阿波丸事件(あわまるじけん)

 太平洋戦争最中の1944(昭和19)年11月、日本占領下の連合国捕虜、抑留者に対する救恤品輸送をアメリカ政府が日本政府に対し要請、日本政府は輸送船舶の安全保障条件により、緑十字のマークを付けた日本郵船の貨客船阿波丸を使って、翌45年2月17日に門司港を出発。台湾、香港、シンガポール、ジャカルタを回り救恤品を届けた。帰路、シンガポールで2000人余りを乗せて帰途についたが、4月1日、台湾海峡で米潜水艦「クイーン・フィッシュ」の雷撃にあい沈没。乗員乗客2045人(一般人61人、海軍1013人、陸軍773人、外務省関係46人、日本郵船148人、外国人3人)が死亡。生存者ひとりという惨事となった。アメリカ政府は、事件後直ちに軍法会議を開き、潜水艦の艦長を処分、7月5日に日本政府へ責任を認める通告をし、さらに賠償問題については戦争終結後まで延期したい旨要請した。戦争終結後の49年、この阿波丸事件に関し、国会はアメリカの援助に対する感謝の一環として、賠償請求権を放棄することを決議、4月14日、日米協定で放棄した。50年、阿波丸事件に関する法律が定められ、政府は被害者一人当たり7万円の見舞金を支払った。遺族は阿波丸遺族会を結成し、遺骨遺品の引き上げ運動を行い、52年、中国救助引上公司が引き上げを行った。