1

大論争2月號を開始します

投稿者[ 管理人 ] 発言日時 [2月4日(日)01時03分52秒]

今月はちょっとずれこんでしまい、遅れればせながら2月號を開始します。
ひきつづき議論をお楽しみ下さい。(汗顔)


10

Re: 奴國と狗奴國(承前)

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [2月5日(月)22時40分40秒]

元の発言 [ Re: 奴國と狗奴國(承前) ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 2月5日(月)03時03分48秒 ]

koujiさん、こんばんは!

>>  福岡県といえば、玄界灘沿岸方面のほかに、遠賀川流域方面や周防灘沿岸方面、筑後地域なども含んでいるわけですよね。それで四〜五万戸であれば、玄界灘沿岸方面だけで二万戸は無理でしょう。しかも、奴国は、西が伊都国、東が不彌国に挟まれていて、これらの諸国が概ね玄界灘沿岸地域に並んでいたと考えられます。奴国の領域が筑後方面にかなり広がっていたと考えない限り、二万余戸は難しいでしょう。
>>  いずれにせよ、福岡県で四〜五万戸であれば、奴国+邪馬臺国=九万余戸は収まらないことに変わりはありませんね。
#定説では、奴国は福岡平野に比定されていますよネ。
#当時の福岡平野が二万余戸だったと書いてあるってことですよネ。
#筑後方面と仰る範囲にその3倍+αはありえることです。
#なにより、ククチ(菊池)を挟んでクマ(狗奴)があるし。§^。^§


100

Re: ちょっと脇道

投稿者[ マルセ ] 発言日時 [2月15日(木)23時22分42秒]

元の発言 [ Re: ちょっと脇道 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 2月15日(木)21時57分17秒 ]

オヤジッチさん こんばんは


>> 後に“土師氏”と呼ばれる「土木技術者クラン」が居たと考えたらどうでしょう。
>> 元々はムタ(牟田・湿地帯)を耕地に変える灌漑技術を生業にしていたのが、開拓地が開発され尽くしたときにその技術を生かして、各地の首長墓を造るようになった。
>> 青銅器や土器(須玖式に職人集団がいた)の同じようなもの。
>> 違うのは、ものではなく技術を売っていた。

#これは、マルセの「杜氏さんのように、冬になると、古墳築造のための現場監督を派遣する集団」というのと、似た感じのものなんでしょうか。
 まさか、職業訓練校の先生みたいなものではないですよね。

>> いずれにしても、巨大古墳はその背景に「生産余剰」が必要ですネ。

#下に書いた試算が妥当なら、1戸当たり年間18日の労役ですから、意外と大したことないような気がします。


101

柳川って弥生時代は海底?

投稿者[ マルセ ] 発言日時 [2月15日(木)23時25分22秒]

元の発言 [ Re: 奴國と狗奴國(承前) ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 2月15日(木)21時25分22秒 ]

オヤジッチさん こんばんは

>> “柳川”は有ります。方角が違うけど。(^o^)
「柳川」=「有奴國」説が成り立つか、ちょっと調べてみたんですが、古い時代の遺跡は柳川にないみたいです。やっばり、弥生時代は海底ですか?
 それと、柳川の地名の由来もはっきりしません。柳川って川も見当たらないんですよね。



102

Re: ちょっと脇道

投稿者[ 沙庭恭一 ] 発言日時 [2月16日(金)00時10分03秒]

元の発言 [ Re: ちょっと脇道 ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 2月15日(木)23時22分42秒 ]

マルセさん、オヤジッチさん こんばんは

>> >> 後に“土師氏”と呼ばれる「土木技術者クラン」が居たと考えたらどうでしょう。

さ:うーん。いたのかな?管見した限りの負名氏・伴造氏族はいないような覚えが。。。

>> >> 元々はムタ(牟田・湿地帯)を耕地に変える灌漑技術を生業にしていたのが、開拓地が開発され尽くしたときにその技術を生かして、各地の首長墓を造るようになった。

さ:私の理解が正しければですが、上記には賛成できないです。既に八賀晋氏が研究を表してしているが、弥生時代の農耕と古墳時代の農耕は基本的に違います。

1.農耕を営む際の土壌が異なっている。

2.灌漑設備や開墾作業は古墳時代に鉄器の普及で農耕地が 飛躍的に伸びた。それは古墳時代以降まで続く。

私はそのようなことから、必ずしも開拓地が開発され尽くしたとは言えないような気がします。

今のゼネコンが聞けば、よだれが出る話と思いますが。

>> >> いずれにしても、巨大古墳はその背景に「生産余剰」が必要ですネ。

そうそう。。。

>> #下に書いた試算が妥当なら、1戸当たり年間18日の労役ですから、意外と大したことないような気がします。

マルセさん、見積もりありがとうございます。

受注するかは中身を検討して、値段交渉させてください。。。(違うか?)




103

Re: 吉備の位置付け

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [2月16日(金)09時53分45秒]

元の発言 [ Re: 吉備の位置付け ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 2月15日(木)21時56分42秒 ]

>> 東海の後期の土器は、畿内V様式の影響を受けながら紋様が変化していっ
>> た形跡があるらしいです。何に書いてあったか、今ちょっと思い出せな
>> いんですが。東海系の土器は後期の終り頃から庄内にかけて主に東に向
>> かって動いているようですね。

そうですか。

>> >> 赤塚氏は庄内土器形成に東海土器の影響があるようなことを書いていますが。

>> 庄内と言っても、器種によってちがいがあり一概には言えないと思いま
>> すが、これはホケノ山で出た例の加飾壺のことでしょうか?それなら、
>> そういう話はあるようですね。ただ、公正さんによれば畿内の影響で東
>> 海で作られた可能性もあり議論になっているという話でした。

>> http://www.netlaputa.ne.jp/~k-salt/bbs0004/bbs/114.html

器台、加飾壺、そして庄内甕までもー
この人は何でも東海系に見える人でしょうかね?


104

Re: 大和の征伐空白域(割り込みで失礼)

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [2月16日(金)10時08分21秒]

元の発言 [ Re: 大和の征伐空白域(割り込みで失礼) ] お名前 [ 沙庭恭一 ] 日付 [ 2月15日(木)22時55分55秒 ]

>> ○"ヤマト王権の謎をとく"には入っておりません。
>>  あるとすれば、近所の大きい図書館あるいは史学科を持っている大学図書館にてコピーを取られたほうが宜しいかと思います。
>>  因みに本体は、5000円以上するので、この分だけのために買うのはもったいないような気がします。

>> >> イワレヒコ=オオヒコとまで書いてあれば買うんですが・・・

>> ○さすがにそこまでは書いてないです。

そうですか。

>> >> いずれにせよメスリ山の周囲には後の大伴氏関連の墳墓が多くあるそうで、そう不自然でもないかなと思っています。

>> ○WHY?阿部氏ではなく、なぜ大伴氏?
>>  新沢千塚なら、分かりますが。

阿部氏の間違いです。
このあたりの氏族名と役割など最近調べ始めたばかりで頭の中が大混乱しております。


>> >> なにかよい一般書籍はないでしょうか・・・

>> ○うーん。私が管見した限りでは良い本はないです。

>> >> 丹波は前方後円墳でも、前方後方墳でも、四隅突出でもない独自の墳墓文化を持っていて、赤坂今井墳丘墓などをみればかなりの勢力と思います。(弥生後期ですが)
>> >> 前期古墳時代でも、丹波から近江に抜ける日本海ルートを制する、強力な勢力があったのでは?
>> >> よくある話ですが、大和王権には日本海ルートと瀬戸内ルートによったニ系統があって、崇神は瀬戸内系と考えるのはどうですか?

>> ○瀬戸内海ルートは、ヤマトからの地理上、納得できます。日本海がヤマト側から重要であったかは分かりません。古代丹波王国があって、ヤマトに戦争・対立を挑んだのか?
>>  日本書紀上分かりかねます。街道を設置した際、山陽・山陰と呼称があるので、ヤマト側から言えば、日本海側をあまり意識していなかったのではないでしょうか?

>> >> 伊勢風土記逸文には、天日別命に追われて土着神伊勢津彦命が東に去るとき「吾今夜を以て八風を起し海水を吹き波浪に乗して・・・」(総国伊勢風土記)等とあるようですが、なにかごぞんじですか?

>> ○伊勢津彦命ははっきり言って分からないです。東方へ行ったあとどうなったのか?
>>  因みに播磨国風土記には、出雲系の神で登場しますが。
>> 私は大学の時、調べましたが、お手上げです。
>> 史料がこれだけしないので。
>>  ただ素朴な疑問は畿内に出雲系の神がやたら多く、これをどう解釈するか?
>>  何か良い答えはないですか?

出雲と物部はいたるところに出てきて、私にはお手上げです。
纏向近くにも出雲庄があるし、名張を越えると出雲川がありますし。
その他大勢を皆一緒にしてるようにも思いますが・・・


105

Re: 吉備の位置付け

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [2月16日(金)11時36分58秒]

元の発言 [ Re: 吉備の位置付け ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 2月16日(金)09時53分45秒 ]

こんにちは

>> 器台、加飾壺、そして庄内甕までもー

器台は後期の段階から似た特徴を持つものがあるようですね。
もっとも、寺沢と赤塚で併行関係が食い違ったままのようですが。

ところで、これの出典はなんでしょう?

>> この人は何でも東海系に見える人でしょうかね?

なんでも東海系と言っているかどうかはわかりませんが、地元びいきであるこ
とは見て取れますね。


106

またまた間違えました

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [2月16日(金)12時05分18秒]

元の発言 [ Re: 大和の征伐空白域(割り込みで失礼) ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 2月16日(金)10時08分21秒 ]

>> 纏向近くにも出雲庄があるし、名張を越えると出雲川がありますし。

雲出川でした。
ところで伊勢津彦の子孫は相模の国造になったんだとか。
そういえば伊勢原なんて地名もあります。


107

Re: 吉備の位置付け

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [2月16日(金)13時05分54秒]

元の発言 [ Re: 吉備の位置付け ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 2月16日(金)11時36分58秒 ]

>> ところで、これの出典はなんでしょう?

”古代「おおやまと」を探る”です。

>> >> この人は何でも東海系に見える人でしょうかね?

>> なんでも東海系と言っているかどうかはわかりませんが、地元びいきであるこ
>> とは見て取れますね。

土器の変遷をみながら、纏向二式後半の東海からの政治的影響を指摘したがっているような感じです。


108

Title近畿説になんでいくのかわからん

投稿者[ イワイ ] 発言日時 [2月16日(金)20時24分11秒]

アバウトに発言します。なんで邪馬台国近畿説なんていうもんがはびこるのかわからん。魏志倭人伝読んでなんでそうなのか。どうよんだって北九州のこと書いている。日本の古代国家の成立過程こそ興味深いのであって、いつまでも九州にあった邪馬台国を近畿だのなんだのと本当らしく議論するのは止めたほうがいい。それどころか、エミシがいま注目されて日本国って何、という根本的問題が提起されているぞ。大和中心史観なんかくそ食らえ。


109

倭人は万里の彼方

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [2月17日(土)02時34分46秒]

(1) 如淳の情報
 『漢書』 地理志の有名なフレーズ「樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云」に付けた如淳の注が、難解で知られる「如墨委面、在帶方東南萬里」である。と言っても難解なのは「如墨委面」であって、後半「帯方東南万里」は楽浪海中の倭人のことに相違ない。倭人は帯方東南「万里」にあるのである。

--------------------------------------------------
(2) 如淳がこの情報を得たのは魏使派遣より先か後か
  如淳がこの情報を得たのはいつの時点であろうか。

イ. 如淳は魏の陳郡丞である。

ロ.後漢末の公孫度の実態的自立から卑弥呼の朝貢までの半世紀のあいだ
  倭は華夏からの絶域と認識されている。(東夷傳序)

ハ.帯方は公孫康の設置である。

 よって、卑弥呼遣使以前の段階で、楽浪・帯方二郡以外の、つまり本土の魏に住む中国人が倭人の世界を帯方基点で表現することは考えにくい。基点が楽浪でなく帯方であることから、如淳は魏使到達以降にこの注を書いたと考えられる。

--------------------------------------------------
(3) 如淳が得たのはどんな情報だったか
 それはどんな情報だったか

イ.まず(1)より、如淳はタイミング的に魏使の持ち帰った情報を知りうるので、
  そこから「帯方東南万里」という情報を入手していると考えてみる。

ロ.ところが、如淳の数字は「万里」であって「万余里」ではない。如淳が魏略と
  同程度等の情報を入手して 7千余里+千余里+千余里+千余里と
  求めた結果ならば「万余里」が相応である。

ハ.また、前漢書の「楽浪海中にいる倭人」の注に書く以上、注というものの性格から
  言って、通常は前漢書の記述対象である前漢もしくは新の頃の状況か、
  さもなければ「今」と断って最新の情報を記すものと思われる。

ニ.よって、最新の情報を知っていながら後漢の光武帝に朝見した倭奴国の情報を
  魏代の最新情報から積算して、換言すれば最新情報から後漢時点の情報を
  遡及的に推定して、前漢もしくは新の頃に朝見したという倭人についての
  注釈として記すというのはアナクロニズムにほかならない。

ホ. これを不合理でないと感じるとすれば、それは前漢と交渉をもっていたのが
 北部九州のクニであるという今日の考古学的知見を踏まえた我々の感性であって、
 如淳がそのような推理を行なって「万里」を算出したと想像するのは現実的ではない。

ヘ.つまり、如淳が、魏に朝貢した女王の居る国(=彼にとっての現代倭国の中心)
  まで「万2千余里」という最新情報を見知っているならば、
  前漢もしくは新に歳時朝見してきた「楽浪海中にいる倭人」については
  「今、帯方を去ること万2千余里にあり」と注釈すると思われる。

ト.さもなければ、イ.が正しくなく「万里」は前漢もしくは新代からの情報と
  如淳が考えるものであって、なおかつ楽浪−帯方という基点の相違に
  拘泥する必要を感じさせないようなラフな情報だということである。

チ.加えて、如淳は外交情報を入手しやすい中央官人でない。


 以上を勘案すると、(1案)景初・正始の国交樹立時点では「帯方東南万里の倭国」という類の情報が公開された;(2案)古くから倭人の世界は海を越えて漠然と「万里の彼方」とされていた;と考えられるのである。
--------------------------------------------------

 ここで(テーゼ)「万二千余里という情報は魏使がもたらした」と上記(1案)は明かに矛盾する。
 また(2案)の場合も、大海を渡り終えるまで万里という先行情報があった事になり、「魏使がもたらした情報の正味部分は万二千余里と万里の差分」ということになる。

 いづれを採用しても、万二千余里という情報は魏使がもたらしたものではなかったという帰結に落着してしまうのである。


11

Re: 教えて下さい。

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [2月5日(月)22時57分34秒]

元の発言 [ 弥生人と日本語の形成に関する仮説 ] お名前 [ 游惟 ] 日付 [ 2月5日(月)17時03分32秒 ]

游惟さん、初めまして。

お詳しいそうなので、
九州では「原」が地名の場合、“バル”と読むんですが言語学的にはなにか理由付けが成されているんでしょうか。
あと、福岡には“クマ(隈)”が語尾につく地名も多いんですが、これについても教えて下さい。


110

Re: 後の都をつくったときも水路はつくったのでしょうか

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [2月17日(土)11時36分19秒]

元の発言 [ Re: 後の都をつくったときも水路はつくったのでしょうか ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 2月15日(木)22時16分07秒 ]

こんにちは

>> ここまで時代が下がると私はさっぱりわかりませんが、平城京ぐらい大きくな
>> ると、わざわざ水路を掘ったとは思えないですね。どうなんでしょう?
#下水道と言うか、汚水道はあったそうです。
#水洗トイレ用の排水溝ですネ。
#確か、朱雀大路の左右にも大きな水路があったんじゃなかったでしょうか。
#水運用じゃないですネ。m(__)m


111

Re: ちょっと脇道

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [2月17日(土)11時52分21秒]

元の発言 [ Re: ちょっと脇道 ] お名前 [ 沙庭恭一 ] 日付 [ 2月16日(金)00時10分03秒 ]

沙庭恭一さん、こんにちは。

>> >> >> 元々はムタ(牟田・湿地帯)を耕地に変える灌漑技術を生業にしていたのが、開拓地が開発され尽くしたときにその技術を生かして、各地の首長墓を造るようになった。
>> さ:私の理解が正しければですが、上記には賛成できないです。既に八賀晋氏が研究を表してしているが、弥生時代の農耕と古墳時代の農耕は基本的に違います。
>> 1.農耕を営む際の土壌が異なっている。
>> 2.灌漑設備や開墾作業は古墳時代に鉄器の普及で農耕地が 飛躍的に伸びた。それは古墳時代以降まで続く。
>> 私はそのようなことから、必ずしも開拓地が開発され尽くしたとは言えないような気がします。
#「必ずしも開拓地が開発され尽くした」というのはちょっと違いますネ。
#基礎工事と言うか、湖の底だった沼状の土地を排水しての圃場整備ってとこでしょうか。
#開拓地の開発で言えば、北部九州でBC二世紀の谷水田が発掘されて、紀元前に既に平野部が飽和状態だったことを示しています。
#鉄器などの新技術が出てくればそれまで手が付けられなかった土地も開拓されることになりますネ。

>> >> >> いずれにしても、巨大古墳はその背景に「生産余剰」が必要ですネ。
>> そうそう。。。
>> >> #下に書いた試算が妥当なら、1戸当たり年間18日の労役ですから、意外と大したことないような気がします。
>> マルセさん、見積もりありがとうございます。
>> 受注するかは中身を検討して、値段交渉させてください。。。(違うか?)
#「倭国大乱」中は人件費が高騰するでしょうから、
#戦争してない所で請け負いましょう。(^o^)


112

Re: 柳川って弥生時代は海底?じゃありません!§^。^§

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [2月17日(土)16時01分29秒]

元の発言 [ 柳川って弥生時代は海底? ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 2月15日(木)23時25分22秒 ]

マルセさん こんにちは

>> >> “柳川”は有ります。方角が違うけど。(^o^)
#方角は必ずしも違ってはいませんネ。
#久留米の西南、八女の西、山門郡です。

>> 「柳川」=「有奴國」説が成り立つか、ちょっと調べてみたんですが、古い時代の遺跡は柳川にないみたいです。
>> やっばり、弥生時代は海底ですか?
#市北部に蒲池(旧村名)と言う所があって、貝塚と多量の弥生式土器が発見されています。

>>  それと、柳川の地名の由来もはっきりしません。柳川って川も見当たらないんですよね。
#現柳川市の中心に“柳河町”があったそうです。


113

Re: 後の都をつくったときも水路はつくったのでしょうか

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [2月17日(土)16時05分27秒]

元の発言 [ Re: 後の都をつくったときも水路はつくったのでしょうか ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 2月15日(木)22時06分36秒 ]

マルセさん、ピクポポデミさん、こんにちは。

>> >> 私は広域倭王権と在地王権の交代を想像してトンデモ説を練っています。
>> #マルセがここで書く自説も、いつも片足ぐらいがトンデモにつっこんでます。両足スッポリではない「つもり」ではあるんですが・・・。
>> できあがったら、ぜひ、ここの掲示板で発表してください。
#ご両人とも、トンデモじゃないです。
#「広域倭王権と在地王権の交代」、いいですネ〜。


114

藤原宮にも水路はつくられていました!

投稿者[ マルセ ] 発言日時 [2月17日(土)16時56分31秒]

元の発言 [ Re: 後の都をつくったときも水路はつくったのでしょうか ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 2月15日(木)22時16分07秒 ]

イリヒコさん こんにちは

>> >> (マルセ)この解釈として、「三世紀末ごろ一時期、奈良盆地あたりが政情不安になっていた」なんてのは、どうでしょう。

>> どうでしょう?
>> 布留0期には箸中山古墳は作られるし纏向遺跡は大きくなる。
>> 政情不安になっていたとは思えませんが。

#考古学的には検出は難しいのかも知れませんが、箸中山古墳(まあ、多分、これは寿陵でしょうけど)が壹與の墓だったとして、3世紀末ごろに壹與が亡くなったときに、卑弥呼のときと同様な争乱が起こった可能性は?
 このときに、奈良盆地限定でなく、もっと大きな話として、一時的に倭國が解体してしまったなんてこともありそうですけど。


>> >> (マルセ)木材運搬のためでしょうか。ところで、後に、藤原京や平城京をつくったときには、このような水路は作られたんでしょう

>> ここまで時代が下がると私はさっぱりわかりませんが、平城京ぐらい大きくな
>> ると、わざわざ水路を掘ったとは思えないですね。どうなんでしょう?
>> 纏向も発掘が進んでませんから実は、新しい水路があるなんてこともあ
>> るかもしれませんが、今の段階で考えると、集落が出来る以前に掘られ
>> て比較的早い時期に埋没してますから、建設用運河じゃないかなと思っ
>> てます。そんなにしっかりした理由があるわけでもないので、どうして
>> も、というわけじゃありません。

#藤原京については図書館で調べてきました。「飛鳥藤原の都 古代日本を発掘する1」(狩野久・木下正史、岩波書店、1985)の126ページに、藤原京の宮域内に大溝の跡があったことが書いてありました。この溝は幅6〜7m、深さ2mで、木簡から天武末年頃に掘られたことがわかったそうです。藤原宮を建設する際に、木材運搬用の運河として掘られて、宮が完成して用済みになった時点でじゃまなので埋められたようです。
 新都建設に際に一時使用目的で水路が掘られている実例が見つかって、イリヒコ説の信憑性が一気に高まった感じです。


115

Re: Title近畿説になんでいくのかわからん

投稿者[ EK ] 発言日時 [2月17日(土)18時05分59秒]

元の発言 [ Title近畿説になんでいくのかわからん ] お名前 [ イワイ ] 日付 [ 2月16日(金)20時24分11秒 ]

私も、実にそう思います。
プロの先生方には大和でなければならない事情がおありかも知れないと同情申し上げているのですが、好きなことを言える立場のアマチュアが、無理に無理を重ねてなんで大和へ行かなきゃならぬ義理があるのでしょうね。すごく不思議です。


116

二番目奴國は有奴國で柳川だった!

投稿者[ マルセ ] 発言日時 [2月17日(土)20時10分39秒]

元の発言 [ Re: 柳川って弥生時代は海底?じゃありません!§^。^§ ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 2月17日(土)16時01分29秒 ]

オヤジッチさん こんばんは


>> >> (マルセ)「柳川」=「有奴國」説が成り立つか、ちょっと調べてみたんですが、古い時代の遺跡は柳川にないみたいです。
>> >> やっばり、弥生時代は海底ですか?
>> #市北部に蒲池(旧村名)と言う所があって、貝塚と多量の弥生式土器が発見されています。

#ありがとうございます!
 奈良国立文化財研究所の遺跡データベースで引いたら、柳川に弥生時代のものがなかったので、てっきり海底かと。いや、よかったです。人が住んでいて。

 魏志倭人伝の「次有奴國、此女王境界所盡」のところは、実は「次有有奴國、此女王境界所盡」を陳壽が書き間違いして、「有奴國」は「ヤナ国」で「柳川」だった〜!!!!ってことに、当分しておきたいと思います。


117

真のトンデモとは

投稿者[ マルセ ] 発言日時 [2月17日(土)20時13分48秒]

元の発言 [ Re: 後の都をつくったときも水路はつくったのでしょうか ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 2月17日(土)16時05分27秒 ]

オヤジッチさん こんばんは

>> ご両人とも、トンデモじゃないです。

#やっぱり、本格的トンデモというと、


 魏志倭人伝は、実は予言書だった!この書の中には、21世紀中に日本で起こる出来事のすべて予言されているのだ。

 例えば「男子無大小皆黥面文身」以下の文は、倭人の風俗が書かれているというのが通説であるが、実は、この部分は21世紀早々に起こった「えひめ丸の事故」を予言しているのである。
 「倭水人好沈沒」というのが、事故の結果、日本の船が沈没してしまうことを表している。倭王である「卑弥呼」の名前は、もちろん、沈没した日本の船の名前に「ヒメ」が含まれることを示唆しており、「倭地温暖冬夏食生菜」というのは、事故が常夏の国ハワイで起こることを表している。
 事故を起こした潜水艦「グリーンビル」であるが、これは「木弓」によって示されている。武器である潜水艦の名に木と関係がある「グリーン」が含まれるし、潜水艦が弓で射られたように、突然、「えひめ丸」に突き刺さってしまうという事故の状況も、極めて正確に表わされている。
 さらに驚くことは、倭人伝には「この事故によって、森首相の辞任させられること」まで予言されていることだ。「自稱大夫」のところの「大夫」は「大人」と同じ意味である。「大人」と「退陣」は音が通じており、これはもちろん、森首相が一連の責任によって「退陣」を余儀なくされてしまうことを暗に示しているのだ。

 わずか数行の中に、この事故に関する一連の出来事が示されており、このようなことが偶然に起こることは極めて小さい確率にすぎない。想像を絶する話ではあるが、魏志倭人伝がわれわれ未来の倭人たちために書かれた予言書であることは、疑うべくもない事実なのである。


 このくらい書かないとダメですか?


118

Re: 吉備の位置付け

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [2月17日(土)21時40分35秒]

元の発言 [ Re: 吉備の位置付け ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 2月16日(金)13時05分54秒 ]

こんばんは

>> ”古代「おおやまと」を探る”です。

どうもありがとうございます。
赤塚さんの書いた部分は読み流していたので、もう一度読み直して見ました。

器台については確かにそのように書いてありますね。ただ、纏向1ということ
ですから、庄内ではなくV様式の最終段階ですが。

庄内甕については、何回か見直しましたが、“共鳴”すると書かれている以外
の部分は見つけることができませんでした。“共鳴”というのは赤塚さんの独
特の言い回しではないかと思いますが、これは、同時、多発的であることを意
味します。この場合では、畿内と東海にほぼ同時期に軽量な薄甕である庄内甕
とS字甕が出現するという以上のことは言っていません。つまり、S字甕の影響
で庄内甕が成立したとは言っていないということです。

どうも赤塚批判で不興を買ったようなのでこのあたりで終わりたいと思います。
失礼いたしました。


119

Re: 二番目奴國は有奴國で柳川だった!

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [2月17日(土)21時52分28秒]

元の発言 [ 二番目奴國は有奴國で柳川だった! ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 2月17日(土)20時10分39秒 ]

マルセさん こんばんは

>> #ありがとうございます!
>>  奈良国立文化財研究所の遺跡データベースで引いたら、柳川に弥生時代のものがなかったので、てっきり海底かと。いや、よかったです。人が住んでいて。
#須玖坂本もないですよネ。

>>  魏志倭人伝の「次有奴國、此女王境界所盡」のところは、実は「次有有奴國、此女王境界所盡」を陳壽が書き間違いして、「有奴國」は「ヤナ国」で「柳川」だった〜!!!!ってことに、当分しておきたいと思います。
#(^○^)


12

Re: 奴國と狗奴國(承前)

投稿者[ マルセ ] 発言日時 [2月5日(月)23時26分10秒]

元の発言 [ Re: 奴國と狗奴國(承前) ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 2月5日(月)03時03分48秒 ]

koujiさん こんばんは。

>> >> (マルセ)ああ、わかりました。「一回目に出てくる奴國」と「二回目に出てくる奴國」は同じ國で、もちろん陳壽も同じ國のつもりで書いているということですね。

>>  陳壽はもちろん、旁国末尾に奴国を追加した人も、別の国だと考えたと思いますが....

#あれっ??
 「東観漢記」の中には、奴國が一つの國として書かれていて、「伊都國と不彌國の間にあり、かつ、倭國の一番南端にある」ということですよね。であれば、どう考えても、倭國の中に奴國が二つなかったのは、陳壽であれ、旁国末尾に奴国を追加した人であれ、「東観漢記」を読んだ人にはわかるはずだと思うのですが。
 どうもよく理解できません。マルセがおバカなだけでしょうか。


>>  この数字を基準に考えても無理でしょう。福岡県といえば、玄界灘沿岸方面のほかに、遠賀川流域方面や周防灘沿岸方面、筑後地域なども含んでいるわけですよね。それで四〜五万戸であれば、玄界灘沿岸方面だけで二万戸は無理でしょう。しかも、奴国は、西が伊都国、東が不彌国に挟まれていて、これらの諸国が概ね玄界灘沿岸地域に並んでいたと考えられます。奴国の領域が筑後方面にかなり広がっていたと考えない限り、二万余戸は難しいでしょう。


#筑前の国の筑後川流域でない地域(福岡市、春日市、大野城市、太宰府市、宗像市、北九州市、仲間市、直方市、飯塚市、前原市、筑紫郡、糟屋郡、宗像郡、遠賀郡、鞍手郡、嘉穂郡、糸島郡の40市町村の範囲、以下ではこの地域を玄界灘地域と呼びます)の中に、伊都國と奴國と不彌國の合計22,000戸が入れたかどうかを検討します。(ただし、北九州市は、豊前だった地域がありますので、この市に関しては半分で考えます。)

 玄海灘地域の現在の農家戸数は25,239戸です。邪馬壹國の時代は、この半分とすると13,000戸であり、これでは確かに足りません。しかし、この地域は市街化が進んでいる地域ですので、平野の面積に比して農家戸数が少なくなっているはずです。市街化が進む前の農家戸数がわかれば、話は簡単ですが、手元にデータがないので、可住地面積から耕地面積と農家戸数を推計します。

 そこで、この地域内の市街化があまり進んでいない市町村の可住地面積に対する耕地面積の比率を調べてみますと、この比率が大きい市町村は、大島村0.62、津屋崎町0.47、前原市0.46などでした。大島村はやや特殊ですので、ここでは、市街化する以前のこの地域の可住地面積に対する耕地面積の比率を0.45としましょう。(なお、水田地帯の三井郡2町のこの値は、0.61ですので、0.45という比率は市街化前の比率として大きすぎるものではないと思います。)

 玄海灘地域の可住地面積は111,226haです。これに上記の0.45を掛けると50,051haとなり、これが市街化前のこの地域の耕地面積の推計値です。この値をこの地域の農家1戸あたりの耕地面積1.18haで割ると、この地域の市街化前の推計農家戸数が求まります。
 で、実際に計算すると42,146戸となります。壱岐や対馬からの推計で邪馬壹國の時代はこの半分だったとすると、玄海灘地域の邪馬壹國の時代の農家戸数は21,076戸となります。これに漁家を1,000戸ぐらいを足せば、22,000戸ですので、伊都國と奴國と不彌國の3カ国の合計の戸数に近い数字になります。

 というように、玄海灘地域に、なんとか、3カ国が入りそうです。

>>  いずれにせよ、福岡県で四〜五万戸であれば、奴国+邪馬臺国=九万余戸は収まらないことに変わりはありませんね。

#筑後川流域だけでは7万戸は、確かに無理でしょうね。マルセもそう思います。でも、現在の福岡県+佐賀県+長崎県+大分県+宮崎県の5県の農家戸数と漁業経営体数の総和は、309,090戸です。邪馬壹國の時代にはこの半分として、約15万戸。倭人伝の中に戸数の示された国の総戸数と、なぜか、一致してます。
 九州島内だけに倭國の国々のすべてが入っていたとは思いませんが、だからといって、「人口の面で邪馬壹國九州説は成立しない」とは考えません。


120

Re: Title近畿説になんでいくのかわからん

投稿者[ 天孫降臨 ] 発言日時 [2月17日(土)21時54分11秒]

元の発言 [ Re: Title近畿説になんでいくのかわからん ] お名前 [ EK ] 日付 [ 2月17日(土)18時05分59秒 ]

九州説が犯罪的扱いをする人もいますよね、
私は、九州説なんですが、お偉い人はほとんど畿内説を論じてますけど。
私は、二つの勢力である九州と畿内という対立の構図があったから、倭人伝、記紀だってあやふやだと思うのです。
倭人伝の邪馬台国と卑弥呼は九州で間違いないです。
でも、ヤマトも邪馬台国であり、同じくヒミコがいたと思います。
発音が違うという説もありますが。

当時の倭には、二つの邪馬台国とヒミコがあった。


121

可能性は3つ。三択です

投稿者[ マルセ ] 発言日時 [2月17日(土)23時03分26秒]

元の発言 [ 超初歩的疑問 ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月14日(水)02時29分11秒 ]

yaohideさん こんばんは はじめまして

>> 卑弥呼とか壱与とか、役人達の名前は出てくるのに
>> 男王の名前は出てこないのでしょうか?


#男王って、卑弥呼と壹與の間に立った王のことですよね。
 答えを3つ考えてみました。

1 魏使が名前を伝えなかった
 張政が邪馬壹國に到着したときには、もう、この男王は失脚してしまったか、もしくは、殺されてしまっていた。過去の人になっていたので、張政は名前を報告しなかった。

2 よく読むと倭人伝に書いてある
 実は、この男王とは、狗奴國王の卑弥弓呼である。卑弥呼の死んだ後、狗奴國王は念願かなって、倭國王になれたのだ。一時的だったけど。

3 陳壽は男に興味がなかった
 ・・・。


 yaohideさんは、どう思ってるんですか。なにかいい案をお持ちでしょうか?


122

Re: 可能性は3つ。三択です

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [2月18日(日)13時15分27秒]

元の発言 [ 可能性は3つ。三択です ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 2月17日(土)23時03分26秒 ]

マルセさん、どうも、楽しく読ませていただいて
おります。

>> 1 魏使が名前を伝えなかった

>> 2 よく読むと倭人伝に書いてある

>> 3 陳壽は男に興味がなかった

卑弥呼、壹與と女王の名前は書かれているのに
男王の名前は出てこない。
よく畿内説の人の間では、崇神を男王にあてる
ことが多いじゃないですか。
ハツクニシラスだとか、後では結構有名にして
あるんだけど、実際は有名ではなかったことに
なってしまう。
モモソヒメとかを女王に充てるしても、どうも
その辺しっくりこないんですよ。

だから、三択でいえば、1番の魏使が伝えなか
ったになるかな。
つまり男王として、あまりパッとしないというか
書いてあるように、クニは乱れる、統治能力に
欠ける男王だったからじゃないかな。

だから、卑弥呼、崇神の政権とちょっと考えにくい
というのが、僕の解釈です。



123

書きわすれました

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [2月18日(日)13時24分52秒]

元の発言 [ Re: 可能性は3つ。三択です ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月18日(日)13時15分27秒 ]

卑弥弓呼の可能性は、かなりあるとふんでいます。
あ、僕は東遷説とってますんで。

邪馬壹國に勝って九州を平定した狗奴國ではあったが
倭国をまとめることができず、クニが乱れた。
緊急に畿内に造られた、第2次邪馬壹國連合にとって
変わられた。

そんな感じですか...


124

Re: Title近畿説になんでいくのかわからん

投稿者[ 祝い鯛 ] 発言日時 [2月18日(日)17時13分06秒]

元の発言 [ Title近畿説になんでいくのかわからん ] お名前 [ イワイ ] 日付 [ 2月16日(金)20時24分11秒 ]

>> アバウトに発言します。なんで邪馬台国近畿説なんていうもんがはびこるのかわからん。魏志倭人伝読んでなんでそうなのか。どうよんだって北九州のこと書いている。日本の古代国家の成立過程こそ興味深いのであって、いつまでも九州にあった邪馬台国を近畿だのなんだのと本当らしく議論するのは止めたほうがいい。それどころか、エミシがいま注目されて日本国って何、という根本的問題が提起されているぞ。大和中心史観なんかくそ食らえ。

なげ返すから早くくそ出せ。




125

Re: Title近畿説になんでいくのかわからん

投稿者[ 祝い鯛 ] 発言日時 [2月18日(日)17時15分08秒]

元の発言 [ Re: Title近畿説になんでいくのかわからん ] お名前 [ EK ] 日付 [ 2月17日(土)18時05分59秒 ]

>> 私も、実にそう思います。

くそったれに賛同めでたいこっちゃ。

>> プロの先生方には大和でなければならない事情がおありかも知れないと同情申し上げているのですが、好きなことを言える立場のアマチュアが、無理に無理を重ねてなんで大和へ行かなきゃならぬ義理があるのでしょうね。すごく不思議です。

皆さんの頭の中はさ程にはおめでたくないでしょう。




126

Re: 藤原宮にも水路はつくられていました!

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [2月18日(日)18時48分43秒]

元の発言 [ 藤原宮にも水路はつくられていました! ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 2月17日(土)16時56分31秒 ]

こんにちは

>> 木簡から天武末年頃に掘られたことがわかったそうです。藤原宮を建設する際に、木材運搬用の運河として掘られて、宮
>> が完成して用済みになった時点でじゃまなので埋められたようです。

どうもありがとうございます。このような事実がありましたか。
大変参考になりました。

>>  新都建設に際に一時使用目的で水路が掘られている実例が見つかっ
>> て、イリヒコ説の信憑性が一気に高まった感じです。

おそらく多数の方が言われてることと思うので、イリヒコ説といわれる
と面映いですが、信憑性を認めていただけたのはうれしいですね。


127

Re: 都を造る時はまず運河?

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [2月18日(日)22時39分49秒]

元の発言 [ 藤原宮にも水路はつくられていました! ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 2月17日(土)16時56分31秒 ]

お久しぶりです

 関連した情報を提供します。弥生時代中期以降の大集落である、伊都国の三雲・井原遺跡群には、集落中央部を南西から北東に抜けるように大溝が掘られています。これを従来は環濠としていますが、南側にも集落や墓地が展開するので少なくとも外環濠ではありません。砂の堆積から流水が考えられますが、弥生中期前半?に掘削されたあと、長く維持され古墳初頭に埋没します。三雲遺跡の大規模化の始まりと同じ頃掘削された可能性があるとすれば、「運河」てきな水路の可能性があります。まだ一部の調査なので、今後の検討が期待されます。
 次に、奴国の須玖・岡本遺跡群に並ぶ大集落である比恵・那珂遺跡群は、弥生中期中頃に大規模化しますが、集落北半分の比恵遺跡群では、その頃段丘中央に大規模な大溝(条溝)が掘削されます。最近の報告書の検討では、環濠とするには両側に集落が展開すること、下層の堆積は水成堆積であること、小舟の引き込みと想定される小溝が取り付く部分があること、溝の底面の両端に護岸的な杭列が検出される場合があることから、「運河」と想定されています(福岡市埋蔵文化財調査報告書596集)。なお推定される本来の(削平以前の)断面規模は幅5m、深さ2m以上で、逆台形断面ということです。なお、この溝は中期末には埋没が進み土器が上層に大量に廃棄されるようになります。(区画溝としては残るようですが。)この点、「都市」完成後、運河としては用済みになったということでしょうか。
 なお奴国の中心の須玖・岡本遺跡群ではこのような遺構はまだ未確認です(段丘の起伏が大きいのでないかもしれませんが)。ただ、伊都国と奴国の大遺跡の二つに、「都市」建設用の運河の可能性のある遺構があることは興味深いと思います。
 「纏向大溝」も、このような北部九州の中心遺跡における都市計画、都市設計思想・技術が伝わったと考えてみるのも面白いと思いますが。ちなみに、上に挙げた3遺跡は、いずれも弥生中期以来100ha内外の規模の集落であり、「纏向」以前では列島最大級であり、また出土遺物(楽浪系土器、青銅器生産関係遺物など)や条溝、道路、方形環溝、王墓等、質的にもまさに「弥生都市」として他の同時代の列島の大集落から抜きん出た存在であることを指摘しておきたいと思います。


128

Re: 書きわすれました

投稿者[ 天孫降臨。 ] 発言日時 [2月19日(月)08時03分20秒]

元の発言 [ 書きわすれました ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月18日(日)13時24分52秒 ]

>> 卑弥弓呼の可能性は、かなりあるとふんでいます。

男王=卑弥弓呼は、私も賛成です!!
卑弥弓呼=大物主、ニギハヤヒ、ではないかって、わけのわからない説です。
畿内勢力=卑弥弓呼
九州勢力=卑弥呼
後漢書でしたっけ、東クナ国って書いていたのは。
畿内(ヤマト)が九州(邪馬台国)を支配し、うまく融合するために、九州の男王と畿内の女王台与と結婚した。
しかし、国は乱れたので、女王台与が王になった。
九州の男王は仲哀天皇で、畿内女王は神功皇后だった。


129

なるほど

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [2月19日(月)09時46分23秒]

元の発言 [ Re: ちょっと脇道 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 2月17日(土)11時52分21秒 ]

>> #「倭国大乱」中は人件費が高騰するでしょうから、
>> #戦争してない所で請け負いましょう。(^o^)

「倭国大乱」が終わって、ひまをもてあました兵士を使って纏向建設ですか。


13

Re: 弥生人と日本語の形成に関する仮説

投稿者[ 游惟 ] 発言日時 [2月5日(月)23時53分17秒]

元の発言 [ Re: 弥生人と日本語の形成に関する仮説 ] お名前 [ とも ] 日付 [ 2月5日(月)22時06分17秒 ]

早速のご意見ありがとうございます。ご意見に対する反論をさせていただきます。


>>弥生人が、現代日本人の祖先の中で相当な部分を占める事に異存はありませんが、そのうちで、渡来系の占める数量はどの程度であったのかが問題になると思われます。
この比率如何では、話が随分違ってくるものと思われます。

私は実際に海を渡ってきた渡来人達の数はそう多くないと考えています。まあ、弥生時代600年間累計すれば何万人ぐらいはあったかもしれませんが、最初に来たのは数百人から千人程度であると言っている通りです。ただ、遺伝子は再生産されるのです。渡来人が縄文人の女に4人の子供を産ませれば、渡来人の遺伝子は4倍に増え、次の世代には16倍に増える・・・・を繰り返して行けば、初期渡来人の数は少なくても余り問題にはなりません。

>>まあ、最初の農耕文化と言うか稲作文化をもたらした渡来人が居たことは間違いないでしょう。
しかし、その割合はどの程度だったのかが問題になります。
現に、関東から東北にかけては民族的特長において、縄文人の特徴をそのままに、稲作を受容し生活形態としては弥生人に成った、と言う人たちの遺跡が多数発見されているはずです。
このことは、大量の渡来系弥生人が押し寄せて大部分の縄文系原住民を駆逐していった、と言う定説?を否定しているものと考えます。
私自身は、初期の段階において、渡来系弥生人と縄文系原住民は、けっこう上手く住み分けをしていたのではないか、と考えています。

私は弥生人が直接の渡来人だと言ってはおらず、稲作農耕によって爆発的に人口の増えた渡来人と南方系縄文人の混血だと言っております。また、うまく棲み分けをしていたなら、渡来系の弥生人の言語が日本語に変わるはずがありません。日本統治以前の台湾の原住民達(高砂族)もうまく棲み分けをしていましたから、隣同士の部族が全く異なる言語を話していることがよくあったそうです。

>>私も日本語の祖語は縄文にさかのぼるとは思っています。
ただし、その理由は、単に圧倒的多数(渡来時点での)の縄文系先住民への融合によるものであり、游惟さんの考えられるような征服とか戦争と言うようなものではないものと考えます。

歴史学や文化人類学の多くの実証的研究が示しているように、前近代社会においては人種・民族の平等などという観念はなく、言語・文化を異にする部族の人間は人間ではないのであって、略奪・暴行・皆殺しは当たり前のことです。後漢書東夷伝や魏志倭人伝にも生口(奴隷)の話が出てきますが、これらは戦争の捕虜と考えられます。

>> また、アイヌ民族と確認しうる人たちが北海道に住まいするようになるのは、縄文、弥生云々の時代から見れば相当に新しい、と記憶しています。
記憶が曖昧なんですが、確か西暦も4桁に入ってからじゃなかったかな。

>>これらの状況からすると、アイヌ語はかなり新しい外来系の言語であり、北方系縄文人がアイヌ祖語を話していたとするのは、根拠が薄いように思われます。
むしろ、縄文人たちは、ほぼ日本全土でとりあえず同じような言語を話していた。
そこに、まず、弥生系の外来語が重なり、北海道ではその後アイヌ系の言葉が主流となった。
そう考えた方が自然だと考えます。

関東・東北地方にはアイヌ語起源と思われる地名が多く残っており、少なくとも関東・東北には先史時代からアイヌ語を話す人々が住んでいたと思われます。また、平安時代初期に、坂上田村麻呂は「アテルイ」という名前の蝦夷の酋長降伏させており、少なくともこのあたりの人々は日本語と異なる言語を話していたことは確実です。

>>こういう現象が起こりうる、と言うことには特に異存はありません。
しかし、日本において、縄文から弥生への遷移の時期にそれほど激烈な征服戦が有ったとは私には思えません。

>>根拠として、弥生人(弥生文化)と縄文人(縄文文化)との生活圏の違い、があると私は考えています。

>>私の地元(関東の北部)は、それほど大規模なものは無いにしても、縄文、弥生の遺跡ともによく出土します。で、通常の地図などで見ると、同じようなところから遺跡が出てきているように見えますが、実際にそこに行ってみると、まるで違う場所から遺跡が出ていることに気がつきます。
ここで、違う、と言っているのは距離的に遠いとかそういうことではなく、そこで生活するための生活基盤が違う、と言うことです。

>>縄文文化が、従来言われていたような単なる狩猟採集文化ではなく、原始的ながらも、農業と呼んで良い生産形態をもっていたことは、近年の発掘で明らかになってきています。
しかし、一言で農業といってしまえば同じようなものに聞こえますが、縄文の農業と弥生の農業は、その好適地からして違うものなのです。

>>現に、縄文農業の代表的な遺跡と言われる三内丸山も上の原も稲作適地とは言いがたい場所にあります。
また、先述の私の地元でも、農業適地、と言う見方をした場合、縄文と弥生のそれぞれの遺跡は異なる立地条件を持つのです。
すなわち、現代において、畑作適地とされるところに縄文の遺跡が多く、当然のごとく稲作適地とされる地域には弥生系(またはそれ以降)と考えられる遺跡が多いと言うことになります。

>>つまり、稲作文化をもって渡来した弥生人たちは、別に縄文人の集落を襲って土地を奪う必要などなく、初めから空いている土地に住み着けばよかったのだと考えています。
畑作系の農業および狩猟採集を生活基盤とする縄文人にとって、稲作に適した河川付近の低湿地は住みにくく、彼ら(縄文人)の感覚からすれば、なんであんな場所に?と思えるようなところに弥生人たちは住み着いたのではないでしょうか。

>>これが、麦作を中心とするようなヨーロッパと言うかメソポタミアと言うか、そっちの系列の農業文化をもった人たちが流入したのであれば、大規模な衝突は免れないと思いますが、弥生人が持ってきたのは、そもそも生活基盤と言うか適地の異なる稲作文化でした。
このため、多少の軋轢は有ったにしても、比較的平和なプロセスで弥生人たちは日本上陸を果たしえたものと考えています。


確かに、古代でも弥生人から平和理に縄文人に農耕技術が伝わるということもあったでしょう。663年の白村江敗戦以前の大和朝廷の目は朝鮮半島の方を向いており、関東以北の征服には積極的ではありませんでした。(関東以北の気候は当時の農耕技術では稲作に余り適していなかったからでしょう)。従って、それ以前には東北の北方系縄文人達には交易などを通じて平和的に弥生文明が伝わったと思います。しかし、白村江敗戦によって朝鮮半島利権を失うや、阿部比羅夫や坂上田村麻呂などをつかって本格的に東北の蝦夷征伐に乗り出しているのです。
何度も言うように、前近代社会において、言語を異にする民族が平和共存している場合には、日常話す言語が変わるということはあり得ません。(多くの民族の移民が暮らす植民国家のような場合は別ですが)。江戸時代の北海道では日本人の前藩とアイヌが平和共存していましたが、日本人は日本語を話し、アイヌはアイヌ語を話していました。アイヌ達が日本語を話すようになったのは、明治政府が武力を背景に強制的に日本語を話させるようにしたからです。まして、2000年も前の未開段階の日本列島において言語が変わる程の融和というのは武力・もしくは武力を背景にする征服以外にはありえません。

平和を愛するお気持ちはよくわかります。しかし、日本国憲法を学問に持ち込んではいけません。


130

Re: 真のトンデモとは

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [2月19日(月)09時52分48秒]

元の発言 [ 真のトンデモとは ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 2月17日(土)20時13分48秒 ]

>>  このくらい書かないとダメですか?

トンデモかくにも想像力がいるということですね。
楽しくて叩きがいのあるトンデモを作ろうと、資料をあさっているうちに深みにはまって苦しんでます。
もともと古典など読んだことがないのに、この二月ばかりに、古事記、日本書紀、風土記等とその解説書で、頭の中大混乱ですー。

(物部と出雲の文字はもう見たくない)


131

Re: 都を造る時はまず運河?

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [2月19日(月)10時05分33秒]

元の発言 [ Re: 都を造る時はまず運河? ] お名前 [ 率善中郎将 ] 日付 [ 2月18日(日)22時39分49秒 ]

ありがとうございます。
纏向が社会構造的に環濠を含まない計画的な集落と言う意味で画期的とすると、弥生から古墳への変成点は纏向建設以前に起こっていたことになりますが、それがいつどこで起こり始めたのか、そのような発想がどこから伝わったか気になっていたところです。
いきなり大陸から伝わったとするには、祭祀など先行する吉備の影響が強く、列島内のどこかで消化されてから伝わったと考えていたところです。
北部九州の都市的集落のことは、「王権発生」にも少し書いてありましたが、詳しいことが分からなかったので助かります。
ただ北部九州では、環濠自体は後期まで残っているようですから、環濠解体と言う最も重要な変化はどこからどのようにして起こったのでしょうね。



132

里程は誇大値

投稿者[ 大場嘉門 ] 発言日時 [2月19日(月)10時12分16秒]

講談社漢和辞典の中国度量衡時代別変遷表によれば、魏の時代の1里は434.16mである。
この「魏里」で韓伝にいう韓地(朝鮮半島の東西幅は約300q)の「方可四千里」や、倭人伝の対海国と一大国の間(仮に定点間を対馬の厳原、壱岐の原の辻にとると約76q)の「千餘里」をメートル法に換算すると、里程が5倍に誇張されていることに異論をはさむ人はいないだろう。

帯方郡から水行し、更に韓地の西岸と南岸を水行して狗邪韓国まで到ったとしたら、ゆうに8千里を越えることになるが、韓地を乍南乍東したと考えればこの間の「七千餘里」も5倍の誇大値とみてよい。
半島南岸と九州北岸は約200qであるが、対馬壱岐間の「千餘里」を含む狗邪韓国と末盧国の間の3千里も5倍の誇大値とみなして良い。
帯方郡から女王国までの「萬二千餘里」は、帯方郡から末盧国までの5倍の誇大値1万里を含んでいるのであるから、末盧国と女王国の間の2千里も5倍の誇大値とみるべきである。

倭人伝の里程は5倍の誇大値であるのだから、例えば伊都国の位置を末盧国(呼子、唐津、東唐津等諸説あり)の位置から求めようとするならば、その間の500里を五分の一に縮尺し、東南の方向に実定値で100里(約43q)の辺りに求めればよい。
女王国の位置を求めようとするならば、末盧国から実定値で400里(約173q)、伊都国からは300里(約130q)ほどである。

###
古田説の、対馬の「方可四百餘里」と壱岐の「方可三百里」のそれぞれ二辺を里程に加える「島めぐり読法」では、半島九州間の海峡は4400里となり約十倍の誇張があったことになる。
帯方郡と女王国間の1万2千里は実定値で2400里(約1000q)であり、陳寿はその距離は帯方郡からみるとピッタリ会稽東治に当たると言っている。
「東治」は定点を指し示しているとしか解せないが、通説の「東冶」では帯方郡治に比定されるソウルから約1500qにもなる。
原文通り「東治」とすることでは通説よりましかもしれないが、古田説の定点ではなく禹の治績領域という「幅」を示しているというのは論外であろう。
倭人伝の里程がどうして5倍に誇張されているのかということは、それはそれで興味深いテーマではあるが里程解釈論とは別の問題である。
「短里説」など持ち込まなくても、倭人伝の里程は五分の一に縮尺するだけで立派に用をなす。古田氏も余計なことをしてくれたものだ。


133

Re: 吉備の位置付け

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [2月19日(月)10時17分12秒]

元の発言 [ Re: 吉備の位置付け ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 2月17日(土)21時40分35秒 ]

>> 器台については確かにそのように書いてありますね。ただ、纏向1ということ
>> ですから、庄内ではなくV様式の最終段階ですが。

纏向1は庄内0ではないんですか。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/2091/doki.html
もっとも寺澤さんは、庄内式と纏向式編年の対応はつかないようなことを言っておられるようですが。
土器編年は人によって違うので混乱します。
最近纏向式も再編されているようですが、以前との関連が分かりません。

>> 庄内甕については、何回か見直しましたが、“共鳴”すると書かれている以外
>> の部分は見つけることができませんでした。“共鳴”というのは赤塚さんの独
>> 特の言い回しではないかと思いますが、これは、同時、多発的であることを意
>> 味します。この場合では、畿内と東海にほぼ同時期に軽量な薄甕である庄内甕
>> とS字甕が出現するという以上のことは言っていません。つまり、S字甕の影響
>> で庄内甕が成立したとは言っていないということです。

わかりました。誤読もしくは深読みしすぎだったようです。

>> どうも赤塚批判で不興を買ったようなのでこのあたりで終わりたいと思います。
>> 失礼いたしました。

だれの不興を買ったのですか?
私も不興を買ったのでしょうか?
せっかくイリヒコさんが出てきたのに残念です。


134

Re: 吉備の位置付け

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [2月19日(月)12時20分30秒]

元の発言 [ Re: 吉備の位置付け ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 2月19日(月)10時17分12秒 ]

こんにちは

>> 纏向1は庄内0ではないんですか。

その通りですが、庄内0段階では肝心の庄内甕がまだ出現していません。
大方の意見として、庄内は庄内1以後のようです。

>> だれの不興を買ったのですか?
>> 私も不興を買ったのでしょうか?

そうですか。それでは私の気の回し過ぎだったようです。
お騒がせしました。


135

Re: 里程は誇大値

投稿者[ EK ] 発言日時 [2月19日(月)13時07分05秒]

元の発言 [ 里程は誇大値 ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 2月19日(月)10時12分16秒 ]

反論すべき点はほとんどないのですが、そこで私は「伊都〜奴=実測値で20里」にこだわっています。ほんの8kmですよ。起点(伊都国)をどこに置けば福岡平野に着けるのでしょうか。

>> 「短里説」など持ち込まなくても、倭人伝の里程は五分の一に縮尺するだけで立派に用をなす。古田氏も余計なことをしてくれたものだ。

#???
古田氏が短里説を提唱していることがなぜ「余計」なのかわかりません。
大場嘉門 さんの誇大説は他のどんな説とも関係なく自立したものではないのですか。


136

Re: 里程は誇大値

投稿者[ 大場嘉門 ] 発言日時 [2月19日(月)13時57分47秒]

元の発言 [ Re: 里程は誇大値 ] お名前 [ EK ] 日付 [ 2月19日(月)13時07分05秒 ]

>>反論すべき点はほとんどないのですが、

「EK尺」のパクリです。

>>そこで私は「伊都〜奴=実測値で20里」にこだわっています。ほんの8kmですよ。起点(伊都国)をどこに置けば福岡平野に着けるのでしょうか。

「地名当て」ではないでしょうか。
奴をナと読んで、儺県だとか…(この逆かも知れませんが)

>>古田氏が短里説を提唱していることがなぜ「余計」なのかわかりません。

短里説を提唱していることを、余計なこととは申しておりません。

>>大場嘉門 さんの誇大説は他のどんな説とも関係なく自立したものではないのですか。

5倍に誇張していると最初に主張したのは明治の大家白鳥博士ではないでしょうか。
私のは「説」でもなんでもなく、「だったら五分の一にすればいいじゃん」です。



137

Re: 書きわすれました

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [2月19日(月)16時38分48秒]

元の発言 [ Re: 書きわすれました ] お名前 [ 天孫降臨。 ] 日付 [ 2月19日(月)08時03分20秒 ]

>> しかし、国は乱れたので、女王台与が王になった。
>> 九州の男王は仲哀天皇で、畿内女王は神功皇后だった。

壱与がひょっとしたら、神功皇后だったかもという説には賛成。
九州の記憶とか、宇佐がらみで、朝鮮半島との関係があるかも
なーんて。


138

Re: なるほど

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [2月19日(月)20時45分05秒]

元の発言 [ なるほど ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 2月19日(月)09時46分23秒 ]

>> >> #「倭国大乱」中は人件費が高騰するでしょうから、
>> >> #戦争してない所で請け負いましょう。(^o^)
>> 「倭国大乱」が終わって、ひまをもてあました兵士を使って纏向建設ですか。
#纏向の古墳群は「倭国大乱」の時期から造られています。^_^?


139

Re: 書きわすれました

投稿者[ 天孫降臨 ] 発言日時 [2月19日(月)23時58分12秒]

元の発言 [ Re: 書きわすれました ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月19日(月)16時38分48秒 ]

神功皇后が天の日矛かヒメゴソの血筋だったり、、朝鮮半島と凄く関係ありそうです。



14

Re: 教えて下さい。

投稿者[ 游惟 ] 発言日時 [2月5日(月)23時57分00秒]

元の発言 [ Re: 教えて下さい。 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 2月5日(月)22時57分34秒 ]

調べてみますが、それは方言学の方面なので私は余り詳しくはありません。


140

Re: 里程は誇大値

投稿者[ LP販売業 ] 発言日時 [2月20日(火)14時58分31秒]

元の発言 [ 里程は誇大値 ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 2月19日(月)10時12分16秒 ]

距離をもとになった資料の5倍にしたのなら、日数も当然にもとの5倍になっているはず。でないと、一日あたりの移動距離が変なことになりますからね〜。

と、いうのが九州説であるわたしの考えでしゅ。


141

Re: 里程は誇大値

投稿者[ 大場嘉門 ] 発言日時 [2月20日(火)17時30分38秒]

元の発言 [ Re: 里程は誇大値 ] お名前 [ LP販売業 ] 日付 [ 2月20日(火)14時58分31秒 ]

LP販売業さん お世話になっています。(家には未だ都市ガスがきていません。)

>>距離をもとになった資料の5倍にしたのなら、日数も当然にもとの5倍になっているはず。

陳寿が5倍にしたということはないと思いますが…
白鳥博士によれば里程の誇大数値は、魏使が重き恩賞に与ろうとしたためだとか、帯方郡の役人が洛陽の征倭主戦論を阻止するために作文したためだということだそうです。
日程については、倭人が魏の侵略を防ぐため誇大日程を魏使に吹き込み、魏使はこれを盲信したということだそうです。(シンジランナ〜イ)


142

Re: 里程は誇大値

投稿者[ EK ] 発言日時 [2月20日(火)20時29分29秒]

元の発言 [ Re: 里程は誇大値 ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 2月19日(月)13時57分47秒 ]


#倭人伝の里程は、国を広さのない点としてとらえていると思われます。そうでないと、各国間の距離を足して全体の距離とする議論自体が成り立ちません。国ごとに長官と副官の名前がありますから、彼らが仕事をしていたお役所があったと思われ、そのお役所の位置が国の位置と仮定してよいでしょう。
さて、奴国を儺の津(那珂川の河口)とすると、その北西8kmに伊都国のお役所の場所を探すのですね。北西は海ですから、西に進むと福岡平野の西の端で山が海に突き出して、先には進めません(いみじくも下ヤマトという場所です)。と言うことで、これはどうも何かが間違っています。
それでは、伊都国から先は5倍の誇張がされていないと考えたらどうでしょうか。わたしは、これはあまりにも無茶な主張だと思いますが、そういう意見の方は多いようだし、ありえないことではないでしょう。すると今度は、ほとんど唐津の近くに伊都国を探すことになります。これも何かが間違っています。
陳寿の文章が素直な解釈では意味をなさないのは事実で、何らかの無理な解釈が不可欠ですが、そうだとしても、あるいはそうであるからこそ、このような未解決の素朴な疑問がたくさん残っていることを、自説を主張する方は認識していただきたい。

>> 奴をナと読んで、儺県だとか…(この逆かも知れませんが)
何の根拠もない素人考えですが、奴は素直にヌと読んで「野」の意味、の方がしっくりするな〜。

>> 5倍に誇張していると最初に主張したのは明治の大家白鳥博士ではないでしょうか。
>> 私のは「説」でもなんでもなく、「だったら五分の一にすればいいじゃん」です。
#たくさんの偉い先生方がいろいろな説を提出している中から、大場嘉門 さんは誇張説を選ばれたのですから、ご自身で責任を負うべき立派な説ではないでしょうか。
私は21世紀になったことだし、そろそろ九州説同士でバトルロワイヤルしなけりゃいけないんじゃないかと感じています。


143

Re: 二番目奴國は有奴國で柳川だった!

投稿者[ EK ] 発言日時 [2月20日(火)20時34分05秒]

元の発言 [ Re: 二番目奴國は有奴國で柳川だった! ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 2月17日(土)21時52分28秒 ]

>> >>  魏志倭人伝の「次有奴國、此女王境界所盡」のところは、実は「次有有奴國、此女王境界所盡」を陳壽が書き間違いして、「有奴國」は「ヤナ国」で「柳川」だった〜!!!!ってことに、当分しておきたいと思います。
>> #(^○^)
原文書き換えは麻薬ですから、私は手を出しちゃいけないと思っていますが、これは相当いいですね。


144

Re: 書きわすれました

投稿者[ EK ] 発言日時 [2月20日(火)20時46分29秒]

元の発言 [ Re: 書きわすれました ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月19日(月)16時38分48秒 ]

>> >> しかし、国は乱れたので、女王台与が王になった。
>> >> 九州の男王は仲哀天皇で、畿内女王は神功皇后だった。

>> 壱与がひょっとしたら、神功皇后だったかもという説には賛成。
>> 九州の記憶とか、宇佐がらみで、朝鮮半島との関係があるかも
>> なーんて。

これって、議論が噛み合っているんでしょうか。
台与なの? 壱与なの? どっちでもいい問題? 簡単には解決できないから、とりあえず議論しない?




145

どうなんでしょう?

投稿者[ 沙庭恭一 ] 発言日時 [2月20日(火)20時59分35秒]

元の発言 [ またまた間違えました ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 2月16日(金)12時05分18秒 ]

こんばんは。

>> 私は大学の時、調べましたが、お手上げです。
>> 史料がこれだけしないので。
>>  ただ素朴な疑問は畿内に出雲系の神がやたら多く、これをどう解釈するか?
>>  何か良い答えはないですか?

出雲と物部はいたるところに出てきて、私にはお手上げです。
纏向近くにも出雲庄があるし、名張を越えると出雲川がありますし。
その他大勢を皆一緒にしてるようにも思いますが・・・

>> >> 纏向近くにも出雲庄があるし、名張を越えると出雲川がありますし。

>> 雲出川でした。
>> ところで伊勢津彦の子孫は相模の国造になったんだとか。
>> そういえば伊勢原なんて地名もあります。

さ:ヤマトにある地名(国名表記)は恐らくは各地より来た人たちの出身地名では?
確か柳田国男が提議し、その後、直木孝次郎や寺沢薫によって発展されましたが。
恐らくは出雲もそういった痕跡では?

さ:雲出川の名前は分からないです。
  南伊勢地方が出雲色が濃いかと言えば、?です。
  どちらかと言えば、文化的に在地系の東海色が濃いです。

さ:物部氏の分布。5世紀の軍事組織の形成では?
  (ユゲイ・舎人)


146

Re: 地元民として一言。§^。^§

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [2月20日(火)21時09分04秒]

元の発言 [ Re: 里程は誇大値 ] お名前 [ EK ] 日付 [ 2月20日(火)20時29分29秒 ]

>> さて、奴国を儺の津(那珂川の河口)とすると、
#那珂川の河口は当時は海です。
#考古資料的には、比恵遺跡群か須玖岡本遺跡群のいずれかになります。
#ちなみに、どちらも御笠川水系でその中間に「板付遺跡」があります。


147

壱与か台与か?さて、どっち?

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [2月21日(水)00時59分06秒]

元の発言 [ Re: 書きわすれました ] お名前 [ EK ] 日付 [ 2月20日(火)20時46分29秒 ]

>> これって、議論が噛み合っているんでしょうか。
>> 台与なの? 壱与なの? どっちでもいい問題? 簡単には解決できないから、とりあえず議論しない?

はっはっは。
そうですね、個人的に壱与の方が字が好きです。

うーん、どちらが正しいのでしょう?



148

年輪年代法って、絶対間違いないのでしょうか?

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [2月21日(水)01時17分05秒]

法隆寺のニュースが出ていますが、ホントなんですか?

年輪年代は間違いのない方法なんですか?
ちょっと疑問なんですが.....


149

Re: 壱与か台与か?さて、どっち?

投稿者[ 池ちゃん ] 発言日時 [2月21日(水)03時27分45秒]

元の発言 [ 壱与か台与か?さて、どっち? ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月21日(水)00時59分06秒 ]

>> >> これって、議論が噛み合っているんでしょうか。
>> >> 台与なの? 壱与なの? どっちでもいい問題? 簡単には解決できないから、とりあえず議論しない?

>> はっはっは。
>> そうですね、個人的に壱与の方が字が好きです。

>> うーん、どちらが正しいのでしょう?

#どうも、お久しぶりです。仕事から帰ってきて、久しぶりに覗いてみたら、なかなか盛況なんで、飛び入りさせていただきます。

 さて「壱与か台与か?」という問題ですが、私は
”台与”が正しいと思っております。私が九州説で”豊”に結びつくから、という理由もありますが、もともと、
”邪馬台国の”台”は”臺”だったそうで、(真偽はともかくとして)
これを書き写すときに”壱”と間違え「邪馬壱国」という言葉が生まれて、後世の学者達を惑わせた・・・という説
があることを聞いて、台与さんも同じような間違いで、
”壱与”になったのではないかと思っておりますが、どうでしょうか?


15

稲作伝播について

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [2月6日(火)10時14分15秒]

元の発言 [ Re: 弥生人と日本語の形成に関する仮説 ] お名前 [ 游惟 ] 日付 [ 2月5日(月)23時53分17秒 ]

游惟さん今日は。

稲作の伝播について北方系の征服者が稲をもたらした、とのニアンスで語られているようですが、
私は少し疑問をもっております。
ご存知のように北の地方は稲作には向きません。
中国北部でも稲は栽培されておらず、北方民族、夫余、高句麗、沃沮などが稲作をしていた
様子は有りません。
半島内で稲作をしていたのは南部の三韓と言われる地域に住んでいた魏志に言う倭人です。
倭人伝によると倭人は南方系の風俗を持っていたらしいし
北方系渡来人が稲作を伝えたと
考えるのは間違いではないでしょうか。


150

Re: 里程は誇大値

投稿者[ 池ちゃん ] 発言日時 [2月21日(水)03時39分27秒]

元の発言 [ Re: 里程は誇大値 ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 2月20日(火)17時30分38秒 ]

 #どうも、こんばんわ・・・おはようカナ?

”距離”の問題ですが、日本はどうだかわかりませんが
中国のお隣の朝鮮についてはいい加減な、記述が目立ちますね。陸続きでしょっちゅう軍隊を進めたりしてる割には
その流れから言えば、邪馬台国までの道のりなんかはもっと信憑性が無いような気がします。
 これは松本清張さんの説なんですが、邪馬台国までの里程についての数字は全て嘘で、これは東洋思想の”吉数”
を距離の長い短いにしたがって、適当に当てはめただけだ
・・・と言ってます。なるほど言われてみれば、ほとんどが吉数ですね。


151

Re: どうなんでしょう?

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [2月21日(水)09時50分05秒]

元の発言 [ どうなんでしょう? ] お名前 [ 沙庭恭一 ] 日付 [ 2月20日(火)20時59分35秒 ]

>> こんばんは。
おはようございます。

>> さ:ヤマトにある地名(国名表記)は恐らくは各地より来た人たちの出身地名では?
>> 確か柳田国男が提議し、その後、直木孝次郎や寺沢薫によって発展されましたが。
>> 恐らくは出雲もそういった痕跡では?

>> さ:雲出川の名前は分からないです。
>>   南伊勢地方が出雲色が濃いかと言えば、?です。
>>   どちらかと言えば、文化的に在地系の東海色が濃いです。

私のいいかげんな発言に丁寧なご返事恐縮です。
なにせ古典は読み始めたばかりで、大混乱の只中にあります。
ありえないようなめちゃくちゃな間違いをいっぱいしでかしそうですが、ご勘弁を。

>> さ:物部氏の分布。5世紀の軍事組織の形成では?
>>   (ユゲイ・舎人)

なるほど、広域に渡る物部の影は後世のものと・・・
大己貴神などは後世の新興宗教による流布説もあるようですが・・・
なにを信じてよいものやらわかりません。
出雲系の神々も播磨の伊和大神のような在地の神々が、似たような神話を通じて溶け合って固まったものか、何かの史実があるものか・・・
初期大和政権形成時に、吉備との不仲のような、出雲と強力に結びつく出来事が合ったのかも・・・


152

Re: 吉備の位置付け

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [2月21日(水)10時04分44秒]

元の発言 [ Re: 吉備の位置付け ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 2月19日(月)12時20分30秒 ]

>> こんにちは

おはようございます

>> >> 纏向1は庄内0ではないんですか。

>> その通りですが、庄内0段階では肝心の庄内甕がまだ出現していません。
>> 大方の意見として、庄内は庄内1以後のようです。

大和氏の"新邪馬台国論"に庄内甕が吉備甕と在地の甕の影響で成立したように書いてありました。
すると実質纏向の吉備式の一部は庄内式として在地化したと思ってよいのかも知れませんね。
それと庄内甕の出現が纏向2とすると、纏向1では唐子鍵は纏向と並立しているかもしれませんね。
あるいは庄内式の土器分布が比較的狭いことを考えると、纏向2の前半ぐらいまであったかも・・・
形成途上の祭祀センター纏向でけではやっていけないようにも感じますし、纏向が画期的であればあるほど、過渡期はどこにあるのか疑問に思います。


153

Re: なるほど

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [2月21日(水)10時08分42秒]

元の発言 [ Re: なるほど ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 2月19日(月)20時45分05秒 ]

>> >> >> #「倭国大乱」中は人件費が高騰するでしょうから、
>> >> >> #戦争してない所で請け負いましょう。(^o^)
>> >> 「倭国大乱」が終わって、ひまをもてあました兵士を使って纏向建設ですか。
>> #纏向の古墳群は「倭国大乱」の時期から造られています。^_^?
「倭国大乱」の時期としてどの年代を考えられています?
そういえばおにりんさんとの論争にあったかな?


154

Re: 年輪年代法って、絶対間違いないのでしょうか?

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [2月21日(水)10時26分55秒]

元の発言 [ 年輪年代法って、絶対間違いないのでしょうか? ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月21日(水)01時17分05秒 ]

>> 法隆寺のニュースが出ていますが、ホントなんですか?

>> 年輪年代は間違いのない方法なんですか?
>> ちょっと疑問なんですが.....
一般的な意見ですが。

年輪年代のものさしのある、標準的な生育環境の木材の表皮までの十分な年輪を含んだ遺物がでれば、その木材の伐採年代は非常に正確にでるでしょう
もんだいは

1.表皮を含む測定可能な木材遺物が極端に少ない。
2.再利用によって伐採年代と遺跡の時代が大きくずれる可能性がある。
3.木材の生育環境によってはパターンが得られないこともある。
4.世界的にはともかく、日本には専門家が少なく、客観性にもんだいがある。

というところでしょうか。
寺澤さんなどは、かなり批判的な立場のようで、基本的には年輪年代抜きで、年代観を立てておられるようです。
年輪年代は再利用の可能性などで、上限の年代を与えるものとして、他の遺物を組み合わせて判断するのが一般的のようです。
今後年輪年代の測定例と、測定技術者が増えて、このようなケースではこう考えると言うような定番が出来始めると、有効性がよりあがると思います。
いまのところ参考データのような扱いですが、これが脚光を浴びた最大の理由は、他の遺物による年代推計が大きく変わり始めるタイミングで、それを裏付けるように出てきたことが大きいと思います。




155

Re: 壱与か台与か?さて、どっち?

投稿者[ 大場嘉門 ] 発言日時 [2月21日(水)10時27分39秒]

元の発言 [ Re: 壱与か台与か?さて、どっち? ] お名前 [ 池ちゃん ] 日付 [ 2月21日(水)03時27分45秒 ]

>> #どうも、お久しぶりです。

どうも、です。

>>”邪馬台国の”台”は”臺”だったそうで、(真偽はともかくとして)
>>これを書き写すときに”壱”と間違え「邪馬壱国」という言葉が生まれて、後世の学者達を惑わせた・・・という説があることを聞いて、
>>台与さんも同じような間違いで、”壱与”になったのではないかと思っておりますが、どうでしょうか?

「復、立卑彌呼宗女壹與、年十三爲王、國中遂定。政等以檄告喩壹與。壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人、送政等還、因詣臺。」

この短文中に4カ所みられれた「臺」のうち、台与さんの三カ所で同じような間違いをしたら、4カ所目も同じように間違えても良さそうなものだとは思いませんか。
台与さんであったら、意識的に壱与に「間違えた」のではないでしょうか。


156

五分の一の「歩」

投稿者[ 大場嘉門 ] 発言日時 [2月21日(水)11時09分42秒]

(1)「六尺為歩」は尺と歩の換算表

 長さを測る尺度に尺の単位と歩の単位の二系統が存在していたのであるから、この二系統間に「換算表」が存在するのは必然である。
「六尺為歩」とした秦の始皇帝の歩と尺の換算表は、先秦の時代にまちまちであった換算表のうち、周の換算表を採用し「統一」したというのが通説であろう。
 しかし、史記には始皇帝が「六尺為歩」とした経緯について、「始皇、終始五徳の傳を推し、以為へらく、『周は火徳を得たり、秦、周に代わる。徳は勝たざる所に従う。方今は水徳の始めなり』と。」とある。
 始皇帝は周制を廃止して新しい制度として、6尺を1歩にしたのであるから、周の時代に6尺が1歩だったということはあり得ないのではなかろうか。

(2)歩は2[足圭]か?

 長さの単位の「歩」の由来は、古代中国では今でいう1歩のひと跨ぎを[足圭]と称し、ふた跨ぎの2[足圭]の歩幅を「1歩」と称したからだとされる。
 しかし、長さを歩測するのに2[足圭]を1歩、4[足圭]を2歩と換算しながら数えていくのは、たとえれば鶴の群れを数えるのに、脚の本数を数えてから2で割るようなものではなかろうか。
 講談社漢和辞典の「周・春秋・戦国時代の度量衡換算表」によると周代の1歩は119.46pであり、ひと跨ぎが約60pということになる。
 古代中国人でも足のサイズが30p近い人もいたであろうから、この人がつま先に踵を接するように歩いたら、それだけで「跨ぐことなく」60pである。
 歩とは、足長を基礎とするヤード・ポンド法のフィートにあたる単位ではなかろうか。
 歩という字には「足長」そのものの意味はないが、ある距離を左右の足のつま先と踵を交互に接触させながら歩測したら、その基礎となった足長を「歩」という単位で表わしはしないだろうか。

(3)周代の歩と尺の換算表

 ALEXさんのご教示によれば、古代中国にも足長を基礎とするフィート的単位は存在したということである。
 また、三代の尺の単位には、裁縫する女性の手のひらに由来すると思われる16〜18cm、男性工人の手のひらに由来すると思われる22〜23p、足長に由来すると思われる26〜27cmがあったということである。
 この足長に由来すると思われている尺というのが、古代中国のフィート的単位のことで「歩」と呼ばれていたのではなかろうか。
 仮に、足長に由来する26~27cmを歩 とし、男性の手のひらに由来する22~23pを尺とすると、その換算比率は6尺≒5歩となる。
 周代に「6尺=5歩」という換算表があったとすれば、「周制三百歩為里」の1里とは360尺となる。
 始皇帝の度量衡統一とはこの「周制」を、終始五徳説の水行によって「6尺=1歩」とし、1里を1800尺としたということではなかろうか。
 これなら歩や里は単に5倍になったに過ぎず、社会経済面に大きな混乱をもたらすことも少なかろう。例えば周の時代の街道筋に「五十里塚」なるものがあったとす・れ・ば・、これは「十里塚」としてそのまま使用できる。

###
 唐代になって1歩が5尺、1里が360歩に改正されたのは、1歩が2[足圭]のことであっても、それが6尺というのは実態にそぐわないということに気づいたからではなかろうか。


157

Re: 壱与か台与か?さて、どっち?

投稿者[ 天孫降臨 ] 発言日時 [2月21日(水)11時18分39秒]

元の発言 [ Re: 壱与か台与か?さて、どっち? ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 2月21日(水)10時27分39秒 ]

難しいことは、わかりませんが、素人考えでは。。
池ちゃん、さんと同じ考え方をしています
台与で豊の国そして、神功皇后(宇佐)というつながりです。もともと、豊の国は畿内勢力と関係が深いらしいですからね。
関裕二さんが、日田に着目してる点も面白いと思います。
(沈黙する女王の鏡、青春出版。謎解き古代日本列島、講談社)
日本最古の豪族遺跡として、小迫辻原遺跡は一時期だけど有名になりました。その遺跡は、卑弥呼と台与の時代と重なり、山陰と畿内の土器だけが出土するという異様な遺跡です、少なくても九州に瀬戸内の連合が入ってきたという証拠だと思います。
筑紫平野を支配するには、上流部の日田は絶対必要ですし
九州を支配する為に、日田が豊臣と徳川の時代直轄地だったという戦略的に考えると面白いのです。日田からは鉄鏡も出土してるしね。
日田は歴史、文化が完全に筑紫圏内なのに、行政は豊(台与?)の国に入ってるという。。。不可解でしょ。
記紀には書かれてないけど、神功皇后が九州を支配するなら、徳川と豊臣と同じく、日田を拠点としたはずです。
(私が日田にいるので、お国自慢としてみてくださいね)

これは、無理なく考えれる一つの説だと思います。
日田は盆地で、北部九州の真ん中ですから、そして筑後川の上流部でもあり、船であっという間に筑紫平野に出れる。筑紫平野から日田を攻めると、攻めにくいという特性がる。規模は違うけど、大和盆地と日田盆地は特性が似てると思うんです。




158

Re: 里程は誇大値

投稿者[ 大場嘉門 ] 発言日時 [2月21日(水)12時36分06秒]

元の発言 [ Re: 里程は誇大値 ] お名前 [ EK ] 日付 [ 2月20日(火)20時29分29秒 ]

>>倭人伝の里程は、国を広さのない点としてとらえていると思われます。そうでないと、各国間の距離を足して全体の距離とする議論自体が成り立ちません。国ごとに長官と副官の名前がありますから、彼らが仕事をしていたお役所があったと思われ、そのお役所の位置が国の位置と仮定してよいでしょう。

私もそう思います。
従郡至倭の郡も帯方郡の役所のあった「郡治」と解すべきですし、倭も女王卑弥呼の居城までと解すべきでしょう。

>>それでは、伊都国から先は5倍の誇張がされていないと考えたらどうでしょうか。わたしは、これはあまりにも無茶な主張だと思いますが、そういう意見の方は多いようだし、ありえないことではないでしょう。

私にはあり得ないとしか思えません。
「ありえないことではない」とは、どういうことでしょうか。

>>陳寿の文章が素直な解釈では意味をなさないのは事実で、何らかの無理な解釈が不可欠ですが、そうだとしても、あるいはそうであるからこそ、このような未解決の素朴な疑問がたくさん残っていることを、自説を主張する方は認識していただきたい。

私も海峡の3千里も5倍に誇張されていると、若干無理な解釈をしているので言えた義理ではないのですが、「陳寿の文章が素直な解釈では意味をなさないのは事実」とはどの部分の記事を指しているのですか。

>>何の根拠もない素人考えですが、奴は素直にヌと読んで「野」の意味、の方がしっくりするな〜。

古田氏は「野」ですね。
私は「トゥ」に魅力を感じています。(トゥが何の意味か分かりませんが)

>>たくさんの偉い先生方がいろいろな説を提出している中から、大場嘉門 さんは誇張説を選ばれたのですから、ご自身で責任を負うべき立派な説ではないでしょうか。

「だったら五分の一にすればいいじゃん」が立派な説とのお褒めの言葉には面映ゆい感じがしますが、素直に喜んでおきます。

>>私は21世紀になったことだし、そろそろ九州説同士でバトルロワイヤルしなけりゃいけないんじゃないかと感じています。

バトルロワイヤルだったら近畿説や四国説もいれなきゃ〜。


159

Re: 地元民として一言。§^。^§

投稿者[ EK ] 発言日時 [2月21日(水)12時37分07秒]

元の発言 [ Re: 地元民として一言。§^。^§ ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 2月20日(火)21時09分04秒 ]

>> >> さて、奴国を儺の津(那珂川の河口)とすると、
>> #那珂川の河口は当時は海です。
#ご指摘ありがとうございます。(当時の那珂川の河口)としてください。5〜6km(70里かな ^_^ )遡ったあたりでしょうか。


16

Re: 稲作伝播について

投稿者[ 游惟 ] 発言日時 [2月6日(火)14時20分11秒]

元の発言 [ 稲作伝播について ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 2月6日(火)10時14分15秒 ]

別に私は北方系の渡来人が稲作をもたらしたとは言っていません。
稲作が北九州から始まったところから見ると、地理的にみて朝鮮半島から渡って来たと考えるのが一番妥当ですが、揚子江河口付近から対馬海流に乗って北九州に漂着した中国人である可能性もあります。
また、朝鮮半島から渡ってきたとしても、それが朝鮮語を話す朝鮮人であったとも限りません。

BC三世紀は中国の戦国時代の末期に当たり、BC222年に秦の始皇帝によって中国が統一されています。
この際、戦乱によって居住地を追われたどこかの国の人々が@とりあえず朝鮮半島に逃れたものの、そこは稲作農耕に適さなかったため、より適地である日本列島に渡ってきた、A揚子江河口付近から直接日本にやってきた、など様々な可能性が考えられます。

南方系の風俗に関しては、渡来人と南方系縄文人とが混血する過程で南方系の風俗も残ったのではないかと思われます。

では私の言う日本祖語を話す南方系縄文人はどこから来たか、といえばもっと南からでしょう。日本語とフィリピン・ポリネシア・ミクロネシアなどのオーストロアジア諸言語との親縁関係を指摘する人々がいますが、その可能性は十分あると思います。
私は韓国に四年半、香港に三年住み、現在は台湾在住ということもあって同じモンゴロイドでもいろいろな顔つきがあることを知っていますが、純粋な沖縄人と台湾原住民の顔つきはよく似ており、台湾原住民は大陸系ではなくフィリピン系の民族だと言われています。
安室奈美恵を初めて見たフィリピン駐在帰りの親父が息子に「どうだ、フィリピンの女の子もなかなかのもんだろう」と言ったという笑い話を読んだ覚えがありますが、確かに安室の顔はフィリピン人に多い顔です(香港にはフィリピン人が14万人住んでいます)。

私の経験では、本土の日本人に一番似ているのは北京・天津あたりの華北の中国人であり、本土日本人に北方系モンゴロイドの血が混じっているのは確実です。(ただ、韓国人の顔つきは明らかに日本人とは違う)

私の仮説は、本土日本人は形質的には北方系モンゴロイドの血が濃いのに、なぜ日本語はアイヌ語・朝鮮語・中国語・満州語・モンゴル語などとは親縁関係がなく、形質的に異なる民族の琉球語との間だけに親縁関係があるのか・・・・という疑問から出発しています。



160

Re: 里程は誇大値

投稿者[ LP販売業 ] 発言日時 [2月21日(水)13時18分39秒]

元の発言 [ Re: 里程は誇大値 ] お名前 [ 池ちゃん ] 日付 [ 2月21日(水)03時39分27秒 ]

仮定のハナシはできるだけ少ないほうがいいですね。その点、比較的根拠のある「日数も含めて5倍」は、それだけで、邪馬台国九州説がほとんど問題なく成立しますね。(実際にあてはめてみてね)
で、近畿説にいたっては、単里だ、長里だ、東の間違いだなどとあまりに仮定のハナシが多すぎますもんね。


161

Re: 壱与か台与か?さて、どっち?

投稿者[ 大場嘉門 ] 発言日時 [2月21日(水)17時13分59秒]

元の発言 [ Re: 壱与か台与か?さて、どっち? ] お名前 [ 天孫降臨 ] 日付 [ 2月21日(水)11時18分39秒 ]

>> 台与で豊の国そして、神功皇后(宇佐)というつながりです。もともと、豊の国は畿内勢力と関係が深いらしいですからね。
>> 関裕二さんが、日田に着目してる点も面白いと思います。

卑弥呼の宗女の台与が豊の国とすると、卑弥呼も豊の国ということにはならないのでしょうか。
卑弥呼を日田(邪馬台国)の女王とするには、台与は「豊」ではなく「台(日田)の与」とした方が都合よくありませんか。



162

Re: 年輪年代法って、絶対間違いないのでしょうか?

投稿者[ 三河 太郎 ] 発言日時 [2月21日(水)19時16分55秒]

元の発言 [ 年輪年代法って、絶対間違いないのでしょうか? ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月21日(水)01時17分05秒 ]

yaohideさん今晩は。お久し振りです。
過日は大変お世話になりました。感謝、感謝。

法隆寺のニュース新聞各社かなり大きく取り上げていましたね。
定説が覆る可能性があるのでしょうか?
年輪年代法の信頼性については、かなり疑問視される先生方もいらっしゃるようです。
しかし、門外漢の私が高名な先生方の受け売りで技術的な評価云々を控えますが
「出土木片の伐採年代=遺跡の築造年代」と断定するのは大変危険です。

実は、昨年秋の橿原考研附属博物館の「秋の特別展」に行きました。
丁度、「宮大工の世界」の特別イベントが開催されており、宮大工の方と親しく話をする機会がありました。この方、平城京朱雀門の復元、唐招提寺の修復を手がけたそうですが、唐招提寺の木材は明日香の寺の材料を再利用していると聞きました。約100年くらい前に使われた材料ですかね。
再利用の例は多いそうです。
又、奈良の興福寺の材料は法隆寺の建築年代よりも古いと言われています。

復元道具を使った実演を見ても、当時は伐採、運搬、製材、加工は大変に労力のいる作業です。
大変な貴重品だったことがうかがえます。こんな状況を見ても再利用は当然のことと考えます。

それと、余談ですが、朱雀門などの設計図は実寸大で描くんだそうです。ドデカイ!!驚きました。




163

Re: 壱与か台与か?さて、どっち?

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [2月21日(水)21時46分41秒]

元の発言 [ Re: 壱与か台与か?さて、どっち? ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 2月21日(水)17時13分59秒 ]

>> 卑弥呼の宗女の台与が豊の国とすると、卑弥呼も豊の国ということにはならないのでしょうか。
>> 卑弥呼を日田(邪馬台国)の女王とするには、台与は「豊」ではなく「台(日田)の与」とした方が都合よくありませんか。
#「壱=壹」も「台=臺」も発音は“ッ”じゃなかったですか。
#「邪馬臺国」か「邪馬壹国」かの議論みたい。(^○^)m(__)m


164

Re: 地元民として一言。§^。^§

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [2月21日(水)21時58分02秒]

元の発言 [ Re: 地元民として一言。§^。^§ ] お名前 [ EK ] 日付 [ 2月21日(水)12時37分07秒 ]

>> >> #那珂川の河口は当時は海です。
>> #ご指摘ありがとうございます。(当時の那珂川の河口)としてください。5〜6km(70里かな ^_^ )遡ったあたりでしょうか。
#当時は那珂川水系よりも御笠川水系のほうが中心だったと思われます。
#もっとも、春日丘陵は那珂川と御笠川に挟まれていますし、5〜6km遡ったあたりですネ。(^o^)
#中でも、須玖岡本は水系としては御笠川水系の諸岡川(板付も)で、距離的には那珂川の方に近いし博多湾が見通せ、役所としては最適地です。§^。^§


165

Title

投稿者[ 陸行水行 ] 発言日時 [2月22日(木)01時04分22秒]

邪馬台国問題は、長年やっておりますが、論争に勝てるほどの
才覚もなく、眺めて感心しておりました。岩波版の旧唐書を
読んでいて、ちょっとした疑問が湧いてまいりました。

1.「京都(長安)」を去ること1万4千里
2.東西は5月行、南北は3月行

この2点です。注には1万4千里は「魏志」によった大数であろう。
2の出典は隋書によったのである。

と書かれています。私は斐秀の「禹貢地域図」および「地域方丈図」を
勉強しています。「禹貢地域図」はサイズが20m四方で取り扱いに
不便なため、縮尺版である「地域方丈図」が使用されましたが、
一辺一丈(約2.4m)その縮尺は「一寸百里」(180万分の1)であります。
従って、一辺の長さは1万里の正方形となります。

このサイズでは、中国全土を一枚に収めることは到底無理ですので、地域
ごとに分割されたものであったはずです。これがそのまま隋まであったとは
思いませんが、地理学者による複写はあったと思います。

ここに4枚の方丈図を用意します。真中に洛陽を置くとき、

    c□□b
    d□□a のように配列しますと、a図の左上に「洛陽」を置き
aの右下に「倭国」を配置しますと、正方形の対角線上の距離、
                 14142kmが得られます。
      --------------     長安は洛陽の西約1000里に
|洛陽   |    ありますので、倭地がA点より
| |    1000里程、左にあったとした方が
| |    正しいと思います。
| |
| 倭 |
--------------A
この考え方を推し進めますと、図bでは洛陽から遼東付近までを4000里
(公孫攻めの距離)とし、仰角を45度とします。遼東から帯方郡は
凡そ右下降90度ですので、この間を、楽浪、帯方郡管轄といたします。

     --------------
|      |
| |
| |
| 遼東  |
| / \    |
--------------b
     |  あ|   |
     |   |   |
     |  い\  |
     |   う| |
     |    -- |
     ----------||-a
ここで、「あ」は、郡からの南下4000里です。次に「い」は
「乍南乍南」を海の上で表現した場合の3000里の縦成分です。
(2100里)
(う)は、狗邪韓国ー対馬ー壱岐ーマツロの縦成分3000里です。
aの縦は10000里ですから、マツロの位置は底辺から900里の
位置です。倭の位置については、長安からの距離でおおよそ間違い
ないものと思われます。

第一の仮説は、従来「絶対的合計値」と思われている12000里は地図上の
距離ではないかということです。
第二は「韓国行を水行とした場合でも「乍南乍南」を考慮すべきだという事。

次に「東西は5月行、南北は3月行」について考えてみます。従来、
倭地5000里を出す計算は、12000里ー7000里として参りまし
たが、その考えですと、狗邪韓国の海岸から海に片足を突っ込んだ
途端に「倭国」の領海になります。これは変です。

「東西は5月行、南北は3月行」を良く見ますと「倭国」はどう考えても
本土部分であって、島部は省かれているように見えます。

そこで、上述の絵でみて頂きたいのは、マツロー伊都ー奴は全て東南
で合計は700里です。これは南成分にして500里です。これに不弥
を順次式で合計してみますと、東西方向600里の倭国の海岸線が
出来ます。この角度から「倭地周旋5000里」を考えて見ますと、
地図からはみ出してしまいますが、縦(南北)1900里の島国の
場合、(600+1900)×2=5000里となります。ただ、この考えの
弱いところは、1900里を倭人の伝聞など、別の根拠に頼らなければ
ならない点です。

そこで第三の仮説は
「倭国のサイズを決めるのに、島部分は入れない方が良いのではないか?」
と言うことです。

以上、作図上の限界はご勘弁頂くとして諸兄のご意見を伺えれば幸いです。


166

距離と測定範囲の仮説

投稿者[ 陸行水行 ] 発言日時 [2月22日(木)01時13分27秒]

元の発言 [ Title ] お名前 [ 陸行水行 ] 日付 [ 2月22日(木)01時04分22秒 ]

すみません。自己RESです。タイトルをかっ飛ばして
しまいました。また、絵を書こうとしても行がずれて
しまいます。お手数ですが、ずれた部分を正方形に
修正していただきたく。m(::)m


167

Re: 年輪年代法って、絶対間違いないのでしょうか?

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [2月22日(木)01時52分27秒]

元の発言 [ Re: 年輪年代法って、絶対間違いないのでしょうか? ] お名前 [ 三河 太郎 ] 日付 [ 2月21日(水)19時16分55秒 ]

三河太郎さん、こんばんわ。

>> yaohideさん今晩は。お久し振りです。
>> 過日は大変お世話になりました。感謝、感謝。

いいえ、こちらこそ楽しかったですね。

>> 「出土木片の伐採年代=遺跡の築造年代」と断定するのは大変危険です。

僕もそう思います。

再利用も当然あるでしょうし、まだまだ年輪年代が確立された言い切るだけのものがそろっていないような気もします。


>> それと、余談ですが、朱雀門などの設計図は実寸大で描くんだそうです。ドデカイ!!驚きました。

それは、すごすぎる。


168

Re: 距離と測定範囲の仮説

投稿者[ 陸行水行 ] 発言日時 [2月22日(木)01時55分02秒]

元の発言 [ 距離と測定範囲の仮説 ] お名前 [ 陸行水行 ] 日付 [ 2月22日(木)01時13分27秒 ]

すみません。さらに自己RESです。良く読んだ
つもりで間違いやってすみません。マツロ-奴国間は
南成分が約400里で、不弥を足して500里。
従って、倭国の縦方向は2000里となります。



169

Re: 壱与か台与か?さて、どっち?

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [2月22日(木)01時56分08秒]

元の発言 [ Re: 壱与か台与か?さて、どっち? ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 2月21日(水)21時46分41秒 ]

>> #「邪馬臺国」か「邪馬壹国」かの議論みたい。(^○^)m(__)m

どうしても、たぶんそこへいってしまうだろうと思って。
それで、僕は字が好きな壱与を使ってしまうのです。
なんかその方が女の子の名前っぽいじゃない。


17

Re: 稲作伝播について

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [2月6日(火)16時36分35秒]

元の発言 [ Re: 稲作伝播について ] お名前 [ 游惟 ] 日付 [ 2月6日(火)14時20分11秒 ]

>> 揚子江河口付近から対馬海流に乗って北九州に漂着した中国人である可能性もあります。

所謂華南地方と考えるのがもっとも妥当です。あるいはベトナム辺りでもありうる事です。

>> また、朝鮮半島から渡ってきたとしても、それが朝鮮語を話す朝鮮人であったとも限りません。

半島南部は北九州と同じであると倭人伝に記載されており九州の倭人と同じ言葉を話していたもの
と推測出来ます。

>> BC三世紀は中国の戦国時代の末期に当たり、BC222年に秦の始皇帝によって中国が統一されています。
>> この際、戦乱によって居住地を追われたどこかの国の人々が@とりあえず朝鮮半島に逃れたものの、そこは稲作農耕に適さなかったため、より適地である日本列島に渡ってきた、A揚子江河口付近から直接日本にやってきた、など様々な可能性が考えられます。

秦の始皇帝は中国北部から統一を始めたのであり、秦によって追われて逃げ出したのは華南人でしょう。
Aが一番有りそうな事です。
秦の始皇帝はご存知のように北方民族の侵略に苦労して万里の長城を作った位ですから。
稲作をしていた南方の人がわざわざ半島経由で九州まで来る事は考えられません。

南九州で稲作が発展せず北九州で発展したのは単に鹿児島などが火山灰に覆われて
稲作に適していなかったから北九州まで来たのでしょう。

>> では私の言う日本祖語を話す南方系縄文人はどこから来たか、といえばもっと南からでしょう。日本語とフィリピン・ポリネシア・ミクロネシアなどのオーストロアジア諸言語との親縁関係を指摘する人々がいますが、その可能性は十分あると思います。
>> 私は韓国に四年半、香港に三年住み、現在は台湾在住ということもあって同じモンゴロイドでもいろいろな顔つきがあることを知っていますが、純粋な沖縄人と台湾原住民の顔つきはよく似ており、台湾原住民は大陸系ではなくフィリピン系の民族だと言われています。
>> 安室奈美恵を初めて見たフィリピン駐在帰りの親父が息子に「どうだ、フィリピンの女の子もなかなかのもんだろう」と言ったという笑い話を読んだ覚えがありますが、確かに安室の顔はフィリピン人に多い顔です(香港にはフィリピン人が14万人住んでいます)。

>> 私の経験では、本土の日本人に一番似ているのは北京・天津あたりの華北の中国人であり、本土日本人に北方系モンゴロイドの血が混じっているのは確実です。(ただ、韓国人の顔つきは明らかに日本人とは違う)

一般的に黄色人種であるモンゴロイドでも古モンゴロイドと新モンゴロイドに分けて考えるべきです。
モンゴルや典型的朝鮮顔と言うのは新モンゴロイドで華北の中国人は新モンゴロイドと
古モンゴロイドの混血でしょう。
新モンゴロイドは目が細くやや吊り上って、鼻筋は通っているが高くはない。
やや平面的と言った所でしょうか。平安貴族のような顔ですね。
私はむしろ中国の南部の少数民族とかヒマラヤ、ネパールの人達の顔が日本人に似ていると思います。
漢民族によって追われて一方は海路日本に逃れ、一方は山に逃げたのでしょうか。

>> 私の仮説は、本土日本人は形質的には北方系モンゴロイドの血が濃いのに、なぜ日本語はアイヌ語・朝鮮語・中国語・満州語・モンゴル語などとは親縁関係がなく、形質的に異なる民族の琉球語との間だけに親縁関係があるのか・・・・という疑問から出発しています。

私も時代は違ってもっと遅くなってから、三世紀後半になってからであれば
『A母親言語の継承・・・被征服民族の言語が征服民族の言語に取って代わる現象』
が起きたとする游惟さんの考えに大賛成です。



170

Re: 壱与か台与か?さて、どっち?

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [2月22日(木)09時31分31秒]

元の発言 [ Re: 壱与か台与か?さて、どっち? ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月22日(木)01時56分08秒 ]

>> どうしても、たぶんそこへいってしまうだろうと思って。
>> それで、僕は字が好きな壱与を使ってしまうのです。
>> なんかその方が女の子の名前っぽいじゃない。

古い時代の女性の名前としてはトヨの方が一般的という話もありましたが。


171

Re: 距離と測定範囲の仮説

投稿者[ 陸行水行 ] 発言日時 [2月22日(木)09時45分31秒]

元の発言 [ Re: 距離と測定範囲の仮説 ] お名前 [ 陸行水行 ] 日付 [ 2月22日(木)01時55分02秒 ]

あらら、まだ間違えてた。長安ー倭国14142kmは
14142里でしたね。深夜の書き込みは駄目だな。


172

Re: 壱与か台与か?さて、どっち?

投稿者[ 大場嘉門 ] 発言日時 [2月22日(木)10時32分06秒]

元の発言 [ Re: 壱与か台与か?さて、どっち? ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 2月22日(木)09時31分31秒 ]

>>古い時代の女性の名前としてはトヨの方が一般的という話もありましたが。

古代中国では女性を呼称するときには字名ではなく、出身国に姓名を付けて呼ぶのが慣例であったという話を聞いたような覚えがあります。
狼少年のような故事で有名な周の幽王の寵姫の褒[女以]も 褒国の姓[女以]だそうです。



173

Re: 壱与か台与か?さて、どっち?

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [2月22日(木)11時09分17秒]

元の発言 [ Re: 壱与か台与か?さて、どっち? ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 2月22日(木)10時32分06秒 ]

>> 古代中国では女性を呼称するときには字名ではなく、出身国に姓名を付けて呼ぶのが慣例であったという話を聞いたような覚えがあります。
>> 狼少年のような故事で有名な周の幽王の寵姫の褒[女以]も 褒国の姓[女以]だそうです。

伊予の出身とか?


174

Re: 壱与か台与か?さて、どっち?

投稿者[ 大場嘉門 ] 発言日時 [2月22日(木)11時21分31秒]

元の発言 [ Re: 壱与か台与か?さて、どっち? ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 2月22日(木)11時09分17秒 ]

>> 伊予の出身とか?

伊予さんなら、伊の予です。


175

Re:距離と測定範囲の仮説

投稿者[ 大場嘉門 ] 発言日時 [2月22日(木)12時45分40秒]

元の発言 [ Title ] お名前 [ 陸行水行 ] 日付 [ 2月22日(木)01時04分22秒 ]

「陸行水行」さん 初めまして。
私は斐秀地図は現存していないものと思っていましたので、これが20m四方ということを聞いて大変驚いています。

>>a図の左上に「洛陽」を置きaの右下に「倭国」を配置しますと、正方形の対角線上の距離、14142里が得られます。

洛陽の緯度と九州北岸付近の緯度とはほぼ同じですが、どうして対角線上に配置するのですか?
また、この間の距離は約1500qですが、1里は100m程度ということですか?


176

Title:欠史八代の名前をみると

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [2月22日(木)13時03分28秒]

記紀の欠史八代の天皇については、実在せず半身半人だの精霊だのの説が主流ですが、
神だとしても記紀や風土記を見ると、軍事的な攻撃の対象になることもあるようですから、
初期大和政権に参画した部族の象徴と考えてみます。

よく指摘されることですが三代から六代の天皇は、紀の第1の一書には全て
磯城県主葉江もしくはその弟の女となっていますから、同時期に存在した(祭られた?)
「神」の可能性があります。

その名前をみると

3代目:シキツヒコタマテミ
4代目:オオヤマトヒコスキトモ
5代目:ミマツヒコカエシネ
6代目:ヤマトタラシヒコクニオシヒト

3代目は磯城の神様のようです。
4代目はスキトモが古事記にみえる吉備のミスキトモミミタケヒコに通じるので吉備の神様のようです。
5代目は播磨の風土記や延喜式をみると、播磨または阿波の神様のようです。
6代目は分かりません

一方初代をみるとイワレヒコホホデミで磐余の神様のようです。
2代目もそう思ってみると、越もしくは出雲の神様とも思えます。
7代目も太瓊を玉と思えば、九州系とも思えます。

ちなみに紀の第1の一書と本文では2代と7代も磯城の県主の女を娶っています。

単なる名前遊びですが、九州、吉備、播磨/阿波、大和、出雲/越と役者がそろっています。



177

Re:距離と測定範囲の仮説

投稿者[ 陸行水行2 ] 発言日時 [2月22日(木)14時24分24秒]

元の発言 [ Re:距離と測定範囲の仮説 ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 2月22日(木)12時45分40秒 ]

大場嘉門さん、始めまして。

仰る通り、斐秀地図は現在のところ発見されておりません。また、私は漢学を
得意としておりませんので、きわめて単純に推論を行い、諸先輩方のご意見を
賜りたく存じ上げる次第であります。

これらの情報は、晋書、巻三十五 列伝第五 「斐秀」に記載されているものと
思われますが、私の学力では完訳できません。地理学においては、ごく普通に
年表的に斐秀を引用しております。私の手元にありますのは、海野一隆氏著の
八坂書房「地図の文化史」ですが、28頁を参照いたしますと、「禹貢地域図」
は絹80疋(ひき)を要したという超大型図であり、推定一辺20mとされて
いるようです。また「地域方丈図」に関する説明もあります。
但しこれはあくまで文献上の問題であります。

なお、「地域方丈図」がいかなる範囲を特定したかも不明ではありますが、
少なくとも一辺が一丈であった場合、正四角形の図面の一辺1万里において、
1万4千里を簡単に求める方法は、対角線上の2点であり、旧唐書の
「新羅東南大海中」を満たす方丈図を想定した場合においては、洛陽を左上隅
におき、倭国を右下の一角に求めざるを得ないのであります。

距離に関する問題につきましては、本稿内で全てを論じるのは到底困難と思われ
ますので、ご容赦いただきたく存じます。


178

Re: どうなんでしょう?

投稿者[ 沙庭恭一 ] 発言日時 [2月22日(木)14時48分38秒]

元の発言 [ Re: どうなんでしょう? ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 2月21日(水)09時50分05秒 ]

こんち。

>> 私のいいかげんな発言に丁寧なご返事恐縮です。
>> なにせ古典は読み始めたばかりで、大混乱の只中にあります。
>> ありえないようなめちゃくちゃな間違いをいっぱいしでかしそうですが、ご勘弁を。

さ:いえいえ。了解しました。

>> なるほど、広域に渡る物部の影は後世のものと・・・

さ:原秀三郎氏が旧版・古代の日本で書いていました。

>> 大己貴神などは後世の新興宗教による流布説もあるようですが・・・

さ:三輪氏の分布との兼ね合いもあります。

> なにを信じてよいものやらわかりません。

さ:これが氏族分布法の限界です。

>> 出雲系の神々も播磨の伊和大神のような在地の神々が、似たような神話を通じて溶け合って固まったものか、何かの史実があるものか・・・

さ:私は出雲単一に当てはめてよいのか疑問があります。
  律令祭祀と比較すると違和感が残りますので。
  史実とはちょっとつらいです。
  史料が少ないので。

>> 初期大和政権形成時に、吉備との不仲のような、出雲と強力に結びつく出来事が合ったのかも・・・

さ:これは?です。



179

Re: なるほど

投稿者[ 沙庭恭一 ] 発言日時 [2月22日(木)14時57分51秒]

元の発言 [ Re: なるほど ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 2月21日(水)10時08分42秒 ]

さにわです。まとめてこんち。

#「必ずしも開拓地が開発され尽くした」というのはちょっと違いますネ。

さ:了解しました。

#基礎工事と言うか、湖の底だった沼状の土地を排水しての圃場整備ってとこでしょうか。

さ:了解。

#開拓地の開発で言えば、北部九州でBC二世紀の谷水田が発掘されて、紀元前に既に平野部が飽和状態だったことを示しています。

さ:九州ではそういった状態ですか。
  初めて知りました。了解しました。

#鉄器などの新技術が出てくればそれまで手が付けられなかった土地も開拓されることになりますネ。
#「倭国大乱」中は人件費が高騰するでしょうから、
#戦争してない所で請け負いましょう。(^o^)

さ:ヤマトでは戦争がなかったと?

>> >> >> >> #「倭国大乱」中は人件費が高騰するでしょうから、
>> >> >> >> #戦争してない所で請け負いましょう。(^o^)
>> >> >> 「倭国大乱」が終わって、ひまをもてあました兵士を使って纏向建設ですか。

さ:まさにJV、合同企業体(ジョイント・ベンチャー)です。各地より労働力が提供された上に、最先端技術が纏向遺跡に集約されたのでは。



18

Re: 稲作伝播について

投稿者[ 游惟 ] 発言日時 [2月6日(火)17時20分31秒]

元の発言 [ Re: 稲作伝播について ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 2月6日(火)16時36分35秒 ]

>> 半島南部は北九州と同じであると倭人伝に記載されており九州の倭人と同じ言葉を話していたもの
と推測出来ます。

魏志倭人伝が描いていたのはAD二世紀頃の朝鮮半島の様子であり、弥生時代の始まりから300〜400年経っています。日本語を話す弥生人の一部が半島南部に逆移住した可能性があります。

>> 私も時代は違ってもっと遅くなってから、三世紀後半になってからであれば
『A母親言語の継承・・・被征服民族の言語が征服民族の言語に取って代わる現象』
が起きたとする游惟さんの考えに大賛成です。

 私は二世紀の邪馬台国が五世紀の倭の五王に代表される大和朝廷に進化したのではなく、三世紀か四世紀に朝鮮半島から渡ってきた強大な部族が邪馬台国に代わって日本の諸部族連合の盟主の位置についたと考えています。それが江上波夫氏のいう騎馬民族であったかどうかは分かりませんが、基本的には江上氏の考え方を支持しています。

 なぜなら、日本書紀を通読してみれば分かりますが、実在が確実視されている河内王朝以来白村江敗戦まで、大和朝廷の目は常に朝鮮半島に向いており、必要とあれば軍事介入も辞さずの姿勢を崩していません。そこまで朝鮮半島に執心するのは、王朝自体が朝鮮半島からやってきたからだと推測できます。一昔前の台湾政府が大陸からやってきた外省人によって支配され、本省人達の意志とは関係なく「大陸反攻」をスローガンとして掲げていたように。

 ただ、この王朝の支配者達も、最初は朝鮮語(もしくは中国語)を話していたと思われますが、日本に二百年近く住む間に日本語に同化したか、もしくはバイリンガル化したと思われます。香港のイギリス人は外来の支配者でしたが、何世代にも亘って住んでいる人たちは広東語が話せるように。但し、それは移民が現地語に同化するという常識的な現象であって『母親言語の継承・・・被征服民族の言語が征服民族の言語に取って代わる現象』とは別物です。


180

Re:距離と測定範囲の仮説

投稿者[ 大場嘉門 ] 発言日時 [2月22日(木)15時51分43秒]

元の発言 [ Re:距離と測定範囲の仮説 ] お名前 [ 陸行水行2 ] 日付 [ 2月22日(木)14時24分24秒 ]

>> 仰る通り、斐秀地図は現在のところ発見されておりません。

「禹貢地域図はサイズが20m四方で取り扱いに不便なため」を、陸行水行さんのことと早とちりしてしまいました。

>> 少なくとも一辺が一丈であった場合、正四角形の図面の一辺1万里において、
>> 1万4千里を簡単に求める方法は、対角線上の2点であり、旧唐書の
>> 「新羅東南大海中」を満たす方丈図を想定した場合においては、洛陽を左上隅
>> におき、倭国を右下の一角に求めざるを得ないのであります。

「ヒトヨヒトヨニヒトミゴロ」になるように配置したということですね。

>> 距離に関する問題につきましては、本稿内で全てを論じるのは到底困難と思われ
>> ますので、ご容赦いただきたく存じます。

立論の前提条件の「一辺一丈(約2.4m)その縮尺は「一寸百里」(180万分の1)」にいう1里は1800尺の43qと、
洛陽〜倭国間の「14142里」との整合性はどう考えたらいいのかをお聞きしたかっただけで…


181

Re:訂正

投稿者[ 大場嘉門 ] 発言日時 [2月22日(木)15時59分39秒]

元の発言 [ Re:距離と測定範囲の仮説 ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 2月22日(木)15時51分43秒 ]


>>1里は1800尺の43qと、

43q→432m。



187

Re: 庄内期は何代?

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [2月23日(金)14時27分27秒]

元の発言 [ Re: Title:欠史八代の名前をみると ] お名前 [ おにりん@ニュルンベルク ] 日付 [ 2月23日(金)07時42分34秒 ]

>> 記紀の欠史八代の天皇については、実在せず半身半人だの精霊だのの説が主流ですが、

>>
半神半人でした。

>> 神だとしても記紀や風土記を見ると、軍事的な攻撃の対象になることもあるようですから、
>> 初期大和政権に参画した部族の象徴と考えてみます。

>>
別にそれでもいいです。

>>
>>
>>
>>
>>
私は7代以降は系譜も豊かになってきているし、ある程度伝承があると思います。
とくに孝霊は古事記や風土記に事跡がみえるので実在を疑いません。

ところで箸中山を布留0とし、倭迹迹日百襲姫の墓とすると、
纏向建設から倭迹迹日百襲姫の死までが庄内期になりますが、
これは何代ぐらいでしょうかね。
庄内期は人によって違って60年−90年ぐらいのようですが・・・
60年とすれば、10代というのはやや多すぎるようにも見えます。




188

Re: 吉備の位置付け

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [2月23日(金)18時52分08秒]

元の発言 [ 吉備の位置付け ] お名前 [ 吉備の役割 ] 日付 [ 2月14日(水)00時37分01秒 ]

>> ピクポポデミ、こんばんわ。

>> >> そういえば纏向一式の時期には、吉備の土器が多いのに、纏向二式以降、祭祀はともかく土器の割合が急減しています。

>> これは気になりますね。この時期の、吉備での庄内式の出方がどう
>> なってるのか前から気になってるんですが、何かご存じですか?
>> 吉備でも庄内式が減少しているとしたら、この時期の畿内と吉備は
>> 疎遠になっていたと考えたほうがいいのかもしれないと最近思って
>> ます。

石野さんの"邪馬台国の考古学"には筑紫について以下のように書かれています
*****************************************************************
外来系土器の比率をそのまま人口の比率を示すものとすれば、三世紀の博多津で
最も多い外来人は大和である。その場合、大和人が博多に至るルートとしては
大和についで多い出雲系を重視して日本海を想定したい。当然、瀬戸内ルートが
あったはずだが、西新町の調査地域では、ルート中枢の吉備系土器が一%しかないのが
ネックになる。
*****************************************************************
この本には各地の土器の移動、墓制の話など、知らない話がいっぱいで面白いです。
箸中山=台与墓説での卑弥呼の墓探しの話もあります。



189

Re: 吉備の位置付け

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [2月23日(金)19時50分54秒]

元の発言 [ Re: 吉備の位置付け ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 2月23日(金)18時52分08秒 ]

ピクポポデミさん、こんばんは

>> >> ピクポポデミ、こんばんわ。

あれ、呼び捨てになってますね。今まで気がつきませんでした。失礼しましたm(__)m

>> 最も多い外来人は大和である。その場合、大和人が博多に至るルートとしては
>> 大和についで多い出雲系を重視して日本海を想定したい。当然、瀬戸内ルートが
>> あったはずだが、西新町の調査地域では、ルート中枢の吉備系土器が一%しかないのが
>> ネックになる。

これは面白いですね。出たばかりの本のようですね。さっそく入手して読んでみたいと思います。
これが本当なら本命はやはり瀬戸内ではなく日本海ルートかもしれません。
率善中朗将さんのご意見がききたいところですね。
これは畿内説の立場ならってことですが。

一方、九州説の立場なら畿内から九州へ瀬戸内が通れないっていうのは格好のネタじゃないでしょうか。
日本海ルートも潰されると、畿内説は立ち行かなくなる。
ここは九州説の方にも奮起してもらっていろいろデータを出していただくと、私としても助かるんですが。


19

Re: 稲作伝播について

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [2月6日(火)18時28分05秒]

元の発言 [ Re: 稲作伝播について ] お名前 [ 游惟 ] 日付 [ 2月6日(火)17時20分31秒 ]

>> 魏志倭人伝が描いていたのはAD二世紀頃の朝鮮半島の様子であり、弥生時代の始まりから300〜400年経っています。日本語を話す弥生人の一部が半島南部に逆移住した可能性があります。

私が言いたいのは稲が北方よりもたらされたのではなく華南あるいはもっと南から
来たということです。
これに異存ないのですね。

>>  私は二世紀の邪馬台国が五世紀の倭の五王に代表される大和朝廷に進化したのではなく、三世紀か四世紀に朝鮮半島から渡ってきた強大な部族が邪馬台国に代わって日本の諸部族連合の盟主の位置についたと考えています。それが江上波夫氏のいう騎馬民族であったかどうかは分かりませんが、基本的には江上氏の考え方を支持しています。

>>  なぜなら、日本書紀を通読してみれば分かりますが、実在が確実視されている河内王朝以来白村江敗戦まで、大和朝廷の目は常に朝鮮半島に向いており、必要とあれば軍事介入も辞さずの姿勢を崩していません。そこまで朝鮮半島に執心するのは、王朝自体が朝鮮半島からやってきたからだと推測できます。一昔前の台湾政府が大陸からやってきた外省人によって支配され、本省人達の意志とは関係なく「大陸反攻」をスローガンとして掲げていたように。

私も半島から征服者がきて王朝を立てた事に疑問の余地はないと思っていますが、
彼等は何故やってきたのか。それは何時だったのかが問題です。
反攻をスローガンにしていたと言う事は彼等は半島内で敗れて逃げてきたと言う事です。
彼等は半島の覇権に拘っているのに自分の出目を隠している。
あくまで天孫降臨で日本国内から生まれてように偽っていたのはなぜ?

>>  ただ、この王朝の支配者達も、最初は朝鮮語(もしくは中国語)を話していたと思われますが、日本に二百年近く住む間に日本語に同化したか、もしくはバイリンガル化したと思われます。香港のイギリス人は外来の支配者でしたが、何世代にも亘って住んでいる人たちは広東語が話せるように。但し、それは移民が現地語に同化するという常識的な現象であって『母親言語の継承・・・被征服民族の言語が征服民族の言語に取って代わる現象』とは別物です。

彼等は移民ではなく征服者でしょう?
バイリンガルになるのはいいとして何故母国語を捨ててしまったのですか?
常に反攻を考えている人間が母国語を忘れてしまう筈は有りません。
台湾でも本省人達は今でも北京語を話しています。
台湾語や広東語も理解はしているでしょうが公用語は北京語です。
フィリピンも公用語は英語。
征服者として自分達の言葉を押し付けようとするのが普通です。

「母親言語の継承」以外にもう一つの理由があったと私は考えています。


190

一度、研究史的を考えてはいかがでしょうか?

投稿者[ 沙庭恭一 ] 発言日時 [2月23日(金)20時52分00秒]

元の発言 [ Re: 庄内期は何代? ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 2月23日(金)14時27分27秒 ]

こんばんは。

私が知っている限りことでお役立ていただければか、と
思います。

<非実在説>

圧倒的多数
(津田左右吉:和風贈号から疑問視、大体、今の学者はこ       の説を踏襲している。

 直木孝次郎氏:婚姻関係は後代のウネ女を輩出したので        は?)

上記の批判は、確か前之園亮一氏の古代王朝交代批判
?(吉川弘文館)を参照されては。

<実在説>

武田祐吉:帝紀に記載された宮都・御陵・皇子、その他の     内容(ちょっとニュアンス的に異なるが。)

坂本太郎:神武天皇東征以後、ヤマト各地の豪族の提携で
     は?(これによりヤマト各地へ支配を拡大し
     た。)

田中卓氏:上記や稲荷山鉄刀銘の銘文より実在したであろ
     う。(銘文の表記により)

>> >> >> 記紀の欠史八代の天皇については、実在せず半身半人だの精霊だのの説が主流ですが、

>> >> うわあ、下半身だけの人間とか、上半身だけの人間とか?

>> 半神半人でした。

私はむしろ宗教学的な側面も持ったいたのではないかと。
それが国語学的な形容表記(漢字表記)でこのようになったのでは。
※実在とは別です。ただ、律令祭祀の中ではこれらが登場しないのではっきりしたことは言えませんが。。。
(あまり前進していないか?)

>> >> >> 神だとしても記紀や風土記を見ると、軍事的な攻撃の対象になることもあるようですから、
>> >> >> 初期大和政権に参画した部族の象徴と考えてみます。

>> >> っていうかぁ、後の豪族の祖先じゃあないですかね。

やや、これの根拠がよくわかりません。
クガタチの発生のように系譜が途中で混乱した時期があります。一概に言えないのでは?

>> >> ただ、ヤマトトトビモモソ姫は、そのモデルになった人物が
>> >> いたようですから(卑弥呼かどうかは別にして)、だとする
>> >> とそのおとうさん、おかあさんっていうのがいて、それが、
>> >> 実質的には、7代、8代のあたりで欠史八代にはいっちゃ
>> >> う。系譜はなんらかの形で残っているってものでは?

>> 私は7代以降は系譜も豊かになってきているし、ある程度伝承があると思います。
>> とくに孝霊は古事記や風土記に事跡がみえるので実在を疑いません。

さ:私は一概に否定する物差しがありませんので、丹念に見て考えていく立場ですので、あまりお役に立つか分かりませんが。
私は天皇の実在性を正直なところ、疑問視しています。 かといって津田左右吉以来唱えられているような「史実反映法」には組しません。(あまり建設的ではない。記紀の説話では上記の方法では説明できない個所がありますので。かといって、氏姓や官僚など各種国家制度などは割り引いて考えるべきでしょう。)
なぜなら、この方法ばかりを多用すれば、記紀の史実がどこまで正しいのか見なくなり、引いてはすべて嘘となり、記紀でもって歴史は何ら語れないかと思います。

まずはご参考のため。


191

一度、研究史的に考えてはいかがでしょうか?

投稿者[ 沙庭恭一 ] 発言日時 [2月23日(金)20時57分21秒]

元の発言 [ 一度、研究史的を考えてはいかがでしょうか? ] お名前 [ 沙庭恭一 ] 日付 [ 2月23日(金)20時52分00秒 ]

失礼しました。表記の「て・に・ほ・は」がおかしかったようです。

こんばんは。

私が知っている限りことでお役立ていただければか、と思います。

<非実在説>

圧倒的多数
(津田左右吉:和風贈号から疑問視、大体、今の学者はこの説を踏襲している。

 直木孝次郎氏:婚姻関係は後代のウネ女を輩出したのでは?)

上記の批判は、確か前之園亮一氏の古代王朝交代批判?(吉川弘文館)を参照されては。

<実在説>

武田祐吉:帝紀に記載された宮都・御陵・皇子、その他の内容(ちょっとニュアンス的に異なるが。)

坂本太郎:神武天皇東征以後、ヤマト各地の豪族の提携では?(これによりヤマト各地へ支配を拡大した。)

田中卓氏:上記や稲荷山鉄刀銘の銘文より実在したであろう。(銘文の表記により)

>> >> >> 記紀の欠史八代の天皇については、実在せず半身半人だの精霊だのの説が主流ですが、

>> >> うわあ、下半身だけの人間とか、上半身だけの人間とか?

>> 半神半人でした。

私はむしろ宗教学的な側面も持ったいたのではないかと。
それが国語学的な形容表記(漢字表記)でこのようになったのでは。
※実在とは別です。ただ、律令祭祀の中ではこれらが登場しないのではっきりしたことは言えませんが。。。
(あまり前進していないか?)

>> >> >> 神だとしても記紀や風土記を見ると、軍事的な攻撃の対象になることもあるようですから、
>> >> >> 初期大和政権に参画した部族の象徴と考えてみます。

>> >> っていうかぁ、後の豪族の祖先じゃあないですかね。

やや、これの根拠がよくわかりません。
クガタチの発生のように系譜が途中で混乱した時期があります。一概に言えないのでは?

>> >> ただ、ヤマトトトビモモソ姫は、そのモデルになった人物が
>> >> いたようですから(卑弥呼かどうかは別にして)、だとする
>> >> とそのおとうさん、おかあさんっていうのがいて、それが、
>> >> 実質的には、7代、8代のあたりで欠史八代にはいっちゃ
>> >> う。系譜はなんらかの形で残っているってものでは?

>> 私は7代以降は系譜も豊かになってきているし、ある程度伝承があると思います。
>> とくに孝霊は古事記や風土記に事跡がみえるので実在を疑いません。

さ:私は一概に否定する物差しがありませんので、丹念に見て考えていく立場ですので、あまりお役に立つか分かりませんが。
私は天皇の実在性を正直なところ、疑問視しています。 かといって津田左右吉以来唱えられているような「史実反映法」には組しません。(あまり建設的ではない。記紀の説話では上記の方法では説明できない個所がありますので。かといって、氏姓や官僚など各種国家制度などは割り引いて考えるべきでしょう。)
なぜなら、この方法ばかりを多用すれば、記紀の史実がどこまで正しいのか見なくなり、引いてはすべて嘘となり、記紀でもって歴史は何ら語れないかと思います。

まずはご参考のため。



192

ハンドルかえます。

投稿者[ 豊玉 ] 発言日時 [2月23日(金)21時18分22秒]

元の発言 [ Title ] お名前 [ 陸行水行 ] 日付 [ 2月22日(木)01時04分22秒 ]

ちょっと考えたら、以前、陸行水行さんがご活躍
されていたことを思い出し、ハンドルを「豊玉」に
代えます。いじょ。


193

Re: 大和の征伐空白域

投稿者[ 吉備の国 ] 発言日時 [2月24日(土)10時34分19秒]

元の発言 [ 大和の征伐空白域 ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 2月13日(火)20時02分38秒 ]

>> 以下はとくに反論ではないのですが、日本書紀と古事記を見比べて思ったことです。

>> 日本書紀では崇神紀に四道将軍として一括されて征伐対象になっている吉備ですが、古事記では三代前の孝霊の時代の話になっています。

>> また崇神紀では、吉備のみが征伐対象とは明記されていませんが、古事記では播磨を道の口にして、明確に吉備のみを征伐したことになっています。(播磨は攻撃拠点になっています。)

>> 古事記には偽書説もあり、日本書紀に比べて特に信頼できるものではありませんが、記述のなかにはより古いと考えられるものもあります。

>> 日本書紀では、崇神紀に様様な始まりの記述を集め、四道将軍など大和を中心とした同心円状の発展を描くようになっていますが、古事記にはその傾向がありません。

>> 崇神紀の西海道の征伐の物語が、本来違う時期の吉備のみの征伐であったならば、記紀の征伐対象には、吉備と佐波をのぞく北部九州から四国、播磨などが抜けていることになります。

>> 吉備は大和の前期古墳の祭祀に重大な影響を与えた地域で、これをどう考えるかは問題ですが、それ以外の庄内平行期の纏向型前方後円墳の見られる地域は、早くから大王権に服属していたのかもしれないと思えます。

>> 吉備はもしかしたら本家意識が強すぎて、王権内で孤立し征伐されたのかもしれません。
>> そうでなければ吉備は記紀のなかでも、王権の発祥の地としてもっと意識されたかもしれません。
>> 記紀の中の吉備は、反乱をよくおこす有力な外様のような扱いですから。

>> そういえば纏向一式の時期には、吉備の土器が多いのに、纏向二式以降、祭祀はともかく土器の割合が急減しています。
>> これも関係あるかな?

はじめまして、吉備の住人です。
専門的に文献を研究したことがないので、分からないことが多くあります。教えてください。
@纏向一式、纏向二式について
A布留のことばについて
B庄内について

吉備の国の四世紀ごろに興味を持って、ホームページを作っていますが、専門用語に弱いためアドバイスをお願いします。

吉備の国が、征服された国であることから、
征服される前と征服される後で連続性がないこと。
反乱を起して、これまた征服されるなど
変遷の多い地域で、大和のように連続性がないのが
単に吉備といっても、明確に分ける必要があると思います。
神話を信用しての前提ですが、
まず、@神武天皇の居住していた吉備の時代
A出雲が支配していた時代B四道将軍が吉備王国を征服した時代、吉備王国の誕生
C星川王子の反乱後の時代D吉備真備による復活の時代
このあたりで区分して吉備を語ると分かりやすい。
古墳については、歴史読本 昭和54年5月号
「築造企画からみる天皇陵」のように、前方後円墳を分類して見ると、同年代に2系統の築造集団が競っていた感じも出てきて面白いのではないでしょうか。
吉備の国の古墳は、全国4位の造山古墳がありますが、巨大古墳に登ることが出来るのは吉備だけでは。
ちょっとPRさせてもらいました。


194

Re: 二番目奴國は有奴國で柳川だった!

投稿者[ マルセ ] 発言日時 [2月24日(土)17時44分43秒]

元の発言 [ Re: 二番目奴國は有奴國で柳川だった! ] お名前 [ EK ] 日付 [ 2月20日(火)20時34分05秒 ]

EKさん はじめまして 

>>(マルセ)  魏志倭人伝の「次有奴國、此女王境界所盡」のところは、実は「次有有奴國、此女王境界所盡」を陳壽が書き間違いして、「有奴國」は「ヤナ国」で「柳川」だった〜!!!!ってことに、当分しておきたいと思います。

>> 原文書き換えは麻薬ですから、私は手を出しちゃいけないと思っていますが、これは相当いいですね。


#ありがとうございます。相当いいでしょ。
 ただ、想像の域を越えないというか、そうだったら面白いなっていうくらいの話なんでよね。
 なにかしら、実証する術があるといいんですけど。


195

Re: 都を造る時はまず運河?

投稿者[ マルセ ] 発言日時 [2月24日(土)17時46分11秒]

元の発言 [ Re: 都を造る時はまず運河? ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 2月19日(月)10時05分33秒 ]

率善中郎将さん はじめまして 情報のご提供ありがとうございます
イリヒコさん、ピクポポデミさん こんばんは

 ちょっと、ご無沙汰してました。
 纏向の大溝が田んぼの用水路か排水路じゃないかって、しぶとく考えてみましたが、やっぱり、無理のようです。

 用水路ではない理由
 これは簡単、溝が深すぎ。用水路ってセイゼイ30〜40センチの深さですね。田んぼより深くても、水が入らないし。したがって大溝は用水路ではない。

 排水路ではない理由
 排水路であるからには、それより高いところに水田がなければいけない。溝の東側が高いほうになるわけだが、微高地になっているので、もともと排水性はそんなに悪くないはず。排水路の可能性も低い。

 というわけで、やっぱり運河ですか。



196

Re: 箸墓築造お見積書

投稿者[ マルセ ] 発言日時 [2月24日(土)17時48分02秒]

元の発言 [ Re: 箸墓築造お見積書 ] お名前 [ おにりん@ドイツ ] 日付 [ 2月23日(金)07時21分08秒 ]

おにりんさん こんばんは?いまはどちらにいるんでしょ?


>>
>>

#高さなどを考慮して、墳丘の体積を計算すると、大体、大山古墳:峯ケ塚古墳:箸墓=1:1/120:1/5ぐらいなようです。って、ほとんど墳丘長の3乗ですね。
 大山古墳と峯ケ塚古墳のデータは両方とも本からの孫引きですから、どういう見積もりでこういう数値が出てきたかはわかりませんでしたが、この2つの古墳の延べ作業人員は墳丘長の2乗に比例しているようでしたので、この前提で計算しました。
 大きいほうが、割合として、なにか作業効率がいいところがあるのかも。よくわかりません。




197

Re: 超初歩的疑問

投稿者[ マルセ ] 発言日時 [2月24日(土)17時49分16秒]

元の発言 [ Re: 超初歩的疑問 ] お名前 [ おにりん@ドイツ ] 日付 [ 2月23日(金)07時31分03秒 ]

おにりんさん こんばんは

>> 卑弥呼とか壱与とか、役人達の名前は出てくるのに
>> 男王の名前は出てこないのでしょうか?

>>
>>
#当代の天皇については、今上天皇とかって具合で、名前で呼ばないということですよね。その可能性が全くないとも言えないんですが、マルセは、敢えて、選択肢の中からはずしました。
 というのも、張政は、たぶん壹與の即位を見届けていると思いますから、張政の倭國滞在中には、この男王は過去の王様になっているわけです。もちろん、倭國の過去の王様っていうのは何人もいますから、倭人たちの中では、当然、名前をつけて区別しないといけないはずですよね。
 だから、この男王にもなんらかの名前がつけられていて、その名前を張政が知る機会もあったと考えるのが自然なんじゃないでしょうか。

>>
>>
>>
#上と同様な理由で、卑弥呼という名前も、少なくとも張政が報告していると思いますので、やはり、卑弥呼も個人名である可能性が高いと思います。





198

與止日女神社!

投稿者[ マルセ ] 発言日時 [2月24日(土)17時51分45秒]

元の発言 [ Re: 書きわすれました ] お名前 [ EK ] 日付 [ 2月20日(火)20時46分29秒 ]

みなさん こんばんは

>> >> >> しかし、国は乱れたので、女王台与が王になった。
>> >> >> 九州の男王は仲哀天皇で、畿内女王は神功皇后だった。

>> >> 壱与がひょっとしたら、神功皇后だったかもという説には賛成。
>> >> 九州の記憶とか、宇佐がらみで、朝鮮半島との関係があるかも
>> >> なーんて。

>> これって、議論が噛み合っているんでしょうか。
>> 台与なの? 壱与なの? どっちでもいい問題? 簡単には解決できないから、とりあえず議論しない?

 「壹與」が「臺與」だったとして、
 マルセは、肥前一の宮の與止日女神社(肥前国佐嘉郡山田郷、現佐賀郡大和町!)の祭神である「與止日女大神」という神様が、今、気になっています。
 與止日女とは、豊玉姫のことであり、一説によると肥前風土記の豊姫(!)であるという。また、神功皇后(!)の妹の世田姫であって、姉の三韓征伐を助けた人物だそうです。さらに、この神社の御神体は「肥前大和巨石パーク」の中の巨石だそうで。
 あ〜、この、何がなんだかわからないところが、とっても魅力的!?


199

Re: 二番目奴國は有奴國で柳川だった!

投稿者[ EK ] 発言日時 [2月24日(土)20時59分02秒]

元の発言 [ Re: 二番目奴國は有奴國で柳川だった! ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 2月24日(土)17時44分43秒 ]

>>  ただ、想像の域を越えないというか、そうだったら面白いなっていうくらいの話なんでよね。
#この業界の先生方は「そうだったら面白いな」と「そうであると主張できる論理を提示できた」を区別しないのが普通みたいですよ。

>>  なにかしら、実証する術があるといいんですけど。
#無理でしょう。でも、「そうだったら面白いな、である」ことを明示するかぎりは、大声で主張してかまわないと思います。


2

奴國と狗奴國(承前)

投稿者[ マルセ ] 発言日時 [2月4日(日)01時30分43秒]

koujiさん、こんばんは

 昨日投稿したものは、下の表が間違っていました(対馬と壱岐の漁業経営体数が逆!)。
修正して再投稿いたします。すみませんでした。

>>  すみません。言葉が足りなかったですね。
#こちらこそ、無理やり説明させてしまい申し訳ありません。

>>  魏志倭人伝にある「次有奴國、此女王境界所盡。其南有狗奴國」という記述は親魏倭
王の勢力圏(=倭国)の最外延に奴国があり、その奴国の南に狗奴国があるという位置関
係が記述されていると読み取れます。

#はい。女王の「範囲」でなくて、「境界」と書いてあるから、「此」や「其」は直前に書
いてある奴國一国を指すんですよね。

>>  「其餘旁國遠絶、不可得詳」とされる諸国の渦中にあって、なぜ奴国だけが最外延で
あると確定されているのでしょうか。それは、東観漢記などに「建武中元二年、倭奴國奉
貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也。光武賜以印綬。」という内容の記述があり、この
「倭国」を卑弥呼の「倭国」と同一視したため、傍国の末尾に「次有奴國、此女王境界所
盡」という記述が追加されたと考えると納得できるように思われます。
>>  次に狗奴国ですが、「奴国の南に狗奴国があって親魏倭王に従わず、両者の国境で紛
争が続いている」というような情報があったのでしょう。魏志倭人伝の正始八年に「倭女
王卑彌呼、與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状」とありますか
ら、おそらくこの辺で齎された情報であろうと考えられます。
>>  つまり、「倭奴國....倭國之極南界也」と「奴国南有狗奴国」などというような二つ
の情報から「次有奴國、此女王境界所盡。其南有狗奴國」という記述が生まれたと推定で
きるわけです。そうだとすれば旁国末尾の奴国は後漢代の倭国と魏代の倭国を同一視する
という誤解の結果生まれたものですから、実際の狗奴国は福岡県春日市あたりを中心とす
る奴国の南に境を接していたことになります。

#ああ、わかりました。「一回目に出てくる奴國」と「二回目に出てくる奴國」は同じ國で、
もちろん陳壽も同じ國のつもりで書いているということですね。
 でもそうすると、「次有烏奴國、次有奴國、此女王境界所盡。其南有狗奴國。」のところ
の書き方は紛らわしすぎます。漢文は書けないので日本語で書きますが、「次に烏奴國があ
る。以上が女王の範囲である。また、奴國の南には狗奴國がある。」ってぐあいに書きそう
ですよ。やはり、陳壽は昔より倭國の範囲が遠くまで広がっていることを知っていたんじ
ゃないですか。
 「昔は『奴國』が倭國の中で極南界だったけれど、今はそれより遠いところにある投馬
國や邪馬壹國やその他21國が倭國の範囲に入っている。そして、『□(有?)奴國』の南
に女王と仲が悪い狗奴國がある」と陳壽は解釈していたと考えた方が、倭人伝はすっきり
読めそうです。
 で、「その広がった範囲に東渡海のもと倭種の地域が含まれていたとは、ちっ〜とも知り
ませんでした。」(陳壽談)

>>  奴国は二万余戸を擁する大国ですから、その領域は概ね筑後あたりまで含んでいたと
考えざるを得ないものがあります。この点からも邪馬臺国を筑後や筑前最南部に想定する
のは苦しいと思いますが、奴国の南において狗奴国が境を接していた公算が高いとすれば、
なおさら邪馬臺国を筑後や筑前最南部に想定するのは無理があると言えるのではないでし
ょうか。

#そうとも言い切れません。現在の統計値で申し訳ありませんが、
====================================
      農家戸数  漁業経営体数  農漁家戸数   (倭人伝の戸数)
      (A)    (B)   (A+B)
====================================
対 馬  1,604  2,179  3,743   (1,000)
壱 岐  3,153  1,216  4,369   (3,000)
2島計  4,757  3,395  8,152   (4,000)
====================================
福岡県 81,849  4,218 86,067
====================================
 現在の対馬と壱岐の農漁家戸数は、合計すると倭人伝に示された戸数の倍ぐらいです。
これから類推すると、現在の福岡県の領域に、当時戸数が4〜5万戸あってもおかしくな
いと想定できます。奴國の領域が筑後川流域を含まなくても、福岡県の玄海灘方面だけで
なんとか2万戸入りそうです。ちょっときつめですが。
 (というわけで、筑後川流域にあった「面土國」を併合した國は「奴國」限定でなく、
奴國か邪馬壹國か狗奴國か投馬國かのどれかとしてもいいのです。)

 ところで、古代史に関係ない話ですが、西暦2000年現在の日本の第一次産業って、
職業としては奈良時代ぐらいの規模にまで縮小しちゃってるってことですよね。こんなこ
とで、日本の食糧生産は本当に大丈夫なのかな〜。

*************************************
>>  陳壽かどうかはわかりません。それは里程記事に日程記事を付加した人物は陳壽では
ないと考えられるからです。翰苑所引の魏略には次のようにあります。
>> 「自帯方至女〔闕「王」〕國萬二千餘里」
>> この「萬二千餘里」には日程記事部分が含まれていると考えられます。里程記事と日程
記事の接合は陳壽以前に行われているわけです。したがって、「周旋五千余里」の算出も陳
壽以前に行われ得たわけです。

#そうですね。確かに陳壽以前の誰かかも知れませんね。


20

Re: 稲作伝播について

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [2月6日(火)21時26分20秒]

元の発言 [ Re: 稲作伝播について ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 2月6日(火)16時36分35秒 ]

>> 一般的に黄色人種であるモンゴロイドでも古モンゴロイドと新モンゴロイドに分けて考えるべきです。
>> モンゴルや典型的朝鮮顔と言うのは新モンゴロイドで華北の中国人は新モンゴロイドと
>> 古モンゴロイドの混血でしょう。
#確かにそうなんですが“新・古”はちょっと、“北方系・南方系”の方がいらん誤解を招かないでしょう。

>> 私はむしろ中国の南部の少数民族とかヒマラヤ、ネパールの人達の顔が日本人に似ていると思います。
>> 漢民族によって追われて一方は海路日本に逃れ、一方は山に逃げたのでしょうか。
#長江下流域に行ったとき「うわー、親戚がいる。あれは高校時代の同級生だ!」と感激しました。
#関西や名古屋に行ったときは、「中国みたい」と思いました。
#私が九州人だからでしょうか。


200

整合性

投稿者[ 豊玉 ] 発言日時 [2月24日(土)21時21分33秒]

元の発言 [ Re:距離と測定範囲の仮説 ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 2月22日(木)15時51分43秒 ]

すみません。ハンドルを変えました。

>> 立論の前提条件の「一辺一丈(約2.4m)その縮尺は「一寸百里」(180万分の1)」にいう1里は1800尺の43qと、
>> 洛陽〜倭国間の「14142里」との整合性はどう考えたらいいのかをお聞きしたかっただけで…

言葉足らずのポイントのずれた話になるかとも思いますが、縮尺率が5倍ほども違う2枚の地図を、あたかも一枚のように見せかける手法は、平面同士の接続をしないで、
線、または、点で両地図の角を結合することです。当時の中国の状況から考えると、瀋陽付近かなと思います。

幸いなことに、黄海、東シナ海がありますので、2枚の地図を並べても縮尺率の違いに気づかれることはないでしょう。

14000里は、結果的に出てきたものと考えます。



202

Re: 箸墓築造お見積書

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [2月25日(日)13時10分03秒]

元の発言 [ Re: 箸墓築造お見積書 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月25日(日)05時54分07秒 ]

おにりんさん、こんにちは。そっちでは、こんばんは?
#くれぐれも、御身お大切に。

>>  大山古墳と峯ケ塚古墳のデータは両方とも本からの孫引きですから、どういう見積もりでこういう数値が出てきたかはわかりませんでしたが、この2つの古墳の延べ作業人員は墳丘長の2乗に比例しているようでしたので、この前提で計算しました。
>>  大きいほうが、割合として、なにか作業効率がいいところがあるのかも。よくわかりません。
>>
>>
>>
#初期の古墳というか、吉備で造られ始めた頃のものは切り出しですよネ。
#これは効率が良い。
#平地に造るのは周溝の土を盛ったとしても大変、相当の労働力が必要だったでしょう。



203

Re: 里程は誇大値

投稿者[ 豊玉 ] 発言日時 [2月25日(日)20時27分47秒]

元の発言 [ 里程は誇大値 ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 2月19日(月)10時12分16秒 ]

こんばんわー。昔々、私のまだ脳がアルコールに漬かってないころの作と思われる、
里についての私論が出てまいりましたので、ご参考までに・・・。

地理上の里と天文上の里

ここで、原始的ではあるが、「邪馬一国」の証明の「解説にかえて」で谷本茂氏の行った
周髀算経を真似てみることにする。8尺棒の夏至の正午の影の長さ1尺6寸をもって南北
1千里離れた地点の影の長さが1寸の差を生ずる原理を利用し、千里当たりのm数に換算
したところ、約76〜77m/里を算出されるものである。大変優れた着眼点だと言える。
地球の中心を0とし、北回帰線(北緯23.5度)から観測点の角度を求めて地表上の距離
を算出する方法である。同氏による計算では、観測の基点は北緯34.8度の洛陽とほぼ
同緯度であると導いている。

近頃はラジアンで計算するのが簡単なので、子午線上の地球の円周を4万kmとする方法で
計算を試みる。北緯34.8度の北回帰線からの距離は40000*(34.8-23.5)/360=1255.6km。
このとき、観測点から太陽の真下までの距離は16000里であるので、1里78.5mを得る。
これは、北回帰線から北緯34.8度間の当時の天文観によるものであるから、当然の帰結と
して、北回帰線から北方に離れるほど、1里の実際のm数は減少する。
一方、RADIANS(34.8-23.5)=0.19722であるから、8尺を乗ずれば1.58尺となり、同氏の
結論に近い数値が得られる。この方式の場合は、むしろ北緯35度の方が1.6尺に近い
のだが、同氏の算出された、北緯34.8度を基準にしてみたい。

ここで、作図の方法論を述べる。方眼用紙を使い、1cmあたり1000里として縦に線分を引く。
夏至の太陽までの地表上の距離は16000里とされていたから、16cmが16000里に相当する。
線分上端は洛陽を表す。図面は単なる東西南北を表すのみのものである。

ところが、ここで大きな矛盾に直面することになる。中国の蓋天説においては、洛陽から
南方13000里行けば「赤県神州」の南端に到達するのであるから、夏至の正午の太陽は、
その辺縁より、南方3000里にプロットされるはずである。ところが、北回帰線23.5度は
マカオ北方の広州より北になってしまう。つまり、遠方にあるべき太陽の位置が、辺縁の
内側に来てしまうことになる。谷本茂氏は数学的に3点間の問題を論じたのでこれには
触れない。よって、この作図方式を採った場合は16000里の位置の判定の方法を考える必要
が生じる。

もっとも安直な方法は、中国南岸を「赤県神州」の南端とし、さらに3000里南方に太陽の
位置を求める方法であるが、倭人伝の中に一箇所だけ、位置と方角が明確に記載されている。
「対馬から南に行くと壱岐に至る」の部分である。これを採用してみよう。
まず、第一に「対馬から壱岐は見えるか?」であるが、現在の厳原ではまず見えない。
しかしながら、南の豆酘崎(つつさき)まで行けば天候に恵まれれば見ることができる。
第二に、対馬の観測者が「司南」または「指南魚」を所持していたとすれば、壱岐方向が
南東であると判定できた筈である。第三に星の運行を基準とすれば、北天から方位を割り出す
ことも出来た筈である。

これらのことから、倭人伝における観測者は夏至の太陽の方向を「南西」と見たと考える。
前述の如く夏至の太陽は洛陽から南16000里に位置付けられるから、天地平行、または蓋天説を
理解している者であれば、この考え方にならざるを得ない。当時の船による移動は地乗り航法
だが、一種の三角測量であり2点間の相対的な角度と距離で経験的に己の位置を決める。
太陽の運行も直感的測量には役に立つ。地乗り航法の大部分は夜間の航海をしない。

そこで、雑駁ではあるが、当初、作図した16cmの線分の下端より45度北東方向に
補助線を引き、両線の交点を0とし、補助線上に対馬厳原付近の北緯34.2度があるとする。
ここでメルカトル図法で描かれた世界地図を見て、同交点0と16cmの線分を洛陽と
同経度のラインに重ね、同交点0のポイントを探ると、概ねマカオ程度の緯度に交点を
求める。ただし、観測の方位誤差、および私の使用している地図があまりにも
小さいことによる精度上の問題があることは言うまでもない。

この観測者が幸いにも夏至に周髀算経の8尺棒を立て、正確に影の長さを算出したと仮定
すると影の理論上の長さは1.49尺となる。コンパスでマカオ付近の交点から半径
16000里の円を描き、交点方向に1.6尺との差1寸1分すなわち1100里を減じ、さらに
洛陽より西方の西安から半径14000里の円を描いて、相関関係をみると、対馬の位置が
周髀算経より求めた点の外にでてしまうか、西安からの方位「東南」から大きく逸脱して
しまって、対馬の観測者が8尺の棒を立てたことは否定される結果がでる。
しかしながら、本論の根拠となるのは、対馬から太陽直下を南西に見ることにあるから
交点から対馬の方位は依然北東として直線の延長上に求めることになる。

一方、前述のマカオ付近の緯度は北緯22度であるので、洛陽との距離は、
40000km*(34.8-22.0)/360=1422Kmとなる。これが16000里に相当するので、1里の距離は
88.9mと算出される。対馬の位置確定には失敗したが、現在位置を求めようとしている
図面は、1里88.9mで描こうとしていることになる。

これは「誤った天文観」により算出される数値であって、「古代中国天文里」とでも
名づけるのが妥当ではないだろうか。

司馬懿が公孫を攻める際の距離は4000里とあるが、現在の地図上の瀋陽付近までの距離を
北京経由で測定すると、約1320kmであるので、4000里で除すると1里330mを得る。
魏里432mとすると、76.3%の縮尺であるが、道路の紆余、勾配を無視している
数値であるから、全面的に採用するのは乱暴としても、実里の一応の目安として考える
ならば、中国本体の北東部における里を単位とする投影図面は公称里数より76.3%ほど
少なめに見積もる方が実態に即していると考えられる。

この考え方を持ってすれば、マカオから、洛陽までの距離についても単純に1422Kmを432m
で除するか、ある程度の紆余、傾斜を考慮した330mで除するかだけのことに帰着する。
この「地理学的」方式による概算距離は、洛陽マカオ間4300里、洛陽福州間3500里となる。
ただし、この分率は一例に過ぎないのであって、当時の実地理を表すものではない。

以上のように、里数の論点が地理的な測量積み上げ式によるものか、大枠において天文学
を採用し机上の推論をするかによって、あたかも二つの里が存在するように見えるが、
地球レベルの規模の図面を引く場合にあっては、天体の運行の基本的原理と、地球に関する
情報が正確でない場合においては、当然発生する問題であろう。この二つの里の換算率は、
上述のように、現実地理上の誤差と、天文学的誤差を加味した二つの結論の比率である。

いずれにせよ、投影法を採用しない、東西線、南北線程度の分率の異なる図面A(中国中心部)
と図面B(北東蛮夷部)の接続はもっとも巾の狭いエリアで平面でなく、点、もしくは線で
角を接続して調整するしかないので、瀋陽、遼東付近からの直線で調整せざるを得ぬものと
考える。

また、今回の考察では、北緯35度付近、たとえば、木浦、釜山、対馬最北端等で、長期に
渡り正確に8の倍数尺の髀を立て、周髀算経により正午の夏至の影の長さを正確に測定する
場合においては、経度が洛陽より離れる場合にあっても、天文上の太陽直下の地を中心とした、
天文上の半径16000里の円周から脱出することはできないであろう。


204

光武時朝貢の実態は?

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [2月25日(日)22時12分42秒]

元の発言 [ 倭人は万里の彼方 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月17日(土)02時34分46秒 ]

2. 光武時朝貢の実態は?

(1) 光武時朝貢は何月何日?
    范曄後漢書に先行する袁宏の後漢紀光武帝紀は、より詳しく次のように記す。
   「(中元)二年春正月辛未,初起北郊,祀后土。丁丑,倭奴國王遣使奉獻」
    倭奴國王の遣使は57年1月14日である。
--------------------------------------------------
(2) 光武はいつ死んだか
    同じく「二月戊戌,帝崩南宮前殿」
   57年2月5日に光武帝は崩御している。倭奴國朝見のじつに21日後の
   ことである。
    後漢王朝始祖への表敬としては、じつに際どいタイミングであった。

    しかし、果たしてこれは偶然であろうか?
--------------------------------------------------
(3) 朝貢の記録はなくとも交流は古い
    日本列島ことに北部九州のクニグニが前漢代から中国本土と交渉をもっていた
   ことは、銅鏡のみならず四葉座金具や玉璧など賜物と考えられる遺物の出土で
   確実視されている。
    しかし、倭人ありというのが伝聞情報のみでなく、具体的交渉があった結果だと
   考えられる史書の記事があり、これを次項に掲げる。
--------------------------------------------------
(4) 王莽に朝貢したのは誰?
    漢書がしるす王莽の太后への奏に「越裳氏重譯獻白雉、黄支自三萬里貢生犀、
   東夷王度大海奉國珍」という言葉があることはつとに指摘されている。越裳氏の
   白雉献上は元始元年に向けて王莽自身の演出で行なわれたもので、黄支の犀牛
   献上も同二年の史実である。

    東夷の王の朝貢は記録に具体的には見えないが、「莽既致太平、北化匈奴、東
   致海外、南懷黄支…」という漢書の表現からはこの一連の王化事績がすべて王莽
   自身の演出であることを物語っている。

    東夷の王とは何物であるか?当時の漢の版図は当然楽浪に及んでいる。「海外」
   から「度大海」してやって来る東夷の王の候補者は倭人しかいないと考えてよい
   だろう。この一連の四夷朝貢が紀元元年以降の数年間の間に行なわれた事にも注目
   してみよう。光武時朝貢の丁度ほぼ半世紀前のことなのである。
--------------------------------------------------
(5) なぜ光武帝が生きているうちに朝見できたか
    四夷から朝見者が参じることは中国皇帝の栄光そのものである。王莽も
   太后のために自身でそれを演出し実現した。

    倭奴国がこのようなきわどいタイミングに朝見を果たし、やや過分とも言える
   金印紫綬の誉れに耀いたことの蔭には、中国側の政策的な誘導があったと推定して
   も当らぬことではないだろう。すなはち、王莽の政治ショーから丁度半世紀を経た
   いま、そして光武帝が生きているうちに、王莽以上の栄誉を演出したい皇帝側近の
   配慮である。



205

安帝時朝貢の真相

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [2月25日(日)22時13分53秒]

元の発言 [ 光武時朝貢の実態は? ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月25日(日)22時12分42秒 ]

3. 安帝時朝貢の真相

(1) なぜ朝貢したのか
    安帝の治世は衰凋と退廃の中である。遠い東夷王の朝見が、お飾りの幼帝を
   さらに飾り立てるため−実際は太后と外戚の栄誉のため−に仕立てられたセレ
   モニーであることは言うまでもない。
--------------------------------------------------
(2) なぜ50年後なのか
    そして、この西暦107年に行われた行事が、光武時朝貢の丁度50周年で
   あることに注目したい。光武時の再現を演出したのである。この時期に朝見を
   行なう理由は倭國の側には特にない。

    安帝時朝貢は中国側の誘致である。しかし
   この時だけではなかったのである。王莽も光武も同様であった。


206

Re: 里程は誇大値

投稿者[ 大場嘉門 ] 発言日時 [2月26日(月)12時12分07秒]

元の発言 [ Re: 里程は誇大値 ] お名前 [ 豊玉 ] 日付 [ 2月25日(日)20時27分47秒 ]

>>以上のように、里数の論点が地理的な測量積み上げ式によるものか、大枠において天文学を採用し机上の推論をするかによって、あたかも二つの里が存在するように見えるが、地球レベルの規模の図面を引く場合にあっては、天体の運行の基本的原理と、地球に関する情報が正確でない場合においては、当然発生する問題であろう。

司馬懿が公孫を攻める際の距離の4000里は「地理的」で、対馬〜壱岐間の1000里は「天文的」という理解でよろしいのでしょうか。


207

Re: Title 文化と言語と

投稿者[ 馬詐 ] 発言日時 [2月26日(月)19時35分16秒]

元の発言 [ Title 文化と言語と ] お名前 [ おにりん@ドイツはニュルンベルクより ] 日付 [ 2月23日(金)08時52分28秒 ]

ご無沙汰です。
いい話に釣られて出てきました。最近はROMっております。馬詐です。

最近邪馬台国問題から離れているのですが、古代関東(あずま?)について網野氏などの影響も受けつつ考察しております。
おっしゃるとおり日本人は、島国であるが故に、人種=民族=国家=言語=宗教という近代国民国家が生んだ幻想から離れられないような気がします。
関東、東北の古代史を考えると、その地方組織の仕組みや文化が西日本とあまりに違うのに気付くのです。
幾分トンデモですが、私は、古代関東の親王任国制度は連合王国のプリンス・オブ・ウェールズと同じ意味を持つのではないか、と思っております。
それが平将門の独立思想の下地になり、ひいては鎌倉幕府、関東公方、江戸幕府など「東日本」政権の思想的根拠につながるのではないか?と。

まあ、そんなところです。
Bon voyage!


208

鏡 −伝説と幻−

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [2月26日(月)23時10分52秒]

現代にも伝説はある。
 そう決めた理由がいつしか忘れられて前提条件が成り立たなくなった後も守られつづける約束事もあれば、高名な学者の発した不用意な一言が検証されないままのちのちまで語り伝えられることもある。

 伝説の存在感は恐ろしい。たとえば寺沢薫のような真摯な研究家さえ、公孫氏が遼東に送った1万人のうちに鏡師がいたというような伝説を信じて著書に書いてしまう。はたまた山川の年表や広辞苑が中国史書ではなく日本書紀分註を引いて、魏明帝が親魏倭王の印綬を与えたとか書いてしまう。哀哉。

 そんな伝説には、古鏡に関わるものもある。見てみよう。

伝説1:左字は倭人が書いた証拠である。
 中国出土銅鏡にいかに頻繁に左字があらわれるか、多くの人が知っている。しかしこの伝説は依然実在する。不思議なことである。
 銅鏡の銘文を見れば、文字は凹んでいない。盛り上がっていることが判ろう。銘文は原版には書かれていない。原版を写し取った型に書き込まれるのだ。
 工人は裏返しに文字を書く。しかし時折、注意力が落ちたときや仕事が立込んだとき、うっかり日常書き慣れた「裏返しでない字」を書いてしまう。鏡を鋳造する。左字である。
 ひとがいちばん日常書き慣れた文字は何か?自分の名前である。
 陳氏はそんな鏡を鋳た。

 銘文左字は、読み書きの出来る人間が作った証拠である。


伝説2:韻律の乱れは倭人が書いた証拠である。
 中国出土銅鏡に、韻文の体をなしていない銘文がどれほどあるか、見ている人は知っている。知らない人は見ていない。しかし、知らないで鏡を論ずる人はたくさんいる。不思議なことである。

 韻律どころか、一句ごとの文字数の揃わないものも珍しくない。というより「句」ではないのである。最初から韻文を書く気のない人が銘文を刻んでいるのだから。
 もちろん韻文でも一句ごとの文字数の揃わないものはある。楽府である。韻文のうち最も自由で韻律が厳しくなく規則にとらわれない詩型である。魏は楽府の開化期である。

 韻律に叶った銘文を刻んでいるとき、工人は、お馴染みの文句を刻んでいるだけである。韻文を書いている意識はない。だから言葉として通じる限り文字や行を削ったりする。言葉として通じなくなるまで削ることもある。中国人でないからではない。詩人でないからである。

彼は工人である。


伝説はまだまだある…ようだ。


209

Re: 里程は誇大値

投稿者[ 豊玉 ] 発言日時 [2月26日(月)23時14分08秒]

元の発言 [ Re: 里程は誇大値 ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 2月26日(月)12時12分07秒 ]

>> 司馬懿が公孫を攻める際の距離の4000里は「地理的」で、対馬〜壱岐間の1000里は「天文的」という理解でよろしいのでしょうか。

違います。対馬ー壱岐間も「地理的」です。但し、中国大陸部図面Aと東夷部Bとの縮尺率が不詳であった。
これを整合させる手法として天文的な観点から周地より夏至日中下地間の距離16000里を採用し、A図とB図の整合性を天文上の図面で行った、と言う意味です。




21

Re: 稲作伝播について

投稿者[ 游惟 ] 発言日時 [2月6日(火)23時20分02秒]

元の発言 [ Re: 稲作伝播について ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 2月6日(火)18時28分05秒 ]

>>私が言いたいのは稲が北方よりもたらされたのではなく華南あるいはもっと南から
来たということです。
これに異存ないのですね。

私が言いたいのは、稲作農耕技術と鉄器文明を持った人々がBC3世紀頃に日本列島の外からか渡ってきた、ということです。だから華南あるいはもっと南から来た可能性を否定するわけではありません。

>>私も半島から征服者がきて王朝を立てた事に疑問の余地はないと思っていますが、
彼等は何故やってきたのか。それは何時だったのかが問題です。
反攻をスローガンにしていたと言う事は彼等は半島内で敗れて逃げてきたと言う事です。
彼等は半島の覇権に拘っているのに自分の出目を隠している。
あくまで天孫降臨で日本国内から生まれてように偽っていたのはなぜ?

「大陸反攻」という台湾のスローガンを例にあげたのは不適切でした。私は別に日本に征服王朝を立てた部族が半島から逃れてきたと言っているわけではありません。例えば、朝鮮半島のある国の王族が日本に攻めてきて分家を立てたが、日本の方が人口が多く豊かだったので、何代か経つうちに分家の方が本家を主張し始めたというような可能性もあります。

>>彼等は移民ではなく征服者でしょう?
バイリンガルになるのはいいとして何故母国語を捨ててしまったのですか?
常に反攻を考えている人間が母国語を忘れてしまう筈は有りません。
台湾でも本省人達は今でも北京語を話しています。
台湾語や広東語も理解はしているでしょうが公用語は北京語です。
フィリピンも公用語は英語。
征服者として自分達の言葉を押し付けようとするのが普通です。

モンゴル族の元や満州族の清の例を見れば明らかなように、征服者に対して原住民の数が多すぎる場合はその言語を押しつけることは不可能です。
17世紀当時、満州語を話す満州族は100万に満たなかったのに、二億もの中国語を話す漢民族を征服して清朝を立てたのです。武力によって政治権力を握るということと、支配下の民族を自らの文化に同化させることは別のことだということを忘れてはなりません。
おそらく3〜4世紀に小国が分立している状態であった日本列島の人口は100〜200万程度であったと思われますが、そこに攻めてきた征服王朝の軍は多くても数千程度でしょう。しかし、小国連合の盟主的存在の軍をうち破って力を誇示すれば、他の小国は戦わずして服属します。そして数千人の異民族王朝が100〜200万の小国連合の盟主におさまるというわけです。

しかし、少数の征服民族が政治権力を握った後は、統治のためには現地人とのコミュニケーションが必要となってきます。そのため、近代なら現地人に自らの言語を教える学校を建て、通訳を養成するということもあり得ますが、そもそも学校などという発想のない時代には、自らが現地語を覚えることが早道です。モンゴル族・満州族の貴族達は自らの言語を守ろうとして必死に努力しましたが、元皇帝も清皇帝も5〜6代目になればもはや中国語を常用するようになり、モンゴル語や満州語の方が第二言語化していたのです。
607年に聖徳太子が送った遣隋使は国王を「アメラリシヒコ」「オホキミ」と称しているように、日本語を使っていますが、仮に渡来人による征服王朝が成立したのが400年頃だったとすると、この時には既に200年も経っていたのであって、元皇帝や清皇帝と同じようになっていたということでしょう。

ただ、日本の王族達が母国語(朝鮮語)を完全に捨てたのは663年の白村江敗戦によって、完全に朝鮮半島利権を喪失して以降、おそらく8世紀奈良時代以降のことだと思われます。なぜなら、日本書紀には中国からの使者には通訳を用いたことが明記されているのに、朝鮮諸国からの使者に対しては通訳を用いたという記事は全くないのであって、要するにこの頃の貴族達はみんなある程度は朝鮮語がしゃべれたということになります。

「母親言語の継承」という現象は、人口がごく少なく国家と呼べるようなものが存在しない原始・未開社会段階でのみ起こる現象です。
今我々が考えているような問題は、絶対時間に於いて今から何千年前か、ということよりも当該社会の文明の発達段階がどの程度であるかによって考えなければいけません。


211

Re: Title 文化と言語と

投稿者[ 馬詐 ] 発言日時 [2月27日(火)10時21分34秒]

元の発言 [ Re: Title 文化と言語と ] お名前 [ おにりん@パリ ] 日付 [ 2月27日(火)08時53分44秒 ]

>>
>>
>>
>>
>>
そうですね。戦前はある種の帝国思想というか、「王制」じゃなくて「帝制」という他民族包含政権への指向が見られますし、五族共和なんて、他民族を前提とした用語ですしね。

>>
>>
>>
>>
>>
東北と関東、関西と九州との関係というのは、文化的に似通っていながら対抗軸もあるという微妙な関係でしょうね。
そして、海を通しての交流などから言えば、関東より東北日本海岸の方が関西とのつながりが深いという一種ねじれ現象も起きてます。

>>
>>
>>
>>
広い意味での日本文化圏であったことは自明だと思います。

>> それが平将門の独立思想の下地になり、ひいては鎌倉幕府、関東公方、江戸幕府など「東日本」政権の思想的根拠につながるのではないか?と。
>>
まあ、単純には言い切れないとは思いますが。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
いや、平安に止まらず、結構後世に至るまで広い意味での日本文化圏の下層に東西の文化圏、そして東北、九州の亜文化圏とでも言うべきものは見られますよ。
ただ政治的に日本は朝廷を中心としたベクトルも強くあり、それとのバランスが一方に偏ると上記将門政権とかの現象が起こるのではないか?と思いつきですが考えています。

>>
読みます。



212

周尺と漢尺と魏尺

投稿者[ 大場嘉門 ] 発言日時 [2月27日(火)12時51分09秒]

説文に「周制、寸・尺・咫・尋・常・仞、諸度量、皆以人之體為法」とあるとおり、尺は人体の部位を基礎としているのであるから、その単位はそう変化するものでもなかろう。

講談社漢和辞典の度量衡換算表によると、周尺は小尺(咫)で15.93p、大尺は19.91cmとある。
この小尺は、伝殷墟出土牙尺(15.78cm)や西宮の黒川文化研究所収蔵の殷骨尺(15.773cm)に近いので、おそらくこの殷尺を周の小尺(咫)とみなしてのことだろう。
新しい発見でもないかぎり、今後も周尺は「20p」ということで動かないだろう。
周の尺と歩の換算表が6尺=5歩であれば、1歩は24pで、1里は360尺の72mである。

漢尺は前漢が22.5p、後漢が23.04pとある。周尺より2〜3p伸びているのは、後漢尺が新王莽銅嘉量の長さ23.03cmに近いところからみると、おそらくこれを根拠にしているからだろう。
しかし、和漢三才図会に「漢尺、以黄鐘之長、均作九寸、外加一寸為一尺」とあり(下敷きは漢書律歴志か)、漢尺は楽器の黄鐘の長さの10/9尺であるという。
「生きているミイラ」で有名な長沙の馬王堆墓から、長さが17.65pの前漢の黄鐘が出土しており、これを基準にすると17.65×10/9=19.61pなり、漢尺も「20p」ということになる。
漢の尺と歩の換算表は6尺=1歩であるので、1歩は120pで、1里は1800尺の360mである。

魏尺は24.12pとある。これはは魏の正始弩尺(24.2cm)や晋の永寧骨尺(24.3cm)を根拠にしているのであろうから、これも新しい発見でもなければ「24p」は今後も不動であろう。
魏尺は、どうして周尺・漢尺の1.2倍になっているのだろう。
基礎となる人体の部位が急伸長したということでもなければ、考えられるのは、魏の時代になって尺の単位が変更されたということしかない。
周尺・漢尺と魏尺の比が6:5=360:300ということから想像すると、1里を300尺の72mにしたということではなかろうか。
魏朝は歩の単位を周歩に復古したときに、「魏尺=周歩」という尺の単位の改定を行ったのではなかろうか。

###
講談社漢和辞典の度量衡表が隋尺を29.51pとしているのは、何を根拠にしているのだろうか。
「勾」を永寧骨尺(24.3p)程度とし、「股」との比が5:6とする「曲尺」でもあったのだろうか。


213

Re: 周尺と漢尺と魏尺

投稿者[ EK ] 発言日時 [2月27日(火)20時41分52秒]

元の発言 [ 周尺と漢尺と魏尺 ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 2月27日(火)12時51分09秒 ]

私が先月号で、短歩について、「『1里は300歩に決まっている』などというラフな議論でなく、もっと明
確な根拠が提示されることを望んでいる」と書いたのは、こういう議論です(残念ながら、ちょっと難しい)。



214

Re: 鏡 −伝説と幻−

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [2月27日(火)20時45分59秒]

元の発言 [ 鏡 −伝説と幻− ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月26日(月)23時10分52秒 ]

>>  工人は裏返しに文字を書く。しかし時折、注意力が落ちたときや仕事が立込んだとき、うっかり日常書き慣れた「裏返しでない字」を書いてしまう。鏡を鋳造する。左字である。
>>  ひとがいちばん日常書き慣れた文字は何か?自分の名前である。
>>  陳氏はそんな鏡を鋳た。

#りっぱな工人なら、そんな失敗した鏡は破棄する。
残っているのであれば、陳氏はたいした工人ではない。
そうでなければ、陳氏の名を騙った職人でしょう。
だから、日本人の可能性があるのでは。


>> 伝説2:韻律の乱れは倭人が書いた証拠である。
>>  中国出土銅鏡に、韻文の体をなしていない銘文がどれほどあるか、見ている人は知っている。知らない人は見ていない。しかし、知らないで鏡を論ずる人はたくさんいる。不思議なことである。


#すいません、これはわかりません。漢文の知識が
乏しいのです。

>>  韻律に叶った銘文を刻んでいるとき、工人は、お馴染みの文句を刻んでいるだけである。韻文を書いている意識はない。だから言葉として通じる限り文字や行を削ったりする。言葉として通じなくなるまで削ることもある。中国人でないからではない。詩人でないからである。

>> 彼は工人である。

鏡の銘文は、工人が考えて刻んでいると確定している
わけですか?
頼まれた文を刻んだわけではないわけですか?



217

Re: Title 文化と言語と

投稿者[ 馬詐 ] 発言日時 [2月28日(水)11時57分38秒]

元の発言 [ Re: Title 文化と言語と ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 2月28日(水)03時26分18秒 ]

どうも。時差のタイムラグが、妙に心地よいですね。

>>
>>
>>
>>
>>
当然、前提つきです。でもそうでしょ?国際感覚ってあったと思いますよ。
私のラバさんなんかもそうですけど。

>>
>>
>>
>>
>>
そうそう。ただ、近畿中心の層ってのが地域によって薄いところ(琉球とか)と厚いところ(中四国など)、下層と一体化しているところ(関西)などがあるってことです。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
そうですよね。日本に例えると方言程度の違いなのに別言語だったりもするし。
そのくせバチカンとかいにしえのフランクの再生とか、ヨーロッパは一つってベクトルもある。

>>
>>
>>
歴史的に見て双方に属していたとか、そういう部分ですよね。
ただ日本の場合は朝鮮に半属していた宗氏とか、微妙な態度の大内氏とか、中国册封の琉球とかがありますけど文化的にはやっぱりヤマト系なんですよね。
中国朝鮮とは言語が違いすぎるからかな?

ガングロ→ビトンの文化論は、流行というものを考える意味では同感ですが、例えとして適切かどうかは何とも言えません。



218

Re: 大和の征伐空白域

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [2月28日(水)20時57分15秒]

元の発言 [ Re: 大和の征伐空白域 ] お名前 [ 吉備の国 ] 日付 [ 2月24日(土)10時34分19秒 ]

>> はじめまして、吉備の住人です。

#はじめまして

>> 専門的に文献を研究したことがないので、分からないことが多くあります。教えてください。
>> @纏向一式、纏向二式について
>> A布留のことばについて
>> B庄内について

#以上は土器の形式による相対的な時代名です。
#従って地域ごとにいろいろな呼び名があり、相対的な関係も調べられています。
#言葉でくどくどいうのもなんですので、この掲示板の常連の
#イリヒコさんのページを参照してみてください
#
#http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/2091/doki.html
#
#表になっているので、相関が分かりやすいです。
#このなかで"寺沢薫 案 (畿内 大和)”というのと、"編年対照表"を参照すると
#纏向一式、纏向二式と布留、庄内の寺沢薫 案の実年代が分かります。
#土器の編年は人によって大きく違うようです。
#今手元にある石野博信と言う方の本には
#纏向一式 180-210
#纏向二式 210-250
#となっています。

>> 吉備の国の四世紀ごろに興味を持って、ホームページを作っていますが、専門用語に弱いためアドバイスをお願いします。

>> 吉備の国が、征服された国であることから、
>> 征服される前と征服される後で連続性がないこと。
>> 反乱を起して、これまた征服されるなど
>> 変遷の多い地域で、大和のように連続性がないのが
>> 単に吉備といっても、明確に分ける必要があると思います。
>> 神話を信用しての前提ですが、
>> まず、@神武天皇の居住していた吉備の時代
>> A出雲が支配していた時代B四道将軍が吉備王国を征服した時代、吉備王国の誕生
>> C星川王子の反乱後の時代D吉備真備による復活の時代
>> このあたりで区分して吉備を語ると分かりやすい。

#Aの時代のことは気づきませんでした。記紀のどこの記述を言っておられるのでしょうか。



219

Re: 吉備の位置付け

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [2月28日(水)21時20分11秒]

元の発言 [ Re: 吉備の位置付け ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 2月23日(金)19時50分54秒 ]

>> ピクポポデミさん、こんばんは

こんばんわ

>> >> >> ピクポポデミ、こんばんわ。

>> あれ、呼び捨てになってますね。今まで気がつきませんでした。失礼しましたm(__)m

どいういたしまして。
ピクは美称ですから。

>> これは面白いですね。出たばかりの本のようですね。さっそく入手して読んでみたいと思います。
>> これが本当なら本命はやはり瀬戸内ではなく日本海ルートかもしれません。

先の引用の直後には
**********************************
ただし、瀬戸内南岸ルートの讃岐・伊予系土器が識別されてくる可能性は
保留しておきたい。
**********************************
等とかいてあります。
この本には他にも、弥生後期に出雲で吉備の土器がみられ、
それが庄内へ移行期に劇的に畿内にとってかわられるとか、
土佐では、庄内期に劇的に遺跡が増加するが、布留式の出土は少ないとか、
伊予の項目で、
**********************************
今後、讃岐系と吉備系土器の分析がすすめば、畿内系土器が時期によって
瀬戸内航路の南北いずれを主としたかが明らかになってくるであろう。
**********************************
などと思わせぶりなことがいっぱい書いてあります。

>> 一方、九州説の立場なら畿内から九州へ瀬戸内が通れないっていうのは格好のネタじゃないでしょうか。
>> 日本海ルートも潰されると、畿内説は立ち行かなくなる。
>> ここは九州説の方にも奮起してもらっていろいろデータを出していただくと、私としても助かるんですが。

この本のように考古学的に庄内期の瀬戸内(吉備)不通を匂わせた本は
他には見ませんでした。
やや石野さんの術中にはまった気もしますが・・・
古事記とあわせるととても興味深いです。

邪馬台国位置論争には、現状決め手が無いので参加する気はないのですが、
以前には「陸行一月」のつじつま合わせの印象のあった、日本海ルートが
必然の様相を帯びてくるのは面白いです。


22

Re: 稲作伝播について

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [2月7日(水)02時51分49秒]

元の発言 [ Re: 稲作伝播について ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 2月6日(火)21時26分20秒 ]

>> #関西や名古屋に行ったときは、「中国みたい」と思いました。
>> #私が九州人だからでしょうか。

うちにいる中国人は、名古屋に来たときに
「上海や北京みたいだけど、なぜかわからない言葉を
話している」というように感じたそうです。
つまり、名古屋人は、中国人も間違えるくらい似ている
らしい。
でも、いわゆる漢民族の顔の特徴とはまったく違うのです。
ところが彼の奥さんは、北方の満族系少数民族出身で、彼女は
かなり日本人に似ています。

なかなか難しいもんですね。


220

Re: 鏡 −伝説と幻−

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [2月28日(水)22時37分43秒]

元の発言 [ Re: 鏡 −伝説と幻− ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月27日(火)20時45分59秒 ]

>>りっぱな工人なら、そんな失敗した鏡は破棄する。
>>残っているのであれば、陳氏はたいした工人ではない。
>>そうでなければ、陳氏の名を騙った職人でしょう。
>>だから、日本人の可能性があるのでは。

#中国で出土している古鏡に左字は「ざら」なのです。
ですからその見解は、魏の官製工房に日本人スタッフがいる可能性を指摘するのと同じなのです


>> 鏡の銘文は、工人が考えて刻んでいると確定しているわけですか?
>> 頼まれた文を刻んだわけではないわけですか?

#頼まれた文を刻んだのなら、文字間隔のカンが狂ってスペースが足りなくなって、勝手に末尾を省略したりするでしょうか?これも中国古鏡では「ざら」にあることです。

 現代日本の品質管理の感覚を持ちこむのは間違いです。

「だから日本人がつくったのだ!」と言われている理由のほとんどは、中国で見つかっている古鏡にも該当してしまうのです。


222

Re: 里程は誇大値

投稿者[ EK ] 発言日時 [3月1日(木)12時57分44秒]

元の発言 [ Re: 里程は誇大値 ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 2月21日(水)12時36分06秒 ]

カメレスですみませんが、重要な問題なので。

>> 私にはあり得ないとしか思えません。
>> 「ありえないことではない」とは、どういうことでしょうか。
私もあり得ないと思っていますが、そう言いってしまうと「あった」派の方との議論が成立しませんから。
ポイントは「ありえる」と考えてもなおかつ奴国の位置がすっきり説明できないことです。この区間は2倍くらいの誇張になっています。

>> 私も海峡の3千里も5倍に誇張されていると、若干無理な解釈をしているので言えた義理ではないのですが、「陳寿の文章が素直な解釈では意味をなさないのは事実」とはどの部分の記事を指しているのですか。
#「素直な解釈」だと、伊都−奴−不彌−投馬−邪馬台と南へ進むんじゃないかと思います。ルソン島の山奥に着いてしまいそう。
「水行20日陸行1月」は全工程だという古田氏の解釈は、私は結構素直なんじゃないかと思いますが、多くの先生方が漢文の文法としては無理な解釈だと言っていますから。漢文の知識に乏しい私には議論できない分野です。

>> 私は「トゥ」に魅力を感じています。(トゥが何の意味か分かりませんが)
#これ、知りません。

>> 「だったら五分の一にすればいいじゃん」が立派な説とのお褒めの言葉には面映ゆい感じがしますが、素直に喜んでおきます。
#議論を進めるにあたっては他人の権威におんぶしない方が説得力があるな〜ということで、深い意味(不快意味)はありません。

>> >>私は21世紀になったことだし、そろそろ九州説同士でバトルロワイヤルしなけりゃいけないんじゃないかと感じています。
>> バトルロワイヤルだったら近畿説や四国説もいれなきゃ〜。
#近畿説に対しては従来どおり九州説は団結して、少しでも実のある大和の古代学・考古学が発展するようにお願いしていくのがよろしいと思っています(倭人伝や記紀の記述にたよる考古学の構築は止めてほしい。すべての古墳の被葬者の名前が現存する書物に書かれていると仮定するのは止めてほしい)。
しかし、我々九州説の論者はそろそろそのエネルギーを九州説をさらに深める方向に使っていってもいいんじゃないでしょうか。ま、それが可能かどうかは論争士のみなさんがこの場をどうあってほしいと考えているかによりますが。




223

Re: 鏡 −伝説と幻−

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [3月1日(木)13時40分30秒]

元の発言 [ Re: 鏡 −伝説と幻− ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 2月28日(水)22時37分43秒 ]

>> #中国で出土している古鏡に左字は「ざら」なのです。
>> ですからその見解は、魏の官製工房に日本人スタッフがいる可能性を指摘するのと同じなのです

ということは、魏鏡と倭鏡の区別は製品上からはできな
いということですね。




224

Re: 里程は誇大値

投稿者[ 大場嘉門 ] 発言日時 [3月1日(木)17時09分26秒]

元の発言 [ Re: 里程は誇大値 ] お名前 [ EK ] 日付 [ 3月1日(木)12時57分44秒 ]

>> カメレスですみませんが、重要な問題なので。

カメレスってどういう意味ですか?

>>私もあり得ないと思っていますが、そう言いってしまうと「あった」派の方との議論が成立しませんから。

「あった」派は議論のバトルロワイヤルからオミットするのでは…、というのは冗談として(絵文字)
おっしゃるように「あり得ない」派と「あった」派の議論が成立してこその「大論争」だと思います。

>>ポイントは「ありえる」と考えてもなおかつ奴国の位置がすっきり説明できないことです。

…ということで了解しました。

>>この区間は2倍くらいの誇張になっています。

2倍?
伊都国〜奴国間は、実定値で五十里(約20q)ということですか?

>>#「素直な解釈」だと、伊都−奴−不彌−投馬−邪馬台と南へ進むんじゃないかと思います。

直線読みが「素直な解釈」とは思いますが、川村明さんの「『漢書』西域伝と魏志倭人伝」の論証を崩すのは容易なことではありません。
http://village.infoweb.ne.jp/~fwiz0276/kanjo.htm

>>ルソン島の山奥に着いてしまいそう。

帯方郡治から女王卑弥呼の居城までは約1000qですから、ルソン島の山奥には着きませんよ。

>>「水行20日陸行1月」は全工程だという古田氏の解釈は、私は結構素直なんじゃないかと思いますが、多くの先生方が漢文の文法としては無理な解釈だと言っていますから。

古田氏の解釈も魅力的ですが、私は不彌国から「水行」10日の後、「陸行」1月して邪馬壹国に至ったと考えています。(投馬国は川村説に従いたいと思います)
その行程がたとえ280里(約120q)であろうとも…

>>漢文の知識に乏しい私には議論できない分野です。

私は漢文が読めません。
っていうか、漢文に文法なんてあるのかどうかもわかりません。

>>#これ、知りません。

前月号の「変換ミスです。」にあります。

#以下、コメントを差し控えさせていただきます。


225

Re: 吉備の位置付け

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [3月1日(木)20時15分29秒]

元の発言 [ Re: 吉備の位置付け ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 2月28日(水)21時20分11秒 ]

ピクポポデミさん、こんばんは

邪馬台国の考古学を今読んでます。

この本は石野さんのかなり上げた年代観で書かれているうえに、大和の
編年も新・旧の纏向編年と矢部編年の三種類が混在していて、さらに誤
植までありそうで、四苦八苦してます。

>> この本には他にも、弥生後期に出雲で吉備の土器がみられ、
>> それが庄内へ移行期に劇的に畿内にとってかわられるとか、

そうですね。あの表を見ると、どうも説得されてしまいますが、とにか
く、この本の内容が正しいなら、三世紀には吉備の土器は筑紫にも山陰
にもなく、纏向でも激減していることになります。今まで漠然と持って
いたイメージとは反対に、三世紀(布留0より前)には吉備の土器はあまり
動いていないという事になりそうです。

それが何を意味するかはおいておくとしても、これは面白いです。

なぜ今までだれも言わなかったのでしょうか?
どこかに落とし穴がありそうでちょっと不安です。


226

Re: 鏡 −伝説と幻−

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [3月1日(木)21時55分42秒]

元の発言 [ Re: 鏡 −伝説と幻− ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 3月1日(木)13時40分30秒 ]

>> ということは、魏鏡と倭鏡の区別は製品上からはできな
>> いということですね。

「製品上から」ではなく「銘文から」の話です。
差のないものを区別しようとするのは無理筋でしょう。




227

Re: 里程は誇大値

投稿者[ EK ] 発言日時 [3月2日(金)13時10分44秒]

元の発言 [ Re: 里程は誇大値 ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 3月1日(木)17時09分26秒 ]

>> カメレスってどういう意味ですか?
亀のようにのろいレスポンス、でしょうか、多分。

>> 2倍?
>> 伊都国〜奴国間は、実定値で五十里(約20q)ということですか?
筑前前原〜博多を想定しています。20kmと少々です。
この区間は誇張されていない(40km強)としたら、起点・終点をどこに設定するのでしょう。
この区間も誇張されている ( 8km弱)としたら、起点・終点をどこに設定するのでしょう。
それとも、百里というのはもっとアバウトな数字なので、こだわる意味はない?

>> 帯方郡治から女王卑弥呼の居城までは約1000qですから、ルソン島の山奥には着きませんよ。
#ルソン島というのは言葉のあやです。しかし、不彌〔遠賀川?〕から南へ20日も水行すれば、九州島には収まらない。だからこれは台湾だろう。そこからさらに南にあって、陸行1月のロングコースのある場所といったら、ルソン島くらいだろう。という主張は、それなりに「素直」じゃありませんか。
皆さん、他人の説の無理は厳しく追及しますが、全体をとおしてどう理解するのが素直かという共通認識はないと思います。

>> 古田氏の解釈も魅力的ですが、私は不彌国から「水行」10日の後、「陸行」1月して邪馬壹国に至ったと考えています。(投馬国は川村説に従いたいと思います)
川村さんが古田説の論拠を提出しているというのが面白いですね。

>> っていうか、漢文に文法なんてあるのかどうかもわかりません。
文法のない文章はあり得ないでしょ。
漢文は日本語ではない、という理解が不足していると、漢文を日本語として理解してしまう誤りを犯します。
もちろん、漢文は現代中国語でもありません。



228

Re: 里程は誇大値

投稿者[ 大場嘉門 ] 発言日時 [3月2日(金)16時50分34秒]

元の発言 [ Re: 里程は誇大値 ] お名前 [ EK ] 日付 [ 3月2日(金)13時10分44秒 ]

>>筑前前原〜博多を想定しています。20kmと少々です。

邪馬台国を大和に想定すると、前原〜(博多)〜大和はおよそ600qぐらいですから、博多〜大和間は580qということにになり、この間は誇張されているとは言えませんね。

>>しかし、不彌〔遠賀川?〕から南へ20日も水行すれば、九州島には収まらない。

1日の水行距離は、どの位ですか。
「水行」とは、船で行くことですか。
だとしたらそれは帆船ですか、それとも手こぎのボートですか。

>>だからこれは台湾だろう。そこからさらに南にあって、陸行1月のロングコースのある場所といったら、ルソン島くらいだろう。という主張は、それなりに「素直」じゃありませんか。

陸行1月は不彌国から280里(約120q)先にある邪馬台国へ至る日程であるから、そんなにロングコース(長距離)ではありません。
これをルソン島とする主張はひねくれています。

>>皆さん、他人の説の無理は厳しく追及しますが、全体をとおしてどう理解するのが素直かという共通認識はないと思います。

「素直な理解」が「正しい解釈」とも限りません。
これまでの誰もが、「陸行1月のロングコース」というような、「素直な理解」をしてきたから今日の混迷があるという、共通認識に立つべきではないかとは思います。

>>文法のない文章はあり得ないでしょ。

と思うのですが…
文法がしっかりしていれば同じ文章を読んで、十人が十人とも違う意味に読みとるはずはないと、素人目には思えます。

>>漢文は日本語ではない、という理解が不足していると、漢文を日本語として理解してしまう誤りを犯します。

漢文を日本語とは誤解していないつもりですが…

>>もちろん、漢文は現代中国語でもありません。

漢文はSVOではないという意味ですか?


229

Re: 吉備の位置付け

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [3月2日(金)16時50分48秒]

元の発言 [ Re: 吉備の位置付け ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 3月1日(木)20時15分29秒 ]

>> ピクポポデミさん、こんばんは

こんにちは

>> 邪馬台国の考古学を今読んでます。

私はようやく読み終えましたが、まだ消化不良であちこち読み返しています。

>> この本は石野さんのかなり上げた年代観で書かれているうえに、大和の
>> 編年も新・旧の纏向編年と矢部編年の三種類が混在していて、さらに誤
>> 植までありそうで、四苦八苦してます。

年代は私も混乱しました。
今読み返し読み返し、他の本の年代ともつき合わせています。

>> >> この本には他にも、弥生後期に出雲で吉備の土器がみられ、
>> >> それが庄内へ移行期に劇的に畿内にとってかわられるとか、

>> そうですね。あの表を見ると、どうも説得されてしまいますが、とにか
>> く、この本の内容が正しいなら、三世紀には吉備の土器は筑紫にも山陰
>> にもなく、纏向でも激減していることになります。今まで漠然と持って
>> いたイメージとは反対に、三世紀(布留0より前)には吉備の土器はあまり
>> 動いていないという事になりそうです。

吉備の墳墓ですが、やはり楯築以後大きなものが一時減るようですが、
よく吉備の大首長が大和へ移ったような文脈で捉えられていますが、
これも考え直してみる必用があるかも・・・

>> それが何を意味するかはおいておくとしても、これは面白いです。

想像を掻きたてます。

>> なぜ今までだれも言わなかったのでしょうか?
>> どこかに落とし穴がありそうでちょっと不安です。

あと畿内Vの甕の東方への展開なども面白い話です。
最近各地の弥生文化とその展開に関する、定番の理解が崩れてきているように思います。
墳形にしても土器にしても、三世紀の流動性は大変なものがありそう・・・
石野さんは、大和王権の確立に播磨、讃岐、阿波の役割を重視しておられるようですが、
これと徳島文理大にいったのはなんか関係あるんですかね?


23

モンゴロイド

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [2月7日(水)09時06分30秒]

元の発言 [ Re: 稲作伝播について ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 2月6日(火)21時26分20秒 ]

>> #確かにそうなんですが“新・古”はちょっと、“北方系・南方系”の方がいらん誤解を招かないでしょう。

ただアイヌやエスキモー、インディアンなどもモンゴロイドの血を引いているらしいので
北南で分けるより新古でわけた方がいいかなと。

>> #長江下流域に行ったとき「うわー、親戚がいる。あれは高校時代の同級生だ!」と感激しました。
>> #関西や名古屋に行ったときは、「中国みたい」と思いました。
>> #私が九州人だからでしょうか。

中国へ行かれたんですか。私もいってみたいな。
台湾は仕事で何度も行ったんですが韓国ほど違和感こそなかったのに懐かしさみたいな
ものは感じませんでした。
生活様式が日本とあまりにちがっているので。
韓国は日本と生活様式が似ているので田舎の景色を見ると懐かしくなります。
#私が東北人だからでしょうか。


230

卑弥呼の邪馬台国は筑後国御井、台与が東遷

投稿者[ MM3210 ] 発言日時 [3月2日(金)17時24分14秒]

私は、昨年の8月21日に「レスは、一切ご無用です」
というタイトルで当掲示板に投稿した際に、次のようなことを記しています。

>私が「大論争」から得たことといえば、
>学者が、私の発見を認めることはありえないことを悟ったことです。

>したがって、私は、HPを通じて、
>不特定の読者が、私の発見した事実を理解してくれるように、
>うまく解説する工夫をしたいと思います。

>それゆえ、今後は、「大論争」にはアクセスしませんので、
>私宛のレスは、一切ご無用です。

ところが、私の撤退を、私がとんでもないことを言う阿呆だから、散々たたかれて、
尻尾を巻いて逃げ出したと受け取られている向きもあるようです。

私としましても、そのような誤解をそのままにしておきたくありません。

そこで、この「大論争」において、私のHP「暗号 山上憶良」の前編の結論、

@ 卑弥呼の時代の邪馬台国は筑後国の御井と見るべきである。

A 台与の時代に東遷し、都を纏向においたのではないか。

について、考古学的見地からではなく、
私の論の展開のどこが論理的におかしいかを具体的にご指摘いただき、
それに私がどう答えるかをご覧いただきたいのです。

それゆえ、前言を取り消し、当掲示板に投稿することをお許しい下さい。

なにとぞ、宜しくお願いいたします。


231

本日23:00定期メンテいたします。

投稿者[ 管理人 ] 発言日時 [3月2日(金)19時53分24秒]

それじゃそういうことで。


24

Title箸墓の墓碑銘

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [2月7日(水)09時14分02秒]

皆さんご存知でした?
箸墓の墓碑銘があるそうです。

http://www.inetmie.or.jp/~jin/HIMIKOK.html

このHPによると箸墓の碑銘には倭母母曾毘賣命墓、戊寅年十月廿日薨、とあるそうです。
戊寅年は西暦198年か258年か318年に相当します。
卑弥呼の死んだ年が西暦247,8年であることを考えると倭母母曾毘賣命が卑弥呼
である可能性はありません。

彼女の甥の崇神天皇も戊寅年に死んだと古事記に記載されています。共に政事を司った
甥と叔母が60年も離れて死んだとは考えられませんから、墓碑銘、古事記の記載を
信じれば、多分、崇神天皇と倭母母曾毘賣命は同じ年に死んだ。
倭母母曾毘賣命は自殺と伝えられていますがこの時何が起きたのでしょうね。
「卑弥呼の死後男王を立てるも国中が服さず」とあるのも崇神天皇がこの男王ではない
事を示しています。

以前は崇神天皇の没年はAD318年とするのが主流でした。
最近やたら古墳の築年を繰り上げる動きが多いですが従来の見方の方が自然で、箸墓の
築造も四世紀と考えるのが正しいような気がします。

皆さんどう思います?


25

Re: Title箸墓の墓碑銘

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [2月7日(水)10時42分47秒]

元の発言 [ Title箸墓の墓碑銘 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 2月7日(水)09時14分02秒 ]

>> 皆さんご存知でした?
>> 箸墓の墓碑銘があるそうです。

>> http://www.inetmie.or.jp/~jin/HIMIKOK.html

以前見つけましたが、これは要注意です。
私はほとんどトンデモと思います。
むろん自分で真否をあたってみないと分かりませんが。
もしほんとなら大発見!
墓碑が見つかればいいのにと言うのはほとんどの関係者のかなわぬ願望なので、ちょっと都合よすぎますが。



26

Re: 稲作伝播について

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [2月7日(水)11時20分10秒]

元の発言 [ Re: 稲作伝播について ] お名前 [ 游惟 ] 日付 [ 2月6日(火)23時20分02秒 ]

>> 私が言いたいのは、稲作農耕技術と鉄器文明を持った人々がBC3世紀頃に日本列島の外からか渡ってきた、ということです。だから華南あるいはもっと南から来た可能性を否定するわけではありません。

それではもともと縄文が南方系の言語を使っていたのに、再び南方から稲作をもって
弥生人がやってきたのなら「母親言語の継承」は必要なかったのではないでしょうか。
游惟さんの仮説は稲作をもたらした弥生人は朝鮮語を話す半島からの渡来人で倭人を
征服したが「母親言語の継承」の結果朝鮮語は消えてしまった・・ではなかったですか?

>> 朝鮮半島のある国の王族が日本に攻めてきて分家を立てたが、日本の方が人口が多く豊かだったので、何代か経つうちに分家の方が本家を主張し始めたというような可能性もあります。

私はやってきたのは王族などではなく普通の兵士クラスが敗残兵としてやってきたのでは
ないかと考えています。

>> モンゴル族の元や満州族の清の例を見れば明らかなように、征服者に対して原住民の数が多すぎる場合はその言語を押しつけることは不可能です。
>> 17世紀当時、満州語を話す満州族は100万に満たなかったのに、二億もの中国語を話す漢民族を征服して清朝を立てたのです。武力によって政治権力を握るということと、支配下の民族を自らの文化に同化させることは別のことだということを忘れてはなりません。
>> おそらく3〜4世紀に小国が分立している状態であった日本列島の人口は100〜200万程度であったと思われますが、そこに攻めてきた征服王朝の軍は多くても数千程度でしょう。しかし、小国連合の盟主的存在の軍をうち破って力を誇示すれば、他の小国は戦わずして服属します。そして数千人の異民族王朝が100〜200万の小国連合の盟主におさまるというわけです。

初めから組織された征服軍としてやってきたのなら自分達が何処から来たか隠す必要は
なかったのではないでしょうか。

>> しかし、少数の征服民族が政治権力を握った後は、統治のためには現地人とのコミュニケーションが必要となってきます。そのため、近代なら現地人に自らの言語を教える学校を建て、通訳を養成するということもあり得ますが、そもそも学校などという発想のない時代には、自らが現地語を覚えることが早道です。モンゴル族・満州族の貴族達は自らの言語を守ろうとして必死に努力しましたが、元皇帝も清皇帝も5〜6代目になればもはや中国語を常用するようになり、モンゴル語や満州語の方が第二言語化していたのです。

この辺りはあり得る事ですね。但し文明の程度でモンゴルより漢民族のほうが進んでいた
からとも考えられます。
中国のような大国を統治するに当たって文字のないモンゴル語は使えないでしょう。

>> ただ、日本の王族達が母国語(朝鮮語)を完全に捨てたのは663年の白村江敗戦によって、完全に朝鮮半島利権を喪失して以降、おそらく8世紀奈良時代以降のことだと思われます。なぜなら、日本書紀には中国からの使者には通訳を用いたことが明記されているのに、朝鮮諸国からの使者に対しては通訳を用いたという記事は全くないのであって、要するにこの頃の貴族達はみんなある程度は朝鮮語がしゃべれたということになります。

>> 「母親言語の継承」という現象は、人口がごく少なく国家と呼べるようなものが存在しない原始・未開社会段階でのみ起こる現象です。
>> 今我々が考えているような問題は、絶対時間に於いて今から何千年前か、ということよりも当該社会の文明の発達段階がどの程度であるかによって考えなければいけません。

原始・未開社会でなくても文字による伝達記録手段のない言語は文字のある言語に負けて
消えてしまいます。
古代朝鮮語がほとんど残っていないのもこれを記述する文字がなかったからです。


27

Re: Title箸墓の墓碑銘

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [2月7日(水)13時17分39秒]

元の発言 [ Re: Title箸墓の墓碑銘 ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 2月7日(水)10時42分47秒 ]

>> >> 皆さんご存知でした?
>> >> 箸墓の墓碑銘があるそうです。

>> >> http://www.inetmie.or.jp/~jin/HIMIKOK.html

>> 以前見つけましたが、これは要注意です。
>> 私はほとんどトンデモと思います。
>> むろん自分で真否をあたってみないと分かりませんが。
>> もしほんとなら大発見!
>> 墓碑が見つかればいいのにと言うのはほとんどの関係者のかなわぬ願望なので、ちょっと都合よすぎますが。

やはり危ないですかね。
内容をみると畿内論者らしいし、畿内論者が畿内説を否定しかねない調査結果を提示している
のだから逆に信用できるかなと思ったんですが。

考古学の学者達は市井の研究者の業績を無視しがちですし特に畿内説を取る学者は自分の
学説に反する発見をあえて無視しているのではないかと言うようなかんぐりをしています。


28

Re: Title箸墓の墓碑銘

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [2月7日(水)16時10分25秒]

元の発言 [ Re: Title箸墓の墓碑銘 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 2月7日(水)13時17分39秒 ]

>> やはり危ないですかね。
>> 内容をみると畿内論者らしいし、畿内論者が畿内説を否定しかねない調査結果を提示している
>> のだから逆に信用できるかなと思ったんですが。

>> 考古学の学者達は市井の研究者の業績を無視しがちですし特に畿内説を取る学者は自分の
>> 学説に反する発見をあえて無視しているのではないかと言うようなかんぐりをしています。

ほんとなら稲荷山鉄剣クラスの金石文資料が全国にごろごろと言うこですから。
なんかこういうものが出てきて欲しいと言う願望そのまま形にしたみたいな・・・
典型的な偽書のパターンを石とコンピューターでやってる?
出てきた遺跡の歴史順も現在の定説とは合わないですし。
よく調べないで嘘だというのもなんですが、個人的には力いっぱい思いっきり信用できないです。
ここまでやると天晴れと言うかジョークなのかな?と思いました。



29

Re: 稲作伝播について

投稿者[ 游惟 ] 発言日時 [2月7日(水)19時56分00秒]

元の発言 [ Re: 稲作伝播について ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 2月7日(水)11時20分10秒 ]

>> それではもともと縄文が南方系の言語を使っていたのに、再び南方から稲作をもって
>> 弥生人がやってきたのなら「母親言語の継承」は必要なかったのではないでしょうか。
>> 游惟さんの仮説は稲作をもたらした弥生人は朝鮮語を話す半島からの渡来人で倭人を
>> 征服したが「母親言語の継承」の結果朝鮮語は消えてしまった・・ではなかったですか?

稲作をもってやってきた弥生人の祖先が何語を話す民族であったとしても、人数が少なかったが故に「母親言語の継承」現象が起こったと言っているのです。これは日本列島の人口が30万に満たなかったBC三世紀の話です。
邪馬台国を滅ぼして新たに倭国の盟主となった渡来人民族ははおそらく朝鮮語を話す民族、もしくは朝鮮語を話す家来をたくさん連れた民族あっただろうとは考えています。しかし、これは日本語を話す弥生人の人口が100万〜200万に達していたと思われるAD三〜四世紀の話です。二つを混同しないでください。

>> 私はやってきたのは王族などではなく普通の兵士クラスが敗残兵としてやってきたのでは
>> ないかと考えています。

組織されてない敗残兵ごときにやられる程邪馬台国は弱くなかったでしょう。

>> 初めから組織された征服軍としてやってきたのなら自分達が何処から来たか隠す必要は
>> なかったのではないでしょうか。

やってきた当時、彼らが自分たちがどこからやってきたかを秘密にしていた、などと言った覚えはありません。

>> この辺りはあり得る事ですね。但し文明の程度でモンゴルより漢民族のほうが進んでいた
>> からとも考えられます。
>> 中国のような大国を統治するに当たって文字のないモンゴル語は使えないでしょう。

1279年に元帝国が成立する以前からウイグル文字を改良したモンゴル文字はちゃんと存在しています。

>>原始・未開社会でなくても文字による伝達記録手段のない言語は文字のある言語に負けて
>>消えてしまいます。

そんなばかげた説を唱えている言語学者がいるのなら教えてください。
文字を持たない言語を話す民族は文明が遅れており人口も少ない場合が多く、文字を持つ言語を話す高度文明民族によって皆殺しにされたり、征服され言語を強制されたりすることが多い、というだけのことであって、文字の有無そのものが言語の存続を左右するのではありません。文字がなくても話す人口の多いタガログ語・インドネシア語・スワヒリ語などはちゃんと現代まで生き残っています。

>>古代朝鮮語がほとんど残っていないのもこれを記述する文字がなかったからです。

古代朝鮮語と現代朝鮮語は全く別の言語だとでもおっしゃりたいのですか?
記述する文字がなかったから古代朝鮮語がどんなものであったか現在では確かめようがない、というだけであって、古代朝鮮語が今日まで残っていないということにはなりません。


3

Re: 大論争2月號を開始します

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [2月4日(日)14時05分45秒]

元の発言 [ 大論争2月號を開始します ] お名前 [ 管理人 ] 日付 [ 2月4日(日)01時03分52秒 ]

体調でも崩されているのかと心配しておりました。
何時ものことながら、ご苦労様です。
くれぐれも無理をなさらずに、マイペースでお願いします。


30

横槍質問失礼

投稿者[ 司馬叡 ] 発言日時 [2月7日(水)20時56分20秒]

元の発言 [ Re: 稲作伝播について ] お名前 [ 游惟 ] 日付 [ 2月7日(水)19時56分00秒 ]

>> 1279年に元帝国が成立する以前からウイグル文字を改良したモンゴル文字はちゃんと存在しています。

これは本当ですか?
たまたま中野美代子女史の「砂漠に消えた文字」を読んで間も無いものですから
いわゆるパスパ文字が最初のモンゴル文字だと思っていましたが。
クビライとパスパはほぼ同時代人ですから、厳密には元の成立よりモンゴル文字成立が前かも
しれないけれども。
あるいは本当にウィグル文字の音符を借りてきただけの表示ならば
そうとも言えるかもしれないですが。


31

Re: Title箸墓の墓碑銘

投稿者[ 岡野熊鰐 ] 発言日時 [2月7日(水)20時59分45秒]

元の発言 [ Re: Title箸墓の墓碑銘 ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 2月7日(水)16時10分25秒 ]

>> よく調べないで嘘だというのもなんですが、個人的には力いっぱい思いっきり信用できないです。
>> ここまでやると天晴れと言うかジョークなのかな?と思いました。

たしか前に漢委奴國王の金印の写真にCGで「ナントカノ命」という文字を書きこんで
「銘があった!」と言ってた人ですよ、それ。


32

Re: モンゴロイド

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [2月7日(水)21時20分02秒]

元の発言 [ モンゴロイド ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 2月7日(水)09時06分30秒 ]

>> >> #確かにそうなんですが“新・古”はちょっと、“北方系・南方系”の方がいらん誤解を招かないでしょう。
>> ただアイヌやエスキモー、インディアンなどもモンゴロイドの血を引いているらしいので
>> 北南で分けるより新古でわけた方がいいかなと。
#「新・古」よりは、寒冷地適応しているかどうかで言い分ける方が穏当だと思うのは、私の頭が硬いのかナ。(ーー;)


33

Re: 稲作伝播について

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [2月7日(水)21時28分56秒]

元の発言 [ Re: 稲作伝播について ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月7日(水)02時51分49秒 ]

>> >> #関西や名古屋に行ったときは、「中国みたい」と思いました。
>> >> #私が九州人だからでしょうか。
>> うちにいる中国人は、名古屋に来たときに
>> 「上海や北京みたいだけど、なぜかわからない言葉を
>> 話している」というように感じたそうです。
>> つまり、名古屋人は、中国人も間違えるくらい似ている
>> らしい。
#でしょう。(^o^)

>> でも、いわゆる漢民族の顔の特徴とはまったく違うのです。
>> ところが彼の奥さんは、北方の満族系少数民族出身で、彼女は
>> かなり日本人に似ています。
>> なかなか難しいもんですね。
#究極的には“日本人”と言う人種はないんだったりして、
#そう言えば、高校生にとき同じ事をアメリカ人宣教師に言ったら「偉い!そうです。」と言われましたっけ。
#地方によって見た目に違っているとすると、地域によって出自が違う集団がいたことを示唆していますネ。
#縄文以前のネイティブと、数波に分かれて渡来し、住み別けた渡来人ですか。(^o^?


34

Re: Title箸墓の墓碑銘

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [2月7日(水)21時46分59秒]

元の発言 [ Re: Title箸墓の墓碑銘 ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 2月7日(水)20時59分45秒 ]

>> >> よく調べないで嘘だというのもなんですが、個人的には力いっぱい思いっきり信用できないです。
>> >> ここまでやると天晴れと言うかジョークなのかな?と思いました。
>> たしか前に漢委奴國王の金印の写真にCGで「ナントカノ命」という文字を書きこんで
>> 「銘があった!」と言ってた人ですよ、それ。
#ありましたネ。(^○^)
#没年を西暦としていないと、洒落にならない。
#まあ、卑弥呼の時代に「戊寅年十月廿日薨」と書くのも似たようなものか。(^○^)


35

Re: Title箸墓の墓碑銘

投稿者[ 岡野熊鰐 ] 発言日時 [2月8日(木)00時02分06秒]

元の発言 [ Re: Title箸墓の墓碑銘 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 2月7日(水)21時46分59秒 ]

>> #没年を西暦としていないと、洒落にならない。
>> #まあ、卑弥呼の時代に「戊寅年十月廿日薨」と書くのも似たようなものか。(^○^)

248年のつもりで戊辰を戊寅に間違えてCGに細工しちゃったなンてのが
せいぜいのオチでしょ!


36

Re: Title箸墓の墓碑銘

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [2月8日(木)09時24分14秒]

元の発言 [ Re: Title箸墓の墓碑銘 ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 2月8日(木)00時02分06秒 ]

>> >> #没年を西暦としていないと、洒落にならない。
>> >> #まあ、卑弥呼の時代に「戊寅年十月廿日薨」と書くのも似たようなものか。(^○^)

>> 248年のつもりで戊辰を戊寅に間違えてCGに細工しちゃったなンてのが
>> せいぜいのオチでしょ!

そんな人だったんですか。知らなかった。
コンピュータ解析のデータ売っているみたいですが
変なHP宣伝しちゃったかな。

このHPの作者のプロフィールは

池 田 仁 三
古代史/語源/恐竜化石研究家、古代大和を考える会会員

 著 書 等
「このすばらしき日本語」(昭和62年/自費出版、平成元年/岳書房)

「碑石が解き明かす古代史の謎」(平成2〜4年/古代大和)

「大和の古墳と陵主たち:桜井、山辺、飛鳥」(平成5〜8年/古代大和)

「コンピューター画像解析」(平成8年/古代大和)

「日本人の特性:その勤勉さの原点を探る」(平成2年/ディフェンス)

「古代の日中交流:その源流を探る」(平成4年/ディフェンス)

「三重の地名紀行:地名は古代の道しるべ」(平成9〜10年/伊勢志摩)

「語源が語る木草のこころ」(平成12年/木のこころ)

E-mail Address
jin@po.inetmie.or.jp

と有りますがこれ見る限りさほど変な感じはしないのですがねえ。


37

Re: 稲作伝播について

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [2月8日(木)15時11分23秒]

元の発言 [ Re: 稲作伝播について ] お名前 [ 游惟 ] 日付 [ 2月7日(水)19時56分00秒 ]

>> 稲作をもってやってきた弥生人の祖先が何語を話す民族であったとしても、人数が少なかったが故に「母親言語の継承」現象が起こったと言っているのです。これは日本列島の人口が30万に満たなかったBC三世紀の話です。
>> 邪馬台国を滅ぼして新たに倭国の盟主となった渡来人民族ははおそらく朝鮮語を話す民族、もしくは朝鮮語を話す家来をたくさん連れた民族あっただろうとは考えています。しかし、これは日本語を話す弥生人の人口が100万〜200万に達していたと思われるAD三〜四世紀の話です。二つを混同しないでください。

BC三世紀なら前のレスでともさんがおっしゃったように征服だの母親言語の継承」
は必要なかったと思いますよ。
人口が少ないし、狩猟生活と農業では生活圏が違うし、第一、農業が発達して定住する
ようになってから次第に身分の上下関係ができて、それが進んで国になっていった訳で
しょう?
物物交換の時代には大して言葉によるコミュニケーションは必要なかったから縄文人が
どの程度体系だった言語を話していたか判りません。
日本列島全部が同じ言葉を話していたとも考えられません。

>> >> 私はやってきたのは王族などではなく普通の兵士クラスが敗残兵としてやってきたのでは
>> >> ないかと考えています。
>> 組織されてない敗残兵ごときにやられる程邪馬台国は弱くなかったでしょう。

邪馬台国がやられたとは言っていません。三世紀初頭早くから半島(大陸)の影響を受け
クニができていた北九州にに比べ近畿や中部は邪馬台国のような大きなクニは出来ていなかった
と想像しています。

>> >> 初めから組織された征服軍としてやってきたのなら自分達が何処から来たか隠す必要は
>> >> なかったのではないでしょうか。
>> やってきた当時、彼らが自分たちがどこからやってきたかを秘密にしていた、などと言った覚えはありません。

記紀に神武の出身地がチクシの日向と書いてあるのが、出目の詐称だといいたいのです。
王族なら「朕は朝鮮の○○王の子孫である。」と名乗るのではないでしょうか?
現に百済の王も高句麗の王の子孫と名乗っています。

>> 1279年に元帝国が成立する以前からウイグル文字を改良したモンゴル文字はちゃんと存在しています。

ウイグル文字ってよく知らないのですが漢字とは全く関係なく独自に発展したものですか?
だったとしたらごめんなさい。失礼しました。
「文明の程度でモンゴルより漢民族のほうが進んでいたからとも考えられます。」の方だけにします。

>> 記述する文字がなかったから古代朝鮮語がどんなものであったか現在では確かめようがない、というだけであって、古代朝鮮語が今日まで残っていないということにはなりません。

現代朝鮮語の大部分は漢字語を朝鮮訛りで読んだもの。古代から残っている朝鮮語は
数百しかないと理解しています。


38

Re: Title箸墓の墓碑銘

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [2月8日(木)20時28分28秒]

元の発言 [ Re: Title箸墓の墓碑銘 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 2月8日(木)09時24分14秒 ]

>> そんな人だったんですか。知らなかった。
>> コンピュータ解析のデータ売っているみたいですが
>> 変なHP宣伝しちゃったかな。
#まあ、専門家の中にも偽書を掴まされたりする人もいますし。(^o^)
#卑弥呼の時代に墓碑が有ったということ自体が「眉唾」、加工の道具は分からないでしょうけど、
#その石の産地ぐらいは調べてないとネ。§^。^§


39

Re: 稲作伝播について

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [2月8日(木)21時47分57秒]

元の発言 [ Re: 稲作伝播について ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 2月7日(水)21時28分56秒 ]

>> #究極的には“日本人”と言う人種はないんだったりして、

それが正解じゃないでしょうか?
人種の問題は、いろいろあるでしょうが、
素人が判断するに、顔など外見からという
実にいい加減な発想ですが。

朝鮮の人に似たタイプとか中国人に似たタイプ
すごく顔の濃いタイプ、一見してベトナムなど
東南アジア系とか、分かれますよね。

やっぱ渡来人集団の子孫と、いわゆるアイヌとか
琉球などのネイティブじゃないかといわれている
人たちとの混血が、今の大多数の日本人では
ないでしょうかね。

ちなみに僕は、中国人タイプ+ネイティブ
(顔の作りが濃いタイプ)って感じかな (^O^)


4

Re: 大論争2月號を開始します

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [2月4日(日)19時10分03秒]

元の発言 [ Re: 大論争2月號を開始します ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 2月4日(日)14時05分45秒 ]

ご苦労様です。
ほんと頭が下がります。
楽しみにしていますので、よろしくお願いします。


40

Re: 稲作伝播について

投稿者[ 游惟 ] 発言日時 [2月8日(木)23時38分53秒]

元の発言 [ Re: 稲作伝播について ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 2月8日(木)15時11分23秒 ]

>>BC三世紀なら前のレスでともさんがおっしゃったように征服だの母親言語の継承」
は必要なかったと思いますよ。
人口が少ないし、狩猟生活と農業では生活圏が違うし、第一、農業が発達して定住する
ようになってから次第に身分の上下関係ができて、それが進んで国になっていった訳で
しょう?

渡来人はおそらく殆ど女を連れずにやってきたはず。だから女を現地調達しない限り、その部族は絶滅してしまいます。女を現地調達したが故に「母親言語の継承」という現象が起こるのです。

>>物物交換の時代には大して言葉によるコミュニケーションは必要なかったから縄文人が
どの程度体系だった言語を話していたか判りません。
日本列島全部が同じ言葉を話していたとも考えられません。

>>私は最初から日本祖語を話す南方系縄文人とアイヌ祖語を話す北方系縄文人がいたと言っています。
もちろん、当時の日本祖語にもアイヌ祖語にもいろんな方言があったでしょうが、日本語とアイヌ語とは方言差では根本的に別の言語です。

>>邪馬台国がやられたとは言っていません。三世紀初頭早くから半島(大陸)の影響を受け
クニができていた北九州にに比べ近畿や中部は邪馬台国のような大きなクニは出来ていなかった
と想像しています。

BC三〜四世紀に攻めてきたであろう民族(江上氏の説によれば騎馬民族)はそのクニが出来ていた北九州に攻めてきたと言っているいるのです。当時の渡海技術で朝鮮半島から直接畿内に攻め込むことなんか不可能です。13世紀になって日本に攻めてきた元も九州までしか攻め込めなかった事が何よりの証拠です。

>>記紀に神武の出身地がチクシの日向と書いてあるのが、出目の詐称だといいたいのです。
王族なら「朕は朝鮮の○○王の子孫である。」と名乗るのではないでしょうか?
現に百済の王も高句麗の王の子孫と名乗っています。

記紀が出来たのは白村江敗戦後の8世紀になってからです。白村江敗戦によって、朝鮮半島利権を完全に喪失し島国国家として生きて行くしかなくなった時代です。故に朝鮮半島から追い出されたと書いたのではみっともないから、日本は元々島国国家だったと書いただけでしょう。

>>現代朝鮮語の大部分は漢字語を朝鮮訛りで読んだもの。古代から残っている朝鮮語は
数百しかないと理解しています。

バカも休み休みおっしゃって下さい!! はっきり言って、こんなことを言う人間は中国語も朝鮮語も全く知らず、言語学のイロハも知らない、と宣言しているだけです。中国語と朝鮮語は根本的に異なる言語です。こんな投稿韓国人に見られたらたたき殺されますよ!!
日本語の語彙の50%以上は漢字語を日本訛りで読んだものです。だから日本語は中国語に征服された言語だとでも言うのですか? 日本語にとっても朝鮮語にとっても漢字語は外来語(借用語)に過ぎません。世界中の言語で他言語からの借用語がない言語などただの一つもありません。借用語の比率がどんなに大きかろうと、そのこと自体は基本的な言語構造に何の影響も及ぼしません。明治以降、日本語には多数の印欧語のからの外来語が入ってきましたが、そんなことぐらいで日本語の基本構造は全く変化していないのです。

朝鮮語は中国語より遙かに日本語に似ている言語です。中国語は孤立語、日本語・朝鮮語は膠着語、中国は音調言語、日本語・朝鮮語は非音調言語、中国語はSVO型言語、日本語・朝鮮語はSOV型言語、と日本語と朝鮮語は非常に共通点が多い。それ故に日本語と朝鮮語の親縁関係は昔から取りざたされていますが、どうしても日本語と朝鮮語が親縁関係にあると言い切れないのは、基本単語が違いすぎるからです。基本単語とは、行く、来る、見る、聞く、食べる、飲む、等、幼児が真っ先に覚え、毎日のように使い、死ぬまで使い続ける単語です。故にこういった単語は何千年たってもあまり変化しないため、二つの言語が親縁関係にあるかないかの決め手になるのです。
もし朝鮮語が中国語によって征服されたのなら、これらの単語が似ているはずですが、これらの発音を日本語−中国語−朝鮮語の順に示せば、行く−去(チュー)−カダ、来る−来(ライ)−オダ、見る−看(カン)−ポダ、聞く−聴(ティン)−トゥルダ、食べる−吃(チー)or食(シ−)、飲む−喝(ハ−)−マシダ、と全く違うのです。
朝鮮語に漢字語(外来語)がどんなに多かろうと、日常使う基本単語の大半は朝鮮固有語です。それがたったの数百かどうか、韓日辞典でも買ってきて調べてみればよろしい。



41

Re: 横槍質問失礼

投稿者[ 游惟 ] 発言日時 [2月8日(木)23時52分39秒]

元の発言 [ 横槍質問失礼 ] お名前 [ 司馬叡 ] 日付 [ 2月7日(水)20時56分20秒 ]

モンゴル語の最古の資料は13世紀初頭ウイグル文字で記されたチンギスハンの碑文です。その後クビライが制定したパスパ文字が出来ましたが、余り用いられず、17世紀頃から再びウイグル文字を変形したモンゴル文字となり、最近まで用いられていました。
いずれにせよ、元代のモンゴル語に文字がなかったというのは誤りです。
ただ、13世紀頃のモンゴル人が実際にどの程度文字を実用していたかは疑問ですが。


42

Re: 稲作伝播について

投稿者[ 游惟 ] 発言日時 [2月8日(木)23時57分08秒]

元の発言 [ Re: 稲作伝播について ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月8日(木)21時47分57秒 ]

>> >> #究極的には“日本人”と言う人種はないんだったりして、

>> それが正解じゃないでしょうか?
>> 人種の問題は、いろいろあるでしょうが、
>> 素人が判断するに、顔など外見からという
>> 実にいい加減な発想ですが。

>> 朝鮮の人に似たタイプとか中国人に似たタイプ
>> すごく顔の濃いタイプ、一見してベトナムなど
>> 東南アジア系とか、分かれますよね。

>> やっぱ渡来人集団の子孫と、いわゆるアイヌとか
>> 琉球などのネイティブじゃないかといわれている
>> 人たちとの混血が、今の大多数の日本人では
>> ないでしょうかね。

>> ちなみに僕は、中国人タイプ+ネイティブ
>> (顔の作りが濃いタイプ)って感じかな (^O^)

私もそう思います。(元々そういう説ですが)
私の家内は色が黒く毛深く、体臭が強く、顔の凹凸が大きい。北関東の出身なので、アイヌ系の血が濃いのではないかと思います。



43

Title私信:ホームページ開設のお知らせ。

投稿者[ 池ちゃん ] 発言日時 [2月9日(金)07時04分03秒]

 皆さん、ご無沙汰しております。
タイトルの通り、私もホームページを開設しました。
歴史と文芸を中心としたページにする予定です。

初心者のため、出来合いのものを集めた粗末なつくりではありますが
お誘いあわせておいでください。


44

Re: 稲作伝播について

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [2月9日(金)09時32分32秒]

元の発言 [ Re: 稲作伝播について ] お名前 [ 游惟 ] 日付 [ 2月8日(木)23時38分53秒 ]

>> 渡来人はおそらく殆ど女を連れずにやってきたはず。

それはあくまで渡来人が征服軍としてやって来たという仮定の話でしょう。
ベトナム難民や中国の不法入国者は男に比べて少ないもののたいてい女連れです。
縄文日本に稲作を伝えた渡来人は新天地を求めて日本列島に来たのです。
多分、女性同伴で来たと思いますよ。

>> BC三〜四世紀に攻めてきたであろう民族(江上氏の説によれば騎馬民族)はそのクニが出来ていた北九州に攻めてきたと言っているいるのです。当時の渡海技術で朝鮮半島から直接畿内に攻め込むことなんか不可能です。13世紀になって日本に攻めてきた元も九州までしか攻め込めなかった事が何よりの証拠です。

私は三世紀の渡来者が攻めて来たのではなく逃げてきたのだと申し上げています。
当時くり船に毛の生えたような船舶で騎馬民族が馬を船にのせて大挙してやってくる事は
不可能ですから。
文化的に中国に比べて遅れている日本が良い所といえば温暖で農作に適した済み易さ
だけでしょう。
何故男だけで攻めてくる必要があったのですか。
済み易さを求めてくるならおんなが一緒でも差しつかえないではないですか。

>> バカも休み休みおっしゃって下さい!! はっきり言って、こんなことを言う人間は中国語も朝鮮語も全く知らず、言語学のイロハも知らない、と宣言しているだけです。中国語と朝鮮語は根本的に異なる言語です。こんな投稿韓国人に見られたらたたき殺されますよ!!

そういきり立たないで下さい。
私、言語学には詳しくないので間違っているかも知れませんが私の乏しい韓国語知識
での印象を語ったまでです。

游惟さんは詳しそうなので教えて下さい。
5世紀以前の朝鮮語で確認されている古代語っていくつ位あるんですか。


45

Re: 稲作伝播について

投稿者[ EK ] 発言日時 [2月9日(金)12時38分39秒]

元の発言 [ Re: 稲作伝播について ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 2月8日(木)15時11分23秒 ]

>> 物物交換の時代には大して言葉によるコミュニケーションは必要なかったから縄文人が
>> どの程度体系だった言語を話していたか判りません。
#これはいただけません。
語彙の多少はともかく、ホモサピエンスのすべての言語が複雑な構造を持っていることに疑問の余地はありません。


46

Re: Title箸墓の墓碑銘

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [2月9日(金)13時04分54秒]

元の発言 [ Re: Title箸墓の墓碑銘 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 2月8日(木)20時28分28秒 ]

>> #卑弥呼の時代に墓碑が有ったということ自体が「眉唾」、加工の道具は分からないでしょうけど、

当然、卑弥呼の時代に作られたとは思いませんでしたが、後世 5、6、7世紀位になって
作られた可能性はあるかなと思ってしまった。

水位が下がった時にバスで通りかかって見つけたなんて出来過ぎと疑ってみるべきでした。

恥恥。


47

Re: 稲作伝播について

投稿者[ 游惟 ] 発言日時 [2月9日(金)14時14分05秒]

元の発言 [ Re: 稲作伝播について ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 2月9日(金)09時32分32秒 ]

>>それはあくまで渡来人が征服軍としてやって来たという仮定の話でしょう。
ベトナム難民や中国の不法入国者は男に比べて少ないもののたいてい女連れです。
縄文日本に稲作を伝えた渡来人は新天地を求めて日本列島に来たのです。
多分、女性同伴で来たと思いますよ。

むかしむかし、日本列島には狩猟採集生活をする縄文人しか住んでいませんでした。
そこへ、大陸のどこかから鉄器・農耕文明を持った弥生人の祖先たち何家族かが北九州にやってきました。
弥生人達は縄文人がいないところを選んでたんぼやはたけを作り、縄文人達とはあまりつきあいませんでした。弥生人たちは一生懸命働いてたんぼや畑を広げ、たくさんの子供を産みそだて、また大陸から親戚や友達を呼び寄せてだんだん人口を増やし、しまいには縄文人達よりも多くなってしまいました。
そうなると、最初はお互いに余りつき合わずに別々に暮らしていた縄文人達がじゃまになり、縄文人達を追っ払うようになりました。縄文人達は弥生人達に追っ払われて、どんどん北へ逃げ、最終的には北海道まで逃げるしかありませんでした。こうして北海道以外はみんな弥生人達の住む土地になったのです。
この弥生人達がいまの日本人の先祖です。

・・・・・というのが従来の支配的な考え方です。
この説に従えば、日本語をしゃべっていたのは大陸から来た人々だということになります。従って大陸のどこかに日本人と同じような顔つきをし、日本語と同じような言語をしゃべる民族がどこかにいるはずですが、言語学者達がいくら探しても大陸には日本語とおなじような言語をしゃべる民族はいません。
ところがなぜか日本列島の南にある琉球列島には日本語と同じような言語をしゃべる民族が住んでいました。しかし、琉球の人たちの顔つきは日本人とは余り似ていませんし、琉球で稲作が始まったのはずっとあとのことですし、日本人と琉球人が深くつきあい始めたのは最近になってからのことです。

あなたの説でこの矛盾をどう説明するのですか?

>> BC三〜四世紀に攻めてきたであろう民族(江上氏の説によれば騎馬民族)はそのクニが出来ていた北九州に攻めてきたと言っているいるのです。当時の渡海技術で朝鮮半島から直接畿内に攻め込むことなんか不可能です。13世紀になって日本に攻めてきた元も九州までしか攻め込めなかった事が何よりの証拠です。

>>(上のBCと言うのはADの間違いですが、あなたはお気づきのようです)
私は三世紀の渡来者が攻めて来たのではなく逃げてきたのだと申し上げています。
当時くり船に毛の生えたような船舶で騎馬民族が馬を船にのせて大挙してやってくる事は
不可能ですから。
文化的に中国に比べて遅れている日本が良い所といえば温暖で農作に適した済み易さ
だけでしょう。
何故男だけで攻めてくる必要があったのですか。
済み易さを求めてくるならおんなが一緒でも差しつかえないではないですか。

あなた自身が言っているとおり、AD三〜四世紀の北九州にはすでに弥生人達の組織されたクニがいくつもあったはずです。これは縄文人の自然集落とは違います。そんなところへ命からがら逃げ出してきた敗残兵たちが攻めこんだって勝てるわけがないでしょう。弥生人達だってちゃんと鉄器・青銅器で武装しているのです。
 騎馬民族であったかどうかは私も疑っていますが、とにかくAD三〜四世紀に九州に攻め込んできたのは重武装の統制のとれた軍隊であり、それは朝鮮半島からやってきたことは疑う余地はありません。おそらく弁韓(任那・加羅)地方の王(豪族)の軍隊でしょう。ただ兵士達は朝鮮民族だったでしょうが王が朝鮮民族であったかどうかはわかりませんが。九州に上陸した征服軍は邪馬台国(九州にあったとすれば)、もしくは九州国家連合の盟主国の軍隊をうち破り、新たに九州国家連合の盟主の位置についたのでしょう。江上波夫氏はこの王を崇神天皇だと考えています。
こうしてこの国は任那・加羅と九州の両方を支配するようになりましたが(韓国人学者達は任那が日本の植民地であったのではなく、日本が任那の植民地であったのだと主張していますが、この時点ではそういえなくもない)、次第に本拠地を九州の方に移し何世代かで九州の支配を固めたのち、4世紀の終わりか5世紀の初め頃に畿内に攻め込み、畿内国家連合の盟主国をうち破って西日本一帯を支配するようになったと考えられます。江上氏はこの時の王を応神天皇だと考えています(私もそう思います)。これが河内王朝の祖で、倭の五王はこの応神天皇の直系の子孫であり、武(雄略天皇)の時に最盛期を迎えます。

言語に関して言えば、崇神天皇(としておこう)が九州を制圧した時に、王も兵士達も家族を半島から呼び寄せ、最初は朝鮮語を話していたでしょうが、政治権力は握っていても言語勢力としては少数派であり、二世はバイリンガル、三世、四世と下るうちに日本語の方が第一言語になってゆき、応神天皇が東遷して畿内を制圧する頃には王族・貴族も日本語を第一言語として話すようになっていたと思われます。雄略天皇の和名が「ワカタケル」と日本語であるのが何よりの証拠です。

BC三世紀の弥生人の祖先達が、むしろあなたの言うような敗残兵であった可能性は大いにあります。鉄器で武装した敗残兵なら縄文人を蹴散らすぐらいはわけはなかったでしょうし、男ばかりであった理由もわかります。
しかしAD三〜四世紀に渡来し河内王朝の祖先となった集団が敗残兵などではあり得ません。

>>游惟さんは詳しそうなので教えて下さい。
5世紀以前の朝鮮語で確認されている古代語っていくつ位あるんですか。

朝鮮半島に中国語とは全く異なる言語を話す民族が住んでいたことは魏志東夷伝でわかりますが、朝鮮語の歴史を完全にさかのぼれるのは1443年にハングルが作られた時代までで、それ以前の中世・古代朝鮮語に関する史料は極端に乏しく、古代の単語は人名・地名など固有名詞を含め数十語が知られるのみです。しかし一般名詞「道−キル」「水−ムル」「生まれる−ナダ」助詞「〜は−ン・ヌン」「〜を−ウル」などは中世・現代朝鮮語でも同じであり、古代朝鮮語が現代も生きていることは確実です。また、記紀万葉から現れる日本語の中に朝鮮語から借用されたと思われる単語があります。「ナラ−国」「オリ−檻」など。




48

Re: 稲作伝播について

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [2月10日(土)06時34分30秒]

元の発言 [ Re: 稲作伝播について ] お名前 [ 游惟 ] 日付 [ 2月9日(金)14時14分05秒 ]

>> むかしむかし、日本列島には狩猟採集生活をする縄文人しか住んでいませんでした。>> そこへ、大陸のどこかから鉄器・農耕文明を持った弥生人の祖先たち何家族かが北九州にやってきました。>> 弥生人達は縄文人がいないところを選んでたんぼやはたけを作り、縄文人達とはあまりつきあいませんでした。弥生人たちは一生懸命働いてたんぼや畑を広げ、たくさんの子供を産みそだて、また大陸から親戚や友達を呼び寄せてだんだん人口を増やし、しまいには縄文人達よりも多くなってしまいました。>> そうなると、最初はお互いに余りつき合わずに別々に暮らしていた縄文人達がじゃまになり、縄文人達を追っ払うようになりました。縄文人達は弥生人達に追っ払われて、どんどん北へ逃げ、最終的には北海道まで逃げるしかありませんでした。こうして北海道以外はみんな弥生人達の住む土地になったのです。
>> この弥生人達がいまの日本人の先祖です。
>> ・・・・・というのが従来の支配的な考え方です。
>> この説に従えば、日本語をしゃべっていたのは大陸から来た人々だということになります。従って大陸のどこかに日本人と同じような顔つきをし、日本語と同じような言語をしゃべる民族がどこかにいるはずですが、言語学者達がいくら探しても大陸には日本語とおなじような言語をしゃべる民族はいません。
>> ところがなぜか日本列島の南にある琉球列島には日本語と同じような言語をしゃべる民族が住んでいました。しかし、琉球の人たちの顔つきは日本人とは余り似ていませんし、琉球で稲作が始まったのはずっとあとのことですし、日本人と琉球人が深くつきあい始めたのは最近になってからのことです。>> あなたの説でこの矛盾をどう説明するのですか?

弥生時代には縄文人に代わって弥生人が日本を覆った、と言う考えが主流とすれば、
それは大きな間違いでしょう。
何でも征服とか民族人種同士で殺し合いたがるのは高句麗人の特性かな?
混血が進んだだけと言うのが妥当です。言葉も混じりあったんじゃないでしょうか。
東北は稲作に適していないから、稲作渡来人が行かなかったから混血も進まなかった。
琉球も稲作に適していなかったから渡来人が住み着かなかっただけ。
琉球には稲作渡来人と交じり合う前の古い日本語が残った?
何もしなくても言葉は変遷するもの。似ているということはずっと交流があったんでしょう。
もともと同じ縄文語を母語にする民族どうしなんで密な交流がなくても同一性は維持できます。

>> あなた自身が言っているとおり、AD三〜四世紀の北九州にはすでに弥生人達の組織されたクニがいくつもあったはずです。これは縄文人の自然集落とは違います。そんなところへ命からがら逃げ出してきた敗残兵たちが攻めこんだって勝てるわけがないでしょう。弥生人達だってちゃんと鉄器・青銅器で武装しているのです。

三世紀中ごろ私は畿内には充分発展した国が出来ていなかったと思っています。
古墳時代以前の弥生の発達した遺跡が畿内には少ないでしょう?
いまマキ向遺跡などが注目されていますがこれだけみたい。
この遅れた地域に半島からの高句麗(公孫氏の一部も含む)敗残兵がやって来れば、たやすく国を作る事が可能だったでしょう。
彼等が出目を隠したのは魏を恐れたからです。
魏の影響は九州にも及んでおり畿内にいても身分を隠さないといけなかった。
先住倭人(弥生人でも縄文人でもかまいません)と軋轢を起こさないようにもしていた。
その結果倭人と同化する為言葉を捨てた。「母親語の継承」起きた可能性も否定しないけど。
そして渡来人は倭人たちに我々は神だと名乗ったのです。

>>  騎馬民族であったかどうかは私も疑っていますが、とにかくAD三〜四世紀に九州に攻め込んできたのは重武装の統制のとれた軍隊であり、それは朝鮮半島からやってきたことは疑う余地はありません。おそらく弁韓(任那・加羅)地方の王(豪族)の軍隊でしょう。

三世紀には弁韓(任那・加羅)地方は魏志で言う倭人の国です。言葉も北九州とは同じだったはずです。

>>ただ兵士達は朝鮮民族だったでしょうが王が朝鮮民族であったかどうかはわかりませんが。九州に上陸した征服軍は邪馬台国(九州にあったとすれば)、もしくは九州国家連合の盟主国の軍隊をうち破り、新たに九州国家連合の盟主の位置についたのでしょう。江上波夫氏はこの王を崇神天皇だと考えています。

朝鮮民族なんていうのは三世紀にはなかったと思いますよ。
新羅や高句麗による統一を経て、半島の中でシャッフルが行われて李氏朝鮮ができてようやく朝鮮民族になったんじゃないか。

五世紀になると信州あたりに馬を飼育していた後や、高句麗の墓のように石積みの古墳が作られたと聞いています。
この主張は江上波夫氏と同じく騎馬民族征服説を取っている人の話です。
と言う事は四世紀末以降、応神天皇のころとなります。
しかし三世紀末から六世紀まで前方後円墳は途切れることなく続いているし、異民族による征服が起きたとは考えにくいのでは?
異民族の正式軍隊による武力征服なら征服後、政権が変わったことを天下に示すためそれまでのやり方を大ぴらにやるでしょう。
既に出来ていた高句麗人の大和国に再び高句麗からの渡来人が征服軍となった、あるいは三世紀に各地にちらばっていた高句麗人達が邪馬台国も滅亡後、九州で次第に力をつけて大和に攻め上った可能性は否定しませんが。異民族とは考えにくいということです。

>> BC三世紀の弥生人の祖先達が、むしろあなたの言うような敗残兵であった可能性は大いにあります。鉄器で武装した敗残兵なら縄文人を蹴散らすぐらいはわけはなかったでしょうし、男ばかりであった理由もわかります。

どうしても縄文人を蹴散らしたいみたいですね。そんなのほんとに必要なかったんですって。
BC三世紀は稲作もってやって来た人々も農耕民族で余り戦争なんか好まない人間達だったでしょう。

>> しかしAD三〜四世紀に渡来し河内王朝の祖先となった集団が敗残兵などではあり得ません。

BC三世紀の弥生人の祖先達は誰と戦って敗残兵になったのですか?中国の史実に基づいて比定しないと。

私が高句麗というのは魏志に正始7,8年魏に叛いた高句麗を討って追いまわしたと言う記述があるからです。
半島の南部は魏に従っており、逃げるのは大陸の北か、海しかなかった。
それで海に逃げた大半の高句麗人は魏の影響下にある北九州を避けて出雲、近畿、中部、北陸に散らばって隠れたのです。
そしてそのなかの畿内に来た亡命者がマキ向に初期大和政権を打ち立てる。
すると各地に散った高句麗人もさんさんごご集まってくる。こうして大和政権は強大になって周囲を支配下において行く事になる。
マキ向遺跡に日本各地から物品が集まっているのも説明が出来ます。
また日本、朝鮮、中国北部、モンゴルにしかない下戸遺伝子が北陸、中部、近畿、中国地方に多く分布していると言う事実とも符合します。
どうです。隙がないでしょう。

>> 朝鮮半島に中国語とは全く異なる言語を話す民族が住んでいたことは魏志東夷伝でわかりますが、朝鮮語の歴史を完全にさかのぼれるのは1443年にハングルが作られた時代までで、それ以前の中世・古代朝鮮語に関する史料は極端に乏しく、古代の単語は人名・地名など固有名詞を含め数十語が知られるのみです。しかし一般名詞「道−キル」「水−ムル」「生まれる−ナダ」助詞「〜は−ン・ヌン」「〜を−ウル」などは中世・現代朝鮮語でも同じであり、古代朝鮮語が現代も生きていることは確実です。また、記紀万葉から現れる日本語の中に朝鮮語から借用されたと思われる単語があります。「ナラ−国」「オリ−檻」など。

ううん、言葉の問題は難しいですね。
私なんか今のコギャル達の言葉が全く理解出来ない。
「気が置けない。」なんて言葉も若い人と私では意味が逆になってるし。
華南の中国人だろうと、少数民族だろうと距離が離れていて年も何百年も離れていたら言葉の同一性なんか保てないでしょう。
僅かに同一性が見られたら御の字じゃないんですか。日本は6世紀位からは文字を使って日本語を表記していたから比較的古代語が残っており現代語への変遷も追えますが、中国南部の少数民族とか南方の小島にもついでに朝鮮も文字がなかったら追う事が出来ない。
言語と邪馬台国の関係はなかなか見つけられないと思います。

言語で人種民族の同一性を決めるのは難しいと思うこの頃です。
似ている語彙があった位でも充分なんじゃないか。


49

纏向段階的発展説!!

投稿者[ マルセ ] 発言日時 [2月10日(土)07時19分53秒]

みなさん おはようございます。

 先月号ですいらんさんからご紹介があった「日本の歴史02 王権誕生」(寺沢薫,講談社、2000)を読みました。(まだ読み終わってません)

 この本の「第八章 王権の伸長」で、「三世紀後葉の奈良盆地の古墳が多すぎる。これらの古墳を在地の首長のものと考えるのは間違いで、他の地方の首長たちの分も含まれているのではないか。奈良盆地にあった倭國の王都の周辺に彼等は墓を築造した。王都に常駐した彼等は後に大和王権膝元の豪族になったのではないか。」というようなことが述べられています。
 で、奈良盆地の初期の古墳の中に、他の地域の首長の墓が含まれているのではないかということには賛成です。そう考えれば、奈良盆地には多すぎるほどある3世紀の首長墓が、九州にはいくつも見当たらないことをうまく説明できると思います。

 しかし、寺沢氏のように考えると、4世紀以降になると、九州に首長墓と考えられる前方後円墳が、また、たくさん作られるようになった理由がうまく説明できないような気がします。4世紀の九州の前方後円墳は、大和の豪族とならずに地方に残った一部の首長の墓だとでも言うのでしょうか。それとも、4世紀以降に大和から地方に派遣された官の墓とでもするのでしょうか。ちょっと変な気がします。

 マルセには、やはり、3・4世紀の日本には、このような中央集権的な話はまだ早すぎるように感じます。それより、以下のようなストーリーはどうでしょうか。

1. 3世紀の倭國とは九州から畿内の地域を指す。倭國とは、この地域にあった約30の国の緩やかな連合体であり、その象徴的な君主として女王(卑弥呼・壹與)がいた。

2. 3世紀、倭國のメンバーの首長たちは、それぞれの墓(前方後円墳など)を奈良盆地に作った。ごく一部、自分の国の中につくったものもある。

3. 奈良盆地に首長墓をつくることにした理由はわからないが、なにか思想とか宗教とかの理由があったのだろう。想像だが、蓬来山信仰が関係あったのかも。前方後円墳という形が壺型をしていたと考えられた蓬来山が関係あるという説もある。倭國の範囲で最も東に位置した奈良盆地の東端、つまり蓬来山にもっとも近いと考えられた場所にみんな墓を作った?

4. 卑弥呼や壹與の墓も纏向近辺のどれかである。卑弥呼のは不明であるが、壹與のは箸墓の可能性が高い。

5. 纏向は、「奈良盆地の地方の都、兼、各地の首長墓の造営キャンプ」である。3世紀初頭まで、奈良盆地は特にこれといったところのない地域であったが、たくさんの首長墓を造営するために、倭國中から人が集まるようになったので、この地域が急速に発展しだした。

6. 纏向で見つかる外来の土器は、古墳造営の工事に携わる労働者のための食糧を運んだものである。常に大量の労働者が纏向近辺に動員されていたので、奈良盆地内での食糧では足りなかった。東海地方は近場であるので、倭國の範囲外であっても食糧を輸入していた。

7. 3世紀末か4世紀初頭になると大王家(崇神天皇)が、その中から台頭してきて、奈良盆地を一つの国にまとめあげた。崇神天皇は倭人伝にいう市の取締役「大倭」の家系だった?そう考えると、先祖が奈良盆地の中の各地を転々と移動していたことを説明しやすい。

8. 4世紀、大和の大王家(崇神〜景行)は、勢力範囲のさらなる拡大を目指したので、他の地域の首長との仲が悪くなってしまった。他の地域の首長は、奈良盆地に墓が作れなくなってしまったので、やむを得ず、自分たちの国の中に墓を作るようになった。

9. 記紀に記されたように景行天皇の時代に、倭國や東海から関東地方の国々の首長は、大王家の支配を受けることになったが、別にお取り潰しになったわけではないので、そのまま地方の豪族(国造)として存続した。ただし、邪馬壹國、投馬國、奴國などの倭國の中の大国は、それぞれ、いくつかの国に解体され、歴史から消えた。狗奴國=熊襲健は、日本武尊に征伐された。

 「纏向を最初から倭國の王都として建設された」と見る寺沢氏に対して、「纏向は地方都市→古墳造営都市→王都と段階的に発展した」と見るというところがマルセ説の特徴です。こう考えると、いろんなことがうまく説明できるような気がするんですが、いかがでしょうか。


 で、以上のように考えて、邪馬壹國はどこかといえば〜、
 やっぱり、どこだか、わからない!!


5

Re: 奴國と狗奴國(承前)

投稿者[ kouji ] 発言日時 [2月5日(月)03時03分48秒]

元の発言 [ 奴國と狗奴國(承前) ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 2月4日(日)01時30分43秒 ]

マルセさん、今晩は!

>> #ああ、わかりました。「一回目に出てくる奴國」と「二回目に出てくる奴國」は同じ國で、もちろん陳壽も同じ國のつもりで書いているということですね。

 陳壽はもちろん、旁国末尾に奴国を追加した人も、別の国だと考えたと思いますが....


>>  現在の対馬と壱岐の農漁家戸数は、合計すると倭人伝に示された戸数の倍ぐらいです。
>> これから類推すると、現在の福岡県の領域に、当時戸数が4〜5万戸あってもおかしくな
>> いと想定できます。奴國の領域が筑後川流域を含まなくても、福岡県の玄海灘方面だけで
>> なんとか2万戸入りそうです。ちょっときつめですが。

 この数字を基準に考えても無理でしょう。福岡県といえば、玄界灘沿岸方面のほかに、遠賀川流域方面や周防灘沿岸方面、筑後地域なども含んでいるわけですよね。それで四〜五万戸であれば、玄界灘沿岸方面だけで二万戸は無理でしょう。しかも、奴国は、西が伊都国、東が不彌国に挟まれていて、これらの諸国が概ね玄界灘沿岸地域に並んでいたと考えられます。奴国の領域が筑後方面にかなり広がっていたと考えない限り、二万余戸は難しいでしょう。
 いずれにせよ、福岡県で四〜五万戸であれば、奴国+邪馬臺国=九万余戸は収まらないことに変わりはありませんね。



50

Re: 稲作伝播について

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [2月10日(土)07時41分36秒]

元の発言 [ Re: 稲作伝播について ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 2月10日(土)06時34分30秒 ]

読み返したら文章が変でした。
ちょっと修正します。
「異民族の正式軍隊による武力征服なら征服後、政権が変わったことを天下に示すためそれまでのやり方を大ぴらにやるでしょう。」
→異民族の正式軍隊による武力征服なら征服後、政権が変わったことを天下に示すためそれまでのやり方を大幅に変更するでしょう。

「既に出来ていた高句麗人の大和国に再び高句麗からの渡来人が征服軍となった、あるいは三世紀に各地にちらばっていた高句麗人達が邪馬台国も滅亡後・・」
→「既に出来ていた高句麗人の大和国に再び高句麗から征服軍が到来し大和国を征服した、あるいは三世紀に渡来し、各地に散っていた高句麗人のうち九州にいた部族が邪馬台国も滅亡後・・」

とします。


51

高句麗敗残兵説について>牛頭天王さん

投稿者[ 游惟 ] 発言日時 [2月10日(土)13時11分20秒]

牛頭天王さんが古代日本の成立に関して独自の仮説を持っていらっしゃることはよくわかりました。
大胆な仮説、大いに結構・・
○○先生はこう言い、××先生はこう言い、それに対して△△先生はこう言っている、と他人の説のパッチワーク論文ばっかり書いているアホな学者よりはよっぽどましです。

私の仮説はとりあえずわかったでしょうから、あなたの仮説を検討してみましょう。

>>弥生時代には縄文人に代わって弥生人が日本を覆った、と言う考えが主流とすれば、
それは大きな間違いでしょう。
何でも征服とか民族人種同士で殺し合いたがるのは高句麗人の特性かな?
混血が進んだだけと言うのが妥当です。言葉も混じりあったんじゃないでしょうか。

私も弥生人というのは純粋な渡来人ではなく、先住民たる縄文人と渡来人の混血であり、その混血民族が稲作農耕という食料革命で爆発的に人口が増えたものと考えています。もちろん、新来の渡来人(移民)も三々五々やってきたと思いますが、ある程度以上に弥生人が増えた段階においてやってきた移民は、二三世代で弥生人として同化してしまいます。当然言葉も混じり合います。

ただ、あなたが「言葉が混じり合う」ということをどういう意味で使っていらっしゃるのか、それが問題です。100人の日本人が住むところへ5人の渡来人がやってきて色々な新奇の文物をもたらせば、その文物を指す言葉は日本語の中に取り込まれます。しかし、その渡来人5人の子孫は三〜四世代後には日本人と同化して日本語しか話せなくなります。そこへまた新たに5人の渡来人がやってきて新奇の文物をもたらす・・・・ということを繰り返して行けば、その地方の人口はどんどん増え、語彙もどんどん増えていきますが、日本語であることには変わりありません。こういう意味で「言葉が混じり合う」とおっしゃっているのならそれは正しい。

本当の意味で言葉が混じり合う言語混淆現象に、クレオール化現象というのがあります。
「クレオール」と言うのは中南米のスペイン支配下でキリスト教化した原住民のことですが、これらの国がスペインの支配から独立したあと、言語学者が行って調べてみると、クレオール達はスペイン語でもなく現地語でもなく、両者が入り交じった実にへんてこな言語をしゃべっており、しかも、その言語は言語として完全である・・・ということを発見し、これを「クレオール語」と名付けました。その後中南米だけではなく、ニューギニアその他植民地から独立した様々な国で同様の言語が発見され、これらを広義に「クレオール語」と呼ぶようになりました。
そんなバカな、とおっしゃるかも知れませんが明かに一種のクレオール言語である有名な言語があります。それは「英語」です。イングランドは1066年にフランスに征服され、多数のフランス人達がイングランドへ移住して、ゲルマン語系の言語を話していた住民と共存するようになりました。その結果、イングランドの言語は二三世代の間に大きく変化し、ゲルマン語でもない、ラテン語(フランス語)でもない第三の言語が出来上がりました。それが現代の英語です。だから、英語の語彙にはゲルマン語起源の単語、フランス語起源の単語が入り交じっているかわり、冠詞・形容詞の格変化、動詞の人称変化、動詞の時制など他のヨーロッパ言語に普遍的に見られる複雑な文法が著しく簡略化され、名詞の性などは消えてなくなってしまい、非常に覚えやすい言語になったのです。

では日本語もクレオールではないかと言われるかも知れませんが、いくつかの理由から日本語がクレオールだとは思えません。まず、これまで発見されている全てのクレオール語は元となった言語の如何にかかわらず全てSVO型言語だということです。相互の言語を片言しか知らない者同士が身振り手振りでコミュニケーションを図るばあい、「私 行く あそこ」というように、主語・動詞・目的語と並べるのが普遍的に一番わかりやすいためそうなるのだと思われます。
もっとも、BC三世紀に日本に入ってきた渡来人が日本語と同じSOV型言語を話していたとすれば、SOV型言語同士のクレオールと言うことも考えられます。しかしそう考えればそれは朝鮮人だということになりますが、日本語と朝鮮語で共通する基本単語が少なすぎます。あなたの言うように華南の中国人だとすればなおさらのことSVO型言語になっていたはずでこれも考えられない。また日本語がクレオールなら琉球語との親縁関係も説明できない。
そうなると、やはり「母親言語の継承」で外来の民族が現地で女を調達した結果、二代目以降は日本祖語をそのまま受け継いだと考えるしかありません。

>>東北は稲作に適していないから、稲作渡来人が行かなかったから混血も進まなかった。
琉球も稲作に適していなかったから渡来人が住み着かなかっただけ。
琉球には稲作渡来人と交じり合う前の古い日本語が残った?
何もしなくても言葉は変遷するもの。似ているということはずっと交流があったんでしょう。
もともと同じ縄文語を母語にする民族どうしなんで密な交流がなくても同一性は維持できます。

だから何で弥生人が縄文語を母語としているのかが問題なのです。

>>三世紀中ごろ私は畿内には充分発展した国が出来ていなかったと思っています。
古墳時代以前の弥生の発達した遺跡が畿内には少ないでしょう?
いまマキ向遺跡などが注目されていますがこれだけみたい。
この遅れた地域に半島からの高句麗(公孫氏の一部も含む)敗残兵がやって来れば、たやすく国を作る事が可能だったでしょう。

その高句麗からの敗残兵は一体どういう経路でどこに上陸し何人やってきたのですか?
敗残兵というからには、多くても一集団50人か100人程度でしょう。しかも戦い疲れ、装備も食料も十分ではなく、組織的に侵略してきたわけではないのだから補給もない。
一方、その当時大きな国はなかったかも知れないが、畿内の人口は10万以上はいたはずであり、縄文人とは違ってちゃんと鉄器で武装していたはず。
50人、100人でも不意打ちを食らわせれば集落の一つや二つは落とせたでしょうが、そのうち日本人側が何倍もの兵力で反撃してくるはず。その反撃にわずかの敗残兵達が持ちこたえられますか?

>>彼等が出目を隠したのは魏を恐れたからです。
魏の影響は九州にも及んでおり畿内にいても身分を隠さないといけなかった。
先住倭人(弥生人でも縄文人でもかまいません)と軋轢を起こさないようにもしていた。
その結果倭人と同化する為言葉を捨てた。「母親語の継承」起きた可能性も否定しないけど。
そして渡来人は倭人たちに我々は神だと名乗ったのです。

先住倭人と軋轢を起こさないように、こっそり隠れ住んでいた落ち武者達がなぜ畿内を制圧できるのですか?こっそり隠れ住んでいる落ち武者達が神だと名乗ると倭人達は信じるわけですか?神だと信じさせるためには、少なくとも一度は武力を用いて自らの力を示し、恐れを抱かさなければなりません。

魏をおそれたといいますが、当時の魏は日本に攻めてくる力なんか持っていません。後漢末には5000万を越えていた中国の人口は、三国時代の度重なる戦争で荒廃し、三国併せて1500万程度まで人口が激減しています。

>>三世紀には弁韓(任那・加羅)地方は魏志で言う倭人の国です。言葉も北九州とは同じだったはずです。

それは弥生人化した日本人の一部が逆に移住したんでしょう。その移住した倭人達から日本が豊かな土地であることを聞ききつけて、この地方の豪族が組織的な侵略を思い立ったのでしょう。

>>朝鮮民族なんていうのは三世紀にはなかったと思いますよ。
新羅や高句麗による統一を経て、半島の中でシャッフルが行われて李氏朝鮮ができてようやく朝鮮民族になったんじゃないか。

それは「民族」という言葉の定義によります。私はここでは朝鮮語を母語とする人々のことを朝鮮民族と呼んでいます。

>>五世紀になると信州あたりに馬を飼育していた後や、高句麗の墓のように石積みの古墳が作られたと聞いています。
この主張は江上波夫氏と同じく騎馬民族征服説を取っている人の話です。
と言う事は四世紀末以降、応神天皇のころとなります。
しかし三世紀末から六世紀まで前方後円墳は途切れることなく続いているし、異民族による征服が起きたとは考えにくいのでは?
異民族の正式軍隊による武力征服なら征服後、政権が変わったことを天下に示すためそれまでのやり方を大ぴらにやるでしょう。
既に出来ていた高句麗人の大和国に再び高句麗からの渡来人が征服軍となった、あるいは三世紀に各地にちらばっていた高句麗人達が邪馬台国も滅亡後、九州で次第に力をつけて大和に攻め上った可能性は否定しませんが。異民族とは考えにくいということです。

日本に移住して何世代もたち、日本語が母語化人々を異民族と呼ぶかどうかの問題です。
一応江上氏に従って崇神天皇としておきますが、崇神が九州を制圧したときは確かに異民族だったでしょう。しかし、制圧したと言っても当然反乱もあったでしょうし、政権が安定するまでは数世代かかります。その間に配下の諸豪族の離反を防ぐために、政略結婚が盛んに行われたはず。日本の豪族の娘を后にして子供が産まれればその子供は当然日本語を話す。こうして九州で何世代か過ごしている間に王族達は異民族とは呼べなくなっていたはずです。ただ、任那支配の必要から王族も朝鮮語能力は第二言語としてにせよ保持していたはずですし、総督のような者を任那に置き、その間の連絡にあたる日本語・朝鮮語バイリンガルの官僚も多数いたはずです。。
九州支配が固まって畿内に侵攻する時は、配下の諸豪族から兵を徴発し、かなりの大軍で攻め込み、圧倒的な力を示して畿内諸豪族を慴伏させたことでしょう。そしてその力を誇示するために築いたのが仁徳天皇陵を初めとする巨大前方後円墳だと思われます。

>>どうしても縄文人を蹴散らしたいみたいですね。そんなのほんとに必要なかったんですって。
BC三世紀は稲作もってやって来た人々も農耕民族で余り戦争なんか好まない人間達だったでしょう。

ではなぜ弥生人が日本語をしゃべってるのですか?なぜ、縄文人骨と弥生人骨は異なるのですか?
どうして縄文人は消えていったのですか?農耕民族の渡来人は平和好きでも逆に狩猟民族の縄文人は戦争好きだったかもしれません。たしかに母親言語の継承現象で弥生人達の母語が日本語になった後なら、平和裡の混血ということが、全くなかったとは言えません。
 ただ古代のことを現代の常識で考えてはいけません。「人種の平等」「基本的人権」などという観念はスーパー・ウルトラ・スペシャル近代的観念であって、先進国と言われる国でさえ、それが常識になったのは1960年代以降のことです。どんな分野でも日本国憲法を学問に持ち込む人が多いのは困りものです。
 鉄器文明を持った当時の「文明人」にとって新石器時代の「野蛮人」などは人間ではないのであって、略奪・暴行・皆殺しは当たり前のことなのです。近世・近代に入ってからだって、スペイン人が中南米で何をしたか、ヨーロッパからの移民が北アメリカで何をしたか、イギリス人達がオーストラリアで何をしたか考えてみればよくわかるでしょう。近代日本でも、台湾を獲得したとき原住民を服属させるのに3万以上を殺しているのです。
 16世紀にスペイン人が南米インディオの捕虜を連れてかえって来たとき、問題になったのはインディオが「人間」かどうかでした。スペイン人はこいつらは人間ではないと主張したのに対し、ローマ法王庁が、「どうも人間のようであるから人間として扱え」と命令を出し、やっと南米インディオは人間として認められたということです。そんなものです。

>>BC三世紀の弥生人の祖先達は誰と戦って敗残兵になったのですか?中国の史実に基づいて比定しないと。

BC三世紀は戦国時代の末期で盛んに戦争が行われていました。そのうちのどれかでしょう。史料に基づく研究は歴史学者に任せます。

>>私が高句麗というのは魏志に正始7,8年魏に叛いた高句麗を討って追いまわしたと言う記述があるからです。
半島の南部は魏に従っており、逃げるのは大陸の北か、海しかなかった。
それで海に逃げた大半の高句麗人は魏の影響下にある北九州を避けて出雲、近畿、中部、北陸に散らばって隠れたのです。
そしてそのなかの畿内に来た亡命者がマキ向に初期大和政権を打ち立てる。
すると各地に散った高句麗人もさんさんごご集まってくる。こうして大和政権は強大になって周囲を支配下において行く事になる。
マキ向遺跡に日本各地から物品が集まっているのも説明が出来ます。
また日本、朝鮮、中国北部、モンゴルにしかない下戸遺伝子が北陸、中部、近畿、中国地方に多く分布していると言う事実とも符合します。
どうです。隙がないでしょう。

高句麗からの敗残兵が畿内に遷り住んだ可能性は別に否定しませんし、確かに銅鐸文化圏が畿内を中心とし、銅矛文化圏が北九州を中心とするという事実とも合致していますね。但し、銅鐸文化が高句麗から来たということが証明出来ればの話ですが。

高句麗敗残兵達がすぐ国を作ったというのであれば否定するしありませんが、高句麗からの敗残兵が平家の落ち武者のように畿内・山陰北部などに集落を作り、近隣の集落を襲って女を略奪してくるなり、平和裏に通婚するなりして何世代か経って人口が増え日本人化した後、その一部族が強大化して大和政権を作った、というのであればその可能性はあり、なかなか面白い仮説だと思います。




52

Re: 纏向段階的発展説!!

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [2月11日(日)01時27分36秒]

元の発言 [ 纏向段階的発展説!! ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 2月10日(土)07時19分53秒 ]

マルセさん、こんばんは

>> 先月号ですいらんさんからご紹介があった「日本の歴史02 王権誕
>> 生」(寺沢薫,講談社、2000)を読みました。(まだ読み終わってま
>> せん)

恥ずかしながら、この本、枕元に置いたまままだ読み終わってないんで
すが、どうも、講談社の方針でずいぶんと思い切って書いた本のような
気がします。

>>  この本の「第八章 王権の伸長」で、「三世紀後葉の奈良盆地の古墳が多
>> すぎる。

多過ぎるかどうかは、どのくらいの年代巾で纏向の古墳が造営されてい
ったかによるんじゃないでしょうか。20年ぐらいの巾に押し込めてしま
えば多過ぎますが、40〜50年の巾なら多過ぎることはないと思います。

だいぶ前に、率善中朗将さんに怒られましたが、勝山は庄内2の可能性
がありそうです。この場合、

庄内2 勝山
庄内2−3 ホケノ山
庄内3 矢塚・石塚

という想定も出来ます。庄内2−庄内3を40年ぐらいと見れば、40年に
4基なら多過ぎはしないでしょう。石塚は庄内1の可能性もありますが、
60年で4基なら、これも多過ぎるという数ではありません。

庄内の年代巾もはっきりしないし、多いか少ないかはもう少し年代や築
造順がはっきりしないとどうこういえないんじゃないでしょうか。

>> 5. 纏向は、「奈良盆地の地方の都、兼、各地の首長墓の造営キャ
>> ンプ」である。3世紀初頭まで、奈良盆地は特にこれといったところ
>> のない地域であったが、たくさんの首長墓を造営するために、倭國中
>> から人が集まるようになったので、この地域が急速に発展しだした。

纏向では、まず先に纏向大溝という水路を掘っています。南溝でも庄内0、北
溝は南溝よりも古いです。(庄内0より前になるかどうかはわかりませんが。)
この溝は半端なものではないので、何の目的であったにせよ、纏向ははじめか
ら計画的に作られた集落であり、その背後には、それだけの力を集結できる集
団が想定できます。

これは、纏向の古墳が造営されるよりも前のことで、古墳造営のために作られ
た集落であるというのは、まったく当たらないと思います。纏向に王都、ある
いは、王宮があり、その近くに古墳造営キャンプがあったということはありう
ると思いますが。

それと、纏向遺跡が急速に発展するのは、布留0段階です。


53

「纏向3段階発展説」にちょっと改名

投稿者[ マルセ ] 発言日時 [2月11日(日)20時51分18秒]

元の発言 [ Re: 纏向段階的発展説!! ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 2月11日(日)01時27分36秒 ]

イリヒコさん はじめまして!こんばんは


>> 恥ずかしながら、この本、枕元に置いたまままだ読み終わってないんで
>> すが、どうも、講談社の方針でずいぶんと思い切って書いた本のような
>> 気がします。

#レスをいただく前に、読み終わらすつもりだったんですけれど・・・、マルセもまだです。


>> 多過ぎるかどうかは、どのくらいの年代巾で纏向の古墳が造営されてい
>> ったかによるんじゃないでしょうか。20年ぐらいの巾に押し込めてしま
>> えば多過ぎますが、40〜50年の巾なら多過ぎることはないと思います。
>> だいぶ前に、率善中朗将さんに怒られましたが、勝山は庄内2の可能性
>> がありそうです。この場合、
>> 庄内2 勝山
>> 庄内2−3 ホケノ山
>> 庄内3 矢塚・石塚
>> という想定も出来ます。庄内2−庄内3を40年ぐらいと見れば、40年に
>> 4基なら多過ぎはしないでしょう。石塚は庄内1の可能性もありますが、
>> 60年で4基なら、これも多過ぎるという数ではありません。
>> 庄内の年代巾もはっきりしないし、多いか少ないかはもう少し年代や築
>> 造順がはっきりしないとどうこういえないんじゃないでしょうか。

#ちょっと誤解があるようです。寺沢氏が多いといっているのは、纏向型の前方後円墳のことではなくて、もう少し後の時代の古墳のことです。庄内3式〜布留1か2くらいで、西暦に直すと250年〜350年くらいのところを指しているようです。
 331ページの図を見ると、イリヒコさんがあげられた4基を除いて、この時期、おおやまとに作られた古墳が30基あります。(100mを超えるものも15基あるそうです。)
つまり、この地域に3年に一つ築造というのはいくらなんでも多すぎて、これらの被葬者が奈良盆地の首長だけというのは考えにくいということです。

>> 纏向では、まず先に纏向大溝という水路を掘っています。南溝でも庄内0、北
>> 溝は南溝よりも古いです。(庄内0より前になるかどうかはわかりませんが。)
>> この溝は半端なものではないので、何の目的であったにせよ、纏向ははじめか
>> ら計画的に作られた集落であり、その背後には、それだけの力を集結できる集
>> 団が想定できます。
>> これは、纏向の古墳が造営されるよりも前のことで、古墳造営のために作られ
>> た集落であるというのは、まったく当たらないと思います。纏向に王都、ある
>> いは、王宮があり、その近くに古墳造営キャンプがあったということはありう
>> ると思いますが。
>> それと、纏向遺跡が急速に発展するのは、布留0段階です。

#そういうことです。纏向は古墳造営のために作られたのではなくて、
 「まず、2世紀末頃(?)に奈良盆地地方が統一されたときに、この地方の都(これが、倭人伝にいう何國かはわかりませんが)として建設された。その後、3世紀半ば、庄内3式の頃から、纏向周辺に古墳が次々と築造されたため、古墳造営都市として発展した。さらに、3世紀末か4世紀になって倭國の王都となった」というように、纏向の発展を3段階で捉えています。

 最後に王都になったというのは、本当のところ良くわかりません。最後まで倭國の王都ではなく、単に大王の都に過ぎなかったのかも。いずれにせよ、纏向は、周辺に古墳が作られなくなった4世紀半ばに急速に寂れてしまって、繁栄は長く続かなかったみたいですが。(でよかったでしたっけ?纏向が寂れた時期についての資料が手元にありません)

 大溝についてはよくわかりませんが、「最初は、纏向を守る水濠として作られて、その後時代が下って、箸墓などの古墳を作るときに、葺石などを運ぶための運河として改修されたのでは」と想像しているんですけれど。このように考えるのは無理があるんでしょうか?


54

Re: 「纏向3段階発展説」にちょっと改名

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [2月11日(日)22時49分00秒]

元の発言 [ 「纏向3段階発展説」にちょっと改名 ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 2月11日(日)20時51分18秒 ]

こんばんは

>> #ちょっと誤解があるようです。寺沢氏が多いといっているのは、纏向型の前方後円墳のことではなくて、もう少し後の時代の古墳のことです。庄内3式〜布留1か2くらいで、西暦に直すと250年〜350年くらいのところを指しているようです。

これは失礼しました。まったく見当違いのコメントでした。

ただし、もう一度整理したいんですが、マルセさんは、

>> 4世紀以降になると、九州に首長墓と考えられる前方後円墳が、また、
>> たくさん作られるようになった理由がうまく説明できないような気がします。

とか、

>> 8. 4世紀、大和の大王家(崇神〜景行)は、勢力範囲のさらなる拡大を目指したので、他の地域の首長と
>> の仲が悪くなってしまった。他の地域の首長は、奈良盆地に墓が作れなくなってしまったので、やむを得ず、
>> 自分たちの国の中に墓を作るようになった。

とか、書いてますよね。

ここでは4世紀と書いてありますが、ヤマト以外にも定型化した古墳が出現す
るのは布留0期ですから、この4世紀は布留0期以後と読みかえたいと思います。

ということは、マルセさんは布留0以後の奈良東南部の古墳はヤマト在地の人
物の墓であると考えている。これはいいですか?

そうすると、『3世紀、倭國のメンバーの首長たち』が地元ではなく『奈良盆
地に作った』墓の候補を考える場合は

>>  331ページの図を見ると、イリヒコさんがあげられた4基を除いて、この時期、おおやまとに作られた古墳が30基あります。(100mを超えるものも15基あるそうです。)

この中から、布留0以後の古墳を除外する必要があります。いくつ残るでしょう?
確実なものは、私のあげた4基しか残らないと思いますが。


>>  「まず、2世紀末頃(?)に奈良盆地地方が統一されたときに、

これ全然わかりません。マルセさんは前に

>> 7. 3世紀末か4世紀初頭になると大王家(崇神天皇)が、その中から台頭してきて、奈良盆地を一つの国
>> にまとめあげた。

と書かれています。どうなってるんでしょうか?

>> その後、3世紀半ば、庄内3式の頃から、纏向周辺に古墳が次々と築
>> 造されたため、古墳造営都市として発展した。

再度ですが、纏向遺跡が急速に発展するのは、布留0段階です。
庄内3段階ではまだ広がってません。発展したというのはどこから出てくるのでしょうか?

>>  大溝についてはよくわかりませんが、「最初は、纏向を守る水濠として作られて、その後時代が下って、

水濠としては、集落規模と比較して規模が大き過ぎます。また、纏向には環
濠・環壕はなく、集落全体を守るという発想がもとからなかったと思います。

それに、纏向大溝には砂を沈殿させるための設備があったり、木の板で護岸工
事がされていたりするので、はじめから水路として作られたものであることは
間違いはないと思います。

>> 箸墓などの古墳を作るときに、葺石などを運ぶための運河として改修されたのでは」と想像しているんですけれど。このように考えるのは無理があるんでしょうか?

箸中山段階では埋没していて、機能していません。
おそらく、庄内3段階でもほとんど埋没していたと思います。


55

Re: 高句麗敗残兵説について>牛頭天王さん

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [2月12日(月)07時21分20秒]

元の発言 [ 高句麗敗残兵説について>牛頭天王さん ] お名前 [ 游惟 ] 日付 [ 2月10日(土)13時11分20秒 ]

色々な言語の混じりあい方の例を教えていただき有難うございます。

私は一番可能性のあるのは別にあると思います。
ハワイに移住した日本人がSOV型のまま単語だけイングリッシュを使用していた例があります。
三世紀に渡来した高句麗人が同じ現象を起こした。
高句麗人が国を支配したから語彙については南方系のままSOVの言語になった。

>> だから何で弥生人が縄文語を母語としているのかが問題なのです。

游惟さんの言う「100人の日本人が住むところへ5人の渡来人がやってきて色々な新奇の文物をもたらせば、その文物を指す言葉は日本語の中に取り込まれます。しかし、その渡来人5人の子孫は三〜四世代後には日本人と同化して日本語しか話せなくなります。そこへまた新たに5人の渡来人がやってきて新奇の文物をもたらす。」
と言う現象でいいと思います。ただし何世代も経たなくても二世代で十分ですね。
中国の戦争の歴史は常に北から南へです。北に起こった国が中原でる。すると又北に起こった国がこれを滅ぼして中原に出る。このため中国南部からは絶えず「難民」が出ていた。いまでも中国からの不法入国者は福建省あたりが多い。これは農民の難民で兵隊ではありません。
しかも日本にいきなり何百人単位で同一地域にくる事は無いでしょう。
日本列島の各地や韓半島南部に少しずつバラバラにやって来たと考えます。
何せ大きな船はありませんから、十艘まとまって来ても精々50人ですね。
実際は十数人位だったでしょう。

>> その高句麗からの敗残兵は一体どういう経路でどこに上陸し何人やってきたのですか?

日本海沿岸の各地です。その一部が丹後半島か若狭湾に上陸して畿内へ。

>> 敗残兵というからには、多くても一集団50人か100人程度でしょう。しかも戦い疲れ、装備も食料も十分ではなく、組織的に侵略してきたわけではないのだから補給もない。

初めから侵略を開始する必要はなかったと思います。2,3年かけて住民と交流してからでも遅くない。

>> 一方、その当時大きな国はなかったかも知れないが、畿内の人口は10万以上はいたはずであり、縄文人とは違ってちゃんと鉄器で武装していたはず。

畿内で発掘された遺物の中に沢山鉄の武器が発見されていますか?
もともと弥生の遺跡が少ないんですから。

>> 50人、100人でも不意打ちを食らわせれば集落の一つや二つは落とせたでしょうが、そのうち日本人側が何倍もの兵力で反撃してくるはず。その反撃にわずかの敗残兵達が持ちこたえられますか?

日本武尊の伝説は策略、謀略を使って相手を倒したと書かれています。・・・これは冗談。
畿内にいた倭人に大陸で使用していた優れた武器の威力を見せ付け、その部族長を殺し、「自分は神だ。従え。」と言えば大人しい農耕民族は恐れをなして従ったのではないでしょうか。

>> 魏をおそれたといいますが、当時の魏は日本に攻めてくる力なんか持っていません。後漢末には5000万を越えていた中国の人口は、三国時代の度重なる戦争で荒廃し、三国併せて1500万程度まで人口が激減しています。

魏に日本に攻めてくる力があったかどうかは問題でありません。大陸部で魏に徹底的に追い詰められた高句麗人は魏が相当怖かった筈です。

>> それは「民族」という言葉の定義によります。私はここでは朝鮮語を母語とする人々のことを朝鮮民族と呼んでいます。

その朝鮮語は高句麗語?新羅?高麗?韓国?三世紀にはまとまった朝鮮語といえるものはなかったでしょう。東夷伝に記載された韓半島のたくさんの国の中に明らかに人種の違うのがありますから。
国家統一なしに言語統一はありません。
マスメデアが発達し国家による標準語教育が行き届いた現在でさえ世代間で大幅に言葉が違う。
昔は地域間でも世代間でももっと大きな差があっただろうと思われます。

>> 日本に移住して何世代もたち、日本語が母語化人々を異民族と呼ぶかどうかの問題です。
>> 一応江上氏に従って崇神天皇としておきますが、崇神が九州を制圧したときは確かに異民族だったでしょう。

崇神天皇が征服軍として九州を制圧した痕跡はありますか?

>> ではなぜ弥生人が日本語をしゃべってるのですか?なぜ、縄文人骨と弥生人骨は異なるのですか?
>> どうして縄文人は消えていったのですか?

狩猟生活では生活が安定しないから自然に衰退していくのと同時に農業を学び弥生人と混じった。
弥生人が縄文人を滅ぼしたと考える必然性は薄いと思います。
私なんか縄文の血を引いているんじゃないかという気がします。

>>  ただ古代のことを現代の常識で考えてはいけません。

游惟さんの方が現代の常識で考えているような気がします。
下の内容は近代に起きたことで古代にも起きたと考えるのは現代の常識というもの。

>> 近世・近代に入ってからだって、スペイン人が中南米で何をしたか、ヨーロッパからの移民が北アメリカで何をしたか、イギリス人達がオーストラリアで何をしたか考えてみればよくわかるでしょう。近代日本でも、台湾を獲得したとき原住民を服属させるのに3万以上を殺しているのです。

台湾で日本がやったのは日本の統治に反対した中国系の住民でしょう?原住民じゃない。



56

東海は早い段階でヤマト政権に従属していたのでは?

投稿者[ 沙庭恭一 ] 発言日時 [2月12日(月)11時24分32秒]

元の発言 [ 纏向段階的発展説!! ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 2月10日(土)07時19分53秒 ]

どうもはじめまして、おはようございます。

>>  先月号ですいらんさんからご紹介があった「日本の歴史02 王権誕生」(寺沢薫,講談社、2000)を読みました。(まだ読み終わってません)

以下同じくまだ読んでませんが。。。。

>>  この本の「第八章 王権の伸長」で、「三世紀後葉の奈良盆地の古墳が多すぎる。これらの古墳を在地の首長のものと考えるのは間違いで、他の地方の首長たちの分も含まれているのではないか。奈良盆地にあった倭國の王都の周辺に彼等は墓を築造した。王都に常駐した彼等は後に大和王権膝元の豪族になったのではないか。」というようなことが述べられています。

○恐らくヤマトの古墳文化は吉備・尾張などの影響(ヤマトへの進出?)を受けたという意味では?
最近、近藤義郎氏などはそのような著述がありますが。
ヤマトに前方後方墳があることも納得できるかと思いますが。ただ、前方後方墳の祖形をどこに求めるか、問題が残りますが。

>>  マルセには、やはり、3・4世紀の日本には、このような中央集権的な話はまだ早すぎるように感じます。それより、以下のようなストーリーはどうでしょうか。

○都出氏が唱えている「前方後円墳体制」はいかがでしょうか?私は早い段階で中央集権体制が起こったように解釈しますが。

>> 6. 纏向で見つかる外来の土器は、古墳造営の工事に携わる労働者のための食糧を運んだものである。常に大量の労働者が纏向近辺に動員されていたので、奈良盆地内での食糧では足りなかった。東海地方は近場であるので、倭國の範囲外であっても食糧を輸入していた。

○土器に関しては器種別に検討を加えられたのでしょうか?

○私は早い段階で職能集団がいたのではないかと考えます。(見つかった土器は労働力提供の痕跡)

その理由として、東海系土器に関して古墳造営時における飯場的な遺跡が桜井茶臼山古墳近くで見つかっており、そこでの使用痕のものがあります。また、箸墓古墳からは吉備系の土器(埴輪)が出ているのは周知のごとくです。
 話しは少し飛びますが、5世紀に百舌鳥古墳群、大阪堺市ですが、浅香山遺跡より東海系の土器が出土しております。また、平城宮下層よりも出土しております。

 以上のことから、私は東海地方の首長は早い段階でヤマト政権の従属化にあり、ヤマト政権に対し、土木工事に関する労働力の提供を行なってきた。
 逆に吉備などは葬送儀礼に関する労働力の提供を行なってきたのでは?
 その見返りとして、墳形の企画性を貰い受けたのではないでしょうか?

>>  「纏向を最初から倭國の王都として建設された」と見る寺沢氏に対して、「纏向は地方都市→古墳造営都市→王都と段階的に発展した」と見るというところがマルセ説の特徴です。こう考えると、いろんなことがうまく説明できるような気がするんですが、いかがでしょうか。

>>
>>  で、以上のように考えて、邪馬壹國はどこかといえば〜、
>>  やっぱり、どこだか、わからない!!


○邪馬台国は勘弁してほしいです。
 ヤマト政権のみにしてほしいですが。


57

Re: 「纏向3段階発展説」にちょっと改名

投稿者[ マルセ ] 発言日時 [2月12日(月)15時29分27秒]

元の発言 [ Re: 「纏向3段階発展説」にちょっと改名 ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 2月11日(日)22時49分00秒 ]

イリヒコさん こんにちは

>> >> 4世紀以降になると、九州に首長墓と考えられる前方後円墳が、また、
>> >> たくさん作られるようになった理由がうまく説明できないような気がします。
>> とか、
>> >> 8. 4世紀、大和の大王家(崇神〜景行)は、勢力範囲のさらなる拡大を目指したので、他の地域の首長と
>> >> の仲が悪くなってしまった。他の地域の首長は、奈良盆地に墓が作れなくなってしまったので、やむを得ず、
>> >> 自分たちの国の中に墓を作るようになった。
>> とか、書いてますよね。
>> ここでは4世紀と書いてありますが、ヤマト以外にも定型化した古墳が出現す
>> るのは布留0期ですから、この4世紀は布留0期以後と読みかえたいと思います。
>> ということは、マルセさんは布留0以後の奈良東南部の古墳はヤマト在地の人
>> 物の墓であると考えている。これはいいですか?

#なにか無茶苦茶わかりにくい文章だったみたいで、ごめんなさい。
 いいえ。布留0以後でなくて、もっと遅い時期まで、布留1か2の、実年代で言えば西暦350年くらいまでは、九州地方の首長墓が奈良盆地にあるのではないかということです。
 そして、現景行陵とされている渋谷向山古墳が築造された時期には、さすがにもう九州地方の首長墓らしいものは、この地域になくなったということです。

 西暦250〜350年頃の古墳の数ですが、宇佐と糸島は数が足りているみたいですが、そのほかの九州の地域は、久里双水、守山大塚、石塚山、那加八幡、原口とか大きな古墳は各地域に1基くらいずつしかなくて、なんか少なすぎるんじゃないでしょうか。一地域にあと3つ4つくらい、九州全部で20〜30基くらいは足らないような気が。そして、奈良盆地東南部には、その数と同じくらいが多すぎるような感じがするんです。

*************************************

>> >>  「まず、2世紀末頃(?)に奈良盆地地方が統一されたときに、

>> これ全然わかりません。マルセさんは前に

>> >> 7. 3世紀末か4世紀初頭になると大王家(崇神天皇)が、その中から台頭してきて、奈良盆地を一つの国にまとめあげた。

>> と書かれています。どうなってるんでしょうか?

#あっちゃ〜。これまた、すみません。最初投稿したときは早朝に書いていたので、まだ寝ぼけてたみたいです。
 「まとめあげた」という書き方は全くよろしくありませんねぇ。
 ここでは、「2世紀末頃に、奈良盆地は一つの国に統一されていた。大王の先祖は奈良盆地の首長の一族ではあったけれども、中級の役人くらいの家系であった。しかし、崇神天皇のときに、(この人物は人望のあった人物だったのでしょう)大抜擢されて首長となった。」というつもりだったんです。
 「人心をまとめあげた」とか言葉を選んでるうちに、文章がトンデモないことになっていたみたいです。おさわがせしました。

7. 3世紀末か4世紀初頭になると大王家(崇神天皇)が、その中から台頭してきて、奈良盆地の首長となった。崇神天皇は倭人伝にいう市の取締役「大倭」の家系だった?そう考えると、先祖が奈良盆地の中の各地を転々と移動していたことを説明しやすい。

**************************************
>> >> その後、3世紀半ば、庄内3式の頃から、纏向周辺に古墳が次々と築
>> >> 造されたため、古墳造営都市として発展した。

>> 再度ですが、纏向遺跡が急速に発展するのは、布留0段階です。
>> 庄内3段階ではまだ広がってません。発展したというのはどこから出てくるのでしょうか?

#こうゆう表現を言葉で表そうとするときに、いつも難しく感じます。簡単な図が書けるといいんですが。フロー(古墳の築造ペース)とストック(纏向の都市の規模)の違いもあって、うまく説明しにくいのですけれど。
 庄内3の頃(ホケノ、矢塚、石塚あたり)から古墳の築造が多くなってきて、布留0になって本格的に建設ラッシュになった。古墳造営都市として最盛期を迎えたのが布留0〜1くらいというように、考えているのですが。

*************************************

>> >>  大溝についてはよくわかりませんが、「最初は、纏向を守る水濠として作られて、その後時代が下って、

>> 水濠としては、集落規模と比較して規模が大き過ぎます。また、纏向には環
>> 濠・環壕はなく、集落全体を守るという発想がもとからなかったと思います。

>> それに、纏向大溝には砂を沈殿させるための設備があったり、木の板で護岸工
>> 事がされていたりするので、はじめから水路として作られたものであることは
>> 間違いはないと思います。

>> >> 箸墓などの古墳を作るときに、葺石などを運ぶための運河として改修されたのでは」と想像しているんですけれど。このように考えるのは無理があるんでしょうか?

>> 箸中山段階では埋没していて、機能していません。
>> おそらく、庄内3段階でもほとんど埋没していたと思います。

#なるほど!とすると、253ページの寺沢画伯の絵は全くデタラメってことになりますね。
 作られて50年もしないうちに埋没してしまったとすると、この水路って何だったんでしょうか。手間隙かけて作ってみたけど、設計ミスでまるで役立たずだったとか?


58

友好的だったくらいではダメですか?

投稿者[ マルセ ] 発言日時 [2月12日(月)15時31分26秒]

元の発言 [ 東海は早い段階でヤマト政権に従属していたのでは? ] お名前 [ 沙庭恭一 ] 日付 [ 2月12日(月)11時24分32秒 ]

沙庭さん はじめまして、こんにちは

>> ○恐らくヤマトの古墳文化は吉備・尾張などの影響(ヤマトへの進出?)を受けたという意味では?
>> 最近、近藤義郎氏などはそのような著述がありますが。
>> ヤマトに前方後方墳があることも納得できるかと思いますが。ただ、前方後方墳の祖形をどこに求めるか、問題が残りますが。

>> ○都出氏が唱えている「前方後円墳体制」はいかがでしょうか?私は早い段階で中央集権体制が起こったように解釈しますが。

#マルセは、にわか古代史ファンなので知識がものすごく薄っ平たいのです。申し訳ありませんが、これらのことはよく知りません。ご推薦の書籍があれば、紹介していただけれるとうれしいです。

***************************************

>> >> (マルセ)6. 纏向で見つかる外来の土器は、古墳造営の工事に携わる労働者のための食糧を運んだものである。常に大量の労働者が纏向近辺に動員されていたので、奈良盆地内での食糧では足りなかった。東海地方は近場であるので、倭國の範囲外であっても食糧を輸入していた。

>> ○土器に関しては器種別に検討を加えられたのでしょうか?

#まったく考慮から落ちてました。

>> ○私は早い段階で職能集団がいたのではないかと考えます。(見つかった土器は労働力提供の痕跡)
>> その理由として、東海系土器に関して古墳造営時における飯場的な遺跡が桜井茶臼山古墳近くで見つかっており、そこでの使用痕のものがあります。また、箸墓古墳からは吉備系の土器(埴輪)が出ているのは周知のごとくです。
>>  話しは少し飛びますが、5世紀に百舌鳥古墳群、大阪堺市ですが、浅香山遺跡より東海系の土器が出土しております。また、平城宮下層よりも出土しております。

#早い時期から職能集団がいたというのはあり得る話だと思います。ただし、1年中専門的な仕事をしていたのではなくて、夏は田んぼ仕事、冬はそれぞれの専門的な仕事を行うという感じで、今で言えば杜氏さんのようだったのでは。古墳築造は農閑期の冬場に行っていた思います。

>>  以上のことから、私は東海地方の首長は早い段階でヤマト政権の従属化にあり、ヤマト政権に対し、土木工事に関する労働力の提供を行なってきた。
>>  逆に吉備などは葬送儀礼に関する労働力の提供を行なってきたのでは?
>>  その見返りとして、墳形の企画性を貰い受けたのではないでしょうか?

#う〜ん。東海地方が従属していたとまで言わなくてもいいんじゃないでしょうか。友好的だったくらいで。たしかに、東海地方から食糧だけが来ていたというのはおかしいかもしれません。古墳築造の作業者として、人も纏向に来ていたのかもしれません。
 それと、労働力提供が首長の判断でなされていたとまで言っていいんでしょうか。マルセなら、「ヤマトでいい仕事があると聞いて、各人の判断で自然と集まってきた」くらいに思います。首長の命令でイヤイヤやらされていたんじゃなくて。

**************************************
>> ○邪馬台国は勘弁してほしいです。
>>  ヤマト政権のみにしてほしいですが。

#?なんででしょう?



59

Re: 友好的だったでは、意味が苦しいのでは?

投稿者[ 沙庭恭一 ] 発言日時 [2月12日(月)16時36分34秒]

元の発言 [ 友好的だったくらいではダメですか? ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 2月12日(月)15時31分26秒 ]

マルセさん はじめまして、こんにちは

>> #マルセは、にわか古代史ファンなので知識がものすごく薄っ平たいのです。申し訳ありませんが、これらのことはよく知りません。ご推薦の書籍があれば、紹介していただけれるとうれしいです。

了解しました。

近藤さんは「前方後円墳の成立」
都出さんは論文で確か日本史研究343号だったような?
※いずれも用語や言いまわしが難しく、また、読むと赤っぽくなりますので気をつけてください。

>> #早い時期から職能集団がいたというのはあり得る話だと思います。ただし、1年中専門的な仕事をしていたのではなくて、夏は田んぼ仕事、冬はそれぞれの専門的な仕事を行うという感じで、今で言えば杜氏さんのようだったのでは。古墳築造は農閑期の冬場に行っていた思います。

>> #う〜ん。東海地方が従属していたとまで言わなくてもいいんじゃないでしょうか。友好的だったくらいで。たしかに、東海地方から食糧だけが来ていたというのはおかしいかもしれません。古墳築造の作業者として、人も纏向に来ていたのかもしれません。
>>  それと、労働力提供が首長の判断でなされていたとまで言っていいんでしょうか。マルセなら、「ヤマトでいい仕事があると聞いて、各人の判断で自然と集まってきた」くらいに思います。首長の命令でイヤイヤやらされていたんじゃなくて。

○上記について、作業をいつ行ったか。季節的なことは私も持ち合わせていないので分かりませんが、あの当時、半島へ兵隊を送りながら、あれだけの土木工事を長期間行っており、また、人口が数百万の時代であれば、大きな力が働いていたと考えるべきでは。

○ちょっとわからいのでお尋ねしますが、従属ではないとの理由は?逆に友好の理由は?

○では、質問ですが、古墳築造にあたって、求人広告をヤマトが載せた場合、どのような伝達手段を使ったのでしょうか?条件面はどのような労働対価を支払ったのでしょうか?

○ヤマト政権下で作られた古墳と各地の古墳との企画性の符号はどのように考えるのでしょうか?

以下、「閑話休題」

○私個人的な見解ですが、邪馬台国がどこにあるかわかりません。むしろ、ヤマト政権の成立として考えたい。

○東海の場合、クナ国が東海にあったとする見解もあります。私はクナ国やヤマトに敵対する勢力が東海にあったとは考えない立場です。



6

弥生人と日本語の形成に関する仮説

投稿者[ 游惟 ] 発言日時 [2月5日(月)17時03分32秒]

みなさん、初めまして。
游惟(ゆうい)と申します。
私も古代史に興味を持っていますが、文献資料や発掘資料を細かく検討し邪馬台国はどこにあったかというような史実を明らかにすることよりは、外部史観的(社会学的・文化人類学的)に大まかに時代の流れを捉えることに興味があります。

私が現在興味を持っているのは日本語の起源についてであり、おそらくまだ誰も唱えたことのない仮説をたて研究中ですが、古代史に詳しい皆さんの忌憚のないご意見を聞かせていただきたいと思います。


弥生人と日本語の起源についての仮説

 魏志倭人伝に散見される固有名詞などは明かに日本語であり、弥生人が現代日本人の直接の祖先であることは言うまでもありません。
 ところで、縄文人骨と弥生人骨は明らかにその形体が異なることや、弥生人遺跡の分布状況などから、弥生人は縄文人が進化したものではなく、BC3世紀頃に農耕文明を携えて朝鮮半島を経由して日本に移住してきた外来の民族であるというのが定説です。
 従って、原日本語もこの外来の民族の言語であったという考え方が支配的ですが、私は日本語は本来縄文人の言語であったと考えています。

@縄文人には南北二系統あり、日本語は南方系縄文人の言語であった

 これまで縄文人は単一の民族であり、それはアイヌの祖先であったという説が有力ですが、私は縄文人はアイヌ祖語を話す北方系の縄文人と、日本祖語を話す南方系縄文人の二系統に分かれており、南方系縄文人は琉球から九州・中国・四国・畿内あたりまで、北方系縄文人は中部以北をそのなわばりとしていたのではないかと考えています。

 これまで日本語系統論で日本語と朝鮮語・アイヌ語初め周辺諸言語との比較研究が行われて来ましたが、日本語とアイヌ語や朝鮮語の親縁関係は証明できず、日本語との親縁関係が証明されている言語は琉球語(沖縄方言)だけです。
 ところが日本本土と琉球の間に密接な関係ができたのは17世紀初頭、薩摩藩が琉球王朝を支配下においてからであり、日本語が台湾に近い八重山諸島に至るまで伝播したとは考えられず、日本語と琉球語は同じ祖語から分化した言語であると考えられます。この共通の日本祖語を話す民族が、大陸から弥生人がやってくるまでは、近畿以西の日本本土にも住んでいたと考えられます。

A母親言語の継承・・・被征服民族の言語が征服民族の言語に取って代わる現象

 弥生人達がBC3世紀頃に農耕文明を携えて北九州に上陸したことは明かですが、これら弥生人の祖先達は本来別の言語(朝鮮語か?)を話していたはずです。しかし、彼らが先住の南方系縄文人達を駆逐し支配領域を拡大して行く過程で、母親言語の継承という現象が起こり、日本語を話すようになったのだと思われます。
 
 「母親言語の継承」とは少数部族が別の言語を話す多数部族を各個撃破して征服する場合に起こる現象で、言語人類学者によってアフリカなどでいくつかの事例が報告されています。
 即ち、いきなり隣の別の言語を話す部落に襲いかかって、男は皆殺しにするが、女は捕まえて慰み者にする。すると女達は当然子供(混血児)を生みますが、子供を育てるのは母親ですから、子供は母親の言語を継承する事になります。その混血児の子供達が成長して戦士となり、また隣りの部落に襲いかかって男は皆殺し、女は捕まえて慰み者に・・・・ということを何世代か繰り返して行くと、子供達はみな母親の言語を継承する混血児となり、征服部族の言語が消えて被征服民族の言語に取って代わられる、という現象です。

 この現象が縄文時代から弥生時代に移行する時に起こったのではないでしょうか。

 従来弥生時代の開始について、BC3世紀に数千・数万もの弥生人の先祖が一気に移住してきたかのように考える人が多いようですが、実際にはせいぜい数百から多くても千人程度の規模であり、しかも最初は男ばかりであり、女は上のような過程で現地調達したのじゃないかと私は考えています。

 縄文人達は狩猟採集経済を営んでいたとされますが、狩猟採集経済とは人間が生態系の一部に組み込まれているということであり、人口は一定以上に増えません。縄文時代の日本列島の人口は多くても30万を越えなかったと言われていますが、狩猟採集経済で日本列島が養える人口の上限はその程度だと思われます。
 しかし、弥生人の祖先達は農耕技術を携えてやってきたのであり、日本列島には農耕適地がいくらでもあります。食物を生産する農業が開始されるということは食料革命が起こるということであり、人口は爆発的に増えます。近現代でも、例えば江戸時代末3000万ほどだった日本の人口は、明治維新によって生産・流通技術革命が起こったことによって、三世代90年ほどの間に三倍以上に増えました。
 たとえ最初に渡ってきた弥生人の祖先達が1000人であり、その後追加移住がなかったとしても、一世代30年で人口が倍増してゆく(即ち一人の女が四人の子供を産む)と十世代300年後には人口は100万を超える計算になります(1000×2の10乗)。まあ、当時は幼児死亡率が高かったでしょうから、一人の女が六人ぐらい子供を産まないと四人が成人することは不可能だったでしょうが、当時の日本列島には手つかずの可耕地がいくらでもあり、世代毎に人口の倍々ゲームを続けることは十分可能だったはずです。

 即ち「弥生人」とは大陸からやってきた少数の民族と縄文人が混血した民族であり、その過程で母親言語の継承が起こり、日本語が弥生人の言語になったのだということです。
 沖縄人と本土の日本人は自然人類学的に体毛・体臭・耳垢その他の特徴がかなり異なり、むしろアイヌと近いことが証明されていますが、自然人類学的に異なり、長い間ほとんど交流のなかった民族が同系統の言語を話しているのはこういう理由だと思われます。
 
B方言境界線
 BC三世紀に北九州から始まった弥生人の支配地域拡大は、約300年後AD一世紀には近畿地方にまで達し、南方系縄文人支配地域を征服し終わり、今度はアイヌ祖語を話す北方系縄文人を駆逐する過程に入ります。しかし、この頃には弥生人の人口は北方系縄文人に比して圧倒的に多くなっていたはずで、多数民族が少数民族を征服・駆逐してゆく通常の征服過程になり、北方系縄文人の女を捕まえて慰みものにしても母親言語の継承という現象は起こりません。しかし、やはりアイヌ祖語の影響は残ったと思われます。

 私が南方系・北方系縄文人の居住地域の境界を中部地方と考えるのは、「糸魚川−浜名湖ライン」といわれる方言境界線の存在です。ここには地質学においてフォッサマグナと呼ばれる大地溝帯があるので有名ですが、方言も民俗もこのラインを境にしてがらりと変わると言われています。それはここが南方系・北方系縄文人の居住地域の境界であったからではないでしょうか。 
 
 また、弥生遺跡の分布状況から、北九州から支配地域を拡大していった弥生人達は、南九州には向かわず東の本州・四国方面へ向かい、南九州には長い間弥生人化されない南方系縄文人が残ったようですが、それが「熊襲・隼人」と呼ばれる人々ではないでしょうか。あるいは魏志倭人伝に出てくる「狗奴國」あるいは「侏儒國」というのもこれのことかもしれません。


 以上が私が考えている弥生人と日本語の形成過程についての仮説です。単なる戯言に聞こえるかも知れませんが、一応これまで知られている言語学的・歴史学的・考古学的・文化人類学的・社会学的な事実や法則と矛盾はしていないはずです。
 古代史に詳しい皆様、是非ご意見を聞かせてください。



60

Re: スレッドを別けていただけませんでしょうか。

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [2月12日(月)18時33分58秒]

元の発言 [ Re: 高句麗敗残兵説について>牛頭天王さん ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 2月12日(月)07時21分20秒 ]

ども、お二人の議論、読ませて頂いています。m(__)m

渡来人といってもその時代、場所で出自も性格も違っていると思います。


61

Re: 「纏向3段階発展説」にちょっと改名

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [2月12日(月)20時19分58秒]

元の発言 [ Re: 「纏向3段階発展説」にちょっと改名 ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 2月12日(月)15時29分27秒 ]

マルセさん こんにちは

ようやく見えてきました。

>>  いいえ。布留0以後でなくて、もっと遅い時期まで、布留1か2の、実年代で言えば西暦350年くらいまでは、九州地方の首長墓が奈良盆地にあるのではないかということです。

>> そのほかの九州の地域は、久里双水、守山大塚、石塚山、那加八幡、原口
>> とか大きな古墳は各地域に1基くらいずつしかなくて、

から考えると、マルセ説は、

・布留0あたりまでは各地の首長は地元にお墓を作った。
・布留1ぐらいになると、各地の首長も大和東南部にお墓を作った。
・350年頃になると、各地の首長はヤマトの首長とケンカして再び地元にお墓を作るようになった。

という事ですね。ということは、以前マルセさんは

>> 2. 3世紀、倭國のメンバーの首長たちは、それぞれの墓(前方後円墳
>>など)を奈良盆地に作った。

>> 奈良盆地には多すぎるほどある3世紀の首長墓が、九州にはいくつも見あ
>> たらないことをうまく説明できると思います。

と書いてますが、ここの『3世紀』は3世紀ではなく、3世紀末から、主に4世紀前半という事になりますね。
3世紀だとばかり思っておりましたので、ずいぶん見当違いのことを書いてしまいました。

さて、この問題ですが、確かに九州だけを見ると布留0あたりに古墳が出現し、
その後空白があって四世紀後半に再び古墳が出現するようにみえます。しかし、
四世紀後半に古墳が出現するのは何も九州に限ったことではなく、各地で見ら
れることです。

九州が特異なのは、むしろ布留0あたりで、前にも後ろにもつながらない古墳
が出現するということじゃないでしょうか。

>>  「人心をまとめあげた」とか言葉を選んでるうちに、文章がトンデモないことになっていたみたいです。おさわがせしました。

これは了解しました。


>> #なるほど!とすると、253ページの寺沢画伯の絵は全くデタラメってことになりますね。

全くデタラメとは言いませんが、大溝と箸中山が共存しているのはおかしいです。

>>  作られて50年もしないうちに埋没してしまったとすると、この水路って
>> 何だったんでしょうか。

私は、新都(穏当には新集落)建設のための水路であったと考えています。
集落の機能がほぼ完備された段階でお役御免になったのではないでしょうか。


62

Re: 奴國と狗奴國(承前)

投稿者[ kouji ] 発言日時 [2月13日(火)00時35分45秒]

元の発言 [ Re: 奴國と狗奴國(承前) ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 2月5日(月)23時26分10秒 ]

 マルセさん、今晩は!


>> #あれっ??
>>  「東観漢記」の中には、奴國が一つの國として書かれていて、「伊都國と不彌國の間にあり、かつ、倭國の一番南端にある」ということですよね。であれば、どう考えても、倭國の中に奴國が二つなかったのは、陳壽であれ、旁国末尾に奴国を追加した人であれ、「東観漢記」を読んだ人にはわかるはずだと思うのですが。

 里程部分の地理記述が東観漢記にあったとしても、それは地理志のようなところであったでしょう。一方の極南界は光武帝紀です。
 まず、邪馬臺国までの日程情報が魏に齎され、里程記事に日程部分が付加されます。例えば、正始元年に建忠校尉梯儁等が倭国を訪問したときの復命書などによってです。
 その後、狗奴国情報が魏に入ってきて、既に更新されていた倭国の地理情報に追加される際、光武帝紀が参照されたのであろうと思います。例えば、正始八年に載斯烏越等が帯方郡を訪問したときの情報などが候補になると思います。

 今日の我々は金印の出土を含む考古学的情報を知っています。だから、光武帝から金印を貰った奴国が「倭国之極南界」と書かれていても、それが里程記事部分の伊都国に隣接する奴国と同じ国であると考えますし、ひいては倭国の領域に変動があったのであろうという推定も出てくるわけです。
 しかし、魏の人々はそのような考古学的情報を知りません。そこに、倭国内には、伊都国に隣接する奴国の南にさらに投馬国・邪馬臺国といった国々があることが明らかになったわけです。倭国の極南界にあるという光武帝から金印を貰った奴国と、伊都国に隣接する奴国が同じ国かどうか、疑念が生ずるのも当然ではないでしょうか。伊都国に隣接する奴国に光武帝から金印を貰った国であるというような明記があれば別ですが、そのような記事があった証拠もありません。このような状況のところに、さらに、奴国の南に狗奴国があって女王に属していないという情報が入ってきた時、この奴国と、伊都国に隣接する奴国が別の国であり、狗奴国に隣接する奴国こそが光武帝から金印を貰った国であると判断されるのも、不思議ではないと思います。


>> >>  この数字を基準に考えても無理でしょう。福岡県といえば、玄界灘沿岸方面のほかに、遠賀川流域方面や周防灘沿岸方面、筑後地域なども含んでいるわけですよね。それで四〜五万戸であれば、玄界灘沿岸方面だけで二万戸は無理でしょう。しかも、奴国は、西が伊都国、東が不彌国に挟まれていて、これらの諸国が概ね玄界灘沿岸地域に並んでいたと考えられます。奴国の領域が筑後方面にかなり広がっていたと考えない限り、二万余戸は難しいでしょう。

>> #筑前の国の筑後川流域でない地域(福岡市、春日市、大野城市、太宰府市、宗像市、北九州市、仲間市、直方市、飯塚市、前原市、筑紫郡、糟屋郡、宗像郡、遠賀郡、鞍手郡、嘉穂郡、糸島郡の40市町村の範囲、以下ではこの地域を玄界灘地域と呼びます)の中に、伊都國と奴國と不彌國の合計22,000戸が入れたかどうかを検討します。(ただし、北九州市は、豊前だった地域がありますので、この市に関しては半分で考えます。)
(中略)
>>  で、実際に計算すると42,146戸となります。壱岐や対馬からの推計で邪馬壹國の時代はこの半分だったとすると、玄海灘地域の邪馬壹國の時代の農家戸数は21,076戸となります。これに漁家を1,000戸ぐらいを足せば、22,000戸ですので、伊都國と奴國と不彌國の3カ国の合計の戸数に近い数字になります。

>>  というように、玄海灘地域に、なんとか、3カ国が入りそうです。


>> >>  いずれにせよ、福岡県で四〜五万戸であれば、奴国+邪馬臺国=九万余戸は収まらないことに変わりはありませんね。

>> #筑後川流域だけでは7万戸は、確かに無理でしょうね。マルセもそう思います。でも、現在の福岡県+佐賀県+長崎県+大分県+宮崎県の5県の農家戸数と漁業経営体数の総和は、309,090戸です。邪馬壹國の時代にはこの半分として、約15万戸。倭人伝の中に戸数の示された国の総戸数と、なぜか、一致してます。
>>  九州島内だけに倭國の国々のすべてが入っていたとは思いませんが、だからといって、「人口の面で邪馬壹國九州説は成立しない」とは考えません。

 「人口の面で邪馬壹國九州説は成立しない」と言っているわけではありません。マルセさんもおっしゃっている通り、「筑後川流域だけでは7万戸は、確かに無理」ではないかと申し上げただけです。つまり、「人口の面で邪馬壹國」北部「九州説は成立しない」のではないかということです。

 マルセさんの人口推計については、なるほど、と思わないでもないのですが、現実的にはどうでしょうか。例えば、伊都国の戸数は、千余戸しかありません。伊都国は概ね前原市・糸島郡と重なると考えられます。奴国は、伊都国に比べて極端に人口密度が高かったのでしょうか。
 さらに、對馬・一支の二島は、魏志倭人伝にも良田が乏しく、食料生産量に比べて人口が過剰であったと記されています。したがって、当時既に両島の人口は飽和状態にあったと考えられ、極端に人口増加率が低かったことが考えられます。ちなみに、奈良時代の両島の人口の推定値は對馬が七千程度、一支が一万程度とされています。一方、魏志倭人伝の戸数に、仮に一戸平均五人を乗じて人口を推計すると、對馬が五千人、一支が一万五千人となります。奈良時代に比べて、對馬が0.71、一支が1.5となります。

 奈良時代の大和国の人口は十三万人程度と推定されています。一方寺澤薫氏は、弥生時代終末期の奈良盆地の人口を「五万人を超えることはない」としています。奈良時代の大和国の人口の0.38に相当します。大和国は奈良盆地のほかに吉野方面等を含みますから、奈良盆地の人口比としては、まず、概ね半分程度と見ておけば大過ないでしょう。
 奈良時代の筑前・筑後・肥前の人口の総計は、二十五万人程度と推定されています。一方、魏志倭人伝に見る末盧・伊都・奴・不彌の四国の戸数合計は二万六千余戸になります。仮に一戸平均五人とすると、人口は十三万人になります。これは、奈良時代の筑前・筑後・肥前の人口の0.52に相当し、ほぼ奈良盆地の人口比と一致すると考えられます。
 極めて大雑把ですが、こうして見ると、筑前・筑後・肥前の領域と、末盧・伊都・奴・不彌の領域は、概ね重なるのではないでしょうか。


63

Re: 奴國と狗奴國(承前)

投稿者[ kouji ] 発言日時 [2月13日(火)00時42分14秒]

元の発言 [ Re: 奴國と狗奴國(承前) ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 2月5日(月)22時40分40秒 ]

どうも!

>> #定説では、奴国は福岡平野に比定されていますよネ。
>> #当時の福岡平野が二万余戸だったと書いてあるってことですよネ。

 奴国は二万余戸だから、福岡平野「だけ」ではないのではないかと申しております。


>> #筑後方面と仰る範囲にその3倍+αはありえることです。
>> #なにより、ククチ(菊池)を挟んでクマ(狗奴)があるし。§^。^§

 奴国の南に狗奴国があるんだから、筑後側流域方面も奴国なのではないかと申しております。



64

横槍すいません

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [2月13日(火)10時11分32秒]

元の発言 [ Re: 高句麗敗残兵説について>牛頭天王さん ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 2月12日(月)07時21分20秒 ]

なかなか入ってゆけないもので

>> 畿内で発掘された遺物の中に沢山鉄の武器が発見されていますか?
>> もともと弥生の遺跡が少ないんですから。

鉄器はともかく、日本最大級の環濠遺跡の唐子鍵をはじめとして数多くの遺跡が知られていますが、どうお考えですか?
遺跡から見た人口推計では、弥生後期には近畿は北部九州をも上回っているようですが・・・

>> 台湾で日本がやったのは日本の統治に反対した中国系の住民でしょう?原住民じゃない。
原住民も殺しています。


65

大和の征伐空白域

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [2月13日(火)20時02分38秒]

元の発言 [ 纏向段階的発展説!! ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 2月10日(土)07時19分53秒 ]

>> みなさん おはようございます。

こんばんわ。

>> 7. 3世紀末か4世紀初頭になると大王家(崇神天皇)が、その中から台頭してきて、奈良盆地を一つの国にまとめあげた。崇神天皇は倭人伝にいう市の取締役「大倭」の家系だった?そう考えると、先祖が奈良盆地の中の各地を転々と移動していたことを説明しやすい。

>> 8. 4世紀、大和の大王家(崇神〜景行)は、勢力範囲のさらなる拡大を目指したので、他の地域の首長との仲が悪くなってしまった。他の地域の首長は、奈良盆地に墓が作れなくなってしまったので、やむを得ず、自分たちの国の中に墓を作るようになった。

>> 9. 記紀に記されたように景行天皇の時代に、倭國や東海から関東地方の国々の首長は、大王家の支配を受けることになったが、別にお取り潰しになったわけではないので、そのまま地方の豪族(国造)として存続した。ただし、邪馬壹國、投馬國、奴國などの倭國の中の大国は、それぞれ、いくつかの国に解体され、歴史から消えた。狗奴國=熊襲健は、日本武尊に征伐された。

以下はとくに反論ではないのですが、日本書紀と古事記を見比べて思ったことです。
日本書紀では崇神紀に四道将軍として一括されて征伐対象になっている吉備ですが、古事記では三代前の孝霊の時代の話になっています。
また崇神紀では、吉備のみが征伐対象とは明記されていませんが、古事記では播磨を道の口にして、明確に吉備のみを征伐したことになっています。(播磨は攻撃拠点になっています。)

古事記には偽書説もあり、日本書紀に比べて特に信頼できるものではありませんが、記述のなかにはより古いと考えられるものもあります。
日本書紀では、崇神紀に様様な始まりの記述を集め、四道将軍など大和を中心とした同心円状の発展を描くようになっていますが、古事記にはその傾向がありません。
崇神紀の西海道の征伐の物語が、本来違う時期の吉備のみの征伐であったならば、記紀の征伐対象には、吉備と佐波をのぞく北部九州から四国、播磨などが抜けていることになります。
吉備は大和の前期古墳の祭祀に重大な影響を与えた地域で、これをどう考えるかは問題ですが、それ以外の庄内平行期の纏向型前方後円墳の見られる地域は、早くから大王権に服属していたのかもしれないと思えます。

吉備はもしかしたら本家意識が強すぎて、王権内で孤立し征伐されたのかもしれません。
そうでなければ吉備は記紀のなかでも、王権の発祥の地としてもっと意識されたかもしれません。
記紀の中の吉備は、反乱をよくおこす有力な外様のような扱いですから。

そういえば纏向一式の時期には、吉備の土器が多いのに、纏向二式以降、祭祀はともかく土器の割合が急減しています。
これも関係あるかな?


66

大和の征伐空白域

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [2月13日(火)20時03分17秒]

元の発言 [ 纏向段階的発展説!! ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 2月10日(土)07時19分53秒 ]

>> みなさん おはようございます。

こんばんわ。

>> 7. 3世紀末か4世紀初頭になると大王家(崇神天皇)が、その中から台頭してきて、奈良盆地を一つの国にまとめあげた。崇神天皇は倭人伝にいう市の取締役「大倭」の家系だった?そう考えると、先祖が奈良盆地の中の各地を転々と移動していたことを説明しやすい。

>> 8. 4世紀、大和の大王家(崇神〜景行)は、勢力範囲のさらなる拡大を目指したので、他の地域の首長との仲が悪くなってしまった。他の地域の首長は、奈良盆地に墓が作れなくなってしまったので、やむを得ず、自分たちの国の中に墓を作るようになった。

>> 9. 記紀に記されたように景行天皇の時代に、倭國や東海から関東地方の国々の首長は、大王家の支配を受けることになったが、別にお取り潰しになったわけではないので、そのまま地方の豪族(国造)として存続した。ただし、邪馬壹國、投馬國、奴國などの倭國の中の大国は、それぞれ、いくつかの国に解体され、歴史から消えた。狗奴國=熊襲健は、日本武尊に征伐された。

以下はとくに反論ではないのですが、日本書紀と古事記を見比べて思ったことです。
日本書紀では崇神紀に四道将軍として一括されて征伐対象になっている吉備ですが、古事記では三代前の孝霊の時代の話になっています。
また崇神紀では、吉備のみが征伐対象とは明記されていませんが、古事記では播磨を道の口にして、明確に吉備のみを征伐したことになっています。(播磨は攻撃拠点になっています。)

古事記には偽書説もあり、日本書紀に比べて特に信頼できるものではありませんが、記述のなかにはより古いと考えられるものもあります。
日本書紀では、崇神紀に様様な始まりの記述を集め、四道将軍など大和を中心とした同心円状の発展を描くようになっていますが、古事記にはその傾向がありません。
崇神紀の西海道の征伐の物語が、本来違う時期の吉備のみの征伐であったならば、記紀の征伐対象には、吉備と佐波をのぞく北部九州から四国、播磨などが抜けていることになります。
吉備は大和の前期古墳の祭祀に重大な影響を与えた地域で、これをどう考えるかは問題ですが、それ以外の庄内平行期の纏向型前方後円墳の見られる地域は、早くから大王権に服属していたのかもしれないと思えます。

吉備はもしかしたら本家意識が強すぎて、王権内で孤立し征伐されたのかもしれません。
そうでなければ吉備は記紀のなかでも、王権の発祥の地としてもっと意識されたかもしれません。
記紀の中の吉備は、反乱をよくおこす有力な外様のような扱いですから。

そういえば纏向一式の時期には、吉備の土器が多いのに、纏向二式以降、祭祀はともかく土器の割合が急減しています。
これも関係あるかな?


67

Re: 大和の征伐空白域(割り込みで失礼)

投稿者[ 沙庭恭一 ] 発言日時 [2月13日(火)20時41分58秒]

元の発言 [ 大和の征伐空白域 ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 2月13日(火)20時03分17秒 ]

ピクポポデミさん、こんばんは、はじめまして。

>> 以下はとくに反論ではないのですが、日本書紀と古事記を見比べて思ったことです。
>> 日本書紀では崇神紀に四道将軍として一括されて征伐対象になっている吉備ですが、古事記では三代前の孝霊の時代の話になっています。
>> また崇神紀では、吉備のみが征伐対象とは明記されていませんが、古事記では播磨を道の口にして、明確に吉備のみを征伐したことになっています。(播磨は攻撃拠点になっています。)
>> 古事記には偽書説もあり、日本書紀に比べて特に信頼できるものではありませんが、記述のなかにはより古いと考えられるものもあります。
>> 日本書紀では、崇神紀に様様な始まりの記述を集め、四道将軍など大和を中心とした同心円状の発展を描くようになっていますが、古事記にはその傾向がありません。

私もそう思います。
津田左右吉以来、吉備氏に関して指摘されていることですが、記紀内に祖先伝承の矛盾があったかと思います。
そのことも勘案して考えるなら、吉備氏に関する伝承は割り引いて考えないといけないかと思います。

ただ、四道将軍をどう考えるか?
私は天皇の実在性は何であれ、オオヒコの実在は認めても良いのではないかと考えます。稲荷山鉄剣銘は問題の部分がありますが、オオヒコに関して言えば、問題はなかろうかと思います。
この時期にヤマト政権が覇権を伸ばした解釈すれば、半島進出まで合理的に説明できるかと思います。
その点はいかがでしょうか?

よく分からないのが、丹波へ1人派遣しております。これがどう解釈したら良いのかわかりませんが。
何か良い答えはありませんか?

>> 吉備は大和の前期古墳の祭祀に重大な影響を与えた地域で、これをどう考えるかは問題ですが、それ以外の庄内平行期の纏向型前方後円墳の見られる地域は、早くから大王権に服属していたのかもしれないと思えます。

これは大いに賛成です。


68

Re: 奴國と狗奴國(承前)

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [2月13日(火)20時44分54秒]

元の発言 [ Re: 奴國と狗奴國(承前) ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 2月13日(火)00時42分14秒 ]

koujiさん、こんばんは。

>>  奴国は二万余戸だから、福岡平野「だけ」ではないのではないかと申しております。
>>  奴国の南に狗奴国があるんだから、筑後川流域方面も奴国なのではないかと申しております。
#始めて聞く説です。面白いかも。(^o^)
#最初の奴国と最後の奴国の関係はどういうことになるんでしょう。
#狗奴国は?
#筑後川流域と菊池との間には、矢部川流域があります。


69

Re: 纏向水路

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [2月13日(火)20時57分22秒]

元の発言 [ Re: 「纏向3段階発展説」にちょっと改名 ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 2月12日(月)20時19分58秒 ]

>> >>  作られて50年もしないうちに埋没してしまったとすると、この水路って
>> >> 何だったんでしょうか。
>> 私は、新都(穏当には新集落)建設のための水路であったと考えています。
>> 集落の機能がほぼ完備された段階でお役御免になったのではないでしょうか。
#水路は幹線道路と同じ性格を持つものと考えると、都市が機能し始めてからの役割が大きいのでは?
#それと、纏向に都市の跡が出土してますでしょうか。
#古大和湖の湿地からの排水施設だった可能性はどうでしょう。
#水路だった場合もそうですが、何所から何所へ繋がってたかが知りたいですネ。


7

Re: 弥生人と日本語の形成に関する仮説

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [2月5日(月)21時26分06秒]

元の発言 [ 弥生人と日本語の形成に関する仮説 ] お名前 [ 游惟 ] 日付 [ 2月5日(月)17時03分32秒 ]

游惟(ゆうい)さん、こんばんわ。

いろんな話し聞かせてください。
楽しみにしています。

方言境界線の話しですが、ちょっと気になります。
僕は名古屋ですが、いわゆるアイヌ語ではないかという
ものがちょくちょく残っているようです。
地理的にみても、古代では現在よりももっと伊勢湾は
奥深く入り込んでいて、関ヶ原あたりなどは、本当に
日本を半分に区切った場所だったのではないでしょうか?

現在、東海三県と言って、愛知・岐阜・三重などと表現
されることがありますが、木曽川を渡る三重県は愛知、
岐阜とは別の文化圏です。三重は関西です。

フォッサマグナなどの地学的なものではなく、もっと
外的な地形で判断される方が良いかと思われますが。


70

Re: 纏向水路

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [2月14日(水)00時07分04秒]

元の発言 [ Re: 纏向水路 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 2月13日(火)20時57分22秒 ]

オヤジッチさん、こんばんは

>> #水路は幹線道路と同じ性格を持つものと考えると、都市が機能し始めてからの役割が大きいのでは?

どうでしょう。物資の搬送路というのは別にあってもかまわないと
思いますが。ともかく事実としては前半で埋まってしまいますから、
そこを原点に考えないとしょうがないと思います。

>> #それと、纏向に都市の跡が出土してますでしょうか。

まあ、都市といい切ってしまうのはどうかとは思いますが、弥生時
代の集落の範疇にはおさまらないっていうのは確かだと思います。

あと10年ぐらいで、はっきりしたことがわかってくるといいですね。
それとも、もっとかかるでしょうか?

>> #古大和湖の湿地からの排水施設だった可能性はどうでしょう。

南溝は箸中山の辺りから石塚の辺りに向かって流れています。
北溝は、どちらかというと東から西、つまり山側から低地部へ向か
って流れています。

排水施設ではないと思います。
川と川をつなぐものっていうのが通常の理解だと思います。

>> #水路だった場合もそうですが、何所から何所へ繋がってたかが知りたいですネ。

そうですね。今のところ推測がかなり入ってるでしょうから。


71

吉備の位置付け

投稿者[ 吉備の役割 ] 発言日時 [2月14日(水)00時37分01秒]

元の発言 [ 大和の征伐空白域 ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 2月13日(火)20時03分17秒 ]

ピクポポデミ、こんばんわ。

>> そういえば纏向一式の時期には、吉備の土器が多いのに、纏向二式以降、祭祀はともかく土器の割合が急減しています。

これは気になりますね。この時期の、吉備での庄内式の出方がどう
なってるのか前から気になってるんですが、何かご存じですか?
吉備でも庄内式が減少しているとしたら、この時期の畿内と吉備は
疎遠になっていたと考えたほうがいいのかもしれないと最近思って
ます。

それから、庄内期には墳丘から特殊器台は出てませんよね。ホケノ
山からも出ませんでした。これに関係して気になるのが、吉備では
本来の特殊器台の分布の中心よりも、初源期の古墳の存在する位置
がやや東にズレていることです。これはどう考えたらいいんでしょ
うね。


72

Re: 吉備の位置付け

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [2月14日(水)00時41分46秒]

元の発言 [ 吉備の位置付け ] お名前 [ 吉備の役割 ] 日付 [ 2月14日(水)00時37分01秒 ]

すいません。名前欄にタイトル入れてしまいました。


73

超初歩的疑問

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [2月14日(水)02時29分11秒]

卑弥呼とか壱与とか、役人達の名前は出てくるのに
男王の名前は出てこないのでしょうか?


74

Re: 纏向水路

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [2月14日(水)09時52分59秒]

元の発言 [ Re: 纏向水路 ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 2月14日(水)00時07分04秒 ]

>> 排水施設ではないと思います。
>> 川と川をつなぐものっていうのが通常の理解だと思います。

思いつきですが。
この大溝は最初は環濠のような防御+集落区画の意味で作られたのではないですかね。
つまり南北を川で、東を山で、西を大溝でくくるつもりだったのではないですかね。
纏向は突然できた集落で、しかもその直前まで環濠集落の時代だったわけですから、なんにもないのは不安では?

ただ通常の環濠集落が、自然集落を環濠で囲むのに対して、計画集落の纏向は直線的な溝で囲んだと言うのはいかがでしょう。
扇状地の斜面にあって、周りをぐるっと囲むのも難しいですし。

纏向が発展し始め、社会構造が変化し始めると、大溝も埋まっていったのではないでしょうか。

ところで、唐子鍵の環濠が布留0以降再び掘られているのは何なんでしょうか?


75

Re: 大和の征伐空白域(割り込みで失礼)

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [2月14日(水)10時30分18秒]

元の発言 [ Re: 大和の征伐空白域(割り込みで失礼) ] お名前 [ 沙庭恭一 ] 日付 [ 2月13日(火)20時41分58秒 ]

>> ピクポポデミさん、こんばんは、はじめまして。

こんにちは。

>> 私もそう思います。
>> 津田左右吉以来、吉備氏に関して指摘されていることですが、記紀内に祖先伝承の矛盾があったかと思います。
>> そのことも勘案して考えるなら、吉備氏に関する伝承は割り引いて考えないといけないかと思います。

吉備津彦など調べると世代間の混乱が見られるそうですね。
私なんぞは大吉備諸進が気になって仕方なかったりします。
それからオオヤマトヒコスキトモとミスキトモミミタケヒコの関係とか。
孝霊の関係はやたら吉備と東部瀬戸内にからむんですよね。
神社もあるし。

>> ただ、四道将軍をどう考えるか?
>> 私は天皇の実在性は何であれ、オオヒコの実在は認めても良いのではないかと考えます。稲荷山鉄剣銘は問題の部分がありますが、オオヒコに関して言えば、問題はなかろうかと思います。
>> この時期にヤマト政権が覇権を伸ばした解釈すれば、半島進出まで合理的に説明できるかと思います。
>> その点はいかがでしょうか?

オオヒコについては、今私は
イワレヒコ=オオヒコ=桜井茶臼山古墳の主
タケヌナカワミミ=タケヌナカワワケ=ヤマトタケル=メスリ山古墳の主
というトンデモ説を練っています。

>> よく分からないのが、丹波へ1人派遣しております。これがどう解釈したら良いのかわかりませんが。
>> 何か良い答えはありませんか?

丹波は独自の王がいて、大和はそこと結んだり、戦ったりして、最終的には圧伏したと思っています。
出雲、丹波、越、東の方十二国、熊襲、中南部九州一帯、蝦夷などが制圧対象になっていますね。
あと山城、吉備、佐波か。
近江や美濃、尾張はどうしたんでしょうかね。
伊勢湾西岸は纏向形成勢力の一部と言うのが私の考えです。
瀬戸内もあたり一面ではなくて、有力な海上勢力が点点と従っていたのかも知れませんね。


76

Re: 吉備の位置付け

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [2月14日(水)10時55分18秒]

元の発言 [ 吉備の位置付け ] お名前 [ 吉備の役割 ] 日付 [ 2月14日(水)00時37分01秒 ]

>> ピクポポデミ、こんばんわ。

こんにちは。

>> これは気になりますね。この時期の、吉備での庄内式の出方がどう
>> なってるのか前から気になってるんですが、何かご存じですか?

あまり専門的な報告書は読んでいないので、このあたりは分かりません。

>> 吉備でも庄内式が減少しているとしたら、この時期の畿内と吉備は
>> 疎遠になっていたと考えたほうがいいのかもしれないと最近思って
>> ます。

この時期と言うのがちょうど現在の年代観で魏誌に出てくる時代と言うのがおもしろいですね。
そこで投馬国、出雲説と言うのがかんできて・・・

>> それから、庄内期には墳丘から特殊器台は出てませんよね。ホケノ
>> 山からも出ませんでした。これに関係して気になるのが、吉備では
>> 本来の特殊器台の分布の中心よりも、初源期の古墳の存在する位置
>> がやや東にズレていることです。これはどう考えたらいいんでしょ
>> うね。

私は纏向建設にからんだ実働部隊は、大阪湾岸、播磨、阿波、伊勢湾西岸などのより纏向に近い、交易路が纏向を通る勢力ではないかなと想像しています。
そういえば石野さんが何かに、ホケノ山は讃岐、阿波の人物の墓と書いてましたが・・・
吉備は実際に制圧されて、土器職人が連れてこられたか・・・
それで布留0以後特殊器台が出るか・・・
箸中山が吉備攻めの孝霊の娘の墓とされているのもなんだか・・・


77

Re: 吉備の位置付け

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [2月14日(水)18時59分34秒]

元の発言 [ Re: 吉備の位置付け ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 2月14日(水)10時55分18秒 ]

ピクポポデミ、こんばんは。

>あまり専門的な報告書は読んでいないので、このあたりは分かりません。

そうですか。それは残念。
あと、纏向以外の畿内ではどうなのかも知りたいですね。

>この時期と言うのがちょうど現在の年代観で魏誌に出てくる時代と言うのがおもしろいですね。
>そこで投馬国、出雲説と言うのがかんできて・・・

そうなんですよ。思いっきりトンデモに走ると、卑彌呼と卑彌弓呼が不
和になった時期と私の中ではオーバーラップするんです。
だから、私の中では狗奴国がかんできます。

>そういえば石野さんが何かに、ホケノ山は讃岐、阿波の人物の墓と書いてましたが・・・

そうですね。最近表に出ていることだけから判断すると、3世紀の段階
では吉備よりも東部瀬戸内との関係の方が深いようにみえますね。
実際のところはどうなんでしょうか。

>吉備は実際に制圧されて、土器職人が連れてこられたか・・・

最近は、大和の特殊器台は大和で製作され発達したものだともいわれてますね。
これが今後認められて定着するかどうか、気になります。


78

Re: 纏向水路

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [2月14日(水)19時08分41秒]

元の発言 [ Re: 纏向水路 ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 2月14日(水)09時52分59秒 ]

ピクポポデミさん、こんばんは

>纏向は突然できた集落で、しかもその直前まで環濠集落の時代だったわけですから、なんにもないのは不安では?

私は、これは逆だと思います。
不安がなくなったので環濠の外に出てきたのではないでしょうか?

あるいは、社会構造が変化して、集落全体ではなく、豪族居館のような一部だ
けを守ればよくなったのかもしれません。

川で防御するというのは、陸上の移動が主となった後世の発想ではない
でしょうか。当時の主な交通手段は水上交通だったはずで、川は防御ラ
インにはならないと思います。


79

東海地方との関係

投稿者[ マルセ ] 発言日時 [2月14日(水)21時54分32秒]

元の発言 [ Re: 友好的だったでは、意味が苦しいのでは? ] お名前 [ 沙庭恭一 ] 日付 [ 2月12日(月)16時36分34秒 ]

 沙庭さん こんばんは、レスが遅くなってしまい、すみませんでした。

>> 近藤さんは「前方後円墳の成立」
>> 都出さんは論文で確か日本史研究343号だったような?
>> ※いずれも用語や言いまわしが難しく、また、読むと赤っぽくなりますので気をつけてください。

#ご紹介ありがとうございます。今度図書館で探してみます。


**************************************
>> ○上記について、作業をいつ行ったか。季節的なことは私も持ち合わせていないので分かりませんが、あの当時、半島へ兵隊を送りながら、あれだけの土木工事を長期間行っており、また、人口が数百万の時代であれば、大きな力が働いていたと考えるべきでは。

#これは、4世紀末以降の話ですね。もうヤマトの全国制覇が終わった以降のことですよね。この時期なら従属でよろしいんじゃないでしょうか。
 友好的だったと私が思うのは、古墳が築造されはじめた頃、3世紀中の話です。
 
 それと、国内での戦闘って、かなり遅くなるまで、農繁期を避けていたと思いましたが。食糧生産がまず最優先というか。特に、この頃は米の生産性も低かったでしょうし。この辺のことから、「古墳は冬にのみ作っていた」というのは、ほぼ確信しています。

>> ○ちょっとわからいのでお尋ねしますが、従属ではないとの理由は?逆に友好の理由は?

#あんまりはっきりとした理由はないです。単純に言ってしまうと「4世紀後半になるまで、東海以東は古墳の形が違うから」ってところです。だから、「従属」じゃないんじゃないかなと。従属したのは4世紀半ば以降と思います。
で、土器がたくさん見つかったり、記紀による尾張からお嫁さんをもらったりしているということは、「敵対」もしていないのだろうから、残るは「友好」という感じです。寄り添うほど親密ではないけれど、まあまあ親しいという感じでしょうか。

>> ○では、質問ですが、古墳築造にあたって、求人広告をヤマトが載せた場合、どのような伝達手段を使ったのでしょうか?

#するどい!考えていませんでした。
 ん〜、たぶん人集めの役人がいたんじゃないでしょうか。で、各国の首長のところにいって、このくらいの人数を集めていますといって、その国内での人員募集に協力してもらうとか。まあ、いずれにせよ、国同士が友好的でないと、どうにもならない話です。ちょっと、ウソっぽいですか。


>>条件面はどのような労働対価を支払ったのでしょうか?

#働けば毎日食糧を支給してもらえる、ということが対価だったと思います。
 稲作が始まって何百年も経ちますから、もうこの頃になると、農地は個人所有だったと思います。そうであれば、裕福な家と貧しい家があったでしょう。確か、住居跡って大きいのと小さいのといろいろなサイズのが混在していたと思ったのですが。
 であれば、貧しい家の場合、冬の間、食べ物にありつけるというか、人べらしができるということだけでも、作業員募集に応じる価値があったと思います。


>> ○ヤマト政権下で作られた古墳と各地の古墳との企画性の符号はどのように考えるのでしょうか?

#倭國内(九州〜畿内の地域)の首長間での流行と考えています。ついでに、纏向周辺に作ることも流行というかステータスだったというか。


*************************************
>> ○私個人的な見解ですが、邪馬台国がどこにあるかわかりません。
>> ○東海の場合、クナ国が東海にあったとする見解もあります。私はクナ国やヤマトに敵対する勢力が東海にあったとは考えない立場です。

#このあたりは、マルセも全く同じです。


8

Re: 弥生人と日本語の形成に関する仮説

投稿者[ とも ] 発言日時 [2月5日(月)22時06分17秒]

元の発言 [ 弥生人と日本語の形成に関する仮説 ] お名前 [ 游惟 ] 日付 [ 2月5日(月)17時03分32秒 ]

游惟さん、はじめまして。ともと申します。

>>  魏志倭人伝に散見される固有名詞などは明かに日本語であり、弥生人が現代日本人の直接の祖先であることは言うまでもありません。

弥生人が、現代日本人の祖先の中で相当な部分を占める事に異存はありませんが、そのうちで、渡来系の占める数量はどの程度であったのかが問題になると思われます。
この比率如何では、話が随分違ってくるものと思われます。

>>  ところで、縄文人骨と弥生人骨は明らかにその形体が異なることや、弥生人遺跡の分布状況などから、弥生人は縄文人が進化したものではなく、BC3世紀頃に農耕文明を携えて朝鮮半島を経由して日本に移住してきた外来の民族であるというのが定説です。

ここのところには疑問があります。
まあ、最初の農耕文化と言うか稲作文化をもたらした渡来人が居たことは間違いないでしょう。
しかし、その割合はどの程度だったのかが問題になります。
現に、関東から東北にかけては民族的特長において、縄文人の特徴をそのままに、稲作を受容し生活形態としては弥生人に成った、と言う人たちの遺跡が多数発見されているはずです。

このことは、大量の渡来系弥生人が押し寄せて大部分の縄文系原住民を駆逐していった、と言う定説?を否定しているものと考えます。
私自身は、初期の段階において、渡来系弥生人と縄文系原住民は、けっこう上手く住み分けをしていたのではないか、と考えています。

>>  従って、原日本語もこの外来の民族の言語であったという考え方が支配的ですが、私は日本語は本来縄文人の言語であったと考えています。

私も日本語の祖語は縄文にさかのぼるとは思っています。
ただし、その理由は、単に圧倒的多数(渡来時点での)の縄文系先住民への融合によるものであり、游惟さんの考えられるような征服とか戦争と言うようなものではないものと考えます。

>> @縄文人には南北二系統あり、日本語は南方系縄文人の言語であった

>>  これまで縄文人は単一の民族であり、それはアイヌの祖先であったという説が有力ですが、私は縄文人はアイヌ祖語を話す北方系の縄文人と、日本祖語を話す南方系縄文人の二系統に分かれており、南方系縄文人は琉球から九州・中国・四国・畿内あたりまで、北方系縄文人は中部以北をそのなわばりとしていたのではないかと考えています。

ここで問題になるのは、アイヌ語がどの程度までさかのぼりうるか、と言うことでしょう。
と言うか、アイヌ民族の起源の問題ですね。
人間および飼い犬(で良かったけな?)のDNAだか保有するウィルスだかの特徴で、日本の南北では、類似性があるような話はよく聞きます。

また、アイヌ民族と確認しうる人たちが北海道に住まいするようになるのは、縄文、弥生云々の時代から見れば相当に新しい、と記憶しています。
記憶が曖昧なんですが、確か西暦も4桁に入ってからじゃなかったかな。

これらの状況からすると、アイヌ語はかなり新しい外来系の言語であり、北方系縄文人がアイヌ祖語を話していたとするのは、根拠が薄いように思われます。
むしろ、縄文人たちは、ほぼ日本全土でとりあえず同じような言語を話していた。
そこに、まず、弥生系の外来語が重なり、北海道ではその後アイヌ系の言葉が主流となった。
そう考えた方が自然だと考えます。

>> A母親言語の継承・・・被征服民族の言語が征服民族の言語に取って代わる現象

こういう現象が起こりうる、と言うことには特に異存はありません。
しかし、日本において、縄文から弥生への遷移の時期にそれほど激烈な征服戦が有ったとは私には思えません。

根拠として、弥生人(弥生文化)と縄文人(縄文文化)との生活圏の違い、があると私は考えています。

私の地元(関東の北部)は、それほど大規模なものは無いにしても、縄文、弥生の遺跡ともによく出土します。
で、通常の地図などで見ると、同じようなところから遺跡が出てきているように見えますが、実際にそこに行ってみると、まるで違う場所から遺跡が出ていることに気がつきます。
ここで、違う、と言っているのは距離的に遠いとかそういうことではなく、そこで生活するための生活基盤が違う、と言うことです。

縄文文化が、従来言われていたような単なる狩猟採集文化ではなく、原始的ながらも、農業と呼んで良い生産形態をもっていたことは、近年の発掘で明らかになってきています。
しかし、一言で農業といってしまえば同じようなものに聞こえますが、縄文の農業と弥生の農業は、その好適地からして違うものなのです。

現に、縄文農業の代表的な遺跡と言われる三内丸山も上の原も稲作適地とは言いがたい場所にあります。
また、先述の私の地元でも、農業適地、と言う見方をした場合、縄文と弥生のそれぞれの遺跡は異なる立地条件を持つのです。
すなわち、現代において、畑作適地とされるところに縄文の遺跡が多く、当然のごとく稲作適地とされる地域には弥生系(またはそれ以降)と考えられる遺跡が多いと言うことになります。

つまり、稲作文化をもって渡来した弥生人たちは、別に縄文人の集落を襲って土地を奪う必要などなく、初めから空いている土地に住み着けばよかったのだと考えています。
畑作系の農業および狩猟採集を生活基盤とする縄文人にとって、稲作に適した河川付近の低湿地は住みにくく、彼ら(縄文人)の感覚からすれば、なんであんな場所に?と思えるようなところに弥生人たちは住み着いたのではないでしょうか。

これが、麦作を中心とするようなヨーロッパと言うかメソポタミアと言うか、そっちの系列の農業文化をもった人たちが流入したのであれば、大規模な衝突は免れないと思いますが、弥生人が持ってきたのは、そもそも生活基盤と言うか適地の異なる稲作文化でした。
このため、多少の軋轢は有ったにしても、比較的平和なプロセスで弥生人たちは日本上陸を果たしえたものと考えています。



80

後の都をつくったときも水路はつくったのでしょうか

投稿者[ マルセ ] 発言日時 [2月14日(水)21時56分43秒]

元の発言 [ Re: 「纏向3段階発展説」にちょっと改名 ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 2月12日(月)20時19分58秒 ]

イリヒコさん こんばんは

>> ようやく見えてきました。
>> <中略>
>> マルセ説は、
>> ・布留0あたりまでは各地の首長は地元にお墓を作った。
>> ・布留1ぐらいになると、各地の首長も大和東南部にお墓を作った。
>> ・350年頃になると、各地の首長はヤマトの首長とケンカして再び地元にお墓を作るようになった。
>> という事ですね。
>> <中略>
>> ここの『3世紀』は3世紀ではなく、3世紀末から、主に4世紀前半という事になりますね。
>> 3世紀だとばかり思っておりましたので、ずいぶん見当違いのことを書いてしまいました。

#そのとおりなんです。不注意な文章を書いてしまい申し訳ありませんでした。なんとお詫びしてよいものやら。

>> さて、この問題ですが、確かに九州だけを見ると布留0あたりに古墳が出現し、
>> その後空白があって四世紀後半に再び古墳が出現するようにみえます。しかし、
>> 四世紀後半に古墳が出現するのは何も九州に限ったことではなく、各地で見ら
>> れることです。

#確かに、播磨、丹後、伊賀、それと関東以北は四世紀後半からという感じですね。しかし、吉備や出雲あたりは、それ以前の首長墓に引き続いて古墳が作られたように見えます。東海などの中部地方は前方後方墳がまずつくられて、四世紀後半になって前方後円墳に変わったみたいです。
 日本全国を見渡すと、そのとおりのところもあるし、そうでないところもあるという感じですね。

>> 九州が特異なのは、むしろ布留0あたりで、前にも後ろにもつながらない古墳
>> が出現するということじゃないでしょうか。

#そうですね。そういう見方には気が付きませんでした。確かに、九州島内の各地で一斉に、一度、古墳が作られて、その後、作られなくなったようにも見えます。
 この解釈として、「三世紀末ごろ一時期、奈良盆地あたりが政情不安になっていた」なんてのは、どうでしょう。この一時的に古墳が九州にできたことについては、どう解釈するのか寺沢氏にも伺ってみたいところです。

>> >> #なるほど!とすると、253ページの寺沢画伯の絵は全くデタラメってことになりますね。
>> 全くデタラメとは言いませんが、大溝と箸中山が共存しているのはおかしいです。
>> >>  作られて50年もしないうちに埋没してしまったとすると、この水路って
>> >> 何だったんでしょうか。
>> 私は、新都(穏当には新集落)建設のための水路であったと考えています。
>> 集落の機能がほぼ完備された段階でお役御免になったのではないでしょうか。

#木材運搬のためでしょうか。ところで、後に、藤原京や平城京をつくったときには、このような水路は作られたんでしょうか。もし、そういった例があれは、新都建設のためという可能性も十分ありますね。


81

Re: 纏向水路

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [2月14日(水)21時56分22秒]

元の発言 [ Re: 纏向水路 ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 2月14日(水)19時08分41秒 ]

イリヒコさん、ピクポポデミさん、こんばんは
#まだまだ謎は多いですネ。
#有難うございました。

#弥生環濠の大部分は空堀で、はたして(対戦)防御のためだったかどうかははっきりしません。
#少なくとも、昨年に福岡県小郡市で調査されたものは戦争のためのものではありませんでした。
#纏向の大溝については、やはり防御ラインではないと思います。
#纏向が意図的に作られた拠点であったとすると、周りに敵対勢力は無かったでしょう。
#まあ、九州の大部分の環濠集落は後期になって奥津城になっているものが多い事から推測すると、
#纏向でも古墳が造られ始めた頃に大溝が廃されたと言うことは何かを示唆しているのかも。


82

Re: 奴國と狗奴國(承前)

投稿者[ マルセ ] 発言日時 [2月14日(水)21時58分44秒]

元の発言 [ Re: 奴國と狗奴國(承前) ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 2月13日(火)00時35分45秒 ]

koujiさん、こんばんは

>>  里程部分の地理記述が東観漢記にあったとしても、それは地理志のようなところであったでしょう。一方の極南界は光武帝紀です。

#なるほど、書いてある場所が違った可能性があるということですね。

>>  まず、邪馬臺国までの日程情報が魏に齎され、里程記事に日程部分が付加されます。例えば、正始元年に建忠校尉梯儁等が倭国を訪問したときの復命書などによってです。
>>  <中略>
>>  このような状況のところに、さらに、奴国の南に狗奴国があって女王に属していないという情報が入ってきた時、この奴国と、伊都国に隣接する奴国が別の国であり、狗奴国に隣接する奴国こそが光武帝から金印を貰った国であると判断されるのも、不思議ではないと思います。

#koujiさんの仰ることも、なんとなく、わからないではないのですが。やっぱり、ど〜考えても、苦しい解釈のような気がします。
 倭國に関する記事の中で、たとえ別の場所に書かれていたとしても、奴國という国名が二回出てくれば、第一感として読んだ人は二つを同じ国と感じると思います。よほど確信がない限り、二つを違う国として扱うことはないんじゃないのかなと思いますが。

**************************************
>>  「人口の面で邪馬壹國九州説は成立しない」と言っているわけではありません。マルセさんもおっしゃっている通り、「筑後川流域だけでは7万戸は、確かに無理」ではないかと申し上げただけです。つまり、「人口の面で邪馬壹國」北部「九州説は成立しない」のではないかということです。

#邪馬壹國の範囲を筑後川流域よりもう少し広くとればいいんじゃないでしょうか。組み合わせはいくらでもあるんですが、例えば、筑後川流域+(肥前−末盧國)くらいでも入りそうな感じです。

>>  マルセさんの人口推計については、なるほど、と思わないでもないのですが、現実的にはどうでしょうか。例えば、伊都国の戸数は、千余戸しかありません。伊都国は概ね前原市・糸島郡と重なると考えられます。奴国は、伊都国に比べて極端に人口密度が高かったのでしょうか。

#伊都國の範囲を「怡土郡だけで志摩郡は含まなかった」と見れば、それほど人口密度が違わなかったと思います。
前原市と二丈町のマルセの手法による推定農家戸数の合計は3063戸(さらに志摩町を入れると4391戸)ですので、その半分は1532戸です。怡土郡の範囲は福岡市の周船寺も含みますので、これよりもう少し戸数は多くなりそうですけれど。
 怡土郡と志摩郡は、離れたりくっついたりして、よくわからないのですが、それぞれ伊覩県主と嶋県主の領域だったこともあるわけですから、この二つは、もともと別の地域だった可能性もあると思います。まあ、怡土郡と志摩郡を合わせていたとしても、二千余戸くらいですので、誤差の範囲かもしれません。

>>  さらに、對馬・一支の二島は、魏志倭人伝にも良田が乏しく、食料生産量に比べて人口が過剰であったと記されています。したがって、当時既に両島の人口は飽和状態にあったと考えられ、極端に人口増加率が低かったことが考えられます。
>> <中略>
>>  極めて大雑把ですが、こうして見ると、筑前・筑後・肥前の領域と、末盧・伊都・奴・不彌の領域は、概ね重なるのではないでしょうか。

#常に全国一律で人口が増大していくわけではありませんので、koujiさんとマルセの考えの差は、推計の誤差の範囲なんじゃないでしょうか。
 「歴史人口学の世界」(速水融著、岩波書店、1997)という本(内容は江戸時代が中心)を最近読みましたが、この本には江戸時代の人口は全国レベルでは常に一定(2600万人+−5%)だが、国ごとの人口は、飢饉などによって大きく変動していることが書かれています。飢饉が起こると国レベルですと20%くらい人口が減ったりするのですが、全国が飢饉というわけでないので、増えるところと減るところがあって、常に全国では人口が変わらないという感じです。
 また、農地開発も全国一律で進むというわけではないでしょう。これについては、弥生時代のころは、九州の方が近畿より先に進んだ可能性はあると思いますが。
 こういったことがあるので、人口から古代の国の範囲を考える場合、例えば奴國なら、範囲を最も狭く見れば「福岡平野のみ」、広く見れば「福岡県くらい」といった感じで、あまり正確なことは言えないと思います。

 というわけで、「『奴國と狗奴國が接していて、間に國がなかった』かどうかは、人口の面からはなんとも言えない」というのがマルセの結論です。人口以外の理由を探されることをお勧めします。


83

Re: 大和の征伐空白域

投稿者[ マルセ ] 発言日時 [2月14日(水)22時31分00秒]

元の発言 [ 大和の征伐空白域 ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 2月13日(火)20時03分17秒 ]

ピクポポデミさん  こんばんは

>> 吉備はもしかしたら本家意識が強すぎて、王権内で孤立し征伐されたのかもしれません。
>> そうでなければ吉備は記紀のなかでも、王権の発祥の地としてもっと意識されたかもしれません。
>> 記紀の中の吉備は、反乱をよくおこす有力な外様のような扱いですから。

#やはり、反論というわけではありませんが。
 ヤマトの王権の始まりの頃には、大王の他の豪族に対する優位性というのは、はっきりしたものじゃなくて、両者の差は小さかったんじゃないでしょうか。
 だから、大王と豪族たちの関係は、今の国際社会における国と国の関係のように、そのときによって、親密になったり、疎遠になったり、服属したり、離反したり、ときには、まとまって反撥したりとかで、一本調子で大王の王権が進展したわけではなかったのでしょう。「かなり、はっきり差がついたのは、4世紀終末か5世紀になってから」とかじゃないのかなと。
 そんな気がします。


84

Re: 奴國と狗奴國(承前)

投稿者[ マルセ ] 発言日時 [2月14日(水)22時44分06秒]

元の発言 [ Re: 奴國と狗奴國(承前) ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 2月13日(火)20時44分54秒 ]

オヤジッチさん こんばんは


>> #筑後川流域と菊池との間には、矢部川流域があります。

#おしい!「ヤノ川」とか「ヤナ川」とかだったら、良かったんですけど。
 ところで、「八女」と矢部川の「矢部」って、もとは、同じなんでしょうか。地図を見ていて、ふと思いました。



85

Re: 東海地方との関係

投稿者[ 沙庭恭一 ] 発言日時 [2月15日(木)00時08分43秒]

元の発言 [ 東海地方との関係 ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 2月14日(水)21時54分32秒 ]

マルセさん、こんばんは。

>> #これは、4世紀末以降の話ですね。もうヤマトの全国制覇が終わった以降のことですよね。この時期なら従属でよろしいんじゃないでしょうか。
>>  友好的だったと私が思うのは、古墳が築造されはじめた頃、3世紀中の話です。

○素朴な質問ですが、箸墓の工事開始の時期はどれぐらいの時期で工期までどれぐらいの人数を要したとお考えですか?

 
>>  それと、国内での戦闘って、かなり遅くなるまで、農繁期を避けていたと思いましたが。食糧生産がまず最優先というか。特に、この頃は米の生産性も低かったでしょうし。この辺のことから、「古墳は冬にのみ作っていた」というのは、ほぼ確信しています。


>> >> ○ちょっとわからいのでお尋ねしますが、従属ではないとの理由は?逆に友好の理由は?

>> #あんまりはっきりとした理由はないです。単純に言ってしまうと「4世紀後半になるまで、東海以東は古墳の形が違うから」ってところです。だから、「従属」じゃないんじゃないかなと。従属したのは4世紀半ば以降と思います。

○それは?千葉県の神門5号墳の評価は?

>> で、土器がたくさん見つかったり、記紀による尾張からお嫁さんをもらったりしているということは、「敵対」もしていないのだろうから、残るは「友好」という感じです。寄り添うほど親密ではないけれど、まあまあ親しいという感じでしょうか。

○尾張氏は必ずしも、この当時、尾張で勢力を誇っていた根拠はありません。
はっきりしてくるのは文献上、景行天皇から、考古学上は
5世紀後半から、です。

因みに研究史的なことを言えば、尾張氏がどこの出身かは、現在論議が交わされているところです。
妥当な線は、5世紀後半には熱田神宮に本拠地を構え、尾張を押さえていた。

>> #するどい!考えていませんでした。

>> #働けば毎日食糧を支給してもらえる、ということが対価だったと思います。
>>  稲作が始まって何百年も経ちますから、もうこの頃になると、農地は個人所有だったと思います。そうであれば、裕福な家と貧しい家があったでしょう。確か、住居跡って大きいのと小さいのといろいろなサイズのが混在していたと思ったのですが。
>>  であれば、貧しい家の場合、冬の間、食べ物にありつけるというか、人べらしができるということだけでも、作業員募集に応じる価値があったと思います。

○仕事が総務人事ですから。どうしても求人広告(B-ING、とらばーゆ)が頭から離れないので。。。
 ついでに言えば、労働条件の明示もついつい考えてしまいます。

○でも対価だけでそれだけなら、人件費・コストが無茶苦茶かかるような気がするのですが?それどこから捻出するのですか?
 現在の企業であるならば、ライン部門・スタッフ部門がいて、収益が見合うような企業形態をします。ところが古墳ははっきり言って、首長の自己顕示で、今の企業論理から言えば、無駄です。企業論理から言って、どのようなメリットまたは役割があるのですか?
 マルクス・エンゲルス的論理でいけば、こういったことは共同体の中の生産性余剰物によってはじめて営むことが可能です。(ちょっと厳しく、赤っぽかったら、ごめんなさい。)
 私はやはりギブ・アンド・テイクでヤマト政権がイニシアティブを取った、初期専制国家があったと考えるこそが自然のような気がします。

○仮にヤマトの税金でまかなったとしたら、ヤマトの勢力圏はどこまででしょう?

>> #倭國内(九州〜畿内の地域)の首長間での流行と考えています。ついでに、纏向周辺に作ることも流行というかステータスだったというか。

○各地の首長のアイデンティティはどうなるのですか?

○纏向石塚型前方後円墳の拡散をどうとらえるのか?

○ヤマトにある前方後方墳はどうかんがえるのでしょうか?


86

Re: 大和の征伐空白域(割り込みで失礼)

投稿者[ 沙庭恭一 ] 発言日時 [2月15日(木)02時09分41秒]

元の発言 [ Re: 大和の征伐空白域(割り込みで失礼) ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 2月14日(水)10時30分18秒 ]

こんばんは、

>> オオヒコについては、今私は
>> イワレヒコ=オオヒコ=桜井茶臼山古墳の主
>> タケヌナカワミミ=タケヌナカワワケ=ヤマトタケル=メスリ山古墳の主
>> というトンデモ説を練っています。

塚口義信氏がすでに書いており、若干、ニュアンスが異なりますが、オオヒコの墓が桜井茶臼山古墳で、タケヌナカワワケの墓がメスリ山古墳です。いずれも阿部氏に関係してくる人物と考えられます。

>> 丹波は独自の王がいて、大和はそこと結んだり、戦ったりして、最終的には圧伏したと思っています。
>> 出雲、丹波、越、東の方十二国、熊襲、中南部九州一帯、蝦夷などが制圧対象になっていますね。
>> あと山城、吉備、佐波か。

○なぜ、丹波でしょう?

>> 近江や美濃、尾張はどうしたんでしょうかね。
>> 伊勢湾西岸は纏向形成勢力の一部と言うのが私の考えです。
>> 瀬戸内もあたり一面ではなくて、有力な海上勢力が点点と従っていたのかも知れませんね。

○恐らくは既にヤマト政権下にあったみるべきでは。




87

Re: 大和の征伐空白域(割り込みで失礼)

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [2月15日(木)15時46分25秒]

元の発言 [ Re: 大和の征伐空白域(割り込みで失礼) ] お名前 [ 沙庭恭一 ] 日付 [ 2月15日(木)02時09分41秒 ]

>> 塚口義信氏がすでに書いており、若干、ニュアンスが異なりますが、オオヒコの墓が桜井茶臼山古墳で、タケヌナカワワケの墓がメスリ山古墳です。いずれも阿部氏に関係してくる人物と考えられます。

”桜井茶臼山古墳、メスリ山古墳の被葬者について”(日本書紀研究 21)ですか。
私がこう考える元になった本が、"古代「おおやまと」を探る"と言う本で、その中に参考文献として載っていました。
ただ一般書籍でみつけることが難しく、"ヤマト王権の謎をとく"に書いてあるかどうか、注文すべきかどうかで迷っています。
イワレヒコ=オオヒコとまで書いてあれば買うんですが・・・
いずれにせよメスリ山の周囲には後の大伴氏関連の墳墓が多くあるそうで、そう不自然でもないかなと思っています。
なにかよい一般書籍はないでしょうか・・・

>> ○なぜ、丹波でしょう?

丹波は前方後円墳でも、前方後方墳でも、四隅突出でもない独自の墳墓文化を持っていて、赤坂今井墳丘墓などをみればかなりの勢力と思います。(弥生後期ですが)
前期古墳時代でも、丹波から近江に抜ける日本海ルートを制する、強力な勢力があったのでは?
よくある話ですが、大和王権には日本海ルートと瀬戸内ルートによったニ系統があって、崇神は瀬戸内系と考えるのはどうですか?

>> >> 近江や美濃、尾張はどうしたんでしょうかね。
>> >> 伊勢湾西岸は纏向形成勢力の一部と言うのが私の考えです。
>> >> 瀬戸内もあたり一面ではなくて、有力な海上勢力が点点と従っていたのかも知れませんね。

>> ○恐らくは既にヤマト政権下にあったみるべきでは。

伊勢風土記逸文には、天日別命に追われて土着神伊勢津彦命が東に去るとき「吾今夜を以て八風を起し海水を吹き波浪に乗して・・・」(総国伊勢風土記)等とあるようですが、なにかごぞんじですか?


88

Re: 纏向水路

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [2月15日(木)17時30分20秒]

元の発言 [ Re: 纏向水路 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 2月14日(水)21時56分22秒 ]

>> #弥生環濠の大部分は空堀で、はたして(対戦)防御のためだったかどうかははっきりしません。
>> #少なくとも、昨年に福岡県小郡市で調査されたものは戦争のためのものではありませんでした。
>> #纏向の大溝については、やはり防御ラインではないと思います。

ちゃんと地図をみてみたら、やっぱり防御とは思えませんね。

>> #纏向が意図的に作られた拠点であったとすると、周りに敵対勢力は無かったでしょう。
>> #まあ、九州の大部分の環濠集落は後期になって奥津城になっているものが多い事から推測すると、
>> #纏向でも古墳が造られ始めた頃に大溝が廃されたと言うことは何かを示唆しているのかも。

北溝と南溝の交わる部分と南溝の終わりに古墳があります。
古墳造営のためでないとしても、大溝と古墳の立地には関係がありそうですね。

北溝が巻向川の水を利用して、大和川からの物流を図ったとしたら何を運んだんでしょうか・・・
唐子鍵を解体して運んだとか・・・
引き舟の模型が沢山出てるそうですね。


89

Re: 後の都をつくったときも水路はつくったのでしょうか

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [2月15日(木)17時42分37秒]

元の発言 [ 後の都をつくったときも水路はつくったのでしょうか ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 2月14日(水)21時56分43秒 ]

>> #そうですね。そういう見方には気が付きませんでした。確かに、九州島内の各地で一斉に、一度、古墳が作られて、その後、作られなくなったようにも見えます。
>>  この解釈として、「三世紀末ごろ一時期、奈良盆地あたりが政情不安になっていた」なんてのは、どうでしょう。この一時的に古墳が九州にできたことについては、どう解釈するのか寺沢氏にも伺ってみたいところです。

最近"古代「おおやまと」を探る"を読みました。
この中で、布留1以後王権の再編成があったと言う説が書いてあります。
箸中山などの墳墓集団が、オオヤマトとイワレの集団にわかれ、その桜井茶臼山の主が再編の仕掛け人と言うことです。

私は広域倭王権と在地王権の交代を想像してトンデモ説を練っています。


9

Re: 弥生人と日本語の形成に関する仮説

投稿者[ 游惟 ] 発言日時 [2月5日(月)22時36分09秒]

元の発言 [ Re: 弥生人と日本語の形成に関する仮説 ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 2月5日(月)21時26分06秒 ]

早速のご意見、ありがとうございます。
ただ、フォッサマグナというのは余談として言っただけで(笑)、それと関係あるかどうかはわかりませんが、糸魚川−浜名湖ラインの方言境界線というのは方言学の定説でして、私が言い出したことではありません。

また、鹿児島弁は九州方言の中でも特異な方言らしいですが、それも熊襲・隼人が弥生人化されるのがおくれたことが原因じゃないかと思います。

それから、名古屋弁にはアイヌ語ではないかと思われるものが残っているそうですが、あのあたりには663年の白村江の戦いの後に日本に亡命してきた百済帰化人が多数配置されたらしいので、アイヌ語ではなく朝鮮語起源の言葉が残っている可能性があります。それも一語一語検討してみなければなりませんので、どんな言葉か教えていただけませんか?

なお、この白村江帰化人に関連しますが、私は独自の「上代特殊仮名遣い朝鮮帰化人記述説」を論文にして、日本中の国語学者を相手に喧嘩を売っているところです。


90

Re: 大和の征伐空白域

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [2月15日(木)17時51分31秒]

元の発言 [ Re: 大和の征伐空白域 ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 2月14日(水)22時31分00秒 ]

>> ピクポポデミさん  こんばんは
こんばんは

>> #やはり、反論というわけではありませんが。
>>  ヤマトの王権の始まりの頃には、大王の他の豪族に対する優位性というのは、はっきりしたものじゃなくて、両者の差は小さかったんじゃないでしょうか。
>>  だから、大王と豪族たちの関係は、今の国際社会における国と国の関係のように、そのときによって、親密になったり、疎遠になったり、服属したり、離反したり、ときには、まとまって反撥したりとかで、一本調子で大王の王権が進展したわけではなかったのでしょう。「かなり、はっきり差がついたのは、4世紀終末か5世紀になってから」とかじゃないのかなと。
>>  そんな気がします。

各豪族の内情に首を突っ込んでかき回すようなことをし始めるのは、やはり応神以降、朝鮮半島に進出してからかもしれません。
けれど統一政権という観念はあったと思います。


91

Re: 吉備の位置付け

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [2月15日(木)18時04分30秒]

元の発言 [ Re: 吉備の位置付け ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 2月14日(水)18時59分34秒 ]

>> ピクポポデミ、こんばんは。

こんばんは。

>> >あまり専門的な報告書は読んでいないので、このあたりは分かりません。

>> そうですか。それは残念。
>> あと、纏向以外の畿内ではどうなのかも知りたいですね。

纏向ほどの出土量があって、各時代ごとに土器の割合を出せるケースは例外かも知れませんね。
えーーと、大和氏の本に河内の方形周溝墓の土器分析の話が出てましたが、時代はさかのぼるかも知れませんが、吉備の祭祀土器はかなり広範囲で重要視されていたようですね。
出雲にも唐子鍵にも出ているし、すごい影響力。

>> >この時期と言うのがちょうど現在の年代観で魏誌に出てくる時代と言うのがおもしろいですね。
>> >そこで投馬国、出雲説と言うのがかんできて・・・

>> そうなんですよ。思いっきりトンデモに走ると、卑彌呼と卑彌弓呼が不
>> 和になった時期と私の中ではオーバーラップするんです。
>> だから、私の中では狗奴国がかんできます。

狗奴国、吉備説?
おにりん式南ぐるぐる説?
それとも奴国の南(東)説?
吉備土器と西部瀬戸内の土器が減ったあと、播磨や河内、東海等近場が増えていますね。
北部九州は以前見えない。

>> >そういえば石野さんが何かに、ホケノ山は讃岐、阿波の人物の墓と書いてましたが・・・

>> そうですね。最近表に出ていることだけから判断すると、3世紀の段階
>> では吉備よりも東部瀬戸内との関係の方が深いようにみえますね。
>> 実際のところはどうなんでしょうか。

一番多い東海系なんですが、弥生後期から奈良盆地東南部には多いようですが、東海土器の動きについて何かご存知ですか?
赤塚氏は庄内土器形成に東海土器の影響があるようなことを書いていますが。

>> >吉備は実際に制圧されて、土器職人が連れてこられたか・・・

>> 最近は、大和の特殊器台は大和で製作され発達したものだともいわれてますね。
>> これが今後認められて定着するかどうか、気になります。



92

Re: 奴國と狗奴國(承前)

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [2月15日(木)21時25分22秒]

元の発言 [ Re: 奴國と狗奴國(承前) ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 2月14日(水)22時44分06秒 ]

マルセさん こんばんは

>> >> #筑後川流域と菊池との間には、矢部川流域があります。
>> #おしい!「ヤノ川」とか「ヤナ川」とかだったら、良かったんですけど。
#“柳川”は有ります。方角が違うけど。(^o^)

>>  ところで、「八女」と矢部川の「矢部」って、もとは、同じなんでしょうか。地図を見ていて、ふと思いました。
#どちらも「邪馬」です。なにせ、元は“山門(郡)”ですから、なんちゃって。m(__)m


93

Re: 纏向水路

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [2月15日(木)21時35分26秒]

元の発言 [ Re: 纏向水路 ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 2月15日(木)17時30分20秒 ]

>> 唐子鍵を解体して運んだとか・・・
>> 引き舟の模型が沢山出てるそうですね。
#これは面白いですネ。
#もっと色々出てくると良いのですが。


94

Re: ちょっと脇道

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [2月15日(木)21時57分17秒]

元の発言 [ Re: 東海地方との関係 ] お名前 [ 沙庭恭一 ] 日付 [ 2月15日(木)00時08分43秒 ]

沙庭恭一さん、マルセさん、こんばんは。

>>  マルクス・エンゲルス的論理でいけば、こういったことは共同体の中の生産性余剰物によってはじめて営むことが可能です。(ちょっと厳しく、赤っぽかったら、ごめんなさい。)
>>  私はやはりギブ・アンド・テイクでヤマト政権がイニシアティブを取った、初期専制国家があったと考えるこそが自然のような気がします。
>> ○仮にヤマトの税金でまかなったとしたら、ヤマトの勢力圏はどこまででしょう?
>> >> #倭國内(九州〜畿内の地域)の首長間での流行と考えています。ついでに、纏向周辺に作ることも流行というかステータスだったというか。
>> ○各地の首長のアイデンティティはどうなるのですか?
>> ○纏向石塚型前方後円墳の拡散をどうとらえるのか?
>> ○ヤマトにある前方後方墳はどうかんがえるのでしょうか?

#後に“土師氏”と呼ばれる「土木技術者クラン」が居たと考えたらどうでしょう。
#元々はムタ(牟田・湿地帯)を耕地に変える灌漑技術を生業にしていたのが、開拓地が開発され尽くしたときにその技術を生かして、各地の首長墓を造るようになった。
#青銅器や土器(須玖式に職人集団がいた)の同じようなもの。
#違うのは、ものではなく技術を売っていた。
#いずれにしても、巨大古墳はその背景に「生産余剰」が必要ですネ。


95

Re: 吉備の位置付け

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [2月15日(木)21時56分42秒]

元の発言 [ Re: 吉備の位置付け ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 2月15日(木)18時04分30秒 ]

こんばんは

>> 狗奴国、吉備説?

どうです?トンデモでしょう。

>> おにりん式南ぐるぐる説?
>> それとも奴国の南(東)説?

瀬戸内が通れなければ、当然山陰ルートになりますよね。(邪馬台=畿内が前提)
このときに、山の向こうに南回りの航路があって、そっちならずいぶん楽な行
程になるが狗奴国と仲違いしていて通れない、というような形で狗奴国が紹介
されたとすると、倭国の南に狗奴国があるという誤解が生じる可能性がある、
かもしれない、というくらいですね。(山陰ルートは、陸行一月も無理がない)

庄内に入る直前の纏向1の段階では東海についで2位の出土量であった吉備の土
器が、庄内に入ると(割合で)減少し纏向3段階では何番目か分からないくらい
まで減ってしまう。外来性土器全体の割合は増えているにもかかわらず。そし
てこの時期が邪馬台と狗奴国の抗争の時期にあたるっていう一致は、私にとっ
てはかなりインパクトがあります。土器がザクザク出てくる東海よりはましじ
ゃないでしょうか。

ただ、今のままではトンデモなので、もうちょっとなんとかしたいですね。
トンデモのまま消えていくかもしれませんが。

まあ、吉備が狗奴国であれなんであれ、3世紀の吉備と畿内の関係はもうちょ
っときちんと押さえたいと思ってます。なかなか出来ないんですが。

>> 一番多い東海系なんですが、弥生後期から奈良盆地東南部には多いようですが、東海土器の動きについて何か
>> ご存知ですか?

東海の後期の土器は、畿内V様式の影響を受けながら紋様が変化していっ
た形跡があるらしいです。何に書いてあったか、今ちょっと思い出せな
いんですが。東海系の土器は後期の終り頃から庄内にかけて主に東に向
かって動いているようですね。

>> 赤塚氏は庄内土器形成に東海土器の影響があるようなことを書いていますが。

庄内と言っても、器種によってちがいがあり一概には言えないと思いま
すが、これはホケノ山で出た例の加飾壺のことでしょうか?それなら、
そういう話はあるようですね。ただ、公正さんによれば畿内の影響で東
海で作られた可能性もあり議論になっているという話でした。

http://www.netlaputa.ne.jp/~k-salt/bbs0004/bbs/114.html


96

箸墓築造お見積書

投稿者[ マルセ ] 発言日時 [2月15日(木)22時06分26秒]

元の発言 [ Re: 東海地方との関係 ] お名前 [ 沙庭恭一 ] 日付 [ 2月15日(木)00時08分43秒 ]

 沙庭さん こんばんは

>> ○素朴な質問ですが、箸墓の工事開始の時期はどれぐらいの時期で工期までどれぐらいの人数を要したとお考えですか?

#勘違いがあるのかもしれませんが、マルセの知ってるのでは、
大山古墳 墳丘長486m 延べ6,807,000人 15年8か月(大林組試算)
峯ケ塚古墳 墳丘長96m 延べ276,000人 1070日(羽曳野市教育委員会ほか)
というのがあります。これから、箸墓と当時の奈良盆地の古墳の築造に関して、ちょっと見積もりしてみます。

 まず、箸墓ですが、上の例から単純に計算しますと、墳丘長280mですから、延べ240万人くらいでしょう。しかし、箸墓は「盛土については箸墓古墳やホケノ山古墳が墳丘の第一段のテラス付近までを地山の核を利用して盛土をおこなっている」(伊達宗泰編『古代「おおやまと」を探る』、学生社、115p)だそうですので、この半分くらいの延べ120万人で6年というところが適当ではないでしょうか。工期は冬の半年だけだとすると12年かかる計算になります。

 で、ヤマトには3世紀後半からの100年くらいの間に100m級を30基くらい、200m級を6基が作られています。とすると、100年間の延べ作業員数は1600万人になります。1年あたりにすると16万人、つまり、冬の間、常時1000人くらいが古墳築造を行っていたということになります。(うん。纏向の規模から見ると、なかなかいい感じ。)

 それから、奈良盆地の戸数は当時1万戸くらいあったとすれば、10戸に1名でよいわけですから、外からの助っ人はそれほど多く考えなくてもよさそうです。土器の比率で、各地から作業者が来ていたとすれば、尾張から来ていた人は100人くらいなものでしょう。
 さらに、1000人の半年分の米消費は80tくらいでしょうか。80ha分くらいの収穫量にあたりますから、やはり、これは、尾張方面からの食糧の輸入もあったで良いと思います。

>> ○それは?千葉県の神門5号墳の評価は?

#東日本にも前方後円型があるということでしょうか。
 これは、たぶん、千葉県のこの辺りは飛び地というか、西日本からの植民者がいたためではないでしょうか。房総半島の先端には、四国のものとは字が違いますが、「アワ(安房)」の国もありますし。

>> ○でも対価だけでそれだけなら、人件費・コストが無茶苦茶かかるような気がするのですが?それどこから捻出するのですか?
>>  現在の企業であるならば、ライン部門・スタッフ部門がいて、収益が見合うような企業形態をします。ところが古墳ははっきり言って、首長の自己顕示で、今の企業論理から言えば、無駄です。企業論理から言って、どのようなメリットまたは役割があるのですか?
>>  マルクス・エンゲルス的論理でいけば、こういったことは共同体の中の生産性余剰物によってはじめて営むことが可能です。(ちょっと厳しく、赤っぽかったら、ごめんなさい。)
>>  私はやはりギブ・アンド・テイクでヤマト政権がイニシアティブを取った、初期専制国家があったと考えるこそが自然のような気がします。

#古墳を単に「首長の墓」と捉えればそういうことになるのでしょうけれど。たとえば、現在の各地で行われている「祭り」なんてものも、経済的な合理性から考えれば「無駄」ってことになってしまうと思います。
 民衆からみれば、戦争よりはずっとマシっていうのもあるかも。


>> ○仮にヤマトの税金でまかなったとしたら、ヤマトの勢力圏はどこまででしょう?

#上記の試算のとおりなら、奈良盆地より大きいとみれば、なんとかなるんじゃないでしょうか。さすがに奈良盆地より小さいとは、考えないほうが良いと思いますが。当時の冬って、開墾とかそういうことをサボれば、特にやることはなかったのでしょう。

>> ○各地の首長のアイデンティティはどうなるのですか?
>> ○纏向石塚型前方後円墳の拡散をどうとらえるのか?
>> ○ヤマトにある前方後方墳はどうかんがえるのでしょうか?

#古墳の形態は、趣味とか嗜好とかの範疇に入りそうな事柄ですから、なんだかよくわかりません。
 それと、わずかな例外みたいなものから何かを考察しようとするのは、難しいんじゃないでしょうか。飛騨の白川郷の近くにも洋風建物を建ててる人って、いそうですよね。


97

Re: 後の都をつくったときも水路はつくったのでしょうか

投稿者[ マルセ ] 発言日時 [2月15日(木)22時06分36秒]

元の発言 [ Re: 後の都をつくったときも水路はつくったのでしょうか ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 2月15日(木)17時42分37秒 ]

ピクポポデミさん こんばんは

>> 私は広域倭王権と在地王権の交代を想像してトンデモ説を練っています。

#マルセがここで書く自説も、いつも片足ぐらいがトンデモにつっこんでます。両足スッポリではない「つもり」ではあるんですが・・・。
できあがったら、ぜひ、ここの掲示板で発表してください。


98

Re: 後の都をつくったときも水路はつくったのでしょうか

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [2月15日(木)22時16分07秒]

元の発言 [ 後の都をつくったときも水路はつくったのでしょうか ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 2月14日(水)21時56分43秒 ]

こんばんは

>> #そのとおりなんです。不注意な文章を書いてしまい申し訳ありませんでした。なんとお詫びしてよいものやら。

いえいえ、話の筋が読めなかった私も悪かったです。

>>  この解釈として、「三世紀末ごろ一時期、奈良盆地あたりが政情不安になっていた」なんてのは、どうでしょう。この一時

どうでしょう?
布留0期には箸中山古墳は作られるし纏向遺跡は大きくなる。
政情不安になっていたとは思えませんが。

>> #木材運搬のためでしょうか。ところで、後に、藤原京や平城京をつくったときには、このような水路は作られたんでしょう

ここまで時代が下がると私はさっぱりわかりませんが、平城京ぐらい大きくな
ると、わざわざ水路を掘ったとは思えないですね。どうなんでしょう?

纏向も発掘が進んでませんから実は、新しい水路があるなんてこともあ
るかもしれませんが、今の段階で考えると、集落が出来る以前に掘られ
て比較的早い時期に埋没してますから、建設用運河じゃないかなと思っ
てます。そんなにしっかりした理由があるわけでもないので、どうして
も、というわけじゃありません。


99

Re: 大和の征伐空白域(割り込みで失礼)

投稿者[ 沙庭恭一 ] 発言日時 [2月15日(木)22時55分55秒]

元の発言 [ Re: 大和の征伐空白域(割り込みで失礼) ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 2月15日(木)15時46分25秒 ]

こんばんは。

>> ”桜井茶臼山古墳、メスリ山古墳の被葬者について”(日本書紀研究 21)ですか。

○そうです。私は塚口さんから直接お話を聞きました。
私はこの説は非常に面白いと感じました。
この2つの古墳は、いずれも陵墓の指定は外れており、
誰の古墳かを説いた点では支持できるのではないでしょうか?
 塚口さんは人当たりもソフトで、頭の回転もフレキシブルな人なので、私が知っている研究者の中では1番です。

>> 私がこう考える元になった本が、"古代「おおやまと」を探る"と言う本で、その中に参考文献として載っていました。
>> ただ一般書籍でみつけることが難しく、"ヤマト王権の謎をとく"に書いてあるかどうか、注文すべきかどうかで迷っています。

○"ヤマト王権の謎をとく"には入っておりません。
 あるとすれば、近所の大きい図書館あるいは史学科を持っている大学図書館にてコピーを取られたほうが宜しいかと思います。
 因みに本体は、5000円以上するので、この分だけのために買うのはもったいないような気がします。

>> イワレヒコ=オオヒコとまで書いてあれば買うんですが・・・

○さすがにそこまでは書いてないです。

>> いずれにせよメスリ山の周囲には後の大伴氏関連の墳墓が多くあるそうで、そう不自然でもないかなと思っています。

○WHY?阿部氏ではなく、なぜ大伴氏?
 新沢千塚なら、分かりますが。

>> なにかよい一般書籍はないでしょうか・・・

○うーん。私が管見した限りでは良い本はないです。

>> 丹波は前方後円墳でも、前方後方墳でも、四隅突出でもない独自の墳墓文化を持っていて、赤坂今井墳丘墓などをみればかなりの勢力と思います。(弥生後期ですが)
>> 前期古墳時代でも、丹波から近江に抜ける日本海ルートを制する、強力な勢力があったのでは?
>> よくある話ですが、大和王権には日本海ルートと瀬戸内ルートによったニ系統があって、崇神は瀬戸内系と考えるのはどうですか?

○瀬戸内海ルートは、ヤマトからの地理上、納得できます。日本海がヤマト側から重要であったかは分かりません。古代丹波王国があって、ヤマトに戦争・対立を挑んだのか?
 日本書紀上分かりかねます。街道を設置した際、山陽・山陰と呼称があるので、ヤマト側から言えば、日本海側をあまり意識していなかったのではないでしょうか?

>> 伊勢風土記逸文には、天日別命に追われて土着神伊勢津彦命が東に去るとき「吾今夜を以て八風を起し海水を吹き波浪に乗して・・・」(総国伊勢風土記)等とあるようですが、なにかごぞんじですか?

○伊勢津彦命ははっきり言って分からないです。東方へ行ったあとどうなったのか?
 因みに播磨国風土記には、出雲系の神で登場しますが。
私は大学の時、調べましたが、お手上げです。
史料がこれだけしないので。
 ただ素朴な疑問は畿内に出雲系の神がやたら多く、これをどう解釈するか?
 何か良い答えはないですか?