新書『自循論』

Last updated 2011.12.10 (旧版)

この意味世界において最も根源的なものは“自”という 唯一無二で普遍的な抽象概念である。
無限に存在する自己完結的な宇宙の中で、 “自”という抽象概念を意識できる存在を内包した宇宙だけが 有意味である。

【目次】

序.自循論の始動
この「自分」という感覚の格別さと神秘性を紐解き、 森羅万象の本質を見通す知的思考のフレームワークを確立する。
「自分とは何か」 「自分を自分だと感じるこの意識とは何か」 これは、今後の世紀に於いて、科学・哲学・宗教を統合する上での 唯一最大の難問である。 私達は、この難問に対して、神経生理学、量子力学、実存哲学などの 人類の叡智を総動員して臨まねばならない。 誠実で善良な人々が思考の限りを尽くしてきた成果に最大限の敬意を払い、 次の段階に進まなければならない。
「自分という感覚」「意識」は、どの知的活動領域の専門家であれ、 最後に必ず辿り着く疑問であるが、 誰もこの問題をどう扱って良いのか明確には分からない、 解答不能のパズルのようだ。 無視しようにも片時も消えることの無いこの「自分という感覚」に、 超一流の科学者や宗教家が様々な説明をしているが、 「本当にそれで説明し尽くせているのか?」という疑問をどうしても払拭できない。 言語で説明されてしまった瞬間、それ以上のなにものかであるように感じられる。 それくらい「自分にとっての自分」という感覚は特別なものだ。
「自循論」では、この「自分にとっての自分」を突き詰めて考えることにより、 一回限りの人生を有意味に生き抜くための、 森羅万象を貫く知的思考のフレームワークを提供する。
動機
なぜ自循論が必要なのか
  1. 私は、「この私」という不可思議な体験が成立する理由を明晰に知りたい。
  2. 私は、望まずして生まれ、恐れながら死ぬ、この不気味なまでに無目的で不条理な 一回限りの人生に、どんな意味があるのかを知りたい。
半生
振り返ってみると、私にとっての哲学とは、 一貫して「死の恐怖」への対抗手段だった。 25歳の頃は、どうしても死が不可避ならば、 死を恐れる、この「生命」とか「自己意識」といったものは何であるのか、 ということが興味の対象になっていた。 30歳頃には、この世界のありようを説明する単一の原理は、 「自」という抽象構造しか有り得ない、と直観した。 同時に、もし「自」が究極の原理であるなばら、 「自」を壊した後に残るのは完全な無、もしくは完全な無意味でなければならなず、 そして、無や無意味は、実は、全ての可能性を含む“最大の実在”と等価だろう という着想を得て、これを「無限乱雑場」と名付けることにした。
無限乱雑場において、ひとたび「自」と言い放たれてしまったからには、 見る方の自分(自a)と 見られる方の自分(自b)が別のものとして要請され、 この分離が時間の原型を為すだろう。 また、見られる側の世界には、自があるならば、比較対象として 自分以外としての他(他b)がなければならない。 この分離が空間の原型を為すだろう。 このように、「自」と時空は、一挙に成立するものである。
ここで、自a=「イマココ」であり、 これは常に「推定されつつあるもの」であり、 極限としてしか定義できない特異点であり、 従って、いかなる意味でも実在ではない。 そして「イマ」かつ「ココでない」ものとしての他aは、 自aからは見ることも触れることも出来ない永遠の謎である。

原空間
他b他a
自b自a
←原時間→
既にこの構図の中に、時空の量子化や、情報伝達速度上限の原理の 必然性が隠れており、 他我問題の本質も含まれている。 自己意識は、自a自bの間に生まれる 情報処理の共鳴現象として捉え直される。 なぜ時間や意識が実在しないのか、どうして“過去”から“現在”が、 そして勢い余って“未来”が捏造されてくるのか、といった問題を捉える フレームワークも含まれている。 …ここまでが「論理的な自」の世界だ。
この「論理的な自」が安定して持続するためには、 無限乱雑場上に相応の規模で存在として“実装”される必要がある。 「論理的な自」は、物理相および精神相が相互依存される形で実装され、 物質的な豊穣性や定常性は、認識者の高級度と数量とで、相互に規定される。 (相互に丁度釣り合う、ということ。 複雑安定な物理法則は、複雑安定な知性によって見出されるし、 複雑安定な知性は、複雑安定な物理法則からしか生み出されない。) こうして、「論理的な自」は“実装”され、宇宙が開設される。 …これが「具体的な自」の世界だ。 ここで、世界自体も大きな「自」であるし、世界内要素も個々にミクロな「自」である。 (ところで、間主観とか<私>の問題が遭難するのは、 この世界が多数の自己意識で維持される共同幻想だという前提を 受け入れないストイックさのせいでは無いか。 統計的安定性を欠いて成立した自己意識は、 深くも長くも存在できないことを認めてはどうだろう。)
自aを脳内に維持することが、この不思議な自己意識の核であり、 一方でこれが個々人にとって特別になるのは、時空という形式を共有しつつも、 他aがお互いに永遠の謎となるからだ。 また、宇宙の全体(大きな「自」)は、その外側は無限乱雑場に包まれており、 だから全体は常に無意味である。 そして、私の人生についても、全体の輪郭だけを考える時(社会や歴史の中に位置づけて 考えるのでは無い場合)、それは明らかに無意味であり、 その輪郭の中に位置づけられた一瞬一瞬の方だけが有意味なのだ、 ということも、納得できるようになった。
40歳になってやっと、自循論によって、死の問題と、自己意識の問題は、 私の中では一応の解決を見た。 …だからといって、日々の生き方が変わるわけでも無い。 そして、哲学的な側面では、この自循論を武器にして、 数学や生命や物理の深淵にある「なぜ」を、 一つに繋いでいく思索が、まだ残されている。
素朴な疑問
出発点は、「この、頭蓋骨の内側から、世界を眺めている主体。 自分が自分であるという、不思議な感覚。これは一体、何なのだ。」 「この私というナマ体験感の正体は何だ。」 …という、素朴な疑問だった。

このような感覚を生み出す情報処理の形式については、およそアタリがついた。 可塑性と、フィードバック回路をたっぷり持つ神経網が、 結果として抽象化の機能を持ち、生命体の中に維持される時、 (1)外界より内側の「この身体」という抽象概念、 (2)各種概念より内側の「この私」という抽象概念、 (3)「この私」より内側の「私」という抽象概念、 …これらが積み上がって順に構成されるよう高度化され、 上記(3)が延々と構成され続けるハメに陥った時、 意識というものが開闢されるのだ。 (このような自我核からの情報(内側からの情報)と、 外界からの知覚情報(外側からの情報)が、 結びつくことによって、「クオリア」が生じるのである。)

だがしかし、物理過程・情報処理過程として 意識現象が分析的に説明できても、それで「この私というナマ体験感」が スッキリ説明され尽くしたかというと、そうはならない。 脳内で電気信号が走ったりぶつかったりしただけで、どうして 「この私というナマ体験感」が生まれるはずがあろうか? …分析の途中で、どこかで実感から乖離してしまったのだ。

結局のところ、物理や情報、その底辺にある時空や存在といったものは、 それ独自に確立されているわけではなく、もともと 「この私というナマ体験感」の延長や集積によって基礎付けられている、 という結論に逢着せざるを得ない。 精神は物理に依存して発生するが、物理も精神に依存して存在する。 このような相互依存(大きな説明の輪)によって、 世界は自己完結的に(つまり神を必要とせず)、 自己無矛盾に説明される。

だが、これでは、出発点であった「この私というナマ体験感」は、 本質的には全く解かれていない。 全宇宙の存在を道連れに、物理相と精神相の相互依存という大仕掛けも持ち出し、 その時空と存在という枠組みの中で、 神経細胞網が自我核が生じさせる情報処理過程まで精緻に明かしたとしても、 「では、なぜそのような世界が生じたのか」は相変わらずの謎で、 「この私というナマ体験感」が含まれる世界が偶然生じた、 と言えるだけだ。

結局のところ、ここまでやっても、「この私というナマ体験感」の本質「自」は、 何かから説明されるものではなく、 第一原理として認めざるを得ないわけだ。 この「自」を崩したら、後に残るのは 無限に乱雑な何者か、一切の秩序も構造も持たない何者かに過ぎない ということになる。

これが本当なら、森羅万象は「自」から説明されねばならない。 もし仮に、完璧に無秩序な無限乱雑場の中で、 「自」と言い放つことが可能な領域があったとしたら、 そこには時空という構造があり、情報伝達速度には上限があり、 スケールの下限(不確定性原理)があり、 これが安定して持続するためには、 入れ物としての一つの世界(物理相)と 観測者としての多数の認識者(精神相)が 相互依存した状態でなければならない。 そして物理と精神の妥協の連続が 宇宙の歴史すなわち森羅万象を構成し続ける。 (これを内部観測することが「この私というナマ体験感」である。) そして、このような精神が存在するためには、 適切な次元の空間が必要で、精神を格納する身体が必要で、 いわば物理と精神の妥協の産物として生命現象が見受けられるはずである…。

本当にそうだろうか。 「自」というたった一つの原理だけから、 「世界」=「物理相」+「生命相」+「精神相」という 壮大な妥協の産物を説明できるのだろうか。

だが、「自」とはそもそも「同じ、かつ、違う」という 最小の矛盾を内包する概念である。 (だってそうだろう。「私」と言った瞬間に、 指し示された私と、指し示している私が分裂し、 それは“異なる”ものなのに、“同じ”私なのである。) 矛盾を出発点とすれば、どのような定理も正しいということになってしまう。 「自」から壮大な妥協の産物が組み上がっても不思議はない。 むしろ、壮大な妥協の産物(=世界)が組み上がるための第一原理には、 矛盾が内包されていなければならない。

後はたかだか統計的安定性の話である。 高度な精神を多数内包するような世界は、 それに相応しく高度な物理を持ち、 複雑な事柄を現象させつつ持続するだろう。 単純な精神を少数しか含まない世界は、 それに見合った単純な物理のみが存在し、 単純なことしか起こらず、単純なことで簡単に破綻するだろう。

どのような世界も「自」が第一原理である。 もしくは世界とは「自」の表現形である。 無数の世界が考えられるが、 私たちの住む宇宙を含む世界は、 6種類のクオークと4種類の力を内包する、 プランク長と光速のスケールに挟まれた、 60兆の体細胞・一千億の脳細胞を持つ人間という知的存在が、 少なくとも数千年程度は安定持続する、 たまたまそういう統計的安定性を持った世界だと言える。

こうして、意味論的な最小構成要素である「自」には矛盾を孕みつつ、 世界とは、自己完結的に、自己無矛盾に、 妥協しながら暴走発展し、いずれ表現できることを表現しきって、 伸び切った状態で停止するものなのだ、という世界観が完成する。
方針
自循論が守るべき思考のあり方
  1. 「要するに、何がしたいのか」という質問に、常に立ち戻る。
  2. 抽象的な議論に絡め取られることなく、このリアルな実体験に根を張る。
  3. 一回限りの人生を、より良くするために哲学する。
意味重心
時間フリーな『意味重心』という概念を導入しよう。
科学の発達した時代に生きる私達は、過去の全ての状態が決まっていれば、 物理法則に支配されて時間発展する、その後の全ての歴史も決まる、と考える。 この決定論という考え方は、重要なのは初期状態であり、その後の発展は、それに付随するものに過ぎない、 という感覚に基づいていると言えるだろう。 この観点では、「意味重心が過去の初期状態にある」と言えるだろう。
一方、ラプラスの悪魔でも持ち出さない限り、複雑系の考察から、 実践的には決定論は破綻するし、 量子力学における不確定性原理は、更に予測不可能性を助長するだろう。 そうなると、私達にとって重要なのは、過去でも未来でもなく現在なのであり、 「今ここ」が最も確実かつ本質的なのだと感じられるだろう。 現在に接続する過去の系列が何であったかも正確には確定できないし、 現在から発展する未来もどのように複雑な様相を呈するか予測できない。 この観点では、「意味重心は現在の状態にある」と言えるだろう。
しかし、量子力学が確率の時間発展を完全に記述できることや、 各種の保存則、エントロピー増大の法則が確かめられていることから、 個別の具体事象の予言は無理でも、 現状から物理法則によって大局的な方向性を指し示すことは 依然として出来るように思われる。 私達がどういう人生を生きようとも、私達が死ぬであろうことは変えられないだろうし、 いつか地球は太陽に飲み込まれ、その太陽も爆発して消失し、 ブラックホールはいつか蒸発し、宇宙はいずれ熱的な死を迎える。 そう考えると、私達が今現在こうして社会的・道徳的に生きようとしたり、 子孫になるべく良い地球環境を手渡したいという価値観は、無意味なものに見えてくる。 この観点では、「意味重心は未来の行く末にある」と言えるだろう。
宿命論者は、もし明日死ぬと決まっているなら、努力しようが、奔放に生きようが、 結果は決まっているのだから、我々の意志的選択や苦労には何の意味も無い、 と考える。 この観点では、「意味重心は未来の宿命にある」と言えるだろう。
さて、この宇宙は、ビックバンから始まり、宇宙が冷えるに従って、 素粒子(フェルミオンとボソン)の体系が固まり、 そのプランに沿って原子や分子や星や生命や意識が生まれてきた。 こういう歴史観が一般的である。 この観点では、「意味重心は物理的宇宙誕生の瞬間にある」と言えるだろう。
一方、その物理法則が見出した素粒子の標準模型の構成や世代数、 光速度(情報伝達速度上限)不変原理やプランク定数や重量定数などが、 なぜそのような姿でそのような値になっているのか、 そもそもなぜそれが定数になっているのか、と言えば、 水の惑星と生命が安定して存在し、私達のような意識体験を持つ知的存在が進化するために 十分な時間を確保するためだ、という人間原理宇宙論も可能である。 この観点では、「意味重心は人間の精神的現在にある」と言えるだろう。
一つの現実に対し、どこに意味重心を置くかによって、理論の様相は ガラリと変わってくる。 それらは、時に、相反する論理であるとか、どちらかが間違っている、という形で 取り沙汰されることがあるが、 実はこれは、一つの現実に対して意味重心をどこに置くかの違いだけなのではないか。 そもそも論争が可能であるということは、何らかの接点もしくは共通基盤があるわけで、 そこを覆い隠したまま、視点の違いだけを主張しても、不毛であろう。 円錐を、上から眺めて円だと言う人、横から眺めて二等辺三角形だと言う人、 内部を上昇して「だんだん小さくなる円」だと主張する人、 それらが相矛盾する主張であるからと言って、どれかが間違っているとは限らない。 円錐は、ただ黙ってそんな論争を静かに見守りながら、ただ円錐であり続ける。
一つの素粒子は、その存在範囲の確率という情報的な側面で捉える限り、 決定論的に方程式に従う。 この観点では、「意味重心が波動性にある」と言えるだろう。 一方、コヒーレントな素粒子が、崩壊して古典状態になるプロセスは、 時間的・空間的に確率的・統計的であり、 私達に分かりやすい「物質的存在」(粒子)として、いつどこに現れるかは予言できない。 この観点では、「意味重心が粒子性にある」と言えるだろう。 勿論、両者は、ともに真理であり、相矛盾するものではない。
人間が存在するからこそ、この宇宙はこのような姿をしているのだ、 という考え方は、意味重心が人間の存在にある。 しかし、時間順序や因果律を第一原理とし、過去に意味重心を置く人は、 人間や地球が存在する前から宇宙は存在していたのだから、 人間や人間の精神が宇宙を規定することは有り得ないと主張する。 先ず、これらは、相矛盾する主張なのではなく、同じ一つの意味世界の、 異なる視点から見た世界観(世界の切り口)の違いなのだ、 と感じるべきだろう。 視点は、幾らあっても構わない。全ての視点は、ノーコストで存在して良いのだ。 (これを自循論では「視点の無償性」と呼んでいる。 もしかすると、ファイヤアーベントが標榜する知のアナーキズム、 「なんでもあり(anything goes)!」に通低しているかも知れない。)
意味重心』という概念装置は、 時間すら越えて、どこに思想の重点を置くかは自由であるということと、 それらは相矛盾する主義なのではなく、単に視点の違いでしかないかもしれない、 ということを、思い起こさせてくれるツールである。 また、自循論を理解するためには、意味重心を融通無碍に移動させるような 思考の柔軟さを求められる。だから、意味重心は、 自循論を理解するのに役立つツールだとも言える。
構成
自から出発して意味世界に至る自循論の構成を概観する
自循方程式
世界(自己完結)= 物理相(自己保存) + 生命相(自己生成) + 精神相(自己認識)
  1. 先ず、根本原理としての「自」を定義する。
  2. 「自」を実装した要素を持つ相として、精神相、生命相、物理相を分析する。
  3. 精神相、生命相、物理相を一体のものとして取り纏める世界を構成する。
  4. 有意味な世界の要件と、そこにおける「自」の役割を再確認する。
  5. 「自」の実装たる、この私の一回限りの人生のあるべき姿を導出する。
相の相互依存
世界を論じる哲学には、唯物論的、決定論的な 「物理相から精神相へ」という論理展開と、 唯識論的、人間原理宇宙論的な、 「精神相から物理相へ」という論理展開がある。
どちらも初手から間違っている詰め将棋のようなもので、 永遠に捕まえられない王将を循環しながら追う運命にある。
物理科学や観念哲学の成果を少しも傷付けることなく丸ごと生かし、 『世界とは、無限乱雑場から切り出された、 物理相と精神相が無矛盾に相互依存している状態である。』 という基礎論理を持つ自循論こそが、 科学・哲学・宗教などの全てを無理なく統合する基盤と成り得る。 この詰め将棋は、自循論の一手詰めなのだ。
自循論は「自」から出発する思想体系である。
第0章で、抽象的な「自」の定義を行う。 「自」それ自体は内容空疎であるが、ひとたび「自」と言い放たれたならば、 原時間・原空間・原論理が前提されるのでなければならない。 言い換えるならば、内部で何者かが「自」と言い放つことができる世界には、 ある最低限のルールの組みが整っている必要がある、ということである。 これを必要に応じて<最小の自>と呼ぼう。 この<最小の自>を実装し、開設された世界を、 第1章の「精神相」、 第2章の「生命相」、 第3章の「物理相」として、 順次見ていく。
各々の世界は、各々の方法で「自」を実装している。 各世界は相互に依存していながら、実時間では互いに還元不可能な独自の相を為し、 また、「自」を実装しているが故に、お互いに重ね描くこともできる。 この、各世界で<実装された自>も、その実装方法によって、 その世界の最低限のルールのセットを形成する。 特に、第1章の情報世界では、 意識体験(クオリア)を発生させる情報処理のアルゴリズムを詳細に検討する。
第4章では、精神相・生命相・物理相の 相互依存と重ね描きを一挙に俯瞰し、 その姿を世界として規定する。 世界観の相互依存も、その環を引き絞れば、 世界における「自」を構成することになる。 ここに現れるような関係を<最大の自>と呼ぼう。 こうして、自循論全体では、<最小の自>から外向きに世界を構成し、 <最大の自>が表裏逆に内向きに世界を規定して、 神無き自己完結的な自律運動を指し示すことになる。 全ては「自」だけから出発し、「自」だけで閉じているのだ。
世界 構成要素 開始 自己参照の連鎖 終了
0. 開始点 自己参照 終了点
1. 精神相 概念(身体性、無意識、意識、悟性、自核) 概念の発生、自我の発生 概念ネットワークの変容 概念の消失、自我の消失
2. 生命相 生命(細胞、群体、植物、動物、共同体) 誕生 生命活動、進化 死、絶滅
3. 物理相 素粒子、原子、分子、星、銀河 ビッグバン、対生成、構成 時間発展 ビッグリップ、対消滅、分解
4. 世界 意味(差異、価値、価値体系、道徳、倫理) 意味の発生 意味の進化 意味の消失(支持基盤の消滅、イデオロギーの差異消失)

0.自
あらゆる世界の根本原理となる「自」なるものの探求と精査
自の定義
森羅万象を貫く根本原理としての「自」の定義
  1. 「自」とは、自己参照の有限な連鎖である。
    • 自には、唐突に始まる開始点S0がある。
    • iが変化して、Si+1が得られる。この際、 Si+1は、Siを参照しつつ作成される。
    • i+1は、変化において、外部Eと相互作用する。
    • 自には、終了点SNがある。Nは、高々可算有限である。
    • 終了点SNでは、自己参照および外部との相互作用を行い、 SN+1を作成しても、それがSNと等しくなる。 すなわち、それ以上の変化は起きない。
  2. iと、Si+1は、「同じ、かつ、違う」という、 世界最小の矛盾である。
原時空
「自」から派生する原時間と原空間
  1. iが変化して、Si+1を作成する際に、 Si+1がSiを参照することを、原時間と呼ぶ。
  2. i+1がSiを参照する際に、 外部Eを参照することを、原空間と呼ぶ。
原時間
主観時間と客観時間を対比して考察した時間論はたくさんあるが、 ほとんど全ての場合、主観時間に「過去-現在-未来」という構造がある、としている。 しかし、自循論における主観時間には、「[現在]と[過去]の離散二時刻」しか無い。 しかも、[現在]は絶えず再構成される仮想概念であり、直接の内観は不可能な特異点であり、 私達が現在と呼んで認識できるのは、[過去]に滑り落ちた[現在]の痕跡だけだ、としている。 未来に至っては、「[過去]の概念」と「[現在]の痕跡」を結んで延長し、意図的に捏造した概念であり、 それは計算の結果であって、もともとの時間感覚には含まれていない、と主張している。 つまり、自循論においては、通常の哲学が言う「過去-現在-未来」という主観時間は、 全て[過去]に属するものなのだ。 これこそが私達が実感として理解している純粋な時間だと思うのだが、 主観時間という言葉は既に一般に使われてしまっているので、 [現在]と[過去]の離散二時刻からなる時間感覚のことは原時間と呼ぶことにする。
このように、自循論においては、[過去]に含まれる諸概念同士や知覚入力情報が計算されて、 新たな[過去]が作られる思考運動において、 「[現在]の痕跡」との対比で過去性や現在性や未来性が構成されると考える。 特に、これらの思考運動の結果として、絶えず新たな[現在]が再構成され続けるのだが、 この、[過去]の平面から浮き上がって超然と維持される[現在]こそが、 自己なるものの核なのである。 それを自循論では「自a」と呼び、 自aが[過去]の平面に滑り落ちて記憶の中に組み込まれた像を 「自b」と呼ぶ。 自分が自分であるという、この不思議な感じ、すなわち「自のクオリア」とは、 [過去]の平面内で行われる、いかなる思考や演算とも異なり、 いわばそれに直交する垂直な思考運動として、 自aを必死に再構成しつつ、その結果を自bとして再認識する、 この持続によって発生しているのである。
原論理
「自」から派生する原論理
  1. 自己参照の連鎖S1→S2→S3において、S1→S2、S2→S3を同一視する時、 S1→S3も同一視される。(S1=S2=S3)
  2. 自己参照の連鎖S1→S2において、S2がS1と外部Eを参照する時、 EはS1ではない。(E=¬S1)
  3. S1→S2→S3において、S3がS1→S2の差異を参照する時、 無くなった部分:L、増えた部分:Gを識別し、 残りを変化が無かった部分:Cと推定する。 この時、S1とS2の全てを包摂する全体がL∪C∪G=S1∪S2(和集合)と定義され、 Cは内容不分明のままC=S1∩S2(積集合)と定義される。
  4. S1→S2→S3において、S3がS1とEの結果としてのS2を参照した時、 (S1∪E)→S2は因果関係とみなされる。((S1∪E)⇒S2)
  5. (S1∪E)⇒S2という関係Rは、S1+E、S2が真であると想起された時、真である。 (S1∪E)が真なのに、S2が真でなければ、Rは偽である。 (S1∪E)が偽である場合、関係Rの真であるという性質には何の影響も与えないため、 関係Rは真として保存される。( ((S1∪E)⇒S2)⇔(¬(S1∪E)∨S2) ) (注:S1∪Eは、S2から直接参照できる全てである。¬(S1∪E)は、 「“S2にとっての全て”では無いもの」であり、 そのケースは関係Rの真性に関わることができない。)
「無い」という概念
「無い」という概念は、とても高級だ。 また、「無い」という概念は、「自」の成立に必要不可欠なばかりか、 「無い」と「自」は同じことの両面と言っても過言ではないほど 密接な繋がりを持っている。 何故なら、「あらゆる認識されているもので“無い”もの」が、 「認識しているもの」、すなわち主体的な「自」なのだから。 いわば、「私が私であるという、この感覚(自のクオリア)」は、 「無い」という概念の全面適用による純粋な成果物であるとも言える。 そして、そのような「自」という核を持つことによって、 「自では無いもの」としての対象が逆算的に客観的実在性を帯び、 「無い」という概念は更に強化される。 こうして、「自」と「無い」はお互いに純度を増し、強化される。
「文化とは言語である」とか「人間知性とは即ち言語である」などと、 「言語」を極めて特殊なもののように扱う表現を時々見掛けるが、 ここで言う言語とは、音声言語のことであり、 抽象概念のことであり、要するに記号のことである。 人間は音声言語を獲得することにより、 身振り言語では表現不可能であった抽象的な概念の伝達を可能とした。 その最も典型的な概念が「無い」である。 身振り言語では「無い」という概念を表現することができない。 (「無い」ものを直接指差すこともできないし、 「無い」ことの物まねをすることもできない。 顔の前で横に向けた手の平を振るとか、手話のような身振りは、 音声言語の翻訳であって、元来の身振り言語ではない。) 「認識しているもの、そのもの」では「無い」ものを、 脳の中で情報として扱うことが、思考空間すなわち情報世界の 重要な前提条件である。 脳神経回路が、「無い」とか「ゼロ」といったものを扱えるほどに、 高級な抽象化力を持つには、少なくとも人間の脳程度の 容量が必要なのだろう。
ところで、現実の世界(物理宇宙)には、「無限」も「連続」もない。 どこまで行っても果てが無い、なんてものは無いし (実際、宇宙の大きさは限られている)、 どこまでも滑らかで繋がっている、なんてものも無い (実際、量子数は整数か有理数だ)。 無限も連続も、計算や測定の便宜のために、 私たちの思考の内に捏造された概念に過ぎない。 それなのに、無限や連続が物理宇宙でも成立するはずだと、 とてつもない大逆転の勘違いを信じ込むと、 アキレスは亀に追い付けない、等と大騒ぎしなければならなくなる。 精神相の中で扱い易く便利な概念を駆使するのは知性の本質であり、 結構なことであるが、だからといって、 物理宇宙まで扱い易く便利だと思い込んではならない。
この、「無限」とか「連続」という幻想を支えているのも、 「無い」という否定概念だ。 「無限」は、もちろん、「限りが無い」という否定概念に支えられている。 無限そのものを持ってくることは出来ないので、 終わりとか果てが「無い」という否定概念で表現するしかない。 一方、「連続」の方は、「隙間が無い」という否定概念に支えられている。 あるモノをポッキリと折って、何も失われないのだとしたら、 そもそも一体だったモノには、隙間があったことになる。 もし「隙間が無い」のだとしたら、ポッキリと折った二つのうち、 一つの断面には境界が含まれ、もう一つの断面には境界が「無い」 ということでなければならない。 これが、連続や実数の定義として有名なデデキント切断の要点である。 しかし、何かそこにモノがあるのに、「境界が無い」とは、 一体どういう意味なのだろうか。 端的に「3未満」と言った時、2.9も、2.99も、 それこそ9を1億個書こうとも、 それは「3未満」であって、3ではない。 このように、境界に限りなく近づけても、境界そのものに辿り着けない、 という事態が、「境界が無い」ということに相当する。 ポッキリ折った時、その境界は、2つに別れたどちらかだけのものなのであり、 どちらか一方には境界が無い。 境界には限り“なく”近づけるけれど、そのものには辿り着け“ない”。 このような否定概念が、「連続」を支えている。 アキレスが亀を永遠に追い越せないのも、「無い」という概念に裏打ちされた 「連続」を、情報世界内で使用するからである。 勿論、現実の物理世界には「無い」などという事態は無いので、 アキレスは亀を悠々と追い抜いていく。
このように「無い」という概念を自家薬籠中のものとすることによって、 人間の認識は「あらゆる見えているもので“ない”位置」=「ここ」とか 「あらゆる覚えている体験で“ない”時刻」=「いま」を 確固として扱える概念にまで純化し、 常に脳内を満たす「いま・ここ性」すなわち「自のクオリア」の 安定化に成功する。これが「自意識」の基盤を為し、 「感じる」とか「決める」といった主体感を生み出すモトとなる。 このような情報処理過程は、脳の全域的な活動であり、 極めて精妙なバランスで維持され続けている。 体重に比して重さたったの2%の脳は、全エネルギーの実に18%も消費している。 脳は睡眠中もフル活動し、情報の入出力が無い時にも 「脳自身のことを考え続けて」この「自のクオリア」を 神経回路網の決定的構造として維持している。 この構造が、ある程度堅牢であるからこそ、 外来情報の入力に対して、自我を保ちながら、 感じ、考え、思い出し、判断し、行動することが出来るのだ。 もし、自意識を維持することなく、単に入力と出力の間の 高度で複雑な計算をするだけならば、脳の複雑さと消費エネルギーは いかにも過剰である。 何の感覚情報も処理せず、何の身体運動も指示していなくても、 脳は無意識下で全力運転し、無色透明な「自のクオリア」を 維持し続けているのである。
健常者が覚醒時に易々と体験している、この「自分が自分である という感覚」すなわち「自のクオリア」は、 このように脳の精一杯の働きで維持されているのであり、 思った以上に壊れやすいものである。 熱心に何かを喋り続けている時、意識の一部を使って 自分の声に集中すると、「自のクオリア」は、ぼやけはじめる。 自分が自分で無いような、奇妙な感覚に襲われる。 普段は意識から自分の声を差し引いて、「自」の堅牢性を守っているのだが、 敢えて自分の声を客観的に捉えようとすると、 自分の思考までもが客観化されるような錯覚に捕われる。 自分が言葉を紡ぎだす自動機械のように感じられてくる。 意識は「自分で“ない”もの」に向けられるのに、この働きを 自分自身に向けると、自分自身まで自分では“ない”ものに感じられ、 自分がどこにもいなくなってしまう。 そんな気分になってくる。 勿論、このような恐ろしい気分は、自分の声への意識を止めた瞬間に 消えてしまうものである。 しかし、脳の器質的・機能的な問題により、 このような正常な「自のクオリア」が維持できないこともある。 無意識の内にフル稼働している「自」と「無い」という概念の 相互強化関係が薄れて、「自のクオリア」がぼやけることで、 離人症や分裂病といった精神病を患うことになるのではないだろうか。
離人症(depersonalization)とは、自己の存在や自分の周囲の対象に 現実感の喪失や疎遠感を抱く特異な意識体験のことだ。 自分が自分で無いように感じ、対象や他人に疎遠感を覚えるようになる。 精神分裂病(schizophrenia)は、典型的な内因性精神病で、 現実と非現実の区別が障害されている。 幻覚や妄想が生じたり、思考と行動の統一性が失われたり 貧困化したりする。 いずれも、「自のクオリア」という、しっかりとした精神相の核が ぼやけてしまっているために、 自の連続という時間概念が希薄になり、 個々の時刻がバラバラに体験されたり、 「ここ」と「あそこ」の区別が曖昧になって空間概念が希薄になり、 物体間や概念間の区別も曖昧に感じられたりするのだろう。
一方、うつ病(major depression)は、気分障害(mood disorder)の一種で、 抑うつ気分や精神活動の低下を特徴とする精神疾患である。 悲観的な考え、憂鬱で悲しく気落ちした気分、 絶望、興味や喜びの低下、食欲減退、気力減退、集中力低下、 不眠、不安、焦燥、思考制止(着想貧困化、考えが分からない)、 活動性の低下、疲れやすさ、罪業感、決断不能、 死についての反復思考、などが症状として現れる。 これは「自のクオリア」が萎縮してカラ回りし、 外部の情報を柔軟に取り入れる余裕が無くなっている状況だと思われる。 脳の活動量が何らかの理由で低下しているため、 「自のクオリア」を死守するのに精一杯で、 感じ、思い出し、考え、判断し、行動する、という 一連のイキイキとした思考活動を営む余裕が無くなってしまうのだろう。
私たちが、物心ついたころから、普通に手にしている、 この「私が私である」という感覚、すなわち「自のクオリア」は、実は、 「無い」という高級な概念を駆使して編み上げられ、 この宇宙で人類が知る限り最も複雑な構造物である脳が 四六時中全力を挙げて維持している、精密で繊細な芸術作品である。 それだけに、思った以上に壊れやすくもある。 健全な精神活動を維持するには、 脳を乗せている身体のお手入れにも、十分に配慮する必要があるのだ。
有限原理
有意味性の根底に潜む有限性
『自然数は神の作ったものだが、他は人間の作ったものである。』
― レオポルト・クロネッカー
  1. 自の連鎖は、突然開始し、高々可算有限回で終了する。
  2. 森羅万象が統一体として現象するのは、有限なる「自」を共通実装しているからである。
有限原理
私の哲学の動機の一つは、自分が死んだ後の永遠なんて絶対に認めないという、 永遠への嫉妬だ。だから、自循論の根底には、 『有限原理』(無限否定原理主義)がある。 また、“全体”は常に無意味であり、有限に確定された全体に対置された“部分”として、 全体と部分、部分同士の関係性において、意味というのは生じてくるのである。 (仮に無限の中に有限な部分を対置させてみよ。有限÷無限はゼロ。つまり無意味になる。)
私の人生“全体”は、私にとっては何の意味も無い。 そもそも私は、人生の“全体”を把握することが出来ない。 突然望まずして生まれ、気が付けば自我を持ち、そして死を嫌悪しながら生き、老いさらばえ、 そして私は、自分の死のプロセスの完了(人生“全体”の完成)に立ち会うことが出来ない。 そういう、私にとっては徹頭徹尾無意味な人生の“全体”の一部として、 「今」が位置づけられる時、その「位置づける」という関係性において、 この私の生が意味と価値を持つのである。
この「イマココ感」の有限な連鎖が至上原理であるとすれば、 私の死後の世界とか、全知全能の神とか、人類や宇宙の目標といった、 「ありもしないもの」「本質的に無価値なもの」に惑わされず、 この一瞬一瞬を最高に輝かすことだけに「原理的に」集中していれば良い、 と、ある一面においては、心の底から納得できるようになる。
私は、自循論のアウトラインから、そのように確信し、 そのように生きようと努めている。 でも、自循論がスカッと完成しないと、心の隙間から、 ニヒリズムが忍び込んできてしまうのである。 だから、自循論のリファクタリングは、私のライフワークなのである。 有限な人生にこそ意味がある、という言明が、 単なる同語反復であると、スカッと言い切りたいのである。

1.精神相
私達一人ひとりの精神が位置づけられ連結する壮大な舞台
概念ネットワーク
「自」を頂点とする全概念の壮大なネットワーク
  1. 概念ネットワークは、概念(ノード)と、概念間の関係(リンク)から成る。
  2. 個々の自我は概念ネットワークを持つ。
  3. 万人が意識活動の中で常に推定し続けている「自a」の究極的な焦点「自」は、 全く同一(無個性)のものである。
  4. 万人の概念ネットワークは、不動点「自」を要として、 一つの概念ネットワークに接続できる。この総体を「精神相」と呼ぶ。
主観的な時空
私達が感じている、この時間の流れと、この空間の広がり
  1. 私が感じている対象は、全て過去平面に属する。
    • 過去平面に、客観的な過去・現在・未来が投影されている。
    • 過去平面に、「いま・ここ」の残像も投影されている。
  2. 過去平面にある、いかなる情報よりも「内側」にあるものとして 推定された概念が「ここ」であり、 それは過去平面から垂直に突出した位置に推定される「いま」でもある。
  3. 絶えず再構成される「いま・ここ」を参照しつつ、 これに外来情報を相対的に位置づけることで、主観的時空が構成される。
スケールとは何か
私が中学生くらいの頃から、ずっと心の奥に持ち続けていた疑問。 「スケールとは何か。」 例えば、「どうして私は、私自身の身体を、斯く在るが如くの大きさで捉えているのか」 「どうして私は、時間の流れを、斯く流れるが如くの速さで感じているのか」 といった疑問である。なぜ、私は、私の大きさを、今の2倍でもなく、半分でもなく、 丁度今の大きさで感じているのか。 どうして、私にとっての時間の流れは、今の100倍でも100分の一でもなく、 丁度今の速さで感じているのか。 科学の本を読み、その答えは、プランクスケールと宇宙スケールの間にある生命性、 というあたりにあるのではないかと思った。 (10のマイナス35乗メートルから、10の26乗メートルの間の、私という1メートル。 10のマイナス44乗秒から、137億年の間の、私という100年。) けれど、それは理由でも何でもない。その上限・下限は、なぜそのような大きさになっているのか、 という新たな疑問を生み出すだけだったし、 この体感的・直感的なスケール感の根拠とするには間接的過ぎた。
つまり、問いの立て方が間違っていたのだ。 「《対象》の時間や空間が何故そのような大きさなのか」ではなく、 「《自分》は、何故、そのように時間や空間を感じているのか」という問い方をすべきだったのだ。 この表現の方が、私がスケールに対して感じている不思議さを適切に表している。 中性子が巨大な星のように見える知性体がいたとしても、 銀河を手の平で転がすような知性体がいたとしても、 それらはやはり、私たちと同じように、「私なりのスケール感で」対象を見るだろう。 それでは、結局のところ、《このスケール感》は、「自意識を包む身体と、対象の、相対性」であり、 自分の身体の大きさが、《このスケール感》の、絶対的な基準になるのであろうか。 確かに、子供の頃に見た公園の滑り台やブランコが、成長して大人になってから見ると 小さく感じられることがある。自分の身体が大きくなり、対象が相対的に縮んだのだ。 ところで、もし私が巨大ロボットの視点で暫く生活したらどうなるだろう。 世の中の全ては今までよりも小さく見えるだろう。 もし、銀河ほどの大きさの巨大アバターに精神を移植されたら、 太陽でさえ殆ど感知できない微小なものに感じるだろう。 しかし、このように次々と身体性のスケールを変更しても、 おそらく、私が視覚を捕らえる空間、つまり《意識のスクリーン》そのものの広さは、 変わらないであろう。 …「変わらないであろう」などと言ったが、実のところ、 私たちは、《意識のスクリーン》の広さを、どう表現したら良いのか、よく分からない。 スクリーン上に見えているものの大きさは、遠近によって様々に変わってしまうし、 それはそもそも《意識のスクリーン》全体の広さとは関係が無い。 また、映画館のスクリーンと違って、《意識のスクリーン》は、 周辺に行くほど境界が曖昧である。だから、「これくらいの広さ」ということを、 どう説明すれば良いのかも分からない。 にも関わらず、《意識のスクリーン》は、有限の広さを持っていることは間違いない。 目を閉じて複雑なネットワークを想像の中に思い描く時ですら、 それを視覚的に思い浮かべようとする限り、何らかの限界があることは明らかだ。 結論から言えば、《意識のスクリーン》の広さは、 同時と見做せる短い時間の幅の中で、並置できる情報量の上限として定義されるだろう。 ゼロ秒で計算は完了しないから、0コンマ数秒の短い時間内で位置関係を把握し、 短期記憶の中で並置できるだけ並置し切った広がりが、つまり、 《意識のスクリーン》の広さである。 私が同じ脳を持っている限り、身体が巨大ロボットになろうが、巨大アバターになろうが、 《意識のスクリーン》の広さに変わりはない。 しかし、人為的に脳に手を加え、演算速度を上げたり、短期記憶を増強することが出来たら、 私の《意識のスクリーン》の広さは、グンと広がるであろう。
さて、私が抱き続けてきた「スケールとは何か」という疑問の答えは、 意識の持続性の中にあることが分かってきた。 私が「同時」と思える瞬間の中で、異なる要素を並置できる限り並置しきった、 その広がりが、私の《意識のスクリーン》の広さであり、空間認識能力の上限である。 普段、この能力は、その殆どが視覚に奪われており、 幾許かは聴力に使われているが、 静かな図書館で勉強に集中している時は、全く同じ機能が 抽象思考、つまり記号一般を扱う言語活動に振り向けられている。 ところで、《意味》とは、対象そのものに内包されているものではない。(意味は対象に自存しない。) 異なる対象を関連付け、その差異を認識する時に生じてくるものである。 つまり、《意味》とは、関係であり、差異である。 だから、異なるものを「同時に」広く並置できる能力というのは、 それだけ複雑な意味の構造を一挙に把握できる能力がある、ということである。 この事情は、視覚の場合にも勿論当てはまる。 視界はただの一枚の写真ではない。私たちは、そこに、人物や表情、 背景や明るさなど、色々な要素を認識して並置し、 それらの間の関係を意味として認識し、「情景」として一挙に把握しているのである。 それでは、私たちが「同時」と思う時間幅とは、一体何なのだろうか。 (※マクタガードは、三人称的な線形時間軸をB系列、一人称的な現在・過去・未来の 構造をA系列と呼んだが、このA系列の「現在」の幅が問題になる。 ベルクソンの純粋持続、大森荘厳の点時刻否定とも関連するだろう。)
空間的広がりは、「同時」に並置され、一挙に把握される限りにおいて意味を持つ。 しかし、0秒では、異なる要素を関連付けたり、並置して一挙に把握したりはできないから、 空間的広がりを体感するには、最低限の時間的な幅が必要である。 (※これは、脳の中での演算という意味でもそうだし、 物理時空においても情報伝達速度上限(光速度)一定の法則がある以上、同じことである。) では、この時間幅とは何か。 人間の脳の演算速度は無限じゃないから、二つの時刻間の差が小さくなると、 それらは見分けが付かなくなり、「同時」と判断される、というのが 一般的な回答だろう。 しかし、忘れてはならないのは、問いの立て方である。今は、 「《自分》は、何故、そのように時間や空間を感じているのか」という問いに答えねばならない。 だから、《自分》にとっての「同時」とは何か、というのが、今の論点である。
《自分》とは何か。それは、脳が、あらゆる《対象》では“無い”ものとして、 全力で推定し続けている、内容空疎な仮想点である。 《対象》は、もちろん自分の外側にあり、そして、情報伝達速度の上限が一定である以上、 《対象》は、必然的に過去にある。 あらゆる《対象》で“無い”ものを推定し続ける思考は、だから、必然的に あらゆる《対象》よりも内側にあって、《対象》よりも未来にあるものを推定する。 それらの推定が結び付けられ、重なり合い、共鳴し、強化され、ついに ある一点に集まり、固定化される。その焦点こそが、抽象的な概念としての《自分》である。 あらゆる《対象》よりも考えうる限り内側にあり、 あらゆる《対象》よりも可能な限り未来にある一点。 それこそが「いま・ここ」にある《自分》なのだ。 この《自分》のことを、自aと定義しよう。 このようにして推定された自aもまた、内容空疎な仮想点とはいえ、 新たに創出された抽象概念である以上、その影が短期記憶に落ちてゆく。 次の瞬間には、この影は思考の《対象》の一つに組み入れられている。 「いま」から「過去」に滑り落ちた自aの影を、ここでは自bと定義しよう。 次のサイクルでは、この自bよりも内側で、自bよりも未来にあるものとして、 自aは推定されねばならなくなる。 このように、自aは、限りなく内側へ内側へと押し込められ、 限りなく未来へ未来へと押し出されていく。 この、自bと自aの一連の自己触媒反応のことを《意識》と考えよう。 私たちは、普段、自aを意識することは出来ない。 「自分とは何か」という問いに対して、「これだ、捕まえた!」と思ったものは、 思考の対象なので、それは既に過去にある自bだ。 自aは、その時点で既にそれより内側にあり、既にもっと未来にある、何者かである。 私たちは、意識して自aに追いつくことは出来ない。 それは、どの瞬間にも、既に、脳が全力で行っていることであり、 その運動こそが自意識(自分が自分であるという感じ、すなわち自のクオリア)の 根源なのであるから。つまり、意識で意識は意識できないのだ。
さて、《自分》にとっての「同時」とは何か。 脳が全力で自b→自aを推定し続けているのだとすれば、この連鎖の間に処理される情報は、 《自分》にとっては時間的な差が無いと言える。 だから、おおよそ、《自分》にとっての「同時」の時間幅とは、 あらゆる外部情報や自bを《対象》として、脳が全力で自aを推定演算するのに必要な時間、 ということが出来るだろう。 (※脳にはこれを0.5秒程度に維持するクロック機能もあるらしい。) この間に認識され、並置されるものが、「同時」に把握されたことになり、原型空間を為す。 (※更には短期記憶や長期記憶を使って、この原型空間を拡張することができる。)
今や、私たちは、答えにたどり着いた。 《自分》というのは、持続する自b→自aの連鎖であり、 その形式でしか《自分》というものは定義できない。 自b→自aというベクトルが演算されるには、一定の計算量が要求されるから、 0秒ではない時間が必要となる。この最小単位が原型時間であり、 その間に、互いに異なる概念や対象が並置され、形成される広がりが原型空間であり、 この原型時空を 《自分》が一挙に把握することで、原型的な《意味》が生じているのだ。 現実の人間は、短期記憶、長期記憶、更には歴史・文化・書物などの外部記憶まで駆使して 高度な知的活動を行っているのではあるが、 その全ての人間の最奥にある機構が、この《自分》であり、 内容空疎な仮想点であるが故に純粋で個性の無い、万人に共通の自aという概念をカナメに 人類は情報空間を共有することが出来る。 (※率直に言って、自我と他我の真の共通点は、自aを推定し続けていること、 その一点のみである。自bは、個々人が持つ情報空間の個性に味付けされながら 過去に滑り落ちていくので、既に個々人によって異なるものになる。) 《自分》というものの本質が自b→自aの連鎖であり、 その原型時間・原型空間の在り方は不変なのであり、 これが「私にとってのスケールとは何か」の答えの基盤を為す。 私たちは、健常時・覚醒時には一定の演算能力を持っていると仮定すると、 この「私にとってのスケール」、言わば原型スケールは、身体の大きさには依存せず いつも一定であろう。(私の意識が肉体にあるか巨大ロボットや巨大アバターの 中にあるかは関係がない。)この原型スケールに対応づける形で 自分の身体の大きさや、外界の様々な対象が位置づけられる時、 スケール感、すなわち「スケールのクオリア」を、私たちは感じることになる。 (※そして、時空よりも本質的なのは、自b→自aというベクトルの連鎖であり、 相対性理論以降の物理学で距離や時間よりも速度の方が本質であると 捉えられていることは、このことと無関係ではない。 そもそも、私たち知性体は、時空という形式を、そのようにしか構成できないのだ。)
「スケールとは何か」…それを問うことは、 結局「自分とは何か」を問うことだった。 小さい頃に遊んだ公園のブランコを今見ると、「あれ?こんなに小さかったっけ」と思う。 それは、私の身体が大きくなったからだ。 一方、もしも私が、好奇心に溢れ、脳がフル回転していた子供の頃の 《意識のスクリーン》を、今すぐ「体験」することが出来たら、 「あれ?こんなに大きかったっけ」と思うだろう。 研ぎ澄まされた運動感覚を持つアスリートや、F1ドライバーは、 同じ原型時間内に処理できる感覚情報の量が、一般人とは大きく違うだろうから、 集中時にはずっと広い《意識のスクリーン》を持っていて、 視覚・聴覚・触覚の細かいところまで差異を見つけ出し、 それを情景として一挙に理解し、次の瞬間の精確な判断を導き出せるだろう。 酒を飲んで酔っ払った時は、演算能力が減るので、おそらく《意識のスクリーン》は 狭くなると考えられる。 しかし、酔っ払いは、「《自分》は自分のことを一定に保っている」と思っているので、 粗く狭くなった意識のスクリーンの中に世の中の全てが入っているように錯覚して 妙な高揚感、万能感を持ったりすることもある。 様々な意識の変性状態も、原型時空の歪み、もしくは不全として説明できるだろう。
私が私である限り、原型時空は1つの定まった形式であり、 私にとっての《意識のスクリーン》は、いつも一定だと信じてしまう。 一方で、実際には《意識のスクリーン》の広がりは、脳の演算能力や覚醒状態に左右されるから、 (直接比較することは出来ないけれど、)人により状況により異なるであろう。 私たちは、《対象》の大きさを、この原型時空に重ね描いて「大きさ」として理解し、 次いで、様々なものと比較して、「客観的な大きさ」として計測する。 ある瞬間に私たちが感じる「大きさ」は、原型空間に重ね描かれることによって、 《自分》が体験する「大きさのクオリア」になるのである。 (※「時間進行のクオリア」も、同様に説明することができる。) 「どうして私は、私自身の身体を、斯く在るが如くの大きさで捉えているのか。」 「どうして私は、時間の流れを、斯く流れるが如くの速さで感じているのか。」 私が中学の頃から抱いていた、体感的で素朴な疑問に答えるためには、 いかにして原型時空が維持されているか、という説明が必要だったのである。
意識とクオリア
この不可思議な「自分」という感覚の解明
  1. 個体内の概念ネットワークは、抽象度の昇順に、身体性-無意識-意識-悟性-自、 という階層を持っている。
  2. クオリアとは、自の実装が自ら組み上げた概念ネットワークの一部が、 外部由来の信号と、内面由来の信号を受け取って、可塑的に変化すること。
幻想のホムンクルス君
自循論のエッセンスである精神相を、漫画的に表現してみよう。 登場するのは、脳内に住む認識主体である「ホムンクルス君」と、 彼が眺めている「意識のスクリーン」である。 誰もが脳内に持っている、このホームシアターが、精神相の舞台だ。 ところで、このスクリーンに映っているのは、目が見ている景色ではない。 五感が捉えた全ての情報が、シンボルとして組み合わされて表示されているし、 過去の記憶も、その奥に重ね合わされ、透けて見えている。 そして、なんといっても一番の特徴は、「ホムンクルス君」自身も、 「意識のスクリーン」に鏡のように映し出されている、という点である。 従って、この「意識のスクリーン」には、直接的な感覚情報と、記憶と、 自分自身の姿が、渾然と混ぜ合わさったものが、 情報シンボルとして蠢きつつ表示されていることになる。
さて、ホムンクルス君は、ただ漫然と、この「意識のスクリーン」を 眺めているだけではない。スクリーン自体に手を伸ばして触ったり、 映っている内容を直接改竄することは出来ないのだが、 ある場所を注目したり、見る角度を変えたりすることは出来るのだ。 勿論、それによって、次の瞬間、スクリーンに映る内容も変わってくる。 喉が渇いているという感覚情報をクローズアップする。 視界情報の右前方にあるコップに着目する。 水が飲みたいというホムンクルス君自身の姿も映し出され、 「そうだ自分は水が飲みたいのだ」ということが フィードバックされ、強調される。 この数瞬間は、まだ情報が溶け合い強化し合っているだけのようだが、 既にここまでで極めて重大なことが起きている。 この後、何百億の細胞が同期して活動し、眼球を動かしてコップを見つめ、 腕を動かし、コップを手に取る、という、途方も無い大プロジェクトが始まるか、 それともコップのことは忘れてしまうか、この2つの未来の選択の萌芽が ここにあるのである。コップを手に取る未来A、コップを手に取らない未来Bは、 現在の状況Pから発展する物理世界として、いずれも全く問題がない。 P→Aという変化も、P→Bという変化も、物理法則には全く抵触しない。 脳細胞を流れる電子パルスを見ても、手の筋肉細胞の仔細を見ても、 量子力学的な精密さで両者の時間発展を調査しても、 各々は全く機械的に、唯物論的に、運命論的に、それぞれ A、Bという未来に自然と到達している。 何が起きたのだろう。そう、ホムンクルス君が、視線を変えただけなのだ。 Aの方を見たら、物理法則には全く抵触せず、Aに到達した、 ただそれだけのことだ。 見方を変えると、私達にとっては、物理法則に全く抵触しない 無数の未来のバリエーションがあって、 どの路線に乗り換えるのかは、ホムンクルス君の自由である、ということになる。 (この「どこかの路線に乗り換える」ということを、敢えて 物理世界の枠組みで考えようとすると、量子力学における 確率波の崩壊とか、エヴァレットの多世界解釈のような表現になる。)
このホームシアターは、唯一絶対の宇宙の中を、ただ突き進んでいるのではない。 視点を変更しながら、物理法則だけに任せていたら無数に有り得る未来のうち、 たった一つの経路の上を選んで進んでいるのだ。 各プランク時間で許される選択の幅は、プランク長くらいしか無いとしても、 一年後には0.5光年(4.7兆キロメートル)分くらいの差を生み出せるほどの 潜在的可能性がある。(実際には、いかなる物理法則にも抵触せずに 取り得る未来のヴァリエーションにはもっと制限があるが、 一つの決意が人を大富豪にしたり ノーベル賞を受賞させたりする程度の選択の幅は、余裕で存在するだろう。 盲目な日々の努力より、明確な目標の方が重要であると言われる所以である。)
この事情を、高次元から眺め直してみよう。 「ただそこにある円錐」を、 「だんだん大きくなる円」と勝手に解釈できるように、 私達は、10ないし11次元の「ただそこにある世界」から、 「1次元時間軸に沿って3次元空間を眺める」という認識の方法を 自分勝手に採用している。 捨てられてしまった6ないし7の余剰次元は、 空間の最小分解能以下に折り畳まれたカラビ=ヤウ空間として、 四次元時空の時間発展に殆ど影響を与えない膨大な未来のヴァリエーションを 内包している。 私達は、自分の時空認識を自分勝手に狭めておいて、 残りの部分は自分自身でも気付けない余剰次元に押し込めておいて、 その余剰次元のヴァリエーションから好きな未来を選び取っている。 自らの認識を制限したからこそ、自由の余地が生まれるのだ。 全知全能の神に自由は無い。全てが分かってしまうことと、 選択の余地がない、ということは、イコールだからだ。 (あらゆることが必然の結果であり、完璧に予測できる、 という状況では、自由は存在し得ない。)
さて、その「認識」の舞台である、ホームシアターに話を戻す。 ホムンクルス君が出来ることは、わずかに視点を変えたり、 どこに着目するかを選択することだけだった。その結果、 自分が、コップを手に取っている未来Aと、そうでない未来Bの どちらの経路に飛び込むかを決めている。 では、ホムンクルス君は、どうやってそのような選択を行っているのだろうか。 ホムンクルス君の脳内にも、やはり意識のスクリーンがあって、 ミニミニホムンクルス君がいるのだろうか。 ………そうではない。 実は、このホームシアターには、隠れた仕掛けがもう一つある。 それは、意識のスクリーンとホムンクルス君の中間に存在する不動点、 その名も「自」である。 この「自」は、論理的、純粋数学的なシンボルで、 全ての精神相を通して、たった一つしか無い。 つまり、あなたの脳内のホームシアターにある「自」も、 わたしの脳内のホームシアターにある「自」も、 その核は、全く同じものなのである。 (但し、どこまで純粋、明確な核として形成・維持されているかは、 処理されている情報流の大きさや密度に依る。 小さい子供や、健常者でも睡眠時には、この「自」はボヤけている。 同じ健常者でも、短期記憶量・情報処理量が優れている人は、 より明確な「自」を持っている。 この明確度を計測する単位が「セルフ」であり、 全く自意識を持たない状況が0セルフ、 外来情報に擾乱されず完全に不動な「自」を形成し切った状況が1セルフである。 その中間の値を定量化する方法は、まだ開発中であるが、 人間は0.5セルフ、犬や猫は0.01セルフくらいに位置づくのではないか。 植物も有限のセルフ値を持つとは思うが、ほぼ0セルフと言って良いだろう。)
ここでいよいよ、ホムンクルス君の正体が明かされる。 実は、「意識のスクリーン」は、情報宇宙の法則の不動点(求心点)である 「自」と相互作用し、「自」を安定に維持するように調整される。 つまり、「意識のスクリーン」と「自」は、常に不協和音を奏でつつ、 常にお互いが妥協して変化し、「自」は可能な限り「自」であり続け、 その反作用に相応しい「意識のスクリーン」の状態が選択されるのだ。 実は、この「意識のスクリーン」と「自」の葛藤の様子が、 次の瞬間の「意識のスクリーン」に残された傷跡こそが、 「意識のスクリーンに映ったホムンクルス君」なのである。 スクリーンに像が映っている以上は、オリジナルのホムンクルス君が ホームシアターのどこかにいるはずだ、と考える。 しかし、本当は、ホムンクルス君など、いないのである。 精神相の中で、「自」の安定を保つ動き、すなわち自己保存のプロセスが、 意識のスクリーンの上に落とした像、影、歪み。 その原因として逆算・捏造されたものが、認識主体としてのホムンクルス君なのだ。
生命は、進化の果てに、高度な抽象化も可能な情報処理を内包できるようになった。 神経や脳が形成された最初の段階では、 「まだ誰にも見られていないスクリーン」があるだけだ。 しかし、そのスクリーンの中に、別格の抽象シンボル、 普遍的・論理的・純粋数学的なシンボルである「自」が登場すると、 状況は一変する。このような「自」を維持するには、 精神相内での大掛かりな動的平衡が保たれている必要がある。 (このことは、意識を支える生命体が動的平衡を保っていることと相似である。) どこからか弱々しく現れた「自」というシンボルは、 やがて洗練・強化されて、動的平衡の中で一定の位置を主張するようになる。 (むしろ「自」が維持されている状態を「動的平衡」と呼ぶのであるが。) 「自」は情報宇宙の法則下では不動点である。エネルギー準位の最も低いシンボルだ、 と言っても良い。最も公理に近く、抽象的で、普遍的だ、といっても良い。 (純粋数学でトポロジーが境界概念を抽象化した開集合から出発するのと似ている。) 下等動物では、ただ環境に流されるままだった情報流は、 「自」の維持、という新しい情報処理システムに進化することになる。 このように「自」というシンボルは特別扱いされるので、 それ以外の感覚から到来したシンボルや、記憶から到来したシンボルは、 「意識のスクリーン」に残り、「自」だけがその外側にあるように位置づけられ、 「意識のスクリーン」と「自」の相互作用が 再び「意識のスクリーン」に残した傷跡から逆算して、 「ホムンクルス君」の存在が浮かび上がってきたわけである。 このことを以って、「ホムンクルス君は、本当はいないのだ」とか 「自意識とは錯覚なのだ」と考える人がいるが、 そういうことを言う人は、「そもそも、いる/いない、とは、どういうことか」 「錯覚でない、正常な感覚とは、一体何なのか」ということを、 もう少し突っ込んで考えた方が良い。 多分、物理法則で完全に説明されるものだけが真実である、 というような思い込みが意識の根底にあるのだろう。 世界そのものが、物理相と情報相の妥協の産物であり、 存在とか意識とかは、そもそも物理世界に還元されるものではない。 むしろ、「物理法則だけで完全に説明できる現象」の方が、 ずっとずっと限られているのである。 (そして、物理法則自体も、認識する側の性質の裏返しである、 ということを忘れてはならない。私達が知っている物理法則の全ては、 徹頭徹尾、私達が直接的または間接的に知覚したものだけから成り立っているに過ぎない。)
時間の由来は、「ホムンクルス君」と「意識のスクリーン」の間の距離である。 「ホムンクルス君」が座っている位置が、体感的な「今、ここ」であり、 「意識のスクリーン」に映っている、あらゆることは過去である。 つまり、抽象的な情報処理活動が高次化し、ついに「自」というシンボルを 発見・維持できるようになることで、 ホムンクルス君の居場所としての「現在」というポジションまで創造し、 過去→現在、という時間の方向性を獲得するに至るのである。 (ホムンクルス君は二次的な幻想なので、厳密に言えば、時間の由来は 「自」と「意識スクリーン」の間の距離である。この離散二時刻しか持たない シンプルな時間概念を原型時間と言う。) こうして、その場その場の情報に機械的に反応していただけの動物は、 「自」を中核とした判断や選択を行える知的生命に進化する。 このことは、更に延長され、過去→現在→未来、という時間軸を生み出し、 予め計画することで、より効率的に「自」の安定を図れるようになるのだ。 (精神相の中で「自」の安定を図る、ということが、そのまま 生命としての自分の安全を確保する、ということに対応している、 ということは極めて重要だ。精神相内の自我境界線は、 物理相の身体の表面と対応しているべきだ。 そうでなければ、折角、精神相でのシミュレーションで「自」の安定化を図っても、 生命としての自分は死んでしまい得る。 「自」というシンボルは、「他との境界」無くして成立しないが、 「自」を獲得するに至るまでに、この境界概念を強化し続けていたのは、 他ならぬ身体性である。 生命の進化には無駄が無い。 自己認識・自意識もまた、自己保存に有利だからこそ採用されている。)
ホームシアターが、どの枝も物理的には全く平等な、無数の未来のうちの どれに乗っかるかを決める「場」であり、 その自由は、余剰次元に隠れていた「遊び」を、一つに決め付けること (確率波を崩壊させて、一つの古典状態にしてしまうこと)として 観測されるとしたら、 これは乱雑さを構成するタネを増やしているようなものだから、 熱力学第二法則とも相関するだろう。 「時間の矢」の問題を、熱力学第二法則に帰着させる考え方もあるが、 それは半分だけ正解、ということになるだろう。 いずれにせよ、時間は、自意識が生み出したものなのである。
真実の世界は、限りなく乱雑で、無限である。 ここに、何らかの理由で「自」なるものが発生すると、 法則と有限性が生まれる。 その制約と引き換えに、「自」は「自由」を獲得できたことになる。 これこそが、無限乱雑場から、意味のある宇宙が勝ち取られる道筋でもある。 ビッグバンが本当に起こった、というよりも、 私達の意識から見たら、宇宙の時間的端点として ビッグバンがあったように見えざるを得ない、といった方が真実に近い。 誰の頭の中にもある「ホームシアター」にある、 「自」なる隠れた核こそが、無から私達の自意識と、そして この宇宙全体を生み出したのだ、ということが分かった。 「私が私である」というこの不可思議な感覚と、 「宇宙が宇宙としてある」というこの神様がくれたような奇跡は、 全く根が同じなのだ。(アートマンとブラフマンを同一視する 梵我一如の思想ともフィットすると思う。) 自分で自分を見ようとすると、どうしても盲点のような 特異点が生じてしまう。その「自」という、 掴めそうで掴めない、全ての意味の根源を、 私達は「神」と呼ぶのであろう。
以上で、科学、宗教、哲学が、自循論の枠組みで統合される グランドデザインも示せたと思う。
幻想のホムンクルス君・2
意識体験の不可思議性の正体は、内面からの情報流だった。 今、脳内のある領域に、仮想的なコビトの意識主体「ホムンクルス君」がいるとしよう。 彼は脳内の抽象的な情報空間にいるが、イメージを分かりやすくするために、 宿主の視線方向を向いているとしよう。 ホムンクルス君は、眼球が外界の情報を見るのと同じように、 全ての外界からの情報を前から受け取る。 また、自分の言葉で考えたり、過去の匂いや音楽や痛みを思い出す時には、 左右の方角から情報を受け取る。 そして、後ろの方角(後頭部の方)から、「自己なるもの」の情報を受け取るのだ。 この「自己なるもの」は、これまでの経験や思考から培ってきた、 外界よりも“より内側”にある自分自身の姿である。 もしもホムンクルス君が後ろを振り返って、 この「自己なるもの」を「見る」ことが出来たとしても、 それは、光とも音とも香りとも似ていない、外界のものに喩えることの出来ない何かであり、 本質的に「外界のものでは“ない”」という概念が積み重なって作られた内容空疎な概念であり、 つまりそれは、いかなる意味でも言語として外界に向かって説明できない何かなのである。 (双書 哲学塾『なぜ意識は実在しないのか』著:永井 均 の (p.40) に、 「意識とは、言語が初発に裏切るこのものの名であり、にもかかわらず同時に、 別の意味では、まさにその裏切りによって作られる当のものの名でもあるのです。」 と書かれている。これは、ホムンクルス君の後頭部からやってくる「自己なるもの」と 同じに思える。「自己なるもの」は、自分がゼロからせっせと作り上げてきた “外界では無いもの”=“より内側にある自分自身(自核)”という 内容空疎な抽象概念のカタマリであり、 自分が一番良く知っているものでありながら、言語で語り得ないものだからだ。)
脳を頂点とする人間の神経系には、どこにでもホムンクルス君がいる。 より知覚に近いところにも(大脳基底核や小脳あたりだろうか)、 より抽象概念に近いところにも(前頭葉だろうか)、 ホムンクルス君はいて、それぞれの抽象度に応じて、 「外部からの具体的な情報(知覚)」「同じ抽象層からの情報(ひとりごと)」 「内部からの抽象的な情報(自己なるもの)」を受け取っている。 そして、クオリアが生じる秘密は、この「自己なるもの」という、 無色透明無味無臭で、誰もが感じているが、言語で語れない情報流なのである。 (「自己なるもの」を言語で語ろうとした瞬間に、それは具体化され、 ホムンクルス君の横か前に滑り落ちて(もしくは浮かび上がって)きてしまう。 言語化は、必ず「自己なるもの」そのものの純粋さを汚してしまうのだ。 しかも、この「自己なるもの」は、生まれてから物心がついて自我を形成するに至る、 長い大量の経験を経て、自分がゼロから積み上げた自分だけのオリジナルであり、 どのように部分的に他人と脳を直結しようとも共有できないものである。) 人間の意識は、この、神経系に偏在するホムンクルス君たちの総体だと言える。 人間の意識は事実多層的であり、たとえばテレビを見ながら1、2、3と心の中で 数えつつ「今日のお昼は何を食べよう」と心の声でつぶやくことが出来る。 ただ、どのホムンクルス君も、その後頭部に、ほぼ共通の「自己なるもの」を 受け取っている。これが、私が一人の私として統合されている理由だ。 もしホムンクルス君が後ろを振り返ったとしても、「自己なるもの」は 漆黒の質量のように全く見えないのだが、 それでも常に私が私であると感じさせる、 全てのホムンクルス君にとっての北極星のようなものなのだ。
…さて、折角、説明のためにご登場頂いたホムンクルス君なのだが、 勿論、脳内にそのような意識主体があるわけではない。 ホムンクルス君の正体は、物理的には単なる脳細胞のクラスターだろう。 そこに流れ込む情報の由来は、脳のネットワークをつぶさに調べれば、 「外部からの具体的な情報(知覚)」「同じ抽象層からの情報(ひとりごと)」 「内部からの抽象的な情報(自己なるもの)」 …のように、何とか色分け出来るだろう。 しかし、そうだとすると、結局のところ、 ある神経回路系に、いろんな種類の情報(電気信号)が流れ込めば、 クオリアや意識体験の断片が生じる、と主張していることになる。 情報を色分けしたと言っても、ミクロに見れば、それはどれも同じ、単なる電気信号だ。 到来した電気信号に、到来までの経路の記憶(履歴)が乗っているわけではない。 意識の謎は解けたと思っても、ホムンクルス君にご退場願うと、 やはり「なんで単なる電気信号の衝突から意識が生じるのさ」という 最初からの謎はサッパリ解けていないことに気付く。
おそらく、工学的には、この意識モデルは十分に機能するだろう。 パターン認識する可塑性を持った計算モジュールが、 仮想的な身体性に担保されて、抽象化を繰り返した果てに、 その個体なりの「自己なるもの」を保持するに至った時、 計算モジュールの各所に、「外部・同層・内部」からの情報が流れ込み、 よってクオリアを生じている、と認定することが出来るようになるだろう。 人間の脳も、その脳内プロトコルを精査し、 同じモデルが見出されることで、確かにクオリアを感じている、と認定できるし、 猫や犬と、その強度を比較することも出来るようになるだろう。 つまり、意識は科学で定義し、扱えるようになる。 「哲学的ゾンビ」や「中国人の部屋」の議論はカッコに括ったまま、 生活の中で、意識を持っているようにしか見えないロボットを 当たり前のように見るようになり、 「あぁ、私の脳内で発生している、この意識体験も、 そんなに不思議がるほどのもんじゃ無いな」と 納得してしまう日が来るだろう。
だがしかし、違うのだ。 それでは一番最初の問いが解かれていない。 “たかが電気信号の衝突”が積み上がっただけで、なぜホムンクルス君のような現象が生じ、 それが一個の脳内で多数結合されて、私達の持つ多層的な意識体験が作られるのか…。 ホムンクルス君をミクロな物理的挙動に分解した際に、 大事な何かが失われてしまったのだ。 先ず第一に、「意味」は「関係」において生じていたのに、 一個の神経細胞にだけ着目する、というミクロな視点に落ちてしまったこと。 そして第二に、(こちらの方が重要かつ微妙なのだが) 物理的挙動を意識体験と完全に切り離してしまったこと。 言い換えるならば、 「この宇宙は、なぜか一体となっており、(光円錐の中の)各点が「関係」を持てること」 および 「意識体験を除外したら、時間も無くなり、つまりこの時空も無くなるということ」 という観点を失った瞬間に、意識の問題は(工学的にはともかく) 実感として解けなくなってしまう、ということなのだ。
結局のところ、これは宇宙全体の在り方に言及する哲学的課題に逢着する。 「意識するもの」が時空を生み出し、 その時空の中に星や生命や「意識するもの」が生み出される、 という自己言及構造がたまたま成立している宇宙だけが、 意味の生じ得る宇宙なのであり、 つまり、「世界とは、物理相と情報相の相互依存である」 という原理を外しては、意識の問題は実感的に解くことが不可能になってしまうのだ。 (おそらく、素粒子が「粒子性」と「波動性」を二重に持つ、ということが、 この相互依存性が剥き出しになった端的な例なのだ。 粒子性は素粒子が持つ物理的基盤の側面であり、 波動性とは情報的側面であり、意識なる精神相内の現象が物理的実体に 重ね見る計算的・情報的側面なのだ。 真に驚くべきは、素粒子が粒子性と波動性を両方担って破綻していない、 ということだ。こういうバランスを持った宇宙だけが、意識を内包し得る。 いやむしろ、意識を内包した宇宙では、それがどのような宇宙であれ、 粒子性と波動性を分離できないものとして素粒子が見出される、 と言った方が良いだろう。)
どのような微小な時空間にも、相対性原理と量子力学は宿っている。 それが、意識を内包する意味世界の特徴であるならば、 “たかが電気信号の衝突”にも、 意識を構成する何者かが宿っていると言えないだろうか。 情報伝達速度上限の法則(光速度一定の原理)により、 時空間が広がりを持ち、どの空間の各点にも「いま・ここ」が対等に与えられる、 という相対性原理。 各点がバラバラに存在するのではなく、波動性の観点からは 非局所的で、情報的な意味で空間を一体のものとして連結させ得る量子力学。 (だからこそ、「力」が働き、衝突なる現象も起きる。) …それらは、意識なる現象のタネである(意識なる現象の鏡である)とも、言えば言えるだろう。
…一旦は、ご退場願ったホムンクルス君であるが、 今や、私達は、彼らを呼び戻さねばならない。 実は、私達の共同幻想である客観的な時空の全ての場所に、 ホムンクルス君の断片が宿っているのだと。 それがたまたま、ある特定の場所に淀み、積み重なり、 動的平衡を得た時に、生命となり、意識を産むのだと。
クオリアの発生
クオリアというと、「赤の赤いという感じ」 「ピーという音のピーという感じ」のように説明されるが、 これらはクオリアという現象の枝葉末節に過ぎない。 敢えて言えば、真正面から取り組むべきなのは、 「私の私という感じ」つまり「自のクオリア」のみである。 「自のクオリア」の構造を理解すれば、他のクオリアは その偏差・変調として副次的に理解されよう。
「自のクオリア」とは、「自bの、自aであるという感じ」のことである。 つまり、観察対象として捉えうる自bに対して、 決して観察対象(見られる側)とは成り得ない主体(見る側)の自aを 思い描いてしまうという、思考(情報処理)の一形態である。 自aは、【今ここ】に絶対的に位置づけられる。 自bは、あくまでも対象(見られる側)であるから、【過去】に属する。 自bは、人間の高度な脳が持つ情報処理のクセで抽象化され、自aを想起しようとする。 しかし、想起された瞬間に、それは対象であるから、【過去】に押し戻され、 先ほどまでの自bと混ぜ合わさって、新たなる自bとなる。 いくら自aを捉えようとしても、捉えようとしたその瞬間には、 それは【過去】の自bに押し戻されてしまうのだから、 自aは永遠に捉えることは出来ない。 脳の情報処理のクセで想定した自aに辿り着こうと、 脳は睡眠中ですら思考を続けているのであるが、 捉えたと思った瞬間に、それは自bに変質してしまっている。 この永遠の連鎖を【時間】と言う。 そして、この【時間】に沿った、永続的な自a→自bという参照構造を 「(純粋な)自意識」と呼ぶのであり、自bから自aを探し当てようとする全脳的な 思考活動のことを「自のクオリア」と呼ぶのである。 (このように、意識を支える【時間】を、原型時間と呼ぼう。 これとは別に、【過去】における思考対象を、便宜的に 「想起(過去)」「知覚(現在)」「夢想(未来)」と分類し、 数直線化したものを、線形時間と呼ぼう。 原型時間には【今ここ】と【過去】の離散的な2時刻しか無いが、 線形時間は、主体と切り離されて、無限の過去から無限の未来への 連続した時間概念を形成する。)
脳神経回路の99.99%は反回性(フィードバック)回路である。だから、 脳の活動の殆ど全ては、脳自身のことを考えることに充てられている。 脳はそれ全体が、自bから自aを探し当てようとする情報処理器であり、 「自のクオリア」とは、自bをもとに自aについて考えようとし続けることなのだ。 「赤の赤い感じ」などのクオリアは、残り0.01%以下の視覚入力情報が 「自のクオリア」に与えた、擾乱・変調・偏差に過ぎない。
自bを足がかりに、自aを探し当てようとする思考そのものは、 【過去】から【今ここ】へ向かうものだから、 線形時間に当てはめれば、「夢想」(未来への思考)の原型でもある。 自bは、いわば意識のスクリーンに写った自aの影であり、 だから当然、自aは求めれば(振り向けば)把握できると感じてしまう。 しかし、把握したと思った瞬間に、それは自bに化けてしまう。 高度な人間の脳のクセによって、永遠に求められることになってしまった 自b→自aという思考(すなわち自のクオリア)は、しかし 原型時間という枠組みをも作り出した。 これが基になって、線形時間が捏造されたことは想像に難くない。 どのような高度な情報処理を行うコンピューターであっても、 ただ入力情報を処理して出力情報に伝達するだけの仕組みには、 自覚も時間感覚も伴わないであろう。 たとえ生命であっても、自b→自aという 非常に抽象的で高度な思考にチャレンジし続けるような 複雑な回路を持たなければ、やはり自覚も時間感覚も持てないであろう。 人間の脳は、その複雑で高度な回路の総力を挙げて、 無意識に、いつも、脳自身のことを考えている。 これがベースにあって、そのことに意識が向いた時に、 「自のクオリア」が明確に自覚されるのだ。
結局、「意識のハードプロブレム」と呼ばれる問題も、 そう難しいことを言っているのでは無い。 機能的意識に対する現象的意識とは、まさに自aに向けて考える、 という全脳的形而上学的思考に還元される。 そして、まさにこの自b→自aという思考運動(自循)こそが原型時間を形成し、 私達は知覚された物理世界を時空の枠組みで理解するのである。 (私達は物理学の法則に従う生命であるが、たまたま脳内に自循を発生し、 物理法則を再発見している。この意味で物理は意識の形式を超えることは 決してできず、物理と意識は対等である。 この、物理相と情報相の対等性は、世界の内部から維持されるのであり、 外部から与えられたものではない。なぜ私達は、そのように奇跡的に バランスの取れた世界にいるのか、と問われたら、これはもう 偶然である、としか答えようがない。 バランスの崩れた世界は幾らでも可能だ。但しそれを「世界」として 認識するものがいないという意味では、それは世界ではない。)
「意識のハードプロブレム」というと直ぐに取り沙汰されるのが 「哲学的ゾンビ」である。これは、受け答えは普通の人間と全く同じだが クオリアという体験を持たない仮想的な存在のことである。 この定義のみを見れば「哲学的ゾンビ」は存在可能であろう。 思考回路のアーキテクチャ自体が総力を挙げて自分自身を継続的に 考え続けるような仕組みを持つことが「自のクオリア」の条件だが、 別のアーキテクチャ、たとえば膨大な演算と知識ベースを用いて、 上手に意識体験を真似るコンピューターが出来上がることを 否定はしない。つまり、人間そっくりの応対をする(チューリングテストをパスする)ような、 クオリア体験を持たないシステムは、構築可能であろう。 もしかすると、自b→自aという「自のクオリア」をもシミュレーションした自意識を持つシステムも、 遠い将来には構築できるかも知れない。 しかし、同じ肉体構造を持った友人が、 哲学的ゾンビかも知れないと疑うのはナンセンスであろう。
「マリーの部屋」という思考実験は、 生まれた時から白黒の世界しか体験していないが、 色に関する完璧な知識を持つマリーという少女の物語だ。 マリーが初めて色彩溢れる世界を体験したら、 知識以上の新たな体験をするだろうか、という問いだが、これはYesであろう。 「自のクオリア」に対して、視覚から赤い色が入ってきた時の 擾乱・変調・偏差の感覚(すなわち「赤のクオリア」)は、 これまでの記憶に無いものだからだ。 もしかすると、色に関する「完璧な知識」を持つほどの彼女であれば、 脳内に「赤のクオリア」を捏造できるかも知れない。 しかし、視覚体験無しに、視覚入力に近い部分の脳神経回路網まで 書き換えるような思考は、現実的には、もしくは機能的に、不可能であろう。
究極の意味で、「私a」は語りえない。むしろ、それは 人間の脳(もしくは抽象化力を持つ高度に自己言及的な情報処理器)が 自動的に追い求めてしまう幻影に過ぎないと言っても良い。 リアルな意識体験は、私bから私aを追い求めるという「自のクオリア」なる、 動的で継続的な思考運動そのものにある。 (これは、時間・空間よりも速度の方がより本質的である、という 相対性理論的直観とも結び付く。) この「自のクオリア」自体は、無色透明・無味乾燥な 抽象思考の連鎖に過ぎないが、 このように準備された「自意識の場」に、 視覚・聴覚・触覚などの入力情報が入り込むことで、 自のクオリアは変調され、 さまざまな種類のクオリアが自覚されることになるのである。
【神経細胞の機能】
神経細胞(neuron)は、以下の3つの部分から構成される。
  1. 本体の細胞体
  2. 複雑に枝分かれした樹状突起 (他の神経細胞からの入力信号の受信部)
  3. 本体から一本だけ出て末端で多数に枝分かれする軸索 (他の神経細胞に信号を出力する送信部)
神経細胞は、多くの入力信号を重み付けして総和し、 信号を出力するか否かを決める、 多入力一出力の情報処理素子であると言える。
【神経回路の基本動作】
個々の神経細胞は、このような単純な機能しか持たないが、 幾つかが組み合わさることによって、多彩で高度な機能を実現する。 例えば、入力の特定の空間パターンにのみ反応したり、 入力刺激の特定の時間間隔や速度に反応したりする 神経回路網を構成することが可能である。 ミラーニューロン(Mirror neuron)は、 「自らの行動認識」と、 「他の同種個体が同じ行動を行っているのを観測した時」とで、 同じように活動電位を発生させる神経細胞であり、 脳内の精神相への他者性の取り込みや、 他者への共感の形成、 また、他者の身振り等の理解から言語獲得に繋がる 重要な機能を担っていると考えられている。 このように、神経細胞は、多段に構成していくことで、 極めて高度な機能を実現できるのである。
【神経回路の学習機能】
神経回路の今ひとつの特徴は、学習機能である。 2つの神経細胞A、Bを考えよう。 Aの軸索からBの樹状突起に接続するシナプス(Synapse)は、 特定の条件で強化される。 つまり、A→Bへの情報が伝わりやすくなる。 その条件とは、A→Bの順番で、 ほぼ同時に活動電位が発生(スパイク)することである。 これを「ヘブの法則」と言う。 Bの方が直前にスパイクしてしまうと、 逆に、A→B間のシナプスの結合強度は弱まってしまう。 神経細胞A、Bを擬人化して、この様子を見てみよう。 Aがスパイクした時に、 Bが「そうそう、オレも丁度スパイクするところだったんだよ」 という場合は、結合強度が強まる。 もしかすると、AとBは、 別々の理由でほぼ同時にスパイクしただけかも知れないが、 このように「気が合う」と、 A→Bへのダイレクト・パスが強化されるのである。 一方、Aがスパイクした時に、 Bが「遅いよ、オレは今さっきスパイクしちまったよ」 という場合は、結合強度は弱まる。 BがスパイクするためにAからの信号はいらなかったわけで、 こういう「ワンテンポ遅い奴」は、 非効率な奴だ判断され、疎遠にされてしまうのである。 つまり、「ヘブの法則」は、複雑に絡み合った神経回路が さまざまな偶然を含みながらスパイクしている状況の中で、 繰り返しA→Bといった順序で発火するパターンを持つ部分を発見して、 その結合を強化する。 こうして、入力から出力へ繋がる、より効率的な回路だけを残し、 継続的な最適化を実現するのである。
【睡眠による自己の定着】
ところで、脳は睡眠中も活発に活動している。 この時、視覚情報の入力や、筋肉などへの出力は、ほぼ全く無いので、 全身の神経系、特に脳の中で、信号がグルグルと回っている状態だと言える。 この時も勿論「ヘブの法則」は働いている。 脳の中を静かにノイズが駆け巡り、あらゆる情報伝達経路が試される。 「気の合う奴」からの経路は強化され、 「ワンテンポ遅い奴」からの経路は閉じていく。 こうして、脳は、脳が脳自身を考える経路を最適化するのだ。 一晩眠ると記憶が定着するというが、実際、昼間に体験したことは、 睡眠中のこの自己最適化作業の中で、 脳が脳自身を考える情報循環の連鎖の中に定着していくだろう。 つまり、一本の主観時間の繋がりの中に組み込まれるのである。 (強いトラウマは、主観時間に組み込まれずに遊離し、 思い出すことが出来ない記憶として、無意識的な強迫観念になりうる。 カウンセラーの誘導による自由連想法で、主観時間との繋がりを回復すると、 この手のトラウマは解消されることがある。) 睡眠は、脳の純粋な自己確認の時間であり、 言わば脳神経回路の最新状態を最適化し、新たな神経回路に焼き込む、 つまり脳に脳自身をハッキリと書き込む儀式なのである。 こうして、脳は、外界から得られた知識を含めて、 常に自分自身を更新し、断片的な体験のツギハギではなく 滑らかに連結して最適化された一体である脳内の精神相の基盤を維持する。 この、最適に効率化された脳内情報循環の動的平衡状態が、 「自のクオリア」、つまり「自分が自分である感じ」の正体である。
【覚醒時の自意識】
脳は、入出力を遮断した睡眠状態において、 脳自身を考え続ける基底状態としての「自のクオリア」を確立する。 覚醒時には、ここに様々な変調が齎される。 絶えず視覚、聴覚、触覚からの情報が入力されてくる。 新しい入力と出力のパターンが繰り返し発生すると、 「ヘブの法則」により、 新たな入力→出力の結合強化が起こるかも知れない。 睡眠時に最適化された「自のクオリア」は、 このようにして外界とのやり取りで乱され、変調され、 自己に粗く刻み込まれた状態になる。 そして、睡眠時に、再び最適化が行われ、 滑らかに自己に組み込まれるのである。 さて、基底状態である「自のクオリア」は、覚醒時においても 無意識の奥底でずっと続いている。 視覚や聴覚を遮断し、脳内にモノローグすら響いていない、 無色透明・無味無臭な自己参照の連鎖に相当する 信号の循環が継続している。 例えばここに、視覚情報が入ってきたら、何が起こるだろうか。 最適化されたはずの循環は、乱されるであろう。 何か赤いものを見た時、私たちの脳は、 単なる「赤い」という情報を受け取るだけの電気回路では無い。 脳内に満たされた「自のクオリア」なる電気信号の循環への干渉、 もしくは外部擾乱として、この信号を認識するのである。 この時、無色透明だった「自のクオリア」が、言わば“意識”される。 「赤い」という入力によって、「自のクオリア」が、 最適な循環状態から歪むことで、その弾力から、 「あぁ、自のクオリアがあったんだ」と気付くのである。 殆ど無意識ではあるが、私たちは、リンゴを見た時に、 リンゴという対象物の知覚と、その知覚によって歪められた自分を、 同時に感じている。 あるメロディーを聴いた時に、 そのメロディーの知覚と、その知覚によって変調された自分を、 同時に感じている。 作用反作用の法則のように、どんな入力を受け取っても、 それに反発する「自のクオリア」を(殆ど無意識に)感じる。 (現時点では「反発する」というようなイメージで述べているが、 将来は、この具体的な物理的挙動が解明されるであろう。 おそらく、最適に調整された自のクオリアが循環している状態では 反応しないように調整されている神経細胞が、 その循環が乱されることでスパイクする、 言わば「擾乱検知ニューロン」のような形で発見されるであろう。) 景色を見れば、その景色ではない、 景色を押し付けられて反発している「自分」を感じる。 美味しいものを食べれば、その味ではない、 味を押し付けられて反発している「自分」を感じる。 つまり、私たちは、覚醒時には、 あらゆる知覚された対象だけではなく、それでは無いものとして、 何かを感じ続けているのである。 これこそが「自意識」の正体である。 私たちはそれぞれ、個別の脳と身体を持ち、個別の体験を経て、 個々人に特有の「自のクオリア」の動的平衡状態を持っている。 感覚クオリア、例えば「赤のクオリア=赤の赤い感じ」とは、 この、各人各様の「自のクオリア」が、 赤いという視覚情報の入力に対してどう歪むか、 という変調の様態のことであり、 それは個々人によって異なるものだろう。 あなたの赤のクオリアと、私の赤のクオリアが同じである保証は無い。 なぜなら、あなたの自のクオリアと、私の自のクオリアは、 (身体も経験も違うので)同じではないからである。
【コトとしての自意識】
私たちが覚醒時に通常「自意識」と思っているものは、 言わば知覚情報への反作用の総体であろう。 なぜそのような反作用が生じるのかといえば、 脳は常に脳自身のことを考え、 特に睡眠時において、その自己循環が最適化され、 無色透明の基盤を形成しているからなのだ。 このようにして維持される動的平衡の連鎖が、 あらゆる知覚情報を「自己という一本の繋がり」に関連付けながら、 エピソード(体験)として記憶していく。 そして、記憶されたものは、再度連想して思い出されることにより、 追体験(再体験)を私たちに与えてくる。 (この意味で「思い出す」というのは知覚の一種であり、 やはり「自のクオリア」に変調を齎す、自己発生的な入力である。 極めて大雑把に言えば、「見る」ことと「思い出す」ことには、 本質的な違いは無い。) (レム睡眠時にも脳内で「思い出す」という回路が働くことはあり、 最適化中の「自のクオリア」に影響を与えることがあるだろう。 これが「夢」であろう。) 一旦、記憶として対象化された知覚は、 既に「モノ的」である。 一方、知覚や想起が動的平衡状態にある「自のクオリア」に影響を及ぼす時、 まさにこの動的な関わり合い、変調、反作用それ自体、 つまり体験が「コト的」である。 自意識をモノ的に捉えようと思っても無理である。 自意識は「自のクオリア」という動的平衡を基盤とする コト的事態だからだ。 自意識とは、最適化を図り続ける「自のクオリア」と、 これを乱す入出力信号との間の緊張関係の持続そのものなのである。
【歪自検知ニューロン】
脳は睡眠中も活発に作動して、「ヘブの法則」により、 脳自身のことを最もうまくクルクルと考え続けられるように 脳神経回路網を調整する。 最適に調整が終わった動的平衡状態で脳内を巡る脳波を 『基底自己循環信号』と呼ぼう。 この循環信号は、覚醒時においても、 無意識の奥底で持続しているが、 何かを見たり聴いたりすることによる入力信号によって どんどん歪んで変調される。
ここで、この歪みを検知してスパイクする神経細胞がある、 という仮説を置こう。 仮にこれを『歪自検知ニューロン』と命名しておく。
このニューロンは、睡眠中に基底自己循環信号に同期して調整され、 理想的な動的平衡状態では発火することが無い。 ところが、覚醒時に外界から様々な情報が到来して 基底自己循環信号に歪みが生じると、 歪自検知ニューロンは、その歪みの大きさに応じて 活動電位になる(スパイクする)という機能を持つ。
この仮想の神経細胞の役割は、 基底自己循環信号の歪みを元に戻すように働いて 自我の安定化を図ったり、 知覚の反作用としての自意識の元を為したり、 自我を乱されることによる感情の原信号を発したりすることである。
基底自己循環信号の形成と、この変調に感応する 歪自検知ニューロンの組み合わせによって、 脳内に、能動的に「自己」を知覚・維持するシステムが 出来上がってる、と考えるのである。
とにもかくにも「自意識」なる現象は、 現に存在しているのだし、 明瞭な一対一対応ではなくとも、これに対応する 何らかの物理現象があるはずだ。 一方で、個々の脳神経細胞に出来ることは然して多くない。 霊魂や量子脳仮説を持ち出さずに自意識を説明しようとすれば、 とにもかくにも何らかの持続と、 自意識を主題的に捉える際の仕掛けが無ければ 何も始まらないであろう。 そのような観点からは、脳内に 「基底自己循環信号」と「歪自検知ニューロン」が存在する、 という仮説は、確信的推測に部類される。
【自のクオリア】
基底自己循環信号それ自身は、外部との入出力が無い場合に 脳内を静かに巡る電気信号でしかなく、 これ自身が直接「自のクオリア」(自分が自分である感じ)を 形成しているわけではない。
また、現実の脳内においては、この基底自己循環信号それ自身も、 全く理想的な動的平衡にあるわけではなく、 ゆらぎながら、刻々と変化し、その痕跡を記憶回路に残していく。
基底自己循環信号が残した痕跡自身が、 基底自己循環信号に与える影響、 すなわち自分の残像が自分に与える歪みが、 自のクオリア(自分が自分である感じ)である。
(「基底自己循環信号」こそが、 永遠に対象としては捉えられない無味無臭な自aの正体である。 これが記録されて対象化された短期記憶が自bである。 自bが自aに影響を与えるというフィードバックが 「自のクオリア」ということになる。 自意識の根源にあるのは、この、自aと自bの緊張関係である。)
(勿論、外来の視覚情報、例えば赤色の周波数を持つ光線に由来する 入力信号が自aに与える影響は「赤のクオリア」であり、 このような感覚クオリアは、「自のクオリア」よりも 明瞭かつ主題的に捉えられるものである。)
【自と時空】
さて、自aと自bの関係が、主観時間の起源となっていることは 容易に想像できるであろう。 自bは、もともと自aの痕跡(一瞬過去の自aのコピー)なのだから、 自bが自aを大きくは歪めまい。 (だから通常、自aと自bの緊張関係は、 歪自検知ニューロンにも滅多に見つからず、 従って「自のクオリア」が主題的に意識されることは無い。 「自分の自分という感じ」を意識的に見詰めようとしても難しく、 通常は「物を見る」「音を聴く」という知覚の反作用として、 「物を見ている自分」「音を聴いている自分」 に気付くのが関の山である。)
しかし、視覚や聴覚の入力によって基底自己循環信号(自a)の一部が歪むと、 その直接的な歪みが(入力の反作用として)大きく検知されるだけでなく、 伝播された基底自己循環信号全体の僅かな歪みが自己干渉し、 自aと自bの間にモアレのような干渉パターンを形成するだろう。 歪自検知ニューロンも、全脳的に独特な発火パターンを見せるだろう。
おそらく今の脳波測定技術では、 基底自己循環信号は、脳内全域に広がる背景雑音のようにしか見えず、 覚醒時の明瞭な信号によって歪んだり、全能的に影響が波及したり、 その結果、独特の分布で歪自検知ニューロンがザワザワと発火したりする、 その様子を捉えたりすることは出来ないだろう。
しかし、もし、このような舞台裏の脳波の様子まで 克明に観測できるようになったならば、 脳内で自意識が維持され、時間感覚を生じている そのメカニズムも、かなりのところまで 物理的に解明することが可能になるだろう。
そして、人類が知る限り最も複雑な構造物である脳が、 このように精妙かつ重層的な情報処理を実現していることに、 奇跡を感じずにはおれなくなるだろう。 まさに、このような奇跡を実現した場合にのみ、 脳内に自覚が生じ、精神相が構成され、「意味」が生まれる。
物理法則が宇宙と星と生命と知性を育み、 その知性が物理法則を再発見して意味を持たせている、 この奇跡的なバランス、すなわち物理相と情報相の相互依存こそが、 それ以上の理由や説明を受け付けない、究極の真理なのである。
意識体験について、少なくとも私が何を明らかにしたいのか。
この不思議な意識体験が、なぜ脳という物質から発生するのか。 いや、脳やニューロン原理に拘らず、ロボットも意識を持てると考えるなら、 どのような物理過程や計算過程から意識体験が生じるのか。 このような考え方に基づいた研究の結果、おそらく、 概念や概念間の関係がどのように更新される時に どのようなクオリアが生じるかは、そう遠く無い将来、 工学的に判明できるようになるだろう。
もしかすると、自循論が提唱している、「外向きに世界を見ること」と 「内向きに自分を見ること」が結合する時にクオリアが生じる、 という仮説が、正しいと証明されるかも知れない。 (「内向きに自分を見る」時の感覚は無色透明無味無臭なので、 被験者との対話でこの感覚を確認しながら 対応するニューロンの発火経路を特定していく、 という方法は取れそうにない。 「外向きに世界を見る」時に生じるニューロンの時空間の発火パターンの解析結果が 十分に溜まってきた時に、その補集合のように 「内向きに自分を見る」時の発火パターンが浮かび上がってくるのかも知れない。) ここでは、大雑把には、視床から前頭葉の方向への伝達が 「外向きに世界を見る」信号で、逆向きが「内向きに自分を見る」信号であろうと、 粗く想定しておくに留める。
さて、このようなニューロン原理の枠内での諸仮説が精緻化され、 「あなたは今、意識の中で赤いというクオリアを感じましたね」とか、 「あなたは今、無意識で痛いというクオリアを感じましたが、 それが意識に上ってくるのは0.1秒後です」とか、 脳の観察によって完全に言い当てられるようになった時、 私たちには、意識が物理的過程のみを原因として生じていることに、 疑いを差し挟む余地は無くなるだろう。
但し、そうなったとしても、私たちは、 この意識体験が物理過程から生じていることの不思議さを、 完全に説明されたとは思えないだろう。 だから、本当に私たちが知りたいのは、 物理過程と意識体験がどのように対応しているか (どんな相関関係を持っているか)では“無い”。 問題なのは、意識体験の「不思議さ」の方なのである。 科学者が、「ニューロンの発火パターンによって、 あなたの意識と無意識は、完璧に説明された。 この上、一体、何が不思議だと言うのだ。」と 詰め寄ってきたとする。 …私たちは、言葉に詰まる。 この“不思議さ”は、どうしても言葉では説明できない。
さて、自循論のクオリア仮説で鍵となるのは、 クオリアの生成には「外向きに世界を見る」信号だけでなく、 「内向きに自分を見る」信号も必要だという点である。 この「内側からの信号」というのが、 外界のどんなものとも似ていない、「自分感」「イマココ感」とでも呼べそうな (しかしそう言ってしまった瞬間にそうじゃないと思えるような)、 原理的に言語化不可能な感覚なのである。 それは、個々人の体験の中で、「何者でもない」というものを 積み重ねて得られる(もしくは志向される、もしくは推定される) 特別な概念であり、いわば「何者でもないことの集大成」であり、 あらゆる外界の裏返しであり、内容空疎な概念である。 捕まえようとした「これ」は、概念化・言語化してしまった瞬間に、 「それではない」ものに滑り落ちてしまう。 つまり、捕まえたと思ったものは、 もう、「イマココ感」の残骸なのである。 とにもかくにも、「内向きに自分を見る」時に、その最奥にある 北極星のような「自分感」「イマココ感」は、言語化できない。 その、捕まえられなさ、もどかしさが、 意識体験の“不思議さ”の根源だ、と、言えば言えるだろう。
さぁ、物理的にもニューロンの発火パターンから 意識と無意識の全てを言い当てられ (私が私を意識して知っている以上に、無意識まで含めて 外部からの物理的観測によって自分を解明されて)、 また、意識体験の“不思議さ”も、それは単に 「内向きに自分を見る」その景色を、 どうやっても言語化できないことに由来している、 …と、突き止められたとしたら、 最早、私たちは、意識の特権性というか神性のようなものを手放し、 意識の謎は解けた、と思って良いだろうか。
ここまでの仮説が全て正しいとしても、あと一歩、 解明したい部分が残る。 それは、脳内信号を 「外向きに世界を見る」信号と、 「内向きに自分を見る」信号に色分けし、 後者を不思議さの根源とした今、 この二つの信号が混じり合うことで、 どうして意識のスクリーン(デカルト劇場)のような 現象が生じるのか、という説明である。 言語では表わせない「自分感」「イマココ感」のようなものと、 外界からの信号が鬩ぎあう波面に、 意識のスクリーンは開設される。 多分、これは、自然な考え方であろう。 ただ、信号が「ぶつかり合う」とか「鬩ぎあう」と説明している点を、 物理法則で説明するのではなく、 あくまでも情報空間の法則として説明し切らねばならない。 (なにせ、ここまで議論を進め、仮定を受け入れた現時点では、 ニューロンと意識の相関関係の解明も、 意識体験の不思議さの説明も、終わった後なのであり、 つまり、物理とか言語とかでは説明できない何かしか、 もはや残ってはいないのである。)
おそらく、ここで要求されているのは、 情報空間における「概念」と「概念間の関係」という 単純なネットワークモデルを乗り越える概念装置だ。 (関係と概念の互換性を認める何らの理論が必要だ。) 概念と関係が相互に入れ替わるような世界と言っても良い。 (フェルミオンとボソンが相互に入れ替わるような世界と準えても良い。) どんなにこの論理を突き詰めても、それが言語である以上、 “不思議さ”の軽減には繋がらないのだから、 この検討は無駄なようにも思われる。 だが、この点を説明してはじめて、“不思議さ”の根拠である 「内向きに自分を見る」信号に、ちゃんとした地位を与えられるのだから、 考えを煮詰めておかねばならない。 しかもこれは、将来、「内向きに自分を見る」信号が どのようなクラスターの発火パターンかが判明し、 非侵襲的方法でモニターしたり影響を与えたりすることで 意識のスクリーンに影響が出たと被験者が報告することで、 実験的にも確かめられる、比較的科学的な仮説とも言える。
意識の不思議さは、 「自の感覚」が言語化できない点にある、と看破された。 言語は外界を分節化し、対象を指し示す一方通行の機能を持つ。 一方、脳内には、言語によって作成された結果としての 抽象概念の側からやってくる反対方向の(反射波のような)信号もあるが、 これは言語では扱えない。 …扱おうと思ったら、その信号の背後に回りこんで、 視覚や音声などに由来する記号に焼き直して、 改めて言語として扱う、という手順を踏まねばならない。 だが、それはもはや、もともとの抽象概念方向からやってきた信号とは異なる、 その焼き直しのレプリカもしくは残骸に過ぎない。
私たちの現実の脳内では、最抽象概念である「自」の方角からの (反射波のような)信号で溢れ返っており、 それが外界からの信号と結びつくことで多彩なクオリアが発生し、 これを寄せ集めたものとして、意識のスクリーンが開設されている。 私たちは、このスクリーンを、映画館のスクリーンのような ムラの無い綺麗なものと感じているが、実はそうではない。 綺麗に思えるのは高次の充填機能が働いているからである。 例えば、盲点の箇所も私たちは「見えている」と錯覚しているが、 これはその箇所が充填されてしまっているからである。 また、意識のスクリーンには、視覚だけでなく、 五感の全てが含まれている。
もし、「自」の方向からの(反射波のような)信号が、 光のように「見える」としたらどうだろう。 それは前方の外界の視覚情報とは反対側の暗闇の奥に輝く 北極星のようであろう。 意識が注意を向ける意識スクリーンのどの場所にいても、 その北極星(=私のいま・ここ)は振り返ると見えている。 私にとって唯一無二の北極星が、いつも意識の背後にあって、 あらゆる知覚を統一的にバインディングする仕掛けにもなっている。 しかし、この北極星は、実際には意識の中では「見えない」し、 北極星からやってくる光は、正確に言語化することが出来ない。 敢えて言えば北極星からの光は「自分感」「イマココ感」とでも 呼べるようなものだが、そう言語で言ってしまった瞬間に手垢がついて、 いつも無意識に感じているその純粋な感覚とは異なるレプリカになってしまう。 もし、北極星からやってくる光の物理的対応物を探すとすれば、それは 大雑把には前頭葉から大脳基底核の方向にやってくる信号であり、 北極星とは、これらの信号を逆算したところにあるように見える 仮想的な焦点に対応する、 前頭葉に位置する一群の脳神経細胞(クラスター)であろう。 結局のところ、私にとってのイマココとは、絶えず再構成される この仮想点であり、 海馬や前頭葉などが協調して、これを実現・維持しているのであろう。
私は、人類の叡智が、いつか物理法則を明らかにし尽くすと信じる。 私達が直接的または間接的に知覚できる、ありとあらゆる 客観的な物(モノ)の理(コトワリ)を、完全に記述できる日が来るだろう。 その時、私達は、完成した偉大かつ巨大な物理法則の記念碑を前にして、 こう問わねばならないだろう。 「…なぜ、物理法則は、このような姿をしているのか。」 その問いに答えるのは、物理学の仕事ではない。 なぜ光速度や重力定数やプランク定数は、この値なのか。 それ以前の問題として、なぜ定数なのか。 …その問いは、全て人間自身に跳ね返って来ざるを得ない。 何故なら、物理法則とは、私達人間自身が直接的または間接的に知覚できる、 ありとあらゆるものから抽出されたものだからである。 もし、「人間の持つ知覚とか意識といったものは何なのか」 という問いを回避するなら、 私達人間は、完成した物理法則の記念碑の前で、もはや何も問うことが無くなるだろう。 私達は、遅かれ早かれ「…なぜ、物理法則は、このような姿をしているのか。」と、 問わずにはおれなくなるのである。
その時、特に厄介なのは、時間と空間と論理についてである。 例えば、物理学は、その議論を始めるにあたり、既に時間を前提としている。 だから、物理法則を前にして、先ず、「時間とは何か」という問いが発生する。 ところが、これが、とびきり厄介で、時間を前提とせずに時間を議論するのは 非常に難しいのである。言葉で描こうが、数式を使おうが、論理を展開しようが、 その過程が既に時間を消費しているのであり、 私達は時間の外側に立って時間を論じることが出来ない。 空間や論理についても同様である。
結論を先に言うと、自循論とは、この、時間と空間と論理の更に背景にあって、 それ以上は砕けない第一原理となる概念として「自」を提唱している。 「自」と言い放ってしまった瞬間に、 「一瞬前の自分(時間のタネ)」「自分以外の何か(空間のタネ)」 「自分と同じ、とか、違う、といった判断形式(論理のタネ)」が 正に自動的に含意されてしまう。 つまり、「自」とは、原時間・原空間・原論理について自己定義的であり、 前提無しに時空と論理を生み出す(それ自体は内容空疎な) ありとあらゆる概念の核なのである。 そして、人間の意識も、この「自」から組み上げられるのである。 「自」を共通実装した物理相と精神相が、「自」を通して お互いを基礎付け、お互いを規制しながら、相互依存関係にある、 この状態を自循論では意味世界と呼んでいる。
脳科学のアプローチからクオリアを説明する、ありとあらゆる方法論は、 最終的には、「なぜ物理過程から、この不思議な意識体験が生じるのか」 という壁を乗り越えることが出来ない。 何故なら、物理法則というのは、 全ての現象から意識体験や主観時間を取り除いて構築されるものであり、 原理的に意識体験や主観時間を説明できないように作られているからだ。 よって、ニューロン原理(意識体験はニューロンの発火パターンから作られ、 それ以外の要因からは形成されていない、という主義)の範疇では、 意識体験・時間体験の不思議さは説明できない。 …もともと、そのような任に無いのだから、これは 実力不足とか現在の研究の不完全さとかとは全く関係ない、定義的な話である。
一方、意識体験の不思議さについては、 ニューロン原理の範疇内でも、意識体験の構成要素の半分は言語化不可能である、 という自循論の考え方で説明できる。 (意識体験は、外界からの知覚情報と、内面で維持・更新し続けている自核(=イマココ概念) からの反射波が鬩ぎ合うことで生じる、という仮説に依る。) 主観的な時間体験も同根であり、 「イマ」は、いかなる方法で語っても、過去に滑り落ちてしまうために、 直接的に言語化することができない、最も私秘的なものだ。 語るために対象化するということは、それは、意識の中核である「イマココ」の 外側に配置するということであり、それは「イマ」でない以上、過去に他ならない。 私達の脳内において既に、どう頑張っても、「イマ」は、 その純粋性を損なわずに、言語的に扱うことが出来ないのである。 結局のところ、どうやっても言語化できない「もどかしさ」が、 本質的に言語的生物である人間にとって、 意識体験や主観時間を「不思議」に感じさせるのである。
さて、いずれ物理法則が完成し、クオリアと「ニューロンの発火パターン」の マッピング作業とカタログ化も完了し、それでもなお、なぜ私達が意識体験や時間体験を 不思議がるのか、という原因すら、言語という知性の中核のありようと 意識体験と主観時間の原理的な言語化不可能性によって説明されるとしたら、 それでも残る問題は、一体何であろう。 以上が全て正しいとしても、やはり、私が私であるという認識を中心に、 この世界をイキイキと捉える「意識のスクリーン」が、 いかにして開設されるのか、という、 体感的に納得のいく説明が まだ欠けている。…これは、かなりワガママな要求だ。 意識体験が言語化不可能な要素から成立しているとまで分析しておきながら、 その体感性を言語で説明しろと求めているのだから、 これは無いものねだりの要求として突き返しても良いように思われる。 実際、意識現象はほぼ解明されたのであり、あとは何故、 私達が「意識のスクリーン」のような壮大な幻想や錯覚を持つのかを細かく詮議し、 解体し、究極的にはそれを問う価値の無いものに引き下げられる、 という方向性で考えている人もいる。 意識と無意識の明確な境界など存在しない。 盲点の映像を視覚の高次機能が充填してしまうのと同様、 自分の意識体験を自己確認している時を除いた情報処理の諸活動は、 それが均一に永続しているように充填されてしまい、 「意識のスクリーン」「デカルト劇場」といった錯覚が構成されるのだ、と。 それは実際、正しいだろう。 外界の三次元空間プラス一次元時間の世界が、 「意識のスクリーン」に、そのまま隅々まで精密に常に再現されている、 というのは、確かに錯覚なのだ。 だが、ちょっと待て。だからと言って、 意識体験全部を錯覚だと決め付ける理由は何も無い。 結局のところ、「意識のスクリーン」なる壮大な錯覚が構成されるタネとなる、 自分で自分の意識に注意を向けてチェックし、確かに私は意識を持っている、 と結論できる、その瞬間の謎が解かれていない。 確かに、その結論が過剰に充填・敷衍されて、「意識のスクリーン」という 壮大な錯覚が生じているのだから、その“壮大さ”は錯覚だと言って良い。 だけれど、この、“意識そのもの”が錯覚だと言うのは、論理的に飛躍がある。 たとえ壮大では無いにせよ、そして自分に注意を向けた時だけであるにせよ、 確かに自分が自分であると感じる瞬間は存在し、 それは錯覚などではなく、「意識のスクリーン」のタネとして、 ちゃんと意識されているのである。 いくら意識を錯覚に過ぎないと主張し、その役割や権限を引き下げても、 それは量的な成果に過ぎない。 私が私を確認できるという、決して錯覚ではない真実の瞬間に、 意識の謎の質的な部分は、丸ごと残されたままだ。
外界からの情報をシャットアウトし、可能な限り自核からの信号だけで 脳を静かに満たす瞑想状態では、言語化は不可能だとしても、 「自分で自分を意識する」という状態を、 より純粋に取り出し、反芻したり分析したりできるかも知れない。 それは、更新され続ける自核(イマココ)と、一瞬前の自核の、 それぞれに由来する波面が織り成すモアレ模様のようなものかも知れない。 それすら、ニューロンの発火パターンとして、解明されるかも知れない。 …だが、たとえ科学がそこまで至ったとしても、それが何故、 意識体験のタネになるのか、という、 「体感的に納得のいく説明」に至る時に渡らねばならない、 客観と主観の間の大きな溝は、少しも傷つかずに横たわったままなのである。
私達は、以上の検討を通して、意識のタネとなる自核の自覚、という、 その真実の瞬間にまで、意識の謎に関する包囲網を狭めることが出来た。 それは究極的には言語化不可能な体験に基づくのではあるが、 言語は「語り得ないものの輪郭」を、このように引き絞っていく力を持つ。 私達は、「自核の自覚が、いかにして意識体験のタネになるのか」 という、あらたな問いに逢着することが出来た。 この問いは、ニューロンの発火パターンとの対応関係・相関関係として 論じることで、物理相と情報相をつなぐ重要な架け橋になる。 一方で、物理基盤から離れて、この問いから、意識体験の世界、 すなわち精神相がどのように開設されていくのかを組み上げていく必要もある。 物理相との相関を担保しながら、精神相の独自性も主張していく。
「自核を自覚する」ということを、情報世界の中で定義し、 「自」に埋め込まれた原時間・原空間・原論理を紐解いて、 悟性(外界を理解する枠組み)のワンセットを導出し、 ここに外界(物理世界)の情報が流入してくる時、確かに私達が体験している 馴染み深い意識が生じることを、体感的に納得できるように説明できれば、 最後の謎も消えるであろう。 (実のところ、この議論を可能とするために、「自」を第一原理として、 世界を物理相と精神相を相互依存関係として統合する、 という自循論の枠組みが作られたのであるが。)
(補足)
この議論を、これからも継続するに当たって、 「精神相は、物理相の完全従属物ではなく、存在を認めるに値する 独立な相として認めて良いのか?」 という疑問にも取り組まねばならない。 これから、「自」の定義と、「自核の自覚」という運動を元に、 精神相を組み上げる時、それが物理相に容易に還元され尽くす何かではなく、 独自の相として研究すべき、つまり物理とは別種の説明次元を要するものなのか、 という疑問である。 確かに、精神相は、物理相との対応関係を持つと思われる。 精神相のいずれの概念や思考についても、 それに対応するニューロンの発火パターンやその変化が 理論的には存在するだろう。 しかし、それを知ることが、原理的にとは言わないまでも実践的に不可能なのだとしたら、 私達は、説明のために、精神相を、物理相とは異なる相として認めるべきだろう。
実際、物理相も、精神相も、「自」を実装しており、すなわち、 原時間を共通実装しており、客観時間と主観時間は対応付け(重ね描き)が できるのであるが、この「時間」ゆえに、物理と精神の完全な対応付けは 実践的には不可能になると考えられる。 たとえラプラスの悪魔が全原子の状態を把握していたとしても、 その1秒後の状態を予測するのに1秒以上かかったのでは 未来を知る能力がある事にはならない。 同様に、物理相の側に、精神相の未来を、それが実現するよりも速く 予言する能力が無いならば、 精神相は、物理相とは独立の相として扱うべきであろう。 (これは、人間には自由意志がある、という論拠にもなる。) 物理宇宙自身が、1秒後のことは実際に物理宇宙を1秒間走らせてみないと 正確な1秒後を得られないのだし、 その瞬間の状況を確認するには、 測定器具自身を完全には測定できないという現実的な限界と、 不確定性原理による本質的な限界により、精度の制限がある。 人間の脳内に数兆もあるシナプスの状況を、 脳を脳のまま生かしながらリアルタイムに把握するのも、 不可能であろう。 私達には、精神相という説明次元が必要なのである。

私という人間存在を規定する外延を、どんどん剥がしてみよう。 サラリーマンであること、夫であること、父親であること、 男であること、人間であること、動物であること…。 それら全部を剥ぎ取っても、まだ、私は私である、という、 この「魂」のようなものは残るように思われる。
ここで更に、私が私を見ている(自覚している)という この魂の性質のうち、「見られている側」の私をも抜き取ってしまおう。 そこに残るのは、純粋に「見る側」の私である。 全てを剥奪した後に残る、この「見る側」の私というのは、 魂の芯のような実在では無い。本当の本当に、無である。 それはそうだろう。 この「見る側」の私は、あらゆる存在を見る純粋な主体であり、 従って存在の一員では有り得ない。 存在の一員で無いものは、無としか呼びようが無いであろう。
あらゆる意味で、「見る側」でしか無い、 決して誰からも見られない、自分からも、見られようがない、 つまり、いかなる意味でも決して存在として認定されることの無い、 純粋な「見る側」(主体)としての私。 これは、絶対無としか呼べない何者かである。

ただ、現実的には、そんなに綺麗な純粋主体や絶対無が、 私たちの意識の中核にあるわけでは無い。
脳の演算能力が許す範囲で、あらゆる存在で無い 「見る側」の私が計算されようとするのだが、 世界はどんどん動いていくので、 無限の演算能力でも無い限り、「あらゆる存在では無い、見る側の私」が 確定的に求まることは無い。 それを求め続けると同時に、「見る側」の私は、記憶に滑り落ちて 「見られる側」の私に変質してしまう。 このような、無限に足元が崩れ続ける自分探しの再帰演算が、 私の、もしくは意識現象の正体なのだ。

このような演算が、なぜ脳において可能なのであろうか。 それは、脳の神経回路網が持つ『可塑性』による。 CPUとメモリが明確に分かれているコンピューターと異なり、 脳には演算と記憶の明確な境界は無い。 繰り返される思考の癖がそのまま記憶になるのである。 実際、人間には静的な記憶など無い。 脳のどこを見ても、自分の名前が刻まれた細胞が見つかるわけでは無い。 脳に出来るのは、「思い出す」という演算だけなのだ。
だからこそ、脳は、「見る側」の自分を求める演算を行いつつ、 それが記憶に滑り落ちて、逐次「見られる側」の自分になっていく。 このような、自我核を求めつつ、その求まりつつある自我核ですら 記憶になって、次の自我核を求める演算の対象となり、 延々と核の中の核の中の核…を求め続ける演算が持続する。 このような現象のことを、意識と呼ぶのだ。
意識の円錐モデル
自循論における意識の考え方を分かり易く説明する「円錐モデル」を以下に示す。
まず、自分によって知覚されている範囲の世界を円Aで表現する。 目の前に見えている景色なども、ここに含まれる。
次に、この円Aを対象として認識している自分が、円Aより内側に存在する、 と考える。ここでは取り敢えず、 目玉よりも頭蓋骨の中に意識の主体があるようなイメージで捉えれば良い。 ここで重要な点は、円Aを認識している意識主体は、 円Aの内側にあるだけでなく、円よりも未来にいるということである。 相対性理論の根底にある原理の通り、情報伝達速度には上限があるので、 「遠くに認識されているもの」は、常に過去の姿である。 例えば物理宇宙であれば、三千光年先に見える星は、三千年前の姿であり、 1メートル先に見える机は、0.0000000033秒前の姿である。 同様にして、意識主体から遠いものは、相対的により過去であり、 意識主体に近いものは、相対的により未来、と考えるのは自然である。 そこで、もともとの円Aより少し小さい円Bを、円Aの少し上に描いて、 円Aよりも意識主体に近い情報として表現することにする。 ここでは、上方向に行くほど未来を表現する。
円Bは、円Aよりは「意識主体=自分の核=イマココ」に迫っている。 もっと範囲を狭め、円Bより小さい円Cを、円Bの上に置くと、 円Cは、もっと「イマココ」に迫っていると言える。
究極的には、円は限りなく小さくなり、一点Pにまで収束する。 このPが仮想的な「イマココ」である。 ここまでで、円Aを底面、点Pを頂点とする円錐がイメージされたはずだ。
さて、実際の人間の生活では、底面の円Aは、時間と共に 動画のようにどんどん変わっていく。 人間の脳は、これに合わせて、いつもフル回転で常にPを 再計算しようとする。これによって、つまり、この円錐形=意識を 維持しようとしている。
一方で、円Aから点Pに向けたステップとして途中計算された円Bは、 次の瞬間には、より過去の円Aに滑り落ちる。 円錐自体が時間の流れと共に上昇するイメージを持つと良い。 自分の中で計算された全ての概念は、どんどん「イマココ」から離れ、 対象化され、記憶の中に落ち込み、ついには知覚対象(外界)と同じ 円Aと同じ位置に至り、それよりも遠くに滑り落ちると、 「円錐」なる自己意識の枠組みの外に、長期記憶として掃き出される。 点Pから見ると、全ての情報は円Aの裏側に遠のいていくことになる。 正に、外界との接点としての「身体的現在」を表す円Aの 背面にあるということが、「より遠くにあり」「より過去にある」 ということを表すことになる。
進化の過程で、脳は身体中の知覚情報から 統合的な「自分」の位置を推定し、その他の外界の情報と組み合わせて 脳内に行動を制御するためのシミュレーション空間を築き上げてきた。 そのような機能が更に質量を増した結果、人間の脳は、 円A→円B→…円Y→円Z→点Pと、真の「イマココ」を求めようと 常にフル稼働できるようになった。(なってしまった。) 一方で、(脳神経回路の特定の結合の強化=記憶という形で) 全ての計算結果は過去に押し流されていく。 点Pの影は円Zの位置に落ち込み、円Zの姿は円Yに影響する。 この円錐には、円A→点Pを求める計算の流れと、 点Pや途中の計算結果が次々と記憶に定着してしまうという意味で 点P→円Aの方向に逆流する流れが混在しているのだ。 (脳にとっては、「計算」と「想起」に区別はなく、 「計算回路が書き換わる」ことと「記憶する」ことにも区別はない。 大脳基底核から前頭葉に至るまでの巨大な脳ネットワークでは、 変化する円Aに追随して点Pを求め続ける計算回路の最適化の努力と、 それらが記憶回路=計算回路として定着化していくプロセスが、 正に混在して稼動している。 なお、脳の働きをいくら観察しても、円Aや点Pがどこかにあるわけではない。 このような複雑な双方向の情報流を分かり易く概念化したのが この「意識の円錐モデル」である。)
このように、脳が扱う情報を、円錐モデルに焼き直して見ると、 以下の2つの方向の計算が混在している「場」が意識である、と 整理することができる。
  • 変化する外界からの知覚情報(円A)に追随し、常に、 可能な限り上位の点P(可能な限り内側で、可能な限り未来の一点)を 求める計算プロセス
  • 自己の核(点P)や計算の途中成果物(円B、円C、…円X、円Y、円Z)が 次々に記憶として定着していき、円Aやその裏側(意識外の記憶)、 つまり過去の方向に滑り落ちていくプロセス
これが意識体験を生み出す計算様式である。 (円Yに注目してみると、この層の情報は、円Xから点Pを求めようとする計算結果と、 円Zが記憶に定着する影としての情報が、ぶつかりあって形成されている。) 仮に脳に無限の計算能力があれば、各瞬間に点Pが理想的な一点として 求まるであろうが、現実の計算回路では(脳であれ何であれ) 自己言及の計算が瞬時に完結することは無いため、 点Pは「求まるもの」ではなく「目指すもの」と考えた方が良い。 つまり、脳は「イマココ=点P=自a」を常に全力で計算し続けているが、 それは常に「求められつつある仮想点・極限」に過ぎない。
人間の脳という臓器は、人類がこの宇宙で発見した最も複雑な構造物である。 五感からの膨大な情報を入力として(上記説明の円A)、 常時フル稼働で「自分=イマココ」(上記説明の点P)を推測し、 維持し続けようとし、ある程度これに成功している。 このような円錐形を維持し続ける計算様式が「意識」もしくは「知性」なのである。
この円錐(意識)の底面円Aが、意識のスクリーンに相当する。 円Aよりも過去(すなわち意識の円錐の裾野)には、広大な無意識が広がっている。 そこには、五感から到達しようと駆け上ってくる情報流や、 長期記憶として沈着したものが想起されるために駆け上ってくる情報流などが 莫大かつ複雑に蠢いているが、意識されることは無い。 円Aより上位の円は、どれも意識を構成する抽象的な情報であり、 概念ネットワークである。それは、より外側からやってくる情報と、 より内側からやってくる情報のミックスであり、 そのミックスの過程がクオリアを生む。 意識は多層的であり、どの層の円も意識を構成する要素であるが、 大雑把に言えば、上位の円から下位の円に落ち込んでいった情報の成分の総体が 「見られるほうの自分=自b」であり、目指されているイマココである点Pが 「見るほうの自分=自a」である。 このように、「見る自分」と「見られる自分」を維持する計算様式が、意識なのである。
自由意志
唯物論と矛盾しない自由意志
  1. 意識主体の判断を、その意識主体に先立って完全に予言できるものが無い場合、 (意識主体の判断がアルゴリズム的に圧縮できない場合)、 その意識主体は自由意志を持つと定義する。
決定論と自由意志
「私が私である、という、このリアルな意識体験」は、 どのように説明し尽くされるのだろうか。 その基底にあるのは、「自のクオリア」である。 これは、私が私のことを考え続けるだけの連鎖であり、 物理的には、脳神経回路網が、脳神経回路網のことだけを 情報処理している状況であり、無色透明の、まさしく「自循」そのものである。 おそらく、この、「カラッポの体験」こそが、 ベルクソンの純粋持続の指し示す事象であろう。 ここに、視覚や触覚などの情報が流入して、情報処理過程に生じる変調が、 「赤のクオリア」とか「痛いというクオリア」などになる。 では、私たちの意識は、この、質感の体験としての受動クオリアとして 説明し尽くされるものであろうか。 そうではない。このリアルな意識体験の、もう一つの特徴は、 「私こそが、私のありようを決めている」という能動性、つまり 自由意志や判断力にある。 「私は人間だ!」と叫ぶ時、その内訳は、 リアルな意識体験を持ち、かつ、自分の判断で未来を選択している、 という実感を伴っている、ということになろう。
まず、無色透明な「自のクオリア」がある。 ここに、感覚器官経由の外来情報が入り込み、 「受動クオリア」「感覚クオリア」が生じる。 一方、外来的な入力信号に依存せず、自分自身の思考のフィードバックの結果か、 もしくは無意識層からのヒラメキのような内製情報が入り込んで、 「能動クオリア」「意志クオリア」が生じる。 この両方が揃ってこそ、私たちの自意識は、リアルな意識体験となるのだ。
さて、この「意志クオリア」の内訳を、更に詳しく見てみよう。 すると、「自分の意志で未来を選択している」と言えるためには、それが 「内製的」であり、かつ「下層従属ではない」という事が条件となるだろう。 私たちの脳内で発生する「意志クオリア」は、 外部からの信号の直接の反応でもないし、なおかつ、 化学反応や電気信号に完全に従属しているわけでもない、 と信じられなければ、私たちは「意志クオリア」を「意志」と呼ぶのを躊躇(ためら)うだろう。
それでは、私たちの自由意志は、本当に下層従属では無いのだろうか。 私たちは、決定論に従い、機械的な化学反応や電気信号の組み合わせに過ぎない、 と言い切ってしまえないのは、どうしてなのか。 実際、科学の成果を十分に尊重し、丹念に検討を重ねていけば、 “原理的には”私たちは単なる決定論的機械だという結論になりそうにも思われる。 自由意志や能動性を擁護する積極的な理由は、どこにも無いように思われる。 しかし、本当にそうだろうか? 私たちの「この能動的思考」は、本当に、化学的に説明可能な 分子運動以上の何者でも無いのだろうか?
現実に目を向けよう。私たちの脳内で機能している、 膨大な分子の作動の様子に比べると、 私たちの知的活動は、あまりに高次元で、あまりに曖昧だ。 “原理的には”私たちの意識は化学反応の集積に過ぎない、と主張しても、 この知性を、 単なる化学反応に結び付けて、直接的に説明しきる事など、 現実的には到底できそうにない。 “原理的には”そうだ、と、幾ら言われても、 “実践的には”私たちの自由意志は、 物理法則や化学反応の奴隷には、実感として、どうも成り得ないように思われる。 “実践的には”、唯物論者と決定論者が束になって、 【私たち】の思考を全て化学反応と電気信号で説明しきろうとするよりも速く、 【私たち】は悠々と思考空間を広げていくことが出来る。 知的思考としての科学的な説明は、【私たち】の知的思考の発展に追い付けない。 脳内の電気信号の分布は確定的に記録するには複雑過ぎるし、 その結果として実現する脳内の思考空間は、曖昧で複雑で、かつ広大過ぎる。 その間に、直接的な1対1対応があることが“原理的には”可能だと言われても、 “実践的には”それを示すのは不可能だ。 だからこそ、私たちは、真に自由であり続けられるのだ。
「下層従属でないこと」を、もう少し詳しく見てみよう。 より低レベルの現象が、多数連動して、あらたな 意味レベルの挙動を形成する時、 各々のレベルが「相」を成す、と呼ぶことにしよう。 「相」の条件は、時間の流れの中で安定していること、そして、 その内容が、下位レベルの相の挙動で説明し尽くせないことであるとする。 (説明され 尽くすなら、それを“新たな”相、と呼ぶ意味が無い。) おそらく、素粒子→原子→分子→生命細胞→神経的自己→知性 という階層は、それぞれ「相」を成しているだろう。 “原理的には”下位レベルの相の挙動に完璧に従うのであろうが、 無常に時間が流れていく、このリアルな宇宙においては、 現実的な時間で下位から上位を説明し切ることは出来ない。 上位層の現実の方が、どんどん先に進んでしまうからである。
「新たな相」の、実践的な条件定義を試みよう。
  • 各々の相には、互いに識別できる状態があること。
  • 相は開かれており、状態数に制限が無いこと。
  • 下位相の状態から上位相の状態を推定するための、 現物とは異なる、より高速な物理過程か、もしくは 計算アルゴリズムが“存在しないこと”。
最後の条件は、つまり、 「どうなるかは、実際にやってみて確かめるしかない」 ということである。この条件を満たすならば、 下位相が上位相を具体的に説明し尽くすことは “実践的には”不可能である。 例えばもし、遺伝子配列から、生まれる赤ちゃんの肉体の全てを、 コンピューター内部で高速に計算できて、 これが「実際に母親の体内で子供を育ててみる」ことより 高速にできるならば、遺伝子に対して、新生児の肉体は、 新たな相とは言えない。十分な時間を掛ければ、 全ての肉体のパターンは、遺伝子によって、 説明し尽くされてしまうだろう。 しかも、これは、遠い将来には有り得そうな話である。 では、脳の神経回路網と化学反応・電気信号のパターンから、 実物の脳よりも高速な計算器か、別のアルゴリズムを用いることで、 現物の脳が考えるよりも速く、どんな思考や感情が生まれるかを、 推定することが出来るだろうか? これが「永遠に不可能」とは断言できないし、証明することは難しい。 しかし、現時点では、見込みは全く無いし、おそらく不可能であろう。 人間が何を考えるかは、その人間と、その環境を、 丸ごとシミュレートするしかなく、それは結局のところ、 この宇宙そのものをシミュレートするということであり、 それは、この宇宙の内部においては当然不可能である。
「私という感覚」「自のクオリア」× (「感覚クオリア」「意志クオリア」という図式において、 「意志クオリア」は、内部から湧き上がるものであること(内製的であること)と、 それ自身で意味を為していること(下層従属でないこと、独自の相を成して、 自己完結していること)という条件で、実践的に成立しているであろうことを 見てきた。私が私である、という、この不思議な感覚の解明も、 一通り終わったし、この図式は、日常的な「私」の感覚に照らしても、 違和感の無いものであろう。
最後に、「意志クオリア」は、“実践的には”下層従属でなく、独自の相を成す、 と言えるが、“原理的には”やはり決定論、機械論が勝利するかも知れない、 という点に言及しておく。私は、“原理的にも”決定論、機械論は敗北すると考える。 新たな物理過程と優れたアルゴリズムで、上位相が下位相の挙動で 完全にエミュレートできるようになったとする。 知性→神経的自己→生命細胞→分子→原子→素粒子と、次々と単純なものに 挙動が還元されていくとする。しかし、そこに待ち構えているのは、 不確定性原理である。素粒子まで行き着くと、確定的なエミュレートはできない。 量子脳仮説のように、脳自身が微細管を用いた量子コンピューターだと主張しなくても、 そもそも、あらゆる物理現象には、不確定性原理の霊性が宿っている。 そもそも、この宇宙は、無限乱雑場から、【私たち】が切り出した有限物であり、 プランクスケールの向こう側の無限小に隠れた霊性は、 【私たち】が切り捨てたものであり、【私たち】が【私たち】である限り、 永遠に確定できないのである。(確定できたら自己無矛盾性は維持できない。) 不確定性原理の話を脇に置いたとしても、素粒子レベルでの挙動から 【私たち】の知性までを再現するということは、知性体の相互作用と 環境条件を素粒子レベルから組み上げるということであり、結局のところ、 それは、宇宙内部で宇宙全部をエミュレートすることに他ならず、 それはこの宇宙自身以外の何物でも有り得ない。 結局、「宇宙がどうなるかは、実際に宇宙を走らせて確かめるしかない」し、 「私が何を考えるかは、実際に私が生きて考えてみるしかない」のである。

2.生命相
情報相と物理相を繋ぎ、自己生成と動的平衡を実装するもの
私達の地球における生命の起源を、恐ろしく単純に描けば、 (1)境界(ベシクル膜)、(2)自己情報(RNA)、(3)代謝(機能性タンパク質)、 という原始的3システムが偶然出会い、 それらの運命共同体としての細胞(生命の最小単位)が作られた、 というシナリオになるだろう。
生命世界は、最初の細胞の構成時点から開始され、 オートポイエーシス的システムとして進化時間を突き進み、 系統樹の進化空間を広げ、いずれ全ての種が滅びることで終了する。
生命相は物理相によって基礎付けられているし、 精神相は生命相によって基礎付けられている。 ここでは、生命の起源と進化を、よりシステマチックに見ることで、 生命相を、物理相と情報相の相互依存の間に、 必然的に立ち上がってしまう媒介現象として捉えてみよう。
生命相の意味
自循方程式、即ち 『世界(自己完結)= 物理相(自己保存) + 生命相(自己生成) + 精神相(自己認識)』 という枠組みにおいて、 生命相は余計だという考え方もあると思う。 確かに、安定存続の基盤たる物理相と、 これを認識する宇宙の内部観測者としての精神相があれば、 世界は十分に完成している、と言えるかも知れない。
例えば、生命を一切含まない、 コンピューターが精神を宿すような宇宙も、 コンピューター内の精神が現存在として機能する以上、 自己完結した世界は立ち現れているはずだ、というわけだ。
生命相は、本当に、世界の必須構成要素では無いのだろうか。 自循方程式から、生命相を削り、 よりシンプルな式に整形した方が良いのだろうか。 これについては様々な意見が有り得るだろうが、自循論においては、 自循方程式から生命相は削れないとの結論に至っている。
もともと自循論の枠組みでは、生命というのは、 物理身体という側面で物理相に所属し、 内部の情報処理という側面で精神相に所属する、 物理と精神の媒介項のように位置づけられていた。 身体表面(知覚端点)が、丁度、 物理と情報が一対一に対応する自我境界線を為し、 物理相と精神相を重ね描く接合面になっているのである。
しかし、これだけの必要性であれば、 物理相と精神相が隣接する境界面に 生命という現象が仮現するというだけで、 生命相という独立相を立てるまでも無いように思われる。
だがもし、 『世界(自己完結)= 物理相(自己保存) + 精神相(自己認識)』 という構成にすると、自循論にとっては困ったことが2つ起きる。
  1. 精神相の中核を為す「イマココ」は、 身体という自我境界を担保とし、その極限の内側として 求められ続ける。 物質が漂うだけの世界からは、自循論のスキームでは 精神相が立ち現れる根拠が無くなってしまう。 (生命の最小単位である細胞の重要な性質は、 境界を持った上で、外部と物質や情報の授受が行われる、 という点にある。)
  2. 自循論で極めて重要な有限性の拠り所が無くなってしまう。 生命相を含まない方程式からは、 「永遠に自己認識(内部観測)が持続する宇宙」 という気味の悪い解が得られてしまう。 (無限を肯定する理論では、あらゆる有限は(有限÷無限=0なので) 無意味になってしまう。) オートポイエーシス的システムが、個体として自己の破壊と生成を繰り返し、 種として環境に過適合して環境変化により絶滅する、という 生命相の在り方に重ね描かれないと、世界は有限という制限を持てず、 よって世界が意味・価値・道徳・美などを持つことも無くなってしまう。
結局、自循論のスキームでは、物理相、生命相、精神相は、 相互に還元不可能な世界の必須コンポーネントと結論することになった。
更に構成要素を増やす必要も無いであろうし、 これ以上簡潔にすることも出来ないであろう。
生命と身体性
自己言及的な変化の実装
  1. 生命は「自」を実装している。 つまり、唐突に開始し、変化し、有限活動後に消滅する。
  2. 生命は、細胞、個体、種の、どの相でも「自」を実装している。
生命と意識
私達の身体を構成する60兆の細胞は数年でスッカリ入れ替わってしまう。 筋肉は七ヶ月、血液は三ヶ月、皮膚は一ヶ月で、全ての細胞が新品になる。 これは物凄い勢いである。例えば血液細胞は 体内で「たった1秒の間に」350万個も死に、また、補給されている。 骨ですら2~3年で全ての細胞は入れ替わるし、 私達の意識を内包する脳も、一つ一つの脳細胞の単位で見れば、 一ヶ月で40%が、一年で全てが新品の細胞になる。
だから、身体というのは、ずっと不変で存在するものというよりも、 激しい入れ替わりの中で、一定の形をなんとか維持しているもの、 言わば激流の中で同じ形状を維持している渦のような“現象”だ、 と言った方が実態に合っている。 分子生物学的に見ても、 個々の細胞を形作るタンパク質同士というのは、 ガッチリ結合しているのではなく、 絶妙のバランスで強過ぎず緩過ぎず寄り添っている、 と言った方が適切である。
生命は、これほどまでに猛烈な勢いで古い細胞を排出し、 食物を摂取し、新しい細胞を形成し続け、 「エントロピー増大の法則に従って自分が壊れてしまうこと」 を防いでいる。 実際、生命活動が停止した死体には、 即座にエントロピー増大の法則が襲い掛かり、 あっという間に腐敗し、形状がぼやけ、消えてしまう。
「私が、同じ私であり続けている」という感覚、 すなわち「意識」を運んでいる この「身体」という“現象”は、 物理的には1秒たりとも同じ状態ではない。 無意識層下のあらゆる生命活動は、 疾風怒濤の如く入れ替わる細胞を巧みに調整して 身体が一個の身体であり続けるべく、 毎秒、気の遠くなるような仕事をしている。 それら全ての莫大な活動の共通部分が、 無意識の内に人間の複雑・巨大な脳に伝わり続け、 情報として抽象化され、蓄積し、精錬され、 大脳の一番端っこの前頭葉に、 「自分」という最も純粋な概念(シンボル)を生み出した。 人間に何らかの情報を入力すると、何らかの情報が出力されてくるが、 その折り返し地点にあるのが、脳の部位で言えば前頭葉、 意味論的に言えば「自分」という概念、ということになる。
「意識」などというものは、無意識層以下の身体の全てに比べれば 氷山の一角とすら呼べないほどの小さな小さな“現象”である。 しかし、精神相内に、「自分」という 唯一無二の絶対的に不動な概念を明確に持つに至ることで、 世界における確かな折り返し地点、絶対に崩れない足場を得て、 自分で自分の人生の意味を考え、 物理法則の奴隷としての機械ではなく、 自分の自由意志で行動を選択する、 という構造を勝ち取れたのである。 それほど大事で画期的な「自分」という概念も、 その源泉は「身体」にある。 無意識層下の莫大な情報処理や、 数年ですっかり細胞を入れ替えながらも自分であり続けている 「身体」のありようと切り離して、 意識とかクオリアという現象だけを取り出して考えたり、 ましてや意識のありようだけをコンピューターで シミュレーションしようとする試みは、 おそらく、出発点からして間違っている。
物質としての構造・境界である身体こそが、 「自己」という抽象概念が 精神相の中で確固たるものとして自然発生する根拠なのだし、 身体自身が自己保存を目標としているからこそ、 抽象概念としての「自己」を保存するための 様々な思考や判断を行うわけである。 (永遠の命は、思考や判断を行う必要性自体を失ってしまう。)
意識以前の層(下等動物の脳の機能とか、無意識層の働き、 と言っても良い)において、 あらゆる情報にべったり貼り付いている 「体」と、その「生きたい」「死にたくない」という反応が、 精神相において抽象化され、 不動の地位を得た姿が「自己」であり「意識」である。 だから、コンピューターに意識を持たせようと思ったら、 結局のところ、身体性と本能まで 丸ごとシミュレーションする必要があり、 脳だけ取り出してその挙動をなぞっても意識は発生しない。
こう考えてみると、チューリングテストをパスするような 「意識」をシミュレーションできるようになるには、 先に「人工生命」のシミュレーションが必要なようであり、 生命と身体性の問題を飛び越えて 知的存在をコンピューター上に実現させようとする試みは、 むしろ遠回りなのかも知れない。
進化
外界との完全調和なる終局を目指す
  1. 生命の進化の結果、神経的自己が形成され、自己を中心とする精神相内で シミュレーションを行うことが出来るようになった。
  2. シミュレーションは、身体を用いない試行錯誤であり、 この能力は、生存競争において極めて有利である。

3.物理相
安定した存在の基盤を与えるもの
ここでは、最新の物理理論を概観するのではなく、 「自」を実装した物理相が、 必然的に有限のプランク定数や光速度を導くことを示し、 物理法則を基礎付けることを目的とする。 私たちが住んでいる、この物理宇宙の他にも、無数の物理宇宙があって良い。 その物理宇宙が、「自」を実装し、生命と精神を内包するならば、 そこには、その宇宙なりの、量子力学や相対性理論のようなものが 必然的に存在せねばならない。
真・創世記
初めに、神は、無限乱雑場を創造された。
無限乱雑場は混沌であって、 闇が無限乱雑場の面にあり、 神の霊が存在を求めて動いていた。

神は「自」と言い放たれた。こうして、「自」があった。
神は「自」を見て、良しとされた。 神は「見る自」と「見られる自」を分け、 同じ自と、異なる自という、矛盾を作られた。 原論理と純粋数学の始まりである。
神は言われた。 「自の中で、“見る自”を現在、 “見られる自”を過去、と分けよ。」 神は自の二つの区別を創り、 存在を過去と現在に分けさせられた。 そのようになった。

神は言われた。 「自が、どこでも成り立つ場を成せ。 (特殊相対論的時空を張れ。)」 そのようになった。
神は自と他を分ける仕組みを空間とと呼び、 “見る自”と“見られる自”を分ける仕組みを時間と呼ばれた。 神はこれを見て、良しとされた。
神は言われた。 「時空に歪みがあって、多くの“自”が共通認識できる しるしとなる、質量となれ。」 神は、時空の歪みとしての質量を造り、 質量が作用し合う万有引力にこれを治めさせた。
神は、質力と存在が精密に観測され尽くされることで潰れないよう、 絶対に潰せない曖昧な範囲を設けられた。 (不確定性原理を加えた。) 神はこれを見て、良しとされた。

神は、時空と質量を組み合わせて、生命という現象を創造された。 神はこれを見て、良しとされた。
神はそれらのものを祝福して言われた。 「産めよ、増えよ、世界に満ちよ。」
神は言われた。 「我々にかたどり、我々に似せて、 “自”を体現し理解する存在を造ろう。 そして、海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、 地を這うものすべてを支配させよう。」
神は御自分にかたどって、人を創造された。 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。 見よ、それは極めて良かった。

天地万物は完成された。 その後、神は、御自分の仕事を離れ、安息なさった。
客観的な時空
客観時空は、原時空からいかにして構成されるか
  1. 主観時空から、個々人の自核の特権性を剥奪し、 複数の主観によって共有される客観時空なる共同幻想が構築される。
自と時空
宇宙から、星とか素粒子とかの物質を、どんどん取り除いていくと、 「時空」というカラッポの入れ物だけが残る。 自分から、記憶とか思考とかの情報を、どんどん取り除いていくと、 「自我」というカラッポの芯だけが残る。 この、カラッポになった「時空」と「自我」は、同源のものである。
まず、無限乱雑空間がある。(便宜上「空間」と呼んでいるが、 本当はこれは空間以前の実在であり、私たちは如何なる意味でも 無限乱雑空間が何者なのかは想像することができない。) ここに「自我」の光を照らすと、諸現象が浮かび上がり、 その背後に「時空」という枠組みがあることになる。 無限乱雑空間の同じ領域を照らす多数の<私>にとっての 共通の枠組みが客観時空であり、照らし出されたものが 物質なり情報として認識されるわけである。
<私>から出発して、無意識に降り、身体性・生命性をインタフェースとして 物理世界に接し、地球、銀河、宇宙全体まで視野を広げ、 その全体を支える時空なる枠組みだけに注目すると、 それは<私>の核を構成する「自」に等しいことに気づく。 こうして、精神相→生命相→物理相→精神相、という関連の円環が完成する。 これが自己完結した「世界」の姿である。
言語と時空
広義の「言語」とは記号一般であり、日本語や英語などの自然言語以外にも、 言葉にならない声や表情やアイコンや音楽や絵画なども「言語」になる。 つまり、ある媒体によって、意味や情報が識別・保存されて、 別の人に伝わる可能性があるなら、それは何であれ「言語」と言える。
ここで良く考えると、「言語」には2つの意味で「空間」が前提とされていることになる。 一つは、伝える側と伝えられる側を隔てる「物理空間」であり、 もう一つは、ある意味と別の意味を隔てる「情報空間」である。

先ず、「物理空間」について考えてみると、「言語」はそもそも 自分が伝えたいと思っている内容が言語の媒体に翻訳されて相手に届き、 これが相手の精神の中で復元された時には自分が伝えたいと思ったことが再現されている と期待されている。 勿論、期待通りに伝わったということは確認しようが無いのだが、 一般的には、様々な角度から色々な言葉で言い換えて伝え、 相手の反応を見ながら、おおよそ正しく伝わったであろう、 という判断くらいはできる。
それは何故かというと、この物理空間は、どの一点を取っても 同じ法則に支配されている、という前提があるからだ。 これは、宇宙はだいたい一様かつ等方で、特別な場所は無い、 という「宇宙原理」を思い起こさせる。 同じ性質の空間で、同じ物理法則に支配された身体や脳が、 たとえ別の場所にあっても、だいたい同じことを考え、 同じような解釈を行い、同じようなクオリアを持っているだろう、 と想定するのは自然であろう。 (自然ではあるが確認しようが無いので、 哲学的ゾンビとか独我論の余地が出てくるのであるが。)
言語はそもそも、自分と他人を外側から見て、 共通に理解されると期待される記号を授受するものだ。 だから、純粋に自分の中にしか無いもの、 例えば「自分が自分であるという、この何とも不思議な、 唯一無二のナマ意識体験感」などは、 客観的には確認のしようが無い概念であり、 うまく言葉として確定した位置を占めることができない。
それでも、言語を駆使し、主観的な内容についても、 哲学的に緻密な議論や、詩や音楽や絵画によって、 何とか伝えられるはずだ、という幻想を抱けるのは、 物理空間上の各点が平等・対応・等質である、ということが 前提されているからに他ならない。 「言語」は、正にこのような「物理空間」を前提に使われる。
また、「A点からB点に伝わる」ということが言えるためには、 A点とB点は本質的に分離されていなければならない。 A点からB点にゼロ秒で情報が伝わるとしたら、 A点とB点は分離されていることにならない。 正に、A点とB点は同じ場所にある、ということになる。 情報が伝わるという現象そのものに、 時間経過と情報伝達速度の上限が前提されているのだ。 (無限の情報伝達速度が有り得るならば、それによって A点とB点の分離は取り消されてしまう。 情報がゼロ秒で伝わるからである。)
こうして、「言語」は、情報伝達速度に上限がある物理時空を 前提条件としていることが分かる。 私たちは「言語」を使っており、そして現に、 情報伝達速度の上限として光速度を有する宇宙に存在している。

次に、「情報空間」について考えてみよう。 言語で『相異なるAとBがある』と言った瞬間に、 概念Aと概念Bを収容し、かつ、分離させるための空間が 前提とされていることが分かるだろう。 そして、Aの提示、Bの提示、 AとBの比較(AをBに運んで重ね合わせて差異を確認)、 AとBが等しいか否かの判断、という、 一連の情報操作が、時間を消費して行われる。 つまり、言語が意味を持つには、概念や意味を収容する情報空間が必要で、 それが演算され結論を導いたりするには 情報空間に固有の時間が流れていることになる。
AとBが「異なる」ということを保証するためには、 AとBの比較をゼロ秒で行うような機能があってはならない。 AをBに運んで重ねたり、差分を確認したり、 等しいか否かを判断する「主体」が、 無限の動作速度を持ってはならない、ということだ。 (もし無限の動作速度を持つなら、AとBはゼロ秒で 一挙に把握されているのであり、異なる概念と言えなくなる。 まずAを把握し、次にBを把握する、ということが、 AとBが異なることそのものなのだ。)
この「主体」は、情報空間を眺める立場にあり、 だから情報空間内には含まれず、垂直方向の別の場所から 情報空間を眺める自我核(自循論では「自a」)として定義される。 つまり「自a」とは、「あらゆるものでは無い」という 純粋否定として定義される何者かである。
反省的にこの自aを捉える時には、 この自aは記憶や対象として情報空間に滑り落ちて自bになっている。 「自分は自分である」という素朴な言語的表明は、実は 「自bは自aである」という事態を表現しようとしているのだ。 そして、自aは情報空間内にある、 あらゆる諸概念よりも未来に位置する「イマ」になる。
一旦この図式が出来上がると、自aから見た自bを延長することで、 より遠くにあるものが「過去」を表すし、 逆に自bから自aを突き抜けた方向にある、 いわゆる「未来」が言語的に仮想され得るだろう。 (しかし、この「過去-現在-未来」という図式は、 情報空間内で捏造された概念間の関係であり、 自aにとっては全て過去に属するものである。)
情報空間には個々人で異なる意味ネットワークが構成されている。 この意味ネットワークは共通の学習や文化的背景によって 他人の中にも似たようなものが構成されている (同じ言語ゲームに参加できる)と期待されるが、 現実には一つとして同じ意味ネットワークは無く、 ある言語が相手の情報空間の意味ネットワークの中に位置付いたとして、 それが私と同じ位置付き方であるかは完全には確かめようが無い。
ただ、それら「あらゆる概念では無い」究極の 純粋否定としての自aがある、と言語で伝えると、 消去法的に、間接的に、自aが伝わることは有り得るだろう。 そのような自aは、全情報空間に、たった一つしか無い。 (厳密には、自aは脳が目指す極限のイマココであり、 対象化できないので、情報空間に含まれないが、 極限はみんなが共有していると言える。 みんながいる場所はそれぞれだが、 みんなは同じ北極星を見ている、というようなイメージだ。)

以上をまとめると、「言語」が成立しているということは、 外延的には、物理時空が前提となっているということだったし、 内包的には、情報時空が前提となっているということだった。 実は、この二つは、同源のものである。
宇宙から全ての物質を取り去った後に残る物理時空と、 精神から全ての概念やクオリアを取り去った後に残る情報時空は、 「自a」を法として、完全に重なり合うものなのである。 この、共通の性質もしくは仕組みを、「自」と呼ぼう。
真に驚くべきは、ひとたび「自」と言い放たれたならば、 物理時空と情報時空が一挙に成立するという、 この、世界の立ち現れ方である。
単なる心理的な意識機能である「私」に、 何が加わると、他人と自分を決定的に隔てる〈私〉になるのか。 それは「(内側から)時空を開闢させる機能」=「自」であり、 潜在的に物理時空の全ての点が平等に持っている機能である。 それは、言語を成立させる前提に属する機能であるので、 言語では「言えない」。 言語で語ろうとすれば、それはどこまでも逃げていく。 無理に言語で語ってしまったら、それは言語成立以降の 物理時空と情報時空の概念を前提として使ってしまっているので、 それ以前の無(=無限乱雑)から世界が生じてくるプロセスを 語っていることにはならない。
実際、私たちは、時空概念を抜いた世界を想像することはできない。 どんな言語でも語ることは出来ないし、だから、 如何なる意味でも想像すらできないのだ。
〈私〉の無い世界は想像できない。 それは〈私〉にとっての誕生前や死後で、端的に何もない。 「時空」の無い世界も想像できない。 それは一切の記号も言語も成立しない混沌である。 〈私〉と時空の成立以前の、この絶対無としての実在を、 無限乱雑空間と呼ぶ。 (本当は空間以前のものなので、空間という言葉は使いたくないのだが、 言葉で言えないものを言葉で表記せざるを得ないのだから、 この際、この程度の問題には目を瞑るしかない。)
結局のところ、無限乱雑空間のどこかに、自己完結的に自己無矛盾に、 「自」を法として、物理時空と情報時空が一挙に成立している姿を 「世界」と呼ぶのであり、 世界とはそれ以上のものでも、それ以下のものでもない。
なお、一個の<私>と物理時空が釣り合えば、それでも世界になるが、 複雑さによって統計的安定性を得ないと、世界は直ぐに消滅してしまう。 人間が多数存在し、私たちの身体がプランク長に比して馬鹿げて大きいのは、 偶然ではない。それくらいの安定性が無いと知性が成立せず、 簡単に自己矛盾が生じて、時間や意味や価値を持続できないのだ。
無限乱雑空間は、時空概念を一切使わずに説明されねばならないが、 言語を使う以上、そんなことは不可能だし、 無限乱雑空間は、そもそも説明される必要の無い、ただ、そこに、 無限に大きく無碍に細かくある、単なる実在なのである。
そこから「自」によって世界(=物理時空+情報時空と、 その内容物としての物質や概念)がどのように立ち上がるのかは、 決して「言えない」。 言語で「言う」ということは、既にして空間を前提とし、 時間を消費することだからだ。 その仕掛け(プロセス)は、この世界から考える限り、 無前提に成立しまっているものであり、敢えてイメージを述べるなら、 「偶然」とか<奇跡>とか「神」と呼ばれるようなものであろう。
なお、もし、「自」をアートマン、物理時空をブラフマンと呼ぶなら、 世界=「自」+物理時空、とは バラモン教で言う「梵我一如」に当たるであろう。
空間概念の限界
私たちは、存在から空間概念を抜き取れるだろうか。 それは、一切の秩序も構造も無い、カタチも距離も境界も定義できない、 ただ要素がバラバラに置かれた混沌…。 だが、その「バラバラ」とか「混沌」を表現する時には、もう、 広がりというか、何らかの空間が前提されてしまっているのだ! こうして、空間概念を完全に抜き取ることに、私達は常に失敗する。
私たちは、存在から時間概念を抜き取れるだろうか。 それには、静止した町並みを想像すればいい…。いや、そうでは無い! 空中に静止したボールや雨滴や、動かない表情や姿勢を、 「時間をかけて」次々と確認しなければ、静止をイメージできない。 こうして、時間概念を完全に抜き取ることに、私たちは常に失敗する。
「私が私である」という意識を維持するには、最低限、時空概念が必要で (自には「原空間=自と他の区別」と「原時間=見る自と見られる自の区別」が必要)、 一方、あらゆる存在は、実は常に「私にとっての何々」という 言語的な捉えられ方をされている。
以上のことは、客観時空は主観時空(原時空)の投影であり、 自我核と客観時空の抜き去りがたい同源性の証左になっているだろう。 時空概念を抜いてしまった残滓は、私たちには 想像すら不可能な何者かであり、端的に言って、存在では無いのだ。 (そのような無、もしくは無限に乱雑な何者かを、 自循論では「無限乱雑空間」と呼んでいる。 この名前からして、空間概念を抜き取ることに失敗しており、 今から考えると名前を変えたい気もするのだが、 どのみち言語化には必ず失敗する概念なので、 このままでも良いだろう。もしくは永井均氏に倣って、 変形抹消記号を用い、<無限乱雑空間>と書いて、 この言葉では表現できていない、ということを強調する程度が関の山だろう。)
自と時間
時間とは何か。 簡単に言えば、それは 『世界を内側から体験する際に仮想される形式』 であろう。 だが、こう言うためには、特に「世界」とか「内側」とか「体験」という言葉の意味や その由来を明確にする必要がある。 「内側」と言うためには「空間」の概念が先立って必要となるし、 「体験」と言うためには「自己」の概念が先立って必要となる。
先ず、時間と空間の起源は、どっちが古いのだろうか。 一般的には、空間はより根本的で普通の概念であり、 時間は不思議で付加的な概念だと考えられているだろう。 …実は、そうではない。 時間と空間は、「自」と言い放たれた瞬間に一挙に成立してしまう形式なのだ。 「自」という概念は、「自a:見る側の自」と、 「自b:見られる側の自」に分けられる。 (自aは決して見られる側には成り得ない。 従って私たちは自aを直接内観できない。「これだ」と思ったものは、 もう自aではなく、過去に滑り落ちて「見られる側」に回ってしまった 自bなのである。) 自aから見て「自bで無いもの」を他bと表すなら、 「自bと他bの区別=原空間」であり、 「自aと自bの区別=原時間」である。 このように、「自」と言い放たれた瞬間には、時空のタネは、前提として もう一挙に成立してしまっているのだ。 …では、「自」が存在しない世界では、時空は不要なのだろうか。 その通りである。 私たちは、一切の生命も知的存在もない、それでいながら 銀河と星々が輝く宇宙を想像して、 「ほら、知性なんか無くたって、宇宙は存在し得るではないか」 と言うが、そのように想像した宇宙ですら、 想像しているあなたの意識が働いているからこそ 時空として考え得るのである。 誰からも観測されることが無い宇宙は、 端的に「存在したことにならない」。 一方、この宇宙には、既にこの私自身という「自」の実例が 本当に存在してしまっているので (つまり既に「自」と言い放たれてしまっているので)、 少なくとも原時間と原空間は成立してしまっているのである。

しかし、私一人の視点から世界を眺めた時に、 そこに単純な原時空があるからといって、 その単純な時空概念が際限なく拡張されて、 なぜ宇宙のような壮大な客観時空が仮想され、 その枠組みの中に、私以外にも自己意識を体験している存在(=他人)が 多数並列しているのかは、巨大な謎である。 原空間は、自分(自a)から見た時の 「自分の影(自b)」と「それ以外(他b)」を分けるだけの、 意味的に離散2地点のみから成る、最も素朴な空間に過ぎない。 原時間は、「イマの自分(自a)」に対して 既に過去化・対象化されてしまった「自分の影(自b)」との 離散2時刻のみから成る、最も素朴な時間に過ぎない。 ここで、「自aと自b、自bと他bが現に分離されていること」、 すなわち原時空の離散性と、変化速度の有限性 (自aが対象化され自bになる変化がゼロ秒で終わらないこと)が、 「自」の本質にガッチリ食い込んでいることに注意されたい。 (自の成立する場に、分離性=空間性が保証されていなければ、 「自」の存立基盤足りえない。また、もし、変化速度が無限であれば、 自aと自bは時間的に分離せずゼロ秒間隔すなわち同時に存在することが 許されることにになり、やはり「自」の存立基盤足りえない。) さて、このような素朴な原時間だけから、 どうして3次元直交座標で表現されるような客観空間と 過去-現在-未来という風に整然と流れる客観時間が、 捏造され、精錬され、組み上がってくるのだろうか。

たまたま一個の「自」がポツンと存在しただけでは、 原時空の世界から更に精緻な世界に発展していくことは出来ないだろう。 多くの「自」が、言語によって情報を伝達し合い、 各々の内部に「自」を核とした巨大な意味ネットワークを構築し、 その最大公約数的な概念として原時空が客観時空へと精錬される以外に、 客観時空が立ち現れてくる理由は有り得ない。
ここで極めて重要になってくるのは、 「自己無矛盾性」と「統計的安定性」という概念である。 時空が安定して存在するということの意味は、 時空という枠組みが自己矛盾を生じて破綻することが無い、 ということだ。 たった一人の原時空は、いつ壊れてもおかしくない。 しかしもし、同じ実在をベースにした 二つの「自」が、ヴァリエーションとして独立に存在し、 しかも相互に記号を交換できたとしよう。 (つまり、言語を話せるものと仮定しよう。 少なくとも「ソレは私だ」「ソレは私ではない」 「アレはイマだ」「アレはイマではない」 といった、現空間と原論理を情報交換できると仮定する。) すると、空間や時間の分解能は増加する。 原空間には離散2地点しか無かったのに、 私にとってのあなたの位置、 私の位置でもあなたの位置でもない位置、などが 表現できるようになるし、 原時間には離散2時刻しか無かったのに、 私にとってあなたの指し示したものが過去にあること、 その指し示されたものから見て私が未来にあること、 お互いが指し示すお互いにとっての未来があること、 などの表現ができるようになる(表現して意味があることになる)。
更に多くの知性が言語によってお互いの時空上のポジションを細かく確認し、 記録によって時間の分解能も増し、 更に延長された感覚として道具を使いこなすようになると、 距離や時間の計測精度は飛躍的に増すだろう。 こうして、離散性が忘れ去られた 連続的な時空間(客観時空)が精錬されてくる。 だがしかし、時空認識の大本が原時空である以上、 どんなに分解能が上がっても、 時空離散性と速度有限性という時空の本質中の本質は、 どこかに継承されている。 (この宇宙においては、量子力学における不確定性原理や、 相対性理論における因果律伝播速度の上限(光速度不変)原理として、 時空の本質が再発見されている。 もし時空の分解能が量子化されず無限に細かいとしたら、 「自bと他bの区別」がつくという前提が崩れる。 私にとって、あるものが、そのあるが通りの大きさで存在し、 あるが通りの距離にある、ということの根本的な意味や保証が 完全に失われてしまうのだ。 「自」が他者や存在を認識するには、 時空の分解能には上限が無ければならない。 また、情報伝播速度に上限が無かったら、時空を隔てるあらゆる点が 同時に作用し得るため、時間的・空間的な距離というものが 絶対的な存立基盤として働かなくなる。 これは「自aと自bの区別」が保証されない世界を意味する。)
このようにして、私たちは、私たちの「自」から出発して、 私たちを包む客観時空の極限としての 時空離散性と速度有限性を、言わば再発見したことになる。 そして正に、このような物理法則を持つ宇宙の中に物質があることで、 原子と分子が生じ、星と銀河が生成され、 生命が誕生し、進化の果てに「自」を有する知的生命体を発生させることが 自己無矛盾に説明できる状況にあるのだ。 (このくだりは人間原理宇宙論と良く似ている。) さて、この、自己無矛盾な説明の輪が、もし、 たった一人の知的存在と、その存在を包む物理法則との間だけで成り立つ 小さな輪であった場合、 この輪は非常に不安定であろう。 低い分解能しか必要とされない小さな輪の場に、 突然、高い空間の分解能とそれを認識する高度な知性が 唐突にたった一人存在する確率はとても低いし、 存在し続ける確率は、もっと低いだろう。 (だが、不可能では無いかも知れない。 そのような「一人ぼっちの世界」も、 無限乱雑場のどこかには存在するかも知れない。) 一方、多数の高度な知的存在を収容し、 大きな宇宙と複雑な物理法則を有する宇宙が 自己無矛盾に存在している場合、この説明の輪は非常に大きく、 それゆえ、容易なことでは無に帰すことが無い。 正に、この巨大な自己無矛盾性そのものがエネルギーとなって、 世界は無限乱雑場から自力で浮上し、 自己完結的に安定して存在し続けるのである。 私たちの住む宇宙は、大きな説明の輪を持っているので、 微小なレベルでは、因果律すら壊れていることもあるが、 私たちのような高度な知性(意識現象)を収容し、 維持し続けるだけの統計的安定性を持っているのである。
私たちの宇宙よりも、もっとシンプルな説明の輪を持つ宇宙が 安定して存在し得るのか、 逆に、もっと複雑で大きな説明の輪を持つ宇宙の方が より高度な知性を収容し得るのか。 これはなかなか難しい問題だし、 私たち以外の宇宙の事例に私たちはアクセスできないので、 理論が出来ても確認のしようが無い。 だが、もしかするとコンピューターのシミュレーション上で 色々なパラメータを持ち、意識体を内包する独立世界を走らせることが 出来る時代になったら、このような理論は実践的に役立つかも知れない。

以上のように、「自」を収容し得る「世界」では、 形式として客観時空を持ち得るし、 各知的存在は、客観時空の内側に位置し、その存在の最奥にある自aから 意識体験によって宇宙を内側から見詰め返すことになる。 なお、客観時空の大きさと物理法則の複雑さは、 その宇宙が収容する知的存在の数や知性の高度さと 自己無矛盾に釣り合っていなければならない。 このような、大きな説明の輪がたまたま成り立っている宇宙では (つまり「自」と言い放つことができる宇宙では)、 時間とは、原時空と客観時空に共通に透かし見られる共通の形式であり、 だから、「時間とは、世界を内側から体験する際に仮想される形式である」 と言えるだろう。
自と時空と言語
時間と空間の成立を詳しく論じようと思ったら、 無時空の実在(無限乱雑場)から 時空概念を前提とせずに、その成立プロセスを語らねばならない。 しかし、「時空概念を使わずに語る」なんてことは、 とても出来そうにない。 「AはBだ」という素朴な言明にすら、 AとBを併置するための空間が既に仮定されてしまっているし、 AとBの同一性が言明される前と言明された後という時間の流れが 仮定されてしまっている。 これを丹念に取り除きながら語ることは恐ろしく困難だし、 おそらくどこかで失敗して、語る中でいつのまにか仮定された時空が 時空の成立の結論として使われるだけの浅薄な論述になってしまうのだ。

アウグスティヌスは著書『告白』の中で、 『時間とは何か。私に誰も問わなければ、私はそれを知っている。 しかしそれを問われ、説明しようと欲すると、私はそれを知らない。』 と嘆いているが、これも要は、言語が時空を既に前提してしまっているため、 時間を分析的に語る任にそもそも無いことを表現しているとも言える。 時間を分析・分解して言語で詳細に語ろうとすればするほど、 どこまでいっても当の「時間」が“既に前提されてしまっている” という事態から(言語を使う限り)逃れることが出来ないのだ。 だから、時間とは、各々が当然のこととして感じている<これ>以上のものではなく、 言語で伝えようとした瞬間に、 時計とか線形時間のような時間の表象に格下げされて 伝わらざるを得ない何者かなのだといえる。 いずれにせよ、時間の根源を探る哲学的な旅は、 時間を感じている各々の<私>が何者なのかを探る旅に 合流せざるを得ないのである。
空間の限界
空間の概念を先取りせずに、空間の成り立ちを論じることが出来るだろうか。 例えば、出発点として、『先ず最初にバラバラの点が秩序もなく散らばっていて…』 と言ってみる。しかし、そうと言ってしまった瞬間に、 『散らばる』という言葉によって、 もう何らかの広がりや空間が前提されてしまっているし、 『空間内に存在する点』という存在もイメージされてしまっている。 一切の空間の概念を先取りせず、空間以前の状態から出発して、 空間の成り立ちを論じるということは、私たちには出来そうにない。

私たちに出来ることは、私たちが良く知っている、 目の前に広がる「この空間(三次元空間)」から出発して、 空間の性質をどんどん取り除いていき、 これ以上取り除いたら、もう私たちはそれを空間としては認識できなくなる、 という限界を探していくことだろう。

空間のギリギリの本質を考察するには、 位相幾何学(トポロジー)の叡智を辿るのが良いと思われる。 まず、私たちに馴染みのある、この三次元空間において、 A点、B点という二点を思い浮かべてみよう。 ここから「次元」という概念を取り去ってしまうと、 厚みとか方向といった概念も取り去られてしまう。 しかし、まだ、次元という構造を持たない 点が集まったスープのような不定形な空間を想像することはできる。 次に「距離」という概念も取り去ってみよう。 こうなると、A点とB点が近いとか遠いという言い方すら 意味を持たない状況になる。 それでも、A点とB点が繋がっているとか、 分離しているといった、空間的な連結性の構造には、まだ意味がある。 この空間では、ゴム膜のように自由に形を変えて、 A点とB点を極限まで近づけても遠ざけても、 それで何かが変わるわけではない。そのような操作をしても、 その操作自体は気づかれないような空間なのである。 ただ、線を切断したり、面に穴を開けたりすれば、 その操作には意味がある(気づくことができる)。

ここまでの空間では、A点とB点はそれぞれ存在し、 そして何らかの形で繋がったり切れたりしている、 という表現が可能であった。 もし、A点の近く(近傍 neighborhood)とB点の近くが 重ならないようにできるなら (これをハウスドルフ分離公理と言う)、 空間上の各々の点が、その独自のナワバリを持ち、 ハッキリと存在を主張しているとイメージできるだろう。 だが、この分離公理まで取り去ると、 いよいよ私たちは、その渾然一体となった何らかの場を 空間として認識することが困難になってくる。

しかし、2点の分離が保証されない場になっても、 「近傍」という概念だけは、まだ残っている。 ところで、「近傍」とは、そもそもどのような概念なのであろうか。 残念ながら、「近傍」の一般概念は、「十分に小さい距離にある2点」のように、 距離を使って簡単に定義することはできない。 (距離という概念を取り去っても成立する概念なので。 なお、距離空間における「近傍」であれば、半径εの円、 のように、分かり易く説明することができる。) 「近傍」の一般概念は、おおよそ、次のように説明できる。 点A、点Bがあった時、それぞれをある一定法則Rで囲う集合のうち 共通のものをUと置く。 どんなUについても、そのUに含まれる、もっと小さな集合Wを 点A、点Bの両方を含むように取ることができる時、 この「ある一定法則Rで点を囲った集合」を、その点の近傍と言う。 ここで、一定法則Rが何であるかは全く定義されていない。 だから、近傍とは、別に「近く」という意味ではない。 さて、点A、点Bそれぞれについて、同じ法則Rにもとづいて、 ナワバリを描くことができるわけだが、 実はここで既に重要な「空間のギリギリ最低限の性質」を見て取ることができる。 つまり、空間が空間であるためには、 空間とは、同じ法則が適用できる点の集まりでなければならない。…(★1)

次に、各点にそれぞれ法則が適用されれば良いというだけではなく、 異なる2点の「関係」が言えなければならない。 点Aと点Bは、その共通の近傍Uを取れたとすれば、 2点とも、Uよりももっと内側にある集合Wに 閉じ込められなければならない。(そのような集合Wが必ず存在する。) これはつまり、点Aは、点Aの近傍U(A)よりも厳密に内側にあり、 点Bは、点Bの近傍U(B)よりも厳密に内側にある、ということだ。 だから、もし共通の近傍Uがあるなら、 その共通部分として、点Aも点Bも含む集合Wが存在するはずである。 ここに、二番目の「空間のギリギリ最低限の性質」が見て取れる。 即ち、「ある2点にとって、法則Rで共通・共有できる何か(U)がある時、 もともとの2点は、その何か(U)の内側にある」ということだ。…(★2) 片方の点が内側(W)から遠くはみ出たところにあるような、 法則Rの及ぶ範囲が無制限・無秩序な場は、 もはや、空間とは呼べないし、イメージもできないのである。

以上、(★1)と(★2)を合わせて空間のギリギリの本質を整理してみよう。 それは、「同じ法則が通じ、かつ、その法則が各点を結び合わせ、 点とナワバリの関係がバラバラにならないよう、 纏まりを与えているような性質」と言えるだろう。 ところで、では、空間の最も重要な性質とは「各々の点」の存在なのだろうか、 それとも、そのナワバリを定義する「法則R」なのだろうか、 もしくは、その法則がどこでも成り立つという「普遍性」なのだろうか。 …これはもう、どれが最も重要などとは言えない、 3つが一挙に成り立つとしか言えない性質と言えるだろう。 普遍性がなければ、「点」「法則」と纏めて呼ぶことすらできない。 点を定めなければ、法則を適用する出発点を定められない。 法則が無ければ、何が普遍的に成り立っているのかが分からない。

私たちは、空間以前の混沌を想像することすらできない。 しかし、ひとたび空間が空間として成り立っている時には、 同じ法則が成り立ち、その法則で各点を結びつけ合うような性質が 既に前提とされてしまっている、ということは分かった。

さて、その法則とは、「内側」に関係するものだった。 実は、自我とは、究極の「内側」とも言える。 (あらゆる外界で無いもの、という純粋否定、 もっとも純粋な内側を「イマココ」というのだ。) そして、自我は外界との相対において空間イメージを広げていく。 ― 認識する者、自我。それが全く存在しない場合に、 空間が意味を持つことなど、ありえようか? 実は、空間とは、空間以前の無秩序を、 自我からの視線で眺めると、必然的にそう見えてしまう秩序、 という言い方もできる。 空間の中に自我が位置づけられるのか、 自我という仕組みが空間を開闢したのか。 …いや、空間と自我は、相互依存的に、一挙に成立した、 と言うべきであろう。 (同様の議論は、時間についても言える。 時空と自我は、相互依存的に、一挙に成立するのである。)
量子力学
粒子性、波動性、非局所性、不確定性
  1. 素粒子は「自」を実装している。 つまり、唐突に開始し、変化し、有限時間後に消滅する。
  2. 生命は、素粒子、原子、分子、星、銀河の、どの相でも「自」を実装している。
  3. 素粒子の「粒子性」は、存在の側面を表現し、「波動性」は、情報の側面を表現する。 素粒子が持つこの二重性は、物理相と情報相の相互依存性が、 もっともあからさまに剥き出しになった姿である。
  4. 【指導原理】:1プランク長・1クロノン内の仕組みは、 どんなに複雑でも(この宇宙全体より複雑でも)構わない。
量子力学の自循論的解釈
なぜ、量子力学で示されるような実験結果が不思議に見えるのか。 それは、自循論の世界観では、どのように自然に解釈されるのか。 それを具体的に述べてみよう。

自循論は、大雑把には、「多宇宙論」+「人間原理宇宙論」+「隠れた変数理論」+ 「心身二元論」+「ブートストラップ理論」…と喩えられよう。 その中核を支えるのが「自=原理論+原空間+原時間」なる、 全てを生み出す自己言及運動である。
「自」を実装した精神が、物理の在り方を規定しつつ、その物理が精神を安定的に支え、 高度化させる。そのような相互依存、共進化の結果として、 このように安定持続し、高度な内部観測者としての精神を内包する 宇宙を実現させるに至ったわけだ。 この物理と精神の在り方をスローガン的に纏めれば、次のようになるだろう。
精神だけでは、存在し続けられない。 物理だけでは、存在したことにならない。
先ずは、“存在”とは、そのような規定性の内にあるものとしよう。 なお、精神とは一切無関係な、精神に一切左右されることのない、 普遍に有るものは、“実在”と呼んで、区別することにする。 自循論では、“実在”は、無限乱雑場の別名であり、 不可知な何者か、とされている。 (それはそうだろう、精神とは一切無関係なのだから、 可知なハズが無い。)

さて、次に、時間に関して考えよう。 先ず、過去-現在-未来について、現代人が根深く病んでいる 誤解を治癒しておく必要がある。 過去は実在する、という誤解である。
どんなに強調しても強調し過ぎることは無いと思うが、 過去は実在しないし、存在もしていない。 もし反論するなら、目の前に、「ハイ、これが過去です」というものを、 何か持ってこなければならない。 過去は、あくまで、現在の内において仮定・推定される何者かに過ぎない。 「存在するのは変容し続ける現在のみ」 「過去も未来も推定されるものに過ぎず実在では無い」 …この余りに当然の事実にこだわり、 過去が確定事項だという根深い思い込みから壊す必要がある。 過去は可変なのである。

それでは、過去が可変である、ということを、 量子力学の文脈で具体的に見ていこう。 先ず、現在とは、波動関数なる“開かれた可能性”を喰い散らかして、 確定事項を排泄する(つまりデコヒーレンスする)場所である。 ここで、確定化、つまり消化しきれていない 過去に滑り落ちた可能性は、事後確定できるし、 勿論、一切の確定情報を(コヒーレントな内に)消し去って、 可能性のままにもしておける(量子消去)。
可能性のまま過去に滑り落ちた状態は、 情報的に自己無矛盾である限りにおいて、事後確定できる。 (ERP実験を見よ。) この事情に違和感を覚える人は、過去が全て隅々まで確定された 確定事項だと信じ込んでいる人であろう。 しかし、当たり前の事実なのであるが、 過去とは(現在の内に)過去という文法上の位置に 再構成され続ける仮説に過ぎないのである。

もう一つ、波動性に関する誤解も解く必要がある。 波動関数が何らかの物理的実在だと考える誤解である。
状態の収縮を、非局所的な瞬時の超光速現象のように考える人は、 波動性を何らかの物理的実在だと勘違いしている。 実は、状態の収縮とは、思考のカテゴリを、 単に計算から観測に切り替えただけなのだ。 情報ではなく物理として捉えることにしただけなのだ。 これを(何らかの物理的な)同じカテゴリで考え続けている、 と思い込みたい人が、自己矛盾に陥っていくのである。
粒子性は観測される物理量に関係し、 波動性は計算される情報に関係する。 両者はカテゴリが全く違う。 後者を物理的実在として捉えようとする物理学者のエゴを捨て、 世界は物理と情報の相互依存だと悟るべきなのだ。

最後に、波動性はミクロ、粒子性はマクロ、と峻別し、 多世界解釈のように干渉項を綺麗に消そうとする理論(解釈)には、 むしろ無理があることを指摘しておこう。 意識に掛かるようなマクロ現象にも、 僅かに波動の性質があって構わないのだ。 現在の技術水準でも、ウイルスのようにマクロな物質の干渉を 測定できると考えている物理学者もいる。
過去が全て隙間無く確定事項だ、という思い込みが、 妙な量子力学の解釈を量産しているのだと思われる。
内部観測者
ミクロの世界では、実在性が失われ、局所性が破られる。 つまり、観測するまではミクロな粒子は明確な物理量を持たないし、また、 観測によって遠く離れた別の粒子に(光速を超えて)瞬時に影響が及び得る。 これは、いかに私たちの直観に反しようとも、実験的事実であるから、 何とか私たちの直観と擦り合うような“解釈”が求められる。
これには、標準解釈(コペンハーゲン解釈)とか多世界解釈とかを初めとし、 実に多くの“解釈”が存在している。

講談社現代新書『量子力学の哲学』著:森田邦久 では、様々な“解釈”が比較検討されており、大変興味深い。 …標準解釈、多世界解釈、軌道解釈、裸の解釈、多精神解釈、多歴史解釈、 様相解釈、などなど…。 そもそも実在性というのが意識の齎す錯覚なのだとか、 精神の合意が実在を形成するのだとか、 未来からの情報が実在を形成するのだとか、 内容も様々である。 ミクロの粒子の振る舞いを研究してきた量子力学は、 世界の在り方を解明するというよりも、 むしろ世界の在り方の不可思議さを際立たせてきた、と言えるだろう。

さて、これらの解釈の中で、自循論はどこに位置付くのかというと、 自循論は「物理量は内部観測者たる意識の合意で定まる」としているので、 「単精神解釈」が近そうだ。 しかし、同著によると、精神を持ち出す解釈には、あまり人気が無いらしい。 精神解釈についての評価を(p.178)から一段落引用しておく。 これは多精神解釈について述べられているが、単精神解釈でも同様である。
『だがこのような利点があるにもかかわらず、多精神解釈には、 多世界解釈に比べて支持者が少ない。これはやはり 物心二元論に抵抗があるからであろう。 そして、物質世界は量子力学的法則に従うのでよいが、 心的世界については量子力学では記述できない変化を認めるわけだから、 隠れた変数理論の一種であることも要因かもしれない。』

考えてみると、自循論では先ず“実在”と“存在”を区別している。 自循論で“実在”といえば、無限乱雑場のこと。(すなわち 無限に細かく、無限に広大で、無限の次元を持ち、不生不滅、不増不減で 全体としては、いかなる規則性をも持たない、あらゆる状態と属性を持った、 不可知な何者かである。) 一方、世界は、物理宇宙が内部観測者を持つという在り方で “存在”している。 無限乱雑場という“実在”を素材としつつも、 自身に断続的にストロボフラッシュを当てながら、 物理宇宙と精神世界を浮かび上がらせつつ、その一瞬の像を繋ぎ合わせながら 時間発展していく、そのような、内部観測者たちによる自己完結的な共同幻想、 それが“存在”なのである。
物理学者は、“実在”を記述する方程式が欲しいのだろうが、 自循論では、内部観測者が知りうる全ては“存在”の範疇であり、 いかなる主観からも独立した純粋客観たる“実在”は、 その定義から当然不可知だと割り切っている。 そして、“存在”とは、多数の精神の合意事項であり、 精神(内部観測者)の数が多いほど物理法則は統計的に安定し、 それだけ複雑な生命や知性が組みあがる時間が稼げるため、 合意される“存在”も高度化していく、という循環が得られる。 結局、内部観測者が、自分が自分であることの完全な説明を得るまで、 この高度化は進んで、自己完結して終わる。 (勿論、その前の段階で生命種として絶滅してしまう可能性もある。)

物心二元論への抵抗については、自循論はどう応えるのだろうか。 自循論は、世界という“存在”を、 物理相と精神相の相互依存として捉えているので、 モロに物心二元論的であるように見えるのだが、実はそうではない。 物理的な力の法則による素粒子のビリヤードの結果として、 星と生命と精神が誕生した、という方向の依存関係と、 精神が内部から観測するからこそ宇宙の物理法則と素粒子は そのように存在したことになる、という方向の依存関係、 この循環こそが自循論の要点であり、その意味では 物理相と精神相はタマゴとニワトリのような表裏一体の関係であり、 これらは“存在”の異なる見え方(断面)に過ぎないとも言える。

もしかすると、精神が物理に依存するのはニューロン原理的に納得できても、 物理が精神に依存する、というのは納得いかなないだろうか。 しかし、何者からも観測されないものが、どうして“存在”すると言えるだろうか。 アインシュタインが量子力学にぶつけた不満の言葉の一つに 「我々が見ていない時は月は存在しないとでも言うのか」 というものがあるが、もし、その宇宙の全ての歴史に於いて、 あらゆる精神に直接的にも間接的にも一度も月が観測されなかったのだとしたら、 その月は“存在”したことにならない、とは言えるであろう。
そして、もっと形式的に考えても、たとえ量子力学と相対性理論が融合し、 万物の理論が完成したとしても、「その理論は何故そのような形をしているのか」が 問われねばならない。その回答は、究極的には、 私たち内部観測者がそのように観ているから、ということになるのだ。 例えば、この宇宙に、プランク長・プランク時間のような時空スケールの下限があるのも、 光速度一定の原理のような時空スケールの上限を定める原理があるのも、 「それは何故?」と問われたら、 それは「内部観測」という“存在”を支える仕組みに依存しているのである。 観測という行為を度外視したら、いかなる制限も、必然性を失うはずだからである。

量子力学が記述するのは物理相だけであるから、 精神相にも独自の法則があって、別の時間軸で時間発展している、 と考える自循論は、 量子力学の側からすると広義の「隠れた変数理論の一種」とは言えるだろう。
それでは、その精神相の法則について、再確認しておこう。 精神相を支える一つ一つの意識、自我、その核たる<イマココ>は、 あらゆる観測対象では無い何者かである。 それはそうだろう。 世界のあらゆるものを観測する主体の側の何者かが、 観測される客体の一部であるはずが無い。 (西田幾多郎は、このことを、『我とは主語的統一ではなくして、 述語的統一でなければならぬ』と表現している。)

この自我核は、生命進化の中では、神経的自己として発達してきたものだ。 最初は物理身体の重心のような抽象概念が、円滑な身体運動のために持続計算され、 回避運動などを高度化し、生存競争で有利に働いた。 この段階の自我核は、物理的に外界よりも内側にあるものである。 (より外側は、より過去の姿であるから、より内側は、より主観的現在に近い。 従って、この段階の身体重心概念も、それなりに「イマココ」を表している。)
このように、より内側を求める機能が、脳の発達に伴って高度化・多層化し、 抽象概念それ自体にも及ぶことで、如何なる対象概念よりも内側にある 自己なる抽象概念が求められるようになる。 この自己の位置として「現在」が物象化されると、過去と現在の関係を外挿して 未来を計画する能力をも勝ち得る。 これは生存競争に非常に有利に働くだろう。
さらに、この自己自身よりも内側の何者かを求め続けるようになると、 これが自覚現象すなわち意識となる。 意識の中心にある自我核は、あらゆる抽象概念よりも内側、 一瞬前の自我核よりも内側、つまり、 空間的には限界まで内側の一点<ココ>であり、 時間的には限界まで未来である現時刻<イマ>、ということになる。 (これは、自分ですら無い、最先端の<イマココ>であり、 純粋無であり、その純粋さゆえに、この一点だけは 情報相において万人に北極星のように目指されている共通の極点である。 ここが唯一の拠り所となって、個々人の精神世界は関連付けが可能となり、 相互に情報交換可能な多数の精神が、他我問題の壁、間主観問題の壁を越えて、 一つの精神世界を形成することができるのだ。) 精神相(情報相)では、この純粋無という極点から原始的な時間と空間が張られ (これを原時空と呼ぶ)、 あらゆる概念シンボルがネットワークとして位置づけられてゆく、 という方法で、非実在的・非局所的な法則下で時間発展する。 この精神相の事情が、量子力学の側から見ると 「隠れた変数」ということになるのだろう。 “存在”は、このような形式によって観測されざるを得ない。 自我核からの見え方を超えては、宇宙も“存在”のしようが無いのだ。 この事情を考慮しなければ、万物の理論は完成しないし、 「世界とは何か、自分とは何か」という最初の問いにも答えられないのだ。 (なお、精神相の「隠れた変数」は、物理的実在を予め決定するものでは無いから、 ベルの定理などに抵触するものでは無い。)

この物理宇宙を貫く客観時空と、精神世界の作動原理である原時空は、 どちらが先なのだろうか。それは、タマゴとニワトリの関係とも言えるし、 “存在”という様式の異なる見え方に過ぎないとも言える。 (観測という形式の奥底にあるパラダイムが原時空であり、 その観測を通して安定した合意事項として客体化されたのが客観時空である。 “存在”に対して、「見る側」という観点からは原時空が、 「見られる側」という観点からは客観時空が、それぞれ得られるわけである。)

以上のように、自循論は、物心二元論的とも言い難いし、 物理的実在に関する隠れた変数理論とも言えないが、 単精神解釈(普遍的精神を認める立場)の一派と言えるかも知れない。 (単精神解釈の支持者が同意してくれるかどうかは分からない。)
ちなみに、自循論は、このような方向性を持っているので、 人間原理宇宙論的でもある。 但し、たまたま地球上で進化した人類に拘っているわけではなく、 上述のような純粋無としての自我核を求め続けるような 情報処理機能を持った知性一般を、原理に据えている。

それにしても、内部観測者というのは、不思議な立場である。 観測によって宇宙を存在させ、 観測による知識が完全になった暁には、その宇宙という存在によって、 ぴったり自分自身の生い立ちが説明できてしまう、という循環の只中にある。
― なぜそのような自己完結性が成立するのか。 その一点だけは、奇跡としか呼べない。 この奇跡を否定するならば、 全ては無限乱雑場に溶け込んで、“存在”は失われてしまうのだ。
心身二元論は、心が得体の知れないものだから嫌われるのであって、 心や意識の仕組み(プロトコル)が明確になれば、少しは見直される可能性がある。 但し、そうなったとしても、心は物理に還元されない。 もしくは、「還元され尽くして終わり」とは言えない。 精神が物理の在り方を底から規定するからだ。 物理と精神はお互いを底から支える関係にある。
ただ、一般的に、物理と精神の相互依存というタマゴとニワトリの関係は、 どっちが根本原理か分からないという意味で、気持ち悪がられるかも知れない。 敢えて止揚するなら、第一原理は「自」である。 「自」という構造が安定持続するなら、 物理(客観)時空と精神(主観)時空のイタチゴッコが必 然的に始まるのである。
つまり相対性理論に示される通り、 時空の各点が「自」の拠点に成り得るということ、 また、自己意識の最奥の一点=イマココが「自」の拠点であること、 そして、その「自」=「純粋無」こそが、 複数の主観のカナメとなり、また、客観と主観を貼り合わせる、 絶対的な仕組み・拠点であること、 これこそが世界成立の要点なのだ。

今、コンピューター上の抽象空間に多数の意識体をシミュレートし、 その意識体群が合意した客観時空が、当の意識体自身の挙動を 矛盾なく説明できた時(つまり自己完結した時)、 それを世界であると認定するとしよう。
その成功例が、この世界だ。 それは極めて単純に奇跡とも呼べるし、 一方で、内部観測者にとっては、 確率100%の当たり前の自然な事態でもある。 私たちが、存在のありようを、コレ以外には想像もできないように。

いずれにせよ、存在というものは、内部観測者たちの 共同幻想に過ぎない。 それは、世界の本当の姿(実在)とは違う。
私たちは、テレビや映画に比べれば、 自身の五感で意識する世界の方がリアルた、 と言いたくなる。 けれど、それらは、実は、五十歩百歩だ。 世界の真の姿は、このように意識されているものとは、 本当は、似ても似つかない。
存在を規定する『内部観測者』という 非常に重要な概念もしくは機能について整理しておこう。 この宇宙を観測し、時間発展させている (デコヒーレンスさせている、可能性を存在化させている)のは、 その宇宙の一部である『内部観測者』自身に他ならない。 ここで、『内部観測者』に関わる2つの原則を掲げる。
  • (原則A)全ての物理現象は、徹頭徹尾、内部観測者が 直接的または間接的に知覚・観測し得るものに限られる。
  • (原則B)内部観測者が観測した宇宙の法則(物理法則や数学) に従って、内部観測者自身も機能している必要がある。

(原則A)について補足しよう。 いま、内部観測者には直接的にも間接的にも 絶対に観測し得ない素粒子があるとしよう。 それは観測可能な如何なる素粒子とも相互作用しないもの。 これは、物理的存在とは呼べず、端的に“無い”ことになる。
仮に第4世代レプトンにスーパーニュートリノなるものがあって、 観測可能な素粒子とは一切相互作用しないとする。 しかしそれは直接的には勿論、間接的にも その存在を 推測すら出来ないのだから、 そのようなものは“無い”とせざるを得ない。 (なお、ダークマターやダークエネルギーは、 間接的には 観測できているので、物理的実在の候補足り得る。)
物理法則の範囲もしくは限界は、 内部観測者が決めているということは、無謬の真理である。 一方、物理法則は内部観測者がたとえ存在しなくても 厳然と実在している、と信じている人も多い。 何故だろうか。 因果でなく時間順序に拘泥すると、 「知的生命が生まれるより前にも物理法則は存在していたじゃないか」 と主張したくなるというのが一点。 未だ万物の理論を入手していない我々人類は、 我々の現在の知識量を遥かに超えている物理法則の全容を、 少しずつ発掘・ 再発見している初歩的な段階なので、 あたかも“私たちとは独立に”、元々膨大な絶対真理が あるかのように感じてしまう、というのがもう一点。
しかし、内部観測者が万物の理論を完成し、 自己の存在や精神をも記述し終え説明し切った 完成段階に至ったならば、その時、 物理法則の限界は、内部観測者という在り方自体が決めていたことになるのは明白であろう。

上記(原則B)は、言い換えると、 「内部観測者が宇宙を完全に記述できた時には、 その記述に従って、宇宙の一部である内部観測者自身も 矛盾無く記述できねばならない。」という事である。 もしそうなっていないなら、宇宙の一部を記述できていないのだから、 その記述は間違っているか不完全だと言える。

このように、客観的物理宇宙と、これを観測する主観的精神世界とは、 その限界を共有する表裏一体のものである。 物理から精神を切り離せる、と、無邪気に考えている人も多いが、 それは初歩的な段階での(科学の健全な発達のための)便宜としては妥当でも、 究極的には誤りである。
相対性理論
客観的時空の構成原理と「今・ここ」の物理的実装
  1. 相対性理論における、各点から対等に出発できる時空構築法は、 物理時空が自を実装していることの端的な表現である。
  2. 光速度不変原理は、情報伝達速度の上限が一定であるという意味であり、 時空の広がりを担保すると同時に、各点の意識が情報を処理できることを保証する。
自循論的相対性理論
「時空」「質量」「光」…この不可解な知恵の輪は、 どうやったら解けるのだろう。 質量によって時空は歪み、そして 時空内では質量の速度が光速を越えることは無い。 質量の全く無いカラッポの時空には、まるで意味が無いし、 そうとはいえ、時空が無ければ質量も存在しようが無い。 何が最も重要な性質で、何が派生的な性質なのか。 どこから考え始めたら、これらの「意味」が分かるのだろうか。 …そこでまずは、「質量」に軸足を置いて、考え始めることにしよう。 一口に「質量」と言っても、それは実に色々な側面を持つ。
  • 動かしづらさ
    力=質量×加速度、運動量=質量×速度。 より大きな質量の物体を加速させるには、それだけ大きな力が必要で、 速度が増した物体は、大きな運動量を持つ。
  • エネルギー
    エネルギー=質量×光速2。 質量とはエネルギーそのものである。 質量がエネルギーとして放射される時、如何にそれが大きなものになるかを、 私たちは原子爆弾の威力を通して知っている。
  • 空間の歪み
    エネルギー・運動テンソル=リッチテンソル-計量テンソル×スカラー曲率。 この有名なアインシュタイン方程式は、「物質エネルギーの分布は、 時空の歪み具合に等しい」ということを意味している。 光は直進する性質を持つが、空間が歪んでいれば、 その歪みに沿って曲がる。(光自身は、真っ直ぐ飛んでいると思っているのだが。)
  • 万有引力の原因
    粒子は、真空に埋め込まれたヒッグス粒子にぶつかって、 Zitterbewegungというジグザグ運動をする。 本来、全ての粒子は光速度なのだが、これにより「動かしづらさ」 すなわち質量の種を獲得し、光速度未満の現象が実現する。 粒子同士は重量子(グラビトン)によって相互作用し、 質量が大きければ、より強く引き付けあう。 あらゆる粒子はグラビトンに感応性を持つので、 まさに「万有引力」と呼ばれるに相応しい。 この宇宙が開闢した瞬間(10-41秒後)には重力が存在し、 10-11秒後には、ヒッグス場により粒子は質量を獲得していた。 この宇宙にある、最も古くて、最も基本的なルールだと言えるだろう。
  • 存在そのもの
    質量は、カラッポの時空の中に現れるや、それは動かしづらく、安定し、 エネルギーとして有り続け、時空内のランドマークとして「存在」する。 もし、時空内に質量という目印が全く無ければ、時空の距離は測りようが無いし、 質量が幾らでも加速できるなら、目印として役に立たない。 正に「そこにある」という「存在」の形式を与えるのが、質量である。
「質量」は、見方によって、怪人二十面相のように、色々な顔を見せる。 しかし、これらは、たった一つの「質量」という本質の、 別々の横顔に過ぎない。 これら全部の側面を持っている「質量」の本質とは、 一体どういうものなのであろうか。 多分、その本質は、真空の中に深く根を張った何者かであり、 この宇宙に突き出た氷山の一角が、質量として 色々な性質を見せているように思われる。 そして、たった一つの質点も、水面下では空間的に広がっており、 真空内の媒質とぶつかり合って動かしづらさを獲得したり、 質点の周囲に漏れ出した確率波同士が絡み合って、 万有引力を実現したりしているのだろう。 それでは、水面の上と下を分けている基準は一体何なのか。 真空の内側と外側を分けているのは一体誰なのか…。 考察を深めていこう。
1.『特殊相対性の場合』(見かけの客観的時間の差異)―
質量を、ただ目の前に置いて眺めていても、 時空や光速度との関係は見えてこない。 先ず、「時間」という概念を導入する必要がある。
しかし、ここで慎重に理解しなければならないのは、 時間の捉え方には2つの種類がある、ということである。 一つは、基準となる地点Aから見て、別の地点Bの 時間の進み方を評価する、という「客観的時間」、 もう一つは、基準時間との比較ではなく、 ある地点Bの中にいる存在それ自身が感じている 時間の進み方、すなわち「主観的時間」である。
結論から言ってしまおう。 宇宙は、場所によって時間の進み方が遅かったり速かったりする。 だから、「客観的時間」で見ると、A地点よりB地点の方が 時間の進みが遅く見える、ということは、実際に起こり得る。 ところが、驚くべきことに、「主観的時間」は、 宇宙のどの場所にいても、常に一定なのである。
私たちは、手を強く握って開くまで、だいたい1秒くらい、とか、 腕立て伏せをゆっくり30回やれば1分くらい、といった、 リアルな時間経過の体験を持っている。 これが「主観的時間」である。今、私たちはB地点にいて、 A地点から見ると非常にゆっくりと進む時間の中にいるとする。 しかし、他人が私たちの時間をどう客観的に評価していようが、 そんなことは全く関係なく、「主観的時間」は、 いつも私達が体験している時間感覚と全く何ら変わらない。 仮にA地点から見て、B地点の時間経過がどんどん遅くなって、 停止寸前まで遅くなったとしても、B地点にいる私たち自身は、 そのような変化は全く感じない。「主観的時間」は絶対不変なのだ。
A地点から見て、B地点の時間の進み方が遅く見えるとする。 しかし、B地点では、光速度も、振り子の間隔も、 化学反応の進み方も、人間の思考速度も、全部一斉に 同じだけ遅くなっているのだから、B地点自身にとっては、 何も遅くなっているとは感じられない。 あくまでも、A地点の立場からB地点を見た時にだけ、 相対的にB地点の時間が遅く進んでいるように見えるというだけなのだ。
「主観的時間」が絶対不変であるということは、 何を意味しているのだろうか。 それは、『情報伝達速度の上限が不変だ』ということである。 これは、一般的には「光速度不変原理」として知られているが、 光速は、情報伝達速度の上限を代表する速度の一つに過ぎない。 (実際、光子でなくても、質量0の粒子は、全て情報伝達速度の上限で走る。) もし、情報伝達速度の上限が半分になり、 あらゆる情報伝達速度が半分になっているならば、 全ての物理過程も半分の速さで進行する。 ところで、私達が何事か時間が進んでいると感じるのは「変化」があるからで、 「変化」とは、粒子同士がある速度で走ってぶつかったり、 その事象から発生した粒子がある速度で走って他の何かにぶつかったり、 という事の繰り返しで継続するものである。 何ら粒子の伝播を伴わない「変化」は存在しない。 (もし、そのような「変化」があったとしても、知りようが無い。) 情報伝達速度が半分になるということは、 情報を担って走る全ての粒子の速度も半分になるということであり、 従って、あらゆる変化の速度も半分になる、ということだ。 情報の送り手が単位時間あたりに発生させる情報量と、 受け手が処理する情報量は、共に半分になるのだから、 受け手は、情報量が減ったとか増えたとか感じることは無い。
情報伝達速度の上限が定められていれば、 1量子時間(クロノン)後の変化としては、 隣接するフェルミオンの到来と衝突、 5種類の何らかの有限量子数のボソン(フォトン、ウィークボソン、グルーオン、 グラビトン、およびヒッグスボソン)との相互作用、 対生成と対消滅、自発的崩壊くらいを考えておけば良いだろう。 これらのうちの幾つか、または全部が、たかだか1回起こる時間が1量子時間であり、 これが「変化」のバリエーションの全てである。 1量子時間に起こる、この全ての変化のバリエーションだけが、意味や情報の源泉であり、 従って、あらゆる主観の在り方のモトネタである。 (【私たち】が、何か価値があることが起きたと思う時、すなわち 何か情報を得たと思う時、すなわちクオリアを感じた時、そのモトネタの全ては、 情報伝達速度の上限に規定されて万人に共通である。 【私たち】の、差異や意味や価値の「感じ方」は、 宇宙の有り様によって、万人に共通である。)
たとえA地点に比べて、B地点の時間が一億分の一という 凄まじい遅さで流れていても、 B地点に住む人々は、全ての物理現象をA地点と同じように観測し、 同じように思考するのである。 B地点の人々にとってのB地点の情報伝達速度の上限は、 A地点の人々にとってのA地点の情報伝達速度の上限と同じである。 (つまり、「主観的時間」は、絶対不変である。) しかし、B地点からA地点を見た時には、A地点の情報伝達速度の上限は、 B地点のそれより1億倍速い。 この時、A地点からB地点を見た時には、B地点の情報伝達速度の上限は、 A地点のそれより1億倍遅い。 (つまり、「客観的時間」は、場所の選び方によって変化する。)
もし、私がA地点からB地点に移住したとしても、私は、 暗算の速度が一億倍遅くなったり、 円周率を思い出すのに一億倍の時間が掛かったりはしない。 私の情報処理能力は、A地点にいようが、B地点にいようが、 主観的には一定なのである。
ここまでで見てきたように、「主観的には、情報伝達速度の上限は不変である」 ということの本質は、どの地点であれ、その領域の内部で発生して 処理される情報流の速度の上限は同じ、ということであり、 情報の受け手である一点に着目して言えば、 ある一点に流れ込んで来る情報流の速度の上限は一定であるということだ。 この一点を擬人化するならば、 「自分に流れ込んで来る情報の上限は、 この宇宙のどこであっても一定である」ということになる。
ここで、擬人化のついでに、今、空間のある一点にある「自」が、 人間と同じような意識構造を持っていると仮定して、 その「自」が、一瞬後の未来において、何を感じているか、 ということをイメージしてみよう。 まず、事実として存在するのが、「一瞬前の自b」であろう。 もし、現在までに、何の情報も飛び込んでこなかったとしたら、 「今ここの自分自身、すなわち自a」は、自bと何ら変わることが無い。 最も純粋な形での時間経過、すなわち「自b→自a」という、 無色透明な自覚があるだけであろう。(これを「自のクオリア」と呼ぶ。) もし、この一瞬間に、「自」に対して何らかの情報αが飛び込んできたとする。 この時、「自b→自a+α」という変移が生じる。 赤の周波数の光が飛び込んでくるとか、 痛みを生じさせるような質量がぶつかってくるとか、 そういう事態が生じたとイメージすれば良い。 この変移が、「自のクオリア」を変調させ、「赤のクオリア」とか 「痛みのクオリア」を生じさせる。 これこそが、究極的な意味での「情報を受け取る」という現象である。 (脳は、素粒子の一つと比較すると、確かにバカでかい物質であるが、 脳が総体として「自のクオリア」を持ち、しかもこれが 宇宙のどこに行っても絶対不変の体験であるということは、 そもそも宇宙の時空がそういう性質であるからこそ担保されるのである。)
そして、「自分自身の感じ方(自のクオリア)」や、 「赤の感じ方」「痛みの感じ方」は、宇宙のどこに行っても そこが客観的時間ではどれほど時間の進みが遅かったり速かったりしても、 全く変わらないのである。(色が変わったり、痛みが増減したりはしない。) これこそが「情報伝達速度上限不変原理」の、最も根源的な意味である。 「主観的時間」は、【私たち】の情報の受け取り方、すなわち 【私たち】の世界の感じ方そのものであり、 それは宇宙のどこに行っても、絶対不変なのだ。 つまり、宇宙の各点での時間の有り方は、【私たち】が決めているのである。
この宇宙全体を流れる絶対的な時間というものは存在しない。 これは、空間の密度についても同じことが言える。 宇宙の各点で【私たち】が決める局所的な時空の有り方を貼り合わせ、 この宇宙は出来上がっているのである。
さて、「主観的時間」と「客観的時間」の区別をしっかり理解すれば、 特殊相対性理論も、すんなり理解できるだろう。 今、静止しているAから、Aに向かって動いているBを観測しよう。 Bが、Aへの向きと直角の方向に光Pを発したとする。 実際には、その光Pは、B自体の速度の分だけ、斜めに走る。 だから、Bから光Pが離れていく速度は、本来の光速より小さくなるだろう。 (直角三角形の斜辺よりも、他の辺は必ず小さい。) Bにとっての光速が遅く見えるということは、 Bにとっての情報伝達速度が遅いということであり、 Bにとっての変化、意味、時間が遅く“見える”ということだ。 これは全て、A地点からBを見た時の「客観的時間」の記述である。 Bの中にいる人にとっての「主観的時間」は、何ら変化していない。 実際、全く同じ理由で、BからAを見ても、Aの時間は遅く見える。 これは「お互い様」の時間の遅れであり、「そう見える」という 見かけ上の時間の遅れである。 AもBも、勿論、同じ「主観的時間」を経験しているのであるが、 お互いに相手の「客観的時間」は遅れているように“見える”のだ。
2.『一般相対性の場合』(本当の客観的時間の差異)―
静止点Aから見て、Bが一定の速度で動いているような場合、 AとBは「お互い様」の、見かけ上の客観的時間の遅れを観測した。 一方、Bが加速度運動をしている場合(等価原理に照らせば、 高重力場にいる場合と同じだが)、Bの時間は、見かけ上のものではなく、 本当に時間の進みが遅くなる。これは「お互い様」の遅れではなく、 Bが一方的に時間が遅くなるのだ。 しかし、B自身にとっての主観的時間は、相変わらず変わらない。 どんなに凄まじい加速の中にあろうが、 ブラックホールの直ぐそばに居ようが、 Bの近傍の情報伝達速度の上限は不変であり、 Bが体験している「主観的時間」は、いつもと全く変わらない。
宇宙の時空という器は、大きなスケールで見れば、 空間としてはどこでも一様で等方である。 これを宇宙原理 (cosmological principle) という。 しかし、局所的に見れば、大質量によって、 空間が縮まったり、時間の進みが遅くなったりする。 良く知られた例が、ブラックホールだ。
大質量の周辺の各点においては、重力井戸の中心に向かうように 空間は向きを変えるし(従って、重力が強ければ強いほど、 空間の曲率半径も小さくなる)、北極に集まる緯線のように 空間同士の目が詰まって、あらゆるものが縮こまる。 空間自体が縮こまっているのだから、光の走行距離も短くなる。 重力の影響を受けない遠くのA地点から見たら、 速度不変なはずの光ですら、ゆっくり動いているのだから、 これはもう、時間がゆっくり流れている、と解釈するしか無い。 但しこれは「客観的時間」としてそう見えるのであり、 ブラックホールの近傍のB地点にいる人自身にとっての 「主観的時間」は、いつもと何ら変わらないことは、 ここまで繰り返し述べてきた通りである。
Bにいる人にとっては、光速度は相変わらず光速度だし、 空間的な前後上下左右もいつも通りだ。 (ところがA地点から見ると、シュヴァルツシルト半径内では 空間が極端に歪んでいて、どの方向に向かっても、その先は 重力井戸の中心に向かっているように見える。 B自身の主観的空間の感覚で、真っ直ぐブラックホールから遠ざかる方向に 動いても、憐れ、その先にあるのはブラックホールの中心なのである。)
より質量の固まっているところでは、客観的に見て、時間は、 よりゆっくりと流れる。 真空の各点に計算能力が等しいコンピューターが埋まっているとしたら、 高重力場では計算が複雑になるために、あらゆる物理現象を ゆっくりとしか計算できないかのごとく。 通常の質量であれば、時間の進みには殆ど差は無いが (だからこそ多少の質量の偏りは、日常生活に支障を及ぼさないのであるが)、 ブラックホールの周囲のような極端な高重力下では、 この差が非常に大きくなるのだ。
3.『自循論的相対性原理』
重要なのは、変化であり、意味であり、自のクオリアの連鎖と変調である。 変化量の上限を決めるのが情報伝達速度である。 宇宙のどこに行っても、私たちが宇宙に感じる意味が同じだとしたら、 情報伝達速度の上限は一定でなければならない。 これが、情報伝達速度の上限が一定である「意味」だ。
つまり、宇宙の物理法則は、情報伝達の有り方によって規定されている。 情報伝達の「受け手」が、宇宙のどこに居ても、 同じクオリアを感じるように調整されている。 ブラックホール等によって、客観的時空は場所によって色々と歪んだりするが、 主観的時空は、宇宙のどこにあっても全く変わらない。 宇宙は、どこにいても、主観の形式を一定に保つように造られているのである。
【私たち】は、自循という意味の連鎖を第一原理として、 無限乱雑場から、この「意味のある」宇宙を切り取っている。 もし、主観的時空において、情報伝達速度に制限が無かったら、 どうなるだろう。 主観は、あらゆる情報を無秩序に、無限に受け取らねばならなくなる。 これは、「自b→自a+α」という式において、自を壊すほどに αが幾らでも大きくなるということだ。このような世界では、 自のクオリアも、従ってありとあらゆるクオリアも発生しない。 つまり、意味のある世界は生まれないのだ。 【私たち】にとって意味のある情報の生まれ方が一定であることが 当然【私たち】にとっての第一原理であり、 だから「どこにいても、どんな状況でも、【私たち】にとっての 情報伝達速度の上限は、同じ意味世界を共有する限り一定」なのである。
このように、本質的な普遍性は、【私たち】の主観的時空の有り方を定める 情報伝達速度の上限である。 光は、最も軽い(質量ゼロとされている)ために、 Zitterbewegungすること無く、情報伝達速度の上限で走るため、 光速度が情報伝達速度の上限を代表しているに過ぎない。 質量がゼロで、情報伝達速度の上限で走る粒子はルクシオン(luxon)と呼ばれ、 光子の他にはグルーオンがあり、もし発見されればグラビトンも 質量ゼロのルクシオンとなるはずである。
それでは、どうして「客観的時空」として見た時、質量の多い場所では 時間の流れがゆっくりになるのだろう。 私たちが、無限乱雑場から、意味のある世界を切り取り、吸い上げる機序、 すなわち自己無矛盾な時空を作り出すプロセスには、 私たちには知りえないプランク長以下のスケールでの複雑な階層があって、 多くの質量が存在する領域では、 物理相と精神相のバランスが取れた時空領域を組み立てるには、 それだけの量の手続きが伴うからではないか。 だから、周囲から見ると、その領域の物理現象は、全て ゆっくりと進んでいるように見えるのではないか。
「この宇宙は、無限乱雑場から切り取られた、氷山の一角である」 …そして、質量(存在)と変化のある有意味な世界を切り取っている。 これが、星と生命と知性、すなわち「自」という現象を成立させる要件である。 結局のところ、氷山の水面下と水面上、真空の内側と外側を分ける基準とは、 【私たち】という知性の総体が認識できる範囲か否か、ということなのであり、 だから、この基準を作っているのは、他ならぬ【私たち】自身なのである。
質量は、時空に存在をもたらし、星と生命と知性、即ち【私たち】という 「自」の形式、すなわち自循を実現する。 宇宙は、自循という情報処理過程を実現できるようにデザインされているのであり、 どの地点においても、「自分にとっての」情報伝達速度の上限は 一定であるような性質を持っている。 A地点とB地点を客観的に比較すると、質量の多寡によって、 空間の歪み方や時間の進み方は違うのであるが、 「自分にとっての自分」つまり主観的時空は、 宇宙のどこに行っても同じであるように、宇宙はデザインされている。 このことの別の言い方で表現すると、 『宇宙とは、普遍的自循が 無限乱雑場から切り出した意味世界である』 ということになるのである。
このように、無限乱雑場から、「質量と変化」に溢れた意味世界としての宇宙を 【私たち】が切り出したのだが、全宇宙に亙り一貫して自己無矛盾であるためには、 ブラックホールのような極端な時空の歪みが生じることも 許容しなければならない。これは、意味世界を獲得した際のツケのようなものだ。
数学において、十分に強力な公理系は、その公理では真とも偽とも判断できないような 命題を含んでしまう。これはゲーデルの不完全性定理と呼ばれているが、 その物理版がブラックホールなのだ。 無限乱雑場から【私たち】を成立させるために、一定のルール (この宇宙にとっての公理)で宇宙を切り出したところ、 その宇宙の内部に、このルールでは、在るとも無いとも判断できないような領域 (事象の地平線の向こう側)を含んでしまったわけだ。
「質量」は、時空に存在を与え、星や生命や知性を生み出し、 一方、その「知性」は、質量と変化を、宇宙のどこにいても、 その情報伝達速度の上限が一定であるように認識する。 この要請(第一原理)さえ守られていれば、客観的な神の視点からA地点とB地点を比較して、 空間の歪み方や時間の進み方が違っていたとしても (それは一瞬、時空が崩壊するほどの大問題のようにも感じられるかも知れないが)、 実は大した問題ではないのだ。 何故なら、知性は、普遍的自循を核として、 宇宙のどこにいても、「今ここ」から、“同じように宇宙を体験できる”のだから。
時間
時間の世界内解釈と世界間解釈
  1. 時間とは、世界の内側から世界を眺める方法である。
さまざまな時間の描像
  • 心理学的時間
    我々の持つ「意識」は「いま・ここ」の一点に存在し、 「過去の記憶」や「未来の予想」の方が絶えず変化する。 「意識」が「いま・ここ」でない過去や未来を想起するメカニズムは明らかではないが、 一般的には過去はほぼ事実に対応し、未来は必ずしも事実と一致しない。
  • 相対論的時間
    「時間」は、時空多様体(擬リーマン多様体)の次元の一つとして定義される。 物理学は、多数の「意識」が共通に客観的・普遍的なものと捉え得る現象の 枠組みを与えるものであり、絶対的な個々の意識は時空の中で文字通り相対化され、 全ての意識の「いま・ここ」を収容可能な、広がりを持った時空を与えている。 どの意識にとっても共通なのは光速度という変化の単位であり、 各々の意識にとっての「いま・ここ」は光円錐上の各点として表現される。
  • 超弦理論的時間
    超弦理論は、プランク長程度の「ひも」の相互作用が世界を形作ると考える論理であり、 10次元時空で運動している、この「ひも」こそが現象の本質だと考える。 このうち6次元空間が内部空間にコンパクト化され、 たまたま外側に我々が良く知っている4次元時空が広がっている、という見方をする。
  • 熱力学的時間
    熱力学第二法則は『断熱系で不可逆変化が生じた場合、 系のエントロピーは必ず増大する』というものである。 この法則は、よりミクロな物理法則からの証明は未完成であるが、 経験則としては極めて強固で正しい法則であり、 時間の進む方向は、エントロピーの増大が与えていると考えられている。 人間の意識の活動も根源的にはエントロピーを増大させるものであり、 意識にとっての過去と未来の区別も熱力学第二法則に帰着される、 という考え方もできる。
  • 宇宙論的時間
    宇宙無境界仮説においては、 宇宙の始まりは時間と空間の区別の無い虚時間にあり、 特異点としての「宇宙の開始時刻」を必要としない。 プランク長程度の大きさを持った宇宙がトンネル効果で実時間の世界に 転がり出てきたと考えるのである。 この初期状態のエントロピーは極めて小さく、 熱力学的な時間の方向性の出発点を与えていると説明できる。
  • 量子力学的時間
    観測によって波動関数が瞬時に収縮する崩壊過程は時間の方向性を与えている。 一般に、多くの自由度を持つ系は時間経過につれてデコヒーレンスされ、 古典的な状態になるということが示されているので、 「観測」という曖昧で説明困難な現象を敢えて持ち出す必要性は減ってきている。 いずれにせよ、量子論的な干渉が可能な状態から不可能な状態への遷移が 時間の方向性を与えていると考えられる。
  • 哲学的時間
    哲学において時間とは、空間と共に認識のもっとも基本的な形式である。 科学的・数学的に定式化し、時空を客観的に捉える立場と、 意識の世界に本体を置き、時空をその直観形式として主観的に捉える立場がある。
過去と未来の非存在性
『過去は確定した実在であり、変えられない。 未来は現在の延長上に必ずやってくる。』
― そんな時間観が、私たちの意識の奥底まで染み透っているが、 これは世界の正しい姿では無い。 世界には、絶え間なく変容し蠢き続けるしか無い。
過去が実在しないというと、時刻が入った写真やビデオを見せて、 ほら、これが過去が実在する証拠だ、と言いたくなるかも知れない。 しかしそれらは、「現在において、過去なる何かが、そうであった、 ということにする」ための、現在に所属する何かである。 決して目の前に「ほら、これが過去そのものですよ」というものを 持ってくることは出来ない。 私には、これは非常に当たり前のことのように思える。

おそらく、量子力学において、非局所性や非実在性が問題になってくるのは、 “過去”は実在し、“現在”においては精密な測定が常に可能で、 数式によって“未来”が描ける、という 便利な考え方に固執するからだろう。 しかし、世界が現に、そんなに分かり易く出来ているという保証は全く無い。 二重スリット実験も、ERP実験も、 「過去においては、観測していない間も、隙間無くずっと、 粒子は粒子として実在していたはずだ」という強い思い込みがあるから 不思議に思えるのだ。
過去は常に「今」において逆算されるものであって、 過去は実在するものでは無い。 現在の観測が素粒子を粒子的に捉える装置環境なのであれば、 過去に遡って粒子的であったと「今」認定されるのであり、 素粒子を波動的に捉える装置環境であれば、 過去に遡って波動的であったと「今」認定されるのである。 これは、全く疑う余地の無い、当たり前のことであると思う。

世界という存在は、内部観測者たちの合意に基づく幻想である。 もし本当に実在なるものがあるとしたら、それは、観測に依存しない、 無限に乱雑な(時間や空間という枠組みすら無い)何者かであり、 それはつまり、私たちには原理的に知りようの無い何者かである。
では、世界という存在は、思考や観測だけで、 好き勝手に変えられるフワフワしたものなのだろうか。 そうではない。 内部観測者は、観測した「今」の外部環境に、 自分が含まれているという状況にあるため、 自己無矛盾でなければならず、これは強烈な検閲原理になっている。 いくら内部観測者たちが結託して宇宙の仕組みを塗り替えようとしても、 それが自分という存在と矛盾するようなことは出来ない。 その事情をルールとして固定し、そのルールを敷衍し引き伸ばすことによって、 過去やら未来やらといったものが捏造されるのであるが、 それらは自己無矛盾である限りにおいて「今」認定されるものであり、 実在でも何でもないし、隙間無く確定している記録でもない。
敢えて言えば、過去も、(現在の内にあって)刻々と姿を変える、 逆算される像に過ぎない。 過去が現在とは独立に確定している実在だ、という誤解が、 世界をありのままに観る妨げになっていると思われる。

4.世界
要素世界を繋いで構成される、究極的な自己完結の単位
無限乱雑場
世界以前の最大混沌
  1. 無限乱雑場は、あらゆる可能性を含む、無限次元、無限大、無限精度の 仮想空間である。
  2. 「自」なる構造を導入して世界を構成する以前の実在である無限乱雑場は、 一切の制限が導入されていない、全く無意味な何者かである。
相の相互依存
相が重ね合わされ、相互依存するとは、どういうことか
  1. 精神相、生命相、物理相は、互いに規定し合う。
  2. 各相は、「自」なる共通構造を実装し、互いに写像関係に成り得る。
  3. 特に、物理相は生命相、精神相を基礎付け、 精神相は生命相、物理相のスコープを限定する。
  4. 物理相と精神相は、相互依存関係にある。
視点(世界)1 視点(世界)2
物質
(情報を符号化し宿すもの)
情報
(物質のありようを決めるもの)
物質
(可能性に導かれるもの)
可能性
(物質のありようを決める境界条件)
客観 主観
古典物理学的世界 量子力学的世界
フェルミオン
(物質を構成する)
ボソン
(力を構成する)
一箇所に一つ 一箇所に複数
重ね合わせ
局所性
(現象は光速以下でしか影響し合わない)
非局所性
(時間・空間がどんなに隔たっていても瞬時に影響する)
粒子性
(時空的記述)
(一つのものが、いつ、どこにあるか)
波動性
(因果的記述)
(ある原因が伝播して、どう影響を及ぼしていくか)
プランク長以上
(時間的・空間的な記述が可能)
プランク長以下
(時間的・空間的な記述が不可能)
素粒子
(量子ポテンシャルに導かれるもの)
量子ポテンシャル
(素粒子を導くもの)
実数 (real number) 虚数 (imaginary number)
物理学 形而上学
現実界 イデア
意識 集合的無意識
身体
(物体としての)
DNA
(情報としての)
生命
人間
(神に導かれるもの)

(人間を導くもの)
エネルギーの有償性 視点の無償性
相補性
観測問題
意識が世界を生み出す
自循論では、「自」が「無限乱雑場」から意味のある世界を どのように切り出すのかを論じる。 その結果として、意識や自由意志の成り立ちを明らかにし、 時間や物理法則の根源的な意味を示す。
この理論を理解するために、私たちが見ている宇宙にある 「物質」と「力」とは一体何なのか、 つまり物理法則とは何であるのかの説明を試みよう。
その前に、重要な(しかし当たり前の)真理を再確認しておこう。 【私たち】が知り得る全ての物理法則は、徹頭徹尾、 直接的または間接的に【私たち】が知覚できるもののみから形作られている。 一方で、星や生命や、人類の脳などの、【私たち】という意識を支える 全ての物体は、物理法則に従って存在している。 この、物理法則と【私たち】の相互依存関係を、 先ずは素直に認めよう。
さて、全ての出発点は、「無限乱雑場」である。 無限乱雑場は、無限に細かく、無限に大きく、無限次元を持つ、 何の法則性も無い、どこまでも乱雑な空間である。 この宇宙の歴史の全てが、その中のどこかには無限個含まれているし、 この宇宙と少しずつ状況の違う無限のバリエーションの宇宙も、 それぞれ無限個含まれている。 この宇宙にそっくりだが、1999年に突然消滅する出来損ないの宇宙もあれば、 全く生命現象を含まない宇宙もあれば、 宇宙と呼ぶこともできない単なる幾何学模様の100次元空間の断片もある。 ところで、無限乱雑場そのものには、時間という概念は無い。 ただ、ひたすら、乱雑な空間が「ある」だけだ。 あなたの一生は、「どこを切ってもあなたである金太郎飴」のように、 無限乱雑場のどこかに凍結されて横たわっている。 その一端は受精卵であり、もう一端は遺体である。 その全く同じ金太郎飴が無限個存在するし、 少しずつ形状の異なるヴァージョンも、それぞれ無限個ある。 このように、無限乱雑場には、ありとあらゆる可能性が、 どれも無限個ある。無限乱雑場は、考え得る限り最大の場であり、 それゆえ、全くの無意味である。
今、【私たち】を包んでいる「この宇宙」とは、 【私たち】が【私たち】であるのに必要十分なだけの空間を、 無限乱雑場から【私たち】自身が切り取ったものである。 (「この宇宙」は、徹頭徹尾、【私たち】が知覚できるもの のみから成り立っている、ということを思い出そう。) だから、まさにこの宇宙が今あるがごとく存在することには、 【私たち】が【私たち】であるという以上の理由は、全く無い。 そして、【私たち】は、切り取った宇宙の内部にいるのだから、 【私たち】が存在する理由すらも、【私たち】以外には有り得ないのだ。 ある機能(知性)が、その機能なりのやり方で周囲を照らし(認識し)、 その照らされた領域(宇宙)の法則が、 その機能(知性)を生み出すための環境になっている。 この循環は、次のような譬え話に似ている。 『何体かの組み立てロボットが懸命に部品を生産し続けたら、 それら全体は、ちょうどその組み立てロボット自身の 生産工場になっていましたとさ。』 …そんな偶然が、本当に有りえるのだろうか。 有り得るのだ。 無限乱雑場の中には、そのような奇跡的なバランスを持っている領域が 幾らあっても構わない。 それどころか、そのような領域は、無限種類あって、各々が無限個あるのだ。 しかし、「切り取られた一個の領域」だけを見れば、 それは他とは全く隔絶された自己完結した宇宙であり、 ただ単に、【私たち】が必要な分だけの粗さと大きさを持つ宇宙を、 【私たち】自身の責任において、無限乱雑場から切り取っているのである。 【私たち】にとっての【私たち】は、一個しか無い。
さて、ここで改めて、私たちの宇宙を眺めてみよう。 そこには物質があり、力によって絶え間なく運動している。 素粒子の標準模型によれば、私たちの宇宙は 6種類のクォーク(トップ、ボトム、チャーム、ストレンジ、アップ、ダウン)と 4種類の力(万有引力、電磁気力、強い力、弱い力)で構成されている。 2つの物質粒子の間に力が働くのは、力を媒介するゲージ粒子が交換されるからだ、 と説明される。電磁気力はゲージ粒子である光子(フォトン)により媒介される。 しかし、2つの物質粒子の間でゲージ粒子がキャッチボールされると どうして物質が引き合ったり反発し合ったりするのだろうか。 そもそも、どうやって、どこにいるかも分からない相手に向かって キャッチボールができるのだろうか。 粒子による描像は、確かにイメージし易いが、力を説明するには ちょっと相応しくない面もある。ここは、量子力学のもう一つの視点、 すなわち波による描像を用いた方が良いだろう。 ある荷電粒子Aがある場合、実は、Aは空間上のある1点に 粒子として存在しているのではなく、ある1点を中心とした 一定の範囲に波として漂っている。この波は、光の速さで波打っている。 もう一つの荷電粒子Bも、ある1点を中心とした波を纏っている。 湖面の2点に、石を投げ込んで出来た時の波紋を思い浮かべると良いだろう。 A、B両者が生み出す波は、お互いに干渉して、新たな模様を描き出す。 (AとBの間を複雑に行き交うように見えるモアレのような模様の総体を、 粒子的描像では「ゲージ粒子が交換される」とイメージするのであろう。) そして、A、Bは、お互いの波でお互いを洗い合う。 その結果として、波の中心が、引き寄せあう方向に移動する場合と、 離れ合う方向に移動する場合がある。これが引力と斥力に相当する。 この波は、実際は、場所ごとに、A、Bが粒子として発見される確率を表している。 Aの波が高いところでは、Aが粒子として発見される確率が高い。 AとBの確率分布は、波か重なり合うことで変化する。 私たちは、波そのものを観測することは無い。 確率分布の変化の結果、粒子として発見されるAとBの位置が変化すること、 すなわち「移動」によって、力が働いたことを間接的に理解する。 つまり、こうだ。 私たちには直接的には知覚できない真空の裏舞台で、 全ての存在は波として様々な方法で影響し合っている。 私たちにとって、その裏舞台は、間接的にしか計算できない、 可能性の世界、確率の世界である。 本当は、真空の内部では、気が遠くなるような複雑な波模様が 休むことなく光の速さで往来しているのであるが、 それはプランクスケールの内側の仕組みであり、 私たちには原理的に直接的な確認をすることはできない。 幽霊のように可能性として宇宙を満たす確率の波を、 私たちは「観る」ことはできない。 だから、その波の漂う場を、私たちは「真空」と呼んでいる。 しかし、原理的に私たちが直接到達し得ない、その真空の内側では、 実に多彩で複雑なことが起きているのであろう。 宇宙の真の姿は、光速で絡み合い、うなり、もつれ合う、 波紋の世界なのだ。 真空は、決して「何もない」「カラッポな」場ではない。 単に【私たち】には直接到達できない世界であるだけで、 実はその内容には、豊穣で複雑な可能性が無限に埋まっているのである。 粒子の対生成や、粒子の質量獲得のプロセスを見ても分かる通り、 真空には色々なものが埋まっている。………いや、 『真空には、あらゆるものが埋まっている』と言った方が より真実に近いだろう。 【私たち】は、【私たち】のやり方で、見える範囲のものを、 観ているに過ぎない。 高い波が縺(もつ)れ合った領域を、粒子なり物質なりとして 知覚しているに過ぎない。 あたかも氷山の一角が存在の全てであるかのように。 しかし、全ての真実は真空の内側に埋まっている。 そして、物質間に力が働き、移動という現象(動き、速度、時間)を生じさせる。 これこそ、真空が持っている性質である。 真空は、カラッポの場ではない。真空の性質そのものが、 「物質」と「力」の絡み合う、この世のありようの全てを物語っている。 『雄弁な真空』………間接的にではあるが、 私たちは、真空の内側に埋まっている無限の可能性の音を聴くことができる。
ここで、もう一度、立ち止まって考えてみよう。 「真空の内側と外側を分けているものは、一体、何なのだろうか?」 (氷山の見える部分と見えない部分を分けている水面の正体は何か?) それがプランク長だ、というのであれば、その基となっている シュヴァルツシルト半径とコンプトン波長を決めているのは何なのだ? 質点からの距離と時空の曲率や、粒子の波としての存在範囲は、 どのようにして決まっているのか? 「質点」という概念を決めているのは何なのだ? 「存在」という情報の受け手は何なのか? 「時空」という形式で宇宙を眺めているのは誰なのだ? その究極の理由は、【私たち】以外には有り得ない。 無限乱雑場から、宇宙をいまあるがごとくある姿に切り取り、 それ以外の部分を真空の内側に詰め込んで見えなくしている真犯人は、 まさに【私たち】自身なのである。
量子力学における不確定性原理は、その一つの観点として、 位置と運動量を同時に精密に決定することは原理的にできない、 ということ意味している。 実はこれも、【私たち】が、氷山の一角しか見ないことで、 【私たち】の安定した宇宙を切り出していることと関係している。 水素原子の周囲を回る電子の軌道は、不確定性原理があるために、 ある一定以上狭い領域に押し込めることができない。 押し込めようとすると、運動量の不確定性が増して、 その軌道から飛び出してしまうのだ。 もし、電子の軌道を幾らでも引き絞ることができたら、 原子は今ある大きさを維持できずに、10万分の一の原子核の大きさにまで ぺしゃんこに潰れてしまう。 そもそも、「原子が、今あるがごとくある大きさの原子として存在している」 ということの理由は、不確定性原理にあるのであり、 そして、その究極の理由は、やはり【私たち】にあるのである。 (【私たち】が、そのように位置と運動量を観ているのである。) 原子の大きさが決まるからこそ、 分子、細胞、身体、星、銀河、宇宙の大きさも決まる。 つまり「この宇宙が、今あるがごとくある姿の宇宙である」理由は、 【私たち】にあるのである。 もし、空間が無限に滑らかで、どんなに小さなスケールでも定義可能なのだとしたら、 大きさというものには何の根拠も無くなってしまう。 「ある大きさを、今あるがごとくある大きさとして測定している」のは【私たち】であり、 大きさは、測定している側の【私たち】のやり方、【私たち】の空間把握の方法に依存する。 不確定原理とは、私たちが無限乱雑場からこの宇宙を切り取る時に、 それ以上細かいスケールは切り取らないことで、 今あるがごとくある大きさに根拠を与えているという事実の別表現なのだ。
以上は、強い人間原理宇宙論(strong anthropic principle in cosmology) として知られる考え方と重なる。 内部に生命を宿さない宇宙は、誰からも観測されないのだから、 存在しているとはいえない。従って、存在しているといえる宇宙は、 生命を宿すような性質や構造を必然的に持つ、という考えだ。 一方、自循論では、その必然性や根拠を、 「生命」とか「人間」に置くのではなく、 「自」という現象に求めているところに特徴がある。 知的生命、つまり脳神経回路のような高度な情報処理プロセスの中に 「自のクオリア」を発生させ、 時間と空間という形式で知覚を行う(=無限乱雑場から宇宙を切り取る)存在、 それこそが宇宙と物理法則のありようを決めているのである。 (なお、私は、「知性」を、「自のクオリアを持つこと」と同義であると考えている。) さて、このような知的存在一般、広義の言語を共有できる存在の総体を、 ここまでの文章では【私たち】とカッコ付きで表記してきた。 とっくに生命体を捨てて、恒星間コンピューターの中で文明を築いている 知的存在と、地球上にいる人類が、 何らかの言語でコミュニケーションできるようになったとしたら、 その連盟全体が新たな【私たち】となるであろう。 いずれにせよ、ある物理宇宙は、その宇宙の内部にある、 全ての知的存在(=【私たち】)と、相互依存関係にあるのだ。
もし真実が無限次元無限大のランダムな媒質(無限乱雑場)ならば、 そこから【私たち】を含む自己無矛盾で有限な、 「3次元空間+1次元時間」という形式のささやかな物理宇宙を切り取れる、 ということは、驚くには当たらないだろう。 【私たち】は、【私たち】という自覚を維持するのに 必要十分なだけの物理基盤としてのちっぽけな宇宙を、 無限の中から自己責任で切り取って、内側から「観る」ことで支えているのだ。 結局のところ、私たちにとっての神を敢えて定義するならば、 それは【私たち】自身なのである。 ただ、ここで言う「神」とは、意味論的に最も根源的なもの、 という意味であり、全知全能の神という意味ではない。 【私たち】は、物理宇宙の法則を、外側から勝手気ままに書き換えられる訳ではない。 【私たち】は、自由意志を持って、未来を選択していくことができる。 (そもそも、そのような形式を獲得するために、空間と時間という形式をもって、 無限乱雑場の大半を捨て去って、ささやかな宇宙を切り取ったのである。) しかし、もし、自由意志によって、物理法則を大きく書き換えてしまったら、 【私たち】を構成する原子や細胞や身体や脳神経回路が、 今あるがごとくあることと矛盾してしまうだろう。 このような、物理宇宙と【私たち】の (奇跡的な)相互依存関係を壊すような裁量までは、【私たち】には与えられていない。
【私たち】が将来発見するであろう究極の物理法則は、 それに従って宇宙創成当初に6つの素粒子と4つの力が整い、以降、 原子が構成され、星が生まれ、生命を育み、 知性を持った【私たち】を生み出せる法則でなければならない。 そうでないならば、その物理法則は、こうして【私たち】が存在する以上、 間違いなく間違っている。 逆の言い方をすれば、今あるがごとくある【私たち】と、 私たちが観測したり認識したりできることの全てを説明できる物理法則でさえあれば、 たとえそれが何十種類提案されたとしても、それらは全て正しいのであり、 それ以上、真偽を判定する基準などは無いのである。 (敢えて言えば、それら全ての物理法則のうち、もっともシンプルなものが 「良い物理法則」として採用されるであろう。)
ところで、人類が生まれる前から宇宙も物理法則も存在していた。 つまり、時間的因果関係で言えば、【私たち】よりも物理法則の方が先にある。 一方、その物理法則の根源的な理由は【私たち】以外に求められないのであり、 意味論的因果関係で言えば、物理法則よりも【私たち】の方が先にある。 そもそも、「時間」という形式すらも、【私たち】の核にある 「自」もしくは「自のクオリア」が要請する形式なのである。 時間は、【私たち】という現象の総体が、自覚や自由意志を獲得するために、 自らに課した制限なのである。 (物理法則に従い、自己無矛盾である限り、「自覚」すなわち「意識」は、 全ての可能性の中から、どれを現実として選択しても構わない。 【私たち】は、常に、より大きな可能性から、現実を切り取る機能を持つ。 これこそが、「自由意志」を生み出した錬金術のカラクリである。 いやむしろ、このような自由度を自らに持たせ得るような特殊な場として、 【私たち】は、無味乾燥な無限乱雑場から、「時間」や「物質」や「力」のある、 この宇宙を切り出したのである。) 【私たち】は自由意志を持つ。しかし、その自由意志の基盤となっている この物理宇宙のあり方に違反するような自由まで与えられているわけではない。 タイムマシンで時間を遡って過去を書き換えるようなことは、 自由意志を獲得するために自らに課した時間という制約の否定であり、 物理宇宙と【私たち】の(奇跡的な)相互依存関係を壊し、 自己矛盾を引き起こすことであり、 つまり、自らの自覚や自由意志を否定することと同値である。 裸体で空を飛んだり、小指でトラックを持ち上げる、といったことも同様に、 自らを否定することになってしまう。 しかし、「今から食事に行こう」とか「英語の勉強をしよう」とか 「新しい事業を起こそう」といった、この宇宙のあり方に違反しないような選択は、 常に可能である。(そういった「選択」ができるような、 非決定論的なやわらかい場(物理相と情報相が相互依存するような場)を、 【私たち】は自ら切り出してきたのだ。)
決定論的世界観では、時間的因果関係と意味論的因果関係は 同じことの両面であり、この2つを区別する意味がない。 あなたの一生は、単に、一端は受精卵で、もう一端が遺体である、 「どこを切ってもあなたである金太郎飴」として凍結された、 一つの彫像として横たわっているだけである。 しかし、時間という形式を自らに課し、自覚と自由意志を持った 【私たち】の世界の見え方においては、 金太郎飴は時間に沿って分解され、アニメーションのように動き出す。 このような世界においては、 時間的因果関係と意味論的因果関係を、分けて考える必要がある。 意味論的には、時間的に先立つものが常に第一原因であるのではない。 意味論的な第一原因は、自覚という現象、すなわち「今ここ」であり、 選び取る未来や、想起する過去は、その派生物に過ぎなくなる。 意味論的に考えるならば、 最も根源的な原理は、時間的な過去にあるのではない。 「今ここ」すなわち【私たち】にあるのだ。
【私たち】は、自己責任において、無限乱雑場から、 物質と力で構成される、この物理宇宙を切り出した。 その中には勿論、【私たち】自身が含まれている。 まるで、両手に持った縄跳びを足の裏に通して、 腕力だけで自らを宙に浮かべているかのように、 【私たち】は、この宇宙と意味世界を、自ら支えているのである。 その結果として、【私たち】は、自覚と自由意志を勝ち得たのだ。
世界
物理相における個々の素粒子も「自」である。 つまり、個体として唐突に始まって、変化し、いつか必ず終わる。 生命相における個々の生命も「自」である。 精神相における意識も「自」であるが、これは「自」を自覚するという 二重の「自」の構造を持っている。その足掛かりとして、 全ての意識体は、「自核」という最抽象概念を常に更新している。 そして、このような意識体の有り方が、遡って 生命や素粒子の有り方に「自」を課すのである。 こうして、物理相→生命相→意識相、という組み上げ方と、 精神相→生命相→物理相、という制限の掛け方が、 自己無矛盾にバランスする時、 これらを纏めて(自己完結な)世界と呼ぶ。
つまり、物質存在、生命現象、意識概念の相互依存関係、 依存円環の総体が意味なのである。 そして、この円環自体も、唐突に小さく始まり、複雑化し、いつか必ず終わる「自」である。 つまり意味世界も「自」を実装している。
「自」以外には、何の仕掛けも無い。神もいない。 人間という存在も、円環の重要なパーツの一つに過ぎない。 私達は、この、自己完結した意味世界の中にある神無き生を、 自己責任で輝かせることだけに意味を持つ。
知性の機能は抽象化であり、これは要約すると 「概念間の関係を概念に昇格させること」である。 概念Aと概念Bがあった時、「共通性がある」「似ている」「矛盾している」 などの“関係”に対して、概念Cを割り当てることである。 例えば、青と赤に対して、新たに色という概念を割り当てる、とか、 熱いとか冷たいに対して、新たに温度という概念を割り当てる、などである。 知性の側面から見れば、脳がやっていることとは、 平たく言えば、四六時中この抽象化をしている、ということに尽きる。 宇宙に置かれ、生命に囲まれた脳は、最抽象概念として、 そのうち「自」を発見するだろう。 (脳という神経のカタマリそのものには、「自」を発見する機能が 予め実装されているわけでは無いので、 宇宙と生命の側が、そのような属性を備えている必要がある。 例えば、広がりと移動、内と外、生成と消滅、などの、 「自」の構成に必要な原空間・原時間・原論理がこれに相当する。 脳は、抽象化という馬鹿の一つ覚えで、いつかそれを発見するだけである。) こうして発見された「自」(いま・ここ)そのものを認識し、 更新し続ける現象を、「意識」と呼ぶ。
意識現象が生じるというのは確かに大変な事件だ。 物理現象から組み上げられた物質や星や生命は、 意識を宿すことによって精神相を開設し、 精神相の側から物理相を規定する、という、 言わば折り返し地点の役割を果たすからだ。 宇宙がその内部に意識を宿し、「自覚する宇宙」に昇格した時、 素粒子の表現形としての意識と、意識に規定される素粒子、 という円環構造が完成し、 物理相-生命相-情報相がバランスする世界が始めて成立するのである。 抽象化能力の果てに脳が精神を宿すには、宇宙や生命自体が 「自」の構造を備えていなければならないが、 その構造の由来は、実は精神が規定している、という、 この循環構造こそが、自循論の世界観の真髄である。
コンピューターの中で、星や太陽系や銀河の誕生をシミュレーションすることはできるし、 おそらく、意識現象をシミュレーションできる日も来るだろう。 しかし、それらは、あくまで「この宇宙における天体や生命や意識の“特徴を捉えた” シミュレーションに過ぎない」であろう。 真の創発的な「世界のシミュレーション」とは、 無限乱雑場に「自」の種を設けて意味世界を開設し、 宇宙と生命と意識がどのようにお互いを成長させていくかを 観察できるようなものだろう。 その中には、私達の世界と良く似たものもあるだろうし、 かなり様相の異なるものもあるかも知れない。 そしておそらく、意味世界が生じる確率は非常に低いだろう。 ただ、うまく成長した意味世界を時間軸に沿って解析してみると、 そこでは物理-生命-精神が、相互依存関係として無理なく統合されているであろう。 …私達が欲しかった世界像とは、そもそも、このようなものだったはずである。
『意識とは、世界を内側から創る運動である』………これはかなりバラドクシカルな言明だ。 意識が世界を創るなら、世界の内側にいる意識は誰が創ったのか。 原因と結果が判然としない、卵と鶏のような状況が含意されている。 しかし、自循論が主張する世界観とは、まさにこの状況なのである。
原理的に、意識され得ないものは世界に属さない。 物理法則も徹頭徹尾私たちの意識に依存している。 物理相と精神相は、お互いがお互いを包み込もうとし、 お互いを基礎付け説明しようと試みる。 実際には、どちらの方がより基礎的ということは無く、両者は相互依存関係にある。 各々は時間という仕掛けのせいで、自分自身を、そして相互にも、 完全に規定し説明し尽くすという目標を取り逃がす。 だから、各々は、それ自体で存在意義を持つ「相」である。
ところで、意識が宇宙を照らし出し、その宇宙が生命と意識を生んだ、 とする。意識が自らが世界を創ったら、それは自分を創る工場でもあった。 …これは殆ど起こり得ない奇跡に思われる。 実は、その奇跡に「自」という名前を与え、これだけを第一原理と考えるのが自循論である。 だから、自循論は、「自」をベースとする一元論のようであるが、 「自」は必然的に「他」を含意するので、二元論的でもある。 いわば、自循論は、一元論と二元論が混じり合う最小の理論なのである。
世界成熟度
自循論の思想に基づいた、「宇宙成熟度」の定義を以下に示す。 私たち人類が住むこの宇宙だけでなく、 どのような有意味な世界であっても適用可能な、 一般的尺度として定義する。
  • レベル0:銀河や星や原初的生命など物質のみの宇宙。 何者からも認識されない、存在したことにならない宇宙。
  • レベル1:自覚を持つ知的生命を内部に宿した宇宙。 宇宙は内部からその存在を認識される。(自覚する宇宙)
  • レベル2:知的生命が宇宙の物理法則を定義する。 物的存在としての自己規定が完成する。(唯物論的自覚)
  • レベル3:物質から精神が生じるプロセスが定義される。 物理宇宙と精神世界の相互依存の在り方が定式化されている。
  • レベル4:宇宙と精神の全ての法則が洗い出される。 あらゆる物理現象・心理現象が一つの論理体系で説明できる。
  • レベル5:その宇宙で可能な意味のある表現がされ尽くした状態。 その宇宙は自己完結・完成し、新しい意味はもう発生しない。
私たち人類のいるこの宇宙は、レベル2直前くらいであろう。 勿論、この宇宙に住む他の知的生命によって、 既にもっと高いレベルが実現 されている可能性もある。
レベル0で終わった、誰からも認識されなかった宇宙も無数にあったろう。 レベル3に移行できずに自滅した宇宙もあるだろう。 …私たちの宇宙は、どこまで行けるだろうか。
もし、人類がレベル5に至ったならば、 宇宙の成り立ちを全て解き明かし、星と生命の進化を説明し尽くして、 時空という形式の中で可能な全ての数学と論理学の定理を証明し、 「自分は一体何者なのか」「自分は一体何を表現し得るのか」 その全てを把握できている。 もう、謎は無い。人類は、この世界の全ての可能性を 消費し尽くしてしまった。 宇宙は、内部からその全てを鑑賞され尽くしてしまった。 これこそが、自己完結した宇宙の姿であり、 進化とは、この状態を目指して進むことであろう。 …そうなっても、一人ひとりの生活には、大きな変わりは無いだろう。 全てが分かった後でも、人は、生まれ、喜怒哀楽を持ち、 死ぬであろう。
自循論の世界観は、広大無辺な無限乱雑場の中で、 自意識の集団が内側から認識によって宇宙という共同幻想を支えるというものである。 この様子を定量的に表す指標を以下に提案する。
  • 「自我濃度」
    個々の知性個体が行う全情報処理量のうち、 「自分が自分であること」の再認識に使われる割合を、 単位“セルフ”で表現する。 地球上に存在する各種の生命をサンプルに、 自己を認識し、宇宙を内側から見つめ返す、その“強さ”を定量化する。
  • 「意味総量」
    一つもしくは多数の知的存在を内包する宇宙について、 個々の知的存在が感じる意味や価値の全てを足し上げた量を、 情報量として表現する。
知性の総個体数と自我濃度の積は、意味総量と相関するであろう。 宇宙を貫くルールがあまりに単純では、自我濃度を持つ知的生命体を そもそも生み出せないであろう。 一方で、ルール(時空の次元数も含む)が複雑過ぎると、 世界は一貫性、自己完結性を維持できず、 結果としてやはり生命体は生まれないか、宇宙自体が短命になるだろう。 おそらく、意味総量には上限がある。
意味-制限対
意味の意味は何か、意味はどこからやってくるのか
  1. 無限乱雑場に、「自」の構造という制限を加えることによって、意味が発生する。
  2. 制限が存在しないところでは、意味も発生しない。
  3. 宇宙がその内部に宇宙を観測し返す意識を内包した時、その宇宙は「自覚する宇宙」となる。 意識に内側から見返されることの無い宇宙は、存在していることにならない。
  4. 意味とは有限な全体に対置された部分と、その全体性との関係のことである。
    • 全体そのものは無意味である。 (ex. 私の人生の全体は、私にとって無意味である。)
    • 全体が無限であれば、全体に対置された部分も無意味である。 (ex. 私の人生が無限であれば、私にとっての生どの一瞬も無意味になる。)
    • 部分同士の関係は、全体との関係同士の差分として意味づけられる。 (ex. 昨日の私と今日の私の差は、人生全体から見た昨日と今日の私の差として意味付けられる。)

跋.自循論の結論
人間はどのように生きるべきか
人間
自循論の世界観で、人間はどのように位置づけられるのか
  1. 人間は、物理相、生命相、精神相の全てに属し、世界を開設できる現存在である。
言語の時間性
結局、人が哲学する理由は、「自分の人生全体が、 不気味なまでに徹底的に無意味である」という不条理に 何とか意味を与えたいと願う、初手から矛盾している 本能的衝動に他ならないであろう。 本質的に徹底的に無意味だからこそ、この問いは輝くのであり、 「たかが考えること」で易々と意味が与えられるなら、 そもそもこの問いには価値が無い。
今、私達が、世界を今あるが如く捉えていることの理由は、 私達が、今あるが通りに存在しているからに他ならない。 私達にとっての可視光の範囲が異なれば、世界の見え方は 大きく違っているであろう。同じように 私達が「自意識を中心として、感覚を通して得た世界の情報を、 時空内に位置づけて、言語によって理解する」という形式を 採っている以上、私達にとっての世界のありようは、 その形式を越えることはできない。
私達が意味の全てであると思っている世界が、 「なぜ」今あるが如くあるのか、という問いは、 究極的には「単に私達がそのように世界を見ているからだ」 としか答えられない。世界が赤いのは、私達が赤いサングラスで 世界を見ているからだ、というわけだ。 世界は「内側から意味づけられる」のであり、 超越論的な視点の導入は、どう足掻いても失敗する。 次々と理由を掘り下げ、真理を見つけようと先回りし、 世界を抽象化し、爽雑物を取り除いていくと、 「私が私を理由づけようとする」という地点にまで 辿り着いてしまうのだ。「理由づける」という指向すら取り除き、 「私は私」にまで純化されると、最早、取り除けるものは何も無くなる。
そして、この「私は私」という表明こそが、 最もコンパクトな、世界最小の矛盾(他を必要とせずに 矛盾している、という意味で、「自循」)である。 「私aは私b」という表明は、「私a=私b」と「私a≠私b」を 同時に主張しているのだから、間違いなく矛盾であろう。 「私a=私b」の方は分かりやすいと思うが、 「私a≠私b」は分かりづらいかも知れないので、説明をしておく。 一般に、わざわざ「私は私だ!」と表明する場合、 「私は、あなたが表現したような私ではない!」といったような ことを主張したいのであろう。ここに「私」という言葉の形式的な意味が 良く現われている。「私aは私bだ。あなたの言う私cでは無い。」 私cは、外部で意味づけされる虚偽の私であり、 「この私」とは、空間的に隔てられたものである。 一方、私bは、空間的には同じところにいる、いわば内部の私であり、 私自身が理解している私の姿である。 では、全てに先立って、「私aは…」と宣言された、この「私a」とは 何者であろうか? この、あらゆる前提も定義もなく、唐突に文章の先頭に現れる 「私a」こそが、主体としての私、「ただ、見る側としての私」なのである。 しかし、「見られる」ものが無ければ「見る」という主体は成り立たない。 「私b」とは、「私a」という究極の主体が、私自身を どのように捉えているのか、という情報的な味付けが為された観察対象である。
ところで、相対性理論を待つまでもなく、観察対象とは全て【過去】に存在するものである。 目の前に置いて、ふむふむ、と眺めるものは、何であれ、 【過去】に属しているのだ。純粋な【今】というのは、「私a」の居場所のみである (私a=【今ここ】である)。 1億光年先の星の姿が1億年前のものだというのは理解しやすいだろうが、 同様に、隣の部屋の壁や、1メートル前の鉛筆も、厳密には過去のものである。 「あれは確かに美味しかった」とか「よく見ると赤い」とか「熱い!」という感覚は、 全て【過去】に属するものである。 人間の意識にとっては記憶というものは無い。あるのは「思い出す」という 動的な思考のみだ。 だから、計算をするということと、思い出すということに、本質的な違いはない。 現に、どちらも脳神経回路上のイオン分布の時間変化に過ぎない。 「認識する」ことも「思い出す」ことも「未来を思い描く」ことも、 全ては【過去】に属しているし、これらの動的な思考には、本質的には区別はない。 ただ、人間が、「今見ていること」と「過去に事実あったこと」と 「まだ実現していないこと」を、便宜的に考え分けているだけだ。 従って、“人間にとっての世界は、全て【過去】に属する”。 そして、私そのものだけが、現在に属する。 その過去と現在を、唯一連続したものとして繋ぎ留めているのが、 「私」なのである。「私aは私b」と表明した時、 私bは既に【過去】の世界に溶け込んで対象物になってしまっているが、 それは、まさに【今ここ】にある私aと、私という矛盾した現象によって 辛うじて繋がっているのである。それ以外に、時間という形式が存在する理由は、無い。
「私は私」という世界最小の矛盾(自循)は、しかし、言い終わった瞬間に、 全て過去のものになる。「私a」は、言葉になった瞬間には、 既に【過去】に属しているから、 言葉を用いて「私a」を表現することは、原理的に不可能である。 言葉は時間に沿って一次元に展開する。言葉を0秒で表現することはできない。 「言語は必ず時間を消費する」 …これは、自然言語に限らず、論理式でも数式でも、 全ての言語一般において成立する真理である。 A→A(AならばA)と言った時、私達は 自然と両者のAを等しいものと考えがちだが、時間を消費しつつ流れる言語の 異なる位置に現れる以上、これは必然的に異なるものである。 実際、Aa→Abと書いた時に、Aaは「前提条件として置かれる仮説、 まず事実として置かれる事物」という意味を帯びているし、 Abは「幾つかの可能な状態から選ばれた結論、 可能性として思考される事物」という意味を負わされる。 この事情を、文法の中の異なる位置にある記号は、異なる意味を帯びる、 と表現しても良いが、私はもっと一般的に、 言語で語られるものは、全て時間の関数であり、原理的に何一つ同じではない、 ということを主張したい。 この事情に敢えて無理矢理目を瞑るのが、言語の普通の用法である。 特に論理学や数学においては、これは絶対である。 (2=2と言った時、前者の2と後者の2は、意味が異なるのだが、 そんなことを言い始めたら、どんな計算も出来なくなってしまう。)
つまり、こうだ。言語は必ず時間を消費する。しかし、ある一つの単語は、 どのような文脈のどこに現われても、同じであると仮定する。 言語は、時間を無視して使われる。 ………実際、ここまでの文章の中で<意味>という言葉が何度か出てくるが、 それらの<意味>は「全て異なる」。一つとして全く同じものは無い。 それは常に異なる時間性を帯びているからだ。 もし、その時間性を含めて精密に文章を理解しようとしたら、どうなるだろう。 そうすると、文章は全く理解できなくなってしまうのである。 ある単語の<意味>を、文章の流れを含めて全て正確に位置づけるには、 それまでに出てきた単語の全てとの比較検討が必要になる。 そして、新しい単語が一つ、発話されるたびに、最初から この比較検討をやり直す必要がある。文章がある程度長くなったら、 単語一つの<意味>を確定するのに、人の一生分の時間を要するようになるだろう。 ましてや、私達が日常語る言葉の一つ一つは、有史以来の人間の 全ての言語活動と薄く広く関わっているとも言える。 深遠な哲学用語から、勘違いから定着した俗語に至るまで、 全てが関係してくる。言語の使用においては、 それら過ぎ去った膨大な過去情報は、ほとんど無視せざるを得ない。 結局、言語は、本質的に時間的なものなのに、 時間性を無視しなければ、語られることすら出来なくなってしまう。
もし、言葉で「私」と言ってしまったら、それは、何となく、 古今東西、どこでも通用するような、時間性や空間性を超越した「私」 であるようにしか、受け取ることができない。 つまり、「今、ここにいる、自分自身としての私」のことを言いたいのに、 言葉を使った瞬間に、それは「私一般」に化けてしまうのである。 私達は、そのようにしか、言語を運用できない。 あくまでも意味を厳密に確定しようとすれば、 私達は、たった一つの言葉ですら、発することは出来なくなってしまう。 しかし、私達は、「私aは私b」という世界最小の矛盾(自循)の中に、 言葉が時間性を持ってしまっていることも見出さざるを得ない。 「私a=私b」と「私a≠私b」を同時に主張していると認めざるを得ない。
ところで、よく「矛盾した前提からは、何でも結論できる」と言われる。 これを使って少し遊んでみよう。 記号論理学で「A→B」といえば、これは「¬A∨B」のことだ。 Aが偽の場合は、A→Bは真となる。だから、Aが恒偽命題であれば、 何をBに持ってきても、A→Bは無条件に真なのである。 (Aが矛盾していれば、何をBに持ってきても、A→Bという主張は正しい。) Aを「私は私」とすれば、これは矛盾している(恒偽命題である)ので、 世界のどのような事物を持ってきても、つまり世界そのものを持ってきても、 A→Bは正しい。 「私が私ならば、世界の全ては存在する」…これは無条件に正しい。 とんでもない結論が得られたようにも見える。 そう、これは、時間性を前提として「私は私」を矛盾としているのに、 時間性を無視した命題論理を適用した、という誤謬の結果だ。 本質的に時間性に関わる問題を論じている時に、 時間性を無視した論理的な思考を進めると、 妙な結論を幾らでも導き出すことが出来てしまうのだ。
結局のところ、人間は、言語を通してしか世界を理解できない。 むしろ、世界の理解の仕方が言語である、と言った方が良いかも知れない。 その言語は、時間性を無視しなければ、語ることができない。 厳密に時間性を考えて意味を確定しつつ話そうとすれば、 もはや人は、一言も発することが出来なくなってしまうのであった。 ここで、「私aは私b」と言った時には、 知覚(現在)や想起(過去)や夢想(未来)には特段の区別は無く、 厳密には全て【過去】において私bと共に対象化されているものであった。 一方、真の【今ここ】である「私a」は、決して対象化され得ない、 言葉で語ってしまった瞬間に私aで無くなってしまう何物かである。 だから、私aは、言語では理解できない。 だから、私は私を理解できない。 そして、世界とは、私が私である通りにしか認識することができないものであった。 だから、もちろん、私は世界を理解できない。 よって、私は全てを理解できない。
人が哲学する理由は、自分の人生全体が無意味だと確信するほどに、 余計に意味づけしたくなる、という自己原因的なものであった。 言語で理解し、意義付けようとすればするほど、時間性を失った理解の中で、 自己はますます無意味になっていく。 言語理解を緩めて、私aをただ時間性と共に感じる時、 意味や価値が復活するようにも思われるが、同時に確固たる理解が失われていく。 だから、結局のところ、語りえないものについては、 ほどほどに語る程度にした方が良いのだろう。 遠くから見る分には見えるものの、近づいていくと像がぼやけ、 核心に飛び込もうとすると、そこには何もない。 それが「人生の意味」の性質である。 常に流れ続ける時間の中で、時間性に本質的に縛られているのに、 時間性を無視して敢えて語ろうとすること、 それが、言語を通した理解が抱える本質的な限界である。 赤いサングラス(言語)を通して世界を見れば、 世界は赤く(言語的に・非時間的に)しか理解できない、というわけだ。 その輪をどこまでもキツく引き絞っていった時に辿り着くのが、 「私aは私b」という世界最小の矛盾(自循)である。 私aは、語ろうとした瞬間には、もうそこにはいない。 もしくは、【今ここ】の私aは、語ってしまった瞬間に、【過去】の私bに 変質してしまう。 語ろうにも語れない。これは絶対に解けない知恵の輪なのだ。
人生は理解できない以上、無意味だと結論せざるを得ない。 しかし、無理に精密な結論を(言語によって)出そうとせずに、 キツく引き絞った輪を少し緩めて、 語りえないものを、ほどほどに語ることで、 少しだけ<意味>を取り戻すことには、<意味>があるのではないだろうか? 全てを(時間性を無視した)論理で片付けても、 全てを(純粋な時間性として)刹那的に捉えても、 意味の出力はゼロになってしまう。 どちらに転げ落ちても無意味になってしまう人生の稜線を、 私達はあぶなっかしく歩いている。それが、この世界の形式が課した、 人生というものの真の姿なのだ。 …過去に敬意を払いつつ、今を可能な限り楽しむ。 …伝統を重んじつつ、現在を肯定する。 そのバランス感覚を養い続けることが、結局のところ 人生の意味出力の最大化に繋がるのだ。
語りえないものについては、ほどほどに語ろう。
あらゆる世界に遍在する死、そして私の死
  1. 死とは、それが自然である限り、自の表現の完結であり、自の完成である。
死の意味
自分がいつか確実に死ぬ、 自分は 消え去る、無くなる、 未来永劫この《自分という感じ》が 失われる、という絶対的恐怖は、 一度は分解され、再解釈されねばならない。
一般的に、死という一つ同じの現象は、次の三つの観点から語られる。
  1. 第一人称の死。自分の死。体験し終えることの不可能な永遠の神秘。
  2. 第二人称の死。愛するものの死。悲しみの極致、感情の臨界。
  3. 第三人称の死。生物としての死。理解・消化可能な客観的現象。
同じ現象が視点の選択によって、これほど質的に違った 意味を有するという事柄は、他には類をみない。 逆に、この3つは単なる視点の差に過ぎず、本質は同じ だとすれば、 その本質とは何かを抽出する必要がある。
次に死という絶対的な恐怖感の“解毒方法”を見てみると、 大別して三つの方法がある。
  1. 生の価値増大。死を前にして、生きる意味や価値を再認識する。
  2. 生の価値抹消。ニヒリズム。どうせ全ては無意味と考える。
  3. 判断停止。宗教や伝統や自然や社会に判断を預ける。
第一人称の死はいかなる意味でも理解不可能なので、 解毒とは「目の背け方」に過ぎない。 ここでは、死の恐怖を、生命の価値で慰めたり、 宇宙の広大さや神の絶対性に皺寄せしたりするのでなく、 また、死の受け入れ方を考えるのでもなく、 もっと大きな視座から「死」を位置づけ直してみたい。

ところで、死と生には、物質的観点と情報的観点があるだろう。 これは、世界が、物理宇宙と精神界が重なって成立していることに対応している。
生命として『物質的に生きている期間』は、ある程度明確に定義できるが、 期待や記憶を含めた『情報的に生きている期間』は、その前後に少し染み出している。 「あんた達も結婚して3年経つんだから、そろそろ子供を作ってもいいんじゃないかね」 という言及は、生まれる前に先行する情報的な生の一部である。 「本当に惜しい人を亡くした、あれだけの才能が若くして消えるのは産業界の損失だ」 という言及は、死んだ後に存続する情報的な生の一部である。 物質的な生の前後に広がる、これら情報的な生を、私達は物象的生命と同等か、 それ以上に有意味で価値あるものと考えている。 そこで、 情報 とは何ぞや、と考えると、これは、 生きている私達の《意識》と切り離して考えることが出来ない。 情報とは、《意識》が、物質世界に重ね描きしている心象なのである。 つまり、《情報的な生》は、《物質的な生》に対して《意識》が重ね描きするものである。 情報は、精神界が続く限り、物質的な限界や《時間》を超えて存在できる。 死者も、思い出の中で存在し続けられるわけである。

ここで、 《時間》と 《意識》の 表裏一体性を再確認しておこう。
時間が無ければ意識は発生しない。 世界は凍りついたままで、生命も自覚も起こりえない。 一方、意識が無ければ時間も流れない。 この宇宙が意識(内部観測者)を全く含まないのだとしたら、 この宇宙の全歴史を、凍りついた4次元空間と捉えても何ら差し支え無い。 この宇宙の内側から時間軸に沿って宇宙を意識する内部観測者がいるからこそ、 宇宙を3次元空間+1次元時間で捉えることに、初めて意味が生じる。
意識が先か、時間が先か、という議論は、ここでは捨て置く。 そもそも時間自体を比較対象として「先」が何を意味するかが定義されねばならないし、 それは本当に単なる定義の問題に過ぎない。 ここでは、時間と意識は表裏一体なのだ、ということが了解されれば十分だ。
そして、この事情は、意識と空間についても成り立つ。 空間が無ければ意識は発生しない。 意識が生じる場そのものが無い。 一方、意識が無ければ空間も広がらない。 この宇宙が意識(内部観測者)を一切含まないのだとしたら、 すなわち、「内側から外界を観測する」という意識が無いならば、 そもそも広がりとか空間という概念自体が不要であり、 宇宙は空間以前の混沌のままで構わないはずなのだ。
以上を纏めれば、時空と意識は表裏一体であり、結局のところ、 物理界と精神界は、表裏一体であることが分かる。

「死」は、物理的な生命として時間上のある一点で生が停止を意味する。 そして、「自分にとっての精神界」も、そこで永遠に失われる。 一方で、この世界を、多数の精神が支える、 物理界と精神界が表裏一体となったもの、と捉えるならば、 共同で維持される精神世界においては、「死」の一点を超えて、 私は存続していくことになる。
「死」によって、私の情報が、時間的に物理生命としての限界を超えていくことが 明らかに示されるのだが、 実は、生きている間にも、私の情報が、空間的に物理生命としての限界を超えていくことが よくある。それが「愛」である。 私の情報は、他人の情報界の中にも浸透していくのである。 とは、 自己と見なせる範囲を拡大したいと願う感情である。 そして、情報としての私は、集合的な精神界の中で、 物理的な時間や空間を越えて、浸透していくのである。

物理的な一個の生命体、精神的な一個の自我、この「檻」の中で考える限り、 第一人称の死は永遠の謎だし、第二人称の死は限りなく悲しいだけだし、 第三人称の死はニュースの一つに過ぎない。 「死」は、確かに物理的な在り方の終端であり、自覚現象の終わりである。 しかし、意識の集合たる精神界と、それと表裏一体を為す物理宇宙、 という全体像の中に私を位置づける時、 私は情報的には存在し続けるし、物理的な在り方が終わっていることで、 別の輝きを帯びることすら有り得る。 そして、そのことの方が、生命の檻にある私、それ以上の普遍的な意味なのだ。
「死んだら一巻の終わりだ。他人の思い出の中に存在したって、 そのことに一体、何の意味があるんだ。」 …そう思われるかも知れない。 そして、それは、一個の自分という檻から考える限り、全く正しい。 しかし、そもそもこの宇宙全部と表裏一体を為す集合的精神界、 情報世界という観点からは、死は通過点に過ぎないとも言える。

「死」を、一個の自分という檻から、すなわち内側から見る限り、 それが絶対の恐怖であり、永遠の謎である、という事情は、 全く正しいし、変えようも無い。 しかし、世界とはそもそも表裏一体である物理界と精神界から成り立っており、 その集合的精神界の中では、物理的生命の範囲を越えて私は存在するし、 他人とも愛を通して混じりあっていける。 言わば、一つの大きな魂の中に自分を位置づける視座から、 「死」を乗り越えていけるのだ。
「私」の人生は、唐突に受精卵に始まって、心臓の鼓動の最後の一個で唐突に終わる。 その意味での「私」とは、生命体としての「私」なのだが、 よくよく考えると、それは私の意識を運ぶ「入れ物」の存在期間であって、 私の意識の存在期間は、それよりももっと短い。 物心が付く頃に徐々に確立され、自分なりの意識を維持し、 歳とともに記憶力と思考力が衰え、私の意識は解け、ゆっくり消えていく。 つまり、私という存在は、徐々に生まれ、徐々に死ぬのだ。
『人は夜ごと死に、朝ごとに生まれ変わる』という言葉は、 色々に解釈できるけれども、「人」を、自覚する存在と捉えるなら、 これは比喩でも何でもなく、文字通り睡眠は死であり、覚醒は誕生である。 睡魔に襲われ、自覚が解けていく時の様子を、 私は何度も記録しようと試みてきた。 「自」という情報空間の確かな一点がぼやけ、 思考空間全体が『私が考えている』と『何かを見せられている』という 能動と受動の間の往復運動を起こし、 ついに主体性を手放した瞬間、つまり「私は私である」という連鎖が途切れた瞬間、 もう人は寝ているのである。………「人」として、死んでいるのである。
生と死は、ゼロとイチのようなものではなく、 ゆるやかに混じり合い、広がっているものなのかも知れない。 物理世界に属する身体の生と死には、比較的明確な生と死の境界があるが、 人間としての私という存在、意識、自覚については、 色々なサイクルで生と死が交叉しているものなのかも知れない。 そして、結局のところ、私は、「あれが最後の死だった」と理解することは出来ない。 それが、他者の死と、私の死の、決定的な違いだ。 私にとって、私の死は、永遠の謎である。 しかし、私にとって、私の死は、日常の中に繰り返されてもいる。 「メメント・モリ(死を見つめよ)」「死を意識してから、本当の人生が始まる」 …ここで言われる「死」は、自己客観視する時にだけ絵空事として了解される 「いつか必ず訪れる、最後の死」だけでなく、 日常の中に織り込まれた、リアルに体験している緩やかな死も含まれるのかも知れない。 そのことに気付けば、人生の時間の濃度は高まり、 一瞬一瞬の意味が、より多く開示されるようになるのではないか。
個体が生きるためには、プログラムされた死(アポトーシス:apoptosis) が裏づけに存在する必要がある。
人は何故、単純さを求めるのであろう。 有限存在としての人間は、何故、 無限と見紛う複雑さの前に単純さを見出したがり、安心したがるのだろう。 限りある命を運命付けられた人間は、 何故、自分だけは死なないと、安心したがるのだろう。 そして、自分がいつかは死ぬ、という事象の確実性が、 心理的な死亡時刻の不確実さを無限大にまで発散させる。 (もしかすると、不確定性原理は人類の願望なのかもしれない。)
しかし、今の自分自身の中に、自分自身がいずれ必ず終わる、という宿命が プログラムされていることを知り、心の底から納得することでしか、死をも 織り込み進行する生をリアルに考察することが出来ないのも事実だ。
―死ぬことを恐れては、生きることが出来ない。
死の恐怖
最も絶対的で最も漠然としている「死の恐怖」の正体を 突き止める手順を考察してみよう。
自分がいつか絶対に必ず死ぬのだとリアルに強く思うと、 凍った手で心臓を鷲掴みにされたような恐怖を感じる。 その恐怖から逃げずに、恐怖を維持しながら理性で恐怖の内容を因数分解するのは困難だが、 それでも集中して向き合い続けると、以下の3つの要素が見えてくる。
(1)生きているという既得権益の喪失
(2)死の瞬間の苦痛
(3)未来永劫永久に自分が不在となる理不尽
一つ一つ見ていこう。(1)は、死の恐怖というよりも生への執着だ。 私の命、私の意識という、このかげがえのない奇跡を、手放したくないという執着。 …しかしこれは、このような“生の価値”の自己認識の強さに依存する感情で、 死の絶対的な恐怖を支えるだけの絶対性が無い。 “死の恐怖”は、真正面から向き合った時、常に一定の性質と強度で精神を覆うが、 “生の価値”の自己認識の強さは気分や状況に応じて様々に変化する。
では(2)はどうか。勿論、事故や病気で死ぬ苦痛は本能的に拭いがたい恐怖だ。 しかし、人間や動物は、死に至らない苦痛だって避けようとする。 それに、たとえ自分が安楽死を迎えると仮定しても、 死の絶対的な恐怖が消えるわけではない。これも決定打にはならない。
すると、残るのは(3)だ。完全な暗闇の中に自分が永久に閉じ込められるような恐怖に、 そのような自分さえいないという恐怖が加わって、この恐怖は完成する。 無の暗黒という拷問が未来永劫続くという、その恐怖の質量が そっくり残ったまま、それを味わう自分すらいないという恐怖が加わるのだ。
だが、実際は、永遠の無を味わう自分なんていないのだから、 この恐怖は無効化されねばならないはずだ。 そう出来ないのには深い理由があると思われる。 私たちは、実のところ、無とか永遠とか自己の不在という概念を、 実感も理解もできないのである。
限り有る時間しか生きてこなかった私たちは永遠を実感できないし、 “私の不在”を考えようとしても、考えている以上私は存在してしまっているので、 その試みは常に必ず失敗せざるを得ない。
要するに、(3)は、抜本的に解消することが出来ない恐怖なのだ。 それは「原理的に分かり得ない」という鎧で武装され、 常に不気味で不条理で理不尽な恐怖として残り続ける。 知性にとって、絶対分からないことは絶対的な恐怖なのだ。
まとめよう。
死の恐怖を紐解いていくと、(1)生の価値の喪失や、 (2)死の瞬間の苦痛が、圧倒的な恐怖として前面に出てくるが、 更に奥に踏み込んでいくと、(3)自己の永遠の不在、という、 人間の意識に特有な恐怖が見つかる。しかもこの恐怖は、 その正体が“原理的に分かり得ない”ことで厳重に守られているのだ。
充実して生きている限り(1)は避けられない。
生命である限り(2)は避けられない。
知性を持つ限り(3)は避けられない。
健全に生きている限り、死の恐怖は避けられない。 …いやむしろ、生きるには、死の恐怖と、時には健全に向き合い続けること、 それによって、精神性と生命性と生の充実を逆説的に強く感じることが 欠かせないとも言えるだろう。
死と悟り
『残りの人生が有限だから今を大切に』と言われても、 その有限性が実感できない限り、今の大切さも分からない。 それは、死に直面したことのある人だけに有効な理屈だとも言える。 だが、普通の人に必要なのは、今すぐ、今の大切さを実感できる、 そういう類の理屈であるはずだ。

残念ながら、自分の死後というのは、永遠の謎である。 自分というのは、当たり前のように「存在する」し、これは定義に近い。 だから、「自分の不在」というのが、まず巨大な謎である。 その上、自分は、いかなる意味でも有限の体験しか持っていない。 従って、「永遠」というものも、実のところ、全く実感できない謎である。 だから、死が意味する「自我の永遠の不在」とは、 二重の謎に厳重に包まれた、どうにも解きようの無い謎なのである。

そこで、妥協点として、自分の意識が、死後も微弱ながら どこかに残り続けると想像してみよう。 薄暗い草葉の陰にそっと潜み、一瞬のまどろみの内に、 現実世界が何年も過ぎ去るような、そんな希薄な意識。 覚醒とも眠りともつかない、意志も行動も無い、巨大な空洞のような意識。 そんな死者の視線から、命ある世界を正視したら、 余りの眩しさに、自分が吹き飛ばされるように感じるのではないか。 「命」とか「確たる存在」とは、それほどの異常事態であり、 天変地異であり、驚天動地の奇跡だと、実感できるのではないか。

生の中にあって、いかに生の大切さを実感しようともがいても、 あまりに当たり前過ぎて、気付くことができない。 しかし、死者の視線に徹底的に同化した後で、 この当たり前の世界を見返す時、私たちは、 命の高貴さと存在の奇跡を、雷に打たれたように納得できるだろう。

だからもし、二重の謎に厳重に包まれた私の死、 つまり「自我の永遠の不在」すら実感できたとしたら、 この生の一瞬一瞬、私の自我が通過する全ての「イマココ」は、 凄まじい程の眩しさを放ち、開示された神秘として体感されるだろう。 そしておそらく、悟りとは、このことなのだ。
神無き生
「いま・ここ」を生きる
『私は生きる。この世界として死ぬために。』
I live my life to die as this world.
  1. 意味世界は、そこに参与する全ての生命と意識が支えている、 つまり、内圧によって支えられる、共同幻想である。 (神が与えたものではない。)
  2. 一瞬一瞬が、「自」の実装であり、これは物理相、生命相、情報相を貫いている。 つまり、自己が生きる一瞬一瞬は、世界全部と同型である。
  3. 人生の意義は、一瞬一瞬を、ひたすら自己責任で、 最高に輝かせることである。
この意味世界は有限であり、時間を勝手に導入して自己責任の範囲で 自由を得た我々は、有意味性(有限性)の要請に従って、始まって しまった以上、終わるための決断を繰り返し、そして終わることで完成する。 終わることで、自分の有限性と世界の有限性の一致を感得する。 つまり、世界として終わる。そのために、一瞬一瞬の決断を行う。 「いま・ここ」を、最大限に輝かせる。 そうやって、生きよう。世界として終わるために。

用語集
自循論で特徴的に使用される用語、記号の解説

断章
未整理の文章、言葉、そして課題
光子
実は私は仮想世界の光子かも知れない。 仮想世界の原子核と中性子の間でキャッチボールをされ お互いを引き付ける役割を担っているか、 仮想世界の人間の目に飛び込んで映像を脳に伝えているか、 その仮想世界の空間内をその世界で許される最高速度で飄々と 飛んでいるかも知れない。
しかし、その仮想世界で過ごす時間は私にとって0秒であるので、 私にはその仮想世界で過ごした時の記憶が無い。 1クロノス秒毎に私は仮想世界に転送されて、 その世界での一生を終えると、また元の世界に戻ってきて、 別世界での莫大な経験を使って次の1クロノス秒後の 決断をするのかも知れない。