第2次近衛文麿内閣(1940. 7.22〜41. 7.16)

 英米協調派の米内内閣の中、ドイツの電撃作戦の報が伝わると、政界・国民の間でドイツに呼応せよという動きが見られるようになった。これに合わせるように、近衛文麿は、枢密院議長を辞任して新体制運動を起こす。7月16日、陸軍も畑俊六陸軍大臣を辞職させて、海軍勢力でもある米内内閣を総辞職に追い込んだ。
 17日、木戸幸一内大臣は、重臣会議を開き、近衛文麿を次期首相に推した。近衛は松岡洋右、東条英機陸軍中将、吉田善吾海軍中将の3人と会談して、内閣の方針を定めた上で、組閣に取りかかった。
 内閣成立後すぐ、26日に「基本国策要項」、27日に「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要項」を決定。さらに9月23日に北部仏印進駐、9月27日に日独伊三国同盟締結とたてつづけに国防関係の政策を実行に移した。
 国内的には、新体制運動で大衆的に挙国一致を進めた結果、政党がすべて解散し、それに代わる組織として、10月12日、大政翼賛会が結成される。
 これは一国一党論、政治組織化を目指したもので、大日本産業報国会、大日本青少年団、町内会・部落会などを興して、市民のすべてにまで及ぶものとした。これが後に、権力闘争から結社の性格論争(近衛の政治結社か、国家の精神的公事結社か)を引き起こし、近衛側が敗れる結果を生む。
 41年、欧州大戦のアメリカ参戦を避けるため、日本、ドイツ、イタリア、ソ連の4ヶ国同盟を画策、日ソ中立条約を締結するが、6月22日、独ソ開戦でこの計画は失敗に終わった。
 一連の外交政策を推し進めた松岡洋右は、米国との外交による関係改善に反対し、近衛首相と対立した。
 外交交渉の継続を模索する近衛は、人気のある松岡をはずすために、41年7月16日内閣総辞職に踏み切り、続けて第3次内閣成立を図る。

【第2次近衛文麿内閣閣僚一覧】
 総理    近衛文麿(貴族院・公爵・火曜会)
 外務    松岡洋右
 内務    安井英二(貴族院)
       平沼騏一郎             40.12.21〜
 大蔵    河田 烈(貴族院・公正会)
 陸軍    東条英機(陸軍中将)
 海軍    吉田善吾(海軍中将)
       及川古志郎(海軍大将)       40. 9. 5〜
 司法    風見 章(衆議院)
       柳川平助              40.12.21〜
 文部    橋田邦彦
 厚生    安井英二(兼任)
       金光庸夫(衆議院)         40. 9.28〜
 農林    近衛文麿(兼任)
       石黒忠篤              40. 7.24〜
       井野碩哉              41. 6.11〜
商工    小林一三
       豊田貞次郎(海軍大将)       41. 4. 4〜
 逓信    村田省蔵(貴族院・同和会)
 鉄道    村田省蔵(兼任)
       小川郷太郎(衆議院)        40. 9.28〜
 拓務    松岡洋右(兼任)
       秋田 清(衆議院)         40. 9.28〜
 国務    平沼騏一郎        40.12. 6 〜 .12.21
       星野直樹         40.12. 6 〜41. 4. 4
       小倉正恒(貴族院・研究会)41. 4. 2〜
       鈴木貞一(陸軍中将)   41. 4. 4〜
 企画院総裁 星野直樹             〜40.12. 6
 書記官長  富田健治
 法制局長官 村瀬直養