自循論::用語集

Last updated 2008.2.28
一般的な語彙でも、 自循論の中では特殊なニュアンスを帯びて用いられる単語について、 説明を試みる。

私が生きる理由

宇宙の開闢から消失までの間に儚い生涯を送った
全ての《意識》の総体が、宇宙という存在を
内側から支えている。風船を膨らませるように。

無限に存在する宇宙の中で、私達の住む宇宙が、
今あるが如くある理由は、私達がそこにいる、
という以上のものでは有り得ない。はいない。

少しずつ違う多数の《意識》が、
世界》を安定かつ豊かなものに保っている。

安定かつ豊かに保たれた《世界》が
少しずつ違う多数の《意識》を生み、育んでいる。

個々人の《意識》は、《世界》の断片であり、不完全だが、
唯一無二の純粋で完全な《自己》という概念を共有し、
《自己》を通して《世界》の中で互いに結びついている。

」とは………

自己と認識できる範囲を拡大したいと願う感情だ。
他者と結びつき《世界》として完成したいと願う《意識》だ。

だから、生きる限り、愛することはやめられない。
自己がある限り、愛だけは捨てられない。




■未整理
2006-09-27 (水)
「正しい説明」は幾らでも作れる。 「優れた説明」とは、スカッと気持ち良いものでなければならない。
2006-11-5 (日)
情報は、生命が生命に向けて発信するメッセージである。 それは生命が無から創造することもあれば、非生命から生命が読み取って 情報化されることもある。そして、生命自身が莫大な情報のカタマリでもある。 情報の特性は「無形であること」「有形化(記号化・符号化)できること」 「正確にコピーできること」「従って増殖できること」 「結果として万人に共有され得ること」ということになるだろう。 衣食住に関わる有形なものが不要になることは絶対に無いだろうが、 社会や都市が脳の外部化されたものである状態が更に進むならば (環境が自然から人工へと再編され続けるならば)、 それに合わせて、価値における情報の割合も増え続けるだろう。 これは、人間という生命における、身体と脳の比率の変化とも 比例するかもしれない。 昔のSFに出てくる頭でっかちの火星人のように、 人間も四肢が衰え、目や脳ばかりが大きくなり、 最後は培養液の中に浮かぶ脳の集団として永遠に幸福を味わい続けることになる。 その時には、勿論、無形の情報が必要なものの殆ど全てになる。 有形なものを丹念に排除して、無形情報としての生命の真髄が、 無形情報を交換し合う、情報だけの世界。 好むと好まざるとに関わらず、私達は確実に、その世界に向かっている。
2006-11-29 (水)
「時間」「空間」「変化」「力」………これらのうち、より根源的であるものはどれか。 時間という概念無しの変化が有り得るだろうか。 空間という概念無しで力を考えることが出来るだろうか。 変化という概念無しで空間は姿を現すだろうか。 力という概念無しで変化を捉えることが出来るだろうか。 これらの概念は、同時に立ち現われ、同時に消えるものではないだろうか。 すなわち………これらは同じものなのではないだろうか。 もし、これらが同じものの異なる側面として生命に認識されるものなのだとしたら、 何らかの秩序や意味や普遍性を代表している概念が「力」なのだろう。 時空が創造されて対称性が自発的に崩壊した時に、 偏りとして、偶然選択された指向として、大域的に方向付けられた時空の性質として、 ルールとして、「力」が固定化された。 (我々の住む宇宙では、偶然、重力・強い力・弱い力・電磁気力の4種類に落ち着いている。) 「力」という法則を得られなかった時空は無秩序であり、 持続する「変化」を識別することも出来ず、全ては乱雑さの中に漂い、時空という概念すら発生しない。 今の我々の宇宙には、「力」がある。 それは、何かが壊れて固まって、元に戻せなくなったということなのだ。 それが「現実」「意味」「世界」「宇宙」「生命」その他あらゆるものとして現われてくるのだ。 宇宙開闢から約0.0001秒で時空が壊れて出揃った4つの力。 とりあえずは、これに「神」というレッテルを貼っても良いのではないか。
2006-12-27 (水)
「情報」は「物質」に宿り、「物質」は「情報」のありようを決める。 「情報」は「生命」を導くが、「生命」こそが「物質」に「情報」を重ね描きする。 「物質」が無ければ「生命」は存在し得ない。 「物質」は「空間」を占める。「情報」は差異や変化だが、 それらは「時間」と「力」によって生まれる。 「情報」が「時間」という概念を生じさせる。 「情報」は「生命」によって齎される。 ……………これらは、どういう関係にあるのだろうか? もっとも根源的なものは、どれなんだろうか? 一般的な感覚は、「時間と空間」が先ずあり、「物質と力」の場が出来て、 「情報」が定義できるようになり、その上に「生命」が進化した、という図式だろう。 一つの仮説は、静的な「空間と物質」の世界に、「生命」が導入されると、 動的な「時間と力」が発生し、ここに想起される概念が「情報」だ、という図式だ。 もう一つの仮説は、無限に乱雑な場に対して「生命」が導入されると、 そこに「時間と空間」という場を創出し、「物質と力」が見えるようになる、 実はそれらは「生命」自身が鏡を見ているのと同じことであり、 言い方を変えると、見るものと見られるものは「情報」というレベルで同じという図式だ。 他の仮説としては、「情報」が全てであり、「時間と空間」「物質と力」「生命」は、 情報に付き従う、互いに表裏一体の関係にある現象群に過ぎない、という図式もある。 多分、おそらく、上記の図式は全て正しく、どれを選択するかは好みの問題なのだろう。 これらは渾然一体となった広義の自己を形成しており、 外部から説明されることなく自己完結しており、 一斉に有意味になるか、一斉に無意味になる、という一蓮托生の関係にあるのだろう。
2006-12-8 (金)
timeとspaceが「時間」「空間」と翻訳されていることは味わい深いと思う。 両方とも「間」という漢字を当てて、広がりを持つという共通性を見事に表している。 「時間」「空間」は哲学用語として翻訳されたのだが、 哲学では古くから人間の認識の基礎を為すものとして一対に扱われてきた。 相対性理論 (特にミンコフスキー空間)では、虚数を導入して 文字通り時間と空間を等質に扱ってしまう。 ちなみに「間」というのは俗字で、本来は閨Aすなわち門のとびらのすきまから 月の見えることをあらわし、《二つに分ける》という意味を持つ。 時間と空間の共通概念である「広がり」という性質を遡っていくと、 結局は開集合 すなわち「ある点の“近く”」という概念に到達する。 つまり、広がりは“近く”と、“近くではない(遠い)”という 最も基本的で、これ以上抽象化できない《二つに分ける》という概念装置から成り立っていると言える。 開集合の概念は、『いま・ここ(now and here)の近傍』としての 『意識』の本質にも 繋がるものである。 「時間」「空間」という言葉の翻訳者が、どこまで悩み、考えたのかは不明だが、 私は見事な訳語だと思う。
2006-12-10 (日)
宇宙という容れ物に物質が溢れ、生命が誕生し「心」が芽生えた。 生命が集団で、より効率よく生き残りを図るために、 物理的な制約を受けずに情報(概念・モデル・評価・記憶・計画)を処理する装置が「心」であり、 その本質は外界の縮図を自己の内部に持つことである。 その「心」を媒介として人間たちは協力・連携し、都市・社会・国家という 自らの繁殖・繁栄のための強固な基盤を構築してきた。 ところで、この「心」が外界の縮図を自己の内部に持つ時、 ついでに「自分自身」の縮図をも「自分自身の中」に持ってしまう。 これが「自意識」というものだが、もしかすると本来的には不要なモノなのかもしれない。 「自意識」は、その構造上、時空と切り離された情報のレベルで無限に循環する自己言及の輪であり、 決して解かれることの無い特異点のような痛みとして心の中央に位置する。 ………心の中で他者と関われること (すなわち「」を持てること)の代償として 人間は「自意識」および「死の恐怖」「自分自身の無価値性の認識」を持たされた、 という説明も成り立つのではないか。
2007-2-22 (木)
この宇宙だけでなく、存在し得る、ありとあらゆる有意味な《世界》は、 どう考えても必然的に「認識する者」と「認識される物」から成り立っている。 それ以外の原理や基盤や神様は不要であり、 たまたまそういうバランスが成立した場所に《世界》は、ただ単に在る。 《世界》は全てを含むのだから、必然的に自分自身も「認識される物」になり得てしまい、 自分という特異点において 「認識する者」と「認識される物」の二重性は本質的に不可避となる。 (この宇宙においては、少なくとも「人間」は、その不可避性に気付いている。) 特異点において、空間的には本来同じ「認識する者」と「認識される物」を、 対象化し、別物にするためには、 区別のための軸が要請され、それを《時間》と呼称するならば、 「私」(=いま・ここ)が、一瞬前の「私」を見る、という図式が自然と導かれる。 これが《意識》の要件である。 《意識》と《時間》は表裏一体であり、同じ現象の異なる側面に過ぎない。 簡単に言って、《時間》は、《意識》による自己参照を実現するための方便である。
2008-6-30 (月)
時間は決して後戻りしない。 むしろ、決して後戻りしない時間という仕掛けがあるからこそ、 後戻りという概念自体が存在し得るのである。
2008-3-20 (金)
「意識と時間は同時発生的だ」という知見を更に一歩先に進めて、 「意識が先か、時間が先か」という問題に取り組むとなると、 どこに検討の基盤を置くのかさえ難しい。 「タマゴが先か、ニワトリが先か」という問題は、 時間軸に沿って考えるわけであるが、 「意識が先か、時間が先か」という問題では、 時間自体が考察の対象であるのだから、 時間順序を問うているわけではない。 「意味論的に、意識と時間はどちらかより本質的か」 もしくは「どちらが説明原理としてよりシンプルか」 ということだろう。
おそらく、どんな意識であっても、その「自我」を安定して存続させるために、 意識自身が自我境界線としての「生命体」という現象の中に包まれている、 ということを必ず自己発見するだろう。 (但し、ここで言う「生命体」とは、我々が地球上で見掛けるDNA生命に限定されない。) 実際、私達は個々に自分の身体を体感している。 また、自分の周辺には、多くの生命体が存在し、 それらの生命体は、更に大きな「物理的宇宙」という共通の器の中に包まれている、 ということも発見するだろう。 大事なことは、たった一つの意識は安定した存在には成り得ないということだ。 多くの意識が相互作用し、知識を積み重ね、知恵を確認し合い、 確かに私達の意識は生命現象の中にあり、生命現象は宇宙の中にある、 というモデルを創り上げ、多くの視点から何度も検証し、 確認し合って確度を高めてきたのである。 この宇宙以外の、どんな宇宙にある知的存在も、 おそらく「意識→生命現象→宇宙」という順序で、 世界のモデルを構築し、検証、確認するはずだ。
一方、生命や意識のことは一旦忘れて、 宇宙と呼べる現象、時空と見做せる領域が、先ずある、 と考えることもできるだろう。 20世紀は科学万能の世紀で、「先ず物理世界ありき」 という考え方の方が、一般的にはむしろ支配的であったとも言える。 時空と素粒子は相補的な関係にあり、物理法則を形成する。 物理法則のパターンは無数に考えられる。 ある物理法則で発展した宇宙の中には、 たまたま直ぐに潰れてしまったり、 たまたま無秩序に霧散してしまうものがあったり、 たまたま星々や生命を内部に生み出せるものがあったりするだろう。 私達の宇宙は、たまたま私達を生み出せるような 物理定数や初期条件を持っていた、と考えるわけである。 このように「宇宙→生命現象→意識」という方向で考える場合には、 時間という概念は既に宇宙という時空概念に織り込まれているので、 意識より時間の方がより本質的である、ということになる。
ここでもう一度、 「意識が先か、時間が先か」という問いの立て方に着目してみよう。 時間順序を問うているのではない。 あくまでも、意味論的にどちらが本質なのかを問うている。 「時空という器が無ければ、生命も意識も生まれないじゃないか」 という考え方と、 「意識という現象が無ければ、生命や時空は認識されようがないじゃないか」 という考え方の鬩ぎ合いである。 これは、単に視点の違い、好みの問題なのだろうか。 それとも、決して交わることの無い別次元の問題なのだろうか。 「時空という客観性(普遍性)」と「意識という主観性(意味)」の、 どっちも確固たる基盤として選択できるし、 どっちを選んでも無矛盾な論理は構築可能だ、 というだけの問題なのだろうか。
ここにアウフヘーベン(止揚)が必要である。 客観性と主観性を2つの対立概念と見做すのではなく、 1つの「意味世界」を支える2つの必須要素と見做すのである。 「意味世界」が存在するためには、 意味・差異・価値を見出す主体としての意識が必要である。 そして、その意識の群れが織り成す意味ネットワークが安定して成長するには、 器としての何らかの普遍性、つまり客観性の枠組みとしての物理宇宙が必要である。 「物理宇宙が真理であり、生命や意識は、物理現象の一種に過ぎない」とか 「脳内の意識世界だけが真理であり、物理世界は共同幻想に過ぎない」とか、 いがみ合う必要は無いのである。 豊かな意味世界の基盤として、物理世界と情報世界は、 両方とも必要なのだというフレームワークの中で、 これまで人類が積み上げてきた、科学と哲学と宗教の知見の全てを、 再整理すれば良い。
最初の問いに戻ろう。「意識が先か、時間が先か」……… どっちでもない。「意味世界」が先である。 意味世界を構成するには、意識を核とする情報世界と、 時空・素粒子(物理法則)を核とする物理世界の、 両方が必要だ、というだけのことだ。 知的存在を宿さない、誰にも観測されない、「在る」とさえ誰にも言えない宇宙とか、 物理基盤を持たない、孤独なままに霧散する、儚い自覚だけの幻想的な意識とか、 そういう「無意味なもの」が好きなら、物理か宗教に突っ走れば良い。 しかし、意味とか価値とか愛とかを語ろうと思うならば、 物理世界と情報世界の両方の成り立ちや性質や制約を理解し、 そのバランスとしての意味世界、その交差点にある生命現象という考え方を どっしりと思考の中心に据えなければならない。
ここで、少し補足が必要だ。ここまでは「時間」というものを 物理世界を支える線形時間として扱ってきたが、 私は「時間」には2種類あると考えている。 物理世界を発展させるクロックとしての客観時間と、 意味世界に差異や意味を発生させる仕掛けとしての主観時間だ。 だから、「意識が先か、時間が先か」という問いは、 「主観時間が先か、客観時間が先か」という問いに変更しても 本質は同じであると考えている。 この、新しい問いに沿って回答するならば、 物理宇宙という現象に内在する<共通軸>として必要とされる <純粋客観時間>と、 意識という現象に内在する<差異>を検出するために必要な <純粋主観時間>は、 どちらか一方だけでは無意味であり、 一つのフレームワークの中でバランスを持って 重ね描かれている状態(対応付けられている状態)だけが 有意味である、ということになる。 この「バランス」を取る仕掛け、結び目として、 「生命」が存在する。 生命は、まさに、物理的身体と、情報流としての現象性が、 重ね合わさった状態そのものであり、 物理世界と情報世界を結び付ける現象なのである。