オヤジッチ殿へ
1月号で、九州に東海土器と石野氏が発言したとしましたが、福岡大の武末氏の発言でした。
手元に何時も資料がなく、今回もあるいは間違いがありかも(^0^)
東海のS字甕が佐賀平野と福岡で庄内式平行時期に出ているとのことです。
出典は「弥生時代の考古学」です。九州に行った時に現物を見たいですね。
その前のページで石野氏が纏向では最初九州の土器が無いとされていたが、最近かなり
北九州の土器があると言う説がある。南九州の土器は1点だが明らかにあると発言
しています。土器の移動の意味するところはまた論争が必要ですね。
元の発言 [ Re: 甘木じゃー(^_^)v ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月6日(日)19時38分20秒 ]
盟友:心愛どのになり代わって
>> >> 甘木じゃー(^_^)v
>> >> 大和まで行っていないって! 行っていたら箸墓を「大作家径百余歩」なんて素っ気なく記載しないどろうが。
>> #少なくとも、梯儁はそんなもん見ちょらんぞよ。
#原典を書いた誰かはいっちょるであろう。
>> ところで、現地を知らない人の単純な疑問。甘木って船でいくの?
#お主も現地を知っている川越でも舟を使っていたぞなもし、江戸時代に川道を変えてまで。マキムクでも運河があっちゃろう、墓参用の。
楽をしたい人は舟で行く、飛行機が怖い人は夜行で行く(^0^)
元の発言 [ Re: Title再度問う(2) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月7日(月)18時12分35秒 ]
>> >> 南北に海岸があるってことだから。
>> #これは何故そうなるのでしょうか?よくわからないのですが。
#南に陸行、水行出きるなら、そうでしょう。
元の発言 [ Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月7日(月)11時53分33秒 ]
ALEXさん、こんばんは。
>> 以上から其餘旁國の位置関係は不明確ながら、さきに列挙された對馬國〜投馬國の7国が「女王國以北」に該当することは明らかです。
>> 従って、可五萬餘戸の規模を有する投馬國は、少なくとも末盧國から見て邪馬壹國より手前にあるはずであります。
>> 問い1.投馬國はどこですか?
#宮崎県、西都市付近。
>> 問い2.その理由は以下のどれに該当しますか?
#E.投馬國は九州のイーストコースト、邪馬台国はウエストコースト(有明海)から陸行した、八女郡。
#やっぱ、八女たい。§^。^§
#庄内式土器のこと、いくらか解りましたが、なかなか面白いです。
#九州の勢力が河内に入った結果として生まれたのかも。?
#東遷か?神武東征か?奴国亡命か?
元の発言 [ Re: 古冨波山古墳から ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 2月7日(月)17時30分35秒 ]
koujiさん、こんばんは。
>紀年鏡といっても顔氏作と陳是作では分布がまったく違いますよね。
>しかしながら、顔氏作紀年鏡と陳是作紀年鏡では鏡式も年次も銘文も違います。燕の領域の鏡の系譜を引いているといえる長方形鈕孔ぐらいしか共通点がないといっていいのではないでしょうか。
>紀年鏡という括りで顔氏作鏡と結びつけて丹後での製作であると考えるのはあまりに根拠が薄弱だと思います。
ところがですね、安満宮山から、顔氏作青龍三年銘方格規矩鏡と三角縁神獣鏡2枚、斜縁神獣鏡1枚、それに年号は入ってませんが、陳是作半円方形帯同向式神獣鏡が共伴しています。
だから、顔氏と陳氏はまったく無関係だとも思えないんです。また、太田南5号墳のと安満宮山のとどちらが先か、オリジナルが別にあるのかも分かりません。陳氏が顔氏の鏡だけ持って渡来したのかもしれません。ですから、このあたりを論点にするつもりはありません。
ただ、先に書いたように丹後の周辺に、紀年鏡の4面が固まっている。これは偶然なのだろうか?これが発端です。もちろん、これらの紀年鏡は、陳氏が持って来た可能性もあると思っているのです。ですから、いずれ、たぶん朝鮮半島の北部から出土しないとも限らないという気はあります。
ひとつお聞きしたいのですが、景初三年、正始元年鏡の銘文で、
イ)絶地亡出
ロ)杜地工出、あるいは杜地所出
はどちらだと思いますか?
『古代を考える 邪馬台国』収載の笠野氏の論文に写しがありますが、これはやっぱりロ)でしょう。笠野氏は、杜氏が作り出したと解していますが、地はどうもどう見ても氏とも是とも読めない。で、最近考えているのですが、「杜」のつく地名はないのでしょうか?たぶん、朝鮮半島北部に。三世紀前半のころ、楽浪・帯方に「杜」と呼ばれる地域がなかったのでしょうか?
もしあったとすれば、そこから三角縁神獣鏡が出る可能性はあると思います。
>正始元年陳是作三角縁同向式神獣鏡 : 山口県・兵庫県・群馬県
これらは同型といわれています。だとすれば、オリジナルが別にもう一枚存在します。それを踏み返していることになります。そうではなく、上記三面の中に、オリジナルが存在し、それを踏み返した可能性だってあります。オリジナルは正始元年だと思いますが、踏み返しによって作成された鏡の製作時期を特定するのは難しい。
>1.「舶載」三角縁神獣鏡は本当に舶載鏡であり、倭國向けに作成された。倭國向け以外には大型鏡の注文がなかったので、中国国内向けには、小・中型の斜縁神獣鏡・画文帯神獣鏡を作っていた。
製作地はどこでしょうか?もっとも可能性のあるのは、楽浪・帯方と言った公孫氏の版図内ではないでしょうか?
>2.紀年鏡は魏鏡であり、倭國向けに作成された。倭國向け以外には大型鏡の注文がなかったので、中国国内向けには、小・中型の斜縁神獣鏡・画文帯神獣鏡を作っていた。彼等は布留0の時期に倭国に来て三角縁神獣鏡の量産をはじめた。
「彼等は…」以下はありうると思います。前段については、1.と同様の質問を発せざるを得ません。大和天神山の方格規矩鏡について新たに投稿しましたが、これと青龍三年方格規矩鏡ともやっぱり違う。
>3.「舶載」三角縁神獣鏡もすべて国産である。240年頃から生産が始まり庄内期にもさかんに製作されていた。240年頃から布留0までの間に死去した有力者がいなかったか、たまたま庄内期の古墳から発見されていないか、本当は発見されているんだけどそれと気づかれていないだけである。
これも必ずしも否定できません。ですが、
>240年頃から布留0までの間に死去した有力者がいなかったか
古墳そのものは作られています。古墳を築造させるのはやっぱり有力者でしょう。ただ、その時期のすべての古墳に三角縁神獣鏡が入ったのかどうかは難しいですネ。
>たまたま庄内期の古墳から発見されていないか、本当は発見されているんだけどそれと気づかれていないだけである。
可能性としてはあり得ると思います。もうすこしサンプルが欲しいところですネ。
>4.「舶載」三角縁神獣鏡もすべて国産である。240年頃から生産が始まった。遅くとも250年頃には布留0期に突入しているから、布留0期以降の古墳から出てくるのである。
布留0期をいつごろからとみるかですね。
>ほとんどの三角縁神獣鏡が布留0式以降の製作で、布留0式が260年かそれ以降だったら、紀年鏡はやっぱり魏鏡なんですよ。
う〜むっ。景初四年もですか?
鏡を作るのに、少なくともほぼ倍量の溶湯を必要とします。湯口から流し込んで湯道に溜まる青銅がありますよね。これは、再び溶かして使います。景初四年が存在しないことが分かれば再び溶かして青銅として再利用できます。それをしていないのですから、景初四年鏡は、改元に気付いていなかったか、気付いたとしてもその時はすでに製作者の手許にはなかったと考えるほうが自然だと思います。
元の発言 [ Re: Title再度問う(2) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月7日(月)17時29分06秒 ]
ALEXさん、こんばんは。
陳寿は、会稽東冶の東に女王国があると思っているのですから、倭人伝に記述された里が短里などとは思っていない、これは私もそう思います。
ただ、末盧国伊都国間五百里、伊都国奴国間百里、奴国不弥国間百里、奴国が春日、不弥国が宇美とした場合、単位はさて置くとして相対的な距離観としては、まあ当を得ているのではないか?
問題は、この記事の第一次記録者の考える一里がどのくらいの長さだったかではないのかな?と思っています。俗にいう短里が実際には存在しなかったのかどうか?楽浪、あるいは帯方に短里らしき例があればよいのですけど。
郡より女王国に至る万二千余里です。郡より邪馬台国まで万二千余里とは書いていませんよね。一万五百里で伊都国まで来ているのですし、上記の距離観から判断すれば、伊都国から女王国まではそれほど遠くないはずです。
陳寿がどう考えたかは別の問題のような気がします。
きょうから慈源。(^o^)
元の発言 [ Re: Title再度問う(2) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月7日(月)17時29分06秒 ]
>> では、どう考えるかというと、あと1500里と言われたら
>> 洛陽→長安の1.5倍と考えるのです。10日では不可能な距離です。
>> 従って、陳壽も張華も、or説で思考することは有り得ないわけです。
そうなんです。陳壽もあなたも同じように考えてしまった
のです。
魏使は虚偽の距離を報告してますね。
距離は信じない、しかし水行陸行の日数は信じるの
ですか?虫のいい話ですね。
僕は、魏使が本当に邪馬壹國に行ったのなら、同じように
遠くへ行ったように思わせたと思うし。また、行ってない
のなら、これもやっぱり遠くまで行ったと思わせると思
います。
陳壽は、邪馬壹國は遠くだと思ったかもしれませんが、
そんな事は問題じゃないのです。問題はどこにあったか
です。
元の発言 [ Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月7日(月)11時53分33秒 ]
>> さて、北部九州説は投馬國の位置の問題をいかに解釈しておられるのでしょうか?
これは大和説の方にもお聞きしたいところですネ。
>> 問い1.投馬國はどこですか?
私は、出雲だと思います。
橋本増吉大先生も出雲説でしたよね。
私の場合、女王国≠邪馬台国ですけど。
元の発言 [ Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月7日(月)17時52分13秒 ]
>> #OR説を除外してもしなくても、對馬國〜投馬國の7国が「女王國以北」に該当することは文脈上明らかです。船をこぎ出す方向がどちらであろうと、出発点の上空から南に頭を向けて見れば投馬國は「手前」にあるはずです。
こりゃ、また無理なことを。
地図はないといわれるわりに、今度は上空から南に頭を
向けろはないでしょう。
それでいながら、南を東と改訂するでしょ。じゃ南はど
うやって調べたのかな?
ちょっと通らないんじゃないでしょうか。
元の発言 [ 古富波山古墳から ] お名前 [ 飛んだハヤシライス ] 日付 [ 2月2日(水)01時14分14秒 ]
>> この古墳について、古墳辞典(東京堂)で調べてみました。
>> 径30m前後の円墳。墳高1.7m以上。周堀はなく、葺石、埴輪もない。石材もなく粘土槨と推定。
>> 墳丘基底部をなす第1次盛土層上面から多数の古式土師器が出土し、庄内期併行である事が判明。
*「弥生時代の考古学」1998年出版で石野氏が
庄内式土器と三角縁神獣鏡が一緒に出た例は一つも
無いと数回強調していました。
庄内期並行の古式土師器についてもう少し教えてください。宜しくおねがいします。
元の発言 [ Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月8日(火)00時25分21秒 ]
>> こりゃ、また無理なことを。
>> 地図はないといわれるわりに、今度は上空から南に頭を
>> 向けろはないでしょう。
#これはイメージの問題ですよ。私が「手前」と書いた意味を説明しただけの話しで、別に魏の人が飛行機で飛んだと言ってる訳じゃありません。
投馬國のほうが北と書いてあるのは、文章上の事実です。
もし”緯度を知らないはずだから、北だか南だかわからない。ゆえに南北の記載は信用しない”というのなら
”緯度がわからないから、放射式では、2つの終点のどちらが南か判別がつかなくなる。ということは、南北を記載できているということは、放射式ではない”と答えましょう。
それで結局、北を南と改訂するのですか?
元の発言 [ Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ 飛んだハヤシライス ] 日付 [ 2月8日(火)00時20分17秒 ]
>> >> 問い1.投馬國はどこですか?
>> 私は、出雲だと思います。
#ん〜 …
…南に水行しなくていいんですか?
…いいって意味ですよね。
つまり、二重写真説ということですね。
元の発言 [ Re: Title再度問う(2) ] お名前 [ 慈源 ] 日付 [ 2月8日(火)00時09分33秒 ]
慈源 さん、こんばんは。
>> 問題は、この記事の第一次記録者の考える一里がどのくらいの長さだったかではないのかな?と思っています。俗にいう短里が実際には存在しなかったのかどうか?楽浪、あるいは帯方に短里らしき例があればよいのですけど。
#韓傳の方4,000里が逆に例の7,000から求められた可能性を考えると、最後の1例が消える事になります。
>> 郡より女王国に至る万二千余里です。郡より邪馬台国まで万二千余里とは書いていませんよね。一万五百里で伊都国まで来ているのですし、上記の距離観から判断すれば、伊都国から女王国まではそれほど遠くないはずです。
>> 陳寿がどう考えたかは別の問題のような気がします。
#それは、万二千余里の数字を出した人間と、個々の距離を報告した人間を、暗黙のうちに同一だと仮定していませんか?でも、最初から女王國までの距離(里数)も判明していたら、日数などで表現するでしょうか?
やはり、倭人伝を読む以上、「陳壽がどういうつもりで書いたか」をまず理解し、最後にその理解が正しいのか、誤謬を含んでいるのか解明するのが順序かと思います。
記紀礼賛者はともかく、まともな畿内説論者は、最後に”仕方なく”「南」を「東」に改訂すると申し上げておきましょう。(ちょっと苦が笑い…)
元の発言 [ Re: Title再度問う(2) ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月8日(火)00時15分48秒 ]
>> そうなんです。陳壽もあなたも同じように考えてしまった
>> のです。
>> 魏使は虚偽の距離を報告してますね。
#そんなことは断定できませんよ。
山道や、リアス式海岸の沿岸航行で、実際そのような距離を進んできた(と理解していた)かもしれません。
或いは何らかの換算ミスがあるのか、或いは距離の測定方法が原理的に間違っていたのか。
>> 距離は信じない、しかし水行陸行の日数は信じるの
>> ですか?虫のいい話ですね。
#倭人伝に書いてある事;距離;を信じないんじゃないのですよ。「同じ比率で残りの1,500里を判断しよう」という学者の言う事を信じないだけです。
元の発言 [ Re: Title再度問う(2) ] お名前 [ akira2 ] 日付 [ 2月7日(月)20時20分39秒 ]
>> 南に陸行、水行出きるなら、そうでしょう。
#「南」に「水行」するというのは、南向きの航路を行くというだけのことで、「港から直ちに南方向に出港する」とまで言っているわけではありません。
それは「帶方東南大海之中」と言っても帶方郡の南東が海に面していないのと同じですし、錢唐江左岸(北向き)の町から「南」に「水行」する実例もあります。この例は、河口に出るまでには暫く東に「水行」しなければならないけれど、主たる航路が南向きなのです。
倭人伝の場合も、「南」に「水行」するというだけのことでは、出港地の特定の手がかりにはなりません。
>> 陳寿は、会稽東冶の東に女王国があると思っているのですから、倭人伝に記述された里が短里などとは思っていない、これは私もそう思います。
#それでは「水行十日、陸行一月」については、
基本的な共通理解として、
===========================
陳壽自身はこの文を
「水行十日 AND 陸行一月」のつもりで書いたのであり
張華ら読者も決して
「水行十日 OR 陸行一月」とは読まなかった
===========================
ということで宜しいですね。
それでは、
1.原資料には「水行十日、或陸行一月」とあったが、陳壽が訂正してしまった。
2.第一次記録者は「或」のつもりで書いたが、不明確な書き方だったので誤読した
ということになりますでしょう。
ところが、これらは今日見ることの出来ない資料です。
さて、いかなる理由で、もとの文はORだったと考えるのでしょうか?
元の発言 [ Re: 古冨波山古墳から ] お名前 [ 飛んだハヤシライス ] 日付 [ 2月7日(月)23時05分34秒 ]
飛んだハヤシライスさん、こんにちは。
>> 最近考えているのですが、「杜」のつく地名はないのでしょうか?たぶん、朝鮮半島北部に。三世紀前半のころ、楽浪・帯方に「杜」と呼ばれる地域がなかったのでしょうか?
>> もしあったとすれば、そこから三角縁神獣鏡が出る可能性はあると思います。
すいません。ちょっとうろ覚えですが、洛陽の近くにあったんじゃなかったですか?朝鮮半島の北部はさっぱりわかりませんが、探せば出てこないこともないでしょうね。
>> >正始元年陳是作三角縁同向式神獣鏡 : 山口県・兵庫県・群馬県
>> これらは同型といわれています。だとすれば、オリジナルが別にもう一枚存在します。それを踏み返していることになります。そうではなく、上記三面の中に、オリジナルが存在し、それを踏み返した可能性だってあります。オリジナルは正始元年だと思いますが、踏み返しによって作成された鏡の製作時期を特定するのは難しい。
はい、そのとおりです。しかしながら、中国・朝鮮にせよ日本にせよ、紀年鏡のオリジナルは景初三年から正始元年にかけて陳さんが作った。国外で作ったとしたら作られてすぐまとまったかたちで、日本に入ってきたと考えざるを得ない。だから結局、オリジナルは正始元年頃に日本の何処かに、まとまったかたちで存在したことは確実でしょう。そこから、副葬までの間に各地に流出している。この過程をどのように考えるかが、問題なのですよね。
>> >1.「舶載」三角縁神獣鏡は本当に舶載鏡であり、倭國向けに作成された。倭國向け以外には大型鏡の注文がなかったので、中国国内向けには、小・中型の斜縁神獣鏡・画文帯神獣鏡を作っていた。
>> 製作地はどこでしょうか?もっとも可能性のあるのは、楽浪・帯方と言った公孫氏の版図内ではないでしょうか?
はい。現時点で生産地を特定するのは難しいと思いますので、もっと広く遼東あたりまで含めて考えて置いたほうがいいと思いますが、まあ、公孫氏の領域のあたりではあろうと思います.
#ご存知のとおり「広漢で作った尚方鏡」だと堂々と銘した鏡があるくらいですから、尚方作だから洛陽製だとはいえないですよね?
>> >4.「舶載」三角縁神獣鏡もすべて国産である。240年頃から生産が始まった。遅くとも250年頃には布留0期に突入しているから、布留0期以降の古墳から出てくるのである。
>> 布留0期をいつごろからとみるかですね。
三角縁神獣鏡の生産の起点が景初三年(239年)であるとします。次に、三角縁神獣鏡が出ている古墳はすべて布留0式以降でり、これは庄内式期にはほとんど三角縁神獣鏡がなかったからであるとします。この二点は多分飛んだハヤシライスさんにはほとんど異論のないところだと思います。
この二つの前提から導かれる最も素直な結論は、布留0式の起点は三角縁神獣鏡の起点(239年)に限りなく近いということだと思うのですが、いかがです?
また、布留0式をそんなに古く見ることが出来ないということであれば、
>> >ほとんどの三角縁神獣鏡が布留0式以降の製作で、布留0式が260年かそれ以降だったら、紀年鏡はやっぱり魏鏡なんですよ。
ということになると思います。
>> う〜むっ。景初四年もですか?
>> 景初四年が存在しないことが分かれば再び溶かして青銅として再利用できます。それをしていないのですから、景初四年鏡は、
>>改元に気付いていなかったか、
景初四年鏡製作後でしょうけれども、陳さんが改元を知ったことは、正始元年鏡があるのですから明白ですよね。
>>気付いたとしてもその時はすでに製作者の手許にはなかったと考えるほうが自然だと思います。
そうかもしれませんね。
#まあ、いずれにせよご承知のとおり、現に中国から誤った紀年の鏡が出土している例があるのですから、紀年が誤っているから魏鏡ではないと言うわけにはいかないですよね?
P.S.大事な可能性を書き落としましたので、2’を追加します。
2’.紀年鏡は魏鏡であり、倭國向けに作成された。倭國向け以外には大型鏡の注文がなかったので、中国国内向けには、小・中型の斜縁神獣鏡・画文帯神獣鏡を作っていた。彼等は庄内期に倭国に来て三角縁神獣鏡の量産をはじめた。240年頃から布留0までの間に死去した有力者がいなかったか、たまたま庄内期の古墳から発見されていないか、本当は発見されているんだけどそれと気づかれていないだけである。
元の発言 [ Re: Title九州に東海土器 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月1日(火)21時38分59秒 ]
>> 池ちゃん さん、ALEXさん 元気ですか?
>> >> それは”急激に”行われたのでしょうか?
>> >> ”徐々に”行われたのでしょうか?
>> #「高杯が」とか「甕が」とかいうのではなく、全器種そろって同時に登場するとのことで、やはりある画期に急に始まったように思えます。
*関東の考古学の説明(東京大田区文化センター発行だったかな?)には、
群馬などには弥生後半に東海の土器が入り始めるが、
従来の現地土器の出ないところに入って行っており、
住み分けていると書いてあった記憶がある。
一つの入り方と思いました。
元の発言 [ Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月8日(火)04時40分07秒 ]
>> それで結局、北を南と改訂するのですか?
ですから、魏使は投馬國へは行ってないと思っている
わけですよ。
それで、船をこぎ出す方向から、西へ行って南へ行く
と20日で着くよ。と、こんな感じですか。
まあ、実のところ畿内勢力の範囲を出雲、畿内、吉備
を含むと考えている関係で、出雲をはずしているので
すが、以前は出雲がそれにあたると考えていたのです。
ただ、直線的に畿内へ向かうには、他の問題が多すぎ
て。距離が(相対的といわれるかもしれませんが)
本来の里と違っていますので、これはどうも倭国全体
を大きくさせるために意図的に書かれたものと思える
ので、こんな感じかなと。ただし投馬國には行ってい
ないので、倭人の話をそのまま書いただけだろうと。
こりゃ、推測ばっかりで、すいません。
元の発言 [ Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月8日(火)14時00分02秒 ]
しかしですよ
1.陳壽の考えが間違いで
2.魏使の距離の報告が虚偽で
3.「北」と書いてある投馬國が南にあるんじゃ
「倭人伝をぜんぜん信用してない」って言ってるのと同じなんでは…?
>> ですから、魏使は投馬國へは行ってないと思っている
>> わけですよ。
#もう一回聞いちゃおう!
なんで「魏使は投馬國へは行ってない」と考えるんですか?
それと「他の問題」って何ですか?
元の発言 [ Re: Title再度問う(2) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月8日(火)08時38分23秒 ]
>>
>> >> 南に陸行、水行出きるなら、そうでしょう。
>> #「南」に「水行」するというのは、南向きの航路を行くというだけのことで、「港から直ちに南方向に出港する」とまで言っているわけではありません。
#だから南北でしよう。
>この例は、河口に出るまでには暫く東に「水行」しなければならないけれど、主たる航路が南向きなのです。
#東に行くなんてどこにも書いてないですよ。湾の出口
はどこでもいいのですが。
>> 倭人伝の場合も、「南」に「水行」するというだけのことでは、出港地の特定の手がかりにはなりません。
#ORでは、南に陸行すると書いてあります。
出発地の手がかりになるのですよ。
奴国が博多とすると、その南で、東、海から、九州の
東海岸で南北に海岸線の始まる場所が投馬国で、その
終わりが邪馬台国なのです。あとは、九州の地図をみれば
終わり。日南海岸しかないはず。
投馬国は、西都市あたりで、邪馬台国は、串間市で
なんら問題はない。
東を南と認識してたというが、乍南乍東を、乍東乍北
では地形と合わない。また、東へ行ったら対馬へはつかない
。東一大も無理。南は、南と認識していた。決して
東ではない。東に書き換えたら原文の何文字が残るのか。
元の発言 [ Title再度問う(承前:慈源さんへ) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月8日(火)09時57分02秒 ]
ALEXさん、こんばんは。
きょうは、なぜだか剣菱なのだ。すいません。(^^ゞ
>> >> 陳寿は、会稽東冶の東に女王国があると思っているのですから、倭人伝に記述された里が短里などとは思っていない、これは私もそう思います。
>> #それでは「水行十日、陸行一月」については、
>> 基本的な共通理解として、
>> ===========================
>> 陳壽自身はこの文を
>> 「水行十日 AND 陸行一月」のつもりで書いたのであり
>> 張華ら読者も決して
>> 「水行十日 OR 陸行一月」とは読まなかった
>> ===========================
>> ということで宜しいですね。
AND、OR以前に、郡から女王国まで万二千余里なのですから、狗邪韓国からでも、南に五千里ほど進むわけです。韓が方四千里ですから、大雑把ですが、帯方から約九千里、南ですよね。これは、会稽東冶の東まで行ってしまうのでしょう。
>#韓傳の方4,000里が逆に例の7,000から求められた可能性を考えると
>#それは、万二千余里の数字を出した人間と、個々の距離を報告した人間を、暗黙のうちに同一だと仮定していませんか?
まず、魏代の一里をおおよそ400mとしましょうか。郡から狗邪韓国まで7000里は2800kmに相当します。実際の距離はそんな事はありませんよね。渡海千里にしても然りでしょう。
つまり、魏志倭人伝に記された里数とは、魏の単位ではないと言ってよいでしょう。帯方から朝鮮半島の西海岸を南下し、次に南岸を東へ。方四千里なのですから、おおまかに言って南へ四千里、東へ三千里で狗邪韓国だとします(実際は5:2のような気もするけれど)。渡海千里を三回ですから三千里、この二つの三千里は地図上で見ましてもさほどの乖離はなさそうです。これに、倭国内の里数表記を併せて考えてみましても、相対的な距離観としては、まあ大まかには当っている。ここまでの、里数表記の第一次記録者が仮に複数であっても、彼等の間にはこの「里」の距離観は同一であったと言っていいと思います。
では、万二千余里は誰が書いたか?これはすでに、魏略逸文にもみられます。「自帯方至女(王)国万二千余里」。
もし、この表記が魏からの使者であるのならば、彼等はたとえば郡から伊都国までの記述された距離の長大さに気がつくはずです。ですから、そこに魏尺の千五百里を加えて、郡より女王国に至る万二千余里とは書かないはずです。彼等は実際に少なくとも伊都国までは来たのですから。
つまり、万二千余里の表記は、少なくとも魏からの使者ではありえないと思います。だから、いわゆる短里かどうかは分かりませんが、すくなくとも、万二千余里の記録者とここの里数の記録者とが、仮に違っていても、単位としては同じ感覚を持っていたものであると考えることを妨げるものではないでしょう。
同時に、伊都国女王国間の千五百里と水行二十日プラス水行十日陸行一月は対応しないと考えます。日数表記はあくまでも、投馬国、邪馬臺国への行程を示すものですから。
>やはり、倭人伝を読む以上、「陳壽がどういうつもりで書いたか」をまず理解し、最後にその理解が正しいのか、誤謬を含んでいるのか解明するのが順序かと思います。
まず、陳寿と第一次記録者との間に、単位としての里に対する齟齬があった。他の資料によると、「どうやら倭は暖かいところに在るらしい」それらの綜合が、会稽東冶の東を導きだしたのではないでしょうか?
>> さて、いかなる理由で、もとの文はORだったと考えるのでしょうか?
張明澄氏が以下のように言っております。
>古代中国文で、あれだけの意味を「トータル式」と「AND式」と「OR式」で書かしてみたんですね。そしたら「AND式」は案の定、みんな「又」が付いているんですね。だから「水行十日又陸行」となるんですね。「OR式}でやらせてみると、あの原文の通りになるんですよ。そして「トータル式」は「共水行十日陸行一月」と出た。もちろんこの方法自体がいいかどうか分かりませんよ。ただ決めかねる中で、仕方なく苦肉の策というか、こういう方法でやったらこういう結果になったのだから、ほかにはっきりしたものが出るまではこれを取っていこう、という考え方をしたわけです。(「歴史と旅」59/8 臨時増刊)
いまのところどちらを採ってもよいような気もします。
>>> >> 問い1.投馬國はどこですか?
>>> 私は、出雲だと思います。
>#ん〜 …
>
>…南に水行しなくていいんですか?
>…いいって意味ですよね。
はい。魏志倭人伝は、女王国=邪馬臺国と考えていますので、女王国は伊都国の南にあるのですから、投馬国、邪馬臺国も南に行かざるを得ない。
>つまり、二重写真説ということですね。
どのような経緯でそうなったのかは難しいところですが、それがもっとも妥当ではないかと考えるに至っております。女王国≠邪馬臺国だと。
元の発言 [ Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月8日(火)23時04分47秒 ]
>> 「倭人伝をぜんぜん信用してない」って言ってるのと同じなんでは…?
そんなことはないけど。
>> なんで「魏使は投馬國へは行ってない」と考えるんですか?
直線読みとすると、まず水行20日、その後水行10日
陸行1月。どこまでいける?
ですから、投馬國を通って邪馬台国とは考えていません。
距離を里であらわしているところは、自分たちが行った
と解釈します。ただオーバーな距離だったかもしれませ
んが。割合的にそれほどめちゃくちゃではないと思われ
ますので、それなりに信用できると思います。
日数で書いたところは、倭人の情報と思われる。
しかし、邪馬台国に関しては、二通りの書き方がしてあ
ると解釈しますので、船か歩きか、どちらで行ったとも
とれます。
ひとつは自分たちの記録で、もうひとつは倭人の情報。
ということで、通り道にない投馬國は行ってない。
倭人からの情報だけと判断しました。
>> それと「他の問題」って何ですか?
女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。
又有侏儒國在其南、人長三四尺、
去女王四千餘里。又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至。
このあたりなんですが、宇佐ならば、本州があるし
四国もある。
畿内では東に海はないけど、南が東とすると、東は北。
さて、ここはどこ?そしてその南というと、ここは?
そしてその東南は?
元の発言 [ 布留0式≒250年 or 紀年鏡=魏鏡 ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 2月8日(火)12時40分44秒 ]
koujiさん、こんばんは。
>中国・朝鮮にせよ日本にせよ、紀年鏡のオリジナルは景初三年から正始元年にかけて陳さんが作った。国外で作ったとしたら作られてすぐまとまったかたちで、日本に入ってきたと考えざるを得ない。だから結局、オリジナルは正始元年頃に日本の何処かに、まとまったかたちで存在したことは確実でしょう。そこから、副葬までの間に各地に流出している。この過程をどのように考えるかが、問題なのですよね。
はい。そのように私は考えます。これらの中には、大和から配布されたのではなく、それ以前に被葬者が入手したものもあるのではないかと思って、紀年鏡を副葬した古墳群の年代を考えてみたのですが…。
>三角縁神獣鏡の生産の起点が景初三年(239年)であるとします。次に、三角縁神獣鏡が出ている古墳はすべて布留0式以降でり、これは庄内式期にはほとんど三角縁神獣鏡がなかったからであるとします。この二点は多分飛んだハヤシライスさんにはほとんど異論のないところだと思います。
大和においては「いまのところ」そうだと思います。
> この二つの前提から導かれる最も素直な結論は、布留0式の起点は三角縁神獣鏡の起点(239年)に限りなく近いということだと思うのですが、いかがです?
中山大塚古墳、いま発掘中のホケノ山、大和天神山の年代をどのように考えるのかでしょうネ。
> また、布留0式をそんなに古く見ることが出来ないということであれば、
>
>>> >ほとんどの三角縁神獣鏡が布留0式以降の製作で、布留0式が260年かそれ以降だったら、紀年鏡はやっぱり魏鏡なんですよ。
陳是作の鏡はヴァラエティーに富んでますよね。三角縁神獣鏡はもちろんですが、盤竜鏡、黄金塚の画文帯神獣鏡、安満宮山の半円方形帯同向式神獣鏡。ことに、黄金塚の画文帯は、本場のそれとはまったく感じが違います。大きいから重い、平縁のようでいてすこし反ってます。安満宮山のは画文帯神獣鏡に三角縁神獣鏡の外区をくっつけている。一連の陳氏の作鏡群のなかに紀年鏡も含まれていた。三角縁神獣鏡に限らずこれらの鏡群もまた、魏の領域内では出ていませんので、魏の領域で作られたとしても少数の試作品だったのではないでしょうか。最終的には、三角縁神獣鏡に落着いたということだと思います。
私はむしろ、列島内で、何が気に入られるかとあれこれと試作した陳氏の旺盛な創作意欲を感じます。
>#ご存知のとおり「広漢で作った尚方鏡」だと堂々と銘した鏡があるくらいですから、尚方作だから洛陽製だとはいえないですよね?
はい。
>#まあ、いずれにせよご承知のとおり、現に中国から誤った紀年の鏡が出土している例がある
ごめんなさい。ご承知ではありません。教えてください。(^^ゞ
>2’.紀年鏡は魏鏡であり、倭國向けに作成された。倭國向け以外には大型鏡の注文がなかったので、中国国内向けには、小・中型の斜縁神獣鏡・画文帯神獣鏡を作っていた。彼等は庄内期に倭国に来て三角縁神獣鏡の量産をはじめた。240年頃から布留0までの間に死去した有力者がいなかったか、たまたま庄内期の古墳から発見されていないか、本当は発見されているんだけどそれと気づかれていないだけである。
(あ)紀年鏡群は、銅鏡百枚の一部である。
(い)紀年鏡群は、239年に工人とともに列島に入ったか、列島で製作された。
(う)紀年鏡群は、布留0期ごろ渡来した工人が持って来た。
不思議な事に、椿井大塚山からも黒塚からも紀年鏡が出ていない。また、三角縁神獣鏡はあるけれど、不思議な鏡群が出ていない。
だから、私は(い)だと思うんです。
じつは十日ほど前に、安満宮山古墳を見てきました。パンフレットが置いてあって、それに出土した鏡の写真が載っていますが、斜縁「吾作」二神二獣鏡は共伴した三角縁神獣鏡と比較しますと、格段に出来がいいです。しっかりした彫りです。別の工人だと思います。
ちなみに、銘文は
>吾作明鏡自有己 青龍白「逓」居左有 令人長命宜子孫 作吏高遷 車生栄耳 作師長命吉
「逓」の「しんにゅう」をトル
元の発言 [ Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月9日(水)02時24分15秒 ]
>> >> 「倭人伝をぜんぜん信用してない」って言ってるのと同じなんでは…?
>> そんなことはないけど。
#でも肝心な部分を相当読み替えてることになりますよ。
>> 直線読みとすると、まず水行20日、その後水行10日
陸行1月。どこまでいける?
#う〜ん… これ、九州を行過ぎてしまうという意味だったら、完全に循環論法ですけど…
>> 日数で書いたところは、倭人の情報と思われる。
>> しかし、邪馬台国に関しては、二通りの書き方がしてあ
>> ると解釈しますので、船か歩きか、どちらで行ったとも
>> とれます。
>> ひとつは自分たちの記録で、もうひとつは倭人の情報。
#日数で書いたところが、「倭人の情報」であっても「自分たちの記録」であっても可ということは、投馬國だって「自分たちの記録」であってもいいんですよね。
なんか、投馬國に「行ってない」理由が出てきてないような…
>> 女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。
>> 又有侏儒國在其南、人長三四尺、
>> 去女王四千餘里。又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至。
#うしろの2行って、山海經とか論衡とかに出てくる「お話」の世界の国々ですよね。魏略西域傳でも西の地の果てには馬の脚のついた人間が住んでいる国があるといいますが、世界の果てに異形の人々の国があるというのは「お約束」の世界であって、まともに相手すべき個所じゃないんじゃないでしょうか?外交記録部分を除くと、この記事が事実上の倭人伝の末尾である事を考え合わせても、倭人伝で最も信憑性の薄い個所です。
「東渡海」だって、「倭人國にも更に奥地がある」程度の意味しかないと思います。少なくとも伝聞である事は間違いないでしょうし、国名も不詳とあれば、有力国とも思えません。
元の発言 [ 古富波山古墳から ] お名前 [ 飛んだハヤシライス ] 日付 [ 2月2日(水)01時14分14秒 ]
飛んだハヤシライスさん,こんにちは。
>> 滋賀県野洲町の古富波山古墳から、『前方後円墳の出現』(雄山閣)57頁にある、岸本氏の編年案で第一段階の分類されている「王氏作徐州銘四神四獣鏡21.9cm」(目録番号79)同笵鏡番号【42】が出土しています。
>> 墳丘基底部をなす第1次盛土層上面から多数の古式土師器が出土し、庄内期併行である事が判明。
>> また、第二段階の吾作三神五獣鏡22.0cm(23)【11】、第三段階の陳氏作四神二獣鏡21.8cm(82)【45】も共伴しています。
>> このことは、庄内期中にすでに、岸本編年案の第三段階までは作成されていたことになります。
>> わたくしは、先月号で第二段階以降は布留0期中に大和でで生じた経年変化であろうと申し上げましたが、撤回いたします。
つまり、庄内期のうちに大量の三角縁神獣鏡が作成されている。多くは布留式まで下る古墳から出ていてそれらは伝世したり布留式期に踏み返されたりしたものでしょうけれども、原鏡は庄内期にできていたことになりますよね。鏡は耐久消費財ですから、製作時期と出土遺跡の時期にずれが出るのはむしろ当然だともいえます。そうなると、やはりT〜V期の三角縁神獣鏡の分布の状況は庄内期状況を反映していると考えられる。製作時期が重なると考えられる消耗品である土器の分布も同じような傾向を示しているとすれば、もはや確定的ではないでしょうか。
>> まだまだサンプル数は足りないと思いますが、もし、大和において、庄内期の古墳から三角縁神獣鏡が出ないとすると、これはいったい何を意味するのでしょうか?
多分、特別な意味は無いと思います。三角縁神獣鏡の起点はいずれにせよ240年頃ですから、寺澤編年で庄内期も残すところあと20年〜40年ぐらいといったところです。大体一世代か長く見ても二世代。この間に大和で営まれた三角縁神獣鏡を副葬するような首長墓がどのくらいあるのでしょうか。大した数ではないですよね?その少数の首長簿に副葬された三角縁神獣鏡が無事出土する可能性はどのくらいあるのか。
>> ホケノ山がますます楽しみになってきました。
盗掘にあっているようですが、鏡片が残っていることは結構あるようですからね.
大和の庄内期の古墳って言うと、箸墓の西北の纏向小学校の所に纏向石塚・勝山・矢塚が固まってあって、ほんの少し離れた小字ナシメという所に東田大塚があります。纏向石塚が一番古くてほぼ纏向T(庄内0)式期、東田大塚は新しく見ても布留0式期、纏向勝山・矢塚はその間に収まるようです。纏向石塚は主体部がかなり調査されたけど埋葬施設は発見されず、既に破壊されているのではないかということです。どんな副葬品があったのか興味深いところだけに残念ですが、ただ、これはいずれにせよ古すぎますから三角縁神獣鏡は無かったでしょう。残る、纏向勝山・矢塚、東田大塚あたりに何が入っているのか、順次調査がおこなわれているようですから、この辺も楽しみですね。
こんにちは
今朝、テレビを見て入ましたら、原田大六氏で有名な伊都国の大きな鏡
が出ていました。そのニュースの解説によると、当初、4枚分出土した
と思われていたこの鏡、破片の鉛の分析をしたところ、産地の違うもの
があり、実は5枚分出土していたとのことでした。
原田氏の本には4枚が伊都に埋められて、残りの一枚が『東遷』して
ヤタノカガミとなったのではないかということでしたが、5枚とも伊都
に埋められていたんでしょうか? .....となると、伊都国王東遷説も
???となるのではないかとも思うのですが.......
伊都国の大きな鏡の鉛分析の話をご存知の方がいらっしゃいましたら、
詳しい話を教えていただけませんか。
元の発言 [ Re: Title再度問う(承前:ALEXさんへ) ] お名前 [ 慈源 ] 日付 [ 2月9日(水)01時18分28秒 ]
慈源さん、こんにちは。
>> AND、OR以前に、郡から女王国まで万二千余里なのですから、狗邪韓国からでも、南に五千里ほど進むわけです。韓が方四千里ですから、大雑把ですが、帯方から約九千里、南ですよね。これは、会稽東冶の東まで行ってしまうのでしょう。
#これが「AND、OR以前」であるかどうかについては疑義があります。
倭國の北端を会稽、女王國等中心地を東冶近辺、南端をtan耳朱崖に近い当たりと読む見解もあり、この説は会稽−交州約5,000里(倭地の周旋と同等)という記録に見える当時距離感覚からも妥当性が認められます。
>> 相対的な距離観としては、まあ大まかには当っている。ここまでの、里数表記の第一次記録者が仮に複数であっても、彼等の間にはこの「里」の距離観は同一であったと言っていいと思います。
>> 万二千余里の表記は、少なくとも魏からの使者ではありえないと思います。
#同意します。
>> すくなくとも、万二千余里の記録者とここの里数の記録者とが、仮に違っていても、単位としては同じ感覚を持っていたものであると考えることを妨げるものではないでしょう。
#ここに論理の飛躍があるように思います。
「考えることを妨げるものではない」ということは、確実に「同じ感覚を持っていた」ではないわけです。
これでは、万二千余里の数字を出した人間と、個々の距離を報告した人間を、暗黙のうちに同一だと仮定しているのと変わりませんから、「陳壽がANDの意味で書いた」ことが合理的に推定できる以上は、一次史料記述者の意図はORであったと、現行史料の記述を覆すに足る推論はできません。
(1)ケース1
まづ
万二千余里の記録者:A
個々の里数の記録者:B
の双方がおり、それぞれ現地に赴いて移動距離を記録しているものと仮定します。
Aの場合、「千里一寸法」とかを想定しない限り、万二千余里が判明した時点で、物理的な帰結として、帶方−伊都国間および伊都国−女王国間の里数の双方が判明していることになります。
しかるに実際は、伊都国−女王国間の里数の記載はなく、代わりに直近国−女王国間の所要日数が記載されています。
ゆえに
1
魏使一行の者ではない(前段の見解から)Aなるものがおり、
彼は女王国まで赴いており
その移動距離を記録したが
Aの個々の国間距離に関する記録は散逸し総距離の記録のみ残った
2
Bは女王国まで赴いておらず
伊都國までの移動距離ならびに周辺国への距離を記録した
3
さらにCなるものがおり、邪馬臺国等への所要日数を記録した
4
史料編纂者は、123の記録を総合して、間違った編集を行なった。
ということになります。 「万二千余里の記録者」が存在し、と個々の里数の記録者と距離について「同じ感覚を持っていた」と仮定することは、これだけの偶然を前提条件に加えないと結論に行き着きません。
(2)ケース2
次に
水行十日陸行一月の記録者:A
個々の里数の記録者:B
の双方がいるものと仮定します。
水行十日陸行一月の日程と残余約1,500里には整合性がある。倭國のような情報源の限られた対象について、個々の情報同士が照合できて整合性を検証できることは一種の僥倖といえ、むしろ一方から他方が考証で導出されたと考える方が自然である。
1
魏使一行の者かもしれないAなるものがおり、
彼は女王国まで赴いており
その日程を記録した
2
Bは女王国まで赴いておらず
伊都國までの移動距離ならびに周辺国への距離を記録した
3
史料編纂者は、女王国までの距離を求めるために一部Aの記録を利用し、机上で考証して所要日数から距離を逆算し、総距離万二千余里を求めた。
無理のない想定ではないでしょうか?
>> 伊都国女王国間の千五百里と水行二十日プラス水行十日陸行一月は対応しないと考えます。日数表記はあくまでも、投馬国、邪馬臺国への行程を示すものですから。
#これは「理由」が「結論」に、「結論」が「理由」になって自己完結してしまっているのではないでしょうか?
>> まず、陳寿と第一次記録者との間に、単位としての里に対する齟齬があった。他の資料によると、「どうやら倭は暖かいところに在るらしい」それらの綜合が、会稽東冶の東を導きだしたのではないでしょうか?
#これは「当在」という強い確信を表す推量の言葉に似合わないように思います。むしろ風俗記事のほうが漢書地理志から引用された形跡があります。
>> >> さて、いかなる理由で、もとの文はORだったと考えるのでしょうか?
>> 張明澄氏が以下のように言っております《略》
#これは、現行の文を現代人がどう読むかというアプローチですから、視座が違うと思いますが。
求められているのは「陳壽自身がANDの意味で書いたと合理的に推定できるにもかかわらず彼の依拠した原資料はORの意であって陳壽が誤解した。そのもとの文はORだった」と考えることの出来る根拠です。
元の発言 [ Re: Title再度問う(承前:ALEXさんへ) ] お名前 [ 慈源 ] 日付 [ 2月9日(水)01時18分28秒 ]
>「水行十日、陸行一月」については、
#正しくは「水行二日、陸行六日」です。
>「万二千余里」は
#正しくは「二千四百余里」です。
>七万戸&十万戸
#正しくは「一万四戸余」と「二万戸余」です。
#北部九州にしろ、吉備・大和にしろ、七万戸=45万人強 & 十万戸=65万人も生きてはいない。これに反論するならば、少なくとも3世紀半ばに、1集落千戸=6千5百人程度の集落がどれに該当するか、言わなければならない。マキムクだけでは駄目で、池上曽根&唐古鍵は3世紀半ば迄は引っぱれないし、九州にもほとんどない。
元の発言 [ 伊都国の鏡は五枚あった? ] お名前 [ 古代史FAN ] 日付 [ 2月9日(水)08時02分44秒 ]
>> 詳しい話を教えていただけませんか。
自己フォローです。詳しい話がYahooの考古学ニュースにでていました。
http://news.yahoo.co.jp/headlines/nnp/000209/loc_news/10450000_nnpnws015.html
......ということは、伊都国王東遷説というのは幻なんでしょうかねぇ。私は『吉備国王東遷説』なんですが.....
元の発言 [ Re: 伊都国の鏡は五枚あった? ] お名前 [ 考古学FAN ] 日付 [ 2月9日(水)11時16分46秒 ]
従来、4枚と思われていた伊都の鏡が実は5枚であったとは。
....となると、また、新たな疑問が湧く訳ですが、
1.現在、ほぼ、4枚分があるとして、これが5枚の鏡の破片であったと
すると、残りの破片はどうなったんでしょう?
2.弥生末期に鏡を鋳造した時点で、鏡により産地の違う鉛を使っていた
ということは、鏡を作るために鋳つぶした青銅器に使われていた金属の産地
が異なっていたということを意味するんでしょうか?
元の発言 [ Re: Title再度問う(2) ] お名前 [ akira2 ] 日付 [ 2月9日(水)00時12分13秒 ]
>> だから南北でしよう。
>> ORでは、南に陸行すると書いてあります。
>> 出発地の手がかりになるのですよ。
#すいません。ちょっと仰っしゃっている意味がわかりません。
小学生かなんかが相手と思って、わかりやすく説明していただけないでしょうか?
>> 東を南と認識してたというが、乍南乍東を、乍東乍北
>> では地形と合わない。また、東へ行ったら対馬へはつかない
#そう主張している人にレスして欲しいんですが。
元の発言 [ Re: 慈源さんへ、Title再度問う(承前:ALEXさんへ) ] お名前 [ マルガリータ ] 日付 [ 2月9日(水)11時14分31秒 ]
>> >> 「水行十日、陸行一月」については、
>> 正しくは「水行二日、陸行六日」です。
>> >> 「万二千余里」は
>> 正しくは「二千四百余里」です。
#なるほど
>「南至投馬國水行二十日」
正しくは「水行四日」
>「周旋可五千餘里」
正しくは「千餘里」
>「其俗、國大人皆四五婦、下戸或二三婦」
正しくは「大人皆一婦弱、下戸或半婦」
う〜みゅ…九州箱庭説…
元の発言 [ つづいて質問 ] お名前 [ 古代史FAN ] 日付 [ 2月9日(水)11時31分36秒 ]
>> 従来、4枚と思われていた伊都の鏡が実は5枚であったとは。
>> ....となると、また、新たな疑問が湧く訳ですが、
>> 1.現在、ほぼ、4枚分があるとして、これが5枚の鏡の破片であったと
>> すると、残りの破片はどうなったんでしょう?
>> 2.弥生末期に鏡を鋳造した時点で、鏡により産地の違う鉛を使っていた
>> ということは、鏡を作るために鋳つぶした青銅器に使われていた金属の産地
>> が異なっていたということを意味するんでしょうか?
#武田信玄の金の小粒、慶長大判・小判、江戸時代の小判・二朱金、などはどうなったのでしょうか?一部は確かに今も残っていますが、大半は鋳直されました。「おにりん」さんは、古墳から盗掘された大半の銅鏡が伝世していると(海外の博物館を含めて)言っていますが、真っ赤な間違いで、大半は鋳直されました。特に埋葬に近い時期の盗掘は、骨董的な価値ある物を盗むというより、金目の物を盗む訳で、盗掘した鏡を売りに歩いたら、直ちに足がつきます。
盗っ人は換金しやすい物に手を付ける訳で、金属類は直ちに鋳直すのです。そのまま現物を売りさばくようになるには、骨董的な価値が出てきてからで、それが鎌倉時代のあたりでしょう。
元の発言 [ Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月9日(水)06時57分34秒 ]
#でも肝心な部分を相当読み替えてることになりますよ。
なぜでしょう?水行十日陸行一月はandと読むのが正しいと
それが正しい漢文の読み方だと言えるのですか?
>> 直線読みとすると、まず水行20日、その後水行10日
陸行1月。どこまでいける?
#う〜ん… これ、九州を行過ぎてしまうという意味だったら、完全に循環論法ですけ
ど…
海岸線に沿って、鹿児島を目指すなら、二十日で
九州を行きすぎることはないと思いますが。
#日数で書いたところが、「倭人の情報」であっても「自分たちの記録」であっても可
ということは、投馬國だって「自分たちの記録」であってもいいんですよね。
なんか、投馬國に「行ってない」理由が出てきてないような…
はい、しかしながら僕の比定では、まったく方向違いの場所へ
行く必要はなかったと思われますので、行っていないと判断しています。
>> 女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。
>> 又有侏儒國在其南、人長三四尺、
>> 去女王四千餘里。又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至。
#うしろの2行って、山海經とか論衡とかに出てくる「お話」の世界の国々ですよね。
魏略西域傳でも西の地の果てには馬の脚のついた人間が住んでいる国があるといいます
が、世界の果てに異形の人々の国があるというのは「お約束」の世界であって、まとも
に相手すべき個所じゃないんじゃないでしょうか?外交記録部分を除くと、この記事が
事実上の倭人伝の末尾である事を考え合わせても、倭人伝で最も信憑性の薄い個所です。
「東渡海」だって、「倭人國にも更に奥地がある」程度の意味しかないと思います。
少なくとも伝聞である事は間違いないでしょうし、国名も不詳とあれば、有力国とも思
えません。
最後の2行はたしかに問題があると思いますが「東渡海千餘里」はそれまでに何度も出
てきている数字で、とんでもない距離とは思えない。
それまでも無視して良いというのは、ちょっと虫が良すぎるのではないでしょうか?
僕は前に宇佐、大分に行ったときに、この部分が十分理解出来ると思ったのです。
この先に畿内勢力があっても、この旅の目的が邪馬台国へ行き、女王に会うためであれ
ば、そのことに触れなくても構わない。ただその方向に国があると書けば十分目的は達
したと思われます。
イギリスからフランスへ行った人が、なにもその先にドイツがあるとかイタリアがある
とか、そこがどんな国でなんて書く必要はないでしょう。
それは、畿内説の人が無視するのはおかしいと思うだけであって、なにも問題はない
事だと思われますが。
それよりも、方角、距離までそこそこ信じられるものを信憑性がないの一言でかたづけ
ることの方が問題だと思います。
元の発言 [ 魏志倭人伝すら、信じない、全てを信じないで妄想にひたる九州説 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月9日(水)16時55分41秒 ]
>>
>> う〜みゅ…九州箱庭説…
>>
>>
>>
#そう、そう、ここは「古代のロマンを考える会」の「古代のロマン:大論争」です、決して誰かさんのように、間違っても<おにりん>さんを指してはいませんよ、「誇大なロマンスを考える会」の主宰の「誇大なロマンス:大論争」ではありません。吉備に650,000人もいた証拠でもあるのでしょうか?大和(寛大な私だから大阪府/南京都府まで含めても良いが)に3世紀半ばの大集落でも発掘されているのでしょうか? まー、こう言うとまたもや「大和説を否定するだけの九州説」と、おっしゃるかも知れないが。
元の発言 [ Re: 古冨波山古墳から ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 2月7日(月)12時40分07秒 ]
イリヒコさん、こんばんは。
『集成』では古冨波山古墳に先行する冨波古墳について、書店で『大辞典』を立ち読みしてきました。(高くてちょっと買えません)
以下、こっそりメモしてきました。(ホントは著作権の関係で、店内でのメモは禁止されているとのこと)
・全長42mの前方後方墳
・幅4.5〜7mの周掘。深さ10〜30cm。この周掘を含めると全長約53m
・周掘掘削後に穿たれた周掘の土壙から布留式併行土器
・前方部の土壙から出土した土器片は庄内期併行
・主体部構造は不明
・古冨波山古墳と相前後して築造された大岩山古墳群の最初期のもの。
執筆者は丸山竜平氏、これらから考えますと丸山氏は、庄内期、布留期についてはきちんと区別して考えておられると思いますので、古冨波山は、やはり庄内併行期と考えてよいのではないかと思います。
また、古冨波山と冨波の新旧についてですが、必ずしも古冨波山が新しいとも断じかねるのではないでしょうか。
イリヒコさんの忌憚のない意見をお伺いしたいところです。
元の発言 [ Re: つづいて質問、おにりんさんは。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月9日(水)17時22分03秒 ]
#昔読んだ漫画には、それをもとに奈良の大仏がつくられた・・・なんてことが描かれていました。
面白い説だとは思いますが、やっぱり漫画ですからね・・・
まぁ”奈良の大仏”は置いといて、何か軍事的なものに使ったかもしれませんね。大量に鋳潰したとすれば、そう言ったようとい外はちょっと考えられませんね。私には。
元の発言 [ Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月9日(水)09時54分25秒 ]
え?そうだったのですか?
近畿が九州を指導していたのですか?
元の発言 [ Re: 古冨波山古墳と冨波古墳 ] お名前 [ 飛んだハヤシライス ] 日付 [ 2月9日(水)20時16分51秒 ]
飛んだハヤシライスさん、こんばんは
集成では、丸山さんは箸中山古墳に後続する(箸中山古墳の方が古
い)壷笠山古墳を庄内期の古墳と書いています。したがって、丸山
さんは布留0を庄内期に含めており、壷笠山・富波・古富波山とい
ったあたりが布留0併行期と判断出来ます。文脈や表から判断して
特殊器台形埴輪が使われていた時期です。
また、孫引きですが、「丸山さんは古富波山を箸中山と同時期と考
えている」と書かれたものも読んだことがあります。何だったかは
忘れてしまいました。
さらに、「前方後円墳の出現」の赤塚さんの表がありますが、この
表は赤塚さんが古墳出土の土器を比較検討して作成したものです。
全部正しいとは限りませんが、この表では富波古墳は箸中山古墳に
ごくわずか遅れた位置に置かれており、赤塚さんの判断でも富波古
墳は布留0併行ということになります。したがって、それよりは下
るであろう古富波山も布留0併行(それも古い方ではない)と推察出
来ます。
いずれにせよ、書いている人間が同じである以上、古富波山に限っ
ていえば、集成の年代を否定する材料に「古墳(大)辞典」はなりえ
ません。
>> 執筆者は丸山竜平氏、これらから考えますと丸山氏は、庄内
>> 期、布留期についてはきちんと区別して考えておられると思い
>> ますので、古冨波山は、やはり庄内併行期と考えてよいのでは
>> ないかと思います。
布留0は庄内期と布留期の端境期で、これを庄内期にいれる人も少
なくないようです。例の「古墳のための年代学」にも、布留0併行
の纏向3式後半は庄内期とすべきであるという考えが書かれていま
す。どちらの立場を正しいとするかはアカデミックな問題で、我々
素人にはどうでもいい話ですが、両方の立場の方がおられるという
現状は認める必要があります。
元の発言 [ Re: Title再度問う(承前:ALEXさんへ) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月9日(水)11時04分26秒 ]
ALEXさん、こんばんは。きょうは、ホンマに大分県日田市の米「慈源」です。
>倭國の北端を会稽、女王國等中心地を東冶近辺、南端をtan耳朱崖に近い当たりと読む見解もあり、
倭国の北端といえば、對海国ですよね。ここがすでに会稽のあたりになるのならば、やはりAND、OR以前に会稽東冶の東まで行っちゃてますよね。
>「考えることを妨げるものではない」ということは、確実に「同じ感覚を持っていた」ではないわけです。
申しわけありません。「万二千余里の記録者とここの里数の記録者とが、仮に違っていても、単位としては同じ感覚を持っていたものであると考えます」と表現を変えさせて頂きます。
> これでは、万二千余里の数字を出した人間と、個々の距離を報告した人間を、暗黙のうちに同一だと仮定しているのと変わりませんから、「陳壽がANDの意味で書いた」ことが合理的に推定できる以上は、一次史料記述者の意図はORであったと、現行史料の記述を覆すに足る推論はできません。
ちょっと待ってください。ANDかORかには直接関係なく、郡より女王国に至る万二千余里ですよね。
問題は、個々の距離を加算した結果万二千余里になったのか、別の算出法によって万二千余里が求められたのか、という事ですよね。
ですから、万二千余里から、伊都国までの総距離の万五百里を引いた千五百里がそれまでに記述されている「里」の距離感覚とおなじかどうか分からないぞ、とおっしゃってるわけですよね?
ケース1
> しかるに実際は、伊都国−女王国間の里数の記載はなく、代わりに直近国−女王国間の所要日数が記載されています。
前段はご指摘の通りです。でも、後段は違います。直近国−女王国間ではなく、直近国−邪馬臺国間です。
繰り返しますが、総里数は女王国までの距離であり、日数表記は起点は定かではありませんが、投馬国および邪馬臺国までの所要日数です。
当然のことながら、これは女王国=邪馬臺国であることを前提としています。これが本当に妥当なのか否かが問題なのではないか、というのが私の疑問であり、結局≠なのではないか、そのように考える事がもっとも素直に倭人伝を読めるのではないかと考えているのです。
>史料編纂者は、123の記録を総合して、間違った編集を行なった。
魏略は逸文のみですが、散逸した部分でギョケンがどのように書いたのかは不明です。魏志倭人伝の陳寿も、魏略を参照したであろうと思われますが、余計な刪潤を加えなかったことに史料価値があるのではないでしょうか。
1.>世々王あるも、皆女王国に統属す。郡使の往来常に駐まる所なり。
2.>女王国より以北、その戸数・道理は得て略載すべきも、その余の旁国は遠絶にして得て詳かにすべからず。
3.>これ女王の境界の尽くる所なり。
4.>その南に狗奴国あり、男子を王となす。その官に狗古智卑狗あり。女王に属せず。郡より女王国に至る万二千余里。
5.>女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。
6.>女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり。
このように、女王国と表現される所は数箇所ありますが、これらを綜合して考えてみますと、女王国は伊都国の南のどこかにあることが首肯できます。
>南、邪馬壱国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月。
邪馬壹(臺)国の表記はここしかありません。1−6の女王国を邪馬壹(臺)国に置換するからこそ、さまざまな矛盾が生じているのではないですか?
もちろん、魏志倭人伝は女王国=邪馬壹(臺)国と考えている。だから、方角を南へ南へと書いているのではないでしょうか?
ケース2
>1
> 魏使一行の者かもしれないAなるものがおり、
> 彼は女王国まで赴いており
> その日程を記録した
この場合、どこからどこまでの日程を記録したのでしょう?伊都国から邪馬壹(臺)国ですか?郡から伊都国までの記録は散逸したのでしょうか?
もし、魏使が不弥国までの記録が存在する事を知っていたために省略したとしたら、まず、その記録がいかに長大であるかにも気が付いたことでしょう。とすれば書き換えたはずです。もし、郡から伊都国までの記録は散逸したと考えるのならば、それは無理のある想定だと思いますよ。(^o^)
> 求められているのは「陳壽自身がANDの意味で書いたと合理的に推定できるにもかかわらず彼の依拠した原資料はORの意であって陳壽が誤解した。そのもとの文はORだった」と考えることの出来る根拠です。
AND、ORの議論は二ヵ所存在します。
1.投馬国と邪馬壹(臺)国の表記
2.水行十日陸行一月
1.については、陳寿の理解はANDです。順進的に理解しています。
2.については、分かりません。ORであっても差支えないはずです。
位置としては、陳寿の理解では伊都国→投馬国→邪馬壹(臺)国の順にあるのですから。
結局論点としては、「万二千余里がどのようにして求められたのか?」という事になりそうですが、どうでしょう?
元の発言 [ しつこく質問 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月9日(水)10時18分10秒 ]
>>
>>
昨年末、けっこうやりあいましたよね。
先月のページを見たら1月29日にレスポンスをしております。数ヶ月???
やっぱり、おにりんさんの事実認識はおかしいですね。
元の発言 [ Re: Title再度問う(承前:ALEXさんへ) ] お名前 [ 慈源 ] 日付 [ 2月9日(水)23時45分56秒 ]
>> 慈源 さん、こんばんは。
>> 「万二千余里の記録者とここの里数の記録者とが、仮に違っていても、単位としては同じ感覚を持っていたものであると考えます」
#肝心なとこへ来ました。その根拠は?
>> この場合、どこからどこまでの日程を記録したのでしょう?伊都国から邪馬壹(臺)国ですか?郡から伊都国までの記録は散逸したのでしょうか?
#「帯方からの距離」と「日程」の決定的な違いは
前者は、帯方から起算しないと記録不能である。
後者は、伊都國(もしくは不彌國)出発の日時と、上陸の日時、女王所都到着の日時があれば記録可能である。
という点にあります。ですから、日程に関する郡から伊都国までの記録が散逸したか、それとも最初から無かったかは不明です。
もし、魏使が不弥国までの記録が存在する事を知っていたために省略したとしたら、まず、その記録がいかに長大であるかにも気が付いたことでしょう。とすれば書き換えたはずです。
#そうとは限りません。1719年来日した朝鮮通信使の申維翰は克明に道中の記録を残していますが、実際滞在した対馬を東西約300里,釜山から佐須浦まで480里,佐須浦から厳原まで260里と書いています。これらは魏里に換算すると倭人伝の数字に近いものです。
もちろん18世紀の朝鮮王朝に短里があったという説はありません。
>> 1.投馬国と邪馬壹(臺)国の表記
>> 2.水行十日陸行一月
>> 1.については、陳寿の理解はANDです。順進的に理解しています。
>> 2.については、分かりません。ORであっても差支えないはずです。
>> 位置としては、陳寿の理解では伊都国→投馬国→邪馬壹(臺)国の順にあるのですから。
#私が確定的に言えるのは、(1.放射;2.OR )の組み合わせがあり得ないと言う事です。(1.直線;2.OR )までは否定していません。
ただし、「水行十日陸行一月」をORで読む事は、漢文としておかしいと思います。
ただ理由は、ANDで読む類例は知っているが、ORで読む例は寡聞にして知らないというだけですから、ORでも差支えないということなら実例をお示しください。そしたら撤回します。(現代人の例はだめですよ。でないと万葉に「超ダサ」という表現があってもいいことになります)
>> 結局論点としては、「万二千余里がどのようにして求められたのか?」という事になりそうですが、どうでしょう?
#そういうことですね。
元の発言 [ Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月9日(水)18時22分28秒 ]
>> なぜでしょう?水行十日陸行一月はandと読むのが正しいと
>> それが正しい漢文の読み方だと言えるのですか?
#私の貧弱な古漢語の語学能力を顧みずに言えば、ANDが正しい漢文の読み方だと言えます。
>> 海岸線に沿って、鹿児島を目指すなら、二十日で
九州を行きすぎることはないと思いますが。
#いや、そういう意味じゃなければいいんです。
>> 僕の比定では、まったく方向違いの場所へ行く必要はなかったと思われますので、行っていないと判断しています。
#比定が先というのが変な気もしますが。
>> 最後の2行はたしかに問題があると思いますが「東渡海千餘里」はそれまでに何度も出てきている数字で、とんでもない距離とは思えない。
>> それまでも無視して良いというのは、ちょっと虫が良すぎるのではないでしょうか?
#別に無視はしません。重視しないだけです。畿内の「東渡海千餘里」にだって名も無い国のひとつやふたつ有るでしょう。
>> イギリスからフランスへ行った人が、なにもその先にドイツがあるとかイタリアがあるとか、そこがどんな国でなんて書く必要はないでしょう。
#でもストラスブールまで行って、東へ行くと別の国があるって書いたら、普通「それは一体どいつだ?」って思いません?
>> それよりも、方角、距離までそこそこ信じられるものを信憑性がないの一言でかたづけることの方が問題だと思います。
#でもコビト国と一緒くたの扱いですよ。
元の発言 [ Re: ここは「古代のロマン:大論争」 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月10日(木)00時10分04秒 ]
私は「邪馬台国=大和国でなくても良い」として
>吉備に650,000人もいた証拠でもあるのでしょうか?大和(寛大な私だから大阪府/南京都府まで含めても良いが)に3世紀半ばの大集落でも
発掘されているのでしょうか?
#と、発言・質問している。そこまで自信たっぷりに発言されておられるのならば、該当する遺跡の名前を5つは上げられるでしょう。「邪馬台国=7万戸」とするならば、近畿全体でも良いが、1集落=1,000人として、650集落必要。1集落=10,000人として、65集落必要。もちろん全ての遺跡が発掘されていないのは理解できるが、北部九州に比べて工場・住宅建設の盛んな関西地区。その10パーセントも発掘されていないという訳もないでしょう。1万人で65集落、1集落=千人ならば650集落、その10パーセントは発掘されているでしょう。その遺跡名を上げて下さい。まさか「九州説は信仰だ、宗教だ!」とおっしゃる<おにりん>さんが、「出てはいないが、ある筈だ!」とのお返事をされるとは思わないので。明確なる根拠に基づいたお返事をお待ちしてます。
元の発言 [ Re: ここは「古代のロマン:大論争」 ] お名前 [ マルガリータ ] 日付 [ 2月10日(木)10時03分09秒 ]
自己レスですm(--)m
>「邪馬台国=7万戸」とするならば、近畿全体でも良いが、1集落=1,000人として、650集落必要。1集落=10,000人として、65
集落必要。もちろん全ての遺跡が発掘されていないのは理解できるが、北部九州に比べて工場・住宅建設の盛んな関西地区。その10パ
ーセントも発掘されていないという訳もないでしょう。1万人で65集落、1集落=千人ならば650集落、その10パーセントは発掘され
ているでしょう。
#を、455,000人、1集落=1万人として45集落、1集落=千人として455集落と訂正しますm(--)m
元の発言 [ Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月10日(木)06時46分19秒 ]
>> #私の貧弱な古漢語の語学能力を顧みずに言えば、ANDが正しい漢文の読み方だと言えます。
この件に関しては、ずっと論議の対象ですからね。
なんとも...
>> #比定が先というのが変な気もしますが。
直線状に国が並ぶとは限らない。ほとんどないと言って
も良いくらいでは。となると、水行の次にまた水行陸行
となる場合、これは、二つの離れた島、また歩いて行け
ないところ、方向がぜんぜん違うと判断しました。
>> #別に無視はしません。重視しないだけです。畿内の「東渡海千餘里」にだって名も無い国のひとつやふたつ有るでしょう。
あるでしょうと、あると書かれているのは違います。
壱岐から松浦までの距離と同程度と書いているのです
から。まあ、これを言えば距離がいいかげんだというこ
とになりますが。
>> #でもストラスブールまで行って、東へ行くと別の国があるって書いたら、普通「それは一体どいつだ?」って思いません?
さぶー... でも、重要な用件ではないでしょう。
>> #でもコビト国と一緒くたの扱いですよ。
倭国(九州として)まで来たのが、めちゃくちゃ遠いと
書いている人たちですから、それから先の話は、畿内が
あっても、もっとずっと遠い国にしかならないでしょう。
仕方ないんじゃないですか。
元の発言 [ Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月10日(木)16時13分58秒 ]
>> >> ANDが正しい漢文の読み方だと言えます。
>> この件に関しては、ずっと論議の対象ですからね。なんとも...
#んなら聞くなおー というのは冗談ですが
議論の対象になっているのは専ら「そう読めば○○に到達できる」で、そういう読み方が漢文として「あるのか」っていう議論はあまり聞きませんね。
最初から、語学的には無理ということを承知の立論なんじゃないかと思うのですが。少なくとも同型の構文をANDで読む例はあるが、ORの例は知りません。
>> 直線状に国が並ぶとは限らない。ほとんどないと言って
>> も良いくらいでは。となると、水行の次にまた水行陸行
>> となる場合、これは、二つの離れた島、また歩いて行け
>> ないところ、方向がぜんぜん違うと判断しました。
#對馬→一大→末盧は?
>> あるでしょうと、あると書かれているのは違います。
#…じゃ、あるんですよ。畿内の「東渡海千餘里」に名も無い国が。
>> さぶー...
#雪も降っとろう。
>> それから先の話は、畿内があっても、もっとずっと遠い国にしかならないでしょう。
>> 仕方ないんじゃないですか。
#んー… 確かにこの話は、心愛さんのような「邪馬台国は畿内に脅かされていた」という説の人対策なんで、yaohideさんには効かないですね。
御無沙汰致しました。
当『大論争』に於いて、「おにりん氏」達と漢字の性質等、揉んだ御蔭で、
標記の大発見に繋がりました。感謝致します。
論文が長いので、宜しかったら、私のHPへ、お越しの上御高覧下さい。
先ずは、御知らせと御案内まで。
元の発言 [ 魏志倭人伝すら、信じない、全てを信じないで妄想にひたる九州説 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月9日(水)16時55分41秒 ]
一対一の議論でエキサイトするのは良くある事ですので、あまり五月蝿いことは申しません。
しかし個々の論者・所説ではなく「九州説」「畿内説」等とひとくくりにした表現は、具体性を欠くので注意して使用してください。
いちおう、まだお願いモードです。
元の発言 [ Re: Title再度問う(承前:ALEXさんへ) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月10日(木)06時27分57秒 ]
ALEXさん、こんばんは。
>1719年来日した朝鮮通信使の申維翰は克明に道中の記録を残していますが、実際滞在した対馬を東西約300里,釜山から佐須浦まで480里,佐須浦から厳原まで260里と書いています。これらは魏里に換算すると倭人伝の数字に近いものです。
これはとても貴重な情報をいただいたと思います。これって、ひょっとして浬(海里)ではないでしょうか?倭人伝にしても、上記にしても海路や島の大きさと言った海に関係した距離を主に記述しています。海洋氏族が使用していた単位かもしれませんよ。もちろん、はっきりはしませんが、便宜上、魏尺に対して以下では海里と表現してみます。
>> 「万二千余里の記録者とここの里数の記録者とが、仮に違っていても、単位としては同じ感覚を持っていたものであると考えます」
>#肝心なとこへ来ました。その根拠は?
>> 結局論点としては、「万二千余里がどのようにして求められたのか?」という事になりそうですが、どうでしょう?
>#そういうことですね。
1.まず、万二千余里も個々の里数も海里で記述されているとします。
その場合、女王国は伊都国の南千五百里、さほど遠くないところに想定できます。甘木、小郡を含む平野部あるいは、筑後川を渡ったあたりまでのどこかでしょう。宇佐も入るかもしれません。
1−イ. 女王国=邪馬台国ならば、伊都国女王国間の千五百里、および投馬国邪馬台国への日数表記の両者を満足させなければなりません。したがって、伊都国からの放射説、水行陸行はORを採ることになります。
ご存知のようにわたくしもずっとこの説を採っておりました。水行は西回り。陸行一月は少々誇大と考えるしかない。
1−ロ.順進的にしか読めないのであれば、この時点で女王国≠邪馬台国になるでしょう。
渡海千里はどう考えても一日の旅程でしょうから。投馬国への水行二十日の間にずいぶん遠くへ行ってしまいます。
この万二千余里の求め方は基本的には、実際に少なくとも倭国まで航海してきた者の経験から導かれた距離であると言ってよいと思います。
2.万二千余里が魏尺であったと考えてみます。
この場合、魏尺の万二千余里マイナス海里の万五百里イコール千五百[
里]にはなりませんよね。この[里]は魏尺で考えればもっと大きくなるはずです。海里で考えればさらに大きくなるはずです。したがって、
>水行十日陸行一月の日程と残余約1,500里には整合性がある。倭國のような情報源の限られた対象について、個々の情報同士が照合できて整合性を検証できることは一種の僥倖といえ、むしろ一方から他方が考証で導出されたと考える方が自然である。
これは成り立たない事になります。差し引きして求められた千五百里の[里]が海里なのか魏尺なのかが判然としないから。
2−ハ.残るのは実数は不明ですが、女王国は伊都国より魏尺の千五百里以上(実際はもっと)南に存在する。ここで魏の一里を約400mとしますと、600km以上南に女王国は存在することになります。私たちは(北部九州説であれ、大和説であれ)、そこに女王国、あるいは邪馬台国があるとは思っていない。
2−ニ.伊都国から東へ行く事にしてみます。この場合も同様に、伊都国・邪馬台国間が魏尺としての千五百里である保証はないわけです。韓の方四千里(これも魏尺としての一里約400mではありませんが)を魏尺だと陳寿が考えたとしましょう。残り五千里、約2000kmのうち、狗邪韓国から南へ伊都国まで行ったとしてもせいぜい200kmから300kmの間ではないでしょうか?
そうしますと、伊都国から邪馬台国まで、約1500km以上の距離になります。
さて、そこはどこでしょう?
と、このように考えてみますと、万二千余里を魏尺であると考えるのは整合的ではない、海里だと考えるのがより自然である。
したがって、整合的なのは1−イ.か1−ロ.のいずれかでしかない、と言う事になりませんでしょうか?
うっふっふっ…。(^o^)
元の発言 [ Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月8日(火)01時51分00秒 ]
おにりんさん、こんばんは。
#それと、「纏向=邪馬台国」の証明は無関係。
#私は、東遷説ではないと何度もレスしています。
自分の研究に勤しんでいて、『紛々たる…』の心境でしたので。
問い1.投馬國はどこですか?
≪答≫
『薩摩』である。倭人は「サ・詰ッ」と発音した。
“사”(sa)=南、巳の意味(古代倭語が朝鮮語に臍の緒を留めている)。
即ち、「南の(行き)詰り」である。其の証拠に『佐多岬』=“사땅”(sa-ttang)岬である。
序に、四国の『佐田岬』=“서땅”(seo-ttang)岬=西の地の岬である。
問い2.其の理由は?
≪答≫A〜D.の何れとも一言では難しいが、強いて言へば“B”である。
※伊都國は江戸時代以前は「伊都」と「志摩」は水道で離れていた。
薩摩に向かうには、伊都國の北の船着場から長崎廻りにに船出する。
従って、所在は南だが、陳寿はおろか郡使は行った事が無いから、委細に拘らなかった。
『末盧國』からの『伊都國』への「東南」だって、初動は正に東南であるが、直ぐに真東へ
進路は変り東に近付くがアバウトの東南である。
伊都國からは、紀行文ではない。
三系統の交通案内表示板である。
(1)東南至奴國(筑紫野市)⇒東行(伊都國からでなく奴國から更に、東へ行く)不彌國。
(2)南至投馬國水行二十日。(九州西海岸には、黒潮反転流が有り、敵対狗奴國を迂回)。
(3)南至邪馬壹國。水行十日陸行一月とは、実に『從郡至倭』に掛かっている。
『夷人は距離を知らず、日を以ってす』で『萬二千餘里』と勝手に換算値を掲載したので、根拠説明に『水行十日陸行一月』を急遽挿入したのである。
何と良心的且つ正確な性格である事か!!!!!!!!!!。驚嘆する。
『至』は郡使が逗留していない、郡役所の出先がない所。『到』は郡役所の出先の有る留まる所である。
九州説には、ドンナ角度から責められても、何ら動じる所がないのである。
ああ言へば、苦しい弁明で、こう言うと、頭を悩ます必要がない。
応えるのが、億劫には成るがネ。
元の発言 [ 海里かも知れませんよ。 ] お名前 [ 慈源 ] 日付 [ 2月10日(木)21時28分48秒 ]
慈源 さん、こんばんは。
>> ひょっとして浬(海里)ではないでしょうか?
#わかりません。或いは、水人の間で伝統的に誤ったロジックの山立てが行なわれていたのではないでしょうか?
対馬は、南北約82qのところ、そのリアス式海岸の総延長が915qという驚くべき長さです。韓国西岸も然り。このあたりに「巨大な韓」の秘密があるようにも思えます。
>> 渡海千里はどう考えても一日の旅程でしょうから。投馬国への水行二十日の間にずいぶん遠くへ行ってしまいます。
#これは正しくないでしょう。18世紀の帆船でも早朝釜山を発って佐須浦につくのが夕暮れ。渡海千里は海峡の幅だけではありません。それに一気に渡海する時のペースを20日キープする事は物理的に無理です。こういうことは紙の上の試算でなく、実際の航海例を引くのがよいと思います。
>> 「水行十日陸行一月の日程と残余約1,500里には整合性がある。」云々は京兆の人の机上の検証法のことを言っているので、「差し引きして求められた千五百里の[里]が海里なのか魏尺なのかが判然としない」ということはありません。海里なるものの存在を知らない以上はすべて魏尺です。
>> と、このように考えてみますと、万二千余里を魏尺であると考えるのは整合的ではない、海里だと考えるのがより自然である。
#消去法なのにぜんぶ引いてないですよ。万二千余里を魏尺と海里の混合と見る選択肢が残っています。万二千余里を誰も測定していない(机上の考証で創りだされた)という選択肢も残っています。ちなみに後者が私の見解。
つまり、消去法を用いるというロジックの選択が誤算なのでは?
うっふっふっ…。(^o^)
元の発言 [ Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月10日(木)17時45分02秒 ]
>> 議論の対象になっているのは専ら「そう読めば○○に到達できる」で、そういう読み方が漢文として「あるのか」っていう議論はあまり聞きませんね。
>> 最初から、語学的には無理ということを承知の立論なんじゃないかと思うのですが。少なくとも同型の構文をANDで読む例はあるが、ORの例は知りません。
そこなんですよ。現代だとORで読めるというような話を
聞いたことがあるのですが、古代の漢文の読み方で、こ
れが決まりだ。正解だと言い切れるのであれば問題はなく
なりますよね。
>> #對馬→一大→末盧は?
だから、それって島でしょ。歩いて行けないから、水行
してますよね。5万戸もある島だったと考えれば別ですが。なぜ投馬国へ上陸したのなら、邪馬台国まで陸行で
いけなかった?
水行も陸行も速度がかわらないのなら、陸行1月と10
日で済んだんでしょう。
風待ちなど、荒天を考えれば、いつ漕ぎ出せるか分から
ない船で行かなくて歩いていけばいいじゃない。
元の発言 [ Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月10日(木)22時47分55秒 ]
>> >> #對馬→一大→末盧は?
>> だから、それって島でしょ。歩いて行けないから、水行
>> してますよね。5万戸もある島だったと考えれば別ですが。なぜ投馬国へ上陸したのなら、邪馬台国まで陸行で
>> いけなかった?
#九州島は知りませんが、山陽道にしても東海道にしても、上古は沖積平野がかなり不安定で、陸路はかなり山側だったようです。とくに山陽は海運が盛んだった形跡が顕著です。
私は、投馬國を海運王の国と考えているのですが。
元の発言 [ Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月10日(木)23時06分01秒 ]
>> #九州島は知りませんが、山陽道にしても東海道にしても、上古は沖積平野がかなり不安定で、陸路はかなり山側だったようです。とくに山陽は海運が盛んだった形跡が顕著です。
>> 私は、投馬國を海運王の国と考えているのですが。
ぼくのイメージでは、畿内説をとった場合の投馬國の
比定地はやはり出雲もしくは吉備だと思うのですが。
ただ、それなら、なぜ片方しか出てこないのか?
吉備、出雲のどちらも畿内にとっては大きな関係の
ある国だと思うのです。
僕の説で、なぜ遠くにあっても重要な国があるのなら
それを書かないと言われたと同じように、吉備を書く
なら出雲はなぜ書かない?ってことなんです。
吉備から出雲なら陸行10日いらないでしょう。
そんな近くに大きな国があったのではないでしょうか。
元の発言 [ Title『最近寡黙者』より〜ALEX氏へ ] お名前 [ 福島雅彦 ] 日付 [ 2月10日(木)22時16分17秒 ]
横から変なレスでスミマセ〜ん。
はじめまして、福島雅彦さんそして、みなさん。ホホデミです。
一応、九州説を支持してます。
私のモットーは、なんといっても、それに、大分と福岡の県境、中津市と日田市(どちらも大分県)の間には、「耶馬溪」があることなんですよ、近畿説のみなさん。ご存知だと思うのですが、さらにこの耶馬溪は、本耶馬溪、深耶馬溪、奥耶馬溪、裏耶馬溪など、奇妙な火山岩と林で織り成す、絶景です。
とにかく一度や二度は現地へ行ってご覧になってみてください。きっと胸打たれますよ。
同じような絶景が、福岡県にもあります。それは、英彦山(ヒコサン)です。英は、後からつけたと聞いてます。ヒコホホデミのヒコがついてる山ですよ。こんな山は近畿にはないでしょう?「耶馬」の名を冠する場所なども近畿にはあるのでしょうか?
なんかお国自慢になっちゃったよーな気もしますが...
伊都國には諸國を檢察する一大率の治所があり、諸國はこれを畏憚しているとあります。
問い1 なぜ本国から直接諸国を検察せず、伊都國に役所を構えたのでしょうか
1 仕事の毎にまいど本国から来るのは日数がかかるので
2 伊都國王は抜け荷の前科があるから
3 じつは一大率は伊都國王だから
4 本国は宗教都市で、政治がらみの施設は置かないから
5 本国は内陸で港がないので
問い2 倭國の王は共立された存在。さて、諸國が畏憚するような役人を派遣するような強権政治をできるのでしょうか?
1 いちど王になったら勝ちなので強権的なのは当たり前
2 畏憚しているのは共立に参加していない外様国だけ
3 畏憚はなんかの間違い
4 一大率を置いたのは中国だ
5 一橋大学卒業の学歴に敬意を表して畏憚している
元の発言 [ Titleまたまたまた問う。 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月11日(金)02時33分46秒 ]
>> 伊都國には諸國を檢察する一大率の治所があり、諸國はこれを畏憚しているとあります。
>>
>> 問い1 なぜ本国から直接諸国を検察せず、伊都國に役所を構えたのでしょうか
>> 1 仕事の毎にまいど本国から来るのは日数がかかるので
>> 2 伊都國王は抜け荷の前科があるから
>> 3 じつは一大率は伊都國王だから
>> 4 本国は宗教都市で、政治がらみの施設は置かないから
>> 5 本国は内陸で港がないので
#”1”と”5”。
伊都国が邪馬台国の首都的な役割を持っていたと考えます。
>>
>> 問い2 倭國の王は共立された存在。さて、諸國が畏憚するような役人を派遣するような強権政治をできるのでしょうか?
>> 1 いちど王になったら勝ちなので強権的なのは当たり前
>> 2 畏憚しているのは共立に参加していない外様国だけ
>> 3 畏憚はなんかの間違い
>> 4 一大率を置いたのは中国だ
>> 5 一橋大学卒業の学歴に敬意を表して畏憚している
#半分”4”。大使館的な役割を持っていたことは、
”魏志倭人伝”にも書いてあります。
魏から兵が派遣されていたということはなく、大陸で使われている武器の供与がされていたと思います。
その武器を使っていたのは倭人で、名目上、その司令官的な役職に就いていたのは中国人であると思います。
”一大率”という名前は中国人の影響を多く受けているところから、日本人がつけた名前であると考えます。ついでに言うと”大倭”という役職名はこの反対で、倭の人間が(名目上か実質的かはわからない)中心にいたために
”一大率”に対してつくられた造語(日本語英語みたいな)でしょう。
元の発言 [ Title『最近寡黙者』より〜ALEX氏へ ] お名前 [ 福島雅彦 ] 日付 [ 2月10日(木)22時16分17秒 ]
福島氏におかれましては
(1)貴殿の掲示板に、大論争自体を貶める趣旨の発言が掲載されております。
(2)貴殿の掲示板を含む複数の掲示板上で、大論争でおこなわれた議論に関して
大論争で行われた議論と違う内容が報告されております。
(3)貴殿の掲示板に、大論争の参加者の人格を貶める発言があります。
以上3点を確認しました。
これらは、大論争に参加していない第三者に悪印象を植え付けるものであり、また信義誠実に悖るものであります。
残念ながら、大論争の趣旨を根本的にご理解いただけないものと認め、当所の「不毛」な議論に関与されぬよう、掲示板への参加をお控え戴く様お願い申し上げます。
参加者の皆さんにおかれましては、掲示板の健全な運営のため、参加者相互の人格の尊重と信義誠実則の遵守に一層の配慮をお願い申し上げます。
元の発言 [ Re: 海里かも知れませんよ。 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月10日(木)22時31分12秒 ]
慈源 さん、おはようございます。…あ、もう昼か。
個々の想定は理解したつもりですが、ロジックの流れが見えにくいので質問です。
1「女王國!=邪馬台国」という想定
2「萬二千餘里を実測した人物がいた」という想定
これはロジックとして、どちらが先にあるのですか?
それから、私の判断は、萬二千餘里が机上の考証でジェネレートされた数値であるという想定です。
計測単位が「正しい里」であろうが「特殊な里」であろうが、はたまたマイルかスタディオンであろうが、萬二千餘里を実測した人物がいたという想定は、結局は倭人伝の原文を「錯誤」として斥けることに行着きます。その「改訂」の程度が、果たして来日した異邦人の方位感覚に一時的な狂いが生じたという想定による「改訂」より大幅であるのか/小幅であるのか;ということなのですが、冷静に判断して如何ですか?
元の発言 [ Re: 追伸 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月11日(金)10時50分36秒 ]
ALEXさん、こんにちは。
>> 1「女王國!=邪馬台国」という想定
#これは「女王国≠邪馬台国」ですね?
>> 2「萬二千餘里を実測した人物がいた」という想定
>> これはロジックとして、どちらが先にあるのですか?
1.です。
イ)倭人伝に登場する難升米以下遣使された人名と邪馬台国の官名が重複しない。
ロ)私の考える「銅鏡百枚」の分布から投馬国を九州島内に想定できない。(これは、おそらく大和説にとって「銅鏡百枚」を何と考え、その分布を考える時もまた投馬国の位置は想定できないような気がいたします)
ハ)先に書きましたが、女王国を主語とした書き方から判断すると大まかには北部九州を想定できる。
二)もうひとつは、いまやっている里の問題。不弥国まではいわゆる海里で書かれている。万二千余里もまたいわゆる海里で書かれているとするならば、すべてがいわゆる海里で書かれていることになりますが、そうしますと日数表記と齟齬が生じる。
これらの事から、女王国≠邪馬台国ではないか、という事です。
2.の「万二千余里」については、別資料である可能性を否定しているわけではありません。それぞれのケースについて考えてみようという事です。
陳寿は魏略を参照しているといわれていますので、すでにこの数値は与えられていたわけです。ギョケンにとってはどうだったのか?ギョケンが参照した資料にもすでに存在していたとすれば、原資料もいわゆる海里で書かれていた可能性があります。ギョケンがはじめて書いたのなら、これは魏尺です。
もちろん、原資料がいわゆる海里だったとしても、陳寿もギョケンも魏尺で考えている。
>> それから、私の判断は、萬二千餘里が机上の考証でジェネレートされた数値であるという想定です。
もちろんこれも分からなくはありません。
>> 萬二千餘里を実測した人物がいたという想定は、結局は倭人伝の原文を「錯誤」として斥けることに行着きます。
錯誤がなかったとは言い切れない。邪馬台国論争になかなか決着が付かないのも、倭人伝そのものの中に錯誤があるからではないかと思います。問題は、どこが?なんですが、千五百里と日数表記が果して同じ物を指していて、表現を変えただけなのかどうか?
> その「改訂」の程度が、果たして来日した異邦人の方位感覚に一時的な狂いが生じたという想定による「改訂」より大幅であるのか/小幅であるのか;ということなのですが、冷静に判断して如何ですか?
質問の主旨を掴み兼ねますが、女王国への方位は間違っていないと思います。本来は女王国≠邪馬台国なのに、=で結び付けてしまったために生じた齟齬があるのではないか?と考えているのです。
では、昼御飯をば。
元の発言 [ Titleまたまたまた問う。 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月11日(金)02時33分46秒 ]
>> 問い1 なぜ本国から直接諸国を検察せず、伊都國に役所を構えたのでしょうか
>> 問い2 倭國の王は共立された存在。さて、諸國が畏憚するような役人を派遣するような強権政治をできるのでしょうか?
#中華冊封体制下にあって、対中華代表権を巡る争いが所謂「倭大乱」であり、
#玄海灘沿岸vs有明海沿岸の争いでもあった。
#結果的に、有明海沿岸の邪馬台国主導で纏まり、それまで対中華代表を出していた玄海灘沿岸のクニを監視する必要があった。
元の発言 [ Re: Titleまたまたまた問う。 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 2月11日(金)19時54分43秒 ]
>> 玄海灘沿岸vs有明海沿岸の争い
>> #結果的に、有明海沿岸の邪馬台国主導で纏まり、それまで対中華代表を出していた玄海灘沿岸のクニを監視する必要があった。
#「玄海灘諸国=外様」説に一票ということでokですか?
元の発言 [ Re: 古富波山古墳から ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月2日(水)13時35分21秒 ]
おにりんさん、こんにちは。
>> >> 小字ナシメという所に東田大塚があります。
>> この小字ナシメって、難升米ですかね。
>> #ちょっとやりすぎか?
そう言えば、誰かそんなことを言っていた人がいたような....
#東田大塚から「魏率善中郎將」の銀印が出たりして。
元の発言 [ Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月10日(木)23時53分05秒 ]
>> ぼくのイメージでは、畿内説をとった場合の投馬國の
>> 比定地はやはり出雲もしくは吉備だと思うのですが。
>> ただ、それなら、なぜ片方しか出てこないのか?
>> 吉備、出雲のどちらも畿内にとっては大きな関係の
>> ある国だと思うのです。
#ん! これは一本とられた。
出雲の位置付けについては宿題にさせていただきます。
ところで話しを戻すと、やはり投馬國の位置については、これを「北」にしないのは原文改訂に当ると言えるはずですが、この点は如何ですか。
元の発言 [ Re: ここは「古代のロマン:大論争」 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月11日(金)18時32分14秒 ]
鳥取県の人口が最新調査('95年)で61万5千人です。邪馬台国の7万戸が正しいとすると45万5千人。もちろん「面積が違う」との反論もあるでしょうが、それには「時代が違う」とお答えしたい。
そもそも環状集落は無くなっても、集落がなくなった訳もありません。まさかテント生活でもあるますまい、非邪馬台国の民は。それとも東遷説が正しくて、非邪馬台国の民は全て東国に追いやられ、纏向の王族以外は誰も住まない無人の荒野となったのでしょうかね。
これで貴方との論争は終結します。
元の発言 [ 告示 (福島氏の発言について) ] お名前 [ 管理人 ] 日付 [ 2月11日(金)09時30分07秒 ]
>> 福島氏におかれましては
>> (1)貴殿の掲示板に、大論争自体を貶める趣旨の発言が掲載されております。
>> (2)貴殿の掲示板を含む複数の掲示板上で、大論争でおこなわれた議論に関して
>> 大論争で行われた議論と違う内容が報告されております。
>> (3)貴殿の掲示板に、大論争の参加者の人格を貶める発言があります。
>> 以上3点を確認しました。
>> これらは、大論争に参加していない第三者に悪印象を植え付けるものであり、また信義誠実に悖るものであります。
>> 残念ながら、大論争の趣旨を根本的にご理解いただけないものと認め、当所の「不毛」な議論に関与されぬよう、掲示板への参加をお控え戴く様お願い申し上げます。
大変、御無礼致しました。
貴『大論争』其の物を誹謗したり、賤しめた積もりでは有りませんでしたが、管理人様に御不興を買った上は、是非も有りません。潔く退場致します。大変御世話に成りました。皆様の実り有る論争の御発展を祈念致します。
御機嫌よう!
元の発言 [ Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月11日(金)21時03分30秒 ]
>> #ん! これは一本とられた。
>> 出雲の位置付けについては宿題にさせていただきます。
わ、ありがとうございます。出雲はどうしても気になる
存在なので。
>> ところで話しを戻すと、やはり投馬國の位置については、これを「北」にしないのは原文改訂に当ると言えるはずですが、この点は如何ですか。
ですから、行っていない国で、水行二十日かかる土地で
北から西へ船で進んでそれから南へという話なので、
現在の地図からみれば、南の端なのですが、彼らには
わからなかった。
これは原文改訂とは少し違うんですよ。
元の発言 [ Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月12日(土)00時15分43秒 ]
>> ですから、
>> 行っていない国で、←《yaohideさんの推理》
>> 水行二十日かかる土地で ←《史料上の事実》
>> 北から西へ船で進んでそれから南へという話なので、←《yaohideさんの推理》
>> 現在の地図からみれば、南の端なのですが、彼らには ←《yaohideさんの推理》
>> わからなかった。 ←《yaohideさんの推理》
#対するに
「女王國以北」 ←《史料上の事実》
#ね? やっぱり原文改訂に当るでしょう。
それでは
○航路が放射式だから、2つの終点のどちらが南か「わからなかった」
ということなら
●史料の上で実際は、どちらが南でどちらが北かを記載できている
ならば
∴航路は放射式ではない
ということになりませんか?
元の発言 [ Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月12日(土)01時32分23秒 ]
>> #対するに
>> 「女王國以北」 ←《史料上の事実》
>> #ね? やっぱり原文改訂に当るでしょう。
???
そうかなー?まあ、彼らが行ってないと勝手に判断してる
わけだから。
>> それでは
>> ○航路が放射式だから、2つの終点のどちらが南か「わからなかった」
>> ということなら
>> ●史料の上で実際は、どちらが南でどちらが北かを記載できている
>> ならば
>> ∴航路は放射式ではない
>> ということになりませんか?
それはないでしょう。
国がさいの目のように正確に並んでいると考えるのには
無理がある。
たとえば、上を北にして
c
xxyyyy
xxxxbyy
aaaabby
aaabbbb
aabbbbb
zzbbbbb
のように領地があった場合
c地点から出発するとして
どちらもcよりは南だし
xを通らなければaに行けない。
同じことがbにも言える。
これで、aはbの南なのか
北なのか。
元の発言 [ Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月12日(土)08時20分42秒 ]
>> >> それでは
>> >> ○航路が放射式だから、2つの終点のどちらが南か「わからなかった」
>> >> ということなら
>> >> ●史料の上で実際は、どちらが南でどちらが北かを記載できている
>> >> ならば
>> >> ∴航路は放射式ではない
>> >> ということになりませんか?
>> それはないでしょう。
>> 国がさいの目のように正確に並んでいると考えるのには
>> 無理がある。
#べつの、そういう想定はしていません。
当時の「○○至××…」という書き方は、ふつう郡治や国邑(いわば首都)どうしの方位と距離を書きますから、点と点の関係なんです。
北と書いてあれば北にあると認識している=比較できた;ということでしょう。
比較不能に違いない《推理》から、北と書いてある《史料上事実》けれど、南にあってもよい《結論》というのは、やっぱり原文無視でしかないですよ。
元の発言 [ Re: Title関東の東海土器 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月2日(水)13時00分34秒 ]
ALEXさん、当世奇妙さん、おにりんさん、
こんばんわ。
質問です。
#現地土器と、東海の土器の融合は見られませんか?
九州についても同じ疑問があります。
庄内式土器が九州にも広がっているのはわかりますが、もともとあった現地の土器と何故融合しないのでしょうか?
両方の特徴を備えた土器は見つかってないのでしょうか?
#畿内か九州かは置いといてもらって、桓帝・霊帝の時代の動乱や、気候的な事情によっての移住は考えられませんか?
元の発言 [ Re: Titleまたまたまた問う。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月11日(金)23時15分01秒 ]
>> #中華冊封体制下にあって、対中華代表権を巡る争いが所謂「倭大乱」であり、
>> #玄海灘沿岸vs有明海沿岸の争いでもあった。
>> #結果的に、有明海沿岸の邪馬台国主導で纏まり、それまで対中華代表を出していた玄海灘沿岸のクニを監視する必要があった。
>>
>>
#西日本全体を巻き込んだ戦乱だったと思います。
>>
>>
#戦乱の根本は飢餓でしょう。人口の増加と寒冷期による
食料の不足が本州を中心に起きて、それが戦乱につながった。九州はそのあおりを食ったのではないでしょうか?
これにより流民が発生し、畿内の土器と共に九州に流れ込んだと考えています。
元の発言 [ Re: Titleたまたま答える。 ] お名前 [ 池ちゃん ] 日付 [ 2月12日(土)10時30分27秒 ]
#畿内から九州に流れ込んだということは、
平和な時代には、交易関係にあったか。血のつながりがあったか。はたまた両方か。
いずれにしても、何らかのツテがあったのでしょう。
元の発言 [ Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月12日(土)12時30分21秒 ]
>>
>>
>>
ALEXさん、いつもどうもです。
おにりんさん、どうも。
はー、ぼくはあまり本を読んでいないので知らないの
ですが、そういう人もいるんですね。
これは、僕もずっと前に書いたんですが、イメージという
のがあると思うのです。
まして、正確な地図が無い時代ですから、苦しい解釈に
みえますが、あり得る話だとは思います。
まあ、彼らが直接行ってたら全然違うのはわかるかも
しれませんが、それでも現代でも道に迷うときという
のは、方向がわからなくなったときでしょう。
北に進んでいるつもりが、実は南に向かっていたという
ことは多々あることだから。
方向と距離がかならずしも一致しないことはあると。
これはやっぱ改訂かな....???
澄んだ瞳シリーズ:対馬海流1−2を掲載しました。
元の発言 [ Re: Titleたまたま答える。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月12日(土)11時56分43秒 ]
おにりんさん、こんばんわ
>>
>>
>>
#買ってません。今のところ、ポップスに飽きると
「R・B」の音楽を車で聞いています。個人的に
「R・B」はゲームより音楽のほうが好きなので。
(いい、お話ではありますが、音楽ほどインパクトがないように思うのです。これも個人的な意見ですが。)
#「フィルスノーン」やりたいんだけど、DCのゾンビ達がやらせてくれないの(T.T)グスン・・・(^^;。
**************************************************
>> #西日本全体を巻き込んだ戦乱だったと思います。
>>
>>
#そうですね。ただし、条件付です。関東は関東でも、北陸に近いほうです。今で言う群馬のあたり。この辺にも高地性集落があります(もっともこれは、3世紀中ごろのものです。「桓帝・霊帝の時代の倭の戦乱」とは時期がずれますが、戦乱の起こる下地はあったと思う)。
>> #戦乱の根本は飢餓でしょう。人口の増加と寒冷期による
>> 食料の不足が本州を中心に起きて、それが戦乱につながった。九州はそのあおりを食ったのではないでしょうか?
>> これにより流民が発生し、畿内の土器と共に九州に流れ込んだと考えています。
>>
>>
>>
>>
>>
#以前にもお話しましたが、30国全て九州島に入ります。庄内式土器の流入は畿内説の根拠ともなり得ますが、倭国の大乱で勢力が細分化されていたと考えれば、九州説の根拠ともなるのです。
元の発言 [ Re: Titleまたまたまた問う。 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月11日(金)20時16分12秒 ]
>> #「玄海灘諸国=外様」説に一票ということでokですか?
#関ケ原があったわけでも、統一されて幕府が出来たわけでもないので「外様」はどうでしょう。
#伊都国が“一女子”共立メンバーで、奴国が「武装解除」されたかも知れませんが。
#「普代」とか「外様」とは、“外”の“様”におもいますが。§^。^§
元の発言 [ Re: Titleまたまたまた問う。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月11日(金)23時15分01秒 ]
おにりんさん、こんばんは。
>>
>>
#どうみても、大和説が前提でしょう。
>>
#「かってに」と言ういい方は、何所かに中心を求めなければ収まらない一元史観です。
#新発見のたびに右往左往するのは止めて、自分自身の史観を持ちませんか。
#古くから中華王朝と直接交流していた九州の勢力には、近畿に一女子を共立する必要はありません。
元の発言 [ Re: Titleたまたま答える。 ] お名前 [ 池ちゃん ] 日付 [ 2月12日(土)19時49分37秒 ]
おにりんさん、池ちゃんさん、こんばんは。
>> #以前にもお話しましたが、30国全て九州島に入ります。庄内式土器の流入は畿内説の根拠ともなり得ますが、倭国の大乱で勢力が細分化されていたと考えれば、九州説の根拠ともなるのです。
#近畿の分家が、九州の本家を頼って来たと言う仮説は以前レスしましたネ。
#そのまま留まった者は、交易で食料を手に入れたかも知れませんよ。
#その場合、熱効率のよい庄内式土器は良い産品かも、
#九州の土器が大和に搬入されなくて、吉野ヶ里に(大和系)庄内式土器が廃棄されている理由になるんじゃないかな?
#外に近畿の産品ってありましたっけ、そうだ!三角縁鏡を忘れちゃいけない。(^o^)
元の発言 [ Title九州に東海土器:オヤジッチ殿への ] お名前 [ 当世奇妙 ] 日付 [ 2月1日(火)08時32分21秒 ]
当世さん、こんばんは。
#了解しました。
>> 東海のS字甕が佐賀平野と福岡で庄内式平行時期に出ているとのことです。
#「吉野ヶ里」から出てないのは確かですが、1月号に載せた二個のS字口縁壺は、佐賀平野のに含まれているんでしょうネ。
#福岡平野のを探してみましょう。
>> 出典は「弥生時代の考古学」です。九州に行った時に現物を見たいですね。
>> その前のページで石野氏が纏向では最初九州の土器が無いとされていたが、最近かなり
>> 北九州の土器があると言う説がある。南九州の土器は1点だが明らかにあると発言
>> しています。土器の移動の意味するところはまた論争が必要ですね。
#当世さんが言われたように、祭祀土器で無いものは交易による移動と思います。
#それと、土器製造は専門職人によるものだと思いますので、職人の移動による可能性があるのでは?
#土師器のように、それまでの土器より軽く、火の通りがよいものを作れる職人であれば何所へ行っても歓迎され、一つの村が彼の製品に全て置換わっても可笑しくは無いでしょう。
元の発言 [ Re: Title関東の東海土器 ] お名前 [ 池ちゃん ] 日付 [ 2月2日(水)19時25分01秒 ]
>> ALEXさん、当世奇妙さん、おにりんさん、池ちゃんさん、こんばんは。
#スレッドの件を補足します。
#村中角遺跡(佐賀県諸富町)から、東海の山中式中期に初源を持つとされる、口縁部に棒状浮紋が付されたパレス壺が出土していました。
>> 庄内式土器が九州にも広がっているのはわかりますが、もともとあった現地の土器と何故融合しないのでしょうか?
>> 両方の特徴を備えた土器は見つかってないのでしょうか?
>> >> 庄内式期の土器そのものが、大和の中では、纏向なんて
>> >> いう、辺鄙なところあたりから出てきたっていうか。
#北部九州では、柏田式などが確認される以前に、西新式とそれに続く最古式土師器を庄内式土器と言っていたようです。
#庄内式土器と庄内式期土器を混同してはいかんです。
#ALEXさん、
#殆どの土器が庄内式だとされている遺跡名を教えて下さい。
#確認してみます。
#また、
#庄内式土器と西新(新)〜柏田式土器の区別は何所にあるんでしょう。
#西新式は、庄内式の技法と違いがありますでしょうか。
#教えて下さい。
元の発言 [ Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月12日(土)12時30分21秒 ]
同じく、すいません、ちょっと割り込みますが、
#伊都国(平原)から奴国(須玖岡本)は、正に東南ですってば!
水行十日陸行一月ですが、うちの留学生にこの文を見せたら、AND説でした。
しかし、前後の文を見せてくれと言われて、全文見せたところ、これは
どちらとも取れるということです。
「古代の中国の漢文は簡単です。一つの文字にいろいろな意味があります。
ですから、この文章は難しい。水行の後陸行したともとれるし、船なら
十日、馬なら一月みたいな意味もとれます。」
ということで、残念ながら、正解はわかりませんでした。
ぼくがどうしても気になるのは、半島において、二つの倭?の存在が混同されて
その結果訳がわかりにくくなっているのではないかということです。
公孫氏の話が出てきますが、たしか公孫淵が死んでから魏に卑弥呼が使いを
出していませんか?違ったっけ?
公孫氏と外交があったのは、九州勢力と近畿勢力(出雲を含む)どちらも
あったんではないでしょうか。
そう考えないと、瀬戸内や玄界灘の制海権を近畿勢力はいつ頃から持っていた
のだろうとなると、随分時代が古い方へ向かって行かなくてはいけないと思うのです。
それでは、九州の中国との古い交流の話がおかしくなってくるのではないでしょうか。
瀬戸内を制した吉備(僕は、吉備勢力が畿内を目指したと考えています)が、
玄界灘を自由に航行できるようになるには、九州勢力の力が落ちてこない限り
難しいと思います。
卑弥呼の死後、戦乱となった九州を目指した吉備が、邪馬台国の残党と組んで
畿内に国を作ったと勝手に思っているのですが。
というわけで、二つの倭国があったほうが、わかりやすくないですか?
元の発言 [ Re: 古富波山古墳から ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 2月2日(水)12時53分06秒 ]
koujiさま、こんばんは。喜ぶのはまだ早いですぞ〜。(^○^)
当世おぢさま、こんばんは。哀しむのはまだ早いですぞ〜。(^^ゞ
むしろわたくしは慶賀すべきことと思っています。黒糖「珊瑚」で気持ちよくなっているので、先に見通しを書いてしまいましょう。ちょっと乱暴ですけれど。その前に、古富波山は古冨波山のマチガイでした。富ではなく冨でした。m(__)m
さて、現状の大和の出土状況では、当世さんのおっしゃるように、
>*「弥生時代の考古学」1998年出版で石野氏が
>庄内式土器と三角縁神獣鏡が一緒に出た例は一つも
>無いと数回強調していました。
このとおりでしょう。でも、大和以外で庄内期のお墓から三角縁神獣鏡が出たという事は、三角縁神獣鏡は、大和に入る前にすでに日本列島に入っていた事を意味します。そして、布留期に大和へ入ったことを意味しております。布留期の上限は溯っても260年でしょう。これもあくまでも寺沢氏の言う上限を取った上での話です。「銅鏡百枚」が、もたらされたのが240年ですよね。これから布留0年まで、三角縁神獣鏡が大和へ入っていないと言う事は、三角縁神獣鏡は「銅鏡百枚」ではないと言う事になります。 また、三角縁神獣鏡は大和に(あるいは近畿に)厚く、日本列島各地から出土していますが、その現象も布留期以降からという事になります。つまり、女王卑弥呼の時代からは、二十年以上の年代差がある事になります。
つまり、三角縁神獣鏡は「銅鏡百枚」ではないし、箸墓が卑弥呼の墓だとしたら年代が合いません。
またが日本列島に勢力を伸ばしはじめたのも、布留以降と言う事になります。
(koujiさん)
>庄内期のうちに大量の三角縁神獣鏡が作成されている。
いや、これは必ずしも言いきれないでしょう。少なくとも、形態分類としての第三段階までは、庄内期のうちに出現したという事だと思いますよ。
>製作時期が重なると考えられる消耗品である土器の分布も同じような傾向を示しているとすれば、もはや確定的ではないでしょうか。
いいえぇ、大和から出ていない事が重要なのではないでしょうか?(^○^)
もっとも、いまのところ中山大塚は庄内期と考えてよいかと思いますが、ご承知のように盗掘に遭っています。2.5x2.0cm余りの破片と鏡縁部を検出したのみです。これほど、細かく拾っているのですから、やっぱり三角縁神獣鏡は出なかったと考えてもよいと思いますが、まあ、完鏡のまま盗掘されていればもちろん破片も残りません。だから、なかったとは断言できないでしょう。あったとも言えません。
>。三角縁神獣鏡の起点はいずれにせよ240年頃ですから、寺澤編年で庄内期も残すところあと20年〜40年ぐらいといったところです。大体一世代か長く見ても二世代。この間に大和で営まれた三角縁神獣鏡を副葬するような首長墓がどのくらいあるのでしょうか。大した数ではないですよね?
古墳そのものは、布留以前からあるわけですから、ご指摘の年代に全くないわけではないでしょうし、三角縁神獣鏡が大和に入っていれば、盗掘に遭っても、たとえば割れたりしたものとかの破片が残っていますよね。桜井茶臼山のように。
>残る、纏向勝山・矢塚、東田大塚あたりに何が入っているのか、順次調査がおこなわれているようですから、この辺も楽しみですね。
勝山は昨年の初夏に行った時は、後円部の竹薮が取り払われていました。近いうちにまた行ってみましょう。
まずはホケノ山ですネ。(^○^)
元の発言 [ Re: 随分深くなったので 水行十日陸行一月について ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月13日(日)01時06分39秒 ]
>> ALEXさんあたりは、類例をご存知ないですかね?
# 山海經東山經に「又南水行三百里、流沙百里、曰北姑射之山」ほか数例あって、これらが直線かつAND式記載と確認できる例です。時代的にも近いでしょう。
ORで読む同じ構文は知りません。
あえて言えば
舊唐書地理志安南府驩州「至京師陸路一萬二千四百五十二里、水路一萬七千里」
が似ていますが、「陸路」「水路」では相当意味が違います。「路」という文字じたいに「行き方」という意味がありますから、これはORで読むのが自然です。同じ陸路なら「北路」「南路」という言いまわしは良く見かけますが、当然ORです。それに千年ちかく後の文章ですから、類例としては採用できないでしょう。
元の発言 [ Re: 二つの倭 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月13日(日)00時52分32秒 ]
>>
>>
今使譯所通三十國ですから。30はありますが
そう言う意味ではない。大きく分けて二つの勢力
があったのではないかと。
すべての窓口が一大率ですか?
元の発言 [ Re: 追伸 ] お名前 [ 慈源 ] 日付 [ 2月11日(金)12時14分10秒 ]
慈源さん、こんにちは。
>> >> 1「女王國!=邪馬台国」という想定
>> これは「女王国≠邪馬台国」ですね?
#C風の書き方でして h(^0^)
>> >> 2「萬二千餘里を実測した人物がいた」という想定
>> >> これはロジックとして、どちらが先にあるのですか?
>> 1.です。
>> イ)倭人伝に登場する難升米以下遣使された人名と邪馬台国の官名が重複しない。
>> ロ)私の考える「銅鏡百枚」の分布から投馬国を九州島内に想定できない。(これは、おそらく大和説にとって「銅鏡百枚」を何と考え、その分布を考える時もまた投馬国の位置は想定できないような気がいたします)
>> ハ)先に書きましたが、女王国を主語とした書き方から判断すると大まかには北部九州を想定できる。
>> 二)もうひとつは、いまやっている里の問題。不弥国まではいわゆる海里で書かれている。万二千余里もまたいわゆる海里で書かれているとするならば、すべてがいわゆる海里で書かれていることになりますが、そうしますと日数表記と齟齬が生じる。
これらの事から、女王国≠邪馬台国ではないか、という事です。
#とするとロジックとしては
1「女王國!=邪馬台国」の川上に
ハ)女王国→「大まかには北部九州を想定」
二)万二千余里→すべて「海里」
があり前提条件の一部を形成しているわけですね。
一方で
2「萬二千餘里を実測した人物がいた」という想定
は
1「女王國!=邪馬台国」よりも川下にあるわけですので、
この想定に可能性を限定しないで
二)万二千余里→すべて「海里」
を求める必要が生じます。
ところが、萬二千餘里の実測を前提にしないで、二)万二千余里→すべて「海里」と合理的に推定できるでしょうか?これは不可能であると思います。
この点は如何ですか?
元の発言 [ 関係ない方向のスレッドになるかもー。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月13日(日)01時04分20秒 ]
おにりんさん、おはようございます。
**************************************************
>>
#痕、東鳩はわかるけど・・・”1”と”正規”???
>>
>>
#音楽は毎回いいですね。ただ、個人的には
”ビジュアルノベルシリーズ”からゲームとしての質が落ちていってるような気がします(厳密には”一文字シリーズ”以降)。”一文字シリーズ”の時にような意気込みで
何か出して欲しいですね・・・でも、CDはほしいです。
>>
>>
#綺麗な絵が基本的にはすきなのですが、ゲームは全般的にすきなので、濃かろうが薄かろうが評判さえよければ、手を出しますね。ストーリー重視派なのでストーリー的に面白くなければ、すぐに止めます。
だから仮に、ゲームを最後までやっても、ストーリー的に納得いかないような作品は「くそゲー」になります。
例えば「FF7・8」ですね。
*************************************************
>> #以前にもお話しましたが、30国全て九州島に入ります。庄内式土器の流入は畿内説の根拠ともなり得ますが、倭国の大乱で勢力が細分化されていたと考えれば、九州説の根拠ともなるのです。
>>
#はい、そうです。
>>
#そうですが?
>>
#???
卑弥呼のいた時代は九州北部にあって、台代の西晋朝貢のときは、畿内です(マキムク)。
魏志倭人伝に言う
女王国の東、海を渡ること千余里、また国があり、みな倭種である。
の”倭種”が畿内にあったクニの勢力圏のことで、台代の時代になってからこの方向にに移動してマキムクに至った・・・というのが私の東遷説です。
他の東遷説と違うのは、この東遷が相当前の時代から
”段階的に”行われていたということです。
元の発言 [ Re: 追伸 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月13日(日)02時54分26秒 ]
ALEXさん、こんにちは。
>> #とするとロジックとしては
>> 1「女王國!=邪馬台国」の川上に
>> ハ)女王国→「大まかには北部九州を想定」
>> 二)万二千余里→すべて「海里」
>> があり前提条件の一部を形成しているわけですね。
ニ)はあくまでも、そのように解することができる、という事です。そのように解せば、イ)ロ)ハ)が指し示すと私が考えている女王国≠邪馬台国の考え方と矛盾しないと思います。
>> 二)万二千余里→すべて「海里」
>> を求める必要が生じます。
>> ところが、萬二千餘里の実測を前提にしないで、二)万二千余里→すべて「海里」と合理的に推定できるでしょうか?これは不可能であると思います。
ご指摘の通りです。原資料が果してどちらかであったのか?次の倭人伝中の二文から迂遠ですが考えてみます。
1.>計其道里當在會稽東冶之東
(その道里を計るに、当に会稽の東冶の東にあるべし)
2.>参問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里
(倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周旋五千余里ばかりなり)
いずれも、推量を示す文章だろうと思います。魏略逸文にも見られない。ともに推量したのは誰か?私は陳寿だと思います。なぜ、このように推量したのか、それはあらかじめ「万二千余里」が与えられていたからでしょう。狗邪韓国までの七千里に周旋五千余里を加えたものが「万二千余里」ではない。逆だと思います。「万二千余里」から狗邪韓国までの七千里を差し引いたものが五千里。この五千里について考えを廻らせたとき、上記1.2.の推量が陳寿によって導かれた。
つまり、陳寿の前には、まず「万二千余里」があった。2.に、七千里を加えて「万二千余里」になったのではないという事です。
もちろん、ここでも元々の「万二千余里」が魏尺であったのか、いわゆる海里であったのかの判断は付きませんが、不弥国までを記した第一次記録者が、女王国まで行ったか、あるいはたとえば伊都国でおおよその距離を聞き取った可能性はあると思うのです。
「うーん、どぎゃんでしょうかねえ。そうねえ。伊都から末盧を通って一大まで行くぐらいの距離じゃなかろかねぇ」
なあんて。ちょっとC調?
ALEXさんが、当初から魏尺であったとお考えになる理由は何でしょうか?
では、昼御飯をば。(^o^)
元の発言 [ Re: Titleまたまたまた問う。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月13日(日)00時55分45秒 ]
こんばんは、にはちょっと早いか。
>>
>>
#中華王朝の権威衰退と、狗奴国との争い、韓半島の経営失敗で国力が落ちてきたため、大和の似非神鏡に惑わされたのでしょう。
#とどめは、大和が出雲、吉備辺りの鉄生産を抑えたから。
元の発言 [ Re: 二つの倭 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月13日(日)00時52分32秒 ]
こんばんは。
>>
いろいろな考え方がありましょうが、文化的、経済圏的に一つと見るのが正しいでしょう。
>>
#庄内式期の纏向への搬入土器には、西瀬戸内から南関東までのものがありますが、北部九州のものはありません。
#布留式甕は、庄内式甕(←庄内式土器の標識)からは生じ得ないと言うことはどうします。
#反応が無いのでここでもう一度、奴国は博多ではありません(波打ち際だ)、春日丘陵部で、平原の“東南”です。
元の発言 [ Re: またまた(ーー;) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月13日(日)00時30分40秒 ]
こんばんは。
ここを見ずに、下の方にレスしちゃって失礼しました。
>> #伊都国(平原)から奴国(須玖岡本)は、正に東南ですってば!
>>
>>
#一般的には、春日丘陵を奴国の中心といいます。
#そもそも、博多という地名をどう考えてます?
#福岡市博多区ですか、博多駅周辺ですか、中州と御供所川の間でしょうか。
#何れにしろ、三世紀前後は干潟と砂浜です。
>>
#前原は市ですか、前原市の北端は志摩町ですが半島なのでその北端からは東南になりますが、トウナンだ。
>>
>>
#末盧国は、壱岐から見える最短の場所、呼子です。
>>
#庄内ドキ(時期)を厳密に規定する人の言とも思われんです。(^o^)
元の発言 [ 当在と参問 ] お名前 [ 慈源 ] 日付 [ 2月13日(日)12時15分55秒 ]
慈源 さん、こんばんは。
>> つまり、陳寿の前には、まず「万二千余里」があった。2.に、七千里を加えて「万二千余里」になったのではないという事です。
#翰苑註に「魏略曰:自帯方至女國萬二千餘里」とありますから、陳寿の前にまず「万二千余里」があったのは事実であろうかと思います。
「周旋可五千餘里」に、七千里を加えて「万二千余里」になった…という主張はあまり説得力がないように思います。ただ、これは本題とあまり関係ないですね。
>> 不弥国までを記した第一次記録者が、女王国まで行ったか、あるいはたとえば伊都国でおおよその距離を聞き取った可能性はあると思うのです。
#ということは、その時点で帯方〜不弥の各距離は判明し;記録されていた;という設定ですね。ところがそれに、新たに聞き取られた距離が加算されて「万二千余里」が得られたとすると、何故その「聞き取られた距離」が記録から消え、代わりに女王国までの「所要日数」が残るのでしょうか?不可解であります。
>> ALEXさんが、当初から魏尺であったとお考えになる理由は何でしょうか?
#いや別に、そのようなことは考えておりません。私の見解は、「女王所都までの里数は誰も実測していない」ということです。私はただ、京兆の人がすべてを「正式の里」で考えると言っているまでです。
もちろん、当時の中国人が使用する距離の単位は「正式の里」しかないと考えていると言う意味では「当初から魏尺」と言えなくもありませんが。
元の発言 [ 日本海沿岸から近畿までのの経路について、再投稿です(1月31日だったから) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月2日(水)02時46分46秒 ]
>>
おにりんさんが、なぜ邪馬台国と公孫氏が関係していたと
言っていたのか、疑問に思っていましたが、三国志の韓伝
に記載されている倭が公孫氏に属していると書かれている
ことを根拠とされていたのですか。
韓伝の倭は、韓と境を接していると書かれていますので、
これは、倭人の条に書かれている卑弥呼が都した邪馬台国
が属する倭の国々どの国でもない倭ですよね。
と言う事は、邪馬台国と公孫氏は、何の関係も無いと言う
ことではないのですか。
元の発言 [ Re: 二つの倭 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 2月13日(日)18時40分40秒 ]
オヤジッチさん、ご無沙汰、でもないか(^0^)
1:奴国が博多ではなく、「福岡」という可能性はありませんか?
2:関西から3世紀半ばの遺跡が出土している所をご存じですか?
yaohide さん、こんにちは。
>> これは、僕もずっと前に書いたんですが、イメージという
>> のがあると思うのです。
>> まして、正確な地図が無い時代です《中略》
>> 北に進んでいるつもりが、実は南に向かっていたという
>> ことは多々あることだから。
>> 方向と距離がかならずしも一致しないことはあると。
#それは実際あることです。おおまかな地理感が間違っていると、昇る朝日を見ていても方位を間違うことがあります。(実例)
ただ、それを言うなら
「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月」
が実は「東」でも責められませんよ。
>> これはやっぱ改訂かな....???
#改訂ですよ。
でも、「無牛馬」と書いてあっても、いるものはいるんですから、すべて改訂は悪というのは暴論でしょう。要は裏付けの有無です。
まぁ、はっきりしたのは
「九州説は方位の記述に忠実だが、畿内説は改訂ばかり」
というスローガンが必ずしも事実でないということです。
元の発言 [ Titleまたまたまた問う。 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月11日(金)02時33分46秒 ]
遅レスです。
ALEXさん、こんにちは。
>> 問い1 なぜ本国から直接諸国を検察せず、伊都國に役所を構えたのでしょうか
>> 1 仕事の毎にまいど本国から来るのは日数がかかるので
>> 2 伊都國王は抜け荷の前科があるから
>> 3 じつは一大率は伊都國王だから
>> 4 本国は宗教都市で、政治がらみの施設は置かないから
>> 5 本国は内陸で港がないので
1。郡使が来るくらいですから、最大の交易港だったのでは?
その意味では一大率=中国人説にも高い可能性をみています。
>> 問い2 倭國の王は共立された存在。さて、諸國が畏憚するような役人を派遣するような強権政治をできるのでしょうか?
>> 1 いちど王になったら勝ちなので強権的なのは当たり前
>> 2 畏憚しているのは共立に参加していない外様国だけ
>> 3 畏憚はなんかの間違い
>> 4 一大率を置いたのは中国だ
>> 5 一橋大学卒業の学歴に敬意を表して畏憚している
5…なわけないでしょ!(誰もつっこまないので(笑))
1と4ですかね。
元の発言 [ Re: 二つの倭 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 2月13日(日)18時40分40秒 ]
どうも。ま さです。
>> #反応が無いのでここでもう一度、奴国は博多ではありません(波打ち際だ)、春日丘陵部で、平原の“東南”です。
そうそう。意外とみなさんが「古代において沖積平野に人は住み難い」ことを知らないのは不思議。
津とはだいたい河口や入り江にあり、後背地に丘陵を持つところです。
元の発言 [ Re: Titleまたまたまた問う。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月14日(月)13時20分17秒 ]
かなり後の話になりますが、「大和朝廷」が津司をあちこちに置いたとする見方があります。
東北大の高橋教授の説で、青森県十三湊の語源は遠長(とおおさ)なんてのもあります。
元の発言 [ Title投馬國はいづこ(承前) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月14日(月)11時27分05秒 ]
>> ただ、それを言うなら
>> 「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月」
>> が実は「東」でも責められませんよ。
まあ、どっちもどっちだから、こんなに論争が続いている
わけで...
>> まぁ、はっきりしたのは
>> 「九州説は方位の記述に忠実だが、畿内説は改訂ばかり」
>> というスローガンが必ずしも事実でないということです。
改訂というのは難しい問題ですが、もともと記述が確かで
あればこんな問題は起きないのであって、その原文をある
程度は変えなければ邪馬台国には到達しないでしょう。
倭と日本の問題もあるし、投馬国が吉備なら、出雲はど
うして書かれていないのかという問題もありますし。
30国中国に認知されていたのだから、大きな勢力が
2つや3つあったと考えるのが当然。
大和朝廷になるには、まだ時間がかかります。
元の発言 [ Re: 割り込んですみません>二つの倭 ] お名前 [ ま さ ] 日付 [ 2月14日(月)13時23分42秒 ]
>> そうそう。意外とみなさんが「古代において沖積平野に人は住み難い」ことを知らないのは不思議。
>> 津とはだいたい河口や入り江にあり、後背地に丘陵を持つところです。
#住みにくいだけでなく、海の底だった所も多いのです。大阪城だって、信長が攻めた時は、島だったのです。東京:湯島も古代には島、尾張の津島も中世以前は島、大阪の枚方も昔は「平潟」、梅田は「埋めた」。
「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ、モツの美味しいのは炭火焼(^0^)]
元の発言 [ Re: 割り込み歓迎 ] お名前 [ マルガリータ ] 日付 [ 2月14日(月)14時45分31秒 ]
>> #住みにくいだけでなく、海の底だった所も多いのです。大阪城だって、信長が攻めた時は、島だったのです。東京:湯島も古代には島、尾張の津島も中世以前は島、大阪の枚方も昔は「平潟」、梅田は「埋めた」。
>> 「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ、モツの美味しいのは炭火焼(^0^)]
今一番欲しいのは、弥生時代〜古墳時代の正確な地図(笑)
江戸周辺や大阪湾岸なんか海の底ですし。
私は数年前に仕事の関係で建設省などのハザードマップというものを見たのですが、昭和中期でさえ洪水が起これば人口密集地は水浸しです。
まして川が蛇行している古代なら、定住できないでしょう。
元の発言 [ Re: Title投馬國はいづこ(承前) ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月14日(月)13時37分09秒 ]
ALEXさん、yaohideさん、こんにちは。
割り込みしてすみませんが、ひとこと。
>> まあ、どっちもどっちだから、こんなに論争が続いている
>> わけで...
これが、現在の結論でしょう。
私は東遷説ですが、その時期については未だ決めかねています。
これが2世紀以前なのか?3世紀の前半なのか?後半なのか?4世紀(?)なのか?
これによって結論が北部九州、関西と全く変わってしまいます。
一応東遷は数度にわたったものと考えておりますので、現状では魏志時代には宇佐かどこか北部九州だと漠然と認識している、というのが正確なところです。
それぞれ弱い点があるからこそ決着がつかないのです。
あとは、その人によって資料の価値判断に相違があるからでしょうか。
飛んだハヤシライスさん、こんにちは。
飛んだハヤシライスさんの『Re: 布留0式≒250年 or 紀年鏡=魏鏡』(2月9日(水)02時52分06秒)への遅れ馳せのレスです。
>> >#まあ、いずれにせよご承知のとおり、現に中国から誤った紀年の鏡が出土している例がある
>> ごめんなさい。ご承知ではありません。教えてください。(^^ゞ
王仲殊氏の『三角縁神獣鏡』(学生社)に出ていたはずですが....今度調べておきます。
以前書いたことといささか重なりますが、いわゆる舶載三角縁神獣鏡については、現在、次のようなことが言えると思います。
(1)最初期に景初三年・正始元年の紀年鏡があり、この頃から三角縁神獣鏡の製作が開始されたと考えられます。
(2)神像のデザインなどから主に三派の工人群の存在が推定できるにもかかわらず、外区のデザインはほぼ一定しており、外区の断面と笠松型文様の変遷が各派に共通して認められています。従いまして、大部分の三角縁神獣鏡は、大枠に一定の縛りがかかった中で各派が製作を継続していたものと考えられます。
(1)の紀年鏡(及び極少数の原初三角縁神獣鏡)と(2)の間には、あるいは生産体制の大きな変化を想定する余地があるかもしれませんが、(2)の期間の途中には考えにくいのではないでしょうか。そうすると次のようになると思われます。
(A) (1)と(2)が両方とも日本での出来事だとすれば、(1)と(2)の間に大幅な時間的なずれを認めることは難しいと思います。その間、作鏡師たちは何をしていたのでしょうか。
(B) (1)と(2)の間に時間的なずれがあるとすれば、この間、作鏡師たちは日本にいなかったと考えられます。従って、(2)が日本での出来事だとしても、(1)は違うということになると思います。
>> (あ)紀年鏡群は、銅鏡百枚の一部である。
>> (い)紀年鏡群は、239年に工人とともに列島に入ったか、列島で製作された。
>> (う)紀年鏡群は、布留0期ごろ渡来した工人が持って来た。
>> 不思議な事に、椿井大塚山からも黒塚からも紀年鏡が出ていない。また、三角縁神獣鏡はあるけれど、不思議な鏡群が出ていない。
景初三年鏡鏡は二種二面。景初四年鏡は一種二面。正始元年鏡は一種三面。全体でもこれだけしか出ていない鏡です。特定の古墳に入っていないのがおかしいとは言えないと思います。
>> だから、私は(い)だと思うんです。
上記の(A)の場合は、舶載三角縁神獣鏡魏(・西晋)鏡説とも矛盾しませんし、飛んだハヤシライスさんが書かれた(い)も考えられますが、日本に来た直後から大和で三角縁神獣鏡の作成を開始したということになると思います。
(B)の場合は、(あ)ということになると思います。(う)は、何で景初三年から正始元年の紀年鏡ばかりなのか説明が難しいと思います。もっとも渡来した工人が卑弥呼への下賜鏡を製作した工房の工人であるということであれば別ですが。具体的に言うと、卑弥呼への下賜鏡である景初三年・正始元年鏡を製作した陳さんが、この時の試作鏡である景初四年鏡や安満宮山の陳是作鏡を携えて、後に日本に来たということであれば可能性はかなりあるでしょう。つまりこの場合は、紀年鏡には(あ)と(う)が混在していることになります。
>> じつは十日ほど前に、安満宮山古墳を見てきました。パンフレットが置いてあって、それに出土した鏡の写真が載っていますが、斜縁「吾作」二神二獣鏡は共伴した三角縁神獣鏡と比較しますと、格段に出来がいいです。しっかりした彫りです。別の工人だと思います。
そりゃあ、斜縁神獣鏡にも三角縁神獣鏡にもいろんな工人がかかわっていますでしょう。陳さんは中国人でしょうから、日本に来て三角縁神獣鏡を作ったとしても、日本に来る以前に中国で作っていた鏡もあるはずですよね。
実は、ここ二・三日の間、近藤義郎さんの『前方後円墳の出現』(岩波書店)を読んでいたら、まだ十分理解できないながら、なんか変な気になってきました。近藤さんは、宮山形特殊器台と都月形円筒埴輪の共存を祭祀の継続という観点から捕らえているので、宮山形は都月型より古いということになります。宮山形特殊器台を出した古墳は今のところ、吉備の宮山、大和の箸墓・西殿塚・中山大塚・弁天塚の五基で、箸墓・西殿塚は陵墓指定ですからどうにもなりませんが、他の三基からは三角縁神獣鏡は出てきておりません。宮山形特殊器台を出さず都月型円筒埴輪だけの古墳は八例ありますが、そこまで下っても、三角縁神獣鏡と確実に共存している例は、権現山51号墳だけだというのです。逆に舶載三角縁神獣鏡のみを出した九例の古墳(ここには黒塚は入っていないはず)には、権現山51号墳以外には、宮山形特殊器台はもちろん都月型特殊器台もないということです。三角縁神獣鏡の副葬が一般化するのは実はかなり遅れるのであって、都月型特殊器台の頃までは、古墳によって入る鏡の種類は違っていたのかもしれませんね。
元の発言 [ 歓迎していただきありがとうございます ] お名前 [ ま さ ] 日付 [ 2月14日(月)14時53分13秒 ]
>> 江戸周辺や大阪湾岸なんか海の底ですし。
>> 私は数年前に仕事の関係で建設省などのハザードマップというものを見たのですが、昭和中期でさえ洪水が起これば人口密集地は水浸しです。
>> まして川が蛇行している古代なら、定住できないでしょう。
#レーダーが既にあった米軍統治下の時代でも、東京下町を襲ったキャスリン・キティは如何なる犠牲者をもたらしたか?伊勢湾は海から遠く離れた名古屋駅でも25cmの水と6,000人の犠牲者。
前触れもない「野分け」の時代の犠牲者の多さよ。戦争と災害を知らない子供達は、アー、やんぬるかな。
火山灰のない地方でも、なぜ遺跡は地中にあるのか?当時は微高地であったであろうに、その上を覆う火山灰でない土砂はどこからか?
元の発言 [ Re: またまた(ーー;) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月14日(月)02時11分55秒 ]
おにりんさん、こんばんは。
#山立ての出来ない「渡海」では、里数を計測する事は出来ません。
#有視界航行一日で、千里です。
>>
>>
#布留0式は、庄内新式と併行じゃないんですか。
元の発言 [ Re: それは、九州説の人に聞くことではないのでは? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月3日(木)00時06分37秒 ]
>>
その書き方はちょっと失礼じゃないかい。
大和説者は倭人と倭国の区別もできないってことに
なりますよ。
元の発言 [ Re: Titleまたまたまた問う。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月14日(月)13時24分06秒 ]
#「外様」の意味が違いましょ。
>>
#どちらが中心か、と言うような考えはしてないでしょうネ。
>>
#どういうふうに違ってますか?
元の発言 [ Re: たまたま答える&”付録”おたくな会話 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月14日(月)01時59分20秒 ]
#わたしのレスを、まったく逆に解釈してます。
#奴国同盟(玄海灘沿岸)を裏切って、邪馬台国連合(有明海沿岸側)についたと言ったんですヨ。
元の発言 [ Re: Titleまたまたまた問う。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月14日(月)02時06分07秒 ]
あの、誤解されてません?
>> >> まあ、近畿説、大和説の場合には、なにゆえ九州勢力が近畿勢力に下ったのか、
>> >> というのを、説明できないといけませんね。
>>
>>
>>
>>
#私は、二世紀末に「九州勢力が近畿勢力に下った」とは思えない九州説ですから上のレスになります。§^。^§
>> #中華王朝の権威衰退と、狗奴国との争い、韓半島の経営失敗で国力が落ちてきたため、大和の似非神鏡に惑わされたのでしょう。
>> #とどめは、大和が出雲、吉備辺りの鉄生産を抑えたから。
>>
>>
#考古学的にはネ。
#製鉄遺跡は、まだまだ後でしょう。
元の発言 [ Re: 二つの倭 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月14日(月)01時15分50秒 ]
>> #庄内式期の纏向への搬入土器には、西瀬戸内から南関東までのものがありますが、北部九州のものはありません。
>>
#例えば?
>>
#考古学的中心が、社会的中心だと言うのが大和説の根拠じゃないんですか。
#「一つの遺跡をとって、それが女王国の中心とはいえないはず」と言い換えましょう。
>>
#順序が逆です。字も違ってるし。(ーー;)
#奴国の港だから、“那津”です。
>>
>>
#方位は間違ってると見るからそう思うだけ。(^o^)
#単独の方形周溝墓と、首長層の墳丘墓があることは事実です。
元の発言 [ Re: 二つの倭 ] お名前 [ マルガリータ ] 日付 [ 2月14日(月)10時49分03秒 ]
マルガリータさん、ご無沙汰、じゃないです(^0^)
>> 1:奴国が博多ではなく、「福岡」という可能性はありませんか?
#何度かレスしています通り、福岡平野が奴国だと思っています。
#伊都国と奴国の間の早良平野に国名が無いので、奴国に含まれていたとも考えられます。
#西新、吉武などを含む平野にクニが無いのは変だと思ってます。
>> 2:関西から3世紀半ばの遺跡が出土している所をご存じですか?
#庄内式併行期の遺跡のことですか?
#「庄内式期=三世紀中葉=古墳過渡期」と思いますが。
元の発言 [ Re: 再度、大歓迎 ] お名前 [ マルガリータ ] 日付 [ 2月14日(月)19時25分01秒 ]
>> #レーダーが既にあった米軍統治下の時代でも、東京下町を襲ったキャスリン・キティは如何なる犠牲者をもたらしたか?伊勢湾は海から遠く離れた名古屋駅でも25cmの水と6,000人の犠牲者。
>> 前触れもない「野分け」の時代の犠牲者の多さよ。戦争と災害を知らない子供達は、アー、やんぬるかな。
>> 火山灰のない地方でも、なぜ遺跡は地中にあるのか?当時は微高地であったであろうに、その上を覆う火山灰でない土砂はどこからか?
#今は、有明海から7〜8`離れている「吉野ヶ里」も三世紀には港だったんだし。
#すぐ横を城原川が流れてたんです。
元の発言 [ Re: Title投馬國はいづこ(承前) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月14日(月)14時56分30秒 ]
>>
>>
#庄内式併行期の北部九州の土器(所謂、西新式)は、庄内式土器とは顕著な違いがあります。
#東海式土器もまた異なる様相を持っています。
#庄内式土器と布留式土器は系統を異にし、0式期は併行しています。
#そこからは、本格的な連合状態あるいは緩い統一過程を窺うことは出来ません。
元の発言 [ Re: たまたま答える&”付録”おたくな会話 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月14日(月)01時59分20秒 ]
おにりんさん、こんばんわ
-----キョウミノナイカタハトバシテクダサイ---------***********************************************
>> #痕、東鳩はわかるけど・・・”1”と”正規”???
>>
>>
#ああ、なるほど。
>>
>>
#ありがとうございます。
>>
#やらん方がいいです。がっかりします。
(・・・と言いながら結局買ってしまうんだなぁ・・・)
>>
>>
>>
>>
>>
#ビジュアルノベル形式にして、選んだ選択肢によって
それぞれの説のシナリオに行く・・・なんてのはどうです?
または”○U-○O”みたいなパラレルワールド的なものとか・・・私はパソコンの知識ゼロですから、かんがえることしかできませんがね。
>>
>>
#山陰・山陽を巻き込んだ一大スペクタクルができそうですね。
**************************************************----------- ドーモ、シツレイシマシタ -------------
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
#”大和氏の説”はここではじめて聞きましたが、なるほどよく似ていますね。
違うのは”倭種の国”というのが畿内にあったクニの勢力圏だったといこと。
”畿内”という言葉を使ったので誤解されてしまったようですが、私も近畿であるとは思っていません。
これは”畿内を中心とした国々”という意味で、九州勢力には正式な国交がないことから”倭種”という言葉を使ったと考えています。
投馬国の所在については三瀦郡・下妻・上妻郡の辺(八女あたりまでを含む)を考えています。
>>
>>
#「伊都国が邪馬台国の首都的な役割を持っていた。」
というのが私の持論ですから、東遷に何らかの形でかかわっていたと思います。
>>
>>
>>
>>
#どうでしょうねぇ。机上の論理的な考え方なら、それもあるとは思いますが・・・証拠があるわけではないんですが、倭人伝の地理の記事って、伝聞がほとんどだと思うのですよ。その伝聞の出所は、倭にきた外国人に付いた”案内人”だと思うのです。だから、案内人の主観で”渡海”といったら瀬戸内海の沿岸航路のことだと思います。たしかに、伊都国から対馬海流にのれば隠岐・佐渡どころか、北海道だっていけますけど、出雲があるでしょう。途中に。知っての通り、出雲は邪馬台国政権とは断絶状態にあったわけです。そういうクニの港に入りながら、先の僻地に進む・・・とは考えないと思うんです。”渡海”の主観を案内人にもっていけば、日本海沿岸よりも瀬戸内海沿岸だと思うんですね。瀬戸内海もまったく危険がないとは言いませんが、山陽がダメなら四国・・・という手もあるわけですから。
>>
>>
>>
#正式に国交がなかったということならどうでしょうか?
何度も書きますが記録者の筆は、案内人の言葉に左右されるものです。事に地理に関しては。
その案内人は国に選ばれたエリートであるわけです。今で言えば、国家公務員のなかでも高い地位の人間であるわけです。憶測やでっち上げなんていえない立場の人間なわけです。そういう人間が国交がないものを国交があるように言うことはないと思うのです。”倭人伝”にある
「女王国の東・・・・」という文章は、案内人のそのままの言葉に近いんじゃないかと思うんです。さらに言うと、
「敵対してる」とは言ってないんですね。敵対していれば
そのとおりに言うはずですよね。ということは、
「非公式ながらおつきあいがある。」
か「音信不通」のどちらかということになります。
しかし、庄内式土器は九州からも出土しているわけで、
「音信不通」ということもないでしょう。
これらを考え合わせると、やはり、前者の
「非公式ながら・・・」という結論になるのです。
>>
>>
>>
#同感です。奴国王が後漢に朝貢した時点では、かなり大きな勢力が畿内にはあったのは証明されていますよね。
だから移って行った年代はさらにさかのぼります。ただ、これが”東遷”といえるほどの大げさなものなのかはわかりませんがね。むしろ、”移民”と考えたほうが自然かもしれません。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
#策略による征服だったのでしょう。征服者たちの策略好きは記紀にも書かれている通りです。
ただ、彼らは本当に策略がすきだったわけではなく、必要に迫られたのではないかと思うのです。策略を使わなければいけないほど自分たちの武力は心もとなかった・・・自分たちの連れてきた兵隊が少なくなると、自分たちの身が危なかった・・・つまり、損害を恐れるほど兵力の補強が”難しい状況にあったということになるわけです。
元の発言 [ Re: 当在と参問 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月13日(日)22時54分36秒 ]
ALEXさん、こんばんは。
>私の見解は、「女王所都までの里数は誰も実測していない」ということです。
漢書地理志や他の風俗記事から判断すると、倭人はタン耳・朱崖と近いようである。洛陽からハノイまで一万一千里、洛陽から、合浦郡廉州まで九千二百里。などから、万二千余里が求められた。ということかもしれません。
この万二千余里が実測で求められていないとすれば、残余の千五百里は意味を持たなくなりますので、日数表記のみが有意な情報ということになります。
この日数表記がどのようにして得られた情報なのか、また読み方についてはひとまず措いて、ここでは方位について考えてみます。
(だ)>南、投馬国に至る水行二十日。
(る)>南、邪馬壱国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月。
(ま)>女王国より以北、その戸数・道理は得て略載すべきも、その余の旁国は遠絶にして得て詳かにすべからず。
(さ)>(その余の旁国を列記)次に奴国あり。これ女王の境界の尽くる所なり。その南に狗奴国あり。
(ん)>その道里を計るに、当に会稽の東冶の東にあるべし。
(が)>女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。諸国これを畏憚す。常に伊都国に治す。
(こ)>女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり。
素直に読めば、まあ九州島の南、まさに会稽東冶の東、南西諸島あたりが、女王国=邪馬臺国の位置になる。陳寿はそう考えていた。でも私たちは違うと考えております。
そこで、たとえば、投馬国、邪馬臺国の方位の「南」が「東」の間違いであったとしますと、ここだけの間違いならば、女王国は伊都国の南にありますし、邪馬台国は東にありますので、女王国≠邪馬台国になります。 「女王の都とする所」、この女王が卑弥呼ならば、卑弥呼は邪馬臺国におり、女王国が伊都国の南に別に存在する事になりましょう。倭の女王卑弥呼が女王国にいたとしますと、邪馬臺国は、投馬国もおなじく倭人伝に記された大国のひとつという事になります。
では、その他の方位についてはどうでしょうか?
考え方としては、ふたつあると思います。
1.上記のように元々の資料は記されているが、これは南を東に読み換えるにしたがって、それぞれを、90度ずつ方位の変換を行うべきだ。
2.元々の資料は違う方位で記されていたが、倭人伝を記述するに当って、上記の如く変換した。
設問の仕方がおかしいですか?
なぜこのような設問をするかと申しますと、まず行程についての方位に誤解があったとします。それは第一次記録者の誤解でありましょう。また、陳寿自身の誤解もあったでしょう。しかしながら、上記には、聞き取りに基づく記述もあると思うのです。(さ)(が)などは、聞き取りだと思います。これなどは、もともとから方位もこのとおりであったとすると、どのような位置づけになるのでしょうか?
一方、投馬国、邪馬臺国への方位は本来東なのだけれど、女王国=邪馬臺国と考えたために、「南」と記述してしまった、そう考えられなくもないと思ふのですが、いかがでせうか?(^o^)
元の発言 [ Title:論文館「その2」 ] お名前 [ 心は愛知県人 ] 日付 [ 2月12日(土)15時18分00秒 ]
>> 澄んだ瞳シリーズ:対馬海流1−2を掲載しました。
今日(14日)朝日新聞夕刊の文化面に
「聖徳太子は実在しなかった」論の紹介が載ってますね。
澄んだ瞳シリーズ最終章にはちと困ったことになりませんか。
あるいは澄んだ瞳シリーズの方がもっとアクロバティックな
結論かな?
聖徳太子実は半島人説とか。
元の発言 [ 三角縁神獣鏡をめぐって ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 2月14日(月)17時51分39秒 ]
koujiさん、こんばんは。
> (A) (1)と(2)が両方とも日本での出来事だとすれば、(1)と(2)の間に大幅な時間的なずれを認めることは難しいと思います。その間、作鏡師たちは何をしていたのでしょうか。
これは以前からkoujiさんが疑問を出しておられますよね。私は、239年工人渡来説ですので、この疑問にはお答えしなければなりませんが、あくまでも仮説としては、おそらく彼等、あるいは二代目(第二波の渡来の工人を含む)が、布留以降大和で生産を始めるまでの間、列島内の青銅器工房で作鏡していたのではないか、この考えからまだ離れられないでおります。
ですから、布留以前の古墳から出てきても良さそうに思うのですが、これはいま蒸し返すには資料も知識もありませんし、イリヒコさんから叱られます。(^^ゞ
> 景初三年鏡鏡は二種二面。景初四年鏡は一種二面。正始元年鏡は一種三面。全体でもこれだけしか出ていない鏡です。特定の古墳に入っていないのがおかしいとは言えないと思います。
布留以降の大和の古墳群でも開いていないのがまだまだありますから、まだなんとも言えないでしょうが、椿井大塚山にしても黒塚にしても、大量の鏡を持っていますので、大きな力を持った被葬者であったろうと思われます。紀年鏡群がまさに、卑弥呼の遣使と関連するのならば、意味のある鏡だと思うのです。でも実際は、神原神社古墳は景初三年一枚のみ、森尾古墳三号室も正始元年一枚のみ、広峰15号墳も景初四年銘一枚のみ、蟹沢古墳が、正始元年銘、獣紋帯三神三獣鏡、内行花文鏡の三枚。竹島古墳が正始元年銘、劉氏作銘画像鏡、ほか三角縁神獣鏡一枚の三枚。というように、必ずしも大量の鏡を副葬した古墳ではない。これらの紀年鏡は本当に卑弥呼の遣使と関連するのだろうか?むしろ、公孫氏の滅亡後、渡来したと考えたほうがよいのではないかと思うのです。公孫氏の領域では小型ですが、三角縁の鏡も出ておりますし、斜縁鏡も出ていますので。
> (B)の場合は、(あ)ということになると思います。(う)は、何で景初三年から正始元年の紀年鏡ばかりなのか説明が難しいと思います。もっとも渡来した工人が卑弥呼への下賜鏡を製作した工房の工人であるということであれば別ですが。具体的に言うと、卑弥呼への下賜鏡である景初三年・正始元年鏡を製作した陳さんが、この時の試作鏡である景初四年鏡や安満宮山の陳是作鏡を携えて、後に日本に来たということであれば可能性はかなりあるでしょう。つまりこの場合は、紀年鏡には(あ)と(う)が混在していることになります。
なかなか興味深い説です。
が、銅鏡百枚は洛陽において皆装封されていると考えてよいと思いますが、そのとき、五枚の景初三年、正始元年鏡のみが抜擢されたのでしょうか?そして、布留期に近い頃渡来したのなら、後年の紀年鏡が存在しても不思議ではないですよね。ですから、景初三年、あるいは正始元年に渡来したと考えるほうが説明は付きやすいのではないかと思うのです。
上にも書きましたように、ルーツは、楽浪・帯方あたりだと思いますが、まだ出土していない。楽浪からは前漢鏡、後漢鏡を含めて110枚近くの出土例がありますが、その中にも入っていないところから判断すれば、やはり国産と考えざるを得ない。
>近藤義郎さんの『前方後円墳の出現』(岩波書店)
ご紹介有り難うございます。面白そうですね。私も読んでみます。紀年鏡群の年代と、三角縁神獣鏡が実際に副葬される古墳群の年代とのギャップをどう考えるのか?ですね。
koujiさんがお書きになったのもひとつの興味深い説です。
では、私は、布留以前のしかも大和以外のお墓から三角縁神獣鏡が出ることを期待しましょう。それが本当にあるのならば、240年頃渡来した工人たちが大和へ入るまでの足取りがつかめると思うので。
百年河清を俟つ事になるのかしら。(-_-;)
元の発言 [ Re: 方位について ] お名前 [ 慈源 ] 日付 [ 2月14日(月)23時47分18秒 ]
慈源さん、こんにちは。
「万二千余里の全体について、一定の単位で計測され表現されている」という想定には、結局なんら根拠を見出すことは出来ないということに、同意を頂いたと考えてよいでしょうか?(^0^)
>> (だ)>南、投馬国に至る水行二十日。
>> (る)>南、邪馬壱国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月。
>> (ま)>女王国より以北、その戸数・道理は得て略載すべきも、その余の旁国は遠絶にして得て詳かにすべからず。
>> (さ)>(その余の旁国を列記)次に奴国あり。これ女王の境界の尽くる所なり。その南に狗奴国あり。
>> (ん)>その道里を計るに、当に会稽の東冶の東にあるべし。
>> (が)>女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。諸国これを畏憚す。常に伊都国に治す。
>> (こ)>女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり。
>> 投馬国、邪馬臺国の方位の「南」が「東」の間違いであったとしますと《中略》
>> 上記には、聞き取りに基づく記述もあると思うのです。(さ)(が)などは、聞き取りだと思います。これなどは、もともとから方位もこのとおりであったとすると、どのような位置づけになるのでしょうか?
#「聞き取り」であって聴取内容の原形を留めていると考えるためには「魏人の観察結果と思われる部分」もしくは「編纂者の考証と思われる部分」を含まない必要があるでしょう。
まず、異論はあるかもしれませんが(だ)(る)の日数を観察結果とみます。
次に、(ま)ですが、これは戸数・道理情報の濃淡があることの理由を述べている編纂者の所見ですが、観察者の報告どおりかも知れません。
次に、(さ)ですが、これは遠絶旁國のことで、聴取内容どおりかも知れません。
(ん)は考証ですが、「当在」は断定に近い確信を持った推量の書き方です。
(が)についてですが、一大率の治所が伊都國にあることは、ここを「郡使往來常所駐」としている魏人の当然知るところであります。魏人自身が十分に情報収集できる地域のことですから「諸国これを畏憚す」も観察結果と思われます。
(こ)は、これは遠絶旁國よりも更に先のことで、聴取内容であろうと思います。
以上から(さ)(こ)は、聞き取りで、もともとから方位もこのとおりであったとすると、どのような位置づけになるのでしょうか?
仮定「投馬国、邪馬臺国の方位の『南』が『東』の間違いであった」より
1.女王國,邪馬臺國ともに伊都國の東
2.(さ)より狗奴國は、奴國2もしくは「女王境界所盡」の南
3.(こ)女王國より東渡海千餘里に倭種の国あり
>> 一方、投馬国、邪馬臺国への方位は本来東なのだけれど、女王国=邪馬臺国と考えたために、「南」と記述してしまった、そう考えられなくもないと思ふのですが、いかがでせうか?(^o^)
#考えられなくもない…とゆーか、矛盾が生じないわけですが…「人知を超えたエロヒム星人の科学力により…」という仮定もあらゆる不思議を矛盾なく説明できますけど有難くないですよ。 =f(+.+)f=
元の発言 [ Re: Title投馬國はいづこ(承前) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月14日(月)22時13分39秒 ]
どうも、おにりんさん、こんにちは。
>>
>>
肯定します。ただ、その後にも東遷(という規模ではないかも)があったのでは?と思っています。
>> 一応東遷は数度にわたったものと考えておりますので、現状では魏志時代には宇佐かどこか北部九州だと漠然と認識している、というのが正確なところです。
>>
>>
「に」です。「が」のころには関西かもしれない。断言はしませんがこの点では池ちゃんさんや大和氏に近い。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
以降の記述は冗談とみて頂きたいのですが(笑)
記紀の天照の描写は、天岩屋戸以前と以後では違っているんですね。
以前は天照が単独で行動しているけれど以後では高木神と一緒に行動している。
高木神の娘と天照の息子との間の子がいわゆる「天孫」ニニギです。
紀の一書では神武とニニギの混同があります。
神武の妻は、旧事本紀によると大和大物主の娘です。
ストーリーとして似たようなことはあったのではないか?というのが私の出発点です。
このとき、天岩屋戸を仮に247or8年の日蝕と考えます。
以後の天照はトヨという訳です。
そうすると、邪馬台国=高天原は移動していないで、子孫は大和に入ります。
あくまで血縁関係で大和を乗っ取った形なので、邪馬台国から見れば大和は属国。
ただ力は大和優位。
そのうち分家が本家を滅ぼしてしまう(笑)
小説なら面白いんですが、断言できないのが辛いところです。
最近土器編年が言われますが、埴輪の編年はどうなんでしょう?
埴輪は、やはり古墳の造成時に置かれたものではないでしょうか?
土器の編年と埴輪の編年、いくつかの要素を複合的に見ていかないと
やはり年代の確定は難しいのではないでしょうか?
埴輪の編年は重要ではないのですか?
現在でも、瀬戸物といわれる、瀬戸・多治見と名古屋近辺でもいろいろ
焼き物がありますが、最近は有田もどきや、九谷もどきなんかが結構幅
を利かせていたりします。
客に受けるデザインは取り入れるのが人間ですから、時代が変わっても
気質はそれほど変わらないのではないでしょうか。
その点を考慮に入れないと、とんでもない勘違いもあるのでは?
最近、銅鐸の話が出てこないですよね。そんなに銅鐸は古いのだろうか?
長く続くのは理解できますが、忽然と消えてしまうとは。
なぜ消されたか?畿内説の方は結構古く見られていますが、東海では
遅くまで続いていたと思われます。でも、尾張は早くから畿内と手を結ん
だと言われている方も見えるようで。
どうしても、銅鐸が気になるのですが。
いつ消えたのでしょうか?
元の発言 [ Re: 熱烈、大歓迎 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 2月14日(月)22時43分36秒 ]
>#今は、有明海から7〜8`離れている「吉野ヶ里」も三世紀には港だったんだし。
#7,000m÷1,750年=4.000000000000m
オッー、ジャスト「年4m」ではないか(^0^)
> #すぐ横を城原川が流れてたんです。
#オッー、城のあった平らな所を川が流れていたのか!
元の発言 [ Re: またまた(ーー;) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月14日(月)21時57分16秒 ]
>> #山立ての出来ない「渡海」では、里数を計測する事は出来ません。
>>
>> #有視界航行一日で、千里です。
>>
>>
>>
#夜間航行の出来ない時代でっせ。
#有視界航行をしようと思ったら、目的の島が見えなきゃしょうがないっしょ。
>> #布留0式は、庄内新式と併行じゃないんですか。
>>
>>
#「庄内新式=布留0式」なんてとんでもない!系譜が異なると言うのが定説です。
#片や「叩き目・球形」、片や「刷毛目・撫で消し」、河内では庄内式甕と布留式甕が菅振遺跡で並存しているそうです。
元の発言 [ Re: Titleまたまたまた問う。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月14日(月)22時19分33秒 ]
>> #どういうふうに違ってますか?
>>
#失礼!
#奴国系の青銅器と、伊都国系のそれとがどう違ってますか、とお尋ねしました。
#江南系と言うなら、それは南部九州でしょう。
#北部九州は、「結合釣針」の時代から半島系です。
元の発言 [ Re: ちょっと! ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月14日(月)22時29分21秒 ]
>>
#嫌いじゃありません。§^。^§
>>
>>
>>
#掌握、盟主、倭王のどれとも違うと考えています。
#「一女子を共立」する時代まで、ズーと「首長連合」的なものだったと思います。
#連合の範囲が次第に拡大していき、それまで輪番制あるいは共立だった代表権を自分の身内に世襲、独占しようと考える者が出てきた時、権力闘争が始まった。
#それが、多くの「乱」の始まりでしょう。
元の発言 [ Re: Titleまたまたまた問う。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月15日(火)00時55分31秒 ]
>>
#そのような考古学的証拠はありません。
>>
#それは対する積極的反論は有りませんが、「東遷」と言うのは不適切でしょう。
>> #製鉄遺跡は、まだまだ後でしょう。
>>
>>
#難しいとこですネ。
#北部九州から出土する鉄器、鉄素材の全てが半島からの舶載とするには多すぎるように思うのですが、
#砂鉄(背振山系に多い)を精錬していた可能性もありますが、今のところ考古学的な物証はありません。
元の発言 [ Re: 二つの倭 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月15日(火)01時11分24秒 ]
>> >> #庄内式期の纏向への搬入土器には、西瀬戸内から南関東までのものがありますが、北部九州のものはありません。
>> >> ありませんとも、いえませんとも、いろいろあります、みてください。
>> #例えば?
>>
>>
#だれです?
>>
#中心一元説そのものじゃないですか。(^o^)
>>
>>
>>
>>
>>
>>
#“呉、公孫氏よりの大和勢力”≠“魏、中華王朝よりの女王国”ですネ。
>>
>>
#二世紀末に発生した纏向勢力が、たちまち九州まで専制的支配権を及ぼしたなどとは思えません。
>>
#庄内期以降も、以前も“移動”ではなく多元的並立でしょう。
>> #奴国の港だから、“那津”です。
>>
#いずれにしても、おにりんさんの言う“博多”は三世紀の福岡平野で中心ではありえません。
>> #単独の方形周溝墓と、首長層の墳丘墓があることは事実です。
>>
>>
>>
>>
>>
#三世紀の力関係ではなく、伊都国から奴国への方位の話でしょう。
#この時代に、伊都国が奴国に優越していたかどうかはともかく、
#奴国(福岡平野)の中で、首長が居た所を探すとなれば、春日丘陵しかないでしょう。
#その中でも、須玖岡本遺跡群あるいは老司周辺となるでしょう。
元の発言 [ Re: 熱烈、大歓迎 ] お名前 [ マルガリータ ] 日付 [ 2月15日(火)16時46分10秒 ]
>> >#今は、有明海から7〜8`離れている「吉野ヶ里」も三世紀には港だったんだし。
>> #7,000m÷1,750年=4.000000000000m
>> オッー、ジャスト「年4m」ではないか(^0^)
#まっこと、その通り。
>> > #すぐ横を城原川が流れてたんです。
>> #オッー、城のあった平らな所を川が流れていたのか!
#まあ、水利の無いところに文明が興たためしはありますまい。§^。^§
元の発言 [ Re: Title投馬國はいづこ(承前) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月14日(月)23時00分59秒 ]
>>
>>
#土師器は古墳時代の弥生土器(酸化炎焼結)であって、
#古墳過渡期のものを古式土師器と定義しているのです。
#それと、報道で“近畿系土器”と言った場合、近畿から搬入土器と在来技法で形を真似た土器があります。
#吉野ヶ里から出土した“近畿系土器”は破片で、土質が悪く殆ど溶けていたが、僅かに叩き目が有ったので“庄内式”とされました。
#津古生掛古墳出土の土器は、二次口縁が大きく開く二重口縁壺ですが、板叩きに磨研と言う須玖式土器の技法のように見えます。
#経済活動の範囲を表す指標にはなりますネ。
元の発言 [ Re: たまたま答える&”付録”おたくな会話 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月15日(火)00時05分38秒 ]
>>
>>
>>
#北朝鮮は中国とお付き合いがあっても、日本とはないですよね。
で、日本は中国とお付き合いがあっても、北朝鮮とはないわけです。
簡単に言うと九州と畿内の関係がこうなのではなかろうかということです。
想像ばかりで恐縮ですが、公孫氏とお付き合いしていたのが畿内の勢力。公孫氏滅亡を聞いて魏に朝貢したのが
九州の勢力という考え方を持っています。
卑弥呼の朝貢の際に魏に送られた”生口”の中にその公孫氏の一族がいたのではないでしょうか?公孫氏の滅亡によって、国外である九州に逃げてきた人間もいた可能性も強いと思います。
>>
>>
>>
>>
>>
>> その案内人は国に選ばれたエリートであるわけです。今で言えば、国家公務員のなかでも高い地位の人間であるわけです。憶測やでっち上げなんていえない立場の人間なわけです。そういう人間が国交がないものを国交があるように言うことはないと思うのです。”倭人伝”にある
>> 「女王国の東・・・・」という文章は、案内人のそのままの言葉に近いんじゃないかと思うんです。さらに言うと、
>>
#そうかな〜??(^^)
同盟国に差別を表すような漢字を使うでしょうか?
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
#それだけ重要な国に対して、”倭人伝”の2000文字のみの記述というのは少なすぎないですか?
地理的な記録にしても中途半端ですよね?南方系の風俗しか書いてない。畿内の風俗は書いていない(畿内そのものも南方系かもしれないが)
不弥国あたりには確実に来ているが、そこから先に行ったとは思えない・・・少なくとも”倭人伝”の元になった報告書の記述者は、畿内に行っていない・・・というよりも、畿内に誰か行って記録が残っていれば、それを載せるはずで、それが”載ってない”ということは
”行ってない”と解釈していいということになる。
もし、”行ってる”なら、”水行十日陸行一月”なんて曖昧な表現はしないでしょう。
畿内に邪馬台国があって、西日本を治めていたと考えれば、魏にとっても軍事的に大きな脅威にもなりうるわけで、少々遠かろうが使いを都まで送ったと思うんです。
そこまで考えれば、おにりんさんのいわれる通り
”軍事的な観点で、かなり調べ”て、記録を残したでしょう。
しかし、現実としてそれはないわけです。あるのは
末廬国から上陸して、不弥国に至るまでのことしか書いていない。
私が以前
「畿内説の人は”クニ”というものを大きく捕らえすぎている。」というコメントをしたのはこういった根拠なのです。
出土物から畿内に大きな勢力があったのは私もわかります。私が考える九州北部の勢力を上回るものだった可能性もあると思う(あくまで私個人の意見)。しかし、
”倭人伝”の記述・・・不弥国までしか記録していない、女王国にすら行っていない。当時の中国人の感覚を考えると邪馬台国の規模というのはもっと狭いものと考えるのです。
・・・屁理屈ですかね( ^_^)。
#鏡についての詳しい説明を頂きありがとうございました。鏡についてはまだ勉強不足なので、今回のコメントは差し控えさせていただきます。
元の発言 [ Re: 二つの倭 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月15日(火)22時39分54秒 ]
あのー。倭人であって、倭国っていうのはないでしょう。
30国もあるんだし...
公孫氏に属した倭って、何国か分からないじゃない。
親魏倭王だって、倭の王であって、倭国王ではないよ。
元の発言 [ 古富波山古墳から ] お名前 [ 飛んだハヤシライス ] 日付 [ 2月2日(水)01時14分14秒 ]
飛んだハヤシライスさん、こんにちは
>> 墳丘基底部をなす第1次盛土層上面から多数の古式土師器が出土し、庄内期併行である事が判明。
三角縁神獣鏡は布留0より前に製作されたであろうと思っている私
に取ってはありがたいことですが、他の方が指摘されている通り、
ちょっと信じがたい面もあります。それでお尋ねしたいのですが、
ここでいう庄内期併行の庄内には布留0併行期を含まないのでしょ
うか?“集成”を見ますと布留0ぐらいのようなのですが。
いや、これまでにも庄内期で喜んでいたら布留0だったことがまま
ありますので。
2月16日0:56に発生したトラブルを、只今復旧しました。
投稿したはずのものが消えている等の不具合がありましたら
談話室ボードにお寄せ下さい。
元の発言 [ Re: 方位について ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月15日(火)10時56分00秒 ]
ALEXさん、おはようございます。
> 「万二千余里の全体について、一定の単位で計測され表現されている」という想定には、結局なんら根拠を見出すことは出来ないということに、同意を頂いたと考えてよいでしょうか?(^0^)
え〜。不弥国までの個々の「里」は、魏尺ではない別の単位で表現されている。とお答えするにとどめておきたいと思います。(^o^)
>> (だ)>南、投馬国に至る水行二十日。
>> (る)>南、邪馬壱国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月。
>> (ま)>女王国より以北、その戸数・道理は得て略載すべきも、その余の旁国は遠絶にして得て詳かにすべからず。
>> (さ)>(その余の旁国を列記)次に奴国あり。これ女王の境界の尽くる所なり。その南に狗奴国あり。
>> (ん)>その道里を計るに、当に会稽の東冶の東にあるべし。
>> (が)>女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。諸国これを畏憚す。常に伊都国に治す。
>> (こ)>女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり。
>#「聞き取り」であって聴取内容の原形を留めていると考えるためには「魏人の観察結果と思われる部分」もしくは「編纂者の考証と思われる部分」を含まない必要があるでしょう。
> まず、異論はあるかもしれませんが(だ)(る)の日数を観察結果とみます。
以下レスポンスの都合上順番を入れ替えさせてください。
> 次に、(ま)ですが、これは戸数・道理情報の濃淡があることの理由を述べている編纂者の所見ですが、観察者の報告どおりかも知れません。
> (が)についてですが、一大率の治所が伊都國にあることは、ここを「郡使往來常所駐」としている魏人の当然知るところであります。魏人自身が十分に情報収集できる地域のことですから「諸国これを畏憚す」も観察結果と思われます。
原資料も「以北」と表現されていたということですね。
私は(ま)の「以北」は陳寿が初めて書き込んだのではないかと思います。それは、原資料(が)に依っているのではないかと思います。その(が)の伊都国にかかわる記述については、ALEXさんのご指摘どおりかと思いますが、方位、つまり伊都国と女王国との位置関係については聞き取りの結果かもしれないと思っています。
いづれにせよ、原資料が「以西」と書かれていたのを、陳寿が「以北」と書き換えたのではないと言うことになると思います。
> 次に、(さ)ですが、これは遠絶旁國のことで、聴取内容どおりかも知れません。
位置関係としては、「女王国」、南へ「倭国に含まれるその余の旁国」、南へ「狗奴国」という事になります。
以上の事から、観察者の原資料も、聞き取りによる原資料も、いづれも方位は倭人伝の通りであったと言えるでしょう。
>(こ)は、これは遠絶旁國よりも更に先のことで、聴取内容であろうと思います。
私も聞き取りであろうと思いますが、『魏略』逸文〔『前漢書』巻二八下 地理志・燕地・顔師古注〕に、
>倭在帯方東南大海中、依山島為国。「度海千里、復有国、皆倭種。」
とありますので、陳寿はこれを倭人伝中の位置に編集したのではないでしょうか?
ですから、必ずしも遠絶旁國よりも更に先のこととは限らないと思いますがいかがでしょう。
> 以上から(さ)(こ)は、聞き取りで、もともとから方位もこのとおりであったとすると、どのような位置づけになるのでしょうか?
女王国=邪馬臺国で、比定地が大和ならば、大和の南にその余の旁国があり、狗奴国は紀伊半島のどこか、という事になります。東へ渡海千里の海は伊勢湾です。
女王国の比定地が北部九州ならば、まあ筑後川をはさむ南北のあたりまででしょう。その南にその余の旁国があり、菊池川以南が狗奴国であろうと考えております。
> 仮定「投馬国、邪馬臺国の方位の『南』が『東』の間違いであった」より
>1.女王國,邪馬臺國ともに伊都國の東
>2.(さ)より狗奴國は、奴國2もしくは「女王境界所盡」の南
>3.(こ)女王國より東渡海千餘里に倭種の国あり
(さ)(こ)についてはすぐ上に書いた通りですが、邪馬臺国の北に伊都国がありません。
投馬国、邪馬臺国への日数表記には、もともとの資料には方位が書かれてなかったのではないでしょうか?
ALEXさんは、どう思われますか?
>>> 一方、投馬国、邪馬臺国への方位は本来東なのだけれど、女王国=邪馬臺国と考えたために、「南」と記述してしまった、そう考えられなくもないと思ふのですが、いかがでせうか?(^o^)
>#考えられなくもない…とゆーか、矛盾が生じないわけですが…「人知を超えたエロヒム星人の科学力により…」という仮定もあらゆる不思議を矛盾なく説明できますけど有難くないですよ。 =f(+.+)f=
> =f(+.+)f=
え〜、これは、「聞きたくない、聞きたくない」という意味でしょうか?(^o^)
冗談はともかく、いまのところ、ほかにこれといった解決の仕方を見出せないんですよねぇ。
いい線いってるでしょ?
原文を改定しないことを前提にすれば、伊都国からの放射説、水行陸行はAND。これでも、投馬国は邪馬臺国の南になってしまう。だから倭人伝自体が矛盾を孕んでますよね。
南を東に書き換えただけでは解決しないと思ふのですよ。どうでしょう?
うっふっふ。(^o^)
元の発言 [ Re: またまた(ーー;) ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 2月15日(火)20時30分20秒 ]
>> #「庄内新式=布留0式」なんてとんでもない!系譜が異なると言うのが定説です。
>> #片や「叩き目・球形」、片や「刷毛目・撫で消し」、河内では庄内式甕と布留式甕が菅振遺跡で並存しているそうです。
河内庄内式甕は布留期に入っても存続してますが、大和庄内式甕は
布留0と布留1の境目あたりで、完全に布留式甕に置き換わります。
大和庄内式甕の末期のものは、口縁部の肥厚化を除けばほとんど布
留式甕だそうです。写真で見てもその通りです。丸型化しており、
たたきの跡はほとんど見られません。(「古墳時代の年代学」より)
布留0は元々大和の編年です。
古式土師器っていうのも定義のはっきりしない言葉で、関西では、
須恵器の登場より前の土師器を指すことが多いとのこと。
元の発言 [ Re: 方位について ] お名前 [ 慈源 ] 日付 [ 2月16日(水)06時38分09秒 ]
慈源 さん、おはようございます。
>> 位置関係としては、「女王国」、南へ「倭国に含まれるその余の旁国」、南へ「狗奴国」という事になります。
以上の事から、観察者の原資料も、聞き取りによる原資料も、いづれも方位は倭人伝の通りであったと言えるでしょう。
#これは事実関係と違います。
「次有奴國、此女王境界所盡。其南有狗奴國」
ここから読み取れるのは
「狗奴國」が
「女王境界」もしくは「奴國(2)」
の「南」
にあることです。
従って、「狗奴國」が「女王國」そのものの南方向にあるかどうかは読み取れません。
A>> 方位、つまり伊都国と女王国との位置関係については聞き取りの結果かもしれないと思っています。
B>> 邪馬臺国の北に伊都国がありません。
#上記の2文の間に、ロジックの誤りが入り込んでしまいました。
元来の観点は
>> 「第一次記録者の誤解でありましょう。また、陳寿自身の誤解もあったでしょう。しかしながら、上記には、聞き取りに基づく記述もあると思う」
# ということで、「聞き取り」ならば「もともとから方位もこのとおり」であり、第一次記録者の誤解や陳寿自身の誤解に歪められていない;という妥当な推理であります。
# ところが
Aは「聞き取りの結果かもしれないと思っています」
Bは「邪馬臺国の北に伊都国がありません」(=ないのは不合理である)
従って、Bも「かもしれないと思っています」でなければロジックとして正しくありません。
ゆえに、仮定「投馬国、邪馬臺国の方位の『南』が『東』の間違いであった」より導かれる位置関係に「邪馬臺国の北に伊都国が(ある)」を含めることは出来ません。
>> 投馬国、邪馬臺国への日数表記には、もともとの資料には方位が書かれてなかったのではないでしょうか?
>> ALEXさんは、どう思われますか?
#これは一本の論文になりそうなので、次回に譲ります。
>> >> =f(+.+)f=
>> え〜、これは、「聞きたくない、聞きたくない」という意味でしょうか?(^o^)
#これはエロヒム星人です。天使の羽根が生えています。
>> 原文を改定しないことを前提にすれば、伊都国からの放射説、水行陸行はAND。
#えー?水行陸行はANDですが、放射説の根拠は何ですか?
元の発言 [ Re: Title投馬國はいづこ(承前) ] お名前 [ ま さ ] 日付 [ 2月15日(火)12時42分33秒 ]
まささん、おはようございます。
残念ながら東遷(九州→大和)は一度もなかったと思います。応神でも東遷ではなく、九州から関西へ攻め上っただけで、九州にあった都を関西(河内)に遷都した訳ではありません。それを遷都と言うならば、尊氏も遷都したこととなります、秀吉も。
元の発言 [ Re: 古富波山古墳から ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月3日(木)11時18分17秒 ]
おにりんさん、こんにちは。
>> あれ?kouji さん自身、そのおつもりで書かれたものと思っていましたが、、
邪馬臺國の難升米が大和国のナシメに眠ってるなんて出来過ぎじゃないですか....
元の発言 [ Re:東遷はない! ] お名前 [ マルガリータ ] 日付 [ 2月16日(水)11時47分56秒 ]
マルガリータさん、こんにちは。
>> 残念ながら東遷(九州→大和)は一度もなかったと思います。応神でも東遷ではなく、九州から関西へ攻め上っただけで、九州にあった都を関西(河内)に遷都した訳ではありません。それを遷都と言うならば、尊氏も遷都したこととなります、秀吉も。
表現上、便宜的に「東遷」と使っているのですが、「東遷」を「東へ遷都する」という意味で使ったことはありません。
「東征」と比べて平和的乃至局地的戦闘のイメージが強いので使用しています。
なんか、「東征」というとそれこそ神武とか尊氏とかみたいなので(笑)
あと、私はいわゆる邪馬台国東遷説とは、ちょっと違います。
九州邪馬台国出身者が大和纏向を継いで、その子孫が本家を滅ぼしたと考えています。
だから崇神天皇は、自分の先祖なのに天照を皇居においておけないで外に出したり、自分の父系先祖じゃないのに大物主を祀ったりしなければならなかった。
皇室の先祖が九州出身であったことは、大和出身と称した方が統治上都合がいいだろうことを考えると、否定しにくいと思います。
更に天照の伝承に卑弥呼とトヨの影が見える。
記紀神話の舞台は九州に偏っている。
なのに自分の先祖を自分の家の中に置いておけないっていうのは不思議です。
「東征」なら先住氏族を足下に従えたのだから恐れなくともよいでしょう。
で、適当な言葉が見あたらないので便宜上「東遷」と言っています。
なんか、もっとしっくりくる言葉ありませんかね?
元の発言 [ Re:東遷はない! ] お名前 [ マルガリータ ] 日付 [ 2月16日(水)11時47分56秒 ]
>> 残念ながら東遷(九州→大和)は一度もなかったと思います。応神でも東遷ではなく、九州から関西へ攻め上っただけで、九州にあった都を関西(河内)に遷都した訳ではありません。それを遷都と言うならば、尊氏も遷都したこととなります、秀吉も。
どうも東遷の定義がみなさんで違うようで。
僕の場合は、卑弥呼のクニが攻められて、そこに吉備・
畿内の勢力が入り込んできた。そして新魏倭王の印を貰
っていた邪馬台国の一部の連中を畿内へ連れて行った。
吉備・畿内の勢力は、新魏倭王の印を貰った邪馬台国の
後継として、中国・半島の威光を得て、西日本の制圧を
計ったと考えています。
つまり卑弥呼の時代は九州、台与の時代は畿内という事
になりますが、ほぼ西日本の制圧に成功した時点で、
台与を追放したものと考えられます。
ですから、この巫女の宮殿の移動(新魏倭王の印)がま
さに東遷であったということです。
そこに、あの旅程記述が不可思議なものになっている原
因があるのかと思います。
九州の宮殿と畿内の宮殿の両方の位置がひょっとしたら
混同されているのかも。
元の発言 [ Re: 三角縁神獣鏡をめぐって ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月16日(水)13時30分50秒 ]
>> どうせ、また無視するか、適当な生返事しかしないだろう
>> けれど、
礼を失しないように。
…それから、データベースを破壊しないように。
お願いしますよ !! (@_@)←徹夜作業で目の赤い管理人
元の発言 [ Re: 二つの倭 ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月15日(火)23時39分18秒 ]
yaohideさん、こんにちは。
>> あのー。倭人であって、倭国っていうのはないでしょう。
あります。
魏志帝紀『(正始四年)冬十二月、「倭國」女王俾彌呼遣使奉獻』
魏志倭人傳『王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使「倭國」、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。』
魏志倭人傳『其國本亦以男子爲王、住七八十年、「倭國」亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼』
魏志倭人傳『正始元年、太守弓遵遣建忠校尉梯儁等奉詔書印綬詣「倭國」、拜假倭王、并齎詔賜金....』
>> 親魏倭王だって、倭の王であって、倭国王ではないよ。
卑彌呼(俾彌呼)は少なくとも『「倭國」女王』ではあるんですよね。「親魏倭王」っていうのは詔書に見える正式の王号だから、倭人を代表する唯一の王位だと思いますよ。倭人諸国中の一国の王ということじゃあないでしょう。それなら、「漢倭奴國王」と同じく「親魏倭邪馬臺王」とかになるんじゃないですかね。
元の発言 [ Re: 三角縁神獣鏡をめぐって ] お名前 [ 飛んだハヤシライス ] 日付 [ 2月15日(火)02時39分53秒 ]
飛んだハヤシライスさん、こんにちは。
> 紀年鏡群がまさに、卑弥呼の遣使と関連するのならば、意味のある鏡だと思うのです。でも実際は、神原神社古墳は景初三年一枚のみ、森尾古墳三号室も正始元年一枚のみ、広峰15号墳も景初四年銘一枚のみ、蟹沢古墳が、正始元年銘、獣紋帯三神三獣鏡、内行花文鏡の三枚。竹島古墳が正始元年銘、劉氏作銘画像鏡、ほか三角縁神獣鏡一枚の三枚。というように、必ずしも大量の鏡を副葬した古墳ではない。
それらの古墳の被葬者が、最新モードの鏡をリアルタイムに豊富に入手できる立場ではなかったというふうに考えることは出来ると思います。
> > これらの紀年鏡は本当に卑弥呼の遣使と関連するのだろうか?むしろ、公孫氏の滅亡後、渡来したと考えたほうがよいのではないかと思うのです。公孫氏の領域では小型ですが、三角縁の鏡も出ておりますし、斜縁鏡も出ていますので。
つまり、239年には魏の領域となっている地域の鏡と関連していることは確かなわけです。
> > (B)の場合は、(あ)ということになると思います。(う)は、何で景初三年から正始元年の紀年鏡ばかりなのか説明が難しいと思います。もっとも渡来した工人が卑弥呼への下賜鏡を製作した工房の工人であるということであれば別ですが。具体的に言うと、卑弥呼への下賜鏡である景初三年・正始元年鏡を製作した陳さんが、この時の試作鏡である景初四年鏡や安満宮山の陳是作鏡を携えて、後に日本に来たということであれば可能性はかなりあるでしょう。つまりこの場合は、紀年鏡には(あ)と(う)が混在していることになります。
> なかなか興味深い説です。
> が、銅鏡百枚は洛陽において皆装封されていると考えてよいと思いますが、
必ずしも、そうとばかりは言えないと思います。どちらにせよ皇帝が自らの手で装封するわけではないのですから、仮に遼東とかで製作されたとすれば、皇帝の命を受けた官吏が遼東に行って作製を監督し、難升米たちが帰路立ち寄るのを待ってその場で装封してに引き渡すということもありえるのではないでしょうか。類例は指摘できませんけれども。
> そのとき、五枚の景初三年、正始元年鏡のみが抜擢されたのでしょうか?
景初三年・正始元年鏡と景初四年鏡・安満宮山陳是作鏡では大きさが違いますよね。後者は最初から試作品として作られたのかもしれないと思うのですが。洛陽からやってきた監督官に見せて、「こんなのはどうでしょう?」って。
> そして、布留期に近い頃渡来したのなら、後年の紀年鏡が存在しても不思議ではないですよね。ですから、景初三年、あるいは正始元年に渡来したと考えるほうが説明は付きやすいのではないかと思うのです。
紀年を入れた動機が下賜鏡の製作にあったとすれば、後年の紀年鏡がない理由の説明はつくと思います。むしろ紀年鏡も含めてすべての三角縁神獣鏡が日本で製作されたとすると、後年の紀年鏡がないのが不思議なのではないでしょうか。同じことはすべてのいわゆる「舶載」三角縁神獣鏡が魏(・西晋)鏡であり、倭国からの朝貢のたびに下賜されていったと考えた場合にも言えると思います。
> 上にも書きましたように、ルーツは、楽浪・帯方あたりだと思いますが、まだ出土していない。楽浪からは前漢鏡、後漢鏡を含めて110枚近くの出土例がありますが、その中にも入っていないところから判断すれば、やはり国産と考えざるを得ない。
下賜仕様の鏡が中国から出ないのは当然でしょう。でも、似たような鏡は出ている。奥野正男氏が言っているように中国から出土しないことは国産説の決め手にはならないと思います。本当の問題は笠松形文様等の中国鏡には認められない特徴の変遷が中国鏡の流れと乖離する形で三角縁神獣鏡に認められるということです。しかし、これも笠松形文様以前である紀年鏡の生産地を推定する材料にはならないのではないでしょうか。紀年鏡と他の大部分の三角縁神獣鏡の製作年代に乖離があるとすれば、なおさらそうだと思います。
> > 近藤義郎さんの『前方後円墳の出現』(岩波書店)
すみません。『前方後円墳の成立』の間違いです。それから、何度か「都月型特殊器台」等とわけのわからぬことを書いていますが、「都月型円筒埴輪」の間違いです。
> ご紹介有り難うございます。面白そうですね。私も読んでみます。紀年鏡群の年代と、三角縁神獣鏡が実際に副葬される古墳群の年代とのギャップをどう考えるのか?ですね。
そうですね。今のところ、次のように考えるのがよさそうに思われます。
239年 卑彌呼の最初の朝貢。
240年 銅鏡百枚が倭国に齎される。その中に、景初三年・正始元年鏡のオリジナルも含まれていた。
※ この間、景初三年・正始元年鏡の踏返し鏡が作製された可能性あり。
247年〜 卑彌呼の死と臺與の即位・朝貢。魏から景初四年鏡・安満宮山陳是作鏡のオリジナルを携えて鏡師が渡来し三角縁神獣鏡の量産が開始される。
> koujiさんがお書きになったのもひとつの興味深い説です。
ありがとうございます。
> では、私は、布留以前のしかも大和以外のお墓から三角縁神獣鏡が出ることを期待しましょう。それが本当にあるのならば、240年頃渡来した工人たちが大和へ入るまでの足取りがつかめると思うので。
> 百年河清を俟つ事になるのかしら。(-_-;)
見込みが確かなら、出土物が後からついてくることはあると思います。いつになるかはまったくわかりませんが....
元の発言 [ Re: 三角縁神獣鏡をめぐって ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月14日(月)22時49分13秒 ]
おにりんさん、こんにちは。
>>
すみません。ただ、あまり短く改行するのも読みにくいかなと思うのですが、いかがでしょう?
>>
>>
>>>> 逆に舶載三角縁神獣鏡のみを出した九例の古墳(ここには黒塚は入っていないはず)には、権現山51号墳以外には、宮山形特殊器台はもちろん都月型特殊器台もないということです。三角縁神獣鏡の副葬が一般化するのは実はかなり遅れるのであって、都月型特殊器台の頃までは、古墳によって入る鏡の種類は違っていたのかもしれませんね。
#飛んだハヤシライスさんへのレスでも書きましたが、「都月型特殊器台」は「都月型円筒埴輪」の誤りです。すみません。
>>
>>
はい。
>>
まあ、箸墓の後円部の直径は径百余歩にあたるからこれが卑弥呼の墓に違いないのだから、箸墓が布留0なら布留0は250年頃にさかのぼるはずだ、というのも一つのありうる考え方だとは思うのですけれど。九州説からは当然承認できないでしょうが。
>>たとえば、これは根拠もなにもないんですが、ある時期に、一斉に△鏡をつかった祭祀のようなものが、やめさせられたという可能性があるかもしれません。恐ろしい話ではあるんですが、たとえば、△鏡を用いた祭祀をしていた人が、名誉を保ちつつ、つぎつぎに処刑されて、そこに、使わなくなった△鏡を大量副葬したとかですね。まあ、黒塚の例では、ほとんど使ってないのが入っていたと言われているので、ちょっと難しいんですけれどね。
伝世鏡論ですね。まあ、伝世した鏡があったこと自体は間違いないですが、庄内期にも相当量存在した三角縁神獣鏡が全部布留0まで伝世したというのはどうでしょう。やはり、三角縁神獣鏡の入っている古墳が全部布留0以降であるとすれば、庄内期には三角縁神獣鏡があったとしても極めて乏しかったと見たほうがいいでしょう。つまり量産タイプというか、いわゆる定型化した三角縁神獣鏡の生産は布留0以降ということでしょう。
>>
まあ、畿内大和説にせよ九州説にせよ、紀記との関係をどう捉えるかは問題になることです。崇神〜景行天皇あたりの宮が纏向あたりあったとされていることを纏向遺跡やその付近の古い大型の前方後円墳の存在と合わせ考えると、ここら辺の記述も無碍には否定できないなという気はします。しかし、いずれにせよ伝説の領域に属する記事ですからどこがどのように史実と交差するかはなかなか難しい問題です。私としては中国史料や考古史料の全体像がもう少し明瞭になるまでは立場を保留したいところです。
元の発言 [ Re: Title九州に東海土器 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 2月1日(火)20時29分16秒 ]
オヤジッチさん、こんばんは。
>> それと、土器製造は専門職人によるものだと思いますので、職人の移動による可能性があるのでは?
>> 土師器のように、それまでの土器より軽く、火の通りがよいものを作れる職人であれば何所へ行っても歓迎され、一つの村が彼の製品に全て置換わっても可笑しくは無いでしょう。
#その考え方は、畿内第V様式が卓越する村落も北部九州にあることを説明できないと思います。
やはり、集団的移住があったと考えるべきでしょう。「征服」ではないとは思いますが。
元の発言 [ Re: 古冨波山古墳から ] お名前 [ 飛んだハヤシライス ] 日付 [ 2月2日(水)22時33分50秒 ]
飛んだハヤシライスさん、こんにちは。
>> koujiさま、こんばんは。喜ぶのはまだ早いですぞ〜。(^○^)
喜ぶなんてとんでもない!飛んだハヤシライスさんがあんまり頑張るんで、夜も眠れません。
#いや、眠れないのは他の理由か....
>> >庄内期のうちに大量の三角縁神獣鏡が作成されている。
>> いや、これは必ずしも言いきれないでしょう。少なくとも、形態分類としての第三段階までは、庄内期のうちに出現したという事だと思いますよ。
はい。だから、少なくとも庄内期のうちにいわゆる「舶載」三角縁神獣鏡の過半の「型」ができているわけですよね?
>> >製作時期が重なると考えられる消耗品である土器の分布も同じような傾向を示しているとすれば、もはや確定的ではないでしょうか。
>> いいえぇ、大和から出ていない事が重要なのではないでしょうか?(^○^)
三十面以上の三角縁神獣鏡がV期以前ばかりの黒塚はどうですか?庄内期中に三期まで作成されているというお考えに変わられたわけですから、黒塚に対する見方もお変わりになったのではないですか?
正直なところ古墳のことがよくわからないのですが、石野博信編『全国古墳編年集成』(雄山閣)で黒塚をみると、どっぷり庄内期に浸かっているように見えます。天井石を用いない合掌A型とされる石室、桑の木棺などは、定型の前期古墳からは外れる要素で、古いと見ることも可能なのではないでしょうか?
#合掌A型の石室は大和天神山のものもそうですが、これは埋葬施設ではないようです。
>> 古墳そのものは、布留以前からあるわけですから、ご指摘の年代に全くないわけではないでしょうし、三角縁神獣鏡が大和に入っていれば、盗掘に遭っても、たとえば割れたりしたものとかの破片が残っていますよね。桜井茶臼山のように。
もともと数の少なかったと思われる古墳が、確実に庄内期であることが判断できる土器と確実に三角縁神獣鏡であると判断できる鏡片を伴って確認されるまでは、庄内期の大和には三角縁神獣鏡がなかったと判断されるのでしょうか?お隣の近江にはあるのに?それは考古史料の限界を踏み越えた議論ではないでしょうか。確実に庄内期の古墳に限定するということで黒塚を排除して考えた場合は、『三角縁神獣鏡を出土する庄内期の古墳の分布の核はまだ発見されていない』というのが正しい判断だと思います。つまり、庄内期の三角縁神獣鏡の製作地ないし輸入元は不明であり、「大和じゃない」とは主張できない。もちろんここからは「大和である」とも主張できないわけですが。
#「大和じゃない」と主張するのであれば大和以外の中心を見出さなければならないと思います。
そして、現時点で確実に言えるのは、布留式期の古墳からの出土も含めたV期以前の三角縁神獣鏡の分布の中心は大和にあるということであり、V期以前の三角縁神獣鏡だけを出す古墳の分布の中心も大和にあるということだと思います。
こんにちは。
鏡については、いままで抹香臭い感じで、どうも取っつきにくかったのですが、ここで勉強させていただいたり某所で集中講義を受けたりして、最近少し面白く思えるようになってきました。
上に鏡についてのスレッドがありますが、入門者編ということで、新たに書かせてもらいます。
「鏡の力 鏡の想い」(中村潤子・大巧社)を読んで思ったことなど、すでに何度か議論されているとは思うのですが。(--;) m(_ _)m
ペルシャなど西方ではずっと実用品であった鏡が中国で霊力を持つようになったとします。
それが、列島では爆発的に流行して、ひとつの墓に何十枚も副葬するようになった。なぜでしょう。
それよりまず、銘文に現世利益的な内容が多いのはなぜでしょうか?
また、職人は無記名であるのが普通なのに、鏡には職人の名前や作られた場所など、権力とかけ離れた内容が記されているのはなぜでしょう?
これではまるでヴィトンのバックのようであり、権力の匂いがしません。
権力の道具なら、有名な稲荷山の鉄剣の銘文のようなものになるはずではないでしょうか?
宗教的な内容でというなら鎮護国家、五穀豊穣のほうがふさわしい。
『楽浪郡出土という鏡には「尚方」という銘が非常に多く、滋賀県立大学の菅谷文則氏は官営工房の横流しと見ているが、楽浪郡の官営工房で作られたり、民間工房が名を騙ったものかもしれない。』(P53)
また、「三角縁神獣鏡の時代」(岡村秀典・吉川弘文館/P94)にも
『この「尚方」とは宮廷の御用品を製作する官営工房だが、「尚方作」鏡があまりにも多く、優品が少ないことから、ほとんどは民間でこれを詐称したものと考えられる』
とあるのは「権力が鏡を管理できなかった」というより、流行であり、その中に権力者もいたと考える方が自然ではないでしょうか。そうであれば、一部の鏡に国家安泰など権力者にふさわしい銘文があるのも自然です。
だから、「尚方」が本当に純粋に官営工房だったのか疑問に思っています。
「尚方」が長安や洛陽だけにあったのなら、広漢で作られたという銘のある鏡は模倣鏡であることを自ら記していることになって、変です。それよりは「尚方」と名乗る工房があちこちにあったと考える方が自然でしょう。
「尚方」が大陸のあちこちにあったのなら、宮廷からの発注で刀剣や鏡も作ったけれど権力に縛られていたわけではなかった。鏡の銘文を見ると、どうしても、民間の流行により鏡が作られ続けたと考えた方が素直だと思うのです。
考古学用語辞典なんかで見ると『・・・役所。漢代には長官は卿を以てし、中二千石、その属官に尚方あり・・・』と書かれていますが、それでもなお「尚方」銘の濫発、または詐称の放置はうなずけません。
それとも、公孫氏を殲滅した魏の皇帝の支配力はそんなに強くはなかったのですか?
なぜこんな風に考えるかというと、中国と同様、列島でも鏡は権力の系統を示すものではなく、流行だったのではないか。九州で出回り始めた初期の鏡は贅沢品、高級品ということで権力の目安ともなり得たけれど、列島では中国以上に好まれ、すぐに国内で生産されるようになり、国産鏡の代表が「三角縁神獣鏡」なのではないかと思うからです。
もうひとつ。「鏡の力 鏡の想い」のP64に、
『・・・卑弥呼への贈物・・・高価なものほどリストの上位にあって数は少ない、という状況からみると銅鏡の重要度は太刀に次いで四番目・・・「好きな物」としても第一位は錦など布帛類となり、銅鏡はむしろ後から三番目である。』
これは、鏡に配布するほどの霊力や魅力がないことの傍証となるのではないでしょうか?
すごい大間違いでしょうか?
上の「三角縁神獣鏡をめぐって」のスレッドをみると投稿するのためらわれますが。書いてしまったので。
元の発言 [ Re: またまた(ーー;) ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 2月16日(水)09時26分57秒 ]
>> 河内庄内式甕は布留期に入っても存続してますが、大和庄内式甕は
>> 布留0と布留1の境目あたりで、完全に布留式甕に置き換わります。
#庄内式土器は河内の土器で、大和の庄内式は河内の土器の模倣だそうですネ。
#初期の叩き目の数も、河内=7〜8本/aで大和=4〜5本/aで、方向も河内=左下がり、大和=水平または右下がりだとか。
>> 大和庄内式甕の末期のものは、口縁部の肥厚化を除けばほとんど布
>> 留式甕だそうです。写真で見てもその通りです。丸型化しており、
>> たたきの跡はほとんど見られません。(「古墳時代の年代学」より)
>> 布留0は元々大和の編年です。
#そのようです。叩き目を消す技法は、北部九州には弥生中期から有ります。もちろん、西新式にも。
>> 古式土師器っていうのも定義のはっきりしない言葉で、関西では、
>> 須恵器の登場より前の土師器を指すことが多いとのこと。
#その通りだと思います。須恵器以前、古墳過渡期の土器を古式土師器と言ってます。
元の発言 [ Re: またまた(ーー;) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月16日(水)13時15分36秒 ]
>> #夜間航行の出来ない時代でっせ。
>>
>>
>>
#どうやって夜間航行してたと思います。
>>
>>
#布留0式は庄内新式との相違の方が大きい、
#片や「叩き目・球形」、片や「刷毛目・撫で消し」、
#球形胴の庄内式甕から倒卵胴で水平頂面の布留式甕が発生するはずは無いと思います。
#庄内新式後期が布留0“併行”なんです。
元の発言 [ Re: 二つの倭 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月15日(火)22時39分54秒 ]
#博多と言う地名の範囲は何所にありますか。
#そんな地名は有りません。
#須玖岡本D地点は?
元の発言 [ 土器と土師器 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月16日(水)11時26分08秒 ]
#庄内土器以降に全国的一斉化が起こっていると言うのは、なにか勘違いしてます。
#一目見ただけでまったく違うことが明らかにわかります。
#上にも書きましたが、北部九州の土器は須玖式から西新式、須恵器併行の土師器まで庄内式の「叩き目」はありません。
#素焼きであると言う以外に製法上の違いが有るから「××系土器」と言えて、
#遺跡から併出するから、遺跡どうしの併行関係が解るのです。
#在地系土器と異なる土器が出土するから、交流関係が解るんです。
元の発言 [ Re: 二つの倭 ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 2月16日(水)17時34分52秒 ]
kouji さん、こんばんわ。
>> あります。
>> 魏志帝紀『(正始四年)冬十二月、「倭國」女王俾彌呼遣使奉獻』
>> 魏志倭人傳『王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使「倭國」、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。』
>> 魏志倭人傳『其國本亦以男子爲王、住七八十年、「倭國」亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼』
>> 魏志倭人傳『正始元年、太守弓遵遣建忠校尉梯儁等奉詔書印綬詣「倭國」、拜假倭王、并齎詔賜金....』
>> 卑彌呼(俾彌呼)は少なくとも『「倭國」女王』ではあるんですよね。「親魏倭王」っていうのは詔書に見える正式の王号だから、倭人を代表する唯一の王位だと思いますよ。倭人諸国中の一国の王ということじゃあないでしょう。それなら、「漢倭奴國王」と同じく「親魏倭邪馬臺王」とかになるんじゃないですかね。
あの、ちょっとしつこいかもしれませんが、上のすべて
倭国と読むのでしょうか?倭の国と読むものがあるので
はないですか?
#倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和
これはどうなります?倭の女王卑弥呼であって、倭国
女王ではないでしょう。もちろん狗奴國は倭国ではない
わけですね。しかし倭人の国でしょう。
「倭の国」と「倭という国」では、話が変わってしまう
のです。
元の発言 [ Re:東遷はない! ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月16日(水)13時28分12秒 ]
>> そこに、あの旅程記述が不可思議なものになっている原
>> 因があるのかと思います。
>> 九州の宮殿と畿内の宮殿の両方の位置がひょっとしたら
>> 混同されているのかも。
#後漢代の、伊都國が倭の中心国だった頃の古い情報が混ざって、不突き合いが生じていると考える方が、ずっと自然ですよ。
元の発言 [ Title:鏡について初歩的な疑問 ] お名前 [ くみ ] 日付 [ 2月16日(水)21時07分52秒 ]
くみさん、おはようございます。
>> もうひとつ。「鏡の力 鏡の想い」のP64に、
>> 『・・・卑弥呼への贈物・・・高価なものほどリストの上位にあって数は少ない、という状況からみると銅鏡の重要度は太刀に次いで四番目・・・「好きな物」としても第一位は錦など布帛類となり、銅鏡はむしろ後から三番目である。』
>> これは、鏡に配布するほどの霊力や魅力がないことの傍証となるのではないでしょうか?
>> すごい大間違いでしょうか?
>> 上の「三角縁神獣鏡をめぐって」のスレッドをみると投稿するのためらわれますが。書いてしまったので。
面白い見方ですね。私が付け加えるなら、もう一つ。
鏡は国に贈られたものではなく卑弥呼個人に贈られたものだという点です。
「又特賜汝」ですね。
ここから特鋳説も出るんでしょうけれど、正式の邪馬台国からの献上品への答礼でなく、個人への贈り物という点もくみさんの説の補強になるような気がします。
こんにちは。
あの、ちょっとお二人に質問してもよろしいですか?
かなりくだらないことかもしれませんが・・・
>邪馬台国は、畿内にあった。
とすると、記紀にある、天照達が九州にいたという
記述はどう解釈なさっているんでしょうか?
天照の記述は、どこか卑弥呼と重なる感じがするので、
お二人の解釈に興味があります。
元の発言 [ Re: 古冨波山古墳から ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 2月3日(木)12時53分49秒 ]
koujiさん、こんばんは。
>> #「大和じゃない」と主張するのであれば大和以外の中心を見出さなければならないと思います。
#「そろそろ日本の考古学も、遺跡・遺物を唯一の立脚点とする方法論と、常にどこかに文化の中心を設定したがる思考形態から脱却し、現代科学において一般化している方法論、つまり理論とモデル(仮説)を設定し、その上で遺跡・遺物を理解・説明すると言った、演繹的で柔軟な方法論を模索するべきであろう」(高島忠平“東アジアの古代文化・100号”)
元の発言 [ Re: おにりんさんに、ALEXさんにちょっと質問 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月17日(木)11時00分27秒 ]
>もっとも、日本書紀の卑弥呼を神功皇后にしているのは、
非常に困ったあげくねじ込んだような気がするんですけ
れどもね。
#心愛さんとのバトルでは、この見解は心愛さんの問題提起であり、あなたの答えはこれと反対と記憶してますが(^0~) 確かあなたの説は、「卑弥呼をアマテラス・神功皇后・トト姫に3分して記載した」だったような。おにりんさんは、心愛さんの軍門に下ったのでしょうか?
元の発言 [ Re: 土器と土師器 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 2月16日(水)22時11分41秒 ]
>#庄内土器以降に全国的一斉化が起こっていると言うのは、なにか勘違いしてます。
>#一目見ただけでまったく違うことが明らかにわかります。
#全くの同感です。だいたいが古墳の出現時期が地域によって違っている。また、確かに流行とか、良い形式を取り入れて行くのは、傾向としてはあったが、均一化などしていない。だからこそ、その特徴により制作地が判り、交流も判るのです。まー、有田と九谷と瀬戸の違いが判らぬ古代史専門家もいるのでしょう。そういう古代史専門家は、間違った著書を書く暇があるなら、土器の勉強せい!
元の発言 [ Re: 三角縁神獣鏡をめぐって ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 2月16日(水)17時36分43秒 ]
以前、年号が誤っている鏡が中国から出ていると書いた件についてです。
王仲殊氏『三角縁神獣鏡』(学生社)をみると、鏡銘の日付の干支が誤っている例はたくさんありますが、年の方が誤っている中国出土鏡として第三章八「「黄初・黄武・黄龍」紀年鏡の銘文の解釈」に次の例があります。
延康元年(220年)二月対置式神獣鏡(伝浙江省紹興出土)
銘文に「延康元年二月辛丑朔十二日壬子....」とあります。ところが延康改元は三月ですから、延康元年に二月はありません。またこの年の二月は丁未朔で十二日は戊午です。ところが、翌延康二年二月は辛丑朔で十二日が壬子なのです。つまりこれは、延康二年になっているにもかかわらず、延康元年と誤記した例です。
黄初四年(223年)五月対置式神獣鏡(同笵鏡:出土地不明二面・湖北省鄂城出土一面)
銘文に「黄初四年五月壬午朔十四日乙未、会稽師鮑作明鏡....」とあります。これも黄初四年五月だと朔の干支が一致せず、従って十四日の干支も一致しません。ところが、黄初五年とすれば一致します。王仲殊氏は、「「黄初」という魏の年号が用いられてはいても、これが本当は呉鏡であり、」「黄武二年(黄初四年)の十月に、呉のと魏とは完全に断交したのだから、黄武三年に(黄初五年)に呉国の職人が武昌でつくった銅鏡の銘文で、魏の「黄初」を使用した可能性は全くない」ので、「黄武三年(黄初五年)の五月朔日と十四日(乾象暦)と合致しているということは、偶然の一致」だと書いています。この鏡が魏の年号(黄初)を持っているけれども呉鏡であるというのはおそらくそのとおりでしょうが、私は呉と魏の完全な断交は孫権が皇帝を称する黄龍元年(229年)まで降るのではないかと考えるので、この鏡の黄初四年は五年の誤りであろうと思います。
元の発言 [ Re: 二つの倭 ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月17日(木)01時02分06秒 ]
yaohideさん、こんにちは。
>> >> 魏志帝紀『(正始四年)冬十二月、「倭國」女王俾彌呼遣使奉獻』
>> >> 魏志倭人傳『王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使「倭國」、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。』
>> >> 魏志倭人傳『其國本亦以男子爲王、住七八十年、「倭國」亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼』
>> >> 魏志倭人傳『正始元年、太守弓遵遣建忠校尉梯儁等奉詔書印綬詣「倭國」、拜假倭王、并齎詔賜金....』
それぞれ、「倭国女王」は「親魏倭王」をさしており、また他の倭国も、親魏倭王の支配下の領域、王として共立された領域、詔書・印綬・下賜品が齎された地をさしています。
>> あの、ちょっとしつこいかもしれませんが、上のすべて倭国と読むのでしょうか?倭の国と読むものがあるのではないですか?
いささか苦しかろうと思います。
>> #倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和
>> これはどうなります?倭の女王卑弥呼であって、倭国女王ではないでしょう。もちろん狗奴國は倭国ではないわけですね。しかし倭人の国でしょう。
「倭女王」は別に倭国女王と矛盾する表現ではありません。倭女王といえば通常は、倭という国の女王のことです。倭国があってその女王が卑彌呼。狗奴國は倭人の国だけど倭国には属していない。別におかしいことはありません。
魏志帝紀『(青龍四年)秋七月、「高句驪王」宮、斬送孫權使胡衛等首、詣幽州。』
魏志帝紀『(太和元年冬十月丙寅)「焉耆王」遣子入侍。』
魏志帝紀『(太和三年冬十二月)癸卯、「大月氏王」波調遣使奉獻、以調爲「親魏大月氏王」。』
「高句驪王」の高句驪、「焉耆王」の焉耆、「大月氏王」の大月氏、いずれも国号ですよね。「親魏大月氏王」の大月氏も国号であり、そして「親魏倭王」の倭も国号です。先にも書きましたように「親魏倭王」は正式に冊封された王号ですから、同時に何人もいるようなものではありません。
元の発言 [ Re:東遷はない! ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月17日(木)06時45分21秒 ]
>> #後漢代の、伊都國が倭の中心国だった頃の古い情報が混ざって、不突き合いが生じていると考える方が、ずっと自然ですよ。
ということは、魏志倭人伝の中頃の記述は、伊都国の風俗
ということですか?
そういうことになると、今度は畿内へ行ったという信憑性
が薄らいできませんか?
阿蘇山と思われる記述なども、昔の話をということかな?
これは隋書だから、関係ないか?
元の発言 [ Re:東遷はない! ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月16日(水)13時17分27秒 ]
それだと「東に漸く」って意味じゃぁ(笑)
東遷は東へ遷(うつ)るで、比較的しっくりくるんですが。
(以下仮定の話)
大陸戦国時代の影響で一旦九州に上陸した大陸人の東への移動(徐福?)、
紀元前後前漢末混乱の影響で九州から東へ大規模な移動(物部?)、
漢末倭国大乱の影響で九州から東への移動(饒速日?)、
3世紀の神武東征のモデルとなった人物(日向御子?)の東への移動、
応神天皇の東への移動の5回はあったのでは?<東遷
元の発言 [ Re: それは、九州説の人に聞くことではないのでは? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月3日(木)11時13分13秒 ]
>>
>>
>>
僕の考えとしては、韓に接するとすれば、半島に倭の国
とはいえないが、領域があったと思われる。
ドーバー海峡を挟んで、イギリスとフランスは今はトン
ネルがあるので、接しているといえるかもしれないが
普通そのような言い方はしないでしょう。
任那問題を考えなければいけないかもしれませんが、
この倭の領域が、問題になると思います。
この重要な地点が、九州と山陰の両地方と関係して
いたということは十分考えられます。
この地をまとめていたのが、九州派、出雲派に分かれ
ていた場合が一番難しい。
天の八十船?ではないかもしれないが、そうとうの
能力のある船はあったと思われる。
シバの女王の時代、(現イエメンですね)インドに
行って香辛料などを仕入れてローマに売るのを一手に
引き受けていたとされます。
海に囲まれていた日本が、それなりの航海能力を持っ
ていたと考えるのが普通でしょう。
半島と出雲を結ぶことは、そんなに難しくないはず。
>>
>>
だから、これがどうなのかわからないのです。
元の発言 [ Re: またまた(ーー;) ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 2月16日(水)21時17分23秒 ]
どうやら、おにりんさんとオヤジッチさんで“庄内新式”という言
葉の定義が異なっているご様子。おにりんさんの言っているのは、
白石さんが“庄内新式”とラベルを貼ったもので布留0に相当して
います。
ですから、オヤジッチさんが白石さんの本を読まれて、また、オヤ
ジッチさんに文献を提示していただいておにりんさんがそれを読ま
れて、それから“庄内新式”の定義のすり合わせをする必要があり
そうです。それをせずにお互い自分が正しいと主張し合っても不毛
です。
わたしは自分が他のところで書いたものと関りがありそうなので、
口を出しましたが、ここで撤収します。
元の発言 [ Re:東遷はない! ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月17日(木)13時49分19秒 ]
>つまり、「男子無大小皆黥面文身」からあとの部分ですが、
これは、倭人一般の風習や生活でしょう。
#ホウレン草も小松菜も京菜も高菜もない時代に、青菜が冬でも取れるのは倭国全般ではなく、少なくとも有明海沿岸(当時の)以南であり、神島どころか、巌島へも行っていない!
元の発言 [ Title:鏡について初歩的な疑問 ] お名前 [ くみ ] 日付 [ 2月16日(水)21時07分52秒 ]
くみさん、こんにちは。ご無沙汰しています。
>> それよりまず、銘文に現世利益的な内容が多いのはなぜでしょうか?
確かに、三角縁神獣鏡の銘文は個人的な、不老長寿・立身出世・子孫繁栄をうたったものが多く、かなり現世的です。やっぱり単にお墓に入れるためだけの鏡ではないのかもしれませんよね。また、好まれた銘文の検討を通じて当時の倭人の宗教的観念などを覗う材料になるなるかもしれません。まあ、倭人は銘文の意味など知らずにありがたがっていただけということも考えられなくはないですが。
>> なぜこんな風に考えるかというと、中国と同様、列島でも鏡は権力の系統を示すものではなく、流行だったのではないか。九州で出回り始めた初期の鏡は贅沢品、高級品ということで権力の目安ともなり得たけれど、列島では中国以上に好まれ、
流行の品をたくさん持っているということも、ひとつの富と権力の目安になりうるのではないでしょうか。
>> すぐに国内で生産されるようになり、国産鏡の代表が「三角縁神獣鏡」なのではないかと思うからです。
私は、三角縁神獣鏡ほとんど国産説に傾いているのですんなり同意したいのですが、いわゆる「舶載」三角縁神獣鏡といわゆる「[イ方]製」三角縁神獣鏡では鋳造方法が違うという研究があったり、中国鏡とは明らかに異質な文様構成の倭鏡が存在していてそれに比べると三角縁神獣鏡は明らかに中国鏡の系譜を引いているという問題もあって、なかなか言い切る勇気が出ません。
>> もうひとつ。「鏡の力 鏡の想い」のP64に、
>> 『・・・卑弥呼への贈物・・・高価なものほどリストの上位にあって数は少ない、という状況からみると銅鏡の重要度は太刀に次いで四番目・・・「好きな物」としても第一位は錦など布帛類となり、銅鏡はむしろ後から三番目である。』
>> これは、鏡に配布するほどの霊力や魅力がないことの傍証となるのではないでしょうか?
『好物』は「すきな物」というより「よき物」の意味ではないかと思いますが、それはともかく記載されている順番が価値の軽重の判断にもとづいているのかどうか必ずしも明らかではないように思います。また、仮にそうだとしても、
『悉可以示汝國中人、使知國家哀汝、故鄭重賜汝好物也』【悉くあなたの国中の人に見せて、国家(魏)があなたをいとおしんでいることを知らしめなさい。その為にあなたに鄭重に好い物を与えるのである】
とありますとおり、「悉く」ですから、まあ配布するかどうかはともかく、国中の人に示すべきものに銅鏡百枚も含まれているわけです。
元の発言 [ Re: 二つの倭 ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 2月17日(木)13時15分21秒 ]
kouji さん、こんにちは。
そうですか。
失礼しました。
では、倭国とは何を指すのでしょう。
邪馬台国ですか?それとも邪馬台国とどの国を含むもの
でしょう?
倭国=邪馬台国ならば、倭=邪馬台であり、そうでなけ
れば、連合国ということになりますね。
連合国を国という表記でされるところはあるのでしょ
うか?
諸韓国という表記はありますが、これは諸がついてます
から、違いますよね。
なんか倭国は特殊な気がするんです。
元の発言 [ 東遷ばい ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月17日(木)16時50分21秒 ]
どうも。
>>
なんかしっくりこない。これは個人的な感性の問題かもしれませんが。
>> (以下仮定の話)
>> 大陸戦国時代の影響で一旦九州に上陸した大陸人の東への移動(徐福?)、
>>
>>
>>
可能性を認めていただいたと解釈していいですね?
>> 紀元前後前漢末混乱の影響で九州から東へ大規模な移動(物部?)、
>>
>>
>>
>>
蘇我とかの先祖伝承を出すとは思いませんでした。
なるほどね。
>> 漢末倭国大乱の影響で九州から東への移動(饒速日?)、
>>
>>
>>
>>
>>
西征があったとするなら出雲は?私は一応九州説の異端なので、交流ならともかく服属か?という感想です。
>> 3世紀の神武東征のモデルとなった人物(日向御子?)の東への移動、
>>
>>
>>
そうです。紀の古い形(一書)ではニニギと神武は混同されています。
世代的には神武のモデルは台与時代の初期に「降臨」しているのではないでしょうか?
天岩屋戸の後にタカミムスビと天照の連名で「降臨」の詔をしているのは当時の天照が幼少だからでは?
(つまり台与)
で、この時代から応神までの間に景行の九州征伐が入る。
その時代に神夏磯媛(景行紀)が豊国で景行の味方について土蜘蛛を一緒に征伐しています。
この媛が卑弥呼の後裔の女王で、土蜘蛛が求心力をなくした邪馬台国に反した北部九州の諸国では?
>> 応神天皇の東への移動の5回はあったのでは?<東遷
>>
これはあったでしょう。神武東征のモデルの1つだと思います。
元の発言 [ Re: 古冨波山古墳から ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 2月3日(木)12時09分08秒 ]
イリヒコさん、こんばんは。
>> >> 墳丘基底部をなす第1次盛土層上面から多数の古式土師器が出土し、庄内期併行である事が判明。
>> ここでいう庄内期併行の庄内には布留0併行期を含まないのでしょうか?
大塚初重・小林三郎編『増補・新装版古墳辞典』(東京堂出版 平成8年9月30日再版発行)の465頁からの引用です。
上記引用のあとに、「3世紀に溯る県内最古期の古墳に属し、…」と続きます。たぶん、丸山竜平・山口辰一「野洲郡野洲町冨波遺跡調査報告」に拠っているのだと思います。
ご指摘のように、布留0併行かもしれませんが、私には判断がつきまねます。
王氏作四神四獣鏡(22.1cm)は黒塚20、32号鏡(22.3cm)と同型鏡とされています。が、これは同型と申しますより、黒塚のを踏み返したのが、古冨波山のではないかと思います。
吾作三神五獣鏡(22.0cm)は、椿井大塚山(伝)、コヤダニ古墳(兵庫)、平川大塚古墳と、および黒塚23号鏡(21.9cm)と同型とされています。
陳氏作四神二獣鏡(21.8cm)は椿井大塚山と同型。
御判断はむしろイリヒコさんにお任せしたいところです。
>> 三角縁神獣鏡は布留0より前に製作されたであろうと思っている私に取ってはありがたいことですが
ですから、紀年鏡を含む古墳の中の、いくつかは年号に近いところではないかと思っているのですけどね。ちょっとしんどいですか?(^○^)
元の発言 [ おにりんさんに、ALEXさんにちょっと質問 ] お名前 [ 小春日和 ] 日付 [ 2月17日(木)10時03分41秒 ]
小春日和さん、こんにちは。
茶々を入れるようでゴメンナサイ。
>> あの、ちょっとお二人に質問してもよろしいですか?
>> かなりくだらないことかもしれませんが・・・
>> >邪馬台国は、畿内にあった。
>> とすると、記紀にある、天照達が九州にいたという
>> 記述はどう解釈なさっているんでしょうか?
>> 天照の記述は、どこか卑弥呼と重なる感じがするので、
>> お二人の解釈に興味があります。
#私は”東遷説”ですが、
「天照=卑弥呼」
という考え方は持っていません。また、
「天照=台代」
という考え方も持っていません。
「天照=過去の巫女全て」
であると思っています。
大衆を統治するのに便利だったため
巫女を傀儡として使って政治を行っていた事実を
擬人化したものと考えています。
元の発言 [ Re: 不毛です ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月17日(木)16時32分26秒 ]
そちらについては何も言っておりません。
“庄内新式が布留0か否か”を“庄内新式”の定義をはっきりさせずに
議論してもしかたがないと言っているだけです。
では。
元の発言 [ Re: 二つの倭 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月17日(木)18時16分07秒 ]
こんばんわ
今使譯所通三十國
の国々は、全部倭国なのかな?
元の発言 [ Re:青菜も東遷もない! ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月17日(木)18時01分48秒 ]
#だから有明海沿岸までは行っているのです、大和は違う方角へ、その論拠です(^_^)v
元の発言 [ Title:鏡について初歩的な疑問 ] お名前 [ くみ ] 日付 [ 2月16日(水)21時07分52秒 ]
くみさん、こんばんは。肩凝りすとQのハヤシライスです。(^o^)
> 列島では爆発的に流行して、ひとつの墓に何十枚も副葬するようになった。なぜでしょう。
北部九州においては、権力の象徴が、銅矛から銅鏡に変わった時期があったと思います。それは、北部九州における主導権が奴国から伊都国へ変わったのと関係があるのかもしれない。銅剣、銅戈、銅矛のうち、最終的には銅矛が首長層の権威、権力の象徴になり、肥大化します。
これは、国産。この主要な生産地が奴国で、たぶんここから各首長層に分配された。
銅鏡は、中国との結びつきを示しますよね。いわば後ろ盾がいることになりますので、それをたくさん貰ってくる。そして分配する。
ただ、三雲南小路2号棺の前漢鏡は1号棺の大型と違い、小型でしかも、朱を塗られていたそうです。これは祭祀時土器と同じ感覚なのだと思います。これは祭祀に使用されたのではないでしょうか。被葬者も女性と考えられています。平原の鏡も朱を施されたのが出ています。北部九州においては、威信財としてだけではなく、祭祀としても使用されていたことが窺えるのではないでしょうか。
鏡の大量埋葬はご指摘のように、日本列島内でみられる特殊な現象と言ってよいと思います。その風習はまず、北部九州にはじまり、大和に引き継がれた。大和においては、もはや中国鏡は手に入りにくくなった時代になっていたのでしょう。自前の鏡として三角縁神獣鏡があった、ということではないでしょうか。
元の発言 [ Re: 方位について ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月16日(水)11時02分41秒 ]
ALEXさん、こんばんは。
(慈源)
1.>> 位置関係としては、「女王国」、南へ「倭国に含まれるその余の旁国」、南へ「狗奴国」という事になります。
(ALEXさん)
>#これは事実関係と違います。
>「次有奴國、此女王境界所盡。其南有狗奴國」
>ここから読み取れるのは
> 「狗奴國」が
> 「女王境界」もしくは「奴國(2)」
> の「南」
>にあることです。
> 従って、「狗奴國」が「女王國」そのものの南方向にあるかどうかは読み取れません。
もちろんそうです。順進的に書いたつもりです。それは、
> 女王国の比定地が北部九州ならば、まあ筑後川をはさむ南北のあたりまででしょう。その南にその余の旁国があり、菊池川以南が狗奴国であろうと考えております。
この事からもご理解いただけると思いますが。
ただ、1.の書き方は並列的にも読めるぞ、ということですね。
>> (だ)>南、投馬国に至る水行二十日。
>> (る)>南、邪馬壱国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月。
これも、後続の(ま)がなければ、並列的に読めるということですね。
(慈源)
>> 原文を改定しないことを前提にすれば、伊都国からの放射説、水行陸行はAND。
(ALEXさん)
>#えー?水行陸行はANDですが、放射説の根拠は何ですか?
え〜。ANDはORの書き間違い…と書こうとして、私の錯誤に気が付きました。
原文を改定しないことを前提にすれば、伊都国からの放射説ではなく、不弥国からの順進です。不弥国から水行二十日で投馬国。そこから水行十日陸行一月で邪馬臺国です。それが北部九州でなくても、大和でなくてもよい。
陳寿が描いた地理像に従わないといけませんでした。はい。それによって導かれる結果がどうであろうと。そーゆーことですね。
よく分からないので、以下お尋ねします。
(ALEXさん)
> 次に、(ま)ですが、これは戸数・道理情報の濃淡があることの理由を述べている編纂者の所見ですが、観察者の報告どおりかも知れません。
> (が)についてですが、一大率の治所が伊都國にあることは、ここを「郡使往來常所駐」としている魏人の当然知るところであります。魏人自身が十分に情報収集できる地域のことですから「諸国これを畏憚す」も観察結果と思われます。
もちろんこれには、方位も含んでいますよね。ここでの観察結果は伊都国の南に女王国がある。すると、以下と矛盾しませんか?
> 仮定「投馬国、邪馬臺国の方位の『南』が『東』の間違いであった」より
>1.女王國,邪馬臺國ともに伊都國の東
元の発言 [ 中国出土の年次が誤っている鏡の例 ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 2月17日(木)13時13分19秒 ]
koujiさん、こんばんは。
> 紀年を入れた動機が下賜鏡の製作にあったとすれば、後年の紀年鏡がない理由の説明はつくと思います。
と申しますより、紀年鏡そのものは、それまでにも50枚ほど出ています。その年号がどのような理由で入れられたのか?ですね。陳是作三角縁神獣鏡ほかの紀年鏡群もその流れのひとつと考える事もできます。
> むしろ紀年鏡も含めてすべての三角縁神獣鏡が日本で製作されたとすると、後年の紀年鏡がないのが不思議なのではないでしょうか。
だって、もはや中国の年号を使わない土地へ来ているのですから。
>中国から出土しないことは国産説の決め手にはならないと思います。
はい。でも魏鏡であることの決め手にもならない、といったところでしょう。
>紀年鏡と他の大部分の三角縁神獣鏡の製作年代に乖離があるとすれば
頭の痛いところです。(^^ゞ
福岡の「藤崎第6号方形周溝墓」からも「陳氏作神獣車馬鏡」(22.3cm)が出ていますが、これも周溝から出土した土器は、布留式最古式を出土した甘木市の大願寺方形周溝墓より多少新しいようです。
>『前方後円墳の成立』の間違いです。
重ね重ね有り難うございます。検索で確認いたしました。きのう注文したところです。
話は変わりますが、図書目録を見ていましたら、日本列島の前方後円墳のルーツは高句麗にあるという説もあるようです。真偽はともかくと致しましても、列島内の事だけではなく、一衣帯水の彼の地の考古学的なことも知っておかないといかんなあと思っているところです。
なお、上の「中国出土の年次が誤っている鏡の例」、お手数をおかけしました。有り難うございました。
元の発言 [ Re: Title:鏡について初歩的な疑問 ] お名前 [ ま さ ] 日付 [ 2月17日(木)09時11分07秒 ]
まささん、こんにちは。
>> 鏡は国に贈られたものではなく卑弥呼個人に贈られたものだという点です。
>> 「又特賜汝」ですね。
>> ここから特鋳説も出るんでしょうけれど、正式の邪馬台国からの献上品への答礼でなく、個人への贈り物という点もくみさんの説の補強になるような気がします。
ありがとうございます!
「特鋳」っていうけど。じゃ「特鋳」の例が大陸にあるのか?と言いたいです。・・・あるのでしょうか?
聞いたことないです。
元の発言 [ Re: Title:鏡について初歩的な疑問 ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 2月17日(木)17時53分25秒 ]
koujiさん、こんにちは。
>> やっぱり単にお墓に入れるためだけの鏡ではないのかもしれませんよね。
はい。基本的には姿を映すものだったはずだと思います。それが前漢の「見日之光 天下大明」などの銘帯鏡と共に意味を持ち始めて、だんだん縁起を担ぐような文章が流行ったのではないでしょうか。大陸での話です。
「鏡の力 鏡の想い」(P34)
『 すこし下る四世紀の「抱朴子」内篇には、”人に化けた魑魅魍魎は鏡の中では正体を変えられないから、修行で山に入る道士は皆、九寸以上の鏡を背後に吊していた”とあり・・・』
などというのを読むと、鏡が実用品を越えて霊力を持っていたことがわかりますし、道士が皆持っていたなら、そんなに高価なものではなかったような気もします。(山賊に襲われそう(^.^))
>> 流行の品をたくさん持っているということも、ひとつの富と権力の目安になりうるのではないでしょうか。
もちろんです。でも、富と権力があるからたくさん買うことが出来たのか、葬式の花輪が集まったのかのどちらかであり、支配者からたくさん配布された結果ではないと思うのですが。頑固ですいません。
こてんぱんにやっつけられると思っていたのに、困っています。
尚方の件はいいのでしょうか? 反論できないくらい確実な「宮廷の御用品を製作する官営工房」である証拠はないのでしょうか?
元の発言 [ Re: Title:鏡について初歩的な疑問 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月17日(木)18時09分45秒 ]
おにりんさん、こんにちは。
>>
>>
なんで「倭製の画文帯神獣鏡」というのはすんなり受け入れるんですか?
そんなに「舶載神獣鏡」のレリーフは素晴らしいですか?
方格規矩鏡や内向花文鏡とデザイン的には違っても、技術的な差は感じないのですが。
平原の46.5センチの大型鏡が倭製であるなら、どんなシャープな神獣鏡も列島内で作れると思うのです。
おにりんさんのような絵の上手い方がそんなことを言うのが不思議でなりません。
器用な人が見本を見ながら真似るのは簡単ではないですか?
まして、指導者がいればなおさらです。
それよりも魏の皇帝が、明らかに呉のデザインである神獣鏡を送ったと考える方がナンセンスだと思います。
それに「なんつうか、ナメクジみたい」な神獣鏡もあるのは需要と供給の関係で、当然でしょう。
・・・と思いながら読んでいたら
>>
>>
という落ちがついていましたけど。
元の発言 [ Re: それは、九州説の人に聞くことではないのでは? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月3日(木)00時06分37秒 ]
亀レス、御免。
>>
倭が何をさすかによるでしょう。
単に倭人の国なら女王に属す30カ国、「其南有狗奴國」の狗奴国
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」の?カ国・・・等々3つ
どころではないでしょう(^_^)
>>
>>
何度も書いていますが、私は「九州説者」ではありません。
ただ、そんな言い方をしていると、大和説論者は方向音痴だと言う
のと同じで、なんら前向きの議論になりませんよ。(Yellow Card?)
韓伝に書かれていることのある部分は採用するが、他の部分は採用
しないと言うのなら、その論理的な必然性を示さないと、第三者を
説得できないと言っているのです。
それとも海を隔ていても「境を接する」という書き方が他にもされ
ている例でも示すとか・・・
元の発言 [ Re: 銅矛から銅鏡へ ] お名前 [ 飛んだハヤシライス ] 日付 [ 2月17日(木)23時02分25秒 ]
飛んだハヤシライスさん、こんにちは!!
>> 肩凝りすとQのハヤシライスです。(^o^)
(--;)・・・わからん。やっぱ鈍いから・・・。モンテクリストQ・・・なにそれ。
>> 北部九州においては、権力の象徴が、銅矛から銅鏡に変わった時期があったと思います。
男子王から女子王ですね!!
銅矛も実用にはほど遠い形に変形したとはいえ、武器を振りかざすよりさらに穏やかですね。
>> 銅鏡は、中国との結びつきを示しますよね。いわば後ろ盾がいることになりますので、それをたくさん貰ってくる。そして分配する。
はい。そういうことはあったと思います。卑弥呼の百枚に限らず、たくさん入ってきたと思います。
でも、前回ここで話して以来、卑弥呼の時代には鏡は祭器としての役割を終え、副葬品であった可能性を考えています。
卑弥呼以前に入ってきたたくさんの舶載鏡に関しては、それらは祭器でもあったでしょうし、配布されたとおもいます。
>> ・・・肥大化します。
>> これは、国産。この主要な生産地が奴国で、たぶんここから各首長層に分配された。
何ででしょう。矛も変形してしまうし、前方後円墳も巨大だし。関係ないけど勾玉も変な形だし。
ところで鏡の国内生産が可能になると、祭器としてだけでなく貨幣としての役割も生まれるような気がするのですが。変ですか?
>> 鏡の大量埋葬はご指摘のように、日本列島内でみられる特殊な現象と言ってよいと思います。
関係ないですが、ちょっとひっかかっているのが、埴輪の素人っぽさです。
たくさんの埴輪が出ているのだから、もっとリアルで完成度の高い埴輪があってもいいと思うのです。
兵馬俑のレベルまでいかなくても、もう少し。幾何学的な前方後円墳にほのぼの埴輪ってよくわかりません。
元の発言 [ Re: 銅矛から銅鏡へ ] お名前 [ くみ ] 日付 [ 2月18日(金)03時10分56秒 ]
読み返したら、あっちもこっちも変。m(__)m
配布に関しては前回、否定していたのだし、鏡が貨幣のような役割を持つのは舶載鏡でしょうし。
関係ないこと書いてるし。まとまりなくてすいませんでした。
元の発言 [ Re: Title:鏡について初歩的な疑問 ] お名前 [ くみ ] 日付 [ 2月18日(金)02時53分22秒 ]
くみさん、こんにちは。
>> ありがとうございます!
>> 「特鋳」っていうけど。じゃ「特鋳」の例が大陸にあるのか?と言いたいです。・・・あるのでしょうか?
>> 聞いたことないです。
私も聞いたことないです。
「又特賜汝」は、「また、とくになんじにたまふ」だと思います。
要するに国に対してでなく詔書の相手先たる卑弥呼個人へ賜わったのです。
布とか剣と同列ですから珍しい土産物的なあつかいかも。
鬼道やってたことと関連するなら少しは縁起物的要素もあるかも。
元の発言 [ Re: 私的東遷説の立場から ] お名前 [ 池ちゃん ] 日付 [ 2月17日(木)19時17分45秒 ]
小春日和さん、池ちゃんさん、こんにちは。
更なる茶々を入れましてすみません。
私は天岩屋戸以前の天照=卑弥呼、以後の天照=台与と思っています。
ただ、天照国照彦と言えば、饒速日のことですよね。
天照という「称号」自体は、巫女に限らず神聖王の称号だと思います。
天=海人、国=陸人で、彼らを照らす(治める)王なのかも。
元の発言 [ Re: 三角縁神獣鏡をめぐって ] お名前 [ 飛んだハヤシライス ] 日付 [ 2月17日(木)23時46分21秒 ]
ご無沙汰しておりますが、お二人ともお元気のようで何よりです(^0^)
でも間違いは間違いと正さねばならないm(--)m
>>中国から出土しないことは国産説の決め手にはならないと思います。
>#はい。でも魏鏡であることの決め手にもならない、といったところでしょう。
#このやりとりは間違っている。A国では大量に出土、B国では全く出土しない場合に、それをB国で製造されたとする場合、文献による明確なる裏付けと確かな論証が必要。単に「鏡」と記載されている事を以て、△◎をそれに当てはめるには、もっての外。A国のみで出土、しかも大量の場合は、ひとまず「A国で製造」とするが、正しい思考方法。後になり、A国以外で出土した場合に初めて、「A国以外で製造の可能性あり」とするがあらまほし。
#また他に誤字・誤りがある例を以て、それが下賜品と論証できない場合に、「B国皇帝が下賜した品にも誤字・誤りがある」とするも、前記におなじ。
元の発言 [ Re: Title:鏡について初歩的な疑問 ] お名前 [ くみ ] 日付 [ 2月18日(金)02時55分20秒 ]
くみさん、こんにちは。
>> >> やっぱり単にお墓に入れるためだけの鏡ではないのかもしれませんよね。
>> はい。基本的には姿を映すものだったはずだと思います。それが前漢の「見日之光 天下大明」などの銘帯鏡と共に意味を持ち始めて、だんだん縁起を担ぐような文章が流行ったのではないでしょうか。大陸での話です。
でも、いわゆる「舶載」三角縁神獣鏡も国産だったら、現世利益を願う銘文を倭国内で入れたことになりますよね。
>> 「鏡の力 鏡の想い」(P34)
>> 『 すこし下る四世紀の「抱朴子」内篇には、”人に化けた魑魅魍魎は鏡の中では正体を変えられないから、修行で山に入る道士は皆、九寸以上の鏡を背後に吊していた”とあり・・・』
>> などというのを読むと、鏡が実用品を越えて霊力を持っていたことがわかりますし、道士が皆持っていたなら、そんなに高価なものではなかったような気もします。(山賊に襲われそう(^.^))
そうですね。で、この九寸以上に該当するのが三角縁神獣鏡なのですよね。
>> >> 流行の品をたくさん持っているということも、ひとつの富と権力の目安になりうるのではないでしょうか。
>> もちろんです。でも、富と権力があるからたくさん買うことが出来たのか、葬式の花輪が集まったのかのどちらかであり、支配者からたくさん配布された結果ではないと思うのですが。頑固ですいません。
三角縁神獣鏡というのは、倭國製か中国製かは別にして、一つないし、複数だとしても密接に関連しあった少数の工房で集中的に製作されているんですよね。で、黒塚でも椿井大塚でも同じお墓に同型鏡が複数枚入っていたりするんです。出所はいっしょですから、こうした同型鏡が一旦バラバラに別々の人に保有されていて、埋葬のときに持ち寄ったらたまたま同型鏡がそろったのか。配布かどうかはともかく、製作場所からずっとまとまったかたちで移動して黒塚に入ったのか。どちらがありそうだと思いますか?
>> こてんぱんにやっつけられると思っていたのに、困っています。
!!。どうしてそう思ったのですか?
>> 尚方の件はいいのでしょうか? 反論できないくらい確実な「宮廷の御用品を製作する官営工房」である証拠はないのでしょうか?
鏡に限らず、尚方の工房というの洛陽ばかりではなく、あっちこっちにあったようです。製品によって、原材料が入手しやすいところとか技術的伝統があるとことに設定されたのではないでしょうか。どのように設定されたかはよくわかりません。尚方ご用達の民間工房なのか、尚方直営工房なのか、等など。多分、ケースバイケースなのではないでしょうか。そして、民間工房ならもちろんですが、直営工房でも民間との取引もあったかもしれませんよね。案外、独立採算性だったりして。製品の種類にもよるでしょうが。
元の発言 [ Re: Title:鏡について初歩的な疑問 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月17日(木)18時09分45秒 ]
おにりんさん、こんにちは。
>>
>>
そうでしょうね。神像の印象もずいぶん違いますよね。鋳上がりをどうこう言う以前に、表現者としての感性がまるっきり違うように感じます。アメリカンコミックと日本の漫画が違うみたいに。
>>
倭鏡の年代も最近はだいぶ古く見られるようになっているそうですね。大和天神山あたりが本当に古くなると確実にそう言える。そうなると弥生の銅鐸の工人と古墳の倭鏡の工人がつながる可能性が出てくる。本当に似てますからね。そのように倭人の青銅製品製作の流れを考えてよければ、三角縁神獣鏡の工人は倭国製青銅製品の流れから孤立した存在だということになる。
>>
まあ、そうですよね。
元の発言 [ Re: 三角縁神獣鏡をめぐって ] お名前 [ 飛んだハヤシライス ] 日付 [ 2月17日(木)23時46分21秒 ]
飛んだハヤシライスさん、こんにちは。
>> > 紀年を入れた動機が下賜鏡の製作にあったとすれば、後年の紀年鏡がない理由の説明はつくと思います。
>> と申しますより、紀年鏡そのものは、それまでにも50枚ほど出ています。その年号がどのような理由で入れられたのか?ですね。陳是作三角縁神獣鏡ほかの紀年鏡群もその流れのひとつと考える事もできます。
>> > むしろ紀年鏡も含めてすべての三角縁神獣鏡が日本で製作されたとすると、後年の紀年鏡がないのが不思議なのではないでしょうか。
>> だって、もはや中国の年号を使わない土地へ来ているのですから。
!?。えっと、じゃあ、青龍三年・景初三年・四年・正始元年鏡は中国で製作されたってことでいいのですか?
>> >中国から出土しないことは国産説の決め手にはならないと思います。
>> はい。でも魏鏡であることの決め手にもならない、といったところでしょう。
それはそうです。
>> >『前方後円墳の成立』の間違いです。
>> 重ね重ね有り難うございます。検索で確認いたしました。きのう注文したところです。
そのうち感想を聞かせてください。
>> 話は変わりますが、図書目録を見ていましたら、日本列島の前方後円墳のルーツは高句麗にあるという説もあるようです。
高句麗の積石墓のことでしたら、『前方後円墳の成立』でも触れてありましたが、かなり冷淡な取り扱いでした。
>> 真偽はともかくと致しましても、列島内の事だけではなく、一衣帯水の彼の地の考古学的なことも知っておかないといかんなあと思っているところです。
中国において漢鏡の編年が確立したことが日本の考古学に及ぼした影響も甚大ですしね。
>> なお、上の「中国出土の年次が誤っている鏡の例」、お手数をおかけしました。有り難うございました。
とんでもありません。
元の発言 [ Re: 二つの倭 ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月17日(木)18時09分48秒 ]
yaohideさん、こんにちは。
>> では、倭国とは何を指すのでしょう。邪馬台国ですか?それとも邪馬台国とどの国を含むものでしょう?
現実の倭國は、對馬國・一支國・末盧國・伊都國・奴國・不彌國・投馬國・邪馬臺國・斯馬國・已百支國・伊邪國・都支國・彌奴國・好古都國・不呼國・姐奴國・對蘇國・蘇奴國・呼邑國・華奴蘇奴國・鬼國・爲吾國・鬼奴國・邪馬國・躬臣國・巴利國・支惟國・烏奴國・奴國から構成されているということでしょう。理念的には狗奴國も含んでいると思いますが。
>> 倭国=邪馬台国ならば、倭=邪馬台であり、そうでなければ、連合国ということになりますね。連合国を国という表記でされるところはあるのでしょうか?
>> 諸韓国という表記はありますが、これは諸がついてますから、違いますよね。
諸がつかない韓國もありますよね。
魏志韓傳『桓靈之末、韓・[三歳]彊盛、郡縣不能制、民多流入「韓國」。』
魏志韓傳『部從事呉林、以樂浪本統「韓國」、分割辰韓八國以與樂浪』
魏志韓傳『其耆老傳世、自言、古之亡人避秦役來適「韓國」、馬韓割其東界地與之。』
魏志倭人傳『從郡至倭、循海岸水行、歴「韓國」、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國。』
韓國は小國分立状態ですが、それらの小國を一括して韓國と呼んでいる。
元の発言 [ Re: 古冨波山古墳から ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 2月3日(木)12時53分49秒 ]
koujiさん、こんばんは。
> 形態分類としての第三段階までは、庄内期のうちに出現したという事だと思いますよ。
>> 少なくとも庄内期のうちにいわゆる「舶載」三角縁神獣鏡の過半の「型」ができているわけですよね?
言い方がまずかったですね。少なくとも1種は庄内期併行の古墳から出てきたと言う事ですよね。岸本編年で第三段階のものが35種ほどあります。第一段階のものが13種、第二段階のものが29種ほど。でもはたしてこれだけの種類が、布留以前に製作されていたのかどうか?
いまのところ各氏の編年案に拠らなくてもいいような気もいたします。たとえば、獣文帯、唐草文帯、波文帯はそれぞれが得意な職人の差異であるかもしれませんし。
> 石野博信編『全国古墳編年集成』(雄山閣)で黒塚をみると、どっぷり庄内期に浸かっているように見えます。
エピソードをひとつ。この先生と昨年あるところで偶然お会いした事があります。黒塚の話題も出ました。彼曰く、「やっぱりあれは4世紀初めかなぁ」なんておっしゃっておられました。
でも、それはともかく、河上氏は、
>使用石材、石室構造、床構造、副葬品等総合的判断からみた調査古墳の相対編年は、中山大塚古墳(天神山古墳を含む)→黒塚古墳→下池山古墳となると私は考えている。(『黒塚古墳調査概報』学生社)と言ってます。また、先にも引きましたように、赤塚氏は、箸墓より下池山古墳のほうが少し古い、と言ってます。それらを矛盾なく並べれば、黒塚を庄内期と言えなくもないですが、祭祀土器かと思いますが、穿孔土器が出ていて、これは桜井茶臼山からも出ていますが、矢部編年では、布留1式になってますよね。
>> もともと数の少なかったと思われる古墳が、確実に庄内期であることが判断できる土器と確実に三角縁神獣鏡であると判断できる鏡片を伴って確認されるまでは、庄内期の大和には三角縁神獣鏡がなかったと判断されるのでしょうか?
大和の場合、けっこう研究は進んでいると思いますが、内部調査が出来ていないのが多いので、現状では「ない」と言わざるを得ないですよね。本当は、大和以外の古墳で、紀年鏡を副葬した古墳群の中には、布留0期以前のものがあってもおかしくないと思うのですが、年代を判断する決め手に欠ける、というのが実状だと思います。私だって、発掘が済んだものの中に布留0以前のものがあると思うのですけどねぇ。(^^ゞ
>> そして、現時点で確実に言えるのは、布留式期の古墳からの出土も含めたV期以前の三角縁神獣鏡の分布の中心は大和にあるということであり、V期以前の三角縁神獣鏡だけを出す古墳の分布の中心も大和にあるということだと思います。
鏡作神社に伝世されたらしい唐草文帯三神二獣鏡がありますが、この地域で作られていた時代があった事は間違いないと思います。それがいつごろからか?と言う事ではないでしょうか。
元の発言 [ Re:お二人とも間違っておられる ] お名前 [ マルガリータ ] 日付 [ 2月18日(金)11時42分18秒 ]
マルガリータさん、こんにちは。
>> >>中国から出土しないことは国産説の決め手にはならないと思います。
>> >#はい。でも魏鏡であることの決め手にもならない、といったところでしょう。
>> #このやりとりは間違っている。A国では大量に出土、B国では全く出土しない場合に、それをB国で製造されたとする場合、文献による明確なる裏付けと確かな論証が必要。
>> A国のみで出土、しかも大量の場合は、ひとまず「A国で製造」とするが、正しい思考方法。後になり、A国以外で出土した場合に初めて、「A国以外で製造の可能性あり」とするがあらまほし。
いえ。「A国では大量に出土、B国では全く出土しない」ということだけが所与の条件であれば、「A国で製造」でいいんです。ところが、もっと細かい年代別の出土状況や、出土状況以外の要因が絡んでくるので困っているのです。
>> 単に「鏡」と記載されている事を以て、△◎をそれに当てはめるには、もっての外。
そんなこと関係ありませんって。本当に「単に「鏡」と記載されている事」だけ、なら鏡は何でもいいんだから別に問題ないんです。そうじゃないから困っております。
>> #また他に誤字・誤りがある例を以て、それが下賜品と論証できない場合に、「B国皇帝が下賜した品にも誤字・誤りがある」とするも、前記におなじ。
景初四年鏡のことですか?下賜品じゃないだろうと申しておりますが。
元の発言 [ Re: 銅矛から銅鏡へ ] お名前 [ 飛んだハヤシライス ] 日付 [ 2月17日(木)23時02分25秒 ]
飛んだハヤシライスさん、ちょっと失礼します。
>> 最終的には銅矛が首長層の権威、権力の象徴になり、肥大化します。
この判断はどこら辺から来ているのでしょうか?広型の銅矛の取り扱われ方って、首長層の権威・権力の象徴にはあまりふさわしくないんじゃないですか?少なくとも首長簿への副葬例はほとんどないのですよね?
元の発言 [ 日本の歴史は東遷の連続か? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月18日(金)13時38分20秒 ]
ま さです。こんにちは。
>> 西征があったとするなら出雲は?私は一応九州説の異端なので、交流ならともかく服属か?という感想です。
>>
>>
>>
>>
イザナギの禊ぎは?
三貴子は九州生まれですよ。
>> 世代的には神武のモデルは台与時代の初期に「降臨」しているのではないでしょうか?
>>
>>
それは欠史八代を記紀どおりに直系と考えるからでしょう。
まぁ、ここまで記紀を引用してきてここだけ否定するのもご都合主義かもしれませんが。
万世一系を強調するためだけの直系相続のような気がします。崇神以後の系譜を見るとね。
>> で、この時代から応神までの間に景行の九州征伐が入る。
>>
>>
>>
>>
>> その時代に神夏磯媛(景行紀)が豊国で景行の味方について土蜘蛛を一緒に征伐しています。
>> この媛が卑弥呼の後裔の女王で、土蜘蛛が求心力をなくした邪馬台国に反した北部九州の諸国では?
>>
>>
>>
>>
古墳の分布から言えるのは、共通乃至は類似の文化圏というだけで、近畿勢力のもとに下っているとまでは断言できないでしょう。
同じように、最初から、そのあたりは、天皇家に服属していたとも言えません。
「魏志倭人伝の記述と合う」に至っては、現状で解釈に相違があるのに断言はできないでしょう。
あくまでこう考えると、おにりんさんの解釈と合うというだけ。
だって、私の考え(九州説・一部東遷説)とも矛盾しませんもん。
元の発言 [ Re: 私も異端的九州東遷説の立場から ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月18日(金)13時56分40秒 ]
早いね、レス。
>>
>>
>>
このごっちゃの原因を、私は古代母系制の名残によるものと考えています。
だから記紀には女性に関しての「○○国造の祖」と男性に関しての「○○国造の祖」というのが重複してでてきたりします。
これは両系の先祖なんでしょうね。
元の発言 [ Re: Title:鏡について初歩的な疑問 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月18日(金)13時50分01秒 ]
おにりんさん、こんにちは。
この辺よくわかりません。銅鏡担当が右尚方だったとして、単に「尚方」とあるから本当にダメなのか。三国志を見ても単に尚方とある例がいくつか出てくる。中尚方も出てきますが。
元の発言 [ イエローカードかな(^_^) ] お名前 [ ノッピン ] 日付 [ 2月4日(金)00時01分50秒 ]
ノッピン さん、こんにちは。
>> それとも海を隔ていても「境を接する」という書き方が他にもされ
>> ている例でも示すとか・・・
#
タクラマカン砂漠を挟んで「接する」例は漢書西域傳に多数あります。
また
北限大海、西北接百濟、正北抵新羅、南與越州相接。(唐會要)
これなんかは海を隔てて接してますね。
元の発言 [ Re: Title:鏡について初歩的な疑問 ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 2月18日(金)12時59分51秒 ]
koujiさん、こんにちは。
>> でも、いわゆる「舶載」三角縁神獣鏡も国産だったら、現世利益を願う銘文を倭国内で入れたことになりますよね。
はい。中国と同じ扱いだったと思っています。そして、中国より爆発的に流行したのだと思います。
>> そうですね。で、この九寸以上に該当するのが三角縁神獣鏡なのですよね。
確かに三角縁神獣鏡は大型ですが。三角縁神獣鏡は全部国産ですから。(^_^;)
それに「該当するのが三角縁神獣鏡」なら、かの地からも一枚ぐらい出てきたっていいものです。
だいたい中国で九寸以上の大型鏡がそんなに出土しているとは思えないので不思議に思っているのですが、本の引用を続けます。
「鏡の力 鏡の想い」(P34)
『 すこし下る四世紀の「抱朴子」内篇には、“人に化けた魑魅魍魎は鏡の中では正体を変えられないから、修行で山に入る道士は皆、九寸以上の鏡を背後に吊していた”とあり、また、“七月七日の夕に九寸以上の銅鏡に自分の顔をうつして思いを凝らすと神仙の姿が見えて千里先のことや未来のことがわかる”として、“鏡が二枚になると「日月鏡」と呼び、「四規」と呼ぶ方法(四枚の鏡を前後左右に置く?)でやってくる膨大な神の中には四神もいる”とある。「九寸以上の鏡」(約二二センチ以上)なら、日月鏡には内向花文鏡が、四規には方格規矩四神鏡が最もふさわしく感じられる』
とあって、著者の中村潤子氏も、三角縁神獣鏡ではないとしています。
>> こうした同型鏡が一旦バラバラに別々の人に保有されていて、埋葬のときに持ち寄ったらたまたま同型鏡がそろったのか。配布かどうかはともかく、製作場所からずっとまとまったかたちで移動して黒塚に入ったのか。どちらがありそうだと思いますか?
亡くなってから殯の期間がありますよね。この期間に親族や友人が最寄りの鏡工房に発注したのかもしれないですし。亡くなる前に本人が自分で用意しておく習慣だったかもしれないです。さらに「同型鏡」は工房にストックされていて、各豪族に配送された場合もあると思います。
この場合、ひとつの墓に複数の工房から納品された可能性がありますから、作風が揃わないのは自然です。
いずれにしてもほとんどの鏡は製作場所から副葬地点まで、経由地はなかったと思います。違うのでしょうか?
鏡作神社はあっても刀作神社とか、武器作神社が無いなら、鏡はやっぱり特殊な工芸品だったと思います。
>> >> こてんぱんにやっつけられると思っていたのに、困っています。
>> !!。どうしてそう思ったのですか?
そりゃもう変なことを書いているような気がして不安だからです。
特に尚方のことは非常識かと思っていたので、安心しました。
さらに、銘文が現世利益的内容であることも認めていただいて、それが権力と結びつかない内容であることにも反論がなく、「鏡に配布するほどの霊力や魅力がない」(←あくまで大陸での話です)と書いたことにも反論がないので、ちょっと気をよくしています。(やっぱりダメかな)
元の発言 [ Re: Title:鏡について初歩的な疑問 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月18日(金)12時58分34秒 ]
おにりんさん、こんにちは。
>> 器用な人が見本を見ながら真似るのは簡単ではないですか?
>> まして、指導者がいればなおさらです。
>>
私も絵を描いていました。デッサン力あります。絵を描くのは好きだったから、デッサンで苦労した覚えはないです。
最近全く描いていませんが、おにりんさんの絵を真似しろといわれれば、ある程度真似できると思います。
授業で石膏像作りましたし、粘土と見本があれば神獣鏡のレリーフを真似することも出来ます。
・・・自分にデッサン力があると豪語したけど、程度問題ですよ。程々のデッサン力です。わかってます。(^_^;)
>>
>>
>>
>>
でも、継続は力。そのうち自分のスタイルができて、こなれていくものです。
子どもは絵が好きですよね。それなのに幼稚園、小学校と上がるにつれて絵を嫌いになっていく子がいるのは、鑑賞眼がついて、自分の思い通りに絵を描けない苛立ちもあると思います。ケースバイケースでしょう。
>> それよりも魏の皇帝が、明らかに呉のデザインである神獣鏡を送ったと考える方がナンセンスだと思います。
>>
いま、日本製のペイズリーやアラベスク模様の商品もありますが、外国に贈るなら、浮世絵や市松模様などでしょう?
その方が相手も喜びませんか?
>>
>>
>>
>>
>>
何でそういいきれるのか、不思議なんです。
>>
おにりんさんのいう「倭製画文帯神獣鏡」は
佐賀県谷口古墳出土 三角縁神獣鏡
福岡県一貴山銚子塚古墳出土 三角縁神獣鏡
みたいな系統ですか? 確かに間違いなく列島製ですよね!
元の発言 [ Re: 二つの倭 ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 2月18日(金)13時04分00秒 ]
koujiさん、こんにちは。
ぼくも当然その30国のことだとは思うのですが、
魏志倭人傳『從郡至倭、循海岸水行、歴「韓國」、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國。』
のように、倭とは書かれていますが、倭国じゃない。
韓国とあって狗邪韓国がある。
これは、名詞じゃない。韓の国でしょう。
ならば倭の国であって、倭国じゃない。
ですから倭国とあるから必ず邪馬臺國とは限らないと。
まあ、しつこい話なんですけどね。
元の発言 [ Re: 銅矛から銅鏡へ ] お名前 [ くみ ] 日付 [ 2月18日(金)03時10分56秒 ]
くみさん、こんにちは。
>> 肩凝りすとQ
>・・・なにそれ。
いや、その、肩がQっと凝ってると…。(^^ゞ
>> でも、前回ここで話して以来、卑弥呼の時代には鏡は祭器としての役割を終え、副葬品であった可能性を考えています。
三雲南小路、井原鑓溝などなど、平原以前でも副葬されてますよ。また、平原では先にも書きましたように、朱を施された鏡が出ていますし、平原遺跡そのものが、太陽信仰との関わりを考えてよいので、祭器としての役割も持っていたのではないでしょうか。
>> 何ででしょう。矛も変形してしまうし、前方後円墳も巨大だし。関係ないけど勾玉も変な形だし。
とても面白いところですね。銅矛も巨大化するにつれ、矛に柄を繋ぐところに半環状の孔が空いているのですが、多分紐を通していたのではないかと思います。その孔がふさがったままになっています。すでに、矛としての実用から離れていると考えられる。
勾玉は、これを二つ組合せた紋様がありますよね。正確にはなんて言うのか知りませんが、キョンシーの映画などに出てくる、ほら、アレ。「巴紋」って言うのだと思います。水の渦巻きに関係するのかもしれません。
>> ところで鏡の国内生産が可能になると、祭器としてだけでなく貨幣としての役割も生まれるような気がするのですが。変ですか?
舶載鏡にも交換財としての一面があったのではないでしょうか。岡村編年の漢鏡5期の鏡群は平原に大量に副葬され、北部九州に厚く、岡山、兵庫、大和、山陰では、鳥取から出ていますが、交換財として流出したものもあると思います。
慈源 さん、こんにちは。
>> 1.の書き方は並列的にも読めるぞ、ということですね。
#というより、基本的に「次有斯馬國、次有已百支國〜次有奴國」の部分が行程について述べた文章ものではないので、現実の地理的位置関係と連動するような規則性があるのか/ないのか;不分明です。
厳密に言えば「倭国に含まれるその余の旁国」が南とも書いてあるわけではありません。
--------------------
>> (だ)>南、投馬国に至る水行二十日。
>> (る)>南、邪馬壱国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月。
>> これも、後続の(ま)がなければ、並列的に読めるということですね。
#「純」語法的には並列的にも読めます。「南」が繰り返される点は文章としては変ですが、並列的に読むのが無理だとは思いません。もちろん私はそうは読みませんが。
--------------------
>> >> 次に、(ま)ですが、これは戸数・道理情報の濃淡があることの理由を述べている編纂者の所見ですが、観察者の報告どおりかも知れません。
>> >> (が)についてですが、一大率の治所が伊都國にあることは、ここを「郡使往來常所駐」としている魏人の当然知るところであります。魏人自身が十分に情報収集できる地域のことですから「諸国これを畏憚す」も観察結果と思われます。
>> もちろんこれには、方位も含んでいますよね。ここでの観察結果は伊都国の南に女王国がある。すると、以下と矛盾しませんか?
>> >> 仮定「投馬国、邪馬臺国の方位の『南』が『東』の間違いであった」より
>> >> 1.女王國,邪馬臺國ともに伊都國の東
--------------------
#慈源さんの問題提起
「第一次記録者の誤解でありましょう。また、陳寿自身の誤解もあったでしょう。しかしながら、上記には、聞き取りに基づく記述もあると思う」
により
A:観察結果には「第一次記録者の誤解」がありうる
B:考証部分には「陳寿自身の誤解」がありうる
C:聞き取りならば「もともとから方位もこのとおり」
と推定される情報源別に、原文の信頼度レベルを考慮しつつ3種類に別けます。
ゆえに
>> (る)>南、邪馬壱国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月。
>> (ま)>女王国より以北、その戸数・道理は得て略載すべきも、その余の旁国は遠絶にして得て詳かにすべからず。
#これらがともに、方位について上記Aに該当するならば、
(る)について仮定「投馬国、邪馬臺国の方位の『南』が『東』の間違いであった」を適用した場合、
(ま)についても「『南』が『東』の間違い」を準用するのが適切であろうかと思います。
元の発言 [ Re: 銅矛から銅鏡へ ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 2月18日(金)13時31分58秒 ]
koujiさん、おにりんさん、こんにちは。
銅矛も、墳墓から出ています。対馬のハロウ遺跡石棺、福岡吉武大石遺跡甕棺など。ただし、墳墓以外でも出ております。
下条信行氏は「邪馬台国時代の九州」(『邪馬台国の時代』所収 木耳社)で大意次のように言っています。
細形銅矛・銅戈・銅剣の三種の武器形青銅器のなかでも、北部九州で最も貴重視された物は細形銅矛で、墳墓に副葬する時に、銅矛はかならず死者の身の傍にある、と。
で、銅矛も弥生後期後半から終末期の遺跡からも出ておりますので、おにりんさんご指摘のように鏡と併行しているのは事実です。
ただ、銅矛の生産地は奴国と言ってよいでしょう。そこから、対馬、北部九州、四国へと配布された。前漢鏡は奴国の王墓と考えられる春日市須玖岡本D地点甕棺墓から二十数面出ています。
でも、後漢(式)鏡は、伊都国に厚く出ております。そのことを以下のように申し上げたのですけれど。
>> 北部九州においては、権力の象徴が、銅矛から銅鏡に変わった時期があったと思います。それは、北部九州における主導権が奴国から伊都国へ変わったのと関係があるのかもしれない。
元の発言 [ Re: 銅矛から銅鏡へ ] お名前 [ 飛んだハヤシライス ] 日付 [ 2月19日(土)12時00分55秒 ]
飛んだハヤシライスさん、こんにちは。
>> 銅矛も、墳墓から出ています。対馬のハロウ遺跡石棺、福岡吉武大石遺跡甕棺など。ただし、墳墓以外でも出ております。
>> 下条信行氏は「邪馬台国時代の九州」(『邪馬台国の時代』所収 木耳社)で大意次のように言っています。
>> 細形銅矛・銅戈・銅剣の三種の武器形青銅器のなかでも、北部九州で最も貴重視された物は細形銅矛で、墳墓に副葬する時に、銅矛はかならず死者の身の傍にある、と。
細形の銅矛が副葬されているのは承知しています。でも肥大化した銅矛は違うのではありませんか?副葬例の多い細形の銅矛と、ほとんど墳墓以外から出てくる広形の銅矛では、取り扱われ方が違っていたはずです。
>> で、銅矛も弥生後期後半から終末期の遺跡からも出ておりますので、おにりんさんご指摘のように鏡と併行しているのは事実です。
そこまで下げなくても、須玖岡本D地点で細形の銅矛と大量の鏡が共判していたはずですが。主張の権威を示すものの変遷を、副葬品から見ると、
武器:青銅製実用利器 → 鉄製利器
鏡 :前漢鏡 → 後漢鏡
という変化をたどっているのであり、矛から鏡へ変わったということはないのではないかと思います。「肥大化した銅矛」が首長層の権威・権力の象徴というのは違うのではないでしょうか?
元の発言 [ Re: 土器と土師器 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月17日(木)13時29分33秒 ]
>>
>>
>>
#須恵器以降と、以前には本質的な違いがありますが、
#庄内式併行期、近畿弥生V期と言う括りは扁年上の用語であって、
#制作上に本質的な違いがあるとは思えない。
#制作上の画期は、ろくろの使用と登り窯でしょう。
#庄内式土器はその発現期間が短く、特徴がハッキリして、各地に散布(大量生産?)されているので、遺跡の扁年に使われ易いと言うだけで、
#土器として優れているわけではないと思います。
#須玖式土器の赤色磨研や丹塗土器の精緻差と比べるのは、祭祀土器と生活土器を比べることになるので不適切かもしれませんが、
#北部九州の在地系土器(報道で言う西新式)と並べてあるとそう見えてしまう。
【ご参考】
庄内式土器は河内、和泉、摂津地方の土器で、大和地方では様相が異なる。
一般的傾向:
河内地方 大和地方
方向 左下がり 水平または右下がり
精粗 細かい(1a辺り、7〜8条) 荒い(1a辺り、4〜5条)
箆削り 頚部内面に及ぶ 頚部の下位で終わる
胎土 角閃石が多い 角閃石は少ない
系譜としては、丸底で薄い吉備地方の甕の影響が強く、全期間に渡って吉備地方の甕が流入、甕Cの変化とも対応している。しかし、基本形は第V様式甕を踏襲したものである。
吉備地方の影響は、低脚高杯、器台A、杯B、小型丸底壺の祖型にもみられる。
ただし、甕の細かい叩き目は吉備地方の甕には無く、韓国府院洞遺跡の陶質土器に叩き目があることが関係するか。河内地方にはこの時期の朝鮮半島からの土器流入もある。
この時期の河内地方には、大和、近江、紀伊、摂津の近畿地方、吉備、山陰、東海地方からの搬入土器が見られる。纏向遺跡では、南関東、北陸、山陰、西部瀬戸内などから、多量の搬入土器が見られる。
元の発言 [ Re: Title:鏡について初歩的な疑問 ] お名前 [ ま さ ] 日付 [ 2月18日(金)11時06分45秒 ]
くみさん、まささん、こんにちは。
>> 「又特賜汝」は、「また、とくになんじにたまふ」だと思います。
>> 要するに国に対してでなく詔書の相手先たる卑弥呼個人へ賜わったのです。
#元々が、東園温明(中身の鏡を含む)で、皇帝が下賜する葬具ですから。§^。^§
#当然ながら、中華冊封体制化の“王”である個人に下賜し、叙勲の証明でもあるんです。
元の発言 [ Re: 銅矛から銅鏡へ ] お名前 [ 飛んだハヤシライス ] 日付 [ 2月19日(土)11時10分52秒 ]
飛んだハヤシライスさん、くみさん、こんにちは。
>> >> 肩凝りすとQ
>> >・・・なにそれ。
>> いや、その、肩がQっと凝ってると…。(^^ゞ
意味不明???
>> 勾玉は、これを二つ組合せた紋様がありますよね。正確にはなんて言うのか知りませんが、キョンシーの映画などに出てくる、ほら、アレ。「巴紋」って言うのだと思います。水の渦巻きに関係するのかもしれません。
勾玉って、動物の牙を模したものだとばっかり思ってました。
縄文時代の狩猟生活のなごりの残った宝物だと思っていたのですが、違ったのかな?
よくどこかの原住民で、牙をたくさんつないだネックレス
みたいなのしてるでしょう。
あれと同じようなものだとばかり思ってたのに。
太陽信仰(宗教)、青銅武器(力)、系統(歴史)の
セットが三種の神器ではないかな?
>> >> ところで鏡の国内生産が可能になると、祭器としてだけでなく貨幣としての役割も生まれるような気がするのですが。変ですか?
>> 舶載鏡にも交換財としての一面があったのではないでしょうか。岡村編年の漢鏡5期の鏡群は平原に大量に副葬され、北部九州に厚く、岡山、兵庫、大和、山陰では、鳥取から出ていますが、交換財として流出したものもあると思います。
元の発言 [ Re: イエローカードかな(^_^) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月4日(金)01時50分16秒 ]
ALEX さん、ご教示ありがとうございます。
>> >> それとも海を隔ていても「境を接する」という書き方が他にもされ
>> >> ている例でも示すとか・・・
>> #
>> タクラマカン砂漠を挟んで「接する」例は漢書西域傳に多数あります。
>> また
>> 北限大海、西北接百濟、正北抵新羅、南與越州相接。(唐會要)
>> これなんかは海を隔てて接してますね。
でもこの場合は境を接していると言う例ではありませんね。
境には特に意味はないのでしょうか?
元の発言 [ Title 方位について(承前: 慈源さんへ) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月19日(土)11時23分44秒 ]
ALEXさん、こんにちは。
>> >> (る)>南、邪馬壱国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月。
>> >> (ま)>女王国より以北、その戸数・道理は得て略載すべきも、その余の旁国は遠絶にして得て詳かにすべからず。
>> A:観察結果には「第一次記録者の誤解」がありうる
>> #これらがともに、方位について上記Aに該当するならば、
>> (る)について仮定「投馬国、邪馬臺国の方位の『南』が『東』の間違いであった」を適用した場合、
>> (ま)についても「『南』が『東』の間違い」を準用するのが適切であろうかと思います。
(る)(ま)の第一次記録者が異なる場合、それぞれが同一の誤解を生じていることになります。この可能性は確率としてはずいぶん低いのではないでしょうか?
第一次記録者が同一であったのか否か?
(ま)>女王国より以北、その戸数・道理は得て略載すべきも、その余の旁国は遠絶にして得て詳かにすべからず。
まず、不弥国までの里程の記述は、どうやら魏尺ではないために、魏使(魏人)が書いたものではない。魏使もその記録を知っていたかどうか?そこに、投馬国、邪馬台国への日数表記が加わっているのですから、これは、陳寿が倭国の地理像を描きつつ、異なる情報ソースを繋いだのではないでしょうか。
すると、有意な情報としては、(だ)の投馬国までの記述と連結した、
(る)>南、邪馬壱国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月。
(が)>女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。諸国これを畏憚す。常に伊都国に治す。
このふたつになろうかと思います。これらは魏人の観察結果と言えなくもないですが、同一人によって為されたのかどうか?
また、
(さ)>(その余の旁国を列記)次に奴国あり。これ女王の境界の尽くる所なり。その南に狗奴国あり。
これが、「聴取内容どおりかも知れません。」であるのならば、実際の位置関係は伊都国の東に投馬国、さらに東に邪馬台国、邪馬台国の南にいくつかの倭国に含まれるその余の旁国をはさんでその南に狗奴国がある。
ということになります。
理解としてはこれでよろしいですか?具体的には、狗奴国は、紀伊半島のどこかにあるということになりますが。
ひょっとして変なところに入り込んだ議論になっているのかもしれませんネ。
元の発言 [ Re: 銅矛から銅鏡へ ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月20日(日)01時20分43秒 ]
yaohideさん、こんにちは。
>> >> いや、その、肩がQっと凝ってると…。(^^ゞ
>> 意味不明???
忘れてください。あんまり面白くないジョークでしたね。でも肩凝りはホント。
>> 勾玉って、動物の牙を模したものだとばっかり思ってました。
>> 縄文時代の狩猟生活のなごりの残った宝物だと思っていたのですが、違ったのかな?
>> よくどこかの原住民で、牙をたくさんつないだネックレス
>> みたいなのしてるでしょう。
>> あれと同じようなものだとばかり思ってたのに。
いや、そうかもしれません。ただ、骨で作った勾玉のようなのって出てませんよね。勾玉はわりと貴重な石で作られているのもありますので、大切なものと考えられていたんだと思います。身に着けることで魔除けとかのお守りになると考えられていたのではないでしょうか。
>> 太陽信仰(宗教)、青銅武器(力)、系統(歴史)の
>> セットが三種の神器ではないかな?
朝鮮半島の副葬品といえば、多紐細文鏡、青銅製のヤリガンナ(小さいものです、5cm〜7cmぐらいではないかな)、碧玉製管玉がセットで出てくるのだそうです。
だから、列島の三種の神器もこれを摸したのがはじまりではないかなと思ってるのですけど。意味合いは変容しているのかもしれません。
ヤリガンナといえば大工道具ですよね。それが列島では剣になった。
元の発言 [ おにりんさんに、ALEXさんにちょっと質問 ] お名前 [ 小春日和 ] 日付 [ 2月17日(木)10時03分41秒 ]
こんにちは。
ご指名なのに遅くなりました。あまにニベもない答えではいけないかと思って考えていたのですが、やっぱりニベもなくなってしまいました。
>> 邪馬台国は、畿内にあった。
>> とすると、記紀にある、天照達が九州にいたという
>> 記述はどう解釈なさっているんでしょうか?
>> 天照の記述は、どこか卑弥呼と重なる感じがするので、
>> お二人の解釈に興味があります。
#すいません。あまり記紀の神話は考慮しません。
スサノヲは環玄海灘地域の巫覡神でしょうし、太陽神じたいも列島固有の物ではないでしょう。特定の人物に割り当てる事はしません。
ご提示の手法は立証も反証もできない部類に属しますので、もとより私の採る所ではありまあせん。
ということで… (^_^;)ゞ
元の発言 [ Re: Title 方位について(承前: ALEXさんへ) ] お名前 [ 慈源 ] 日付 [ 2月20日(日)11時13分23秒 ]
慈源 さん、こんにちは。
>> (る)(ま)の第一次記録者が異なる場合、それぞれが同一の誤解を生じていることになります。この可能性は確率としてはずいぶん低いのではないでしょうか?
第一次記録者が同一であったのか否か?
#ずいぶん認識を共有できたように思います。
さて
A:観察結果には「第一次記録者の誤解」がありうる
B:考証部分には「陳寿自身の誤解」がありうる
C:聞き取りならば「もともとから方位もこのとおり」
の3種類に分別した中の
さらにAの中で
A1:魏人
A2:非魏人
と2分類したことになりますが、このグルーピングの中で、まだ同一グループに属する文章ということになりました。同一の地理感の共有を想定して無理ないところではないでしょうか?
こうなると、むしろ逆に「異なる地理感に基づいて書かれた」と挙証する必要が生じるのではないでしょうか?
>> (さ)>(その余の旁国を列記)次に奴国あり。これ女王の境界の尽くる所なり。その南に狗奴国あり。
これが、「聴取内容どおりかも知れません。」であるのならば、実際の位置関係は伊都国の東に投馬国、さらに東に邪馬台国、邪馬台国の南にいくつかの倭国に含まれるその余の旁国をはさんでその南に狗奴国がある。
ということになります。
#もとの文章は以下です。
>> >> 次に、(ま)ですが、これは戸数・道理情報の濃淡があることの理由を述べている編纂者の所見ですが、観察者の報告どおりかも知れません。
#ここでは「編纂者の所見」が「観察者の報告どおり」かも知れません;と、つまり
B:考証部分;「陳寿自身の誤解」がありうるレベル
ではなく
A:観察結果;「第一次記録者の誤解」がありうるレベル
かも知れません
と述べたのであって、(地理上の事実)は「聴取内容どおりかも知れません。」
と言ったのではないのです。
まぎらわしい言いかたでした。すいません。
さらに、「邪馬台国の南にいくつかの倭国に含まれるその余の旁国」の「南」は原文にありません。北は既述であるとしても東西南いづれも可ではないでしょうか?
元の発言 [ Re: 庄内新式の定義 ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 2月17日(木)21時05分45秒 ]
イリヒコさん、こんにちは。
>> “庄内新式が布留0か否か”を“庄内新式”の定義をはっきりさせずに
>> 議論してもしかたがないと言っているだけです。
#いかにも、深くなりすぎましたのでレスされなくても結構ですが、
#一言で言えば、庄内新式期が布留0式期と言うことでしょう。
#で、布留式は土師器とよべるが、布留の庄内式併行期の土器を発生期の布留式土器として、布留0式と言ってるのだと思いますがいかがでしょう。
元の発言 [ Re: 銅矛から銅鏡へ ] お名前 [ 飛んだハヤシライス ] 日付 [ 2月20日(日)11時44分31秒 ]
ハヤシライスさん、こんにちは。
>> いや、そうかもしれません。ただ、骨で作った勾玉のようなのって出てませんよね。勾玉はわりと貴重な石で作られているのもありますので、大切なものと考えられていたんだと思います。身に着けることで魔除けとかのお守りになると考えられていたのではないでしょうか。
#春日市の赤井手(だったと思います)からは、ガラス勾玉の鋳型が出ています。
#あれって、紐で繋いで揺らすと光と音が効果的だったでしょうネ。
>> >> 太陽信仰(宗教)、青銅武器(力)、系統(歴史)の
>> >> セットが三種の神器ではないかな?
>> 朝鮮半島の副葬品といえば、多紐細文鏡、青銅製のヤリガンナ(小さいものです、5cm〜7cmぐらいではないかな)、碧玉製管玉がセットで出てくるのだそうです。
>> だから、列島の三種の神器もこれを摸したのがはじまりではないかなと思ってるのですけど。意味合いは変容しているのかもしれません。
#そうでしょうが、
>> ヤリガンナといえば大工道具ですよね。それが列島では剣になった。
#ヤリガンナと言われている物の内、小型のものは筆記用具(文字消し用)だったと思います。
元の発言 [ Re: 銅矛から銅鏡へ ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 2月20日(日)17時47分39秒 ]
飛んだハヤシライスさん、yaohideさん、オヤジッチさん、こんにちは。
「Q」を深読みしすぎてました。なぁんだ。おだいじに! (^o^;)
ライスさん>> 三雲南小路、井原鑓溝などなど、平原以前でも副葬されてますよ。
最初の大型鏡は副葬専門品ではなく、祭器として使い、かつ、副葬されたのだと思うのです。それと、交換財ですね。
でも、3世紀中葉には副葬にだけ使われた鏡があるのではないだろうか。という可能性です。
ライスさん>> 勾玉は、・・・水の渦巻きに関係するのかもしれません。
yaohideさん>> 勾玉って、動物の牙を模したものだとばっかり思ってました。
yaohideさん>> 縄文時代の狩猟生活のなごりの残った宝物だと思っていたのですが、違ったのかな?
yaohideさん>> よくどこかの原住民で、牙をたくさんつないだネックレス
yaohideさん>> みたいなのしてるでしょう。
勾玉は、なんか不思議な形なので気になるんです。球や管玉は世界中で共通の形だけれど、勾玉は無いですよね。
管玉の技術も熟練が必要ですね。ちょっと気を許すと割れてしまったでしょうに。博物館で、研磨剤を使って細い竹のようなものを錐のようにして作ったのではないかという図をみたのですが、ちょっと角度が振れれば壊れてしまいそうだし、竹であんな細い穴をあけることが出来るのだろうかと疑問です。・・・いま、作れる人いるのでしょうか?
縄文土器のパターンも水の渦巻き説と炎説があるそうですが。わかりません。でもきっと、華麗な縄で吊したり、縄の結び方で所有者や、インカのようにもっと複雑なことを表していたのではないか。なんて。
北部九州の各遺跡について魏志倭人伝の、伊都国、奴国(不弥国も?)は、場所がわかっているのですね。
そして各国の塚はその国の首長墓である。と。で、疑問なんですが。
継体はひとりであちこちに都を移したり、継体以前の古墳もあちこちにありますよね。北部九州も同じ系列の豪族があちこち都を移した可能性は考えられないでしょうか?・・・なんて、ちらっと思ったのですが、ダメですね。そんなこと。m(__)m
元の発言 [ Re: 銅矛から銅鏡へ ] お名前 [ くみ ] 日付 [ 2月21日(月)02時40分28秒 ]
くみさん、飛んだハヤシライスさん、yaohideさん、オヤジッチさん、おはようございます。
くみさん>> 最初の大型鏡は副葬専門品ではなく、祭器として使い、かつ、副葬されたのだと思うのです。それと、交換財ですね。
くみさん>> でも、3世紀中葉には副葬にだけ使われた鏡があるのではないだろうか。という可能性です。
同感、というか、十分に可能性は認めます(笑)断言すると後が怖い(笑)
>> ライスさん>> 勾玉は、・・・水の渦巻きに関係するのかもしれません。
>> yaohideさん>> 勾玉って、動物の牙を模したものだとばっかり思ってました。
>> yaohideさん>> 縄文時代の狩猟生活のなごりの残った宝物だと思っていたのですが、違ったのかな?
>> yaohideさん>> よくどこかの原住民で、牙をたくさんつないだネックレス
>> yaohideさん>> みたいなのしてるでしょう。
くみさん>> 勾玉は、なんか不思議な形なので気になるんです。球や管玉は世界中で共通の形だけれど、勾玉は無いですよね。
くみさん>> 管玉の技術も熟練が必要ですね。ちょっと気を許すと割れてしまったでしょうに。博物館で、研磨剤を使って細い竹のようなものを錐のようにして作ったのではないかという図をみたのですが、ちょっと角度が振れれば壊れてしまいそうだし、竹であんな細い穴をあけることが出来るのだろうかと疑問です。・・・いま、作れる人いるのでしょうか?
くみさん>> 縄文土器のパターンも水の渦巻き説と炎説があるそうですが。わかりません。でもきっと、華麗な縄で吊したり、縄の結び方で所有者や、インカのようにもっと複雑なことを表していたのではないか。なんて。
あれ、韓国の国旗は太極旗っていいますよね?
陰陽の象徴だとか。私は勾玉に古代道教の影を見てしまいます。
くみさん>> 北部九州の各遺跡について魏志倭人伝の、伊都国、奴国(不弥国も?)は、場所がわかっているのですね。
くみさん>> そして各国の塚はその国の首長墓である。と。で、疑問なんですが。
くみさん>> 継体はひとりであちこちに都を移したり、継体以前の古墳もあちこちにありますよね。北部九州も同じ系列の豪族があちこち都を移した可能性は考えられないでしょうか?・・・なんて、ちらっと思ったのですが、ダメですね。そんなこと。m(__)m
あっ、ありえるかも。まぁ継体は大和出身じゃなかったので特に多いとは思うんですが、
古代の頻繁な遷都から見ればありうるかも。
ただ、私の考えでは、当時日本は母系から父系への移行期にあったので、
1.最初は母系で王位が相続されていた。
2.次に渡来系の王家が父系の観念を持ち込み、大王位は父系で、ただし地元豪族は母系だったので、入り婿のつもりだった。
3.次に父系相続になるが住所や腹心は妻の実家となる。(だから都は、その時々の最重要な妻の実家付近)
4.次に息子が大きくなると妻の実家から連れてくる制度(平安時代の召婿婚)
5.嫁取り婚
の順序で父系に変わってきたのではないでしょうか?
弥生時代は基本的には1.の段階で、3世紀ころから2.に入るのでは?5世紀には3.8世紀には4.とかね。
(母系とは世界的に見ると、伯父から姉妹の息子に相続するのが原型らしいです。ようするに父親が誰かは誰も分からない(笑)確実に血縁をたどれるのは母親だけだということらしいです。その後婿が継ぐ形式が現れる)
元の発言 [ Re: 銅矛から銅鏡へ ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月21日(月)11時55分34秒 ]
山海経には周の時代に倭が朝貢したような記事があります。
縄文時代でも陰陽思想があってもいいでしょう?
それに、これは私の私見であり、立証したものでないことは、
「見てしまいます」で表現されていると思います。
元の発言 [ Re: 銅矛から銅鏡へ ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月21日(月)12時55分27秒 ]
どうもどうも。
余談を続ければ(笑)
縄文が世界最古の文明だなんて言う人がいますが、ただ単に日本が単位面積あたりの考古学的発掘数が多いだけだと思います。
縄文は、当時世界的な新石器文化の流れの一つであり、稲作が後期まで見られないのも、金属器が無いのも、単に北方型の新石器文化だったからにすぎません。
そういう意味で言えば現在分かっている部分では縄文は(サピエンスサピエンスの)世界最古の文化ですが、当時世界的に新石器時代に突入したことから分かるように、交流は常にあったと思われます。
中国も夏時代だったかもしれませんし、三皇五帝の時代に相当する何らかの文化があったでしょう。
多元史観、相対史観では、そういうことになります。
さて、勾玉は世界的に見ると新羅の王冠にあるくらいで日本周辺の固有のものだと言われていますが、○に「,」がついたデザイン自体は後に陰陽を示す太極図ぐらいでしょうか?
なんか、まだありそうな気がします。誰かしりませんか?(笑)
元の発言 [ Re: 縄文はすごい! ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月21日(月)15時30分20秒 ]
ラストー!(笑)
>> 縄文は、当時世界的な新石器文化の流れの一つであり、稲作が後期まで見られないのも、金属器が無いのも、単に北方型の新石器文化だったからにすぎません。
>>
>>
みたいですね。籾跡の話かな?
まぁ、稲作のない部分は沿海州とかと同じ文化圏だってことで、稲作があった場所は中国と同じような文化かもしれないし。
>>
>>
>>
そう。同感。
>> そういう意味で言えば現在分かっている部分では縄文は(サピエンスサピエンスの)世界最古の文化ですが、当時世界的に新石器時代に突入したことから分かるように、交流は常にあったと思われます。
土器ということで使っています<文化
異論なし。
>> 中国も夏時代だったかもしれませんし、三皇五帝の時代に相当する何らかの文化があったでしょう。
そう。中国の公式発表では「夏」は見つかったってことだけど(笑)
まぁあの当時のヤンシャオ文化なんかがそうかもしれない(笑)
>> さて、勾玉は世界的に見ると新羅の王冠にあるくらいで日本周辺の固有のものだと言われていますが、○に「,」がついたデザイン自体は後に陰陽を示す太極図ぐらいでしょうか?
>> なんか、まだありそうな気がします。誰かしりませんか?(笑)
>>
そっか。そうかも。あとは渦とかね。
トンデモ系で、銀河っていう珍説がありました(笑)
元の発言 [ Re: 日本の歴史は東遷の連続か? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月21日(月)11時28分56秒 ]
どうも。奥に行く前に切り上げましょう(笑)。
>> それは欠史八代を記紀どおりに直系と考えるからでしょう。
>> まぁ、ここまで記紀を引用してきてここだけ否定するのもご都合主義かもしれませんが。
>> 万世一系を強調するためだけの直系相続のような気がします。崇神以後の系譜を見るとね。
>>
>>
>>
>>
>>
まぁ肯定も否定もしません。
確かにその考えでいけば天照は、はるか昔の九州の女王となり、卑弥呼とは関係なくなる。
>> 古墳の分布から言えるのは、共通乃至は類似の文化圏というだけで、近畿勢力のもとに下っているとまでは断言できないでしょう。
>> 同じように、最初から、そのあたりは、天皇家に服属していたとも言えません。
>>
>>
>>
>>
ただ、伊都国は縣主なんですね。当時國造格で力があった豪族は不明です。
もう少し後代になると磐井が出てきますが。
当時から筑紫國造自体はいたでしょう。何国の子孫かは別として。
大体、神武東征があるんだから、以後神武の辿った道筋で謀反が起こったとは書けないでしょう。
まぁそもそも同族と考えても服従するかもしれませんし。
>> 「魏志倭人伝の記述と合う」に至っては、現状で解釈に相違があるのに断言はできないでしょう。
>> あくまでこう考えると、おにりんさんの解釈と合うというだけ。
>> だって、私の考え(九州説・一部東遷説)とも矛盾しませんもん。
>>
ただ、根拠は神話の解釈に頼ってしまうけど。
要するに関西説に立たなくとも成立する、民俗学や神話研究からはそれなりに根拠らしきものも得られる説なのです。
元の発言 [ Re: Title 方位について(承前: ALEXさんへ) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月20日(日)14時39分00秒 ]
ALEXさん、こんばんは。
(慈源)
>> >> (る)(ま)の第一次記録者が異なる場合、それぞれが同一の誤解を生じていることになります。この可能性は確率としてはずいぶん低いのではないでしょうか?
>> 第一次記録者が同一であったのか否か?
(ALEXさん)
>> A:観察結果には「第一次記録者の誤解」がありうる
>> さらにAの中で
>> A1:魏人
>> A2:非魏人
>> と2分類したことになりますが、このグルーピングの中で、まだ同一グループに属する文章ということになりました。同一の地理感の共有を想定して無理ないところではないでしょうか?
同一者であればもちろん同一の誤解があったと考えてもよいと思いますが、必ずしも同一グループに属しているかどうかは疑問です。また、「誤解」であるとの仮定を取り払えば、方位そのものは、同一方向を指しているのですから、第一次記録者が誰であるかにかかわらず、元々の方位は正しいという事になりませんか?まあ、今のところどちらとも言いかねますが。
さて、ここでは日数表記について考えてみましょう。
> まず、異論はあるかもしれませんが(だ)(る)の日数を観察結果とみます。
これは魏人による観察結果とお考えなのですね?
この観察結果とは、魏人による旅程の経験によって得られたものだ、ということですね?
つまり、梯儁もしくは張政ご一行様の中にその観察者がいた、ということですね?
この、日数表記が、魏使が実際に邪馬台国へ赴いた際の報告に基づくものであるのならば、なぜこの部分だけが存在するのか不可解です。不弥国までの里数表記は魏使によるものではない。それなのに、不弥国のあとに、投馬国、邪馬台国への日数表記がある。
この日数表記の起点は不弥国だとお考えなのですか?
また不弥国はどこだとお考えですか?
私は、この日数表記は魏使の報告によるものではないと思います。どのような形で魏使の報告書が資料として陳寿の手許にあったのかは不明ですが、伊都国までの道理は魏略を忠実に襲ったと考えられ、また遠絶にして詳らかにし得ないその余の傍国を列記した陳寿が、大国の投馬国、邪馬台国を通過、滞在した際の報告書を省略するでしょうか?仮に省略したとして、その日数だけを拾って、あるいは魏使の報告書の日数表記のみを採録したとは思えない。つまり、陳寿の手許には魏使の報告書は資料としては存在していなかったと思います。すると、この日数表記そのものの出所もまた、魏使ご一行様の経験から求められたものかどうかは判然としないと言うことが出来るのではないでしょうか?
むしろ、伊都国において郡使、あるいは、魏使の聞き取りに基づくものと考えたほうが、むしろ自然ではないかと考えますが、いかがでしょうか?
ただ、その時「南」という方位もくっついていたのかどうかは難しいところですけれど。
元の発言 [ Re: 銅矛から銅鏡へ ] お名前 [ くみ ] 日付 [ 2月21日(月)02時40分28秒 ]
くみさん、こんばんは。
>でも、3世紀中葉には副葬にだけ使われた鏡があるのではないだろうか。という可能性です。
三角縁神獣鏡はそうだと思います。葬具だと思います。
>伊都国、奴国(不弥国も?)は、場所がわかっているのですね。
伊都国は前原、奴国は春日、ここまでは異論のないところかと思いますが、不弥国についてはまだ定説が得られていないと思います。私は、宇美だと思います。奴国の東百里(魏尺ではない、「いわゆる海里」と仮に言っておきます)ですから。
>北部九州も同じ系列の豪族があちこち都を移した可能性は考えられないでしょうか?・・・なんて、ちらっと思ったのですが
平原の被葬者が誰であるのか?ですね。三世紀前半の伊都国の国王と考えるのが位置的にも順当なんだと思いますが、副葬品から、被葬者は女性と考えられますし、また、その豪華さからは、倭国の女王と考えてもおかしくはありませんし、平原そのものが、お墓だけではなく祭祀に関わる遺跡と考えられます。
それらのことから、卑弥呼でもおかしくないと思ふのですけれど。
ただ、そう考えると、女王国に卑弥呼のお墓がないことになるので、そのあたりをどのように考えるべきなのか?
PS.
そう言えば勾玉って、「子持ち勾玉」と呼ばれるものもありました。用途は、ようとわからんですけど。(^^ゞ
元の発言 [ Re: 銅矛から銅鏡へ ] お名前 [ ま さ ] 日付 [ 2月21日(月)10時31分17秒 ]
まささん、こんにちは。
>> >> ・・・北部九州も同じ系列の豪族があちこち都を移した可能性・・・
>> あっ、ありえるかも。
ほんとうですか!? 心強いです!
今さらこんなことを言うのはカッコ悪いのですが、北部九州と畿内の地図を同じ縮尺で見ると、北部九州って広いですね!! だから近畿であったことは北部九州にもあったかもしれないなんて思ったのですが。でも、甕棺の北部九州と畿内では違うかもしれないし、都という概念は弥生時代にはまだ無かったでしょうし。
母系社会と父系社会のこと。大変わかりやすいです。ありがとうございました。
元の発言 [ Re: 銅矛から銅鏡へ ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月21日(月)11時50分06秒 ]
おにりんさん、こんにちは。
でも、列島で大きな鏡が好まれたのは事実ですよね。
鏡が最初、中国から輸入されたのは事実だと思います。
しかし、銅矛、銅剣、銅鐸も日本で発明されたのでないなら、やっぱり最初は輸入だったのでしょうし、全部、実用を越えて大きく変形していきますよね。不思議です。
黄金の靴でさえ、巨大なものが副葬されていますが。あれはいったいどういうことなんでしょう?
巨大化した鏡や靴は副葬して、銅矛、銅剣、銅鐸は副葬されなかったのはなぜなんでしょう?
>> でも、前回ここで話して以来、卑弥呼の時代には鏡は祭器としての役割を終え、副葬・・・
>>
>>
>>
「祭器としての意味がなくなった」のではなくて、被葬者のパワーが込められているから、割って副葬(封印?)したのかもしれません。でもよくわかりません。破鏡した鏡がたくさん出てくる九州と、被葬者の回りにたくさん並べて埋葬する近畿では意味が違うのかもしれません。
いろいろわからないことだらけです。
元の発言 [ Re: Title:鏡について初歩的な疑問 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月21日(月)18時39分34秒 ]
おにりんさん、こんにちは!
ちょっと反省してました。それに「じゃ、描いてよ」と言われたらどうしようと・・・。(^_^;)
だけど私は職人ですし、回りには器用な人がたくさんいて「形を真似る」ことが難しいこととは考えていません。
イラストレータに本人の作風とは全く違うタイプのイラストを頼んでもたいがいこなしてもらえます。
指導者がいればなおさらですし、最初はやっぱり先生の作品でしょうし。
何といっても46.5センチの鏡を作る技術があったんです。
もう何度か書き込んだことありますが、鋳込みの技術とか鏡面を磨く技術に比べればデザインなんて時間がかからないと思うのです。
>>
>>
>>
>>
>>
「倭鏡らしいもの」はつくりが甘い。というのが納得できないんです。
>>
>>
>>
これも、大量の需要に応えた結果と見る方が理にかなっていませんか?
値崩れもあったりして。
第4期であっても、優れた技術で作られた一流品もあったのではないでしょうか。
違うのですか? このことは気にとめて、これからみていきたいと思います。
元の発言 [ Re: Title:鏡について初歩的な疑問 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 2月19日(土)17時29分59秒 ]
オヤジッチさん。こんにちは。
どこにどうレスすればいいのかわからなくなってきました。m(_ _)m
ひとつひとつ、覚えていきたいと思います。ありがとうございます。
元の発言 [ Re: 銅矛から銅鏡へ ] お名前 [ 飛んだハヤシライス ] 日付 [ 2月21日(月)19時42分10秒 ]
飛んだハヤシライスさん、こんにちは。
書き込むと勉強にはなるのですが、知識が付いていきません。
思いつきを書いていたら、なにがなんだかわからなくなりました。
このスレッドの当初の目的は
1. 鏡の銘文から考えると中国でも鏡は権力が管理していたものではなかった。
2. 「尚方」は、宮廷の御用品を製作する官営工房とは言い切れない。
3. 列島では最初、鏡が高価だったので、権力の象徴になり得た。
4. 国内生産がはじまり、46.5センチの鏡も作れるようになった。
5. 大陸からきた鏡工人の指導の元、近畿で副葬用「三角縁神獣鏡」が作られるようになった。
6. 列島でも、鏡は権力が管理していたものではない。
この1と6をいちばんいいたかったのです。いわゆる権力による「同笵鏡ネットワーク」などなかった。
1をいうために2が必要であり、北部九州の初期の鏡の出土から3があり、4は事実で、5がいえる。と。
そしたら卑弥呼の百枚もちがった解釈が出来るし。
三角縁神獣鏡は大量の需要があったため、つくりが粗いものもたくさんで回ったし。
これで充分なのに、勾玉や権力の移動なんてことまで後先考えずに。
おかげで、皆さんからいろいろ教えてもらえたのだけれど、自分の中で整理がつかない。
銅鉾や銅鐸まで、どうしろと・・・。(すいません!)
平原が卑弥呼ですか・・・。まだよくわかりません。
なにしろ、各遺跡の状況など基礎知識を知らなければと、思っています。
「子持ち勾玉」。これもメモしておきます。
>> ・・・用途は、ようとわからんですけど。(^^ゞ
う・・・。
元の発言 [ Re: 方位と日数表記について ] お名前 [ 慈源 ] 日付 [ 2月21日(月)19時34分57秒 ]
慈源さん、おはようございます。
>> 同一者であればもちろん同一の誤解があったと考えてもよいと思いますが、必ずしも同一グループに属しているかどうかは疑問です。
#原文の既述をABCに分類し
>> >> さらにAの中で
>> >> A1:魏人
>> >> A2:非魏人
>> >> と2分類したことになりますが、このグルーピングの中で、まだ同一グループに属する文章ということになりました。同一の地理感の共有を想定して無理ないところではないでしょうか?
#これが「同一グループ」の意味です。つまり疑問はありません (^0^)
>> また、「誤解」であるとの仮定を取り払えば、方位そのものは、同一方向を指しているのですから、第一次記録者が誰であるかにかかわらず、元々の方位は正しいという事になりませんか?
#もちろん「誤解」であるとの仮定を取り払うということが=「誤解」でないと決定することであれば、第一次記録者が誰であるかにかかわらず、元々の方位は正しいという事になります。でもトートロジー気味ですね。
>> これは魏人による観察結果とお考えなのですね?
この観察結果とは、魏人による旅程の経験によって得られたものだ、ということですね?
>> つまり、梯儁もしくは張政ご一行様の中にその観察者がいた、ということですね?
#別に女王の都まで行ったほかの誰かでもいいです。
>> この、日数表記が、魏使が実際に邪馬台国へ赴いた際の報告に基づくものであるのならば、なぜこの部分だけが存在するのか不可解です。不弥国までの里数表記は魏使によるものではない。それなのに、不弥国のあとに、投馬国、邪馬台国への日数表記がある。
#傳をかいた人間は、他の国の傳との整合性をとるための決まりごととして、各国の国の広狭、戸数、道里をどうしても書く必要がありました。しかし手もとに途中までの資料しか無ければ、手に入るあらゆる情報の中から考証するしかありません。
ところが、そこに誰かが伊都國(もしくは不彌國)、投馬國、女王國それぞれに到着した年月日の記録があれば、あの倭人伝の行程記事が出来てしまうわけです。
「なぜこの部分だけが存在するのか不可解」でしょうか?それは「この部分」以外が必ず存在したという前提に基づいていますが、もとから無ければ「不自然」ではありません。
したがって、「不自然」であると言うためには「この部分」以外が必ず存在したと立証する必要があります。伊都國(もしくは不彌國)、投馬國、女王國それぞれに到着した年月日の記録が存在する為に「この部分」以外が存在する事は必要条件でしょうか?否。なくても存在できます。
ましてや、最終的に必要なのは帯方〜倭國の中心地の「距離」なのですから他の部分は不用ですので、切り捨てられても変ではありません。
これに対し、先に萬二千餘里が判明していたとすれば、必然的に「この部分」の里数も必ず存在したということになりますから、里数に「なぜこの部分だけが存在【しない】のか不可解」ということになるわけです。
>> この日数表記の起点は不弥国だとお考えなのですか?
#上記の通り、必ずしもそうは考えておりません。
>>また遠絶にして詳らかにし得ないその余の傍国を列記した陳寿が、大国の投馬国、邪馬台国を通過、滞在した際の報告書を省略するでしょうか?
#これも「この部分」以外が必ず存在したという前提に基づいていますが、たとえその前提を受け入れたとしても、陳壽がいかにエピソードをカットする人かは裴註の分量が端的に物語っていると思います。筆者の性格からすると寧ろ言葉が少ない陳壽で、饒舌なのが魚拳です。
(1)陳壽が一部だけ利用した(2)裴松之が利用できなかった;資料があるとしたら、それは倭人伝後段の鴻臚記録のような公的記録でありかつ断片的かつ詳細というより煩瑣な内容のものであろうかと思います。むろん現地で竹簡にしるすものは断片的ならざるを得ないでしょうが。
>> むしろ、伊都国において郡使、あるいは、魏使の聞き取りに基づくものと考えたほうが、むしろ自然ではないかと考えますが、いかがでしょうか?
#少なくとも假授するために女王のもとに向かう必要のある梯儁、壹與に告諭している張政が聞き取る必要はありません。実際行くのですから。
また女王の都に行った勅使がなんらの記録を残さず、そこまで行く任務を帯びていない郡使がわざわざ聞き取りで記録を残したというのも不自然に思います。
元の発言 [ Re: Title九州に東海土器 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月1日(火)21時11分19秒 ]
ALEXさん、こんばんは。
>> >> それと、土器製造は専門職人によるものだと思いますので、職人の移動による可能性があるのでは?
>> >> 土師器のように、それまでの土器より軽く、火の通りがよいものを作れる職人であれば何所へ行っても歓迎され、一つの村が彼の製品に全て置換わっても可笑しくは無いでしょう。
>> #その考え方は、畿内第V様式が卓越する村落も北部九州にあることを説明できないと思います。
>> やはり、集団的移住があったと考えるべきでしょう。「征服」ではないとは思いますが。
#それは”急激に”行われたのでしょうか?
”徐々に”行われたのでしょうか?
小氷期(古い説かな?)が絡んでいたのでしょうか?
元の発言 [ Re: 銅矛から銅鏡へ ] お名前 [ くみ ] 日付 [ 2月22日(火)05時24分56秒 ]
くみさん、ちょっと待ってください。
>> このスレッドの当初の目的は
>> 1. 鏡の銘文から考えると中国でも鏡は権力が管理していたものではなかった。
(中略)
>> 5. 大陸からきた鏡工人の指導の元、近畿で副葬用「三角縁神獣鏡」が作られるようになった。
三角縁神獣鏡にも銘文を持つものはたくさんあり、概して現世利益を謳ったものです。副葬専用の鏡としてふさわしいものでしょうか?
>> 6. 列島でも、鏡は権力が管理していたものではない。
三角縁神獣鏡の(全てかもしれないぐらい)大部分は一元的に管理された工房(群)で作製されたと考えられます。そのような生産組織が三〜四世紀の日本にあったとすれば、どの様に設立され維持されたのでしょうか?
>>いわゆる権力による「同笵鏡ネットワーク」などなかった。
でも、三角縁神獣鏡は前期古墳から出てくるのですから、権力者のものでしょう。そして、どの様に形成されたかはともかく、同笵鏡ないし同型鏡の分有という事実は存在する。
まとめると、一元的に管理された工房で大量生産され、現世利益を謳いあげたものを含む鏡が、大和を中核として東北地方南部から九州にかけての首長層に分有されている。
この事実をどう解釈するかは人それぞれです。私には倭王権と不老長寿・富貴栄達を願う各地の首長たちとの関係が見えるように思われますが....
卑弥呼のもらった鏡は1種類だったのでしょうか?
△鏡、画文帯?それとも後漢鏡?
100枚が全部同じ種類だったのでしょうか?
こんにちは
昼に中日新聞を読んでおりましたら、魏の領域で出土した鏡に魏の
年号があり、その鈕孔が三角縁神獣鏡と共通であるという記事があ
りました。(考古学のおやつにもあります。)福永さんの調べで「史
林」に発表するらしいです。
もう少し詳しく箇条書きにしますと、記憶では、
・河北省高碑店付近で出土の獣首鏡(河北省文物研究所所蔵)
・「五年二月四日右尚方」の銘。五年は、甘露五年と推定される。
・魏の紀年鏡が魏の領域で見つかったのははじめて。
・鈕孔は長方形で三角縁神獣鏡と共通。
だそうです。福永さんですから、三角縁神獣鏡が魏鏡である可能性
が高まったというようなことが書かれていたと思います。鏡の写真
は、共同通信のホームページで“三角縁”で検索していただくとご
覧頂けます。
そこで、鏡に詳しい方々に二点ほどお尋ねしたいと思います。
1.“五年”は甘露五年と推定されるとのことですが、この鏡の形式
などからこれを魏の甘露五年とすることは妥当なのでしょうか?
2.魏鏡であるとして、“右尚方”の銘があるのでこれを魏の右尚方
製作の鏡としていいのでしょうか?
私は、あまり知識がないので鏡の写真を見てもなんともいえないの
ですが、この両方が共に正しいとすると、魏の右尚方では長方形鈕
孔の鏡が製作されていた紛れもない証拠となりそうですが、いかが
でしょうか?
元の発言 [ 中国出土の魏の紀年鏡 ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 2月22日(火)16時54分24秒 ]
イリヒコさん、みなさん、こんばんは。
>> 昼に中日新聞を読んでおりましたら、魏の領域で出土した鏡に魏の
>> 年号があり、その鈕孔が三角縁神獣鏡と共通であるという記事があ
>> りました。(考古学のおやつにもあります。)福永さんの調べで「史
>> 林」に発表するらしいです。
>> もう少し詳しく箇条書きにしますと、記憶では、
>> ・河北省高碑店付近で出土の獣首鏡(河北省文物研究所所蔵)
>> ・「五年二月四日右尚方」の銘。五年は、甘露五年と推定される。
>> ・魏の紀年鏡が魏の領域で見つかったのははじめて。
>> ・鈕孔は長方形で三角縁神獣鏡と共通。
>> だそうです。福永さんですから、三角縁神獣鏡が魏鏡である可能性
>> が高まったというようなことが書かれていたと思います。鏡の写真
>> は、共同通信のホームページで“三角縁”で検索していただくとご
>> 覧頂けます。
>> そこで、鏡に詳しい方々に二点ほどお尋ねしたいと思います。
>> 1.“五年”は甘露五年と推定されるとのことですが、この鏡の形式
>> などからこれを魏の甘露五年とすることは妥当なのでしょうか?
>> 2.魏鏡であるとして、“右尚方”の銘があるのでこれを魏の右尚方
>> 製作の鏡としていいのでしょうか?
>> 私は、あまり知識がないので鏡の写真を見てもなんともいえないの
>> ですが、この両方が共に正しいとすると、魏の右尚方では長方形鈕
>> 孔の鏡が製作されていた紛れもない証拠となりそうですが、いかが
>> でしょうか?
私もあまり知識がないのですが、こういった新聞記事は、おおむね、発表者の説に偏っておりますので、1、2ともに断言はできないのでは?と思っております。
などと書くと、また「九州説だから」とか言われるかもしれませんが、1、2の命題が確定しないと△◎が魏製とも推定できないと思います。
まぁ詳しい人の意見を拝聴させてください。
元の発言 [ Re: Title関東の東海土器 ] お名前 [ 池ちゃん ] 日付 [ 2月2日(水)19時25分01秒 ]
池ちゃんさん、オヤジッチさん、おにりんさん、
こんばんわ。
>> #現地土器と、東海の土器の融合は見られませんか?
>> 九州についても同じ疑問があります。
>> 庄内式土器が九州にも広がっているのはわかりますが、もともとあった現地の土器と何故融合しないのでしょうか?
>> 両方の特徴を備えた土器は見つかってないのでしょうか?
*最近本業多忙なの、斜め読みした資料の紹介です。
1)邪馬台国時代の東日本、国立歴史博物観編 1991
担当愛知県埋蔵文化センター
2)武蔵国の造の乱、大田区郷土博物館編、1995
「毛野から上毛野へ」群馬大学 梅沢
*弥生時代は地域毎に土器の特徴があったが、東海の土器
が先ず動いた。
*東海の土器(s字甕など)は1。房総へ 2.関東へ
3.大和から瀬戸内への大きな流れがある。
4.庄内は東海土器のあとで動いた。
5.東海土器と庄内式は一緒に発見されることが多い
6.関東は太平洋側は縄文スタイル、他の房総はある弥生タイル、関東内部はある弥生スタイルであるが、前2者の
境界には融合スタイルがある。
7.毛野には無人
8.無人の毛野に東海の石田川が入り込んだ。
9この後古墳時代に入る。
以上です。詳細は上記資料を見てください。
元の発言 [ 中国出土の魏の紀年鏡 ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 2月22日(火)16時54分24秒 ]
イリヒコさん、こんにちは。
情報どうもありがとうございます。
>1.“五年”は甘露五年と推定されるとのことですが、この鏡の形式などからこれを魏の甘露五年とすることは妥当なのでしょうか?
「五年」「獣首鏡」「長方形鈕孔」…と聞いて真っ先に思い出されるのが、「甘露五年銘獣首鏡」です。
日本国内に同型鏡2面が存在しており、そのうち
黒川古文化研究所蔵のものが長方形鈕孔、
書道博物館所蔵のものが半円形鈕孔だそうです。
これらの鏡の銘は、
「甘露五年 二月四日 右尚方師作竟 清且明 君宜高官 位至三公 保宜子孫」
…です。
獣首鏡という鏡式の共通性、また「甘露五年 二月四日」の共通性から、「甘露五年」と判断されたのかもしれませんね。
なお、共同通信社のHPの写真と、甘露五年銘鏡の写真を比べて見たところ、
いかんせんHPの写真の方は小さく不鮮明なので、これらが同型鏡かどうかはわかりませんでした。ただ、非常によく似ているようです。
>2.魏鏡であるとして、“右尚方”の銘があるのでこれを魏の右尚方製作の鏡としていいのでしょうか?
岡村秀典氏は、後漢代以降、「尚方作」の銘をもつ鏡があまりに多く出土していることから、民間工房が「尚方」を詐称したものもあった、と考えています。
ただし、「本当に尚方が作った鏡」と「民間工房が尚方を騙って作った鏡」を区別することは、現状では不可能だと思います。
「右尚方作鏡」の鏡についても同じことが言えるのではないでしょうか(もっとも、右尚方作鏡は数は少ないと思いますが)。
さて、記事の原文を読んでいないのですが、今回の発見の意義は、
「魏の紀年鏡が魏の領域で見つかったのははじめて」
…ということでしょう。
今までに知られている魏の紀年鏡はすべて、日本で出土したものか、あるいは日本の美術館が所蔵している出土地のはっきりしない鏡だったからです。
福永氏は数年前にも、中国鏡にはないとされていた銘文を持つ鏡を中国で発見しましたが、こういった鏡が今ごろになって博物館や研究所で新発見される、というのが中国の恐ろしいところです。
(なお、今夜から外出するので再レスは来週以降になります。ご容赦ください)
元の発言 [ Re: 方位と日数表記について ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月22日(火)06時46分16秒 ]
ALEXさん、こんばんは。
>> つまり、梯儁もしくは張政ご一行様の中にその観察者がいた、ということですね?
> #別に女王の都まで行ったほかの誰かでもいいです。
私は投馬国、邪馬台国への日数表記は魏使ご一行様の報告書に基づくものではないと思いますが、この「ほかの誰か」を魏人であるとお考えになる理由は何でしょうか?私には、この「ほかの誰か」を魏人とするには根拠に薄いと思われます。
>南、至投馬國、水行二十日、官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸
>南、至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月、官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳[革是]、可七萬餘戸
実際に行ったことのある倭人がいる、あるいはそれに基づいた風聞として知識を有する、インタビューを受けた倭人の聴取によって得られた情報であると考える事もできると思うのです。必ずしも、魏人が邪馬台国まで行った経験によって得られた情報と考える必要はないと思いますがいかがでしょうか?そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
可五萬餘戸、可七萬餘戸がいかに誇大であるかは、かつて議論もいたしましたが、実見による推量とも言いかねるのではないでしょうか。つまり、これだけの情報では魏人の観察結果に基づくものであるか否かは判断しがたいといったところではないでしょうか。さらには、聴取であるのならば、順進ではなく、並列であった可能性もまた否定できないと思うのです。「投馬国へは・・・」「邪馬台国へは・・・」というふうに。
したがって、日数表記は、必ずしも、
>自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史
と同一グループに属する記述とは言えないと思いますが、いかがでしょうか?
> しかし手もとに途中までの資料しか無ければ、手に入るあらゆる情報の中から考証するしかありません。
これはおっしゃる通りだと思いますが、私の上記の考えとも抵触しませんよね。
また、日数表記の起点は必ずしも不弥国ではないのですから、伊都国から、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国と順進的に陳寿は書いておりますが、これは、魏使御一行様の旅程ではなく、陳寿は、あくまでもそれぞれの位置を示そうとして、不弥国のあとに投馬国、邪馬台国への日数表記を挿入した、と考えてもよいですよね。
ただ、一方で、梯儁等は「詣倭國拝假倭王」ですし、張政等は、「拝假難升米爲檄告諭之」「以檄告諭壹與」ですから、倭国のどこかで会っているのは間違いのないところでしょう。そこが、邪馬台国なのか、女王国なのか、あるいは伊都国なのか?
「そりゃあ、邪馬台国でしょうよぉ!」が、たぶんALEXさんのお考えでしょうし、またそう考えるべきなんだろうと思うのですが、
「女王国かも知れんし、伊都国かも知れんなぁ」が、私の考えなんですけど。(^o^)
元の発言 [ 中国出土の魏の紀年鏡 ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 2月22日(火)16時54分24秒 ]
こんにちは
>> 私は、あまり知識がないので鏡の写真を見てもなんともいえないの
>> ですが、この両方が共に正しいとすると、魏の右尚方では長方形鈕
>> 孔の鏡が製作されていた紛れもない証拠となりそうですが、いかが
>> でしょうか?
#小さい画像ながら、確かに黒川古文化研の甘露五年鏡によく似ていますね。とうとう現地で出たということですか。
元の発言 [ Re: 方位と日数表記について ] お名前 [ 慈源 ] 日付 [ 2月22日(火)20時12分05秒 ]
慈源 さん、こんばんは。
>> 実際に行ったことのある倭人がいる、あるいはそれに基づいた風聞として知識を有する、インタビューを受けた倭人の聴取によって得られた情報であると考える事もできると思うのです。必ずしも、魏人が邪馬台国まで行った経験によって得られた情報と考える必要はないと思いますがいかがでしょうか?
#
まず、「倭人の聴取によって得られた情報である」と考える裏付けはないということを共通認識と考えて宜しいでしょうか?
その上で
A1:「女王國」に「行った」魏人が「行った」記録を残さない
A2:「邪馬台国」に「行かない」魏人が倭人から聴き取った情報を残した
という2段構えの想定と
B全:「邪馬台国にして女王國」に「行った」魏人が「行った」記録を残した
という想定単純なと、どちらが自然かお答え下さい!さあさあさあ!!(と言って明日明後日留守にします)
>> 日数表記の起点は必ずしも不弥国ではないのですから、伊都国から、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国と順進的に陳寿は書いておりますが、これは、魏使御一行様の旅程ではなく、陳寿は、あくまでもそれぞれの位置を示そうとして、不弥国のあとに投馬国、邪馬台国への日数表記を挿入した、と考えてもよいですよね。
#それはありません。
陳壽はあくまで「從郡至倭」として倭の中心地「女王之所都」を最終到達点として示す必要があるので、「女王之所都」に対して「あくまでもそれぞれの位置を示そうとして、不弥国のあとに投馬国、邪馬台国への日数表記を挿入」することはありません。
これが地理上の実態に沿っているかどうかは別ですが、傳を書く人間の目的と志向性は意識しなければいけないと思います。
それに、陳壽が邪馬壹國=女王之所都と認識している事は争う余地がないのですから、ここは陳壽以外の誰かを主語にしなければ脈絡が取れません。
1:「女王之所都」に向かう里程記事のあとに、誰かが、女王とは関係ない「投馬国、邪馬台国への日数表記を挿入」した
2:陳壽は、この全体を「女王之所都=邪馬台国」に向かう記事と誤解して修文した
=という説だったんじゃなかったでしたっけ?
逆ならあり得ます。「女王之所都」に向かうものではない里程記事のあとに、「女王之所都」に向かう「投馬国、邪馬台国への日数表記を挿入」した可能性です。
>> ただ、一方で、梯儁等は「詣倭國拝假倭王」ですし、張政等は、「拝假難升米爲檄告諭之」「以檄告諭壹與」ですから、倭国のどこかで会っているのは間違いのないところでしょう。そこが、邪馬台国なのか、女王国なのか、あるいは伊都国なのか?
>> 「そりゃあ、邪馬台国でしょうよぉ!」が、たぶんALEXさんのお考えでしょうし、またそう考えるべきなんだろうと思うのですが、
>> 「女王国かも知れんし、伊都国かも知れんなぁ」が、私の考えなんですけど。(^o^)
#案外「壹與ちゃんは伊都国で檄告諭されて難升米と邪馬台国に攻め上った」なんて話しはアリかも知れません。
元の発言 [ ちょっと待ったあ!! ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 2月22日(火)12時19分38秒 ]
koujiさん、こんにちは。
>> 三角縁神獣鏡にも銘文を持つものはたくさんあり、概して現世利益を謳ったものです。副葬専用の鏡としてふさわしいものでしょうか?
今、回りの日用品に英文の入ったTシャツとか、ノートとかありますが、原文の内容なんて気になりません。そういう感覚ではダメでしょうか?
・・・ずいぶん前の話ですが、中堅のイラストレータさんに描いてもらったのですが、やり直しになりました。
その絵はバックに英文新聞をコラージュしてあったのですが、たまたまナチスに関する記事だったそうで。災難でした。というより、印刷前に気付いてもらって助かりました。
しかし、だからといって今の日本人が全員英語を知らないのではないように、当時も漢字を理解する人はたくさんいたと思います。でも、現世利益のありがたい文章であればそれで充分。それ以上に銘文の内容を気にしない人の方が多かったのではないかと思うのです。
>> 三角縁神獣鏡の(全てかもしれないぐらい)大部分は一元的に管理された工房(群)で作製されたと考えられます。そのような生産組織が三〜四世紀の日本にあったとすれば、どの様に設立され維持されたのでしょうか?
なぜ「一元的に管理された工房(群)で作製された」といえるのでしょうか?
需要を満たす民間、民間というより豪族ですね。の商品であった可能性はないのでしょうか?
>> でも、三角縁神獣鏡は前期古墳から出てくるのですから、権力者のものでしょう。そして、どの様に形成されたかはともかく、同笵鏡ないし同型鏡の分有という事実は存在する。
豪族は権力者です。豪族のみに許された流行だったのだと思います。
・・・なんか絡んでいるような内容になってしまいました。でも、どこが間違っているのかわからないのです。
>> この事実をどう解釈するかは人それぞれです。
そういってもらえるとホッとします。が、間違いは直したいと思っていますので、よろしくお願いします。
元の発言 [ Re: ちょっと待ったあ!! ] お名前 [ くみ ] 日付 [ 2月23日(水)02時45分54秒 ]
くみさん、こんにちは。
>> >> でも、三角縁神獣鏡は前期古墳から出てくるのですから、権力者のものでしょう。そして、どの様に形成されたかはともかく、同笵鏡ないし同型鏡の分有という事実は存在する。
>> 豪族は権力者です。豪族のみに許された流行だったのだと思います。
>> ・・・なんか絡んでいるような内容になってしまいました。でも、どこが間違っているのかわからないのです。
補足させてください。
権力者というよりも資産家といっては駄目でしょうか?
くみさんは、権力と鏡とは(少なくとも△◎の時代には)直結していないような論調ではありませんでしたか?
その流れでいくと、資産家のみに(経済的に)許された流行である、ではいけないでしょうか?
また、鏡の作成者は、私も豪族(ただし、渡来人を多く雇った金属民系豪族:谷川健一氏言うところの「耳の民」「目の民」)だと思います。
元の発言 [ Re: ちょっと待ったあ!! ] お名前 [ くみ ] 日付 [ 2月23日(水)02時45分54秒 ]
くみさん、こんにちは。
>> >> 三角縁神獣鏡にも銘文を持つものはたくさんあり、概して現世利益を謳ったものです。副葬専用の鏡としてふさわしいものでしょうか?
>> 今、回りの日用品に英文の入ったTシャツとか、ノートとかありますが、原文の内容なんて気になりません。そういう感覚ではダメでしょうか?
まあ、そういうことも考えられます。ただ、事実として現世利益を謳った銘文を入れている。本当に「副葬用」なのかどうか、考えてみる余地はあるのではないでしょうか。編年の観点から見ると同じお墓から出てくる鏡の製作時期がばらけているという事実もあります。これも、生存中に少しずつ入手していったと考えたほうが理解しやすいと思います。
>> >> 三角縁神獣鏡の(全てかもしれないぐらい)大部分は一元的に管理された工房(群)で作製されたと考えられます。そのような生産組織が三〜四世紀の日本にあったとすれば、どの様に設立され維持されたのでしょうか?
>> なぜ「一元的に管理された工房(群)で作製された」といえるのでしょうか?
三角縁神獣鏡は、神像表現から三派の工人群の存在が指摘されていますが、各群をとおして内区の神獣像の配置の仕方を変えたりしてバリエーションを増やしていく手法などが一致していたり、外区の断面の形状や笠松形文様が同じように変化していったりしている。工人群間の共同製作と見られる鏡もある。明らかに工人群間に密な関係が保たれている。あちらこちらの工房でバラバラに作ったものではないと思います。
元の発言 [ Re: 補足 ] お名前 [ ま さ ] 日付 [ 2月23日(水)09時14分13秒 ]
まささん、こんにちは。
>> >> >> でも、三角縁神獣鏡は前期古墳から出てくるのですから、権力者のものでしょう。そして、どの様に形成されたかはともかく、同笵鏡ないし同型鏡の分有という事実は存在する。
>> >> 豪族は権力者です。豪族のみに許された流行だったのだと思います。
>> >> ・・・なんか絡んでいるような内容になってしまいました。でも、どこが間違っているのかわからないのです。
>> 補足させてください。
>> 権力者というよりも資産家といっては駄目でしょうか?
結局のところ、三角縁神獣鏡の広まりを、列島各地の首長層相互の政治的交通関係の問題として捉えるか、経済的交通関係の問題として捉えるかという問題に帰着するのだと思います。その見方は現時点では人それぞれでしょう。
元の発言 [ Re: 邪馬臺國の難升米 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月4日(金)11時39分02秒 ]
おにりんさん、こんにちは。
>>天皇系図では、ヤマトトトビモモソ姫だけど、これが、別の系図では、「日女命」とかかれていて、「ひめのみこと」と読めるのも、「卑弥呼」と合いすぎ。
これはちょっとどうかな〜という気がする。「ひめのみこと」と「卑弥呼」が合い過ぎかどうかっとこともあるし.....
まあ、私はよくわからないのでそのうち検討したい(課題山積みだ〜)とは思いますが、当面は採用するのを避けておきたい史料です。
>> だったら、難升米が、ナシメ(東田大塚)に葬られているくらいの出来過ぎはあっても良いのではってことです。
まあ、あってもいいですが、そうだと主張する気にもなれないといったところです。
元の発言 [ 中国出土の魏の紀年鏡 ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 2月22日(火)16時54分24秒 ]
みなさん、どうもありがとうございます。
公正さんが書かれているように、もっとも大きな点は魏の紀年鏡が
魏の領域で見つかったことであろうと思います。にもかかわらず今
回の鏡は元号を欠いていますので(判読不明?)、本当に魏の紀年鏡
と言えるのだろうかというのがまず疑問でした。
いかんせん、画像は小さすぎましたが、公正さんとALEXさんによれ
ば日本にある甘露五年鏡と非常に似ているとのことですので、方格
規矩鏡のように、名前は同じ獣首鏡でも全くの別物ということはな
いようで、一つ疑いは晴れました。
それから、公正さんのご教授の通り“二月四日”という月日まで一
致しているということになりますと、“二月四日”が吉祥をあらわ
す何か特別な日でもない限りは、異なる年にたまたま同じ月日の紀
年鏡が作られたというわずかな可能性を考えるよりは、素直に甘露
五年と考えておく方がよさそうです。
元の発言 [ Re: 中国出土の魏の紀年鏡 ] お名前 [ 公正徹也 ] 日付 [ 2月22日(火)19時08分25秒 ]
公正さん、こんにちは。
車崎氏の後漢鏡を含む紀年鏡のリストを見ていますと、方格規矩鏡、内行花文鏡には紀年鏡が見当たりません。
紀年鏡は、そのほとんどが獣首鏡と神獣鏡ですね。
これは、年号を入れる伝統をもつ工房(あるいは工人)、そうでない工房(あるいは工人)といった特徴を示しているのかもしれません。
元の発言 [ 卑弥呼の鏡はどれ? ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月22日(火)14時17分41秒 ]
yaohideさん、こんばんは。
>> 卑弥呼のもらった鏡は1種類だったのでしょうか?
>> △鏡、画文帯?それとも後漢鏡?
平原、それと大和天神山に副葬されている方格規矩鏡が大半だったと思います。それと、内行花文鏡。
平原、大和天神山双方とも方格規矩鏡の銘文は、基本的には下記のごとくです。
>尚方佳竟真大好上有仙人不知老渇[サンズイ偏に欠]玉泉飢食棗兮
平原の方格規矩鏡については、紋様の簡略化、銘文に裏字があるなどの、後漢晩期の特徴があり、また青龍三年鏡に共通するTLVの溝内をV字状に削り沈線を施すなど新しい要素もあり、決して古くないです。
大和天神山のにも、方形格内の十二支が省略されて図形化したものがあります。
平原、大和天神山の方格規矩鏡はともに「銅鏡百枚」の一部と考えております。
平原は三世紀前半、大和天神山はまだはっきりしませんが、従来の四世紀後半より年代は上がりそうです。
元の発言 [ Re: ちょっと待ったあ!! ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 2月23日(水)17時38分58秒 ]
koujiさん、こんにちは。
>> ・・・編年の観点から見ると同じお墓から出てくる鏡の製作時期がばらけているという事実もあります。これも、生存中に少しずつ入手していったと考えたほうが理解しやすいと思います。
編年のこと、ありがとうございます。先の長い話で(←私にとって)ため息が出ます。
“本当に「副葬用」なのかどうか”についても反芻しながら少しずつ勉強していきたいと思います。
>> 三角縁神獣鏡は、神像表現から三派の工人群の存在が指摘されていますが ・・・明らかに工人群間に密な関係が保たれている。あちらこちらの工房でバラバラに作ったものではないと思います。
奈良の鏡作神社は三社とも近いところにありますから、密な関係があったと思います。
遠く故郷を離れた奈良の地で協力しあっていたのは自然な姿だと思うのですが・・・。
元の発言 [ Re: 補足 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月24日(木)01時37分13秒 ]
おはようございます。
>> 結局のところ、三角縁神獣鏡の広まりを、列島各地の首長層相互の政治的交通関係の問題として捉えるか、経済的交通関係の問題として捉えるかという問題に帰着するのだと思います。その見方は現時点では人それぞれでしょう。
koujiさんの意見を私なりに捉え直すと、
「どちらを重視するか?」だと思います。
おにりんさんのとおり、双方の要素は不可分の時代だとは私も思いますし、意見の前段については、まさしく同感なのですが、私の言っているのは「コントロール」はあったと言えるのか?ということです。
ファッションが先にきて、結果そういうものを持つことが出来る資産家(=豪族)のステータスに繋がることはありますが、鏡(特に△◎と言い換えてもいい)はコントロールできるほど一本化された流通ルートを想定できるほど単一の形式ではないのではないでしょうか?
ファッション論を押し進めると「陳氏」すらデザインと解釈しうる結果となる(勿論極論ですが)のではないでしょうか?
私は「コントロール」などといった集中型の社会を当時に想定することが出来ないのでいわゆる「関西説」に組みされないのです。
元の発言 [ Re: 古冨波山古墳から ] お名前 [ 飛んだハヤシライス ] 日付 [ 2月4日(金)00時36分15秒 ]
飛んだハヤシライスさん、こんにちは。
>> いまのところ各氏の編年案に拠らなくてもいいような気もいたします。たとえば、獣文帯、唐草文帯、波文帯はそれぞれが得意な職人の差異であるかもしれませんし。
まあ、岸本氏の編年については近日中に素材を入手できる見込みですので、立ち入って検討してみたいと思います。
>> > 石野博信編『全国古墳編年集成』(雄山閣)で黒塚をみると、どっぷり庄内期に浸かっているように見えます。
>> エピソードをひとつ。この先生と昨年あるところで偶然お会いした事があります。黒塚の話題も出ました。彼曰く、「やっぱりあれは4世紀初めかなぁ」なんておっしゃっておられました。
はい。本になっている討論でもそのようにおっしゃっているのを読んだことがあります。
>> 河上氏は、使用石材、石室構造、床構造、副葬品等総合的判断からみた調査古墳の相対編年は、中山大塚古墳(天神山古墳を含む)→黒塚古墳→下池山古墳となると私は考えている。(『黒塚古墳調査概報』学生社)と言ってます。
>> また、先にも引きましたように、赤塚氏は、箸墓より下池山古墳のほうが少し古い、と言ってます。
>> それらを矛盾なく並べれば、黒塚を庄内期と言えなくもないですが、祭祀土器かと思いますが、穿孔土器が出ていて、これは桜井茶臼山からも出ていますが、矢部編年では、布留1式になってますよね。
実際、古墳はどうもよくわかりません。盛り土にもともと含まれていた土器は年代の上限を示し、墳丘が出来てから破棄されたり埋められた土器は年代の下限を示している。理屈はわかりますが、実際にはどちらか区別しがたいケースが結構あるのではないでしょうか。周濠内の土器にしても、周濠に捨てられたのか、流入した土中に含まれていたのかでまったく判断が変わってしまう。その辺の区別が難しいことは平原の年代を考えたときに痛感しました。これは飛んだハヤシライスさんに教えていただいたことの一つです。
ご指摘の穿孔土器については黒塚の年代の下限を示すものではありましょうけれども、それ以上に古墳の築造年代を限定する場合は、やはり埋葬施設や副葬品を中心に考えなければならないのではないででしょうか。箸墓からは六・七世紀の土器も採集されるそうです。恐らく箸墓に対する祭祀がその頃まで継続していたからでしょう。黒塚にしても庄内期に築造されて布留Tの頃にも祭祀が継続していたのかもしれませんよね。
>> >> もともと数の少なかったと思われる古墳が、確実に庄内期であることが判断できる土器と確実に三角縁神獣鏡であると判断できる鏡片を伴って確認されるまでは、庄内期の大和には三角縁神獣鏡がなかったと判断されるのでしょうか?
>> 大和の場合、けっこう研究は進んでいると思いますが、内部調査が出来ていないのが多いので、現状では「ない」と言わざるを得ないですよね。
「出土していない」というのは事実ですが、「○○期には無かった」というのは推論ですよね。滋賀に有ったのに大和には無かったということは多分ありえないと思います。大和には纏向遺跡があって広範囲に活発な交流が展開されていたことは明白なのですから。問題は、その時期の輸入元ないし製作地がどこかということをどのように推定するかでしょう。
>> 鏡作神社に伝世されたらしい唐草文帯三神二獣鏡がありますが、この地域で作られていた時代があった事は間違いないと思います。それがいつごろからか?と言う事ではないでしょうか。
でも、その唐草文帯三神二獣鏡がそこで作られたかどうかはわかりませんよね。どこかで誰かが拾ったものを奉納したのかもしれない。鏡作といっても内向花文鏡などの三角縁じゃない倣製鏡の製作地だったかもしれない。
元の発言 [ Re: ちょっと待ったあ!! ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 2月23日(水)17時38分58秒 ]
koujiさん、おはようございます。
>> 三角縁神獣鏡は、神像表現から三派の工人群の存在が指摘されていますが、各群をとおして内区の神獣像の配置の仕方を変えたりしてバリエーションを増やしていく手法などが一致していたり、外区の断面の形状や笠松形文様が同じように変化していったりしている。工人群間の共同製作と見られる鏡もある。明らかに工人群間に密な関係が保たれている。あちらこちらの工房でバラバラに作ったものではないと思います。
それこそ、バリエーションや変化などは「流行」や土器の編年と同様の「アニメ絵の編年」の考えで説明がつきませんかね?
元の発言 [ 中国出土の魏の紀年鏡 ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 2月22日(火)16時54分24秒 ]
イリヒコさん、こんにちは。すっかり出遅れました。
>> 1.“五年”は甘露五年と推定されるとのことですが、この鏡の形式などからこれを魏の甘露五年とすることは妥当なのでしょうか?
樋口隆康氏の『古鏡』をみると、後漢の年号を持つ獣首鏡と魏の年号を持つ獣首鏡の違いの一つとして、連弧文の形状が挙げてあります。確かに同書の図録を見ると後漢のものは曲がりが急で半円に近いのに、魏のものはもっと緩やかになっています。紹介していただいた写真を見ると、小さいので他の細部はわかりませんが、連弧文は明らかに、後漢の年号の獣首鏡とは異なり、魏の年号の獣首鏡のものと一致します。
>> 2.魏鏡であるとして、“右尚方”の銘があるのでこれを魏の右尚方製作の鏡としていいのでしょうか?
>> この両方が共に正しいとすると、魏の右尚方では長方形鈕孔の鏡が製作されていた紛れもない証拠となりそうですが、いかがでしょうか?
「紛れもない証拠」とまでいくかどうか。なかなか難しいところです。件の鏡が踏み返し鏡であるとすると、文様とか銘文は原鏡のものを踏襲したものと考えられますが、鈕孔は踏み返しても型が取れませんから踏み返した工人が付け加えることになる。つまり、踏み返し鏡の場合はまったく別系統の工人の文様・銘文と鈕孔が同じ鏡に共存することがありえるわけです。まあ、「有力な傍証」ぐらいにとどめておきたいと思います。
元の発言 [ Re: ちょっと待ったあ!! ] お名前 [ くみ ] 日付 [ 2月24日(木)02時09分55秒 ]
くみさん、こんにちは。
>> >> 三角縁神獣鏡は、神像表現から三派の工人群の存在が指摘されていますが ・・・明らかに工人群間に密な関係が保たれている。あちらこちらの工房でバラバラに作ったものではないと思います。
>> 奈良の鏡作神社は三社とも近いところにありますから、密な関係があったと思います。
>> 遠く故郷を離れた奈良の地で協力しあっていたのは自然な姿だと思うのですが・・・。
はい。そうであるとすれば、彼等はやはり同一の豪族の管理下にあったと言えます。鏡作神社のあたりで三角縁神獣鏡を作っていたかどうかは今のところわかりませんが、仮にそうだとすると、彼等はどの様にして原料を確保し製品を広範囲の豪族のもとへ流通させていたのか。大和の豪族の力を抜きにしてはそのような工房が成立し維持されることは考えられないでしょう。
元の発言 [ 文化の伝播っつうか、権力の構造っていうか、、 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月24日(木)11時17分31秒 ]
どうも。
まぁ趣旨は理解しました。でも、なんか違うと思いますが(笑)
例えば、その趣旨で言うと、日本はアメリカの属国だと言われるかもしれないんで、別の例を出すと、今の中国はどうですか?
流行が、憧れの対象を産み、それが権力の源泉になりうるような部分はあるでしょうけれど、今上海など中国の都市部で圧倒的に憧れを持って受け入れられているのがアメリカ文化です。
でも政治的には敵対とまでは言いませんが独立していますよね?
台湾は、文化的にはアメリカよりも日本の多大なる影響を受けていますが、政治的には独立していますよね?
韓国なんかはアメリカの影響下なのかもしれませんが、これもどちらかというと憧れよりも政治的影響が先でしょう。
日本も、政治的影響が先のように思います。
>> ファッション論を押し進めると「陳氏」すらデザインと解釈しうる結果となる(勿論極論ですが)のではないでしょうか?
>>
言葉が足りませんでしたね。
「陳氏」とかの制作者銘も、デザインの可能性があるという極論(笑)です。
制作者銘も、なんとなく中国の字でカッコイイから真似しただけとか。
元の発言 [ Re: 中国出土の魏の紀年鏡 ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 2月24日(木)12時16分28秒 ]
koujiさん、どうもありがとうございます。
>> 樋口隆康氏の『古鏡』をみると、後漢の年号を持つ獣首鏡と
>> 魏の年号を持つ獣首鏡の違いの一つとして、連弧文の形状が挙
>> げてあります。…(略)…連弧文は明らかに、後漢の年号の獣首
>> 鏡とは異なり、魏の年号の獣首鏡のものと一致します。
ということであれば、後漢鏡ということはなさそうですね。
あとは、魏代か晋代以後かということになります。図書館で記事を
再確認しましたら、『右尚方は魏の官営工房だったことから』とい
う理由が書かれていました。右尚方は晋代には存在しないのでしょ
うか?それなら、甘露年間かどうかはともかく、魏代であることは
間違いなさそうです。
>> 件の鏡が踏み返し鏡であるとすると、
これなんですが、中国国内でわざわざ別系統の工人に踏み返させる
理由は何かあるのでしょうか?大量生産のためにということなら分
かりますが、それなら鈕孔は同じはずですよね?倭で踏み返すとし
たら、本物が入手し難い事が理由だと思いますが、入手がたやすい
中国国内であれば、わざわざ踏み返すよりは別の鏡を入手した方が
簡単だと思うのですが。
これは、公正さんが書かれている日本国内の甘露五年鏡の2面の同
型鏡についても同じことを感じました。一応両方とも中国出土らし
いということになっているようですが、書道博物館のほうは日本で
の踏み返しということはないでしょうか?
元の発言 [ Re: 銅矛から銅鏡へ ] お名前 [ くみ ] 日付 [ 2月22日(火)05時24分56秒 ]
くみさん、こんばんは。
方格規矩鏡も葬具だったのではないか?仮説ですけれど、それに至る考えを書きます。
まず、三雲南小路1号棺から、金銅「四葉座」飾金具が出ていますが、これは棺の蓋とかをとめる飾り金具だと言われています。あいにく倭国はまだ甕棺の時代でしたから、本来の用途ではなく副葬された。
内行花文鏡。内区に「四葉座」があります。
方格規矩鏡。
1.内区の方格内に「四葉座」。
2.周縁部と方格の間に、玄武、朱雀、白虎、青龍の四神。この四神は後代、高松塚古墳の石室内にも描かれていた。被葬者を守護しているのだと思います。
3.銘文は
>尚方作竟真大好上有仙人不知老渇[サンズイ偏に欠]玉泉[サンズイ偏に几]食棗浮[サンズイ偏に游]天下敖四海徘徊名山采芝草寿如金石之国保兮
漢文は読めませんので、おおよそのイメージで申しますと、死者が、食べ物に飢えずに、神仙の世界を浮遊するように、という願いでしょうか?
葬具にふさわしいと思いませんか?
元の発言 [ Re: 邪馬臺國の難升米 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月4日(金)11時39分02秒 ]
おにりんさん、おばんです。
#糸島郡は、「怡土」+「志麻」でやんす。
元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡はどれ? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月24日(木)00時48分03秒 ]
>>
>>
>>
いえ。しっかり、認識されていません。
平原の方格規矩鏡について、まず岡村氏は、
1.定型化した型式のものから、方格の十二支銘が失われ、四神と瑞獣の組合せや配置がくずれた型式のものまでふくまれている。年代の下限は、後一世紀後半にある。
と言っています。(御存知『三角縁神獣鏡の時代』より)
原田大六氏は、
2−1.舶載鏡三十七面すべてが、漢中期から後漢の前半を下らないものばかり。
2−2・後漢の後半では、キ鳳鏡・獣首鏡・獣帯鏡・神獣鏡などがあらわれるが、それらは一切含まれていない。するとこの墳墓は二世紀前半を下るものではない。
と言っています。(『実在した神話』学生社)
これを岡村氏は踏襲して、「平原一号墓の年代は、その漢鏡によって後一世紀後半から二世紀初頭まで」と言っている。
しかしながら、奥野正男氏は、
3−1.後漢晩期の尚方鏡は、方格内の十二個の乳や十二支の文字が完全に退化して紋様化し、紋様の簡略化が進行する。銘文は意味の通じない脱字や省略がふえ、文字にも左字がふえ、三国期になると全文左文字という現象も少なくない。
3−2.洛陽出土鏡には平原タイプの退化現象をもつ方格規矩鏡が後漢中期(76年〜146年)までに一面もあらわれていない。
3−3.(平原1号墓の年代を原田氏のように、二世紀前半とすると)平原には中国より先に舶載鏡があらわれたという奇妙なことが起きてしまう。(『邪馬台国はここだ』毎日新聞社 昭和56年)
白崎昭一郎氏は、
4−1・岡村氏は、先行する奥野氏の著作を当然読まれているであろうが、一顧だに与えていない。
4−2.さらに銘文の左文字化や脱落は、岡村氏の編年では全く考慮にはいっていない。
と批判しています。(「東アジアの古代文化」94号)
柳田康雄氏は、
5.岡村の後漢鏡の編年は、方格規矩四神鏡に例をとると、紀年鏡のある王莽鏡前後について評価できるところが多いが、後漢後半期以後について網羅しているといえない。(「東アジアの「古代文化」99号)
>>
>>
これは、岡村編年への批判になり、冒頭の意見と矛盾しています。
大和天神山については、いずれ河上氏が論文を書かれるのではないでしょうか。「あれは古いんだ」って発言が散見されますので。
中国で紀年鏡が出てきたとのことで、さてどうなるのかな?
それはさておき、ALEXさんが投馬国はいずこ?って
感じでしたので、こんどは狗奴國はどうでしょう?
毛野ではね...
1 此女王境界所盡。
其南有狗奴國、男子爲王、
2 女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種
変でしょう?
尾張もそうだけど...
元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡はどれ? ] お名前 [ 飛んだハヤシライス ] 日付 [ 2月25日(金)00時17分26秒 ]
学者の論理も勝手なもので
# 3−2.洛陽出土鏡には平原タイプの退化現象をもつ方格規矩鏡が後漢中期(76年〜146年)までに一面もあらわれていない。
△鏡は今まで中国で一面も現れていない。なら、倭鏡でしょう。ところが魏鏡と言う。
上の例からいけば、ただ現れていないだけではないか?
ということです。
まだまだ、うかつに判断できませんよね。
元の発言 [ 狗奴國はどこ? ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月25日(金)02時25分48秒 ]
yaohideさん、こんにちは。
結論から言うと、私は東海に比定しますが、畿内説の中でも意見の割れるところです。
ただ、畿内説の場合、九州説と違って許容範囲が広くなりますからあまり問題はないでしょう。
というのが、狗奴國はあくまでも「女王境界所盡」の南にあるのであって女王國自体の南方向に有るとはどこにも書かれていないので、女王國の範囲を広域に考える畿内説にとっては相当広範囲の候補地があることになるからです。
ところで、九州説の方が以外にも重視する
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
という一文。
これは実は畿内説にとっては何ら障碍ではなく九州説にとって大問題なのです。
この文をよく見ると、女王國から東の無名の倭種国群までの距離が「千餘里」と里数で表現されています。とうぜん東の無名の倭種国群まで魏使が行って測量したわけではありませんから、倭人からの伝聞に基づくことになります。となると
A:倭人は里数で距離を表現できた
B:距離は中國人が作文した
のいづれかです。
Aの場合、投馬國、女王國ともに日数表記であるのに不合理です。
とくに「魏使は女王國まで行っておらず日数は伝聞である」とする説のひとにとって深刻な矛盾です。
Bの場合
1 もとより伝聞情報である
2 中國人は現地に行っていない
3 距離は中國人の作文である
4 国名等一切不詳である
5 遠絶ゆえ戸數道里が不可得詳な其餘旁國よりも更に遠方の話である
ということで、明らかに信憑性が薄く、とても九州説の重要な根拠に据えるに堪えない。
そこで、この文の前後をみると
(1)女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。
(2)又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。
(3)又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至。
順次的に(1)(2)(3)と
東,南,東南と規則的
千餘里,四千餘里,船行一年可至とクレッシェンド
で、全体に作文の疑いが濃いと思われます。
これは明らかにヨタ話なコビト国に突然話が飛ぶのが唐突なので、クッションとして挿入されただけで、もとは「三十国以外にも更に遠くまで倭人國群は広がっている」程度の情報だったものが潤色されたと考えるのが妥当でしょう。
で、結局この一文、そんなに重視するとトンデモ説になってしまうと思うんですけど…
いかがですか?九州説の皆さん。
元の発言 [ Re: うーん、面白いことは面白いんだが… ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月24日(木)19時45分30秒 ]
どうも。
最初の問題については、当時でも政治と文化が直結していただろうか?ということです。
たとえば、大和盆地の何ヶ所かで渡来人の工房があって、何らかの豪族の下で鏡を製作していたとします。
それまで中国・半島部から鏡を輸入していた関西周辺の資産家(=豪族)が、安上がりで早く手に入る国内産に目を付けて手に入れようとするとします。
その場合、その工房の位置によりますが、「大和勢力」がこの工房の作鏡を管理できるのでしょうか?
まぁ、この問題については誰も断言していないので、やめましょう(笑)
>>
>>
>>
>>
>>
>>
うーん、これについてはちょっと疑問があるんですが(笑)
いつ頃から華人が列島に来たと思いますか?
そして、その子孫は「中国人」なんでしょうか?
私は周時代から散発的に、そして戦国末以降はかなり頻繁に渡来があると思います。
華人も当時は識字率が高くはないでしょうけれど、何割かは知識人がいたはずです。
その子孫は文字が読めないんでしょうか?
明日香朝廷時代にも、新規渡来民(いまきのてひと)は同じ国出身の渡来系氏族の近くに居住したりしていますが、きっと当時もそうだったでしょう。
羅系、済系、華系倭人は倭人でしょう。
例えば蘇我氏はどうも渡来民の子孫らしいですが、だれも百済人とは呼びません。
そういう意味において、「倭の鏡作りの工人」にも、華人系文化の受容に濃淡があって、字がかける人とかけない人がいたのではないでしょうか?
元の発言 [ 方格規矩鏡も葬具だったのでは? ] お名前 [ 飛んだハヤシライス ] 日付 [ 2月24日(木)23時05分45秒 ]
>> 3.銘文は
>> >尚方作竟真大好上有仙人不知老渇[サンズイ偏に欠]玉泉[サンズイ偏に几]食棗浮[サンズイ偏に游]天下敖四海徘徊名山采芝草寿如金石之国保兮
>> 漢文は読めませんので、おおよそのイメージで申しますと、死者が、食べ物に飢えずに、神仙の世界を浮遊するように、という願いでしょうか?
『寿如金石』とありますよね。「死者が」というのはどこから来ているのでしょうか。
元の発言 [ Re: 中国出土の魏の紀年鏡 ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 2月24日(木)19時37分29秒 ]
イリヒコさん、こんにちは。
>> 右尚方は晋代には存在しないのでしょか?
後漢書の百官志を見ると、単に尚方とのみあって、中左右の区別はなかったようです.
三國志は志がなく、他の記事では三尚方を単に尚方と呼んでいるケースがあるようでハッキリしないのですが、それでも、三尚方を区別している例として、
魏書任城威王彰傳『青龍三年,楷坐私遣官屬詣中尚方作禁物,削縣二千戸.』
三國志魏書三ゲΣp@愀塀藐鞠@、忘善b羮以Y邏慂氓ク鏝融杏粥れ兵澎拇垓晋堯ル
三國志魏書彭城王據傳『景初元年,據坐私遣人詣中尚方作禁物,削縣二千戸』
三國志魏書王觀傳『少府統三尚方御府内藏玩弄之寶』(正始年間の記事)
などがあり、甘露年間にも続いていたらしいことが例の獣首鏡の銘文からわかるわけです.
次いで、晉書職官志をみると、『中左右三尚方....自渡江唯置一尚方』とありますから、西晋の間は三尚方が分かれており、右尚方もあったようです。
>> >> 件の鏡が踏み返し鏡であるとすると、
>> これなんですが、中国国内でわざわざ別系統の工人に踏み返させる理由は何かあるのでしょうか?大量生産のためにということなら分かりますが、それなら鈕孔は同じはずですよね?倭で踏み返すとしたら、本物が入手し難い事が理由だと思いますが、入手がたやすい中国国内であれば、わざわざ踏み返すよりは別の鏡を入手した方が簡単だと思うのですが。
右尚方には属さない工人が手軽に稼ごうとして、手元にあった右尚方作鏡を踏み返してコピーを量産することも、ないとは言えないのではないでしょうか。
>> これは、公正さんが書かれている日本国内の甘露五年鏡の2面の同型鏡についても同じことを感じました。一応両方とも中国出土らしいということになっているようですが、書道博物館のほうは日本での踏み返しということはないでしょうか?
そのへんはわかりません。すみません....
元の発言 [ Re: 中国出土の魏の紀年鏡 ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 2月25日(金)13時13分41秒 ]
>> 三國志魏書三ゲΣp・愀塀藐鞠・、忘善・羮以・邏慂・ず鏝融杏粥れ兵澎拇垓晋堯ル
三國志魏書[登β]哀王沖傳『景初元年,忘善b羮以Y邏慂氓ク鏝融杏粥れ兵澎拇垓晋堯ル
元の発言 [ Re: イエローカードかな(^_^) ] お名前 [ ノッピン ] 日付 [ 2月4日(金)07時23分01秒 ]
ノッピンさん、こんにちは。
龜茲國…南與精絶、東南與且末…西與姑墨接。(『漢書』西域傳下)
北限大海、西北接百濟、正北抵新羅、南與越州相接。(唐會要)
クチャと、ニヤやシャルマダナの間にはタクラマカンの流砂が広がっていますし、百濟,新羅,越州と接している陸地は存在しません。砂漠がクチャの領地でもなければ、対馬海峡が倭の領海というのでもありません。国と国とが接するというのは、それらが対面にあれば、間に「国以外の何か」があってもよいわけです。
>> でもこの場合は境を接していると言う例ではありませんね。
>> 境には特に意味はないのでしょうか?
「界」の意味はいくつかあります。
其涜盧國與倭接界
この場合、涜盧國の「界」と倭の「界」が接しているわけですから、二つの「界」の間に海峡があってもおかしくないわけです。ここでいう「界」は世界の界です。
朝鮮與燕界於[シ貝]水
の場合は、朝鮮と燕が[シ貝]水において「界して」いるので、両国は(大河をはさんでいるけれど)陸続きです。ここでいう「界」は世界の界じゃないというわけです。
元の発言 [ すみません、文字化けです。 ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 2月25日(金)13時17分14秒 ]
>> >> 三國志魏書三ゲΣp・愀塀藐鞠・、忘善・羮以・邏慂・ず鏝融杏粥れ兵澎拇垓晋堯ル
>> 三國志魏書[登β]哀王沖傳『景初元年,忘善・羮以・邏慂・ず鏝融杏粥れ兵澎拇垓晋堯ル
三國志魏書[登β]哀王沖傳『景初元年,[王宗]坐於中尚方作禁物,削戸三百,貶爵為都郷侯』
東大某教授の珍説・奇説・悪説を岩宿が粉砕し、更に秩父ミューズパークが世界の人類史を書き換えることとなった。多弁・饒舌・大口は曲解を招き、沈黙・寡黙は真理を招く!
九州説の夜明けは近い。6世紀以降は「青丹によし、奈良の・・」なるも、3世紀は「青菜よし、甘木の・・・」じゃ(^0^)
元の発言 [ Re: 狗奴國はどこ? ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月25日(金)10時07分38秒 ]
ALEXさん、こんにちは。
>結論から言うと、私は東海に比定しますが、畿内説の中でも意見の割れるところです。
多分そうかと思ってました。
で、東海の範囲はどこからどこまでですか?
そして、中心のポイントは?
> というのが、狗奴國はあくまでも「女王境界所盡」の南にあるのであって女王國自体の南方向に有るとはどこにも書かれていないので、女王國の範囲を広域に考える畿内説にとっては相当広範囲の候補地があることになるからです。
女王國の範囲が問題なんですが、ひょっとして四国や出雲、丹波、紀伊半島すべて
含めるということもあるということでしょうか?
>Aの場合、投馬國、女王國ともに日数表記であるのに不合理です。
とくに「魏使は女王國まで行っておらず日数は伝聞である」とする説のひとにとって深刻な矛盾です。
まずAの場合で、女王国まで行ったとした場合
問題はない。
行ってないとした場合
情報のソースが違う。距離で報告した者と、日数で報告した者は別人だ。
それほど深刻ではないんじゃないかな。
>Bの場合
1 もとより伝聞情報である
2 中國人は現地に行っていない
3 距離は中國人の作文である
4 国名等一切不詳である
5 遠絶ゆえ戸數道里が不可得詳な其餘旁國よりも更に遠方の話である
ということで、明らかに信憑性が薄く、とても九州説の重要な根拠に据えるに堪えない。
3を言ってしまったら、なぜ距離だけ作文?ということになり、全体が???
こうなれば、九州も畿内も同じです。
>順次的に(1)(2)(3)と
東,南,東南と規則的
千餘里,四千餘里,船行一年可至とクレッシェンド
で、全体に作文の疑いが濃いと思われます。
女王國東渡海千餘里、この距離は天気がよければ見える距離ではなかった
ですか?
いきなり四千餘里と書けなかったのは、千餘里の国がわかっていたからでは
ないでしょうか?
元の発言 [ Re: 倭滞在の華人? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月25日(金)13時18分42秒 ]
早いね、レス(笑)
>> それまで中国・半島部から鏡を輸入していた関西周辺の資産家(=豪族)が、安上がりで早く手に入る国内産に目を付けて手に入れようとするとします。
>>
>>
貨幣経済だったろうとは思いますが、別に言い張るつもりはないです。
あと、威信財?必要ですか?
この説は鏡のファッション或いは葬式用のインテリア的な側面を重視するものなので、権威的な要素は軽視しているのです。
>>
まぁ数は不明ですので。確かに少ないとは思いますが。
>>
>>
>>
本論に中国語の読解力は関係ないです。
書記にしても中国文として読むからおかしいのであって、誤字は少ないのでは?
鏡の銘文は簡単な漢文なので、それでも誤字があるのは字を知らないからでしょうけれど、字を間違っていないものもあります、という点が確認できればいいです。
元の発言 [ 狗奴國はどこ? ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月25日(金)02時25分48秒 ]
yaohideさん、こんにちは。
地名から言うと、肥後の球磨、毛野、確か遠江あたりの久怒(国造)なんかが候補になりそうですよね。前方後方墳が主力を成す東海地方説もあってこれは少し久怒と掠るかもしれない。
狗奴国の位置情報としては、
『次有奴國、此女王境界所盡。其南有狗奴國』
とあって、奴国の南にあったらしい。これは、
『倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状』
とあることから考えるとかなり正確かもしれない。奴国がどこかが問題だけれどもこれは伊都国のお隣の奴国と国名が一致するから、これの重出の可能性がある。そうだとすれば、狗奴国は福岡市・春日市の南にあることになる。とうわけで、今のところ球磨じゃないかなと思っています。
元の発言 [ Re: 狗奴國はどこ? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月25日(金)11時20分05秒 ]
おにりんさん、こんにちは。
>> 狗奴国は、やっぱりクナ国でしょうから、毛野(けの、けぬ)とは合わないような気がする。
日本書紀の継体天皇紀二十四年条に
『是歳、毛野臣、被召到于對馬、逢疾而死。送葬尋河、而入近江。其妻歌曰、
「比[扁手旁羅][冠加脚可]駄喩 輔曳輔枳能朋樓 阿符美能野 ke[扁心旁豈]那能倭倶吾伊、輔曳符枳能朋樓』
という歌が載っているのですが、この『ke[扁心旁豈]那』(ケナ)というのが『毛野臣』のことなのです。毛野国がケナ国だったら、狗奴(クナ)国と結構音は近いですよね。
元の発言 [ Re: 狗奴國はどこ? ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月25日(金)10時07分38秒 ]
ALEXさん、こんばんは。
>> ただ、畿内説の場合、九州説と違って許容範囲が広くなりますからあまり問題はないでしょう。
>> というのが、狗奴國はあくまでも「女王境界所盡」の南にあるのであって女王國自体の南方向に有るとはどこにも書かれていないので、女王國の範囲を広域に考える畿内説にとっては相当広範囲の候補地があることになるからです。
#近畿説だと確かに広いですネ。
#「正始元年銘三角縁同行式四神四獣鏡」が出土した、群馬県まで広がるのですから。
#ほんとに群馬まで女王国だったんですかネ。
#私は、当然ながら南部九州に比定します。
#境は、「菊地彦(クコチヒク)」のいた菊池山地でしょう。
元の発言 [ Re: 狗奴國はどこ? ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月25日(金)10時07分38秒 ]
お久しぶりです。こんばんわ。
小人の国の伝承は、北海道の「コロポックル伝説」
のことでしょう。
つまり、その勢力は東北まで及んでいたことになり、
畿内説の証拠となるのでは?
元の発言 [ Re: 狗奴國はどこ? ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月25日(金)15時55分15秒 ]
yaohideさん、こんにちは。
>> で、東海の範囲はどこからどこまでですか?
>> そして、中心のポイントは?
#まあ逢坂以東天竜以西の湖東と濃尾、伊勢といった感じでしょうか。
>> >> というのが、狗奴國はあくまでも「女王境界所盡」の南にあるのであって女王國自体の南方向に有るとはどこにも書かれていないので、女王國の範囲を広域に考える畿内説にとっては相当広範囲の候補地があることになるからです。
>> 女王國の範囲が問題なんですが、ひょっとして四国や出雲、丹波、紀伊半島すべて
>> 含めるということもあるということでしょうか?
#おっと。
「女王國の範囲を広域に考える畿内説にとっては」は
「女王境界の範囲を広域に考える畿内説にとっては」の書き間違いです。
「女王國の境界」と「女王境界」は全然別ですね。失礼失礼。
A:倭人は里数で距離を表現できた
B:距離は中國人が作文した
>> >> Aの場合、投馬國、女王國ともに日数表記であるのに不合理です。
>> >> とくに「魏使は女王國まで行っておらず日数は伝聞である」とする説のひとにとって深刻な矛盾です。
>> まずAの場合で、女王国まで行ったとした場合
>> 問題はない。
#成る程それではyaohideさんは、里数で距離を測ることの出来る倭人もいるという見解ということよろしいですね?
で、それでは本論に入る前に、実際行った国(女王國)までの里数が記録されていない理由を何だと思いますか?
>> 行ってないとした場合
>> 情報のソースが違う。距離で報告した者と、日数で報告した者は別人だ。
>> それほど深刻ではないんじゃないかな。
#yaohideさんは「行っている」派だから気楽で深刻じゃないんじゃない? (^0^)
「行ってない」説のひとは、「倭人は里数を知らないんだから日数で書いてあるのは行ってない証拠」って言ってるんですから。こりゃ深刻。
お〜いそこの深刻な人!黙ってないで、何か言えよぉ〜!!
>> >> Bの場合
>> >> 3 距離は中國人の作文である
>> 3を言ってしまったら、なぜ距離だけ作文?ということになり、全体が???
#そうですよ。
女王國東渡海千餘里の「千餘里」が作文というのが選択肢Bで
結論として
女王國東渡海千餘里…の全体が???といってるんですが?
>> こうなれば、九州も畿内も同じです。
#女王國東渡海千餘里…を自説の根拠ないし他説の反証に使っているのは九州説だけだから「同じ」じゃないですよ。
元の発言 [ Re: それは、九州説の人に聞くことではないのでは? ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月3日(木)23時08分02秒 ]
>> 僕の考えとしては、韓に接するとすれば、半島に倭の国
>> とはいえないが、領域があったと思われる。
>> ドーバー海峡を挟んで、イギリスとフランスは今はトン
>> ネルがあるので、接しているといえるかもしれないが
>> 普通そのような言い方はしないでしょう。
#んー
漢文を読むコツは、「日本語だと思わない」ことなんじゃないかなと…思うんですね。
元の発言 [ Re: 狗奴國はどこ? ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 2月25日(金)21時04分55秒 ]
オヤジッチさん、こんばんは。
>> 私は、当然ながら南部九州に比定します。
>> 境は、「菊地彦(クコチヒク)」のいた菊池山地でしょう。
#ンでもって、ですな、倭人は距離を里数で数える事ができたと思いますか?できなかったと思いますか?
元の発言 [ Re: 中国出土の魏の紀年鏡 ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 2月25日(金)13時13分41秒 ]
koujiさん、こんばんは
どうもありがとうございます。
>> 次いで、晉書職官志をみると、『中左右三尚方....自渡江唯置一尚方』とありますから、西晋の間は三尚方が分かれており、右尚方もあったようです。
西晋代にも右尚方があったとすると、あとはもっと細かい紋様の違
い以外には決めてはなさそうですね。もっとも、日本の甘露五年鏡
と同型である事がはっきりすれば、話は早いわけですが。
>> 右尚方には属さない工人が手軽に稼ごうとして、手元にあった右尚方作鏡を踏み返してコピーを量産することも、ないとは言えないのではないでしょうか。
当時このような事が横行していたとすると、中国国内で同型だけれ
ども鈕孔(の形態や方向など)が異なる鏡があるはずですよね。中国
製同型鏡の研究の進展を期待して待ちたいと思います。
元の発言 [ Re: 狗奴國はどこ? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月25日(金)11時20分05秒 ]
>> 毛野ではね...
>> 1 此女王境界所盡。
>> 其南有狗奴國、男子爲王、
>> 2 女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種
>> 変でしょう?
>> 尾張もそうだけど...
>>
#yaohideさんは、1と2が並び立たないとおっしゃったのでは?
#狗奴国は陸続き、東の倭種は海の向こう。
#当時の秋田以東はエミシの領域でしょう。
#山陰、北陸から秋田に行くのに、海を渡ると言いますでしょうか。
#“水行”でしょう。
元の発言 [ Re: 小人の国は・・・ ] お名前 [ ナーチェキ@久々の登場( ^_^)/~ ] 日付 [ 2月25日(金)21時21分31秒 ]
>> 小人の国の伝承は、北海道の「コロポックル伝説」
>> のことでしょう。
#否、人長三四尺ではフキの葉の下に入り申さぬ。
いにしへのフィリピンに居たアティ族のことではないかのォ。
元の発言 [ Title:男は黙って・・・・ ] お名前 [ マルガリータ ] 日付 [ 2月25日(金)14時38分55秒 ]
>> 九州説の夜明けは近い。
#夜明けは、目を覚ます時よ。九州説の皆様!
元の発言 [ Re: 狗奴國はどこ? ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月25日(金)22時17分51秒 ]
ALEXさん、こんばんは。
>> #ンでもって、ですな、倭人は距離を里数で数える事ができたと思いますか?できなかったと思いますか?
#倭人は里数を知らず、日数で表す。
#千余里は、一渡海(一日)を里数に換算したと考えます。
#夜間航行が出来ないので、渡海は全て“千余里”です。
元の発言 [ Re: 狗奴國はどこ? ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 2月25日(金)22時37分30秒 ]
オヤジッチさん、こんばんは。
>> 夜間航行が出来ないので、渡海は全て“千余里”です。
#でも魏略西域傳には「三百四十里渡海」ってのが出てきますよ。
元の発言 [ Re: 狗奴國はどこ? ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月25日(金)22時07分49秒 ]
ALEXさん、こんにちは。
>> 「女王國の境界」と「女王境界」は全然別ですね。失礼失礼。
これはとても重要です。
国の脱字の可能性もあると考えるのもありでしょう。
>#成る程それではyaohideさんは、里数で距離を測ることの出来る倭人もいるという見解ということよろしいですね?
倭人がどうかは分からないがヤードポンド法とメートル法
の違いを理解する人がいれば、大した問題ではない。
ディカプリオの映画だったと思うが?僕はアメリカ人だか
ら、ヤードじゃないと感覚がわからないというせりふが
あったが、普通の日本人はヤードは理解していない。
今も昔もかわらないと思うだけです。
元の発言 [ Re: 狗奴國はどこ? ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 2月25日(金)21時04分55秒 ]
オヤジッチさん、ALEXさん、こんばんは。
>> #近畿説だと確かに広いですネ。
>> #「正始元年銘三角縁同行式四神四獣鏡」が出土した、群馬県まで広がるのですから。
>> #ほんとに群馬まで女王国だったんですかネ。
毛野じゃないかというのはわかるのですが...
そんなとこと卑弥呼の仲が悪くて、魏に助けを求めるまで
になるのかな?と思ってしまうのです。
尾張というのも、まあわかるのですが、その割には早く
から尾張との交流が深いというか、その点がちょっと。
海を渡るという点では問題ないと思います。
でも、僕は熊本あたりを想定してますが。
あとしつこいようですが、魏服はなくて呉服。
呉音もありますから、魏だ公孫氏だ半島系だと言われる
以前に、日本文化に呉の影響をみずにいられない。
そうなると有明海沿岸は絶対に無視できない。
畿内に呉の影響があったのだろうか?
魏や半島系をおしのけて、呉の文化が入ることは
可能だっただろうか?
>> #私は、当然ながら南部九州に比定します。
>> #境は、「菊地彦(クコチヒク)」のいた菊池山地でしょう。
元の発言 [ Re: 狗奴國はどこ? ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月26日(土)00時27分08秒 ]
yaohide さん、こんにちは。
>> これはとても重要です。
>> 国の脱字の可能性もあると考えるのもありでしょう。
#あー、それはないです。
…次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國、此女王境界所盡
ということで、これら餘旁國は女王國の外側にあるのですから。
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。
この「水行十日、陸行一月」について
1.水行十日 & 陸行一月
2.水行十日 OR 陸行一月
という二つの読み方が知られています。
さて、ほとんどの九州説の方は、これを2のORで読んでおられると思います。
ところが「水行十日」と「陸行一月」では実に3倍の差があるわけです。
これは、ある一つの地点から、ある一つの終点に到着するまでの日数ですから
終点の邪馬壹國は出発点から
A:陸路は遠回りだが船だと近道が出来る場所にある
B:陸路だと極度の難路しかない場所にある
C:陸路だとちんたら、船だとさっさと進みたくなる場所にある
という選択肢が考えられます。
ここで九州説の方々に質問です。
質問1:邪馬壹國はどこですか?
質問2:上記ABCのどれに該当しますか?
お答えをお待ちします。
--------------------------------
追伸
選択肢の番外
D:私は倭人伝を信じない。
元の発言 [ Re: 狗奴國はどこ? ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月26日(土)00時41分23秒 ]
yaohideさん、こんばんは。
>> そんなとこと卑弥呼の仲が悪くて、魏に助けを求めるまで
>> になるのかな?
#「助けを求めた」とは、どこにも書いてないんですよ。
「状況を説明した」としかありません。
>> 畿内に呉の影響があったのだろうか?
>> 魏や半島系をおしのけて、呉の文化が入ることは
>> 可能だっただろうか?
#ここでいう「呉」は南朝の総称で、孫家の国じゃないんです。呉音や呉服は五王の時代以降の交流によるものです。
元の発言 [ Re: 方格規矩鏡も葬具だったのでは? ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 2月25日(金)13時12分32秒 ]
koujiさん、こんち!
だから漢文は読めないんだってば!(^^ゞ
>> >> 3.銘文は
>> >> >尚方作竟真大好上有仙人不知老渇[サンズイ偏に欠]玉泉[サンズイ偏に几]食棗浮[サンズイ偏に游]天下敖四海徘徊名山采芝草寿如金石之国保兮
>> >> 漢文は読めませんので、おおよそのイメージで申しますと、死者が、食べ物に飢えずに、神仙の世界を浮遊するように、という願いでしょうか?
>> 『寿如金石』とありますよね。「死者が」というのはどこから来ているのでしょうか。
え〜。黄泉の世界で永遠の命を、と言うような意味ではおかしいですか?
元の発言 [ Re: 方位と日数表記について ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月22日(火)21時47分09秒 ]
ALEXさん、こんち。
> まず、「倭人の聴取によって得られた情報である」と考える裏付けはないということを共通認識と考えて宜しいでしょうか?
隋書に、
>夷人里数を知らず、ただ計るに日を以てす。その国境は東西五月行、南北は三月行にして、各々海に至る。
とありますが、これは倭人からの聴取によるものだと思います。ですから問題の記事もまた、「倭人の聴取によって得られた情報である」と考える裏付けはないにしてもあり得えなくはない、といったところです。
魏人の記録である事を否定するわけではありませんが、そうだとすればむしろ不自然ではないでしょうか?
>#傳をかいた人間は、他の国の傳との整合性をとるための決まりごととして、各国の国の広狭、戸数、道里をどうしても書く必要がありました。
日数表記も道里に含めてもよいのなら話は分かりますが、なぜ距離に書き直さなかったのでしょうか?もちろん風待ちやら、宴会やらで足止めの日数も加わっていることでしょうから、実働日数が不分明だったのかもしれませんけれども。
> それに、陳壽が邪馬壹國=女王之所都と認識している事は争う余地がないのですから、ここは陳壽以外の誰かを主語にしなければ脈絡が取れません。
陳寿はもちろん邪馬台国=女王国と考えています。
投馬国、邪馬台国への日数表記は原資料もまた、倭人伝の記述どおりだったのかどうか?南、女王之所都が元々から存在していたのかどうか?
岩波文庫版『魏志倭人伝』巻末に「広志」逸文が載っていますが、解説では「魏略」によったものであろう、と言っていますが、もしそうなら、
>「倭」国東行五百里、到伊都国、又南至邪馬「台」国、「自」女〔王〕国以北、其戸数道里、可得略載、(「」は編集者による)
とありますので、陳寿はそれを襲ったことにはなります。でも、どうなんでしょうか?この「広志」は「魏略」によっているんでしょうか?
>1:「女王之所都」に向かう里程記事のあとに、誰かが、女王とは関係ない「投馬国、邪馬台国への日数表記を挿入」した
>2:陳壽は、この全体を「女王之所都=邪馬台国」に向かう記事と誤解して修文した
>=という説だったんじゃなかったでしたっけ?
> 逆ならあり得ます。「女王之所都」に向かうものではない里程記事のあとに、「女王之所都」に向かう「投馬国、邪馬台国への日数表記を挿入」した可能性です。
1.不弥国までの記事と、投馬国、邪馬台国までの日数表記が別個に存在していた。
2.陳寿は、邪馬台国を女王国と判断して、女王之所都を注釈的に挿入した。これが誤解ではないかと考えているのです。
3.不弥国のあとに、投馬国、邪馬台国の日数表記をくっつけた。
と、考えているのです。
問題は、なぜ、邪馬台国=女王国と考えてしまったのか?なんですが、ここ一両日考えているような、いないような…。結局、名案は浮かびませんでしたけれろも。(^^ゞ
>#案外「壹與ちゃんは伊都国で檄告諭されて難升米と邪馬台国に攻め上った」なんて話しはアリかも知れません。
壹與ちゃんは、卑弥呼の宗女ですから、卑弥呼さんも、伊都国かそこに近いところにいてはったんかもしれませんよ。(^o^)
元の発言 [ Re: 狗奴國はどこ? ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月25日(金)23時23分20秒 ]
(オヤジッチさん)
>> 私は、当然ながら南部九州に比定します。
>> 境は、「菊地彦(クコチヒク)」のいた菊池山地でしょう。
>#倭人は里数を知らず、日数で表す。
>#千余里は、一渡海(一日)を里数に換算したと考えます。
>#夜間航行が出来ないので、渡海は全て“千余里”です。
オヤジッチさんに、二票!\(^o^)/
(ALEXさん)
>#でも魏略西域傳には「三百四十里渡海」ってのが出てきますよ。
ですから、第一次記録者の単位が違うんじゃないですか?
少なくとも伊都国までの比定地は共通認識されていると理解していいんですよね。ね。ねっ。(^o^)
元の発言 [ Re: 狗奴國はどこ? ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月25日(金)10時07分38秒 ]
ALEXさん、こんにちは。
>(1)女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。
>(2)又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。
>(3)又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至。
>
>順次的に(1)(2)(3)と
> 東,南,東南と規則的
> 千餘里,四千餘里,船行一年可至とクレッシェンド
>で、全体に作文の疑いが濃いと思われます。
>これは明らかにヨタ話なコビト国に突然話が飛ぶのが唐突なので、クッションとして挿入されただけで、もとは「三十国以外にも更に遠くまで倭人國群は広がっている」程度の情報だったものが潤色されたと考えるのが妥当でしょう。
陳寿の理解はそうでしょう。
でも、原資料(1)は、『魏略』逸文〔『前漢書』巻二八下 地理志・燕地・顔師古注〕
>倭在帯方東南大海中、依山島為国。「度海千里、復有国、皆倭種。」
に拠っている。これは以歳時来献見した倭人からの聞き取りだと思います。前漢鏡などの分布から判断して、その時の倭は北部九州と考えてよいのですから、その渡海千里とは、響灘か、周防灘と考えて差支えないと思います。
元の発言 [ Re: Title:男は黙って・・・・ ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月25日(金)22時28分50秒 ]
>> >> 九州説の夜明けは近い。
>> #夜明けは、目を覚ます時よ。九州説の皆様!
とっくに醒めてるよ〜。夜明け前から。
二日酔いで偏頭痛だけど。いやホンマ。左側が痛いのダ!
やれやれ。
元の発言 [ Re: 方位と日数表記について ] お名前 [ 慈源 ] 日付 [ 2月26日(土)06時38分18秒 ]
慈源 さん、こんち。
>> 魏人の記録である事を否定するわけではありませんが、そうだとすればむしろ不自然ではないでしょうか?
#不自然と言うのは何故ですか?
>> 日数表記も道里に含めてもよいのなら話は分かりますが、なぜ距離に書き直さなかったのでしょうか?
#「道里」を日数で表現するのはよくあることで、特に水行や船行の場合は日数表記の方が多いくらいだと思います。
この場合、傳をたてた他国との整合性をとるため、女王之所都までの距離は無理をしても合計数字にしなければならなかったのです。個々の数字まで改竄する必要はないと思います。
>> 岩波文庫版『魏志倭人伝』巻末に「広志」逸文が載っていますが、解説では「魏略」によったものであろう、と言っていますが、もしそうなら、《中略》この「広志」は「魏略」によっているんでしょうか?
#出所は『翰苑』註です。
ところが『翰苑』註は、この部分の前後に後漢書や宋書からの引用も列挙しているのですが、それがかなり飛び飛びの文章(相当へんな「中略」がある)なのです。
「広志」も魏略から飛び飛びに引用されたと考えて良いでしょう。他の部分にも明らかな後世の竄入が散見されるなど、『翰苑』註というのは、史料に使うのは、よほど入念に「大丈夫そうな部分」を吟味しないといけない−そういう史料だと思います。
>> 1.不弥国までの記事と、投馬国、邪馬台国までの日数表記が別個に存在していた。
>> 2.陳寿は、邪馬台国を女王国と判断して、女王之所都を注釈的に挿入した。これが誤解ではないかと考えているのです。
>> 3.不弥国のあとに、投馬国、邪馬台国の日数表記をくっつけた。
>> と、考えているのです。
>> 問題は、なぜ、邪馬台国=女王国と考えてしまったのか?なんですが、ここ一両日考えているような、いないような…。結局、名案は浮かびませんでしたけれろも。(^^ゞ
#ありうるとしたら
資料1:a→b→c
資料2:____C→D
のように、紛らわしいc≠Cが介在したか
資料1:a→b→c→d
資料2:____X→D
のように、もともと終着点じたいが紛らわしいものであったか
だけでしょう。
元の発言 [ Re: 狗奴國はどこ? ] お名前 [ 飛んだハヤシライス ] 日付 [ 2月26日(土)07時33分51秒 ]
飛んだハヤシライス さん、こんにちは。
>> 陳寿の理解はそうでしょう。
>> でも、原資料(1)は、『魏略』逸文〔『前漢書』巻二八下 地理志・燕地・顔師古注〕
>> >倭在帯方東南大海中、依山島為国。「度海千里、復有国、皆倭種。」
>> に拠っている。
#それなんですよ。私は、出発点の「女王國」を補って作文して挿入したと考えているのです。
そういう意味で、私はこの「度海千里」というフレーズを使う部分の記録は「女王國」情報を含まない、前世代の物だったのではないかと考えています。
ただ前述の様に「千里」=一日は疑問です。
元の発言 [ Re: 狗奴國はどこ? ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月26日(土)00時52分10秒 ]
>> #あー、それはないです。
>> …次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國、此女王境界所盡
>> ということで、これら餘旁國は女王國の外側にあるのですから。
はい
元の発言 [ Re: 狗奴國はどこ? ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月26日(土)00時59分39秒 ]
ALEX さん、こんにちわ。
>> 「状況を説明した」としかありません。
それだけで旗持っていけとか、鏡を見せろとか
いろいろ人や物を送ってくれるものですか。
そんなにおせっかいというか、世話好きな国?
>> #ここでいう「呉」は南朝の総称で、孫家の国じゃないんです。呉音や呉服は五王の時代以降の交流によるものです。
なぜそう言い切れるのですか?
元の発言 [ Title再度問う(2) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月4日(金)22時40分39秒 ]
ALEXさん、こんば!(^○^)
>> A:陸路は遠回りだが船だと近道が出来る場所にある
速度の関係もあるかもしれません。陸路は歩きます。だから船のほうが速い。
駅まで歩けば20分。自転車なら7分。ほぼ三分の一。
だからこの場合も入れてもらったほうがいいと思いますが、どうでしょうか?
>> --------------------------------
>> 追伸
>> 選択肢の番外
>> D:私は倭人伝を信じない。
女王国≠邪馬臺国の選択肢はないのでせうか?
などなど考えると、やっぱしムヅカシイですよねぇ。
元の発言 [ Re: 狗奴國はどこ? ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月26日(土)09時17分30秒 ]
yaohide さん、こんにちわ。
>> それだけで旗持っていけとか、鏡を見せろとか
>> いろいろ人や物を送ってくれるものですか。
>> そんなにおせっかいというか、世話好きな国?
#世話好きな国なんですねー。
旗持っていけとか、鏡を見せろとか言い出したのは、こっちから狗奴國がどうこうと言い出す前なんですよ。勝手に向こうから言い出してるんです。
まぁ旗の件は、韓国の民族運動が盛りあがって中国の半島支配雲行きが怪しくなって、アンポ条約じゃないけど有事協力依頼っていう背景があるんですけどね。
このあたりは大論争論文館の犬山説を見てください。
>>なぜそう言い切れるのですか?
#百濟と日本の親密さは言うまでもないですが、その百濟と南朝とは濃密な交流を持っています。南朝文化が大量に百濟経由で入ってきた事については、いちいち傍証を挙げるのが大変なくらいなのです。このへんは完全に決着のついちゃってる分野なのであります。
呉音については、お手もとの漢和辞典に詳しい解説があるはずです。
呉服(くれはとり)も初出は応神記です。
だから日本に所謂「呉○○」があることは孫呉と関係は結び付けられないんです。
ただ、倭が江南ビン越方面の文化の影響を濃厚に受けていると魏人が認識していたことは明らかです。面白いのは、陳壽が魏略にある倭と呉の関係を示すような文章をわざわざカットして、倭を「呉」でなく「越」と関連付けようとしているフシがあることですね。
これは裏を返すと、なにか孫呉との関係があった記録を抹消した可能性も(邪推かな)無いとは言いきれないと思います。
元の発言 [ Re: 方格規矩鏡も葬具だったのでは? ] お名前 [ 飛んだハヤシライス ] 日付 [ 2月26日(土)05時42分33秒 ]
こんち!
>> >> >> 漢文は読めませんので、おおよそのイメージで申しますと、死者が、食べ物に飢えずに、神仙の世界を浮遊するように、という願いでしょうか?
#仙人は不老不死っす。
>> え〜。黄泉の世界で永遠の命を、と言うような意味ではおかしいですか?
#えじぷととちゃうで。
元の発言 [ Re: 方格規矩鏡も葬具だったのでは? ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月26日(土)10時22分14秒 ]
うぇ〜ん。大御所二人にとっちめられちったい。^_^;
>> #仙人は不老不死っす。
だからさ、現世を離れたからには、神仙世界でゆっくり遊んでちょ。現世のことは心配せんでもええよ〜、って。
あきませんか?トンデモ系やろか?(^o^)
元の発言 [ Re: 狗奴國はどこ? ] お名前 [ 飛んだハヤシライス ] 日付 [ 2月26日(土)07時02分04秒 ]
>> >> 境は、「菊地彦(クコチヒク)」のいた菊池山地でしょう。
#ハヤシライスさんの故郷辺りでしょう。
>> >#千余里は、一渡海(一日)を里数に換算したと考えます。
>> オヤジッチさんに、二票!\(^o^)/
#ありがとうございます。§^。^§
>> (ALEXさん)
>> >#でも魏略西域傳には「三百四十里渡海」ってのが出てきますよ。
#こう言う資料がすっと出てくるのは流石ですネ。
#「三百四十里」は千里のおよそ三分の一ですね。
#直ぐそこに渡るって感じ?半日かからなかったとか。
#「水行」と「渡海」の違いを、「岸に沿って」と「目的地しか見えない」、
#「山立てで距離を出せる」と「山立てでは方向しか出ない」と考えます。
>> 少なくとも伊都国までの比定地は共通認識されていると理解していいんですよね。ね。ねっ。(^o^)
#奴国も加えてください。(^o^)
#不彌国も九州で、遠賀川流域より東ってことはないでしょうし。
元の発言 [ Re: Title:男は黙って・・・・ ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月25日(金)22時28分50秒 ]
>> #夜明けは、目を覚ます時よ。九州説の皆様!
#夜明けは、甘木の東、朝倉平野と日田盆地の境目、高地性集落「西の迫」が有る辺り。
元の発言 [ Re: Title:男は黙って・・・・ ] お名前 [ 飛んだハヤシライス ] 日付 [ 2月26日(土)07時45分28秒 ]
>> とっくに醒めてるよ〜。夜明け前から。
>> 二日酔いで偏頭痛だけど。いやホンマ。左側が痛いのダ!
>> やれやれ。
#お大事に。m(__)m
#論理が曖昧で受け売りだらけの長文の読み過ぎでは?(ーー;)
元の発言 [ Re: 狗奴國はどこ? ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月26日(土)10時18分00秒 ]
yaohide さん、ALEXさん、こんばんは。
>> >> それだけで旗持っていけとか、鏡を見せろとか
>> >> いろいろ人や物を送ってくれるものですか。
>> >> そんなにおせっかいというか、世話好きな国?
>> #世話好きな国なんですねー。
>> 旗持っていけとか、鏡を見せろとか言い出したのは、こっちから狗奴國がどうこうと言い出す前なんですよ。勝手に向こうから言い出してるんです。
>> まぁ旗の件は、韓国の民族運動が盛りあがって中国の半島支配雲行きが怪しくなって、アンポ条約じゃないけど有事協力依頼っていう背景があるんですけどね。
>> このあたりは大論争論文館の犬山説を見てください。
#そうなんですが、有事協力依頼って言うよりも、中華冊封体制とはそう言うものだと思います。
#自らが王と叙爵したものに肩入れするのは、壬午軍乱(1882)まで続きます。
>> なにか孫呉との関係があった記録を抹消した可能性も(邪推かな)無いとは言いきれないと思います。
#面白いお話ですネ。やっぱり、狗奴国と呉、大和と公孫が共闘体制で、女王国&魏と対立していたと。
元の発言 [ Re: 狗奴國はどこ? ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 2月26日(土)18時26分16秒 ]
オヤジッチさん、こんにちは
>> 「水行」と「渡海」の違いを、「岸に沿って」と「目的地しか見えない」、
>> 「山立てで距離を出せる」と「山立てでは方向しか出ない」と考えます。
#でも、舊唐書では陸続きの高句麗から百濟まで渡海とか、新羅まで渡海とか、いろいろ出てきますよ。
#ところで、仮に渡海は一日千里というのがあったとして、一方で水行10日とか20日とかいうのとアンバランスすぎませんか?
元の発言 [ Re: 狗奴國はどこ? ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月26日(土)19時40分42秒 ]
ALEXさん、こんばんは
>> >> 「山立てで距離を出せる」と「山立てでは方向しか出ない」と考えます。
>> #でも、舊唐書では陸続きの高句麗から百濟まで渡海とか、新羅まで渡海とか、いろいろ出てきますよ。
>> #ところで、仮に渡海は一日千里というのがあったとして、一方で水行10日とか20日とかいうのとアンバランスすぎませんか?
#魏の時代に複数日の航海が出来たでしょうか。
#水行の場合は、川であれ、海岸であれ投錨することができます。
#夜間航行が出来たのなら、公孫氏の居る楽浪を迂回して直接行ったはずというのはあまり言いたくはないですけど。
元の発言 [ Re: 狗奴國はどこ? ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 2月26日(土)20時55分49秒 ]
オヤジッチさん、こんばんは
>> >> でも、舊唐書では陸続きの高句麗から百濟まで渡海とか、新羅まで渡海とか、いろいろ出てきますよ。
>> >> ところで、仮に渡海は一日千里というのがあったとして、一方で水行10日とか20日とかいうのとアンバランスすぎませんか?
>> 魏の時代に複数日の航海が出来たでしょうか。
>> 水行の場合は、川であれ、海岸であれ投錨することができます。
#アンバランスというのは、水行10日とか20日とかでどの程度の距離を進むと考えるかです。
渡海1日で千里が、水行10日でも千里では変ですよね?
元の発言 [ Re: Title再度問う(2) ] お名前 [ 珊瑚 ] 日付 [ 2月4日(金)23時14分39秒 ]
珊瑚 さん、こんば!(^○^)
>> 速度の関係もあるかもしれません。陸路は歩きます。だから船のほうが速い。
>> 駅まで歩けば20分。自転車なら7分。ほぼ三分の一。
#飛んでも8分とか…
やはり、裏づけが必要でしょう。
もちろん、船足が歩きと同等程度という例証を用意した上でさりげなく聞いてるALEXではあるのですが。
>> 女王国≠邪馬臺国の選択肢はないのでせうか?
>> などなど考えると、やっぱしムヅカシイですよねぇ。
#まぁ、結論だけ言ってしまうと、そういう一発逆転ウルトラC技しか残ってないと思いますよ、この問題は。
元の発言 [ Re: Title:男は黙って・・・・ ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 2月26日(土)18時32分14秒 ]
>> >> #夜明けは、目を覚ます時よ。九州説の皆様!
>> #夜明けは、甘木の東、朝倉平野と日田盆地の境目、高地性集落「西の迫」が有る辺り。
#いやー今日は歴史ファンは忙しかったであろう、秩父へと、明日香へと(*^_^*)
#関西説者の方々の悲鳴と呻きが聞こえて来る感じがして来た。やっぱ青菜は有明海であろう(^-^)
#それにしても500,000年ほど前の住居(収納?祭祀?)後が発見されたというのに、大和では3世紀の住居遺跡が少ないなー、7万戸が正しいとしての話だが。やっぱ5倍説が正しいのじゃーねーかい!(^^)!
元の発言 [ Re: 持つべきものは友なり(^o^) ] お名前 [ マルガリータ ] 日付 [ 2月27日(日)00時08分13秒 ]
>>やっぱ青菜は有明海であろう(^-^)
#松山で菜飯でも食ったんと違うのかにゃー?
元の発言 [ Re: 狗奴國はどこ? ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月26日(土)21時45分53秒 ]
ALEXさん、こんにちは。
>> >> 魏の時代に複数日の航海が出来たでしょうか。
>> >> 水行の場合は、川であれ、海岸であれ投錨することができます。
>> #アンバランスというのは、水行10日とか20日とかでどの程度の距離を進むと考えるかです。
>> 渡海1日で千里が、水行10日でも千里では変ですよね?
#渡海は「山立て」で距離が出せないので、千里にしたってことに。(-_-;)
#確かにアンバランスな感じはしますけど、日数は「掛かった、掛かる、掛けた」のどれだか?
#ところで、九州に庄内式土器が7〜8割って遺跡ですが、福岡市埋蔵文化財センターの横山係長は心当たりがないと言ってました。
#どこなんです?
元の発言 [ Re: 持つべきものは友なり(^o^) ] お名前 [ ニャース ] 日付 [ 2月27日(日)00時29分40秒 ]
>> >>やっぱ青菜は有明海であろう(^-^)
>> #松山で菜飯でも食ったんと違うのかにゃー?
#でも、菜飯は「生野菜」じゃないと思うんだけど。
#失礼。
#近畿の土器扁年が変ったおかげで、県立九州歴史資料館の3世紀の資料が増えちゃいました。
#八女からも3世紀を主とする集落遺跡が出たし。
元の発言 [ Re: 狗奴國はどこ? ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月26日(土)10時18分00秒 ]
ALEXさん、こんにちわ。
>> まぁ旗の件は、韓国の民族運動が盛りあがって中国の半島支配雲行きが怪しくなって、アンポ条約じゃないけど有事協力依頼っていう背景があるんですけどね。
>> このあたりは大論争論文館の犬山説を見てください。
ほー、これは面白い。
よくわからない国に協力を依頼するのですか?
そんな事はあまり考えられないことで、普通は
相手を知らなければ言えないでしょう。
ということは、もっと正確に距離など詳しいことは
わかってるんじゃないでしょうか。
正確な情報も知らずに、協力を依頼するなど
とんでもない話。逆になる可能性だって十分
あるでしょうに。
>> #百濟と日本の親密さは言うまでもないですが、その百濟と南朝とは濃密な交流を持っています。南朝文化が大量に百濟経由で入ってきた事については、いちいち傍証を挙げるのが大変なくらいなのです。このへんは完全に決着のついちゃってる分野なのであります。
その辺が納得いかない。
百済経由はわかります。その親密さゆえに以前のものも
隠されていることは十分考えられます。
>> 呉服(くれはとり)も初出は応神記です。
文字になっているものはでしょ。
>> だから日本に所謂「呉○○」があることは孫呉と関係は結び付けられないんです。
言葉のわからない同士でも、時間がたてばある程度は
理解できるようになるものです。
そこに文字があろうがなかろうが関係はないと思います。
>> ただ、倭が江南ビン越方面の文化の影響を濃厚に受けていると魏人が認識していたことは明らかです。面白いのは、陳壽が魏略にある倭と呉の関係を示すような文章をわざわざカットして、倭を「呉」でなく「越」と関連付けようとしているフシがあることですね。
>> これは裏を返すと、なにか孫呉との関係があった記録を抹消した可能性も(邪推かな)無いとは言いきれないと思います。
当然あるはずだと思います。
元の発言 [ Re: Titleまたまたまた問う。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月16日(水)00時46分13秒 ]
#「そのような遺跡があるはずがない、出典と著者を明らかにしてもらってください」(九州歴史資料館の主査)
元の発言 [ Re: 中国出土の魏の紀年鏡 ] お名前 [ 飛んだハヤシライス ] 日付 [ 2月23日(水)23時33分18秒 ]
飛んだハヤシライスさん、こんにちは。
>車崎氏の後漢鏡を含む紀年鏡のリストを見ていますと、方格規矩鏡、内行花文鏡には紀年鏡が見当たりません。
>紀年鏡は、そのほとんどが獣首鏡と神獣鏡ですね。
これは、ご指摘のとおりです。
>これは、年号を入れる伝統をもつ工房(あるいは工人)、そうでない工房(あるいは工人)といった特徴を示しているのかもしれません。
私は、陳氏作鏡群や、「方格規矩鏡の特異な一群」のあり方などから、ひとつの工房(工人集団)で複数の鏡種を作っていたと考えています。たとえば陳さん一派は神獣鏡も盤龍鏡も作っていますし、方格規矩鏡も作っていたかもしれません。
鏡に年号を入れる入れないは、恐らく発注者の意思によるものでしょう。ということは、神獣鏡や獣首鏡に紀年銘鏡が多いのは、これらの鏡種がよりオフィシャルな性格が強かったということかもしれません(獣首鏡には、「尚方作」の銘を持つものが多いそうです)。
こうしたことからも、私は、「銅鏡百枚」は、方格規矩鏡や内行花紋鏡ではなく、神獣鏡を主体としたものだったのではないかと考えているのですが…。
ところで、柳田康雄氏が、「平原の鏡は列島製」との見解を発表しましたね。「平原の鏡=銅鏡百枚」説のハヤシライスさんとしては、どない思われます〜?(^^)
元の発言 [ Re: 狗奴國はどこ? ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 2月27日(日)11時08分54秒 ]
オヤジッチさん、こんにちは。
>> #渡海は「山立て」で距離が出せないので、千里にしたってことに。(-_-;)
>> #確かにアンバランスな感じはしますけど、日数は「掛かった、掛かる、掛けた」のどれだか?
#だから「5倍」されているのです、倭国を大きく見せるために。
>> #ところで、九州に庄内式土器が7〜8割って遺跡ですが、福岡市埋蔵文化財センターの横山係長は心当たりがないと言ってました。
>> #どこなんです?
#私も知りたい(^0^)
#秩父ミューズパークの50万年前の原人だって建物(住居とは限らない)の痕跡を残しています。おにりんさんは頻りと「3世紀は集落を作らないので、集落跡が残らない・残りにくい」と言っていますが、全くの間違いで、3世紀の近畿に7万戸(約455,000人)も住んでいたと考えるのは、まさに「先に結論ありき」であって、ヤマタイコクは筑後川周辺です、「青菜を食べていました」ので、これを「漬物・フリカケ」というおニャン子ちゃんがいますが、全くの事実誤認です。方向音痴と事実誤認、うぅーん万戸無(^0^)
元の発言 [ Re: 狗奴國はどこ? ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 2月27日(日)11時08分54秒 ]
オヤジッチさん、こんにちは。
>> ところで、九州に庄内式土器が7〜8割って遺跡ですが、福岡市埋蔵文化財センターの横山係長は心当たりがないと言ってました。
>> どこなんです?
#「庄内式土器が7〜8割って遺跡」なんて全国でも無いんじゃないですか?
私が言ったのは
「庄内系等外来系の土器が7〜8割」
「庄内系を含む外来系土器が全土器の8割以上」
であって「庄内系を主体とする集落」と言った時には数字は示していません。
具体的には
福岡市祇園町,多々良込田,比恵,那珂川町松木,嘉穂町穴江塚田,赤村合田
です。
元の発言 [ Re: 狗奴國はどこ? ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月27日(日)17時07分04秒 ]
yaohide さん、こんにちわ。
>> よくわからない国に協力を依頼するのですか?
《中略》
>> 正確な情報も知らずに、協力を依頼するなど
>> とんでもない話。逆になる可能性だって十分
>> あるでしょうに。
#「逆になる可能性だって十分」あるからこそ駄目押しの『黄幢』なんですよ。それで弓遵がわざわざ都に詔書を請求したと考えるのが妥当なんです。
すでに皇帝の臣下として親魏倭王や卒善中郎將の印綬を受領している外藩国です。有事協力は当然に約束済み事項です。だから魏としては、情勢不穏な韓諸国の背後でこれらを牽制することを期待もするし、逆に、むしろ付合いの古いであろう韓に味方されてはかなわないので事前にうつべき手をうつことを考えるわけです。
過分な下賜品も貰ってますしね。「とんでもな」くないです。
>> 百済経由はわかります。その親密さゆえに以前のものも
隠されていることは十分考えられます。
#「考えられる」じゃなくて立証することに意味があるのでは?
>> >> 呉服(くれはとり)も初出は応神記です。
>> 文字になっているものはでしょ。
#そうです。
もとの議論をみてほしいんですが、yaohide さんが言うのは
>> 魏服はなくて呉服。
>> 呉音もありますから、魏だ公孫氏だ半島系だと言われる
>> 以前に、日本文化に呉の影響をみずにいられない。
>> そうなると有明海沿岸は絶対に無視できない。
#という論理ですね。
ここでは例証として「呉服」「呉音」が挙げられているが、双方とも典型的な六朝文化であり、「魏だ公孫氏だ半島系だと言われる以前に、日本文化に呉の影響をみ」る根拠にならないのです。
つまり−文字になっていないけれど、あった【かも】しれない−というレベルならば
「魏だ公孫氏だ半島系だと言われる以前」か
「魏だ公孫氏だ半島系だと言われる」以後か判からず
−以前【かも】しれない−から「有明海沿岸は【絶対に】無視できない」
という結論は論理的に【出ない】のです。
この場合【絶対に】「呉服」も「呉音」「魏だ公孫氏だ半島系だと言われる以前」からあったと例証しなければ「有明海沿岸は【絶対に】無視できない」には辿り着きません。
つまり
>> 言葉のわからない同士でも《中略》そこに文字があろうがなかろうが関係はないと思います。
#「言葉がわかる」とか「理解できる」という問題ではなく
【かも】からは【かも】しか出ない。【絶対に】は出ないんです。
>> >> だから日本に所謂「呉○○」があることは孫呉と関係は結び付けられないんです。
#ということです。
”しょうないへいこうき”で、”しょうないしきどき”のせとないかいえんがんのぶんぷはどうなってますか?
とくに、ぼくはかーぷのふぁんなのでひろしまのへんについてしりたいです。
元の発言 [ Re: 古冨波山古墳から ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 2月3日(木)12時53分49秒 ]
koujiさん、こんばんは。
>#「大和じゃない」と主張するのであれば大和以外の中心を見出さなければならないと思います。
このことについて一両日考えておりました。
必ずしも中心とも言いかねますが、私はいま以下のように考えています。あくまでも、仮説です。なお、真弓常忠『古代の鉄と神々』(学生社)を参考にしております。
まず、陳氏他の鏡作師は山陰へ上陸した。出雲かもしれませんし、丹後かもしれません。
1)丹後の竹野郡の「比沼麻奈為(ひぬまない)神社」のある峰山町の扇谷遺跡から、鉄滓が出土しています。これは、鋳造ではなく鍛造の際に生じた鉄滓と判明しています。鉄の鋳造の場合、溶解温度は1500度くらいを必要とするらしいのですが、鍛造の場合、銅と溶解温度はあまり変わらないらしいのです。この周辺から、太田南5号墳青龍三年鏡、森尾古墳正始元年鏡、広峰15号墳景初四年鏡と出ています。豊岡の気比からは銅鐸も出ています。
2)野洲町から鏡山をはさんで東へ10kmくらいのところに竹田神社がありますが、その西に「鋳物師(いもじ)」という地名があります。また、古冨波山古墳のそばの、大岩山からは全高134.7cmを含む10個ほどの銅鐸が出ています。
3)安満宮山古墳(高槻市)の西隣が茨木市、ここの東奈良遺跡から銅鐸の鋳型に関係する石型が出ています。
4)前方後円墳の出現』の口絵にある、大和天神山に副葬されていた人物禽獣文鏡は、濃尾平野の前方後方墳地帯で製作された可能性が指摘されています。大雑把ですが、濃尾平野から静岡の浜名湖にかけて、銅鐸では終末期の三遠式が出ています。
5)唐古・鍵遺跡からも銅鐸の鋳型の外枠が出ています。鏡作神社はその中と言いますか、近所にある。
以上のように、銅鏡は、かつて銅鐸の生産地、あるいは鉄の鍛造を行っていた地域と密接に関係した地域で出土しています。紀年鏡群そして古冨波山は、近くに銅鐸工房あるいは、鉄の鍛造地を持っていたと言っていいのではないでしょうか。三角縁神獣鏡製作者は、これらの工房で、それぞれの土地に副葬された鏡を製作しながら、後に大和へ入ったのではないか?それらの工房には、先住の渡来氏族がいたのかも知れません。
元の発言 [ Re: 小人の国は・・・ ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月25日(金)22時23分50秒 ]
>> >> 小人の国の伝承は、北海道の「コロポックル伝説」
>> >> のことでしょう。
>> #否、人長三四尺ではフキの葉の下に入り申さぬ。
>> いにしへのフィリピンに居たアティ族のことではないかのォ。
チャチャレスですみませんが。
アキタブキという品種は、1.5m以上あります。
東日本から北海道にかけて分布しています。
このフキの下には入るでしょう(笑)
元の発言 [ 狗奴國はどこ? ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月25日(金)02時25分48秒 ]
遅遅としたレスですが、
個人的には南九州ですね。
菊池彦という考えが根本にありますが、拘ってはいません。
元の発言 [ Re: 狗奴國はどこ? ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月28日(月)10時57分46秒 ]
yaohideさん、ALEXさん、こんにちわ。
>> >> よくわからない国に協力を依頼するのですか?
>> 《中略》
>> >> 正確な情報も知らずに、協力を依頼するなど
>> >> とんでもない話。逆になる可能性だって十分
>> >> あるでしょうに。
>> 「逆になる可能性だって十分」あるからこそ駄目押しの『黄幢』なんですよ。それで弓遵がわざわざ都に詔書を請求したと考えるのが妥当なんです。
>> すでに皇帝の臣下として親魏倭王や卒善中郎將の印綬を受領している外藩国です。有事協力は当然に約束済み事項です。だから魏としては、情勢不穏な韓諸国の背後でこれらを牽制することを期待もするし、逆に、むしろ付合いの古いであろう韓に味方されてはかなわないので事前にうつべき手をうつことを考えるわけです。
>> 過分な下賜品も貰ってますしね。「とんでもな」くないです。
それ以前に、册封体制ってのは軍事協力の側面を持っていることは否定できませんです。
中国って、そういう国なんです。大体20世紀に入ってまでベトナムとの戦争をする際に「庸懲の軍」を起こしたくらいですもん。
>> >> 百済経由はわかります。その親密さゆえに以前のものも
>> 隠されていることは十分考えられます。
>> #「考えられる」じゃなくて立証することに意味があるのでは?
一応、呉の孫権の子「高」の子孫との伝承を持つ氏族は確かおります。
実際は百済近辺からの渡来民らしいですけど。
>> >> >> 呉服(くれはとり)も初出は応神記です。
>> >> 文字になっているものはでしょ。
>> #そうです。
>> もとの議論をみてほしいんですが、yaohide さんが言うのは
>> >> 魏服はなくて呉服。
>> >> 呉音もありますから、魏だ公孫氏だ半島系だと言われる
>> >> 以前に、日本文化に呉の影響をみずにいられない。
>> >> そうなると有明海沿岸は絶対に無視できない。
>> #という論理ですね。
>> ここでは例証として「呉服」「呉音」が挙げられているが、双方とも典型的な六朝文化であり、「魏だ公孫氏だ半島系だと言われる以前に、日本文化に呉の影響をみ」る根拠にならないのです。
>> つまり−文字になっていないけれど、あった【かも】しれない−というレベルならば
>> 「魏だ公孫氏だ半島系だと言われる以前」か
>> 「魏だ公孫氏だ半島系だと言われる」以後か判からず
>> −以前【かも】しれない−から「有明海沿岸は【絶対に】無視できない」
>> という結論は論理的に【出ない】のです。
>> この場合【絶対に】「呉服」も「呉音」「魏だ公孫氏だ半島系だと言われる以前」からあったと例証しなければ「有明海沿岸は【絶対に】無視できない」には辿り着きません。
>> つまり
>> >> 言葉のわからない同士でも《中略》そこに文字があろうがなかろうが関係はないと思います。
>> #「言葉がわかる」とか「理解できる」という問題ではなく
>> 【かも】からは【かも】しか出ない。【絶対に】は出ないんです。
>> >> >> だから日本に所謂「呉○○」があることは孫呉と関係は結び付けられないんです。
>> #ということです。
厳密に言うとそのとおりですが、yaohideさんは、そういう意味で使用しているのでしょうか?
呉という語をもって南朝を代表する慣例の原型を言っているのでは?
更にいうと、春秋時代の呉の影響かもしれませんが(笑)
なんたって「東海姫氏の国」なんですから日本は。
確か、記紀の註かなんかでは祖神が女だからということになっておりますが、神武が呉の太伯の子孫だから姓が「姫」だという論もあったような(笑)
ALEXさんの意見は、「呉」は地域名であって国号ではないということなんですよね?
賛成ですが、語源は何でいつからなのか?これは問題です。
半島部のことをカラといいますが、これは確実に加羅のことでしょう。
クレは日が暮れる方角だからだそうです。
で、その用字は、というと、カラは韓とか唐とかあてます。
(アヤ(漢)ってのもありますが(笑))
いずれ、基本的な概念はALEXさんのおっしゃるとおりですが、yaohideさんのおっしゃることは重要ですよ。
元の発言 [ Re: 狗奴國はどこ? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月28日(月)12時41分50秒 ]
どうも、いつも早いですね(笑)
ただ、自分で言ってなんなんですが(笑)菊(キク)って音読みなんですよね。
菊の花自体が中国原産で、古代日本に無いという状況証拠なんですよね。
野草としてはありますが、訓読みが伝わっていない(笑)
菊池という地名も元はなんなのか、語源を探らないとなんとも断言できないんですが。
本当に当時からあった地名なのか?ってことです。
元の発言 [ Re: それは、九州説の人に聞くことではないのでは? ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月4日(金)22時24分09秒 ]
>> #んー
>> 漢文を読むコツは、「日本語だと思わない」ことなんじゃないかなと…思うんですね。
そうかもしれないけど...
当時の中国人の感覚がわからないけど
日本が遠くだという認識があったのならば、
やはり接という文字を使う場合は
ちょっと...ね
まあ、これは漢文を知らないから言える
ことでしょうが
元の発言 [ Re: 中国出土の魏の紀年鏡 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月28日(月)14時00分09秒 ]
こんにちは
>>
>>
“魏晋代には鏡で一儲けするために(右)尚方作の鏡の踏み返しが横
行していた”
という命題が真であるならば、そんな出どこもはっきりしないよう
な鏡に頼らなくても、中国国内にある出土地のはっきりした鏡の中
に類似例がごろごろしているだろうということなんですが。逆に、
中国出土鏡には類似例が一切ないということになると、日本にある
甘露五年鏡例の特殊性を考える必要があるんじゃないでしょうか。
倭鏡のほとんどが半円形鈕孔であるということを考えれば、その場
合は日本での踏み返しも当然視野に入ってしかるべきだと思います。
>>
>>
私も知りたいです、中国出土と推定する理由も含めて。
元の発言 [ Re: 狗奴國はどこ? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月28日(月)14時28分34秒 ]
菊のことを英語でクリサムマムといいますが、
俗説では語源は「禁裏様の紋」だそうです(笑)
元の発言 [ Re: 狗奴國はどこ? ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月28日(月)10時57分46秒 ]
ALEXさん、こんにちわ。
書き方が悪かったですね。
正確な地理情報さえと書けば良かったかもしれません。
行程記事があの程度で?ってことです。m(_ _)m
となると、出雲など日本海沿岸の国さえ、その時点で
邪馬台国が掌握していたと考えるのですか?
六朝文化の影響は分かりますが、呉というのは、戦国時
代から、小国として存在していたのでしょう。
だから中国人は、あの地方を呉が魏に征服された後も、
呉と呼んでいますよね。
三国時代以前から存在するから、呉という地方の言葉
なのであって、それが百済とのそして仏教との関連で
入ったと???
確かに、記録に出てくるものはそうなのですが、百済
の人のように、大量に畿内に帰化したから、呉音が日
本語にというのは、どうも....
資料がないのは、消されたんじゃないかなと、すべて
聖徳太子のせいにしてしまいたくなる(^O^)(^O^)(^O^)
知らないのですが、百済の人たちの言葉は、呉の言葉
だったのでしょうか?
>> >> >> だから日本に所謂「呉○○」があることは孫呉と関係は結び付けられないんです。
>> #ということです。
元の発言 [ Re: 狗奴國はどこ? ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月28日(月)09時30分00秒 ]
ALEXさん、こんばんは。
>> 「庄内系を含む外来系土器が全土器の8割以上」
>> 具体的には
>> 福岡市祇園町,多々良込田,比恵,那珂川町松木,嘉穂町穴江塚田,赤村合田
>> です。
#九州歴史資料館の石松主査は、「そんな遺跡が有る筈がない」「出典(書名、筆者)を確認してください」と仰ってました。
#私も、在来系の西新式、柏田式などがあるのに「庄内系を含む外来系土器が全土器の8割以上」と言うことは考えられないし、上に出された遺跡は調べて見ます。
#出典を教えて下さい。
元の発言 [ Re: 狗奴國はどこ? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月28日(月)12時30分20秒 ]
#村中角遺跡(吉野ヶ里の南、諸富町)のパレス壺口縁部2個、僅かですネ。
#吉野ヶ里でっせ。
元の発言 [ Re: Title再度問う(2) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月4日(金)23時32分07秒 ]
>> >> 女王国≠邪馬臺国の選択肢はないのでせうか?
>> #まぁ、結論だけ言ってしまうと、そういう一発逆転ウルトラC技しか残ってないと思いますよ、この問題は。
御同意いただいたと理解してよろしいのでせうか?(^○^)
必ずしも「飛んでも説」でもないですよね。ね。ねっ。
元の発言 [ Re: 狗奴國はどこ? ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 2月28日(月)21時56分25秒 ]
オヤジッチさん、こんばんは。
>> 九州歴史資料館の石松主査は、「そんな遺跡が有る筈がない」「出典(書名、筆者)を確認してください」と仰ってました。
>> 私も、在来系の西新式、柏田式などがあるのに「庄内系を含む外来系土器が全土器の8割以上」と言うことは考えられないし、上に出された遺跡は調べて見ます。
>> 出典を教えて下さい。
#雄山閣「古墳時代の研究」6卷のP229〜(森岡秀人,比田井克仁)です。
ところで、「庄内式」ではなくて「庄内系を含む外来系土器」であることと、この問題を指摘し始めたころ心愛さんへのレスで、外来「系」の意味を「搬入土器より広い意味で」と説明していることの意味は伝わっているでしょうか?
元の発言 [ Re: 割り込みすみません ] お名前 [ ま さ ] 日付 [ 2月28日(月)13時01分18秒 ]
まささん、こんにちわ。
>> ALEXさんの意見は、「呉」は地域名であって国号ではないということなんですよね?
#とゆーか、短にロジックに口うるさいだけです。
>> 半島部のことをカラといいますが、これは確実に加羅のことでしょう。
>> クレは日が暮れる方角だからだそうです。
>> で、その用字は、というと、カラは韓とか唐とかあてます。
>> (アヤ(漢)ってのもありますが(笑))
#アヤは安邪ですね。
韓国の久禮山に由来すると言う説もありますし、アヤもハタもクレも元来織物の名という説もあります。
ただ、私は語源論ってあまり好きじゃないんですよね。牽強付会やりやす過ぎて。
>> いずれ、基本的な概念はALEXさんのおっしゃるとおりですが、yaohideさんのおっしゃることは重要ですよ。
#問題提起は面白いと思いますからこそ、厳密にいかないとね。うん。
元の発言 [ Re: 狗奴國はどこ? ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月28日(月)21時27分11秒 ]
yaohideさん、こんにちわ。
>> となると、出雲など日本海沿岸の国さえ、その時点で邪馬台国が掌握していたと考えるのですか?
#制約はしていたと思いますが、掌握はどうでしょうね。
いづれにせよ日本海沿岸は半島から来やすくても帰りにくいです。問題はそこの評価ではないでしょうか?
>> 六朝文化の影響は分かりますが、呉というのは、戦国時代から、小国として存在していたのでしょう。
>> だから中国人は、あの地方を呉が魏に征服された後も、呉と呼んでいますよね。
#というより、遥か後世までずっと呉郡です。
>> 三国時代以前から存在するから、呉という地方の言葉なのであって、それが百済とのそして仏教との関連で入ったと???
#呉音というのは、南北朝期に鮮卑族ら五胡が華北を席巻したため江左に拠った本来の華人の言葉(多少訛りますが)で、元来の呉という地方の言葉ではありません。
遡れば呉には呉の、粤には粤の言葉がありました。
越人が日本列島に米作をもたらしたとすれば、彼等は呉音なんか喋っちゃいません。
>> 資料がないのは、消されたんじゃないかなと
#「消された」は トンデモ説の一里塚
もののけ姫のジコ坊の頭部にピカチューの身体で、ジコチューってキャラ考えたんですが…気味悪いな…
>> 知らないのですが、百済の人たちの言葉は、呉の言葉だったのでしょうか?
#ぜんぜん違う系統の言葉です。ただ、百濟の官人には相当数の中国系エミグレがいたようです。
元の発言 [ Re: 中国出土の魏の紀年鏡 ] お名前 [ 公正徹也 ] 日付 [ 2月28日(月)03時08分10秒 ]
公正さん、こんばんは。
>> こうしたことからも、私は、「銅鏡百枚」は、方格規矩鏡や内行花紋鏡ではなく、神獣鏡を主体としたものだったのではないかと考えているのですが…。
中国で尚方鏡といえば方格規矩鏡を指すらしいのですけれどもネ。
>> ところで、柳田康雄氏が、「平原の鏡は列島製」との見解を発表しましたね。「平原の鏡=銅鏡百枚」説のハヤシライスさんとしては、どない思われます〜?(^^)
これは学会でも議論になりそうですね。オリジナルの記事そのものは見ておりませんが、「考古学のおやつ」の要約では、彩色の手法が国産鏡に共通していること。魚の文様、四神の配置の間違い、鋳造技術の未熟さ、などが中国鏡にない特徴とのことです。
彩色については列島内で施されたのでしょう。あとの三件は、後漢末の混乱期に鏡の生産が途絶え、尚方も変わったことなどからくる技術的な退化現象じゃないかと思います。
ただ、「陶氏作」銘鏡も含めて彷製鏡とする考えもあながち否定できない、と「平原王墓の性格」でも言及しておられますけれど。
平原からは、27.1cmの内行花文鏡も出ていますが、四葉の間の文字が漢字になっておらず読めないのだそうです。これは彷製でしょう。
方格規矩鏡の場合、鏡文字もありますが、まあ読める。このことから、異なる工人の手に拠るものだと思います。方格規矩鏡を国産と考えた場合、陶氏が渡来して作ったことになると思います。「尚方作鏡」銘と「陶氏作鏡」銘の方格規矩鏡には類似の関係が指摘されていますよね。
まあ、わたくしの考えはかわりませんけれども。(^o^)
学会での議論を期待したいですね。
私はむしろ、この平原と大和天神山の方格規矩鏡の関係について誰か論文を書いて欲しいですね。
先日、橿原考古学研究所で実物と報告書を見て確信いたしました。両者は同時期にもたらされた鏡である、と。問題は、どのような事情で、ってことになると思います。
椿井大塚山の方格規矩鏡とも異なっています。
元の発言 [ Re: 中国出土の魏の紀年鏡 ] お名前 [ 飛んだハヤシライス ] 日付 [ 2月28日(月)23時51分40秒 ]
飛んだハヤシライスさん、こんにちは。
>>こうしたことからも、私は、「銅鏡百枚」は、方格規矩鏡や内行花紋鏡ではなく、神獣鏡を主体としたものだったのではないかと考えているのですが…。
>中国で尚方鏡といえば方格規矩鏡を指すらしいのですけれどもネ。
もちろん、前漢末〜後漢代にかけてはそうとも言えますが、以前koujiさんも述べておられたとおり、後漢末〜三国時代にかけては、そうした尚方による安定した作鏡体制がおおきく動揺したことがうかがわれるわけです。
>>ところで、柳田康雄氏が、「平原の鏡は列島製」との見解を発表しましたね。「平原の鏡=銅鏡百枚」説のハヤシライスさんとしては、どない思われます〜?(^^)
>これは学会でも議論になりそうですね。オリジナルの記事そのものは見ておりませんが、「考古学のおやつ」の要約では、彩色の手法が国産鏡に共通していること。魚の文様、四神の配置の間違い、鋳造技術の未熟さ、などが中国鏡にない特徴とのことです。
>彩色については列島内で施されたのでしょう。あとの三件は、後漢末の混乱期に鏡の生産が途絶え、尚方も変わったことなどからくる技術的な退化現象じゃないかと思います。
>まあ、わたくしの考えはかわりませんけれども。(^o^)
さすが、ハヤシライスさんですね。改めて敬意を表します。
私などは、柳田氏の説を受け売りして、「平原の鏡=銅鏡百枚」説を攻撃しようと思っていましたが、通用しなさそうですね(^^ゞ
>私はむしろ、この平原と大和天神山の方格規矩鏡の関係について誰か論文を書いて欲しいですね。
>先日、橿原考古学研究所で実物と報告書を見て確信いたしました。両者は同時期にもたらされた鏡である、と。問題は、どのような事情で、ってことになると思います。
「同時期にもたらされた」ことに関しては、私も特に異存はないのですが、ハヤシライスさんは、天神山の鏡も「銅鏡百枚」の一部であるとのお考えでしたよね。
邪馬台国が北部九州にあったとしたら、天神山の鏡は一体いかなる経緯で大和までもたらされたのでしょうか?
平原や天神山が3世紀代に製作された鏡であるとしても、モデルとされたのは岡村氏の指摘どおり漢鏡5期の鏡です。で、漢鏡5期のモチーフをもつ鏡は、これも岡村氏によれば、平原以外の北部九州ではほとんどが箱式石棺やら土坑墓やらの出土(しかも破鏡が多い)で、とても銅鏡百枚の分け前にあずかった首長層の墓とは考えられない遺跡から出ているわけです。一方畿内を中心とする西日本では、この手の鏡はほとんどが古墳から出土しています。
つまり、百歩譲って平原や天神山の鏡が銅鏡百枚であったとしても、それに近い鏡の分布の中心は畿内にあるわけで、平原の鏡も畿内から「伊都国王」に配布されたものと考えた方が自然ではないでしょうか。
元の発言 [ Re: 中国出土の魏の紀年鏡 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月28日(月)12時22分33秒 ]
おにりんさん、こんにちは。
>ってことは、唯一の例外が、青龍三年鏡ってことになりますか?
すみません、一つ忘れていました。
景元四年(263年)銘鏡は円圏規矩雲紋鏡です。
>すでに後漢末から、後の魏の勢力の活躍をあらわすような銘文などが入った呉鏡が流行しますね。
えーっと、これはどんな銘文のことですか?
「倭の尚方」は面白い考えですね。
でも、陳氏や顔氏が伊都国近辺にいた、っていうのはどういう根拠があるのでしょうか?
元の発言 [ Re: 銅矛から銅鏡へ ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月18日(金)13時44分02秒 ]
#武器形祭器と、銅鐸を同一視するのは文化そのものを無視する事です。
#銅鏡についても、東園温明の影響である一括埋納と配布を同一視す事は社会体制の画期を見落とすことになります。
元の発言 [ Re: 狗奴國はどこ? ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月28日(月)22時50分00秒 ]
ALEXさん、こんばんは。
>> >>「庄内系を含む外来系土器が全土器の8割以上」と言うことは考えられないし、上に出された遺跡は調べて見ます。
>> >> 出典を教えて下さい。
>> #雄山閣「古墳時代の研究」6卷のP229〜(森岡秀人,比田井克仁)です。
>> ところで、「庄内式」ではなくて「庄内系を含む外来系土器」であることと、この問題を指摘し始めたころ心愛さんへのレスで、外来「系」の意味を「搬入土器より広い意味で」と説明していることの意味は伝わっているでしょうか?
#他地域の影響が見られる土器、と言う意味でよろしいでしょうか。
#これだと、津古生掛の二重口縁壺などのように、表面調整や凸帯以外に装飾を持たなくても、器形から明らかに分かるようなものはありますが、
#それ以外だと判断が非常に難しいですネ。
#小田富士雄氏も“古代シンポジューム・倭国大乱と邪馬台国−吉野ヶ里との関わり”(1989年10月29日)で、「以前は、西新式=庄内式併行とする考えもあったが、庄内式を伴わない遺跡が確認されて、庄内式に先行する時期があり、弥生終末から、庄内式土器が流入する時期まで継続するという考え方がほぼ共通認識されている」と発言していますし。
以降の投稿は、3月号にどうぞ。
2月号へのレスは、「承前」として前後関係がわかりやすいようにお願いします。
元の発言 [ Re: 狗奴國はどこ? ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 2月29日(火)20時35分41秒 ]
オヤジッチさん、こんばんは。
>> 他地域の影響が見られる土器、と言う意味でよろしいでしょうか。
#模倣や変容によるバリエーションを包摂したカテゴリーとしての「同一の『範型』」を把握するということだと思います。
そうして捉えた集落の両極には、たとえば
「畿内地方の土器に関する範型を忠実に保持する移住者集団」と
「外来系土器に関する情報を範型に受容しない在地人集団」
があるわけです。
元の発言 [ Re: イエローカードかな(^_^) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月4日(金)11時28分42秒 ]
おにりんさんは、まだ、私が九州説と思われているような・・・
>>
>>
>>
>>
>>
>>
別に文脈で分けているのではありません。たまたま同じ名前の
別の国があっても良いわけなので、そうではないことを示され
ればそれで良いのです。
その点は、ALEXさんから教えて頂いたことですんだと思いますが
それを、おにりんさんが書くべきではなかったかという主旨で
書いたものです。
>>
>>
>>
>>
かも知れません。
>>
>>
>>
>>
>>
記紀の神代の舞台は九州が中心なので、記紀を編纂した大和の政権は、
彼らが(当時の)日本全国を統治する正当性を証明するにあたり、彼ら
以前に九州にあった政権が正当な政権だと認めたうえで、彼らがその
後継者であると書いていると思います。
中国から見た倭の政治の中心が九州にあった頃にも、関西にはそれに
匹敵するかそれ以上に大きな文化圏があった可能性はあります。
問題は、卑弥呼が活躍したころには、政治の中心がどちらにあったか
ということだと思いますが、魏志が書かれた頃と、卑弥呼が活躍した
時期とに差があるため、魏志に書かれている内容が、その内容ごとに
いつ頃のことを書いているのかを特定できれば、かなり真実に近づく
ことが出来るように思います。
>>
>>
でも、魏志・東夷伝では、夫余、高句麗、・・・、韓に対して、
倭ではなく倭人なのは何故でしょうかね。
元の発言 [ Title再度問う(2) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月4日(金)22時40分39秒 ]
>> ここで九州説の方々に質問です。
>> 質問1:邪馬壹國はどこですか?
>> 質問2:上記ABCのどれに該当しますか?
質問1への回答
筑後か豊前、でも女王国は豊前だと思っています。
墓は宇佐に。
質問2への回答
A
この問題もやはりおかしいですね。
平坦な道と波のない海を想定されるのか。
山道というのは直線ではありえない。
坂も当然あります。
まあ、海のほうは海岸に近いところを通れば
これも半島や湾などがあり、距離を想定する
のは難しいと思いますが。
細かく言えば、1月は30日なのか28日なのか
2.8倍と3倍の違いもある。
また25日かかったことを1月と言ったとする。
13日かかったことを10日としたら?
2倍弱にしかならない。
問題とするならばandかorの方でしょう。
畿内説ならば、その誤差も含めてきちんと
説明できるのでしょうか?
その場合の出発点と到着点を教えていただきたい。
元の発言 [ Re: イエローカードかな(^_^) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月4日(金)22時05分14秒 ]
ALEXさん、重ね重ねありがとうございます。
>> >> でもこの場合は境を接していると言う例ではありませんね。
>> >> 境には特に意味はないのでしょうか?
>> 「界」の意味はいくつかあります。
すみません。「境」ではなく「界」でした。
>> の場合は、朝鮮と燕が[シ貝]水において「界して」いるので、両国は(大河をはさんでいるけれど)陸続きです。ここでいう「界」は世界の界じゃないというわけです。
よく分かりました。
元の発言 [ Re: Title再度問う(2) ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月5日(土)00時55分39秒 ]
>> 山道というのは直線ではありえない。
>> 坂も当然あります。
>> また25日かかったことを1月と言ったとする。
>> 13日かかったことを10日としたら?
>> 2倍弱にしかならない。
↑
# 2倍強だっちゅーの(^0^)
これはむしろ、B+Dの回答ですね?
>> 畿内説ならば、その誤差も含めてきちんと
>> 説明できるのでしょうか?
>> その場合の出発点と到着点を教えていただきたい
出発点:博多湾岸、到着点:纒向
とした場合、ほぼ裴世清のスケジュールに近い日程になります。
つまり、and説だと、Cが不自然でなくなることになります。
これは
○魏使は、大和まで行った
○彼に一行のなかの人物が毎日日誌をつけたが、移動距離は丹念に記録していない。
○九州島北部の里数の大半は、伊都國に滞在した人物が記録した。
という設定に基づきます。
元の発言 [ Re: Title再度問う(2) ] お名前 [ 珊瑚 ] 日付 [ 2月5日(土)00時35分34秒 ]
飛んでもカレーライスさん、こんにちは。
>> 必ずしも「飛んでも説」でもないですよね。ね。ねっ。
#んでもって、質問1:邪馬壹國はどこざんす?
元の発言 [ Re: それは、九州説の人に聞くことではないのでは? ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月5日(土)00時26分10秒 ]
>> 日本が遠くだという認識があったのならば、
>> やはり接という文字を使う場合は
>> ちょっと...ね
#「日本が遠くだという認識」の主な原因は、これはまた
「韓が巨大だという認識」にあるわけですので
「韓と倭が遠いという認識」があったわけじゃありません。逆に、半島南部に、国はなくとも倭人がいたことを匂わす文章はあります。接するとある以上「交わっている」わけですが、「地続きだ」とまでは読めないというだけです。
元の発言 [ Re: Title再度問う(2) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月5日(土)07時37分52秒 ]
ALEX大魔王さん、こんにちは。
>> 飛んでもカレーライスさん
アレッ!(^○^)
>> #んでもって、質問1:邪馬壹國はどこざんす?
福神漬のないカレーライス、クリープの入らないコーヒー、卑弥呼のいなかった邪馬臺国…。
ところで、大神神社の宝蔵館に、伝ホケノ山出土の内行花文鏡が展示されてるらしいのです。これまた、伝聞ですが。
きょうは天気がいいので、卑弥呼のいなかった邪馬臺国まで、ちょっくら行ってこようかと思っています。
元の発言 [ Re: Title九州に東海土器 ] お名前 [ 池ちゃん ] 日付 [ 2月1日(火)21時21分45秒 ]
池ちゃん 、こんばんは。
>> それは”急激に”行われたのでしょうか?
>> ”徐々に”行われたのでしょうか?
#「高杯が」とか「甕が」とかいうのではなく、全器種そろって同時に登場するとのことで、やはりある画期に急に始まったように思えます。
元の発言 [ Title再度問う(2) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月4日(金)22時40分39秒 ]
質問1:邪馬壹國はどこですか?
#甘木じゃー(^_^)v
質問2:上記ABCのどれに該当しますか?
#E:背振山周辺には「綺麗なおごじょ」がいっぱいいたので、男性陣のみの魏使が寄り道をしていたのは当然じゃ。我が輩など毎日のようだが^^;、ALEX殿にも経験がおありじゃろー、通勤1時間でが退社から帰宅までが5時間・6時間の経験が、何時の時代でも人の行いは同じなのだ(^o^)
#船だと島原半島経由か、大村湾かな。
>これは
○魏使は、大和まで行った
○彼に一行のなかの人物が毎日日誌をつけたが、移動距離は丹念に記録していない。
○九州島北部の里数の大半は、伊都國に滞在した人物が記録した。
という設定に基づきます。
#大和まで行っていないって! 行っていたら箸墓を「大作家径百余歩」なんて素っ気なく記載しないどろうが。蛇信仰にも触れていないし。もっとも箸墓が3世紀末と言うならば別じゃが(^o^)
元の発言 [ Re: Title再度問う(2) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月5日(土)06時58分15秒 ]
>> >> また25日かかったことを1月と言ったとする。
>> >> 13日かかったことを10日としたら?
>> >> 2倍弱にしかならない。
>> ↑
>> # 2倍強だっちゅーの(^0^)
なんで?13の倍は26でしょう。
>> これはむしろ、B+Dの回答ですね?
???
>> 出発点:博多湾岸、到着点:纒向
上陸地点は?
となると、投馬國は邪馬壹國より遠いところで、
海岸沿いですか?さて、どこのこと?方角は同じ南ですよね。
それから、わりとすぐ大和川がどうこう言われることが
畿内説の方に多いのですが、その割には魏使は歩いて邪馬壹國に入ったわけですか?
元の発言 [ Re: それは、九州説の人に聞くことではないのでは? ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月5日(土)08時04分37秒 ]
>> #「日本が遠くだという認識」の主な原因は、これはまた
>> 「韓が巨大だという認識」にあるわけですので
そうなのですか?倭の人口と同じ程度の認識ではなかった
のですか?それなら、倭がもっと大きいという認識でしょう。
>> 「韓と倭が遠いという認識」があったわけじゃありません。逆に、半島南部に、国はなくとも倭人がいたことを匂わす文章はあります。接するとある以上「交わっている」わけですが、「地続きだ」とまでは読めないというだけです。
この接の文字について、中国人と今度よく話してみるつもりです。どうも、海があっても接を使うこともやはり
あるような事を言ってましたが、地理的には???と。
なにせ、まだ彼も今年から大学院生になるといっても
まだまだ日本語がかなり怪しいので。
元の発言 [ Re: それは、九州説の人に聞くことではないのでは? ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月6日(日)00時17分23秒 ]
>> そうなのですか?倭の人口と同じ程度の認識ではなかった
>> のですか?それなら、倭がもっと大きいという認識でしょう。
#ここで問題になっているのは、倭と韓のあいだの距離です。
「倭國が遠い」という認識は「倭と韓のあいだが遠い」ではなくて「広大な韓を越えていく」からだという意味です。魏のひとは倭も韓も大きいと思っていたでしょう。
元の発言 [ Re: Title再度問う(2) ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月6日(日)00時00分09秒 ]
>> なんで?13の倍は26でしょう。
#あ・さんすうまちがえた!
>> 上陸地点は?
#難波潟のどこか
>> となると、投馬國は邪馬壹國より遠いところで、
>> 海岸沿いですか?
#放射説じゃないので、手前です。
#実を言うと、行程記事解釈だけでみると九州では宇佐のみが許容範囲であると思っています。
で、yaohideさんの投馬國はどこですか?(これは次の「問う」シリーズにしようかな。)
>> わりとすぐ大和川がどうこう言われることが
>> 畿内説の方に多いのですが、その割には魏使は歩いて邪馬壹國に入ったわけですか?
#瀬戸内を航行してきた船が大和川を遡ることはないでしょう。そこから川船に乗りかえるか輿でいくかは当時の人の状況判断なので、確たることは言えないところです。
元の発言 [ Re: Title再度問う(2) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月5日(土)06時58分15秒 ]
ALEXさん、横槍の雑談、御免ください。
ALEXさんの3つ設定のうち、他の2つはともかく、「一行のなかの
人物が毎日日誌をつけたが、移動距離は丹念に記録していない。」
だけは、かなりもっともらしい設定だと思います。
地図でも作るつもりでなければ、普通は訪れた土地の方角や距離は
あまり書きませんから。
シュリーマンが幕末(1865年6月)に日本を訪れたときの旅行記には、
滞在地の横浜から、八王子に行ったとき、原町田で一泊したときの
様子などまで細かく書いていますが、八王子や原町田までの距離や
方角は書いていません。もちろん江戸にも行っていますがそのとき
も同様です。
王子に行ったときの記録には、王子までの距離は35マイルと書い
ていますが、方角は書いていません。
魏使が日誌を書いたとしても似たようなものだったと思います。
それでも日誌を書いていれば、何日にどこに行ったかは分かるので、
距離の変わりに日数を書くことは出来ますね。
シュリーマンの例では、横浜から八王子までは、2日の距離という
ことになります。ただし、シュリーマンは、馬に乗って行きました。
これから、距離が逆算できるかと言うと、1日のうちのどれだけを、
移動に使ったかによりますので、そうは簡単ではありません。
このばあいシュリーマンは、原町田を午前10時半に出て、八王子
に午後1時前に着いたと書いており、しかも、土砂降りの雨のなか
を早足で進んだとも書いているので、かなり正確に距離が推定でき
ますが、魏使の日誌には、そこまで詳しくは書かれていなかったと
思う方が自然でしょう。
私は、魏使は日誌すら書かなかったのではないかとも思っています。
単に報告書だけなら、目的地の様子とそこに着いて目的を果たした
日付は必ず書くとは思いますが、途中の経過地の様子までいちいち
報告書に書く必要はないでしょうから。
元の発言 [ Re: Title再度問う(2) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月6日(日)01時08分36秒 ]
>> >> 上陸地点は?
>> #難波潟のどこか
>> >> となると、投馬國は邪馬壹國より遠いところで、
>> >> 海岸沿いですか?
>> #放射説じゃないので、手前です。
ということは、玉野とかがなるのかな。
歩くのと船が同じ速度と言われるが、そうなると
博多から難波が船で1月、難波から巻向までが1月の
等距離ということになりませんか?
もしくは、陸行1月でなく1日という解釈ですか?
それなら、船の速度と歩くのが同じという問題を
出された意図が不明なのですが。
>> #実を言うと、行程記事解釈だけでみると九州では宇佐のみが許容範囲であると思っています。
>> で、yaohideさんの投馬國はどこですか?(これは次の「問う」シリーズにしようかな。)
以前は出雲だったけど、薩摩かな...
>> #瀬戸内を航行してきた船が大和川を遡ることはないでしょう。そこから川船に乗りかえるか輿でいくかは当時の人の状況判断なので、確たることは言えないところです。
それは、おかしいでしょう。
10日船で連れてきて、1月歩かせるのですか?
川を上るのに船を替えるのは当然でしょうが、
やはり船で連れて行くのが普通でしょう。
また、難波から巻向を徒歩で1日では無理でしょう。
元の発言 [ 魏使は日誌すら書かなかった? ] お名前 [ ノッピン ] 日付 [ 2月6日(日)01時35分22秒 ]
>> 私は、魏使は日誌すら書かなかったのではないかとも思っています。
>> 単に報告書だけなら、目的地の様子とそこに着いて目的を果たした
>> 日付は必ず書くとは思いますが、途中の経過地の様子までいちいち
>> 報告書に書く必要はないでしょうから。
#私が念頭に置いたのは、申維翰「海東諸国記」,金仁謙「日東壮遊歌」といった朝鮮通信使一行の日誌的記録と、隋書の行程記事です。これらに近いものがそれぞれ原資料と史書記述の関係にあると想定して、倭人伝の場合のオリジナル記録がどのようなものであったか推理した結果、既述のような設定になったものです。
ここで面白いのは、日数が彼等の実際体験した記録で、里数が日本人の水夫に聞いた数字であるケースが出てくる事です。倭人伝解釈でよくある「距離:実測,日数:伝聞」という想定と逆のケースが実例として挙げることができるわけです。
これはみんなに聞いて欲しい事なのですが、私がいつも不満に思うことは、九州説の皆さんがほとんど、というか全く実例を挙げず、想像上で作ったケースを示す事です。
これでは論争は観念上の遊びになってしまいます。
「実際にそのようなことがありうるか」ということを客観的に示す事が、議論を実りのあるものにしてくれると思うのですが。
滋賀県野洲町の古富波山古墳から、『前方後円墳の出現』(雄山閣)57頁にある、岸本氏の編年案で第一段階の分類されている「王氏作徐州銘四神四獣鏡21.9cm」(目録番号79)同笵鏡番号【42】が出土しています。
この古墳について、古墳辞典(東京堂)で調べてみました。
径30m前後の円墳。墳高1.7m以上。周堀はなく、葺石、埴輪もない。石材もなく粘土槨と推定。
墳丘基底部をなす第1次盛土層上面から多数の古式土師器が出土し、庄内期併行である事が判明。
また、第二段階の吾作三神五獣鏡22.0cm(23)【11】、第三段階の陳氏作四神二獣鏡21.8cm(82)【45】も共伴しています。
このことは、庄内期中にすでに、岸本編年案の第三段階までは作成されていたことになります。
わたくしは、先月号で第二段階以降は布留0期中に大和でで生じた経年変化であろうと申し上げましたが、撤回いたします。
まだまだサンプル数は足りないと思いますが、もし、大和において、庄内期の古墳から三角縁神獣鏡が出ないとすると、これはいったい何を意味するのでしょうか?
ホケノ山がますます楽しみになってきました。
元の発言 [ Re: Title再度問う(2) ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月6日(日)02時03分38秒 ]
>> それなら、船の速度と歩くのが同じという問題を
>> 出された意図が不明なのですが。
#それがANDとORの違いです。(後述)
>> 10日船で連れてきて、1月歩かせるのですか?
>> 川を上るのに船を替えるのは当然でしょうが、
>> やはり船で連れて行くのが普通でしょう。
#なぜ「普通」なのかは立証が必要でしょう。関東ではトンカツに味噌を塗るのは普通じゃないです。(私は好きですけどね)
#それで私は裴世清の例を挙げたわけです。
OR説であると、船だと急いで;歩きはゆっくり;というのはおかしいのです。ある地点から同じ目的地に向かうという条件は同じなのですから。
ところがAND説かつ「日誌」説の場合は、「船では順調に来たが上陸したとたんに入京を待たされる」ということが実際ありうることになるわけです。
橿原考古学研究所附属博物館で、大和天神山の鏡を見てきました。
三角縁変形神獣鏡が外出しておりましたが、そのほかの方格規矩鏡、内行花文鏡、画文帯神獣鏡、獣形鏡、人物鳥獣文鏡はありました。見る事の出来た鏡の鈕孔はすべて半円形、円に近いものもあったと思います。長方形のものはありませんでした。方格規矩鏡の銘文を見ようと思いましたが、銹のせいもあり、肉眼では不可能でした。教えて頂いて資料室で以下の報告書を見てきました。
伊達宗泰 小島俊次 森浩一
奈良県史跡名勝天然記念物調査報告第22冊『天神山古墳』
(奈良県教育委員会)昭和38年3月30日発行
その中から、とくに方格規矩鏡について抜き出してみました。
01.流雲文縁方格規矩鏡 径23.4cm 鈕高1.4cm 鈕径3cm 縁5mm
■■■棗日天■(四)海■■■■■■■長宜
(四)は横棒を四個
08.流雲文縁方格規矩鏡 径20.3cm 鈕高1.15cm 鈕径2.5cm 縁0.45cm
尚方作竟真大功上■■■■■老渇(さんずいに欠)玉泉(汎)棗浮(由)天下■四海兮
(さんずいに欠)=汲
(汎)=飢
(由)=遊
09.流雲文縁方格規矩鏡 径20.8cm 鈕高1.15cm 鈕径3cm 縁0.4cm
尚方作竟真■■■■■人不知■渇(汲)■■飢食■■■■■■■■■四海寿廠金石国■保兮
全体的に不鮮明
16.波文縁方格規矩鏡 径15.9cm 鈕高0.95cm 鈕径1.5cm 縁0.4cm
尚方作竟真大巧上有■人不■■渇(さんずいに欠)■■汎食■■■天下
方形格の部分は12子が省略されて図形化
19.波文縁方格規矩鏡 径16cm 鈕高1cm 鈕径2cm 縁0.4cm
■■竟大■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■兮
21.流雲文縁方格規矩鏡 径14.1cm 鈕高1.1cm 鈕径3cm 縁0.5cm
不鮮明な鋳出し
これらと、下記の銘文とを比較しますと、全くおんなじパターンのものである事が分かります。
>> 1.唐津・桜馬場出土の方格規矩鏡の銘文
>> >尚方作竟真大好上有仙人不知老渇[サンズイ偏に欠]玉泉[サンズイ偏に几]食棗浮[サンズイ偏に游]天下敖四海徘徊名山采芝草寿如金石之国保兮
>> これには、文意の通じない漏字・脱字はなく左文字もない。
>> 2.平原出土鋸歯文方格規矩鏡の銘文(一例です)
>> >尚方佳竟真大好上有仙人不知老渇[サンズイ偏に欠]玉泉飢食棗兮
>> 上、有が左字。
さて、問題は、大和天神山のが、桜馬場のしっかりした後漢鏡まで溯れる古さなのか、平原と同時期の退行現象のみられるものなのか?16の
>方形格の部分は12子が省略されて図形化
これは、後漢晩期に見られるいわば退行現象のひとつと言ってよいでしょう。つまり、桜馬場までは溯れない鏡がある。ということは、平原と同時期にもたらされたものの一部と言っていいのではないでしょうか。銅鏡百枚の一部と私は考えています。
以下も、報告書から抜き出したものですが、面径が三角縁神獣鏡よりも小さい事に気がつきます。やはり、いま斜縁神獣鏡と称しているものなのかもしれませんね。
05.三角縁変形神獣鏡 径17.2cm(岐阜県可児郡の東寺山古墳に同型鏡)
15.三角縁変形神獣鏡 径17.4cm
05、15の二面とも白銅質の光沢の多い肌
文様の構成や表現は三角縁神獣鏡としては異例
人物鳥(or禽)獣文鏡、面径を控えるのを忘れましたが、大きい鏡ではありませんでした。15cm内外ではなかったかな?これもしっかりした半円形の鈕孔を持っておりました。報告書では、この鏡について、
>人物鳥獣文鏡の文様が、銅鐸文様に似る点もあることから銅鐸の製作年代を下降させるか、その反対に鏡の倣製年代を上昇させるという問題もあるかも知れないが、その意匠は獣形鏡の文様構成を基準にして日本的文様としたにすぎないものとみられることと、4世紀後半の古墳にみられる優秀な倣製鏡と同一すべきものとみることが不可能でない
と書いています。古くみようか新しくみようかと逡巡しながらも後者を採った、という事でしょうか。
資料室の若い女の子としばらく話をしました。彼女曰く、大和天神山には三角縁神獣鏡よりも古い鏡が入っていて、年代も従来の見方より上がる。平原は従来の見方より年代が下るんですってねぇ。
若い彼女が何事もなく言っているところをみると、これはKKKでは常識なのかな?(^○^)
なお報告書以降の調査で、葺石の存在が確認されたこと。
木棺(木櫃)はヒノキではなく、高野槙で、三本の材から成るのではなく、本来ひとつの材だったのが大きく三つに割れたもの。現存する全長は2.6mだが、石室の内法が6.1m、石室床面全体に粘土床がしつらえられていたことから本来の長さは5m前後と推定できる。
人体埋葬があったかどうかは議論が絶えないが、棺自体には副葬品専用の容器であると判断すべき特殊な構造的特徴はみられない。遺骸をおさめるべき主室的空間の長さが1.4mとひじょうに小さいことは依然問題として残る。(青陵102号より要約)
とのことです。
大神神社の宝物殿は、平山郁夫特別展をやっていて、常設のものはみれませんでした。
ホケノ山は年末と外見上変化なし。テントの中からは、小数点第三位まで読み上げている声が聞こえました。
勝山古墳は、周濠の補修は済んでいました。後円部には、若竹がまた伸びておりました。
元の発言 [ Re: Title再度問う(2) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月6日(日)02時19分03秒 ]
>> OR説であると、船だと急いで;歩きはゆっくり;というのはおかしいのです。ある地点から同じ目的地に向かうという条件は同じなのですから。
参勤交代の大名行列がそうでしたが、人のいるところはゆっくり進む。
いなくなれば急ぎ足。まあ、九州のように、国が隣接していると思われた所を進むには、普通に歩くより時間がかかる可能性はあったでしょう。
>> ところがAND説かつ「日誌」説の場合は、「船では順調に来たが上陸したとたんに入京を待たされる」ということが実際ありうることになるわけです。
そうなると、またまた問題が出てきます。
水行十日陸行一月は最長日数ですよね。
船だって、海が荒れれば動けない。また港から出して貰えなかったかもしれない。
これは入京を待たされることと同じですよね。
船に乗っている日数は計算に入れる、陸に上がった日数は入れない。
それとも陸に上がった日数も計算に入れますか?
歩いた日数は、動かなかった日数も計算に入れる。
おかしいでしょう。
つまり、それでは何も意味が無くなるのです。
距離を解決する指標には成り得ないことになります。
or説を採れば、まだ距離の指標には成り得ますが、and説の場合は日数は何も意味のないものになるわけです。
やはり距離の問題は、萬二千里の残り千五百里にかかってきませんか?
あと日誌説では、乗ってきた船はどうしたんでしょうね。
伊都国、不彌国、奴国を歩く連中と船で進む連中に分かれたのかな?
それとも、また末廬国まで戻って船に乗って難波を目指したのかな?
隋の頃まで倭人は距離は知らず日数でしか測れなかった
という話を信じれば、五百里とか百里と書いてあるのは
自分で行ったことになります。
いやあ、これだから面白い。
元の発言 [ Re: 邪馬臺國の難升米 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月5日(土)22時41分01秒 ]
おにりんさん、こんにちは。
>> #糸島郡は、「怡土」+「志麻」でやんす。
>>
#だったら、一度来て自分の目で見てごらんなさい。
#甕棺や丹塗り土器を見て見れば、弥生中期段階で分業化していたことが納得出来るでしょう。
#もっとも、だからこそ細かな扁年が出来るだけど。
元の発言 [ Re: Title再度問う(2) ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月6日(日)15時36分37秒 ]
>> 参勤交代の大名行列がそうでしたが、人のいるところはゆっくり進む。
>> いなくなれば急ぎ足。まあ、九州のように、国が隣接していると思われた所を進むには、普通に歩くより時間がかかる可能性はあったでしょう。
#実例が無いと、観念論に終始してしまいます。実例はありますか?
>> >> ところがAND説かつ「日誌」説の場合は、「船では順調に来たが上陸したとたんに入京を待たされる」ということが実際ありうることになるわけです。
>> 船だって、海が荒れれば動けない。また港から出して貰えなかったかもしれない。
これは入京を待たされることと同じですよね。
#「日誌」説は、「実際の所要日数」ということになりますから、風待ちの日数も加算されます。陸上・海上とも同条件です。
>> 距離を解決する指標には成り得ないことになります。
#考証に用いるのに、同じ「実際の所要日数」の実例を取れば、指標になり得ます。
具体的には、朝鮮通信使の上京日程,紀の裴世清の日程,延喜式の国司赴任規定,明帝紀の遼東討伐見積もり日数,大唐六典の出張規定,漢書の賈捐之傳,陳湯傳,王吉傳ほか多数の比較例を用いる事になります。
>> やはり距離の問題は、萬二千里の残り千五百里にかかってきませんか?
#その数字とも整合的です。
そもそも千五百里というのは引き算ですぐ出るのですから、張華をはじめ当時の読者がこれをたった10日余りで踏破するなどという意味に読むはずが無いのであります。
>> あと日誌説では、乗ってきた船はどうしたんでしょうね。
#「日誌」説は、日程を書いた人と、伊都国,不彌国,奴国などの里数を取材した人とは別人と言う考えですから、魏使は一貫して帯方から乗ってきた楼船で難波潟まで行ったという設定でも問題ないでしょう。
>> 隋の頃まで倭人は距離は知らず日数でしか測れなかった
という話を信じれば、五百里とか百里と書いてあるのは
自分で行ったことになります。
#「伊都國に駐留していた魏の人が行った」でもいいし「樂浪系韓国人の行商人から聞いた」でもいいと思いますが。」
>> いやあ、これだから面白い。
#ホント。
元の発言 [ 甘木じゃー(^_^)v ] お名前 [ 心は愛知県人 ] 日付 [ 2月5日(土)10時36分56秒 ]
>> 甘木じゃー(^_^)v
>> 大和まで行っていないって! 行っていたら箸墓を「大作家径百余歩」なんて素っ気なく記載しないどろうが。
#少なくとも、梯儁はそんなもん見ちょらんぞよ。
ところで、現地を知らない人の単純な疑問。甘木って船でいくの?
元の発言 [ Re: 甘木じゃー(^_^)v ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月6日(日)19時38分20秒 ]
ALEXさん、こんばんは。
>> ところで、現地を知らない人の単純な疑問。甘木って船でいくの?
#筑後川を溯上したところにあります。
#福岡平野の南端、太宰府付近に分水嶺があって御笠川が北流して博多湾へ、宝満川が南流して筑後川へ繋がっております。
#宝満川が筑後川に合流する辺りが夜須町で、下流へ行くと“津古生掛”などがある小郡、佐賀平野と筑後平野の接点になっている鳥栖、久留米に出で、上流が丹塗土器一括出土で有名な三輪町から最奥の狭部、高地性集落“西の迫”、“杷木神籠石”辺りまでが朝倉平野です。
元の発言 [ Re: Title再度問う(2) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月6日(日)19時17分26秒 ]
>> #実例が無いと、観念論に終始してしまいます。実例はありますか?
参勤交代では、時代が違いすぎると思っていましたが、
中国の行列は、意外なほど時間がかかる、1日の進む距離
が短いなどと、どこかで読んだような気がするんですが...
>> #「日誌」説は、「実際の所要日数」ということになりますから、風待ちの日数も加算されます。陸上・海上とも同条件です。
ですよね。
>> #「日誌」説は、日程を書いた人と、伊都国,不彌国,奴国などの里数を取材した人とは別人と言う考えですから、魏使は一貫して帯方から乗ってきた楼船で難波潟まで行ったという設定でも問題ないでしょう。
水行のスタートがどこかで、日数はまるで変わりますよ。
伊都国、不彌国、奴国でそれぞれ1日使うとかになりま
すから。そこに風待ちなどがあれば、実質3日なんてこと
は十分考えられます。
>> >> いやあ、これだから面白い。
>> #ホント。
ホントホント(~o~)
元の発言 [ Re: 魏使は日誌すら書かなかった? ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月6日(日)02時04分57秒 ]
>> これはみんなに聞いて欲しい事なのですが、私がいつも不満に思うことは、九州説の皆さんがほとんど、というか全く実例を挙げず、想像上で作ったケースを示す事です。
>> これでは論争は観念上の遊びになってしまいます。
「九州説の皆さんがほとんど」という点を除いて、おっしゃるとおりです。
関西説の人も単なる想像で書いていることもありますよ。
元の発言 [ Re: Title再度問う(2) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月6日(日)01時08分36秒 ]
ALEX さん、また割り込み御免。
>> >> 上陸地点は?
>> #難波潟のどこか
江戸時代の参勤交代では、九州や中国の大名は、難波津を
使わず、揖保川の河口にある室津(古代では御津と言った)
から上陸して後は陸路を使いました。
理由は、瀬戸内海の西側は、小島が沢山あって、波除には
困りませんが、播磨灘に入ると、島が少なくなり、波浪が
高くなるので、安全第一に考える旅では、播磨灘を船では
渡らなかったのです。
ただし、3世紀にもこのようであったかどうかは、分かり
ませんが、異国の使いを無事に送るには、最も安全な経路
をとったと思います。
元の発言 [ Re: Title再度問う(2) ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月6日(日)20時59分21秒 ]
>> 水行のスタートがどこかで、日数はまるで変わりますよ。
>> 伊都国、不彌国、奴国でそれぞれ1日使うとかになりま
>> すから。そこに風待ちなどがあれば、実質3日なんてこと
>> は十分考えられます。
#さて、ここで問題です。
放射・OR説では「萬二千里の残り千五百里」を、たった10日余りで航行する事になります。
これは、川くだり等の特殊ケースを除き、物理的に不可能でしょう。
三國志執筆当時の読者にとって、当然これは不可思議な記述である…というより、彼等はこの記事を放射・OR説では読まなかったのであり、陳壽自身もそういう意図で書かなかったと考えざるを得ません。
結局、放射・OR説というのは「陳壽自身が原資料を既に誤解していた」という解釈に辿り着いてしまいます。ということは、必然的に「放射・OR説は倭人伝の読解から出てきた説ではない」ということになりませんか?
元の発言 [ Re: Title再度問う(2) ] お名前 [ ノッピン ] 日付 [ 2月6日(日)23時53分17秒 ]
>> 江戸時代の参勤交代では、九州や中国の大名は、難波津を
>> 使わず、揖保川の河口にある室津(古代では御津と言った)
>> から上陸して後は陸路を使いました。
>> 理由は、瀬戸内海の西側は、小島が沢山あって、波除には
>> 困りませんが、播磨灘に入ると、島が少なくなり、波浪が
>> 高くなるので、安全第一に考える旅では、播磨灘を船では
>> 渡らなかったのです。
#状況は相当変わっていると思います。3世紀には瀬戸内北岸の沖積平野の多くはまだ海だったようですし、後世には、難波の潟港自体が無くなっていますね。
室津から陸路というのも候補のコースですね。
ただ、朝鮮通信使は船を乗り換えて淀川を溯上していますし、裴世清も難波津に着いています。記の54番歌も難波から吉備の航路を歌っていますね。
元の発言 [ Re: Title再度問う(2) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月6日(日)23時54分18秒 ]
>> #さて、ここで問題です。
>> 放射・OR説では「萬二千里の残り千五百里」を、たった10日余りで航行する事になります。
>> これは、川くだり等の特殊ケースを除き、物理的に不可能でしょう。
え?末盧國から伊都国は五百里でしょう?
畿内は遠すぎるんじゃないですか?
元の発言 [ Re: Title再度問う(2) ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月7日(月)00時35分07秒 ]
>> え?末盧國から伊都国は五百里でしょう?
>> 畿内は遠すぎるんじゃないですか?
#千五百里なら651kmでしょ。
元の発言 [ Re: Title再度問う(2) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月7日(月)00時12分24秒 ]
>> #状況は相当変わっていると思います。3世紀には瀬戸内北岸の沖積平野の多くはまだ海だったようですし、後世には、難波の潟港自体が無くなっていますね。
海岸線が多少違っていても、播磨灘の波が高いと言う点は
変わってはいないでしょう。
>> 室津から陸路というのも候補のコースですね。
>> ただ、朝鮮通信使は船を乗り換えて淀川を溯上していますし、裴世清も難波津に着いています。記の54番歌も難波から吉備の航路を歌っていますね。
天平八年(736年)の遣新羅使の記録によれば、難波津を船で
出発していますが、この頃の船と、3世紀頃の手漕舟では、
安定性が違うでしょう。
元の発言 [ Title再度問う(2) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月4日(金)22時40分39秒 ]
ALEXさん、みなさん、おはようございます。
いやぁ最近残業続いていたので土日はほとんど寝てました(笑)
さて、私は実は東遷説なんですが明確な比定地を持っていないのです(笑)
要するに邪馬台国東遷は確実だと思っていますが、その東遷の時期については検討中なのです。
魏使節来日時に邪馬台国がどこだったかは確証がない、というところです。
ただ、卑弥呼の墓は宇佐ではないか?と思っていますので、その前提で書きますと、
>> A:陸路は遠回りだが船だと近道が出来る場所にある
>> B:陸路だと極度の難路しかない場所にある
>> C:陸路だとちんたら、船だとさっさと進みたくなる場所にある
>> という選択肢が考えられます。
>> ここで九州説の方々に質問です。
>> 質問1:邪馬壹國はどこですか?
>> 質問2:上記ABCのどれに該当しますか?
答1:宇佐(但し、仮説につき責任は負いません(^o^))
なお、or説です。
答2:どれでもありません。
『隋書倭国伝』『旧唐書倭国伝』『新唐書日本伝』での倭国の領域は、「東西五月行」「南北三月行」となっております。
九州西端〜日本アルプスは約800km、対馬北端〜九州南端は約440kmですので、150kmがおよそ一月、5kmが1日となります。
どのような理由によるものかは不明ですが、実例がありましたので(笑)。
これが陸行なのか水行なのかは不明ですが、ALEXさんによりますと水行陸行に差はあまりなかったらしいので、まあ陸行では1日4km(少なすぎる?)水行では1日6kmとしておきましょう。
そうすると「水行十日」は60km「陸行一月」は120kmですね。
yaohideさんの端数説(?)を使うと、水行13日で78km陸行25日で100km。
いいところでは?
但し、自分でこの論に確実な自信を持っていませんので、断定はしないでおきます(笑)
倭人伝は、「從郡至倭…」に始まる行程記事に、海峡を渡ってから
《對馬國,一大國,末盧國,伊都國,奴國,不彌國,投馬國》
と列挙し、次に「南至邪馬壹國」と記します。
続いて
「自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。」
として其餘旁國を列記します。
以上から其餘旁國の位置関係は不明確ながら、さきに列挙された對馬國〜投馬國の7国が「女王國以北」に該当することは明らかです。
従って、可五萬餘戸の規模を有する投馬國は、少なくとも末盧國から見て邪馬壹國より手前にあるはずであります。
さて、北部九州説は投馬國の位置の問題をいかに解釈しておられるのでしょうか?
問い1.投馬國はどこですか?
問い2.その理由は以下のどれに該当しますか?
A.投馬國は「女王國以北」であるとは読まない。
B.「以北」と書いてあるが「女王國より北」とは読まない。
C.水行二十日南しても「女王國より南」とは読まない。
D.魏志倭人伝は読まない。
北部九州説の皆さん、とくに最近妙に寡黙な方、是非お答えをお待ちしております。
元の発言 [ Re: 古冨波山古墳から ] お名前 [ 飛んだハヤシライス ] 日付 [ 2月3日(木)23時07分40秒 ]
>> 大塚初重・小林三郎編『増補・新装版古墳辞典』(東京堂出版 平成8年9月30日再版発行)の465頁からの引用です。
日曜にこの本を買ってきました。
それで確認出来たことを含めて書くと、
・ 古墳辞典の古富波山の項の担当者は丸山竜平氏
・ 集成の近江担当者も丸山竜平氏
・ 古墳辞典の出版は1996年。ただし、古富波山の項のある増補分
の多くは1989年出版の古墳大辞典による。(旧版部は1982年)
・ 集成の出版は1995年
飛んだハヤシライスさんも御存じのことばかりです。
後の判断はおまかせします。
元の発言 [ Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月7日(月)11時53分33秒 ]
ALEXさま、みなさま、どうも。最近寡黙かもしれない(笑)ま さです。
>> 問い1.投馬國はどこですか?
>> 問い2.その理由は以下のどれに該当しますか?
>> A.投馬國は「女王國以北」であるとは読まない。
>> B.「以北」と書いてあるが「女王國より北」とは読まない。
>> C.水行二十日南しても「女王國より南」とは読まない。
>> D.魏志倭人伝は読まない。
>> 北部九州説の皆さん、とくに最近妙に寡黙な方、是非お答えをお待ちしております。
Cかな?今考えているのは、山口県防府市付近ですが。
航路の関係と南の範囲の関係で、そうなってしまう(笑)
元の発言 [ Re: Title再度問う(2) ] お名前 [ ま さ ] 日付 [ 2月7日(月)11時21分17秒 ]
まささん、こんにちは。
>> いやぁ最近残業続いていたので土日はほとんど寝てました(笑)
#お大時に。
>> 『隋書倭国伝』『旧唐書倭国伝』『新唐書日本伝』での倭国の領域は、「東西五月行」>> 「南北三月行」となっております。
>> 九州西端〜日本アルプスは約800km、対馬北端〜九州南端は約440kmですので、>>> 150kmがおよそ一月、5kmが1日となります。
>> どのような理由によるものかは不明ですが、実例がありましたので(笑)。
#う〜ん… 理由がないと「実例」って言わないんじゃないですか?
一日当たりの移動距離が、中国人の常識や野生号の航行スケジュールに照らして極度に小さいこともあり、算出根拠が確たるものでなければ異常値として却下してよい数字ではないでしょうか。
と、思って算出基礎を見ると
東西:九州西端〜日本アルプス
南北:対馬北端〜九州南端
ということですが、これは妥当性を欠いています。
東西五月行云々の情報は初出から考えて推古朝のものということになると、7世紀初頭の版図として東限が日本アルプスというのは根拠がありません。常陸くらいまで含めてよいのではないでしょうか。
南北も変です。裴世清が阿輩臺に「倭國の大きさはどれくらい?」と聞いたとします。阿輩臺は南北に対馬北端〜九州南端の所要日数を答えるでしょうか?そのような解答はありえないでしょう。海路越路を発って愛発を抜け倭都を通り、吉野を抜けて熊野川河口へ;という方が現実味があります。
ベースとなる地理設定が変ですから、出てくる数字も狂っていると思います。
元の発言 [ Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ ま さ ] 日付 [ 2月7日(月)13時28分31秒 ]
まささん、こんにちは。
>> Cかな?今考えているのは、山口県防府市付近ですが。
>> 航路の関係と南の範囲の関係で、そうなってしまう(笑)
#それがたぶん唯一の理性的な解答な筈です。
しかしながら、そうすると倭國の範囲が環瀬戸内域の一部に広がっていたことになります。
環瀬戸内の域内での交流が極めて緊密なものであったことは疑う余地はありませんから、その当然持っていたであろう情報量から言って、大和を含むその他の国を「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」の一言に押し込めることは困難になるでしょう。
元の発言 [ Title再度問う(2) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月4日(金)22時40分39秒 ]
>> さて、ほとんどの九州説の方は、これを2のORで読んでおられると思います。
#方位と起点がないので私はorで読んでますが。
これってヒントになるのでは、南北に海岸があるってこと
だから。
>> B:陸路だと極度の難路しかない場所にある
#Bを選びます。
>> 質問1:邪馬壹國はどこですか?
#串間市
#日数は倭の距離単位でいいのでは、天気等は、里数
にはあるかもしれないが、日数には、除外して答える
はず。日誌って苦しいくないかな。
元の発言 [ Re: Title再度問う(2) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月7日(月)00時43分30秒 ]
>> >> え?末盧國から伊都国は五百里でしょう?
>> >> 畿内は遠すぎるんじゃないですか?
>> #千五百里なら651kmでしょ。
又渡一海、千餘里至末盧國、
有四千餘戸、
濱山海居、草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之。
東南陸行五百里、到伊都國、
これは間違いですか?
地図でみれば、壱岐から1000里で松浦半島
500里で糸島半島というのは、理解出来ますが。
元の発言 [ Re: Title再度問う(2) ] お名前 [ ノッピン ] 日付 [ 2月7日(月)01時36分51秒 ]
>> 海岸線が多少違っていても、播磨灘の波が高いと言う点は
>> 変わってはいないでしょう。
そこから先は想像力で補わざるを得ない問題のようです。
坊津上陸コースも有力な候補ではあると思います。
ただ
1.魏使が中国製の樓船で渡来している場合
2.対馬海峡を乗り切れる倭船に乗船している場合
等、播磨灘の航行に支障がないと思われます。
古事記歌謡にも歌われる難波−吉備行路を可能性から排除するだけの根拠はないと思います。
元の発言 [ Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月7日(月)11時53分33秒 ]
>> 従って、可五萬餘戸の規模を有する投馬國は、少なくとも末盧國から見て邪馬壹國より手前にあるはずであります。
それは、決めつけてはおかしい。
OR説を元から除外している。
おなじ方角で手前であるなら、なぜ先に出てくる国が
水行20日で、後が10日?
このことから、船をこぎ出す方向が元から違うと考え
られます。
僕は、はじめは出雲だと思っていましたが、今は
薩摩でもよいかなと思っているところですが。
伊都国から東へこぎ出し宇佐をめざす、もしくは遠賀
川をのぼる、それと船を西へこぎ出して投馬国を目指す
なら問題がない。記述があっさりしているのは、
魏使は行っていない。だから、西へこいで南へ20日
は問題ないです。
北九州において、遠賀川の存在はかなり大きいと
思いますよ。うちのかみさんが糸田だから、近いので
すが。今でも立派な川です。
畿内説の場合、地図をみれば分かりますが、伊都国と
比定されている場所よりも、はなから緯度が高い。
すべて東もしくは北になります。
九州の国は、畿内よりすべて南なのです。
畿内説の場合、その事はどうするのかな?
元の発言 [ Re: Title再度問う(2) ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月7日(月)16時22分36秒 ]
>> >> 千五百里なら651kmでしょ。
>> 東南陸行五百里、到伊都國、
>> これは間違いですか?
#これが間違いなのか、曲がりくねった山道がその程度続いていたのか?
実は、そういうこととは関係のない議論なのであります。
>> 地図でみれば、壱岐から1000里で松浦半島
>> 500里で糸島半島というのは、理解出来ますが。
#陳壽も張華も「地図でみれば、壱岐から1000里で松浦半島 500里で糸島半島というのは、理解」しないでしょう。我々の持っているような地図はないのですから。
かれらは、ただ
一大國〜末盧國:1000里
末盧國〜伊都國::500里
という情報を持っているだけですから、あと1500里と言われた場合
壱岐→松浦半島→糸島半島
の現実の距離と同程度の先に「邪馬臺國」があるという風には考えません。実際の距離を知らないのだから、そうは考え様がないのです。
そう考えるのは現代人だけです。
では、どう考えるかというと、あと1500里と言われたら
洛陽→長安の1.5倍と考えるのです。10日では不可能な距離です。
従って、陳壽も張華も、or説で思考することは有り得ないわけです。
元の発言 [ Re: 古冨波山古墳から ] お名前 [ 飛んだハヤシライス ] 日付 [ 2月5日(土)00時25分38秒 ]
飛んだハヤシライスさん、こんにちは。
>> >#「大和じゃない」と主張するのであれば大和以外の中心を見出さなければならないと思います。
>> このことについて一両日考えておりました。
>> まず、陳氏他の鏡作師は山陰へ上陸した。出雲かもしれませんし、丹後かもしれません。
まあ、出土数が少ないですから、分布をどうこう言う状況ではないようにも思われますが、分布を問題にするとすれば、紀年鏡といっても顔氏作と陳是作では分布がまったく違いますよね。
青龍三年顔氏作方格規矩鏡 : 大阪府・京都府
顔氏の青龍三年鏡が国産であるとすれば、今のところ出土が丹後周辺に限定されていますから、そのあたりで製作されたのであろうというのも話としてはわかります。
景初三年陳是作画文帯同向式神獣鏡 : 大阪府
景初三年陳是作三角縁同向式神獣鏡 : 島根県
景初四年五月丙午陳是作斜縁盤龍鏡 : 宮崎県・京都府
正始元年陳是作三角縁同向式神獣鏡 : 山口県・兵庫県・群馬県
これらは、同じ陳是作であり、製作期間も景初三年から正始元年にかけてに限定されていますから、少なくともオリジナルは同一地点で作られたと見ていいでしょう。魏鏡だとすれば、各地域の有力者が独自に中国から入手したとすると、この年次のしかも陳さんの鏡ばかりがそろうはずはないですから、どこかの有力者がこの年次のときにまとまったかたちで入手して、そこから各地に流出したと考えられる。国産だとしても、景初四年鏡の存在などから、やはりこの年次の時に国内のどこか一ヵ所で作製されて、そこから各地に流出したと考えられる。しかしながら、顔氏作紀年鏡と陳是作紀年鏡では鏡式も年次も銘文も違います。燕の領域の鏡の系譜を引いているといえる長方形鈕孔ぐらいしか共通点がないといっていいのではないでしょうか。分布も、
九州 1 ・ 山陰 1 ・ 山陽 1 ・ 近畿 3 ・ 関東 1
とまったく違っている。紀年鏡という括りで顔氏作鏡と結びつけて丹後での製作であると考えるのはあまりに根拠が薄弱だと思います。
>> 以上のように、銅鏡は、かつて銅鐸の生産地、あるいは鉄の鍛造を行っていた地域と密接に関係した地域で出土しています。紀年鏡群そして古冨波山は、近くに銅鐸工房あるいは、鉄の鍛造地を持っていたと言っていいのではないでしょうか。三角縁神獣鏡製作者は、これらの工房で、それぞれの土地に副葬された鏡を製作しながら、後に大和へ入ったのではないか?それらの工房には、先住の渡来氏族がいたのかも知れません。
三角縁神獣鏡一般について考えてみましても、京都大学文学部の『椿井大塚山古墳と三角縁神獣鏡』にもありますように、主に三派の工人群に分けられるようですが、工人群相互にかなり密な関係を保ちながら製作が続けられたと考えられるようです。そうだとすればやはりほとんどの三角縁神獣鏡は、T期からどこか一箇所の製作地で作られたと考えたほうがいいと言えます。すくなくともU期とV期とか、V期とW期の間ぐらいに大きな変化を考えるのは難しそうです。
もし変化を考えるとすれば、むしろ紀年鏡と他の三角縁神獣鏡の間あたりのほうがありそうです。かといって、紀年鏡が240年頃の国産で、布留0式が260年以降でその頃から他の三角縁神獣鏡が国産されると考えるのも、間があきすぎて不自然です。陳さんたち、二十年以上もの間、倭國で何をしていたんでしょうね?
紀年鏡=239−240年を起点にすると、ありうる可能性というのはかなり絞られるのではないでしょうか。
1.「舶載」三角縁神獣鏡は本当に舶載鏡であり、倭國向けに作成された。倭國向け以外には大型鏡の注文がなかったので、中国国内向けには、小・中型の斜縁神獣鏡・画文帯神獣鏡を作っていた。
2.紀年鏡は魏鏡であり、倭國向けに作成された。倭國向け以外には大型鏡の注文がなかったので、中国国内向けには、小・中型の斜縁神獣鏡・画文帯神獣鏡を作っていた。彼等は布留0の時期に倭国に来て三角縁神獣鏡の量産をはじめた。
3.「舶載」三角縁神獣鏡もすべて国産である。240年頃から生産が始まり庄内期にもさかんに製作されていた。240年頃から布留0までの間に死去した有力者がいなかったか、たまたま庄内期の古墳から発見されていないか、本当は発見されているんだけどそれと気づかれていないだけである。
4.「舶載」三角縁神獣鏡もすべて国産である。240年頃から生産が始まった。遅くとも250年頃には布留0期に突入しているから、布留0期以降の古墳から出てくるのである。
まあ、こんなところじゃないでしょうか。ほとんどの三角縁神獣鏡が布留0式以降の製作で、布留0式が260年かそれ以降だったら、紀年鏡はやっぱり魏鏡なんですよ。
元の発言 [ Re: Titleまたまた問う(投馬國はいづこ) ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月7日(月)16時51分36秒 ]
>> それは、決めつけてはおかしい。
>> OR説を元から除外している。
>> おなじ方角で手前であるなら、なぜ先に出てくる国が
>> 水行20日で、後が10日?
>> このことから、船をこぎ出す方向が元から違うと考え
>> られます。
#OR説を除外してもしなくても、對馬國〜投馬國の7国が「女王國以北」に該当することは文脈上明らかです。船をこぎ出す方向がどちらであろうと、出発点の上空から南に頭を向けて見れば投馬國は「手前」にあるはずです。
>> 今は薩摩でもよいかなと思っているところですが。
ということは宇佐より南ですから
A.投馬國は「女王國以北」であるとは読まない。
B.「以北」と書いてあるが「女王國より北」とは読まない。
のどちらかですか?
>> 九州の国は、畿内よりすべて南なのです。
>> 畿内説の場合、その事はどうするのかな?
#御存知の通り、畿内説は「南」を「東」の認識誤りとして原文訂正し、それ以外の原文にはみだりに手をつけません。
「北九州説は、『南』を直さない代わりにほかの部分の原文を何ヶ所なおすのかな?」という話です。
元の発言 [ Re: Title再度問う(2) ] お名前 [ akira2 ] 日付 [ 2月7日(月)16時14分56秒 ]
>> 南北に海岸があるってことだから。
#これは何故そうなるのでしょうか?よくわからないのですが。
>> 日数は倭の距離単位でいいのでは、天気等は、里数
>> にはあるかもしれないが、日数には、除外して答える
>> はず。日誌って苦しいくないかな。
#この「答えるはず」というのは、倭人からの聴取というのが所与の前提になっていませんか?
「日誌」説は中國人自身の記録とする考えなのだから、どう「答えるはず」という推定は入り込む余地がありません。