Last update 2007.4.14 哲/ 科/ 宗 |
¶ 人間原理宇宙論は、「私たち人間」とか、「今この宇宙」を特別扱いする、 ご都合主義的な論理にも感じられるが、 「人間」や「宇宙」という言葉を一般化して考えれば、 違和感は減じるのではないか。(1) 「人間」という言葉を、 地球上のホモサピエンスと狭く捉えず、 自己認識が可能な知的存在一般と捉えなおす。(2) 宇宙とは、それが内包している知的存在が認識した姿であり、 それを超える存在ではない。 (そもそも、知的存在の総和が認識できる限界以上の宇宙を仮定しても無意味である。)(3) 我々が知っているこの宇宙以外の宇宙も無数に存在する。
¶ 宇宙無境界仮説は、 「宇宙の始まりという出来事に特別な意味は無い」 ということを意味し、さらに一般化すれば 「あらゆる出来事に特別な意味は無い」 という考え方にも繋がる。 この宇宙に意味を与えてくれる神は存在せず、 宇宙は自己完結的に「ただそこにある」ということになる。 万人の主観から外挿された宇宙の始まりという出来事も、 私にとっての「いま・ここ」という出来事も、 等質等価であり、 同じくらいの重大事だと言っても良いし、 同じくらい無意味だと言うこともできる。
¶ ボルツマンの考え方は以下の通りであった。 『自由度nをもつ力学系の 座標q1,q2,…,qn 運動量p1,p2,…,pn を座標とする2n次元空間を相空間(または位相空間)という。 系の力学的状態は、この空間の連結集合である。 ある時刻における系の状態は、その1点Pで代表される。 与えられた力学系に関する、ある物理量A(p,q)は、 代表点Pの運動とともに値を変えるが、 その長時間平均Atは、 熱平衡状態におけるAの観測値、 すなわち不変測度におけるAの平均とみなされる。 なぜなら、Pの軌道が閉曲線をつくらないならば、 Pは、あるエネルギー面のほとんど至るところを 動き回るであろうから、 長時間平均Atは、 等エネルギー面上の測度の加重平均である相平均Apに等しくなる。』 数学的には 『位相空間中の軌道は,等エネルギー面上の任意の点にいくらでも近づきうる。』 という言い方となり、 現在では『エルゴード性と、等エネルギー面がいくつかの領域に分離されていないことが、 同等である』ということが示されている。
エルゴード性は、イメージを掴むために以下のような言い方で説明されることがある。
- ある物理量に対して、長時間平均と位相平均が等しいこと。
- 任意の初期点からの任意の物理量の長時間平均が、 平衡分布に関する相平均と一致するという性質。
- 長さVの乱数列がM個あり、V×Mの二次元行列とした時、 V、Mが十分大きければ、縦、横いずれにサンプリングしても 同様の特徴を示すという性質。
- 時間軸方向で集計した量が、 時間を止めたところでの集合の確率法則を与えていること。
- 微小状態からなる位相空間内で、 同じエネルギーをもった領域に費やされる時間が、 位相空間で占める体積に比例するという性質。
- どの状態から出発しても、どの状態にも遷移する可能性があり、 周期性を持たず、情報源の統計的性質を よく反映した状態遷移を行うこと。
- 任意の初期値から出発した軌道が任意の点の近傍を何度も通過する性質
¶ 【参考】単一ニューロンの繰り返し入力に対する応答の試行平均と ニューロン集団の単一入力に対する応答の集団平均とが等価になるとき、 「生理学的エルゴード性」が成り立っている、という。
¶ 【参考】エルゴード仮説は、 状態数が有限で、時間が無限なら、「私」という人生は 何度でも繰り返されてしまう、という、ニーチェの 永劫回帰 の考え方にも概念的に似ている部分がある。 また、「エルゴード仮説」は「意識」と関係している可能性もある。 本来的にこの《宇宙》は、人間が認識している姿であり、 意識の群れが本質的には乱雑な存在に 光を照らすことで浮かび上がる有限の虚像である。 しかも生命や意識自身がその虚像としての物質世界によって成立している、 という同時発生的構造、自己循環構造を持っている。 もし、エルゴード仮説が、全ての物理量に対して成立するのだとすれば、 それは、私達「意識の群れ」の統計的性質が、 時間的にも空間的的にも、同様の傾向の意味しか 取り出せないという自己循環的な構造に原因を求められるのかも知れない。