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Title九州に東海土器:オヤジッチ殿への

投稿者[ 当世奇妙 ] 発言日時 [2月1日(火)08時32分21秒]

オヤジッチ殿へ
1月号で、九州に東海土器と石野氏が発言したとしましたが、福岡大の武末氏の発言でした。
手元に何時も資料がなく、今回もあるいは間違いがありかも(^0^)
東海のS字甕が佐賀平野と福岡で庄内式平行時期に出ているとのことです。
出典は「弥生時代の考古学」です。九州に行った時に現物を見たいですね。
その前のページで石野氏が纏向では最初九州の土器が無いとされていたが、最近かなり
北九州の土器があると言う説がある。南九州の土器は1点だが明らかにあると発言
しています。土器の移動の意味するところはまた論争が必要ですね。


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寡黙とは私のことかいな(^0^)

投稿者[ マルガリータ ] 発言日時 [2月7日(月)18時58分41秒]

元の発言 [ Re: 甘木じゃー(^_^)v ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月6日(日)19時38分20秒 ]

盟友:心愛どのになり代わって

>> >> 甘木じゃー(^_^)v
>> >> 大和まで行っていないって! 行っていたら箸墓を「大作家径百余歩」なんて素っ気なく記載しないどろうが。
>> #少なくとも、梯儁はそんなもん見ちょらんぞよ。

#原典を書いた誰かはいっちょるであろう。

>> ところで、現地を知らない人の単純な疑問。甘木って船でいくの?
#お主も現地を知っている川越でも舟を使っていたぞなもし、江戸時代に川道を変えてまで。マキムクでも運河があっちゃろう、墓参用の。
楽をしたい人は舟で行く、飛行機が怖い人は夜行で行く(^0^)


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Re: Title再度問う(2)

投稿者[ akira2 ] 発言日時 [2月7日(月)20時20分39秒]

元の発言 [ Re: Title再度問う(2) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月7日(月)18時12分35秒 ]

>> >> 南北に海岸があるってことだから。
>> #これは何故そうなるのでしょうか?よくわからないのですが。
#南に陸行、水行出きるなら、そうでしょう。



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Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ)

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [2月7日(月)21時08分16秒]

元の発言 [ Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月7日(月)11時53分33秒 ]

ALEXさん、こんばんは。

>>  以上から其餘旁國の位置関係は不明確ながら、さきに列挙された對馬國〜投馬國の7国が「女王國以北」に該当することは明らかです。
>>  従って、可五萬餘戸の規模を有する投馬國は、少なくとも末盧國から見て邪馬壹國より手前にあるはずであります。
>> 問い1.投馬國はどこですか?
#宮崎県、西都市付近。

>> 問い2.その理由は以下のどれに該当しますか?
#E.投馬國は九州のイーストコースト、邪馬台国はウエストコースト(有明海)から陸行した、八女郡。
#やっぱ、八女たい。§^。^§
#庄内式土器のこと、いくらか解りましたが、なかなか面白いです。
#九州の勢力が河内に入った結果として生まれたのかも。?
#東遷か?神武東征か?奴国亡命か?


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Re: 古冨波山古墳から

投稿者[ 飛んだハヤシライス ] 発言日時 [2月7日(月)23時05分34秒]

元の発言 [ Re: 古冨波山古墳から ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 2月7日(月)17時30分35秒 ]

koujiさん、こんばんは。

>紀年鏡といっても顔氏作と陳是作では分布がまったく違いますよね。
>しかしながら、顔氏作紀年鏡と陳是作紀年鏡では鏡式も年次も銘文も違います。燕の領域の鏡の系譜を引いているといえる長方形鈕孔ぐらいしか共通点がないといっていいのではないでしょうか。
>紀年鏡という括りで顔氏作鏡と結びつけて丹後での製作であると考えるのはあまりに根拠が薄弱だと思います。

 ところがですね、安満宮山から、顔氏作青龍三年銘方格規矩鏡と三角縁神獣鏡2枚、斜縁神獣鏡1枚、それに年号は入ってませんが、陳是作半円方形帯同向式神獣鏡が共伴しています。
 だから、顔氏と陳氏はまったく無関係だとも思えないんです。また、太田南5号墳のと安満宮山のとどちらが先か、オリジナルが別にあるのかも分かりません。陳氏が顔氏の鏡だけ持って渡来したのかもしれません。ですから、このあたりを論点にするつもりはありません。
 ただ、先に書いたように丹後の周辺に、紀年鏡の4面が固まっている。これは偶然なのだろうか?これが発端です。もちろん、これらの紀年鏡は、陳氏が持って来た可能性もあると思っているのです。ですから、いずれ、たぶん朝鮮半島の北部から出土しないとも限らないという気はあります。

 ひとつお聞きしたいのですが、景初三年、正始元年鏡の銘文で、
イ)絶地亡出
ロ)杜地工出、あるいは杜地所出
 はどちらだと思いますか?
 『古代を考える 邪馬台国』収載の笠野氏の論文に写しがありますが、これはやっぱりロ)でしょう。笠野氏は、杜氏が作り出したと解していますが、地はどうもどう見ても氏とも是とも読めない。で、最近考えているのですが、「杜」のつく地名はないのでしょうか?たぶん、朝鮮半島北部に。三世紀前半のころ、楽浪・帯方に「杜」と呼ばれる地域がなかったのでしょうか?
 もしあったとすれば、そこから三角縁神獣鏡が出る可能性はあると思います。

>正始元年陳是作三角縁同向式神獣鏡 : 山口県・兵庫県・群馬県

これらは同型といわれています。だとすれば、オリジナルが別にもう一枚存在します。それを踏み返していることになります。そうではなく、上記三面の中に、オリジナルが存在し、それを踏み返した可能性だってあります。オリジナルは正始元年だと思いますが、踏み返しによって作成された鏡の製作時期を特定するのは難しい。

>1.「舶載」三角縁神獣鏡は本当に舶載鏡であり、倭國向けに作成された。倭國向け以外には大型鏡の注文がなかったので、中国国内向けには、小・中型の斜縁神獣鏡・画文帯神獣鏡を作っていた。

 製作地はどこでしょうか?もっとも可能性のあるのは、楽浪・帯方と言った公孫氏の版図内ではないでしょうか?

>2.紀年鏡は魏鏡であり、倭國向けに作成された。倭國向け以外には大型鏡の注文がなかったので、中国国内向けには、小・中型の斜縁神獣鏡・画文帯神獣鏡を作っていた。彼等は布留0の時期に倭国に来て三角縁神獣鏡の量産をはじめた。

 「彼等は…」以下はありうると思います。前段については、1.と同様の質問を発せざるを得ません。大和天神山の方格規矩鏡について新たに投稿しましたが、これと青龍三年方格規矩鏡ともやっぱり違う。

>3.「舶載」三角縁神獣鏡もすべて国産である。240年頃から生産が始まり庄内期にもさかんに製作されていた。240年頃から布留0までの間に死去した有力者がいなかったか、たまたま庄内期の古墳から発見されていないか、本当は発見されているんだけどそれと気づかれていないだけである。

 これも必ずしも否定できません。ですが、
>240年頃から布留0までの間に死去した有力者がいなかったか

 古墳そのものは作られています。古墳を築造させるのはやっぱり有力者でしょう。ただ、その時期のすべての古墳に三角縁神獣鏡が入ったのかどうかは難しいですネ。

>たまたま庄内期の古墳から発見されていないか、本当は発見されているんだけどそれと気づかれていないだけである。

 可能性としてはあり得ると思います。もうすこしサンプルが欲しいところですネ。

>4.「舶載」三角縁神獣鏡もすべて国産である。240年頃から生産が始まった。遅くとも250年頃には布留0期に突入しているから、布留0期以降の古墳から出てくるのである。

 布留0期をいつごろからとみるかですね。

>ほとんどの三角縁神獣鏡が布留0式以降の製作で、布留0式が260年かそれ以降だったら、紀年鏡はやっぱり魏鏡なんですよ。

 う〜むっ。景初四年もですか?
 鏡を作るのに、少なくともほぼ倍量の溶湯を必要とします。湯口から流し込んで湯道に溜まる青銅がありますよね。これは、再び溶かして使います。景初四年が存在しないことが分かれば再び溶かして青銅として再利用できます。それをしていないのですから、景初四年鏡は、改元に気付いていなかったか、気付いたとしてもその時はすでに製作者の手許にはなかったと考えるほうが自然だと思います。


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Re: Title再度問う(2)

投稿者[ 慈源 ] 発言日時 [2月8日(火)00時09分33秒]

元の発言 [ Re: Title再度問う(2) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月7日(月)17時29分06秒 ]

ALEXさん、こんばんは。

 陳寿は、会稽東冶の東に女王国があると思っているのですから、倭人伝に記述された里が短里などとは思っていない、これは私もそう思います。
 ただ、末盧国伊都国間五百里、伊都国奴国間百里、奴国不弥国間百里、奴国が春日、不弥国が宇美とした場合、単位はさて置くとして相対的な距離観としては、まあ当を得ているのではないか?
 問題は、この記事の第一次記録者の考える一里がどのくらいの長さだったかではないのかな?と思っています。俗にいう短里が実際には存在しなかったのかどうか?楽浪、あるいは帯方に短里らしき例があればよいのですけど。
 郡より女王国に至る万二千余里です。郡より邪馬台国まで万二千余里とは書いていませんよね。一万五百里で伊都国まで来ているのですし、上記の距離観から判断すれば、伊都国から女王国まではそれほど遠くないはずです。
 陳寿がどう考えたかは別の問題のような気がします。

 きょうから慈源。(^o^)


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Re: Title再度問う(2)

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [2月8日(火)00時15分48秒]

元の発言 [ Re: Title再度問う(2) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月7日(月)17時29分06秒 ]

>>  では、どう考えるかというと、あと1500里と言われたら
>> 洛陽→長安の1.5倍と考えるのです。10日では不可能な距離です。
>> 従って、陳壽も張華も、or説で思考することは有り得ないわけです。

そうなんです。陳壽もあなたも同じように考えてしまった
のです。
魏使は虚偽の距離を報告してますね。
距離は信じない、しかし水行陸行の日数は信じるの
ですか?虫のいい話ですね。

僕は、魏使が本当に邪馬壹國に行ったのなら、同じように
遠くへ行ったように思わせたと思うし。また、行ってない
のなら、これもやっぱり遠くまで行ったと思わせると思
います。

陳壽は、邪馬壹國は遠くだと思ったかもしれませんが、
そんな事は問題じゃないのです。問題はどこにあったか
です。



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Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ)

投稿者[ 飛んだハヤシライス ] 発言日時 [2月8日(火)00時20分17秒]

元の発言 [ Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月7日(月)11時53分33秒 ]

>>  さて、北部九州説は投馬國の位置の問題をいかに解釈しておられるのでしょうか?

 これは大和説の方にもお聞きしたいところですネ。

>> 問い1.投馬國はどこですか?

 私は、出雲だと思います。
 橋本増吉大先生も出雲説でしたよね。

 私の場合、女王国≠邪馬台国ですけど。


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Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ)

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [2月8日(火)00時25分21秒]

元の発言 [ Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月7日(月)17時52分13秒 ]

>> #OR説を除外してもしなくても、對馬國〜投馬國の7国が「女王國以北」に該当することは文脈上明らかです。船をこぎ出す方向がどちらであろうと、出発点の上空から南に頭を向けて見れば投馬國は「手前」にあるはずです。

こりゃ、また無理なことを。
地図はないといわれるわりに、今度は上空から南に頭を
向けろはないでしょう。
それでいながら、南を東と改訂するでしょ。じゃ南はど
うやって調べたのかな?
ちょっと通らないんじゃないでしょうか。



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Re: 古富波山古墳から:古式土師器とは?

投稿者[ 当世奇妙 ] 発言日時 [2月2日(水)12時28分40秒]

元の発言 [ 古富波山古墳から ] お名前 [ 飛んだハヤシライス ] 日付 [ 2月2日(水)01時14分14秒 ]

>>  この古墳について、古墳辞典(東京堂)で調べてみました。
>>  径30m前後の円墳。墳高1.7m以上。周堀はなく、葺石、埴輪もない。石材もなく粘土槨と推定。
>>  墳丘基底部をなす第1次盛土層上面から多数の古式土師器が出土し、庄内期併行である事が判明。

*「弥生時代の考古学」1998年出版で石野氏が
庄内式土器と三角縁神獣鏡が一緒に出た例は一つも
無いと数回強調していました。
庄内期並行の古式土師器についてもう少し教えてください。宜しくおねがいします。


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Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ)

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [2月8日(火)04時40分07秒]

元の発言 [ Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月8日(火)00時25分21秒 ]

>> こりゃ、また無理なことを。
>> 地図はないといわれるわりに、今度は上空から南に頭を
>> 向けろはないでしょう。

#これはイメージの問題ですよ。私が「手前」と書いた意味を説明しただけの話しで、別に魏の人が飛行機で飛んだと言ってる訳じゃありません。
投馬國のほうが北と書いてあるのは、文章上の事実です。

もし”緯度を知らないはずだから、北だか南だかわからない。ゆえに南北の記載は信用しない”というのなら
”緯度がわからないから、放射式では、2つの終点のどちらが南か判別がつかなくなる。ということは、南北を記載できているということは、放射式ではない”と答えましょう。

それで結局、北を南と改訂するのですか?



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Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ)

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [2月8日(火)04時45分38秒]

元の発言 [ Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ 飛んだハヤシライス ] 日付 [ 2月8日(火)00時20分17秒 ]

>> >> 問い1.投馬國はどこですか?

>>  私は、出雲だと思います。

#ん〜 … 

…南に水行しなくていいんですか?
…いいって意味ですよね。
つまり、二重写真説ということですね。


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Re: Title再度問う(2)

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [2月8日(火)05時34分44秒]

元の発言 [ Re: Title再度問う(2) ] お名前 [ 慈源 ] 日付 [ 2月8日(火)00時09分33秒 ]

慈源 さん、こんばんは。

>>  問題は、この記事の第一次記録者の考える一里がどのくらいの長さだったかではないのかな?と思っています。俗にいう短里が実際には存在しなかったのかどうか?楽浪、あるいは帯方に短里らしき例があればよいのですけど。

#韓傳の方4,000里が逆に例の7,000から求められた可能性を考えると、最後の1例が消える事になります。


>>  郡より女王国に至る万二千余里です。郡より邪馬台国まで万二千余里とは書いていませんよね。一万五百里で伊都国まで来ているのですし、上記の距離観から判断すれば、伊都国から女王国まではそれほど遠くないはずです。
>>  陳寿がどう考えたかは別の問題のような気がします。

#それは、万二千余里の数字を出した人間と、個々の距離を報告した人間を、暗黙のうちに同一だと仮定していませんか?でも、最初から女王國までの距離(里数)も判明していたら、日数などで表現するでしょうか?

やはり、倭人伝を読む以上、「陳壽がどういうつもりで書いたか」をまず理解し、最後にその理解が正しいのか、誤謬を含んでいるのか解明するのが順序かと思います。
 記紀礼賛者はともかく、まともな畿内説論者は、最後に”仕方なく”「南」を「東」に改訂すると申し上げておきましょう。(ちょっと苦が笑い…)




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Re: Title再度問う(2)

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [2月8日(火)05時46分24秒]

元の発言 [ Re: Title再度問う(2) ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月8日(火)00時15分48秒 ]

>> そうなんです。陳壽もあなたも同じように考えてしまった
>> のです。
>> 魏使は虚偽の距離を報告してますね。

#そんなことは断定できませんよ。
山道や、リアス式海岸の沿岸航行で、実際そのような距離を進んできた(と理解していた)かもしれません。
 或いは何らかの換算ミスがあるのか、或いは距離の測定方法が原理的に間違っていたのか。

>> 距離は信じない、しかし水行陸行の日数は信じるの
>> ですか?虫のいい話ですね。

#倭人伝に書いてある事;距離;を信じないんじゃないのですよ。「同じ比率で残りの1,500里を判断しよう」という学者の言う事を信じないだけです。


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Re: Title再度問う(2)

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [2月8日(火)08時38分23秒]

元の発言 [ Re: Title再度問う(2) ] お名前 [ akira2 ] 日付 [ 2月7日(月)20時20分39秒 ]


>> 南に陸行、水行出きるなら、そうでしょう。

#「南」に「水行」するというのは、南向きの航路を行くというだけのことで、「港から直ちに南方向に出港する」とまで言っているわけではありません。

 それは「帶方東南大海之中」と言っても帶方郡の南東が海に面していないのと同じですし、錢唐江左岸(北向き)の町から「南」に「水行」する実例もあります。この例は、河口に出るまでには暫く東に「水行」しなければならないけれど、主たる航路が南向きなのです。

 倭人伝の場合も、「南」に「水行」するというだけのことでは、出港地の特定の手がかりにはなりません。



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Title再度問う(承前:慈源さんへ)

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [2月8日(火)09時57分02秒]

>> 陳寿は、会稽東冶の東に女王国があると思っているのですから、倭人伝に記述された里が短里などとは思っていない、これは私もそう思います。


#それでは「水行十日、陸行一月」については、
基本的な共通理解として、
===========================
陳壽自身はこの文を
 「水行十日 AND 陸行一月」のつもりで書いたのであり
張華ら読者も決して
 「水行十日 OR 陸行一月」とは読まなかった
===========================
ということで宜しいですね。

 それでは、
1.原資料には「水行十日、或陸行一月」とあったが、陳壽が訂正してしまった。
2.第一次記録者は「或」のつもりで書いたが、不明確な書き方だったので誤読した
ということになりますでしょう。
 ところが、これらは今日見ることの出来ない資料です。

 さて、いかなる理由で、もとの文はORだったと考えるのでしょうか?


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布留0式≒250年 or 紀年鏡=魏鏡

投稿者[ kouji ] 発言日時 [2月8日(火)12時40分44秒]

元の発言 [ Re: 古冨波山古墳から ] お名前 [ 飛んだハヤシライス ] 日付 [ 2月7日(月)23時05分34秒 ]

飛んだハヤシライスさん、こんにちは。

>>  最近考えているのですが、「杜」のつく地名はないのでしょうか?たぶん、朝鮮半島北部に。三世紀前半のころ、楽浪・帯方に「杜」と呼ばれる地域がなかったのでしょうか?
>>  もしあったとすれば、そこから三角縁神獣鏡が出る可能性はあると思います。

 すいません。ちょっとうろ覚えですが、洛陽の近くにあったんじゃなかったですか?朝鮮半島の北部はさっぱりわかりませんが、探せば出てこないこともないでしょうね。

>> >正始元年陳是作三角縁同向式神獣鏡 : 山口県・兵庫県・群馬県

>> これらは同型といわれています。だとすれば、オリジナルが別にもう一枚存在します。それを踏み返していることになります。そうではなく、上記三面の中に、オリジナルが存在し、それを踏み返した可能性だってあります。オリジナルは正始元年だと思いますが、踏み返しによって作成された鏡の製作時期を特定するのは難しい。

 はい、そのとおりです。しかしながら、中国・朝鮮にせよ日本にせよ、紀年鏡のオリジナルは景初三年から正始元年にかけて陳さんが作った。国外で作ったとしたら作られてすぐまとまったかたちで、日本に入ってきたと考えざるを得ない。だから結局、オリジナルは正始元年頃に日本の何処かに、まとまったかたちで存在したことは確実でしょう。そこから、副葬までの間に各地に流出している。この過程をどのように考えるかが、問題なのですよね。

>> >1.「舶載」三角縁神獣鏡は本当に舶載鏡であり、倭國向けに作成された。倭國向け以外には大型鏡の注文がなかったので、中国国内向けには、小・中型の斜縁神獣鏡・画文帯神獣鏡を作っていた。
>>  製作地はどこでしょうか?もっとも可能性のあるのは、楽浪・帯方と言った公孫氏の版図内ではないでしょうか?

 はい。現時点で生産地を特定するのは難しいと思いますので、もっと広く遼東あたりまで含めて考えて置いたほうがいいと思いますが、まあ、公孫氏の領域のあたりではあろうと思います.
#ご存知のとおり「広漢で作った尚方鏡」だと堂々と銘した鏡があるくらいですから、尚方作だから洛陽製だとはいえないですよね?

>> >4.「舶載」三角縁神獣鏡もすべて国産である。240年頃から生産が始まった。遅くとも250年頃には布留0期に突入しているから、布留0期以降の古墳から出てくるのである。
>>  布留0期をいつごろからとみるかですね。

 三角縁神獣鏡の生産の起点が景初三年(239年)であるとします。次に、三角縁神獣鏡が出ている古墳はすべて布留0式以降でり、これは庄内式期にはほとんど三角縁神獣鏡がなかったからであるとします。この二点は多分飛んだハヤシライスさんにはほとんど異論のないところだと思います。
 この二つの前提から導かれる最も素直な結論は、布留0式の起点は三角縁神獣鏡の起点(239年)に限りなく近いということだと思うのですが、いかがです?
 また、布留0式をそんなに古く見ることが出来ないということであれば、

>> >ほとんどの三角縁神獣鏡が布留0式以降の製作で、布留0式が260年かそれ以降だったら、紀年鏡はやっぱり魏鏡なんですよ。

ということになると思います。

>>  う〜むっ。景初四年もですか?
>>  景初四年が存在しないことが分かれば再び溶かして青銅として再利用できます。それをしていないのですから、景初四年鏡は、

>>改元に気付いていなかったか、

 景初四年鏡製作後でしょうけれども、陳さんが改元を知ったことは、正始元年鏡があるのですから明白ですよね。

>>気付いたとしてもその時はすでに製作者の手許にはなかったと考えるほうが自然だと思います。

 そうかもしれませんね。
#まあ、いずれにせよご承知のとおり、現に中国から誤った紀年の鏡が出土している例があるのですから、紀年が誤っているから魏鏡ではないと言うわけにはいかないですよね?


P.S.大事な可能性を書き落としましたので、2’を追加します。

2’.紀年鏡は魏鏡であり、倭國向けに作成された。倭國向け以外には大型鏡の注文がなかったので、中国国内向けには、小・中型の斜縁神獣鏡・画文帯神獣鏡を作っていた。彼等は庄内期に倭国に来て三角縁神獣鏡の量産をはじめた。240年頃から布留0までの間に死去した有力者がいなかったか、たまたま庄内期の古墳から発見されていないか、本当は発見されているんだけどそれと気づかれていないだけである。



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Re: Title関東の東海土器

投稿者[ 当世奇妙 ] 発言日時 [2月2日(水)12時36分35秒]

元の発言 [ Re: Title九州に東海土器 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月1日(火)21時38分59秒 ]

>> 池ちゃん さん、ALEXさん 元気ですか?

>> >> それは”急激に”行われたのでしょうか?
>> >>  ”徐々に”行われたのでしょうか?

>> #「高杯が」とか「甕が」とかいうのではなく、全器種そろって同時に登場するとのことで、やはりある画期に急に始まったように思えます。

*関東の考古学の説明(東京大田区文化センター発行だったかな?)には、
群馬などには弥生後半に東海の土器が入り始めるが、
従来の現地土器の出ないところに入って行っており、
住み分けていると書いてあった記憶がある。
一つの入り方と思いました。


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Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ)

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [2月8日(火)14時00分02秒]

元の発言 [ Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月8日(火)04時40分07秒 ]

>> それで結局、北を南と改訂するのですか?

ですから、魏使は投馬國へは行ってないと思っている
わけですよ。
それで、船をこぎ出す方向から、西へ行って南へ行く
と20日で着くよ。と、こんな感じですか。

まあ、実のところ畿内勢力の範囲を出雲、畿内、吉備
を含むと考えている関係で、出雲をはずしているので
すが、以前は出雲がそれにあたると考えていたのです。

ただ、直線的に畿内へ向かうには、他の問題が多すぎ
て。距離が(相対的といわれるかもしれませんが)
本来の里と違っていますので、これはどうも倭国全体
を大きくさせるために意図的に書かれたものと思える
ので、こんな感じかなと。ただし投馬國には行ってい
ないので、倭人の話をそのまま書いただけだろうと。
こりゃ、推測ばっかりで、すいません。



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Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ)

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [2月8日(火)23時04分47秒]

元の発言 [ Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月8日(火)14時00分02秒 ]

しかしですよ
1.陳壽の考えが間違いで
2.魏使の距離の報告が虚偽で
3.「北」と書いてある投馬國が南にあるんじゃ

「倭人伝をぜんぜん信用してない」って言ってるのと同じなんでは…?

>> ですから、魏使は投馬國へは行ってないと思っている
>> わけですよ。

#もう一回聞いちゃおう!
なんで「魏使は投馬國へは行ってない」と考えるんですか?

それと「他の問題」って何ですか?


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Re: Title再度問う(2)

投稿者[ akira2 ] 発言日時 [2月9日(水)00時12分13秒]

元の発言 [ Re: Title再度問う(2) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月8日(火)08時38分23秒 ]

>>
>> >> 南に陸行、水行出きるなら、そうでしょう。

>> #「南」に「水行」するというのは、南向きの航路を行くというだけのことで、「港から直ちに南方向に出港する」とまで言っているわけではありません。
#だから南北でしよう。

>この例は、河口に出るまでには暫く東に「水行」しなければならないけれど、主たる航路が南向きなのです。
#東に行くなんてどこにも書いてないですよ。湾の出口
はどこでもいいのですが。

>>  倭人伝の場合も、「南」に「水行」するというだけのことでは、出港地の特定の手がかりにはなりません。
#ORでは、南に陸行すると書いてあります。
出発地の手がかりになるのですよ。
奴国が博多とすると、その南で、東、海から、九州の
東海岸で南北に海岸線の始まる場所が投馬国で、その
終わりが邪馬台国なのです。あとは、九州の地図をみれば
終わり。日南海岸しかないはず。
投馬国は、西都市あたりで、邪馬台国は、串間市で
なんら問題はない。
東を南と認識してたというが、乍南乍東を、乍東乍北
では地形と合わない。また、東へ行ったら対馬へはつかない
。東一大も無理。南は、南と認識していた。決して
東ではない。東に書き換えたら原文の何文字が残るのか。



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Re: Title再度問う(承前:ALEXさんへ)

投稿者[ 慈源 ] 発言日時 [2月9日(水)01時18分28秒]

元の発言 [ Title再度問う(承前:慈源さんへ) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月8日(火)09時57分02秒 ]

ALEXさん、こんばんは。
きょうは、なぜだか剣菱なのだ。すいません。(^^ゞ

>> >> 陳寿は、会稽東冶の東に女王国があると思っているのですから、倭人伝に記述された里が短里などとは思っていない、これは私もそう思います。

>> #それでは「水行十日、陸行一月」については、
>> 基本的な共通理解として、
>> ===========================
>> 陳壽自身はこの文を
>>  「水行十日 AND 陸行一月」のつもりで書いたのであり
>> 張華ら読者も決して
>>  「水行十日 OR 陸行一月」とは読まなかった
>> ===========================
>> ということで宜しいですね。

 AND、OR以前に、郡から女王国まで万二千余里なのですから、狗邪韓国からでも、南に五千里ほど進むわけです。韓が方四千里ですから、大雑把ですが、帯方から約九千里、南ですよね。これは、会稽東冶の東まで行ってしまうのでしょう。

>#韓傳の方4,000里が逆に例の7,000から求められた可能性を考えると
>#それは、万二千余里の数字を出した人間と、個々の距離を報告した人間を、暗黙のうちに同一だと仮定していませんか?

 まず、魏代の一里をおおよそ400mとしましょうか。郡から狗邪韓国まで7000里は2800kmに相当します。実際の距離はそんな事はありませんよね。渡海千里にしても然りでしょう。
 つまり、魏志倭人伝に記された里数とは、魏の単位ではないと言ってよいでしょう。帯方から朝鮮半島の西海岸を南下し、次に南岸を東へ。方四千里なのですから、おおまかに言って南へ四千里、東へ三千里で狗邪韓国だとします(実際は5:2のような気もするけれど)。渡海千里を三回ですから三千里、この二つの三千里は地図上で見ましてもさほどの乖離はなさそうです。これに、倭国内の里数表記を併せて考えてみましても、相対的な距離観としては、まあ大まかには当っている。ここまでの、里数表記の第一次記録者が仮に複数であっても、彼等の間にはこの「里」の距離観は同一であったと言っていいと思います。

 では、万二千余里は誰が書いたか?これはすでに、魏略逸文にもみられます。「自帯方至女(王)国万二千余里」。
 もし、この表記が魏からの使者であるのならば、彼等はたとえば郡から伊都国までの記述された距離の長大さに気がつくはずです。ですから、そこに魏尺の千五百里を加えて、郡より女王国に至る万二千余里とは書かないはずです。彼等は実際に少なくとも伊都国までは来たのですから。
 つまり、万二千余里の表記は、少なくとも魏からの使者ではありえないと思います。だから、いわゆる短里かどうかは分かりませんが、すくなくとも、万二千余里の記録者とここの里数の記録者とが、仮に違っていても、単位としては同じ感覚を持っていたものであると考えることを妨げるものではないでしょう。
 同時に、伊都国女王国間の千五百里と水行二十日プラス水行十日陸行一月は対応しないと考えます。日数表記はあくまでも、投馬国、邪馬臺国への行程を示すものですから。

>やはり、倭人伝を読む以上、「陳壽がどういうつもりで書いたか」をまず理解し、最後にその理解が正しいのか、誤謬を含んでいるのか解明するのが順序かと思います。

 まず、陳寿と第一次記録者との間に、単位としての里に対する齟齬があった。他の資料によると、「どうやら倭は暖かいところに在るらしい」それらの綜合が、会稽東冶の東を導きだしたのではないでしょうか?

>>  さて、いかなる理由で、もとの文はORだったと考えるのでしょうか?

 張明澄氏が以下のように言っております。
>古代中国文で、あれだけの意味を「トータル式」と「AND式」と「OR式」で書かしてみたんですね。そしたら「AND式」は案の定、みんな「又」が付いているんですね。だから「水行十日又陸行」となるんですね。「OR式}でやらせてみると、あの原文の通りになるんですよ。そして「トータル式」は「共水行十日陸行一月」と出た。もちろんこの方法自体がいいかどうか分かりませんよ。ただ決めかねる中で、仕方なく苦肉の策というか、こういう方法でやったらこういう結果になったのだから、ほかにはっきりしたものが出るまではこれを取っていこう、という考え方をしたわけです。(「歴史と旅」59/8 臨時増刊)

 いまのところどちらを採ってもよいような気もします。

>>> >> 問い1.投馬國はどこですか?
>>>  私は、出雲だと思います。

>#ん〜 … 
>
>…南に水行しなくていいんですか?
>…いいって意味ですよね。

 はい。魏志倭人伝は、女王国=邪馬臺国と考えていますので、女王国は伊都国の南にあるのですから、投馬国、邪馬臺国も南に行かざるを得ない。

>つまり、二重写真説ということですね。

 どのような経緯でそうなったのかは難しいところですが、それがもっとも妥当ではないかと考えるに至っております。女王国≠邪馬臺国だと。


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Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ)

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [2月9日(水)02時24分15秒]

元の発言 [ Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月8日(火)23時04分47秒 ]

>> 「倭人伝をぜんぜん信用してない」って言ってるのと同じなんでは…?

そんなことはないけど。

>> なんで「魏使は投馬國へは行ってない」と考えるんですか?

直線読みとすると、まず水行20日、その後水行10日
陸行1月。どこまでいける?
ですから、投馬國を通って邪馬台国とは考えていません。

距離を里であらわしているところは、自分たちが行った
と解釈します。ただオーバーな距離だったかもしれませ
んが。割合的にそれほどめちゃくちゃではないと思われ
ますので、それなりに信用できると思います。

日数で書いたところは、倭人の情報と思われる。
しかし、邪馬台国に関しては、二通りの書き方がしてあ
ると解釈しますので、船か歩きか、どちらで行ったとも
とれます。
ひとつは自分たちの記録で、もうひとつは倭人の情報。

ということで、通り道にない投馬國は行ってない。
倭人からの情報だけと判断しました。

>> それと「他の問題」って何ですか?
女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。
又有侏儒國在其南、人長三四尺、
去女王四千餘里。又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至。

このあたりなんですが、宇佐ならば、本州があるし
四国もある。
畿内では東に海はないけど、南が東とすると、東は北。
さて、ここはどこ?そしてその南というと、ここは?
そしてその東南は?




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Re: 布留0式≒250年 or 紀年鏡=魏鏡

投稿者[ 飛んだハヤシライス ] 発言日時 [2月9日(水)02時52分06秒]

元の発言 [ 布留0式≒250年 or 紀年鏡=魏鏡 ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 2月8日(火)12時40分44秒 ]

koujiさん、こんばんは。

>中国・朝鮮にせよ日本にせよ、紀年鏡のオリジナルは景初三年から正始元年にかけて陳さんが作った。国外で作ったとしたら作られてすぐまとまったかたちで、日本に入ってきたと考えざるを得ない。だから結局、オリジナルは正始元年頃に日本の何処かに、まとまったかたちで存在したことは確実でしょう。そこから、副葬までの間に各地に流出している。この過程をどのように考えるかが、問題なのですよね。

 はい。そのように私は考えます。これらの中には、大和から配布されたのではなく、それ以前に被葬者が入手したものもあるのではないかと思って、紀年鏡を副葬した古墳群の年代を考えてみたのですが…。

>三角縁神獣鏡の生産の起点が景初三年(239年)であるとします。次に、三角縁神獣鏡が出ている古墳はすべて布留0式以降でり、これは庄内式期にはほとんど三角縁神獣鏡がなかったからであるとします。この二点は多分飛んだハヤシライスさんにはほとんど異論のないところだと思います。

 大和においては「いまのところ」そうだと思います。

> この二つの前提から導かれる最も素直な結論は、布留0式の起点は三角縁神獣鏡の起点(239年)に限りなく近いということだと思うのですが、いかがです?

 中山大塚古墳、いま発掘中のホケノ山、大和天神山の年代をどのように考えるのかでしょうネ。

> また、布留0式をそんなに古く見ることが出来ないということであれば、
>
>>> >ほとんどの三角縁神獣鏡が布留0式以降の製作で、布留0式が260年かそれ以降だったら、紀年鏡はやっぱり魏鏡なんですよ。

 陳是作の鏡はヴァラエティーに富んでますよね。三角縁神獣鏡はもちろんですが、盤竜鏡、黄金塚の画文帯神獣鏡、安満宮山の半円方形帯同向式神獣鏡。ことに、黄金塚の画文帯は、本場のそれとはまったく感じが違います。大きいから重い、平縁のようでいてすこし反ってます。安満宮山のは画文帯神獣鏡に三角縁神獣鏡の外区をくっつけている。一連の陳氏の作鏡群のなかに紀年鏡も含まれていた。三角縁神獣鏡に限らずこれらの鏡群もまた、魏の領域内では出ていませんので、魏の領域で作られたとしても少数の試作品だったのではないでしょうか。最終的には、三角縁神獣鏡に落着いたということだと思います。
 私はむしろ、列島内で、何が気に入られるかとあれこれと試作した陳氏の旺盛な創作意欲を感じます。

>#ご存知のとおり「広漢で作った尚方鏡」だと堂々と銘した鏡があるくらいですから、尚方作だから洛陽製だとはいえないですよね?

 はい。

>#まあ、いずれにせよご承知のとおり、現に中国から誤った紀年の鏡が出土している例がある

 ごめんなさい。ご承知ではありません。教えてください。(^^ゞ

>2’.紀年鏡は魏鏡であり、倭國向けに作成された。倭國向け以外には大型鏡の注文がなかったので、中国国内向けには、小・中型の斜縁神獣鏡・画文帯神獣鏡を作っていた。彼等は庄内期に倭国に来て三角縁神獣鏡の量産をはじめた。240年頃から布留0までの間に死去した有力者がいなかったか、たまたま庄内期の古墳から発見されていないか、本当は発見されているんだけどそれと気づかれていないだけである。

(あ)紀年鏡群は、銅鏡百枚の一部である。
(い)紀年鏡群は、239年に工人とともに列島に入ったか、列島で製作された。
(う)紀年鏡群は、布留0期ごろ渡来した工人が持って来た。

 不思議な事に、椿井大塚山からも黒塚からも紀年鏡が出ていない。また、三角縁神獣鏡はあるけれど、不思議な鏡群が出ていない。
 だから、私は(い)だと思うんです。

 じつは十日ほど前に、安満宮山古墳を見てきました。パンフレットが置いてあって、それに出土した鏡の写真が載っていますが、斜縁「吾作」二神二獣鏡は共伴した三角縁神獣鏡と比較しますと、格段に出来がいいです。しっかりした彫りです。別の工人だと思います。
ちなみに、銘文は
>吾作明鏡自有己 青龍白「逓」居左有 令人長命宜子孫 作吏高遷 車生栄耳 作師長命吉
「逓」の「しんにゅう」をトル


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Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ)

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [2月9日(水)06時57分34秒]

元の発言 [ Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月9日(水)02時24分15秒 ]

>> >> 「倭人伝をぜんぜん信用してない」って言ってるのと同じなんでは…?
>> そんなことはないけど。
#でも肝心な部分を相当読み替えてることになりますよ。

>> 直線読みとすると、まず水行20日、その後水行10日
陸行1月。どこまでいける?
#う〜ん… これ、九州を行過ぎてしまうという意味だったら、完全に循環論法ですけど…

>> 日数で書いたところは、倭人の情報と思われる。
>> しかし、邪馬台国に関しては、二通りの書き方がしてあ
>> ると解釈しますので、船か歩きか、どちらで行ったとも
>> とれます。
>> ひとつは自分たちの記録で、もうひとつは倭人の情報。

#日数で書いたところが、「倭人の情報」であっても「自分たちの記録」であっても可ということは、投馬國だって「自分たちの記録」であってもいいんですよね。
なんか、投馬國に「行ってない」理由が出てきてないような…


>> 女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。
>> 又有侏儒國在其南、人長三四尺、
>> 去女王四千餘里。又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至。

#うしろの2行って、山海經とか論衡とかに出てくる「お話」の世界の国々ですよね。魏略西域傳でも西の地の果てには馬の脚のついた人間が住んでいる国があるといいますが、世界の果てに異形の人々の国があるというのは「お約束」の世界であって、まともに相手すべき個所じゃないんじゃないでしょうか?外交記録部分を除くと、この記事が事実上の倭人伝の末尾である事を考え合わせても、倭人伝で最も信憑性の薄い個所です。
 「東渡海」だって、「倭人國にも更に奥地がある」程度の意味しかないと思います。少なくとも伝聞である事は間違いないでしょうし、国名も不詳とあれば、有力国とも思えません。


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Re: 古富波山古墳から

投稿者[ kouji ] 発言日時 [2月2日(水)12時53分06秒]

元の発言 [ 古富波山古墳から ] お名前 [ 飛んだハヤシライス ] 日付 [ 2月2日(水)01時14分14秒 ]

飛んだハヤシライスさん,こんにちは。

>>  滋賀県野洲町の古富波山古墳から、『前方後円墳の出現』(雄山閣)57頁にある、岸本氏の編年案で第一段階の分類されている「王氏作徐州銘四神四獣鏡21.9cm」(目録番号79)同笵鏡番号【42】が出土しています。
>>  墳丘基底部をなす第1次盛土層上面から多数の古式土師器が出土し、庄内期併行である事が判明。
>>  また、第二段階の吾作三神五獣鏡22.0cm(23)【11】、第三段階の陳氏作四神二獣鏡21.8cm(82)【45】も共伴しています。
>>  このことは、庄内期中にすでに、岸本編年案の第三段階までは作成されていたことになります。
>>  わたくしは、先月号で第二段階以降は布留0期中に大和でで生じた経年変化であろうと申し上げましたが、撤回いたします。

 つまり、庄内期のうちに大量の三角縁神獣鏡が作成されている。多くは布留式まで下る古墳から出ていてそれらは伝世したり布留式期に踏み返されたりしたものでしょうけれども、原鏡は庄内期にできていたことになりますよね。鏡は耐久消費財ですから、製作時期と出土遺跡の時期にずれが出るのはむしろ当然だともいえます。そうなると、やはりT〜V期の三角縁神獣鏡の分布の状況は庄内期状況を反映していると考えられる。製作時期が重なると考えられる消耗品である土器の分布も同じような傾向を示しているとすれば、もはや確定的ではないでしょうか。

>>  まだまだサンプル数は足りないと思いますが、もし、大和において、庄内期の古墳から三角縁神獣鏡が出ないとすると、これはいったい何を意味するのでしょうか?

 多分、特別な意味は無いと思います。三角縁神獣鏡の起点はいずれにせよ240年頃ですから、寺澤編年で庄内期も残すところあと20年〜40年ぐらいといったところです。大体一世代か長く見ても二世代。この間に大和で営まれた三角縁神獣鏡を副葬するような首長墓がどのくらいあるのでしょうか。大した数ではないですよね?その少数の首長簿に副葬された三角縁神獣鏡が無事出土する可能性はどのくらいあるのか。

>>  ホケノ山がますます楽しみになってきました。

 盗掘にあっているようですが、鏡片が残っていることは結構あるようですからね.

 大和の庄内期の古墳って言うと、箸墓の西北の纏向小学校の所に纏向石塚・勝山・矢塚が固まってあって、ほんの少し離れた小字ナシメという所に東田大塚があります。纏向石塚が一番古くてほぼ纏向T(庄内0)式期、東田大塚は新しく見ても布留0式期、纏向勝山・矢塚はその間に収まるようです。纏向石塚は主体部がかなり調査されたけど埋葬施設は発見されず、既に破壊されているのではないかということです。どんな副葬品があったのか興味深いところだけに残念ですが、ただ、これはいずれにせよ古すぎますから三角縁神獣鏡は無かったでしょう。残る、纏向勝山・矢塚、東田大塚あたりに何が入っているのか、順次調査がおこなわれているようですから、この辺も楽しみですね。


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伊都国の鏡は五枚あった?

投稿者[ 古代史FAN ] 発言日時 [2月9日(水)08時02分44秒]

こんにちは

今朝、テレビを見て入ましたら、原田大六氏で有名な伊都国の大きな鏡
が出ていました。そのニュースの解説によると、当初、4枚分出土した
と思われていたこの鏡、破片の鉛の分析をしたところ、産地の違うもの
があり、実は5枚分出土していたとのことでした。

原田氏の本には4枚が伊都に埋められて、残りの一枚が『東遷』して
ヤタノカガミとなったのではないかということでしたが、5枚とも伊都
に埋められていたんでしょうか? .....となると、伊都国王東遷説も
???となるのではないかとも思うのですが.......

伊都国の大きな鏡の鉛分析の話をご存知の方がいらっしゃいましたら、
詳しい話を教えていただけませんか。


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Re: Title再度問う(承前:ALEXさんへ)

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [2月9日(水)11時04分26秒]

元の発言 [ Re: Title再度問う(承前:ALEXさんへ) ] お名前 [ 慈源 ] 日付 [ 2月9日(水)01時18分28秒 ]

慈源さん、こんにちは。

>>  AND、OR以前に、郡から女王国まで万二千余里なのですから、狗邪韓国からでも、南に五千里ほど進むわけです。韓が方四千里ですから、大雑把ですが、帯方から約九千里、南ですよね。これは、会稽東冶の東まで行ってしまうのでしょう。

#これが「AND、OR以前」であるかどうかについては疑義があります。
 倭國の北端を会稽、女王國等中心地を東冶近辺、南端をtan耳朱崖に近い当たりと読む見解もあり、この説は会稽−交州約5,000里(倭地の周旋と同等)という記録に見える当時距離感覚からも妥当性が認められます。


>> 相対的な距離観としては、まあ大まかには当っている。ここまでの、里数表記の第一次記録者が仮に複数であっても、彼等の間にはこの「里」の距離観は同一であったと言っていいと思います。
>>  万二千余里の表記は、少なくとも魏からの使者ではありえないと思います。

#同意します。


>> すくなくとも、万二千余里の記録者とここの里数の記録者とが、仮に違っていても、単位としては同じ感覚を持っていたものであると考えることを妨げるものではないでしょう。

#ここに論理の飛躍があるように思います。
「考えることを妨げるものではない」ということは、確実に「同じ感覚を持っていた」ではないわけです。
 これでは、万二千余里の数字を出した人間と、個々の距離を報告した人間を、暗黙のうちに同一だと仮定しているのと変わりませんから、「陳壽がANDの意味で書いた」ことが合理的に推定できる以上は、一次史料記述者の意図はORであったと、現行史料の記述を覆すに足る推論はできません。

(1)ケース1
まづ
 万二千余里の記録者:A
 個々の里数の記録者:B
の双方がおり、それぞれ現地に赴いて移動距離を記録しているものと仮定します。

 Aの場合、「千里一寸法」とかを想定しない限り、万二千余里が判明した時点で、物理的な帰結として、帶方−伊都国間および伊都国−女王国間の里数の双方が判明していることになります。
 しかるに実際は、伊都国−女王国間の里数の記載はなく、代わりに直近国−女王国間の所要日数が記載されています。

 ゆえに

 魏使一行の者ではない(前段の見解から)Aなるものがおり、
 彼は女王国まで赴いており
 その移動距離を記録したが
 Aの個々の国間距離に関する記録は散逸し総距離の記録のみ残った

 Bは女王国まで赴いておらず
 伊都國までの移動距離ならびに周辺国への距離を記録した

 さらにCなるものがおり、邪馬臺国等への所要日数を記録した

 史料編纂者は、123の記録を総合して、間違った編集を行なった。

ということになります。 「万二千余里の記録者」が存在し、と個々の里数の記録者と距離について「同じ感覚を持っていた」と仮定することは、これだけの偶然を前提条件に加えないと結論に行き着きません。

(2)ケース2
次に
 水行十日陸行一月の記録者:A
 個々の里数の記録者:B
の双方がいるものと仮定します。

 水行十日陸行一月の日程と残余約1,500里には整合性がある。倭國のような情報源の限られた対象について、個々の情報同士が照合できて整合性を検証できることは一種の僥倖といえ、むしろ一方から他方が考証で導出されたと考える方が自然である。


 魏使一行の者かもしれないAなるものがおり、
 彼は女王国まで赴いており
 その日程を記録した

 Bは女王国まで赴いておらず
 伊都國までの移動距離ならびに周辺国への距離を記録した

 史料編纂者は、女王国までの距離を求めるために一部Aの記録を利用し、机上で考証して所要日数から距離を逆算し、総距離万二千余里を求めた。

無理のない想定ではないでしょうか?

>> 伊都国女王国間の千五百里と水行二十日プラス水行十日陸行一月は対応しないと考えます。日数表記はあくまでも、投馬国、邪馬臺国への行程を示すものですから。

#これは「理由」が「結論」に、「結論」が「理由」になって自己完結してしまっているのではないでしょうか?

>> まず、陳寿と第一次記録者との間に、単位としての里に対する齟齬があった。他の資料によると、「どうやら倭は暖かいところに在るらしい」それらの綜合が、会稽東冶の東を導きだしたのではないでしょうか?

#これは「当在」という強い確信を表す推量の言葉に似合わないように思います。むしろ風俗記事のほうが漢書地理志から引用された形跡があります。


>> >>  さて、いかなる理由で、もとの文はORだったと考えるのでしょうか?
>>  張明澄氏が以下のように言っております《略》
#これは、現行の文を現代人がどう読むかというアプローチですから、視座が違うと思いますが。
 求められているのは「陳壽自身がANDの意味で書いたと合理的に推定できるにもかかわらず彼の依拠した原資料はORの意であって陳壽が誤解した。そのもとの文はORだった」と考えることの出来る根拠です。


135

Re: 慈源さんへ、Title再度問う(承前:ALEXさんへ)

投稿者[ マルガリータ ] 発言日時 [2月9日(水)11時14分31秒]

元の発言 [ Re: Title再度問う(承前:ALEXさんへ) ] お名前 [ 慈源 ] 日付 [ 2月9日(水)01時18分28秒 ]

>「水行十日、陸行一月」については、
#正しくは「水行二日、陸行六日」です。

>「万二千余里」は
#正しくは「二千四百余里」です。

>七万戸&十万戸
#正しくは「一万四戸余」と「二万戸余」です。
#北部九州にしろ、吉備・大和にしろ、七万戸=45万人強 & 十万戸=65万人も生きてはいない。これに反論するならば、少なくとも3世紀半ばに、1集落千戸=6千5百人程度の集落がどれに該当するか、言わなければならない。マキムクだけでは駄目で、池上曽根&唐古鍵は3世紀半ば迄は引っぱれないし、九州にもほとんどない。


136

Re: 伊都国の鏡は五枚あった?

投稿者[ 考古学FAN ] 発言日時 [2月9日(水)11時16分46秒]

元の発言 [ 伊都国の鏡は五枚あった? ] お名前 [ 古代史FAN ] 日付 [ 2月9日(水)08時02分44秒 ]


>> 詳しい話を教えていただけませんか。

自己フォローです。詳しい話がYahooの考古学ニュースにでていました。

http://news.yahoo.co.jp/headlines/nnp/000209/loc_news/10450000_nnpnws015.html

......ということは、伊都国王東遷説というのは幻なんでしょうかねぇ。私は『吉備国王東遷説』なんですが.....


137

つづいて質問

投稿者[ 古代史FAN ] 発言日時 [2月9日(水)11時31分36秒]

元の発言 [ Re: 伊都国の鏡は五枚あった? ] お名前 [ 考古学FAN ] 日付 [ 2月9日(水)11時16分46秒 ]

従来、4枚と思われていた伊都の鏡が実は5枚であったとは。
....となると、また、新たな疑問が湧く訳ですが、

1.現在、ほぼ、4枚分があるとして、これが5枚の鏡の破片であったと
すると、残りの破片はどうなったんでしょう?

2.弥生末期に鏡を鋳造した時点で、鏡により産地の違う鉛を使っていた
ということは、鏡を作るために鋳つぶした青銅器に使われていた金属の産地
が異なっていたということを意味するんでしょうか?



138

Re: Title再度問う(2)

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [2月9日(水)11時52分31秒]

元の発言 [ Re: Title再度問う(2) ] お名前 [ akira2 ] 日付 [ 2月9日(水)00時12分13秒 ]

>> だから南北でしよう。

>> ORでは、南に陸行すると書いてあります。
>> 出発地の手がかりになるのですよ。

#すいません。ちょっと仰っしゃっている意味がわかりません。
小学生かなんかが相手と思って、わかりやすく説明していただけないでしょうか?


>> 東を南と認識してたというが、乍南乍東を、乍東乍北
>> では地形と合わない。また、東へ行ったら対馬へはつかない

#そう主張している人にレスして欲しいんですが。


139

Re: 慈源さんへ、Title再度問う(承前:ALEXさんへ)

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [2月9日(水)12時52分53秒]

元の発言 [ Re: 慈源さんへ、Title再度問う(承前:ALEXさんへ) ] お名前 [ マルガリータ ] 日付 [ 2月9日(水)11時14分31秒 ]

>> >> 「水行十日、陸行一月」については、
>> 正しくは「水行二日、陸行六日」です。
>> >> 「万二千余里」は
>> 正しくは「二千四百余里」です。

#なるほど
>「南至投馬國水行二十日」
正しくは「水行四日」

>「周旋可五千餘里」
正しくは「千餘里」

>「其俗、國大人皆四五婦、下戸或二三婦」
正しくは「大人皆一婦弱、下戸或半婦」

う〜みゅ…九州箱庭説…


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Re: つづいて質問、おにりんさんは。

投稿者[ スーパー箱庭人 ] 発言日時 [2月9日(水)17時03分27秒]

元の発言 [ つづいて質問 ] お名前 [ 古代史FAN ] 日付 [ 2月9日(水)11時31分36秒 ]

>> 従来、4枚と思われていた伊都の鏡が実は5枚であったとは。
>> ....となると、また、新たな疑問が湧く訳ですが、

>> 1.現在、ほぼ、4枚分があるとして、これが5枚の鏡の破片であったと
>> すると、残りの破片はどうなったんでしょう?

>> 2.弥生末期に鏡を鋳造した時点で、鏡により産地の違う鉛を使っていた
>> ということは、鏡を作るために鋳つぶした青銅器に使われていた金属の産地
>> が異なっていたということを意味するんでしょうか?

#武田信玄の金の小粒、慶長大判・小判、江戸時代の小判・二朱金、などはどうなったのでしょうか?一部は確かに今も残っていますが、大半は鋳直されました。「おにりん」さんは、古墳から盗掘された大半の銅鏡が伝世していると(海外の博物館を含めて)言っていますが、真っ赤な間違いで、大半は鋳直されました。特に埋葬に近い時期の盗掘は、骨董的な価値ある物を盗むというより、金目の物を盗む訳で、盗掘した鏡を売りに歩いたら、直ちに足がつきます。
盗っ人は換金しやすい物に手を付ける訳で、金属類は直ちに鋳直すのです。そのまま現物を売りさばくようになるには、骨董的な価値が出てきてからで、それが鎌倉時代のあたりでしょう。


143

Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ)

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [2月9日(水)18時22分28秒]

元の発言 [ Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月9日(水)06時57分34秒 ]

#でも肝心な部分を相当読み替えてることになりますよ。

なぜでしょう?水行十日陸行一月はandと読むのが正しいと
それが正しい漢文の読み方だと言えるのですか?

>> 直線読みとすると、まず水行20日、その後水行10日
陸行1月。どこまでいける?
#う〜ん… これ、九州を行過ぎてしまうという意味だったら、完全に循環論法ですけ
ど…

海岸線に沿って、鹿児島を目指すなら、二十日で
九州を行きすぎることはないと思いますが。

#日数で書いたところが、「倭人の情報」であっても「自分たちの記録」であっても可
ということは、投馬國だって「自分たちの記録」であってもいいんですよね。
なんか、投馬國に「行ってない」理由が出てきてないような…

はい、しかしながら僕の比定では、まったく方向違いの場所へ
行く必要はなかったと思われますので、行っていないと判断しています。

>> 女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。
>> 又有侏儒國在其南、人長三四尺、
>> 去女王四千餘里。又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至。

#うしろの2行って、山海經とか論衡とかに出てくる「お話」の世界の国々ですよね。
魏略西域傳でも西の地の果てには馬の脚のついた人間が住んでいる国があるといいます
が、世界の果てに異形の人々の国があるというのは「お約束」の世界であって、まとも
に相手すべき個所じゃないんじゃないでしょうか?外交記録部分を除くと、この記事が
事実上の倭人伝の末尾である事を考え合わせても、倭人伝で最も信憑性の薄い個所です。
 「東渡海」だって、「倭人國にも更に奥地がある」程度の意味しかないと思います。
少なくとも伝聞である事は間違いないでしょうし、国名も不詳とあれば、有力国とも思
えません。

最後の2行はたしかに問題があると思いますが「東渡海千餘里」はそれまでに何度も出
てきている数字で、とんでもない距離とは思えない。
それまでも無視して良いというのは、ちょっと虫が良すぎるのではないでしょうか?

僕は前に宇佐、大分に行ったときに、この部分が十分理解出来ると思ったのです。
この先に畿内勢力があっても、この旅の目的が邪馬台国へ行き、女王に会うためであれ
ば、そのことに触れなくても構わない。ただその方向に国があると書けば十分目的は達
したと思われます。

イギリスからフランスへ行った人が、なにもその先にドイツがあるとかイタリアがある
とか、そこがどんな国でなんて書く必要はないでしょう。
それは、畿内説の人が無視するのはおかしいと思うだけであって、なにも問題はない
事だと思われますが。

それよりも、方角、距離までそこそこ信じられるものを信憑性がないの一言でかたづけ
ることの方が問題だと思います。




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Re: ここは「古代のロマン:大論争」

投稿者[ マルガリータ ] 発言日時 [2月9日(水)19時14分00秒]

元の発言 [ 魏志倭人伝すら、信じない、全てを信じないで妄想にひたる九州説 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月9日(水)16時55分41秒 ]

>>
>> う〜みゅ…九州箱庭説…

>>
>>
>>
#そう、そう、ここは「古代のロマンを考える会」の「古代のロマン:大論争」です、決して誰かさんのように、間違っても<おにりん>さんを指してはいませんよ、「誇大なロマンスを考える会」の主宰の「誇大なロマンス:大論争」ではありません。吉備に650,000人もいた証拠でもあるのでしょうか?大和(寛大な私だから大阪府/南京都府まで含めても良いが)に3世紀半ばの大集落でも発掘されているのでしょうか? まー、こう言うとまたもや「大和説を否定するだけの九州説」と、おっしゃるかも知れないが。





145

Re: 古冨波山古墳と冨波古墳

投稿者[ 飛んだハヤシライス ] 発言日時 [2月9日(水)20時16分51秒]

元の発言 [ Re: 古冨波山古墳から ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 2月7日(月)12時40分07秒 ]

イリヒコさん、こんばんは。

『集成』では古冨波山古墳に先行する冨波古墳について、書店で『大辞典』を立ち読みしてきました。(高くてちょっと買えません)
 以下、こっそりメモしてきました。(ホントは著作権の関係で、店内でのメモは禁止されているとのこと)
・全長42mの前方後方墳
・幅4.5〜7mの周掘。深さ10〜30cm。この周掘を含めると全長約53m
・周掘掘削後に穿たれた周掘の土壙から布留式併行土器
・前方部の土壙から出土した土器片は庄内期併行
・主体部構造は不明
・古冨波山古墳と相前後して築造された大岩山古墳群の最初期のもの。

 執筆者は丸山竜平氏、これらから考えますと丸山氏は、庄内期、布留期についてはきちんと区別して考えておられると思いますので、古冨波山は、やはり庄内併行期と考えてよいのではないかと思います。
 また、古冨波山と冨波の新旧についてですが、必ずしも古冨波山が新しいとも断じかねるのではないでしょうか。
 イリヒコさんの忌憚のない意見をお伺いしたいところです。


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Re: つづいて質問、おにりんさんは。

投稿者[ 池ちゃん@一休みモード ] 発言日時 [2月9日(水)20時33分10秒]

元の発言 [ Re: つづいて質問、おにりんさんは。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月9日(水)17時22分03秒 ]

#昔読んだ漫画には、それをもとに奈良の大仏がつくられた・・・なんてことが描かれていました。
 面白い説だとは思いますが、やっぱり漫画ですからね・・・

まぁ”奈良の大仏”は置いといて、何か軍事的なものに使ったかもしれませんね。大量に鋳潰したとすれば、そう言ったようとい外はちょっと考えられませんね。私には。


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Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ)

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [2月9日(水)21時18分24秒]

元の発言 [ Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月9日(水)09時54分25秒 ]

え?そうだったのですか?
近畿が九州を指導していたのですか?


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Re: 古冨波山古墳と冨波古墳

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [2月9日(水)23時31分22秒]

元の発言 [ Re: 古冨波山古墳と冨波古墳 ] お名前 [ 飛んだハヤシライス ] 日付 [ 2月9日(水)20時16分51秒 ]

飛んだハヤシライスさん、こんばんは

集成では、丸山さんは箸中山古墳に後続する(箸中山古墳の方が古
い)壷笠山古墳を庄内期の古墳と書いています。したがって、丸山
さんは布留0を庄内期に含めており、壷笠山・富波・古富波山とい
ったあたりが布留0併行期と判断出来ます。文脈や表から判断して
特殊器台形埴輪が使われていた時期です。

また、孫引きですが、「丸山さんは古富波山を箸中山と同時期と考
えている」と書かれたものも読んだことがあります。何だったかは
忘れてしまいました。

さらに、「前方後円墳の出現」の赤塚さんの表がありますが、この
表は赤塚さんが古墳出土の土器を比較検討して作成したものです。
全部正しいとは限りませんが、この表では富波古墳は箸中山古墳に
ごくわずか遅れた位置に置かれており、赤塚さんの判断でも富波古
墳は布留0併行ということになります。したがって、それよりは下
るであろう古富波山も布留0併行(それも古い方ではない)と推察出
来ます。

いずれにせよ、書いている人間が同じである以上、古富波山に限っ
ていえば、集成の年代を否定する材料に「古墳(大)辞典」はなりえ
ません。

>>  執筆者は丸山竜平氏、これらから考えますと丸山氏は、庄内
>> 期、布留期についてはきちんと区別して考えておられると思い
>> ますので、古冨波山は、やはり庄内併行期と考えてよいのでは
>> ないかと思います。

布留0は庄内期と布留期の端境期で、これを庄内期にいれる人も少
なくないようです。例の「古墳のための年代学」にも、布留0併行
の纏向3式後半は庄内期とすべきであるという考えが書かれていま
す。どちらの立場を正しいとするかはアカデミックな問題で、我々
素人にはどうでもいい話ですが、両方の立場の方がおられるという
現状は認める必要があります。


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Re: Title再度問う(承前:ALEXさんへ)

投稿者[ 慈源 ] 発言日時 [2月9日(水)23時45分56秒]

元の発言 [ Re: Title再度問う(承前:ALEXさんへ) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月9日(水)11時04分26秒 ]

ALEXさん、こんばんは。きょうは、ホンマに大分県日田市の米「慈源」です。
>倭國の北端を会稽、女王國等中心地を東冶近辺、南端をtan耳朱崖に近い当たりと読む見解もあり、

 倭国の北端といえば、對海国ですよね。ここがすでに会稽のあたりになるのならば、やはりAND、OR以前に会稽東冶の東まで行っちゃてますよね。

>「考えることを妨げるものではない」ということは、確実に「同じ感覚を持っていた」ではないわけです。

 申しわけありません。「万二千余里の記録者とここの里数の記録者とが、仮に違っていても、単位としては同じ感覚を持っていたものであると考えます」と表現を変えさせて頂きます。

> これでは、万二千余里の数字を出した人間と、個々の距離を報告した人間を、暗黙のうちに同一だと仮定しているのと変わりませんから、「陳壽がANDの意味で書いた」ことが合理的に推定できる以上は、一次史料記述者の意図はORであったと、現行史料の記述を覆すに足る推論はできません。

 ちょっと待ってください。ANDかORかには直接関係なく、郡より女王国に至る万二千余里ですよね。
 問題は、個々の距離を加算した結果万二千余里になったのか、別の算出法によって万二千余里が求められたのか、という事ですよね。
 ですから、万二千余里から、伊都国までの総距離の万五百里を引いた千五百里がそれまでに記述されている「里」の距離感覚とおなじかどうか分からないぞ、とおっしゃってるわけですよね?

ケース1
> しかるに実際は、伊都国−女王国間の里数の記載はなく、代わりに直近国−女王国間の所要日数が記載されています。

 前段はご指摘の通りです。でも、後段は違います。直近国−女王国間ではなく、直近国−邪馬臺国間です。
 繰り返しますが、総里数は女王国までの距離であり、日数表記は起点は定かではありませんが、投馬国および邪馬臺国までの所要日数です。
 当然のことながら、これは女王国=邪馬臺国であることを前提としています。これが本当に妥当なのか否かが問題なのではないか、というのが私の疑問であり、結局≠なのではないか、そのように考える事がもっとも素直に倭人伝を読めるのではないかと考えているのです。

>史料編纂者は、123の記録を総合して、間違った編集を行なった。

 魏略は逸文のみですが、散逸した部分でギョケンがどのように書いたのかは不明です。魏志倭人伝の陳寿も、魏略を参照したであろうと思われますが、余計な刪潤を加えなかったことに史料価値があるのではないでしょうか。
1.>世々王あるも、皆女王国に統属す。郡使の往来常に駐まる所なり。
2.>女王国より以北、その戸数・道理は得て略載すべきも、その余の旁国は遠絶にして得て詳かにすべからず。
3.>これ女王の境界の尽くる所なり。
4.>その南に狗奴国あり、男子を王となす。その官に狗古智卑狗あり。女王に属せず。郡より女王国に至る万二千余里。
5.>女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。
6.>女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり。
 このように、女王国と表現される所は数箇所ありますが、これらを綜合して考えてみますと、女王国は伊都国の南のどこかにあることが首肯できます。

>南、邪馬壱国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月。
 邪馬壹(臺)国の表記はここしかありません。1−6の女王国を邪馬壹(臺)国に置換するからこそ、さまざまな矛盾が生じているのではないですか?
 もちろん、魏志倭人伝は女王国=邪馬壹(臺)国と考えている。だから、方角を南へ南へと書いているのではないでしょうか?

ケース2
>1
> 魏使一行の者かもしれないAなるものがおり、
> 彼は女王国まで赴いており
> その日程を記録した

 この場合、どこからどこまでの日程を記録したのでしょう?伊都国から邪馬壹(臺)国ですか?郡から伊都国までの記録は散逸したのでしょうか?
 もし、魏使が不弥国までの記録が存在する事を知っていたために省略したとしたら、まず、その記録がいかに長大であるかにも気が付いたことでしょう。とすれば書き換えたはずです。もし、郡から伊都国までの記録は散逸したと考えるのならば、それは無理のある想定だと思いますよ。(^o^)

> 求められているのは「陳壽自身がANDの意味で書いたと合理的に推定できるにもかかわらず彼の依拠した原資料はORの意であって陳壽が誤解した。そのもとの文はORだった」と考えることの出来る根拠です。

 AND、ORの議論は二ヵ所存在します。
1.投馬国と邪馬壹(臺)国の表記
2.水行十日陸行一月

1.については、陳寿の理解はANDです。順進的に理解しています。
2.については、分かりません。ORであっても差支えないはずです。
位置としては、陳寿の理解では伊都国→投馬国→邪馬壹(臺)国の順にあるのですから。

 結局論点としては、「万二千余里がどのようにして求められたのか?」という事になりそうですが、どうでしょう?


153

Re: しつこく質問

投稿者[ 飛んだハヤシライス ] 発言日時 [2月10日(木)00時44分13秒]

元の発言 [ しつこく質問 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月9日(水)10時18分10秒 ]

>>
>>
 昨年末、けっこうやりあいましたよね。
 先月のページを見たら1月29日にレスポンスをしております。数ヶ月???
 やっぱり、おにりんさんの事実認識はおかしいですね。



154

Re: Title再度問う(承前:ALEXさんへ)

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [2月10日(木)06時27分57秒]

元の発言 [ Re: Title再度問う(承前:ALEXさんへ) ] お名前 [ 慈源 ] 日付 [ 2月9日(水)23時45分56秒 ]

>> 慈源 さん、こんばんは。

>> 「万二千余里の記録者とここの里数の記録者とが、仮に違っていても、単位としては同じ感覚を持っていたものであると考えます」

#肝心なとこへ来ました。その根拠は?


>>  この場合、どこからどこまでの日程を記録したのでしょう?伊都国から邪馬壹(臺)国ですか?郡から伊都国までの記録は散逸したのでしょうか?

#「帯方からの距離」と「日程」の決定的な違いは
 前者は、帯方から起算しないと記録不能である。
 後者は、伊都國(もしくは不彌國)出発の日時と、上陸の日時、女王所都到着の日時があれば記録可能である。
 という点にあります。ですから、日程に関する郡から伊都国までの記録が散逸したか、それとも最初から無かったかは不明です。

もし、魏使が不弥国までの記録が存在する事を知っていたために省略したとしたら、まず、その記録がいかに長大であるかにも気が付いたことでしょう。とすれば書き換えたはずです。

#そうとは限りません。1719年来日した朝鮮通信使の申維翰は克明に道中の記録を残していますが、実際滞在した対馬を東西約300里,釜山から佐須浦まで480里,佐須浦から厳原まで260里と書いています。これらは魏里に換算すると倭人伝の数字に近いものです。
 もちろん18世紀の朝鮮王朝に短里があったという説はありません。


>> 1.投馬国と邪馬壹(臺)国の表記
>> 2.水行十日陸行一月
>> 1.については、陳寿の理解はANDです。順進的に理解しています。
>> 2.については、分かりません。ORであっても差支えないはずです。
>> 位置としては、陳寿の理解では伊都国→投馬国→邪馬壹(臺)国の順にあるのですから。

#私が確定的に言えるのは、(1.放射;2.OR )の組み合わせがあり得ないと言う事です。(1.直線;2.OR )までは否定していません。
 ただし、「水行十日陸行一月」をORで読む事は、漢文としておかしいと思います。
ただ理由は、ANDで読む類例は知っているが、ORで読む例は寡聞にして知らないというだけですから、ORでも差支えないということなら実例をお示しください。そしたら撤回します。(現代人の例はだめですよ。でないと万葉に「超ダサ」という表現があってもいいことになります)


>>  結局論点としては、「万二千余里がどのようにして求められたのか?」という事になりそうですが、どうでしょう?
#そういうことですね。


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Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ)

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [2月10日(木)06時46分19秒]

元の発言 [ Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月9日(水)18時22分28秒 ]

>> なぜでしょう?水行十日陸行一月はandと読むのが正しいと
>> それが正しい漢文の読み方だと言えるのですか?

#私の貧弱な古漢語の語学能力を顧みずに言えば、ANDが正しい漢文の読み方だと言えます。


>> 海岸線に沿って、鹿児島を目指すなら、二十日で
九州を行きすぎることはないと思いますが。

#いや、そういう意味じゃなければいいんです。


>> 僕の比定では、まったく方向違いの場所へ行く必要はなかったと思われますので、行っていないと判断しています。

#比定が先というのが変な気もしますが。


>> 最後の2行はたしかに問題があると思いますが「東渡海千餘里」はそれまでに何度も出てきている数字で、とんでもない距離とは思えない。
>> それまでも無視して良いというのは、ちょっと虫が良すぎるのではないでしょうか?

#別に無視はしません。重視しないだけです。畿内の「東渡海千餘里」にだって名も無い国のひとつやふたつ有るでしょう。

>> イギリスからフランスへ行った人が、なにもその先にドイツがあるとかイタリアがあるとか、そこがどんな国でなんて書く必要はないでしょう。
#でもストラスブールまで行って、東へ行くと別の国があるって書いたら、普通「それは一体どいつだ?」って思いません?


>> それよりも、方角、距離までそこそこ信じられるものを信憑性がないの一言でかたづけることの方が問題だと思います。
#でもコビト国と一緒くたの扱いですよ。


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Re: ここは「古代のロマン:大論争」

投稿者[ マルガリータ ] 発言日時 [2月10日(木)10時03分09秒]

元の発言 [ Re: ここは「古代のロマン:大論争」 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月10日(木)00時10分04秒 ]

私は「邪馬台国=大和国でなくても良い」として
>吉備に650,000人もいた証拠でもあるのでしょうか?大和(寛大な私だから大阪府/南京都府まで含めても良いが)に3世紀半ばの大集落でも
発掘されているのでしょうか? 

#と、発言・質問している。そこまで自信たっぷりに発言されておられるのならば、該当する遺跡の名前を5つは上げられるでしょう。「邪馬台国=7万戸」とするならば、近畿全体でも良いが、1集落=1,000人として、650集落必要。1集落=10,000人として、65集落必要。もちろん全ての遺跡が発掘されていないのは理解できるが、北部九州に比べて工場・住宅建設の盛んな関西地区。その10パーセントも発掘されていないという訳もないでしょう。1万人で65集落、1集落=千人ならば650集落、その10パーセントは発掘されているでしょう。その遺跡名を上げて下さい。まさか「九州説は信仰だ、宗教だ!」とおっしゃる<おにりん>さんが、「出てはいないが、ある筈だ!」とのお返事をされるとは思わないので。明確なる根拠に基づいたお返事をお待ちしてます。


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Re:おにりんさんへ、質問

投稿者[ マルガリータ ] 発言日時 [2月10日(木)10時09分18秒]

元の発言 [ Re: ここは「古代のロマン:大論争」 ] お名前 [ マルガリータ ] 日付 [ 2月10日(木)10時03分09秒 ]

自己レスですm(--)m
>「邪馬台国=7万戸」とするならば、近畿全体でも良いが、1集落=1,000人として、650集落必要。1集落=10,000人として、65
集落必要。もちろん全ての遺跡が発掘されていないのは理解できるが、北部九州に比べて工場・住宅建設の盛んな関西地区。その10パ
ーセントも発掘されていないという訳もないでしょう。1万人で65集落、1集落=千人ならば650集落、その10パーセントは発掘され
ているでしょう。

#を、455,000人、1集落=1万人として45集落、1集落=千人として455集落と訂正しますm(--)m


158

Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ)

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [2月10日(木)16時13分58秒]

元の発言 [ Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月10日(木)06時46分19秒 ]

>> #私の貧弱な古漢語の語学能力を顧みずに言えば、ANDが正しい漢文の読み方だと言えます。

この件に関しては、ずっと論議の対象ですからね。
なんとも...

>> #比定が先というのが変な気もしますが。

直線状に国が並ぶとは限らない。ほとんどないと言って
も良いくらいでは。となると、水行の次にまた水行陸行
となる場合、これは、二つの離れた島、また歩いて行け
ないところ、方向がぜんぜん違うと判断しました。

>> #別に無視はしません。重視しないだけです。畿内の「東渡海千餘里」にだって名も無い国のひとつやふたつ有るでしょう。

あるでしょうと、あると書かれているのは違います。
壱岐から松浦までの距離と同程度と書いているのです
から。まあ、これを言えば距離がいいかげんだというこ
とになりますが。

>> #でもストラスブールまで行って、東へ行くと別の国があるって書いたら、普通「それは一体どいつだ?」って思いません?
さぶー... でも、重要な用件ではないでしょう。

>> #でもコビト国と一緒くたの扱いですよ。
倭国(九州として)まで来たのが、めちゃくちゃ遠いと
書いている人たちですから、それから先の話は、畿内が
あっても、もっとずっと遠い国にしかならないでしょう。
仕方ないんじゃないですか。


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Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ)

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [2月10日(木)17時45分02秒]

元の発言 [ Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月10日(木)16時13分58秒 ]

>> >> ANDが正しい漢文の読み方だと言えます。
>> この件に関しては、ずっと論議の対象ですからね。なんとも...

#んなら聞くなおー というのは冗談ですが
 議論の対象になっているのは専ら「そう読めば○○に到達できる」で、そういう読み方が漢文として「あるのか」っていう議論はあまり聞きませんね。
 最初から、語学的には無理ということを承知の立論なんじゃないかと思うのですが。少なくとも同型の構文をANDで読む例はあるが、ORの例は知りません。


>> 直線状に国が並ぶとは限らない。ほとんどないと言って
>> も良いくらいでは。となると、水行の次にまた水行陸行
>> となる場合、これは、二つの離れた島、また歩いて行け
>> ないところ、方向がぜんぜん違うと判断しました。

#對馬→一大→末盧は?


>> あるでしょうと、あると書かれているのは違います。
#…じゃ、あるんですよ。畿内の「東渡海千餘里」に名も無い国が。


>> さぶー...
#雪も降っとろう。

>> それから先の話は、畿内があっても、もっとずっと遠い国にしかならないでしょう。
>> 仕方ないんじゃないですか。

#んー… 確かにこの話は、心愛さんのような「邪馬台国は畿内に脅かされていた」という説の人対策なんで、yaohideさんには効かないですね。


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Title古代史の根底を揺るがす世紀の大発見!

投稿者[ 福島雅彦 ] 発言日時 [2月10日(木)18時11分44秒]

御無沙汰致しました。
当『大論争』に於いて、「おにりん氏」達と漢字の性質等、揉んだ御蔭で、
標記の大発見に繋がりました。感謝致します。
論文が長いので、宜しかったら、私のHPへ、お越しの上御高覧下さい。
先ずは、御知らせと御案内まで。


161

Re: ご注意

投稿者[ 管理人 ] 発言日時 [2月10日(木)21時17分32秒]

元の発言 [ 魏志倭人伝すら、信じない、全てを信じないで妄想にひたる九州説 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月9日(水)16時55分41秒 ]

 一対一の議論でエキサイトするのは良くある事ですので、あまり五月蝿いことは申しません。
 しかし個々の論者・所説ではなく「九州説」「畿内説」等とひとくくりにした表現は、具体性を欠くので注意して使用してください。

いちおう、まだお願いモードです。


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海里かも知れませんよ。

投稿者[ 慈源 ] 発言日時 [2月10日(木)21時28分48秒]

元の発言 [ Re: Title再度問う(承前:ALEXさんへ) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月10日(木)06時27分57秒 ]

ALEXさん、こんばんは。
>1719年来日した朝鮮通信使の申維翰は克明に道中の記録を残していますが、実際滞在した対馬を東西約300里,釜山から佐須浦まで480里,佐須浦から厳原まで260里と書いています。これらは魏里に換算すると倭人伝の数字に近いものです。

 これはとても貴重な情報をいただいたと思います。これって、ひょっとして浬(海里)ではないでしょうか?倭人伝にしても、上記にしても海路や島の大きさと言った海に関係した距離を主に記述しています。海洋氏族が使用していた単位かもしれませんよ。もちろん、はっきりはしませんが、便宜上、魏尺に対して以下では海里と表現してみます。

>> 「万二千余里の記録者とここの里数の記録者とが、仮に違っていても、単位としては同じ感覚を持っていたものであると考えます」
>#肝心なとこへ来ました。その根拠は?

>>  結局論点としては、「万二千余里がどのようにして求められたのか?」という事になりそうですが、どうでしょう?
>#そういうことですね。

1.まず、万二千余里も個々の里数も海里で記述されているとします。
 その場合、女王国は伊都国の南千五百里、さほど遠くないところに想定できます。甘木、小郡を含む平野部あるいは、筑後川を渡ったあたりまでのどこかでしょう。宇佐も入るかもしれません。
1−イ. 女王国=邪馬台国ならば、伊都国女王国間の千五百里、および投馬国邪馬台国への日数表記の両者を満足させなければなりません。したがって、伊都国からの放射説、水行陸行はORを採ることになります。
 ご存知のようにわたくしもずっとこの説を採っておりました。水行は西回り。陸行一月は少々誇大と考えるしかない。
1−ロ.順進的にしか読めないのであれば、この時点で女王国≠邪馬台国になるでしょう。
 渡海千里はどう考えても一日の旅程でしょうから。投馬国への水行二十日の間にずいぶん遠くへ行ってしまいます。
 この万二千余里の求め方は基本的には、実際に少なくとも倭国まで航海してきた者の経験から導かれた距離であると言ってよいと思います。

2.万二千余里が魏尺であったと考えてみます。
 この場合、魏尺の万二千余里マイナス海里の万五百里イコール千五百[
里]にはなりませんよね。この[里]は魏尺で考えればもっと大きくなるはずです。海里で考えればさらに大きくなるはずです。したがって、
>水行十日陸行一月の日程と残余約1,500里には整合性がある。倭國のような情報源の限られた対象について、個々の情報同士が照合できて整合性を検証できることは一種の僥倖といえ、むしろ一方から他方が考証で導出されたと考える方が自然である。
 これは成り立たない事になります。差し引きして求められた千五百里の[里]が海里なのか魏尺なのかが判然としないから。

2−ハ.残るのは実数は不明ですが、女王国は伊都国より魏尺の千五百里以上(実際はもっと)南に存在する。ここで魏の一里を約400mとしますと、600km以上南に女王国は存在することになります。私たちは(北部九州説であれ、大和説であれ)、そこに女王国、あるいは邪馬台国があるとは思っていない。

2−ニ.伊都国から東へ行く事にしてみます。この場合も同様に、伊都国・邪馬台国間が魏尺としての千五百里である保証はないわけです。韓の方四千里(これも魏尺としての一里約400mではありませんが)を魏尺だと陳寿が考えたとしましょう。残り五千里、約2000kmのうち、狗邪韓国から南へ伊都国まで行ったとしてもせいぜい200kmから300kmの間ではないでしょうか?
 そうしますと、伊都国から邪馬台国まで、約1500km以上の距離になります。
 さて、そこはどこでしょう?

 と、このように考えてみますと、万二千余里を魏尺であると考えるのは整合的ではない、海里だと考えるのがより自然である。
 したがって、整合的なのは1−イ.か1−ロ.のいずれかでしかない、と言う事になりませんでしょうか?

 うっふっふっ…。(^o^)


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Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ)

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [2月10日(木)22時05分18秒]

元の発言 [ Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月8日(火)01時51分00秒 ]

おにりんさん、こんばんは。

#それと、「纏向=邪馬台国」の証明は無関係。

#私は、東遷説ではないと何度もレスしています。


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Title『最近寡黙者』より〜ALEX氏へ

投稿者[ 福島雅彦 ] 発言日時 [2月10日(木)22時16分17秒]

自分の研究に勤しんでいて、『紛々たる…』の心境でしたので。
 
問い1.投馬國はどこですか?
≪答≫
『薩摩』である。倭人は「サ・詰ッ」と発音した。
“사”(sa)=南、巳の意味(古代倭語が朝鮮語に臍の緒を留めている)。
即ち、「南の(行き)詰り」である。其の証拠に『佐多岬』=“사땅”(sa-ttang)岬である。
序に、四国の『佐田岬』=“서땅”(seo-ttang)岬=西の地の岬である。

問い2.其の理由は?
≪答≫A〜D.の何れとも一言では難しいが、強いて言へば“B”である。

※伊都國は江戸時代以前は「伊都」と「志摩」は水道で離れていた。
薩摩に向かうには、伊都國の北の船着場から長崎廻りにに船出する。
従って、所在は南だが、陳寿はおろか郡使は行った事が無いから、委細に拘らなかった。
『末盧國』からの『伊都國』への「東南」だって、初動は正に東南であるが、直ぐに真東へ
進路は変り東に近付くがアバウトの東南である。
 伊都國からは、紀行文ではない。
三系統の交通案内表示板である。
(1)東南至奴國(筑紫野市)⇒東行(伊都國からでなく奴國から更に、東へ行く)不彌國。
(2)南至投馬國水行二十日。(九州西海岸には、黒潮反転流が有り、敵対狗奴國を迂回)。
(3)南至邪馬壹國。水行十日陸行一月とは、実に『從郡至倭』に掛かっている。
『夷人は距離を知らず、日を以ってす』で『萬二千餘里』と勝手に換算値を掲載したので、根拠説明に『水行十日陸行一月』を急遽挿入したのである。
何と良心的且つ正確な性格である事か!!!!!!!!!!。驚嘆する。
『至』は郡使が逗留していない、郡役所の出先がない所。『到』は郡役所の出先の有る留まる所である。
 九州説には、ドンナ角度から責められても、何ら動じる所がないのである。
ああ言へば、苦しい弁明で、こう言うと、頭を悩ます必要がない。
応えるのが、億劫には成るがネ。


165

Re: 海里かも知れませんよ。

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [2月10日(木)22時31分12秒]

元の発言 [ 海里かも知れませんよ。 ] お名前 [ 慈源 ] 日付 [ 2月10日(木)21時28分48秒 ]

慈源 さん、こんばんは。

>> ひょっとして浬(海里)ではないでしょうか?

#わかりません。或いは、水人の間で伝統的に誤ったロジックの山立てが行なわれていたのではないでしょうか?
 対馬は、南北約82qのところ、そのリアス式海岸の総延長が915qという驚くべき長さです。韓国西岸も然り。このあたりに「巨大な韓」の秘密があるようにも思えます。

>> 渡海千里はどう考えても一日の旅程でしょうから。投馬国への水行二十日の間にずいぶん遠くへ行ってしまいます。

#これは正しくないでしょう。18世紀の帆船でも早朝釜山を発って佐須浦につくのが夕暮れ。渡海千里は海峡の幅だけではありません。それに一気に渡海する時のペースを20日キープする事は物理的に無理です。こういうことは紙の上の試算でなく、実際の航海例を引くのがよいと思います。


>> 「水行十日陸行一月の日程と残余約1,500里には整合性がある。」云々は京兆の人の机上の検証法のことを言っているので、「差し引きして求められた千五百里の[里]が海里なのか魏尺なのかが判然としない」ということはありません。海里なるものの存在を知らない以上はすべて魏尺です。


>> と、このように考えてみますと、万二千余里を魏尺であると考えるのは整合的ではない、海里だと考えるのがより自然である。

#消去法なのにぜんぶ引いてないですよ。万二千余里を魏尺と海里の混合と見る選択肢が残っています。万二千余里を誰も測定していない(机上の考証で創りだされた)という選択肢も残っています。ちなみに後者が私の見解。
 つまり、消去法を用いるというロジックの選択が誤算なのでは?
 うっふっふっ…。(^o^)


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Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ)

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [2月10日(木)22時47分55秒]

元の発言 [ Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月10日(木)17時45分02秒 ]

>>  議論の対象になっているのは専ら「そう読めば○○に到達できる」で、そういう読み方が漢文として「あるのか」っていう議論はあまり聞きませんね。
>>  最初から、語学的には無理ということを承知の立論なんじゃないかと思うのですが。少なくとも同型の構文をANDで読む例はあるが、ORの例は知りません。

そこなんですよ。現代だとORで読めるというような話を
聞いたことがあるのですが、古代の漢文の読み方で、こ
れが決まりだ。正解だと言い切れるのであれば問題はなく
なりますよね。

>> #對馬→一大→末盧は?
だから、それって島でしょ。歩いて行けないから、水行
してますよね。5万戸もある島だったと考えれば別ですが。なぜ投馬国へ上陸したのなら、邪馬台国まで陸行で
いけなかった?
水行も陸行も速度がかわらないのなら、陸行1月と10
日で済んだんでしょう。
風待ちなど、荒天を考えれば、いつ漕ぎ出せるか分から
ない船で行かなくて歩いていけばいいじゃない。




167

Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ)

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [2月10日(木)23時06分01秒]

元の発言 [ Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月10日(木)22時47分55秒 ]

>> >> #對馬→一大→末盧は?
>> だから、それって島でしょ。歩いて行けないから、水行
>> してますよね。5万戸もある島だったと考えれば別ですが。なぜ投馬国へ上陸したのなら、邪馬台国まで陸行で
>> いけなかった?

#九州島は知りませんが、山陽道にしても東海道にしても、上古は沖積平野がかなり不安定で、陸路はかなり山側だったようです。とくに山陽は海運が盛んだった形跡が顕著です。
 私は、投馬國を海運王の国と考えているのですが。



168

Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ)

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [2月10日(木)23時53分05秒]

元の発言 [ Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月10日(木)23時06分01秒 ]

>> #九州島は知りませんが、山陽道にしても東海道にしても、上古は沖積平野がかなり不安定で、陸路はかなり山側だったようです。とくに山陽は海運が盛んだった形跡が顕著です。
>>  私は、投馬國を海運王の国と考えているのですが。

ぼくのイメージでは、畿内説をとった場合の投馬國の
比定地はやはり出雲もしくは吉備だと思うのですが。
ただ、それなら、なぜ片方しか出てこないのか?
吉備、出雲のどちらも畿内にとっては大きな関係の
ある国だと思うのです。
僕の説で、なぜ遠くにあっても重要な国があるのなら
それを書かないと言われたと同じように、吉備を書く
なら出雲はなぜ書かない?ってことなんです。
吉備から出雲なら陸行10日いらないでしょう。
そんな近くに大きな国があったのではないでしょうか。



169

Re: はじめまして

投稿者[ ホホデミ ] 発言日時 [2月11日(金)00時17分51秒]

元の発言 [ Title『最近寡黙者』より〜ALEX氏へ ] お名前 [ 福島雅彦 ] 日付 [ 2月10日(木)22時16分17秒 ]

横から変なレスでスミマセ〜ん。
はじめまして、福島雅彦さんそして、みなさん。ホホデミです。
一応、九州説を支持してます。
私のモットーは、なんといっても、それに、大分と福岡の県境、中津市と日田市(どちらも大分県)の間には、「耶馬溪」があることなんですよ、近畿説のみなさん。ご存知だと思うのですが、さらにこの耶馬溪は、本耶馬溪、深耶馬溪、奥耶馬溪、裏耶馬溪など、奇妙な火山岩と林で織り成す、絶景です。
とにかく一度や二度は現地へ行ってご覧になってみてください。きっと胸打たれますよ。
同じような絶景が、福岡県にもあります。それは、英彦山(ヒコサン)です。英は、後からつけたと聞いてます。ヒコホホデミのヒコがついてる山ですよ。こんな山は近畿にはないでしょう?「耶馬」の名を冠する場所なども近畿にはあるのでしょうか?
なんかお国自慢になっちゃったよーな気もしますが...


170

Titleまたまたまた問う。

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [2月11日(金)02時33分46秒]

伊都國には諸國を檢察する一大率の治所があり、諸國はこれを畏憚しているとあります。


問い1 なぜ本国から直接諸国を検察せず、伊都國に役所を構えたのでしょうか

1 仕事の毎にまいど本国から来るのは日数がかかるので
2 伊都國王は抜け荷の前科があるから
3 じつは一大率は伊都國王だから
4 本国は宗教都市で、政治がらみの施設は置かないから
5 本国は内陸で港がないので


問い2 倭國の王は共立された存在。さて、諸國が畏憚するような役人を派遣するような強権政治をできるのでしょうか?

1 いちど王になったら勝ちなので強権的なのは当たり前
2 畏憚しているのは共立に参加していない外様国だけ
3 畏憚はなんかの間違い
4 一大率を置いたのは中国だ
5 一橋大学卒業の学歴に敬意を表して畏憚している


171

Re: Titleまたまたまた問う。

投稿者[ 池ちゃん ] 発言日時 [2月11日(金)07時26分47秒]

元の発言 [ Titleまたまたまた問う。 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月11日(金)02時33分46秒 ]

>> 伊都國には諸國を檢察する一大率の治所があり、諸國はこれを畏憚しているとあります。

>>
>> 問い1 なぜ本国から直接諸国を検察せず、伊都國に役所を構えたのでしょうか

>> 1 仕事の毎にまいど本国から来るのは日数がかかるので
>> 2 伊都國王は抜け荷の前科があるから
>> 3 じつは一大率は伊都國王だから
>> 4 本国は宗教都市で、政治がらみの施設は置かないから
>> 5 本国は内陸で港がないので

#”1”と”5”。
伊都国が邪馬台国の首都的な役割を持っていたと考えます。
>>
>> 問い2 倭國の王は共立された存在。さて、諸國が畏憚するような役人を派遣するような強権政治をできるのでしょうか?

>> 1 いちど王になったら勝ちなので強権的なのは当たり前
>> 2 畏憚しているのは共立に参加していない外様国だけ
>> 3 畏憚はなんかの間違い
>> 4 一大率を置いたのは中国だ
>> 5 一橋大学卒業の学歴に敬意を表して畏憚している

#半分”4”。大使館的な役割を持っていたことは、
”魏志倭人伝”にも書いてあります。
 魏から兵が派遣されていたということはなく、大陸で使われている武器の供与がされていたと思います。
その武器を使っていたのは倭人で、名目上、その司令官的な役職に就いていたのは中国人であると思います。
 ”一大率”という名前は中国人の影響を多く受けているところから、日本人がつけた名前であると考えます。ついでに言うと”大倭”という役職名はこの反対で、倭の人間が(名目上か実質的かはわからない)中心にいたために
”一大率”に対してつくられた造語(日本語英語みたいな)でしょう。


172

告示 (福島氏の発言について)

投稿者[ 管理人 ] 発言日時 [2月11日(金)09時30分07秒]

元の発言 [ Title『最近寡黙者』より〜ALEX氏へ ] お名前 [ 福島雅彦 ] 日付 [ 2月10日(木)22時16分17秒 ]

 福島氏におかれましては
(1)貴殿の掲示板に、大論争自体を貶める趣旨の発言が掲載されております。

(2)貴殿の掲示板を含む複数の掲示板上で、大論争でおこなわれた議論に関して
   大論争で行われた議論と違う内容が報告されております。

(3)貴殿の掲示板に、大論争の参加者の人格を貶める発言があります。

以上3点を確認しました。

 これらは、大論争に参加していない第三者に悪印象を植え付けるものであり、また信義誠実に悖るものであります。
 残念ながら、大論争の趣旨を根本的にご理解いただけないものと認め、当所の「不毛」な議論に関与されぬよう、掲示板への参加をお控え戴く様お願い申し上げます。


 参加者の皆さんにおかれましては、掲示板の健全な運営のため、参加者相互の人格の尊重と信義誠実則の遵守に一層の配慮をお願い申し上げます。


173

Re: 追伸

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [2月11日(金)10時50分36秒]

元の発言 [ Re: 海里かも知れませんよ。 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月10日(木)22時31分12秒 ]

慈源 さん、おはようございます。…あ、もう昼か。

個々の想定は理解したつもりですが、ロジックの流れが見えにくいので質問です。

1「女王國!=邪馬台国」という想定
2「萬二千餘里を実測した人物がいた」という想定
これはロジックとして、どちらが先にあるのですか?

 それから、私の判断は、萬二千餘里が机上の考証でジェネレートされた数値であるという想定です。
 計測単位が「正しい里」であろうが「特殊な里」であろうが、はたまたマイルかスタディオンであろうが、萬二千餘里を実測した人物がいたという想定は、結局は倭人伝の原文を「錯誤」として斥けることに行着きます。その「改訂」の程度が、果たして来日した異邦人の方位感覚に一時的な狂いが生じたという想定による「改訂」より大幅であるのか/小幅であるのか;ということなのですが、冷静に判断して如何ですか?


174

Re: 追伸

投稿者[ 慈源 ] 発言日時 [2月11日(金)12時14分10秒]

元の発言 [ Re: 追伸 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月11日(金)10時50分36秒 ]

 ALEXさん、こんにちは。

>> 1「女王國!=邪馬台国」という想定
#これは「女王国≠邪馬台国」ですね?
>> 2「萬二千餘里を実測した人物がいた」という想定
>> これはロジックとして、どちらが先にあるのですか?

1.です。
イ)倭人伝に登場する難升米以下遣使された人名と邪馬台国の官名が重複しない。
ロ)私の考える「銅鏡百枚」の分布から投馬国を九州島内に想定できない。(これは、おそらく大和説にとって「銅鏡百枚」を何と考え、その分布を考える時もまた投馬国の位置は想定できないような気がいたします)
ハ)先に書きましたが、女王国を主語とした書き方から判断すると大まかには北部九州を想定できる。

二)もうひとつは、いまやっている里の問題。不弥国まではいわゆる海里で書かれている。万二千余里もまたいわゆる海里で書かれているとするならば、すべてがいわゆる海里で書かれていることになりますが、そうしますと日数表記と齟齬が生じる。
 これらの事から、女王国≠邪馬台国ではないか、という事です。
 
2.の「万二千余里」については、別資料である可能性を否定しているわけではありません。それぞれのケースについて考えてみようという事です。
 陳寿は魏略を参照しているといわれていますので、すでにこの数値は与えられていたわけです。ギョケンにとってはどうだったのか?ギョケンが参照した資料にもすでに存在していたとすれば、原資料もいわゆる海里で書かれていた可能性があります。ギョケンがはじめて書いたのなら、これは魏尺です。
 もちろん、原資料がいわゆる海里だったとしても、陳寿もギョケンも魏尺で考えている。

>>  それから、私の判断は、萬二千餘里が机上の考証でジェネレートされた数値であるという想定です。

 もちろんこれも分からなくはありません。

>> 萬二千餘里を実測した人物がいたという想定は、結局は倭人伝の原文を「錯誤」として斥けることに行着きます。

 錯誤がなかったとは言い切れない。邪馬台国論争になかなか決着が付かないのも、倭人伝そのものの中に錯誤があるからではないかと思います。問題は、どこが?なんですが、千五百里と日数表記が果して同じ物を指していて、表現を変えただけなのかどうか?

> その「改訂」の程度が、果たして来日した異邦人の方位感覚に一時的な狂いが生じたという想定による「改訂」より大幅であるのか/小幅であるのか;ということなのですが、冷静に判断して如何ですか?

 質問の主旨を掴み兼ねますが、女王国への方位は間違っていないと思います。本来は女王国≠邪馬台国なのに、=で結び付けてしまったために生じた齟齬があるのではないか?と考えているのです。

 では、昼御飯をば。


178

Re: Titleまたまたまた問う。

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [2月11日(金)19時54分43秒]

元の発言 [ Titleまたまたまた問う。 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月11日(金)02時33分46秒 ]

>> 問い1 なぜ本国から直接諸国を検察せず、伊都國に役所を構えたのでしょうか
>> 問い2 倭國の王は共立された存在。さて、諸國が畏憚するような役人を派遣するような強権政治をできるのでしょうか?
#中華冊封体制下にあって、対中華代表権を巡る争いが所謂「倭大乱」であり、
#玄海灘沿岸vs有明海沿岸の争いでもあった。
#結果的に、有明海沿岸の邪馬台国主導で纏まり、それまで対中華代表を出していた玄海灘沿岸のクニを監視する必要があった。


179

Re: Titleまたまたまた問う。

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [2月11日(金)20時16分12秒]

元の発言 [ Re: Titleまたまたまた問う。 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 2月11日(金)19時54分43秒 ]

>> 玄海灘沿岸vs有明海沿岸の争い
>> #結果的に、有明海沿岸の邪馬台国主導で纏まり、それまで対中華代表を出していた玄海灘沿岸のクニを監視する必要があった。

#「玄海灘諸国=外様」説に一票ということでokですか?



18

Re: 古富波山古墳から

投稿者[ kouji ] 発言日時 [2月2日(水)17時07分37秒]

元の発言 [ Re: 古富波山古墳から ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月2日(水)13時35分21秒 ]

おにりんさん、こんにちは。

>> >>  小字ナシメという所に東田大塚があります。

>> この小字ナシメって、難升米ですかね。
>> #ちょっとやりすぎか?

 そう言えば、誰かそんなことを言っていた人がいたような....
#東田大塚から「魏率善中郎將」の銀印が出たりして。


180

Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ)

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [2月11日(金)21時03分30秒]

元の発言 [ Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月10日(木)23時53分05秒 ]

>> ぼくのイメージでは、畿内説をとった場合の投馬國の
>> 比定地はやはり出雲もしくは吉備だと思うのですが。
>> ただ、それなら、なぜ片方しか出てこないのか?
>> 吉備、出雲のどちらも畿内にとっては大きな関係の
>> ある国だと思うのです。

#ん! これは一本とられた。
出雲の位置付けについては宿題にさせていただきます。

 ところで話しを戻すと、やはり投馬國の位置については、これを「北」にしないのは原文改訂に当ると言えるはずですが、この点は如何ですか。


182

Re: そこまでですか!終結します。

投稿者[ 心は愛知県人 ] 発言日時 [2月11日(金)22時14分10秒]

元の発言 [ Re: ここは「古代のロマン:大論争」 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月11日(金)18時32分14秒 ]

鳥取県の人口が最新調査('95年)で61万5千人です。邪馬台国の7万戸が正しいとすると45万5千人。もちろん「面積が違う」との反論もあるでしょうが、それには「時代が違う」とお答えしたい。

そもそも環状集落は無くなっても、集落がなくなった訳もありません。まさかテント生活でもあるますまい、非邪馬台国の民は。それとも東遷説が正しくて、非邪馬台国の民は全て東国に追いやられ、纏向の王族以外は誰も住まない無人の荒野となったのでしょうかね。

これで貴方との論争は終結します。


185

Re: 告示 (福島氏の発言について)

投稿者[ 福島雅彦 ] 発言日時 [2月12日(土)00時05分37秒]

元の発言 [ 告示 (福島氏の発言について) ] お名前 [ 管理人 ] 日付 [ 2月11日(金)09時30分07秒 ]

>>  福島氏におかれましては
>> (1)貴殿の掲示板に、大論争自体を貶める趣旨の発言が掲載されております。

>> (2)貴殿の掲示板を含む複数の掲示板上で、大論争でおこなわれた議論に関して
>>    大論争で行われた議論と違う内容が報告されております。

>> (3)貴殿の掲示板に、大論争の参加者の人格を貶める発言があります。

>> 以上3点を確認しました。

>>  これらは、大論争に参加していない第三者に悪印象を植え付けるものであり、また信義誠実に悖るものであります。
>>  残念ながら、大論争の趣旨を根本的にご理解いただけないものと認め、当所の「不毛」な議論に関与されぬよう、掲示板への参加をお控え戴く様お願い申し上げます。


大変、御無礼致しました。
貴『大論争』其の物を誹謗したり、賤しめた積もりでは有りませんでしたが、管理人様に御不興を買った上は、是非も有りません。潔く退場致します。大変御世話に成りました。皆様の実り有る論争の御発展を祈念致します。
御機嫌よう!



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Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ)

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [2月12日(土)00時15分43秒]

元の発言 [ Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月11日(金)21時03分30秒 ]

>> #ん! これは一本とられた。
>> 出雲の位置付けについては宿題にさせていただきます。

わ、ありがとうございます。出雲はどうしても気になる
存在なので。

>>  ところで話しを戻すと、やはり投馬國の位置については、これを「北」にしないのは原文改訂に当ると言えるはずですが、この点は如何ですか。

ですから、行っていない国で、水行二十日かかる土地で
北から西へ船で進んでそれから南へという話なので、
現在の地図からみれば、南の端なのですが、彼らには
わからなかった。

これは原文改訂とは少し違うんですよ。




187

Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ)

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [2月12日(土)01時32分23秒]

元の発言 [ Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月12日(土)00時15分43秒 ]

>> ですから、
>> 行っていない国で、←《yaohideさんの推理》
>> 水行二十日かかる土地で ←《史料上の事実》
>> 北から西へ船で進んでそれから南へという話なので、←《yaohideさんの推理》
>> 現在の地図からみれば、南の端なのですが、彼らには ←《yaohideさんの推理》
>> わからなかった。 ←《yaohideさんの推理》

#対するに
「女王國以北」 ←《史料上の事実》
#ね? やっぱり原文改訂に当るでしょう。

それでは
○航路が放射式だから、2つの終点のどちらが南か「わからなかった」
  ということなら
●史料の上で実際は、どちらが南でどちらが北かを記載できている
  ならば
∴航路は放射式ではない
  ということになりませんか?


188

Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ)

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [2月12日(土)08時20分42秒]

元の発言 [ Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月12日(土)01時32分23秒 ]

>> #対するに
>> 「女王國以北」 ←《史料上の事実》
>> #ね? やっぱり原文改訂に当るでしょう。
???
そうかなー?まあ、彼らが行ってないと勝手に判断してる
わけだから。


>> それでは
>> ○航路が放射式だから、2つの終点のどちらが南か「わからなかった」
>>   ということなら
>> ●史料の上で実際は、どちらが南でどちらが北かを記載できている
>>   ならば
>> ∴航路は放射式ではない
>>   ということになりませんか?

それはないでしょう。
国がさいの目のように正確に並んでいると考えるのには
無理がある。
たとえば、上を北にして

  c 
xxyyyy
xxxxbyy
aaaabby
aaabbbb
aabbbbb
zzbbbbb
のように領地があった場合
c地点から出発するとして
どちらもcよりは南だし
xを通らなければaに行けない。
同じことがbにも言える。
これで、aはbの南なのか
北なのか。



189

Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ)

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [2月12日(土)08時39分36秒]

元の発言 [ Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月12日(土)08時20分42秒 ]

>> >> それでは
>> >> ○航路が放射式だから、2つの終点のどちらが南か「わからなかった」
>> >>   ということなら
>> >> ●史料の上で実際は、どちらが南でどちらが北かを記載できている
>> >>   ならば
>> >> ∴航路は放射式ではない
>> >>   ということになりませんか?

>> それはないでしょう。
>> 国がさいの目のように正確に並んでいると考えるのには
>> 無理がある。

#べつの、そういう想定はしていません。
 当時の「○○至××…」という書き方は、ふつう郡治や国邑(いわば首都)どうしの方位と距離を書きますから、点と点の関係なんです。

 北と書いてあれば北にあると認識している=比較できた;ということでしょう。

 比較不能に違いない《推理》から、北と書いてある《史料上事実》けれど、南にあってもよい《結論》というのは、やっぱり原文無視でしかないですよ。


19

Re: Title関東の東海土器

投稿者[ 池ちゃん ] 発言日時 [2月2日(水)19時25分01秒]

元の発言 [ Re: Title関東の東海土器 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月2日(水)13時00分34秒 ]

 ALEXさん、当世奇妙さん、おにりんさん、
こんばんわ。
 質問です。

#現地土器と、東海の土器の融合は見られませんか?
九州についても同じ疑問があります。
庄内式土器が九州にも広がっているのはわかりますが、もともとあった現地の土器と何故融合しないのでしょうか?
両方の特徴を備えた土器は見つかってないのでしょうか?

#畿内か九州かは置いといてもらって、桓帝・霊帝の時代の動乱や、気候的な事情によっての移住は考えられませんか?
 
 
 



190

Re: Titleたまたま答える。

投稿者[ 池ちゃん ] 発言日時 [2月12日(土)10時30分27秒]

元の発言 [ Re: Titleまたまたまた問う。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月11日(金)23時15分01秒 ]

>> #中華冊封体制下にあって、対中華代表権を巡る争いが所謂「倭大乱」であり、
>> #玄海灘沿岸vs有明海沿岸の争いでもあった。
>> #結果的に、有明海沿岸の邪馬台国主導で纏まり、それまで対中華代表を出していた玄海灘沿岸のクニを監視する必要があった。

>>
>>
#西日本全体を巻き込んだ戦乱だったと思います。

>>
>>
#戦乱の根本は飢餓でしょう。人口の増加と寒冷期による
食料の不足が本州を中心に起きて、それが戦乱につながった。九州はそのあおりを食ったのではないでしょうか?
 これにより流民が発生し、畿内の土器と共に九州に流れ込んだと考えています。




191

Re: Titleたまたま答える(追加)。

投稿者[ 池ちゃん ] 発言日時 [2月12日(土)10時40分32秒]

元の発言 [ Re: Titleたまたま答える。 ] お名前 [ 池ちゃん ] 日付 [ 2月12日(土)10時30分27秒 ]

#畿内から九州に流れ込んだということは、
平和な時代には、交易関係にあったか。血のつながりがあったか。はたまた両方か。
 いずれにしても、何らかのツテがあったのでしょう。


194

Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ)

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [2月12日(土)13時19分38秒]

元の発言 [ Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月12日(土)12時30分21秒 ]

>>
>>
>>
ALEXさん、いつもどうもです。
おにりんさん、どうも。
はー、ぼくはあまり本を読んでいないので知らないの
ですが、そういう人もいるんですね。
これは、僕もずっと前に書いたんですが、イメージという
のがあると思うのです。
まして、正確な地図が無い時代ですから、苦しい解釈に
みえますが、あり得る話だとは思います。
まあ、彼らが直接行ってたら全然違うのはわかるかも
しれませんが、それでも現代でも道に迷うときという
のは、方向がわからなくなったときでしょう。
北に進んでいるつもりが、実は南に向かっていたという
ことは多々あることだから。
方向と距離がかならずしも一致しないことはあると。
これはやっぱ改訂かな....???




195

Title:論文館「その2」

投稿者[ 心は愛知県人 ] 発言日時 [2月12日(土)15時18分00秒]

澄んだ瞳シリーズ:対馬海流1−2を掲載しました。


196

Re: Titleたまたま答える。

投稿者[ 池ちゃん ] 発言日時 [2月12日(土)19時49分37秒]

元の発言 [ Re: Titleたまたま答える。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月12日(土)11時56分43秒 ]

おにりんさん、こんばんわ
>>
>>
>>
#買ってません。今のところ、ポップスに飽きると
「R・B」の音楽を車で聞いています。個人的に
「R・B」はゲームより音楽のほうが好きなので。
(いい、お話ではありますが、音楽ほどインパクトがないように思うのです。これも個人的な意見ですが。)

#「フィルスノーン」やりたいんだけど、DCのゾンビ達がやらせてくれないの(T.T)グスン・・・(^^;。
**************************************************

>> #西日本全体を巻き込んだ戦乱だったと思います。

>>
>>
#そうですね。ただし、条件付です。関東は関東でも、北陸に近いほうです。今で言う群馬のあたり。この辺にも高地性集落があります(もっともこれは、3世紀中ごろのものです。「桓帝・霊帝の時代の倭の戦乱」とは時期がずれますが、戦乱の起こる下地はあったと思う)。

>> #戦乱の根本は飢餓でしょう。人口の増加と寒冷期による
>> 食料の不足が本州を中心に起きて、それが戦乱につながった。九州はそのあおりを食ったのではないでしょうか?
>>  これにより流民が発生し、畿内の土器と共に九州に流れ込んだと考えています。

>>
>>
>>
>>
>>
#以前にもお話しましたが、30国全て九州島に入ります。庄内式土器の流入は畿内説の根拠ともなり得ますが、倭国の大乱で勢力が細分化されていたと考えれば、九州説の根拠ともなるのです。




197

Re: Titleまたまたまた問う。

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [2月12日(土)21時55分35秒]

元の発言 [ Re: Titleまたまたまた問う。 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月11日(金)20時16分12秒 ]

>> #「玄海灘諸国=外様」説に一票ということでokですか?
#関ケ原があったわけでも、統一されて幕府が出来たわけでもないので「外様」はどうでしょう。
#伊都国が“一女子”共立メンバーで、奴国が「武装解除」されたかも知れませんが。
#「普代」とか「外様」とは、“外”の“様”におもいますが。§^。^§


198

Re: Titleまたまたまた問う。

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [2月12日(土)22時06分34秒]

元の発言 [ Re: Titleまたまたまた問う。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月11日(金)23時15分01秒 ]

おにりんさん、こんばんは。

>>
>>
#どうみても、大和説が前提でしょう。

>>
#「かってに」と言ういい方は、何所かに中心を求めなければ収まらない一元史観です。
#新発見のたびに右往左往するのは止めて、自分自身の史観を持ちませんか。
#古くから中華王朝と直接交流していた九州の勢力には、近畿に一女子を共立する必要はありません。



199

Re: Titleたまたま答える。

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [2月12日(土)22時27分36秒]

元の発言 [ Re: Titleたまたま答える。 ] お名前 [ 池ちゃん ] 日付 [ 2月12日(土)19時49分37秒 ]

おにりんさん、池ちゃんさん、こんばんは。

>> #以前にもお話しましたが、30国全て九州島に入ります。庄内式土器の流入は畿内説の根拠ともなり得ますが、倭国の大乱で勢力が細分化されていたと考えれば、九州説の根拠ともなるのです。
#近畿の分家が、九州の本家を頼って来たと言う仮説は以前レスしましたネ。
#そのまま留まった者は、交易で食料を手に入れたかも知れませんよ。
#その場合、熱効率のよい庄内式土器は良い産品かも、
#九州の土器が大和に搬入されなくて、吉野ヶ里に(大和系)庄内式土器が廃棄されている理由になるんじゃないかな?
#外に近畿の産品ってありましたっけ、そうだ!三角縁鏡を忘れちゃいけない。(^o^)


2

Re: Title九州に東海土器

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [2月1日(火)20時29分16秒]

元の発言 [ Title九州に東海土器:オヤジッチ殿への ] お名前 [ 当世奇妙 ] 日付 [ 2月1日(火)08時32分21秒 ]

当世さん、こんばんは。

#了解しました。

>> 東海のS字甕が佐賀平野と福岡で庄内式平行時期に出ているとのことです。
#「吉野ヶ里」から出てないのは確かですが、1月号に載せた二個のS字口縁壺は、佐賀平野のに含まれているんでしょうネ。
#福岡平野のを探してみましょう。

>> 出典は「弥生時代の考古学」です。九州に行った時に現物を見たいですね。
>> その前のページで石野氏が纏向では最初九州の土器が無いとされていたが、最近かなり
>> 北九州の土器があると言う説がある。南九州の土器は1点だが明らかにあると発言
>> しています。土器の移動の意味するところはまた論争が必要ですね。
#当世さんが言われたように、祭祀土器で無いものは交易による移動と思います。
#それと、土器製造は専門職人によるものだと思いますので、職人の移動による可能性があるのでは?
#土師器のように、それまでの土器より軽く、火の通りがよいものを作れる職人であれば何所へ行っても歓迎され、一つの村が彼の製品に全て置換わっても可笑しくは無いでしょう。


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Re:九州の東海式土器

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [2月2日(水)22時22分53秒]

元の発言 [ Re: Title関東の東海土器 ] お名前 [ 池ちゃん ] 日付 [ 2月2日(水)19時25分01秒 ]

>>  ALEXさん、当世奇妙さん、おにりんさん、池ちゃんさん、こんばんは。

#スレッドの件を補足します。
#村中角遺跡(佐賀県諸富町)から、東海の山中式中期に初源を持つとされる、口縁部に棒状浮紋が付されたパレス壺が出土していました。

>> 庄内式土器が九州にも広がっているのはわかりますが、もともとあった現地の土器と何故融合しないのでしょうか?
>> 両方の特徴を備えた土器は見つかってないのでしょうか?
>> >> 庄内式期の土器そのものが、大和の中では、纏向なんて
>> >> いう、辺鄙なところあたりから出てきたっていうか。
#北部九州では、柏田式などが確認される以前に、西新式とそれに続く最古式土師器を庄内式土器と言っていたようです。
#庄内式土器と庄内式期土器を混同してはいかんです。

#ALEXさん、
#殆どの土器が庄内式だとされている遺跡名を教えて下さい。
#確認してみます。
#また、
#庄内式土器と西新(新)〜柏田式土器の区別は何所にあるんでしょう。
#西新式は、庄内式の技法と違いがありますでしょうか。
#教えて下さい。


200

Re: またまた(ーー;)

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [2月12日(土)22時46分09秒]

元の発言 [ Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月12日(土)12時30分21秒 ]

同じく、すいません、ちょっと割り込みますが、

#伊都国(平原)から奴国(須玖岡本)は、正に東南ですってば!


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随分深くなったので 水行十日陸行一月について

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [2月13日(日)00時27分00秒]

水行十日陸行一月ですが、うちの留学生にこの文を見せたら、AND説でした。
しかし、前後の文を見せてくれと言われて、全文見せたところ、これは
どちらとも取れるということです。
「古代の中国の漢文は簡単です。一つの文字にいろいろな意味があります。
ですから、この文章は難しい。水行の後陸行したともとれるし、船なら
十日、馬なら一月みたいな意味もとれます。」
ということで、残念ながら、正解はわかりませんでした。



203

二つの倭

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [2月13日(日)00時41分30秒]

ぼくがどうしても気になるのは、半島において、二つの倭?の存在が混同されて
その結果訳がわかりにくくなっているのではないかということです。

公孫氏の話が出てきますが、たしか公孫淵が死んでから魏に卑弥呼が使いを
出していませんか?違ったっけ?
公孫氏と外交があったのは、九州勢力と近畿勢力(出雲を含む)どちらも
あったんではないでしょうか。

そう考えないと、瀬戸内や玄界灘の制海権を近畿勢力はいつ頃から持っていた
のだろうとなると、随分時代が古い方へ向かって行かなくてはいけないと思うのです。
それでは、九州の中国との古い交流の話がおかしくなってくるのではないでしょうか。

瀬戸内を制した吉備(僕は、吉備勢力が畿内を目指したと考えています)が、
玄界灘を自由に航行できるようになるには、九州勢力の力が落ちてこない限り
難しいと思います。
卑弥呼の死後、戦乱となった九州を目指した吉備が、邪馬台国の残党と組んで
畿内に国を作ったと勝手に思っているのですが。

というわけで、二つの倭国があったほうが、わかりやすくないですか?



21

Re: 古冨波山古墳から

投稿者[ 飛んだハヤシライス ] 発言日時 [2月2日(水)22時33分50秒]

元の発言 [ Re: 古富波山古墳から ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 2月2日(水)12時53分06秒 ]

koujiさま、こんばんは。喜ぶのはまだ早いですぞ〜。(^○^)
当世おぢさま、こんばんは。哀しむのはまだ早いですぞ〜。(^^ゞ

 むしろわたくしは慶賀すべきことと思っています。黒糖「珊瑚」で気持ちよくなっているので、先に見通しを書いてしまいましょう。ちょっと乱暴ですけれど。その前に、古富波山は古冨波山のマチガイでした。富ではなく冨でした。m(__)m

 さて、現状の大和の出土状況では、当世さんのおっしゃるように、
>*「弥生時代の考古学」1998年出版で石野氏が
>庄内式土器と三角縁神獣鏡が一緒に出た例は一つも
>無いと数回強調していました。

このとおりでしょう。でも、大和以外で庄内期のお墓から三角縁神獣鏡が出たという事は、三角縁神獣鏡は、大和に入る前にすでに日本列島に入っていた事を意味します。そして、布留期に大和へ入ったことを意味しております。布留期の上限は溯っても260年でしょう。これもあくまでも寺沢氏の言う上限を取った上での話です。「銅鏡百枚」が、もたらされたのが240年ですよね。これから布留0年まで、三角縁神獣鏡が大和へ入っていないと言う事は、三角縁神獣鏡は「銅鏡百枚」ではないと言う事になります。 また、三角縁神獣鏡は大和に(あるいは近畿に)厚く、日本列島各地から出土していますが、その現象も布留期以降からという事になります。つまり、女王卑弥呼の時代からは、二十年以上の年代差がある事になります。
 つまり、三角縁神獣鏡は「銅鏡百枚」ではないし、箸墓が卑弥呼の墓だとしたら年代が合いません。
 またが日本列島に勢力を伸ばしはじめたのも、布留以降と言う事になります。

(koujiさん)
>庄内期のうちに大量の三角縁神獣鏡が作成されている。

 いや、これは必ずしも言いきれないでしょう。少なくとも、形態分類としての第三段階までは、庄内期のうちに出現したという事だと思いますよ。

>製作時期が重なると考えられる消耗品である土器の分布も同じような傾向を示しているとすれば、もはや確定的ではないでしょうか。

 いいえぇ、大和から出ていない事が重要なのではないでしょうか?(^○^)
もっとも、いまのところ中山大塚は庄内期と考えてよいかと思いますが、ご承知のように盗掘に遭っています。2.5x2.0cm余りの破片と鏡縁部を検出したのみです。これほど、細かく拾っているのですから、やっぱり三角縁神獣鏡は出なかったと考えてもよいと思いますが、まあ、完鏡のまま盗掘されていればもちろん破片も残りません。だから、なかったとは断言できないでしょう。あったとも言えません。

>。三角縁神獣鏡の起点はいずれにせよ240年頃ですから、寺澤編年で庄内期も残すところあと20年〜40年ぐらいといったところです。大体一世代か長く見ても二世代。この間に大和で営まれた三角縁神獣鏡を副葬するような首長墓がどのくらいあるのでしょうか。大した数ではないですよね?

 古墳そのものは、布留以前からあるわけですから、ご指摘の年代に全くないわけではないでしょうし、三角縁神獣鏡が大和に入っていれば、盗掘に遭っても、たとえば割れたりしたものとかの破片が残っていますよね。桜井茶臼山のように。

>残る、纏向勝山・矢塚、東田大塚あたりに何が入っているのか、順次調査がおこなわれているようですから、この辺も楽しみですね。

 勝山は昨年の初夏に行った時は、後円部の竹薮が取り払われていました。近いうちにまた行ってみましょう。 
 まずはホケノ山ですネ。(^○^)


210

Re: 水行十日陸行一月について

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [2月13日(日)02時22分43秒]

元の発言 [ Re: 随分深くなったので 水行十日陸行一月について ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月13日(日)01時06分39秒 ]

>> ALEXさんあたりは、類例をご存知ないですかね?

# 山海經東山經に「又南水行三百里、流沙百里、曰北姑射之山」ほか数例あって、これらが直線かつAND式記載と確認できる例です。時代的にも近いでしょう。

 ORで読む同じ構文は知りません。
あえて言えば
舊唐書地理志安南府驩州「至京師陸路一萬二千四百五十二里、水路一萬七千里」
が似ていますが、「陸路」「水路」では相当意味が違います。「路」という文字じたいに「行き方」という意味がありますから、これはORで読むのが自然です。同じ陸路なら「北路」「南路」という言いまわしは良く見かけますが、当然ORです。それに千年ちかく後の文章ですから、類例としては採用できないでしょう。



211

Re: 二つの倭

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [2月13日(日)02時25分13秒]

元の発言 [ Re: 二つの倭 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月13日(日)00時52分32秒 ]

>>
>>
今使譯所通三十國ですから。30はありますが
そう言う意味ではない。大きく分けて二つの勢力
があったのではないかと。

すべての窓口が一大率ですか?





212

Re: 追伸

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [2月13日(日)02時54分26秒]

元の発言 [ Re: 追伸 ] お名前 [ 慈源 ] 日付 [ 2月11日(金)12時14分10秒 ]

慈源さん、こんにちは。

>> >> 1「女王國!=邪馬台国」という想定
>> これは「女王国≠邪馬台国」ですね?
#C風の書き方でして h(^0^)
>> >> 2「萬二千餘里を実測した人物がいた」という想定
>> >> これはロジックとして、どちらが先にあるのですか?

>> 1.です。
>> イ)倭人伝に登場する難升米以下遣使された人名と邪馬台国の官名が重複しない。
>> ロ)私の考える「銅鏡百枚」の分布から投馬国を九州島内に想定できない。(これは、おそらく大和説にとって「銅鏡百枚」を何と考え、その分布を考える時もまた投馬国の位置は想定できないような気がいたします)
>> ハ)先に書きましたが、女王国を主語とした書き方から判断すると大まかには北部九州を想定できる。
>> 二)もうひとつは、いまやっている里の問題。不弥国まではいわゆる海里で書かれている。万二千余里もまたいわゆる海里で書かれているとするならば、すべてがいわゆる海里で書かれていることになりますが、そうしますと日数表記と齟齬が生じる。
 これらの事から、女王国≠邪馬台国ではないか、という事です。


#とするとロジックとしては
1「女王國!=邪馬台国」の川上に
 ハ)女王国→「大まかには北部九州を想定」
 二)万二千余里→すべて「海里」

があり前提条件の一部を形成しているわけですね。

一方で
 2「萬二千餘里を実測した人物がいた」という想定

 1「女王國!=邪馬台国」よりも川下にあるわけですので、
この想定に可能性を限定しないで
 二)万二千余里→すべて「海里」
を求める必要が生じます。

ところが、萬二千餘里の実測を前提にしないで、二)万二千余里→すべて「海里」と合理的に推定できるでしょうか?これは不可能であると思います。

この点は如何ですか?


213

Re: たまたま答える&”付録”おたくな会話

投稿者[ 池ちゃん ] 発言日時 [2月13日(日)08時16分38秒]

元の発言 [ 関係ない方向のスレッドになるかもー。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月13日(日)01時04分20秒 ]

おにりんさん、おはようございます。

**************************************************
>>
#痕、東鳩はわかるけど・・・”1”と”正規”???

>>
>>
#音楽は毎回いいですね。ただ、個人的には
”ビジュアルノベルシリーズ”からゲームとしての質が落ちていってるような気がします(厳密には”一文字シリーズ”以降)。”一文字シリーズ”の時にような意気込みで
何か出して欲しいですね・・・でも、CDはほしいです。

>>
>>
#綺麗な絵が基本的にはすきなのですが、ゲームは全般的にすきなので、濃かろうが薄かろうが評判さえよければ、手を出しますね。ストーリー重視派なのでストーリー的に面白くなければ、すぐに止めます。
 だから仮に、ゲームを最後までやっても、ストーリー的に納得いかないような作品は「くそゲー」になります。
例えば「FF7・8」ですね。

*************************************************

>> #以前にもお話しましたが、30国全て九州島に入ります。庄内式土器の流入は畿内説の根拠ともなり得ますが、倭国の大乱で勢力が細分化されていたと考えれば、九州説の根拠ともなるのです。

>>
#はい、そうです。

>>
#そうですが?

>>
#???
 卑弥呼のいた時代は九州北部にあって、台代の西晋朝貢のときは、畿内です(マキムク)。
 魏志倭人伝に言う
女王国の東、海を渡ること千余里、また国があり、みな倭種である。

の”倭種”が畿内にあったクニの勢力圏のことで、台代の時代になってからこの方向にに移動してマキムクに至った・・・というのが私の東遷説です。
 他の東遷説と違うのは、この東遷が相当前の時代から
”段階的に”行われていたということです。





215

当在と参問

投稿者[ 慈源 ] 発言日時 [2月13日(日)12時15分55秒]

元の発言 [ Re: 追伸 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月13日(日)02時54分26秒 ]

 ALEXさん、こんにちは。

>> #とするとロジックとしては
>> 1「女王國!=邪馬台国」の川上に
>>  ハ)女王国→「大まかには北部九州を想定」
>>  二)万二千余里→すべて「海里」

>> があり前提条件の一部を形成しているわけですね。
 
 ニ)はあくまでも、そのように解することができる、という事です。そのように解せば、イ)ロ)ハ)が指し示すと私が考えている女王国≠邪馬台国の考え方と矛盾しないと思います。

>>  二)万二千余里→すべて「海里」
>> を求める必要が生じます。

>> ところが、萬二千餘里の実測を前提にしないで、二)万二千余里→すべて「海里」と合理的に推定できるでしょうか?これは不可能であると思います。

 ご指摘の通りです。原資料が果してどちらかであったのか?次の倭人伝中の二文から迂遠ですが考えてみます。

1.>計其道里當在會稽東冶之東
(その道里を計るに、当に会稽の東冶の東にあるべし)
2.>参問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里
(倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周旋五千余里ばかりなり)

 いずれも、推量を示す文章だろうと思います。魏略逸文にも見られない。ともに推量したのは誰か?私は陳寿だと思います。なぜ、このように推量したのか、それはあらかじめ「万二千余里」が与えられていたからでしょう。狗邪韓国までの七千里に周旋五千余里を加えたものが「万二千余里」ではない。逆だと思います。「万二千余里」から狗邪韓国までの七千里を差し引いたものが五千里。この五千里について考えを廻らせたとき、上記1.2.の推量が陳寿によって導かれた。
 つまり、陳寿の前には、まず「万二千余里」があった。2.に、七千里を加えて「万二千余里」になったのではないという事です。
 もちろん、ここでも元々の「万二千余里」が魏尺であったのか、いわゆる海里であったのかの判断は付きませんが、不弥国までを記した第一次記録者が、女王国まで行ったか、あるいはたとえば伊都国でおおよその距離を聞き取った可能性はあると思うのです。
「うーん、どぎゃんでしょうかねえ。そうねえ。伊都から末盧を通って一大まで行くぐらいの距離じゃなかろかねぇ」
 なあんて。ちょっとC調?

 ALEXさんが、当初から魏尺であったとお考えになる理由は何でしょうか?

 では、昼御飯をば。(^o^)


216

Re: Titleまたまたまた問う。

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [2月13日(日)18時21分36秒]

元の発言 [ Re: Titleまたまたまた問う。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月13日(日)00時55分45秒 ]

こんばんは、にはちょっと早いか。

>>
>>
#中華王朝の権威衰退と、狗奴国との争い、韓半島の経営失敗で国力が落ちてきたため、大和の似非神鏡に惑わされたのでしょう。
#とどめは、大和が出雲、吉備辺りの鉄生産を抑えたから。



217

Re: 二つの倭

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [2月13日(日)18時40分40秒]

元の発言 [ Re: 二つの倭 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月13日(日)00時52分32秒 ]

こんばんは。

>>
いろいろな考え方がありましょうが、文化的、経済圏的に一つと見るのが正しいでしょう。
>>
#庄内式期の纏向への搬入土器には、西瀬戸内から南関東までのものがありますが、北部九州のものはありません。
#布留式甕は、庄内式甕(←庄内式土器の標識)からは生じ得ないと言うことはどうします。
#反応が無いのでここでもう一度、奴国は博多ではありません(波打ち際だ)、春日丘陵部で、平原の“東南”です。




218

Re: またまた(ーー;)

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [2月13日(日)19時40分41秒]

元の発言 [ Re: またまた(ーー;) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月13日(日)00時30分40秒 ]

こんばんは。
ここを見ずに、下の方にレスしちゃって失礼しました。

>> #伊都国(平原)から奴国(須玖岡本)は、正に東南ですってば!
>>
>>
#一般的には、春日丘陵を奴国の中心といいます。
#そもそも、博多という地名をどう考えてます?
#福岡市博多区ですか、博多駅周辺ですか、中州と御供所川の間でしょうか。
#何れにしろ、三世紀前後は干潟と砂浜です。

>>
#前原は市ですか、前原市の北端は志摩町ですが半島なのでその北端からは東南になりますが、トウナンだ。

>>
>>
#末盧国は、壱岐から見える最短の場所、呼子です。

>>
#庄内ドキ(時期)を厳密に規定する人の言とも思われんです。(^o^)



219

Re: 当在と参問

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [2月13日(日)22時54分36秒]

元の発言 [ 当在と参問 ] お名前 [ 慈源 ] 日付 [ 2月13日(日)12時15分55秒 ]

慈源 さん、こんばんは。

>> つまり、陳寿の前には、まず「万二千余里」があった。2.に、七千里を加えて「万二千余里」になったのではないという事です。

#翰苑註に「魏略曰:自帯方至女國萬二千餘里」とありますから、陳寿の前にまず「万二千余里」があったのは事実であろうかと思います。
 「周旋可五千餘里」に、七千里を加えて「万二千余里」になった…という主張はあまり説得力がないように思います。ただ、これは本題とあまり関係ないですね。


>> 不弥国までを記した第一次記録者が、女王国まで行ったか、あるいはたとえば伊都国でおおよその距離を聞き取った可能性はあると思うのです。

#ということは、その時点で帯方〜不弥の各距離は判明し;記録されていた;という設定ですね。ところがそれに、新たに聞き取られた距離が加算されて「万二千余里」が得られたとすると、何故その「聞き取られた距離」が記録から消え、代わりに女王国までの「所要日数」が残るのでしょうか?不可解であります。


>>  ALEXさんが、当初から魏尺であったとお考えになる理由は何でしょうか?

#いや別に、そのようなことは考えておりません。私の見解は、「女王所都までの里数は誰も実測していない」ということです。私はただ、京兆の人がすべてを「正式の里」で考えると言っているまでです。
 もちろん、当時の中国人が使用する距離の単位は「正式の里」しかないと考えていると言う意味では「当初から魏尺」と言えなくもありませんが。


22

それは、九州説の人に聞くことではないのでは?

投稿者[ ノッピン ] 発言日時 [2月2日(水)23時02分33秒]

元の発言 [ 日本海沿岸から近畿までのの経路について、再投稿です(1月31日だったから) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月2日(水)02時46分46秒 ]

>>
おにりんさんが、なぜ邪馬台国と公孫氏が関係していたと
言っていたのか、疑問に思っていましたが、三国志の韓伝
に記載されている倭が公孫氏に属していると書かれている
ことを根拠とされていたのですか。

韓伝の倭は、韓と境を接していると書かれていますので、
これは、倭人の条に書かれている卑弥呼が都した邪馬台国
が属する倭の国々どの国でもない倭ですよね。

と言う事は、邪馬台国と公孫氏は、何の関係も無いと言う
ことではないのですか。




225

Re: 二つの倭

投稿者[ マルガリータ ] 発言日時 [2月14日(月)10時49分03秒]

元の発言 [ Re: 二つの倭 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 2月13日(日)18時40分40秒 ]

オヤジッチさん、ご無沙汰、でもないか(^0^)

1:奴国が博多ではなく、「福岡」という可能性はありませんか?
2:関西から3世紀半ばの遺跡が出土している所をご存じですか?


226

Title投馬國はいづこ(承前)

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [2月14日(月)11時27分05秒]

yaohide さん、こんにちは。

>> これは、僕もずっと前に書いたんですが、イメージという
>> のがあると思うのです。
>> まして、正確な地図が無い時代です《中略》
>> 北に進んでいるつもりが、実は南に向かっていたという
>> ことは多々あることだから。
>> 方向と距離がかならずしも一致しないことはあると。

#それは実際あることです。おおまかな地理感が間違っていると、昇る朝日を見ていても方位を間違うことがあります。(実例)

 ただ、それを言うなら
「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月」
が実は「東」でも責められませんよ。

>> これはやっぱ改訂かな....???
#改訂ですよ。
 でも、「無牛馬」と書いてあっても、いるものはいるんですから、すべて改訂は悪というのは暴論でしょう。要は裏付けの有無です。

 まぁ、はっきりしたのは
「九州説は方位の記述に忠実だが、畿内説は改訂ばかり」
というスローガンが必ずしも事実でないということです。


227

Re: Titleまたまたまた問う。

投稿者[ ま さ ] 発言日時 [2月14日(月)12時36分31秒]

元の発言 [ Titleまたまたまた問う。 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月11日(金)02時33分46秒 ]

遅レスです。
ALEXさん、こんにちは。

>> 問い1 なぜ本国から直接諸国を検察せず、伊都國に役所を構えたのでしょうか
>> 1 仕事の毎にまいど本国から来るのは日数がかかるので
>> 2 伊都國王は抜け荷の前科があるから
>> 3 じつは一大率は伊都國王だから
>> 4 本国は宗教都市で、政治がらみの施設は置かないから
>> 5 本国は内陸で港がないので

1。郡使が来るくらいですから、最大の交易港だったのでは?
その意味では一大率=中国人説にも高い可能性をみています。

>> 問い2 倭國の王は共立された存在。さて、諸國が畏憚するような役人を派遣するような強権政治をできるのでしょうか?
>> 1 いちど王になったら勝ちなので強権的なのは当たり前
>> 2 畏憚しているのは共立に参加していない外様国だけ
>> 3 畏憚はなんかの間違い
>> 4 一大率を置いたのは中国だ
>> 5 一橋大学卒業の学歴に敬意を表して畏憚している

5…なわけないでしょ!(誰もつっこまないので(笑))
1と4ですかね。


229

Re: 割り込んですみません>二つの倭

投稿者[ ま さ ] 発言日時 [2月14日(月)13時23分42秒]

元の発言 [ Re: 二つの倭 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 2月13日(日)18時40分40秒 ]

どうも。ま さです。

>> #反応が無いのでここでもう一度、奴国は博多ではありません(波打ち際だ)、春日丘陵部で、平原の“東南”です。

そうそう。意外とみなさんが「古代において沖積平野に人は住み難い」ことを知らないのは不思議。
津とはだいたい河口や入り江にあり、後背地に丘陵を持つところです。


231

Re: Titleまたまたまた問う。

投稿者[ ま さ ] 発言日時 [2月14日(月)13時34分56秒]

元の発言 [ Re: Titleまたまたまた問う。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月14日(月)13時20分17秒 ]

かなり後の話になりますが、「大和朝廷」が津司をあちこちに置いたとする見方があります。
東北大の高橋教授の説で、青森県十三湊の語源は遠長(とおおさ)なんてのもあります。


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