| 歴代太政大臣一覧 |
| 律令制度の官僚最高位にある職。太政官の筆頭長官に当たる。一般に太政官は左大臣、右大臣が長官であったので、天皇を訓導する官僚として位置づけられ、置かれないときもあった。歴代の大臣の内、恵美押勝と道鏡は朝廷の情勢などから例外的なものといえる。摂政関白設置後は形式的なものとなっていき、摂政関白に就かなかったものも就任した。武家からも数人出ている。公家社会で律令が維持されていた江戸幕末まで続き、明治以降は太政官制に基づき太政大臣が改めて置かれた。明治18年、太政官制が廃止されて終止符を打った。 |
| 名 | 在職期間 | 備考 |
| 大友皇子 | 671 | 皇太子時代 |
| 高市皇子 | 690〜696 | 皇太子か |
| 恵美押勝 | 760〜764 | 藤原仲麻呂。太師と号す。 |
| 道鏡 | 765〜766 | 太政大臣禅師。のち法王。 |
| 藤原良房 | 857〜872 | 人臣最初の摂政となる。しかしそれ以前から権力を握っており実質上の摂政だった。 |
| 藤原基経 | 880〜891 | 最初の関白。宇多天皇と対立して政務をボイコット(阿衡事件)した。 |
| 藤原忠平 | 936〜949 | 基経と宇多天皇の対立があったため、逆に宇多天皇からは親任を受けた。故実に詳しかったと言われる。 |
| 藤原実頼 | 967〜970 | |
| 藤原伊尹 | 971〜972 | 右大臣藤原師輔の子。歌人でもある。 |
| 藤原兼通 | 974〜977 | 弟兼家と対立、この対立がやがて道長の台頭につながる。 |
| 藤原頼忠 | 978〜989 | |
| 藤原兼家 | 989〜990 | 兄兼通よりも早く出世したため、のちに巻き返しを受けて長く権力の座につけなかった。その後外戚として出世。権力の地位に就いた。摂政関白を大臣より上の地位に持っていった人物。 |
| 藤原為光 | 991〜992 | |
| 藤原道長 | 1017〜1018 | 兄一族と争い権力の座に就く。内覧の地位に就き関白に並ぶ権勢を得たので、後に「御堂関白」と呼ばれた(御堂は道長の別称)。自らの娘を皇后とし、皇后が2人いる状態となる。帝3代に渡り后を出して外戚として我が世の春を謳歌。摂政は1年ほどで息子に譲ったが権力の座に居続け大殿と呼ばれる。晩年は病弱になり仏教に専心。子孫は藤原摂関家(五摂家)として摂政関白を輩出することになる。 |
| 藤原公季 | 1021〜1029 | 右大臣師輔と醍醐皇女の子で、宮中で育てられた。 |
| 藤原頼通 | 1061〜1062 | 道長の子で、父親の威光を受け、50年にわたり権力の座にあった。 |
| 藤原教通 | 1070〜1071 | 道長の子。兄頼通より譲られ関白となるが、外戚ではなく天皇親政により実権は弱かった。 |
| 藤原信長 | 1080〜1088 | 関白藤原教通の子。藤原師実と関白の座を争った。 |
| 藤原師実 | 1088〜1089 | 関白藤原頼通の子。関白、摂政、関白と繰り返した。 |
| 藤原忠実 | 1112〜1113 | 関白師通の子。内覧、関白、摂政となり、太政大臣。白河院とは対立し関白の地位を追われたが、鳥羽院時代に内覧として復帰した。 |
| 源 雅実 | 1122〜1124 | 村上源氏の出で久我家の祖。 |
| 藤原忠通 | 1128〜1129 | 関白藤原忠実の子で父親の失脚後関白となる。近衛天皇の生母と手を組み、鳥羽院派で政界に復帰した父忠実や弟頼長と地位を巡って対立した。しかし近衛天皇が没すると弟共々鳥羽院から忌避されるようになり、崇徳院と結び保元の乱を引き起こしたが敗北、没落する。のち復帰したが子に譲り引退した。 |
| 藤原忠通 | 1149〜1150 | |
| 藤原実行 | 1150〜1157 | 三条家の祖。 |
| 藤原宗輔 | 1157〜1160 | |
| 藤原伊通 | 1160〜1165 | 参議の時に自分より下位にいた藤原長実に官位を追い抜かれ恥じて辞職を申し出、認可も受けずに家に引き籠もったため、免官となる。その後崇徳天皇に寵を得て出世。藤原信頼が行った平治の乱の論功行賞を見て、人を殺した数で位を得るのならば人が多く死んだ井戸にも位を与えよ、と批判した。 |
| 平 清盛 | 1167 | 桓武平氏の出。保元・平治の乱で勝利し、武家の棟梁となる。武家で初めて公卿に列せられ、さらに太政大臣まで昇った。まもなく辞任したが、天皇の外戚となって権力の座にあった。当初後白河院とは良い関係にあったが、摂関家の領地を併呑するなど貴族への影響が強くなると、対立するようになる。鹿ヶ谷事件を経て、情勢は最悪となり、京都を軍事占領すると反平氏貴族をことごとく追放。東国で源氏が蜂起すると、福原に遷都し、対立関係のあった大和の大寺院を焼き払った。このため、大規模な平氏打倒勢力が生まれる。東国で反乱が相次ぐ中、熱病にかかり没した。 |
| 藤原忠雅 | 1168〜1170 | |
| 藤原基房 | 1170〜1171 | 平氏と対立し平清盛によって備前に配流された。 |
| 藤原師長 | 1177〜1179 | 権中納言の時に保元の乱が起こり、連座して土佐に流される。その後政界に復帰し太政大臣にまで昇るが、平清盛が起こした政変に巻き込まれ、尾張国に流された。出家しまもなく帰京。音楽家として知られる。 |
| 九条兼実 | 1189〜1190 | 藤原忠通の子。異母兄弟は近衛家を興し、また慈円は実弟にあたる。九条の地を与えられ子孫は九条家を名乗る。同族や後白河院、平氏、源氏を巻き込んだ権力争いに乗らず、最後に残った源頼朝と手を組む。甥に代わり摂政の地位に就いた。後白河法皇の死後関白になるが、天皇の外戚源通親の手で失脚に追い込まれた。以降仏教信仰に専念する。当代随一の教養人。 |
| 藤原兼房 | 1191〜1196 | |
| 大炊御門頼実 | 1199〜1204 | 娘を土御門天皇に嫁がせ権力の座に就く。 |
| 九条良経 | 1204〜1205 | 九条兼実の子で、親の代から政敵だった源通親が権力の座にあるときは出世できずにいたが、その死後権力の座に就く。しかしまもなく睡眠中に急死した。暗殺されたという説もある。 |
| 大炊御門頼実 | 1208〜1209 | |
| 三条公房 | 1218〜1221 | |
| 近衛家実 | 1221〜1222 | 後鳥羽院、後高倉院で摂政・関白となるが実権は院にあった。後高倉院の没で朝廷内の実権を握ったが、実質権力は幕府に移っていた。屋敷地名から「猪隈関白」と呼ばれる。 |
| 西園寺公経 | 1222〜1223 | 源頼朝と姻戚関係を結び、承久の乱を幕府に通報して太政大臣となる。 |
| 九条良平 | 1238〜1239 | |
| 近衛兼経 | 1240〜1241 | 近衛家実の子。舅の九条道家から摂政の地位を譲られた。その後も、後嵯峨天皇の代に関白、後深草天皇の代に摂政。有職故実家。「岡屋関白」と呼ばれる。 |
| 西園寺実氏 | 1246 | 承久の乱の際に幕府に近いとして拘束された。太政大臣と共に関東申次の職にあった。 |
| 久我通光 | 1246〜1248 | 後鳥羽院政下で出世したが、承久の乱後引退し、20年もの間無官で過ごした。しかし後嵯峨上皇が院政を開くと幕府の支援もあって大抜擢され、太政大臣となる。 |
| 鷹司兼平 | 1252〜1253 | 関白近衛家実の子で鷹司家の祖。書家。 |
| 徳大寺実基 | 1253〜1254 | 右近衛大将、内大臣を歴任。 |
| 西園寺公相 | 1261〜1262 | |
| 花山院通雅 | 1275〜1276 | |
| 鷹司兼平 | 1276〜1277 | |
| 鷹司基忠 | 1285〜1287 | |
| 堀川基具 | 1289〜1290 | |
| 西園寺実兼 | 1291〜1292 | 最初持明院統と結び、次に大覚寺と結んで皇統分裂を促した。後醍醐天皇即位に尽力。 |
| 洞院公守 | 1299 | 山科実雄の子。出家して洞院と号した。 |
| 二条兼基 | 1299〜1300 | 関白二条良実の子。天皇元服後、太政大臣を辞して関白となった。 |
| 土御門定実 | 1301〜1302 | |
| 徳大寺公孝 | 1302〜1304 | |
| 一条実家 | 1306〜1309 | |
| 大炊御門信嗣 | 1309〜1310 | 内大臣大炊御門冬忠の子。太政大臣は1年ほどで辞職し、まもなく出家した。 |
| 鷹司冬平 | 1310〜1311 | 関白鷹司基忠の子で、自らも3度にわたり関白となった。 |
| 三条実重 | 1318〜1319 | 左大臣三条公親の子。太政大臣は1年少しで辞任し出家。 |
| 久我通雄 | 1319〜1323 | 内大臣久我通基の子。父や子と対立した。 |
| 鷹司冬平 | 1323〜1327 | |
| 今出川兼季 | 1332〜1333 | 太政大臣西園寺実兼の子。今出川家の祖。 |
| 久我長通 | 1340〜1342 | 太政大臣久我通雄の子。建武政権、北朝政権で朝廷権力の座に就き、太政大臣。南朝方からも注目された人物。 |
| 洞院公賢 | 1348〜1350 | 北朝で太政大臣になるが、南朝方が京都を占領したときも太政大臣に任ぜられたと言われる。日記「園太暦」の著者。 |
| 久我通相 | 1366〜1368 | 源氏の氏長者で、南朝方からは中納言に任ぜられた。 |
| 二条良基 | 1381〜1387 | 関白二条道平の子。北朝歴代の天皇に仕え、摂政・関白を勤める。二条流の歌人でもある。 |
| 徳大寺実時 | 1394 | 内大臣徳大寺公清の子。 |
| 足利義満 | 1394〜1395 | 幕府3代将軍。11歳で将軍となるが、当初は管領が政治を見た。成長後、室町に樹木で飾った御所を築き、貴族から納税権を奪い、守護勢力を討伐して権力基盤を築いた。朝鮮・中国と貿易を行い、南朝に呼びかけて両朝合一を果たし、将軍職を子に譲った後は、朝廷に接近した。自ら文芸をたしなみ、また大いに支援した。 |
| 久我具通 | 1395〜1396 | 太政大臣久我通相の子。 |
| 三条実冬 | 1402〜1407 | 内大臣三条公忠の子。 |
| 徳大寺公俊 | 1420 | 太政大臣徳大寺実時の子。 |
| 二条持基 | 1432〜1433 | 関白二条師嗣の子。関白・摂政を歴任。歌人として知られる。 |
| 一条兼良 | 1446〜1450 | 学者公卿として知られ、多くの書物を執筆、様々な文芸の会に出席した。しかし膨大な書籍を収めた桃華坊文庫は応仁の乱で焼失。自邸も失ったため奈良に疎開した。その後生活費用の確保に苦慮し、各地の大名を訪れて講義を行い収入を得たという。 |
| 久我清通 | 1452〜1453 | |
| 西園寺公名 | 1455〜1457 | |
| 二条持通 | 1458〜1460 | 関白二条持基の子。三度関白となる。 |
| 近衛房嗣 | 1461〜1463 | 関白の時、太政大臣一条兼良が関白を望んだため辞職し、その後太政大臣に就いた。 |
| 久我通博 | 1481〜1482 | 太政大臣久我清通の子。 |
| 鷹司政平 | 1485 | 関白鷹司房平の子。関白。 |
| 近衛政家 | 1488〜1490 | 自筆日記「後法興院記」が現存している。 |
| 一条冬良 | 1493〜1497 | |
| 徳大寺実淳 | 1509〜1511 | 左大臣徳大寺公有の子。89歳まで生きた。 |
| 近衛尚通 | 1514〜1516 | 近衛政家の子。書家。 |
| 花山院政長 | 1518〜1521 | 内大臣花山院持忠の子。花山院15代当主。 |
| 三条実香 | 1535〜1536 | 右大臣三条公敦の子。 |
| 近衛稙家 | 1537〜1542 | |
| 近衛前久 | 1582 | 前左大臣。足利家と姻戚関係にあり、一時期上杉謙信の元へ下向して共に戦った。その後、薩摩に下っていたこともあり、島津家とは親しかった。織田政権下で各勢力との和睦斡旋を行う。豊臣秀吉とは不仲で、さらに子息とも対立し、晩年は不遇だった。有職故実家で地方へ京文化を広めた。 |
| 豊臣秀吉 | 1586〜1598 | 織田信長の将として頭角を現し、信長横死の後、対抗勢力を滅ぼして権力の座に就いた。関白の座に就き、さらに豊臣姓を与えられ、太政大臣となった。全国を統一し諸制度を改革したが、晩年、大陸侵攻を企てた上、後継問題から内紛を起こし、豊臣家は短期で衰退する結果となった。 |
| 近衛基煕 | 1709 | 徳川将軍や新井白石と親しかった。 |
| 近衛家煕 | 1710〜1711 | 関白。文芸、茶の湯を愛好した人物。 |
| 近衛家久 | 1733 | |
| 一条兼香 | 1746〜1751 | 関白鷹司房輔の子で関白一条兼輝の養子。朝廷神事の再興に尽力。 |
| 近衛内前 | 1768〜1770 | |
| 近衛内前 | 1771〜1778 | |
| 九条尚実 | 1780〜1781 | |
| 鷹司政通 | 1842〜1848 | 父の代から幕府との関係は良好で、条約問題で調印支持派だったが、若手公家ら165人の反発を買い、自邸に押し掛けられて条約反対の立場に鞍替えした。そのため後に幕府の圧力を受け落飾した。太閤の称号を認められる。 |
| 三条実美 | 1871〜1885 | 三条実万の第4子で、尊王攘夷派公卿。攘夷実行督促の使者として江戸へ下る。しかし8月18日の変で失脚、官位を剥奪され太宰府に落ちた。その後討幕派が勢力を持ち返すと慶応3年に政界復帰。維新後は政府の要職を歴任。改めて設置された太政官制で太政大臣となる。太政官制は内閣制度の設置により廃止となったが、引き続き内大臣として権力の座にあり、総理には列せられてないが内閣総理大臣を兼任した。 |