1

大論争9月號を開始します

投稿者[ 管理人 ] 発言日時 [9月1日(金)03時23分20秒]

頭の冴える秋が来ました。
皆さん振るって議論お願いします。


100

Re: Title 北部九州玄海灘沿岸地域は

投稿者[ 田 ] 発言日時 [9月6日(水)20時32分52秒]

元の発言 [ Re: Title 新説「北部九州玄海灘沿岸地域は倭国ではなかった!」 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月6日(水)01時16分28秒 ]

イメージ先行の勝手な話ばかりをしてすいません。

>> 九州北岸ですが末盧国は対馬一大両国が実質的に運営する港として位置づけられないかと思います。

>>
>> 九州北岸は渡海攻撃のような困難さはないので、對馬や一大と同じにはならないですが、海に逃げ出す用意があったり、攻められたら海上交通を封鎖して対抗されるとすればやはり独立を保つことは可能かもしれません。ただその場合、海洋通商国家の拠点は伊都国ではなく、一大なり對馬が中心になりそうな気がしますのでなんとも、伊都国に王さえいなければ。

>>
>>
>>
>>
>>
ここまで(といっても少ないですが)の私の意見を整理すると、對馬及び一大国を中心とした海洋国家のイメージがまずあって、北九州沿岸(末盧国はちょっと置いて)諸国からも実質的に独立していたのではないかと考えている。

と同時におにりんさんのおっしゃるとおり、北九州の伊都国、奴国そして不彌国についても、

>>
>>
旧来型の農本主義の倭国(所在地はともかく)と異なる商業国家として、実質的に独立していた(手玉にとっていたという表現は不穏当でしょうか)と考えることができる。

もともと日本という国自体が、海の人(南西諸島も含めたネットワークを持つ)と山の人(列島内部にさまざまな遺跡を残す)の連合体のような気がしています。

あと八丈島の遺跡っていつごろのですか、集落跡や水田遺構などもあったのでしょうか。

>> 経営規模が小さいと書いたのは、魏のような国家に比べて小さいという意味でして、人数は多くても大部分は自給自足のために必要な部門で、外洋船舶建造及び運用のための部門を邪馬台国なり投馬国が自前で持つのは荷が重いのではないでしょうか。

>>
>>
むかし村を日照りから救ってくれたえらい卑弥呼さまのために、墓を作ろうともっこを担いで土運びをするのと、キチンとした技術を習得して船の建造を行うことはやはり荷の重さが違うように思います。(日本人って前者のほうが好きなような)

別のスレッドの話ですいません、縄文時代の船というのは刳り抜きの丸木舟ですが、規模の大きな船は作れなくても昭和初期までこのような船が作られつづけたくらい非常に優秀なんですね。(ひっくり返っても沈まない。ただし、物を運ぶのには向かない。FRP船が普及して消えてしまいました。)




101

Re: わき道m(__)m

投稿者[ 田 ] 発言日時 [9月6日(水)21時17分56秒]

元の発言 [ Re: わき道m(__)m ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月6日(水)13時19分53秒 ]

>>
>>
>>
わざわざ大挙して蝦夷地に渡った稲作民の末裔の一人の赤の他人(彼らの祖父母の拓いた北海道に移住した者たちの孫(末裔ではない子供もいるから、長いな))としてこれはどうかと。でも自ら渡ったわけではないのか。日本語って難しいな。戦乱を逃れてやむを得ず新天地を求めて。

わき道でした。




102

ちょっと銅鐸のことで

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月6日(水)21時18分11秒]

大和ことばというか、銅鏡は「かがみ」銅矛は「ほこ」銅剣は「つるぎ」
勾玉は「まがたま・たま」で、なんで銅鐸は「どうたく」?

「たく」なんて言葉、無いよ。
どうしてでしょう?
加茂岩倉から沢山出たけど、一応畿内産という事なんでしょ。
つまり基本的には、畿内が銅鐸祭祀の中心だったと。
なのに、なぜ言葉が残らないんでしょう?




103

Re: ちょっと銅鐸のことで

投稿者[ 田 ] 発言日時 [9月6日(水)21時22分08秒]

元の発言 [ ちょっと銅鐸のことで ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 9月6日(水)21時18分11秒 ]

>> 大和ことばというか、銅鏡は「かがみ」銅矛は「ほこ」銅剣は「つるぎ」
>> 勾玉は「まがたま・たま」で、なんで銅鐸は「どうたく」?

>> 「たく」なんて言葉、無いよ。
>> どうしてでしょう?
>> 加茂岩倉から沢山出たけど、一応畿内産という事なんでしょ。
>> つまり基本的には、畿内が銅鐸祭祀の中心だったと。
>> なのに、なぜ言葉が残らないんでしょう?

「たたく」では。
魚拓の「拓」。
すいません、思い付きモードでした。




104

Re: ちょっと銅鐸のことで

投稿者[ 田 ] 発言日時 [9月6日(水)21時27分57秒]

元の発言 [ Re: ちょっと銅鐸のことで ] お名前 [ 田 ] 日付 [ 9月6日(水)21時22分08秒 ]


>> すいません、思い付きモードでした。

管理人さん、「投稿する」を押してしまった後で削除するにはどうすればいいのでしょうか。


105

Re: ちょっと銅鐸のことで

投稿者[ 当世奇妙 ] 発言日時 [9月6日(水)22時05分35秒]

元の発言 [ ちょっと銅鐸のことで ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 9月6日(水)21時18分11秒 ]

>> 加茂岩倉から沢山出たけど、一応畿内産という事なんでしょ。
>> つまり基本的には、畿内が銅鐸祭祀の中心だったと。
>> なのに、なぜ言葉が残らないんでしょう?

*佐古先生は半島起源だけど、いわゆる古式の日本列島的な
銅鐸は北陸か出雲が発祥と言っています。そこから吉備などへ出て、大和、東海へと広がったとのこと。
佐古さんを知っていますか?豪快ですよ。



106

Re: ちょっと銅鐸のことで

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月6日(水)23時57分08秒]

元の発言 [ Re: ちょっと銅鐸のことで ] お名前 [ 当世奇妙 ] 日付 [ 9月6日(水)22時05分35秒 ]

>> *佐古先生は半島起源だけど、いわゆる古式の日本列島的な
>> 銅鐸は北陸か出雲が発祥と言っています。そこから吉備などへ出て、大和、東海へと広がったとのこと。
>> 佐古さんを知っていますか?豪快ですよ。

すいません、佐古先生は知らないのですが、朝鮮式小銅鐸
は宇佐からも見つかっていますよね。
僕も起源は半島だとは思っていますが、やはり祭祀として
は、畿内中心ではなかったかと思うんですよ。
まあ、時期が特定できないからと言われればそうなんで
すが、尾張など大型化した銅鐸は結構遅くまであったと
言われていますよね。
そうなると、尾張の土器が畿内にも入ってきていたわけ
ですから、2世紀くらいでも畿内の人は銅鐸を知っていて
おかしくはないと思うのですよ。
でも、言葉は残っていない。


107

Re: ちょっと銅鐸のことで

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月7日(木)00時06分48秒]

元の発言 [ Re: ちょっと銅鐸のことで ] お名前 [ 当世奇妙 ] 日付 [ 9月6日(水)22時05分35秒 ]


>> 佐古さんを知っていますか?豪快ですよ。

失礼しました。妻木晩田遺跡のことで有名な先生ですか?
豪快とは、どんなふうなんだろう。
店やっているから、どこにも行けないので、いろんな人と
会うこともないので。.....つまらんな



108

Re: ちょっと銅鐸のことで

投稿者[ はやしらいす ] 発言日時 [9月7日(木)01時02分13秒]

元の発言 [ Re: ちょっと銅鐸のことで ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 9月7日(木)00時06分48秒 ]

 yaohideさん、こんばんは。
 大阪の柏原市に鐸比古鐸比売神社があります。「ぬで」ひこ「ぬで」ひめ神社。式内社。平野部からやや信貴山に上がったところにあります。
 平野部からは流水文の銅鐸が出ています。
 この近くに大県遺跡があり、朝鮮半島製の多鈕細文鏡が出ています。
 辞書では鐸を「たく」「ぬて」「ぬりて」「さなき」と読んでいます。

 「ぬりて」が訛って「ぬて」「ぬで」になったのではないかなあ。もともとどこの言葉だったのか?
 朝鮮語かもしれませんね。

 年内に名古屋会議をやりましょうか。


11

奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ 避雷針 ] 発言日時 [9月2日(土)01時12分03秒]

ALEXさん、今日は。

藤原宮木簡の評制代の「□妻倭国」について。

#側面史料もないままに、折損で前後関係の判らない断片を唯一の根拠としてこのような判断されるのは、主観的に過ぎると思います。

これが7世紀の奈良地方の唯一の「倭国」表記の木簡であることは最初に断っているとおり
です。


・固有名詞
・「何某の妻」という表記
など考えられるところでしょう。
前後関係が不明の残闕で「こうだ/こうでない」という判断は困難のように思われます。
証拠として不適切です。

「妻」と「倭国」以下は同じ大きさと同じ間隔でつながっています。
国名の直前に間隔をおかずにそれとは全く異なる固有名詞や「何某の妻」という表記をして
いる木簡の例があるのであれば、示してもらえますか。
前後関係が不明であるから判断が困難であるというのであれば、7世紀に奈良地方が倭国と
いわれていたということも他の例はないので主張はできません。


113

Re: ちょっと銅鐸のことで

投稿者[ 当世奇妙 ] 発言日時 [9月7日(木)06時53分29秒]

元の発言 [ Re: ちょっと銅鐸のことで ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 9月7日(木)00時06分48秒 ]

>> >> 失礼しました。妻木晩田遺跡のことで有名な先生ですか?
>> 豪快とは、どんなふうなんだろう。
>> 店やっているから、どこにも行けないので、いろんな人と
>> 会うこともないので。.....つまらんな

*その人です。
*一緒に飲んで楽しい人です。
発見されても未発表の銅鐸破片などからの意見でした。


114

Re: ちょっと銅鐸のことで

投稿者[ ま さ ] 発言日時 [9月7日(木)09時58分58秒]

元の発言 [ ちょっと銅鐸のことで ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 9月6日(水)21時18分11秒 ]

「さなぎ」又は「さなぐ」という地名の近辺で
銅鐸が発掘されたり、鉱山関係の神社があったりと
いうような事例が谷川健一氏の本にはよく出てきます。

厳密には「さなぎ」ってのは鉄鐸のことらしいんですが。
元々銅鐸を意味した可能性は高いと思います。


12

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ 避雷針 ] 発言日時 [9月2日(土)07時17分41秒]

元の発言 [ 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ 避雷針 ] 日付 [ 9月2日(土)01時12分03秒 ]

この「□妻倭国」の木簡はおそらく一行で書かれていたものの右半分と上部が折損しており、その上には多くの文字はなかったと見られます。
国評制代の藤原宮木簡においては、通常、国名の上には間隔をおいて年月が書かれています。

前にも書きましたように、国評制の時代の紀年と地名のあるものにおいて、いわゆる飛鳥京を含めて、
(1)694年頃までは奈良地方の東方からしか木簡が
来ておらず、
(2)その後に奈良地方の西方からも木簡が現れますが、
中国地方の西部では急減し、
(3)九州地方から木簡が現れるようになるのは大宝令制(702年施行)の国郡制になってからです。
(「古代文化を考える」37号(1999年))
このように、690年代に飛鳥地方、ひいては奈良地方の政治的な性格が大きく変革していると見られます。
これ自体検討すべき重要なことですが、このことと「□妻倭国」が「あがつま倭国」と読むことができると推測されることが関係しているのではないかと思われます。



120

Re: ちょっと銅鐸のことで

投稿者[ ま さ ] 発言日時 [9月7日(木)11時49分16秒]

元の発言 [ Re: ちょっと銅鐸のことで ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月7日(木)10時27分05秒 ]

>>
>>
>>
>>
っていうか、基本的に技術者集団があったって考えなんでしょうね。
鋳直しとか、そういうの、鉱石から製錬するんじゃなくインゴットとか製品、クズとかから製銅製鉄する技術者ってのがいたのはほぼ確実でしょう。
#でなきゃ全部輸入品ってことになる。
和銅があるかないかは別に問題にはならないんじゃないですかね?
で、日本列島においても鉱山が見つかったりとか、そういう時代になったとき、ある種のノウハウを持っている鉱山技術者ってのは、そういう従来からの鋳直し技術者と交流を持っていたのでは?
私なりの理解では、この谷川説にいう「近辺」ってのがくせものだと思います。
その地点そのものではない(笑)
鋳直しと精錬に共通する地勢的条件は、強風であったと考えると、強風地帯に鋳直し集団が住んでいて、後に精錬技術者が半島から渡来したときに、同祖同系の鋳直し技術者を頼ってその集落の近辺に居を構え、そこを拠点に鉱山を探したとすれば、疑問は氷解し、また無理なく説明がつくと思います。
鉱山の神ってのも、本来は鋳直しに関する神だったかもしれないし、半島における鉱山の神だったかもしれませんが。



121

追加

投稿者[ ま さ ] 発言日時 [9月7日(木)12時43分24秒]

元の発言 [ Re: ちょっと銅鐸のことで ] お名前 [ ま さ ] 日付 [ 9月7日(木)11時49分16秒 ]

アイヌ文化を考えると、マキリのように鉄器が欠かせない訳ですが、これらは基本的に蝦夷地在住の和人鍛冶から交易により入手したらしいです。
#コシャマインの戦いの発端などを見ても分かる。

で、鉄器の普及により続縄文文化が発生し、更に土師器の影響下に擦文文化が発生し、更に更に北方のオホーツク文化の影響もあってアイヌ文化に移行したらしいのですが、アイヌ文化は金属器が必須であるにもかかわらず鉱山開発はやっていないんですね。
鋳直し技術者、鍛冶技術者などの蝦夷地在住和人から入手しているんです。
古代日本列島でも、似たように、半島からの渡来人が技術者集団として倭人に金属器を供給していたのではないでしょうか?
実際律令時代になってからも、鉱山関係の記事には百済王敬福とか出てきますし。
彼らが日矛の子孫を名乗っていたという谷川氏の研究は、意外に核心をついている気がします。


123

Re: 技術について

投稿者[ 田 ] 発言日時 [9月7日(木)13時21分26秒]

元の発言 [ Re: Title 北部九州玄海灘沿岸地域は ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月7日(木)03時20分02秒 ]

どうも

>>
>>
>>
>>
>>
古墳の築造に技術が必要ないという意味ではなくて、当然古墳についてもキチンとした設計がなされて、法面の傾きとか表面の排水、雨水等の浸透の抑制などしっかりとした技術が必要ですね。
つき固めては乾燥させる土についても、粘土質の土を砂礫を混ぜ合わせて(またはそのような構成の土を使って)、木の枝や稲藁、草など補強材を適度に併せる技術が必要でしょう。
子供のころ実家が土建屋をやっていたもので、土木というと、構造計算とか設計というかプランニングの技術が重要で、元請けがしっかりとした図面を引いていたんでしょうが、現場では作業員は土を運んでつき固める単純作業をこつこつとこなしていくという印象があったもので(コンクリートを使う場合の鉄筋の組方なんかは技術っぽかったな)、一度プランができるとどこでも作れるようになるということを書きたかったのです。
一方舟は刳り抜き丸木舟以外は水密構造など設計図があってもキチンと作ることも難しいかなと思ったのです。
古墳の最初のプラン作りは大変でしょう。小さな墳丘墓から最終形態の巨大古墳へと土木技術がだんだんと確立していったことを示す古墳の土質の分析や透視写真なんかあったら見てみたいです。


>>
>>
>>
>>
中部太平洋の横断は島伝いでも飲み水の関係で難しいでしょうが、北回りですかね。
そもさん、この人たちは、アメリカに渡った縄文人、先祖が日本列島に寄り道をしたモンゴロイドのネイティブアメリカン、どちらの表現が適切なのでしょうか。(意味のない質問でした。読み飛ばしてください。)




126

Re: ちょっと銅鐸のことで

投稿者[ ま さ ] 発言日時 [9月7日(木)13時59分05秒]

元の発言 [ Re: ちょっと銅鐸のことで ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月7日(木)13時14分31秒 ]

>>
>>
>>
>>
>>
ええ。
ただ、谷川氏も確か「仮説」レベルでの提唱だったと思うんですが<「銅鐸=さなき説」
結局倭名抄だかなんかに「鉄鐸=さなき」とか書いてあるということと、銅鐸発掘地の近辺に「さなぎ」「さなぐ」という地名が多いってことから見た「仮説」です。
ようするに「鐸」という楽器(?)のやまとことばが「さなき」なので、きっと銅鐸のこともそう呼んだんだろうという推測にすぎないんですが、可能性は高いように感じます。
ね?そのレベルなんです。
結構蓋然性高いでしょ?(笑)



13

Re: いろいろ纏めると、、。

投稿者[ 当世奇妙 ] 発言日時 [9月2日(土)07時54分15秒]

元の発言 [ いろいろ纏めると、、。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月1日(金)10時51分23秒 ]


>>
*今後各自これらの情報からどのように持論を組みたてる
かですね。
色々ありがとうございます。
ハードコピーをとらせてもらいます。



130

Re: ちょっと銅鐸のことで

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月7日(木)21時29分15秒]

元の発言 [ Re: ちょっと銅鐸のことで ] お名前 [ 当世奇妙 ] 日付 [ 9月7日(木)06時53分29秒 ]

>> *その人です。
>> *一緒に飲んで楽しい人です。
>> 発見されても未発表の銅鐸破片などからの意見でした。

いいな、いいな。
いろんな話が聞きたいな。


131

Re: ちょっと銅鐸のことで

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月7日(木)21時42分20秒]

元の発言 [ Re: ちょっと銅鐸のことで ] お名前 [ はやしらいす ] 日付 [ 9月7日(木)01時02分13秒 ]

はやしらいすさん、こんばんは。


>>  大阪の柏原市に鐸比古鐸比売神社があります。「ぬで」ひこ「ぬで」ひめ神社。式内社。平野部からやや信貴山に上がったところにあります。

そうなんですか。
信貴山へ最近いってないので、今度行くとき寄れるかな?
融通さんから近いかな?おっと朝護孫寺て言わないと
わからないかな?あの張り子の虎の馬鹿でかいのがある
ところです。

>>  年内に名古屋会議をやりましょうか。

いいですね、三河さんも是非さそって。


132

Re: どうも、よめました。ありがとうございます。

投稿者[ 池ちゃん ] 発言日時 [9月8日(金)00時03分18秒]

元の発言 [ どうも、よめました。ありがとうございます。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月7日(木)15時54分27秒 ]

 こんばんわ


>>
#そうなんですか。
昔、友人のうちに電話をかけたとき、ほぼ同時に電話をしていたことがありまして、これはこれで、めずらしいんですがね。
 12年前の話ですが・・・(遠い目)・・・
・・・あっ!失礼しました(^○^)。
 
>>
>>
#うん、いいんじゃないんですか?
別に迷惑掛けてるわけじゃなし。人によってはおちょくられているように感じる人もいるかもしれませんがね。
 専門用語がひらがなで書かれていることもあったりして
読みにくいこともありますが(実際に”一大率”を
”いちだいりつ”と読んでいたことがあって、大笑いしたものですが)その辺も素人っぽくていいと思います。
きっとああいう形で投稿してくるのは、なんかの事情があるんでしょう。どういう事情か知りませんが(^^;)


>>
>>
>>
>>
#特に縄文時代ね。弥生時代の遺跡でも諏訪湖にある
”湖底遺跡”なんてよくわからんものもありますが。
縄文の遺跡は発掘が進めば進むほど、わけのわからんものが出てくる・・・今回の”仮面土偶”もそうですね。
 

>>
>>
#すごいですよ。御柱のない年に木落し坂を見に行ったことがあるんですが(下諏訪のほう・・・茅野の木落しは
ショボい)歩いて降りるのだって怖い。ここを大木に乗って滑り降りるってんだから、正気の沙汰じゃありません。

>>  小説よりも映画にした方が、迫力があっていいかも。

>>
>>
>>
#どこかで合流できたらいいですね。
余談ですが、文芸に関してはちょっとした構想があって
来年一月までには発表したいと思います。お楽しみに。

>>
>>
>>
#会社の同僚に”ガメラ3”の助監督やった人のいとこがいるのです。わたし、あの映画大好きでして(特撮映画では”ゴジラ(昭和29年版)”なみの名作と勝手に思いこんでいる)ぜひとも会いたいとお願いしてるんですが、
いまだに会えません。


>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
#機会が会ったら読んでみたいですが、今、すっごくいそがしいのよ〜(*.*)
>>
>>
>>
>>
>>
>>
#なかなか、出ないものですよ。
大方の作家(小説・漫画・その他諸々)は出世作でしばらく食いつないで、その蓄えを食い尽くしてしまえば、一発屋だし、食い尽くす前にヒット作を出せれば”大作家”になる・・・天才と呼ばれる手塚治虫さんだって、全部が全部、名作ではないわけです(死んじゃったら、みんな名作になってしまったが、言っちゃ悪いが、あれは出版社のキャッチコピーみたいなもん。)せいぜい、「新宝島」
「火の鳥(初期のもの)」「ブラックジャック」
「アドルフに告ぐ」くらいじゃないかな?個人的には。まぁ、これだけ出せればたいしたものですよ。
アガサ=クリスティーだってあれだけの作品を書いているけど「そして誰もいなくなった」を読んじゃうと、もう、他は普通の作品になっちゃう。
 Leafにしても、一文字シリーズから先はどんどん、作品の質が落ちていってしまってる(まじかるアンティークはまだやってないからわからんけど)。Keyも”Air”の後が正念場でしょうね。”Moon”から”kanon”までの貯金があるから当分は大丈夫だろうし仮に(あくまで”仮”ね・・・多分いいものになってると思う。予約してるし・・・よくないと困る(^^;) )どんなにひどい出来でも”Air”は売れるでしょう。でも、作品の質が
”Moon””ONE”を超えられるかは疑問です(個人的には”Moon”が好きだが・・・暗いかな?)私個人としては
”Kanon”から下降線をたどっているような気がしてならないのです。
 かなり、話がずれましたが上遠野さんも、これからが正念場でしょうね(この人の作品を呼んだわけじゃないけど
一発屋のような気がする・・・)。
 
>>
>>
>>
>>
#私は九州・東遷説ですから、非常にドラマチックなシーンになると思いますよ。ただ、クライマックスとしてはどうかな・・・





133

Re: ちょっと銅鐸のことで

投稿者[ はやしらいす ] 発言日時 [9月8日(金)00時22分10秒]

元の発言 [ Re: ちょっと銅鐸のことで ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 9月7日(木)21時42分20秒 ]

 yaohideさん、こんばんは。

>> 融通さんから近いかな?おっと朝護孫寺て言わないと
>> わからないかな?あの張り子の虎の馬鹿でかいのがある
>> ところです。

 行ったことはありませんが奈良の平群にあるんですよね。ですから、鐸比古鐸比売神社は、高安山、信貴山を隔ててちょうどその反対の大阪側になります。物部系の神社もいっぱいあります。
 来られることがありましたら連絡ください。案内しますよ。

> 名古屋会議をやりましょうか。
>> いいですね、三河さんも是非さそって。

 そうしましょう。彼は熊の親戚みたいらしいですよ。(^o^)
 沙庭さんもさそいましょう。段取りしてみます。


135

Re: ちょっと銅鐸のことで

投稿者[ 三河 太郎 ] 発言日時 [9月8日(金)07時11分35秒]

元の発言 [ Re: ちょっと銅鐸のことで ] お名前 [ はやしらいす ] 日付 [ 9月8日(金)00時22分10秒 ]

yaohideさん、はやしらいすさんおはようございます。
早速のお誘いありがとう。

>> > 名古屋会議をやりましょうか。
>> >> いいですね、三河さんも是非さそって。
#何はさておいても出席します。

>>  そうしましょう。彼は熊の親戚みたいらしいですよ。(^o^)
#熊が気分を悪くしています。§^。^§
銅鐸の話題のようですが、銅の材料は微量元素分析法によれば国内産のものが随分ありますよ。多分、自然銅が主なようですが。


136

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ 避雷針 ] 発言日時 [9月8日(金)12時35分54秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ 蛟児 ] 日付 [ 9月6日(水)00時12分25秒 ]

蛟児さん、今日は。

>> 1.694年頃以前の紀年があり、且つ国名のある木簡
>> 2.694年頃以降大宝律令施行までの紀年があり、且つ国名のある木簡
>> は、それぞれ何件あるのでしょうか?

以下のとおりです。

飛鳥池
・677年 三野国(2件)
・紀年だけ 3件(677−693年)
・評・五十戸名だけ 10件(1件を除いて東国と若狭)
(伊予国と見られる久米評は695年以後と推測される)

藤原宮
・683年 三野大野評
・691年 尾治国
・694年 尾治国
・696年 旦波(国)
・697年 若狭国(2件)
・698年 三野国、若佐国、波伯吉(伯耆)国
・699年 上挟国、三野国、若佐国(2件)(旦波国)二方評、吉備(中)国、
・700年 川内国、若佐国
紀年のない評名のものは藤原京を含めて87件あり、前述のように中国地方の西部が少なく、九州地方がありません。

>> >> ただ、一つの推測をさせていただければ、690年代以前の飛鳥(奈良)地方はある政治的な中心から見て東方にある役所(総領とか大宰とかいわれている機構)が置かれた地方であった可能性を想定しています。

>> >> 690年代後半の木簡状況はその飛鳥地方に新たな勢力が入り、かつ政治的な中心との間に対立的な関係にあったことを示しているように推測されます。

>>  ここで言われている「政治的な中心」というのは、九州の地名のある木簡が奈良地方から出ていないということに論拠があることから考えて、その所在地は九州であると考えておられると推測されますが、そう考えてよろしいでしょうか?

九州と考えております。
これは1里=80mとすると、「日本書紀」で朝鮮海峡が二千余里、「隋書」で朝鮮半島から都まで三千里という記事と対応します。




137

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [9月8日(金)15時10分47秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ 避雷針 ] 日付 [ 9月8日(金)12時35分54秒 ]

今日は。

>紀年のない評名のものは藤原京を含めて87件あり、前述のように中国地方の西部が少なく、九州地方がありません。

#694年以前のものは、わずか5例(2ケ国)しか掲げておられません。
 しかも紀年と評名の両方が判明しているのは全体の1/4程度に過ぎないのですから、おっしゃるような694年を契機とする大きな変動を想定するのは資料の用い方として正しくありません。

 出土した評名の分布を見ますと。

隠岐13*************
若狭13*************
備中9*********
丹波7*******
丹後6******
美濃6******
尾張6******
伊予5*****
播磨4****
出雲4****
上野4****
遠江3***
近江3***
河内3***
下野2**
駿河2**
阿波2**
周防2**
備前1*
但馬1*
伯耆1*
安房1*
大和1*
常陸1*
三河1*
山城1*
伊勢1*
信濃1*
武蔵1*

(除く伊場、太宰府出土木簡)

 ここでは、たとえば「神前評」のような近江・播磨・肥前に同名の地名があってどことも断定できないものは除外しています。また隠岐や尾張などにある「海評」からの木簡が複数あり、可能性としては隠岐が最多数かと思われます。

 九州地方はのちの世でも太宰府が集約してまとめて進上したりしているので、九州の地名の付札がないのは何の不思議も無いと思います。九州以外でも総領する機関があればその地域からの付札は当然少なくなることと思います。

 地域的広がりの範囲を瞥見しても、これが東方を総領する機関に集まった付札で政治的中心は九州にあったという見解は成立の余地が無いでしょう。

 また、かさねて申しますが「□妻」を「あがつま」と読む根拠はありません。


138

Title千里一寸法の陥穽

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [9月8日(金)16時49分13秒]

 後漢末に、南北に千里の距離を隔てると太陽の影一寸ぶんの違いが出るという観念が存在したことは事実であります。もちろんこれは訓古の学の中にのみ見出せるのであって、実態と遊離した思弁であると考えていることは既に述べましたが、これを応用して測地を行なえると考える者が皆無であったと証明するすべはありません。

 しかし、仮にこの方法で2点間の距離を実際測ったとしたらどうなるでしょうか?今回はその副作用について述べます。


(1)千里一寸法で測ると約76kmが「千里」と出る

 これは事実です。
 出発点と終着点で夏至の日の南中時に8尺の日時計の針を垂直に立て、影の長さを測ります。2年かければ出来るでしょう。正確な東西を出すのに日時計を使用することは知られていますし、「千里が一寸」という概念を真実と思えば、これで実際の南北距離を測れると考えた人物が出てもなんの不思議もありません。


(2)帶方から前原までおおむね「7千里」台と出る

 前原近辺では影の長さはおおむね1尺4寸程度になるでしょう。帶方郡を沙里院付近とすると、影の長さの差はおおむね7寸5分。7,500里と出ます。韓が4千里四方とすれば、循海岸水行7,000里あまりのうち南へは4,000里見当しか進めません。ですから、この7,000里の内訳を南へ4,000里東へ3,000里と振り分けて考えると、倭人伝の伊都國までの行程とおおむね近い数字が出ます。ここから「短里」で2,000里も南へ行けば邪馬壹國ということですから、そこでも測ったとすれば九州説完成です。
大変結構です。


(3)そこは中国でいうとどのへんか?

 さて当然のことながら、測定者は洛陽で影の長さが1尺6寸ということを知っています。これが基本ですから当然です。したがって、伊都國で影の長さを測ったなら、そこが洛陽の南2,000里(純粋に南北方向で)ということを瞬間的に理解します。
 もちろん、彼には邪馬壹國が洛陽から南北成分4,000里の位置にあることも自明です。ということは

(4)測定者が「短里」を使っていたとすると
 1里は75m程度、千里が75km程度ですから、伊都國は落陽より150kmほど、邪馬壹國は300kmほど程度の南国。ですから


(5)倭國は揚子江よりはるかに北にある
 ということが自明です。会稽より200kmは北、東冶はまだまだはるか彼方です。
 ということは、千里一寸で距離を出した人間が本文も書いたということは有り得ない。彼は数字を出す以外のことはしていないことになります。洛陽から300km程度といえば、せいぜい合肥あたり。南国でも何でもないわけですから、彼は倭國を訪れていろいろ風俗を報告したグループとは別行動だったと考えざるを得ません。数字だけ出して忽然と消えたのでしょうか。
 千里一寸にこだわるなら、より合理的な解釈は『彼が平素ごく普通の1里(四百数十米)を使う人で、ただ千里一寸を使うと大幅に間違った結果が出るということを気づかなかった』というものでしょう。


 倭人伝の本文を書いた人間は「短里」というものが存在したとは知らなかったでしょう。
 もちろん、知っているのは現代の一部の日本人だけです。
 …たぶんあらゆる時代を通じて…


139

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ 蛟児 ] 発言日時 [9月8日(金)21時11分08秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ 避雷針 ] 日付 [ 9月8日(金)12時35分54秒 ]

 避雷針さん、こんばんは!既にALEXさんのレスが入っていますが、私も少し、考えたことがあります。

 御教示ありがとうございます。私の方も、奈良国立文化財研究所の木簡データベースを利用して調べていましたので、その結果を報告したいと思います。この木簡データベースには、平城宮・平城京出土木簡が 17,235 、藤原京出土木簡が1,333、飛鳥京・飛鳥池出土木簡が256登録されています。

>> >> 1.694年頃以前の紀年があり、且つ国名のある木簡
>> >> 2.694年頃以降大宝律令施行までの紀年があり、且つ国名のある木簡
>> >> は、それぞれ何件あるのでしょうか?

>> 以下のとおりです。

>> 飛鳥池
>> ・677年 三野国(2件)

 他に、
687年『丁亥年若狭小丹評○/木津□〔部ヵ〕五十戸/秦人小□□□〔益二斗ヵ〕』
がありました。

>> ・紀年だけ 3件(677−693年)
>> ・評・五十戸名だけ 10件(1件を除いて東国と若狭)
>> (伊予国と見られる久米評は695年以後と推測される)

 飛鳥池出土の畿内以西の国名を有する木簡には他につぎのものがあります。

『・吉備道中国加夜評・葦守里俵六□』

 それから、国名は記されていないけれども、大和以西と考えられるものに、次ぎのものがあります。

『湯評伊波田人葛木部鳥』(伊予)
『・湯評大井五十戸・凡人部己夫』(伊予)
『湯評井刀丈部首□』(伊予)
『・粒評石見□[里ヵ] ・○〈〉』(播磨)
『次評』(隠岐)
『次評/上部五十戸巷宜部/□□□〔刀由弥ヵ〕軍布□□‖』(隠岐)
『・←我評高殿・秦人虎』(丹波)
『三間評○小豆○〈〉』(阿波)
『・←野評□〔佐ヵ〕野五十→ ・五斗』(丹後)
『弥奈部下五十戸』(紀伊)
『・□□〔加夜ヵ〕評阿□□〔蘓里ヵ〕人・羅□〔曳ヵ〕連□□\□□□○□□□○廿三□』(備中)
『・加□□〔夜評ヵ〕〈〉・□□□〔波ヵ〕佐□〔〓ヵ〕俵□〔二ヵ〕』(備中)

 従って、694年前後に大きな政治的変革があったことを示す徴候は無いようです。

>> 藤原宮
>> ・683年 三野大野評
>> ・691年 尾治国
>> ・694年 尾治国
>> ・696年 旦波(国)
>> ・697年 若狭国(2件)
>> ・698年 三野国、若佐国、波伯吉(伯耆)国
>> ・699年 上挟国、三野国、若佐国(2件)(旦波国)二方評、吉備(中)国、
>> ・700年 川内国、若佐国
>> 紀年のない評名のものは藤原京を含めて87件あり、前述のように中国地方の西部が少なく、九州地方がありません。

 藤原宮・藤原京出土の紀年のある木簡で、九州の可能性がある地名を持つ木簡として次ぎのものがありました。

【山城国紀伊郡紀伊郷・讃岐国刈田郡紀伊郷・肥前国基肆郡基肆郷】
695年 乙未年木夷/秦人倭/里‖

 また、紀年はないものの、評制期で九州の可能性がある地名を持つ木簡としてつぎのものがありました。

【(尾張国・隠岐国・紀伊国・豊後国)海部郡中□里】
『海評/中□里/支止軍布‖』

【(近江国・播磨国・肥前国)神前郡】
『神前評□□□』

 もちろん、これらの評が九州のものであるという保証も何もありませんので、少し違った角度から考え直してみましょう。
 平城宮・平城京出土木簡から、九州の地名ないしその可能性がある地名を有する木簡を各国別に検索してみます。

筑前国 21 筑後国 10 肥前国 13 肥後国 29 豊前国 10 豊後国 10 日向国 7 大隅国 3 薩摩国 7 対馬国 1 壱岐国 1

 単純に合計して112件です。平城宮・平城京出土木簡17,235のうちで、最大限に見積もってもこれだけなのです。藤原京出土木簡1,333、飛鳥京・飛鳥池出土木簡が256の中に確実な九州の地名が無いことも別に不思議なことではないと思います。

 ちなみに、ALEXさんが、提示している出土した評名の分布で特に集中している隠岐・若狭について、平城宮・平城京出土木簡から同様に検索してみます。

隠岐 94 若狭 114

 こうしてみると、木簡の出土状況から、大宝律令施行前後に政治的変革があったと主張することもできないと思います。


>> >> >> ただ、一つの推測をさせていただければ、690年代以前の飛鳥(奈良)地方はある政治的な中心から見て東方にある役所(総領とか大宰とかいわれている機構)が置かれた地方であった可能性を想定しています。
>> >> >> 690年代後半の木簡状況はその飛鳥地方に新たな勢力が入り、かつ政治的な中心との間に対立的な関係にあったことを示しているように推測されます。

>> >>  ここで言われている「政治的な中心」というのは、九州の地名のある木簡が奈良地方から出ていないということに論拠があることから考えて、その所在地は九州であると考えておられると推測されますが、そう考えてよろしいでしょうか?

>> 九州と考えております。

 日本書紀の舒明朝以降六次に渡る遣唐使派遣記事は、第二次を除いて中国側にも対応する記録があり、唐と国交を結んでいたのが舒明以降の歴代天皇であることは明らかだと思います。大宝律令施行前後に王権の移動のような政治的変革があった形跡は、中国の唐代文献にもまったくありません。

 木簡から見ても、中国文献から見ても、国内文献から見ても、七世紀に倭国の政治的中心があったと考えるのは、斉明天皇及び中大兄皇子の九州滞在中を別にすれば、まったく根拠がないと思います。

>> これは1里=80mとすると、「日本書紀」で朝鮮海峡が二千余里、「隋書」で朝鮮半島から都まで三千里という記事と対応します。

 隋(ないし唐)で短里が使われていたんですか?


14

Re: Title三角縁神獣鏡と連弧文銘帯鏡そろって出土

投稿者[ 当世奇妙 ] 発言日時 [9月2日(土)07時56分57秒]

元の発言 [ Title三角縁神獣鏡と連弧文銘帯鏡そろって出土 ] お名前 [ ま さ ] 日付 [ 9月1日(金)15時18分51秒 ]

>> こちらを↓

福井新聞31日では岡村先生がコメントを
出している。かなり慎重かな?


140

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ 避雷針 ] 発言日時 [9月8日(金)22時30分07秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ 蛟児 ] 日付 [ 9月8日(金)21時11分08秒 ]

蛟児さん、今日は。

とりあえず、里から。

>> >> 「日本書紀」で朝鮮海峡が二千余里、「隋書」で朝鮮半島から都まで三千里という記事と対応します。

>>  隋(ないし唐)で短里が使われていたんですか?

勿論、隋や唐では1800尺の里が用いられています。
しかし、「隋書」のこの記事ではそうではないということです。
(隋代の里であれば三千里は津軽海峡の方まで行きますから。)




141

Re: 天下分け目の合戦!

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月8日(金)22時43分41秒]

元の発言 [ Re: 天下分け目の合戦! ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月6日(水)00時15分50秒 ]

>> #じゃなくて、「前方後円墳」の祖形は何所で興ったとお考えですか。
>> #以前、吉備だとレスされてませんでしたっけ。
>>
>>
>>
>>
#と言うことは、「前方後方墳」などは箸墓以前なんでしょうか。
#その頃は「吉野ヶ里」〜「鳥栖・小郡」辺りは東海との繋がりが深かった。
#パレス壺も出土しているし。




142

Re: ちょっと銅鐸のことで

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月8日(金)22時54分22秒]

元の発言 [ Re: ちょっと銅鐸のことで ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 9月6日(水)23時57分08秒 ]

>> 朝鮮式小銅鐸
>> は宇佐からも見つかっていますよね。
#福岡市埋蔵文化センターに行くと、受付の前においてあるノートPCで「雀居」出土の馬鐸の音が聞けます。§^。^§


143

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ 避雷針 ] 発言日時 [9月9日(土)01時19分31秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ 蛟児 ] 日付 [ 9月8日(金)21時11分08秒 ]

蛟児さん、今日は。
有難うございます。

>> >> ・紀年だけ 3件(677−693年)
>> >> ・評・五十戸名だけ 10件(1件を除いて東国と若狭)
>> >> (伊予国と見られる久米評は695年以後と推測される)

上記を書いたときにこれらが伝飛鳥京跡のものというのを落としていました。
里よりも古いとされる五十戸という表記の木簡が多い遺跡であり、東国と若狭という傾向が出ているということを述べようとしたものです。

>>  それから、国名は記されていないけれども、大和以西と考えられるものに、次ぎのものがあります。

>> 『湯評伊波田人葛木部鳥』(伊予)
>> 『・湯評大井五十戸・凡人部己夫』(伊予)
>> 『湯評井刀丈部首□』(伊予)
>> 『・粒評石見□[里ヵ] ・○〈〉』(播磨)
>> 『次評』(隠岐)
>> 『次評/上部五十戸巷宜部/□□□〔刀由弥ヵ〕軍布□□‖』(隠岐)
>> 『・←我評高殿・秦人虎』(丹波)
>> 『三間評○小豆○〈〉』(阿波)
>> 『・←野評□〔佐ヵ〕野五十→ ・五斗』(丹後)
>> 『弥奈部下五十戸』(紀伊)
>> 『・□□〔加夜ヵ〕評阿□□〔蘓里ヵ〕人・羅□〔曳ヵ〕連□□\□□□○□□□○廿三□』(備中)
>> 『・加□□〔夜評ヵ〕〈〉・□□□〔波ヵ〕佐□〔〓ヵ〕俵□〔二ヵ〕』(備中)

私は上記は694年以前のものには含めていません。それ以後と考えています。

>>  また、紀年はないものの、評制期で九州の可能性がある地名を持つ木簡としてつぎのものがありました。

>> 【(尾張国・隠岐国・紀伊国・豊後国)海部郡中□里】
>> 『海評/中□里/支止軍布‖』
>> 【(近江国・播磨国・肥前国)神前郡】
>> 『神前評□□□』

海評について、海評佐々里が隠岐国にあることから、海評は隠岐国と考えています。
神前評について、神前評川辺里が播磨国にあることから、神前評は播磨国と考えています。

>>  平城宮・平城京出土木簡から、九州の地名ないしその可能性がある地名を有する木簡を各国別に検索してみます。

>> 筑前国 21 筑後国 10 肥前国 13 肥後国 29 豊前国 10 豊後国 10 日向国 7 大隅国 3 薩摩国 7 対馬国 1 壱岐国 1

>>  単純に合計して112件です。平城宮・平城京出土木簡17,235のうちで、最大限に見積もってもこれだけなのです。藤原京出土木簡1,333、飛鳥京・飛鳥池出土木簡が256の中に確実な九州の地名が無いことも別に不思議なことではないと思います。

奈良時代については筑紫の大宰府の存在を考えることが可能と思われますが、評制の時代においては「日本書紀」に大宰・総領といわれたのは他に吉備、伊予、周防とあり、いずれも藤原宮に木簡が来ています(特に、吉備は多い)。
従って、九州地方のものがない理由として大宰の存在は根拠にならないと思われます。



144

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ 避雷針 ] 発言日時 [9月9日(土)01時34分20秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月8日(金)15時10分47秒 ]

>> 今日は。

>>  九州地方はのちの世でも太宰府が集約してまとめて進上したりしているので、九州の地名の付札がないのは何の不思議も無いと思います。九州以外でも総領する機関があればその地域からの付札は当然少なくなることと思います。

これについては蛟児さんへのレスポンスに書きました。

>>  地域的広がりの範囲を瞥見しても、これが東方を総領する機関に集まった付札で政治的中心は九州にあったという見解は成立の余地が無いでしょう。

私が飛鳥地方に東方を総領する機関があったのではないかと述べているのは690年代の前半までのことです。
後半は藤原宮の勢力が西方をも支配しようとしていた時期であったと推測しており、九州地方を除いて全国的な広がりがあったことは当然です。

>>  また、かさねて申しますが「□妻」を「あがつま」と読む根拠はありません。

ALEXさんは、評制代の藤原宮の木簡に「年月+国評」という様式があったことは認めておられるのですか。



145

Re: Title千里一寸法の陥穽

投稿者[ 避雷針 ] 発言日時 [9月9日(土)01時55分54秒]

元の発言 [ Title千里一寸法の陥穽 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月8日(金)16時49分13秒 ]

今日は。

>>  倭人伝の本文を書いた人間は「短里」というものが存在したとは知らなかったでしょう。
>>  もちろん、知っているのは現代の一部の日本人だけです。
>>  …たぶんあらゆる時代を通じて…

なかなか文学的な表現なので、コメントを付けるべきかどうか迷ってしまいます。

>>  千里一寸にこだわるなら、より合理的な解釈は『彼が平素ごく普通の1里(四百数十米)を使う人で、ただ千里一寸を使うと大幅に間違った結果が出るということを気づかなかった』というものでしょう。

愚問ではありますが、「大幅に間違った結果」とは何のことを何を根拠に言われていますか。
1800尺の1里を前提にしているとすると堂堂巡りになりますが。



146

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [9月9日(土)02時28分10秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ 避雷針 ] 日付 [ 9月9日(土)01時34分20秒 ]

今日は。

>これについては蛟児さんへのレスポンスに書きました。

#お答えには論理的な誤りがあるようです。

「地域を総領する機関があれば各地から直接の送付が無いことはありうる」
という指摘に対し
「吉備や伊予に総領機関があった形跡があるが直接の送付はある」
という事実をあげても反証にならないのです。なぜなら
「地域を総領する機関があれば各地から直接送付されることはありえない」
という指摘ではないからです。


>私が飛鳥地方に東方を総領する機関があったのではないかと述べているのは690年代の前半までのことです。
>後半は藤原宮の勢力が西方をも支配しようとしていた時期であったと推測しており、九州地方を除いて全国的な広がりがあったことは当然です。

#大多数を占める紀年の伴わない「評」木簡を690年代の前半と後半に区別できない限り、なんの根拠もありません。


>ALEXさんは、評制代の藤原宮の木簡に「年月+国評」という様式があったことは認めておられるのですか。

#認めるもなにも、当然あるでしょう。すべてそうでなくてはならないとは考えないだけです。
 避雷針さんは、評制代の藤原宮の木簡に「年月+国評」という様式以外がありえないとお考えですか?そうでないと「□妻倭国」が一体の国名だと見なす理由がなくなりますが。

ところで、まだ「あがつま」とお読みでしょうか?それと2度目の質問ですが、「倭国」はなんと読んでおられるのですか?


147

Re: Title千里一寸法の陥穽

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [9月9日(土)02時31分56秒]

元の発言 [ Re: Title千里一寸法の陥穽 ] お名前 [ 避雷針 ] 日付 [ 9月9日(土)01時55分54秒 ]

今日は。

>> 愚問ではありますが、「大幅に間違った結果」とは何のことを何を根拠に言われていますか。
>> 1800尺の1里を前提にしているとすると堂堂巡りになりますが。

#当然前提にしております。
違うとおっしゃる合理的な理由がありますか?


148

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ 蛟児 ] 発言日時 [9月9日(土)04時30分02秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ 避雷針 ] 日付 [ 9月8日(金)22時30分07秒 ]

避雷針さん、今晩は。(’おっはー’かな?)

>> しかし、「隋書」のこの記事ではそうではないということです。
>> (隋代の里であれば三千里は津軽海峡の方まで行きますから。)

 津軽海峡までなんか届くわけありません。新羅の首都慶州あたりから奈良の飛鳥あたりまでの道程「水陸三千里」というのは、概ね妥当な数字です。


149

Re: どうも、よめました。ありがとうございます。

投稿者[ 池ちゃん ] 発言日時 [9月9日(土)06時24分14秒]

元の発言 [ Re: どうも、よめました。ありがとうございます。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月8日(金)01時59分50秒 ]

 おはようございます。

>>
>>
#私は”甘木説”です。
この前、koujiさんにお会いしたとき、
「せめて、宇佐ぐらいにしといたほうがいいよー。」
とご忠告いただきましたが、いろいろ考えて、やっぱり
”甘木”・・・縦書きにすれば、後で言い訳できるから
というわけではありませんよ。
心愛さんと一緒というのはいいけど、○本○典と同じ説というのは、腹が立つが仕方がない。

>> #会社の同僚に”ガメラ3”の助監督やった人のいとこがいるのです。わたし、あの映画大好きでして(特撮映画では”ゴジラ(昭和29年版)”なみの名作と勝手に思いこんでいる)ぜひとも会いたいとお願いしてるんですが、
>>
#なんて、話をしてたら、昨日テレビでやっていたんですな。すごい偶然。
 帰宅して、テレビをつけたら、ちょうど感動のラストをやっていました。
 やっぱ、いいわぁ。あれで”ゴジラシリーズ(平成)”の予算の五分の一しか使ってないってんだからすごい。
 苦労して、少ない予算の中で作った映画に愛着があるんですよ。昔の映画はそういう精神に満ちていました。いまは簡単にCGがつくれますから、簡単な分だけ
”垂れ流し”になってしまうんですね。

>>
>>
#いろいろあって、かいしゃがつぶれそうなんですよぉ。
(TT)

>>
>>
#そうじゃないのも買って、全部クリアしました。
同じ時に買った”Moon”もクリアしました。
さらに同じ時に買った”同棲”は・・・やってません。
 ”面白くない”というわけではないんですよ。
実際、それぞれのクライマックスでは感動しましたし。
あゆのシナリオなんかよくできていたと思うし。
 ただ、私にとっては”One”があまりにも強烈過ぎたのです。あの作品と比べると、やっぱり少し落ちるなぁ・・・
と思ってしまうわけです。
 Leafについても同じです。”To Heart”が嫌いなわけではなく、ただ、”一文字”シリーズと比べるとやっぱり・・・となるわけです。

>>
#もう、売ってるの?
私が予約に行ったとき「発売が28日に延びました」
といわれて、待ち焦がれているんですが・・・

>>  かなり、話がずれましたが上遠野さんも、これからが正念場でしょうね(この人の作品を呼んだわけじゃないけど
>> 一発屋のような気がする・・・)。


>>
#やっぱり、盛り上がるのはその後の時代ということになってしまうんじゃないでしょうか。
 あと、卑弥呼の死後の混乱を経て、台与が女王に即位するあたりとかね。





15

Re: 三神三獣鏡について@お遊び投稿(^^)

投稿者[ とも ] 発言日時 [9月2日(土)09時22分07秒]

元の発言 [ Re: 三神三獣鏡について@お遊び投稿(^^) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月2日(土)00時17分58秒 ]

@お遊び投稿と言うことで、推測、想像、てんこ盛りで行きます。

>>
このことは、先にkoujiさんが書いていた、デザインの急速な簡略化とあわせて、背景にデザイン軽視の思想があったのではないか。

つまり、鏡作りに向かう思想みたいなものが、根本的に違っていたのではないか、と言うことです。
出来上がった鏡を自慢する、あるいはそれを見て満足するときの基準が、「美しい鏡」よりも「(作るのが)難しい鏡」の方に偏っていたのではないでしょうか。

>>
そうですね。
さらに穿った見方をすると、あれは実は試作品段階にあったものなのではないか、と思えます。
現代の企業ならば、正式な製品として、と言うよりもサンプル配布に近いレベルのものであったのではないかと。
もちろん、これは初期の三角縁神獣鏡についてですが。

私としては、そのような鏡を下賜鏡とするか、と言うことに疑問は感じます。
デザイン面での出来の善し悪しは別にしても、もう少し保守的で、定型化している鏡を渡しそうな気がします。



150

Re: ちょっと銅鐸のことで

投稿者[ 三河 太郎 ] 発言日時 [9月9日(土)08時55分07秒]

元の発言 [ ちょっと銅鐸のことで ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 9月6日(水)21時18分11秒 ]


yaohideさん今日は。軒先を少々お借りします。

銅鐸の音色について。私、二度ばかり銅鐸の音を聞いたことがありますが、私の耳には
決して心地良い音には、聞こえませんでした。
お前さんの耳が悪いと言われるとグーの音も出ませんが。§^。^§
個人の感性の問題が大きいでしょうが、当時の人々はどのように聞いていたのだろうか?。
本当に「聴く銅鐸」として音を愛でていたのだろうか?
愛でるほどの音でなかったから「見る銅鐸」へ大型化したのだろうか?
などなど思い巡らせておりました。

そう言えば、ここの大先輩に「音の大家」がいたなあ。
名前は確か・・・・「身も心も何とか賢人」さんだったか、「多羅尾伴内」さんがったか?
巷の噂ではなにやら信州へ巡礼の旅に出ているとか。
何時帰ってくるのだろうか。



151

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ 蛟児 ] 発言日時 [9月9日(土)09時38分41秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ 避雷針 ] 日付 [ 9月9日(土)01時19分31秒 ]

 避雷針さん、こんどは本当に、おはようございます。

>> >> >> ・紀年だけ 3件(677−693年)
>> >> >> ・評・五十戸名だけ 10件(1件を除いて東国と若狭)
>> >> >> (伊予国と見られる久米評は695年以後と推測される)

>> 上記を書いたときにこれらが伝飛鳥京跡のものというのを落としていました。
>> 里よりも古いとされる五十戸という表記の木簡が多い遺跡であり、東国と若狭という傾向が出ているということを述べようとしたものです。

>> >>  それから、国名は記されていないけれども、大和以西と考えられるものに、次ぎのものがあります。

>> >> 『湯評伊波田人葛木部鳥』(伊予)
>> >> 『・湯評大井五十戸・凡人部己夫』(伊予)
>> >> 『湯評井刀丈部首□』(伊予)
>> >> 『・粒評石見□[里ヵ] ・○〈〉』(播磨)
>> >> 『次評』(隠岐)
>> >> 『次評/上部五十戸巷宜部/□□□〔刀由弥ヵ〕軍布□□‖』(隠岐)
>> >> 『・←我評高殿・秦人虎』(丹波)
>> >> 『三間評○小豆○〈〉』(阿波)
>> >> 『・←野評□〔佐ヵ〕野五十→ ・五斗』(丹後)
>> >> 『弥奈部下五十戸』(紀伊)
>> >> 『・□□〔加夜ヵ〕評阿□□〔蘓里ヵ〕人・羅□〔曳ヵ〕連□□\□□□○□□□○廿三□』(備中)
>> >> 『・加□□〔夜評ヵ〕〈〉・□□□〔波ヵ〕佐□〔〓ヵ〕俵□〔二ヵ〕』(備中)

>> 私は上記は694年以前のものには含めていません。それ以後と考えています。

 根拠は何ですか?


>> >> 藤原宮・藤原京出土の紀年のある木簡で、九州の可能性がある地名を持つ木簡として次ぎのものがありました。

>> >> 【山城国紀伊郡紀伊郷・讃岐国刈田郡紀伊郷・肥前国基肆郡基肆郷】
>> >> 695年 乙未年木夷/秦人倭/里‖

>> >>  また、紀年はないものの、評制期で九州の可能性がある地名を持つ木簡としてつぎのものがありました。

>> >> 【(尾張国・隠岐国・紀伊国・豊後国)海部郡中□里】
>> >> 『海評/中□里/支止軍布‖』
>> >> 【(近江国・播磨国・肥前国)神前郡】
>> >> 『神前評□□□』

>> 海評について、海評佐々里が隠岐国にあることから、海評は隠岐国と考えています。

 木簡データベースの釈文では「中□里」となっていますから、「佐々里」と確実に読めるわけではないのではないですか?


>> 神前評について、神前評川辺里が播磨国にあることから、神前評は播磨国と考えています。

 同じく、木簡データベースの釈文では、「□□□」となっていますから、「川辺里」と確実に読めるわけではありませんよね?


>> >>  平城宮・平城京出土木簡から、九州の地名ないしその可能性がある地名を有する木簡を各国別に検索してみます。

>> >> 筑前国 21 筑後国 10 肥前国 13 肥後国 29 豊前国 10 豊後国 10 日向国 7 大隅国 3 薩摩国 7 対馬国 1 壱岐国 1

>> >>  単純に合計して112件です。平城宮・平城京出土木簡17,235のうちで、最大限に見積もってもこれだけなのです。藤原京出土木簡1,333、飛鳥京・飛鳥池出土木簡が256の中に確実な九州の地名が無いことも別に不思議なことではないと思います。

>> 奈良時代については筑紫の大宰府の存在を考えることが可能と思われますが、評制の時代においては「日本書紀」に大宰・総領といわれたのは他に吉備、伊予、周防とあり、いずれも藤原宮に木簡が来ています(特に、吉備は多い)。
>> 従って、九州地方のものがない理由として大宰の存在は根拠にならないと思われます。

 日本書紀といえば、宣化天皇紀に、
 
『(元年)夏五月辛丑朔、詔曰、「食者天下之本也。黄金萬貫、不可療飢。白玉千箱、何能救冷。夫筑紫國者、遐邇之所朝届、去來之所關門。是以、海表之國、侯海水以來賓、望天雲而奉貢。自胎中之帝、[扁三水旁自]于朕身、牧藏穀稼、蓄積儲粮。遙設凶年、厚饗良客。安國之方、更無過此。故、朕遺阿蘇仍君、【未詳也。】加運河内國茨田郡屯倉之穀。蘇我大臣稻目宿禰、宜遣尾張連、運尾張國屯倉之穀、物部大連麁鹿火、宜遣新家連、運新家屯倉之穀、阿倍臣、宜遣伊賀臣、運伊賀國屯倉之穀。脩造宮家、那津之口。又其筑紫肥豐、三國屯倉、散在懸隔。運輸遙阻。儻如須要、難以備率。亦宜課諸郡分移、聚建那津之口、以備非常、永爲民命。早下郡縣、令知朕心。」』

という記事があります。筑前への物資の集積は大宝律令以前から行われていることがわかりますし、ここに端的に語られているように、九州と吉備・伊予・周防を同列に論じることも出来ないでしょう。

 結局のところ、694年前後はもとより、大宝律令施行前後においても、「政治的中心」の移動などの、政治的変革があった形跡はないわけです。

 ところで私は、

>> >>  日本書紀の舒明朝以降六次に渡る遣唐使派遣記事は、第二次を除いて中国側にも対応する記録があり、唐と国交を結んでいたのが舒明以降の歴代天皇であることは明らかだと思います。大宝律令施行前後に王権の移動のような政治的変革があった形跡は、中国の唐代文献にもまったくありません。

とも指摘させていただきましたが、これについては何か御見解はございませんでしょうか?


152

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [9月9日(土)12時28分27秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ 避雷針 ] 日付 [ 9月3日(日)14時10分54秒 ]

今日は。

>また『万葉集』に豊前国の海岸での歌として
> 海原の 沖辺にともし いざる火は 明かしてともせ やまと島見む (十五−三六四八)
>とあります。

#作者は豊前の海岸から沖のほうを見ているわけです。沖の漁船の灯火を明るくともしたら見えるものは当然九州以外の何かですが、実際は船端と海面が見えればいいところです。

 この歌は東九州の海岸から「沖の漁り火を明るく燈してくれ。やまと島が見たい。」と願望を詠んでいるのですから、見たいのは海の向こうの故郷であって、実際に見える距離に見える距離にある必要はありません。
 万葉で「見る」ということがどういう意味かは、基礎的な研究書をあたって下さい。


>淡海についても
> 鯨魚(いさな)取り 淡海の海を (二−一五三)
>とあります。
>この淡海は8世紀の近江の琵琶湖であったようには見えません。

#この歌の舞台となった土地が「鯨の生息する淡水の海」のほとりであるという主張には、一片の合理性もありません。
 鯨は海の枕詞で意味がありません。


>私は8世紀に書かれた『日本書紀』の地名はもとあった地方から移動して記述されたのではないかという仮説を立てています。

# これらを既に文章で発表なさっているなら、陰で失笑を買っていること間違いありません。この分野でも直言してくれる友人をお持ちになることをお勧めします。
 古典の読解の基礎的な勉強をなさってから挑戦するのがよいでしょう。


154

Re: ちょっと銅鐸のことで

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月9日(土)15時10分18秒]

元の発言 [ Re: ちょっと銅鐸のことで ] お名前 [ 三河 太郎 ] 日付 [ 9月9日(土)08時55分07秒 ]

三河 太郎さん今日は。

>> 銅鐸の音色について。私、二度ばかり銅鐸の音を聞いたことがありますが、私の耳には
>> 決して心地良い音には、聞こえませんでした。

岐阜の歴博で、聞いた気がしますが、そんなに悪くは、なかったかな。
ただ本来の使用目的が問題だったと思うんですよ。
音楽のための楽器としてではなかったでしょう。

結構人の住んでいなかったところから出てきたりすると
いうことで、通信手段だったとか、そんなことないかな。

大きな音が出ればよいわけで、笛は吹くテクニックが必要
ですが、銅鐸なら誰がやっても音がでる。
太鼓があったかということもあるけど、雨にぬれても
銅鐸なら平気だしね。
雷には負けるが、現代のように騒音がない時代ですから
結構遠くまで音は聞こえたんではないでしょうか。


>> お前さんの耳が悪いと言われるとグーの音も出ませんが。§^。^§
>> 個人の感性の問題が大きいでしょうが、当時の人々はどのように聞いていたのだろうか?。
>> 本当に「聴く銅鐸」として音を愛でていたのだろうか?
>> 愛でるほどの音でなかったから「見る銅鐸」へ大型化したのだろうか?
>> などなど思い巡らせておりました。

>> そう言えば、ここの大先輩に「音の大家」がいたなあ。
>> 名前は確か・・・・「身も心も何とか賢人」さんだったか、「多羅尾伴内」さんがったか?
>> 巷の噂ではなにやら信州へ巡礼の旅に出ているとか。
>> 何時帰ってくるのだろうか。



155

「里」くつに合わない?

投稿者[ 飛んだハヤシライス ] 発言日時 [9月9日(土)17時33分43秒]

元の発言 [ Re: Title千里一寸法の陥穽 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月9日(土)02時31分56秒 ]

 ALEXさん、避雷針さん、こんにちは。

 久しぶりにALEXさんの書斎を訪問いたしました。m(__)m
 で、『三國志』「烏桓鮮卑東夷傳」を眺めておりますと、ここで表記された里も、一里約400メートルの換算では実距離と比較するとやたら誇大になりはしないでしょうか。
 この里の感覚が魏略の渡海千里にも、末盧国から伊都国への陸行五百里にも、帯方から女王国への万二千余里にも反映されているのではないでしょうか。
 そうでないとするならば意図的に大きく書いたとしか言いようがないですよね。


158

Re: ちょっと銅鐸のことで

投稿者[ 三河 太郎 ] 発言日時 [9月9日(土)19時44分41秒]

元の発言 [ Re: ちょっと銅鐸のことで ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 9月9日(土)15時10分18秒 ]

yaohideさん今晩は。

>>岐阜の歴博で、聞いた気がしますが、そんなに悪くは、なかったかな。
ただ本来の使用目的が問題だったと思うんですよ。
音楽のための楽器としてではなかったでしょう。
結構人の住んでいなかったところから出てきたりすると
いうことで、通信手段だったとか、そんなことないかな。

#私は、数年前橿原考古学研究所附属博物館で鳴らしたことがありますが、「カランカラン」といった小さなドラム缶の音のようでしたよ。
もっとも音は、肉厚や、大きさ、それに錫の含有量によって違ってきますからね。
通説の「聴く銅鐸」→「見る銅鐸」を考えるとき、もし音を愛でる銅鐸であれば、
銅鐸の音の競演、音比べとか手打ち式の風鈴的な使い方があったのかな?
などと考えていました。
通信手段説は面白いです。あまり見聞きしたことはありませんでした。
でもやっぱり、祭祀用としての神社の参拝時に鳴らす大鈴の原形かな




159

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ 避雷針 ] 発言日時 [9月9日(土)19時59分01秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ 蛟児 ] 日付 [ 9月9日(土)04時30分02秒 ]

蛟児さん、今日は。

>>  津軽海峡までなんか届くわけありません。新羅の首都慶州あたりから奈良の飛鳥あたりまでの道程「水陸三千里」というのは、概ね妥当な数字です。

1=530mとして朝鮮海峡を渡って直線距離で見れば青森県のあたりということなのですが、実測で見ても東北地方あたりになるのではないかと思っています。
蛟児さんは1里がどの位で、どのように行ったと考えられますか。

また、「日本書紀」にいう京と種子島の間が五千余里というのはどう考えますか。



16

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [9月2日(土)13時37分47秒]

元の発言 [ 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ 避雷針 ] 日付 [ 9月2日(土)01時12分03秒 ]

避雷針さん、今日は。

>これが7世紀の奈良地方の唯一の「倭国」表記の木簡であることは最初に断っているとおりです。

#その唯一の例で判断されるのが主観的に過ぎると申し上げております。


>「妻」と「倭国」以下は同じ大きさと同じ間隔でつながっています。
>国名の直前に間隔をおかずにそれとは全く異なる固有名詞や「何某の妻」という表記をしている木簡の例があるのであれば、示してもらえますか。

# 文字が同じ大きさと同じ間隔でつながっていることを、「□妻」+「倭」がひとつの固有名詞であると主張する根拠になさっているのですから、そう主張なさるかたが「固有名詞が他の固有名詞などと連続して記される場合は、必ず文字の大きさや間隔を変える」ということを立証される必要があります。
 すなわち上記のお問いかけは私にお聞きになるのではなく、ありえないことを避雷針さんが立証するのが筋です。


>前後関係が不明であるから判断が困難であるというのであれば、7世紀に奈良地方が倭国といわれていたということも他の例はないので主張はできません。

#それは万葉の表記に疑問をお感じになる立場のひとだけに通用する事です。私は万葉を根拠に7世紀に奈良地方が倭国といわれていたと考えております。

ところで、避雷針さんは「倭」がなんと訓読されていたとお考えなのですか?


160

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ 避雷針 ] 発言日時 [9月9日(土)20時18分17秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ 蛟児 ] 日付 [ 9月9日(土)09時38分41秒 ]

蛟児さん、今日は。

>> >> 私は上記は694年以前のものには含めていません。それ以後と考えています。

>>  根拠は何ですか?

それは伝飛鳥京のものとは異なり藤原宮の木簡と同様に見ているからなのですが、そこは藤原宮木簡の分布に対する見方の問題になってしまいますね。

>> >> 海評について、海評佐々里が隠岐国にあることから、海評は隠岐国と考えています。

>>  木簡データベースの釈文では「中□里」となっていますから、「佐々里」と確実に読めるわけではないのではないですか?

すみませんが佐々里は別の木簡です。佐々里が隠岐国にあったとして異論がないので、海評が一つとすればすべて隠岐国ですねということです。
>>
>> >> 神前評について、神前評川辺里が播磨国にあることから、神前評は播磨国と考えています。

>>  同じく、木簡データベースの釈文では、「□□□」となっていますから、「川辺里」と確実に読めるわけではありませんよね?

これも別の木簡で概報11には川辺里があるのですが。木簡データベースにはないですか。

>>  ところで私は、
>> >> >>  日本書紀の舒明朝以降六次に渡る遣唐使派遣記事は、第二次を除いて中国側にも対応する記録があり、唐と国交を結んでいたのが舒明以降の歴代天皇であることは明らかだと思います。大宝律令施行前後に王権の移動のような政治的変革があった形跡は、中国の唐代文献にもまったくありません。
>> とも指摘させていただきましたが、これについては何か御見解はございませんでしょうか?

「旧唐書」の倭国伝と日本国伝のところがあると思っていますが、従来からある議論以上のものは特にありません。




161

Re: ちょっと銅鐸のことで

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月9日(土)20時29分46秒]

元の発言 [ Re: ちょっと銅鐸のことで ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月7日(木)02時46分50秒 ]

>>
>>
>>
>>
#なるほど!

>>
>>
#鈴と鐸は別物だと思いますヨ。
#朝鮮式銅鐸はカウベルが原形じゃないですか?
#もちろん、日本で大型化して叩くようになったものは祭器だから別ですけど。
#それにしても、農耕祭祀的銅鐸と武器形祭器の分布地域が分れていて、
#出雲ではその両方が一緒に出土しているのは面白いですネ。



162

Re: ちょっと銅鐸のことで

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月9日(土)20時51分05秒]

元の発言 [ Re: ちょっと銅鐸のことで ] お名前 [ 三河 太郎 ] 日付 [ 9月9日(土)19時44分41秒 ]

>> #私は、数年前橿原考古学研究所附属博物館で鳴らしたことがありますが、「カランカラン」といった小さなドラム缶の音のようでしたよ。
#福岡市埋蔵文化財センターの(ノートPC)のは、大型の風鈴みたいな音でした。


163

Re: ちょっと銅鐸のことで

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月9日(土)20時55分39秒]

元の発言 [ Re: ちょっと銅鐸のことで ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月7日(木)10時14分36秒 ]

>>
>>
>>
>>
>>
>>
#と言うと、邪馬台国時代の列島は「銅鐸祭祀」圏と「武器形祭器」圏に分れると考えて言いのでしょうか。



164

三角縁神獣鏡の年代/ホケノ山の年代(Re:三神三獣鏡)

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [9月9日(土)21時07分24秒]

元の発言 [ Re: 三神三獣鏡について@お遊び投稿(^^) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月6日(水)11時50分47秒 ]

久しぶりに投稿します

>>
 大和天神山については、土器から言えば、布留1式の範疇でして、少なくとも桜井茶臼山とか黒塚とほとんど変わらない年代の範疇でしょう。石室形態も、橿考研の河上部長の講演では、実はかなり古い型式に属するという話を聴いたことがあります。もちろん、暦年代でいつにするかは別問題ですが。

>>
 これは疑問です。少なくとも、多量に三角縁神獣鏡が出土した古墳の多くは布留1式併行(推定古相として椿井大塚山、桜井茶臼山、雪野山、西求女塚、赤塚、推定新相として黒塚、備前車塚、豊前石塚山など)で、紫金山、新山や佐味田宝塚は布留2式(前2者が古相、後者が新相)でしょう。布留0式併行の可能性のある三角縁神獣鏡出土古墳は意外と少なく、まあ良さそうなのは権現山51号墳で、土器がよく分からないのですが蓋然性として安満宮山古墳(鏡式の組合わせの一括性から)、また吉島古墳当たりもその可能性がありますが土器は布留1式併行ではない、とは断定できません。意外と布留0式の三角縁神獣鏡出土古墳が少ないのが問題です。
 ならば布留1式の年代を大幅に古くできるかと言うと疑問で、それは、例えば布留1式古相併行の三角縁神獣鏡群に、製作年代(段階)が複数段階そろっているからです。福永伸哉氏のように三角縁神獣鏡の製作年代幅をやや長めに見積もると、その分、最新の鏡群の段階までは古墳の年代を下げる必要があります(実際は布留0式期の権現山51号墳で福永氏のB段階まで、布留1式古相ではC段階まで、新相ではD段階まで出土している)。もっとも、車崎正彦氏や岡村秀典氏のように、三角縁の年代幅を短く見積もるなら話は別ですが、、(この「短期編年説」は問題が多い)。
 次に、記年銘鏡が全部布留0、というのは事実に反します。確かに、太田南5号墳の「青龍三年」(235)は布留0式併行の土器の可能性があり、安満宮山もその時期のその蓋然性はあります。
 しかし「景初三年」(239)鏡では、和泉黄金塚は布留2式(布留中相)から3式(布留新相)の間(前期末ないし中期初頭の古墳)、神原神社古墳は布留1式併行(おそらく新相)です。実在しない年号の「景初4年」(240)では、広峰15号墳は布留2式あたりの時期で、伝持田古墳群の方は出土古墳が不明ですが古墳群の年代からは古くても布留2式であるいは中期古墳かもしれません。「正始元年」鏡は、竹島御家老屋敷古墳は布留1式頃の可能性もあるものの(不詳)、群馬柴崎古墳は古墳が不明で、森尾古墳は布留2式ないし3式?の古墳でしょう。これらは、鏡背が不鮮明なものが多く、伝世による磨滅ないしは踏み返し(後者が主と思いますが)を考えるべきものが多くあります。

 さて、ホケノ山の年代についておにりんさんは2世紀後半などと言う極端な説を最近主張しているようですが、誰も反論しないので反論しておきます。
 ホケノ山出土の画文帯神獣鏡は、同向式で、また乳の配置などからも、呉鏡の可能性が全くないとは言いませんがおそらく楽浪鏡です。いずれにしても、漢末の建安年間(196-220)以降でないと、あり得ない型式です。また、画文帯神獣鏡に特徴的な「雲車」の型式変遷では(小山田宏一氏)、いずれのホケノ山出土の画文帯神獣鏡も全て220年代の型式になります(「景初三年」画文帯神獣鏡の少し前の型式)。したがって、ホケノ山(纏向2式後半=米田敏幸庄内2ー3式)は、もっとも古くて220年代にしかなりません。
 C14年代を根拠とするようですが、10年単位の年代が問題となるこの時代では、C14の測定年代誤差が大きいことに注意すべきです。また年輪年代も、池上曽根のようにほぼ樹皮またはその直下の外輪まである資料ならばよいのですが、そうではない場合はプラスアルファが不明な場合が多いので資料としての取り扱いは要注意です。纏向石塚周溝出土の板材の場合、170年代の値が出てますが、樹皮は残っていません。それでも年輪の特徴から最外輪まで20〜30 年前後と推定されていまして、すると190〜200年です。しかしこれを石塚の年代とするかは注意が必要です。ただの加工板材のため、古墳祭祀に伴うものかは分からないのです。周溝下層には纏向1式と2式(やや上の層には布留0式=纏向3式)があります。墳丘盛土内には纏向1式が大部分ですが、上限に過ぎず、盛土中の土器群についても伝統的」様式甕の形態や装飾二重講演壺や高坏の型式から、実際は纏向2式を含んでいるという意見もあるのです。さて例の板材ですが、古墳以前の纏向1式の集落遺構に伴う遺物と言う評価も可能な訳です。これについては、決着は不可能ですが、少なくとも、せいぜい纏向1式が2世紀末になる可能性は高いとしても、纏向2式後半のホケノ山が2世紀後半とするのは根拠脆弱であると断定しておきたいと思います。



165

Re: 天下分け目の合戦!

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月9日(土)21時15分45秒]

元の発言 [ Re: 天下分け目の合戦! ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月9日(土)15時00分32秒 ]

>> >> ただし、箸墓以降は違います。箸墓以降は、全国に箸墓プランの古墳が出てくる。
>>
>> #と言うことは、「前方後方墳」などは箸墓以前なんでしょうか。
>>
#どうも物分りが悪くて申し訳ありませんが、“箸墓プラン”とは「前方後円墳」ですよね。
#「前方後方墳」は別物で、だとすれば、箸墓以前のプランでしょう。

>> #その頃は「吉野ヶ里」〜「鳥栖・小郡」辺りは東海との繋がりが深かった。
>> #パレス壺も出土しているし。
>>
>>
#「吉野ヶ里」〜「鳥栖・小郡」というと、筑紫の中心に近い局地なんですけど。
#邪馬台国と狗奴国の最前線を二日市地峡帯とするんですか。
#それに、東海の土器は九州のものより早くから大和に入っているのじゃないですか。



166

Re: ちょっと銅鐸のことで

投稿者[ 三河 太郎 ] 発言日時 [9月9日(土)21時22分00秒]

元の発言 [ Re: ちょっと銅鐸のことで ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 9月9日(土)20時51分05秒 ]

オヤジッチさん今晩は。

>> #福岡市埋蔵文化財センターの(ノートPC)のは、大型の風鈴みたいな音でした。
#そうですか。聴き易い音だったようですね。
肉厚,形状、成分によって音色は違いますからね。
大量に出土していることを考慮すると、神前での音比べ、銅鐸の競演などがあったのでしょうか。




167

Re: ホケノ山の年代(庄内式の年代)

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [9月9日(土)21時41分16秒]

元の発言 [ 三角縁神獣鏡の年代/ホケノ山の年代(Re:三神三獣鏡) ] お名前 [ 率善中郎将 ] 日付 [ 9月9日(土)21時07分24秒 ]

庄内式の年代についてもう2例。

徳島県の萩原1号墓は円丘に突出部をもつ前方後円墳の原形的な積石塚ですが、この年代は庄内式でも古相、纏向2式の古相、米田氏の庄内2式併行あたりとされています(纏向辻土坑2に、萩原墳墓と同型式の阿波系の小型坩が出土しているため9。ところがこの墳墓からは画文帯同向式神獣鏡が出土しています(ちなみに破砕鏡で、また同型鏡が楽浪郡で出土)。この神獣鏡の年代ですが、さきほどの小山田氏の「雲車」の型式変遷(『弥生文化博物館研究報告』の論文)では、ホケノ山の神獣鏡群と同じ220年代頃とされています。この鏡についてはもう少し古く見る論者もいるようですが、せいぜい建安年間末頃でしょう。すると、纏向2式前半(米田氏庄内1ー2式)が220年を前後する頃となり、2式後半(同2ー3式)が一時期あって、3式(=布留0式、米田氏庄内3ー4式)の年代は少なくとも2型式後となります。布留0式後半築造終了=埋葬の箸墓は果たして248年頃にこれでなるのでしょうか?私にはちょっと無理だろうと思います。
 さらに福岡県北野町良積遺跡の終末期の甕棺からは、三国初期と思われる(津古生掛鏡と鳥文が類似)小型の斜縁方格規矩鏡が出土しています。この甕棺は日常土器では久住猛雄氏の1B期併行と思われ(承前)、纏向2式新相併行ぐらいとなります。この例からも、少なくとも纏向2式の後半(ホケノ山の時期)は、三国時代に入っていると見るべきで(220年以降)、また萩原墳墓例からは、纏向2式前半ですでに三国時代初期が少しかかっている可能性が高い、と言うことができます。
 また京都府芝ヶ原12号墳(纏向2式新相併行)からは、特異な倣製四獣鏡が出土していますが、この原鏡と推定される二禽二獣鏡(列島では愛媛県朝日谷2号墳=布留0式併行、群馬県前橋天神山=布留2式古相?併行から出土)は三角縁神獣鏡の関連鏡群ですが(三国初期、220〜230年代の製作か)、その倣製鏡がすでに纏向2式後半には成立していることを考えると、やはり上記のような年代観が妥当であることを示すと思います。


168

Re: 三神三獣鏡について@お遊び投稿(^^)

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月9日(土)21時41分23秒]

元の発言 [ Re: 三神三獣鏡について@お遊び投稿(^^) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月6日(水)19時43分34秒 ]

>> #中華皇帝から冊封体制下の王と認められた者の墓であることの証しですし。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
#先頃国内最大級であることが判明した「三雲南小路」をはじめ“王”として冊封されたであろうという王墓がありますネ。
#以前レスしたとおり、
#大量の大型鏡、玉器である璧、棺を作る材料の四葉座金具が出土しているのは、
#中華皇帝から冊封体制下の王と認められた者の墓であると言うことが出来ます。
#印は授爵としては別格で、王の中でも皇帝に直接上表文(そのための封土に使う)を出す権限を認められたことを表すものでしょう。
#そう言えば、九州以外で璧が出土しているかどうか?まだまだ勉強が足りません。



169

Re: 「里」くつに合わない?

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [9月9日(土)22時14分41秒]

元の発言 [ 「里」くつに合わない? ] お名前 [ 飛んだハヤシライス ] 日付 [ 9月9日(土)17時33分43秒 ]

お久しぶり

>>  で、『三國志』「烏桓鮮卑東夷傳」を眺めておりますと、ここで表記された里も、一里約400メートルの換算では実距離と比較するとやたら誇大になりはしないでしょうか。

#具体的にはどこのことでしょう?
 地図に線引きを当てた数字とは倍くらいになるものもありますが、自然な事だと思います。マップメータで測ると比較的いい数字になるのではないでしょうか。

 山道や海路は、より大きめの数字が出る傾向はあるようです。



17

Re: 三神三獣鏡について@お遊び投稿(^^)

投稿者[ kouji ] 発言日時 [9月2日(土)16時31分01秒]

元の発言 [ Re: 三神三獣鏡について@お遊び投稿(^^) ] お名前 [ 池ちゃん ] 日付 [ 9月1日(金)21時46分40秒 ]


池ちゃんさん、こんにちは。


(乳について)

>> >>  どうでしょう?内区を四ないし六分割する目印ぐらいに考えている人が多いようですが。

>> #(個人的な感想ですが)中国では、星の運行を観察して吉兆を占うことをやっていたと思いますが、そういう思想が宇宙を表しているはずの銅鏡に反映されないのは不思議ですね。
>>  あくまで、銅鏡と言うのは願掛け用だったということでしょうか?

 私にはよくわかりません。ただ、笠松型文様が何なのかに付いてすら議論があったぐらいですから、乳のような抽象的な形式のものは解釈次第でどのようにも見えてくるという面があり、何かを象徴していたとしても、それを判別するのはかなり難しそうです。まあ、銘文の中に乳にふれた文章があれば別ですが。笠松型文様も、銘文にこれについていっていると判断されるものがあるので、少なくとも私は、「節」だと思っています。


>> 中国で”四神”は銅鏡だけの神様なんでしょうか?
>> ニーズがそういう要求をしたからといって、簡単に削れるものなんでしょうか?

 ただ、三角縁求心式四神四獣鏡では、最初から伯牙・黄帝が脱落しています。西王母と東王公(父)が二人づつという構成ですから、この段階で既に神像の意味にあまり注意を払っていなかったようです。
 また、方格規矩四神鏡でも、岡村編年の漢鏡5期(後漢前期)中に、主文の四神が鳥文に変わる、十二支銘が無くなる、規矩の一部が脱落する、といった現象が起こっているそうです。
 そういうものなのでしょう。


>>  私は”一部魏鏡説”で現在、出土している三角縁神獣鏡はほとんどが”倭”(倭人が造ったか、大陸の工人が作ったかは置いといて)で造られたものではないかと考えているのです。

 私も、舶載とされている三角縁神獣鏡の大部分が、中国からの渡来工人によって倭国内で生産された物である可能性はあると思います。少なくともそれを否定できるだけの理由を私は持ち合わせていません。しかし、日本で出土した三角縁神獣鏡と同じ工人ないし工房が作成したと考えられる、三角縁神獣鏡ではない鏡が中国から出ているそうですから、三角縁神獣鏡が倭国向け仕様の魏鏡であるという説を一概に否定することもできないと思います。また、いわゆる「舶載」三角縁神獣鏡国産説をとる場合、「舶載」三角縁神獣鏡と「倣製」三角縁神獣鏡では同型鏡の製作方法が違う点をどう説明するかも問題でしょう。もちろん、魏鏡であるからといって、下賜鏡であるとは限りませんが。


>>  逆にいうと、まずい店が多い(もっと言えば、まずい店がほとんど)です。諏訪に遊びにくるときは、前もって言ってくださいね。安くてうまい店を探すのは結構大変なんですよ(^^)

 よろしくお願いします!


170

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ kouji ] 発言日時 [9月9日(土)23時16分16秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ 避雷針 ] 日付 [ 9月9日(土)19時59分01秒 ]

 避雷針さん、今晩は。

>> >>  津軽海峡までなんか届くわけありません。新羅の首都慶州あたりから奈良の飛鳥あたりまでの道程「水陸三千里」というのは、概ね妥当な数字です。

>> 1=530mとして朝鮮海峡を渡って直線距離で見れば青森県のあたりということなのですが、実測で見ても東北地方あたりになるのではないかと思っています。
>> 蛟児さんは1里がどの位で、どのように行ったと考えられますか。

 隋代の里であれば、450mぐらいでしょう。大雑把ですが、慶州から福岡までが、直線で280kmぐらい。福岡から飛鳥までの直線距離が、500km強でしょう。併せてまあ、800kmといったところです。三千里は、およそ1,350km。慶州から福岡を経由して飛鳥までの道程の概数として三千里は妥当なところでしょう。


>> また、「日本書紀」にいう京と種子島の間が五千余里というのはどう考えますか。

 かなり過大になっていると考えられますね。この記録の情報源になった倭馬飼部造連達は、天武八年十一月二十三日に多禰に派遣され、天武十年八月二十日に復命しています。二年近くを要しているわけで、「五千余里」ぐらいの実感はあったのかもしれません。


171

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ kouji ] 発言日時 [9月9日(土)23時17分17秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ 避雷針 ] 日付 [ 9月9日(土)20時18分17秒 ]

避雷針さん、二回目の「今晩は」です。

>> >> >> 私は上記は694年以前のものには含めていません。それ以後と考えています。

>> >>  根拠は何ですか?

>> それは伝飛鳥京のものとは異なり藤原宮の木簡と同様に見ているからなのですが、そこは藤原宮木簡の分布に対する見方の問題になってしまいますね。

 つまり、694年前後で木簡に記される地名の分布が変わるという説の根拠は、694年以前の紀年と地名を併せ持つ木簡三例だけなわけですね。で、その希少な例から導き出した分布の変化を根拠に、紀年のない多くの木簡を694年以後とする。無理な話であろうと思います。


>> >> >> 海評について、海評佐々里が隠岐国にあることから、海評は隠岐国と考えています。
>> すみませんが佐々里は別の木簡です。佐々里が隠岐国にあったとして異論がないので、海評が一つとすればすべて隠岐国ですねということです。

 つまり、別々の木簡にある、二つの「海評」が同じ土地を指しているという根拠はないわけですね?要するに「海評が一つ」だと仮定する根拠です。ないのだとすれば、『海評/中□里/支止軍布‖』の「海評」が、豊後のものである可能性もあるわけです。

>> >> >> 神前評について、神前評川辺里が播磨国にあることから、神前評は播磨国と考えています。
>> これも別の木簡で概報11には川辺里があるのですが。木簡データベースにはないですか。

 これも、別々の木簡にある二つの「神前評」が同じ土地を指しているとする根拠はないわけですね?やはり、『神前評□□□』の「神前評」が肥前のものである可能性もあるわけです。

1.飛鳥出土の、紀年が無く大和以西の地名を有する木簡を694年以降と判断する根拠。
2.藤原出土の木簡の、九州の可能性がある評名を、九州ではないと判断する根拠。

遺憾ながら、どちらも憶測の域を出ていないと判断せざるを得ません。


>> >>  ところで私は、
>> >> >> >>  日本書紀の舒明朝以降六次に渡る遣唐使派遣記事は、第二次を除いて中国側にも対応する記録があり、唐と国交を結んでいたのが舒明以降の歴代天皇であることは明らかだと思います。大宝律令施行前後に王権の移動のような政治的変革があった形跡は、中国の唐代文献にもまったくありません。
>> >> とも指摘させていただきましたが、これについては何か御見解はございませんでしょうか?

>> 「旧唐書」の倭国伝と日本国伝のところがあると思っていますが、従来からある議論以上のものは特にありません。

 旧唐書は、唐代文献ではありませんよね。



172

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ 避雷針 ] 発言日時 [9月9日(土)23時21分08秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月9日(土)02時28分10秒 ]

今日は。

>> 「地域を総領する機関があれば各地から直接の送付が無いことはありうる」
>> という指摘に対し
>> 「吉備や伊予に総領機関があった形跡があるが直接の送付はある」
>> という事実をあげても反証にならないのです。なぜなら
>> 「地域を総領する機関があれば各地から直接送付されることはありえない」
>> という指摘ではないからです。

残念ながら論理がよく分かりませんが、どうせ水掛け論ですからこれ以上議論する必要もないでしょう。
>>
>>  避雷針さんは、評制代の藤原宮の木簡に「年月+国評」という様式以外がありえないとお考えですか?そうでないと「□妻倭国」が一体の国名だと見なす理由がなくなりますが。

評制代の藤原宮の木簡に「年月+国評」という様式以外がありえないかという議論の設定ではなく(それ以外の木簡が多いのは自明です)、国評名があればその前は年月と見るのが自然ではないかということです。

>> 「倭国」はなんと読んでおられるのですか?

「やまと」ではなく別の呼称ではなかったかと思っていますが、特に強い議論がある訳ではないのでここではそこまでにしておきましょう。




173

Re: Title千里一寸法の陥穽

投稿者[ 避雷針 ] 発言日時 [9月9日(土)23時33分02秒]

元の発言 [ Re: Title千里一寸法の陥穽 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月9日(土)02時31分56秒 ]

今日は。

>> >> 1800尺の1里を前提にしているとすると堂堂巡りになりますが。

>> #当然前提にしております。
>> 違うとおっしゃる合理的な理由がありますか?

魏志倭人伝は日本列島での比定位置が明らかではないので私はそれについて里程を議論する気はありません。

ALEXさんが自信をもってすべての記事において1800尺の1里を正しいとしておられるようなので、その論理的な根拠をお伺いしたかったということです。




174

Re: 三神三獣鏡について@お遊び投稿(^^)

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [9月10日(日)00時17分55秒]

元の発言 [ Re: 三神三獣鏡について@お遊び投稿(^^) ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 9月1日(金)13時18分25秒 ]


>>  三神三獣鏡は椿井大塚山古墳から出ている。椿井大塚山古墳は、『庄内式土器(弥生時代末期)に布留式土器(古墳時代初頭)が一部混在』(山城町教育委員会)する時代のものです。寺澤編年だと布留0式といわれる時代ですが、布留0式っていうのは、三角縁神獣鏡の副葬が確認される最古の時代なんです。ここからすると、布留0式のうちに、三角縁神獣鏡が生まれ、多種多様なバリエーションが派生して、さらに三神三獣鏡に収束する過程が始まることになります。最初期の三角縁神獣鏡が239年・240年の紀年鏡ですから、この当たりを起点として、多分、三世紀の第三四半期の内には、三神三獣鏡が出現していると考えていいと思います。

#椿井大塚山の土器については、一見古そうな在地的な高坏や壺があるようですが、纏向などと比べて庄内甕や初期の布留甕を生産しない「田舎」の地域のために古そうな様相が残ると見られます(あるいは土器作りが洗練されていない地域)。二重口縁壺の型式は、口縁部や頸部の延びや、口縁端部の形態から、また胴部に長胴傾向を持ちはじめたものがあることから、型式学的に、箸墓の布留0式併行ではなく、桜井茶臼山の布留1式併行と見るべきです。現に、布留1式の甕も(やや妙な口縁部の形ですが)少し出土しています。


175

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [9月10日(日)00時40分13秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ 避雷針 ] 日付 [ 9月9日(土)23時21分08秒 ]

今日は。

>> 残念ながら論理がよく分かりませんが、どうせ水掛け論ですからこれ以上議論する必要もないでしょう。

#お解りにならないのは残念な事ですが、根拠の無い事を「根拠がないよ」と申し上げているだけですので、根拠の無い事をおっしゃる限り水掛け論になりますから、根拠の無い事をおっしゃることを止めていただくのが一番です。

>> 評制代の藤原宮の木簡に「年月+国評」という様式以外がありえないかという議論の設定ではなく(それ以外の木簡が多いのは自明です)、国評名があればその前は年月と見るのが自然ではないかということです。

#それが避雷針さんの感性だとおっしゃるならば何も申しませんが、説得力はありません。


176

Re: Title千里一寸法の陥穽

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [9月10日(日)00時45分45秒]

元の発言 [ Re: Title千里一寸法の陥穽 ] お名前 [ 避雷針 ] 日付 [ 9月9日(土)23時33分02秒 ]

今日は。

>> ALEXさんが自信をもってすべての記事において1800尺の1里を正しいとしておられるようなので、その論理的な根拠をお伺いしたかったということです。

#少なくとも、1里=1800尺でないとする根拠は存在しないでしょう。



177

Re: ちょっと銅鐸のことで

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月10日(日)08時47分51秒]

元の発言 [ Re: ちょっと銅鐸のことで ] お名前 [ 三河 太郎 ] 日付 [ 9月9日(土)21時22分00秒 ]

おはようございます

>> 大量に出土していることを考慮すると、神前での音比べ、銅鐸の競演などがあったのでしょうか。

大量に出ていても、神社から出ていますか?
神前で鳴らしたのであれば、ある程度の数は
神社周辺から出てきていると思うのですが。

通信手段なんて、書いてみましたが、日本の当時の
楽器ってなんだろう?
一般的にいわゆるリズムセクションが最初かなと
思っていたのですが、日本に太鼓が登場するのは
いつごろでしょう。
音を出すものって、知らないのですが。

日本の古代というのは、音の少ない国だったのかな?



178

Re: 「里」くつに合わない?

投稿者[ ハヤシライス ] 発言日時 [9月10日(日)10時19分42秒]

元の発言 [ Re: 「里」くつに合わない? ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月9日(土)22時14分41秒 ]

 ALEXさん、オッハー。
 検索してみると、下記のaからpまでの16文に「里」が使われています。(但し倭人条は除く)
 漢和辞典の巻末にある前漢時代、三国時代の地図を参照すると、それぞれの国の大きさなど誇大ではないだろうかと思いますがいかがでしょうか。
 下記の1-8が誇大ではないかと思います。残りについてはよくわかりません。(^^ゞ
 (イメージしやすいように一里約400メートルとして換算値をいれてみました)

a-1.>赤山在遼東西北數千里(800km以上)、如中國人以死之魂神歸泰山也。
b.>烏丸遂盛、鈔撃匈奴、匈奴轉徙千里(400km)、漠南地空。
c.>建安十一年、太祖自征tau[扁足旁冠日脚羽]頓於柳城、潛軍詭道、未至百餘里(40km)、虜乃覺。
d.>檀石槐既立、乃爲庭於高柳北三百餘里(120km)彈汗山啜仇水上、東西部大人皆歸焉。
e.>兵馬甚盛、南鈔漢邊、北拒丁令、東卻夫餘、西撃烏孫、盡據匈奴故地、東西萬二千餘里(4800km)、南北七千餘里(2800km)、罔羅山川,水澤,鹽池甚廣。
f.>(嘉)〔熹〕平六年、遣護烏丸校尉夏育、破鮮卑中郎將田晏、匈奴中郎將臧旻與南單于出鴈門塞、三道並進、徑二千餘里(800km)征之。
g.>後檀石槐乃案行烏侯秦水、廣袤數百里(80km以上)、停不流、中有魚而不能得。
h-2.>夫餘在長城之北、去玄菟千里(400km)、南與高句麗、東與yup[扁手旁邑]婁、西與鮮卑接、北有弱水、方可二千里(800km)。
i-3.>高句麗在遼東之東千里(400km)、南與朝鮮、wai[扁水旁歳]貊、東與沃沮、北與夫餘接。都於丸都之下、方可二千里(800km)、戸三萬。
j-4.> 東沃沮在高句麗蓋馬大山之東、濱大海而居。其地形東北狹、西南長、可千里(400km)、北與yup[扁手旁邑]婁、夫餘、南與wai[扁水旁歳]貊接。
k.>句麗復置其中大人爲使者、使相主領、又使大加統責其租税、貊布、魚、鹽、海中食物、千里(400km)擔負致之、又送其美女以爲婢妾、遇之如奴僕。
l-5.>北沃沮一名置溝婁、去南沃沮八百餘里(320km)、其俗南北皆同。
m-6.>yup[扁手旁邑]婁在夫餘東北千餘里(400km)、濱大海、南與北沃沮接、未知其北所極。
n-7.>韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接、方可四千里(1600km)。
o-8.>後子孫稍驕虐、燕乃遣將秦開攻其西方取地二千餘里(800km)、至滿潘汗爲界。
p.>準信寵之、拜爲博士、賜以圭封之百里(40km)、令守西邊。


>山道や海路は、より大きめの数字が出る傾向はあるようです。

 概算でしょうから、誤差の許容範囲内のもあるかもしれませんし、はるかに遠い意味での形容句もあることでしょう。
 素人考えですが、海路は少なくとも陸地が見える水行であれば測りやすいのではないかと思いますが、韓の方四千里はおおよそ5倍くらいになっているんじゃないでしょうか。


179

Re: 三神三獣鏡について@お遊び投稿(^^)

投稿者[ kouji ] 発言日時 [9月10日(日)12時08分49秒]

元の発言 [ Re: 三神三獣鏡について@お遊び投稿(^^) ] お名前 [ 率善中郎将 ] 日付 [ 9月10日(日)00時17分55秒 ]


 率善中郎将さん、御教示ありがとうございます。

>> #椿井大塚山の土器については、【中略】一見古そうな在地的な高坏や壺があるようですが、纏向などと比べて庄内甕や初期の布留甕を生産しない「田舎」の地域のために古そうな様相が残ると見られます(あるいは土器作りが洗練されていない地域)。二重口縁壺の型式は、口縁部や頸部の延びや、口縁端部の形態から、また胴部に長胴傾向を持ちはじめたものがあることから、型式学的に、箸墓の布留0式併行ではなく、桜井茶臼山の布留1式併行と見るべきです。現に、布留1式の甕も(やや妙な口縁部の形ですが)少し出土しています。

 正直なところ椿井大塚山の布留0には、少々困惑しておりましたので、助かりました。240年頃三角縁神獣鏡が成立し、三世紀後半期に六乳式の三神三獣鏡の出現、300年前後から「倣製」ということでうまくつながりそうですね。
 おにりんさんの方へつけられたレスも興味深く読ませていただきました。特に反論はありませんが、少し質問させてください。

>> 布留0式併行の可能性のある三角縁神獣鏡出土古墳は意外と少なく、まあ良さそうなのは権現山51号墳で、土器がよく分からないのですが蓋然性として安満宮山古墳(鏡式の組合わせの一括性から)、また吉島古墳当たりもその可能性がありますが土器は布留1式併行ではない、とは断定できません。意外と布留0式の三角縁神獣鏡出土古墳が少ないのが問題です。

 滋賀県の古冨波山古墳についてはどのようにお考えでしょうか?あれも布留1式併行まで降るのでしょうか。


>> 布留0式後半築造終了=埋葬の箸墓

 これはどのような根拠にもとづいているのでしょうか?二重口縁壷は庄内3式とされているようですが。


18

Re: 三神三獣鏡について@お遊び投稿(^^)

投稿者[ kouji ] 発言日時 [9月2日(土)17時11分48秒]

元の発言 [ Re: 三神三獣鏡について@お遊び投稿(^^) ] お名前 [ とも」 ] 日付 [ 9月1日(金)23時41分59秒 ]

ともさん、ありがとうございます。


>> >>  最初期の三角縁神獣鏡が239年・240年の紀年鏡ですから、この当たりを起点として、多分、三世紀の第三四半期の内には、三神三獣鏡が出現していると考えていいと思います。

>> 先日の講演会の後の酒席で岡村先生がおっしゃっていたことが気にかかっています。
>> 三角縁神獣鏡は、定説で言われるよりも短い期間に、集中的に作られたのではないか?と先生が仰っていたように記憶しているのですが。

 そうですね。岡村先生は舶載三角縁神獣鏡の終期を266年以降には降らないとみておられますね。ただ、いわゆる倣製三角縁神獣鏡の年代ともかかわりますから、疑問を感じるところがあります。車崎氏は中国出土の紀年鏡との文様の共有関係から、「倣製」三角縁神獣鏡の出現を260年代と見ているようです。しかし、出土状況から見れば、倣製三角縁神獣鏡の出現は、やっぱり300年前後じゃないかと思うのですが。


>> もし、三角縁神獣鏡が10〜20年と言うような短期間に、あれだけの様式変化を起こしているとしたら、これはこれで面白そうですね。

 はい。どうしてでしょうね。収束先が三神三獣鏡であるというのも不思議です。何が良かったんでしょう?


>> で、ここからは私の想像が入ってくるのですが、三角縁神獣鏡を作った一団と言うのはこれまでの鏡師?達とは性格が異なる集団だったのではないでしょうか?
>> ある意味では、異端的な存在であったのかもしれない。
>> だから、当時の中国では、あんまり受け入れられなくて、辺境の方に流れてこざるを得なくなった。
>> そう考えると、三角縁神獣鏡が日本にのみ存在する理由も、私としては納得できなくも無いんですが。

 日本だけからしかも大量に出土している、特に定型化以降の三角縁神獣鏡が、国産である可能性は否定できないとは思うのですが、かといって、池ちゃんさんの方にも書きましたが、中国製説も否定しきれない。まあ、わからないものはわからないんだから、いたし方ありません。

#私が三角縁およびそれに絡む鏡で、こいつは魏鏡だろうと思っているのは、陳是作紀年鏡群ぐらいです。あとは、不明説です。


184

Re: 三神三獣鏡について@お遊び投稿(^^)

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [9月10日(日)17時01分46秒]

元の発言 [ Re: 三神三獣鏡について@お遊び投稿(^^) ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 9月10日(日)12時08分49秒 ]

こんにちは

>>  正直なところ椿井大塚山の布留0には、少々困惑しておりましたので、
>> 助かりました。

私もそうなんですが、椿井は少し下げた方が良さそうだとは思っています。
ただ、山城町の中島さん(だったかな?)は、はっきり布留0に相当すると書か
れているので、そのあたりの判断をどうするかということが問題でしょう。

これも、前に出てきた跛行性ということになろうかと思いますが、これについ
ては、木津川さんのところの報告などを読みますと、たとえば墳丘上の二重口
縁壺が平底である点について、南山城では布留に至っても平底の二重口縁壺が
存在するというようなことが吟味されており、跛行性についても吟味はされて
いるのだろうと思います。そのうえで、布留0併行という結論が出ているので
あれば、布留0を受け入れざるをえないと思います。

これについては、私は土器の絵を見てもわかりませんから、卒善中朗将さんの
見立てと、中島さんがいうような見立てのどちらを信用するのかということに
なるわけで、こういう場合は布留0から布留1という広い範囲を当てはめざるを
得ません。

卒善中朗将さんは、この南山城での跛行性について、何らかのデータをお持ち
の上で、先のように書かれているのでしょうか?


185

C14年代の信頼性

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [9月10日(日)18時29分57秒]

先におにりんさんが紹介されていた次の本に、池上曽根のデータが出ています。

考古学と科学をむすぶ 馬渕久夫・富永健編 東京大学出版会 2000年
第3章 考古学におけるC14年代測定 今村峯雄

ほんのわずかなものですが、以下の通りです。

年輪年代
池上曽根遺跡 #12 52BC

放射性炭素

年輪  表面から数える。この値を中心とする10年分。
C14BP  放射性炭素による年代。1950年を0とする。
calBC  補正された実年代(BC)。補正は同書のINTCAL98の補正曲線により、
    イリヒコがおこなった。(同書には補正値は出ていない)。
最外輪 calBCを年輪ぶん新しくしたもの。

池上曽根遺跡 #12

年輪  C14BP      calBC  最外輪
103   2200±40    200   97BC
133   2240±40    240   107BC(*)
163   2160±40    183   20BC
193   2250±40    260   67BC(*)

参考: 池上曽根遺跡 炭化した小枝

C14BP      calBC  推定伐採年
2020±40     20   25〜30BC

(*)校正曲線の極大(**)の周辺で、かなり微妙。場合によっては、
400BCあたりまで上がる可能性がある。

(**)掲載されているグラフは、横軸がcalBC、縦軸がC14BPで、
300calBCから200calBCの間に弱い極大が存在する。極大値はおよそ
2230 C14BPで、13 C14BP程度の幅を持つ。

これを見れば一目瞭然で、本来、年輪の値が大きくなるにつれてC14BPの値も
大きくならないといけないはずですが、年輪の位置とC14BPの間に何ら相関は
認められません。したがって、100年ぐらいの幅は当然見込む必要があります。
それに、測定値自身が±40という幅をもっているので、おにりんさんがいうよ
うに10年の幅などでわかるはずがありません。

同書によると、これを改善する方法として、この例のように等間隔でサンプリ
ングして統計処理をする方法があるようですが、これだけばらついたデータを
統計処理して誤差が小さくなったとして、はたして信用できるかといわれると、
個人的にはとうてい信用できるものとは思えません。

ホケノ山の場合、詳しい報告が出てこないとなんともいえないところで
すが、奈良新聞によると、

『年代測定は、(略)1平方センチ5個をサンプルにした。(略)木棺の表皮に近く、最も年代の補正値の幅の狭いサンプルの測定中心値が120年だったことが判明。』

ということですから、おそらくは単一箇所でのデータで、上記統計処理などは
されていないと思われます。したがって、上の池上曽根のデータと同じくらい
のばらつきはあると考えたほうがいいので、10年ぐらいの誤差しかないなんて
いうのは、とんでもない話です。そもそも、報道されたものは、『120年を中
心に80-155年の可能性が高い』で±40年の幅を見ています。しかも、これはあ
くまでも測定値の誤差であって、実際の値はそれ以上にばらつくことを池上曽
根のデータが示しています。


186

Re: 三神三獣鏡について@お遊び投稿(^^)

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月10日(日)20時02分41秒]

元の発言 [ Re: 三神三獣鏡について@お遊び投稿(^^) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月10日(日)13時46分20秒 ]

>> #先頃国内最大級であることが判明した「三雲南小路」をはじめ“王”として冊封されたであろうという王墓がありますネ。
>>
>>
>>
#中華文献に載っていないからヤミ冊封というのは、
#考古学的定説とは違ってますけどネ。
#彼等は自分で、大量の大型鏡や玉璧、四葉座金具を作ったんでしょうか?
#それとも、(三角縁鏡を作ったような)ヤミ工房があった。これも、物語としては面白いかも。§^。^§



187

Re: 「里」くつに合わない?

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月10日(日)23時15分48秒]

元の発言 [ Re: 「里」くつに合わない? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月10日(日)14時40分56秒 ]

>>
>>
>>
>>
人類にとっての革命は、現在までで2回しかないとも
言われますよね。
新石器革命と産業革命。
産業革命以前は、古代とたいして変わっていないのでしょう。

距離をさして正確にあらわさなくても、航海術などが
それほど進歩していなかったから。
ですから、ずっと誇大表示が続いていても、さして問題ではなかった。

そういうことではないでしょうか。






19

Re: 三神三獣鏡について@お遊び投稿(^^)

投稿者[ 池ちゃん ] 発言日時 [9月2日(土)19時57分20秒]

元の発言 [ Re: 三神三獣鏡について@お遊び投稿(^^) ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 9月2日(土)16時31分01秒 ]

 koujiさん、こんばんわ


>>  ただ、三角縁求心式四神四獣鏡では、最初から伯牙・黄帝が脱落しています。西王母と東王公(父)が二人づつという構成ですから、この段階で既に神像の意味にあまり注意を払っていなかったようです。
>>  また、方格規矩四神鏡でも、岡村編年の漢鏡5期(後漢前期)中に、主文の四神が鳥文に変わる、十二支銘が無くなる、規矩の一部が脱落する、といった現象が起こっているそうです。
>>  そういうものなのでしょう。

>>  私も、舶載とされている三角縁神獣鏡の大部分が、中国からの渡来工人によって倭国内で生産された物である可能性はあると思います。少なくともそれを否定できるだけの理由を私は持ち合わせていません。しかし、日本で出土した三角縁神獣鏡と同じ工人ないし工房が作成したと考えられる、三角縁神獣鏡ではない鏡が中国から出ているそうですから、三角縁神獣鏡が倭国向け仕様の魏鏡であるという説を一概に否定することもできないと思います。また、いわゆる「舶載」三角縁神獣鏡国産説をとる場合、「舶載」三角縁神獣鏡と「倣製」三角縁神獣鏡では同型鏡の製作方法が違う点をどう説明するかも問題でしょう。もちろん、魏鏡であるからといって、下賜鏡であるとは限りませんが。

#ご教示ありがとうございました。まだまだ、銅鏡についてはわからないことが多いですね。

>> >>  逆にいうと、まずい店が多い(もっと言えば、まずい店がほとんど)です。諏訪に遊びにくるときは、前もって言ってくださいね。安くてうまい店を探すのは結構大変なんですよ(^^)

>>  よろしくお願いします!

#茅野では”仮面土偶”が出土して、盛り上がっています。
たまには、弥生だの古墳だのを忘れて、縄文の息吹に触れてみませんか?
”仮面土偶”は修復後、暮れまでには尖石考古館で一般公開する予定だそうです。
ひと月前にご連絡いただければ、酒宴の場、宿泊先も、お世話いたさせていただきます(もちろん割り勘で(^^)畿内説の皆さんも、九州説の皆さんも、当選説の皆さんもお誘いあわせて、おいでなして! ←諏訪弁(^^;)


190

Re: 「里」くつに合わない?

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月11日(月)00時53分32秒]

元の発言 [ Re: 「里」くつに合わない? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月11日(月)00時21分33秒 ]

>>
すいません、そんな感じではないのです。
距離というものは、どの程度が必要かという
問題を含んでいると思います。

自分が1日で動く距離は、正確な距離が必要かも
しれません。
しかし、途中が雨とか風で動けない日があるような
そんな距離の場合、正確な距離はあっても大して
意味がないのではないか。
1000里が2000里だろうと、関係ない時代では
なかったかということです。

それを一律に考えようとするから、どうしても数字が
合わない物がでてくる。
長里じゃないと変だとか、ここは単里なら納得できる
とか。
案外もっとアバウトなものじゃなかったのか、とね。

まともな日本地図ができるのも、実際江戸時代でしょ。
3世紀ごろに、どれだけの測量技術があったんでしょうか。
100km単位を計る事が本当にできたのでしょうか?
三国時代や半島の情勢の中で、誰が、誰のために、
何の目的で、誰が金をだして調べたのでしょうね。


>>
>>
>>
>>
>>





191

Re: ちょっと銅鐸のことで

投稿者[ 池ちゃん ] 発言日時 [9月11日(月)07時30分50秒]

元の発言 [ Re: ちょっと銅鐸のことで ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 9月10日(日)08時47分51秒 ]

 おはようございます


>> 大量に出ていても、神社から出ていますか?
>> 神前で鳴らしたのであれば、ある程度の数は
>> 神社周辺から出てきていると思うのですが。

#諏訪大社には鉄鐸というものがありますが、
銅鐸とはちょっと違うような機もしますね。
神社の周辺からの出土はあまり聞きませんが、
お山からの出土はあります。古代の宗教は山をはじめとした、自然全体が”神”ですから、自然に帰すという意味では合理的ではないかと個人的に思います。
 
>> 思っていたのですが、日本に太鼓が登場するのは
>> いつごろでしょう。
>> 音を出すものって、知らないのですが。

”太鼓”の源流は丸太を叩いたところから始まるように思います。だから、かなり昔からあったのではないでしょうか?



192

Re: 三角縁神獣鏡の年代/ホケノ山の年代(Re:三神三獣鏡)

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [9月11日(月)08時41分04秒]

元の発言 [ Re: 三角縁神獣鏡の年代/ホケノ山の年代(Re:三神三獣鏡) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月10日(日)14時26分01秒 ]

>おにりんさん

 岡村氏の編年自体、ある種の「割り切り」過ぎが多く、特に「漢鏡7期」は問題です。神獣鏡自体は2世紀初めからある一方で、三国時代、一部六朝時代までの変遷があります。ホヶノ山の同向式神獣鏡は、2世紀代の位置付けは不可能です。ちなみに記年銘鏡は後漢代にもあります(呉鏡が初めてではない)。それらとの関係や、型式学的な序列、楽浪墳墓での記年銘磚との関係から3世紀代になるのは必至です。
 C14については、誤差の問題もありますし、東アジアでの樹林補正値が未確定な部分があるので、明らかな暦年代資料との整合が優先されるべきです。
 ついでながら、岡村氏の漢鏡編年がよく引き合いに出されますが、「漢鏡7期」は前後の時期を大きく含む可能性が高く、また平原の方格規矩鏡の位置付けなど、問題を大きく含み、編年の一つの出発点ではあっても鵜呑みにするのはあまりに危険です。
 さらに、漢鏡の「各期」の鏡の分布図は、踏み返しの問題を無視し(古墳出土漢鏡の大部分は踏み返しの可能性)、また各期に即座に分布形成したと言う前提の図であり、実際的には机上の空論の図です。なぜなら、各期の鏡は、実際は幅の広い時期幅で出土し、その来歴が一定である保証がないからです。神獣鏡にしても、大半は布留1式以降の古墳出土であることに注意が必要で、果たして庄内式の時期の政権構造をダイレクトに表わしているか疑問です。当然ですが、庄内式期の政権構造は、庄内式のその時期の鏡の出土動向でいうべきでしょう(鏡式に関わりなく)。せいぜい、直後の布留0式期の分布までが問題となります。


194

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ 避雷針 ] 発言日時 [9月11日(月)12時08分31秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 9月9日(土)23時17分17秒 ]

koujiさん、今日は。

>>  つまり、694年前後で木簡に記される地名の分布が変わるという説の根拠は、694年以前の紀年と地名を併せ持つ木簡三例だけなわけですね。

伝飛鳥京のものは直観的に古いと思うのですが、私もこれについてはこれ以上は言いません。
694年前後の件については私も別の理由で見直しをしようと思います。

>>  つまり、別々の木簡にある、二つの「海評」が同じ土地を指しているという根拠はないわけですね?要するに「海評が一つ」だと仮定する根拠です。
>>  これも、別々の木簡にある二つの「神前評」が同じ土地を指しているとする根拠はないわけですね?

同じ評名が一つであるという前提に根拠があるかと言われればそのとおりです。
ただし、私は国名が付いていない場合は受け取る現場で区別に混乱が生じますから、常識的には同じ評名が複数はないと思いますが。
三野大野評なども別の大野評と区別をしていた可能性はあると考えていますが(三野国の国が省略されたという考え方とは別に)、これは特に証拠はありません。

色々ご意見をいただき、有り難うございました。




195

Re: 三神三獣鏡について@お遊び投稿(^^)

投稿者[ kouji ] 発言日時 [9月11日(月)12時15分58秒]

元の発言 [ Re: 三神三獣鏡について@お遊び投稿(^^) ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 9月10日(日)17時01分46秒 ]

イリヒコさん、御無沙汰しております。

>> これについては、私は土器の絵を見てもわかりませんから、卒善中朗将さんの見立てと、中島さんがいうような見立てのどちらを信用するのかということになるわけで、こういう場合は布留0から布留1という広い範囲を当てはめざるを得ません。

 そうですね。ありがとうございます。まあ、布留1併行の可能性があるというだけでも、「まあ、それなら、今の時点であまり気にしてもしょうがない」と考えられるだけ、気楽になります。



196

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ 避雷針 ] 発言日時 [9月11日(月)12時29分22秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月9日(土)12時28分27秒 ]

ALEXさん、今日は。

>> >また『万葉集』に豊前国の海岸での歌として
>> > 海原の 沖辺にともし いざる火は 明かしてともせ やまと島見む (十五−三六四八)
>> >とあります。

>> #作者は豊前の海岸から沖のほうを見ているわけです。沖の漁船の灯火を明るくともしたら見えるものは当然九州以外の何かですが、実際は船端と海面が見えればいいところです。
>>  この歌は東九州の海岸から「沖の漁り火を明るく燈してくれ。やまと島が見たい。」と願望を詠んでいるのですから、見たいのは海の向こうの故郷であって、実際に見える距離に見える距離にある必要はありません。

常識的にいえば(文学的にもそうですが)見えないところのものを思うために近くで火をともす必要はない訳で、「見ゆ」の講釈以前にかなり不自然な読み方をされますね。

>> >淡海についても
>> > 鯨魚(いさな)取り 淡海の海を (二−一五三)
>> >とあります。

>> #この歌の舞台となった土地が「鯨の生息する淡水の海」のほとりであるという主張には、一片の合理性もありません。
>>  鯨は海の枕詞で意味がありません。

私は淡水の海であるとは主張していません。鯨というからには海水でしょう。
枕詞とそれが掛かる言葉の間には読み手と読者の間の歴史的な了解がある訳ですから、明らかに鯨のいない淡水湖を海というとして海の枕詞である鯨が用いられるのは当然というのは奇妙な解釈ですね。
場面にありえないことを表現する奇をてらった歌であればともかく、これは天智が死去したときの后の歌です。

私も当然多くの理由によって考察していきますが、残念ながらこの場ではきわめて部分的な話しかできません。
しかし、その部分的なところでもこの程度の議論であれば、これ以上続ける必要はないでしょう。

ご忠告は大変有り難うございました。


199

銅鐸にかかわりのある地名・名前

投稿者[ 三河 太郎 ] 発言日時 [9月11日(月)18時09分37秒]

元の発言 [ ちょっと銅鐸のことで ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 9月6日(水)21時18分11秒 ]

今晩は。

日本規格協会出版、仲田進一著『銅のおはなし』には
銅鐸にかかわりのある古地名、古神社、一族として
「三ワ(三輪)」、「カモ(鴨)」、「賀茂」、「伊福」「サナギ」などが挙げられるとしています.
情報提供のみ。



2

Title村上氏の鉄論

投稿者[ 当世奇妙 ] 発言日時 [9月1日(金)06時44分43秒]

>> *上記が村上氏の結論ですか?

いえ、前提です。(おにりんさん)

*読みました。前述のコメントはぴったり。鋭い指摘!
最初は良い調子ですが最後は何か違和感がありました。
岡村先生の環境7期で九州が鏡が少なく、畿内に多い点、鉄では以前九州
優勢とのはなし、面白かったですね。


20

Re: 三神三獣鏡について@お遊び投稿(^^)

投稿者[ 池ちゃん ] 発言日時 [9月2日(土)20時01分39秒]

元の発言 [ Re: 三神三獣鏡について@お遊び投稿(^^) ] お名前 [ とも ] 日付 [ 9月2日(土)09時22分07秒 ]

>> @お遊び投稿と言うことで、推測、想像、てんこ盛りで行きます。

>> >> たとえば、三角縁神獣鏡は、図柄の密度が低いので、デザインがそうとう適当なんだとか、、。

>> このことは、先にkoujiさんが書いていた、デザインの急速な簡略化とあわせて、背景にデザイン軽視の思想があったのではないか。

>> つまり、鏡作りに向かう思想みたいなものが、根本的に違っていたのではないか、と言うことです。
>> 出来上がった鏡を自慢する、あるいはそれを見て満足するときの基準が、「美しい鏡」よりも「(作るのが)難しい鏡」の方に偏っていたのではないでしょうか。

>> >> そういう意味では、非常に短い間に、いろいろなデザインを大量生産したという可能性が高い。

>> そうですね。
>> さらに穿った見方をすると、あれは実は試作品段階にあったものなのではないか、と思えます。
>> 現代の企業ならば、正式な製品として、と言うよりもサンプル配布に近いレベルのものであったのではないかと。
>> もちろん、これは初期の三角縁神獣鏡についてですが。

>> 私としては、そのような鏡を下賜鏡とするか、と言うことに疑問は感じます。
>> デザイン面での出来の善し悪しは別にしても、もう少し保守的で、定型化している鏡を渡しそうな気がします。

#魏鏡説の立場で言うと、
魏の政権そのものが弱体化したため、
これに伴って、デザインがいいかげんなものになった
と言えるかもしれませんね。


200

Re: C14年代の信頼性

投稿者[ 率前中郎将 ] 発言日時 [9月11日(月)19時04分54秒]

元の発言 [ C14年代の信頼性 ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 9月10日(日)18時29分57秒 ]

>> ホケノ山の場合、詳しい報告が出てこないとなんともいえないところで
>> すが、奈良新聞によると、

>> 『年代測定は、(略)1平方センチ5個をサンプルにした。(略)木棺の表皮に近く、最も年代の補正値の幅の狭いサンプルの測定中心値が120年だったことが判明。』

>> ということですから、おそらくは単一箇所でのデータで、上記統計処理などは
>> されていないと思われます。したがって、上の池上曽根のデータと同じくらい
>> のばらつきはあると考えたほうがいいので、10年ぐらいの誤差しかないなんて
>> いうのは、とんでもない話です。そもそも、報道されたものは、『120年を中
>> 心に80-155年の可能性が高い』で±40年の幅を見ています。しかも、これはあ
>> くまでも測定値の誤差であって、実際の値はそれ以上にばらつくことを池上曽
>> 根のデータが示しています。

#勉強になりました。やっぱりC14年代を鵜呑みにするのは難しいですね。もともと理化学系の年代比定や産地同定などは、一見科学的で間違い無いように見えて、実はいくつかの前提条件があることを忘れていることが多いように思います(鉛同位体比の問題も同様。)。
 ホケノ山については、そういう値もある、と言う程度にとどめた方がよいのでしょうね。そして、その値が正しいかどうかは別問題ということで。



201

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [9月11日(月)19時06分14秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ 避雷針 ] 日付 [ 9月11日(月)12時29分22秒 ]

今日は。

>> 常識的にいえば(文学的にもそうですが)見えないところのものを思うために近くで火をともす必要はない訳で、「見ゆ」の講釈以前にかなり不自然な読み方をされますね。

#これが普通の解釈です。
個人的な感覚で自然とか不自然とか言っても客観的な議論は出来ません。正しい方法で例証する事に意味があります。

>> 枕詞とそれが掛かる言葉の間には読み手と読者の間の歴史的な了解がある訳ですから、明らかに鯨のいない淡水湖を海というとして海の枕詞である鯨が用いられるのは当然というのは奇妙な解釈ですね。
>> 場面にありえないことを表現する奇をてらった歌であればともかく、これは天智が死去したときの后の歌です。

#ぜひ基礎的な勉強をなさってください。


>> 私も当然多くの理由によって考察していきますが、残念ながらこの場ではきわめて部分的な話しかできません。

#できない理由などありません。
ちなみに、多くの「きちんと証拠をあげて議論できない人々」がそう言って投了形を作ります。

どのような場でも「正しい資料」「正しい証拠」をあげて自分の見解を明かになさることをお勧めします。


202

Re: 三角縁神獣鏡の年代/ホケノ山の年代(Re:三神三獣鏡)

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [9月11日(月)19時19分19秒]

元の発言 [ Re: 三角縁神獣鏡の年代/ホケノ山の年代(Re:三神三獣鏡) ] お名前 [ 率善中郎将 ] 日付 [ 9月11日(月)08時41分04秒 ]

>> >おにりんさん

 付け加えさせてもらいますが、ホケノ山の同向式神獣鏡が楽浪鏡の場合でも、2世紀代以来の江南(三国の呉地域)や、一部四川(蜀)で作られていた半肉彫り系統の鏡の型式系譜上ですから、その上での編年です。楽浪の神獣鏡は(西川寿勝氏の「亜種鏡」)、2世紀末頃の成立が見込まれます。それは、2世紀代の記年銘のある神獣鏡との型式的な比較からです。「永康元年」(167年)、「中平4年」(187年)の環状乳神獣鏡との比較から、後漢晩期、2世紀第4四半期にしか成立せず、ホケノ山鏡はそれより数型式下ったもので、むしろ「景初3年」(239年)同向式画文帯神獣鏡に近い型式であるので、古くても後漢末期、おそらく三国初頭と見るのが妥当でしょう。


203

Re: 三神三獣鏡について@お遊び投稿(^^)

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月11日(月)21時13分45秒]

元の発言 [ Re: 三神三獣鏡について@お遊び投稿(^^) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月11日(月)00時13分05秒 ]

>> #中華文献に載っていないからヤミ冊封というのは、
>> #考古学的定説とは違ってますけどネ。
>> #彼等は自分で、大量の大型鏡や玉璧、四葉座金具を作ったんでしょうか?
>> #それとも、(三角縁鏡を作ったような)ヤミ工房があった。これも、物語としては面白いかも。§^。^§
>>
>>
#ヤミ工房が中国辺境(おそらくは半島)にあった、ということを意識してレスしました。
#計らずも(三角縁鏡を作ったような、を除くでしょうが§^。^§)同意見ですネ。これまた、面白い。(^o^)



204

Re: ちょっと銅鐸のことで

投稿者[ 三河 太郎 ] 発言日時 [9月11日(月)21時34分16秒]

元の発言 [ Re: ちょっと銅鐸のことで ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月7日(木)10時27分05秒 ]

今晩は。

#このような説を唱えたのは林行雄氏だったと記憶していますが.
確かに、書物に記載されている最古の記録は698年ですね.朝廷への献納のとして。
記録が無いから、無かったというのはちょっと乱暴です。
純度の高い「自然銅」が採掘され使用されています.豊前の採銅所、長門の長登遺跡など.
又、銅鐸の出土数の多さで、意外に忘れられているのは愛媛県。別子の銅が使用されているようです.
数年前に発掘された、庄原遺跡(〜1世紀)からは 銅の精錬時に生成する硫化銅鉱の
鉱滓が出土しています。
久野邦雄氏は奈良、東吉野村の三尾鉱山を弥生時代,鏡作り神社との関係の可能性を示唆しています。
自給できる量だったかどうか、確定は出来ませんが、国内産の銅が使用されたことは間違いと考えています。

#広島、小丸遺跡から出土の溶鉱炉跡などはどのようにお考えですか?



205

Re: 天下分け目の合戦!

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月11日(月)21時37分33秒]

元の発言 [ Re: 天下分け目の合戦! ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月11日(月)12時39分16秒 ]

#どうもすいません。

>>
ですね。四国でも、吉備でも、関東(千葉ですかね)でも、それぞれで発展の系譜がたどれ
るようですので。
>>
#とレスされていたので質問したんで、

>>
>>
>>
>>
>>
#と言うことは、埋葬主体部に祭祀施設をくっ付けたものは全て「箸墓プラン」ということだと読まないと上のレスの意味が分からないです。

>>
>>
#全て「纏向型」になるのではなく「どんどん出てくる」ですネ。

>> #「吉野ヶ里」〜「鳥栖・小郡」というと、筑紫の中心に近い局地なんですけど。
>> #邪馬台国と狗奴国の最前線を二日市地峡帯とするんですか。
>>
>>
>>
#肥後は狗奴国の領域であると思いますが、
#筑後平野は考古学的に福岡平野と近しいです。
#土器形式、墓制でも、画期は菊地山地でしょう。

>> #それに、東海の土器は九州のものより早くから大和に入っているのじゃないですか。
>>
#いえいえ、おにりんさんの「狗奴国≠東海」の傍証にはなります。§^。^§




206

Re: ちょっと銅鐸のことで

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月11日(月)21時49分38秒]

元の発言 [ Re: ちょっと銅鐸のことで ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月11日(月)15時47分16秒 ]

>> #と言うと、邪馬台国時代の列島は「銅鐸祭祀」圏と「武器形祭器」圏に分れると考えて言いのでしょうか。
>>
>>
>>
#そうですネ。
#流行というより、農耕儀礼的な「銅鐸祭祀」と、首長権を誇示するかのごとき「武器形祭器」では、
#ずいぶん社会の性格、体制が違うように思います。

>>
>>
>>
>>
>>
#わたしとしては、
#魏使は邪馬台国で「銅鐸」を見ていない、
#しかし、卑弥呼の宮廷を守っていた兵が「鉾」を持っていたのを見た。
#としたいとこですネ。§^。^§



207

Re: 「里」くつに合わない?

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月11日(月)22時37分42秒]

元の発言 [ Re: 「里」くつに合わない? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月11日(月)11時11分02秒 ]

>>
>>
>>
>>
>>
>>
残念ながら日数の表記では距離が出ないことは、お得意の
朝鮮の通信使のことからも確かです。
短里と長里は言われるように、60mから500mまでの
誤差のある一里であって、換算された記録がないとすれば
そうでしょう。
ということは、短里を使うのはペテンといわれるが、
それだけの誤差のある一里と、日数表記では距離が出せ
ないことから、里も日数も使った行程からでは、
場所が確定できないということですね。


>>
>>
>>
>>




208

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ 避雷針 ] 発言日時 [9月11日(月)22時54分21秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月11日(月)19時06分14秒 ]

ALEXさん、今日は。

>> #できない理由などありません。
>> どのような場でも「正しい資料」「正しい証拠」をあげて自分の見解を明かになさることをお勧めします。

それ自体はおっしゃるとおりですね。
ただ、それをどの場でやるかということですが。

重ねてアドバイスを有り難うございました。




209

Re: Title千里一寸法の陥穽

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月11日(月)22時59分45秒]

元の発言 [ Re: Title千里一寸法の陥穽 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月10日(日)00時45分45秒 ]

>> #少なくとも、1里=1800尺でないとする根拠は存在しないでしょう。

1800尺を一里とするはあっても、一里だから1800尺
というのは、距離としてみた場合、かなり誤差が多いよう
なので、そうなると尺の方も誤差はあるわけですか。
イコールとするのはどうかな?


21

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ 避雷針 ] 発言日時 [9月3日(日)00時16分01秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月2日(土)13時37分47秒 ]

ALEXさん、今日は。

知られる限りの木簡の例を調べました。
国評制の木簡においては、国評名の前に文字があるのはすべて年月だけです。
ただし、飛鳥池から次の一例があります。
「丁丑年十二月次米三野国」(この後は二行で評名等が続く)
次米が評名の後にくる例もあります。
従って、国評名の前の文字は基本的に年月であり、例外的に朝廷祭祀に供えられるために貢納される品名ということになります。

「□妻」が地名の一部よりも祭祀用貢納品を示す可能性は低いと見られますが。



219

Re: 「里」くつに合わない?

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月12日(火)01時34分36秒]

元の発言 [ Re: 「里」くつに合わない? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月11日(月)23時59分32秒 ]

>>
>>
だから、1日の距離と日数の相関はないんだって。
この問題は、無理なんです。
どちらの話もそれぞれ都合の良い解釈でしかないので
1日50里なら、朝鮮通信使はどうしたんですか?
全然動けない日も日数にいれるのか、動いた日にち
だけ入れるのか、風の都合を計算して平均値を出す
そんなことはないでしょう。
だから、ペテンとか言ってること自体おかしいんでは
ないですか。






220

Re: C14年代の信頼性/ホケノ山・箸墓の年代

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [9月12日(火)01時39分48秒]

元の発言 [ Re: C14年代の信頼性 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月12日(火)00時39分57秒 ]

>> これを見れば一目瞭然で、本来、年輪の値が大きくなるにつれてC14BPの値も
>> 大きくならないといけないはずですが、年輪の位置とC14BPの間に何ら相関は
>> 認められません。

>>
>>
>>
>>
???
 もちろんそうですが(C14試料は別に最外輪の必要はありません)、池上曽根のような伐採年に近い年輪年代の出ている各資料の測定年代とと、C14の各年代が対応しない(バラバラ)のは問題です。(イリヒコさんの言い方はちょっとおかしい部分もありますが)
 C14の誤差もそのままプラスマイナスではなく、測定値(統計処理上の値)自体が試料上の制約でおかしい場合があります。ホケノ山の場合、木棺の1片のみでは問題があります。それこそ、年輪年代とC14年代の差を考えた場合、年輪年代と異なりその制約は明らかです。
 ちなみに、暦年代が明らかな時代(もっと新しい時代)の試料でも、測定誤差年数を超えておかしい場合はあると思います。また、誤差のプラスマイナスも、統計上、ある前提の上で、「●○パーセント」の確率で、その年数の誤差があると言う意味です。
 このような危ういC14の測定年代に固執して、無理矢理ホケノ山を2世紀にするのはいかがでしょうか。
 また、再三言っているように、纏向2式が鏡から3世紀第2四半期を前後する以上、布留0式の始まりを230年頃とするのはかなり無理があります。箸墓を卑弥呼の墓としたいと言うのは分かりますが、それを前提に、他の考古学的事実やより確度の高い編年をねじ曲げるのは、本末転倒ではないでしょうか?
 結局、箸墓=卑弥呼説は、「径百余歩」だけで、これも倭人伝での「百余」の用例から、本当に実数か問題があります。また倭人伝の書き方はどう逆立ちしても寿陵として書いているとは思えません(文献史学でもそういう解釈のはずです)。他の方もそうでしょう。卑弥呼が死んだ(「すでに死す」、でも、「もって死す」でも)そして冢を大いに作った、としか書いていません。魏の使いは、「倭王に拝仮す」と書いているので、一度は女王の都に行っているはずです。倭王の墓たる箸墓を作りはじめていたなら、そう言った書き方はないでしょう。
 また、寺沢薫氏の概報(中山大塚・下池山の概報中、学生社でしたっけ)中にあるように、箸墓の築造は、布留0式の中の長い時間幅で行われている(築造終了=埋葬は0式でも新相ということになる)、ということをここで再度確認しておきたいと思います。
 私は、布留0式は250年頃から280年頃とするのが現状ではもっとも妥当な年代観であると考えています。「纏向諸古墳」が卑弥呼の墓ではないとすれば、全長120m野中山大塚(布留0式古相か)あたりは卑弥呼の墓の候補たりうるとは思いますが。
 





221

Re: C14年代の信頼性/ホケノ山・箸墓の年代

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [9月12日(火)01時43分19秒]

元の発言 [ Re: C14年代の信頼性 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月12日(火)00時39分57秒 ]

一部訂正します。
>また、誤差のプラスマイナスも、統計上、ある前提の上で、「●○パーセント」の確率で、その年数の誤差があると言う意味です。
#「・・の確率で、その年数の誤差範囲内にある」という意味です。
>「纏向諸古墳」が卑弥呼の墓ではないとすれば、全長120m野中山大塚(布留0式古相か)あたりは卑弥呼の墓の候補たりうるとは思いますが。
#120m「の」中山大塚、です
 




222

Re: C14年代の信頼性

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [9月12日(火)03時01分54秒]

元の発言 [ Re: C14年代の信頼性 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月12日(火)00時39分57秒 ]

>>
同書3章の図5を見てください。
そういう計算をしないと、あの図は出てきません。




224

Re: C14年代の信頼性(訂正)

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [9月12日(火)10時17分02秒]

元の発言 [ C14年代の信頼性 ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 9月10日(日)18時29分57秒 ]

以下の部分が誤っていました。訂正します。


>> 193   2250±40    260   67BC(*)


193   2240±40    240   47BC(*)


225

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [9月12日(火)10時18分10秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ 避雷針 ] 日付 [ 9月11日(月)22時54分21秒 ]

>> どのような場でも「正しい資料」「正しい証拠」をあげて自分の見解を明かになさることをお勧めします。

>それ自体はおっしゃるとおりですね。
>ただ、それをどの場でやるかということですが。

#一行目と二行目が矛盾しています。
#飲み屋でくだをまく時
 相手を馬鹿にしている時
 でたらめを言ったことを誤魔化したい時
以外のすべての場でしょう。

 一般論で言えば「正しい資料」「正しい証拠」が挙げられないのは「無いから」で、説明できないのは「自分でも分かっていないから」です。」

 初心者のかたは自分の個人的な「常識」にたより勝ちですが、ぜひ客観性をこころがけて、そして何より***資料を正しく扱う***ことです。これはマナーの問題ですので注意なさって下さい。


226

Re: C14年代の信頼性

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [9月12日(火)10時24分44秒]

元の発言 [ Re: C14年代の信頼性 ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 9月12日(火)03時01分54秒 ]

追加です。

同書にはウィグルマッチング方の説明のところに、年代間隔のわかっている複
数の年輪層を使うという主旨のことが書かれています。年輪層によって結果が
変わり、この“わかっている年代間隔”を最終結果を導くのに利用しないので
あれば、この手続きは無意味です。

私は植物はよく知りませんが、樹木の繊維は表皮下の形成層で作られるのでは
なかったですか?一旦作られた繊維の中の炭素は共有結合で繊維内に組み込ま
れているはずですから、これを一つづつ取り出すのは極めて困難です。樹木内
部で繊維が丸ごと新陳代謝で失われるのでない限りは、古い年輪層には古い炭
素が残っているはずだと思いますが。


227

Re: 「里」くつに合わない?

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [9月12日(火)10時39分33秒]

元の発言 [ Re: 「里」くつに合わない? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月12日(火)09時47分51秒 ]

ご両所、割り込みです。

>> だから、1日の距離と日数の相関はないんだって。

>>

#少なくとも、二泊三日程度の距離に一ヶ月とか書けば、「これはおかしい」という読者のチェックが入るでしょうし、書く人も当然そういう意識で書くでしょう。

 しかし実際そういう日数がかかることはありうる。ありうるけれども、実際かかった日数であるとするなら、今度は「陸行水行」をORで読むのはおかしいことになります。


# ちなみに、漢書西域傳でも一部に日数表記が残っていますが、また一部の里数は所要日数から割り出されたとものする研究があります。
 ご興味があれば出典を紹介します。



23

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [9月3日(日)01時56分34秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ 避雷針 ] 日付 [ 9月3日(日)00時16分01秒 ]

今日は。

>> 知られる限りの木簡の例を調べました。
>> 国評制の木簡においては、国評名の前に文字があるのはすべて年月だけです。

#それは不正確でしょう。「これまでに判読された文字は」ではないでしょうか。

 それと、お聞きしたのは、文字の間隔や大きさが揃っているから固有名詞として一体であるとおっしゃる裏づけがあるかということです。別のことをお答えになると言う事は、この裏づけが無いということでしょうか?


231

Re: ちょっと銅鐸のことで

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [9月12日(火)11時51分26秒]

元の発言 [ Re: ちょっと銅鐸のことで ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 9月11日(月)21時49分38秒 ]

>> わたしとしては、
>> 魏使は邪馬台国で「銅鐸」を見ていない、
>> しかし、卑弥呼の宮廷を守っていた兵が「鉾」を持っていたのを見た。
>> としたいとこですネ。§^。^§

#イコール、魏使は邪馬台国で祭祀用「銅矛」を見ていないってことですね。

 倭人伝には実用武器としての矛が出て来るだけなんで、これを祭祀用銅矛とイメージ的に結び付けちゃったのは九州説系ジャーナリスト(学者じゃなくて)のご乱行なんでしょうなぁ。



232

Re: C14年代の信頼性

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [9月12日(火)12時46分34秒]

元の発言 [ Re: C14年代の信頼性 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月12日(火)10時53分18秒 ]

>>
>>
>>
池上曽根のデータは、現実にそうであることを示しています。
calBCの値(中央値ですが)は、183〜240BCです。

奈良新聞の記事で『木棺の表皮に近く、最も年代の補正値の幅の狭いサンプ
ル』とあるのは、このことじゃないでしょうか。それに、どの年輪層でも同じ
値であるなら、『木棺は加工の際に表面を削られている可能性もある』という
ことを考慮する必要はないはずです。

手持ちのニュースのスクラップを検索してみたところ、放射性炭素の報告があ
ったのは、次のような場合です。

人骨 550年前
動物の骨 1万年前
木の杭 3800年前
ボーリング資料(土?) 6000-7200年前
木製の櫂 6000年前
炭化米 2000年前

大木はないです。
ちょっと気になるのは、木の杭と櫂ですが、3800年前、6000年前ということだ
と問題はないような気がします。

他の場合は問題にはならないでしょう。





233

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ kouji ] 発言日時 [9月12日(火)12時53分55秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ 避雷針 ] 日付 [ 9月11日(月)12時08分31秒 ]

避雷針さん、こんにちは。

>> 694年前後の件については私も別の理由で見直しをしようと思います。

 それがよろしいでしょう。私も、今まで書いてきた事とはまったく別の理由で、飛鳥出土の大和以西の地名を有する木簡は、大部分が694年以前だと断定してよいと思います。

 ところで、大宝律令施行前後の方は考え直されないのでしょうか?


234

感服!

投稿者[ 当世奇妙 ] 発言日時 [9月12日(火)12時59分17秒]

元の発言 [ Re: C14年代の信頼性 ] お名前 [ 率前中郎将 ] 日付 [ 9月11日(月)19時04分54秒 ]

>>  ホケノ山については、そういう値もある、と言う程度にとどめた方がよいのでしょうね。そして、その値が正しいかどうかは別問題ということで。
*イリヒコさんと率善中郎将さんのレベルの高い議論
に感服しています。なかなかこの議論には入り難い。
ただ私は寺澤氏の年代観に近いですので、お二人の意見は
心強いです。どこかで纏めて論文にされることを期待
します。年輪年代絶対論等がはびこっているように思う
ものですから。
年代を古くする岡村、車崎氏なども自らの年代観は異端
と自認しているようです。(最近は賛同者が増えているとは言っています)
駄文で済み見ません。



238

Re: 「里」くつに合わない?

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月12日(火)16時37分21秒]

元の発言 [ Re: 「里」くつに合わない? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月12日(火)15時59分05秒 ]

みんながよく動いていたところは
里数がわかっているでいいと思います。
春秋の筆法はよく知りませんが、そういうことが
あったとしたら、それが可能なのはあまりいけない
ところだからでしょう。
また、わかってしまってはまずいところですね。
可能性は十分あると思います。

「陸行水行」をORで読むことがおかしいといわれますが
参問ですから、あるものは歩いて何日、またあるものは
船で何日かかると言う、そのどちらも記述することは
何も不思議ではありません。また、歩くものは雨などで
自分が何日留まった日数をいれたかもしれないし、
船のものは、実際の進んだ日数かもしれないし、また
そうじゃないかもしれない。
残念ながら、それを知るすべはないということです。



239

Re: 「里」くつに合わない?

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [9月12日(火)17時22分59秒]

元の発言 [ Re: 「里」くつに合わない? ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 9月12日(火)16時37分21秒 ]

>「陸行水行」をORで読むことがおかしいといわれますが
参問ですから、あるものは歩いて何日、またあるものは
船で何日かかると言う、そのどちらも記述することは
何も不思議ではありません。

#「参問」という言葉が出て来るのは全く別のパラグラフですからあまり関係ないとおもいますが。

#私が言っているのは
「水行十日陸行一月」という一文を
 ○船でいくと通常十日かかるそうだ
 ○実際に歩いて行ったら一ヶ月かかった
と、それぞれ意味を違えて解釈するのは恣意的だということです。

「通常何日かかる」という情報なら両方とも「通常何日かかる」
「実際かかった日数」なら両方とも「実際かかった日数」
と読むべきで、後者ならANDで一連の行程ということになるでしょう。

 いづれにしても同じ出発点から同じ終着点に向かう日程としてはあまりにアンバランスです。こういう文章を書いて書いた本人が不思議になりませんか?
 前例から言えば、こういう場合は短いほうに「間道を抜ければ」というような註釈がつくところです。むろん語順も日数の短いほうが後になります。

文章を書く立場に立って考えて欲しいのですが
 ○船でいくと通常十日かかるそうだが
 ○実際に歩いて行ったら一ヶ月かかった
という情報があったら「水行十日陸行一月」とふつう書くか?

 ○Aさんは船で行ったら十日かかった
 ○Bさんは歩いて行ったら一ヶ月かかった
という情報があったら「水行十日陸行一月」とふつう書くか?

書きません。


24

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ 避雷針 ] 発言日時 [9月3日(日)14時10分54秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月2日(土)13時37分47秒 ]

ALEXさん、今日は。

>>私は万葉を根拠に7世紀に奈良地方が倭国といわれていたと考えております。

私は『古代文化を考える』第37号(1999年)に『万葉集』の次のような例をいくつか示したことがあります。
 天の香具山 ・・・ 海原は かまめたちたつ (一−二)
 海小船 初瀬の山に 降る雪の (十ー二三四七)
 長谷の河は ・・・ 磯なみか 海部の釣せぬ (十三−三二二五)
 磯こぎみつつ 島伝ひ 見れども飽かず 三吉野の (十三−三二三二)
また『日本書紀』にも
 吉野の鮎 鮎こそは 島辺も良き ・・・
とあります(天智十年十二月)。
これらの歌における天香山・初瀬・吉野などの地名は8世紀の倭国である奈良地方にあったようには見えません。

また『万葉集』に豊前国の海岸での歌として
 海原の 沖辺にともし いざる火は 明かしてともせ やまと島見む (十五−三六四八)
とあります。

淡海についても
 鯨魚(いさな)取り 淡海の海を (二−一五三)
とあります。
この淡海は8世紀の近江の琵琶湖であったようには見えません。

私は8世紀に書かれた『日本書紀』の地名はもとあった地方から移動して記述されたのではないかという仮説を立てています。

『日本書紀』には里程の記事が二例あり、筑紫国と任那国の間が二千余里とあり(崇神六十五年七月)、また多禰国(種子島)と京の間が五千余里とあります(天武十年(681)八月)。

天武の記事において1里を約530mとすると、種子島から5千里でも樺太北部となり、681年当時には唐制の里は用いられていなかったことが分かります。

私のいう1里=80mであれば(東アジアの古代の会のHPの資料室に論文があります)、筑紫国と任那国の間の朝鮮海峡は幅が約200kmであって二千余里は適当な値です。
『日本書紀』の里が同じであれば、681年当時の京は現在の近畿地方にはなりません。

現在論じている藤原宮木簡の「□妻倭国」はこれと同じ時期です。

 




240

Re: C14年代の信頼性

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [9月12日(火)17時38分34秒]

元の発言 [ Re: C14年代の信頼性 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月12日(火)15時21分31秒 ]

>>
>>
>>
80年の分布の幅(1標準偏差)に対して、90年間(しかも4点)で相関が見られない
のは当然のことだと思いますが。

柱が全て200calBC前後の値であるのに対して、炭化した小枝が20calBCの値に
なっているのは、それなりに意味があるのでしょう。

# 炭化した小枝の推定伐採年は忘れて下さい。これは、明らかな間違いでした。




241

Re: C14年代の信頼性/ホケノ山・箸墓の年代

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [9月12日(火)19時26分38秒]

元の発言 [ Re: C14年代の信頼性/ホケノ山・箸墓の年代 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月12日(火)11時27分25秒 ]

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
C14の年代よりも誤差は少ないし、整合性はありますよ。「誤差20年」で250年が230年にならないか、と言うことでしょうが、ならば、確率が低いという方に賭けるわけですね。ただこの場合、徳島の萩原1号墓の神獣鏡の年代観を無視することになりますよ。

>>
>>
>>
>>
>>
「神業」??紀記の箸墓の「夜は神作り」ですか?倭人伝の話ではないですね。百余歩については実数とあくまで見るということと、前方部(箸墓のはすでに高い構築物)を無視することについては、何を反論してもおにりんさんは動じないですね。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
そうです、埋葬終了後、墳丘上に並べられる特殊器台埴輪によって、実質的に古墳の埋葬=築造終了年代が分かります。布留0式でもやや新相ということと、箸墓の特殊器台様式は合致します(『古墳のための年代学』橿考研1999特別展示図録)。埴輪は、一般的に一度きりとされています。立て替えや追加樹立が確実に認められる例は極ごく稀です。なお、箸墓には従来は古いとされていた「宮山型」特殊器台と、その次の型式とされていた「都月型」特殊器台型埴輪が共存していますが、年代差ではなく、今は系統の違いで、それぞれの変遷があることが確かめられています(西殿塚でも両者があるが、いずれも箸墓より新相)。これについては上記の橿考研の図録の解説を参照して下さい。また、前方部頂上の二重口縁壺も、布留0式新相ですが、これは底部穿孔(焼成前)で、桜井茶臼山の壺形埴輪的な扱いのもので、築造終了時として問題ありません。また、箸墓はおそらく一度きりの埋葬であることは、測量図からの観察から推定されています(近藤義郎『前方後円墳観察への招待』青木書店)。



242

Re: ちょっと銅鐸のことで

投稿者[ 三河 太郎 ] 発言日時 [9月12日(火)20時01分59秒]

元の発言 [ Re: ちょっと銅鐸のことで ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月11日(月)23時50分53秒 ]

今晩は。

>>ところが、同位体比からはそれが出てこないわけでしょ。鉛は、自然銅だろうがなんだろうが、
銅鉱石の中に既に含まれていますしね。その同位体比をやっているはずなんです。
絶対になかったと言い切るほどの根拠はないが、あったことを積極的に示唆する根拠は
さらにない、っていう状況ではあると思います。
#仰ることが良く理解できません。
ひょっとすると、何か誤解、誤認しているのではないですか?。
因みに、自然銅、銅鉱石から精錬した銅に含まれる鉛の成分はどのくらいと考えていますか?






243

Re: C14年代の信頼性/ホケノ山・箸墓の年代

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [9月12日(火)20時21分50秒]

元の発言 [ Re: C14年代の信頼性/ホケノ山・箸墓の年代 ] お名前 [ 率善中郎将 ] 日付 [ 9月12日(火)19時26分38秒 ]

>>> >> で、その定点といわれるものが、これまた年号をもた
>> >> ない鏡の形式による編年ですから、やっぱりこれまた
>> >> 20年程度の誤差を含むものです。

 補足します。画文帯神獣鏡の系統の鏡群は、2〜3世紀の記年銘鏡が豊富ですから、それらが型式や部分要素の変遷の定点となります。そのような記年銘鏡が前後にあるわけですから、この場合の鏡群の編年は20年どころかせいぜい10年程度の誤差になっていると思われます。(なお、ここでの議論ではある型式の初出や「初鋳鏡」が問題なので、ある型式が「踏み返し」で、後にも作られうる、ということは捨象されます)
 また、おにりんさんのように「20年」の誤差とした場合でも(仮にですが)、一方的に古い方に誤差の範囲をもって行くとしても、ホケノ山の神獣鏡は210年頃、萩原1号墓鏡は200年頃にしかなりません。その仮定を採用したとしても、ホケノ山が2世紀代になることはまずありえません。(この仮定が通るならば、箸墓併行の古墳が250年頃で、布留0式が230年代から始まっている、ことも「ありうる」ことは認めますが、難しいいくつもの仮定を通り抜けた場合の話です)
 なお三角縁神獣鏡は、全て倭国製ならなおさら、舶載はやっぱり中国製としても、どうも特殊な工人たちの製品なので、上記の神獣鏡の編年観からは年代は分からないようです(確実な中国鏡の他の神獣鏡群と比較できない)。あるのは最初期の型式の239〜240年の銘だけで、終わりがよく分かりません。


244

Re: 三神三獣鏡について@お遊び投稿(^^)

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月12日(火)20時48分56秒]

元の発言 [ Re: 三神三獣鏡について@お遊び投稿(^^) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月12日(火)00時23分28秒 ]

>> #ヤミ工房が中国辺境(おそらくは半島)にあった、ということを意識してレスしました。
>> #計らずも(三角縁鏡を作ったような、を除くでしょうが§^。^§)同意見ですネ。これまた、面白い。(^o^)
>>
#こう言う“トンデモ”(ですよネ?)は楽しいですネ。
#ありがとうございました。




245

Re: 天下分け目の合戦!

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月12日(火)20時57分30秒]

元の発言 [ Re: 天下分け目の合戦! ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月12日(火)00時22分13秒 ]

>>
>>
#ご意見、了解しました。

>> #土器形式、墓制でも、画期は菊地山地でしょう。
>>
#「重弧紋土器」の出土状況、「地下式板石積石室」など正に、熊本平野を中心とする弥生時代後期の様相を残しています。




246

Re: ちょっと銅鐸のことで

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月12日(火)21時07分49秒]

元の発言 [ Re: ちょっと銅鐸のことで ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月12日(火)00時29分18秒 ]

>> #それにしても、農耕祭祀的銅鐸と武器形祭器の分布地域が分れていて、
>>
>>
#「ムラ祭祀」の道具だったというのが定説ですネ。
#確かに、戦闘時に使った可能性もありますネ。

>>
>>
#大型化した時点では、“圏”が明瞭になりますよネ。

>>
#はい、実物とレプリカが並んで展示してあります。
#高さ20Cm位ですが、大型といえるのでしょうか?
#確かに、カウベルにしてはデカイ。§^。^§



247

Re: ちょっと銅鐸のことで

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月12日(火)21時16分03秒]

元の発言 [ Re: ちょっと銅鐸のことで ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月12日(火)11時51分26秒 ]

>> >> わたしとしては、
>> >> 魏使は邪馬台国で「銅鐸」を見ていない、
>> >> しかし、卑弥呼の宮廷を守っていた兵が「鉾」を持っていたのを見た。
>> >> としたいとこですネ。§^。^§
>> #イコール、魏使は邪馬台国で祭祀用「銅矛」を見ていないってことですね。
>>  倭人伝には実用武器としての矛が出て来るだけなんで、これを祭祀用銅矛とイメージ的に結び付けちゃったのは九州説系ジャーナリスト(学者じゃなくて)のご乱行なんでしょうなぁ。
#そう言う面はありますが、卑弥呼の宮廷を守っていた兵が持っていた「鉾」が実用的なものだったかどうかは疑問です。
#バッキンガムの衛兵が持っている銃は実用的武器でしょうか。
#また、近畿で銅鉾がどれほど出土していますでしょうか。


248

Re: ちょっと銅鐸のことで

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月12日(火)21時58分43秒]

元の発言 [ Re: ちょっと銅鐸のことで ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月12日(火)15時14分22秒 ]

>> #流行というより、農耕儀礼的な「銅鐸祭祀」と、首長権を誇示するかのごとき「武器形祭器」では、
>> #ずいぶん社会の性格、体制が違うように思います。
>>
#可能性が無いとは言いませんが、
#銅鉾は、埋納、副葬があり共同体祭祀と首長権力に関わる祭祀用の武器型祭器だということが分ります。
#銅鏡が権力に関わる祭器となった後はこれに置換わりますが、埋納はされています。
#この時点で、“政治”と(共同体)“祭”が分離したとするのが大方の見じゃないですかネ。
#銅鐸が首長墓に副葬されていた例がありますでしょうか。
#埋納だけなら、共同体の“祭”つまりは“農耕儀礼”ということに。

>> #しかし、卑弥呼の宮廷を守っていた兵が「鉾」を持っていたのを見た。
>> #としたいとこですネ。§^。^§
>>
>>
>>
#鉄戈は知っていますが、鉄鉾、石鉾ってありましたっけ。



249

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ 避雷針 ] 発言日時 [9月12日(火)22時07分10秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 9月12日(火)12時53分55秒 ]

koujiさん、こんにちは。

>> 飛鳥出土の大和以西の地名を有する木簡は、大部分が694年以前だと断定してよいと思います。

ムキになることもないのですが、上記の根拠は何でしょう?

>>  ところで、大宝律令施行前後の方は考え直されないのでしょうか?

はい。そこのところは。


25

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ 避雷針 ] 発言日時 [9月3日(日)14時30分28秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月3日(日)01時56分34秒 ]

>> ALEXさん、今日は。

これまでに判読された文字からすると、奈良地方に来る国評制の木簡においては所定の様式があり、国評名の前に記すのは年月であるということです。
これは木簡の研究領域において共有されている理解と思われます。

>> お聞きしたのは、文字の間隔や大きさが揃っているから固有名詞として一体であるとおっしゃる裏づけがあるかということです。別のことをお答えになると言う事は、この裏づけが無いということでしょうか?

「□妻」が年月の表記の一部でない以上、別のことを答えているとは思いませんが。
議論がうまくかみ合っていませんね。




250

Re: 三神三獣鏡について@お遊び投稿(^^)

投稿者[ Tarinhiko ] 発言日時 [9月12日(火)22時36分09秒]

元の発言 [ Re: 三神三獣鏡について@お遊び投稿(^^) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月11日(月)00時13分05秒 ]

>> #中華文献に載っていないからヤミ冊封というのは、
>> #それとも、(三角縁鏡を作ったような)ヤミ工房があった。
これも、物語としては面白いかも。§^。^§
>>
>>
すみません、漢の時代に倭の国々が、「大夫」を名乗り朝貢していたという記事がありますが、
これって冊封関係までは言及していないけれど、そのことが推測可能な記事だと
思われるんですが。どういうレベルのどういう関係かはよくわからないですが、漢王朝から
公的に認知されていた人々がいたと考えるのは、極めて自然なことだと思います
(あくまで可能性として考えるという事)。

私の認識不足で、そんな事わかった上での議論なら申し訳ない。ヨロシク(^○^)/



256

Re: C14年代の信頼性/ホケノ山・箸墓の年代

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [9月12日(火)23時42分48秒]

元の発言 [ Re: C14年代の信頼性/ホケノ山・箸墓の年代 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月12日(火)23時13分36秒 ]

>>
>>
#<可能性>としては、そうですが、特殊器台、二重口縁壺は一致して布留0式併行のものであり、周溝出土のものも含めて単一時期の物ばかり、という点は重要です。遺物の上では、少なくとも「継続的に」祭祀が行われた証拠は、現状ではありません。また、近藤義郎氏の推測のように、単一埋葬の可能性が高いのです。
 箸墓が特別で重要な墓であった、またしばらくそうであった、というのはその通りでしょう。しかし、そのことと考古学的事実からの解釈は恣意的であってはなりません。箸墓の築造・埋葬年代は、他の古墳と同様に特殊器台(埴輪)や底部穿孔二重口縁壺(壺形埴輪といってもよい)から考えて何の不都合もありません。
 ちなみに中山大塚は、特殊器台や出土土器から、箸墓よりも微妙に古く位置付けられるようです(『古墳のための年代学』橿考研)。これをここで「卑弥呼の墓」などと強弁する訳ではないのですが、100mを超えるような墓としては、最初の古墳であった可能性があります。あるいは未調査の大和(ここでは西殿塚の周囲の狭義の「オオヤマト」古墳群のこと)古墳群あたりにまだこのような古墳があるかもしれません。




259

Re: C14年代の信頼性

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [9月13日(水)00時22分01秒]

元の発言 [ Re: C14年代の信頼性 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月12日(火)23時26分06秒 ]

> ものとはぜんぜんちがう高度な統計処理つかっています。

高度な統計とはいっても、本質的には同じものです。
簡単な方法と難しい方法で200年も違う結果が出るなら、
それはその方法が間違ってます。

よく読んでください。ベイズ統計なるものも基本的にはINTCAL98の校正曲線に基づくものに過ぎません。
式の形を見れば、普通の正規分布であることがわかるでしょう。


260

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ kouji ] 発言日時 [9月13日(水)00時57分03秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ 避雷針 ] 日付 [ 9月4日(月)20時13分46秒 ]

 避雷針さん、今晩は!


>>         『出雲国風土記』
>>  天平五年(733)の『出雲国風土記』は様々な土地の間の距離を詳細に示しており、1里は300歩である。
>>  これらが尺と歩の関係(1歩=6尺)を一定として、89:101の比で換算されていたとすると、次のようにもとは50歩(=300尺)を単位としている。換算尺度の候補は26.6cmから30.2cmである。


 換算結果が、50で割り切れるから、「もとは50歩(=300尺)を単位としている」というわけですよね。


>> 島根郡の郡家から朝酌郷は南一十里八十四歩(3084歩)(解本)、
>>   30.2 ×3084=26.6×3500

 古典文学大系本が採用している本文では、一十里六十四歩(3,064歩)ですね。これだと、

朝酌郷 10里64歩(3064歩) * 101 /89 = 3,477換算歩

になっちゃいますね。50で割り切れません。


>> 山口郷は南四里二百九十八歩(1498歩)、
>>   30.2 ×1498=26.6×1700


>> 手染郷は東一十里二百六十歩(3260歩)(底・鈔本)、
>>   30.2 ×3260=26.6×3700

 異本では、一十里二百六十四歩(3,264歩)とするものもあるようですね。これだと、

手染郷 10里264歩(3,264歩) * 101 / 89 = 3,704換算歩

になっちゃいますね。やはり50で割り切れません。

 
>> 方結郷は東二十里八十歩(6080歩)とある。
>>   30.2 ×6080=26.6×6900


 同じ島根郡の、郡家からほかの郷への距離も見てみましょう。

美保郷 27里164歩(8,264歩) * 101 / 89 = 9,378換算歩
加賀郷 24里160歩(7,360歩) * 101 / 89 = 8,352換算歩
生馬郷 16里209歩(5,009歩) * 101 / 89 = 5,684換算歩
法吉郷 14里230歩(4,430歩) * 101 / 89 = 5,027換算歩

 みんな、50で割り切れません。

>>  以上のように、大宝令制以前には26.6cmの尺度で300尺(79.8m)を単位として距離が測られていたと見られる。
>>  ここで、前述の周制の歩が26.6cmであったとすると、その300倍である80mは周の1里に相当していたと仮定することができる。その場合、周制の里が倭国では7世紀まで行われていたことになる。

 本当でしょうか?計算が合わないことが多いようですが。ちなみに、下のリンクに出雲国風土記のすべての郷の郡家からの距離と避雷針さん式の換算歩の一覧表を入れておきましたので御覧ください。すべて日本文学大系本の本文の距離を採用してあります。


261

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ kouji ] 発言日時 [9月13日(水)01時12分31秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ 避雷針 ] 日付 [ 9月12日(火)22時07分10秒 ]

 避雷針さん、今晩は!

>> >> 飛鳥出土の大和以西の地名を有する木簡は、大部分が694年以前だと断定してよいと思います。

>> ムキになることもないのですが、上記の根拠は何でしょう?

 694年が飛鳥から藤原への遷都の年だからです。実際に出ている紀年付木簡もこれを支持しています。


>> >>  ところで、大宝律令施行前後の方は考え直されないのでしょうか?

>> はい。そこのところは。

 そうすると、唐と国交を結んだ倭国の使者というのも、九州にある政治的中心が派遣したものなのですか?


262

Re: ちょっと銅鐸のことで

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [9月13日(水)01時21分56秒]

元の発言 [ Re: ちょっと銅鐸のことで ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 9月12日(火)21時16分03秒 ]

>> バッキンガムの衛兵が持っている銃は実用的武器でしょうか。

#少なくともブリキのサーベルじゃないでしょう。
 衛兵が広形銅矛なんて持って立ってるのを魏使が見てたら絶対に倭人伝に書いてありますよ。あまりに珍奇だから。

>> また、近畿で銅鉾がどれほど出土していますでしょうか。
#どれほど出ていようと、邪馬台国とは関係ないでしょう。たぶん全く。



263

Re: 「里」くつに合わない?

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月13日(水)01時50分56秒]

元の発言 [ Re: 「里」くつに合わない? ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月12日(火)17時22分59秒 ]


>> 「通常何日かかる」という情報なら両方とも「通常何日かかる」
>> 「実際かかった日数」なら両方とも「実際かかった日数」
>> と読むべきで、後者ならANDで一連の行程ということになるでしょう。

聞いた人の話なんです。
だから、Aは「おれは船で10日だ」、Bは「山越えで1月で着いた」。これをandでもorでもいいですが、これだけ
では実際の日数なのかわからないでしょう。

>>  いづれにしても同じ出発点から同じ終着点に向かう日程としてはあまりにアンバランスです。こういう文章を書いて書いた本人が不思議になりませんか?

朝鮮の通信使ですか、そこの一文からですが

>初八日、この日晴。晩発船す。夜に達し、行くこと一百五十里なり。

水行で1日、それも晩に出て夜に着いて150里進んだの
ではないですか?

水行の距離と陸行の距離のアンバランスは、ALEXさんが
知っているが故にそう思われるのではないですか?

>> 文章を書く立場に立って考えて欲しいのですが
>>  ○船でいくと通常十日かかるそうだが
>>  ○実際に歩いて行ったら一ヶ月かかった
>> という情報があったら「水行十日陸行一月」とふつう書くか?

>>  ○Aさんは船で行ったら十日かかった
>>  ○Bさんは歩いて行ったら一ヶ月かかった
>> という情報があったら「水行十日陸行一月」とふつう書くか?

>> 書きません。

僕は、ふつう漢文を書かないのでわかりませんが
ふつうならどう書くのでしょうか?
教えてください。


264

Re: ちょっと銅鐸のことで

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月13日(水)02時02分59秒]

元の発言 [ Re: ちょっと銅鐸のことで ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月13日(水)01時21分56秒 ]

>> >> また、近畿で銅鉾がどれほど出土していますでしょうか。
>> #どれほど出ていようと、邪馬台国とは関係ないでしょう。たぶん全く。

#兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上
と書かれている以上、やはりたくさんあった方が
いいと思いますが。
まして、全然無ければおかしいでしょう。
九州の武器と畿内の武器は、畿内説であれば、やはり
同じのほうが納得できますよね。
ふつうなら、征服している地方のものを服従している
地方にも使わせるものだと思いますが。



265

Re: C14年代の信頼性/ホケノ山・箸墓の年代

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [9月13日(水)06時34分23秒]

元の発言 [ Re: C14年代の信頼性/ホケノ山・箸墓の年代 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月12日(火)23時57分23秒 ]


>>
>>
これは何とも言えませんよ。なぜなら盗掘が激しかったからです。そのため副葬品がほとんどないのです。しかし、長大な断面合掌式の竪穴式石室や特殊器台埴輪をはじめて採用し、纏向型の95m前後をはじめて突破した、という点で、大王かどうかはともかく、かなりの重要人物の墳墓であると思います。
ホケノ山の画文帯神獣鏡と、C14年代も「多少は考慮」
>>
>>
 C14はともかく、これはいいですね。
わけで、
>>
>>
>>
あれっ、これだと箸墓が庄内古式の可能性??もしそうなら卑弥呼の墓にしますけど。でも、周溝の調査から、最下層から布留0式が出ているので、いくらなんでもありえませんね。

>>
>>
 これって確か奥野正男氏が言ってましたよね。でもですね、この「ナシメ」という地名ですが、寺沢薫氏によると、たしか元は「ナツメ」という地名らしいです。誤って転写されたようですが、、、
 余談ですが、難升米が奴国の人間とする説に魅力を感じます(邪馬台国が大和としても)。これは「難」が「儺津」の「儺」で(音韻上同じ。大阪外語大学?の森博達氏の説)、また外交の実績のある奴国の重要人物が女王国の使者となったとする説があります。森浩一氏がこれを支持していますし(『日本の古代』中央公論社のシリーズのどこかに書いてました)、また高倉洋彰氏も同意見です(『金印国家群の時代』青木書店)。もっとも、根拠的には弱いのですが、、でも面白い説だと思います。



268

Re: ちょっと銅鐸のことで

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [9月13日(水)10時44分25秒]

元の発言 [ Re: ちょっと銅鐸のことで ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 9月13日(水)02時02分59秒 ]

>>>また、近畿で銅鉾がどれほど出土していますでしょうか。
>>どれほど出ていようと、邪馬台国とは関係ないでしょう。たぶん全く。

>兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上
>と書かれている以上、やはりたくさんあった方がいいと思いますが。
>まして、全然無ければおかしいでしょう。

#「銅」矛の話ですよ。全く関係ありません。


>九州の武器と畿内の武器は、畿内説であれば、やはり同じのほうが納得できますよね。

#実用武器が九州と畿内と違うって話はとくに無いと思います。
 ちなみに「灼骨而卜」の骨が九州本島でひとつも出土していないってことはありますが邪馬台国なら出ない筈ないですよね…あ、これはオフトピですね。


>ふつうなら、征服している地方のものを服従している地方にも使わせるものだと思いますが。

#普通って言っても、伝統的なものを使い続けさせるとか、全然使わせないとか千差万別だと思いますが、今はそういう話じゃないんです。


269

Re: C14年代の信頼性

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [9月13日(水)11時53分50秒]

元の発言 [ Re: C14年代の信頼性 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月12日(火)23時26分06秒 ]

>>
>>
確率密度分布をかけあわせると書いてあるはずです。
calBCを中央値とするような確率密度分布を求め、それを年輪分シフト
させて互いにかけあわせたというのは容易に推測できることです。
“ノイズ”に相当する部分は互いに打ち消しあい、“信号”に相当する
部分は互いに強めあって、図のような50BC付近に鋭いピークを持つよう
な結果になったんでしょう。問題は、それが偶然ではなく本当に“信
号”かどうかですが。

実際、図5の値の分布域は、10BC〜130BCですが、200、240、183、240と
いうcalBCの値を年輪数分シフトさせた値は、97、107、20、47BCとなり
ますから、図5の分布域にぴったりと合います。

>>
>>
正確な表現かどうかは分かりませんが、年輪は形成層の両側、つまり、
木部と樹皮の両方にできるんです。ただ、樹皮のほうは厚みがないうえ
に、表面からはがれ落ちたり割れたりするのではっきりとは残らないだ
けです。樹皮層の話と木部の年輪の話は関係ありません。

逆に言えば、木部でも古い部分には古いものがたまってるということです。




27

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ 避雷針 ] 発言日時 [9月3日(日)18時04分10秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月3日(日)17時14分27秒 ]

おにりんさん、今日は。

これらの二つの記事が異なった単位の里を用いていたとは思いませんが、『三国志』の記述を見ただけで『日本書紀』がこのように記述するとは思えません。

『日本書紀』の資料の方がより正確ですから新しい測定でしょう。
他の資料は旅行者によるものですが、おそらく、『日本書紀』の方のものは夏至のときに朝鮮海峡の南北で一寸千里なりの観測を行ったのではないでしょうか。



270

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ 避雷針 ] 発言日時 [9月13日(水)12時12分51秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 9月13日(水)01時12分31秒 ]

koujiさん、今日は。

>> >> >> 飛鳥出土の大和以西の地名を有する木簡は、大部分が694年以前だと断定してよいと思います。
>>  694年が飛鳥から藤原への遷都の年だからです。実際に出ている紀年付木簡もこれを支持しています。

飛鳥京跡で出土した木簡の時期的な下限が694年であるといってよいかどうかは疑問があると思いますが。
(それらの出土層が694年以後の建物のために埋められているというような考古学的な状況がないと。)

>> >> >>  ところで、大宝律令施行前後の方は考え直されないのでしょうか?
>> >> はい。そこのところは。
>>  そうすると、唐と国交を結んだ倭国の使者というのも、九州にある政治的中心が派遣したものなのですか?

私はそのように仮説を立てることは可能と思っています。
7世紀の倭国が奈良地方にあったどうかも同時代資料から立証するのは困難でしょうから、今の段階ではこれらの仮説の間で議論の決着をつけるのは難しいでしょうね。




271

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ 避雷針 ] 発言日時 [9月13日(水)12時26分14秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 9月13日(水)00時57分03秒 ]

koujiさん、今日は。

>> >> 島根郡の郡家から朝酌郷は南一十里八十四歩(3084歩)(解本)、
>> >>   30.2 ×3084=26.6×3500
>>  古典文学大系本が採用している本文では、一十里六十四歩(3,064歩)ですね。これだと、
>> 朝酌郷 10里64歩(3064歩) * 101 /89 = 3,477換算歩
>> になっちゃいますね。50で割り切れません。
>>
>> >> 手染郷は東一十里二百六十歩(3260歩)(底・鈔本)、
>> >>   30.2 ×3260=26.6×3700
>>  異本では、一十里二百六十四歩(3,264歩)とするものもあるようですね。これだと、
>> 手染郷 10里264歩(3,264歩) * 101 / 89 = 3,704換算歩
>> になっちゃいますね。やはり50で割り切れません。

写本の異本により数字が異なる場合には、それだけを見ていてもどちらが正しいか判断できません。
私は複数(多いほどよい)の記事で同じ比率のルールが用いられていれば、それに合う数字で書かれている写本の方が正しいと見てよいのではないてか考えています。
(ある意味で、異本がある場合の正しい写本の判別法になりうると考えています。)

特定の比率で換算されたと見られる例が全体から見て少ないことはそのとおりです。
例えば、元の資料から換算した数値と後から実測した数値を合計したような場合には合計値からは特定の比率が現れてきません。
そのような例が大半であって、一部に一回の換算結果だけの例で示されて残っているものから特定の比率が出てきたのではないかと考えています。



272

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ kouji ] 発言日時 [9月13日(水)13時01分25秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ 避雷針 ] 日付 [ 9月13日(水)12時12分51秒 ]

避雷針さん、こんにちは!

>> >> >> >> 飛鳥出土の大和以西の地名を有する木簡は、大部分が694年以前だと断定してよいと思います。
>> >>  694年が飛鳥から藤原への遷都の年だからです。実際に出ている紀年付木簡もこれを支持しています。

>> 飛鳥京跡で出土した木簡の時期的な下限が694年であるといってよいかどうかは疑問があると思いますが。

 既に都でなくなった土地に、どうして各地から木簡が集まるのでしょう?それに、紀年のある木簡は、私が検索し得たものは全部で九件になりますが、全て、694年以前です。

>> (それらの出土層が694年以後の建物のために埋められているというような考古学的な状況がないと。)

 694年以後であると判断される考古学的状況があるのですか?


>> >> >> >>  ところで、大宝律令施行前後の方は考え直されないのでしょうか?
>> >> >> はい。そこのところは。
>> >>  そうすると、唐と国交を結んだ倭国の使者というのも、九州にある政治的中心が派遣したものなのですか?

>> 私はそのように仮説を立てることは可能と思っています。

 日本書紀の唐への遣使記事と中国側資料の一致という事実をどう説明するのですか?


>> 7世紀の倭国が奈良地方にあったどうかも同時代資料から立証するのは困難でしょうから、

 8世紀始めの成立の日本書紀は、7世紀代に関しては、通常は同時代資料の範疇に入るのですが。


273

Re: ちょっと銅鐸のことで

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月13日(水)16時44分10秒]

元の発言 [ Re: ちょっと銅鐸のことで ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月13日(水)10時44分25秒 ]

#「銅」矛の話ですよ。全く関係ありません。

でもわざわざ兵用矛って書いてあると、祭器の矛も知って
いたのじゃないかな。



274

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [9月13日(水)17時43分07秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ 避雷針 ] 日付 [ 9月13日(水)12時26分14秒 ]

今日は。

>私は複数(多いほどよい)の記事で同じ比率のルールが用いられていれば、それに合う数字で書かれている写本の方が正しいと見てよいのではないてか考えています。
>(ある意味で、異本がある場合の正しい写本の判別法になりうると考えています。)
>特定の比率で換算されたと見られる例が全体から見て少ないことはそのとおりです。


#該当例が全体から見て少ないことをご理解されているのですね。

 全体から見て少ない以上、該当例が複数あるというだけでは同じ比率のルールが用いられていたという推定はできません。つまり「特定の比率で換算されたと見られる例」とは言えません。

「特定の比率で換算された」という仮定が資料から帰納されたものではない以上、挙げられた例は「50で割り切れる」という説に該当する一部の例を選んだだけに過ぎないことになります。

 ゆえに「50で割り切れる」ことを「正しい写本の判別法」にするというのは、自分のアリバイを自分で証言するのと同じではありませんか?


275

Re: C14年代の信頼性/ホケノ山・箸墓の年代

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [9月13日(水)18時11分00秒]

元の発言 [ Re: C14年代の信頼性/ホケノ山・箸墓の年代 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月13日(水)10時34分35秒 ]

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
えっと、石野さんは違うと思います。3世紀第3四半期にしています(卑弥呼より後と最近でもはっきり書いてます。『古代を考える 邪馬台国』吉川弘文館、石野博信「三世紀の都市 纏向遺跡」)
>> あれっ、これだと箸墓が庄内古式の可能性??もしそうなら卑弥呼の墓にしますけど。でも、周溝の調査から、最下層から布留0式が出ているので、いくらなんでもありえませんね。

>>
これは強弁です。埋葬年代を示す埴輪(特殊器台)の編年を無視するだけでなく、築造当初から布留0式のようです(『大和の前期古墳 下池山古墳・中山大塚古墳』学生社、所収の「箸墓古墳調査概要」参照。)さらには布留0式土器は葺き石の間の裏込め中からも出ているのです。ですから無理な話です。なお同様の土器群の出土が、後円部横の周溝渡り土手でも出ているようですから、ますます庄内式古相などというのは不可能な話しですよ。ここでも渡り土手や外堤盛土内、さらには基礎工事の地山整形埋土からの最新出土土器は布留0式なのです(東アジアの古代文化97号の橋本輝彦氏=桜井市教育委員会の概報参照)。



276

Re: C14年代の信頼性/ホケノ山・箸墓の年代

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [9月13日(水)18時19分12秒]

元の発言 [ Re: C14年代の信頼性/ホケノ山・箸墓の年代 ] お名前 [ 率善中郎将 ] 日付 [ 9月13日(水)18時11分00秒 ]

>> >> >> あれっ、これだと箸墓が庄内古式の可能性??もしそうなら卑弥呼の墓にしますけど。でも、周溝の調査から、最下層から布留0式が出ているので、いくらなんでもありえませんね。

>> >> 台与姫様が、丁重にどぶさらいしたんです。

#ということは(こういう強弁をするということは)、箸墓が布留0式だったら248年頃にするのはちょっと苦しいかな、と考え直したということでよろしいでしょうか。庄内式古相なら誤差の範囲で十分卑弥呼の墓でよいですしね。(逆に古すぎる気もしますが)。
 私は、どの墳墓かはともかく、纏向2式後半から3式前半(布留0式初頭)までの墳墓で「卑弥呼の墓」をさがすべきだと考えますが。


277

Re: ちょっと銅鐸のことで

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [9月13日(水)18時28分23秒]

元の発言 [ Re: ちょっと銅鐸のことで ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 9月13日(水)16時44分10秒 ]

>でもわざわざ兵用矛って書いてあると、祭器の矛も知って
いたのじゃないかな。

# 倭人傳に祭器の矛なんて書いてないものは書いてないんです。反対に、韓では「立大木、縣鈴鼓、事鬼神」と祭器を観察してしるしています。どっちかと言えば、祭器のことを知ってりゃ書いてあると考えるほうが素直であります。

#兵用矛って「わざわざ」書いてあるのは

夫餘は「以弓矢刀矛爲兵」
東沃沮は「便持矛歩戰」
ワイは「作矛長三丈、或數人共持之、能歩戰。」

 たんに各国で戦闘に使われている兵器をしるしただけです。東夷シリーズですから書く必然性があるんです。これらの国々で祭器の矛があったって話ではありません。

 つまり「銅」矛の話は全く関係ないのです。連想ゲームを持ち出してイメージ的に九州説を印象づけようとしたライターの質が悪かったため、少なからぬ九州説のひとが変な先入観を持ってしまっただけです。

 鬼が笑いそうですが、九州説はアマチュア人口が多いぶんアカデミックでない議論が目立つ傾向があり、ぱっと見に全体のレベルが低い印象を与えてしまいます。これが九州説の不幸ですね。オヤジッチさんが怒りそうですが、「九州説は迷信」じゃなくて、九州説の間にはへんな迷信が流布している。これは事実です。倭人傳のどこにも書いてないことを「書いてある」と信じている人たちが結構いるのですから。



278

Re: 三神三獣鏡について@お遊び投稿(^^)

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月13日(水)20時57分48秒]

元の発言 [ Re: 三神三獣鏡について@お遊び投稿(^^) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月13日(水)10時06分09秒 ]

>> 公的に認知されていた人々がいたと考えるのは、極めて自然なことだと思います
>> (あくまで可能性として考えるという事)。
>>
>>
>>
>>
#王と認めて、葬具は下賜された例は多いけど、
#「金印」をもらって民族の代表権を冊された例はごく少ないです。



279

Re: 天下分け目の合戦!

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月13日(水)21時02分51秒]

元の発言 [ Re: 天下分け目の合戦! ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月12日(火)22時50分49秒 ]

>> #「重弧紋土器」の出土状況、「地下式板石積石室」など正に、熊本平野を中心とする弥生時代後期の様相を残しています。
>>
#いいえ、「後期“の”」です。
#弥生後期に菊地山地南側から鹿児島県まで広がっていたものが、
#古墳時代には、南部の「球磨」「曽於」地方に縮小、移動しています。



280

Re: ちょっと銅鐸のことで

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月13日(水)21時14分49秒]

元の発言 [ Re: ちょっと銅鐸のことで ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月13日(水)18時28分23秒 ]

了解しました。

魏志倭人伝には、祭器のことは書いてないですね。
ということは、大して中国と変わらない可能性が
ありますね。
違っていれば、書いたでしょうから。
かなり中国的な祭祀のクニだったということでしょうか?

ヤマトオリジナルならば、珍しくてきっと書いたん
でしょうからね。




281

Re: ちょっと銅鐸のことで

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月13日(水)21時16分37秒]

元の発言 [ Re: ちょっと銅鐸のことで ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月13日(水)00時04分02秒 ]

省略失礼。m(__)m

国境紛争、戦闘行為に関係あれば“武器形祭器”のほうがより相応しく、
無論、可能性も根拠もあるごもっともなご意見だと思いますが、
境界域への埋納は「僻邪」の可能性もあり根拠云々では五十歩百歩でしょう。


282

Re: ちょっと銅鐸のことで

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月13日(水)21時26分33秒]

元の発言 [ Re: ちょっと銅鐸のことで ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月13日(水)18時28分23秒 ]

>>  オヤジッチさんが怒りそうですが、「九州説は迷信」じゃなくて、九州説の間にはへんな迷信が流布している。これは事実です。倭人傳のどこにも書いてないことを「書いてある」と信じている人たちが結構いるのですから。
#別に、怒りはしませんが、
#そもそも、話題になった記憶が無いのですが、鉾が大和から出土しているのですか。
#実用の鉾が無ければ、祭器用の銅鉾が出現できないし、
#大和で副葬された鉾、埋納された武器形祭器ってありますか。


283

Re: ちょっと銅鐸のことで

投稿者[ 三河 太郎 ] 発言日時 [9月13日(水)21時34分11秒]

元の発言 [ Re: ちょっと銅鐸のことで ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月12日(火)22時53分17秒 ]

今晩は。


>>>> ひょっとすると、何か誤解、誤認しているのではないですか?。
>>>> 因みに、自然銅、銅鉱石から精錬した銅に含まれる鉛の成分はどのくらいと考えていますか?

>>そもそも青銅が鉛と錫と銅の合金なのは、すくなくとも
鉛と銅は銅鉱石に両方含まれるし、また銅山からは鉛も
とれるということで、両者が似た分布をしめしていると
いうことでしょ。
#他の金属と同様に銅の場合も、微量元素を多種類含んでいます。
鉛も少量。
しかし、金属の鉛として取り出すには鉱石の含有率が低すぎる。
銅鉱山から鉛を生産するのは、私は寡聞にして知りません。
もし、あったとしても特異な例でしょう。
先にあげた、採銅所、長登などのスカルン銅鉱床には皆無です。
又、青銅器の成分比率は御存知でしょう。
あの成分比率にするには錫、鉛の金属の成分の添加調整が必要なんですよ。
博学、博識の御貴殿のことですから、先刻御存知と思いますがね。
それに、現在、盛んにもてはやされている鉛の同位元素分析法は信頼性はいまいちですが、
この分析結果わかることはあくまでも「鉛の故郷」であって主成分である「銅の故郷」ではない。

しかし、何でもかんでも「外国産」にしないと気のすまない人がいるのだろうか。





284

Re: ちょっと銅鐸のことで

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [9月13日(水)21時40分29秒]

元の発言 [ Re: ちょっと銅鐸のことで ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 9月13日(水)21時14分49秒 ]

>> 魏志倭人伝には、祭器のことは書いてないですね。
>> ということは、大して中国と変わらない可能性が
>> ありますね。

陳壽自身は、倭國の宗教について、黄巾や張魯教団のやっていたことと似ていると思っていた節がありますね。

山東から遼東経由でこういった宗教が入ってきて、土着の信仰と融合したものが、急速に広がり、これが広域政権の誕生する契機になったのではないでしょうか。


285

卑弥呼の墓はどれだ?

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [9月14日(木)00時45分47秒]

元の発言 [ Re: C14年代の信頼性/ホケノ山・箸墓の年代 ] お名前 [ 率善中郎将 ] 日付 [ 9月13日(水)18時19分12秒 ]

こんばんは

畿内だとしてという前提の下でですが、

>>  私は、どの墳墓かはともかく、纏向2式後半から3式前半(布留0式初頭)までの墳墓で「卑弥呼の墓」をさがすべきだと考えますが。

勝山あたりはどうでしょう?
周濠から庄内2が出ているという“うわさ”があるみたいですが。

勝山は前方部が極端に小さいですから、『径○○』という記述もう
なずけるものがあると思います。石塚が庄内3ないしは布留0まで下
がるなら、纏向最古となる可能性があります。

どうでしょう?


286

Re: ちょっと卑弥呼の墓の形のことで

投稿者[ 大場嘉門 ] 発言日時 [9月14日(木)12時34分42秒]

元の発言 [ Re: ちょっと銅鐸のことで ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月13日(水)18時28分23秒 ]

ALEXさん こんにちは。
話題を変えてすみません。
でも、今んとこ九州説支持者としては、いわれっぱなしもなんだからと思って…

>>どっちかと言えば、祭器のことを知ってりゃ書いてあると考えるほうが素直であります。
>>九州説の間にはへんな迷信が流布している。これは事実です。
>>倭人傳のどこにも書いてないことを「書いてある」と信じている人たちが結構いるのですから。

大和説の人たちの中には、「書いてある」ことも信じない人が結構いるのではないですか。
倭人伝には卑弥呼の墓は円墳と「明記」されています。(以前、ALEXさんが示した「刃径尺」の径は、大斧の「みね」の意であると思います。)
円墳と明記されているにもかかわらず、大和説の人は卑弥呼の墓は前方後円墳だと信じています。

記録者が中国には見られない珍奇な構造をした前方後円墳を見ていたならば、

夫余 「其死、夏月皆用冰。殺人殉葬、多者百數。厚葬、有槨無棺。」
高句麗「厚葬、金銀財幣、盡於送死。積石爲封、列種松柏。」
東沃沮「其葬作大木槨、長十餘丈、開一頭作戸。」
韓  「其葬有棺無槨。」

東夷シリーズですから倭人伝のみそれを無視して、一般の墓についてだけ「有棺無槨、封土作冢」と書く必然性はないのです。
真新しい葺き石や前方部に特殊器台型埴輪が「列立」していた前方後円墳は、他の諸国に抜きん出て見事なものであったことでしょう。
高句麗伝の「積石爲封、列種松柏」に倣っていえば、卑弥呼の墓の「径百余歩」は後円部のみが書かれているのだと考えるのは素直ではありません。
前方後円墳のことを知ってりゃ、倭独自の墓制ともいえる前方部は書いてあると考えるほうが素直であります。


287

Re: 卑弥呼の墓はどれだ?

投稿者[ 当世奇妙 ] 発言日時 [9月14日(木)13時06分43秒]

元の発言 [ 卑弥呼の墓はどれだ? ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 9月14日(木)00時45分47秒 ]

>> 畿内だとしてという前提の下でですが、
*レベルの高い議論が続いているので、中に入れませんが
少し質問させてください。
イリヒコ説を全部読んでもいなく、記憶も定かではりませんが、上記の前提を外した場合には卑弥呼の墓の可能性のあるのはどこがあるとお思いでしょうか?
白石先生達は三角縁の年号鏡と年輪に引っ張られ過ぎの年代観ではと思っています。三角縁は年号鏡も含め未決着と
思っています。
卑弥呼が奈良なら、列島の中心は既に奈良東南になっていると言うことになりますね。
考古学的に奈良東南のみが3世紀中葉の列島の中心と言えるのでしょうか?あるいは奈良東南が既に列島唯一の中心といえるのでしょうか?鏡では無く、鉄を考えると、
まだまだ日本列島各地はダイナミックに動いていて、卑弥呼クラスの王(?)は数名いても良いのではないでしょうか?勝山クラスではレベルが他と隔絶していないのでは
と思いますが。
要するに卑弥呼が奈良で統治したとは思われないのですが。


288

Re: 卑弥呼の墓はどれだ?

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [9月14日(木)14時08分02秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の墓はどれだ? ] お名前 [ 当世奇妙 ] 日付 [ 9月14日(木)13時06分43秒 ]

こんにちは。横レスです。

>上記の前提を外した場合には卑弥呼の墓の可能性のあるのはどこがあるとお思いでしょうか?

#現状では選択肢は無いように思われます。


>考古学的に奈良東南のみが3世紀中葉の列島の中心と言えるのでしょうか?あるいは奈良東南が既に列島唯一の中心といえるのでしょうか?鏡では無く、鉄を考えると、

#いつも思うのですが、「列島唯一の中心」とか、一体誰がそのような極端な主張をしているのでしょうか?
 しかし少なくとも物流面では、列島内に奈良東南に匹敵するセンターは無いでしょう。西海では福岡の比恵地域がこれに次ぐものだと思いますが、双方の間には密接な文化交流の形跡が認められます。倭人伝の記事と比較対照する限り、別の国ではありえないと思います。


>まだまだ日本列島各地はダイナミックに動いていて、卑弥呼クラスの王(?)は数名いても良いのではないでしょうか?

#これは明らかに倭人伝の記述に反してはいないでしょうか?


289

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ 避雷針 ] 発言日時 [9月14日(木)20時04分38秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 9月13日(水)13時01分25秒 ]

koujiさん、今日は。

>> >> 飛鳥京跡で出土した木簡の時期的な下限が694年であるといってよいかどうかは疑問があると思いますが。

>>  既に都でなくなった土地に、どうして各地から木簡が集まるのでしょう?それに、紀年のある木簡は、私が検索し得たものは全部で九件になりますが、全て、694年以前です。

>> >> (それらの出土層が694年以後の建物のために埋められているというような考古学的な状況がないと。)

>>  694年以後であると判断される考古学的状況があるのですか?

飛鳥京の近くの飛鳥池遺跡も同様に早い時期からの木簡が出土していますが、播磨国の郡制代の木簡が出ており、大宝令制のときまで及んでいます。
これは藤原京から見れば飛鳥京に入る場所になります。

>> >> 7世紀の倭国が奈良地方にあったどうかも同時代資料から立証するのは困難でしょうから、

>>  8世紀始めの成立の日本書紀は、7世紀代に関しては、通常は同時代資料の範疇に入るのですが。

「日本書紀」は例えば組織的に評を郡に書き換えており、それが記述している時代について木簡のような同時代資料ではないですが。




290

Re: 卑弥呼の墓はどれだ?

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [9月14日(木)21時17分18秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の墓はどれだ? ] お名前 [ 当世奇妙 ] 日付 [ 9月14日(木)13時06分43秒 ]

こんばんは

>> イリヒコ説を全部読んでもいなく、

いや、説というほどのことでもなく、卑弥呼の墓は何がしかの画期を示すもの
だろうという程度のものです。纏向周辺でそのような候補を探すと、一番古い
ものか、箸中山古墳ということになりますが、箸中山が時代的に違うとなると、
一番古いものが残ります。

勝山が庄内2であるとすると、庄内期の中頃ですからちょうどいい時期です。

>> 上記の前提を外した場合には卑弥呼の墓の可能性のあるのはどこがあると
>> お思いでしょうか?

すいません、思い付きません。

>> 勝山クラスではレベルが他と隔絶していないのではと思いますが。

ついつい箸中山古墳と比べるから小さいと思いがちですが、勝山は、全長110m
(人によっては120m)、この時期(庄内2ごろ)にこんな大きなお墓、他にはあり
ませんよ。


294

Re: ちょっと卑弥呼の墓の形のことで

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月15日(金)01時24分03秒]

元の発言 [ Re: ちょっと卑弥呼の墓の形のことで ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月15日(金)00時18分32秒 ]

>>
>>
>>
>>
日本の漢字の名前でいけば、たしかにそうなんですが、
実際に見た場合丸くは見えず、結構長いと感じますよ。
それに箸墓は、なかなか前方部の張り出しも大きいし
帆立貝型ならまだしもね。

やはり特異なデザインだと思いますので、なにか書いて
あってもいいのではないでしょうか。
中国の山東方面の宗教と融合してという話ならば、その
墓制と違うものとして、記述されるものではないでしょうか。
ただ中国の円墳に祭祀用の張り出しがついたものがあれば
問題はないかもしれません。




295

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ kouji ] 発言日時 [9月15日(金)02時11分19秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ 避雷針 ] 日付 [ 9月14日(木)20時04分38秒 ]

避雷針さん、今晩は!


>> >> >> 飛鳥京跡で出土した木簡の時期的な下限が694年であるといってよいかどうかは疑問があると思いますが。

>> >>  既に都でなくなった土地に、どうして各地から木簡が集まるのでしょう?それに、紀年のある木簡は、私が検索し得たものは全部で九件になりますが、全て、694年以前です。

>> 飛鳥京の近くの飛鳥池遺跡も同様に早い時期からの木簡が出土していますが、播磨国の郡制代の木簡が出ており、大宝令制のときまで及んでいます。
>> これは藤原京から見れば飛鳥京に入る場所になります。

 はい。奈文研の木簡データベースには、そのような木簡が、6例収録されております。

『播磨国宍粟郡山守里日奉部奴比白米一俵』
『播磨国穴粟郡山守里穴毛知俵』
『播磨国穴禾郡三方里神人□時万呂五斗』
『播磨国穴禾郡三方里神人□牛白米五斗』
『穴栗郡三方里神人□□部竹□五斗』
『播磨国穴栗郡野里出雲部生手』

 すべて同じ郡からのものです。これは、「こほり」を「郡」と表記した時期の飛鳥に、播磨国宍粟郡と特別な関係のあった施設などがあったことを意味しています。「各地から木簡が集ま」っているわけではありません。飛鳥から出ている「こほり」を「評」と表記している木簡は以下のとおりです。

『久米評鴨部→□〈〉〈〉‖』
『□田末呂不破評秦黒→〈〉□』
『加佐評春□□□□里人』
『吉備道中国加夜評葦守里俵六□』
『加毛評柞原里人「□□児島部□俵」』
『湯評伊波田人葛木部鳥』
『湯評大井五十戸凡人部己夫』
『湯評井刀丈部首□』
『无耶志国仲評中里布奈大贄一斗五升』
『碓日評□大□丁少丁 鹿□支多比』
『佐為評一斗』
『奈須評□〈〉一斗』
『三形評三形五十戸生部乎知◇調田比煮一斗五升‖』
『丁丑年十二月三野国刀支評次米恵奈五十戸造阿利麻舂人服部枚布五斗』
『丁丑年十二月次米三野国加尓評久々利五十戸物部古麻里‖』
『粒評石見□[里]〈〉』
『尾張海評□□五□□十戸』
『次評』
『次評上部五十戸巷宜部□□□刀由弥軍布□□‖』
『←我評高殿秦人虎』
『三間評小豆〈〉』
『←野評□佐野五十→五斗』
『丁亥年若狭小丹評木津□部五十戸秦人小□□□益二斗』
『賀賜評塞課部里人蝮王部斯非俵』
『□□加夜評阿□□蘓里人羅□曳連□□□□□□□□廿』
『加□□夜評〈〉□□□波佐□〓俵□二』

 出現地名が各地に分散しているばかりでなく、播磨国穴栗郡と見られる地名は一つもありません。上記の「郡」表記の木簡との性格の違いは明白です。「評」表記の木簡の状況は都の所在地にふさわしいといえます。三例の木簡に見える「丁丑」と「丁亥」は、天武六年[677年]と持統元年[687年]にあたり、694年以前です。


 以下、飛鳥・藤原・平城からの「こほり」を「評」と表記した木簡と「郡」と表記した木簡を比較してみましょう。

飛鳥 評 26 郡  6
藤原 評 95 郡  70
平城 評  0 郡 1,861

694年 飛鳥から藤原への遷都
701年 「こほり」の表記の評から郡への変化
710年 平城遷都

という経緯と、各地の「評」および「郡」表記の木簡の出土数には明らかな相関が認められます。
 従って、やはり「飛鳥出土の大和以西の地名を有する木簡は、 * 大部分 * が694年以前だと断定してよい」と考えます。


>> >> >> 7世紀の倭国が奈良地方にあったどうかも同時代資料から立証するのは困難でしょうから、

>> >>  8世紀始めの成立の日本書紀は、7世紀代に関しては、通常は同時代資料の範疇に入るのですが。

>> 「日本書紀」は例えば組織的に評を郡に書き換えており、それが記述している時代について木簡のような同時代資料ではないですが。

 木簡の類は「同時代史料」には違いありませんが、所謂「一次史料」と呼ばれます。「編纂史料」である日本書紀と違うのは当然です。木簡に関しても、「690年代に飛鳥地方、ひいては奈良地方の政治的な性格が大きく変革している」と考える根拠はないことはこれまで検討してきたとおりです。
 日本書紀には史料として利用する場合に、慎重に取り扱うべき問題点があることは確かです。しかし、大宝律令施行以前から倭国の政治的中心が大和であったとするのは、単に日本書紀にそう書いてあるということだけではなく、日本書紀に見える唐朝との交渉について中国側史料との一致が認められるという事実を根拠の一つとしています。7世紀に唐と交渉をもったのが九州を政治的中心とする勢力であるというのなら、日本書紀と中国側史料がどうして一致するのか、所見を披瀝していただきたいところです。



296

Re: ちょっと卑弥呼の墓の形のことで

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [9月15日(金)12時15分30秒]

元の発言 [ Re: ちょっと卑弥呼の墓の形のことで ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 9月15日(金)01時24分03秒 ]

>ただ中国の円墳に祭祀用の張り出しがついたものがあれば問題はないかもしれません。

#中国の帝王陵の場合は、付帯する祭祀用の施設はふつう土檀ではなく地上建物になります。陵に隣接して被葬者が「起居」する建物「寝」が作られて着物や食膳がそなえられ、別に少し離れた所にお参りする人のための施設「廟」が作られます。
 だいぶ後世になりますが、宝頂と呼ばれる円墳状の陵に隣接して方城と呼ばれる祭祀用施設がつくられて、これらが上空から見ると前方後円墳とそっくりの形ですが、まあ関係は無いでしょう。

 後円部に眠る被葬者に対し前方部で祭祀が行なわれているのを目撃してそのような説明を受ければ、前方部は祭祀用施設の土檀であって墳丘の付帯施設という捉え方をする可能性はあります。しかしイメージ的には、箸中の前方部では少々大きすぎるようにも思います。

 前方後円墳は前方後円墳という目で見るとじつに特異な形態なのですが、漢代にはそれぞれ国王と王后を埋葬した双丘墳もあり、これは上空から見るとダルマ型です。当時の中国人が前方後円墳を見たとして、我々が予想するほど違和感を覚えたかどうかはわかりません。すんなりと「男弟の寿陵を併設しているのだ」と諒解したかもしれません。


 また、倭人伝の記事を読む限りでは卑彌呼の墓は寿陵ではなく、その死後に着工されたものと理解できます。「大きな冢を作る」ではなく「大いに冢を作る」という書き方じたいが、工事そのものを目撃した中国人の記述とみると理解しやすいものと思います。

 ところで、当時ちょうど来日していた張政一行は擾乱終息を確認してから帰路についたということで、相当長期の滞在とみる向きもあります。
 しかし、この擾乱が「相誅殺」という書き方をされていることから、内乱レベルには達していないであろうこと、一行の帰還と同時に壹與が遣使しているのは歳貢のサイクルからあまり外れていないであろうと思われること等から、一行は冢の完成を見ていないのではないかと考えます。

 ということは、徑百餘歩という数字を記録したのはまだ地割りや基礎工事など築造の初期段階で、特異な墳形に注目されやすくなる以前であった可能性もあります。こう考えると、中国人が最も関心を払うはずの墳高の記述が無い事が理解し易くなります。
 また、こう考えると百餘人殉死の情報ソースが郡に「追って入った伝聞情報」であっても不自然ではありません。

 以上のように見てくると、箸墓の現況と倭人伝の記述の間にはさしたる齟齬はないように思います。


297

Re: ちょっと卑弥呼の墓の形のことで

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月15日(金)16時32分59秒]

元の発言 [ Re: ちょっと卑弥呼の墓の形のことで ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月15日(金)12時15分30秒 ]

>>  ということは、徑百餘歩という数字を記録したのはまだ地割りや基礎工事など築造の初期段階で、特異な墳形に注目されやすくなる以前であった可能性もあります。こう考えると、中国人が最も関心を払うはずの墳高の記述が無い事が理解し易くなります。

わかりますが、箸墓以前の前方後円墳も長期滞在とすれば
見ているはずなので、その点疑問が残ります。
やはり形の違いはわかっていたはずでは。



298

Re: C14年代の信頼性

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [9月15日(金)17時07分24秒]

元の発言 [ C14年代の信頼性 ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 9月10日(日)18時29分57秒 ]

どこに書いてあったかようやく思い出しました。

>> 最外輪 calBCを年輪ぶん新しくしたもの。

この手続きに疑義のある方は、同じ東京大学出版会から出されている

考古学のための化学10章 馬淵久夫・富永健編
第4章 遺跡の年代を測る 浜田達二

をご覧ください。伐採年のわかっている大木の年輪を利用して年代別の資料を
取り出す方法が紹介されています。

出典がどこかは存じませんが、おにりんさんや率善中郎将さんが言われる、

『放射性炭素による年代は測定部位によらない』

というのは、まったくの誤りです。


299

Re: ちょっと卑弥呼の墓の形のことで

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [9月15日(金)18時40分34秒]

元の発言 [ Re: ちょっと卑弥呼の墓の形のことで ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 9月15日(金)16時32分59秒 ]

>> わかりますが、箸墓以前の前方後円墳も長期滞在とすれば
>> 見ているはずなので、その点疑問が残ります。
>> やはり形の違いはわかっていたはずでは。

#箸墓以前の纒向式を見ていたとすれば、かえって、建設中の卑彌呼の冢に張り出しがあるのを認識しても、円墳に参道のような祭壇のような付帯施設がついているのだと諒解しやすかったのではないでしょうか。


30

「那津官倉」現地説明会

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月3日(日)18時29分34秒]

春日市市民講座の史跡見学会で行ってきました。
国指定を申請しているのは6世紀の遺構ですが、出土土器などは弥生後期が中心で、
野方遺跡のものに似ているV期の壺と直立頚の西新式甕、九州製の庄内式甕(新)が弥生時代から「那津官倉」(以前?)まで使われていた井戸跡から出土しています。
以前、ALEXさんがおっしゃったように、倭人伝の“奴国”里程の基点はここでしょうネ。§^。^§m(__)m
“須玖岡本”については、2年数ヶ月前の「工業団地」ということに復帰致します。
つぎは「那津官倉」の官庁跡が待望されます。
都市部なのであまり期待できないか。(ーー;) なにせ虫食い緊急調査ばっかりで、今回のが72回だったりします。


300

Re: C14年代の信頼性

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [9月15日(金)20時13分33秒]

元の発言 [ Re: C14年代の信頼性 ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 9月15日(金)17時07分24秒 ]

>> どこに書いてあったかようやく思い出しました。

>> >> 最外輪 calBCを年輪ぶん新しくしたもの。

>> この手続きに疑義のある方は、同じ東京大学出版会から出されている

>> 考古学のための化学10章 馬淵久夫・富永健編
>> 第4章 遺跡の年代を測る 浜田達二

>> をご覧ください。伐採年のわかっている大木の年輪を利用して年代別の資料を
>> 取り出す方法が紹介されています。

>> 出典がどこかは存じませんが、おにりんさんや率善中郎将さんが言われる、

>> 『放射性炭素による年代は測定部位によらない』

>> というのは、まったくの誤りです。
#すいません、そのとおりですね。で、結局、ホケノ山のC14年代というのは古墳の年代を示すとするのはかなり危険ということですね。


301

Re: ちょっと卑弥呼の墓の形のことで

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月15日(金)20時30分17秒]

元の発言 [ Re: ちょっと卑弥呼の墓の形のことで ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月15日(金)12時15分30秒 ]

>> 「大きな冢を作る」ではなく「大いに冢を作る」という書き方じたいが、工事そのものを目撃した中国人の記述とみると理解しやすいものと思います。
と言うことは、「有棺無槨」の卑弥呼の墓を見ったってことですか。§^。^§


302

Re: 卑弥呼の墓はどれだ?

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [9月15日(金)20時57分36秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の墓はどれだ? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月15日(金)00時04分40秒 ]

>> >> >> 勝山クラスではレベルが他と隔絶していないのではと思いますが。

>> ついつい箸中山古墳と比べるから小さいと思いがちですが、勝山は、全長110m
>> (人によっては120m)、この時期(庄内2ごろ)にこんな大きなお墓、他にはあり
>> ませんよ。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
あのですね、>おにりんさん、
 ちょっと誤解があります。九州のことなので九州の編年で行きますと(久住猛雄氏の編年)、1A期(纏向1式〜2式前半ぐらい)に平原がありますが、1B期(纏向2式後半〜3式初めぐらい)には、那珂八幡古墳があり(84m前後)、25m前後の前方後円墳として、津古2号(29m)(小郡市)、下原古墳(大分県安岐町)、西一本杉ST008号墳(佐賀県東背振村)(24m)があります。前方後方墳には、赤坂古墳(佐賀県鳥栖市)(24m)がこの時期です。宮の前C地点1号墳丘墓(福岡市西区)は、12×10mの方丘に突出部の付設する全長15mのものですが。また1B期ぐらいでは、比恵遺跡群には20mぐらいの方形周溝墓(方墳)がありそうですし、1A〜1Bの範疇で、平塚墳丘墓(粕屋町)、亀山墳丘墓(志免町)があり、これらは15m以上です(方形?)。
 また吉備の楯築や出雲の西谷3号は、もう少し前の5様式終わり頃、庄内式の少し前、といった感じです。
 吉備でも出雲でも独自の墳丘墓が庄内式併行に続きますが、若干規模を縮小する感があります。例えば庄内式古相併行?の吉備の鯉喰神社墳丘墓は40m前後の方形墳丘墓で、大きいですが楯築のすごさにはかなわないでしょう。布留0式の前の庄内式後半では、矢藤治山や宮山墳丘墓(古墳)があり、前方後円形ですが、30〜40m前後です。ちなみに讃岐の鶴尾神社4号墳は40mの積石塚前方後円墳ですが、前方部の細長い特徴は纏向型などとは異なりますが、じきは庄内式中頃ぐらいでしょう。
 さて問題の纏向の諸古墳ですが、石塚は可能性として纏向2式前半(盛土中はほとんど纏向1式だが、一部わずかに2式初めの特徴を持つ土器があるようです。高坏や加飾二重口縁壺など)。ただ周溝出土土器からは、布留0式を下限としてもう少し下る可能性もあるということでしょうか。ホヶノ山は今回の調査での二重口縁壺は纏向2式後半の加飾二重口縁壺の範疇でしょうか。東田大塚は布留0式(纏向3式新相、箸墓と同時期)に、矢塚は纏向3式初めぐらい(のようです(『古墳のための年代学』橿考研図録)。問題の勝山は、規模が確定してませんが、100mは超えるのでしょう(110〜120mぐらい?)。他の纏向型と異なり、前方部がやや長くなりそうなので、形態としては黒田古墳(京都府、50mぐらい、纏向2式後半併行?)、や那珂八幡古墳などに近いかもしれません。庄内2式(纏向2式前半)とする土器は、周溝下層に、周溝の外から流入したように出ているようです(橿考研『大和を掘る』16,1995〜1997年発掘調査速報展)。今のところ上限とするのがよいと私は思います。石塚の纏向1式の土器群の問題のように、周囲の集落の土器が混入したのではない、とまだ言いきれません。周溝の外から、と言うのもクセものです。以前は、石野博信氏は表採土器から纏向3〜4式としてましたが、、まだ結論は出せないと思いますが。
 ちなみに、ホケノ山の主体部の調査までは、案外これが卑弥呼の墓かも、と思ってました。というのも、はじめてしっかりした葺き石を採用すること、内行花文鏡と画文帯神獣鏡の出土伝承があること、次の王墓である(女王の伝承がある)箸墓の一群にあること(他の纏向型と場所が別)、箸墓のおおむね主軸延長上にあることからです。でも、調査の結果、時期はぴったりですが、主体部から大量の銅鏃や鉄鏃が出土したので、これは女王の墓ではないな、と思いました。人骨から確実に女性の墓とされるものには、ほとんどの場合(あっても極まれ)鏃や甲冑が副葬されない、ということをどこかで読んだことがあるので、、これは違うなという感じです。(ちなみに平原でも鉄鏃が出土してるが、主体部ではなく、土壙墓の可能性のある周溝下層の出土)。
 今のところ、卑弥呼の墓はやぶの中、です。



303

臺與の遣使年次と卑弥呼の墓の造営期間

投稿者[ kouji ] 発言日時 [9月15日(金)23時35分39秒]


 魏志倭人伝には、卑弥呼による景初三年[239年]の魏への始めての朝貢に始まり、正始四年[243年]の朝貢、正始六年[245年]の黄幢下賜の詔、そして以下に引用する正始八年[247年]条と比較的密な関係が続いた記録があります。

『其八年、太守王[斤頁]到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等因齎詔書・黄幢、拜假難升米爲檄告喩之。卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、[犬旬]葬者奴婢百餘人。更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女臺與、年十三爲王、國中遂定。政等以檄告喩臺與。臺與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還、因詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千孔・青大句珠二枚・異文雜錦二十匹。』

【其八年、太守王[斤頁]が官に到る。倭の女王の卑彌呼は、狗奴國の男王の卑彌弓呼と素より和せず、倭の載斯烏越等を遣わし、郡に詣り相攻撃する状を説く。塞曹掾史の張政等を遣わし、詔書・黄幢を齎し難升米に拜假するのに因り、檄を爲り之に告喩せしむ。卑彌呼以に死し、大いに冢を作ること、徑百餘歩、[犬旬]葬する者は奴婢百餘人。更に男王を立てしも、國中服さず、更相誅殺し、時に當り千餘人を殺す。復卑彌呼の宗女の臺與、年十三を立てて王と爲し、國中遂に定まる。政等檄を以って臺與に告喩す。臺與は倭の大夫で率善中郎將の掖邪狗等二十人を遣わし政等を送り還らせ、因りて臺に詣り、男女生口三十人を獻上し、白珠五千孔・青大句珠二枚・異文雜錦二十匹を貢ぐ。】

 ここには、狗奴国との抗争、張政たちの派遣、卑弥呼の死と直径百餘歩の墓の造営・百餘人の殉葬、男王の即位とそれを契機とする国中の騒擾、臺與の即位と騒擾の収拾・朝貢と多くのことが語られています。この間どの程度の時間を経過しているのか、この記事からはうかがえません。この記事の末尾にある、臺與の朝貢は何時のことなのでしょうか。

『宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見、其後貢聘不絶。及文帝作相、又數至、泰始初、遣使重譯入貢。』

【宣帝の公孫氏を平らげるや、その女王は使を遣わし帶方に至り朝見し、その後貢聘絶えず。文帝が相と作るに及び、又數至り、泰始の初め、使を遣わし重譯入貢す。】

 ここでは、魏代における倭との交渉の画期として、「宣帝之平公孫氏」と「文帝作相」の二つが指摘されています。「宣帝之平公孫氏、其女王遣使至帶方朝見」に続いて「其後貢聘不絶」とあるとはいえ、「及文帝作相、又數至、泰始初、遣使重譯入貢。」と対になっている以上、「宣帝之平公孫氏」以後頻繁な交渉が続いた後、暫らく疎遠になり、「文帝作相」以後頻繁な交渉が再開されたと考えられます。「宣帝之平公孫氏」は景初二年[238年]、「文帝作相」は景元四年[263年]です。そうすると、この「及文帝作相、又數至」こそ、正始八年以後における、年次がほぼ明らかな最初の倭の遣使記事だということになります。
 日本書紀所引の晋起居注には泰始二年[266年]の遣使者を倭の女王としており、臺與が正始八年の直後に十三歳で即位していたとしても、泰始二年にはまだせいぜい三十歳初めですから、性別・年齢の点から見て、西晋泰始初めの倭王は臺與であった可能性が高いと考えられます。そうすると、これを少し遡る、景元四年頃の遣使者も臺與であると考えられるわけです。
 つまり、晋書倭人伝に見える景元四年頃の遣使記事は、臺與によるものと推定でき、且つ年次のほぼ明らかな、最初の遣使記事であるわけです。魏志倭人伝においては年次不明の臺與の即位後の朝貢が、これにあたる可能性があるのではないでしょうか。このように考えることに矛盾するような史料はないようですし、また景元四年以前における魏と倭が疎遠になった期間が、ほぼ卑弥呼の墓の造営・男王の即位と国内騒擾の期間にあたることになり、魏志・晋書の両倭人伝の記述を整合的に理解できるように思われます。年表風にまとめると次のようになります。

景初三年 倭の女王卑弥呼、始めて魏へ遣使する。

 ○この間、魏と倭の比較的頻繁な交渉。

正始八年頃 卑弥呼の死。

 ○この間、卑弥呼の墓の造営・男王の即位とそれを契機とする国内騒擾。魏と倭の交渉が疎遠になる。

景元四年頃 臺與の即位と魏への遣使。

 ○この後、魏と倭の頻繁な交渉が再開し、西晋泰始二年の朝貢へ至る。

 魏志倭人伝の正始八年条が時間の経過に従って書かれているとすると、卑弥呼の墓の造営期間中は空位が続いたということになるわけですが、これは男王の称制期間であると理解できます。この間、卑弥呼に対する服喪期間であったこと、男王の正式な即位や魏への遣使・受爵が見送られたことが、騒擾の表面化を抑えていたが、卑弥呼の墓の完成と彼の正式な即位によって表面化したという風に考えられるのではないでしょうか。

 このように考えると、卑弥呼の墓の造営期間として、正始八年[247年]頃から、最大では景元四年[263年]頃近くまでの約十六年間を見込めることになります。


304

Re: ちょっと卑弥呼の墓の形のことで

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月16日(土)00時16分10秒]

元の発言 [ Re: ちょっと卑弥呼の墓の形のことで ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月15日(金)18時40分34秒 ]

>> #箸墓以前の纒向式を見ていたとすれば、かえって、建設中の卑彌呼の冢に張り出しがあるのを認識しても、円墳に参道のような祭壇のような付帯施設がついているのだと諒解しやすかったのではないでしょうか。

ちょっと苦しいのでは。



307

前方後円墳の規模は如何に記述されたか

投稿者[ 公正徹也 ] 発言日時 [9月16日(土)01時43分45秒]

「箸墓古墳=卑弥呼の墓」説に関して、「径百余歩」は円形墳の描写であり、前方部をもつ箸墓古墳は卑弥呼の墓としてふさわしくないという反論があります。これは、「前方後円墳なら必ず前方部について触れるはずだ」という考えに基づいているのでしょうが、果たしてそれは本当でしょうか。

『釈日本紀』が引く『筑紫風土記』逸文に、次のような箇所があります。

「上妻の県。県の南のかた二里に筑紫君磐井の墓あり。墳の高さは七丈、周りは六十丈なり。墓田は、南と北とは各六十丈、東と西とは各四十丈なり。石人・石盾各六十枚、交陣なりて行を成し、四面を周匝す。東北の角に当りて一別区あり。号けて衙頭と曰う」。

ここで述べられている墳墓は、その位置、「石人」の存在、「別区」の存在から、現在「岩戸山古墳」と呼ばれている前方後円墳(福岡県八女市)であることはほぼ間違いないといわれています。
 これが岩戸山古墳であるとすると、その規模に関する記述は極めて正確です。
「墳の高さは七丈」、これは岩戸山古墳の後円部墳頂から墳丘裾までの斜面21mに合致します。
 また、「周りは六十丈」は、後円部の円周が約178mであることを指すと思われますが、これは岩戸山古墳後円部の径が約60mであることと一致します。
「墓田」すなわち墓域については、南北六十丈(約178m)・東西四十丈(約118m)とありますが、これは岩戸山古墳の外堤を含めた規模(南北約180m、幅110〜150m)に対応します。

ここで注目すべきは、この記述が「前方部」についてまったく触れておらず、後円部のみを墳墓の中心施設とみなしている、という点です。このことは「墳の高さは七丈、周りは六十丈」の一節に端的に示されているといえるでしょう。

『筑紫国風土記』逸文の筆者は、岩戸山古墳の前方部を「墓」とはみなしていなかったのです。もちろん、この筆者と、「径百余歩」と報告した魏使とが同じ感覚をもっていたとまでは断言できません。しかし、「前方後円墳なら必ず前方部について触れるはずだ」という主張に対しては、そうとは限らないよという反証として挙げられる例ではないかと思います。


308

Re: 前方後円墳の規模は如何に記述されたか

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月16日(土)02時02分02秒]

元の発言 [ 前方後円墳の規模は如何に記述されたか ] お名前 [ 公正徹也 ] 日付 [ 9月16日(土)01時43分45秒 ]

>> ここで注目すべきは、この記述が「前方部」についてまったく触れておらず、後円部のみを墳墓の中心施設とみなしている、という点です。このことは「墳の高さは七丈、周りは六十丈」の一節に端的に示されているといえるでしょう。

円でないことは、東西と南北の長さが違うことで
きちんと表現されていますよ。
前方部の記述をするのなら、それが祭祀を行うところと
書くわけですが、すでに各地に前方後円墳がある以上
それを書く必要はなかった。

ただ、東西と南北を書けば、円周は書いてあるので
全体が把握できるのではないでしょうか。
ところが、倭人伝には、その記述がないのと、風土記は
その習慣を知っている日本人が書いたもの。
倭人伝は、習慣の違う中国人が書いたものです。
反証としては、少し弱いような気がします。


>> 『筑紫国風土記』逸文の筆者は、岩戸山古墳の前方部を「墓」とはみなしていなかったのです。もちろん、この筆者と、「径百余歩」と報告した魏使とが同じ感覚をもっていたとまでは断言できません。しかし、「前方後円墳なら必ず前方部について触れるはずだ」という主張に対しては、そうとは限らないよという反証として挙げられる例ではないかと思います。



309

Re: 前方後円墳の規模は如何に記述されたか

投稿者[ 公正徹也 ] 発言日時 [9月16日(土)03時02分47秒]

元の発言 [ Re: 前方後円墳の規模は如何に記述されたか ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 9月16日(土)02時02分02秒 ]

Yaohideさん、こんにちは。

>円でないことは、東西と南北の長さが違うことで
きちんと表現されていますよ。

 ここで記されている東西南北の長さは、あくまで「墓田」(墓域)である点に注意してください。岩戸山古墳の場合は、墳丘の外側に馬蹄形の外堤が存在しており、その大きさを記述したものです。
 この文の筆者が墓そのものを円形とみなしたことは「墳の高さは七丈、周りは六十丈」にきちんと表現されていますよ。

>前方部の記述をするのなら、それが祭祀を行うところと
書くわけですが、

 私は、「前方部=祭祀をおこなうところ」という説には疑問を持っています。というより、岩戸山古墳は後期古墳です。前方部で祭祀を行なったと言う事はまずなかろうと思っています。

>すでに各地に前方後円墳がある以上それを書く必要はなかった。

 『筑紫国風土記』逸文が書かれたのは、既に前方後円墳の築造がされなくなって久しい時代です。
「それを書く必要はなかった」というのは、どういう理由からでしょうか。
 ちなみに、箸墓古墳造営時にも、「前方部をもつ墳墓」は既に存在していたと思います。ホケノ山や纒向石塚などです。

>ただ、東西と南北を書けば、円周は書いてあるので
全体が把握できるのではないでしょうか。

「前方部についての記述が無い」という事実に変わりはありません。
 私たちは、岩戸山古墳は前方後円墳であるという「予備知識(=予断?)」を持っています。しかし、そのような予備知識のない人が前掲の『筑紫国風土記』逸文を読んだ場合、はたしてその墳墓が「前方後円墳」であると判断できるでしょうか?

>ところが、倭人伝には、その記述がないのと、風土記は
その習慣を知っている日本人が書いたもの。
倭人伝は、習慣の違う中国人が書いたものです。

 風土記逸文の筆者は、はたして「その習慣」を知っていたかどうか。前述のとおり、『筑紫国風土記』逸文が書かれたのは、既に前方後円墳の築造がされなくなって久しい時代です。

>反証としては、少し弱いような気がします。

 確かにそうかもしれません。
 しかし、「前方後円墳なら必ず前方部について触れるはずだ」という主張に、「例証」はあるのでしょうか?



310

無視しません。

投稿者[ kouji ] 発言日時 [9月16日(土)03時40分16秒]

元の発言 [ ちゃちゃです。無視してください。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月16日(土)01時34分47秒 ]

>>  このように考えると、卑弥呼の墓の造営期間として、正始八年[247年]頃から、最大では景元四年[263年]頃近くまでの約十六年間を見込めることになります。

>>
 それだと、男王の即位とその後の騒擾期間を長く見ることになります。私は別に構いませんが....

>>
 即位時の年齢でしょうね。卑弥呼の死と前後して生まれたことになります。案外、卑弥呼の生まれ変わりと信じられていたのかもしれませんね。

#生まれ変わりなんて観念は仏教以後かな?




311

Re: 前方後円墳の規模は如何に記述されたか

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月16日(土)08時02分00秒]

元の発言 [ Re: 前方後円墳の規模は如何に記述されたか ] お名前 [ 公正徹也 ] 日付 [ 9月16日(土)03時02分47秒 ]

おはようございます


>>  この文の筆者が墓そのものを円形とみなしたことは「墳の高さは七丈、周りは六十丈」にきちんと表現されていますよ。

墓が円形だという認識はあったと思います。


>>  私は、「前方部=祭祀をおこなうところ」という説には疑問を持っています。

いわゆるお墓参りのようなものは、しなかったということですね。

すでに造られることはなかったにしても、形は認識して
いたと思うし、大和政権下での風土記編纂ですから、
大和においての前方後円墳というのは、歴代大王墓とした
認識されていたのですから、その形を事細かに書く必要が
無かったのだと思います。
大和の墓制と言えると思えますので。

>> 「前方部についての記述が無い」という事実に変わりはありません。

記述はないので、そうですね。


>>  私たちは、岩戸山古墳は前方後円墳であるという「予備知識(=予断?)」を持っています。しかし、そのような予備知識のない人が前掲の『筑紫国風土記』逸文を読んだ場合、はたしてその墳墓が「前方後円墳」であると判断できるでしょうか?

大和の墓制と言ってもよい前方後円墳ですから、その
時代でも歴史的なお墓の形だったわけです。
逆に現在のように、木で覆われてしまっていれば
それこそ円形とはわからないはず。
それを円墳の大きさだけを書くのであれば、完全に
前方後円墳を理解していたことになります。

現代のお墓は一般的には四角い墓石が立っています。
お墓の土地の広さは、坪であらわしています。
土地が2坪とか、墓石が4段とか今でも言うと思います。
その中に「ごりん塔」とか「墓誌」とかあっても
必ずしも言わないと思います。
大きな墓ならあってもおかしくないからです。
墓誌など、逆にあって当たり前だから書かない。

ところが、慣習の違う国の人であれば、デザインの違いは
やはり書いたのではないかと思われるわけです。
日本人がアメリカ人の墓を見たら、十字架が立っていた
とか書くだろうし。

>>  しかし、「前方後円墳なら必ず前方部について触れるはずだ」という主張に、「例証」はあるのでしょうか?

知りません。

ただ風土記が誰の命令で、誰のために書かれたかという
ことから、一般民衆のための読み物ではなかったはず。
ですから、それに書いてないからというのは、弱いと
思うわけですが。
同じことが書いてあるはずということにも、例証がない
のでこちらも弱いか。


312

Re: 前方後円墳の規模は如何に記述されたか

投稿者[ はやしらいす ] 発言日時 [9月16日(土)09時36分19秒]

元の発言 [ Re: 前方後円墳の規模は如何に記述されたか ] お名前 [ 公正徹也 ] 日付 [ 9月16日(土)03時02分47秒 ]

Yaohideさん、公正さん、こんにちは。

>> 「前方部=祭祀をおこなうところ」という説には疑問を持っています。というより、岩戸山古墳は後期古墳です。前方部で祭祀を行なったと言う事はまずなかろうと思っています。

 森浩一氏は、
> 箸墓の前方部頂上には、築造時の特殊器台の破片などとともに、古墳後期の須恵器「はそう」が出土していて、六世紀から七世紀初めごろまでは古墳祭祀がつづいていることは確認できる。(「はそう」は、宮内庁で実見した)
 と書いています。(『前方後円墳の世紀』中央公論社) 「はそう」は[瓦泉]「はこがまえに也」「半挿」

 岩戸山古墳は、一度見に行ったことがあります。その記憶に頼りますが前方部から後円部に向かうところに小祠がありました。この祠がいつごろのものかは不明ですが、前方部には簡単に入れました。前方部に入って後円部に向かってお参りをしていたのではないかと思います。


 そもそも、「大いに冢を作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人」、これは張政御一行の実見による報告なのだろうか? 実見ならば、徇葬者奴婢百余人のお墓がありそうなものなんですけどね。

 なお、 白石太一郎『古墳と大和政権』(文春新書)に次のような箇所がありました。
> 最近日本列島の各地、とりわけ東日本の各地で、5世紀代の古墳の周溝などから馬を殉葬した土壙があい次いで検出されている。それらはいずれも径15メートルから20メートル程度の小規模な円墳が多いが、その「周溝内やその外縁に一基ないし数基の土壙」が穿たれ、馬が埋葬されている。それらの馬は、歯の鑑定結果からいずれも3歳くらいの若い馬であり、被葬者の葬送に際して若馬を犠牲として殺したものであることが知られるのである。(「」はハヤシライス)

 これは5世紀の、しかも馬を殉葬した例ですが、前にも書いたことがありますが、原田大六氏がすでに指摘しているように、平原東古墳(3,4号墓)の周溝、および1号墓の周溝にある土壙もまた殉葬と申し上げてよいのではないかと思いますが、いかがでしょうか。


315

Re: ちょっと卑弥呼の墓の形のことで

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [9月16日(土)15時20分37秒]

元の発言 [ Re: ちょっと卑弥呼の墓の形のことで ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 9月15日(金)20時30分17秒 ]

>> と言うことは、「有棺無槨」の卑弥呼の墓を見ったってことですか。§^。^§

なんども言うように、卑弥呼の墓が「有棺無槨」なんてどこにも書いてありません。これも迷信のたぐいでしょう。


316

Re: 卑弥呼の墓はどれだ?

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [9月16日(土)19時46分33秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の墓はどれだ? ] お名前 [ 率善中郎将 ] 日付 [ 9月15日(金)20時57分36秒 ]

>1B期(纏向2式後半〜3式初めぐらい)には、那珂八幡古墳があり(84m前後)、

まず、先にご紹介いただいた久住編年案ですが、まだ評価が定まっていないと
思われますので、採用していません。したがって、那珂八幡などについては従
来通り、上げても布留0かその直前とみております。

第二主体部から三角縁神獣鏡が出ていることからも、その方が妥当であると思
っています。

> また吉備の楯築や出雲の西谷3号は、もう少し前の5様式終わり頃、庄内
>式の少し前、といった感じです。

年代もそうですが、西谷で50m(本当は西桂見がもう少し大きいようですが)、
楯築も全長こそ80mほどですが、双方中円型のため3分割されてしまいますので、
体積に直すとそう大きくはなりません。

それから高さですが、西谷などでも5mほどといわれますが、纏向の古墳群につ
いては後円部高は8〜9mとされています。この差もかなり大きいです。

>庄内式後半では、矢藤治山

岡山の宇垣さんは、難しいが箸中山とほぼ同じといっています。これももう少
し下ると思います。

(勝山)
>庄内2式(纏向2式前半)とする土器は、周溝下層に、周溝の外から流入し
>たように出ているようです。今のところ上限とするのがよいと私は思います。

ただ、古い土器を含んだ土が流入したとすると、このあたりの土ではお
そらく庄内2だけではなく庄内0以後の土器が入る可能性が高いのではな
いでしょうか?庄内2で止まっているということは、あまり深いところ
の土ではなく表面にあるものが流れ込んだのでしょう。だとすれば、上
限といわず、もう少し積極的に庄内2の範疇で考えてもいいのではない
かと思います。


319

Re: 卑弥呼の墓はどれだ?

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [9月17日(日)01時15分32秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の墓はどれだ? ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 9月16日(土)19時46分33秒 ]

>> >1B期(纏向2式後半〜3式初めぐらい)には、那珂八幡古墳があり(84m前後)、

>> まず、先にご紹介いただいた久住編年案ですが、まだ評価が定まっていないと
>> 思われますので、採用していません。したがって、那珂八幡などについては従
>> 来通り、上げても布留0かその直前とみております。

>> 第二主体部から三角縁神獣鏡が出ていることからも、その方が妥当であると思
>> っています。
「布留0式の直前」なら1B期でよいでしょう。また、古墳の築造年代は「第2主体部」より以前です。那珂八幡古墳のすぐ近くで発見された方形周溝墓(那珂62次028号)は、確実に布留0式=2A期といえる土器群を伴いますが、那珂八幡古墳に関わる墳頂や周溝下層土器は、型式的にも組成的にもこれより古い様式とのことです。また、その方形周溝墓は底部穿孔を含む二重口縁壺が多く出土してますが、那珂八幡は周溝を広く掘っても出土せず(那珂32次)、その祭祀確立以前の可能性が高いと思います(2A期の津古生掛は底部穿孔に重口縁壺多数あり)。


>> >庄内式後半では、矢藤治山

>> 岡山の宇垣さんは、難しいが箸中山とほぼ同じといっています。これももう少
>> し下ると思います。
これは意見が割れるようですが、箸墓の「都月型」は吉備宮山の宮山型と、「矢藤治山型」特殊器台が先行するという意見が多いようです(「矢藤治山型」は「向木見型」からの変化)。また、矢藤治山の周辺では、箸墓併行ぐらいで、「都月型」の古いものを出す古墳で、全長60mぐらいの矢部大グロ古墳があります。なお宇垣氏は、矢藤治山を「最も古い古墳」としますが、これは「墳形の確立」という点からであり、「定型化した前方後円墳」よりは前の段階である、という微妙な書き方もしています(『前方後円墳の出現』石野博信編、季刊考古学別冊8)。
>> (勝山)
>> >庄内2式(纏向2式前半)とする土器は、周溝下層に、周溝の外から流入し
>> >たように出ているようです。今のところ上限とするのがよいと私は思います。

>> ただ、古い土器を含んだ土が流入したとすると、このあたりの土ではお
>> そらく庄内2だけではなく庄内0以後の土器が入る可能性が高いのではな
>> いでしょうか?庄内2で止まっているということは、あまり深いところ
>> の土ではなく表面にあるものが流れ込んだのでしょう。だとすれば、上
>> 限といわず、もう少し積極的に庄内2の範疇で考えてもいいのではない
>> かと思います。
#結局、石塚の例があるので、まだなんとも言えません。何か新情報でもあるのでしょうか?本当に庄内2(寺沢編年?)ならこの時期の王墓(大王墓?)でいいでしょうね。


320

Re: 三神三獣鏡について@お遊び投稿(^^)

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [9月17日(日)01時49分02秒]

元の発言 [ Re: 三神三獣鏡について@お遊び投稿(^^) ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 9月11日(月)12時15分58秒 ]

 椿井大塚山については、確かに意見が割れるのですが、土器についていえば、従来の編年や鏡に思い入れの少ない石野博信氏なんかは、確実に布留式で(石野氏は布留0式段階は布留式と認めず、庄内式新相とする)、むしろ布留2式の可能性があるとまで、いっています。
 従来の小林行雄の古典的理論からの古墳編年体系上、椿井大塚山が古くなってほしいということとと、またあまりこういうことは言いたくないのですが、地元教育委員会としては、心情的に「最古の古墳」にしたくて無意識的に古い方の案をとっているかもしれません。
 実はこの位置付けについては、第16回庄内式土器研究会(1997年)では、地域の発表者が米田氏の「庄内4式」併行(=布留0式)としたのに対し、会場の何人かの研究者やシンポジウムのパネラーの何人かから「布留1式」とする異論が多く出されていました。
 難しい話しになりますが、椿井大塚山の二重口縁壺の中で、胴部内面がへら削りで、二重口縁屈曲部(1次口縁と二次口縁の境)が下につまみ出しているような型式は新しい要素で(後円部が横に広がるタイプ)、また後円部が斜め上方になるタイプのものは、頸部が長くなるものがあり、これも新しい。またいずれの口縁部も、端部がシャープなヨコナデ中央が凹み気味でで左右に拡張気味であるのも布留式甕の技法が確立した段階と考えられます。
 先の第16回庄内式土器研究会のときの山城地域の発表者の吹田直子氏自身、要素として、箸墓(氏は米田氏の庄内4式とする)より新しい要素(「後出する要素を備えている」)があることを認めています(庄内式土器研究会『庄内式土器研究』14,吹田直子「椿井大塚山古墳と山城地域前期古墳出土土器について」)。
 なお、山城地域(椿井大塚山古墳のある南山城も含む)は、布留0式の時期まで庄内甕や布留傾向甕は少なく、「伝統的5様式」と呼ばれる古い様相を持つ土器が多く残ります。その下限が不明ですが、椿井大塚山に近い木津川河床遺跡と言う大集落でも、庄内4式(米田氏)段階でも庄内甕が他の集落よりやや多い程度ということらしいので(国下多美樹「山城地域における古式土師器の様相」『庄内式土器研究』9)、その段階に椿井大塚山の二重口縁壺を在地で作れるのか疑問があります。
 専門的な話しですいませんが、何かお役に立てれば幸いです。



321

Re: 臺與の遣使年次と卑弥呼の墓の造営期間

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [9月17日(日)02時20分44秒]

元の発言 [ 臺與の遣使年次と卑弥呼の墓の造営期間 ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 9月15日(金)23時35分39秒 ]

>koujiさん、

 晋書に注目した斬新な説で、その通りになれば面白い、とは思います。卑弥呼の墓の造営が最大16年で、263年頃完成なら、「布留0式新相」の箸墓でもあり得る範囲の話となりましょうか。また、koujiさんも、倭人伝の記述からは、卑弥呼の墓は寿陵とは考えにくい、ということでよろしいでしょうか?
 しかし疑問もあります。
 まず、魏志倭人伝の記述は、台与の遣使年次を明示していないのですが、文脈上は、全て正始8年の内の出来事、あるいは『北史』の解釈のように、「正始中、卑弥呼死す」で翌年の正始9年(248年)までの出来事と見る方が妥当ではないかということです。というのも、そんなに長く(〜263年まで)張政らが滞在していたのなら、倭人伝の不正確(と言うか不明確と言った方がよいですかね)な記事ももっと正確になったでしょうし、あるいはその間の動向がもっと詳しく書かれて良さそうですし、またその間に年号が何度も変わっているなら、遣使の年次を明記しそうなものだと思いますが?なお、景元4年の遣使が台与であることは異論ありませんが。
 また、死後16 年で墓を造営したとなると、モガリの期間としては異常に長くなり過ぎます。身分が高ければ高いほど、ましてや王となればその期間は一般人より長くなるでしょうが、せいぜい数年でしょう。後の天皇でも記録上せいぜい2年ぐらいだと思います(この点、うる覚えなので、違ったら誰か訂正して下さい)。
 また例えば仁徳天皇の伝承にあるように(もっとも、今の「仁徳天皇陵」が本当にそうかは別問題ですが)、巨大な大王墓は、基本的に寿陵と考えられます。箸墓のような最初の、巨大墳墓ならなおさらで(大量の盛土だけでなく葺き石も大量、当然労働量も大量、また構造的に段築の完成や渡り土手の採用など、構造も複雑化)入念な計画性をもって、寿陵として成立した(「定型化」)と考えた方がより妥当と考えます。また4段の段築の上に載る後円部頂上の「円形壇」は(近藤義郎『前方後円墳観察への招待』青木書店)、盛土を先に完成して、死後、これを掘削し、石室を構築し、そのうえに掘削土を盛り上げ整形した、と考えるのが妥当です。寿陵でなければ盛土しながら途中で石室を構築するので、こうはなりません。したがって、蓋然性としては、台与の墓と考える方がいいと思います。
 卑弥呼の墓は、おそらく2年程度で作れる程度で最大級の墓(100m前後か)と考えたいと思います。


322

Re: 前方後円墳の規模は如何に記述されたか

投稿者[ 公正徹也 ] 発言日時 [9月17日(日)02時52分44秒]

元の発言 [ Re: 前方後円墳の規模は如何に記述されたか ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 9月16日(土)08時02分00秒 ]

yaohideさん、こんにちは。

>同じことが書いてあるはずということにも、例証がない
のでこちらも弱いか。
 
 外国人による古墳の実見記録というものが『魏志倭人伝』以外にあるのかどうか、残念ながら私は知りません。

 ただ、日本国内の例でも、古代においては、「前方部」が存在することをはっきり書いてある記録というのはほとんど存在しません。先にあげた『筑紫国風土記』もそうですし、『延喜式』『扶桑略記』においても、古墳の規模は、すべて「東西二町 南北三町」のように「兆域の広さ」で表現されています。

江戸時代の後期になるとようやく、「御在所丸く、前は方にて」とか「宮車ノ形」といった、前方部の存在を意識した表現が見られるようになります。これは、1808年に蒲生君平が「前方後円墳」の用語を創始したことと関係があるのかもしれません。これ以前の1791年に刊行された『大和名所図会』には、箸墓古墳の絵が載っていますが、この箸墓古墳には前方部が描いてありません(この絵をめぐっては、以前心愛さんとバトルしたことがあります。なんでも、この絵を根拠に「箸墓古墳の前方部は幕末に築造された」とする説があるそうですが、これはトンデモ説です)。

こうしてみると、絵画や文献に「前方部」の存在が顕在化するのは、19世紀の初頭に画期があるようにも思われます。ただ、「車塚」「瓢塚」などといった古墳名からうかがえるとおり、蒲生君平以前にも、後円部と前方部を一体のものとして捉える見方は存在したはずです。我々の先祖は、いったいいつから前方部までを墓とみなすようになったのか?これはなかなか興味深いテーマかもしれません。

>ところが、慣習の違う国の人であれば、デザインの違いはやはり書いたのではないかと思われるわけです。
>日本人がアメリカ人の墓を見たら、十字架が立っていた
とか書くだろうし。

以下は余談です。

明治期に来日し、各地の古墳を調査したW=ゴーランドという英国人がいます。
彼が、大阪の芝山古墳という前方後円墳を調査した際、前方部を含めた墳丘の図面を作っておきながら、この古墳を円墳と考えたそうです。彼の主たる興味は、埋葬施設である横穴式石室の方にあったということです。


323

Re: 前方後円墳の規模は如何に記述されたか

投稿者[ 公正徹也 ] 発言日時 [9月17日(日)02時58分10秒]

元の発言 [ Re: 前方後円墳の規模は如何に記述されたか ] お名前 [ はやしらいす ] 日付 [ 9月16日(土)09時36分19秒 ]

はやしらいすさん、ご無沙汰でした。

>森浩一氏は、
> 箸墓の前方部頂上には、築造時の特殊器台の破片などとともに、古墳後期の須恵器「はそう」が出土していて、六世紀から七世紀初めごろまでは古墳祭祀がつづいていることは確認できる。(「はそう」は、宮内庁で実見した)
 と書いています。(『前方後円墳の世紀』中央公論社) 

 はそうが出土していることは事実です。しかし、「前方部で祭祀をおこなった」というのなら、その出土状況が問題になります。
 後期の前方後円墳の場合には、追祭祀はくびれ部もしくは横穴式石室の入り口付近でやっているはずです。

>そもそも、「大いに冢を作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人」、これは張政御一行の実見による報告なのだろうか? 実見ならば、徇葬者奴婢百余人のお墓がありそうなものなんですけどね。
>なお、 白石太一郎『古墳と大和政権』(文春新書)に次のような箇所がありました。
> 最近日本列島の各地、とりわけ東日本の各地で、5世紀代の古墳の周溝などから馬を殉葬した土壙があい次いで検出されている。それらはいずれも径15メートルから20メートル程度の小規模な円墳が多いが、その「周溝内やその外縁に一基ないし数基の土壙」が穿たれ、馬が埋葬されている。それらの馬は、歯の鑑定結果からいずれも3歳くらいの若い馬であり、被葬者の葬送に際して若馬を犠牲として殺したものであることが知られるのである。(「」はハヤシライス)
>これは5世紀の、しかも馬を殉葬した例ですが、前にも書いたことがありますが、原田大六氏がすでに指摘しているように、平原東古墳(3,4号墓)の周溝、および1号墓の周溝にある土壙もまた殉葬と申し上げてよいのではないかと思いますが、いかがでしょうか。

 結論から申しますと、私は平原の例は「殉葬」とは考えておりません。
 これは「殉葬」の概念規定とも関連します。馬の「殉葬」については、特に異議はありません。しかし卑弥呼の墓に対しておこなわれた「殉葬」となると話は違ってきます。
 
 卑弥呼に対する「殉葬」には二つの特徴があります。
(1)殉葬させられたのが「奴婢」であること(=被葬者との格差の存在)
(2)殉葬が、卑弥呼の死からさほど時間を置かずにおこなわれたと思われること(=主体部埋葬との同時性)

 この点から考えると、平原の例は『魏志倭人伝』に描かれた殉葬とは異なると思います。
 まず、平原1号周溝中の土壙からは、琥珀製・ガラス製の玉類、あるいは鉄製刀子といった副葬品が出土しています。果たして、殉葬された「奴婢」にこうした品が副葬されるでしょうか。
 また、これら周溝中の土壙は、周溝がある程度埋没した後、その覆土中に掘り込まれたことは明らかです。すなわち、中心主体部の被葬者の埋葬との間にタイムラグを見込まざるを得ません。

 「墳丘の裾に埋葬が営まれた」墳墓の例ならば、弥生時代・古墳時代を問わず、平原以外にもたくさんあります。例えば長野県の森将軍塚古墳(古墳時代前期、前方後円墳)の場合、墳丘の周りには60以上の箱式石棺が営まれています。しかし、これらを「殉葬」とする意見はあまり聞きません。上記の(1)(2)の条件を満たしていないからだと思います。

 結論として、弥生時代・古墳時代を通じて、明らかに「殉葬」と認められる例は今のところほとんど無いといってよいのではないかと思います。


324

Re: 前方後円墳の規模は如何に記述されたか

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月17日(日)08時06分29秒]

元の発言 [ Re: 前方後円墳の規模は如何に記述されたか ] お名前 [ 公正徹也 ] 日付 [ 9月17日(日)02時58分10秒 ]

おはようございます。

>>  結論として、弥生時代・古墳時代を通じて、明らかに「殉葬」と認められる例は今のところほとんど無いといってよいのではないかと思います。

馬の殉葬は認められるが、人間の殉葬が認められないと
いうことであれば、卑弥呼の時だけが特別だということ
ですね。

そして奴婢の墓はないわけですから、殉葬を当然として
いた中国人が勝手に想像したのではないかという疑いが
出てきます。
本当に実見したのだろうか?
殉葬が、卑弥呼以前にも以降にも見られないにも関わらず
その一文だけから、信用できるのかな。



325

Re: 前方後円墳の規模は如何に記述されたか

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月17日(日)09時17分11秒]

元の発言 [ Re: 前方後円墳の規模は如何に記述されたか ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月16日(土)11時51分46秒 ]

「筑後国風土記」です。


326

Re: 前方後円墳の規模は如何に記述されたか

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月17日(日)09時33分18秒]

元の発言 [ Re: 前方後円墳の規模は如何に記述されたか ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 9月17日(日)08時06分29秒 ]

>> >>  結論として、弥生時代・古墳時代を通じて、明らかに「殉葬」と認められる例は今のところほとんど無いといってよいのではないかと思います。
>> そして奴婢の墓はないわけですから、殉葬を当然として
>> いた中国人が勝手に想像したのではないかという疑いが
>> 出てきます。
#墳丘墓しか見ていなかったため、誤ったんでしょう。(^○^)


327

Re: 前方後円墳の規模は如何に記述されたか

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [9月17日(日)11時37分20秒]

元の発言 [ Re: 前方後円墳の規模は如何に記述されたか ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 9月17日(日)08時06分29秒 ]

>> そして奴婢の墓はないわけですから、殉葬を当然として
>> いた中国人が勝手に想像したのではないかという疑いが
>> 出てきます。
>> 本当に実見したのだろうか?

#実見はしていないだろうという趣旨のことを先に述べましたが、勝手な想像とも思えない節があります。

 当時の中国人にとっても、殉死は古くさい悪習であって、こういうことを書くのは非難めいたニュアンスが感じられます。他の点ではむしろ倭人の文化を良き古俗と評価する傾向がありますから、ここにそういうニュアンスを込めるならば、根も葉もないものとは考えづらいように思います。後漢書の夫余伝でも殉死の記事がありますが、倭のはなしも全くのでたらめとは思えません。ちなみに「大作冢」もむしろ若干の悪感情をこめた書き方でと考えられます。(両方とも呉で同種のエピソードを批判的に紹介しています)
 あるいは、中国人からの反発が、殉死の廃止へと繋がって行った、いわゆる「外圧」になったかも知れません。

 なお、安陽などのイメージが強く殉死者は墓壙におさめられるという先入観にとらわれがちですが、垂仁紀にみる殉死はあきらかに野晒し状態です。あのエピソードそのものが史実の反映とは思えませんが、この殉死の方法が人型埴輪から連想された全くの創作でなければ、考古学的に殉死の痕跡が残らなくとも変ではありません。


328

Re: 前方後円墳の規模は如何に記述されたか

投稿者[ はやしらいす ] 発言日時 [9月17日(日)12時09分34秒]

元の発言 [ Re: 前方後円墳の規模は如何に記述されたか ] お名前 [ 公正徹也 ] 日付 [ 9月17日(日)02時58分10秒 ]

公正さん、しばらくです。お元気でしたか。

>私は、「前方部=祭祀をおこなうところ」という説には疑問を持っています。というより、岩戸山古墳は後期古墳です。前方部で祭祀を行なったと言う事はまずなかろうと思っています。

> はそうが出土していることは事実です。しかし、「前方部で祭祀をおこなった」というのなら、その出土状況が問題になります。

【はそう】(ハゾウとも) 胴部に小さい孔のある壺形の須恵器。土師器もある。孔に竹の管をさし、内容物を注いだり吸ったりしたとする説がある。(広辞苑)

「はそう」は祭器ではないのでしょうか。
 ではなぜ、箸墓の前方部にあったのだろう?

> 後期の前方後円墳の場合には、追祭祀はくびれ部もしくは横穴式石室の入り口付近でやっているはずです。

 でもこれは、前方部から入るのではないですか? 前方部から入って後円部の墳丘に向かってお参りするのではないでしょうか。法事の時のように人が多勢集まって、前方部に立ってお参りするのではないでしょうか? 「前方部=祭祀をおこなうところ」で別段かまわないと思うのですけれど。
 箸墓や、椿井大塚山や、それから岩戸山古墳もそうですが、水を湛えた周濠によって墳墓が隔絶されてませんよね。だから、前方部へも入りやすいですし。


> 結論から申しますと、私は平原の例は「殉葬」とは考えておりません。
> これは「殉葬」の概念規定とも関連します。馬の「殉葬」については、特に異議はありません。しかし卑弥呼の墓に対しておこなわれた「殉葬」となると話は違ってきます。

 とりあえず、平原が卑弥呼であるか否かはいまのところ無関係に、平原の周溝への埋葬方法は殉葬といえるのかどうかを考えてみることにしましょう。以前にも書きましたが、原田大六『平原弥生古墳』(葦書房)から。(長くて、かつ重複してスミマセン)

 平原東古墳(3,4号墓のこと)
> 東古墳とは、平原弥生古墳の東側に接して造られた「前円後円墳」という変わった形状をした古墳で、全長約十三メートルの小規模のもので、後円部は溝を含めて八メートルに過ぎないものであった。
> 東古墳は主体部と共に封土は全く鋤で平たにされて失われていたが、円形溝の内部は柱穴二個と中央部に鉄刀子一個が検出された。奇怪なのは、円形とそれから出た二本の角状の溝であった。古墳における溝の存在は、土盛りするための土取り址だとか、排水のための設備かの、どちらかであろうというのが従来の知見である。ところが、東古墳の溝はどちらでもない。もし土取り址だとしたら掘りっぱなしのはずであるが、当時埋め戻した痕跡が顕著である。排水溝ならば水が別の場所へ流出する構造を持たねばならぬが、この溝に溜って外部には出ないし、また、埋め戻しは排水溝の致命傷になる。ではいったい何のための溝であるか。溝の幅も深さも一定せず、蛇のように頭から胴体が大きく、しだいに細くなる。大きいところで幅一メートル、深さ五十センチメートル、細い末端では幅二十五センチメートル、深さ十センチメートルであった。またこの溝には、群をなす赤石および滑石の小玉、鉄鏃、土師器などが副葬され、かつ溝底には酸化鉄(ベンガラ)を敷いた所が二ヵ所あらわれた。これは単なる周溝といわれるものではなく、人骨こそ残っていなかったが、十六名の大人から嬰児まで連接して葬った墓溝であることが推察された。
> この墓溝は何か? 少なくとも二家族の者が全員同時に墓溝に埋められ、主体部を巡っているとすると、これこそ主体部の主人に殉葬された家族ではなかったかが考えられる。この平原東古墳は副葬されていた土師器から、三世紀と考えてよいものがある。

 残念ながら主体部は削平されていたようです。
 次に同氏の『実在した神話』(学生社)から。
> 殉葬墓と考えられる土壙が、墓域内および排水溝の内部に見受けられた。墓域内のは、主人公の方形土壙の南側に土壙壁を切ってと、二の鳥居の南側で墳墓の前面のほぼ中央とにひとつづつあり、どちらも楕円形で内部に積石が認められた。 排水溝内には殉葬墓と陪葬墓の両者が入り組んでいるらしいが、東部と南部では不整形の大土壙が掘られていて、一緒に数人を埋葬したもののようである。以上の墓壙が殉死者であるかどうかは、この遺跡の状態だけからは解明されないが、
>1.陪葬と考えられる墳墓が別に存在すること。
>2.弥生古墳(1号墓)の東側に接して存在する三世紀の古墳(3、4号墓)が、完全な殉葬のための周溝を持ち、それがこの弥生古墳の殉葬墓の状態から変化したと考えられること。
> 以上の二点から、殉葬を認めてよいのではないかと考える。

と書いております。

 次に主体部との同時性について考えてみましょう。
 まず一号墓ですが、これは当初からお墓として方形周溝墓を築造したのではなく、もともと祭祀施設として存在していたことを窺わせます。(柳田康雄「平原王墓の性格」)
 つまり、もともと祭祀施設であったところに、その祭祀をつかさどる巫女的王が埋葬されたと考えられる。そうしますと、以下のタイムラグもまた解消するのではないでしょうか。
>これら周溝中の土壙は、周溝がある程度埋没した後、その覆土中に掘り込まれたことは明らかです。すなわち、中心主体部の被葬者の埋葬との間にタイムラグを見込まざるを得ません。

 つまり、遺構そのものは古くからあり、そこに新しく主体部の埋葬と周溝への殉葬が行われた。したがって覆土を改めて掘り込んだと考えることができないでしょうか。
 卑弥呼の墓云々はいまのところ考えないとして、この埋葬方法はやはり殉葬といえるのではないかと思います。いかがでしょうか。

 二号墓も一号墓と年代的には大差ないと柳田氏は書いております。原田氏は二号墓を一号墓の陪塚と考えておられるようですね。


>「墳丘の裾に埋葬が営まれた」墳墓の例ならば、弥生時代・古墳時代を問わず、平原以外にもたくさんあります。例えば長野県の森将軍塚古墳(古墳時代前期、前方後円墳)の場合、墳丘の周りには60以上の箱式石棺が営まれています。

 この「墳丘の裾」「墳丘の周り」とは周溝のことですか? それとも、まさに墳丘内の周りなんでしょうか?
 例えば、ホケノ山のくびれ部分に追葬された木棺がありましたが、これは周溝ではありませんよね。

> 結論として、弥生時代・古墳時代を通じて、明らかに「殉葬」と認められる例は今のところほとんど無いといってよいのではないかと思います。

1.馬の殉葬が五世紀代で平原とほぼ200年程度の開きがありますし、馬の場合、白石氏は「牧における馬匹生産のために東国などに定着させられた渡来人たちの残したものであることはほぼ確実であろう」)と言っていますので、彼らの渡来時期にもたらされた可能性もありますが、この殉葬方法が平原の時代から継承されて行ったのならば、他にも存在する可能性はあると思います。

 殉葬例がないとすれば、
>大いに冢を作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。

 この情報の信憑性についても疑ってよいことになります。
 平原が誇大に書かれた可能性と、張政帰国後から「倭人伝」が書かれるまでの間にもたらされた箸墓情報に尾ひれがついたか、その辺のところではないのかな?と思っています。


329

Re: 卑弥呼の墓はどれだ?

投稿者[ 当世奇妙 ] 発言日時 [9月17日(日)14時57分35秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の墓はどれだ? ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月14日(木)14時08分02秒 ]

留守にしていたので、遅れてすみません。
>> #いつも思うのですが、「列島唯一の中心」とか、一体誰がそのような極端な主張をしているのでしょうか?
*列島唯一の中心は言葉が100%同じではないかもしれませんが、ほぼその意味のことは白石先生から直接
2度聞きました。従来の邪馬台国畿内説は弥生時代の
終結として箸墓があり、この時点で列島の中心がほぼ定まったと言う考えが多いと理解しています。
私は箸墓は画期ではあるが、連合のシンボルにすぎない
のではと思っています。未だ各地の王は平等に近かった
のではと思います。
「唯一」は少し限定し過ぎた表現だったかもしれませんが、この「大論争」に昔のように初心者も参加しうるようにするにはあまり、言葉を追求するのは如何なものでしょうか?

>> >まだまだ日本列島各地はダイナミックに動いていて、卑弥呼クラスの王(?)は数名いても良いのではないでしょうか?

>> #これは明らかに倭人伝の記述に反してはいないでしょうか?
*邪馬台国の所在については色々な意見が未だありうる
と思っていますので、このように言われると論争に参加
し難くなりますね。
少しずれた発言になるかもしれませんが。邪馬台国の
時代に東北地方にもリーダーがいたかもしれませんよ。



33

Re: で、九州裏諸王朝説はいかがかなーと。

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月3日(日)20時16分33秒]

元の発言 [ で、九州裏諸王朝説はいかがかなーと。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月3日(日)19時51分06秒 ]

>>
>>
>>
#八女に筑紫君一族の代々の古墳があることで、本拠地であることはわかりますが、
#大和に渡した「粕屋屯倉」はどこにありますか。
#筑紫君が支配していた領土だったから「献上」したのでしょう。
#で、「“倭人”伝」であって「“倭国”伝」ではないのだから、
#北部九州が倭国でないのはいいでしょう。
#なにせ、「女王国」だったんだから。
#「倭国」は東の海の向こうにある「倭種」の国が後に名乗ってるっす。



330

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ 避雷針 ] 発言日時 [9月17日(日)15時06分42秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 9月15日(金)02時11分19秒 ]

koujiさん、今日は。

なかなか労作ですね。

出土数には明らかな相関が認められます。
>>  従って、やはり「飛鳥出土の大和以西の地名を有する木簡は、 * 大部分 * が694年以前だと断定してよい」と考えます。

「大部分」か否かになると議論が難しいですね。

>>  日本書紀には史料として利用する場合に、慎重に取り扱うべき問題点があることは確かです。しかし、大宝律令施行以前から倭国の政治的中心が大和であったとするのは、単に日本書紀にそう書いてあるということだけではなく、日本書紀に見える唐朝との交渉について中国側史料との一致が認められるという事実を根拠の一つとしています。7世紀に唐と交渉をもったのが九州を政治的中心とする勢力であるというのなら、日本書紀と中国側史料がどうして一致するのか、所見を披瀝していただきたいところです。

私は「日本書紀」を編纂した体制と評制時代の体制が別であっても、「日本書紀」が以前の体制の歴史を取捨選択して掲載していたことは充分ありうると思っていますが。(評を郡と書き換えたように適当に書き換えながら。)

例えば、隋使が来たのが後に「日本書紀」を編纂した勢力のところではなかったとしても(よくいわれるように推古と男王が一致していませんね)、それを自らの体制が奈良に迎えたように書き換えるのは難しいことではありません。

「日本書紀」が例えば何故、評であったという事実を郡に
書き換えていたか(地方統治体は体制の基本となるところです)ということは、もう少し議論されてもよいかと思われます。



331

Re: 卑弥呼の墓はどれだ?

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [9月17日(日)15時31分44秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の墓はどれだ? ] お名前 [ 当世奇妙 ] 日付 [ 9月17日(日)14時57分35秒 ]

>> 私は箸墓は画期ではあるが、連合のシンボルにすぎない
>> のではと思っています。未だ各地の王は平等に近かった
>> のではと思います。

#少なくとも倭人伝は、各地に「王」がいたという表現はとっていません。逆に女王國との間に圧倒的な力の差があることを推察させる表現となっています。

>> 「唯一」は少し限定し過ぎた表現だったかもしれませんが、この「大論争」に昔のように初心者も参加しうるようにするにはあまり、言葉を追求するのは如何なものでしょうか?

#むしろ、そのためにも「畿内説とはこういうものだ」という先入観を抱かせるような表現は避けていただければと思います。

>> >> これは明らかに倭人伝の記述に反してはいないでしょうか?
>> *邪馬台国の所在については色々な意見が未だありうる
>> と思っていますので、このように言われると論争に参加
>> し難くなりますね。

#色々な意見がありうることに異存はありません。
 ただ、その意見が、文献や考古資料とどういう関係において述べられているのかは鮮明に打ち出して頂かないと、これまた論争に参加し難いものがあると思います。



332

Re: 臺與の遣使年次と卑弥呼の墓の造営期間

投稿者[ kouji ] 発言日時 [9月17日(日)15時31分33秒]

元の発言 [ Re: 臺與の遣使年次と卑弥呼の墓の造営期間 ] お名前 [ 率善中郎将 ] 日付 [ 9月17日(日)02時20分44秒 ]

 率善中郎将さん、こんにちは。詳細に検討していただき、ありがとうございます。

>>  晋書に注目した斬新な説で、その通りになれば面白い、とは思います。卑弥呼の墓の造営が最大16年で、263年頃完成なら、「布留0式新相」の箸墓でもあり得る範囲の話となりましょうか。

>>  また、koujiさんも、倭人伝の記述からは、卑弥呼の墓は寿陵とは考えにくい、ということでよろしいでしょうか?

 寿陵の可能性がないとは申しませんが、倭人伝の記述からは、死後の造営と考えるのが妥当だと思います。


>>  しかし疑問もあります。
>>  まず、魏志倭人伝の記述は、台与の遣使年次を明示していないのですが、文脈上は、全て正始8年の内の出来事、あるいは『北史』の解釈のように、「正始中、卑弥呼死す」で翌年の正始9年(248年)までの出来事と見る方が妥当ではないかということです。

 北史や梁書がそのような解釈をしているとは言えないと思います。単に、卑彌呼の死を正始中と見ているだけでしょう。私も卑彌呼の死は正始八年頃であると思います。


>> というのも、そんなに長く(〜263年まで)張政らが滞在していたのなら、倭人伝の不正確(と言うか不明確と言った方がよいですかね)な記事ももっと正確になったでしょうし、

 具体的にはどのような記事を指しているのでしょうか?


>> あるいはその間の動向がもっと詳しく書かれて良さそうですし、

 正史における四夷の記述としては、かなり詳しい部類に属するのではないでしょうか。


>>  またその間に年号が何度も変わっているなら、遣使の年次を明記しそうなものだと思いますが?

 そうでしょうか?韓伝には次のようにあります。

『景初中、明帝密遣帶方太守劉[日斤]、樂浪太守鮮于嗣越海定二郡、諸韓國臣智加賜邑君印綬、其次與邑長。其俗好衣[巾責]、下戸詣郡朝謁、皆假衣[巾責]、自服印綬衣[巾責]千有餘人。
 部從事呉林以樂浪本統韓國、分割辰韓八國以與樂浪、吏譯轉有異同、臣智激韓忿、攻帶方郡崎離營。時太守弓遵、樂浪太守劉茂興兵伐之、遵戰死、二郡遂滅韓。』

 帶方・樂浪両郡太守と韓との交戦については年次がありません。ここで戦死したことが見える帶方太守弓遵は、正始元年に建忠校尉梯儁を倭に派遣した人物ですが、正始六年にも[水歳]征討に従軍しています。一方、倭人伝には正始八年条に帶方太守王[斤頁]が見えますから、弓遵の戦死は正始七年頃と考えられます。引用部の冒頭にある「景初中」からみて、年号も変わり、更に約七年を経ているのに年次を記すところがありません。
 臺與の即位を正始八年乃至その直後と考える理由は特にないように思います。


>>  なお、景元4年の遣使が台与であることは異論ありませんが。

 そうであり、且つ、臺與の即位が正始九年頃であるとすれば、臺與の在位中に、魏への遣使が途絶えたか、希少になった期間があることになりそうです。その可能性がないわけではありませんが、原因は不明とせざるを得ません。卑彌呼の死によって遣使が途絶え、臺與の即位によって再開したと考えたほうが妥当なのではないでしょうか。私も、単に景元四年ごろ臺與が遣使したというだけでは、それが臺與の最初の遣使だとは考えないのですが、景元四年以前に遣使が途絶乃至希少化した期間があるらしいことが引っかかるのです。
 まあ、少なくとも、臺與の即位・遣使が景元四年頃まで降る可能性がある、とは言えると思います。


>>  また、死後16 年で墓を造営したとなると、モガリの期間としては異常に長くなり過ぎます。身分が高ければ高いほど、ましてや王となればその期間は一般人より長くなるでしょうが、せいぜい数年でしょう。後の天皇でも記録上せいぜい2年ぐらいだと思います(この点、うる覚えなので、違ったら誰か訂正して下さい)。

 卑彌呼の墓が死後の造営であると見た場合、直径150m程度の円形の塚を主体とする墳墓の造営に、実際にどのくらいの年数がかかったかが問題なのであって、モガリの期間の問題ではないのではないでしょうか。


>>  また例えば仁徳天皇の伝承にあるように(もっとも、今の「仁徳天皇陵」が本当にそうかは別問題ですが)、巨大な大王墓は、基本的に寿陵と考えられます。

 仁徳天皇紀の六十七年条のことかと思いますが、この記事は百舌鳥の耳原という地名の起源談ですから、もっとも信憑性の低い種類の記事ですし、記事の中に仁徳が出てくるわけでもなく、紀年も日本書紀の編纂過程で定められたものです。日本書紀の編纂された頃の観念を示すもではあるでしょうが、前・中期の古墳が寿陵であることを示す史料とはなし難いのではないでしょうか。


>>  箸墓のような最初の、巨大墳墓ならなおさらで(大量の盛土だけでなく葺き石も大量、当然労働量も大量、また構造的に段築の完成や渡り土手の採用など、構造も複雑化)入念な計画性をもって、寿陵として成立した(「定型化」)と考えた方がより妥当と考えます。

 そうでしょうか?挙げていただいた理由は、箸墓の造営に長期を要したであろうという理由にはなりますが、寿陵であることの証拠になるのでしょうか?卑彌呼の死を契機として立案・実行された王墓プランが以後引き継がれたと考えることに問題があるのでしょうか?


>> また4段の段築の上に載る後円部頂上の「円形壇」は(近藤義郎『前方後円墳観察への招待』青木書店)、盛土を先に完成して、死後、これを掘削し、石室を構築し、そのうえに掘削土を盛り上げ整形した、と考えるのが妥当です。寿陵でなければ盛土しながら途中で石室を構築するので、こうはなりません。

 寿陵であれば、「円形壇」を作らないとする理由がわかりません。
 また、盛土の完成後に掘削して石室を構築するか、盛土しながら石室を構築するかという違いが、寿陵であるかどうかと必然的な関連があるのでしょうか?


>> したがって、蓋然性としては、台与の墓と考える方がいいと思います。卑弥呼の墓は、おそらく2年程度で作れる程度で最大級の墓(100m前後か)と考えたいと思います。

 「2年程度で作れる程度」という点については、今回頂いたレスからは、残念ながら蓋然性が理解できません。また、規模については、文献から見た場合には、「徑百餘歩」を積極的に否定する理由が見出せませんので、直径150m程度の円形の塚を主体とする墓と考えるのが妥当ではないかと思います。箸墓については、寿陵でなければ卑彌呼の墓であろうし、寿陵であれば臺與の墓かも知れないと考えておきたいと思います。
 もちろん、現状では箸墓に先行する直径150m程度の円形の塚を有する墓が存在しないということを前提に考えれば、箸墓が寿陵であることがはっきりすれば、「徑百餘歩」を否定することに異存はありませんが。


333

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ 避雷針 ] 発言日時 [9月17日(日)15時32分34秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月13日(水)17時43分07秒 ]

今日は。

前にも述べましたように、同じ比率で換算された例が全体からして多く見られないのは、そのように換算されていたとしても実測された別の数値と合算されれば、それが合計値からは分からなくなるからであると考えています。

ある特定の比率をもって換算されたと分かる例が二つあれば、それらが偶然にそのような値をとる確立は(天文学的に)小さいですから、基本的にその二例でそのようなルールの存在が分かります。(多いほどよいと述べたのはその意味ではミスリーディングであったかもしれません。多いほど確定的になることは確かですが。)

これは例え話ですが。
潜水艦はその人工的な波動(音・電波など)が外部から分からないように自然界のノイズから区別がつきにくいようにして行動しています。
海洋からの波動パターンを観察している者が自然現象では起こる確立がきわめて低いような特定のパターンを認識するのは、時間が別であっても二つのパターンが一致すれば足ります。
数十回同じ波動パターンを観察されても全体から見ればほとんどゼロに等しいと思っている潜水艦はすぐに探知されます。

なお、ルール(換算されるもとの尺度)は出雲地方の諸地方の歴史によって、一つであるとは限られないでしょう。



334

Re: 三神三獣鏡について@お遊び投稿(^^)

投稿者[ kouji ] 発言日時 [9月17日(日)15時36分05秒]

元の発言 [ Re: 三神三獣鏡について@お遊び投稿(^^) ] お名前 [ 率善中郎将 ] 日付 [ 9月17日(日)01時49分02秒 ]

 率善中郎将さん、ありがとうございます。
 大変興味深く読ませていただきました。ホケノ山も橿原考古学研究所の内部でも庄内2〜3に判断が分かれたと何かで読みました。考古学者でも土器を専門的にやらないと判断が難しく、土器を専門的にやっていても判断が割れるのですから、微妙なものですね。むしろそこまで微妙な議論ができることに土器研究の深さを見るべきなのでしょう。

#単なる感想文になってしまいました。もっと実のあることをかければいいのですが....申し訳ありません。


335

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ kouji ] 発言日時 [9月17日(日)15時51分58秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ 避雷針 ] 日付 [ 9月17日(日)15時06分42秒 ]

避雷針さん、今日は!

>> なかなか労作ですね。

 とんでもありません。この程度は、どうということありませんよ。


>> 私は「日本書紀」を編纂した体制と評制時代の体制が別であっても、「日本書紀」が以前の体制の歴史を取捨選択して掲載していたことは充分ありうると思っていますが。(評を郡と書き換えたように適当に書き換えながら。)

 「盗まれた外交史料」というわけですね。まあ、被害者がいることを立証してください。


>> 「日本書紀」が例えば何故、評であったという事実を郡に書き換えていたか(地方統治体は体制の基本となるところです)ということは、もう少し議論されてもよいかと思われます。

 事実に立脚した、堅実な議論を行いたいところですね。


336

失礼!

投稿者[ kouji ] 発言日時 [9月17日(日)15時58分34秒]

元の発言 [ Re: 臺與の遣使年次と卑弥呼の墓の造営期間 ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 9月17日(日)15時31分33秒 ]

誤 > 寿陵であれば、「円形壇」を作らないとする理由がわかりません。

正 > 寿陵でなければ、「円形壇」を作らないとする理由がわかりません。


337

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [9月17日(日)16時03分19秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ 避雷針 ] 日付 [ 9月17日(日)15時06分42秒 ]

>> 「大部分」か否かになると議論が難しいですね。

#飛鳥出土の大和以西の地名を有する木簡はすべてが694年以降だとすることの方が遥かに成立が難しいでしょう。避雷針さんの説は、その極めて困難な前提に依存していませんか?

>> 私は「日本書紀」を編纂した体制と評制時代の体制が別であっても、「日本書紀」が以前の体制の歴史を取捨選択して掲載していたことは充分ありうると思っていますが。(評を郡と書き換えたように適当に書き換えながら。)

#「評」が「郡」が書きかえられている事から、都の所在や政権担当者の名が書きかえられていることを想像するというのは飛躍が大きいですね。


>> よくいわれるように推古と男王が一致していませんね

#隋書に「男王」などとは書かれていませんが?


>> それを自らの体制が奈良に迎えたように書き換えるのは難しいことではありません。

#金石文や中国の史書を書きかえる事はできません。隋使は奈良に来ています。


>> 「日本書紀」が例えば何故、評であったという事実を郡に
>> 書き換えていたか(地方統治体は体制の基本となるところです)

#単に律令所定の現行の表記方法に改めただけと考えて特に支障はないでしょう。主に人物の出身地や物事の起こった場所を特定しているだけなら「地方統治体は体制の基本」などと大上段に構える必要はないと思います。


338

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [9月17日(日)16時18分49秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ 避雷針 ] 発言日時 [9月17日(日)15時32分34秒]

今日は。

>> 前にも述べましたように、同じ比率で換算された例が全体からして多く見られないのは、そのように換算されていたとしても実測された別の数値と合算されれば、それが合計値からは分からなくなるからであると考えています。

>> ある特定の比率をもって換算されたと分かる例が二つあれば、それらが偶然にそのような値をとる確立は(天文学的に)小さいですから、基本的にその二例でそのようなルールの存在が分かります

#それは根本的に考え方がおかしいですね。

 たとえば「任意の2例から線形の関数関係を想定して、他の圧倒的多数例をノイズとして無視する」という方法論が許されるなら、どのような関数関係も自由自在に創作することが出来ます。
 まったくの間違いです。

「天文学的に小さい」のは、そのような見解が結果的に正しいことの確率です。


339

Re: 卑弥呼の墓はどれだ?

投稿者[ 当世奇妙 ] 発言日時 [9月17日(日)19時34分50秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の墓はどれだ? ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月17日(日)15時31分44秒 ]


>> #色々な意見がありうることに異存はありません。
>>  ただ、その意見が、文献や考古資料とどういう関係において述べられているのかは鮮明に打ち出して頂かないと、これまた論争に参加し難いものがあると思います。

*専門に近い根拠が無ければ参加できないとはしりません
でした。
私は昔のように素朴な質問や討論がありうる場と思って
いましたが。
このルールが確かならば以後気をつけましょう。
でもジャッジは難しいのではないですか?


340

Re: 卑弥呼の墓はどれだ?

投稿者[ 当世奇妙 ] 発言日時 [9月17日(日)19時38分06秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の墓はどれだ? ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月17日(日)15時31分44秒 ]


>> #色々な意見がありうることに異存はありません。
>>  ただ、その意見が、文献や考古資料とどういう関係において述べられているのかは鮮明に打ち出して頂かないと、これまた論争に参加し難いものがあると思います。

*専門に近い根拠が無ければ参加できないとはしりません
でした。
私は昔のように素朴な質問や討論がありうる場と思って
いましたが。
このルールが確かならば以後気をつけましょう。
でもジャッジは難しいのではないですか?
歴史には決定的な証拠は難しいですから、常に仮説、
持論になると思いますよ。



341

Re: 卑弥呼の墓はどれだ?

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [9月17日(日)20時07分19秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の墓はどれだ? ] お名前 [ 当世奇妙 ] 日付 [ 9月17日(日)19時34分50秒 ]

>> *専門に近い根拠が無ければ参加できないとはしりませんでした。
>> 私は昔のように素朴な質問や討論がありうる場と思って
>> いましたが。

#べつに「専門に近い」とは申しません。どんなレベルであろうと「そう思う」理由を言わないと討論にはならないと思います。

 それと、当世さんのご質問は「素朴な質問」というより難詰めいた感じがしてならないのですが。「列島唯一の中心」というような、誰が主張しているでもない極論を持ち出されることにも当惑いたします。


342

Re: 卑弥呼の墓はどれだ?

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [9月17日(日)21時05分09秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の墓はどれだ? ] お名前 [ 当世奇妙 ] 日付 [ 9月17日(日)19時38分06秒 ]

>> 歴史には決定的な証拠は難しいですから、常に仮説、
>> 持論になると思いますよ。

#それを言ってしまうと「結論ありき」大いにOKになってしまいます。

 仮説でも持論でも、健全なものなら当然その拠って立つ所があるし、その拠って立つ所に新しい事実が出れば放棄するなり修正するなりすべきものなわけです。
 そうでないと「わたしの持論」が出てきたらそこで議論はおしまい。「なんでそう思うのか」が出てこないと反論のしようも無ければ、その「仮説」を納得できるものとみて歩みよる材料も得られません。

 野球ファンのつどいではないのですから、たまたま近い「持論」を持った人達が結論を確認しあっていても仕方らないと思います。


347

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ kouji ] 発言日時 [9月17日(日)23時39分57秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 9月15日(金)02時11分19秒 ]

そうそう、

>> 『□田末呂不破評秦黒→〈〉□』

 これは、地名(不破評)の前に、人名(□田末呂)がきている例だと思います。『□妻倭国』が国名だという説に対する反証ですね。

#今更って感じですが....


348

Re: 卑弥呼の墓はどれだ?

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月18日(月)01時30分09秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の墓はどれだ? ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月17日(日)15時31分44秒 ]

なんかおかしくないですか?

唯一列島中心というと、誰が極端なことをというし
他にも数名王がいるのではというと、明らかに差があると書いてあるという。

確かに、王と言えるのは、倭人伝には、卑弥呼と伊都国の王と狗奴国の王の3人だが、一応数名とは言える。
他の国は遠絶ということで、よくわからないので王がいてもおかしくない。
その王の力があるのかも、もちろんわからない。

どちらが決め付けているのかな?




349

Re: Title 造営に長ーい年月のかかる巨大古墳が寿陵でないなら、できるまでどこに遺体がおいてあったんだろうか、っていう疑問に対して、なんか説明はありませんか?

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月18日(月)01時48分19秒]

元の発言 [ Title 造営に長ーい年月のかかる巨大古墳が寿陵でないなら、できるまでどこに遺体がおいてあったんだろうか、っていう疑問に対して、なんか説明はありませんか? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月17日(日)22時46分23秒 ]

僕は、「もがり」の時期が過ぎた時の遺体の状態も
よくわからないですよ。
もがりのとき、今のように寝巻きを着せて、布団に寝かす
なんてことはないでしょうから。
もちろん、うじとか悪臭の塊で、さてどうしたんでしょうね。
これが乾燥地帯ならば、数ヶ月で十分ミイラ状態になった
でしょうが、日本でなったのかな?
結構ジューシーな状態のままだったりして。
(想像すると気持ち悪いもんだな。)

しかし、実際うじやハエはたかるわけで、こりゃ辛いで
しょう。だから、薬品みたいなものを使ったのではと
思うわけです。
それが、水銀朱みたいなものとか。

で、そうなれば、ある程度のところまでいってしまえば
匂うとかもなくなって、どこに置いてもさして困らない
状況になったかなと。

でも、やはり10年以上も家の中に置くことは無いよね。


350

Re: 卑弥呼の墓はどれだ?

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [9月18日(月)02時53分22秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の墓はどれだ? ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 9月18日(月)01時30分09秒 ]

>なんかおかしくないですか?
#どこがおかしいのでしょうか?

>唯一列島中心というと、誰が極端なことをというし
#律令制下ではあるまいし、誰がそんな主張をしているのですか?
(奈良の「み」の付く人とか?)

>他にも数名王がいるのではというと、明らかに差があると書いてあるという。
#「各地の王は平等に近かった」「卑弥呼クラスの王(?)は数名いても良い」という意見に対して倭人伝は「女王國との間に圧倒的な力の差があることを推察させる表現」だと言っています。

>他の国は遠絶ということで、よくわからないので王がいてもおかしくない。
>その王の力があるのかも、もちろんわからない。

#わからないんでしょう?そう。わからないんです。
「各地の王は平等に近かった」という理由も無ければ奈良県南部が「唯一列島中心」と主張する根拠も無いです。そんな極端な二分法は現実的ではないし、そこから《だから奈良ではない》なんて結論が出る筈もありません。

>どちらが決め付けているのかな?
#少なくとも私じゃないですね。


351

違った観点から

投稿者[ 当世奇妙 ] 発言日時 [9月18日(月)05時58分30秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の墓はどれだ? ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月17日(日)21時05分09秒 ]

ALEXさんへ。少し違った観点からレスします。
歴史の研究内容を以下のようにも分類できます。
1)考古学遺物、文献による議論。
2)上記の価値、信憑性の議論。
3)対象となる事項をとりまく、大きな潮流、社会現象
、個別分析結果の総合。
1)、2)は現物に接することの出来る専門家、あるいは
それに兆戦出来る基礎能力を持った専門家が得意です。
素人は一般に1)2)に接することは専門家に比して困難が多く、3)は専門家の研究を良く読めば比較的容易に発言できます。(ただし個人の「歴史観が入るし、独善になりやすいが)
素人でも1)2)に兆戦することは期待できますが、3)
を行うことを否定してはいけないと思います。ここが素人の歴史ロマンを誘う要因の一つと思うからです。
3)の場合結論のみと言う印象を与えるでしょうから
何らかの根拠を示すのは必要でしょう。
採用した全ての情報を記載するのは述べるのは無理ですから工夫が必要ですね。
私の場合は奥野先生、大和岩男氏の著作、寺澤さんの論文、最近では青木書店の『古墳時代を見なおす』を参考にしています。反面教師として参考ににしている論文も
ありますが、公表は止めます。
いずれにしてもいろいろなレベルの参加者をウエルカム
しては如何でしょうか。




352

Re: 卑弥呼の墓はどれだ?

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月18日(月)06時27分28秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の墓はどれだ? ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月18日(月)02時53分22秒 ]

>> >なんかおかしくないですか?
>> #どこがおかしいのでしょうか?

そうかな?
奈良南部には卑弥呼がいて、畿内が邪馬台国である。
九州の伊都国や場所は確定していないが、狗奴国にも
王はいるが、圧倒的な力の差がある。
遠くの国は遠いのだろうから、国力もわからないが
だから奈良が強いことの否定にはならない。

ここから奈良以外に中心は考えられますか?
十分列島中心って言っているのと同じだと思うけど。

他の地域を全部否定してますよ。


353

記紀以前には、文書がなかったのだろうか?

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月18日(月)06時46分40秒]

1−2世紀から、あれだけ中国や半島と交流があって
伊都国に一大卒があり、諸国を監察していたにも
関わらず、国内には何もその時代の文献がない。

8世紀まで待たなくてはいけないとは。
漢字の使用は、いつ頃だったのでしょうね。
当然、3世紀ごろにどんな言葉を話していたかという
問題もありますが、やはり発掘される文字からは
漢字で書いてあるところをみると、わからない言葉で
はなかったように思える。

だけど、とにかく文献がない。
圧倒的な力で、諸国をおさえ、中国と国交を結んでいた国が
何も書類がない。
何か出てきてもよさそうなものだが。


355

思いつき

投稿者[ 馬 詐 ] 発言日時 [9月18日(月)10時50分18秒]

元の発言 [ Re: Title 造営に長ーい年月のかかる巨大古墳が寿陵でないなら、できるまでどこに遺体がおいてあったんだろうか、っていう疑問に対して、なんか説明はありませんか? ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 9月18日(月)01時48分19秒 ]

えっと、どうも。

ちょっと思いつきなんですが、その16年の間に、それまでは実質的には大国でありながら形式上辺境と見なされていた関西の地に、政治上の中心も移動したってことはないでしょうかね?
だとすると、仮埋葬中は例えば宇佐に埋葬されていたとか(笑)
牽強付会だろうか?


356

Re: 記紀以前には、文書がなかったのだろうか?

投稿者[ 馬 詐 ] 発言日時 [9月18日(月)10時55分17秒]

元の発言 [ Re: 記紀以前には、文書がなかったのだろうか? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月18日(月)10時09分34秒 ]

>>
>>
>>
当然いたでしょうね。
となると記紀編纂時に焚書があったってことも想定されるけど、これは最終判断であって、安易に想定するとトンデモになっちゃうので(笑)
結局なんらかの理由により残っていないとするしかないんだろうか?



357

Re: 卑弥呼の墓はどれだ?

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [9月18日(月)11時55分52秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の墓はどれだ? ] お名前 [ 率善中郎将 ] 日付 [ 9月17日(日)01時15分32秒 ]

>> 「布留0式の直前」なら1B期でよいでしょう。

1Bというだけならいいですが、

>> (纏向2式後半〜3式初めぐらい)

は寺沢庄内2に対応しますから(はじめの方は庄内1か?)、直前とは思いません。
那珂八幡についてこのような年代を出す久住編年は、ちょっと警戒したほうが
よいという気がしています。今後、評価が定まればそれに従いますが。

>> これは意見が割れるようですが、箸墓の「都月型」は吉備宮山の宮山型と、
>> 「矢藤治山型」特殊器台が先行するという意見が多いようです(「矢藤治
>> 山型」は「向木見型」からの変化)。

庄内を二つに割った庄内式後半よりはもう少し下がると思います。上げたとし
ても、3っつに割った庄内式後葉、ないしは庄内式末ではないでしょうか。
(布留0は庄内に含まない。)

>> #結局、石塚の例があるので、まだなんとも言えません。

『上限とする』という言葉の裏に、『上限としては認めるが二式ではおそらく
ない』というニュアンスを感じましたので、先のように書きましたが、可能性
を認めていただけるなら、それでかまいません。

勝山にちょっとこだわっているのは、他でも議論になっている『径○○』とい
う表現がやっぱり気になるからです。纏向式を含めた前方後円墳では、絶対に
ないとは言いませんが、違和感がどうしても残ります。(今の推定墳形が正し
いとしてですが)前方部の小さな勝山であれば、この違和感はある程度解消さ
れます。個人的な感覚に過ぎないんですけど。


360

Re: 記紀以前には、文書がなかったのだろうか?

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月18日(月)16時02分18秒]

元の発言 [ Re: 記紀以前には、文書がなかったのだろうか? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月18日(月)12時43分08秒 ]

>>
>>
>>
ところが、仏教が入ってきたのは、一応6世紀よりは前
だろうと言われるわけですよね。
宗教に文字がないなんてことはないわけで、かならず
経典があるはずですよね。

それを考えれば、仏教が入ってくる以前か同時に、漢字が
使われていなければならないでしょう。
でも、なにも出てこない。
簡単に焚書とは言えないですけど、どこへ行ったんでしょうね。
やはり銅板か何かに残ってないと、駄目なのかな。
木板に墨では、消えてしまうか。





362

Re: 卑弥呼の墓はどれだ?

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [9月18日(月)19時15分54秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の墓はどれだ? ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 9月18日(月)06時27分28秒 ]

>奈良南部には卑弥呼がいて、畿内が邪馬台国である。
>九州の伊都国や場所は確定していないが、狗奴国にも
>王はいるが、圧倒的な力の差がある。
>遠くの国は遠いのだろうから、国力もわからないが
>ここから奈良以外に中心は考えられますか?
>十分列島中心って言っているのと同じだと思うけど。
>他の地域を全部否定してますよ。
(以上は以下「上記」という)


《ほかに核となる勢力が無い》という意味で「中心」とおっしゃっているのですか?

 私は畿内説の側からあくまでも《奈良南部が『列島唯一の中心』などとは言っていない》と言っております。
 かみ砕いて言うなら《当時の倭國内の最大勢力がイニシアチヴを執っているにすぎない。しかも最大勢力といっても、その実態は広域にわたる緩慢なコネクションが新開の宮都状施設に結集したものである》とかねてから主張しております。
 地域地域にはいろいろなレベルの中心がある筈ですし、さらに政祭、文化、科学技術など位相の違う中心があると思います。

 それでもなお、上記のような意味で敢えて「畿内説は奈良南部が『列島唯一の中心』と主張しているのだ」とおっしゃるなら、それはそれで結構です。「中心」という言葉をそう定義するのだということですから。(厳密には、狗奴國と力の差があるとまでは言っていませんが)

 その代わり、以下のようなことを言う人がいたら、私の代わりに否定して下さいね。以下のような議論が出るのが嫌で「中心」というような語弊のある言葉を使わないで居るのですから。敢えてそう呼ぶのなら、その代わりにお願いします。

1.東北地方には別の国があったかも知れないから『列島唯一の中心』ではない。
  ゆえに畿内説はおかしい。
 【これは当然だめですね。最初から倭人伝で倭國と呼ばれた範囲内の話ですから】

2.この時代に全国を専制的に支配していた勢力があったとは考えられず
  まだ『列島唯一の中心』など無い。
  ゆえに畿内説はおかしい。
 【上記「中心」は、全国を専制的に支配するものという意味ではありませんね】

3.『列島唯一の中心』があるというのに、まだ各地の古墳の様式が定まっていない。
  ゆえに畿内説はおかしい。
 【上記のような「中心」があれば祭祀がたちどころに画一化されるなどと
  いうことはありません】

4.明らかに倭國に含まれる範囲内なのに、独自性のある地域的政治勢力がある。
  『列島唯一の中心』があるという畿内説はおかしい。
 【上記の「中心」という言葉は、独立性を保った地方政権は存在しない
  ということを意味しません。力の差があると言っているだけです。】

5.奈良よりも進んだ技術・文化を持っている地域がある。
  奈良県南部が『列島唯一の中心』ではありえない。
  ゆえに畿内説はおかしい。
 【技術や文化の水準において「中心」と言っていません】

お願いしますよ。


363

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ 避雷針 ] 発言日時 [9月18日(月)20時27分41秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月17日(日)16時03分19秒 ]

今日は。

>> >> よくいわれるように推古と男王が一致していませんね

>> #隋書に「男王」などとは書かれていませんが?

「隋書」に出てくる王というのは推古だったのですか?

>> #金石文や中国の史書を書きかえる事はできません。隋使は奈良に来ています。

隋使が奈良に来ていたというのはどのようにして分かるのですか?



364

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ 避雷針 ] 発言日時 [9月18日(月)20時34分16秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 9月17日(日)23時39分57秒 ]

今日は。

>>  これは、地名(不破評)の前に、人名(□田末呂)がきている例だと思います。『□妻倭国』が国名だという説に対する反証ですね。

評名の前ですね。
私は国名+評名という様式で記載される場合はと言っていたのですけどね。
一般的にいえば、評名だけの場合よりも国名から記す方が(国外に出す)よりフォーマルな形式と見られるので、様式の話になじみやすいと思われますが。


365

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ 避雷針 ] 発言日時 [9月18日(月)20時46分51秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月17日(日)16時18分49秒 ]

今日は。

>> >> ある特定の比率をもって換算されたと分かる例が二つあれば、それらが偶然にそのような値をとる確立は(天文学的に)小さいですから、基本的にその二例でそのようなルールの存在が分かります

>>  たとえば「任意の2例から線形の関数関係を想定して、他の圧倒的多数例をノイズとして無視する」という方法論が許されるなら、どのような関数関係も自由自在に創作することが出来ます。

あるパターンが二例の間で一致することが偶然によって起きる可能性がきわめて低い場合には、それはある特定のパターンが存在していたと認識できるという話をしています。
「任意の二例から・・想定し」という理解は、この問題の前提がまったく理解されていないことを示しています。

例え話でいえば、潜水艦を探知しようとするときに任意の二つの波動から人工的なものであることをいかようにでも認識できるなどということはあり得ません。



366

Re: ちょっとすみませんが、

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月18日(月)21時10分29秒]

元の発言 [ Re: 前方後円墳の規模は如何に記述されたか ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月17日(日)22時18分09秒 ]

>>
#以前に初期の特殊器台の大きさもレスしましたし、レスしたとおり、特殊器台が棺桶だった考古学的証拠は無く、
#「間違いなくいえること」ではありますまい。



367

Re: ちょっと卑弥呼の墓の形のことで

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月18日(月)21時20分21秒]

元の発言 [ Re: ちょっと卑弥呼の墓の形のことで ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月16日(土)15時20分37秒 ]

>> >> と言うことは、「有棺無槨」の卑弥呼の墓を見ったってことですか。§^。^§
>> なんども言うように、卑弥呼の墓が「有棺無槨」なんてどこにも書いてありません。これも迷信のたぐいでしょう。
#では「有棺無槨、封土作冢」は何なんでしょう。


368

Re: もう一個、思いつき、

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月18日(月)21時32分54秒]

元の発言 [ まーさー、そういう思いつきもありますが、、 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月18日(月)12時38分11秒 ]

信州の方に、「再葬墓」ってあります。
骨を掘り出して、洗骨してことはありませんかネ。


369

Re: 記紀以前には、文書がなかったのだろうか?

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月18日(月)21時39分12秒]

元の発言 [ Re: 記紀以前には、文書がなかったのだろうか? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月18日(月)17時21分21秒 ]

>>
>>
>>
>>
もちろん、そうだと思います。
ただ、教典があるのは知っていた。
経文は読めないけどね。
現代の日本人でも、あのお経は読めない。

>>
>>
>>
>>
「日出るところの天子・・・」と聖徳太子がという話ですし、彼が仏教を取り入れたと言ってもいいわけですから。
少なくとも6世紀には、十分漢字の使用はあったわけでしょう。
古事記などの2世紀前ですよ。





37

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月3日(日)23時29分58秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月3日(日)17時14分27秒 ]

こんばんわ

>>
3000と2000では1.5倍違ってくるのですが

>>
>>
不思議に思っていたのですが、その朝鮮使ですが、何回も
来ていたのですか?
もし1回だけの記録であるのなら、他のデータでも言われることのように、信用できないということもあります。
たまたま間違えた朝鮮使だったかもしれないわけで。
知らずにこんなこと書いてはいけないかもしれないので
すが、やはり同じデータの取り扱い方をしないとね。
なぜか引き合いに出される朝鮮使ですが、それが本当の
認識だったのかですよね。





370

Re: 記紀以前には、文書がなかったのだろうか?

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月18日(月)21時41分08秒]

元の発言 [ Re: 記紀以前には、文書がなかったのだろうか? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月18日(月)17時21分21秒 ]

>> 木板に墨では、消えてしまうか。
>>
>>
>>
#使用頻度は少なかったでしょうが、
#「刀子」は弥生時代から出土してますよネ。
#あれは木簡(竹簡)のイレーサーですから、文字を使っていた可能性はあると思います。




371

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [9月18日(月)22時02分49秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ 避雷針 ] 日付 [ 9月18日(月)20時46分51秒 ]

今日は。

>> あるパターンが二例の間で一致することが偶然によって起きる可能性がきわめて低い場合には、それはある特定のパターンが存在していたと認識できるという話をしています。
>> 「任意の二例から・・想定し」という理解は、この問題の前提がまったく理解されていないことを示しています。

#この問題の前提がまったく理解されていない?
 とんでもありません。

突然「あるパターンが二例の間で一致することが偶然によって起きる可能性がきわめて低い場合」という前提が入りこんでくることが異常なのです。

#よろしいですか?

>> ある特定の比率をもって換算されたと分かる例が二つあれば、それらが偶然にそのような値をとる確立は(天文学的に)小さいですから、基本的にその二例でそのようなルールの存在が分かります

#とおっしゃいましたが、同語反復の全く無意味な言葉です。
「ある特定の比率をもって換算された」と「分かる」「例が二つ」あれば
「そのようなルールの存在」が、その「二例」で「分かります」

###あたりまえでしょう?###
あらかじめ「ある特定の比率をもって換算された」と分かっているなら当然「そのようなルール」は存在しているし、「ある特定の比率をもって換算された」かどうか分からなければ「そのようなルール」が存在するかどうかなど、たった「二例」で分かるというのは馬鹿げた事です。

合致例が圧倒的に少ない事を認めながら、その少数の合致例について何の根拠も示さず
 「偶然によって起きる可能性がきわめて低い」
 「ある特定の比率をもって換算されたと分かる例」
などとおっしゃるから
「任意の2例から線形の関数関係を想定して、他の圧倒的多数例をノイズとして無視する」
ナンセンスな議論でしかないと申し上げているのです。


>> 例え話でいえば、潜水艦を探知しようとするときに…

#その話、なにか関係ありますか?


372

Re: ちょっと卑弥呼の墓の形のことで

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [9月18日(月)22時15分15秒]

元の発言 [ Re: ちょっと卑弥呼の墓の形のことで ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 9月18日(月)21時20分21秒 ]

>> では「有棺無槨、封土作冢」は何なんでしょう。

#一般人の風俗です。そういう箇所に書いてあります。
卑弥呼の墓がそうだとは、どこにも書いてありません。

卑彌呼も裸足だとか顔に朱を塗っているとか
卑彌呼の喪も10余日だとか
卑彌呼が死んだら皆んなで飲めや歌えやだったとか
まあ、誰も言わんでしょう。
「有棺無槨」もそういうことです。

__皆徒跣
__有屋室 父母兄弟臥息異處
__以朱丹塗其身體 如中國用粉也
__食飮用ヘン豆、手食
**其死、有棺無槨 封土作冢**
__始死停喪十餘日
__當時不食肉
__喪主哭泣
__他人就歌舞飮酒…


373

Re: 横から思いつき(^○^)/~

投稿者[ 池ちゃん ] 発言日時 [9月18日(月)23時50分36秒]

元の発言 [ Re: もう一個、思いつき、 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 9月18日(月)21時32分54秒 ]

こんばんわ。
今、仕事から帰りました。うう・・・ゲームやりてぇよー(TT)。

推古天皇は2度埋葬された・・・なんてことを
以前テレビでやってましたが、その可能性はどうでしょうか?


379

Re: 卑弥呼の墓はどれだ?

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月19日(火)00時52分27秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の墓はどれだ? ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月18日(月)19時15分54秒 ]

>《ほかに核となる勢力が無い》という意味で「中心」とおっしゃっているのですか?

なんか言葉遊びにしかなっていないような気がします。

東京は中心ではないですか?

そりゃ、自動車の生産など、私の地元の名古屋、豊田が中心でしょう。
輸出金額でも名古屋港が一番です。
しかし、政治経済など中心は東京でしょう。
と、まあそういう感覚の中心と言う意味ですよ。
これが一般に言われることだと思いますが。
ただ、言葉尻を捉えて文句を言うタイプの人も、いっぱいいますから
注意される気持ちもわからなくはないけど。

ところが、いわゆる畿内説以外の人は、九州がある種文明的には畿内より進んでいるところがある、
出雲などかなり大きな古い文化を持った地域がある。
また吉備など独自の文化の地域もあって、いろいろ
な可能性が考えられるのではないかということを言っているわけです。

結局、「中心」という言葉の解釈で問題があるわけでが、
ただ中心になれる条件があると思います。
政治力とか軍備、また宗教、単に人口かもしれません。
王の力の差は、何をさして言われるのかな?
お互いがそこをはっきりさせないで言ってるから。
また変に拘るから、訳わからん状態になってるだけでしょ。



38

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ 避雷針 ] 発言日時 [9月3日(日)23時46分49秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月3日(日)18時10分24秒 ]

おにりんさん、今日は。

>>
>>
『日本書紀』の記事の数値は正しいように思うのですが。





380

Re: 卑弥呼の墓はどれだ?

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [9月19日(火)01時22分11秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の墓はどれだ? ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 9月18日(月)11時55分52秒 ]

>> >> 「布留0式の直前」なら1B期でよいでしょう。

>> 1Bというだけならいいですが、

>> >> (纏向2式後半〜3式初めぐらい)

>> は寺沢庄内2に対応しますから(はじめの方は庄内1か?)、直前とは思いません。
>> 那珂八幡についてこのような年代を出す久住編年は、ちょっと警戒したほうが
>> よいという気がしています。今後、評価が定まればそれに従いますが。

ちょっと誤解有りです。久住1B期は、寺沢庄内2ー3式、です(米田庄内2ー3期)。纏向編年との対応でもそのはずです。纏向1式が寺沢庄内0、纏向2式初めが庄内1、同2式中頃が庄内2、同2式末(〜3式初め)が庄内3です。久住氏は那珂八幡を1B期でもやや新相と見るようですので、寺沢庄内3併行と見るようです。(「布留0式直前」という言い方)。
 いずれにしても、大規模墳としては、九州で最古でしょう。また、他の地方はあるのに、九州だけ布留0式以前の前方後円墳がないのも不自然なので、久住説の蓋然性の高さを感じます。また、土器の細かい観察の上での比較検討によるものであるので、また近畿との併行関係も、単なる庄内甕の型式類似だけでなく、搬入関係から論じているので説得力があります。


381

Re: 殉葬について

投稿者[ 公正徹也 ] 発言日時 [9月19日(火)02時06分36秒]

元の発言 [ Re: 前方後円墳の規模は如何に記述されたか ] お名前 [ はやしらいす ] 日付 [ 9月17日(日)12時09分34秒 ]

はやしらいすさん、こんにちは。

まず、前方部について。

>【はそう】(ハゾウとも) 胴部に小さい孔のある壺形の須恵器。土師器もある。孔に竹の管をさし、内容物を注いだり吸ったりしたとする説がある。(広辞苑)
>「はそう」は祭器ではないのでしょうか。

 多分祭器だと思います。ただし、祭器が出土したところ=祭器をおこなったところとは必ずしも限らないわけです。祭器を棄てたところかもしれないし、祭器を落としたところかもしれません。
 そのへんのところを判断するには、出土状況を検討しなければならないのですが、残念ながらこのはそうは発掘で出土したものではなく、単に採集されたものなのです。

>>後期の前方後円墳の場合には、追祭祀はくびれ部もしくは横穴式石室の入り口付近でやっているはずです。
>でもこれは、前方部から入るのではないですか?
 
 いえいえ。ここで私が言っているのは横穴式石室をもつ古墳についてですが、石室の入り口はたいてい後円部のテラス上か墳裾に開口しています。また、くびれ部というのは前方部と後円部の境で、中〜後期古墳にはここに「造り出し」という施設がつくられることが多いです。両方とも、前方部を通らずに行けます。
 箸墓古墳の場合は、埋葬施設は後円部頂にあると考えられますから、こちらは前方部を通らないと行けないでしょうね。

>前方部から入って後円部の墳丘に向かってお参りするのではないでしょうか。法事の時のように人が多勢集まって、前方部に立ってお参りするのではないでしょうか?「前方部=祭祀をおこなうところ」で別段かまわないと思うのですけれど。

 前方部から遥か後円部に向かうというと「遥拝」のイメージがありますが、墓参りって、故人を埋葬してある場所まで行ってお参りするのが普通だと思いません?少なくとも横穴式石室の場合は、入り口まで行って、あるいは石室の中に入ってお参りしています。

次に殉葬について。

>とりあえず、平原が卑弥呼であるか否かはいまのところ無関係に、平原の周溝への埋葬方法は殉葬といえるのかどうかを考えてみることにしましょう。

 そもそも、考古学的には、どのような根拠をもって「殉葬」であると判断できるでしょうか。

 私は先に
1被葬者との格差の存在
2主体部埋葬との同時性
・・と書きましたが、このうち1について、卑弥呼の場合は奴婢でしたが、殉葬一般を問題にするときには奴婢の殉葬、家族の殉葬、家臣の殉葬などいろいろなケースがあるでしょうから、副葬品の有無などで一概には判断できないかもしれませんね。
 
 しかし、殉死が「後を追って死ぬ(殺される)」ことである以上、2の条件ははずせません。被葬者の死から時を隔てて主墳の一角に埋葬される場合、原田大六は「陪葬」と呼んで区別したことはご存知かと思います。はやしらいすさんもホケノ山の例については「追葬」の語を使われましたよね。

 >ホケノ山のくびれ部分に追葬された木棺がありましたが、

 この木棺墓は葺石をはずして作られていましたから、少なくとも、「殉葬」者のために作られた可能性は低そうです。
 ではどのような状態であれば「主体部埋葬と同時」であるとわかるのか?
これはたいへん難しい問題です。例えば、主体部と「殉葬」?墓それぞれの副葬品に型式差が認められなければ、その型式がもつ時間幅のなかでという条件付きで「同時」といえるかもしれません。

 ところで平原3・4号の主体部について、原田は
>主体部と共に封土は全く鋤で平たにされて失われていた

と書いていますが、柳田康雄氏の文章を読むと(「平原王墓の性格」)、3・4号それぞれに主体部があるように書いていますね。まあ削平されてかろうじて残っていた程度かと思われますが、原田の文章からは、主体部と殉葬溝?の同時性の検討は不可能です。
また、平原3・4号の周溝内埋葬について、原田は
>古墳における溝の存在は、土盛りするための土取り址だとか、排水のための設備かの、どちらかであろう

 と書いていますが、本質的には区画溝なのではないかと思います。平原3・4号の周溝についても、平面図を見る限り、各地の円形周溝墓と比較してそれほど特異とは思えません。そして前にも書きましたが、こうした円形・方形周溝墓の周溝内に副葬品を伴う土壙が営まれる例は各地にありますし、隣の平原1号にもあります。私は平原3・4号もこうした構内埋葬の一例ではないかと思います。

 原田が
>埋め戻した痕跡が顕著である
>全員同時に墓溝に埋められ
とした根拠についてはよくわかりませんが、仮にこれらを認めたとしても、やはり主体部との時間差の問題は残ります。

 平原1号の場合は、というより「溝内埋葬」一般にいえることですが、周溝内の堆積土中に墓壙が掘られるわけですから、当然、周溝が埋没した分だけ主体部埋葬とはタイムラグが見込まれるわけです。

>これは当初からお墓として方形周溝墓を築造したのではなく、もともと祭祀施設として存在していたことを窺わせます。(柳田康雄「平原王墓の性格」)
>つまり、もともと祭祀施設であったところに、その祭祀をつかさどる巫女的王が埋葬されたと考えられる。

こうしたことがなかったといは言えませんが、これだと、巫女的王が埋葬された段階ですでに周溝のメンテナンスは放棄されていたことになり、不自然さは否めません。

また、原田が殉葬の根拠としてあげた
>1.陪葬と考えられる墳墓が別に存在すること。
>2.弥生古墳(1号墓)の東側に接して存在する三世紀の古墳(3、4号墓)が、完全な殉葬のための周溝を持ち、それがこの弥生古墳の殉葬墓の状態から変化したと考えられること。

についてですが、
1、については、陪葬の存在からただちにもう一方を殉葬であるとはいえないと思います。
陪葬・殉葬の違いではなく、例えば血縁・非血縁の違いかもしれません。
2、については、上に書いたとおり、3・4号墓の周溝を「完全な殉葬のための周溝」とみなすことには躊躇を覚えます。

>>「墳丘の裾に埋葬が営まれた」墳墓の例ならば、弥生時代・古墳時代を問わず、平原以外にもたくさんあります。例えば長野県の森将軍塚古墳(古墳時代前期、前方後円墳)の場合、墳丘の周りには60以上の箱式石棺が営まれています。
>この「墳丘の裾」「墳丘の周り」とは周溝のことですか? それとも、まさに墳丘内の周りなんでしょうか?

 森将軍塚古墳は丘陵上に築造された古墳であり、周溝はありません。周辺埋葬がおこなわれたのは墳裾の周り、すなわち墳丘内ではなく、墳丘の周りの平坦面です。内訳は、箱式石棺64基、円筒埴輪棺12基、土壙墓2基です。
これらの年代については、その出土遺物から、5世紀代を中心とするものと考えられているようです。

>馬の殉葬が五世紀代で平原とほぼ200年程度の開きがありますし、馬の場合、白石氏は「牧における馬匹生産のために東国などに定着させられた渡来人たちの残したものであることはほぼ確実であろう」)と言っていますので、彼らの渡来時期にもたらされた可能性もありますが、この殉葬方法が平原の時代から継承されて行ったのならば、他にも存在する可能性はあると思います。

 白石氏が「渡来人たちの残したものであることはほぼ確実であろう」と述べているのは、馬の殉葬のみならず、それに伴う祭祀のあり方に、半島や中国東北地方との共通性がみられるからです。
 従って、こうした殉葬方法は疑いなく渡来人がもたらしたものであり、ここから平原の時代の殉葬を云々することはできないと思います。

>殉葬例がないとすれば、
>大いに冢を作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。
>この情報の信憑性についても疑ってよいことになります。
>平原が誇大に書かれた可能性と、張政帰国後から「倭人伝」が書かれるまでの間にもたらされた箸墓情報に尾ひれがついたか、その辺のところではないのかな?と思っています。

 誤解のないように付け加えておくと、私は弥生・古墳時代に「殉葬があったはずがない」と言っているわけではありません。ALEXさんが書かれているように、「考古学的な痕跡として残らない」殉葬がおこなわれた可能性は否定できません。
 ただ、「残ったもの」から論を組み立てるしかない考古学としては、せめて「殉葬」と認定する手続きは厳密におこなわなければならないのではないか、と思うわけです。


382

Re: 補足

投稿者[ 公正徹也 ] 発言日時 [9月19日(火)02時09分52秒]

元の発言 [ Re: ちょっとすみませんが、 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月19日(火)00時18分55秒 ]

>>
>>
 岡山県宮山遺跡の例ですね。
 オヤジッチさんは、宮山の特殊器台が棺であったという見解に反対意見をお持ちなのでしょうか?



384

Re: 卑弥呼の墓の形、冢と墳

投稿者[ 大場嘉門 ] 発言日時 [9月19日(火)16時57分47秒]

元の発言 [ Re: ちょっと卑弥呼の墓の形のことで ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月15日(金)12時15分30秒 ]

>>「大きな冢を作る」ではなく「大いに冢を作る」という書き方じたいが、工事そのものを目撃した中国人の記述とみると理解しやすいものと思います。

スレッドが深くなりましたので、「卑弥呼の墓の形、冢と墳」ということで移らせていただきます。


385

卑弥呼の墓の形、冢と墳

投稿者[ 大場嘉門 ] 発言日時 [9月19日(火)17時01分49秒]

ALEXさん こんにちは。

>>「大きな冢を作る」ではなく「大いに冢を作る」という書き方じたいが、工事そのものを目撃した中国人の記述とみると理解しやすいものと思います。

張政は造営工事を目撃していた、ということで思いついたのですが…
倭人、そして卑弥呼の墓は「冢」とありますが、「冢」も「墳」も土を高く盛った墓ということで、完成後の外見上からはその「用字の違い」は判然としません。
「陵」とは天子の「みささぎ」に用いられる字で、墓を意味する字でもその形・形態、葬られた人の身分等によって、それぞれの字が使い分けがされるのだろうと思います。
冢の形を直接説明しているわけではありませんが、魏志韓伝に「居處作草屋土室、形如冢」とあります。
草屋土室とは、教科書の登呂遺跡の写真でみるような、たて穴住居のようなものでしょう。
たて穴住居の土室とそれを覆う草屋に注目して「形如冢」としているならば、冢とは地面を掘り下げ墓穴とし、そこに棺を納めた後、その上に土を封じる形態の墓をいうのではないでしょうか。
「墳」という墓の形態は分からないのですが、前方後円墳はその積み上げた部分に棺が納められています。
だからというわけではないのですが、「墳」という墓は土を積み上げた後、その積み上げた部分を掘り、そこに棺を納める墓のことをいうのではないでしょうか。
ALEXさんの仰るとおり「大いに作る」とは大規模な造営工事ということであり、張政は前方後円墳の造営工事を見ていたから、その内部構造からして「大作冢」としているのではないでしょうか。


386

Re:訂正

投稿者[ 大場嘉門 ] 発言日時 [9月19日(火)17時15分29秒]

元の発言 [ 卑弥呼の墓の形、冢と墳 ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 9月19日(火)17時01分49秒 ]


>> 張政は前方後円墳の造営工事を見ていたから、

「前方後円墳」を削除。


387

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ kouji ] 発言日時 [9月19日(火)19時16分32秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ 避雷針 ] 日付 [ 9月17日(日)15時32分34秒 ]

避雷針さん、今晩は!

>> ある特定の比率をもって換算されたと分かる

 「分か」っていないということは、ALEXさんのレスがあるので置いておきますが、

>>例が二つあれば、それらが偶然にそのような値をとる確立は(天文学的に)小さいですから

 八つの整数(島根郡八郷の郡家からの距離)の中に、五十で割り切れる数値が二つ以上含まれる確率が、「天文学的に小さい」のですか?ちゃんと計算しましたか?



388

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ kouji ] 発言日時 [9月19日(火)19時18分27秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ 避雷針 ] 日付 [ 9月18日(月)20時34分16秒 ]

避雷針さん、今晩は!

>> 評名の前ですね。
>> 私は国名+評名という様式で記載される場合はと言っていたのですけどね。

 なるほど。まあ、「地名の前にくるのは、紀年だけとは限らない」ということはよろしいのですね。

>> 一般的にいえば、評名だけの場合よりも国名から記す方が(国外に出す)よりフォーマルな形式と見られるので、様式の話になじみやすいと思われますが。

 様式というものは、用途に応じて定まるものです。用途不明の木簡に、特定の様式を当てはめて、他の史料に全く見えない国名を創作しようとするのは、方法論的に誤りであると思料いたします。


389

Re: もう一個、思いつき、

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月19日(火)20時50分49秒]

元の発言 [ Re: もう一個、思いつき、 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月19日(火)00時41分31秒 ]

>>
>>
>>
#そう言う習慣じゃなくて、かつて土葬だった所を開発して、納骨堂に収めたのだと思いますヨ。

>>
#私も、母方の親戚は糸島(一貴山)にありまして、「この叔父さんは酒のみだったからあまり腐ってなかった」と言うのを聞いたことがあります。(ーー;)



39

Re: Title 新説「北部九州玄海灘沿岸地域は倭国ではなかった!」

投稿者[ 避雷針 ] 発言日時 [9月4日(月)00時09分59秒]

元の発言 [ Title 新説「北部九州玄海灘沿岸地域は倭国ではなかった!」 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月3日(日)18時08分13秒 ]

おにりんさん、今日は。

>>
>>
>>
この認識は一点を除くとある程度同感できます。
逆に、北部九州と半島南部を「倭国」と呼ぶことも可能なのでは。




390

Re: 記紀以前には、文書がなかったのだろうか?

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月19日(火)20時56分55秒]

元の発言 [ Re: 記紀以前には、文書がなかったのだろうか? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月19日(火)00時45分49秒 ]

>>
>>
>>
#木簡があったとしてもよほど条件が整わないと残んないでしょうしネ。
#あくまでも、可能性の範囲ですけど、おにりんさんは以前、「邪馬臺国時代は漢字が広く使われていた」との主旨のレスをされませんでしたっけ。




391

Re: ちょっとすみませんが、

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月19日(火)21時03分08秒]

元の発言 [ Re: ちょっとすみませんが、 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月19日(火)00時18分55秒 ]

>>
>>
>>
>>
#「特殊器台の時代から、これが棺桶として利用されていることが間違いなくいえる」ではなくて、
#「棺桶として使われた特殊器台がある」と言うのが正しいのですネ。



392

Re: 補足

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月19日(火)21時16分20秒]

元の発言 [ Re: 補足 ] お名前 [ 公正徹也 ] 日付 [ 9月19日(火)02時09分52秒 ]

>>  オヤジッチさんは、宮山の特殊器台が棺であったという見解に反対意見をお持ちなのでしょうか?
#レスしたとおりです。
#揚げ足取りだったかもしれませんが、
#読む人によっては甕棺などと類似して「特殊器台は棺だったのか」と思うかもしれないのでレスしました。(^○^)
#宮山のものは不勉強でわかりませんが、
#棺だと確定しているのであれば、「特殊器台」と言うは変ですネ。
#「器台」というのは上に(多くは祭祀壺を)乗せるためのものですよネ。
#「大型円筒埴輪」ならば納得します。§^。^§


393

Re: もう一個、思いつき、

投稿者[ kouji ] 発言日時 [9月19日(火)21時23分06秒]

元の発言 [ Re: もう一個、思いつき、 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月19日(火)00時41分31秒 ]

 似たような話は、魏志東沃沮傳にも出てきます。

『新死者皆假埋之、才使覆形、皮肉盡、乃取骨置槨中。』
【新な死者は皆假に之を埋め、才かに形を覆わしむ。皮肉盡きれば、乃ち骨を取り槨中に置く。】

 日本のモガリについては、日本書紀などを見ると専用の宮を建ててその中に遺体を祭っていたようです。モガリの宮の中で、遺体がどういう状態で置かれていたのかは分かりませんが。紀年がほぼ信用できる天武天皇のモガリでも二年に及んでいますから、ほっておかれたとすれば、ばかなり悲惨な情況を呈したでしょうね。


394

Re: ちょっと卑弥呼の墓の形のことで

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月19日(火)21時32分07秒]

元の発言 [ Re: ちょっと卑弥呼の墓の形のことで ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月18日(月)22時15分15秒 ]

>> #一般人の風俗です。そういう箇所に書いてあります。
>> 卑弥呼の墓がそうだとは、どこにも書いてありません。
#以前も同様のレスを頂いておりますが、
#であれば、卑弥呼の墓は庶民のものとは「形も違い、槨がある」と書いておいて欲しかった。§^。^§


395

Re: 卑弥呼の墓はどれだ?

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [9月20日(水)00時43分39秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の墓はどれだ? ] お名前 [ 率善中郎将 ] 日付 [ 9月19日(火)01時22分11秒 ]

率善中郎将さん、こんばんは

>> 纏向1式が寺沢庄内0、纏向2式初めが庄内1、同2式中頃が庄内
>> 2、同2式末(〜3式初め)が庄内3です。

おや?おかしいですね。
寺沢庄内式は纏向2式と3式(前)を3分割して庄内1〜3式を当てていて、
寺沢庄内2は、纏向2と3の境目をまたぐあたりだと思いますが。

季刊考古学52号の赤塚編年表には、纏向2と3の境目にしっかりと(寺沢)庄内2
とかいてあります。同様の編年表が『古代史ハンドブック(新人物往来社)』に
ものっており、寺沢庄内2は纏向2と3にまたがる形になっています。こちらの
担当はおそらくは大塚さんです。

>> 久住氏は那珂八幡を1B期でもやや新相と見るようですので、寺沢庄
>> 内3併行と見るようです。(「布留0式直前」という言い方)。

これであれば、特に異論はありません。


396

Re: まず前方部について

投稿者[ はやしらいす ] 発言日時 [9月20日(水)00時48分39秒]

元の発言 [ Re: 殉葬について ] お名前 [ 公正徹也 ] 日付 [ 9月19日(火)02時06分36秒 ]

 公正さん、こんばんは。
 論点はふたつ。ひとつは、
(公正さん)
>私は、「前方部=祭祀をおこなうところ」という説には疑問を持っています。というより、岩戸山古墳は後期古墳です。前方部で祭祀を行なったと言う事はまずなかろうと思っています。
(はやしらいす)
>前方部に入って後円部に向かってお参りをしていたのではないかと思います。

 ここに端を発している。
 もうひとつは、平原の周溝にある土壙を殉葬とみなしてよいかどうか。私はそうだと考え、公正さんは含みを持たせながらも躊躇を覚えている、このようなところでしょうか。

 前方部について、先に引いた森氏の文章をもう一度読んでください。
> 箸墓の前方部頂上には、築造時の特殊器台の破片などとともに、古墳後期の須恵器「はそう」が出土していて、六世紀から七世紀初めごろまでは古墳祭祀がつづいていることは確認できる。(「はそう」は、宮内庁で実見した)

(公正さん)
>出土状況を検討しなければならないのですが、残念ながらこのはそうは発掘で出土したものではなく、単に採集されたものなのです。

 「はそう」が単に採集されたとおっしゃるその地点からは、「築造時の特殊器台の破片」も出ているんですよ。前方部で祭祀が行われなかったとしたら、この「築造時の特殊器台の破片」についてはどのような説明ができますか? また、その地点から「はそう」が「出土」しているんですよ。仮に両者に関連性がないとしても(私はそうは思わないけれど)、築造時の特殊器台の破片もまた「単に」出土しただけのことなんでしょうか?

 椿井大塚山でも、「後円部墳長だけではなく、前方部のテラスでも築造直後に小規模な祭祀が行われている。」(中島正「椿井大塚山古墳の築造過程」)

 このように、前方部でも祭祀が行われていた形跡があると言わざるを得ません。

 さて、水を湛えた周濠で隔絶されていない前方部は言わば参道の意味もあったのだろうと思います。前方部に上がって、それから後円部に進み、前方部から拝んだと思う。もちろん墳頂部での祭祀がなかったといっているのではないですよ。すくなくとも、前方部においても祭祀が行われていた形跡がある。
>前方部から遥か後円部に向かうというと「遥拝」のイメージがありますが、墓参りって、故人を埋葬してある場所まで行ってお参りするのが普通だと思いません?

 「遥拝」に限定する必要はどこにもないです。だって、前方部から入って後円部のふもとまで行って拝むのが普通でしょう。後円部のふもと、これは前方部の一部ですよね。

 余談として書きます。伊勢神宮の内宮に「御垣内参拝」というのがあります。通常は、内宮を取り囲んだ垣の外からお参りしますが、その垣の中に入ってお参りすることもできます。昨年の11月、あるツアーで行ってきました。ところが、その垣の中に入れてもらったところで、本殿へは近づけない。バス二台でのツアーだったのですが、神主さんみたいな人に案内されて、ぞろぞろと垣の中に入ったのはよいけれど、本当に垣のそばなんです。本殿へはだいぶ距離がある。で、そのツアーの代表者が僕たちより数メートル本殿に近づける。それでもまだはるかに離れている。お参りする人のランクみたいなものがあるらしいのですが、それでもほんの少しずつしか近づけないんですって。

 で、ひょっとするとですよ。(これも余談のうち)。後円部に向かってお参りするのだけれど、墳頂へ上がれるのは近親者と後継ぎ。前方部の一列目でお参りするのは親族とか行政のエライさん、二列目は友人代表、三列目以下は一般知人みたいな序列があったのかもしれない。
 
 で、公正さんがお書きになっている、「造り出し」は、前方後円墳が水を湛えた周濠によって隔絶されてからではないでしょうか。そうしますと、前方部が参道の役目を果たさなくなり、かつ高さを持つようになる。墳墓の内部へ行くために案出されたのが「造り出し」ではないでしょうか。それだと、もちろん前方部を通る必要はないでしょう。
 前方後円墳を見に行くと、一般には前方部から周濠を挟んで手前に「遥拝」するところを設けていますよね。これも、やはり前方部から上がって後円部に進んでお参りしていた時の名残ではないかと思います。

 桜井茶臼山古墳、後円部から登って前方部に下りたことがあります。墳頂は平坦だった。でも、前方部へ下りるところはけっこう急な感じがしました。
 柳本大塚古墳、前方部は畑になっています。後円部への登りは決してオーバーではなく土手を草を掴んで這い上がるような感じです。この墳頂部も平坦な感じがしました。
 いずれにしても、前方部から後円部への急登は、日常的に後円部へ上がることを前提としていないのではないか。つまり、前方部は参道でもあり、お参りするところでもあった、ということになると思います。

 「殉葬」については、また後日。(^o^)


399

Re: 補足

投稿者[ はやしらいす ] 発言日時 [9月20日(水)01時04分24秒]

元の発言 [ Re: 補足 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 9月19日(火)21時16分20秒 ]

>> >> 宮山の特殊器台が棺であった

 もともと墳丘で使われていたものが棺として転用されて墳丘の裾で出たものもあるみたいですね。
 当初から宮山特殊器台は棺として使用されていたと言うことですか?
 ホントですか?




4

Re: 三神三獣鏡について@お遊び投稿(^^)

投稿者[ kouji ] 発言日時 [9月1日(金)13時18分25秒]

池ちゃんさん、レスが遅くなり、失礼しました。

>> #koujiさんにどのような事情があるかは知りませんが、私の場合マニアックな漢字の使い方をした後は苦労します。
>> どんなマニアックかは訊かなくてもいいし、考えなくてもいいです(^O^)

 殺生です。気になってし方ありません....


>> #ところで”乳”はどのような意味があるんでしょうか?
>> 鏡が一つの宇宙という考え方でいけば、惑星なんでしょうか?

 どうでしょう?内区を四ないし六分割する目印ぐらいに考えている人が多いようですが。


>> 少なくともこの字を見て、よからぬことを想像してしまうのは、私だけでしょう(^^;)

 多分違います。もともと形状の相似からの命名でしょうし(推定)、従って想像する人は多いと推測されるところです。また、間違った想像ではないと思います....


>>  ところで、この簡略化された鏡が作られるようになった時代はどのくらいの時期なのかわかっているのでしょうか?

 三神三獣鏡は椿井大塚山古墳から出ている。椿井大塚山古墳は、『庄内式土器(弥生時代末期)に布留式土器(古墳時代初頭)が一部混在』(山城町教育委員会)する時代のものです。寺澤編年だと布留0式といわれる時代ですが、布留0式っていうのは、三角縁神獣鏡の副葬が確認される最古の時代なんです。ここからすると、布留0式のうちに、三角縁神獣鏡が生まれ、多種多様なバリエーションが派生して、さらに三神三獣鏡に収束する過程が始まることになります。最初期の三角縁神獣鏡が239年・240年の紀年鏡ですから、この当たりを起点として、多分、三世紀の第三四半期の内には、三神三獣鏡が出現していると考えていいと思います。


>> でも、回転寿司はこっちのほうがおいしいですね。
>> 何しろ、諏訪はやたら水っぽいマグロの握り(乾燥してきたから霧吹きで吹いたんでしょうね。きっと・・・)を平気で食わせる店が堂々と営業してるような土地でして。

 やっぱり東京のほうが競争が激しいんでしょうか?



400

Re: ちょっと卑弥呼の墓の形のことで

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [9月20日(水)01時06分55秒]

元の発言 [ Re: ちょっと卑弥呼の墓の形のことで ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 9月19日(火)21時32分07秒 ]

>> であれば、卑弥呼の墓は庶民のものとは「形も違い、槨がある」と書いておいて欲しかった。§^。^§

#夫餘の墓は「有槨無棺」ということですが、夫餘の王は中国の王者の如く下賜された玉匣をまとって永遠の眠りについています。
 王の墓だけとくに棺もあるとは書いてありませんが、中国式の葬礼に準じたものだったと思います。


404

Re: 横から思いつき(^○^)/~

投稿者[ 池ちゃん ] 発言日時 [9月20日(水)06時22分14秒]

元の発言 [ Re: 横から思いつき(^○^)/~ ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月19日(火)00時42分53秒 ]

 おはようございます。

>>
#私もほとんどやってませんが、音楽がすごくいいです。
あと、オープニングもイイですね。
”海”とか”青”が好きなので、とても期待できます。

>> 推古天皇は2度埋葬された・・・なんてことを
>> 以前テレビでやってましたが、その可能性はどうでしょうか?

>>
>>
 2度埋葬するという儀式は、仏教ではないような気がします。むしろ、わざわざ”2度埋葬された”と書かれている所から、儀式というよりも何かの事情があったのではないかと思うのです。
 まぁ、卑弥呼が2度埋葬されたとは思ってませんが。



405

Re: ちょっと卑弥呼の墓の形のことで

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月20日(水)07時46分02秒]

元の発言 [ Re: ちょっと卑弥呼の墓の形のことで ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月20日(水)01時06分55秒 ]

おはようございます。
また、横からですが

>> #夫餘の墓は「有槨無棺」ということですが、夫餘の王は中国の王者の如く下賜された玉匣をまとって永遠の眠りについています。
>>  王の墓だけとくに棺もあるとは書いてありませんが、中国式の葬礼に準じたものだったと思います。

張政は前方後円墳の造営工事を見ていたとすれば、日本
の古墳は中国式の地下式ではなく、地上に土を盛り、その
中に遺体ををいれるという違いを知っていたことになります。
その事について、一般人の墓を「有槨無棺」と書いてあるのならば、王のことですから、当然書かれていてもおかしくないのですが。

いかがでしょうか。



406

Re: ちょっと卑弥呼の墓の形のことで

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [9月20日(水)11時58分27秒]

元の発言 [ Re: ちょっと卑弥呼の墓の形のことで ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 9月20日(水)07時46分02秒 ]

>張政は前方後円墳の造営工事を見ていたとすれば、日本
>の古墳は中国式の地下式ではなく、地上に土を盛り、その
>中に遺体ををいれるという違いを知っていたことになります。
>その事について、一般人の墓を「有槨無棺」と書いてあるのならば、王のことですから、>当然書かれていてもおかしくないのですが。

#書かれていてもおかしくないし、書かれていなくともおかしくないと思います。

倭人の風俗を克明に観察し記録したのは張政の一行とは限りません。
「棺槨」に関する記述は夫餘や韓との比較記事ですから、倭人傳編集時にそれぞれの国の一次資料を用いて取材してまとめたものでしょう。つまり各国の風俗を比較するという目的で情報が集められたわけです。その際に執筆者は葬礼の違いに関心を持っていました。

それでは、卑彌呼の墓の造営工事を見た人物−たとえば張政本人−が墓壙内の構造に関心を持ったか?それは不明です。

「有槨無棺」を書いた人間は各国の葬礼を比較するというニーズないし関心があった。
それでは、張政はどうか?わかりません。
さらに、彼は一般人の墓が「有槨無棺」であること知っていたのか?わかりません。

あるいは、古墳の礫槨を見たら「槨」と認識したか?たぶん認識しないでしょう。
あるいは、造営工事が目撃された時点で墓壙はあったのか?たぶんまだ無いでしょう。棺を安置し、その周囲を囲うように槨を構築する。これは墳丘完成後、工事の終盤です。

庶人の墓が「有槨無棺」であるという情報を敷衍して
 卑彌呼の墓にも槨(=歴史的用語)は無い
 ゆえに槨(=現代考古学用語)を有する前方後円墳ではない
とすることには二重三重に論理の間違いがあります。


407

Re: 卑弥呼の墓の形、冢と墳

投稿者[ 大場嘉門 ] 発言日時 [9月20日(水)12時24分09秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の墓の形、冢と墳 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月20日(水)01時04分14秒 ]

おにりんさん こんにちは。

>>
この地下式古墳が三世紀頃のもので、しかも円墳であったらな〜
卑弥呼の墓とまで言わないまでも、狗奴国王の墓かも知れない…





409

Re: 横から思いつき(^○^)/~

投稿者[ くみ ] 発言日時 [9月20日(水)17時00分51秒]

元の発言 [ Re: 横から思いつき(^○^)/~ ] お名前 [ 池ちゃん ] 日付 [ 9月20日(水)06時22分14秒 ]

みなさん、こんにちは。何処に書いたらいいかわからないのでいちばん新しいところに。
明治大学の考古学博物館に「再葬墓」の展示がありました。紹介だけですいません。
http://www.meiji.ac.jp/museum/koukogaku/nenpyou1-2.html


41

Re: 伊都国独立説

投稿者[ kouji ] 発言日時 [9月4日(月)00時53分58秒]

元の発言 [ そういえば、日野陽仁さんところで、 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月3日(日)19時15分29秒 ]

 日野さんが根拠としているのは、翰苑の次の文です。

『邪届伊都、傍連斯馬』

 翰苑の利用した史料の中に魏志倭人伝が含まれていることは明白ですから、この文は、

『東南陸行五百里、到伊都國』及び『其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國』から作文されたものと考えられ、伊都国独立説の根拠にできるようなものではありません。


410

Re: 記紀以前には、文書がなかったのだろうか?

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月20日(水)20時45分47秒]

元の発言 [ Re: 記紀以前には、文書がなかったのだろうか? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月20日(水)00時56分49秒 ]

>>
>>
#刀子がある以上、漢字を扱える(文章を書ける)人間がいたのは確かですネ。
#台与ちゃんが自ら書いたかどうかは分からないけど。(^○^)




411

Re: 補足

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月20日(水)20時57分12秒]

元の発言 [ Re: 補足 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月20日(水)01時13分07秒 ]

>> #棺だと確定しているのであれば、「特殊器台」と言うは変ですネ。
>> #「器台」というのは上に(多くは祭祀壺を)乗せるためのものですよネ。
>> #「大型円筒埴輪」ならば納得します。§^。^§
>>
>>
#了解しました。

>>
>>
#特殊器台は丹塗の祭祀土器として弥生時代からあり、古墳に使うための“埴輪”の起源であるかどうかは不確定、
#まして、棺として使った例は見たことも聞いたことがありません。
#もちろん、丹塗祭祀土器が吉備で変化した可能性を否定するものではありません。



412

Re: ちょっと卑弥呼の墓の形のことで

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月20日(水)21時10分52秒]

元の発言 [ Re: ちょっと卑弥呼の墓の形のことで ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月20日(水)11時58分27秒 ]

>> 庶人の墓が「有槨無棺」であるという情報を敷衍して
>>  卑彌呼の墓にも槨(=歴史的用語)は無い
>>  ゆえに槨(=現代考古学用語)を有する前方後円墳ではない
>> とすることには二重三重に論理の間違いがあります。
#「理論の間違い」ではなく、「推論の重複」でしょう。
#中国から一枚も出土していない「三角縁鏡」を、近畿中心に分布してるから「卑弥呼の鏡」で「卑弥呼の鏡」の分布の中心が近畿だから「邪馬台国は近畿だ」というのと同じだと思います。
#揚げ足取り、失礼。m(__)m


413

Re: 殉葬について

投稿者[ はやしらいす ] 発言日時 [9月21日(木)00時03分20秒]

元の発言 [ Re: 殉葬について ] お名前 [ 公正徹也 ] 日付 [ 9月19日(火)02時06分36秒 ]

 公正さん、こんばんは。きょうは殉葬と平原の性格について考えてみたいと思います。

> 被葬者の死から時を隔てて主墳の一角に埋葬される場合、原田大六は「陪葬」と呼んで区別したことはご存知かと思います。

 私の先の引き方が説明不足でした。原田氏は、一号墓の南の方墳(柳田氏の図の二号墓です)を陪葬と言っていると思います。大事なところだと思うのでもう一度引きます。
 次に同氏の『実在した神話』(学生社)から。
> 殉葬墓と考えられる土壙が、墓域内および排水溝の内部に見受けられた。墓域内のは、主人公の方形土壙の南側に土壙壁を切ってと、二の鳥居の南側で墳墓の前面のほぼ中央とにひとつづつあり、どちらも楕円形で内部に積石が認められた。 排水溝内には殉葬墓と陪葬墓の両者が入り組んでいるらしいが、東部と南部では不整形の大土壙が掘られていて、一緒に数人を埋葬したもののようである。以上の墓壙が殉死者であるかどうかは、この遺跡の状態だけからは解明されないが、
>1.陪葬と考えられる墳墓が別に存在すること。
>2.弥生古墳(1号墓)の東側に接して存在する三世紀の古墳(3、4号墓)が、完全な殉葬のための周溝を持ち、それがこの弥生古墳の殉葬墓の状態から変化したと考えられること。
> 以上の二点から、殉葬を認めてよいのではないかと考える。

 「陪葬と考えられる墳墓」と言っていますので、この陪葬とは、柳田氏の図にある2号墓のことではないかと思います。柳田氏は、
> 二号墓の墳丘形態が一号墓に寄添うように意図して企画され、周溝も接続する部分が幅広く掘られ、一号墓に付随し近接した年代に築造されたことを示している。
 と書いています。

> 平原1号の場合は、というより「溝内埋葬」一般にいえることですが、周溝内の堆積土中に墓壙が掘られるわけですから、当然、周溝が埋没した分だけ主体部埋葬とはタイムラグが見込まれるわけです。

 柳田氏は、土壙墓(一・六号)は溝が埋没した後に掘り込まれたと書いていますが、これは「西・北・東側に九基の土壙墓群と、周溝に重複した三基の土壙墓があり、このうちの少なくとも二基」であり、残りについては溝の埋没後とは限らない。したがって、一号墓との同時性を否定しきれていないと思います。また、上記の原田氏の引用中に、「東部と南部では不整形の大土壙が掘られていて、一緒に数人を埋葬したもののようである」とあります。骨が残っていないために推測の域を出ないところですが、数人を一緒に埋葬するとはどのような意味があったのか? 同時に死去した人たちであったはずですし、ひとりひとりのお墓を作ってもらっていない。奴婢の殉葬を想起させるのではないでしょうか。
 先に私は以下のように書きました。
>つまり、遺構そのものは古くからあり、そこに新しく主体部の埋葬と周溝への殉葬が行われた。したがって覆土を改めて掘り込んだと考えることができないでしょうか。
 この改めて掘り込んだ二例を除いても、一号主体部との同時性を否定しきれない土壙墓が存在しています。

 さて、今日一日、柳田氏の「平原王墓の性格」中の平原墳墓群配置図を見ていて、ちょっとした発見をしました。まず鳥居、一号墓、大柱、異形建物との関係はほぼ一直線です。一号墓を埋葬した方形区画からは、大柱によって一年に一度あるいは二度、太陽が昇るのが隠される日がある。この日が祭祀の日であった。これは一号墓が埋葬された方形区画が、埋葬以前から祭祀施設であったことを窺わせる。一号墓は非常に浅く埋められているので盛り土があったと考えられています。盛り土があれば、この大柱があっても祭祀施設としては機能しにくい。逆にいえば、一号墓が埋葬された時点でこの方形区画もまた祭祀施設としての機能を失ったことになります。

 この一号墓の方形区画の東にある五号墓。これは一号墓より古そうです。そしてこの五号墓にも大柱遺構があります。つまり、一号墓以前からこの平原は太陽祭祀の場所であり、五号墓を埋葬した隅丸方形墳丘墓もまた、埋葬以前は、被葬者が主宰する祭祀施設だったのではないでしょうか。ただし、方角が微妙に違っております。一号墓は、大柱に太陽が隠れる日は1998年は10月20日だったらしいですが、この五号墓と、その大柱を結ぶ線は真東からやや北東かもしれないです。これだと春分、秋分あるいはむしろ夏至に近い頃だったかもしれないです。したがって、一号墓と五号墓とは祭祀の日は違っていたのではないかと思います。
 で、五号墓を埋葬する祭祀施設は、主宰者がその施設内に埋葬されることによって役割を終えた。それから、連続的したか、タイムラグがあったかはいまのところ何とも言えないですが、次の祭祀者が新たに祭祀施設をその隣につくり祭祀を行ない、この祭祀施設もまた、主宰者の死によって役割を閉じたのではないかと思います。
 で、この一号墓に埋葬された主宰者は、その副葬品から女性であり、かつ女王と呼ぶにふさわしい。
 さらに、いまのところ、この次の時代の祭祀者がこの遺跡周辺には見つかっていない。
 以下はひとりごと、臺與はどこで祭祀を行なっていたんだろう?(^o^)

> 森将軍塚古墳は丘陵上に築造された古墳であり、周溝はありません。周辺埋葬がおこなわれたのは墳裾の周り、すなわち墳丘内ではなく、墳丘の周りの平坦面です。内訳は、箱式石棺64基、円筒埴輪棺12基、土壙墓2基です。
> これらの年代については、その出土遺物から、5世紀代を中心とするものと考えられているようです。

どうもありがとうございます。きょう偶然にも金達寿『日本の中の朝鮮文化8:駿河・甲斐・信濃・尾張』を見ていたらこの古墳に言及していて「典型的な高句麗様式の積石塚古墳である」と書いています。「篠ノ井の川柳将軍塚古墳も、それとまったく同じものなのである」とも書いています。
 このあたりどう思われますか? 


415

Re: ちょっと卑弥呼の墓の形のことで

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月21日(木)01時04分53秒]

元の発言 [ Re: ちょっと卑弥呼の墓の形のことで ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月20日(水)11時58分27秒 ]

ぼくも揚げ足取りみたいになってしまいますが...
倭人の風俗を克明に観察し記録したのは張政の一行とは限りません。
張政が構造に関心があったかどうかは不明といいながら、たぶん認識しないでしょう
とか、墓壙はあったのか?たぶんまだ無いでしょうという、推論の前提をもってきて
いるのですから。
たしかに、「有槨無棺」から、槨(=現代考古学用語)を有する前方後円墳ではない
と決め付けていいのかどうかわかりませんが、だからと言って、一言に二重三重の論
理の間違いがあるとは言えないのでは。



416

Re: ちょっと卑弥呼の墓の形のことで

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [9月21日(木)10時25分02秒]

元の発言 [ Re: ちょっと卑弥呼の墓の形のことで ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 9月21日(木)01時04分53秒 ]


>> ぼくも揚げ足取りみたいになってしまいますが...
>> 倭人の風俗を克明に観察し記録したのは張政の一行とは限りません。
>> 張政が構造に関心があったかどうかは不明といいながら、たぶん認識しないでしょう
>> とか、墓壙はあったのか?たぶんまだ無いでしょうという、推論の前提をもってきて
>> いるのですから。
>> たしかに、「有槨無棺」から、槨(=現代考古学用語)を有する前方後円墳ではない
>> と決め付けていいのかどうかわかりませんが、だからと言って、一言に二重三重の論
>> 理の間違いがあるとは言えないのでは。

う〜ん…
 たぶん、その考え方じたい論理上の混乱があるんですよ。

たとえば《一般人の墓と構造が違うならば、特筆されているに違いないから、原則的に卑彌呼の墓は「有槨無棺」と考えるべきだ》と言うためには
 どうしても必要条件として
 「徑百餘歩」と報告した人が
   ○内部構造も見ている
   ○墓室の構造に関心を払っている
    etc.が満たされなければなりません
従って
   ○見ているとは限らない
   ○関心を持ったとは限らない
と可能性を示すだけで、《上記》は立脚点を失うのです。

「かもしれない」×「かもしれない」=「かもかも」可能性低し
「絶対にそうだ」×「かもしれない」=「かも」可能性あり
「絶対にそうだ」×「絶対にそうだ」=「絶対そうだ」

 前提条件の中に「かもしれない」が一つでも入ったら、「絶対そうだ」「そうでないとおかしい」にはならないでしょう?
「『有槨無棺』のはずの卑彌呼の墓が前方後円墳であろう筈が無い」が論理的に誤りであることがお分かりでしょうか? つまりyaohideさんの言い回しのような「(槨があったと)書かれていてもおかしくない」だけが論理として正しいことになります。
 だから私も「書かれていても/書かれていなくても、おかしくない」と補ったわけです。

 それ以前の問題として、《現代の考古学者が言う「『槨』を持つ墳墓」が、3世紀の中国人が言う「『槨』の無い墓」に該当しない》というのも、論理の誤りです。同じ漢字を当てているだけで別の概念なのですから、これは「古代の周は共和年間には共和国だったから民主国家だ」と言うが如しです。

 論理の誤りが屋上屋を重ねていると言ったのはこういうことです。

 むろん「倭人傳には『卑彌呼の墓には槨は無い』と書かれている」というのは事実でないことは言うまでもないでしょう。つまり、一部の九州説の人の間に語り継がれる迷信の部類です。


417

Re: 卑弥呼の墓の形、冢と墳

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月21日(木)21時01分14秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の墓の形、冢と墳 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月20日(水)01時04分14秒 ]

おにりんさん、こんばんは。

>>
#板石積石室ですネ。
#地上には何も“墳”が無い。
#狗奴国の墓制でしょう。§^。^§




418

Re:おっと!

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月21日(木)21時08分38秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の墓の形、冢と墳 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 9月21日(木)21時01分14秒 ]

>> おにりんさん、こんばんは。

>> >> もっとも、南九州だと、「地下式」の古墳がありますね。日本では、地下式が非常に珍しい。

#「地下式が非常に珍しい」と言うのは完全な間違いではないけど、
#甕棺墓も、厚葬墓で墳丘を持ったものはごく少数の首長墓ですから、
#「日本では、上層階級の墓が地下式ではない」と言うのが正しいのかも。


419

Re: 補足

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月21日(木)21時13分29秒]

元の発言 [ Re: 補足 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月21日(木)00時58分32秒 ]

>> #まして、棺として使った例は見たことも聞いたことがありません。
>>
#そうかもしれませんネ。
#「特殊器台」を棺として使った例を教えて下さい。
#老婆心ながら、「円筒埴輪」ではなく「特殊器台」ですよ。




420

Re: ちょっと卑弥呼の墓の形のことで

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月21日(木)21時28分36秒]

元の発言 [ Re: ちょっと卑弥呼の墓の形のことで ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月21日(木)10時25分02秒 ]

>>  それ以前の問題として、《現代の考古学者が言う「『槨』を持つ墳墓」が、3世紀の中国人が言う「『槨』の無い墓」に該当しない》というのも、論理の誤りです。同じ漢字を当てているだけで別の概念なのですから、これは「古代の周は共和年間には共和国だったから民主国家だ」と言うが如しです。
>>  論理の誤りが屋上屋を重ねていると言ったのはこういうことです。
>>  むろん「倭人傳には『卑彌呼の墓には槨は無い』と書かれている」というのは事実でないことは言うまでもないでしょう。つまり、一部の九州説の人の間に語り継がれる迷信の部類です。
#おっしゃている主旨「推論が屋上屋を重ねている」は重々理解しておりますが、
#重なっているのは“推論”であって、“誤り”ではなく、
#意固地かもしれませんが“迷信の部類”と言われるのは心外です。§^。^§
#「迷信」や「トンデモ」という言葉に必要以上の重みを感じるのは世代の差でしょうか。
#少なくとも、セミナーやフォーラムなどで使う言葉ではありませんよネ。


421

Re: ちょっと卑弥呼の墓の形のことで

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月21日(木)21時29分49秒]

元の発言 [ Re: ちょっと卑弥呼の墓の形のことで ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月21日(木)10時25分02秒 ]

>>  それ以前の問題として、《現代の考古学者が言う「『槨』を持つ墳墓」が、3世紀の中国人が言う「『槨』の無い墓」に該当しない》というのも、論理の誤りです。

あ、すいません、これは僕知らないのです。
教えてください。

>>  むろん「倭人傳には『卑彌呼の墓には槨は無い』と書かれている」というのは事実でないことは言うまでもないでしょう。

それは、そう思います。
卑弥呼の墓がそうだとは書いてはありません。

なにぶん、資料のあまりにも少ない古代のことですから
断定はできないことがほとんどと思っています。



422

Re: 卑弥呼の墓はどれだ?

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [9月21日(木)22時10分04秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の墓はどれだ? ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 9月20日(水)00時43分39秒 ]

>> 率善中郎将さん、こんばんは

>> >> 纏向1式が寺沢庄内0、纏向2式初めが庄内1、同2式中頃が庄内
>> >> 2、同2式末(〜3式初め)が庄内3です。

>> おや?おかしいですね。
>> 寺沢庄内式は纏向2式と3式(前)を3分割して庄内1〜3式を当てていて、
>> 寺沢庄内2は、纏向2と3の境目をまたぐあたりだと思いますが。

>> 季刊考古学52号の赤塚編年表には、纏向2と3の境目にしっかりと(寺沢)庄内2
>> とかいてあります。同様の編年表が『古代史ハンドブック(新人物往来社)』に
>> ものっており、寺沢庄内2は纏向2と3にまたがる形になっています。こちらの
>> 担当はおそらくは大塚さんです。
その表自体が間違っています。各様式の指標一括資料で対応指せると、私の案の方が正しいはずです。寺沢氏の原論文(『矢部遺跡』の報告書)や、季刊考古学24の関川氏の論文を参照して下さい。
 なお、赤津次郎氏の案は、東海や関東の墳墓が相対的に古くなり過ぎる点で疑問が大きいようです。これについては、東海考古学フォーラム(第7回)三重大会『S字甕を考える』資料集所収の北島大輔「古墳出現期の広域編年」を読まれることをおすすめします。赤塚氏の影響は最近大きいようですが(狗奴国論など)、根本の部分で疑問が表明されています(前方後方墳の年代など)。


423

Re: もう一個、思いつき、

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [9月21日(木)22時35分25秒]

元の発言 [ Re: もう一個、思いつき、 ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 9月19日(火)21時23分06秒 ]

>>  似たような話は、魏志東沃沮傳にも出てきます。

>> 『新死者皆假埋之、才使覆形、皮肉盡、乃取骨置槨中。』
>> 【新な死者は皆假に之を埋め、才かに形を覆わしむ。皮肉盡きれば、乃ち骨を取り槨中に置く。】

>>  日本のモガリについては、日本書紀などを見ると専用の宮を建ててその中に遺体を祭っていたようです。モガリの宮の中で、遺体がどういう状態で置かれていたのかは分かりませんが。紀年がほぼ信用できる天武天皇のモガリでも二年に及んでいますから、ほっておかれたとすれば、ばかなり悲惨な情況を呈したでしょうね。

 先日の、卑弥呼の墓の造営期間についての意見で、最大2年、と見込んだのは、実はこの天武天皇の最長モガリ期間があったからと、また正始8〜9年の足掛け2年を想定したからです。
 なお、水野正好氏は、大王墓でも、在位期間の長い王は寿陵で規模も大きく、短い在位のものは規模が比較的小さい可能性がある、と言うことをどこかで言ってます(文献が分かったらまた投稿します)。
 あと、先日のレスの中で、墓壙の作り方で寿陵か否か分かるのか、と言う疑問がありましたが、後期古墳の横穴式石室の場合は、いずれの場合も墳丘築造途中に作っておくので(後から横から埋葬できる)別ですが、それ以前の竪穴系埋葬施設の場合は考古学者の間で議論され、ある程度の共通認識があるようです。『古代史復元』(講談社)の「古墳時代の王と民衆」の中に和田晴吾氏の書かれた古墳の埋葬施設の解説が分かりやすいと思います。これによると、構築墓壙の場合はまず寿陵とは考えられず、また掘削墓壙の場合は全てではないが寿陵と関連する可能性があるようです。このようなことが頭にあるので、近藤義郎氏は、墳丘測量図からの読み取りで、箸墓の後円部円形壇は、掘削墓壙によるものと考え、かつ寿陵であると考えたのです。なお、西殿塚では、前方部と後円部の双方に方形壇(ここでは円形ではないが)があります。後方部のは当然、二次的な埋葬施設のもので、この壇が掘削墓壙で、石室構築分の廃土による盛り土と考えられます(近藤義郎『前方後円墳観察への招待』)。しかし後円部も同様の壇です。したがって、蓋然性としては、後円部埋葬も寿陵で、掘削墓壙による壇と考えられます。箸墓も同様です。
 このような(通常の段築とは別の)墳頂の壇の存在や(掘削墓壙を示唆)、土器の変遷(布留0式古相から新相にかけて)や規模からする労働量から考えられる築造期間の長さ(何年かは不明ですが)などから、可能性として、どちらに賭けるかとすれば、箸墓は寿陵の可能性の方が大きいと考えた方がつじつまが合う、のではないでしょうか?




424

Re: 卑弥呼の墓はどれだ?

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [9月22日(金)01時13分18秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の墓はどれだ? ] お名前 [ 率善中郎将 ] 日付 [ 9月21日(木)22時10分04秒 ]

率善中郎将さん、こんばんは

>> その表自体が間違っています。各様式の指標一括資料で対応指
>> せると、私の案の方が正しいはずです。寺沢氏の原論文(『矢
>> 部遺跡』の報告書)や、季刊考古学24の関川氏の論文を参照し
>> て下さい。

こういうのは困りますねぇ。何を信じていいやらわからなくなりま
す。見つかるかどうか分かりませんが、調べてみます。


427

Title邪馬台国は九州にありうるのか?

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [9月22日(金)10時33分44秒]

 倭人傳は、倭人の風習として、灼骨の卜占が盛んに行なわれていたことを記述しています。
「其俗舉事行來、有所云爲、輒灼骨而卜、以占吉凶」
何かにつけて卜骨を灼いて吉凶を占っていたということです。

 事実、鹿骨を灼いて吉凶を占った痕跡は、韓半島南沿岸部から東日本まで広く分布しています。

 ところが出土例を西から辿っていくと、半島南岸から壱岐,対馬までは多数の卜骨が出土しているにもかかわらず、九州本島だけぽっかりと真空地帯のように欠如し、再び中国から近畿にかけて増加していきます。
 このことは、九州本島では「灼骨卜占以外の吉凶占いの方法が圧倒的に主流であった」という状況を想定するのが妥当と思われます。たとえば記紀でお馴染みの神懸かりの神託など考えられるでしょう。

 ところが、邪馬台国含む30国の配置が壱岐対馬および九州本島であるとした場合、倭人伝の「灼骨而卜」という記述は倭國の中ではマイナーな一部地域で行われていた習俗を針小棒大に書いたということにせざるを得ません。
 しかし伊都國には長期滞在する郡吏もいたでしょう。九州説で言うなら倭國の本土というべき九州本島で、考古学的に痕跡が見られないほどマイナーな風習を、上記のようにしるしていたとは考え難いものがあります。

 「とうぜん目にしていてよい筈のものの事が文献に書いてない」ということは比定地論争において重要な証拠にはなりません。たまたま見なかった/気がつかなかった/関心が無かった:ということも有り得るからです。
 しかし逆に「当地には無いと思われるものが書いてある」場合には、比定地としての適格性に大きな翳りが生じます。

 畿内説の場合、畿内には余り見られない事象について「倭國はこうだ!」と文献にとあっても破綻は生じません。伊都國に逗留してその周辺しか知らない郡関係者も当然いたのですから、そのような記述も有り得ます。
 ところが九州説の場合は、九州で見られないものが「有る!」とされた場合、これは大問題です。不公平と思われるかも知れませんが、これは九州説そのものの不利な点ですから仕方ありません。


 ひとつひとつ証拠に基づいた議論をしようとする限り、本件は端的に九州説を否定しているように思われます。


428

Re: ちょっと卑弥呼の墓の形のことで

投稿者[ kouji ] 発言日時 [9月22日(金)13時02分32秒]

元の発言 [ Re: ちょっと卑弥呼の墓の形のことで ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月21日(木)10時25分02秒 ]

>>  むろん「倭人傳には『卑彌呼の墓には槨は無い』と書かれている」というのは事実でないことは言うまでもないでしょう。つまり、一部の九州説の人の間に語り継がれる迷信の部類です。

 迷信というより、呪文とか念仏みたいなものじゃないですかね。四文字のお題目で安心立命が得られるみたいな....


429

Title佐伯有清「魏志倭人伝を読む」

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [9月22日(金)16時17分34秒]

 魏志倭人伝全文の詳細な註解を上下2冊というボリュームで展開する本書は、邪馬臺國論争参加者必携の書となるでしょう。豊富な漢籍の引用で逐条解釈に正確を期しています。
ただし原文が逐条で引かれていないのは少々不親切。

 倭人伝を不当に誹謗した例の「国民の歴史」への批判で始まるのは小気味よいが、思い出すと穢らわしいのが問題。

  佐伯有清「魏志倭人伝を読む」上下 吉川弘文館
     (現時点では上巻のみ)


430

Re: Title邪馬台国は九州にありうるのか?

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月22日(金)17時08分50秒]

元の発言 [ Title邪馬台国は九州にありうるのか? ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月22日(金)10時33分44秒 ]

>>  ところが出土例を西から辿っていくと、半島南岸から壱岐,対馬までは多数の卜骨が出土しているにもかかわらず、九州本島だけぽっかりと真空地帯のように欠如し、再び中国から近畿にかけて増加していきます。

はじめて倭人の土地に入って、灼骨卜占の吉凶占いをしているのを、壱岐、対馬で見て書いてもおかしくないでしょう。
また、それならば、常駐していた伊都国や末盧國で行われていないことに気が付いてもいいはずです。
事鬼道能惑衆
と、鬼道がなんだかよくわかっていませんが、卜占と鬼道
との関係がわからないと結論できないのではないでしょうか。
卜占と鬼道が相反するものだった場合、逆に畿内の邪馬台国はあり得ないことになるのではないでしょうか。



431

Re: あなたにレスしたのではないので、

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月22日(金)20時30分28秒]

元の発言 [ Re: ちょっと卑弥呼の墓の形のことで ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月22日(金)03時01分47秒 ]

悪しからず。


432

Re: Title邪馬台国は九州にありうるのか?

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [9月22日(金)21時01分14秒]

元の発言 [ Re: Title邪馬台国は九州にありうるのか? ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 9月22日(金)17時08分50秒 ]

>はじめて倭人の土地に入って、灼骨卜占の吉凶占いをしているのを、壱岐、対馬で見て書いてもおかしくないでしょう。
>また、それならば、常駐していた伊都国や末盧國で行われていないことに気が付いてもいいはずです。

#とうぜん気が付いてもいいはずでしょう。
 ならば、なおのこと「これが倭の風俗だ」と卜占が記録されている事実と合いません。

 もし仮に、3世紀の九州で刺青をしている人が全くいなかったと考古学的に証明されてしまったら、或いは、九州の人が皆なウェスタン・ブーツを履いていたことが証明されてしまったら、どうしますか?
 「倭人は『皆徒跣(はだし)』というのは壱岐対馬だけの話で、邪馬台国では違う」と言いますか?

 あるいは仮に、3世紀九州の箱式石棺の中から木箱状の木棺がつぎつぎと発見されて、九州に「有棺無槨」の墓なんか無いと証明されてしまったらどうします?「『有棺無槨』というのは壱岐対馬だけの話で、邪馬台国では違う」と言いますか?

 そんな姑息な言い訳はしないでしょう?(する?)


>卜占と鬼道が相反するものだった場合

#「其俗舉事行來、有所云爲、輒灼骨而卜、以占吉凶」
 と倭人伝に書かれることは決して無いでしょう。


433

Re: もう一個、思いつき、

投稿者[ kouji ] 発言日時 [9月22日(金)23時39分30秒]

元の発言 [ Re: もう一個、思いつき、 ] お名前 [ 率善中郎将 ] 日付 [ 9月21日(木)22時35分25秒 ]

 率善中郎将さん、今晩は!詳しい解説と文献の紹介には感謝いたします。参考にさせていただきます。


>> これによると、構築墓壙の場合はまず寿陵とは考えられず、また掘削墓壙の場合は全てではないが寿陵と関連する可能性があるようです。

 掘削墓壙は、必ずしも寿陵とは限らないと読み取れるのですが、それでよろしいでしょうか?


>> このようなことが頭にあるので、近藤義郎氏は、墳丘測量図からの読み取りで、箸墓の後円部円形壇は、掘削墓壙によるものと考え、かつ寿陵であると考えたのです。

 発掘されているわけではありませんから、円形壇が掘削墓壙によるということがまず推定であり、それが寿陵であるということを示すというのがまた推定です。


>>  このような(通常の段築とは別の)墳頂の壇の存在や(掘削墓壙を示唆)、土器の変遷(布留0式古相から新相にかけて)や規模からする労働量から考えられる築造期間の長さ(何年かは不明ですが)などから、可能性として、どちらに賭けるかとすれば、箸墓は寿陵の可能性の方が大きいと考えた方がつじつまが合う、のではないでしょうか?

 他の条件を考えない場合、そのように考えることに反対しようとは思いません。私は、どちらかといえば文献を主体に考えますから、卑彌呼の墓は、

1.ヤマト(邪馬臺)にあり、
2.直径150m程度の円形の塚を有し、
3.百餘人が殉葬されており、
4.247年頃以降築造が開始され、遅くとも263年頃には完成している

という風に、かなり高い蓋然性をもって推断できると考えます。これらの条件は、どれか一つを欠いても卑彌呼の墓の候補として失格だというわけではありませんが、逆にこれらに合うものほど有力な候補だとは言えると思います。
 箸墓について考えてみると、詳しい調査ができない以上、3の殉葬については何とも言えませんし、痕跡を残さない形式の殉葬も考えられる所ですが、他の三条件はほぼ満たしていると言えます。このようことは、おそらく偶然には極めて起こりにくいのではないでしょうか。


434

Re: Title邪馬台国は九州にありうるのか?

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月23日(土)01時37分52秒]

元の発言 [ Re: Title邪馬台国は九州にありうるのか? ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月22日(金)21時01分14秒 ]

>>  ならば、なおのこと「これが倭の風俗だ」と卜占が記録されている事実と合いません。

「真空地帯のように欠如」と書かれていますが、皆無だったのでしょうか。

服装など、外見ですぐわかる違いと、占いですから、
これは随分印象が違いますよ。
壱岐で占いを見、対馬でも見れば、あー倭人はこういう
占いをしているんだと、それで書いたとしても不思議ではない。
壱岐、対馬は裸足で、九州島はみんなブーツを履いていれば、それはすぐにわかるでしょう。
ところが、占いですからね。その場に立ち会わなければ
いけないのです。壱岐についたときには、当然風俗を
知りたいから、立ち合わせてもらったでしょう。
対馬もそうかもしれません。
だからといって、何も行く先々で占いの場に立ち会った
とは、考えられない。そこまでの理由はないでしょう。
また常駐していた人は、気が付いていても、別に大して
関心がなければ、壱岐や対馬ほど、「灼骨卜占」が主流
でなかったとしても、報告するほどのものと思わなかった
可能性もあります。

すいません、槨の違いがわかっていないので、なんとも。

九州に卜占の考古資料がないという理由は、なんでしょう。

九州島すべてが、当時の倭人の国ではなく、壱岐、対馬
や中国、畿内とは、まったく違う占いの文化をもった土地
ということですか。
一大卒では、すべてを畿内で決めるから、占う必要は
何もなかったということですか?

それよりも、九州(邪馬台国連合)は鬼道で、決めるか
ら卜占はあまりつかわれなかったという方が、理解しや
すいと思われますが。



435

Re: Title邪馬台国は九州にありうるのか?

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [9月23日(土)08時11分21秒]

元の発言 [ Re: Title邪馬台国は九州にありうるのか? ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 9月23日(土)01時37分52秒 ]

>> >>  ならば、なおのこと「これが倭の風俗だ」と卜占が記録されている事実と合いません。

>> 「真空地帯のように欠如」と書かれていますが、皆無だったのでしょうか。

#出土例は皆無です。

つまり、これを正当化するなら全く同じ論理で「倭人伝に書いてある×××は九州には該当するが/畿内には該当しない/畿内とは思えない/から九州説の方が妥当だ」という主張は今後一切出来ないと思ってほしいのですが、よろしいですか?


436

Title: 倭人伝の内容切り分けとその文章構造解析

投稿者[ organism ] 発言日時 [9月23日(土)09時19分14秒]

みなさん初めまして。
一週間ほどまえ某2ちゃんねるの邪馬台国についての板に、ココの掲示板の宣伝が出ていましたので覗いてみました。そして初めて倭人伝全文を読ませてもらいましたが(私は古代史とかには自分で金を出して本を買うほどの興味はありませんので・・・)、ちんぷんかんぷんで何が書いてあるのかさっぱり分かりません。

そこで、内容を自分にとって解りやすいように整理してみました。

この程度のことはすでに誰かがやっている筈なんですが、八月、九月のスレッドを一応全部拝見しましたが、漠然とは気が付いていても、誰もこのことに明確には気づいている様子がないので書き込んでみることにします。

この掲示板はレベルが大変高い・・・・・かどうかはチョットおいといて、尖っている人もいたりして、ヘンなことを言うヤツは、「基地外八強説タコ殴り」とか言う目に遭わせてもらえるそうで、大変期待しております。

ではさっそくヘンなことを書きます。

■■■■■ 第一章 切り分け ■■■■■

まず、記述内容を・・・・

A: 倭の地理および邪馬台国への行程
B: 倭の風俗習慣
C: 邪馬台国と魏との外交関係

の3種類に分類します。各分類項目はさらに、段落・区切りごとにA1、A2・・・等の数字を付けて区分されます。この他に・・・・

P: 前書きの部分
D: 一応はBに含まれるものの、その記述内容に何らかの違和感・不自然さが気になる部分(元来一つの段落と思われる部分が、このDにより分断されていると見なしうる場合は、一つの段落の各断片を、B1a、D、B1b・・・のように数字の後の小文字アルファベットで表記することにします。)

前段とか、後段とか言うのは後で説明しますので、今は無視しておいてください。ちょっと長くなりますが、ALEXさんが入力された原文を利用して書かれている内容はみなさんよくご存じの筈ですので、記号と数字の出方だけを気にしながら上から下までザット眺めてください。

============================================================


P
------------------------------------------------------------
倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。
舊百餘國、漢時有朝見者、今使譯所通三十國。

前段
============================================================
A1
------------------------------------------------------------
從郡至倭、
循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里、
始度一海、千餘里至對馬國。
其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。
所居絶島、方可四百餘里。土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。
有千餘戸、
無良田、食海物自活、乘船南北市糴。
又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、
官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。
方可三百里、多竹木叢林、
有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。
又渡一海、千餘里至末盧國、
有四千餘戸、
濱山海居、草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之。
東南陸行五百里、到伊都國、
官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。
有千餘戸、
世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。
東南至奴國百里。
官曰ji[冠凹脚儿]馬觚、副曰卑奴母離。
有二萬餘戸。
東行至不彌國百里。
官曰多模、副曰卑奴母離。
有千餘家。
南至投馬國水行二十日、
官曰彌彌、副曰彌彌那利、
可五萬餘戸。
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。
官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳[革是]、
可七萬餘戸。
自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。
次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、
次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、
次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、
次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、
次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、
次有奴國、
此女王境界所盡。
其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。
自郡至女王國萬二千餘里。

B1a
------------------------------------------------------------
男子無大小皆黥面文身。
自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。
夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害。
今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾。
諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。

D1
------------------------------------------------------------
計其道里、當在會稽、東冶之東。

B1b
------------------------------------------------------------
其風俗不淫、
男子皆露[糸介]、以木緜招頭。其衣横幅、但結束相連、略無縫。
婦人被髮屈[糸介]、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。
種禾稻、紵麻、蠶桑、緝績、出細紵、[糸兼]緜。
其地無牛馬虎豹羊鵲。
兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃。
所有無與tan[偏人旁右澹]耳、朱崖同。
倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣。
有屋室、父母兄弟臥息異處。
以朱丹塗其身體、如中國用粉也。
食飮用hen[冠竹脚邊]豆、手食。
其死、有棺無槨、封土作冢。
始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒。
已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。

D2
------------------------------------------------------------
其行來渡海詣中國、恆使一人、
不梳頭、不去[虫幾]蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人、名之爲持衰。
若行者吉善、共顧其生口財物;若有疾病、遭暴害、便欲殺之。謂其持衰不謹。

B1c
------------------------------------------------------------
出眞珠、青玉。
其山有丹、其木有[木冉]、杼、豫樟、楙櫪、投橿、烏號、楓香、
其竹篠[冠竹脚幹]、桃支。有薑、橘、椒、zeu[冠艸脚襄]荷、不知以爲滋味。
有bi[扁犬旁爾]猴、黒雉。
其俗舉事行來、有所云爲、
輒灼骨而卜、以占吉凶、先告所卜、其辭如令龜法、視火[土斥]占兆。
其會同坐起、父子男女無別、人性嗜酒。
【魏略曰:其俗不知正歳四節、但計春耕秋收爲年紀】
見大人所敬、但搏手以當跪拜。
其人壽考、或百年、或八九十年。
其俗、國大人皆四五婦、下戸或二三婦。婦人不淫、不to[偏女旁戸]忌。
不盜竊、少諍訟。
其犯法、
輕者沒其妻子、
重者滅其門戸及宗族
尊卑各有差序、足相臣服。
收租賦、有邸閣。
國國有市、交易有無、使大倭監之。
自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。
常治伊都國、於國中有如刺史。
王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。
下戸與大人相逢道路、逡巡入草;傳辭説事、或蹲或跪、兩手據地、爲之恭敬。對應聲曰噫、比如然諾。

B2
------------------------------------------------------------
其國本亦以男子爲王、
住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。
乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼、
事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。
自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食、傳辭出入。
居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞。

A2
------------------------------------------------------------
女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。
又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。
又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至。

A3
------------------------------------------------------------
參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。

後段
============================================================
C1
------------------------------------------------------------
景初二年六月、
倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都。

C2
------------------------------------------------------------
其年十二月、詔書報倭女王曰:
「制詔親魏倭王卑彌呼:
帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都市牛利奉汝所獻
男生口四人、
女生口六人、
班布二匹二丈、
以到。
汝所在踰遠、乃遣使貢獻、是汝之忠孝、我甚哀汝。
今以汝爲親魏倭王、假金印紫綬、裝封付帶方太守假授汝。
其綏撫種人、勉爲孝順。
汝來使難升米、牛利渉遠、道路勤勞、
今以難升米爲率善中郎將、牛利爲率善校尉、假銀印青綬、引見勞賜遣還。
今以
絳地交龍錦五匹
【臣松之以爲地應爲[糸弟]、漢文帝著sau[冠白脚七]衣謂之戈[糸弟]是也。此字不體、非魏朝之失、則傳冩者誤也】、
絳地suu[扁糸旁芻]粟kei[冠网厂垂中扁炎旁右剣]十張、
sen[冠艸脚倩]絳五十匹、
紺青五十匹、
答汝所獻貢直。
又特賜汝
紺地句文錦三匹、
細班華kei[冠网厂垂中扁炎旁右剣]五張、
白絹五十匹、
金八兩、
五尺刀二口、
銅鏡百枚、
眞珠、
鉛丹各五十斤、
皆裝封付難升米、牛利還到録受。
悉可以示汝國中人、使知國家哀汝、
故鄭重賜汝好物也。」

C3
------------------------------------------------------------
正始元年、
太守弓遵遣建忠校尉梯儁等
奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、并齎詔賜
金、
帛、
錦kei[冠网厂垂中扁炎旁右剣]、
刀、
鏡、
采物、
倭王因使上表答謝恩詔。

C4
------------------------------------------------------------
其四年、
倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人、
上獻
生口、
倭錦、
絳青[糸兼]、
緜衣、
丹木、
hu[扁犬旁付]、
短弓矢。
掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬。

C5
------------------------------------------------------------
其六年、
詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。

C6
------------------------------------------------------------
其八年、
太守王kui[扁斤旁頁]到官。
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状。
遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米爲檄告喩之。
卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun[扁犬旁旬]葬者奴婢百餘人。
更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。
復立卑彌呼宗女壹與、年十三爲王、國中遂定。
政等以檄告喩壹與、
壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還。
因詣臺、獻上
男女生口三十人、
貢白珠五千、
孔青大句珠二枚、
異文雜錦二十匹。

■■■■■ 第二章 構造解析 ■■■■■


■ 二の一 ■

で、ザット眺めて最初に気づく事は、この文書は前半部と後半部ではかなり性格の異なる文章であるということです。つまり前段がAとかBとかDとかがゴチャゴチャ混ざり合った一見わかりにくい構成であるのに対して、後段は実にすっきりとC1、C2、C3・・・と順番に並んでいるだけの単純な構成になっている。記述内容は年号順に使節の往来記録が並んでいるだけ。つまりこの後段部分は

「魏の公式外交記録」

をデータソースとして記述された部分であろうという推測が成り立ちます。

■ 二の二 ■

それではこんどは、前段だけを取り出して何が記述されているのかを見てみます。

○ 最初のA1には「從郡至倭」に始まる「邪馬壹國」までの”里程”および”日程”の記述が出てきます。

○ 次のB1からは倭国の風俗習慣一般についての記述が始まります。途中でDとかが出てきますが、ここではそれにはチョット目をつむって、ずっとBであるとして眺めていってください。

○ 最後にもう一度A2、A3、というのが出てきますが、その記述内容を読んでみますと、現代の我々から見ると東南アジア方面についての記述と思われる「侏儒國」とか「裸國」とかいう、およそ「邪馬壹國」とは関係のなさそうな”余計な付け足し”としか思えないことが書いてあります。おそらく編者の陳壽も同じ事を感じたから正規の記述から除外してこの位置へおいたのかもしれません。

以上を整理しますと、前段の構成は・・・・・

A:地理 + B:人文  それと  (余計な付け足し)

ということになります。

■ 二の三 ■

もう一つ考えておくべきことは、この前段のデータソースを誰が書いたのか?という問題です。それらしき人を捜すと、まず目に付くのが「伊都国」へ「往來常所駐」していた郡使(達)で、他にはそれらしき人物は見あたらないし、駐在員がいるのにわざわざ視察専門の人物を派遣するというのも不自然・・・ということで、前段は、

「郡使が提出した任地の状況報告書の類」

を元に書かれているのではないのでしょうか。これには多少の反論が予想され、「九州の伊都国に駐在するだけの郡使になぜ邪馬壹國までの行程や、そこでの王室の内情を記録できるのか?」ということですが、これに対しての回答は「郡から、伊都国およびその周辺百里ほどのところまで、実際に通行した地域は”里程”で記述されているのに対して、伝聞情報によると思われる投馬国、邪馬壹國への道筋は”日程”で記述されている」とか、「女王卑弥呼に関する前段と後段の記述のしかたが、少し後の時代に邪馬壹國を実際に訪れた張政(等)(本当に来たんでしょうか???)による多少踏み込んだC6の記述内容と比較すると、B2は伝聞情報に基づいて書ける程度の一般的な内容である」という見方もあり得ます。

■ まとめ ■

以上を総合すると「倭人伝」の基本文書構造は次のように単純明快なものであると考えられます。

┏━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━┓
┃ 前段        ┃ A:地理   ┃
┃           ┃        ┃
┃ 郡使の状況報告書  ┣━━━━━━━━┫
┃           ┃ B:人文   ┃
┃           ┃        ┃
┣━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━┫
┃ 後段        ┃ C:外交史  ┃
┃           ┃        ┃
┃ 公式外交記録    ┃        ┃
┃           ┃        ┃
┗━━━━━━━━━━━┻━━━━━━━━┛


■■■■■ ちょっと一服 ■■■■■

ここまでの第一章、第二章ではあくまでも「文書構造の客観的な解析」ということでしたが、これ以降の章には私個人の恣意的な判断による推測、すなはちトンデモという部分が含まれますので、もしレスを付けていただけるならばその点に明確に留意されるようお願いします。

■■■■■ 第三章 邪馬壹國への道 ■■■■■

ハイッ、皆さんお待ちかね「新説:邪馬壹國への道 <何で土佐やネン?>」の始まりです。

■ 三の一 元の地理資料の復元 ■

もう一度前段に戻って、地理に関する記述、本体A1と余計な付け足しA2,3を全部繋ぎ合わせてみましょう。

A1┃ 從郡至倭、
 ┃  ・
 ┃  ・
 ┃  ・
 ┃  ・
 ┃ 此女王境界所盡。
 ┃ 其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。
A2┃ 自郡至女王國萬二千餘里。
 ┃ 女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。
 ┃ 又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。
 ┃ 又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至。
A3┃ 參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。

そして全体をザット読んでみると、A1「從郡至倭」から「此女王境界所盡」までは女王國支配下の地域に関する記述、そして「其南有狗奴國」からA2部分がそれ以外の周辺地域に関する記述、最後のA3「參問倭地・・・」は倭国の地理についての「総まとめ」というかなり体裁の整った文書であることが分かります。はたしてこれが郡使が提出した原資料である「倭国の地理に関する状況報告書」なのでしょうか?・・・・・・

※ この”合成文書”のうち、「自郡至女王國萬二千餘里」の句はかなり収まりが悪いですが、これをカットして「可七萬餘戸」の後へペーストするとさらに体裁の整った文書になります。が、何の根拠もなくやたらに切ったり張ったりしまくるのも何ですので、今回は見合わせます。各自、”自分の責任”でやってみてください。

■ 三の二 そして「薩摩」へ ■

なんかこれまでとは少し違った地理的展望が開けてきたような気がします。
そこでもう一度邪馬壹國への道筋について考えてみることにしましょう。キーポイントは「投馬國」です。この「ツマ」を気合い一発エイヤッと「サツマ」に比定してしまうことにします。この「サツマ」の「サ」はどこから降って湧いたのかと言うことについてはこの掲示板を読まれるほどの方なら説明不要だと思いますが、念のため<a href=http://www.potato.ne.jp/~manabu/sakura/sakura2.htm>これについて記述してあるHP</a>へのリンクを張っておきます。
そして倭人伝に出てくる主要地名の位置・方位・距離の関係をおおざっぱにプロットしてみると、次の図のようになります(注:土佐はまだ出てきていませんが)。(表示がずれて見える方は、プラウザのフォントを等幅フォントにしてみてください)


            北九州:末盧、伊都       陸行一月
                奴、不彌        ______
             |             /      |
             |            /       |
             |           /
             |          /        邪馬壹
       水行二十日 |         /
             |        /
             |      土佐
                  /              狗奴
             投馬  /
                /
            /| / 水行十日
      四千餘里 / |/
          /
         /
       侏儒
        |
會稽東冶    |
        〜
        〜 船行一年
        |
        |
        |
        |
       裸、黒齒


この図を眺めると現代の我々の地理知識とかなり一致しているように見えます。少なくとも目をむくほどの食い違いというのは見られません。

多少問題になりそうな点についていくつか補足しておきます。

Q:水行二十日の出発点はどこか?
A:倭人伝を率直に読むと「不彌」ということになりますが、私は「末盧」でもよいのではないかと思います。いずれにしても北九州のどこかということで大した問題ではありません。

Q:北九州から薩摩までなぜ水行二十日も掛かるのか?
A:そんなこと私に聞かれても分かりません。距離だけ見ると十日ほどで行けそうにも思えるのですが、一応外洋航路なので時化で航海できない日が多いのかもしれません。

Q:「南至邪馬壹國」、すなわち邪馬壹國は薩摩の南方にあると言うことになってしまうのでは?
A:「投馬國」を薩摩に比定しうるとしても、次の疑問はそれが薩摩のどのあたりか?と言うことでしょう。これには「可五萬餘戸」というヒントがあって、これは当時としてはかなり大きな都市であったと考えられます。そうすると海に面していてしかもこれだけの人口を支えられる広さの土地と言えばやっぱり現在の国分市付近であろうと言うことになります。したがって錦江湾の一番奥から土佐へ行くためには佐多岬を越すまで”最初はずっと南へ漕ぎ続け”その後はほとんど何もしなくても黒潮に乗って四国沖まで流れ着く事になります。これは古代の人々にとって”おおざっぱに言えば南の方角”とはいえないでしょうか?

■ 三の三 なぜ「土佐」なのか ■

地名はどうでもよいのですが、投馬國を薩摩に比定すると、そこから「水行十日」でたどり着けそうなところと言えば四国南岸部と言うことになります。そこから先の「陸行一月」の邪馬壹國までのコースは分かりません。淡路島を経由していったのか?、坂出あたりから岡山へ渡ったのか?

ここで従来畿内説の立場から考えられていた他の航路と比較してみることにします。

○ 日本海廻り 出雲まで水行十日、邪馬壹まで陸行一月
このコースをとると、日程は倭人伝の記述とかなり一致するが、方角は全く一致しません。
考慮に入れておくべき事は、邪馬壹が大国出雲と対立関係にあったとするとこのコースは利用できないと言うことです。

○ 瀬戸内航路 難波津、河内まで水行十日、邪馬壹まで陸行一日????
常識的にはこのコースが一番楽なはずですが、どう考えても「陸行一月」と言う点で辻褄が合わないのが最大の難点。このコースも吉備との対立関係の有無を考慮に入れておく必要があります。

○ 太平洋廻りコース
これまでこんな事を考えた人はいたのでしょうか? 私は邪馬台国関係の本はほとんど読んだことがないので知りません。どなたか教えてください。

それにしても、現代の我々から見ると、なぜこれほど遠回りで危険と思えるコースを選んだのでしょうか? やっぱり吉備・出雲との政治的緊張のため、一時期だけこのコースを通らざるを得なかったと言うことなのでしょうかね〜?

ここでもう一つの疑問、本当に水行十日の目的地が土佐であるとすると、「土佐まで舟で来たのならば、そこからもう一度舟で紀伊水道を通って大阪湾へ入る方が、ひと月も陸行するよりズット楽なのではないか?」が出てきます。これに対する回答はかなり明確に推定できます。
この時期、邪馬壹國はその南、すなはち紀伊半島を領域とする「狗奴國」と対立関係にあったことが明記されています。したがって紀伊水道を航行することは危険であったと考えられます。とくに、もし、襲撃用の舟を隠しておくのに最適な友が島がある紀淡海峡を押さえられていたとすると通航は不可能、海峡封鎖と言うことになります。ひょっとするとこれが邪馬壹と狗奴との戦争の主要な原因なのかもしれません。

なんかこの時期、九州さらには半島・大陸との関係を維持しようとする邪馬壹にとっては周り中が敵だらけというものすごくチビシーイ状態におかれていたような気もします。まあ実際そのように書かれてあるわけですが・・・・

■■■■■ 第四章 補足 ■■■■■

ここで「前段 B:人文」の記述の中に紛れ込んだ二カ所の不審な部分について考えてみます。

D1
------------------------------------------------------------
計其道里、當在會稽、東冶之東。

D2
------------------------------------------------------------
其行來渡海詣中國、恆使一人、
不梳頭、不去[虫幾]蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人、名之爲持衰。
若行者吉善、共顧其生口財物;若有疾病、遭暴害、便欲殺之。謂其持衰不謹。

どこが不自然かというと、Bの他の部分は”倭國に来ている”中国人の目から見た倭人の様子が描かれているのに対して、この二カ所だけは”中国本土にいる”中国人の立場からの記述である点。つまり、これらの部分だけは中国本土へやってきた倭人に関する情報を元に記述されていると言うことになります。
これらが初めから「郡使が提出した倭人の風俗習慣に関する報告書」に書かれていたか、それとも陳壽が後から挿入したかは分かりません(おそらく後者でしょう)が、これらは民間情報すなはち「俗」ということでBに書き加えられたのかもしれません。
それにしても、D2はともかく、D1は変なところにコピペしてありますね〜。

<おわり>


437

Re: Title千里一寸法の陥穽

投稿者[ ハウカセ ] 発言日時 [9月23日(土)10時10分14秒]

元の発言 [ Title千里一寸法の陥穽 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月8日(金)16時49分13秒 ]

>>  後漢末に、南北に千里の距離を隔てると太陽の影一寸ぶんの違いが出るという観念が存在したことは事実であります。もちろんこれは訓古の学の中にのみ見出せるのであって、実態と遊離した思弁であると考えていることは既に述べましたが、これを応用して測地を行なえると考える者が皆無であったと証明するすべはありません。

>>  しかし、仮にこの方法で2点間の距離を実際測ったとしたらどうなるでしょうか?今回はその副作用について述べます。

>>
>> (1)千里一寸法で測ると約76kmが「千里」と出る

>>  これは事実です。
>>  出発点と終着点で夏至の日の南中時に8尺の日時計の針を垂直に立て、影の長さを測ります。2年かければ出来るでしょう。正確な東西を出すのに日時計を使用することは知られていますし、「千里が一寸」という概念を真実と思えば、これで実際の南北距離を測れると考えた人物が出てもなんの不思議もありません。

>>
>> (2)帶方から前原までおおむね「7千里」台と出る

>>  前原近辺では影の長さはおおむね1尺4寸程度になるでしょう。帶方郡を沙里院付近とすると、影の長さの差はおおむね7寸5分。7,500里と出ます。韓が4千里四方とすれば、循海岸水行7,000里あまりのうち南へは4,000里見当しか進めません。ですから、この7,000里の内訳を南へ4,000里東へ3,000里と振り分けて考えると、倭人伝の伊都國までの行程とおおむね近い数字が出ます。ここから「短里」で2,000里も南へ行けば邪馬壹國ということですから、そこでも測ったとすれば九州説完成です。
>> 大変結構です。

>>
>> (3)そこは中国でいうとどのへんか?

>>  さて当然のことながら、測定者は洛陽で影の長さが1尺6寸ということを知っています。これが基本ですから当然です。したがって、伊都國で影の長さを測ったなら、そこが洛陽の南2,000里(純粋に南北方向で)ということを瞬間的に理解します。
>>  もちろん、彼には邪馬壹國が洛陽から南北成分4,000里の位置にあることも自明です。ということは

>> (4)測定者が「短里」を使っていたとすると
>>  1里は75m程度、千里が75km程度ですから、伊都國は落陽より150kmほど、邪馬壹國は300kmほど程度の南国。ですから

>>
>> (5)倭國は揚子江よりはるかに北にある
>>  ということが自明です。会稽より200kmは北、東冶はまだまだはるか彼方です。
>>  ということは、千里一寸で距離を出した人間が本文も書いたということは有り得ない。彼は数字を出す以外のことはしていないことになります。洛陽から300km程度といえば、せいぜい合肥あたり。南国でも何でもないわけですから、彼は倭國を訪れていろいろ風俗を報告したグループとは別行動だったと考えざるを得ません。数字だけ出して忽然と消えたのでしょうか。
>>  千里一寸にこだわるなら、より合理的な解釈は『彼が平素ごく普通の1里(四百数十米)を使う人で、ただ千里一寸を使うと大幅に間違った結果が出るということを気づかなかった』というものでしょう。

>>
>>  倭人伝の本文を書いた人間は「短里」というものが存在したとは知らなかったでしょう。
>>  もちろん、知っているのは現代の一部の日本人だけです。
>>  …たぶんあらゆる時代を通じて…

私もそう思います。(byハウカセ)
私がかつて畏敬していた物理学者の竹内均が、箸墓古墳の記事の中で「昔は短里(1里=75m)で測っていた…」と記述していた。短里?を知らなかったので調べると、古田武彦氏の説であることがわかった。古田武彦氏の著作を読んでみた。その内容に違和感を覚えたので、「三国志」の里数記述を拾ってみたが、すぐにあほらしくなってやめてしまった。古田武彦氏は短里説に都合のよい部分だけを集めていたのです。しかも圧倒的に少数の!!。
短里にこだわるのなら自分で確かめて見るとよい。必ずガッカリされるだろう。「短里?」は古田氏が作り出したものです。
 邪馬台国を里数と方向を主体に論じるのは無駄だと思う。里数が正確でないのは明らかであるし、曲がりくねった道を歩いてどちらに歩いているかを知ることは不可能である。移動で方角を知るには地図のイメージが不可欠である。
 それより、人口密度、地名を論じる方が有効ではないだろうか。「倭人伝」の「戸」は何を表しているのだろうか。1戸平均5人の人数を仮定しても、九州には入りきらないようにも思うのだが。
ハウカセは古代史ファンです。歴史は素人、物理教師です


438

古代幻想

投稿者[ はやしらいす ] 発言日時 [9月23日(土)10時36分41秒]

 こんにちは。あんまり自信はありませんが、でも、ちょっとある。(^^ゞ


 日が登って日が落ちてまた朝が来る。これが一日の周期。
 月が満ちて、欠けてまた満ちる。これがひと月の周期。
 夏至を北限、冬至を南限として日の出はこの間を往復する。これが一年の周期。

 では、去年の今日、一昨年の今日、来年の今日というふうにある特定の日を定めるのにはどうしたらいいのでしょう。
 平原の一号墓に付随する大柱、五号墓に付随する大柱、これがヒントになりはしないでしょうか。
 これらは指し示す方向が違っています。一号墓では10月20日あたりらしいのですが、冬至まであと二ヶ月で太陽は折り返しますから、同じ地点から再び日が登るのはさらに二ヶ月後の2月20日あたりになります。このどちらが祭祀の日であったのかはわかりませんが、いずれにせよ、そのどちらかの過去とあるいは未来と同日であることを特定する意味をこの大柱は持っていたのではないかと思います。
 同様のことは五号墓に付随する大柱にも言えることと思います。両者は、様式こそ同一ですが、指し示す方向が異なるために祭祀の日は違っていると考えてよいし、夏至、冬至、春分、秋分といった太陽の運行に特別の意味のある日でもなさそうです。それなのに、ある特定の日を定めることの意味とはいったいなんだろうか。

 私は、それは祭祀の開始日と関わっているのではないかと思います。五号墓で初めて祭祀を執り行った日の、祭祀場から日の出の位置との直線上に大柱を立てたのではないか。一号墓でも同様。一年、二年と年数が経っても、その日はその大柱と祭祀場の中の特定の位置とが影で覆われる、あるいは太陽がその大柱によって隠されることで特定される。

 ではこの特定の日とは何を表すのか。
 これは王の即位記念日を示しているのではないだろうか。
 言わば治政何周年と言ったぐあいに。

 一号墓の場合、被葬者が祭祀を執り行うものであり、かつ王であった。五号墓の場合、盗掘を受けているのではっきりしたことは言えませんが祭祀を執り行った被葬者と王とは別の存在だったかもしれません。

 なお、この大柱跡は門田辻田遺跡(春日市)、東小田峰遺跡(夜須町)にも存在するそうです。

 さて、大和の場合、纏向石塚は古墳が削平されて現状の形になったのではなく、もとから今の形状であり、それは祭祀施設だったのではないかと思えるのですが…。


439

Re: Title邪馬台国は九州にありうるのか?

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月23日(土)14時15分50秒]

元の発言 [ Re: Title邪馬台国は九州にありうるのか? ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月23日(土)08時11分21秒 ]

>> #出土例は皆無です。

南九州では、墨書土器に卜占関係の文字があったような。
でも、骨はなかったんでしょうかね。


>> つまり、これを正当化するなら全く同じ論理で「倭人伝に書いてある×××は九州には該当するが/畿内には該当しない/畿内とは思えない/から九州説の方が妥当だ」という主張は今後一切出来ないと思ってほしいのですが、よろしいですか?

はー、よく意味がわかりません。

それより、なぜ一大卒のあたりで、発見されないか?
とても重要な位置であるにも拘わらずですよ。
当然、いろんな事を決定しなくてはいけない場所では
なかったでしょうか?
そこで、卜占関係の考古資料が出てこないということは
本当に卜占が日常的に使われていたのか?
また、畿内で卜占が使われていて、一大卒で使われてい
ない理由は何か?
そこらを考えてみたほうが、うんと面白いと思います。



440

Re: Title邪馬台国は九州にありうるのか?

投稿者[ はやしらいす ] 発言日時 [9月23日(土)16時17分24秒]

元の発言 [ Re: Title邪馬台国は九州にありうるのか? ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 9月22日(金)17時08分50秒 ]

こんにちは。

>はじめて倭人の土地に入って、灼骨卜占の吉凶占いをしているのを、壱岐、対馬で見て書いてもおかしくないでしょう。

 弥生時代の卜骨が出土した遺跡は18箇所あり、出土の卜骨総数(74点)のうち、三浦半島がほぼ半数の39点。次に多いのが、長崎県壱岐の13点なんだそうです。壱岐では「原の辻遺跡」、「カラカミ遺跡」から出ている。ともに良港で、「原の辻遺跡」は壱岐島最大の弥生遺跡で、貨泉、方格規矩鏡、漢式土器などや、一方、有鉤の銅釧、碧玉製管玉などが出ているんだそうです。(『海人の伝統』中央公論社)

 だから、私もこの島で見聞されたものが書かれていると思います。


441

Re: Title邪馬台国は九州にありうるのか?

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [9月23日(土)16時30分36秒]

元の発言 [ Re: Title邪馬台国は九州にありうるのか? ] お名前 [ はやしらいす ] 日付 [ 9月23日(土)16時17分24秒 ]

>>  だから、私もこの島で見聞されたものが書かれていると思います。

#ちょっと言葉を換えます。
この件に関して
「通過地点で見聞されたものが、倭人伝では倭全体の及ぶ風俗習慣であるかのように不正確に書かれている」
という解釈を用いるのであれば
「倭人伝には九州に特有と思われる物事の描写がある」
「ゆえに、邪馬台国は九州である」
という推論が成り立たないことになりますね?


442

Re: 倭人伝の内容切り分けとその文章構造解析

投稿者[ kouji ] 発言日時 [9月23日(土)18時58分14秒]

元の発言 [ Title: 倭人伝の内容切り分けとその文章構造解析 ] お名前 [ organism ] 日付 [ 9月23日(土)09時19分14秒 ]

はじめまして!


>> 前段
>> ============================================================
>> A1
>> ------------------------------------------------------------

(前略)

>> 自郡至女王國萬二千餘里。

>> B1a
>> ------------------------------------------------------------
>> 男子無大小皆黥面文身。
>> 自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。
>> 夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害。
>> 今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾。
>> 諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。

>> D1
>> ------------------------------------------------------------
>> 計其道里、當在會稽、東冶之東。


 「自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫」の部分は、『魏略』逸文では、「其俗男子皆點(黥面)而文〔闕「身」〕、聞其舊語、自謂太伯之後」とあります。太伯は呉世家の始祖で文身断髪をした人です。本来この部分は倭の文身の習俗の起源を呉と結び付けている部分なのです。
 B1aの部分は、倭の文身を呉・会稽の文身と関連付けている部分であり、D1に見える推断を下す根拠を示していると考えられます。全体としては、

 郡から女王国までは一万二千余里である(A1)。倭には黥面文身の習俗がありこれは呉・会稽と関連がある(B1a)。一万二千余里という道里から考えて、女王国はちょうど会稽の東冶の東に当るのである(D1)。

という風に一貫した文脈をたどれる部分ですので、ばらばらに切り離すのには賛成できません。


>> それにしても、D2はともかく、D1は変なところにコピペしてありますね〜。

 上記のとおりですので、適切な位置であると思います。


>> ○ 瀬戸内航路 難波津、河内まで水行十日、邪馬壹まで陸行一日????
>> 常識的にはこのコースが一番楽なはずですが、どう考えても「陸行一月」と言う点で辻褄が合わないのが最大の難点。

 日程記事が、魏使が来訪した際の実際の日程にもとづいて記述されたと考えれば、辻褄は合うと思います。投馬國を出港してから大阪湾に上陸したのが十日後、入京したのがそれから一月後だったのでしょう。隋使の裴世清の場合も、難波津上陸が推古十六年六月十五日、入京が八月三日となっています。


>> ○ 太平洋廻りコース
>> これまでこんな事を考えた人はいたのでしょうか? 私は邪馬台国関係の本はほとんど読んだことがないので知りません。どなたか教えてください。

 書名・著者名が思い出せませんが、九州南部から黒潮に乗って熊野にいたり、そこから北上して奈良に入るという説はあった筈です。


443

Re: Title邪馬台国は九州にありうるのか?

投稿者[ はやしらいす ] 発言日時 [9月23日(土)21時00分34秒]

元の発言 [ Re: Title邪馬台国は九州にありうるのか? ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月23日(土)16時30分36秒 ]

>「通過地点で見聞されたものが、倭人伝では倭全体の及ぶ風俗習慣であるかのように不正確に書かれている」

 陳寿にとってはこれが倭国内のどこの風俗であったかの認識には乏しかったと思いますが、倭国内の風俗であったことは考古学的にも証明された、と言うことではないでしょうか。「ああ、これは壱岐の見聞を書いているんだな」と。
 一方で、「倭の地は暖かくて冬でも野菜を生で食うし、みんなはだし」、これはちゃうやろ〜、これは史料としては使えんでしょう。


>「倭人伝には九州に特有と思われる物事の描写がある」

 これは具体的にはどのことを指しているのですか?


444

Re: Title千里一寸法の陥穽

投稿者[ kouji ] 発言日時 [9月23日(土)22時35分53秒]

元の発言 [ Re: Title千里一寸法の陥穽 ] お名前 [ ハウカセ ] 日付 [ 9月23日(土)10時10分14秒 ]

はじめまして!

>> >>  倭人伝の本文を書いた人間は「短里」というものが存在したとは知らなかったでしょう。
>> >>  もちろん、知っているのは現代の一部の日本人だけです。
>> >>  …たぶんあらゆる時代を通じて…

>> 私もそう思います。(byハウカセ)

 私もそう思います。


>> 短里にこだわるのなら自分で確かめて見るとよい。必ずガッカリされるだろう。「短里?」は古田氏が作り出したものです。

 そうなんですが、いくら事例を提示しても、迷信はなかなかなくなりません。


>>  邪馬台国を里数と方向を主体に論じるのは無駄だと思う。里数が正確でないのは明らかであるし、曲がりくねった道を歩いてどちらに歩いているかを知ることは不可能である。移動で方角を知るには地図のイメージが不可欠である。

 そうなんですが、いくらそう言っても、方位を間違った実例が提示されても、やっぱり「方位を間違うはずがない」という迷信はしぶとく生き残ります。


>>  それより、人口密度、地名を論じる方が有効ではないだろうか。「倭人伝」の「戸」は何を表しているのだろうか。1戸平均5人の人数を仮定しても、九州には入りきらないようにも思うのだが。

 そうなんですが....


>> ハウカセは古代史ファンです。歴史は素人、物理教師です

 今後とも、忌憚のない御意見を披瀝してください。宜しくお願いします。


445

Re: Title邪馬台国は九州にありうるのか?

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月24日(日)01時33分20秒]

元の発言 [ Re: Title邪馬台国は九州にありうるのか? ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月23日(土)16時30分36秒 ]

>> 「通過地点で見聞されたものが、倭人伝では倭全体の及ぶ風俗習慣であるかのように不正確に書かれている」
>> という解釈を用いるのであれば

たしか朝鮮通信使の話でも、出てきたと思いますが、
倭人の国の最初の場所では、印象がとても強いから
壱岐や対馬の記述が多くなっていると。
そのようなことから考えると、たしかに通過地点では
あるかもしれませんが、とても重要な位置をしめている
場所です。

ですから、単に通過地点と取り上げることには、無理が
あるのではないでしょうか。
壱岐、対馬、伊都国は、とても重要な場所だと思いますが。
壱岐では、現代でも卜骨を使った(実際には亀の甲羅は使わない)占いをはやっているくらいですから、相当壱岐の
人は占いが好きだったのでしょう。

最近、ずいぶん決め付けたがっているようにみえますね。
論理的という言葉が、いっぱい出てきます。
しかし、考古学的に考えれば(証拠を重視)ということですが、たった一つの発見で180度見方が変わることも
よくあることです。
伊都国のあった場所から、そのうちどっさり骨がみつかったらどうします?
あまり、それに固執すると見誤ることもあるのではないかな?


>> 「倭人伝には九州に特有と思われる物事の描写がある」
>> 「ゆえに、邪馬台国は九州である」
>> という推論が成り立たないことになりますね?



446

Re: Title邪馬台国は九州にありうるのか?

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [9月24日(日)02時45分39秒]

元の発言 [ Re: Title邪馬台国は九州にありうるのか? ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 9月24日(日)01時33分20秒 ]

>> 最近、ずいぶん決め付けたがっているようにみえますね。

#いえいえ。
 奈良に生野菜はないだろうとか、中国で一枚も出ない鏡は中国製でないとか言う方々をちょっとチョーハツしたかっただけです。最近静かなんで。

 残念ながら、そういうタイプじゃない人しかレスをくれませんねぇ。

>> 論理的という言葉が、いっぱい出てきます。

それは前からですが。

>> しかし、考古学的に考えれば(証拠を重視)ということですが、たった一つの発見で180度見方が変わることも
>> よくあることです。
>> あまり、それに固執すると見誤ることもあるのではないかな?

まぁ、そういうことが言いたいわけです。


>>
>> >> 「倭人伝には九州に特有と思われる物事の描写がある」
>> >> 「ゆえに、邪馬台国は九州である」
>> >> という推論が成り立たないことになりますね?



447

Re: 倭人伝の内容切り分けとその文章構造解析

投稿者[ organism ] 発言日時 [9月24日(日)03時20分04秒]

元の発言 [ Re: 倭人伝の内容切り分けとその文章構造解析 ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 9月23日(土)18時58分14秒 ]

早速のレスありがとうございます。

>> という風に一貫した文脈をたどれる部分ですので、ばらばらに切り離すのには賛成できません。

反論するため、もっとばらばらに切り離して見せます。木(竹)簡と冊です。

○ 当時の文書編集作業は?
いくら紙の本家中国と言えども当時は完成した文書の清書にしか使えないぐらい高価なものではなかったかと思うのですが? そして現実の文書編集現場、あるいは郡使レベルでの文書の表記には依然として木簡と冊が使われていたと想像するのは間違っているのでしょうか? もちろん日本においてはこの数世紀後でも依然として木簡が使われていますが。
文書の編集作業と言う点に関して言えばこの木簡と冊は紙に勝る利点があります。すなはち、木簡単位での差し込み、差し替えが容易である点です。間違えた字を削りとって他の文字を上書きすることもできます(最近のコンピュータのコピペ文化はつまり先祖帰りなんですね)。
したがって魏志に限らず中国の古代文献一般については、最終的に完成した「紙に書かれた文書内容の一貫性」に”かならずしも”とらわれず、木簡・冊の段階にまで還元して考える立場があってよいと考えます。

示していただいた例に則して私の立場から説明しますと、
『魏略』逸文(暇ができたらそのうち読んでみます)にある「其俗男子皆點(黥面)而文〔闕「身」〕、聞其舊語、自謂太伯之後」という(おそらくは二枚の)木簡に書かれたものは「聞其舊語」、直接言葉を聞いたという点から見て私のいう元の「郡使の報告書」に記載されていたものでしょう。
これに対して差し替えられた「自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫」と言う木簡は、昔からいつも、自分は偉いと稱して倭から使がやって来るという歴代中国の外交史を知りうる立場の人、すなはち陳壽が書いた木簡であることが推定できます。

○ 陳壽「著」とは書いてない
倭人伝には陳壽「撰」と書いてあります。これは現実に行われた作業としては、様々な原資料(もちろん冊です)を寄せ集め、それらを机の上に並べて全体の統一性を考えながら必要であると考えれば時には切り離して並べ替えたり、文脈の一貫性をとるための語句を記した木簡を挟み込んだりすると言うことではないでしょうか?



448

Title

投稿者[ ハウカセ ] 発言日時 [9月24日(日)10時10分15秒]

次の点について、先輩諸氏の御意見をお伺いしたい。

漢字を日本語の表記に利用するに当たって様々な工夫がされてきました。中国音を用いた仮名、漢字の意味に日本語の言葉を対応させた訓など。中でも訓は様々な試みがなされています。律令国家は大学寮を設けて訓表示の規格化に努めています。
さて、「大和」の起源についてご意見を伺いたい。
中国では
1:古代「倭」は日本付近を指していた。
2:日本国内の統一が進むと「倭国」と表現する。
3:「倭国」の中心が「邪馬台国」と表現する。
4:やがて「倭国」、「日本国」が使われる。
日本では
1:古くは「倭」は「日本」を指していた。(倭王武)
2:推古朝頃には「倭」は主に「奈良地方」、一部に「日本」を指し、「やまと」と読んでいた。
3:天智、天武朝には「大倭」は「奈良地方」を指す。
4:その後、国号を「大倭国」から「大養徳国」に代わり、「大和国」に変わる。
5:中世には国号「日本国」に代わり「大和」は奈良地方を指す。
文化面でも、中国風を示す「唐…」に対して、日本様式を「大和…」「倭…」(いづれもヤマトと読む)。
*今、研究ノートが見つからないので、細部の記述が正確さに欠けるかも知れません。

「大和」の訓「やまと」の起源は、「邪馬台国」論争の一つの枝になってよいと思います。


449

Re: Title

投稿者[ ハウカセ ] 発言日時 [9月24日(日)10時31分46秒]

元の発言 [ Title ] お名前 [ ハウカセ ] 日付 [ 9月24日(日)10時10分15秒 ]

>> 「大和」の訓「やまと」の起源は、「邪馬台国」論争の一つの枝になってよいと思います。

すいません、私の意見を入れるのを忘れました。
私は、「倭」にその実体をなす「やまと(邪馬台)」の音を結びつけたものだと思います。


45

Re: Title 新説「北部九州玄海灘沿岸地域は倭国ではなかった!」

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月4日(月)06時27分15秒]

元の発言 [ Re: Title 新説「北部九州玄海灘沿岸地域は倭国ではなかった!」 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月4日(月)01時27分30秒 ]


>その結果、瀬戸内海地域と山陰と一部北陸などが、協同して、なんらかの対応をとら
なければならないということになったのでしょう。南九州などもこの際に参画しているように
思われます。こうして、玄海灘諸国を除く、西日本から、東海、関東全域を含めた大きな
連合できて、その拠点として、東海、関東などの東日本への窓口といって良い地域の、
大和が選ばれた。そして、ここに新都作りが行なわれた

#で、投馬国、狗奴国はどこになるんですか?




451

Re: 大和はなぜヤマトと読むの:どう考えます

投稿者[ ハウカセ ] 発言日時 [9月24日(日)15時16分20秒]

元の発言 [ Re: Title ] お名前 [ ハウカセ ] 日付 [ 9月24日(日)10時31分46秒 ]

>> >> 「大和」の訓「やまと」の起源は、「邪馬台国」論争の一つの枝になってよいと思います。

>> すいません、私の意見を入れるのを忘れました。
>> 私は、「倭」にその実体をなす「やまと(邪馬台)」の音を結びつけたものだと思います。

 魏志倭人伝の邪馬台国の時代から現代まで、縄文から弥生に移行するような文化的な不連続はない。中国文献の「倭、邪馬台」と日本の「倭…やまと…大和…奈良地方」の変化を考えれば、邪馬台国から大和地方への変化を考えるのが普通だと思いますが、いかがでしょうか。

初めての投稿でご迷惑をおかけしています。タイトル名を忘れたので入れておきます。ヨロシクお願いします。


452

卜骨

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月24日(日)15時22分39秒]

庄内並行期とされる遺跡は、全国でも少ないようですが
マキムクから大量の卜骨は出ているのでしょうか?

倭人伝から、卜骨がマキムクから大量に出ているので
あれば、位地比定において、畿内有利にはなりますが
はやしらいすさんの投稿から、出土の約半分が三浦半島
との事で、それだけなら三浦半島が邪馬台国になるわけ
で。
伊都国の位置は、大体比定されているところでよいとすると
一大率のあったと思われるところから出てこない。
警察機構のようなものだと推測すれば、別に占う必要は
ないかとも思われるが、本体の邪馬台国からあまり遠くては
連絡に時間がかかりすぎるので、ある程度は伊都国で結論を
だすものがあったのではと思われます。

伊都国王の権限と一大率の権力のどちらが上位か考えれば
権力としては一大率のほうが、上に位置するのではないでしょうか。

物事の決断をする場合に、伊都国王の祭祀というか、占いで決める
ことより、邪馬台国出張所の一大率の占いで決めることが
多かったのではと思います。

伊都国で卜骨が出ない理由は、遺跡がみつかっていないという
単純な理由か、もし本当に残っていないのならば、使わなかった。
つまり、倭人伝に書かれているほど、邪馬台国は卜骨を使って
いなかったのではないか。それとも、すべて邪馬台国本部の意向
で動いていたのか。その場合は、畿内では少し時間がかかりすぎる
という問題が出てきます。

どうだったのでしょうね?



453

Re: もう一個、思いつき、

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [9月24日(日)17時26分49秒]

元の発言 [ Re: もう一個、思いつき、 ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 9月22日(金)23時39分30秒 ]

>>  掘削墓壙は、必ずしも寿陵とは限らないと読み取れるのですが、それでよろしいでしょうか?
そうなのですが、寿陵が想定できる場合が多い、ということです。掘削墓壙でも、いくつかの類型があり、寿陵と言える場合と、必ずしもそうとは言えない場合があるようです。
>>
>> >> このようなことが頭にあるので、近藤義郎氏は、墳丘測量図からの読み取りで、箸墓の後円部円形壇は、掘削墓壙によるものと考え、かつ寿陵であると考えたのです。

>>  発掘されているわけではありませんから、円形壇が掘削墓壙によるということがまず推定であり、それが寿陵であるということを示すというのがまた推定です。

>>
>> >>  このような(通常の段築とは別の)墳頂の壇の存在や(掘削墓壙を示唆)、土器の変遷(布留0式古相から新相にかけて)や規模からする労働量から考えられる築造期間の長さ(何年かは不明ですが)などから、可能性として、どちらに賭けるかとすれば、箸墓は寿陵の可能性の方が大きいと考えた方がつじつまが合う、のではないでしょうか?

>>  他の条件を考えない場合、そのように考えることに反対しようとは思いません。私は、どちらかといえば文献を主体に考えますから、卑彌呼の墓は、

>> 1.ヤマト(邪馬臺)にあり、
>> 2.直径150m程度の円形の塚を有し、
>> 3.百餘人が殉葬されており、
>> 4.247年頃以降築造が開始され、遅くとも263年頃には完成している

>> という風に、かなり高い蓋然性をもって推断できると考えます。これらの条件は、どれか一つを欠いても卑彌呼の墓の候補として失格だというわけではありませんが、逆にこれらに合うものほど有力な候補だとは言えると思います。
>>  箸墓について考えてみると、詳しい調査ができない以上、3の殉葬については何とも言えませんし、痕跡を残さない形式の殉葬も考えられる所ですが、他の三条件はほぼ満たしていると言えます。このようことは、おそらく偶然には極めて起こりにくいのではないでしょうか。
#わたしは、考古学的に、箸墓が寿陵の可能性の方が大きいので、koujiさんも認めるように、倭人伝からは卑弥呼の墓は死後築造の可能性が高いので、この一致はむしろ偶然と考えます。死後16年も葬ることがないと言うのも不自然ですし、、問題は「百余歩」ですが、箸墓が考古学的に合致しないとすれば、ある種の誇張表現ないし慣用表現とみなす方が蓋然性があると思います。
 でも、箸墓が寿陵とする推定は、確かにあくまでも蓋然性の高い推定というにすぎないし、結論とは考えないので、koujiさんの説が成立する余地は認めます。結局、調査しないと分からないですね。


454

Re: ちょっと卑弥呼の墓の形のことで

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月24日(日)20時29分51秒]

元の発言 [ Re: ちょっと卑弥呼の墓の形のことで ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 9月22日(金)13時02分32秒 ]

>> >>  むろん「倭人傳には『卑彌呼の墓には槨は無い』と書かれている」というのは事実でないことは言うまでもないでしょう。つまり、一部の九州説の人の間に語り継がれる迷信の部類です。
>>  迷信というより、呪文とか念仏みたいなものじゃないですかね。四文字のお題目で安心立命が得られるみたいな....
(T_T)(ーー;)(-_-;)/~




455

Re: 倭人伝の内容切り分けとその文章構造解析

投稿者[ kouji ] 発言日時 [9月24日(日)22時04分19秒]

元の発言 [ Re: 倭人伝の内容切り分けとその文章構造解析 ] お名前 [ organism ] 日付 [ 9月24日(日)03時20分04秒 ]

 今晩は!

>> 早速のレスありがとうございます。

>> >> という風に一貫した文脈をたどれる部分ですので、ばらばらに切り離すのには賛成できません。

>> 反論するため、もっとばらばらに切り離して見せます。木(竹)簡と冊です。

 反論になっていないようです。わたしは、


>>D1は変なところにコピペしてありますね〜

なんてことはないと申し上げているのです。


>> 示していただいた例に則して私の立場から説明しますと、
>> 『魏略』逸文(暇ができたらそのうち読んでみます)にある「其俗男子皆點(黥面)而文〔闕「身」〕、聞其舊語、自謂太伯之後」という(おそらくは二枚の)木簡に書かれたものは「聞其舊語」、直接言葉を聞いたという点から見て私のいう元の「郡使の報告書」に記載されていたものでしょう。

 そうとばかりは言えないのではないでしょうか。中国において倭の使者が語った「舊語」である可能性は充分にあります。


>> これに対して差し替えられた「自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫」と言う木簡は、昔からいつも、自分は偉いと稱して倭から使がやって来るという歴代中国の外交史を知りうる立場の人、すなはち陳壽が書いた木簡であることが推定できます。

 この部分が陳壽による補筆である可能性は充分あります。それがどうしたのでしょう?


>> ○ 陳壽「著」とは書いてない
>> 倭人伝には陳壽「撰」と書いてあります。これは現実に行われた作業としては、様々な原資料(もちろん冊です)を寄せ集め、それらを机の上に並べて全体の統一性を考えながら必要であると考えれば時には切り離して並べ替えたり、文脈の一貫性をとるための語句を記した木簡を挟み込んだりすると言うことではないでしょうか?

 そうですよ。当然でしょう。だからどうしたのですか?問題の部分はきちんと配列されていると申しております。もう一度問題の部分を引用します。


>> A1
>> ------------------------------------------------------------
>> 從郡至倭、
(中略)
>> 自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。
(中略)
>> 自郡至女王國萬二千餘里。

>> B1a
>> ------------------------------------------------------------
>> 男子無大小皆黥面文身。
>> 自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。
>> 夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害。
>> 今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾。
>> 諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。

>> D1
>> ------------------------------------------------------------
>> 計其道里、當在會稽、東冶之東。


 D1に見える「道里」はA1に「女王國より以北は、其の戸數・道里を略載するを得るべくも」とある「道里」を指しており、その総計は「郡より女王國に至る萬二千餘里」です。D1において「計」られているのは、A1の「道里」そのものであり、その結果「ちょうど會稽の東冶の東に在る」という結論が導かれているのです。D1がA1をうけたものであることは明白でしょう?
 そしてその間にあるB1aでは、倭の黥面文身の風俗を取り上げて、その本来の目的は会稽の断髪文身と同じであると書かれています。さらに魏略を参照すると、この部分では、本来、倭人が呉の太伯の後であるという伝承を有していたことも取り上げられていたことが分かるわけです。A1とD1の関係がわかれば、B1aが何故ここにあるのかも了解できるでしょう?


456

Re: 倭人伝の内容切り分けとその文章構造解析

投稿者[ organism ] 発言日時 [9月25日(月)03時42分43秒]

元の発言 [ Re: 倭人伝の内容切り分けとその文章構造解析 ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 9月24日(日)22時04分19秒 ]

おはようございます。

>> >>D1は変なところにコピペしてありますね〜

>> なんてことはないと申し上げているのです。

ここにコピペしてある理由に関しては了解しました。
ありがとうございます。

>> >> 『魏略』逸文(暇ができたらそのうち読んでみます)にある「其俗男子皆點(黥面)而文〔闕「身」〕、聞其舊語、自謂太伯之後」という(おそらくは二枚の)木簡に書かれたものは「聞其舊語」、直接言葉を聞いたという点から見て私のいう元の「郡使の報告書」に記載されていたものでしょう。

>>  そうとばかりは言えないのではないでしょうか。中国において倭の使者が語った「舊語」である可能性は充分にあります。

中国においての倭の使者についての観察であるとすると、「其俗男子皆・・・聞其舊語」と続いてくる文脈の冒頭と一致しなくなりますが?


>> >> これに対して差し替えられた「自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫」と言う木簡は、昔からいつも、自分は偉いと稱して倭から使がやって来るという歴代中国の外交史を知りうる立場の人、すなはち陳壽が書いた木簡であることが推定できます。

>>  この部分が陳壽による補筆である可能性は充分あります。それがどうしたのでしょう?

1 最初、私は内容を区分して(ばらばらにして)解釈することを提唱しました。
2 そして「>>ばらばらに切り離すのには賛成できません」と言うレスをいただきました。
3 私は再度「木簡と冊に還元して」バラバラにして考えることの妥当性を示唆しました。
4 そして「補筆である可能性は充分あります」すなわちバラバラにして考えることが妥当であるとの回答をいただきました。

で、結局は、ばらばらにして考えて差し支えないということですね。
・・・あれれ、いつの間に論理がひっくり返ったんでしょう?


>> >> ○ 陳壽「著」とは書いてない
>> >> 倭人伝には陳壽「撰」と書いてあります。これは現実に行われた作業としては、様々な原資料(もちろん冊です)を寄せ集め、それらを机の上に並べて全体の統一性を考えながら必要であると考えれば時には切り離して並べ替えたり、文脈の一貫性をとるための語句を記した木簡を挟み込んだりすると言うことではないでしょうか?

>>  そうですよ。当然でしょう。だからどうしたのですか?問題の部分はきちんと配列されていると申しております。もう一度問題の部分を引用します。(以下略)

A1からD1に至る「問題の部分はきちんと配列されていると申しております。」とおっしゃられる部分に関して”のみ”は整合性がある文章であることは了解しました。

最初、私が問題にしているのは、私が「余計な付け足し」と読んでいるA2にある「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。」と言う倭国の周辺情報は、A1にある「自女王國以北、・・・其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。」という倭国の周辺情報と種別が類似していることです。
なぜ類似した情報が別々のところへ書かれねばならないのでしょう?

この問題に関して私が出した仮説がA1とA2,A3を繋ぎ合わせると、”地理に関しては”より一貫性のある文章になるということです。

この考え方のどこがおかしいのでしょうか?

A2
------------------------------------------------------------
女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。
又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。
又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至。

A3
------------------------------------------------------------
參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。

# 明日から仕事でしばらく掲示板は見られなくなります。なるべく努力してどこかで端末を探して見ますが、レスが遅れるかもしれません。あしからず
# 決して逃げるわけではありません。ほかにも「桃太郎に退治された赤鬼青鬼とは黥面文身のことか?」とか「卑弥呼は実際にはずっと前に死んでいたのではないか?」とか言うような論議してみたいテーマを持っていますので・・・・



457

Re: Title邪馬台国は九州にありうるのか?

投稿者[ 馬 詐 ] 発言日時 [9月25日(月)11時31分09秒]

元の発言 [ Re: Title邪馬台国は九州にありうるのか? ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月24日(日)02時45分39秒 ]

>>  残念ながら、そういうタイプじゃない人しかレスをくれませんねぇ。

そういうタイプじゃない人です(笑)が。
まあ、基本的に中国大陸に近い風俗は特記する必要がなかった、というのはダメでしょうか?
例えば鬼道なんかは、五斗米道とかと共通点があって、あえて詳しく書かなくても「鬼道」と書けば通じるとか。
卜骨は、既に大陸では廃れた風俗なんで「おおっ珍しい、まだこんなことやってるのか!」ってな感じで記録されたとか。

逆に言えば九州であろうと関西であろうと、中華文明の影響を強く受けた、いわば「中心地」では、大陸と似た風俗があっても記録は省略されたのではないでしょうか?

あっ、しまった、だとすると「其の人華夏に同じ」はどうしよう…


458

Re: 倭人伝の内容切り分けとその文章構造解析

投稿者[ kouji ] 発言日時 [9月25日(月)12時18分12秒]

元の発言 [ Re: 倭人伝の内容切り分けとその文章構造解析 ] お名前 [ organism ] 日付 [ 9月25日(月)03時42分43秒 ]

今日は!


>> >> >> 『魏略』逸文(暇ができたらそのうち読んでみます)にある「其俗男子皆點(黥面)而文〔闕「身」〕、聞其舊語、自謂太伯之後」という(おそらくは二枚の)木簡に書かれたものは「聞其舊語」、直接言葉を聞いたという点から見て私のいう元の「郡使の報告書」に記載されていたものでしょう。

>> >>  そうとばかりは言えないのではないでしょうか。中国において倭の使者が語った「舊語」である可能性は充分にあります。

>> 中国においての倭の使者についての観察であるとすると、「其俗男子皆・・・聞其舊語」と続いてくる文脈の冒頭と一致しなくなりますが?

 そうですね。どうかしましたか?


>> >> >> これに対して差し替えられた「自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫」と言う木簡は、昔からいつも、自分は偉いと稱して倭から使がやって来るという歴代中国の外交史を知りうる立場の人、すなはち陳壽が書いた木簡であることが推定できます。

>> >>  この部分が陳壽による補筆である可能性は充分あります。それがどうしたのでしょう?

>> 1 最初、私は内容を区分して(ばらばらにして)解釈することを提唱しました。
>> 2 そして「>>ばらばらに切り離すのには賛成できません」と言うレスをいただきました。
>> 3 私は再度「木簡と冊に還元して」バラバラにして考えることの妥当性を示唆しました。
>> 4 そして「補筆である可能性は充分あります」すなわちバラバラにして考えることが妥当であるとの回答をいただきました。

>> で、結局は、ばらばらにして考えて差し支えないということですね。
>> ・・・あれれ、いつの間に論理がひっくり返ったんでしょう?

 私は、魏志倭人伝を内容に応じて区分することも、魏志倭人伝の個々の部分についてどのような史料によったのかを考えながら考証を加えることも否定していません。むしろ当然のことだと思います。また、両者にある程度相関があることも肯定します。但し、細部については、いろいろな材料が入り込んでいるのが実態だとも思います。いろいろな材料を内容に応じて並べて作製されたものだから、一連の内容になっているからすべて同じ材料によっているとは限らないわけです。
 それを前提とした上で、もっと具体的な話をしているつもりです。
 まず、魏志倭人伝が内容的にみて、大きくは、「周旋可五千餘里」以前の部分と「景初三年六月」以後に分けれられると言うのはそれでいいと思います。「周旋可五千餘里」以前については、魏略の逸文が地理記述を中心に風俗記事についても幾つか残っているので、魏志倭人伝成立以前に存在していた編纂物をほぼそのまま踏襲していると考えられます。これに対し「景初三年六月」以後は、陳壽が補足した部分である可能性が高いと言えます。建忠校尉梯儁や塞曹掾史張政は勅命を執行するために派遣されていますから、彼等の復命を受けて郡が作製した報告書が洛陽に提出されているはずです。陳壽が「景初三年六月」以下の部分を補足するのに利用した史料としては、こうした郡の報告書や起居注・詔書の控等が考えられます。魏志倭人伝の材料として陳壽が利用したのは、出来合いの編纂物と、郡の報告書・起居注・詔書の控等の一次史料に分けられ、「周旋可五千餘里」以前は編纂物を主とし、「景初三年六月」以下は主として一次史料によったと考えられます。
 これが何を意味するかというと、「周旋可五千餘里」以前は、部分的には魏志倭人伝への収録の時点で陳壽が手をいれているにしても、概ね独立して完結している文章であると考えられるわけです。このような観点から、「周旋可五千餘里」以前の部分を見てみると、内容的には大きく次のように分けられます。

1)
 倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者、今使譯所通三十國。

2)
 從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里、始度一海、千餘里至對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百餘里。土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸、無良田、食海物自活、乘船南北市糴。
 又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里、多竹木叢林、有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。
 又渡一海、千餘里至末盧國、有四千餘戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之。
 東南陸行五百里、到伊都國、官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸、世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。
 東南至奴國百里。官曰ji[冠凹脚儿]馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。
 東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。
 南至投馬國水行二十日、官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸。
 南至邪馬臺國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳[革是]、可七萬餘戸。
 自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國、此女王境界所盡。
 其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。
 自郡至女王國萬二千餘里。
 男子無大小皆黥面文身。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害。今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾。諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。
 計其道里、當在會稽、東冶之東。

3)
 其風俗不淫、男子皆露[糸介]、以木緜招頭。其衣横幅、但結束相連、略無縫。婦人被髮屈[糸介]、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。種禾稻、紵麻、蠶桑、緝績、出細紵、[糸兼]緜。其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃。所有無與tan[偏人旁右澹]耳、朱崖同。
 倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣。有屋室、父母兄弟臥息異處。以朱丹塗其身體、如中國用粉也。食飮用hen[冠竹脚邊]豆、手食。
 其死、有棺無槨、封土作冢。始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒。已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。
 其行來渡海詣中國、恆使一人、不梳頭、不去[虫幾]蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人、名之爲持衰。若行者吉善、共顧其生口財物;若有疾病、遭暴害、便欲殺之。謂其持衰不謹。
 出眞珠、青玉。其山有丹、其木有[木冉]、杼、豫樟、楙櫪、投橿、烏號、楓香、其竹篠[冠竹脚幹]、桃支。有薑、橘、椒、zeu[冠艸脚襄]荷、不知以爲滋味。有bi[扁犬旁爾]猴、黒雉。
 其俗舉事行來、有所云爲、輒灼骨而卜、以占吉凶、先告所卜、其辭如令龜法、視火[土斥]占兆。
 其會同坐起、父子男女無別、人性嗜酒。【魏略曰:其俗不知正歳四節、但計春耕秋收爲年紀】見大人所敬、但搏手以當跪拜。其人壽考、或百年、或八九十年。其俗、國大人皆四五婦、下戸或二三婦。婦人不淫、不to[偏女旁戸]忌。不盜竊、少諍訟。其犯法、輕者沒其妻子、重者滅其門戸。及宗族尊卑各有差序、足相臣服。
 收租賦、有邸閣。國國有市、交易有無、使大倭監之。自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。
 下戸與大人相逢道路、逡巡入草;傳辭説事、或蹲或跪、兩手據地、爲之恭敬。對應聲曰噫、比如然諾。
 其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞。

4)
 女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至。參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。


 organismさんの区切りと、以前に問題にした部分を別にすればほとんど同じです。2)と4)はともに地理記述であるという点は、御指摘のとおりですが、ではこの配列が不自然なのかといえば、そうではないと思います。ここは、全体としては、

1)序文。
2)倭国の地理の記述。
3)倭国の風俗習慣・政治制度・女王の即位と生活に関する記述。
4)倭国の周辺地域に関する記述。

という風に配列されていると考えられます。「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」は何なんだという疑問が出ようかと思いますが、これは「五千餘里」の中身を考えれば理解できます。郡から倭地が始まる對馬国までは八千余里あります。従って、對馬國から邪馬臺國(女王國)までが四千余里になります。これに「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」とある倭種の国までの千余里を足すと、丁度五千余里になります。つまり、「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」という場合の「倭地」は、對馬國から女王國をへて東の倭種の国まで含まれており、その全体の長さが五千余里であると考えられます。だから、4)の末尾に締めくくりとして記述されているのでしょう。


>> 最初、私が問題にしているのは、私が「余計な付け足し」と読んでいるA2にある「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。」と言う倭国の周辺情報は、A1にある「自女王國以北、・・・其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。」という倭国の周辺情報と種別が類似していることです。
>> なぜ類似した情報が別々のところへ書かれねばならないのでしょう?

 狗奴国がどうして上記の2)のグループに属しているのかが問題だということになりますね。狗奴国は女王に服していないわけですが、そのことが問題になること自体、理念上は親魏倭王に服属すべきであると考えられていると言えます。これは、4)の東の倭種の国と異なり、1)の三十国中に計上されていることからもそのように考えられると思います。そのほか、2)グループの共通性として、個別の国名がわかっていることもあげることができます。

 
>> この問題に関して私が出した仮説がA1とA2,A3を繋ぎ合わせると、”地理に関しては”より一貫性のある文章になるということです。
>> この考え方のどこがおかしいのでしょうか?

 このこと自体はおかしくありません。内容的に見て、現在の魏志倭人伝の配列が不適切だとは言えないと思っているだけです。


>> # 明日から仕事でしばらく掲示板は見られなくなります。なるべく努力してどこかで端末を探して見ますが、レスが遅れるかもしれません。あしからず

 無理しなくても、気長にお待ちしています。


>> # 決して逃げるわけではありません。ほかにも「桃太郎に退治された赤鬼青鬼とは黥面文身のことか?」とか「卑弥呼は実際にはずっと前に死んでいたのではないか?」とか言うような論議してみたいテーマを持っていますので・・・・

 逃げたなんて思いません。別段、逃げなきゃならないようなことは、ないと思いますが?



459

Re: 卜骨

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [9月25日(月)14時08分01秒]

元の発言 [ 卜骨 ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 9月24日(日)15時22分39秒 ]

>庄内並行期とされる遺跡は、全国でも少ないようですがマキムクから大量の卜骨は出ているのでしょうか?

#唐古鍵で11例ですから、単一遺跡では原ノ辻をおさえて2番目ではなかったかと記憶しています。唐神等を合わせると長崎県が2番目ですが、奈良+大阪で考えるとまた畿内が2番目だったと思います。
 ただ、多いところが邪馬台国という考えではなく、当時の中国人がみた「倭國」の大部分を占める地域が出土例ゼロということはあるまいということです。

>倭人伝から、卜骨がマキムクから大量に出ているのであれば、位地比定において、畿内有利にはなりますがはやしらいすさんの投稿から、出土の約半分が三浦半島との事で、それだけなら三浦半島が邪馬台国になるわけで。

#そういうアクティヴな意味でなくパッシヴな意味で位置比定の資料になるというのこと趣旨を申し上げました。

 丁度その時代の遺構から出土したか否かではなく、九州本島からの卜占出土が無いということから、伝統的にこの風習が他の地域に比べてマイナーであり、吉凶を知るのに何か別の習俗が主流であったものかと推定しました。

「倭の占いの風習はこうだ」という文脈の中に唯一灼骨卜占が出て来る以上は、これが倭人伝の観察対象になった倭の地域で、広く行なわれていた/主要なものだ、と読むべきものと思います。
 壱岐対馬だけで観察されたということであれば、行程記事の中の「食海物自活」「好捕魚鰒」といった各国別に書かれた部分に生かされるのが順当なところです。

 これが逆なら説明はつきます。壱岐対馬と北部九州で占骨が出ていて畿内では見つからないというなら「壱岐対馬や北部九州では郡吏が頻繁に往来ないし駐在して風俗習慣を観察したが、畿内には張政らが高度に政治的役向きで行っただけで下々のことまで関知していない。」と言うことができます。
 しかし、「倭國全体」が壱岐対馬+北部九州とする説では「灼骨卜占が倭全体の風習であるように書かれているのは倭人伝の誤り/観察者の錯誤である」あるいは「遺跡が未発見なだけだ」と解釈することになります。

>物事の決断をする場合に、伊都国王の祭祀というか、占いで決めることより、邪馬台国出張所の一大率の占いで決めることが多かったのではと思います。

#この件は、あくまでも風俗習慣の章に書かれています。
 占いのことが書いてあるのは「其俗舉事行來…」で、次の行には「其會同坐起…」無礼講の酒好きとか、どれも人々の生活に密着した話です。占いも政治的判断どうこうという記述ではありません。あくまでも民衆の習俗を観察した記事でしょう。


461

例の「国民の歴史」

投稿者[ EK ] 発言日時 [9月25日(月)17時30分00秒]

元の発言 [ Title佐伯有清「魏志倭人伝を読む」 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月22日(金)16時17分34秒 ]

>>  倭人伝を不当に誹謗した例の「国民の歴史」への批判で始まるのは小気味よいが、思い出すと穢らわしいのが問題。

#あんなもんにALEXさんが心乱されるのですか?
私はあの本は全体として面白いと思いましたが、倭人伝の
あたりはまったく理解していない人なんだなーと読み飛ば
しました。


464

Re: 大和はなぜヤマトと読むの:どう考えます

投稿者[ kouji ] 発言日時 [9月26日(火)00時22分15秒]

元の発言 [ Re: 大和はなぜヤマトと読むの:どう考えます ] お名前 [ ハウカセ ] 日付 [ 9月24日(日)15時16分20秒 ]

 今晩は!三本の投稿から適宜引用させていただきます。


>> >> 私は、「倭」にその実体をなす「やまと(邪馬台)」の音を結びつけたものだと思います。

 そうでしょうね。

 「やまと」は本来現在の奈良県地方を指す地名だったでしょう。そこに本拠とする勢力が、四方を支配するようになり、やがてその支配領域全体も「やまと」と呼ばれるようになる。
 一方、中国側からは、倭人の諸国を束ねた国を「倭国」と呼んだ。これを日本側からも対外的に使用するようになると、「倭国」と広域を指す「やまと」は同じですから、「倭」を「やまと」と読むようになる。これが訓読みとして定着すると、狭域の「やまと」も「倭」と表記されるようになる。

ということだと思います。


>> 4:その後、国号を「大倭国」から「大養徳国」に代わり、「大和国」に変わる。

 国号というのは、広域の「やまと」の方でしょうか。だとすれば、誤解だと思います。
 狭域の方の「やまと」が、各国の表記が二字に統一されるようになって、「大倭」と表記されるようになり、その後、さらに「大養徳国」→「大倭国」→「大和国」と変化した。
 なお、国号(広域の「やまと」)を「大倭」と表記するケースはありますが、これは一種の美称であって、正味の国号は「倭」だと思います。


>> 5:中世には国号「日本国」に代わり「大和」は奈良地方を指す。

 これはどうでしょう。広域の方の「やまと」は、遅くとも文武朝には「日本」と表記されるようになる。遣唐使が中国に対して使用しています。


465

Re: 佐伯有清「魏志倭人伝を読む」

投稿者[ kouji ] 発言日時 [9月26日(火)00時24分16秒]

元の発言 [ Title佐伯有清「魏志倭人伝を読む」 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月22日(金)16時17分34秒 ]

 先ほど、ざっとですが、目を通し終わりました。

>>  魏志倭人伝全文の詳細な註解を上下2冊というボリュームで展開する本書は、邪馬臺國論争参加者必携の書となるでしょう。豊富な漢籍の引用で逐条解釈に正確を期しています。

 是非とも皆さんに参照してほしい本です。歴史文化ライブラリー(104)なので、値段も上巻が1,700円とまあ、お手頃です。
 ところで、

自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國。
於國中有如刺史。王遣使詣京都・帶方郡・諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露。傳送文書・賜遺之物詣女王、不得差錯。

の解釈は、やっぱりこうじゃなくちゃいけませんよね。

#イリヒコさん、三人目の同志の登場です。


466

Re: 卜骨

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月26日(火)01時14分07秒]

元の発言 [ Re: 卜骨 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月25日(月)14時08分01秒 ]

>>  ただ、多いところが邪馬台国という考えではなく、当時の中国人がみた「倭國」の大部分を占める地域が出土例ゼロということはあるまいということです。

>> 「倭の占いの風習はこうだ」という文脈の中に唯一灼骨卜占が出て来る以上は、これが倭人伝の観察対象になった倭の地域で、広く行なわれていた/主要なものだ、と読むべきものと思います。

確かに筋の通った話だとは思います。
しかし、もう一度地図を見ていただきたい。
ただし、普通の見方ではなく、半島側を手前にして
俯瞰するような感じでお願いします。

すると、半島から、対馬、壱岐、唐津とそこには佐賀県
長崎県がよく見ていただけると思います。
つまり、半島から倭人の国へ渡ったところすべてで
灼骨卜占が見受けられるのです。
ですから、なにも問題は無いと思います。
地図を逆に見るだけで、随分感じ方は変わると思います。

投馬国が一応薩摩じゃないかと思っているのも
そこにあるのですが。



467

Re: 倭人伝の内容切り分けとその文章構造解析

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月26日(火)01時28分31秒]

元の発言 [ Re: 倭人伝の内容切り分けとその文章構造解析 ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 9月25日(月)12時18分12秒 ]

いきなり、横からすいません。

>> という風に配列されていると考えられます。「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」は何なんだという疑問が出ようかと思いますが、これは「五千餘里」の中身を考えれば理解できます。郡から倭地が始まる對馬国までは八千余里あります。従って、對馬國から邪馬臺國(女王國)までが四千余里になります。これに「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」とある倭種の国までの千余里を足すと、丁度五千余里になります。つまり、「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」という場合の「倭地」は、對馬國から女王國をへて東の倭種の国まで含まれており、その全体の長さが五千余里であると考えられます。

ここのところ、変ですよ。
次の国までの距離をいれるなんて。
そんな国の広さの測り方、あるんですか?
もし、別の倭種の国まで参千里としたら
七千余里に広がるのですか?



468

Re: 卜骨

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [9月26日(火)11時34分44秒]

元の発言 [ Re: 卜骨 ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 9月26日(火)01時14分07秒 ]

>すると、半島から、対馬、壱岐、唐津とそこには佐賀県
>長崎県がよく見ていただけると思います。
>つまり、半島から倭人の国へ渡ったところすべてで
>灼骨卜占が見受けられるのです。

#出土地の佐賀県というのは壱岐のことだし、長崎県は対馬のことですよ。
 つまり対馬→壱岐までで、ふっつり途切れるんです。
「半島から倭人の国へ渡ったところすべてで灼骨卜占が見受けられる」
ことにはなりません。

>ですから、なにも問題は無いと思います。
#問題大あり体長70mmです。


469

Re: 倭人伝の内容切り分けとその文章構造解析

投稿者[ kouji ] 発言日時 [9月26日(火)12時52分39秒]

元の発言 [ Re: 倭人伝の内容切り分けとその文章構造解析 ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 9月26日(火)01時28分31秒 ]

 今日は!

>> >> つまり、「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」という場合の「倭地」は、對馬國から女王國をへて東の倭種の国まで含まれており、その全体の長さが五千余里であると考えられます。

>> ここのところ、変ですよ。

 変じゃないですよ。

>> 次の国までの距離をいれるなんて。
>> そんな国の広さの測り方、あるんですか?

 国の広さじゃありません。「倭国」ではなく「倭地」の広さです。「女王國東渡海千餘里」の国々も「倭種」なんですから、「倭地」に入れてあげてもいいじゃないですか。

・對馬國、一支國、末盧國、伊都國、奴國、不彌國、投馬國、邪馬臺國
・斯馬國、已百支國、伊邪國、都支國、彌奴國、好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、呼邑國、華奴蘇奴國、鬼國、爲吾國、鬼奴國、邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國、奴國
・狗奴國
・復有國、皆倭種

全部併せて倭地だということです。


>> もし、別の倭種の国まで参千里としたら
>> 七千余里に広がるのですか?

当然です。


47

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ 避雷針 ] 発言日時 [9月4日(月)12時05分10秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月4日(月)00時48分39秒 ]

>> 『日本書紀』の記事の数値は正しいように思うのですが。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>




470

Re: 佐伯有清「魏志倭人伝を読む」

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [9月26日(火)13時54分45秒]

元の発言 [ Re: 佐伯有清「魏志倭人伝を読む」 ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 9月26日(火)00時24分16秒 ]

koujiさん、こんにちは

入手したばかりでまだ読んでないんですが、それならうれしいですね。
これから出張ですが、持っていって読むことにします。


471

Re: Title邪馬台国は九州にありうるのか?

投稿者[ 大場嘉門 ] 発言日時 [9月26日(火)14時16分23秒]

元の発言 [ Title邪馬台国は九州にありうるのか? ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月22日(金)10時33分44秒 ]

ALEXさん こんにちは。

>>「其俗舉事行來、有所云爲、輒灼骨而卜、以占吉凶」
>>何かにつけて卜骨を灼いて吉凶を占っていたということです。

輒(すなわち)とは「そのたびごとに」ということであり(諸橋大漢和)、「挙事行来、有所云爲」とは「何かにつけて」というよりも、「何かあったときに」ということではないでしょうか。
確かに「挙事行来」は、岩波文庫・現代語訳『魏志』倭人伝でも「挙事(事をあげ行う、事業や仕事をはじめる)や往来などの時は」としていますので、「何かにつけて」と解釈できそうです。
しかし、「挙事行来」を「挙事」と「行来」に分けて解釈するというのは如何なものでしょう。「行来」が列島・半島間の往来ということは、「其行來渡海詣中國」とあるとおりで、異議のないところですが、列島・半島間の往来というのも事業そのものです。
「挙事」と「行来」とに分けるということは、挙事(事をあげ行う、事業や仕事をはじめる)には行来(往来という事業)が含まれないという、おかしなことになってしまいます。
同じ岩波文庫の訳注『魏志』倭人伝では、「行来・渡海」のように中「・」をいれず、そのまま「挙事行来」としています。
現代語訳が「挙事」と「行来」に分けているのは、「有所云爲」を無視しているからではないでしょうか。

「云爲」とは、諸橋大漢和は『易、繋辭下』の「是變化云爲、吉事有祥、象事知器、占事知來」を引いて、「言うことと為すこと。言動。」とあります。
「言うことと為す所が有れば」ということがどういうことなのか、いまいち理解ができないのですが、「云爲」とは卜占に関係する用語のように思われます。(他にも用例は引かれていますので、卜占用語とは限らないとは思いますが…)
有所云爲(言うことと為す所が有れば)とは、「卜占に頼りたくなるような、気になることがあれば」といったニュアンスでしょうか。
輒(すなわち)は「有所云爲」を承けてのことであり、灼骨という卜占は、挙事や行来のそのたびごとに行われたということではなく、「往来という事業を挙行するときに、その往来に気になることがあれば」、その時に限って行われたということでしょう。
つまり、倭国における灼骨卜占は、半島への渡海に際し行われたもので、その占い師は海峡を熟知した海の気象予報士みたいな存在だったと考えられます。
>>ところが、邪馬台国含む30国の配置が壱岐対馬および九州本島であるとした場合、倭人伝の「灼骨而卜」という記述は倭國の中ではマイナーな一部地域で行われていた習俗を針小棒大に書いたということにせざるを得ません。

卜骨が出土する・しないということは、単にそれをもってする占い師が存在したかどうかということです。
九州島から卜骨が出土せず、壱岐・対馬から出土するのは、灼骨卜占が海峡を熟知した壱岐・対馬の専売事業だったということでしょう。
倭人伝に”倭國の中ではマイナーな”壱岐・対馬で限定的に行われたとしか思えない卜占の記事が見られるのは、それが倭全体の及ぶ風俗習慣であるからだと思います。

倭人は列島・半島間の往来にあたって、常に使いの一人を持衰(じさい?じすい?)としています。
島国に住む海洋民族の倭人にとっても、この海を渡っての往来は常に危険との隣り合わせだったということでしょう。
持衰を乗せて九州島から出航した渡海船は、その航海に持衰だけではまだまだ気になることがあれば、寄港先の壱岐・対馬の占い師にその航海の安全を占ってもらい、念には念を入れて渡海したということでしょう。

壱岐・対馬以外で卜骨の出土するところは、海峡に熟知していたとも思えないので、倭人伝にいうところの卜占とは関係ないでしょう。
(九州島から卜骨が出土したら困っちゃうな〜)


472

Re: 倭人伝の内容切り分けとその文章構造解析

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月26日(火)15時31分46秒]

元の発言 [ Re: 倭人伝の内容切り分けとその文章構造解析 ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 9月26日(火)12時52分39秒 ]

>> 当然です。

文字だけだから、よくわからないんだけど
絵で書けたらいいんだけど、どんなイメージかな。



473

Re:雑

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月26日(火)20時51分41秒]

元の発言 [ Re: 卜骨 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月26日(火)11時34分44秒 ]

>> #出土地の佐賀県というのは壱岐のことだし、長崎県は対馬のことですよ。
#現行政区分では、長崎県です。
#生活圏としては、福岡県ですけど。


475

Re:雑

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [9月26日(火)21時50分19秒]

元の発言 [ Re:雑 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 9月26日(火)20時51分41秒 ]

>> 現行政区分では、長崎県です。
>> 生活圏としては、福岡県ですけど。

どっちにしろ海の向こうじゃろが


477

Re: 遅ればせながら@読んでくれるだらうか?

投稿者[ 池ちゃん ] 発言日時 [9月26日(火)22時13分21秒]

元の発言 [ Title邪馬台国は九州にありうるのか? ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月22日(金)10時33分44秒 ]

>>  倭人傳は、倭人の風習として、灼骨の卜占が盛んに行なわれていたことを記述しています。
>> 「其俗舉事行來、有所云爲、輒灼骨而卜、以占吉凶」
>> 何かにつけて卜骨を灼いて吉凶を占っていたということです。

#以前、ALEXさんからこの問題を出されていたので
いろいろ考えていたのですが、
 私にはそれほど大きな問題ではないように思います。
何故なら、畿内にあった勢力も倭人として、大陸と通じていたからです。だからこそ画紋帯神獣鏡が多く出土するのです。だから、そういった風習が魏に伝わり、混同したものでしょう。
 また、畿内のみでなく、出雲やら越のような日本海沿岸の有力な勢力はもっと古い時代に、国家レベルではないにしても、大陸半島との交流はありました。その交流の際に
倭人の風俗として伝わったものと言う可能性はないでしょうか?
 


478

Re: 卜骨

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月27日(水)01時54分43秒]

元の発言 [ Re: 卜骨 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月26日(火)11時34分44秒 ]

よく考えたら、何も倭国中のいたるところで、占うことは
ないわけで、何もそんな風に書いてあるわけでもない。

原の辻遺跡関連のホームページを見ていたら、次のように
書いてありました。

>壱岐には大陸から伝わった「ト術」を使いこなす「ト術者(ト部・うらべ)」がいて、優れた技術を持っており、「朝廷のト部」として5人採用されたと「延喜式」にあります。

ですから、やはり九州本島になくても、かまわないし、
まあ畿内の場合、朝廷の時代には、壱岐から連れてきた
わけだし。これは占い師があまりに遠いから、仕方なく
連れてきたのでしょう。

実際占い師は、あまり動かずに、みてもらいたい人が
そこへ出向くわけで。
逆に、都会にそんな場所があると考えると変かもしれない。
占いなどは、やはりある神聖な場所というものがある
だろうから、その周辺がかならずしも都会になるとは
思えない。

九州の場合、船で渡るだけだから、ちょうど良い距離とも
言えるので、やはり何の問題もないでしょう。
もちろん遺跡が発掘されていないだけかもしれないしね。




479

Re: 大和はなぜヤマトと読むの:どう考えます

投稿者[ ハウカセ ] 発言日時 [9月27日(水)19時24分02秒]

元の発言 [ Re: 大和はなぜヤマトと読むの:どう考えます ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 9月26日(火)00時22分15秒 ]

ありがとうございます。

>>  一方、中国側からは、倭人の諸国を束ねた国を「倭国」と呼んだ。これを日本側からも対外的に使用するようになると、「倭国」と広域を指す「やまと」は同じですから、「倭」を「やまと」と読むようになる。これが訓読みとして定着すると、狭域の「やまと」も「倭」と表記されるようになる。
>> ということだと思います。

なるほど、参考になります。

>>  国号というのは、広域の「やまと」の方でしょうか。だとすれば、誤解だと思います。
>>  狭域の方の「やまと」が、各国の表記が二字に統一されるようになって、「大倭」と表記されるようになり、その後、さらに「大養徳国」→「大倭国」→「大和国」と変化した。
>>  なお、国号(広域の「やまと」)を「大倭」と表記するケースはありますが、これは一種の美称であって、正味の国号は「倭」だと思います。

天平9年に「大倭国」が「大養徳国」に変更され、天平勝宝元年に「大養徳国」から「大和国」に変更されたのは、奈良地方のことと言うことでしょうか。それから、「大養徳国」はどの様に発音されたのでしょうか?。

>>  これはどうでしょう。広域の方の「やまと」は、遅くとも文武朝には「日本」と表記されるようになる。遣唐使が中国に対して使用しています。

確かにそうだと思いますが、万葉集に「日本」が「大和
(奈良)」を表し、「やまと」と読ませている例が散見されます。これは、対外的に「日本(ヒノモト)」を用いたという一般的な説明に合致しない。 
残念ながら、このヒノモトと読ませた例も、まだ、中世に蝦夷に対して用いられた例しか集められていません。
倭とヤマト、日本が重なっている例ばかりが目について仕方がありません。だいたい、日本(ニホン)の起源も追いかけているのですが見当もつきません。
案外、大阪の日下(クサカ)と関係があるかもしれない。日下はヒノモトとも読める。あたりと関係があるかも知れない。
何か情報はありませんでしょうか?。




48

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ 避雷針 ] 発言日時 [9月4日(月)12時39分39秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月4日(月)00時48分39秒 ]

おにりんさん、今日は。

これを出す前に空のものが出てしまいました、またもやスミマセン。

(1)史書の史官は与えられた史料を整理していくのが仕事ですから、『日本書紀』の史官が『三国志』を見てその数字を勝手に変更するということは考えられません。
あるのは、古い尺度と新しい尺度の対応が分かっている場合に換算をすることです(これは時々見られます)。

当時流通していた情報というものがあったとして、それを実証する根拠が見当たりませんし、ましてそれが誤っていたと主張することは不可能でしょう。

ところで、朝鮮通信使の例というのを教えてもらえますか。

(2)おにりんさんの考え方には1里=1800尺であったという前提があると思われますが、『日本書紀』の天武の記事において1800尺の里が用いられていないことは明らかです。(このときの唐の1里は約530mです。)

これは『日本書紀』の尺度体系に関わってくる問題で、そうすると7世紀末までは1里=1800尺よりも遙かに短い里が用いられていたということになります。
崇神の記事が1里=1800尺(その当時440m程度として)の考え方によると「誤っている」といわれるのであれば、それはその前提自体が誤っているのではないですか、と考える次第です。

私の論文で大宝令制の前後の尺度の間で換算が行われたと思われるいくつかの根拠によって示しましたように、大宝令制で唐制の尺度が採用される前の時代には26.6cmの300倍の長さ(80m)の単位が用いられており、それが里とされていた可能性が高いということを述べています。
その仮設によれば、『日本書紀』の崇神の記事もうまく説明ができるということです。



481

Re: 卜骨

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月28日(木)01時58分48秒]

元の発言 [ Re: 卜骨 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月28日(木)00時44分27秒 ]

>>
いいえ、対馬と壱岐が本場中国の占いを最初に取り入れた
ところであったとすれば、全然おかしくない。

トンデモ的に畿内説を考えれば、対馬もしくは壱岐が
卑弥呼の出身地というか修行の場であった。
だから朝廷の時代には、遠すぎるから壱岐から呼んでき
たとか。
まあ、そんな風に考えることもできますね。

占いの場所を、倭国中と考える必要はやはりないです。
占いが出来る人は、やはり限られた選ばれた人であると
考えたほうが、論理的でしょう。
誰でも出来るような占いでは、価値がない。
もちろん占いをする人は、それなりの修行なり、一般と
は隔離されたは大げさとしても、違う場所に住んでいたり
するほうが、らしいのではないでしょうか。






482

Re: まず前方部について

投稿者[ 公正徹也 ] 発言日時 [9月28日(木)03時56分42秒]

元の発言 [ Re: まず前方部について ] お名前 [ はやしらいす ] 日付 [ 9月20日(水)00時48分39秒 ]

はやしらいすさん、返事が遅くなりました。
まず前方部についてです。

>前方部について、先に引いた森氏の文章をもう一度読んでください。
> 箸墓の前方部頂上には、築造時の特殊器台の破片などとともに、古墳後期の須恵器「はそう」が出土していて、六世紀から七世紀初めごろまでは古墳祭祀がつづいていることは確認できる。(「はそう」は、宮内庁で実見した)
>「はそう」が単に採集されたとおっしゃるその地点からは、「築造時の特殊器台の破片」も出ているんですよ。

 もうしわけありませんが、以下ちょっとまわりくどい話になります。
『天皇陵古墳』(森浩一編、大巧社)という本の「箸墓古墳」の項(筆者は今尾文昭氏)をみますと、
「・・・1976年には、それまでの墳丘採集資料が宮内庁から公表された。・・・後円部からは特殊器台形埴輪、壺形埴輪、前方部からは壺形土器、須恵器、はそうが採集された」とあります。前方部から特殊器台が採集されたとは書かれていません。
 1976年に公表されたというのは、『書陵部紀要』27号掲載の「大市墓の出土品」(中村一郎・笠野毅、1976年)という論文を指していますが、この文献を確認してみたところ、はそうとともに前方部で採集された特殊器台形埴輪というのは「小破片1個」だそうです。

 ところで、一昨年近畿地方を襲った台風によって、箸墓古墳も墳丘上の樹木が倒れるなどの被害が出たため、宮内庁書陵部が被害確認のために墳丘内に入り、倒木の根起き箇所から多数の遺物を採集しています。その報告が『書陵部紀要』51号に掲載されていますが(「倭迹迹日百襲姫大市墓被害木処理事業(復旧)箇所の調査」徳田誠志・清喜裕二、2000年)、この報告によると、前方部では壺形埴輪(壺形土器)、後円部では特殊器台が採集されており、「後円部には特殊壺・特殊器台・特殊器台形埴輪が配列され、前方部には二重口縁壺形埴輪が配列されていたことが、より明確になった」と評価されています。

 これを要するに、二度にわたる採集資料をみると、後円部からは特殊器台・特殊器台形埴輪が多数採集されている。前方部からは壺形埴輪(壺形土器)が多数採集されている。そこへもってきて前方部の特殊器台というのは「小破片1個」!
 これは、なんとも評価に困る資料であります。前方部において、器台のうえに壺を載せるという「祭祀」がおこなわれていたならば、少なくとも壺の破片に見合うだけの器台の破片が採集されてもよさそうなものです。ところが、壺の破片と器台の破片が圧倒的に釣り合わない。本当に、この特殊器台はなぜ前方部にあったんでしょうか。現状では、「箸墓古墳の後円部では特殊器台、前方部では壺」という「使い分け」がなされていたというのが、研究者の共通認識だといってよいと思います。

 さて、この箸墓古墳の前方部で採集された壺というのは「底部穿孔壺」といって、底に孔があけられた壺です。底に孔のあいた壺は、もはや「ものを入れる」という壺の用途を成しません。つまりこの壺は、何かを入れて「捧げられた」ものではなく、単に「並べられた」ものです。桜井茶臼山古墳では、このような壺が後円部の主体部上を方形に囲うように並べられていました。「祭祀」の直接の証拠というよりは、「区画・結界」のために並べられたのかもしれません。その点では「円筒埴輪」と同じです。

 これは「殉葬」のときと同じように「祭祀」をどう規定するかという問題になってしまうのですが、円筒埴輪や壺形埴輪のように「並べられた」(並べることに意義があった)ものは、そこで「祭祀」が行なわれたことになるでしょうか?例えば円筒埴輪でいえば、後円部のみならず前方部をぐるりとめぐるように円筒埴輪が並べられた古墳というのは、それこそいくらでもあるわけです。だからといって、埴輪の出土位置で「祭祀」が行なわれたといえるでしょうか。

>余談として書きます。伊勢神宮の内宮に「御垣内参拝」というのがあります。通常は、内宮を取り囲んだ垣の外からお参りしますが、その垣の中に入ってお参りすることもできます。昨年の11月、あるツアーで行ってきました。ところが、その垣の中に入れてもらったところで、本殿へは近づけない。
>で、ひょっとするとですよ。(これも余談のうち)。後円部に向かってお参りするのだけれど、墳頂へ上がれるのは近親者と後継ぎ。前方部の一列目でお参りするのは親族とか行政のエライさん、二列目は友人代表、三列目以下は一般知人みたいな序列があったのかもしれない。

 たいへん参考になるお話をいただきました。そのようなことがあったかもしれないし、なかったかもしれない。しかし、拝む対象に向かって頭を下げるだけでは、考古学的な証拠としては何も残りません。物証がないと何もいえないというのは、考古学の弱いところです。かといって文献になにか書かれているというわけでもない。だからといって否定もできない。

 ただ私が
>岩戸山古墳は後期古墳です。前方部で祭祀を行なったと言う事はまずなかろうと思っています。

・・・と書いたのは、横穴式石室をもつ古墳では、拝む対象はもはや後円部上にはないからです。前方部にのぼる必要はもうありませんし、事実、祭祀の「物証」が残っているのは石室内や石室の入り口付近です。もちろん、石室内に入れた人、入り口近くまで行けた人、それを遠くから見ていた人みたいな序列があったかもしれない。

 また
>私は、「前方部=祭祀をおこなうところ」という説には疑問を持っています。
・・・と書いたのは、「前方部は祭祀の場として誕生したのではない」ということでして、これは以前書いたとおり、参道がルーツだろうと思っています。
 はやしらいすさんは
>前方部は言わば参道の意味もあったのだろう
・・・と書かれていますが、私は「参道」が前方部の本質だろうと思っています。
 はやしらいすさんが例にあげられた椿井大塚山古墳、ここでは前方部の「テラス部分」で祭祀をやっていたらしいのですね。前方部上の広い平坦なところでやっていたわけではないです。なんでテラスでやっていたのかという問題は残りますが、少なくとも、祭祀の場として椿井大塚山の前方部が造られたわけではないと思います。

 で、古墳時代300年のなかで、前方部の意義・機能も変化していったことと思います。前期の段階で、前方部にも埋葬を行なうようになる。この場合は、当然前方部の被葬者に対する祭祀は前方部で行なわれたのでしょうね。箸墓古墳前方部採集の壺についても、前方部埋葬に伴うものとする説があります。
 そして中期になると「造り出し」がつくられるようになります。
>「造り出し」は、前方後円墳が水を湛えた周濠によって隔絶されてからではないでしょうか。そうしますと、前方部が参道の役目を果たさなくなり、かつ高さを持つようになる。墳墓の内部へ行くために案出されたのが「造り出し」ではないでしょうか。

 ご指摘のとおり、造り出しは後円部への入り口であるという説もあります。同時に祭祀の場でもある。兵庫県の行者塚古墳の造り出しでは、家形埴輪のほか、土で作った魚や果物が土器とともに出土しました。お供え物かもしれませんね。造り出しでこうした祭祀を行なうようになったのは、墳丘に頻繁に登らなくなったということかもしれません。そして、横穴式石室の採用によって、前方部は参道としての機能を完全に失うことになる。

>前方後円墳を見に行くと、一般には前方部から周濠を挟んで手前に「遥拝」するところを設けていますよね。これも、やはり前方部から上がって後円部に進んでお参りしていた時の名残ではないかと思います。

 さあ、これはどうでしょうか。そうした遥拝所が設けられたのは幕末の文久の修陵以降のことです。外池昇氏の『天皇陵の近代史』(吉川弘文館)には以下のようにあります。
「もっとも文久の修陵までは、一般に後円部墳頂以外は陵域とみなされず、祭祀は後円部でなされた。この点について中井正弘氏は、文久の修陵で仁徳天皇陵の修補が開始される元治元年の前年の文久三年(1863)の老中格小笠原長行による仁徳天皇陵見分を取り上げている。この見分の際の絵図によれば、その道順は前方部をへずに直接後円部墳頂にいたるものであったという」(38〜39頁)。
 遥拝所が前方部の手前に設けられるようになったのは、「前方後円墳」という言葉にひきずられたためではないでしょうか。

>桜井茶臼山古墳、後円部から登って前方部に下りたことがあります。墳頂は平坦だった。でも、前方部へ下りるところはけっこう急な感じがしました。
> 柳本大塚古墳、前方部は畑になっています。後円部への登りは決してオーバーではな土手を草を掴んで這い上がるような感じです。この墳頂部も平坦な感じがしました。
>いずれにしても、前方部から後円部への急登は、日常的に後円部へ上がることを前提としていないのではないか。

 箸墓古墳の場合、測量図をみると、前方部から後円部にかけてスロープ状の傾斜が取り付いています。近藤義郎先生は、これを「隆起斜道」と呼んで、前方部から後円部の埋葬施設への登り口であったと想定しています(「前方部とは何か」『前方後円墳観察への招待』青木書店)。箸墓古墳のスロープを実際に登ったことはありませんが、桜井茶臼山のほうは、確かに私もちょっと急だなと感じました。ただ測量図をみると、桜井茶臼山にも、「隆起斜道」の名残のようなものが存在します。当時はもう少し傾斜が緩かったのかもしれません。


483

Re: 殉葬について

投稿者[ 公正徹也 ] 発言日時 [9月28日(木)04時02分59秒]

元の発言 [ Re: 殉葬について ] お名前 [ はやしらいす ] 日付 [ 9月21日(木)00時03分20秒 ]

次に殉葬についてです。 

>>被葬者の死から時を隔てて主墳の一角に埋葬される場合、原田大六は「陪葬」と呼んで区別したことはご存知かと思います。
>原田氏は、一号墓の南の方墳(柳田氏の図の二号墓です)を陪葬と言っていると思います。
 
 確かに「陪葬と考えられる墳墓」は2号墓を指しているのではと思いますが、引用していただいたなかで

>排水溝内には殉葬墓と陪葬墓の両者が入り組んでいるらしいが

・・・とあることから、原田は、溝内土壙=殉葬墓と考えていたわけではないことは確かだと思います。

>柳田氏は、土壙墓(一・六号)は溝が埋没した後に掘り込まれたと書いていますが、これは「西・北・東側に九基の土壙墓群と、周溝に重複した三基の土壙墓があり、このうちの少なくとも二基」であり、残りについては溝の埋没後とは限らない。したがって、一号墓との同時性を否定しきれていないと思います。また、上記の原田氏の引用中に、「東部と南部では不整形の大土壙が掘られていて、一緒に数人を埋葬したもののようである」とあります。

 さて、はやしらいすさんからこのレスをいただいて後、前原市教委が今年出した報告書『平原遺跡』を入手しました。平原遺跡群の最近の調査のほか、原田による昭和40年の調査の補足、また柳田康雄氏による「平原出土鏡倣製鏡説」の論考ものっています。

 この報告書で、平原1号墓については柳田氏が執筆しています。以下、氏の文章に沿ってご紹介します。

 まず1号墓の周溝内土壙についてですが、原田による旧報告の1号土壙と6号土壙(新報告では旧報告と土壙の番号が違っていてややこしいのですが)は、確かに周溝埋没後に掘られたとされています。しかし「その他のものは少なくとも人を埋葬する土壙とは考えない」としています。その根拠ははっきりしません。が、例えば原田のいう「東部と南部では不整形の大土壙が掘られていて・・・」のうちの東部、旧報告では4号土壙だと思うんですが、この図面をみますと、確かに墓なのかどうかよくわからない代物です。鉄製のヤリガンナとノミが出土しているのですが、底からかなり浮いているので副葬品とは思えないし、これらと接するように石が数個出ているのも、墓として埋め戻したにしては不自然です。
 周溝内以外の1号墓周辺の土壙については、「若干古くて1号墓に近い土壙墓が存在する可能性もある」としながらも、「1号墓について、報告されているような周溝内や墓域内に主体部と同時期の「殉葬墓」は存在しない。」
と結論付けています。

 しかしはやしらいすさん、がっかり?しないでください。問題は3・4号墓です。
 原田は、3・4号墓の周溝について、
>この溝には、群をなす赤石および滑石の小玉、鉄鏃、土師器などが副葬され、かつ溝底には酸化鉄(ベンガラ)を敷いた所が二ヵ所あらわれた。これは単なる周溝といわれるものではなく、人骨こそ残っていなかったが、十六名の大人から嬰児まで連接して葬った墓溝であることが推察された。

・・・と書きましたが、確かに玉・土器・鉄鏃・酸化鉄は確認されていますが、「十六名の大人から嬰児まで連接して葬った墓溝である」かどうか、さらに「二家族の者が全員同時に墓溝に埋められ」たのかどうかは、はっきりいってわかりません。周溝の底に、土壙を思わせるいくつかの掘り込みがあるようなので、そこからの推測かもしれませんが、土層の堆積状況を示す図がないので、本当にこれらが同時に掘られたのか、周溝埋没前に掘られたのか、検討する術がありません。

 ところがです。3号墓と4号墓の周溝が接する箇所、4号墓からみれば東南隅に位置する「4号墓1号土壙墓」(「平原王墓の性格」中の平原墳墓群配置図でも確認できます)、これは、柳田氏によれば「古墳築造時に周溝底から掘り込んでいることから殉葬墓である」そうです(・o・)。(これは土層の堆積状況を示す図が示されており、柳田氏の記述どおりであることが確認できる)

 この1号土壙からは遺物が出土していないので、年代決定としては「?」な面もありますが、少なくとも「周溝が埋没した分だけ見込まれる主体部埋葬とのタイムラグ」は存在しないわけです。
 従って、平原遺跡中で現時点で「殉葬墓」の可能性が最も高いのは、この 4号墓1号土壙墓ということになるかと思います。
 これからは、私も「築造時に周溝底から掘り込んでいる」溝内土壙を探してみたいと思います。

>さて、今日一日、柳田氏の「平原王墓の性格」中の平原墳墓群配置図を見ていて、ちょっとした発見をしました。まず鳥居、一号墓、大柱、異形建物との関係はほぼ一直線です。一号墓を埋葬した方形区画からは、大柱によって一年に一度あるいは二度、太陽が昇るのが隠される日がある。この日が祭祀の日であった。

 ここまでは特に異論はありません。

>これは一号墓が埋葬された方形区画が、埋葬以前から祭祀施設であったことを窺わせる。一号墓は非常に浅く埋められているので盛り土があったと考えられています。盛り土があれば、この大柱があっても祭祀施設としては機能しにくい。逆にいえば、一号墓が埋葬された時点でこの方形区画もまた祭祀施設としての機能を失ったことになります。

 ここのところがちょっと「?」です。
 まず、「一号墓を埋葬した方形区画」というのは、1号墓の主体部を取り巻く柱穴状のピットを指しているのでしょうか。だとしたら、この「方形区画」は埋葬より後に作られたことは確実ですから、「埋葬以前から祭祀施設であったことを窺わせる。」という推測は適当でないことになります。また、

>盛り土があれば、この大柱があっても祭祀施設としては機能しにくい。
とは、どういう理由からでしょうか?

>以下はひとりごと、臺與はどこで祭祀を行なっていたんだろう?(^o^)

そりゃ、大和纒向でしょう(^o^)

>きょう偶然にも金達寿『日本の中の朝鮮文化8:駿河・甲斐・信濃・尾張』を見ていたらこの古墳に言及していて「典型的な高句麗様式の積石塚古墳である」と書いています。「篠ノ井の川柳将軍塚古墳も、それとまったく同じものなのである」とも書いています。
>このあたりどう思われますか? 

 「典型的な高句麗様式の積石塚古墳」のはずはないと思います。
 確かに森将軍塚古墳の葺石はかなり厚く葺かれており一見「積み石塚」状を呈しているのですが、それでも墳丘は土を削って造っています。「厚く葺かれた葺石」は、近年箸墓古墳や中山大塚古墳など初現の前方後円墳で確認されており、まずは列島内で系譜を探るべきと思われます。
 
 高句麗の積み石塚は、高句麗建国以前の紀元前後に成立しますが、基本形態は石のみを積み上げた方形墳であり、列島での古墳時代前期に相当する3世紀末〜4世紀前半には横穴式石室を採用するようです。
 竪穴式石槨をもち、前方後円形を呈する森将軍塚古墳がどうして「典型的な高句麗様式」といえるのでしょうか。


486

Re: 大和はなぜヤマトと読むの:どう考えます

投稿者[ kouji ] 発言日時 [9月28日(木)12時59分28秒]

元の発言 [ Re: 大和はなぜヤマトと読むの:どう考えます ] お名前 [ ハウカセ ] 日付 [ 9月27日(水)19時24分02秒 ]

 今日は!

 狭域の「やまと」(地方名)の表記の変化が、「倭」→「大倭」→「大養徳」→「大倭」→「大和」。

 広域の「やまと」(国号)の表記の変化が、「倭」→「日本」。

ですが、読み方はみんな「やまと」です。だから混用されることもあると。「日本」も本来は「やまと」と読むわけですが、この文字面をそのまま訓読みしたり音読みしたりしたのが、「ひのもと」・「にっぽん」です。


487

Re: 卜骨

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月28日(木)15時57分52秒]

元の発言 [ Re: 卜骨 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月28日(木)10時58分15秒 ]

>>
>>
>>
大変だろうとは思いますが、やはり流派みたいなものは
必ずあるでしょうから、表と裏と。





488

Re: 大和はなぜヤマトと読むの:どう考えます

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月28日(木)16時03分27秒]

元の発言 [ Re: 大和はなぜヤマトと読むの:どう考えます ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 9月28日(木)12時59分28秒 ]

>> ですが、読み方はみんな「やまと」です。だから混用されることもあると。「日本」も本来は「やまと」と読むわけですが、この文字面をそのまま訓読みしたり音読みしたりしたのが、「ひのもと」・「にっぽん」です。

表記の変化はそのとおりでしょうが、
問題となるのは、「やまと」や「ひのもと」の音を
どうして「大和」や「日本」という文字にあてたか
ということでしょう。

「ひのもと」−−>「日本」はわかるけど「やまと」と
音をあてるわけではなく、意味をあてるわけですから
その意味が問題なんでしょう。


489

Re: 大和はなぜヤマトと読むの:どう考えます

投稿者[ kouji ] 発言日時 [9月28日(木)18時15分24秒]

元の発言 [ Re: 大和はなぜヤマトと読むの:どう考えます ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 9月28日(木)16時03分27秒 ]

>> 表記の変化はそのとおりでしょうが、問題となるのは、「やまと」

>> の音をどうして「大和」

>> という文字にあてたかということでしょう。


倭語:やまと → やまと → やまと → やまと → やまと
漢字表記:倭 → 大 倭 → 大養徳 → 大 倭 → 大 和

何が問題なんです?


>> 「ひのもと」−−>「日本」はわかるけど

 違います。「日本」 → 「ひのもと」です。

#yaohideさん、何をおっしゃりたいのか、さっぱりわかりません。
#ご自分の考えを付記していただけると発言の意図がわかりやすくなると思うのですが、いかがでしょう?


491

Re: 大和はなぜヤマトと読むの:どう考えます

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月29日(金)00時47分07秒]

元の発言 [ Re: 大和はなぜヤマトと読むの:どう考えます ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 9月28日(木)18時15分24秒 ]

>> #yaohideさん、何をおっしゃりたいのか、さっぱりわかりません。
>> #ご自分の考えを付記していただけると発言の意図がわかりやすくなると思うのですが、いかがでしょう?

ごめんなさい、わかりにくかったですか。

いや、邪馬台のように、これを「やまと」と読むのなら
音を文字にあてたということでわかりやすいです。
ですが、「大和」を「やまと」とするまでの過程が
「倭」、「大倭」など、音をあてたものではない。

なぜ「大和」を「やまと」と呼ぶという、理由が
出てきていないということが言いたかったわけです。
「大和」「日本」のどちらも「やまと」はいいのですが
そこに至るまでのところがないということです。

変遷はもちろんkoujiさんの書かれているとおりですが。
僕もわからないので、前にも同じようなことを書いていた
わけですから。




492

Re: 卜骨、横から失礼。

投稿者[ 池ちゃん ] 発言日時 [9月29日(金)04時59分23秒]

元の発言 [ Re: 卜骨 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月28日(木)22時53分34秒 ]

>> 大変だろうとは思いますが、やはり流派みたいなものは
>> 必ずあるでしょうから、表と裏と。

>>
>>
#”裏””表”というのはどうかわかりませんが、
地域によって違ったものを持っていたのは考えられますね。
 諏訪大社は”上社””下社”と諏訪湖をはさんで分かれていますが、やはり違いがあります。

>>
>>
#卜骨を使った一連の占いと、”鬼道”の間には”=”が付けられるのでしょうか?
 魏志倭人伝を読む限りでは、違うような気がするのですが。

*************************************************

#ところで、kanonの初回限定版についていた音楽CDは
お持ちですか?もし持っていたら、お礼を付けてすぐ返しますので、貸していただきたいのですが?




493

Re: 大和はなぜヤマトと読むの:どう考えます

投稿者[ ハウカセ ] 発言日時 [9月29日(金)06時19分34秒]

元の発言 [ Re: 大和はなぜヤマトと読むの:どう考えます ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 9月29日(金)00時47分07秒 ]

>> なぜ「大和」を「やまと」と呼ぶという、理由が
>> 出てきていないということが言いたかったわけです。
>> 「大和」「日本」のどちらも「やまと」はいいのですが
>> そこに至るまでのところがないということです。

koujiさん、yaohideさんありがとうございます。
koujiさん、「倭人伝の文章構造…」での意見などスケールの大きな見方、胸のすく想いです。古代史が大きなスケールで再構成される日が待ち遠しいです。三内丸山以降徐々に変わっていますが…

さて、訓の形成の過程で、邪馬台(やまと)が大和(やまと)に変わった。中国で言う「倭」は邪馬台(やまと)の勢力範囲だから「やまと」と読む、教義のやまと(邪馬台国)も「倭」で表された。邪馬台国の「倭」は、風土記編纂の国名2文字によって「大倭」に変わり、その後、倭の字を嫌って「大和」の表示に変わった。……ということで良いのでしょうか。
私は長い間、植物名の変遷を追っているのですが、名前の変化には、必ずそれなりの理由があります。地名の変化は「倭」から「大倭」、「大倭」から「大和」のように政治が絡むので、政令が残っていないときにはわからなくなります。「倭」と「日本」が同じように使われているのにはどんな理由があるのでしょうか。…ところで、「倭」は琉球を訪れた明使が「を(wo)」の音に「倭」をあてています。ついでに「さ」の音に「査の下が旦(1950年頃偉い先生が間違いだと言って、今の字に変えられたもの)」が使われています。あまり関係なかったでしょうか。




495

Re: 大和はなぜヤマトと読むの:どう考えます

投稿者[ kouji ] 発言日時 [9月29日(金)12時48分35秒]

元の発言 [ Re: 大和はなぜヤマトと読むの:どう考えます ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 9月29日(金)00時47分07秒 ]

今日は!

>> 「大和」を「やまと」とするまでの過程が「倭」、「大倭」など、音をあてたものではない。

>> なぜ「大和」を「やまと」と呼ぶという、理由が出てきていないということが言いたかったわけです。


>> >>  「やまと」は本来現在の奈良県地方を指す地名だったでしょう。そこに本拠とする勢力が、四方を支配するようになり、やがてその支配領域全体も「やまと」と呼ばれるようになる。
>> >>  一方、中国側からは、倭人の諸国を束ねた国を「倭国」と呼んだ。これを日本側からも対外的に使用するようになると、「倭国」と広域を指す「やまと」は同じですから、「倭」を「やまと」と読むようになる。これが訓読みとして定着すると、狭域の「やまと」も「倭」と表記されるようになる。

ということじゃダメですか?


497

Re: 大和はなぜヤマトと読むの:どう考えます

投稿者[ kouji ] 発言日時 [9月29日(金)13時25分37秒]

元の発言 [ Re: 大和はなぜヤマトと読むの:どう考えます ] お名前 [ ハウカセ ] 日付 [ 9月29日(金)06時19分34秒 ]

今日は!

>> さて、訓の形成の過程で、邪馬台(やまと)が大和(やまと)に変わった。中国で言う「倭」は邪馬台(やまと)の勢力範囲だから「やまと」と読む、教義のやまと(邪馬台国)も「倭」で表された。邪馬台国の「倭」は、風土記編纂の国名2文字によって「大倭」に変わり、その後、倭の字を嫌って「大和」の表示に変わった。……ということで良いのでしょうか。

 だいたいそういうことだと思います。
#風土記編纂と国名の二文字化の間には直接的関係はなさそうですが....

>> 私は長い間、植物名の変遷を追っているのですが、名前の変化には、必ずそれなりの理由があります。地名の変化は「倭」から「大倭」、「大倭」から「大和」のように政治が絡むので、政令が残っていないときにはわからなくなります。

 う〜ん、細かい話ですが、結局、地名・国名そのものは「やまと」で変わらず、その漢字表記が変わっているだけなんです。


>>「倭」と「日本」が同じように使われているのにはどんな理由があるのでしょうか。

 どちらも「やまと」だからでしょう。それ以上の特別な理由はないと思います。


498

Re: 大和はなぜヤマトと読むの:どう考えます

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月29日(金)15時51分15秒]

元の発言 [ Re: 大和はなぜヤマトと読むの:どう考えます ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月29日(金)13時25分26秒 ]

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
畿内説の場合、やはり邪馬台国が北部九州も束ねていないと困るでしょう。というか、一大率は束ねていないから
必要だったのかな?

>>
>>
>>
>>
九州ヤマトと畿内ヤマトがあった、そして中国からは
倭国と呼ばれていた。すでに九州がヤマトと呼ばれて
いなければ、倭をヤマトと呼ぶことは難しいような気がする。表ヤマトと裏ヤマトが必要か?
あー、また裏と表を使ってしまった。
トンデモ話だな。こりゃ...





499

Re: 殉葬について

投稿者[ はやしらいす ] 発言日時 [9月29日(金)19時19分22秒]

元の発言 [ Re: 殉葬について ] お名前 [ 公正徹也 ] 日付 [ 9月28日(木)04時02分59秒 ]

 公正さん、こんばんは。

>前原市教委が今年出した報告書『平原遺跡』を入手しました。平原遺跡群の最近の調査のほか、原田による昭和40年の調査の補足、また柳田康雄氏による「平原出土鏡倣製鏡説」の論考ものっています。

 私も月曜日に送金しました。八月には出ていたようですね。楽しみに待っているところです。年代は200年から250年あたりらしいのですが、大柱のこととか、彷製鏡説なども読んでみたいです。

 さて、
>平原遺跡中で現時点で「殉葬墓」の可能性が最も高いのは、この 4号墓1号土壙墓ということになるかと思います。

 この点では、原田、柳田両氏の意見が一致したということですね。めでたし、めでたし。(^o^)
 大土壙には人体埋葬の形跡がないのかな? ないとすればいったいどんな目的で掘られたのかなどの興味が出てきます。またそのほかの土壙について、同時期でないとすれば、追葬されたことになりますよね。
 この平原はいわゆる墓地ではなかったと思います。昨年伊都国フォーラム(たしか10月2日でした)に参加した翌日、オヤジッチさんに福岡の遺跡を案内してもらいました。
 「金隈遺跡」。これはまさに墓地と言っていい。甕棺がわんさかある。そのとき戴いたパンフレットによると、延床面積360平米に甕棺91基、土壙墓34基。
 奈良では、御所の鴨都波。後期のものと考えてよい三角縁神獣鏡を副葬したお墓の有るところですが、ここも弥生期からのお墓がありました。ここも墓地だった。
 でも、平原はもともと墓地ではなかった。そこにお墓が作られたのではないか。
 

>「一号墓を埋葬した方形区画」というのは、1号墓の主体部を取り巻く柱穴状のピットを指しているのでしょうか。

 いや、そうではなく、一号墓を埋葬する以前の方形周溝状の空間を指しています。どのように表現しようかと迷ったところです。
 何が言いたかったかと申しますと、この方形周溝墓は、一号墓を埋葬する前から祭祀施設として存在していて、その祭祀の主宰者が亡くなってその施設内に葬られ、方形周溝墓になった。つまり、被葬者を埋葬するために造営された方形周溝墓ではなく、もともと方形周溝状の祭祀施設があって、そこに埋葬されたのではないかと考えているのです。で、その墓になる前の方形周溝に囲まれた空間を「方形区画」と言ったのですが、わかりにくかったですね。
 だから、一号墓の被葬者はもともとの祭祀施設としての方形周溝状の中に埋葬され、同時期に、あるいは追葬として二号墓、三、四号墓が造営され、および周溝内の土壙にも埋葬された。そのように考えているのです。
 もちろんこれは仮説です。
 大柱が何のために立てられたのかを考えてみると、埋葬後ではなく、埋葬前に立てられて、この方形区画を祭祀場として大柱に向かって儀式が行なわれていたのではないか。
 鳥居と思われる柱穴、一号墓、大柱、異形建物と結ぶ線が日向峠を指しているようですが、これに意味があったのかもしれないのですが、五号墓に付随する大柱は別の方向を指しています。
 そうすると、それぞれの被葬者が別の日を祭祀の日と定めていたことになるのではないか?
 埋葬後に大柱が立てられ、被葬者の法要みたいな意味と考えることもできますが、柳田氏の論文中にあるように、この平原は、周囲の地形から太陽観測地点に適していたようですから、私は被葬者が生前この地において祭祀を行ない、死後、その施設に葬られたのではないか。
 それは、五号墓も同様ではなかったか。
 と、考えているのです。
 公正さん、これは「ト」説でせうか?

 報告書で、そのあたりのことがどのように書かれているのかも楽しみです。


5

Title三角縁神獣鏡と連弧文銘帯鏡そろって出土

投稿者[ ま さ ] 発言日時 [9月1日(金)15時18分51秒]

こちらを↓


501

Re: 卜骨、横から失礼。@失恋でも恋愛ができる人はいいですよ。

投稿者[ 池ちゃん ] 発言日時 [9月30日(土)02時50分30秒]

元の発言 [ Re: 卜骨、横から失礼。 ] お名前 [ おにりん@失恋の痛手から復活!(まだしてない) ] 日付 [ 9月29日(金)09時56分52秒 ]

 こんばんわ

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>> #卜骨を使った一連の占いと、”鬼道”の間には”=”が付けられるのでしょうか?

#九州に卑弥呼がいたかどうかは別として、”卜骨”を使った一連の占いが滅んだと考えられないでしょうか?
 その生き残りが対馬と壱岐にあったと。


************************************************* 
>>
>>
#私はここのところ、”AIR”の初回限定CDを聞いていますが、いいですねぇ。
 このCDを単体として出しても、売れるんじゃないでしょうか?
 
 ゲームのほうも良かったです。幻想系というより伝奇系
といったほうがいいかもしれませんが。
あのラストも良かったと思います。個人的には。


>>
>>
#DC版も出たことだし、サントラでるかな〜。
少し待ってみようかな。秋葉原ではプレミアが付いてて
15000くらいするし・・・
(どーでもいーけど、”名雪”の声あってないぞ・・・)





502

Re: 大和はなぜヤマトと読むの:どう考えます

投稿者[ ハウカセ ] 発言日時 [9月30日(土)05時53分15秒]

元の発言 [ Re: 大和はなぜヤマトと読むの:どう考えます ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 9月29日(金)13時25分37秒 ]

すいません、夕方から子供達にパソコンを占領されているものですから。時間帯が合わなくて。

>> >>「倭」と「日本」が同じように使われているのにはどんな理由があるのでしょうか。

>>  どちらも「やまと」だからでしょう。それ以上の特別な理由はないと思います。

それが、万葉集で灘沖や大阪湾から「やまと」を望んで歌う歌に「日本」が使われている例がいくつか見られます。吉野や大津あたりから「やまと」を想う歌には「倭、大倭」が用いられていたと思います(記憶違いかも知れないですが、その印象が強く残っています。あとで調べなおしてみます)。



503

Re: 大和はなぜヤマトと読むの:どう考えます

投稿者[ ハウカセ ] 発言日時 [9月30日(土)06時39分53秒]

元の発言 [ Re: 大和はなぜヤマトと読むの:どう考えます ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月29日(金)22時21分03秒 ]

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
我々は3000年以上前に中国人が書いた文章を読んで内容を理解することができます。シエクスピアの書いた文章をそのまま読めるイギリス人はほとんどいません。漢字はそれぞれの時代、それぞれの地域の言語で読めるからです。いくつもの言語を持つ中国にもってこいの文字です。中国が大きな帝国を維持し、周辺に文化を供給し続けたのも漢字があったからです。好太王碑文のようにアルファベットの様な漢字の使われ方をしていない文章は、訓読みをしていたことの証拠だと思います。残念ながら訓読みの証拠としては「文字を2種類にわけていることが必要とされていますが」。

>>
>>
>>
>>
>>
万葉集に白水郎、海人、海民、漁民、漁人、海部を「あま」と読ませるように、「漢字の意味」と「意味を示す音」がつながっているわけで、邪馬台国で自国の表記を「倭」と表示しているという、行政的な証拠は必要ないのではないでしょうか。それでも大和は邪馬台なのではないかと…





504

Re: まず前方部について

投稿者[ はやしらいす ] 発言日時 [9月30日(土)08時41分50秒]

元の発言 [ Re: まず前方部について ] お名前 [ 公正徹也 ] 日付 [ 9月28日(木)03時56分42秒 ]

 公正さん、詳細なご返事、ありがとうございます。
 「底部穿孔壺」についてですが、桜井茶臼山古墳の後円部から出たものは特殊器台に乗せられていたんでしょうか? もともと、土の上にそのまま置く壺であったのならば、箸墓前方部から、底部穿孔壺は出土したけれど、特殊器台は出ていないことの説明にはなると思います。
 箸墓から桜井茶臼山古墳へ移ると底部穿孔壺の扱いに変化がありますね。

>「祭祀」をどう規定するかという問題になってしまうのですが

 お参りをする、くらいの感覚ではだめでせうか?
 もっとも、後世墳頂部に神社が建てられる例もありますので、古墳築造時から墳頂部でお参りをしなかったと申し上げているわけではありません。何がしかの序列に基づいて墳頂部まで上がってお参りをした人たちもいたことだろうと思います。

>箸墓古墳前方部採集の壺についても、前方部埋葬に伴うものとする説があります。

 箸墓の場合、前方部も高くなっています。ひょっとするとここにも埋葬された人がいるかもよ。

> 遥拝所が前方部の手前に設けられるようになったのは、「前方後円墳」という言葉にひきずられたためではないでしょうか。

そもそもこの「前方後円墳」の命名の由来は、前方部から墳域に入ってお参りをしたという習慣にひきずられたためではないでしょうか。(^o^)

>当時はもう少し傾斜が緩かったのかもしれません。

 地形はふつう急な傾斜からゆるやかな方へ向かって変化していくものではないでしょうか?
 ただ、僕はほぼ真中を下りて急な感じを持ったのですが、端っこの方はどうだったかわかりませんけれど。

 それにしても懇切丁寧なレスポンス、ありがとうございました。


505

本日の〆切は23:00です。

投稿者[ 管理人 ] 発言日時 [9月30日(土)12時35分46秒]

月末になりました。
定例のメンテナンスでボードを一時停止します。
2時間程度で終了する見こみです。


53

Re: 三神三獣鏡について@お遊び投稿(^^)

投稿者[ kouji ] 発言日時 [9月4日(月)17時45分38秒]

元の発言 [ Re: 三神三獣鏡について@お遊び投稿(^^) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月3日(日)20時32分40秒 ]

おにりんさん、どうも!

>>
 どうでしょうね。
 「倣製」三角縁神獣鏡が入り始める古墳というのは、奈良では、佐味田宝塚とか新山ですよね。箸墓が三世紀半ば、中期古墳の出現が四世紀後半中という年代観で考えると、佐味田宝塚とか新山あたりは四世紀前半か、せいぜい初頭ぐらいだと思います。
 箸墓を三世紀前半まで遡らせても、中期古墳の出現時期が動かないと、佐味田宝塚とか新山あたりの年代はそんなに動かないのではないでしょうか。

>>
 佐味田宝塚や新山は、いわゆる景行陵と並行ぐらいじゃないんですか?




54

Re: Title 新説「北部九州玄海灘沿岸地域は倭国ではなかった!」

投稿者[ 田 ] 発言日時 [9月4日(月)19時23分18秒]

元の発言 [ Title 新説「北部九州玄海灘沿岸地域は倭国ではなかった!」 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月3日(日)18時08分13秒 ]

いつも大論争楽しく拝見しています。

>>
>>
>>
>>
伽耶地方の山間部の小国家群は、日本海全体の交易を握っていたために潰されなかったとするより、軍事的な攻撃により特産品の鉄の産地として機能しなくなるおそれと地形的に侵略することのコストが大きいことから無事だったと絞って考えるべきではないでしょうか。


>>
>>
>>
おにりんさんのおっしゃる通り、九州北岸と半島南部との間には、緩衝地帯というか交流拠点として倭人韓人漢人が雑居する日本列島内の他の地域からある程度独立した倭種の国があったと考えるべきでしょう。
韓半島南部と九州北岸(玄界灘沿岸地域)との物流は、食糧自給(米についてですが)のできない對馬国、一大国が相当古くから南北市擢で成り立っていたらしいことから活発に行われていたのでしょう。
特にわざわざ行程に入っている末盧国が、對馬、一大両国とともに、狗邪韓国との海上(渡海)輸送専門の集団を形成していたことは十分考えられるというか、外洋航海が可能な船という設備投資は、経営規模の小さい倭の国々にとってアウトソーシングすることが必然のような気がします。
少なくとも對馬一大両国の人たちが食べていけるだけの海上輸送マージンを確保するには、半島と九州の間の海上輸送の独占ぐらいは必要なように思います。

魏志倭人伝に出てくる倭国が邪馬台国を中心とした一つの固有の国家を表すとすれば、これらの国々は倭国に該当しないのでしょう。
ただ、伊都国については郡使の常駐する場所であり、奴国も金印の奴国だとすれば、末盧国以外は倭国の一部と考えたほうが理解し易いとも思います。

話はずれますが、「末盧国」の「盧」の字は、単に倭人の言う国の名前の音を当てた字にしては難しすぎるようで変な気がするのですが。
「不彌国」の「彌」も書きずらそうですが、これは邪馬台国の官の名など広く使われていますので当て字なんでしょう。
「毘盧遮那仏・盧遮那仏」の「盧」だから当て字でもいいのかもしれませんが。





55

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ 避雷針 ] 発言日時 [9月4日(月)20時13分46秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月4日(月)13時44分24秒 ]

おにりんさん、今日は。

>>
以下に私の論文(東アジアの古代の会のHP資料室)から一部を抜粋しました。

        『出雲国風土記』

 天平五年(733)の『出雲国風土記』は様々な土地の間の距離を詳細に示しており、1里は300歩である。
 神門郡に神門の水海があり、その周囲は三十五里七十四歩(10574歩)とある。出雲郡の郡家から大原郡の堺は一十五里三十八歩(4538歩)とある。島根郡の郡家から朝酌郷は南一十里八十四歩(3084歩)(解本)、山口郷は南四里二百九十八歩(1498歩)、手染郷は東一十里二百六十歩(3260歩)(底・鈔本)、方結郷は東二十里八十歩(6080歩)とある。
 これらが尺と歩の関係(1歩=6尺)を一定として、89:101の比で換算されていたとすると、次のようにもとは50歩(=300尺)を単位としている。換算尺度の候補は26.6cmから30.2cmである。
  89:101=26.6:30.2
  30.2×10574=26.6×12000
  30.2 ×4538=26.6×5150
  30.2 ×3084=26.6×3500
  30.2 ×1498=26.6×1700
  30.2 ×3260=26.6×3700
  30.2 ×6080=26.6×6900
 以上のように、大宝令制以前には26.6cmの尺度で300尺(79.8m)を単位として距離が測られていたと見られる。
 ここで、前述の周制の歩が26.6cmであったとすると、その300倍である80mは周の1里に相当していたと仮定することができる。その場合、周制の里が倭国では7世紀まで行われていたことになる。

          中国の史書の里の換算

 漢代以降の文献における中国周辺部での里程の記述には、26.6cm程度の300尺を1里とするものから当時の1800尺の里に換算されたと見られる例がある。
 『漢書』の西域伝に諸国の距離関係の記事がある。難兜国は都護の治所(烏塁城)まで二千八百五十里、罽賓国は都護の治所まで六千八百四十里(西域伝六十六上)、蒲類国は長安から八千三百六十里、都護の治所まで千三百八十七里とある(西域伝六十六下)。換算比を57:50とすると次のようにもとは千里の倍数(または有効数字が二桁)となる。換算尺度の候補は26.6cmから23.3cmであり、23.3cmは前漢代の尺度である。
  57:50=26.6:23.3
  23.3×1800×2850=26.6×300×15000
  23.3×1800×6840=26.6×300×36000
  23.3×1800×8360=26.6×300×44000
  23.3×1800×1387=26.6×300×7300
 また、于闐国は長安から九千六百七十里、皮山国は長安から一万五十里、捐毒国は長安から九千八百六十里、無雷国は都護の治所まで二千四百六十五里とある(西域伝六十六上)。換算比を157:138とすると次のように51、52、53の千倍となる。換算尺度の候補は26.5cmから23.3cmである。
  157:138=26.5:23.3
  23.3×1800×9670 =26.5×300×51000
  23.3×1800×10050=26.5×300×53000
  23.3×1800×9860 =26.5×300×52000
  23.3×1800×2465 =26.5×300×13000
 地理志に西南部の益州の広漢郡の白水は九百五十里を行き、同じく蜀郡の江水は二千六百六十里を行き、哉水は三千四十里を行き、同じく益州郡の橋水は千九百里を行くとある(地理志八上)。換算比を上記と同じく57:50とすると次のように千里の倍数となる。
  23.3×1800×950 =26.6×300×5000
  23.3×1800×2660=26.6×300×14000
  23.3×1800×3040=26.6×300×16000
  23.3×1800×1900=26.6×300×10000
 以上では26.6cmの300倍による里数が6で割切れないものが多く、その1里が1800尺ではなかったことを示している。

>>
>> これは『日本書紀』の尺度体系に関わってくる問題で、そうすると7世紀末までは1里=1800尺よりも遙かに短い里が用いられていたということになります。

上記の『出雲国風土記』での換算例でも分かるように、大宝令制の後で尺度が30.2cm程度になっていることは明らかですから、その前の時代に26.6cmの300倍の長さの単位があったことが示されていると考えます。

勿論、『日本書紀』などには定義は示されていません。(示されていれば皆苦労はしませんね。)

>>
>>
『日本書紀』の崇神の記事は当然、『日本書紀』がいっている時代より後ですね。6−7世紀頃の観測による資料だったのではないでしょうか。





56

Re: で、九州裏諸王朝説はいかがかなーと。

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月4日(月)20時14分02秒]

元の発言 [ Re: で、九州裏諸王朝説はいかがかなーと。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月3日(日)20時18分16秒 ]

>> #なにせ、「女王国」だったんだから。
>> #「倭国」は東の海の向こうにある「倭種」の国が後に名乗ってるっす。
>>
#オチャラケの部分にレスを頂いてありがとうございます。
#本題の部分へのレスは?




57

Re: 天下分け目の合戦!

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月4日(月)20時20分09秒]

元の発言 [ 天下分け目の合戦! ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月4日(月)01時51分41秒 ]

>>
>>
#初耳です。もっと詳しく教えて下さい。
#山陰から北部九州独特の「複合口縁壺」が出土しているのは知ってますけど。

>>
>>
>>
#「前方後円墳」が吉備から起きた墳墓だってことですよネ。



58

Re: いろいろ纏めると、、。

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月4日(月)20時34分24秒]

元の発言 [ Re: いろいろ纏めると、、。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月3日(日)20時27分26秒 ]

>>
#そうなんですか。終わりですか。
#それでは、お名残惜しいですが、さようなら。



59

Re: Title 新説「北部九州玄海灘沿岸地域は倭国ではなかった!」

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月4日(月)23時52分58秒]

元の発言 [ Re: Title 新説「北部九州玄海灘沿岸地域は倭国ではなかった!」 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月4日(月)09時42分21秒 ]

こんばんわ

>>
>>
ということは、出雲には行ってないのかな?どっち?
例の朝鮮通信使では、よらない所は何も書いてない。
ということで、聞いた距離(日数)だけ表記したんですね。
まあ、日本海航路と瀬戸内航路ですから、寄れるわけも
ないですが。

九州西部と畿内はずいぶん遠いけど、北九州の取り合いで
仲が悪かったと考えればいいのでしょうか?
スタート地点のすぐとなりが狗奴国ですか。
なかなか面白い発想ですね。






6

Re: Title三角縁神獣鏡と連弧文銘帯鏡そろって出土

投稿者[ ま さ ] 発言日時 [9月1日(金)16時21分40秒]

元の発言 [ Title三角縁神獣鏡と連弧文銘帯鏡そろって出土 ] お名前 [ ま さ ] 日付 [ 9月1日(金)15時18分51秒 ]

もっと詳しいこちらを↓



60

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月5日(火)01時04分31秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月4日(月)16時48分28秒 ]

>>
でも変ですね。
千里は五百里になっている(半島ー対馬など)けど
トータルは魏志倭人伝と一緒なんてね。

これは、ちょっとちがうのではないかな?

>彼等は、釜山から堺までの距離を、四千里と認識してい
>る。この四千里という距離は、旅発つ前の認識であり、
>帰国後もこのように考えていた。
>韓国における当時の一里は、中国唐隋時代の一里とほぼ同>じ500m強だと考えられる。
>すなわち2,000kmを超える距離と認識していたわけ>である

>一方、魏志倭人伝では、郡から狗邪韓国までを七千里とす>る。
>総距離一万二千里とすれば、狗邪韓国(釜山)から邪馬台>国までは、五千里である。魏の時代の一里、430mで換>算すれば、こちらも2,000km強である。ひょっとする>と、朝鮮通信使の認識は、千年以上も前の、『三国志』の>認識をそのまま、踏襲していたのではなかろうか。

半島から九州までの海路の認識がぜんぜん違う。
魏志倭人伝の3000里を1130里と認識しています。

九州から堺までの距離が片や1500キロ、魏志倭人伝で
は650キロくらいですよ。
もし三国志の認識を持っていたなら、九州から畿内まで
1500里も知っていたでしょう。それを3000里近く
と考えていたとは。
別の認識からの数字ではないでしょうか?






64

Re: 三神三獣鏡について@お遊び投稿(^^)

投稿者[ 池ちゃん ] 発言日時 [9月5日(火)05時27分14秒]

元の発言 [ Re: 三神三獣鏡について@お遊び投稿(^^) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月3日(日)01時51分25秒 ]

 おにりんさん、おはようございます。
コメントが遅れてごめんなさい(パソコンがまた壊れたのです(TT) )
>>
>>
>>
#北部九州が中国的な社会ですか?
倭人伝を読む限りでは、そんな風には感じませんが。
どこら辺が中国的なんでしょう?




65

Re: ちょっと水を・・・(^^;)

投稿者[ 池ちゃん ] 発言日時 [9月5日(火)05時46分36秒]

元の発言 [ 天下分け目の合戦! ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月4日(月)01時51分41秒 ]

 まぁ、確かにロマンはありますが、
大戦争なんてのはなかったんじゃないですかね?
古事記なんか見ても、大きな戦争があったようには
見えないですね。
 安芸や吉備でじっと様子をうかがっていて、隙ありと見て、一気に攻めあがる・・・という風にしか見えないんですな。
 かつて、私もすごい構想を考えていたものです。
出雲の国から追放された”タケミナカタ”が”タケイカヅチ”の追っ手と戦いつつ、諏訪に入り、ここの豪族の”洩れ矢”と同盟を結び、最後に諏訪の”木落し坂”で決戦に持ち込んで、大木を上から落として撃退するというものです。
・・・小説的にはけっこう面白いと思わん?


66

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月5日(火)07時30分23秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月5日(火)02時34分30秒 ]

おはようございます

>>
>>
4000里の概念はあっただろうと書いてありますから
そうなのかもしれませんが。
ただ、半島と九州の距離は、ずっと以前から交流も
あることで、その間の距離が3世紀のままの認識とは
思えないが。






7

Re: 三神三獣鏡について@お遊び投稿(^^)

投稿者[ 池ちゃん ] 発言日時 [9月1日(金)21時46分40秒]

元の発言 [ Re: 三神三獣鏡について@お遊び投稿(^^) ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 9月1日(金)13時18分25秒 ]

>> 池ちゃんさん、レスが遅くなり、失礼しました。

こんばんわ。わざわざ、ありがとうございます。


>>  殺生です。気になってし方ありません....

#”乳”と聞いて、よからぬ想像をするような人間ですから、こういう人間のマニアックな漢字の使い方というと・・・(〜○〜)(^○^)(^^;)

>>  どうでしょう?内区を四ないし六分割する目印ぐらいに考えている人が多いようですが。

#(個人的な感想ですが)中国では、星の運行を観察して吉兆を占うことをやっていたと思いますが、そういう思想が宇宙を表しているはずの銅鏡に反映されないのは不思議ですね。
 あくまで、銅鏡と言うのは願掛け用だったということでしょうか?
 
 
>>  三神三獣鏡は椿井大塚山古墳から出ている。椿井大塚山古墳は、『庄内式土器(弥生時代末期)に布留式土器(古墳時代初頭)が一部混在』(山城町教育委員会)する時代のものです。寺澤編年だと布留0式といわれる時代ですが、布留0式っていうのは、三角縁神獣鏡の副葬が確認される最古の時代なんです。ここからすると、布留0式のうちに、三角縁神獣鏡が生まれ、多種多様なバリエーションが派生して、さらに三神三獣鏡に収束する過程が始まることになります。最初期の三角縁神獣鏡が239年・240年の紀年鏡ですから、この当たりを起点として、多分、三世紀の第三四半期の内には、三神三獣鏡が出現していると考えていいと思います。

#妙な質問ばかりぶつけてしまって恐縮なんですが、
中国で”四神”は銅鏡だけの神様なんでしょうか?
ニーズがそういう要求をしたからといって、簡単に削れるものなんでしょうか?
 私は”一部魏鏡説”で現在、出土している三角縁神獣鏡はほとんどが”倭”(倭人が造ったか、大陸の工人が作ったかは置いといて)で造られたものではないかと考えているのです。
 三神三獣鏡こそがその証拠ではないでしょうか?
 重要なのは中国で考えられた”神”を消してもかまわないと言う、価値観を持った人間が作っているということです。そして、それが許される環境だったということです。

>>  やっぱり東京のほうが競争が激しいんでしょうか?

#激しいなんてもんじゃないですね。
諏訪は競争も確かにありますが、東京ほどではありません
 逆にいうと、まずい店が多い(もっと言えば、まずい店がほとんど)です。諏訪に遊びにくるときは、前もって言ってくださいね。安くてうまい店を探すのは結構大変なんですよ(^^)


75

Re: Title 新説「北部九州玄海灘沿岸地域は倭国ではなかった!」

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月5日(火)17時03分59秒]

元の発言 [ Re: Title 新説「北部九州玄海灘沿岸地域は倭国ではなかった!」 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月5日(火)02時19分57秒 ]

>>
>>
>>
これは、ぼくもそう考えていたときがあります。
かつて畿内説を考えていた場合、距離などを考えていた
時は、日本海航路を取っていました。
吉備を狗奴国にすれば、なんとかいけるかなと。
瀬戸内は通れなかった。ってことでね。

そうすると、畿内に負けない大きさの古墳を造る事も
可能だっただろうと。
瀬戸内を持っている吉備に卑弥呼の邪馬台国が負けて
畿内を取られた。が、まとまらずに戦争が起き、
再び直系の台与で、復活。なんてね。

21ヶ国なんですが、そのベルトラインですか、
その場合、吉備はどうなるのかですよね。
朝鮮通信使も寄っているようですが、吉備の記述が
ないことになりませんか。






76

Re: Title 新説「北部九州玄海灘沿岸地域は倭国ではなかった!」

投稿者[ 田 ] 発言日時 [9月5日(火)17時41分15秒]

元の発言 [ Re: Title 新説「北部九州玄海灘沿岸地域は倭国ではなかった!」 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月5日(火)11時40分08秒 ]

>> 伽耶地方の山間部の小国家群は、日本海全体の交易を握っていたために潰されなかったとするより、軍事的な攻撃により特産品の鉄の産地として機能しなくなるおそれと地形的に侵略することのコストが大きいことから無事だったと絞って考えるべきではないでしょうか。

>>
>>
對馬一大両国は日本海全体の交易を握っていたことと渡海攻撃のコストが明らかに大きいために、実質的に独立を保っていた方に絞って考えたいですね。(無用の摩擦を避ける意味で官を置かれてはいたが、両国の実権は船長たちが握っていたと考えれば、ほとんど独立国ですね。)
九州北岸ですが末盧国は対馬一大両国が実質的に運営する港として位置づけられないかと思います。
九州北岸は渡海攻撃のような困難さはないので、對馬や一大と同じにはならないですが、海に逃げ出す用意があったり、攻められたら海上交通を封鎖して対抗されるとすればやはり独立を保つことは可能かもしれません。ただその場合、海洋通商国家の拠点は伊都国ではなく、一大なり對馬が中心になりそうな気がしますのでなんとも、伊都国に王さえいなければ。

>> 特にわざわざ行程に入っている末盧国が、對馬、一大両国とともに、狗邪韓国との海上(渡海)輸送専門の集団を形成していたことは十分考えられるというか、外洋航海が可能な船という設備投資は、経営規模の小さい倭の国々にとってアウトソーシングすることが必然のような気がします。

>>
>>
>>
経営規模が小さいと書いたのは、魏のような国家に比べて小さいという意味でして、人数は多くても大部分は自給自足のために必要な部門で、外洋船舶建造及び運用のための部門を邪馬台国なり投馬国が自前で持つのは荷が重いのではないでしょうか。

いつでも岸に着ける内陸沿岸航路の船と渡海船はやはり大きく異なっていたのでしょう。
それだけのものを国内で生産できたかどうかわかりませんが、少なくとも魏使が荷物を積んで渡海することを一応了解できるだけの安心して乗れる船だったのでしょう。
もしかしたら、中国の構造船を手に入れていたのかもしれません。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
当然、對馬以南は確実に倭(魏志の倭国ではない)の領域であったと思います。
ただ、この地域の倭人のルーツの一つは中国及び韓半島からの渡来者なり漂流者でしょうから、なぜここから倭とするかですが、あまり積極的にはなれませんが、あえて言えば、倭の領域である對馬以南に長く住んでいるのは倭人という公理によることにしてもいいのではないでしょうか。


>> 魏志倭人伝に出てくる倭国が邪馬台国を中心とした一つの固有の国家を表すとすれば、これらの国々は倭国に該当しないのでしょう。
>> ただ、伊都国については郡使の常駐する場所であり、奴国も金印の奴国だとすれば、末盧国以外は倭国の一部と考えたほうが理解し易いとも思います。

>>
>>
>>
吉備、東海、出雲は邪馬台国がどこにあったかで倭及び倭国での位置づけが違ってきますが、個人的には、伊都国は倭国の入り口と考えたほうがすっきりすると思っています。さらに、魏志倭人伝の行程記載は置いといて、伊都国まで行けば一大率や伊都国王がいて、実際に往来していただろう普通の郡使にとって終着点だったような気がしてならないのです。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
韓伝にはたくさん出てきていました。十分確認しないですいません。
ただ、弁辰は「盧」で、馬韓は「廬」なんですね。



77

Re: 三神三獣鏡について@お遊び投稿(^^)

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月5日(火)20時59分06秒]

元の発言 [ Re: 三神三獣鏡について@お遊び投稿(^^) ] お名前 [ 池ちゃん ] 日付 [ 9月5日(火)05時27分14秒 ]

>> #北部九州が中国的な社会ですか?
>> 倭人伝を読む限りでは、そんな風には感じませんが。
>> どこら辺が中国的なんでしょう?
#金印による授爵が中華冊封体制に組込まれているものである、と言う見方ができます。
#最近は「金印国家群」あるいは「金印国家群の時代」という言い方もあります。
#後の「三種の神器」の元になる「鏡、玉である璧」、棺を作る材料の四葉座金具が出土しているのは、
#中華皇帝から冊封体制下の王と認められた者の墓であることの証しですし。


78

Re: 天下分け目の合戦!

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月5日(火)21時15分22秒]

元の発言 [ Re: 天下分け目の合戦! ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月5日(火)02時24分20秒 ]

>>
#比恵遺跡からも、出雲系、畿内系、半島系の土器が出土してます。

>>
>>
>>
#だから、お願いしてるんです。
#おにりんさんなりの噛み砕いた意見を頂きたいのですヨ。

>> #「前方後円墳」が吉備から起きた墳墓だってことですよネ。
>>
>>
>>
#じゃなくて、「前方後円墳」の祖形は何所で興ったとお考えですか。
#以前、吉備だとレスされてませんでしたっけ。




79

Re: ちょっと水を・・・(^^;)

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月5日(火)21時22分21秒]

元の発言 [ Re: ちょっと水を・・・(^^;) ] お名前 [ 池ちゃん ] 日付 [ 9月5日(火)05時46分36秒 ]

>> 大戦争なんてのはなかったんじゃないですかね?
>> 古事記なんか見ても、大きな戦争があったようには
>> 見えないですね。
>>  安芸や吉備でじっと様子をうかがっていて、隙ありと見て、一気に攻めあがる・・・という風にしか見えないんですな。
#一気に攻め上ると言うより、計略を巡らしてって感じですけどネ。
#女に化けたり、剣をすり替えてたり。
#「継体軍」も上陸戦無しにいきなりですから、味方の振りをして近づいたんじゃないか。


8

Re: 三神三獣鏡について@お遊び投稿(^^)

投稿者[ とも」 ] 発言日時 [9月1日(金)23時41分59秒]

元の発言 [ Re: 三神三獣鏡について@お遊び投稿(^^) ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 9月1日(金)13時18分25秒 ]

koujiさん、池ちゃんさん、横から失礼します

>>  最初期の三角縁神獣鏡が239年・240年の紀年鏡ですから、この当たりを起点として、多分、三世紀の第三四半期の内には、三神三獣鏡が出現していると考えていいと思います。

先日の講演会の後の酒席で岡村先生がおっしゃっていたことが気にかかっています。
三角縁神獣鏡は、定説で言われるよりも短い期間に、集中的に作られたのではないか?と先生が仰っていたように記憶しているのですが。

もし、三角縁神獣鏡が10〜20年と言うような短期間に、あれだけの様式変化を起こしているとしたら、これはこれで面白そうですね。

で、ここからは私の想像が入ってくるのですが、三角縁神獣鏡を作った一団と言うのはこれまでの鏡師?達とは性格が異なる集団だったのではないでしょうか?
ある意味では、異端的な存在であったのかもしれない。

だから、当時の中国では、あんまり受け入れられなくて、辺境の方に流れてこざるを得なくなった。
そう考えると、三角縁神獣鏡が日本にのみ存在する理由も、私としては納得できなくも無いんですが。


80

わき道m(__)m

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [9月5日(火)21時31分00秒]

元の発言 [ Re: Title 新説「北部九州玄海灘沿岸地域は倭国ではなかった!」 ] お名前 [ 田 ] 日付 [ 9月5日(火)17時41分15秒 ]

>> いつでも岸に着ける内陸沿岸航路の船と渡海船はやはり大きく異なっていたのでしょう。
>> それだけのものを国内で生産できたかどうかわかりませんが、少なくとも魏使が荷物を積んで渡海することを一応了解できるだけの安心して乗れる船だったのでしょう。
#対馬一大両国はそれよりズーっと以前から南北に市擢しているのですが、
#どうやって渡海船を造ったんでしょうネ。


81

Re: 三神三獣鏡について@お遊び投稿(^^)

投稿者[ kouji ] 発言日時 [9月5日(火)21時59分52秒]

元の発言 [ Re: 三神三獣鏡について@お遊び投稿(^^) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月5日(火)14時05分09秒 ]

こんばんは!

>>
>>
 そうなんですよね。天神山のは、三角縁神獣鏡を真似して作ったようには見えるんですが。所謂、倣製三角縁神獣鏡の系列には属さないんじゃないですかね。佐味田宝塚や新山の出土鏡なんかと比べると遙に退行していますよね。


>>
 そこら辺を境に倣製三角縁神獣鏡が出現!というのが、理解しやすいストーリーではあるんですよね。




82

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ 蛟児 ] 発言日時 [9月5日(火)22時00分14秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ 避雷針 ] 日付 [ 9月2日(土)07時17分41秒 ]

>> このように、690年代に飛鳥地方、ひいては奈良地方の政治的な性格が大きく変革していると見られます。

 どのように変革したとお考えですか?



83

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ 避雷針 ] 発言日時 [9月5日(火)23時25分05秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ 蛟児 ] 日付 [ 9月5日(火)22時00分14秒 ]

>> >> このように、690年代に飛鳥地方、ひいては奈良地方の政治的な性格が大きく変革していると見られます。

>>  どのように変革したとお考えですか?

一応、慎重な言い方をしています。

ただ、一つの推測をさせていただければ、690年代以前の飛鳥(奈良)地方はある政治的な中心から見て東方にある役所(総領とか大宰とかいわれている機構)が置かれた地方であった可能性を想定しています。
そうであるとすれば、木簡がその東方の地方からしか来ていなかったと見られることの説明になります。

690年代後半の木簡状況はその飛鳥地方に新たな勢力が入り、かつ政治的な中心との間に対立的な関係にあったことを示しているように推測されます。
これは、その時期から奈良地方の西方からの木簡が現れることと、九州地方からの木簡がない(中国地方の西部は急減する)ことによります。



84

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ 避雷針 ] 発言日時 [9月5日(火)23時26分12秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ 蛟児 ] 日付 [ 9月5日(火)22時00分14秒 ]

蛟児さん、今日は。

>> >> このように、690年代に飛鳥地方、ひいては奈良地方の政治的な性格が大きく変革していると見られます。

>>  どのように変革したとお考えですか?

一応、慎重な言い方をしています。

ただ、一つの推測をさせていただければ、690年代以前の飛鳥(奈良)地方はある政治的な中心から見て東方にある役所(総領とか大宰とかいわれている機構)が置かれた地方であった可能性を想定しています。
そうであるとすれば、木簡がその東方の地方からしか来ていなかったと見られることの説明になります。

690年代後半の木簡状況はその飛鳥地方に新たな勢力が入り、かつ政治的な中心との間に対立的な関係にあったことを示しているように推測されます。
これは、その時期から奈良地方の西方からの木簡が現れることと、九州地方からの木簡がない(中国地方の西部は急減する)ことによります。



85

Re: 尺について、自分で考えるためのベースとなる質問です。

投稿者[ 避雷針 ] 発言日時 [9月5日(火)23時58分50秒]

元の発言 [ 尺について、自分で考えるためのベースとなる質問です。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月5日(火)11時59分25秒 ]

おにりんさん、今日は。

>>
>>
>>
>>
漢尺が23cmあたりから次第に伸びていったことはモノサシの出土等から分かっています。
26.6cmの方は日本では法隆寺や遺跡からの復元により分かっています。

>>
またも私の論文から以下に一部抜粋します(これも東アジアの古代の会のHP資料室から)。
長くなるのでここに抜粋していませんが、下記の19.6cmの尺度は日本の現存建築にも豊富な例があり、18.8cmも遺跡等から復元できます。

        始皇帝の驪山陵

 中国の陝西省の咸陽に秦の始皇帝の驪山陵があり、墓壙(外口)とそれを囲む内城・外城の壁の規模は次のとおりである 。これらは1.2と√2という乗数を用いることによって次のように表すことができる。
  墓壙 東西  485  22.9×1500×√2
     南北  515  22.9×2250
  内城 東西  580  22.8×1800×√2
     南北 1355  22.8×4200×√2
  外城 東西  940  23.1×2400×1.2×√2
     南北 2165  23.1×7800×1.2
驪山陵は乗数を除いて内城は22.8cmの尺度の600尺の倍数、墓壙は22.9cmの尺度の750尺の倍数、外城は23.1cmの尺度の600尺の倍数によって作られていたと見られる。
 中国では尺度は秦の時代の23cm程度から漢、三国時代、晋、南北朝の時代にわたって次第に尺度が伸び、南北朝の時代には24cm台後半となっている。

        孔子の身長

 長沙の前漢の馬王堆墓から楽器の黄鐘管が出土しており、長さが17.65cmである。前漢の『史記』(前1世紀)によると黄鐘は音律の基準であって、その管の長さは九寸とある(律書三)。
  17.65=19.61×0.9
この19.6cmは、この前漢の当時に伝統的な尺度基準とされていたと見られる。
 『史記』に春秋時代の孔子の身長が九尺六寸であり、長人と言われたとある(孔子世家十七)。その子孫の子襄も同様である。また、『孔子家語』に孔子の父の叔梁?は身長が十尺とある(本姓解三十九)。『史記』の記事の尺が19.6cmに相当していたとすると、その9尺6寸は188cmとなる。
  19.6×9.6=18.8×10
 古代の中国では長身の人の身長を一丈(十尺)もあるといい、このような男子のことを「丈夫」と称している。孔子の時代に用いられていた10尺という表現は長身の人の身長程度の長さをいっていたと考えることができる。
 『史記』における孔子の記事は、春秋時代の一丈の身長という伝承が19.6cmの尺度で換算して記述されたものと見ることができる。このように、前漢代から見て伝統的な尺度として19.6cmを単位とするものがあり、一方、春秋時代に18.8cmの尺度があったと考えることができる。
 19.6cmの尺度は殷墟、18.8cm程度の尺度は西周代の宮殿跡に見出すことができる 。

        史書に見られる身長

 中国の史書の記事において、伝承に基づく長さの数字に端数をもつものがあり、それらはもとは整数であったものがその当時の尺度に換算して書き直されたものであると考えることができる。
 次は前漢代の史書で19.6cmの10尺が丈夫として伝承されていたと見られる例である。『史記』に戦国時代の韓の韓王信は身長が八尺五寸とある(韓王信列伝三十三)。
  23.1×8.5=19.6×10
23.1cmは前漢代の尺であり、19.6cmの尺度から換算されたと見られる。
 一方、18.8cmの10尺を丈夫としていたと見られる例もある。後漢代の『漢書』に金日・の身の丈が八尺二寸とあり(金日單伝三十八)、昭帝の身の丈が八尺二寸とある(外戚伝上六十七)。
  22.9×8.2=18.8×10
朱雲の身の丈が八尺余とある(朱雲伝三十七)。
  23.2×8.1=18.8×10
22.9cmや23.2cmは漢代の尺度である。また、『荘子』にも盗跖という伝説的な大盗の身長が八尺二寸とある(二十九盗跖篇)。
 次は、朝鮮と倭国の史書において18.8cmの尺度を26.6cm程度の尺度に換算したと見られる例である。
 『三国史記』では新羅の阿達羅尼師今(2世紀)、法興王(6世紀)、真徳王(7世紀)、百済の仇首王(3世紀)の身長は七尺、百済の黒歯常之(7世紀)の身長は七尺余とある。『日本書紀』では猿田彦大神の背長が七尺余とある(神代九段)。
  26.6×7.07=18.8×10
 『日本書紀』では仲哀天皇の身長が十尺(仲哀前紀)、日本武尊の身長が一丈(景行二年)とある。これらは18.8cmの10尺を述べていると考えられる。

>>
>>
>>
上記の論文には入れていませんが、西域においても26.6cmの尺度からと見られる換算例があります。

この尺度が周の尺度であったとすると、秦漢代に中国の中心部で尺度が大きく変化した後も、その権力が及ばない周辺地域においては従来の尺度が用いられ続けていたのではないかと推測しています。





87

Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前)

投稿者[ 蛟児 ] 発言日時 [9月6日(水)00時12分25秒]

元の発言 [ Re: 奈良地方は倭国だったのですか?(承前) ] お名前 [ 避雷針 ] 日付 [ 9月5日(火)23時26分12秒 ]

 早速のレス、ありがとうございます。

 重ねての質問になりますが、

1.694年頃以前の紀年があり、且つ国名のある木簡
2.694年頃以降大宝律令施行までの紀年があり、且つ国名のある木簡

は、それぞれ何件あるのでしょうか?


>> ただ、一つの推測をさせていただければ、690年代以前の飛鳥(奈良)地方はある政治的な中心から見て東方にある役所(総領とか大宰とかいわれている機構)が置かれた地方であった可能性を想定しています。

>> 690年代後半の木簡状況はその飛鳥地方に新たな勢力が入り、かつ政治的な中心との間に対立的な関係にあったことを示しているように推測されます。

 ここで言われている「政治的な中心」というのは、九州の地名のある木簡が奈良地方から出ていないということに論拠があることから考えて、その所在地は九州であると考えておられると推測されますが、そう考えてよろしいでしょうか?


91

Re: わき道m(__)m

投稿者[ 田 ] 発言日時 [9月6日(水)00時33分58秒]

元の発言 [ わき道m(__)m ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 9月5日(火)21時31分00秒 ]

オヤジッチさん、こんばんは。

>> >> いつでも岸に着ける内陸沿岸航路の船と渡海船はやはり大きく異なっていたのでしょう。
>> >> それだけのものを国内で生産できたかどうかわかりませんが、少なくとも魏使が荷物を積んで渡海することを一応了解できるだけの安心して乗れる船だったのでしょう。
>> #対馬一大両国はそれよりズーっと以前から南北に市擢しているのですが、
>> #どうやって渡海船を造ったんでしょうネ。

ある程度外洋航海が普及してから韓半島や中国本土から渡来した人々は漂着した場合を除き渡海船で渡来したと思います.
あえて對馬などに定住することにした集団はやはり航海術に長けた人たちで、渡来時に持ち込んだ船を使った市擢を行った、逆に、これが可能だったので對馬に定住するようになったと考えられないでしょうか.
当然船は壊れたり、古くなったり、中には失われるものも出るので、いつか新しい船を手に入れる必要があります.
船は對馬などの人たちには生活の糧でしょうから、船の修理技術は持っていたでしょうし、船大工のような技術者も集団に加わっていたかもしれない。
韓半島や中国本土で作られた船を購った可能性のほうが高いのかも.


94

Re: 尺について、自分で考えるためのベースとなる質問です。

投稿者[ 避雷針 ] 発言日時 [9月6日(水)12時24分51秒]

元の発言 [ Re: 尺について、自分で考えるためのベースとなる質問です。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月6日(水)00時21分59秒 ]

今日は。

>>
換算はいくつかの例が同じ比率で行われていることが分かれば、換算された後の値はその史書が書かれた政府の正統な尺度になっていますから(そこに若干の幅があるとして)、一意的に定まります。
何とでもなるというものではありません。

>> この尺度が周の尺度であったとすると、秦漢代に中国の中心部で尺度が大きく変化した後も、その権力が及ばない周辺地域においては従来の尺度が用いられ続けていたのではないかと推測しています。

>>
>>
秦が尺度の統一をしたときにそれ以前の秦の尺度をそのまま用いていたかどうか分かりません。私は新たな尺度を採用した可能性が少なからずあったと思います。(何らかの対応・比率関係はあった筈ですが。)

西の辺境の秦が中国の統一支配者となり、その尺度を漢が継承した訳ですが、新たな中央政府に従っていない辺境勢力にとって新たに定められた尺度を用いる義理はない訳で、実際に権力が強制的に変更しなければ尺度の使用はきわめて保守的です。
周辺民族にとって最初の文明として遭遇したに等しい周の制度は強烈なインパクトを持ち、長く残っていたのではないでしょうか。

例えば、日本政府がメートル法を強制することを止めれば、土地の広さとしての坪の使用は制度的に復活してもおかしくないでしょう。





98

Re: 池ちゃんさんの投稿よめません。koujiさんと同時だったのかな。

投稿者[ 池ちゃん ] 発言日時 [9月6日(水)19時50分56秒]

元の発言 [ 池ちゃんさんの投稿よめません。koujiさんと同時だったのかな。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月6日(水)00時24分09秒 ]

>>
#こりゃ、珍しいな。

>どこがすごいとおもいましたか?

#余談ですが、ひらがなだけの文章って、やさしくて好きです(^^)
 子供の頃からこの伝説(諏訪明神が出雲出身だという伝説)を聞いたときから、ロマンを感じていました。
「よくも、こんな大昔に遠いところから来たもんだ」と。
 実を言うと、私の古代史に興味を持ったきっかけだったのです。
 これをライフワークにしようと、一時(誠に恥ずかしながら)学者を目指していたことがありました・・・うーん
・・・懐かしいな・・・あれから18年か・・・
(遠い目)・・・

2.あと、御柱と絡めたところかな。
いや、本気で考えていた時期があったのですよ。
”木落し”は実は外敵を追い払った、戦術だったんじゃないかって。木曽義仲は倶利伽羅峠で、タイマツをつけた牛を使ったけど、諏訪では大木を使ったんじゃないかって・・・あくまでも小説的な発想ですがね。

 小説よりも映画にした方が、迫力があっていいかも。


 古代史とはまったく関係ない話ですみませんね。
消えた投稿の内容はこんな感じです。
では。では。






99

Re: わき道m(__)m

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [9月6日(水)20時01分22秒]

元の発言 [ Re: わき道m(__)m ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月6日(水)13時19分53秒 ]

わき道ということですので

吉備や畿内など、あまり外洋航海が得意とは
おもわれない地方が、関門海峡を通り抜けて
中国まで船を出したんでしょうか?
吉備や畿内の土器は半島からは出てこないんですよね。

九州の船が、瀬戸内を通ることは簡単ですよね。
日本海航路を通行することは、日常的にあったわけ
ですから。
ところで、瀬戸内の水軍が玄界灘を渡れるのかな?