原子爆弾(核分裂爆弾)投下は、1935年8月15日付けの物理学者シラードの手紙(アインシュタインも署名)に天然ウラン原子炉と共に原子爆弾の可能性を指摘されたところから始まる。F・D・ルーズベルト大統領は、この指摘をウラン諮問委員会に検討させた。同じ頃、イギリスでは、フリッシュとパイエルスが高濃縮ウラン原爆を考案、モード委員会で検討された。このモード委員会の検討結果、ウラン爆弾とプルトニウム爆弾の構想がまとまった(ウラン原爆は、広島型「射撃型・外発型」で反応の効果が悪い。一方プルトニウム原爆は、長崎型「爆縮型・内発型」で反応効果が高く、以後の核兵器は基本的に長崎型)。
41年夏、モード委員会検討構想はアメリカに伝えられ、11月、ルーズベルト大統領は原爆開発を決定した。
いわゆる「マンハッタン計画」とは、原爆開発計画が「代替品開発(DSM)計画」と命名されたが、陸軍マンハッタン管区が担当したためこう呼ばれたもので、こちらの方が有名になった。43年3月にはロスアラモス研究所が完成した。投下決定は、44年9月19日に第2次ケベック会談で、ルーズベルトとチャーチル英国首相が署名した「ハイド・パーク協定」による。
ヘンリー・H・アーノルド陸軍航空軍司令官は、海底トンネルに対する核攻撃の影響に興味を持ち、小倉を支持、また彼と作戦部長セシル・E・コウム大佐、原爆計画指導者レスリー・R・グローブス将軍は京都を支持した。その理由として、未だ爆撃を受けていない京都に軍需施設が集まりつつあること、歴代天皇のいた伝統ある都市として、心理的効果が高いこと、平面的な地形から、核爆発の効果がわかりやすいことなどがある。
一方、来日来京都経験のあるヘンリー・L・スティムソン陸軍長官は、京都爆撃には反対した。彼は通常空襲についても、京都爆撃に反対している。その理由に、「伝統ある古都」「文化都市」というのが含まれていたことはあるが、そういう都市に対する核爆撃を行って、戦後の反アメリカ思想を招くことを恐れたのが大きかった。彼は、その理由を以てトルーマン大統領を説得、大統領も承知した。しかし、グローブス将軍やコウム大佐らと対立、スティムソンは、度々大統領に京都除外を進言している。
その後、新潟が選定に入ったが、横浜ははずされ、長崎についても意見が出された。しかし、地形効果について否定的な観測が強く、長崎は選定目標の中では、重要視されなかった。これには、小倉や長崎にあった捕虜収容所に関しては、考慮する必要はないとされていたようではあるが、目標からの距離は調べられていた。
45年4月、対日原爆投下作戦が、6月には無警告投下が決定。
7月16日、アラモゴルドで原爆実験が成功、ヤルタ会談に出席していたトルーマン大統領に伝えられる。実戦部隊については、第509混成部隊が編成され、準備に入っていた。
同部隊は、戦略爆撃団の一員として、日本本土空襲にも参加していたが、これは訓練のためで、1万ポンド原爆模擬爆弾「パンプキン」(丸くて橙黄色がカボチャに似ていた)を目標都市地方(目標都市は避けた)に度々投下していた。また、ウラン原爆模擬爆弾Lシリーズ(広島はL11にあたる)、プルトニウム原爆模擬爆弾Fシリーズ(長崎はF31にあたる)の投下訓練も硫黄島と往復しながら行っていた。
鈴木首相のポツダム宣言に対する黙殺は、対強硬派に対するためとも、検討の為とも、無視ともとれたが、米軍は無視として原爆投下を決定した。
戦略爆撃団の指揮官として、509混成部隊を指揮したカール・スパーツ将軍は、日本降伏には核兵器を使用するまでもないという意見を持っており、原爆投下命令には、公文書を要求した。公文書は、スティムソン長官とマーシャル陸軍参謀総長の連名で出された。
彼はまた、搭乗員の安全問題から日本に対する事前通告には反対したが、広島投下後、第2回核攻撃の前には、逆に事前通告をして一般市民の被害を極力避けるべきでは、と意見具申している。しかし、米軍上層部には、一般市民を区別する必要はない、という意見もあった。また、当時原爆の効果については、焼夷弾による絨毯爆撃ほどの心理的影響(いわゆる悲惨さ)は与えない、という逆の意見もあった。これはその他のBC兵器についても同様であった。
8月6日の広島投下後、7日付けでパーネル少将、パーソンズ大佐、ファレル将軍が目標選定の変更を進言。具体的に条件を挙げた。条件は、1辺3マイル四方(5km四方)、人口と若干の工業を要した都市、心理的影響のある場所としている。小倉を除く目標は不適切、東京を含めるべき、という意見も添えてあった。
ソ連は15日参戦予定を繰り上げ、9日に参戦。同日、11日予定だった第2次投下を早めて(天候悪化が予測されたため)、長崎にプルトニウム爆弾が投下された。本来は小倉目標であったが、味方機との会合の失敗、視界不良だった小倉上空での3回の攻撃飛行で燃料を失ったこと、予定時間の超過などが変更の理由だった(この時点で硫黄島帰還は不可能で、沖縄帰還もぎりぎりだったという)。長崎では、1回の確認で投下している。
10日にも、グアムの合衆国陸軍戦略航空軍司令官発、航空軍司令官宛の電文で、目標選定を再度検討すべきであるとし、東京も含めるようにという意見が添えられていた。また東京核爆撃は18日以降を予定していたという説もある。
原爆の影響について、対日宣伝活動も行われた。ファレル覚書では、1、人口10万人以上の47都市に9日間に渡って1600万枚のリーフレットを撒布する。2、ラジオサイパンで日本語放送を行う。3、記事と写真を載せた日本語新聞を50万枚撒布する。という計画だった。
実際には、600万枚のリーフレットと新聞投下、日本語放送が行われた。
模擬爆弾「パンプキン」の投下は、その後も続けられ、第3次攻撃が計画されていたことがわかる。これには、目標として名古屋も含まれていたようである。
8月15日のポツダム宣言受諾後も、第3次核攻撃計画はそのまま続けられたが、原爆部品を輸送する重巡インディアナポリスが、長崎用の部品を輸送後に撃沈されたこともあり、航空機輸送に変更されていた。電文では、8月26日時点でも対日原爆投下についてまだ考慮されている。
9月8日と9日に広島で、13日と14日に長崎で予備調査が行われた後、放射線の残存状況、破壊効果、日本人科学者・軍人の核兵器に対する知識、人間の受ける影響についての本格的調査が行われた。
1万ポンド(5トン)原爆模擬爆弾「パンプキン」が投下された都市
7月20日
八重洲 ×1
北茨城 ×1
平 ×1
長 岡 ×1
福 島 ×1
富 山 ×3
7月24日
新居浜 ×3
大 津 ×3
神 戸 ×4
四日市 ×3
大 垣 ×1
7月26日
大 阪 ×1
名古屋 ×1
浜 松 ×1
島 田 ×1
焼 津 ×1
日 立 ×1
柏 崎 ×1
鹿 瀬 ×1
富 山 ×1
平 ×1
7月29日
宇 部 ×3
舞 鶴 ×1
有 田 ×1
保 谷 ×1
郡 山 ×2
8月8日
宇和島 ×1
徳 島 ×1
四日市 ×3
敦 賀 ×1
8月14日
春日井 ×4
豊 田 ×3