中野正剛(なかの せいごう)
 1886.2.12〜1943.10.27。福岡県出身。
 三宅雪嶺の女婿。1909年早大政経卒業。東京朝日新聞社入社。政治評論を執筆。第1次護憲運動では護憲派記者として活躍する。藩閥政治、朝鮮総督の憲兵政治などを非難。16年東方時論社に移り、主筆兼社長。対独参戦・シベリア出兵反対の論を張る。パリ講和会議を取材して「講和会議を目撃して」を執筆、ベストセラーになる。20年衆議院に当選。革新倶楽部に加盟する。24年憲政会(民政党)入り。第1次若槻内閣で大蔵参与官、浜口内閣で逓信政務次官。田中義一300万円事件、枢密院弾劾、満洲某重大事件など帝国議会での追求演説を行う。満洲事変では幣原外交に反対、協力内閣運動を起こすが失敗し離党。32年国民同盟を結成。2・26事件後東方会党首となる。40年大政翼賛会総務に就任するが後辞任。開戦後の42年翼賛選挙で非推薦当選。戦時刑事特別法改正で東条内閣と衝突。43年元旦の朝日新聞に「戦時宰相論」が掲載され、東条英機を激怒させた。反東条工作を行い、10月一斉検挙。釈放後割腹自殺を遂げた。