| 山県有朋 |
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1838(天保9.閏4.22)〜1922.2.1 元老・政治家。 長州藩出身。藩内では低い身分だった。 松下村塾に学び、高杉晋作の下で尊皇攘夷運動に参加した。 1863年、奇兵隊軍監。 1864年、四国連合艦隊との交戦で負傷。 第1次幕長戦争の後、藩首脳部が恭順派(俗論党)でしめられると、クーデターを起こし、高杉晋作らと藩政権を掌握した。 1866年、第2次幕長戦争では、渡海して小倉領に攻め入り、小倉城を陥した。 1868年、戊辰戦争では北陸道鎮撫総督兼会津征討総督の参謀として、各会戦を指揮、長岡城攻防戦、若松城攻防戦に参加した。 1869年、軍事研究のため渡欧。 1870年、兵部少輔。72年に陸軍大輔となり、近代軍制改革を進めて、陸軍中将。 1873年、陸軍卿。 1874年、佐賀の乱征討参軍。参議。 1877年、西南戦争鎮圧を指揮した。 1878年、参謀本部長。 1880年に軍人訓戒を起草した。 1882年以降、憲法制定に取り組む伊藤博文の後継として、政治の世界へ進む。83年には内務卿。 1887年、保安条例を公布して言論運動を弾圧。中央集権的官僚政治確立のため地方制度の整備を進めた。 1889年、教育勅語を出す。同年組閣。第二次伊藤内閣で司法相、さらに枢密院議長を歴任した。 日清戦争が勃発すると、第1軍司令官。 1896年、ロシア皇帝戴冠式に出席し、ロバノフ外相と朝鮮問題に関する協定を結んで、大陸進出の足がかりを作る。 1898年、最初の元帥。同年、第二次内閣を組織。長州閥を内閣、官僚、軍部に配置し、政党の活動を制限。軍部大臣現役武官制を布いた。 日露戦争では参謀総長。 韓国併合を推し進め、軍部大臣現役武官制度を多用して内閣を次々と倒壊させるなど、強硬な姿勢を貫いたが、長州閥の後継者である桂太郎や寺内正毅は、徐々に独自行動をとるようになり、いつしか発言力を失っていった。 1918年にはそれまであれほど嫌っていた政党による原内閣を支持するに至る。 地位の低下が決定的になったのは、1920年に起こった宮中某重大事件であった。 これは、皇太子の妃選定で、皇太子妃の家系に色盲の遺伝があると反対したのに対し、政治家・右翼からも猛反発を買い、結果意見は受け容れられず、枢密院議長の座も退くことになった。 1922年、山形は没し、国葬に処されたが、晩年の不人気のためか、参列者は少なかったと言われる。 |