![]() |
左の系図の子供の順番は、右より長幼の順になってます。 袁紹は、袁逢の庶子で袁術の異母兄にあたり、袁成の養子となったと言うが、『英雄記』では袁成の実子のような記述になっている。 袁紹の子供のうち、袁譚が長男、袁煕が次男と言うことははっきりわかっているが、袁紹の跡を継いだ袁尚は袁譚・袁煕より下の子と言うことで、何番目かははっきりしない。ただ年齢や他のことから見ると3番目に思える。 袁紹は、 を滅ぼしたあと、袁譚を青州に置いたが、その際に沮授に災いの元だと諫められると、「私は4人の子供にそれぞれ1州を支配させたいのだ」と答えたという。この4人は袁譚・袁煕・袁尚と甥の高幹を指すものか。袁尚の下に袁買という弟がいるが、『曹瞞伝』には、袁買は、袁尚の兄の子とある。袁買は袁尚が遼東に逃亡した際に付き従ったと言うから袁煕の子と言う可能性があるが、その記述は見あたらない。袁譚・袁煕以外にも袁尚の兄がいたのかもしれないし、記述に間違いがあるのかも知れない。 袁紹は曹操が劉備討伐に出ている隙に南進するよう田豊に進められているが、子供の病気を理由に動かなかった。この子供は赤子だったと言うから、袁買か、袁買より下にも子供がいた可能性がある。 袁術には少なくとも娘がひとりいて、袁術の滅亡後に劉勲のもとへ身を寄せたが、劉勲が孫権に敗れると、孫氏に引き取られ、孫権の後宮に入った(袁夫人)。その息子の袁燿は、郎中となり、娘は孫権の子の孫奮の妻となったと言うから、この二人は孫権の子ではないと思われる(「呉録」に子は生まれなかったとある)。この袁夫人は、美貌の持ち主だったために、孫権の潘夫人の讒言によって殺された。 |
| 戻 る | |