◇科学の宝庫

Last update 2007.4.14
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【科学】経験的に実証可能で、合理的に体系立てられた知識。 自然科学(物理学・化学・生物学)のほか、 社会科学(経済学・法学)、人文科学(心理学・言語学)などがある。
不完全性定理/ 一般連続体仮説/ 相対性理論/ 量子力学/ 多世界解釈/ 超弦理論/ インフレーション宇宙論/ 宇宙の熱的死/ 人間原理宇宙論/ 量子脳理論/ 利己的遺伝子/ 宇宙無境界仮説/ エルゴード仮説/ タイムマシン/ 歴史の終焉/ 複雑系
素粒子入門/ 量子力学入門/ 相対性理論入門/ 生命/ 不完全性定理/ 群と位相

●ゲーデルの不完全性定理

Goedel's Incompleteness Theorems

人間の理性(論理体系)が完全ならば、 その論理体系だけで厳密に言い表せるのにもかかわらず、 それが正しいとも間違いとも証明できない問題が、 必ず存在する、という定理。
例えば、数学は自己無矛盾であるために、数学の言葉で書けるのに、 証明することが出来ない問題がある。 この意味で、
不完全性定理は、 人間の"理性"の限界を示している。
理論科学の在り方は「ゲーデル以前」と「ゲーデル以降」に分かれる、 とまで言われる。 不完全性定理の発表は「ゲーデル・ショック」と呼ばれ、 数学界、科学界に途方も無いインパクトを与え、 現在を含め未来へも大きな課題を残している。 数学の基盤の完全性を夢見たヒルベルトのプログラムは、 この不完全性定理によって打ち砕かれたことになる。 ゲーデル自身、ヒルベルト派からの猛反発を予想したが、 ヒルベルト派は、直ちに不完全性定理の正しさを理解し、 沈黙してしまったという。
不完全性定理の結論には次のような捉え方もある。 『全てを説明する唯一絶対の理論は不可能である。 従って、説明不可能性を発見する都度、 新たな理論を構築していける永遠の自由がある。』 『公理系、つまり計算機が出来る事の全てでも 証明できない命題があるが、 人間は、その答えを直感的に知っている場合もある。 つまり、人間は計算機以上の存在である。』

●一般連続体仮説

generalized continuum hypothesis

19世紀から20世紀に向けての、 数学の最大級の難問の1つに数え上げられていた問題。
自然数は1、2、3………といつまでも数えることができて、無限個ある。 これに対して、実数………つまり、1.00003とか √2 とか π のような 数直線上の全ての値も、やはり無限個ある。 直感的にも、自然数より実数の方がたくさんありそうだが、 事実、実数の方が自然数よりもたくさんある。 (自然数と実数の間には一対一対応を作れない。 なお、無限は数えられないので、 実数の方が自然数よりも「濃度」が大きい、という言い方をする。)
一方、ある無限集合がある時、 より大きな(濃度の高い)無限というのを、 ある方法(
冪集合の作成、 すなわちある集合の部分集合の全ての組み合わせを 要素とする集合の作成)で、いくらでも作っていくことが出来る。 一口に「無限」と言っても、より濃度の高い方へ、 どんどん無限を(それこそ無限に)作っていくことが出来るわけだ。
では、自然数の濃度をX0として、順次、濃度の大きな「無限」を 冪集合としてX1、X2、X3………と作っていったとして、 これで全ての「無限」の種類を隙間なく作り出したと言えるだろうか? これが「一般連続体仮説」の投げかけた疑問だった。
これは、結局、1963年に、ポール・J・コーエンによって、 否定的に証明される。 『現在我々が立脚している数学の公理からは、 この問題を証明することは不可能である。』 (ZFC集合論の公理系とは独立な問題である。)
つまり、(今の)我々には分からない、ということだ。

●量子力学と、ハイゼンベルグの不確定性原理

Quantum mechanics, and Heisenberg's uncertainty principle

極微の世界では実在は常にゆらぎ、 幽霊のような確率の波として記述される。 例えば、電子の位置と運動量を同時にハッキリと測定することは (測定技術の未熟さが原因ではなく、原理的に)出来ない。 粒子が壁を突き抜けるトンネル効果や、 電子が原子核に引きずり込まれずに周囲に存在していられる理由など、
不確定性原理 無くしては説明できない事実は山ほどある。
ちなみに、アインシュタインは確固たる実在があると信じ、 量子力学に対しては「神はサイコロ遊びなどしない」と言って終生与しなかった。 独自の物理観を持ち、日本でも有名な物理学者ファインマンは生前こう言っていた。 「量子力学は、結局誰にも分からないのだよ」
相対性理論をも 「古典物理学」に追いやった量子力学だが、 その成功とは裏腹に、量子力学自身が何を意味しているのかは分かっていない。 多くの最先端の科学者は、量子力学は、もっと精妙な理論の近似理論ではないか、 と考え始めている。

●量子力学の多世界解釈

many-world interpretation

量子が突然飛躍したりするとか、 確率的な存在として表されるという不自然さを、 「現実の宇宙は、可能な全ての世界の重ね合わせとして存在する」 という解釈で自然化しようとしたもの。
宇宙はあらゆる瞬間に無限に分裂と統合を繰り返しているが、 観測者が気付かない限り、分裂も統合も無いと見なされる。 つまり、実際に分裂を引き起こすのは、 精神を持つ知的存在、ということになる。
分裂した各々の世界は、確率的な存在は無く、 すべて明確な実在として存在している。
分裂した、1つ1つの宇宙は、不確定性も無く明確に決定されている。 これらの世界が石鹸の泡のようにびっしりと存在し、 その構造全体が個々の世界の安定した存在に必要である、とも考えられる。
相対性理論が予言する
ブラックホール の向こう側の他の世界と、 量子力学の並行世界は、実は同じものではないか、という意見もある。

●超弦理論(超ひも理論)

super string theory

この宇宙の全てを、10次元世界に存在する 「ひも」の振動で説明しようとするもの。 (この宇宙に存在する十次元の「ひも」のうち、 一次元は時間となって発現し、三次元は、空間を構成する。 残りの六次元はプランク長以下の世界に閉じ込められ、 質量、電荷、スピンなどの粒子の特性を決める要素となる。 結果として、宇宙の全ては弦という幾何学実体で説明され、 これは、
プラトンが想像した 世界観に良く合致する。)
物質の基となるフェルミオンだけでなく、 力を媒介するゲージボソンも 統一的に表現することができる。 宇宙には4つの力「弱い力」「強い力」「電磁気力」「重力」があるが、 「重力」をも含めて統一的に考えることの出来そうな理論は、 この超ひも理論をおいて今のところ他には見当たらない。
しかし、数学的に非常に高度な誰にも解けないような難問ばかりが残っており、 また物質を、この理論が予言する「ひも」のような非常に小さいものにまで バラバラに分解してしまうような加速器は、 人類の技術では到底作れそうもない。 つまり、実験で「ひも」は確認できない。
超ひも理論は、実験によって確認できそうな予言を どうしても導くことができない。 そうであれば、超ひも理論は、 『単なる数学の遊びであって、物理ではない』、 という批判の声もある。

●タイムマシン

time machine

中性子星のような高密度の柱状物体を、高速に回転させ (これをティプラーシリンダーという)、 周囲を任意回数旋回してから飛び込むことで、 任意の時間や空間に移動することが出来る、 という原理を応用した時空移動装置。
原理的には可能だが、 未来からの旅行者による干渉もなく、 因果律が乱されることもなく、 我々の目の前に宇宙があり続けているのは何故だろう。 タイムマシンのように、原理的に可能でも、 それが宇宙の秩序を乱すような場合(自己無矛盾性を破る場合)、 実際には製造を不可能にさせる何らかの原理、 すなわち「検閲原理」がある、という意見もあるが、 検閲原理の物理学的解釈は今のところ何もない。
スティーヴン・ホーキングは、 「時間順序保護仮説」で、 過去に行くことを許容する閉じた時間線が存在すると、 場のエネルギーが無限大となるため、 タイムトラベルは不可能であるとしている。

●インフレーション宇宙論

inflation cosmology

超銀河団のような大規模構造や、 ビッグバン理論の不都合を解消するべく、 宇宙創成の直後に宇宙が猛烈な勢いで膨張した時期があったと 仮定する理論。
真空のエネルギーが相転移によって溢れ出し、 光速を遥かに越える勢いで宇宙が膨張したとしている。 宇宙創成から10-35秒後からの10-36秒間に、 10-40cmの宇宙が一気に10-10cmに膨張した。
現在の宇宙が非常に平坦であることも、 大規模構造のような空間の非常に広い範囲での情報の共有の問題に 一応の説明をつけることはできる。
しかし、観測データをうまく符合しなかったりし、 疑問の声も投げかけられている。

●量子脳理論

quantum consciousness hypothesis

人間は単なる計算以上の「意志」や「心」の働きを持っているように見える。 人間の脳をニューロン単位で見ると、 機械仕掛けに動いているのではなく、 量子力学的な非計算的な現象を用いて 「思考」や「判断」をしている可能性がある。 我々が、予め結果が予測できる機械ではなく、 将来に対して意志や決定の権利を持つことが出来るのは、 この、脳内の量子力学的な機能のためかもしれない。 長い進化の過程で人間の脳は量子力学の不確定性を使った、 現代科学の能力を超える機能を持つに至ったのかもしれない。
現在、量子力学の原理を用いた
量子コンピューターの開発も 進んでいる。 各メモリ素子が複数の量子状態の重ね合わせを持ち、 同時に複数の計算が行われ、非計算的な過程によって一つの回答が得られる。 一方、量子コンピューターが実現されたら、それは「意志」や「心」と呼べる現象を 再現できるであろうか。 これは、哲学・科学の両面から取り組むべきテーマである。

●一般相対性理論

Einstein's general theory of relativity

光速で飛ぶ人が手鏡を見ても、いつもと同じように自分の顔が写るに違いない。 つまり、光速は、誰にとっても等しいはずだ。 この「光速」を絶対化する信念を出発点として、 それまで絶対的で一様であると考えられていた時間や空間のありように 新しいパラダイムを与えたのが
特殊相対性理論である。
更に、重力の考え方を取り込んで発展させたものが 一般相対性理論で、 重力は時空の歪みとして表現さる。 その極端なものとして数式から ブラックホールが予言された。
時間と空間は、互いに独立したものでなく一体のものと考えられ 「時空」連続体という概念が誕生した。 時間は虚の空間軸と捉えられる。 物質の質量は、重力によって時空を歪めるが、 これは逆に、時空の歪みの表現が質量である、 とも言える。

●「歴史の終焉」

The End of History

共産主義も崩壊し、我々の世界にはイデオロギーの対立も無くなり、 世界の歴史はある意味で終焉を向かえたとする提言。
新たな歴史は、地球外への人類大移民計画の具体化までは始まらず、 それまでは理論の穴埋めや消費者の満足といった作業が延々と続く だけ、と考えられている。
フランシス・フクヤマは、著書 「The End of History and the Last Man」(1992)でこの考え方を示し、 多くの論争を巻き起こした。

●宇宙の熱的死

Heat Death

ビッグバン宇宙論をそのまま延長すると、 宇宙はこのまま延々と膨張を続け、 いずれあらゆるものは熱を持たず、伸びきって、動かなくなる。 これを「宇宙の熱的死」と言う。 このような宇宙は“開いた宇宙”と呼ばれる。 宇宙に存在する物質の総量によって、 宇宙が永遠に膨張し続けるのか(開いた宇宙)、 ある時に収縮に転じ潰れるのか(閉じた宇宙)が決まるが、 その質量の大半を占めるダークマター(暗黒物質)の量は良く分かっていない。 ダークマターの候補としては
ニュートリノなどがある。
熱力学第二法則に従い宇宙のエントロピーは不可逆的に増大し、 最も無秩序な状態になると、それ以上は熱の移動などが無くなり、 いかなる変化も生じなくなると考えられる。 つまり、 宇宙は無限の過去から永遠の未来にわたり変わらず存在し続けるものではなく、 「始まり」と「終わり」があり、すなわち 宇宙の寿命 という概念が想起される。
地球の熱的死はもっと早くに訪れ、 冷えきった地球内部に染み込んだ水は水蒸気として噴出してくることもなく、 地表からも熱は次第に奪われ、 水を失った生物という生物は全て死に絶える、 という終末思想にもつながった。

●人間原理宇宙論

Anthropic Principle

宇宙の物理定数、たとえば光速やプランク定数は、 偶然そういう値を取っているのではなく、 人間が現在ここに存在しているから、必然的にこの値を取っている、 とする宇宙観。
実際、この宇宙の様々な物理定数は、 信じられないほど精妙な、危ういバランスを以て定まっている。 これがほんの少しずれただけでも、宇宙は潰れてしまったり、 原子や分子や星は生成されなかったと思われる。これが偶然とは思われない。 つまり、宇宙は知的存在を産むために、今の姿を取っているのであり、 宇宙は、人間に観測されるために存在する、と考えるのである。 人間原理宇宙論には大きく二種類の立場がある。
人間原理宇宙論は、反証可能性がないために、科学ではなく、 宗教だ、という批判の声もある。
¶ 人間原理宇宙論は、「私たち人間」とか、「今この宇宙」を特別扱いする、 ご都合主義的な論理にも感じられるが、 「人間」や「宇宙」という言葉を一般化して考えれば、 違和感は減じるのではないか。 (1)人間」という言葉を、 地球上のホモサピエンスと狭く捉えず、 自己認識が可能な知的存在一般と捉えなおす。 (2) 宇宙とは、それが内包している知的存在が認識した姿であり、 それを超える存在ではない。 (そもそも、知的存在の総和が認識できる限界以上の宇宙を仮定しても無意味である。) (3) 我々が知っているこの宇宙以外の宇宙も無数に存在する。

●宇宙無境界仮説

no-boundary hypothesis

宇宙の始まりに虚時間を導入し、特異点を解消した仮説。 一般相対性理論と量子力学を組み合せた理論で、 量子サイズの初期宇宙がトンネル効果によって 虚時間では消滅、実時間では生成され、プランクサイズの宇宙として誕生した、とする。 虚時間においては時間と空間は対等であり区別がつかない。 従ってプランクサイズ以下の虚時間の宇宙(プレ宇宙)には (球面のどこにも特別な点が無いのと同様に) どこにも「始まり」と呼べる特別な点は存在しない、と考える。
¶ 宇宙無境界仮説は、 「宇宙の始まりという出来事に特別な意味は無い」 ということを意味し、さらに一般化すれば 「あらゆる出来事に特別な意味は無い」 という考え方にも繋がる。 この宇宙に意味を与えてくれる神は存在せず、 宇宙は自己完結的に「ただそこにある」ということになる。 万人の主観から外挿された宇宙の始まりという出来事も、 私にとっての「いま・ここ」という出来事も、 等質等価であり、 同じくらいの重大事だと言っても良いし、 同じくらい無意味だと言うこともできる。

●エルゴード仮説

ergodic hypothesis

物理量の長時間平均はミクロカノニカル・アンサンブルでの平均と同じであろう、という仮説。 ミクロカノニカル・アンサンブル microcanonical enemble (小正準集団) とは、 孤立系で、基本仮説にしたがって与えられたエネルギーの状態を すべて等確率でとる重み関数をもつ統計集団。 すべての実現可能な微小状態は長い目で見ると等しい確率で起こるということだが、 現在でも証明はされておらず、仮説の域を出ていない。
¶  ボルツマンの考え方は以下の通りであった。 『自由度nをもつ力学系の 座標q1,q2,…,qn 運動量p1,p2,…,pn を座標とする2n次元空間を相空間(または位相空間)という。 系の力学的状態は、この空間の連結集合である。 ある時刻における系の状態は、その1点Pで代表される。 与えられた力学系に関する、ある物理量A(p,q)は、 代表点Pの運動とともに値を変えるが、 その長時間平均Atは、 熱平衡状態におけるAの観測値、 すなわち不変測度におけるAの平均とみなされる。 なぜなら、Pの軌道が閉曲線をつくらないならば、 Pは、あるエネルギー面のほとんど至るところを 動き回るであろうから、 長時間平均Atは、 等エネルギー面上の測度の加重平均である相平均Apに等しくなる。』 数学的には 『位相空間中の軌道は,等エネルギー面上の任意の点にいくらでも近づきうる。』 という言い方となり、 現在では『エルゴード性と、等エネルギー面がいくつかの領域に分離されていないことが、 同等である』ということが示されている。
エルゴード性は、イメージを掴むために以下のような言い方で説明されることがある。
  • ある物理量に対して、長時間平均と位相平均が等しいこと。
  • 任意の初期点からの任意の物理量の長時間平均が、 平衡分布に関する相平均と一致するという性質。
  • 長さVの乱数列がM個あり、V×Mの二次元行列とした時、 V、Mが十分大きければ、縦、横いずれにサンプリングしても 同様の特徴を示すという性質。
  • 時間軸方向で集計した量が、 時間を止めたところでの集合の確率法則を与えていること。
  • 微小状態からなる位相空間内で、 同じエネルギーをもった領域に費やされる時間が、 位相空間で占める体積に比例するという性質。
  • どの状態から出発しても、どの状態にも遷移する可能性があり、 周期性を持たず、情報源の統計的性質を よく反映した状態遷移を行うこと。
  • 任意の初期値から出発した軌道が任意の点の近傍を何度も通過する性質
¶  【参考】単一ニューロンの繰り返し入力に対する応答の試行平均と ニューロン集団の単一入力に対する応答の集団平均とが等価になるとき、 「生理学的エルゴード性」が成り立っている、という。
¶  【参考】エルゴード仮説は、 状態数が有限で、時間が無限なら、「私」という人生は 何度でも繰り返されてしまう、という、ニーチェの 永劫回帰 の考え方にも概念的に似ている部分がある。 また、「エルゴード仮説」は「意識」と関係している可能性もある。 本来的にこの《宇宙》は、人間が認識している姿であり、 意識の群れが本質的には乱雑な存在に 光を照らすことで浮かび上がる有限の虚像である。 しかも生命や意識自身がその虚像としての物質世界によって成立している、 という同時発生的構造、自己循環構造を持っている。 もし、エルゴード仮説が、全ての物理量に対して成立するのだとすれば、 それは、私達「意識の群れ」の統計的性質が、 時間的にも空間的的にも、同様の傾向の意味しか 取り出せないという自己循環的な構造に原因を求められるのかも知れない。

●利己的遺伝子

selfish gene

生命の本質は
遺伝子であり、 いわゆる生体は、遺伝子の乗り物に過ぎない、とする理論。 遺伝子自体は利己的な存在だが、それ故に、 生体(乗り物)は利他的に振る舞うこともある。 例えば、親鳥が、子供を庇(かば)うために外敵の前で 自ら傷ついた演技を行い注意を引きつける、というのも、 「親鳥の愛情」などと説明するのではなく、 自分と同じ遺伝子を持つ子鳥を生存させるための 利己的な遺伝子の要請による、と考える。
生体として思考し、自我を持ち苦楽を感じる我々人間も、 遺伝子が効率よく自らの複製を作るために開発した 精巧な"乗り物"なのであって、 そういう観点からすると、「生体としての我々人間が"生きる"ことには、 究極的には"意味"など無い」ということになる。

●複雑系の科学

complex system

互いに適切な強度で関連する多数の要素が、(中央集権的制御機構が無くても) ボトムアップ的に何らかの現象、目的性を作り出す("創発"する)、 という性質を持った様々なシステムを分析しようとする科学。
複雑系の科学で扱っているようなものの一部を書くと、 下記のようなものがある。 まだまだ立ち上がったばかりだが、 21世紀の科学のキーワードは「複雑系」である、というように、 特に科学ジャーナリズムから注目を浴びている。
■未整理
2009-4-19 (日)
改めて科学の偉大なる成果を挙げろと言われたら、
  • 相対性理論(特殊相対性理論:1905年)
  • 量子力学(不確定性原理:1927年)
  • 不完全性定理(1931年)
この3つが思い浮かぶ。まだ100年の歴史しか無い これらの発見が、統合されると何を意味するのか。 人類は、まだその詰め将棋を解いていない。 しかし、これらが、ある抽象度においては、 全く同じ意味を表しているとしたらどうだろうか。 すなわち、私達が自意識という仕掛けを核にして時空を眺める時、 共同幻想として確認できる客観世界(物理世界)には、 速度(同じものが別の場所に移る現象)にも上限が出来てしまうし、 ある質量が確かに特定の位置にあると確認できる精度にも 上限が出来てしまう。 そして、論理学や純粋数学も、推論という 同じ記号を別の文脈で扱っていくという流れを根底に持つ以上、 自己循環・自己否定的な構造を持つ命題は証明不可能になり得る、 という制限が出来てしまう。 つまり、この詰め将棋の答えは、一手詰め。 『意識する、という現象から出発する限り、そこから形成される 物理世界にも、情報世界にも、<全てを同時に決定することは出来ない> という本質的限界を見出さざるを得ない』 ということだ。 そして、「自意識」という現象の本質を、 「自分で自分を見る」という関係の連鎖と言い換えるならば、 表現は更にエレガントになる。 『自分で自分を見るという現象を中核とする限り、 そこから形成される世界の全てを、自分が同時決定することは出来ない』 …そして、ふと振り返れば、アインシュタインも、ハイゼンベルグも、ゲーデルも、 狂おしいほどに「自意識」を中核としてしか、物理空間や情報空間を 捉えることは出来なかった。これは、科学的方法論の裏に潜む本質であり、 私達は、『あらゆる意味で、時間に沿ってしか物事を考察できない』 のである。勿論、その時間の源泉にあるものが、 「私が私である」(=現在の私が、その痕跡である直近の過去の私を見ている) という自意識の中核である。 もし、「自意識」という仕掛けを全く使わずに、(もしそれが存在するなら) 「純客観」なるものを用いて、今の物理学や純粋数学があると 断言できる者がいるなら、その者は既に科学者ではなく宗教家である。 私達は、徹頭徹尾、直接的または間接的に、私達が意識したもの“だけ”を対象に、 あらゆる知的活動を行ってきたのだ、という厳然たる事実から、 目を背けてはいけない。 私達は、宇宙を赤いと見ている。何故、宇宙が赤いのかと真剣に考える。 自分が掛けているサングラスが赤いのだとは気付かずに、 延々と考え続けてしまいがちだ。
詰め将棋が解けた後では、世界観も大胆に変わる。 私達は、どうして生命という現象が、進化の果てに、 意識なる現象を内包するに至ったのか、と必死に考える。 そして、進化は、一体どうやって始まり、どこへ向かうのかを ロマンティックに夢想し、しかし、 幾ら考えても進化の先には何の目的も見当たらないことに気付いて愕然とする。 …違うのだ。「自意識」なる現象は、自分の周囲に 時間に沿って物理現象がたまたまもつれ合っている「生命体」を 自我境界の担保として発見せざるを得ないのだ。 生命が意識を育んだのではない。 意識から見ると、自分を包む生命のような現象が見えてしまうのだ。 だからこそ生命の本質は、生命体の構造ではなく、 激しい流れの中に形状を保つ、その動的平衡の方にあると言える。 意識と生命は、「時間」という本質によって繋がっているのである。
最後に、この「自意識」なる現象を、たまたま私達人類が獲得したもの、 すなわち私達が今、こうして世の中を見回しながら、 「あぁ、私は私だなぁ」と感じているもの“だけ”に 限定してはならない、ということを付け加えておこう。 象にも豚にも自意識なる現象はある。それは人間には及びもつかないほど 希薄なものかも知れないが。 …きっと、植物や単細胞生物にすら、化学反応を基盤とする、 死者の意識ほどに薄い、しかし何らかの意味で「自分」と呼べるような感覚を 有していると思われる。 …人間だけを特別扱いする思想は常に解体されねばならない。 そして、外界からの情報をほぼ全く必要とせず、 潤沢な思考力と記憶力で、ほぼいつも自分で自分のことだけを考えているような 超知性体から見たら、我々人類など、植物と大差ない、 環境依存の自動機械と見做されることだろう。 実際、私達は「自意識」と呼べる現象を獲得してはいるが、 行動心理学の一定の成果が指し示す通り、かなりのところ、 機械的に作動しているのである。
以上のように、最先端物理も、純粋数学も、時間の起源も、生命の謎も、 「自意識」という現象を第一原理に据えれば、ひと繋がりのものとして 捉えられることを示した。更に「自意識」の性質を厳密に定義し、 これを各種断面で空間化したものを各種学問分野と捉えることで、 あらゆる「知」が統合される、というグランドデザインを描けたと思う。 意識のハードプロブレムの尻尾を捕まえるには、 これくらいの風呂敷を広げる必要があったわけだ。