長唄と聞いても?

<長唄の歴史と由来>

 

長唄は17世紀末頃、江戸に生まれた歌舞伎音楽、いわゆる「江戸長唄」として

  発達した、三味線音楽です。歌舞伎芝居や、華やかな舞踊の伴奏音楽として発展

  していきました。その後、幕末になると歌舞伎から離れた純粋な演奏用としての

  「お座敷長唄」が生まれました。この様に多種多様に表現の幅を広げていった音

  楽といえます。

 


長唄の曲風は?

<長唄の音楽的特徴>

   長唄はいわゆる「うたもの」といい、洋楽に例えれば歌曲に近い音楽といえます。

   情景や情趣を美しい旋律にのせて唄い表現されています。

   大まかに分けて長唄には3種別の音楽的作風があります。代表曲を上げますと、

  1. 歌舞伎芝居に伴う楽劇(洋楽でいえばオペラ)としての「勧進帳」
  2. 歌舞伎の所作事、舞踊(洋楽でいえばバレエ)の伴奏音楽としての「藤 娘」
  3. 歌舞伎から離れた独立した音楽として演奏(洋楽でいえば歌曲)するお座敷長唄

「秋の色種」などがあります。


<歌舞伎での効果>

   長唄の歌舞伎での役割として見逃せないのは、「黒御簾(くろみす)下座 音楽」

   です。

   舞台下手(向かって左側)に格子状に御簾がかかっている所があります。その御簾

   の内で芝居に合わせ、唄・三味線を演奏したり、色々な効果音を演奏します。役者

   のセリフに合わせ情感を表現する唄や三味線演奏、お囃子の太鼓で雨・風音を表現

   したり、幽霊の出るドロドロなどの効果音を出したりとBGMの役割もあるのです。

 


長唄の演奏はどうやって?

<長唄の演奏形態>説明文の下に簡略図があります。

    ここでは良く知られている義経・弁慶主従が安宅(あたか)の関を通る「勧進帳」

    を例にあげてみます。長唄三味線が活躍する代表的な演目です。

   「勧進帳」

は能の謡曲「安宅」を元にし、舞台中央の背景に松を描いた松羽目物の

    最初の作品といわれています。その松羽目の前に「長唄囃子連中」(ながうた 

    はやしれんじゅう)として「地方(じかた)」(役者に対し演奏する奏者を

    そう呼ぶ)が並び演奏していきます。

    まず、緋毛氈を掛けた山台を設け、舞台に向かって左に唄、右に三味線と一列に

    並びます。又、この作品には「出囃子」(でばやし)といってお囃子が付き、

    唄・三味線の前(山台前下)に並びます。このような演奏形態を総じて「出囃子」

    と呼びます。「鏡獅子」などの舞踊音楽でもこの形をとります。「出囃子」の場合、

    唄の中央の人を「タテ唄」、三味線の中央の人を「タテ三味線」と呼びます。

    タテとは、その曲をリードしていくコンサートマスターの役割を担っています。

    以下左右対称に「ワキ唄」「ワキ三味」「三枚目」…と順に並び、最後の人は

    「トメ」と呼び、曲をしめる重要な役をもっています。この枚数は作品によって

    異なり、勧進帳では三味線8挺(三味線を舟に例え数える単位)、唄8枚の<8挺

    8枚>の編成になります。お囃子は舞台左から太鼓、小鼓・笛と並び、やはり作品に

    よって笛以外は人数も異なります。勧進帳では大鼓1・小鼓5・笛の編成で総勢

    23人の大合奏で華やかな演奏になります。

 

 


勧進帳の観どころは?

  作曲者:四代目 杵屋 六三郎

   初 演:天保11年(1840)

    河原崎座、三月狂言、七代目市川團十郎が初代市川團十郎190年祭として上演。

    勧進帳は唄が物語を進行させていく、抒情詩の世界です。弁慶の勧進帳読み上げ

    は、あまりにも有名です。判官富樫との問答の緊張感や立ちまわりなど、音楽と

    芝居、舞踊でわかりやすく表現されています。最後の花道での弁慶の「飛び六法」

    は大向こうの声も沢山かかるワクワクする見せ場です。ここでも太鼓と笛が

    「黒御簾」で音楽をつけ盛り上げます。

    又、長唄とは関係がないのですが、舞台上手(向かって右)では「つけ打ち」

    といって役者がミエをきる時、花道へ引っ込む様に合わせる効果音もつきます。

    このつけ打ちの役は大道具さんが担当します。

    歌舞伎舞踊の長唄は、芝居進行・人物の情感表現・舞踊伴奏・効果音と芝居の要

    として作られているといえます。

 


そもそも歌舞伎って?

 <歌舞伎豆知識>

    1603年、京都の四条河原(現南座のある辺り)で出雲のお国が念仏踊りを唱

    えたことが、歌舞伎の始まりとされています。

    歌舞伎の語源は傾く(かぶく)からきているといわれています。戦国時代が去り、

    平和な徳川の時代(まだ鎖国もされていなかった慶長年間)、他国からの輸入品

    もあり、新しいファッションや自由な精神がいきづいていた頃、そういう人物達

    のことを傾いた人達、傾き者と呼ばれ、現代風な・当世風な形容のされかたをして

    いたらしいのです。この傾くという動詞がなまって名詞になり歌舞伎となったそ

    うです。歌(音楽)舞(踊り)伎(技)の三要素の入った、新しい時代の先端を

    担った芸術といえるのでしょうか。