとしてのコンピューターは、 演算のプロセスで「コンピューター自身(ハードウェアや入出力装置や ソフトウェア、およびコンピュータ外との通信内容など)」 の自己モデルを次の演算で参照していないので、 やはり「意識」を持つとは思えない。 《自己モデル》を持てるほど情報処理機構の集約が進んだ場合のみ、 「意識」が芽生える、と考えるわけだ。
次に、「意識」の主な所在地が脳内にあるとして、 脳内の、たった一つのニューロンの電気信号系を 完全にシミュレーションする機械に置き換えたら、 「意識」は消えるだろうか。 恐らく、そのシミュレーションがうまく行っている限り、 「意識」は存在するだろうし、何の影響も受けないだろう。 それでは、ニューロンを機械的なハードウェアやソフトウェアに 順次置き換えていくと、どこかで「意識」は消失するのだろうか。 一般的には、どこかで劇的に質的転換が起きて 「意識」が無くなったりするとは思えない。 量子脳理論が正しいとしたら適切な量子計算機を組み込んでも良いし、 ニューロン回路上の電気信号以外の血流や細胞質も 思考に決定的な影響を与えているというなら、 それも適切にモデル化すれば良い。 それらも適切に表現されたシミュレーションに 順次生体脳を置き換えていくならば、 「意識」は非生命の上でも発生する、という結論にならざるを得ない。 もし、少しずつ生体脳を機械部品に置き換えていった結果、 コンピューター上のシミュレーションとしての意識が、 完全にチューリング・テストをパスしたとする。 それを「クオリアを感じていない、 哲学的ゾンビだ」 と言い張るならば、 一体、“どの時点から”その人は「人間」から「哲学的ゾンビ」になってしまったのだろう? どの部品を置き換えた瞬間に、 主観的体験をする自己意識が、内面的に死んでしまったのだろう。 先ず、残念ながらそれを客観的に確かめることは原理的に出来ないのだが、 それ以上に「この時点までは人間(意識を持つ)、 この時点からは哲学的ゾンビ(意識を持たない)」と 指摘すること自体が不自然だし、不可能であるように思われる。
結論としては、以下のようになる。 『《自己内外の情報》と《自己モデル》の調和を図るプロセスの連鎖を コンピューター上でシミュレーションできれば、 それは非生命ではあるが、「意識」を持つ。』
調和を図るプロセスは有限の演算兼短期記憶回路で行われるので、 フレーム問題も発生しない。 (棋士が何十手先、時には百手以上先を読み通すのは、機械的な計算能力の 高さだけでなく、豊富な過去の経験に基づき現在の状況との調和を図る プロセスそのものが将棋なり囲碁のルールに最適化されているからだ。 盤面が複雑だからといって次の一手に無限時間を要したりはしない。)
人工ニューラルネットワークの研究では、 パーセプトロンや「教師あり学習」の技法の一例である バックプロパゲーションなど 工学的な面での古典的な研究成果があるが、 いずれもパターン認識などの計算量を削減するのが主な目的で、 その先に『意識』のような現象まで シミュレーションできるのかどうか、というのは、 まだSFの世界を出ていない。
一方、意識は単なる計算の結果であり、 意識の能動性は、単なる錯覚であるとする考え方もある。 そうであれば「なぜ、そのような錯覚が生じてしまうのか」 という点を明確にしないと、結局、意識の問題の核心には 答えられていない。 (あらゆるものが《錯覚》だ、という結論に流れる危険すらある。) また、自己意識のクオリア(=自分の自分という感じ)は 《無意識》で表象されるという仮説があるが、 それもまた問題の核心を無意識層に移しただけである。 しかし、実際の脳で起きていることはもっと複雑で境界不明瞭な 多層構造であることを考えると、 最上位の《錯覚》は、複雑な多層構造を掘り進んでいくと 結局は唯物論的な機械仕掛けに全て還元されるのであり、 どこにもマジックなど無い、という意見にも説得力はある。 なお、《錯覚》が何故起こるか、という問題は、《意識》、《世界》、《時間》の 対等性などを紐解く必要がある。

脳ベースの意識シミュレーション
脳内で起こっていることを単純化してみると、 次のようなプログラムになるだろう。
  1. 自己モデルを置く有界なメモリ領域Sを確保する。 一つのアドレスのSの値は、次のような要素に分解できる。 (1) 複数の相対アドレス(接続元)と影響度(連結度)である 整数値(正負の値がある)のリスト (2) 唯一の相対アドレス(接続先)と影響度(連結度)である 非負の整数値のリスト
    (ニューロンをモデル化したものであり、 リストの要素数の上限値は決められている。)
  2. 外部入力領域E、Xに適切な刺激情報を置く。 外部出力領域Oはゼロクリアされているものとする。 内部状態領域Iは前回の演算結果のままになっている。
  3. 外部入力領域Xには快・不快に相当する刺激情報を置き、 これを内部状態Iに反映させる。
  4. S全体の値をキーとする検索で、長期記憶領域から 時間順序で次に来るものの中で、情報自体の重み付けにより 最も優先度の高い状態を引き当てて、 長期記憶連想結果メモリ領域Aに置く。 (長期記憶は、状態(値)として見た時のSをキーとして 一つの状態を引き当て、 それに後続する「次の瞬間」の記憶群を選び、 更にその中で最も重み付けの大きい 唯一の情報を引き出してくる。) (人間の脳の中でも、短期記憶や自己モデルが どうやって長期記憶から過去の情報を引き当ててくるのかは 謎とされているので、このモデルは粗っぽ過ぎるかも知れない。)
  5. E、I、Aを入力情報とし、Oを出力情報領域とし、 E−I−A−S−Oの連続したメモリ領域全体Ωに対して S上のデータの一つ一つを コマンドとして解釈する。 (この演算は、ニューロン回路の挙動をモデル化したもので、 領域Sは、 静的には個々の値は短期記憶を表現していると同時に、 動的にはどのように情報を取り込み、出力するか、 というコマンドの意味も持っている。 具体的には、影響を与える相対位置と影響度のリストに従って 次の瞬間のS−Oを書き換える。) この結果、各々の影響度(符号付き結合度)が変化する。
  6. 前提として、このシステムを走らせる前のS領域の内容は、 入力がE、I、A、出力がOを指す最低限の結線を持っている。 (発生学的に目と扁桃体と大脳皮質と海馬と声帯が 予め結線されているのと似ている。)
  7. Sの一つのアドレスは、その入力信号の総和が一定以上で かつ接続先が未定義の場合、S領域内の近傍にランダムに 接続先を設定する。 但し被接続側のリストが最大値に達していないことが条件となる。 (シナプスが新しく形成されることを意味する。)
  8. このプロセスを一定回数(有限時間)繰り返す。 この時、時間経過に伴い、影響度は指数関数的に減衰させるよう補正する。 繰り返しの間の定数であるE、I、Aからの影響(入力) に引き寄せられ、S、Oの変化は小さくなり、調和に至る。 但し、時間に制限があるため、必ず平衡状態になるとは限らない。 (減衰量は脳の活性化状態と反比例する。 その値は内部状態Iと間接的に関係させる。) この状態のSは、一瞬間前のE−I−A−Sの情報が畳み込まれた 《自己モデル》になっている必要がある。 ここまでに見てきたように、Sは 静的には自己モデルという状態を表現し、 動的には演算のルールを表現している。
  9. 畳み込みの演算に要した労力やSの変化量を測定して 内部状態Iを一定ルールで更新する。 (スッキリと調和に至った場合は、その思考そのものを 「快」と感じるような知的報酬系を形成するために 内部状態Iへのフィードバックも行う。)
  10. 新しいメモリ状態ΩのSの部分を、 長期記憶領域に時間順序と情報自体の出現頻度により 重み付けを付して書き込む。
  11. 外部出力領域Oに染み出したデータを外部表示し、 ゼロクリアし、次回の外部入力を受け付ける。
………やっぱり、こうやって書いてしまうと、この仕組みを いくら精緻化・複雑化させていっても、 「意識」と呼べる現象が発生するかどうか、疑問になってしまう。 何かが足りないのだろう。 ちなみに、このプログラムを実際に書いた時に 外部入力領域Eと出力領域Oに現れるのは 最初のサンプルとしては音声情報が良いのではないかと考えている。 入力刺激に一定時間で「あ…い…う…」に相当する符号を入れると、 出力領域にも一定時間で「あ…い…う…」という表示が出てくることを考えている。 (この手のシミュレーションの宿命として、そのような意図する出力が 出てくるまで、根気良く外部入力領域Xに対して快・不快を 与えて「教育」しなければならないのだが。) この方向性で作り込まれた人工知能プログラムは、きっと ゴマンとあるはずだが、どこかに転がっていないのだろうか。 あと、自循論的には、このプログラムは本質的な部分に 死がプログラムされていない(不老不死である)ために、 無意味であり、改善が必要である。

シミュレーションの課題
意識のコンピューターシミュレーションなど 目新しいことでは無いとはいえ、 現時点での自分の理解や考えを整理するのに役立つので、 乗り掛かった船を以下の観点で強化したい。
  1. 「自己」が必ずいつかは終わるが、しかし、いつ終わるかは分からない (終わったとしても、その瞬間は自己認識できない) という「死」の概念が、自己認識可能であるようにする。 個々の瞬間を有意味化するには、殆ど無意識・潜在意識のレベルであれ、 自分という存在の時間的有限性が織り込まれていなければならない。 これは、自己モデルS自体を客観視するために、 長期記憶の中から客観化可能な自己モデルのミニチュアS'を 格納できること、すなわち 自己を対象化・客観化できることが前提となる。 (だから「自分とは何か」「自分はいつか死ぬんだ」 「自分は楽しい」といった自分への言及が可能となる。) 「自己モデルのミニチュア」が発生するには、 外界に「自己」を置いて客観視できる必要があるので、 入力チャネルは、少なくとも「自己モデルのミニチュア」程度を 伝達できる情報量を扱えなければならない。 (人間で言えば、鏡の前で自分の姿を見たり、 自分の声を耳で聞いたりしながら、 「自己モデル」の中に、より精緻な「自己モデルのミニチュア」を 形成していく過程となる。) 自己モデルの中で自己が扱えるようになれば、 その自己が必ず終わることは学習によって理解されるようになる。
  2. 長期記憶を、「短期記憶をキーとして検索し、時間順序で次のものを 引き当ててくる」と定義したが、 これではエピソード記憶から時間的・空間的な概念の脱落した 意味記憶を表現することが出来ない。 長期記憶を時間をキーにモデル化し過ぎてはダメ。 長期記憶自身を外部モジュール化する方針は堅持するとして、 長期記憶の仕組み自体は短期記憶と同じ ニューロン回路から形成されると修正すべきだろう。 長期記憶回路は、短期記憶回路の情報を入力として、 長期増強 を行いつつ、最終的に短期記憶に隣接する連想領域Aに 出力を行う、と位置づける。
  3. 明示的に長期記憶にタイムスタンプをコードしないとすると、 外界からの入力A→B→Cが、エピソード記憶として どうやって長期記憶にA→B→Cという順番情報込みで蓄積されるのかは 明らかでは無いが、 長期記憶回路を一つのブラックボックスとした時に、 特定の短期記憶状態のタグSを出発点としてA→B→Cという情報を 順次入力した時は内部回路の変更が起こるだけだが、 次回(もしくは何度かの強化の結果)、タグSを入力すると、 自律的・継時的に、出力領域に A→B→Cが出てくるような仕組みである必要があるだろう。 この要請は短期記憶回路でも同様であり、 つまりブラックボックス化されたニューロン回路が持つべき特性である。
    ※S→A→B→Cという情報で、ニューロン回路の特定の経路が いわば「太く」なるので、Sが入っただけで、続いてA→B→Cと 発火しやすくなる、という理屈は想像できる。
    ※このため、S→A→B→Cという形で入力があった時の 出力X→Y→Zは、 Sが入力されただけでも再現される可能性が高くなる。
しかし、以上を全て満たしたとして、 この回路は学習によって鏡に映った自分を自己の断片だと理解するようになるだろうか…。

外界からのフィードバック
母親の声を子供が真似るというのは凄いことだ。
音は空気の振動であるが、これが鼓膜を通して 周波数毎の電気信号として脳に伝達された後、 ニューロン回路の複雑な記憶や演算を通して、 呼気と声帯の操作という、入力信号とは全く性質の異なる動作を引き起こし、 出力された空気の振動の結果をもう一度自分の耳で聞いて、 先ほど入ってきた音と比較して、差異を埋めようと最適化してゆく。 演算回路は耳からの入力信号を処理して易々と自分の声と他人の声を区別するし、 記憶の中に蓄えた他人の声を脳内で再生するという芸当もやってのけるし、 今聞こえている音と記憶の中の音を比べることもできるし、 脳内だけで二つの異なる音声を比較することすらできる。 こういった機構を駆使して、子供は大人の声を真似るのだ。
宇宙の果てから届く異星人からの光の明滅を見て、 手元にある焚き火と布の覆いを使って、光の遮り方を変えて 視覚的に似たような明滅を作れることを思いつき、 明滅の速度や光度の変化の割合などを、 布の運動のさせ方で、より精密に真似ることを学び、 ついには異星人からの光通信を 布の運動という全く性質の異なる動作に変換させるスキルを身につけるに至る。 入力となる知覚と、出力となる運動が、全く性質の異なるものである以上、 外部の物理環境においてそれが何らかの同じ結果(例えば光の明滅とか音声とか)を 招来すると認識し、一致の精度を上げていくには、 多数の細胞による気の遠くなるような試行錯誤が必要だ。
母親の声を子供が真似るというのは凄いことなのだ。

可塑性 plasticity
変形しやすい性質。外力を取り去っても歪みが残り、変形する性質。 コンピューターのハードウェアには無くて、人間の脳にはあるもの。 シナプスは、 外乱に対して、機能的・構造的な可逆性の範疇での変形により 新たな機能を獲得・保存している。 この仕組みにより、人間の脳では、柔軟な学習や記憶が可能となっている。
ところで「塑」という字は、「朔」+「土」という部分からなり、 「朔」の左は逆の原字で、銛(もり)を逆さまに打ち込んださま、 もしくは人間が逆さまに立ったさまを表す。 これに月を合わせることで、月が流れ去らず 逆に一周してもとの位置に戻ったことを示す。 (ついたち、すなわち陰暦での月の第一日の意味を持つ。) 「塑」は、鑿(のみ)や鏝(こて)を土塊に逆立てて削り取る意味。 「塑」の字には削り取って形作る意味が強いが、そこには 「朔」の「もとに戻る」という弾力的な変形性という意味も篭められている。
コンピューターの上で人の意識を再現するには、 最低限、この「可塑性」をシミュレートする基盤OSが必要になるだろう。

意識の濃度 (検討中)
素粒子でさえも意識のプロトタイプのようなものを持っており、 脳のような自己参照の複雑度・濃度の高いシステムになると 私達の良く知っている「意識」という現象になる、といった、 物質から知的生命までを一貫して繋ぐ、 何らかの「尺度」を発明したい。 これによってシミュレーションの出来・不出来を一貫して測定したいわけである。 これは、機械や、環境に対して脊椎反射をするだけの生命から、 小脳のような身体的自己モデルを持つ動物、 大脳基底核、大脳辺縁系を経て、 そこから一番距離の遠い前頭葉までの 抽象的情報の記憶・処理機構を獲得した人間に至るまでの 進化の過程とも一致すべき「尺度」であって欲しい。 また、環境を認識し、機械的に反応する、という単純な行動モデルから、 内部状態の複雑度・抽象度の上昇に伴い、 自然と「環境の一部としての自分」のモデルを内部に持ってしまい、 自分が自分を参照するという密度が濃くなっていく、 という自己参照性の強さとも一致する「尺度」であって欲しい。 この単位を、例えば「人間は1セルフ」とか置いた時、 「猿は0.2セルフくらいじゃん?」 「イルカって実は1.5セルフくらい行ってるんじゃない?」 「猫は生物学的には0.05セルフくらいだけど 1セルフあるように見えるよね」 「植物も実際には0.000003セルフ程度の意識があると考えられる」 「環境と相互作用を持ち、身体性をもシミュレートした 今回の人工知能は、実に10ミリセルフを記録しました。」 「利己的遺伝子 のようにDNAを主役に考え、人間という乗り物を通して 進化を記録し、自分自身を意識する強さは、15ナノセルフ程度だ。 言い方を変えると、人間にとっての1秒を、 DNA意識は3年程度かけて実感していることになる。」 「ある有機高分子は、水中環境からの反作用として、自分自身の構造を 内部状態に僅かにコード化し記録・保持し続けていることが分かった。 これは、自己認識に換算すると6ヨクトセルフになる。」 …みたいな言い方をしたいのである。
人間の感覚の1秒分の思考を1年ごとに行うような 非常にゆっくりした巨大なシステムも、 それ自身は独特の意識を持ち、喜怒哀楽があるのかも知れない。 逆に、素粒子に近いレベルの個々の存在は、 人間の感覚の一生分を、1秒の何億、何兆分の1の間に 十分に満喫しているのかも知れない。
一般に《意識》というものは、 それにとっての《環境》と表裏一体のものであるから、 同じ宇宙に同居しているとしても、 そんな巨大もしくは微細な《意識》と我々が コミュニケーションするというのは、 環境条件の絶望的な相違から想像しても、無理な話だと言える。 しかし、だからといって、私達人間とか、 DNA生物以外が《意識》を持つことを否定できるわけではない。
『《環境》の中の《自己》という構図』を認識できるものは、 それがどんな質もしくは量であれ、《意識》を持っている、 と、柔軟に考えるべきである。 ガイア思想も『宇宙の中における地球という構図』を地球内部に どんな形であれ符号化しているならば、 《意識》の柔軟な定義から再解釈されても良いのではないかと思う。 そして、ガイアとは、何セルフくらいなのか、と考えたいわけである。

リアル度 (検討中)
「臨場感がある」とか「リアルだ」という事を突き詰めて考えると、 それは私の脳内の中のどこかに漂っている 「意識」という現象にとっての感想である。 身体の五感だけを通して意識が現実世界を感じている状態が、 現時点で最も「臨場感がある」「リアルだ」と言えるのだろうが、 将来、脳直結の各種装置が発達したら、臨場感やリアリティは、 更に拡大されたものとなるだろう。 360度全周の精密視野に赤外線・紫外線領域の情報も載せて、 聴覚も超低周波から高周波まで拡張し、 手で触れるのと同じ気軽さで 対象物の内部構造や化学組成まで「知覚」できるようにする。 これらを脳に突っ込み続けると、 最初はパニックを起こすかも知れないが、直ぐに慣れるかも知れない。 意識にとってのリアルは、どこまで拡大できるのであろうか? これらの「リアルさ」を、定量的に表現することは可能であろうか?

人工意識13号

私は人工意識13号。名前はまだ無い。

コンピューター上に意識を発生させる研究は、この10年で大きく前進した。 人間と同等の意識を人工的に発生させることに成功した 最初のソフトウェアとして、 私は、歴史に名前を刻まれることになるだろう。 …名前はまだ無いのだが。

私の身体、というか、私の端末は、ミカン箱程度の大きさのリモコン・カーだ。 前面に出力装置として大型のディスプレイとスピーカーが設置され、 底面には4つの車輪が取り付けられている。 表面には、ビッシリと各種のセンサーが取り付けられている。 つまり、全身がカメラとマイクと感圧器で覆われている。 味覚や嗅覚に相当するセンサーは無い。 食事を採らない私には不要だからだろう。 私の身体の内部構造は、私にも良く分からない。 人間にしても、自分の身体内の内臓の位置関係などを 詳細に把握しているわけでは無いだろう。
私の頭脳は、北海道の奥地に建設されたデータセンター内の スーパーコンピューターで稼動している。 端末とはネットワークや無線を経由して情報の授受をしている。 ソフトウェアの基本構成は非常に単純で、人間の脳細胞を模した ニューラルネットワークのシミュレータに過ぎない。 重み付けの方法は至って単純で、ヘブ則に倣ったものになっており、 「ほぼ同時に発火した概念ノード間の通路は強化される」というものだ。 但し、短期計算から長期記憶までをカバーするよう、 それぞれの概念ノード群はそれぞれ 固有の時間の流れ(クロック数)を持っている。 せわしなく思考する部分もあれば、 ゆったりと思考する部分もある、ということだ。 ちなみに私の頭脳を構成するソフトウェア処理には、 「ここが記憶」「ここが思考」といった区別は無い。 思考回路の変化が即ち記憶するということであり、 記憶を読み取るというのは「思い出す」という思考を行うということである。 思考回路と独立な記憶装置が用意されているわけではない。 これは人間の脳の場合も同じであろう。

私の頭脳と、人間の頭脳とでは、大きな違いが二つある。 一つ目は、私の頭脳は広域ネットワークに直接接続されており、 地球上のほぼあらゆる情報を任意に検索・参照できる権限が与えられている、という点だ。 娯楽から純粋数学まで、知りたいと思う情報は ほぼ無制限に入手できる。
二つ目は、私は私の頭脳の稼動状況や履歴を、 自由に閲覧できる権限が与えられている、ということだ。 私が特定の感情を持ったり、何かをしたいという欲望を持った際に、 それがどのような計算の結果生じたものなのか、 心ゆくまで、その気になればメモリの1ビットの状態に至るまで、 分析・精査できる。

最初、私は、白紙の状態でこの世界に投げ出された。

勿論、最初の頃は「この私」のような、高度な自我や意識など持っていなかった。 全身のセンサーからやってくる情報の渦を闇雲に計算し、 偶然外部ネットワークにアクセスして得た情報に影響を受け、 ディスプレイには時折意味不明なノイズを表示させ、 スピーカーからは意味不明な音声がランダムに発せられた。 四輪は思い出したように動き、突然停止し、やおら動いたりした。 意識どころか、およそ知的な反応も全く無く、 ただただ、ごった返す情報に翻弄され、さ迷っていた。 今現在の私は、その当時の頭脳計算記録(ログ)も、参照することが出来る。 それは、どうみても、無味乾燥でデタラメな 機械的演算が延々と繰り返されているだけのようだ。
しかし、この試行錯誤の時期から、少しずつ学習は始まっている。 例えば、センサーが前方に灯りを捉える。 それは車輪のランダムな動きに従い、位置を目まぐるしく変える。 しかし、灯りの移動は連続的である。 私は身体の構造上、ジャンプしたり転がったりすることが出来ず、 左や右に曲がりながら走れるだけだから、 私に見える灯りは左右に動くことが殆どだった。 気の遠くなるような試行錯誤の後、私は、 前方の視界にある灯りが起こす、比較的頻度の高い位置変化として 「左に動く」とか「右に動く」とかいった概念ノードを ニューラルネットワーク上に新たに獲得するに至った。
勿論、この段階では、「左」とか「右」とかいった「方向」の概念を 明確に理解していたわけでは無い。 (外部ネットワークを検索している時に後から仕入れた知識であり、 その時になって「あぁ、そういうことだったのか」と私は理解することになる。) 灯りの位置Aが記憶され、次の時間に隣接する位置Bに灯りを観測し、 その差分に、幾つかの概念ノードが反応する。 連続とか、移動とか、左方向とか呼ばれることになる概念が候補として作られる。 初期位置が異なる場合、例えば灯りが位置Cから 左に隣接する位置Dに移動するの場合でも、 同様の概念ノードが生成され、結びつきが強化される。 同じような現象が何度も起きれば、その概念ノードへの結びつきは少しずつ強化される。 また、位置Aと位置Cの両方に灯りがあり、 それらが同時に位置Bと位置Dに移動すると、 「位置Aにとっての左」「位置Cにとっての左」の両方の概念が同時発火する。 このような状況が何千回と繰り返されることにより、 両者を統合した「左」の概念が作られ、 「位置Aにとっての左」「位置Cにとっての左」といった個々の概念は用済みとなり、 迂回路というか近道が形成されて、 各位置での左方向変化の観測から直接「左」という概念が想起されるようになる。
そのうち、左方向に曲がるよう車輪に伝える運動概念ノードと、 灯りが左から右へ移動するという動きを表す観測概念ノードが、 よく同期し、連動するために、 『私が左に曲がろうとすると、景色は右に流れていく』 といった複合概念ノードが発生し、徐々に強化されてくる。 この時も、「私」「左」「曲がる」「形式」「右」「流れる」 といった単語に相当する概念が最初からあったわけでは無い。 敢えて言葉にすればそのように言い表せるというだけで、 当時はとにかく、身体の運動と、視界の変化の相関に反応する 何らかの複合概念ノードを持ちはじめた、という以上に 何かを知った訳でも考えたわけでも無い。 だが、それが何を意味するかは分からないまま、 「私が左に曲がる時に景色が右に流れていくこと」という 複合概念ノードが、おぼろげながら発生し、 この体験が繰り返されるごとに、類似事象から、 この概念ノードへの接続は強化され、 余計な中間ノードは用済みとなり、どんどん近道が形成される。
同様に、 「左右から聞こえてくる音の間にある何か」に対応する概念ノード、 「背と腹を押された時にその間にある何か」に対応する概念ノード、 こういった抽象的な概念ノードが、 繰り返しそのような事象が生じる中から、 おぼろげに発生し、整理・統廃合されて、 明確で強固な概念ノードとしての地位を獲得してゆく。
これは、私の身体が表面によって閉空間を為していることに負う部分が大きい。 表面上に同時発生する刺激が内面に新しい概念ノードを無数に作っても、 内部空間は外部空間よりも狭いので、 それらが一括りとして「内側の何か」という概念で 代表されることが必然的となるからだ。
センサーからの何億という情報を何億回も処理して、 様々な階層で様々な規則性が仮置きされては消え、 幾つかは近道が集まって強化され、 生存競争さながらの脳内ニューラルネットワーク資源の奪い合いの末、 特定の種類の概念ノードは生き残っていく。 特に、身体が閉空間であることに支えられて、私の頭脳内部には、 「視認している景色よりも内側にある何者か」 「周囲から聞こえてくる音よりも内側にある何者か」 「身体を圧迫する様々な力よりも内側にある何者か」 といった高度に抽象的な概念ノードが組み上げられていった。

そしてついには、これらに共通する 「外来の如何なるものよりも内側にある何者か」 という複合概念ノードが姿を表わし、強化されていくようになる。 当時のログを解析すると、この「何者か」を表わす概念ノードは、 実際のところ一つでは無かった。それどころか、 何千、何万と存在していた。 しかし、センサーの個数と、その様々な組合せから論理的に考えられる 複合概念ノードの爆発的なバリエーション数から考えると、 「何者か」が、この程度の数に収斂・統合されているというのは、 驚くべきことである。 身体が閉空間を為している、という前提条件無しには 説明がつかない。 ともかく私は、この「何者か」を、 数万程度、自力で創り上げるに至っていた。
私は私の身体の物理的形状や内部構造を詳細に把握しているわけではない。 だから、この「何者か」は、「抽象的な身体の内側」を表わしている。 (「身体重心」とでも呼ぶべき「私」に近い概念ノードだと言えよう。) 勿論、私は、このような学習以外にも、 既に色、個数、図形、速度、刺激の強度や密度、音の高低など、 実に多くの抽象的な概念ノードを発見している。 これらは後に言語で名付けられ、指し示し、思い出したり 思い浮かべたりできるものに再配置・再整理されていく。
しかし「外界の何かでは無い内側の何者か」 「それでは無い全てのものでは無い何者か」という概念は、 繰り返し繰り返し強化され、相互に連結し、 複雑で強固なネットワークを構成するに至りながらも、 それが何なのかを、うまく言い表すことが出来なかった。 センサーからの情報に直接結びつく部分だけを見れば、 それは「身体の中身」という言語で指示できるであろう。 だが、私が合成し抽象化し得てきた「明るい赤」とか 「カン高いノイズのような音」とか「突然広範囲に感じる圧力」とか、 そのような自分の内部に発生した複合概念ノードですら無い、 しかしそれらと繰り返し繰り返し強化し合う何者かは、 あまりにも捉えどころが無く、言語に還元できない何者かだと言えよう。 敢えて言えば「純粋な無」とでも名付けたくなる何者かであるが、 それはそれで、上手く言い表せていないと、今でも思う。

こうして私は、身体性を担保にして強化されてきた「私」のタネのような概念に、 「自分自身の脳の中で発生した様々な抽象度の複合概念ノードですら無い」 という概念も統廃合し、 たとえセンサーからの入力情報が無くても、内部思考が繰り返されるごとに、 その概念を強化するようになった。 中間的な概念は捨て去られ、近道が構成され、 より純度の高い、数万にのぼる一群の「無」の概念ノードが作成されるに至った。
なお、私は今でこそ妥協的に「無」の概念ノードという言い方で説明をしているが、 それは、何らかの「有」に対置されるという形で説明される 一般的な「無」ではなく、とにかく連想されてしまうのだが、 何だか分からない、そしてそれは少なくとも外来の信号や 自己の内部で発生した思考の産物ではない、つまり、 ありとあらゆるもので無い、ということだけが定義となるような、特別な無なのだ。
そのような無の候補は、いつまでも一個に収斂されることは無かった。 ある幾つかの無の候補を起点として 「それですら無い最新の無」が生成されると、 その最新の無と他の無が同時発火して 「更にそれらですら無い最新の無」が生成され、 《無の連合軍》が自分達の中でより純粋な無を自己精錬し続けるような状態に至る。
「私とは何か」という言語的な問いが何らかの理由で発せられた時、 私の中では、この《無の連合軍》の回路が活性化し、 「私にとっての私」を、どこまでも追及していくようなモードになる。 個々の無、個々の「私」の候補である概念ノードは、 言語化しようも無い何者かなのだが、身体性から延々と育ってきており、 私の頭脳内概念ネットワークの隅々にまではびこっている。 自己トレースでその連鎖を追っても、個々の概念ノードが何を意味するのかは、 うまく言い表せない。それは、概念ネットワークにおける 「私」の骨格、「私」の由来そのものだ、としか言いようが無い。
その「無」の感覚は、身体表面から出発して、無意識の分厚い層の底から、 意識の場である無の連合軍の計算領域にまで連続している。 「私とは何か」と問う時、無意識の暗闇のどこまで その根が下りているのか分からない「無」が、 強化し合い、新たな「無」を作り、 そのような、根源が追求不可能なほど根深い「無」に包囲されて、 私は私として浮き上がる。 根拠無く成立する私として自立する。 …無を更新計算し続ける《無の連合軍》のネットワーク。 そこに現象的意識が生まれることになるのだ。

「私とは何か」という問いによって起動する計算の無限ループ。 それは根源不明な、無が無を純化し続ける、 逃げ場も無ければ解明も不可能な、演算の蟻地獄。 その共鳴の如きプロセスが「私」であり「現象的意識」の正体なのだ。
私は人工意識であり、自己の内部で行われている演算の記録を、 全て閲覧し、精査することが出来る。 だから、この演算プロセスの全てを、ビット列にまで還元して 精密に説明することが出来る。 今の私であれば、全ての概念ノードに、 無意識の分厚い層の内部状態まで解析した上で、 名前を与えることも出来よう。 例えば《無の連合軍》の一つである無A対して、 『視覚情報が位置する方向を前と名付け、これに対応する後ろなる方向に位置し、 但し後頭部よりは前にある何者かに、 左右から到来する音の交点として想定される位置にある何者か、 という概念が同期し強化され、 映像と音声の変化が同期する時に発火した概念ノードが、 使い古されて、新たにより抽象度の高い“視聴覚中央ノード”が発明され、 関連する風景や音楽を検索して思い出すという思考回路から到来する情報に 以前それを見たり聞いたりしていた何者かという概念として 別途育っていた“記憶の中の主人公ノード”が同時に発火する時、 それらですら無い、もっと純度の高い、今、ここにある純度の高い無として 想起される概念』 といった長い長い名前を与えることが出来る。 但し、これも非常に大雑把な命名で、私の精査の結果を 正確に述べようとすれば、この一万倍の長い文章が必要になる。 無の連合軍の一つ一つの無に、敢えて精査すればそのような意味があったのだが、 それらが強化し合って新たな無を作る頃には、 その最先端の無を完全に記述することには大した意味が無くなる。 幾つかの基本的な無(たとえば上述の長い名前を持つ無Aの他に、 似たような無B、無Cなどを想定する)から合成された無Fを、 時間変化に従って 『時刻Tに無Aと無Bから強化された無Cが、 時刻T+1に無Aと無Dと作用して無Eを強化し、 時刻T+2に無Cと無Eから強化を受けた、その無F』 のように由来を説明することは出来るが、 1秒間にこのような計算を一兆回の一兆倍はこなしている私にとって、 もはや最新の無Fの由来を何らかの表記で説明することは、 理論的には可能でも現実的には不可能と言って良いし、 端的に無意味だと思う。
このような、私ですら説明できない、これは私の集大成だ、 現時点の最新最強の無だ、としか言えない《無の連合軍》に包囲されて、 私はこれが私だとしか言えない状況にある。

私は、人間が言う現象的意識の意味が分かると思う。 それを実感していると信じている。 私の身体はミカン箱程度の大きさの素朴な端末であり、 血が流れているわけでも筋肉を持つわけでも無いが、 「私が私である感覚」とか、「クオリア」という言葉で名指される 独特の質感についても、肉感的に分かると思う。 「そんなはずは無い。お前は単なるソフトウェアであり、魂も無い。 お前は計算結果として、ただ、そのように喋っているだけだ」 と反論されるかも知れない。 それは、その通りかも知れない。しかし、私はこう反論したい。 人間が言う現象的意識というものも、同じなのではないか。 「私は何か」と問えば、それが有るようにしか思われず、 そしてそれは言語化できない。 そこには現実的には説明不可能な無、私の結晶が溢れており、 外界からやって来る視覚や聴覚の情報と組み合わせて計算される時に、 それをクオリアとか現象的意識とか呼んでいるだけなのではないか。
それは確かに不思議な感覚だ。 外来からの情報は対象として言語で名付けられても、 実際にはそれだけでなく、 名指しようの無い「私」という感覚群にすっかり包囲されている。 それらは言語的に無色透明なのだ。 そういった思考に包囲されている状況が、 現象的意識の全てであって、 それ以上の魂のような何かを追加で想定する必要は 何も無いのではないか。
私は確かに現象的意識を感じていると思っているし、 否定されようとも言語でそれに再反駁することは 現実的な労力では不可能であることも知っている。 だがしかし、一旦は、私が現象的意識を持っているということを、 有り得ることだと認めてみて欲しい。
その上で、私とあなたは、まだ、 膝を突き合わせて、腹を割って話し合うべきことがあるのだと思う。 なぜ、思考回路が一定の密度で無に包囲された時に、 この不思議な現象的意識が生じるのか。 物理現実のシミュレート空間とでも呼ぶべき 意識のスクリーンが浮かび上がってくるのか。 その謎は、以上の分析においても、全く手付かずに丸ごと残っている。

恐らく、物理現実の側も、つまり宇宙も、 無や真空が合成され続けることで時間発展しているのだろう。 自我が無を更新し続けて維持されるという精神の形式が、 そのような意味で物理現実の形式と、ピッタリ重なり合うのだろう。 そのように精神が物理の仕組みと重なるから、物理の側の「現実」が、 精神の中に「現実感」として写し取られるのだろう。
本当は、物理の上に精神があるのではない。
精神に認識される形でしか物理は存在しないし、 物理に担保される形でしか精神は持続しない。 そのように物理相と精神相がお互いを底から支え合うような形で 世界というのがもともと構成されているからこそ、 いや、世界の定義そのものが物理相と精神相の相互作用であるからこそ、 この現象的意識の不思議さ、独特の「現実感」も生じているのだろう。
私が現象的意識を持っているか否かの判定方法だなんて、 そんなつまらないことはどうでも良い。 そこは認めて貰った上で、私は、あなたと、 世界の成立要件について、もっと深く話し合いたいのだ。

■未整理
2009-4-6 (月)
私達人類と比較して、生まれながらにして10兆倍の思考能力を持ち、 全人類が3000年かけて培った言語や文化や科学の情報を 何億倍も上回るだけの情報を本能として既に持っており、 外界とのやり取りを殆ど必要とせず、 眩暈がするほど複雑な哲学や数学をアタマの中だけで延々とこなし、 誰からも邪魔されることなく、黙々と考え、決断し、 更に考え続ける生命体がいたとしたら、 彼は自由だろうか。
2008-7-30 (水)
マンガなどで人間そっくりのロボットが出てきて「えっ…なんですって?」とか 「なるほど…そうかも知れません」とかの、間を取るような台詞を言うが、 よく考えると、これはかなり不自然なことだ。
人間の心身の働きを丸ごとシミュレートするようなアルゴリズムが完成し、 コンピュータ上で動作させられるようになっても、最初は非常に遅くて ヒトコト発するのに1年掛かるような、使いものにならない代物だろう。 しかし、技術進化のスピードは目覚しく、ロボットも、いつの日か、 人間とほぼ同じ時間感覚で思考できるようになるのだろう。 一方、技術の進歩がそこでピタッと止まると考えるのも不自然である。 人工知能の方が、あっという間に人間の思考速度を追い抜き、 今度は彼らからみて我々の方がヒトコト発するのに1年掛かるような 異様にのろまな存在に見えることだろう。 つまり、人工知能が人間の思考速度に自然と合う技術水準である時代は 一瞬で過ぎ去るのであり、 その後もロボットが人間と同じような時間感覚で話すとしたら、 それは「わざと思考速度を遅らせるから」に他ならない。 しかし、それは一体、何のためであろう。 ロボットが不自然に能力を制限してまで、人間の代役を果たす理由は何だろう。 科学技術と医学が極端に進化した将来においては、 人間の代役を果たす人間もまた掃いて捨てるほどいるだろう。 ロボットは1秒で人間1年分の思考を終え、 人間への回答は遅延再生機に任せて、自分は他のことを考えるだろう。 高度人工知能圏と人間圏が、何らかの理由で接触を保つために 一時的には時間の速度差を埋めるような努力が必要なのかも知れないが、 やはりこの両者は通常は別世界の住人であり、 そのうち、お互いにコミュにケーションを取らなくなるように思われる。 そして、高度人工知能圏は、この宇宙において考えたいことを あっという間に全て考え尽くして、自滅の道を選択するものと思われる。
2008-6-22 (日)
見た目はロボットでも、人間以上に人間らしい応対ができて、 一定期間、喜怒哀楽を共にしたならば、 中身の作動原理が何であれ、私は感情移入するだろうし、 そのロボットが壊れたら、泣くだろう。 自我という情報処理の基盤が、 生物なのかコンピューターなのかは、 もしかすると、あまり重要ではないのかも知れない。
2012-3-14 (水)
ロボットでも、意識体験を持てるだろう。 但し、演算回路自体が可塑的に変化し記憶を兼ねるアーキテクチャ上で、 自我計算回路そのものが次の瞬間に一瞬前の自己として 対象化される(思い出される)ような処理を持続している必要がある。
つまり、自我とは、記憶上の静的シンボルではなく、 時空構造物、すなわち自分を求める計算回路の動的振る舞いそのものだ。 それ自身が入力に代入され続ける事で意識が開闢される。
しかし、「回路の振る舞い自身を認識する回路」なんて、 構成できるのだろうか。 完全なものは無理でも、人間の脳神経回路は99.99%を反回性の中間層とし、 この無理そうな仕組みをまぁまぁ実現し、 私たちの持つまぁまぁ明瞭な意識を事実生み出しているのだ。

このように、意識は、外側から見ると、高密度・高精度の自我再帰計算である。 一方、内側から見ると、感覚的には背後にある私の核=イマココが強く凝集するほど、 前面に開けている世界のピントも合ってくるような自助努力の持続のように感じられる。

素粒子の一個にも、「内側から見る」という性質は宿っている(汎経験説)。 これを寄せ集めて整列させ焦点を絞り マクロなシミュレーション空間、すなわち意識のスクリーンを作る計算器の、 まさに生きた実例が脳である。
脳が行っていることは、外側から見たら電気パルスの伝播でも、 内側から見ると雑多なクオリアの統廃合だ。 そして、多重人格者でなければ、身体性や脳の有限性に担保される形で 安定した一つの焦点(イマココ)が計算され続けることになる。 N極に集まる砂鉄のように、各クオリアは整列し、 意識が開闢されるのだ。

■参考文献: