ノモンハン事件

 ノモンハンで日本とソ連の両軍が衝突した事件。
 原因は満洲国とモンゴル人民共和国の国境確定問題で、満洲側にたつ日本がハルハ川を、モンゴル側にたつソ連がノモンハンを主張したことにある。両軍は国境付近に集結しにらみ合いの状態にあった。
 39年、関東軍は「満ソ国境紛争処理要項」でソ連軍を徹底的に膺懲せよとの方針を示した。これは陸軍の北方政策、対ソ連戦争方針の企図と一致する。
 その年5月12日、モンゴル人民軍(外モンゴル軍)がノモンハンからハルハ川を越えて満洲軍と衝突する事件が勃発した。付近のハイラルに駐留していた関東軍第23師団(師団長小松原中将)は、処理要項に従って出撃、外モンゴル軍を退却させたが、まもなくソ連軍がモンゴル側の援軍に駆けつけ、反撃に出た。
 28日、東騎兵連隊がソ連軍機械化部隊に包囲されて全滅。
 関東軍司令部は、ソ連軍撃退の方針を決め、第1戦車団と第2飛行集団を新たに加え、6月27日にモンゴル領内のタムスク基地を爆撃した。続けて、7月2日に23師団は進撃を開始した。
 一方日本政府と大本営は、日中戦争拡大中のため、対ソ戦の不拡大方針を決定し、外交的解決を図ろうとした。しかし、関東軍参謀部がこれを無視、23日に攻勢に出た。しかしソ連軍は、ジューコフ元帥麾下の第1集団軍騎兵3個師団、狙撃兵3個師団、5個機甲旅団を投入。攻勢に失敗した日本軍も、重砲3個連隊を動員して第6軍(司令官荻洲中将)を編成し対向した。
 8月20日、ソ連軍は総攻撃に移り、23日、第23師団は戦車主体の機械化師団に包囲され壊滅。死傷率が師団の70%を越えるという前代未聞の結果となる。同日、独ソ不可侵条約が締結され、その報が伝わると、日独の同盟関係、日ソの紛争状態での同盟に政府軍部は衝撃を受けた。
 大敗と独ソ関係の両面から政府は作戦中止を決定。9月1日のドイツ軍ポーランド侵攻がこれを確実なものとし、大命降下をうけて関東軍は撤退。15日、モスクワで停戦協定が成立し終結となった。
 植田関東軍司令官、磯谷参謀長をはじめ、参謀本部次長、第1部長など軍関係者多数が解任・更迭などの処分を受け、一方、国民には事実はほとんど伝えられなかった。
 陸軍の北方政策はこの事件で完全に挫折し、代わって南方作戦案が浮上する。
 記録的な大敗を喫したノモンハン事件は、長いこと秘匿されてきたため、戦死者家族への連絡は限定的となり、生存者も配置転換で南方などに回された。この関連で、ノモンハン事件の従軍記章は非常に珍しいものとなっている。