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「はあ、はあ、」 なぜ逃げ出したのか、シンジにもよく分かってはいなかった。 ただ、なんとなく惨めな気がして、あの場所にいられないと感じた。それだけである。 どこをどうさまよったのか、どこを歩いたのか、まったく覚えてはいない。 ふと気がつくと、もう太陽は西の空へと傾き始めていた。 そしていつのまにかシンジは自分の家の前にいた。 それは、シンジにしてみれば珍しいことである。 逃げ出すのは、初めてではない。 情けない話だが、過去に何度もシンジは逃げ出した。過去から、現在から、辛い現実から。 確かにその度毎にシンジは戻ってきた。だがそれは決して自分から、ではない。何かに、誰かに促されて、"今"の大切さを思い知らされたからである。 けれど今、シンジは自分1人で、ここに戻ってきていた。 マナとの思い出の詰まった家に。 無意識とはいえ、いや無意識であるからこそそれはシンジのまごうことない意志なのであろう。 しかし、そんなものまで、今のシンジには、空しく、悲しく見えた。 「シンジ・・・」 いつのまにか、そのシンジの後ろにマナがいた。 カヲルをたまたまそこに居合わせた−まあ状況を考えればたまたまではないのだろうが−ヒカリたちに任せ、ずっとシンジを探していたのだ。 日が陰り始め、ただなんとなくシンジが家に戻っているような、そんな気がした。 マナの呼びかけに、だが、シンジは振り向こうとはしない。 「シン、ジ?」 「ほっといてよ。」 静かに、だがはっきりとシンジはそう言い放った。 「あ、なんか誤解・・・」 してるんじゃない?というマナの問いは、シンジの叫びにかき消された。 「誤解だって?どういう風に見れば、そう言えるんだよ!?」 少しずつ、シンジも声を荒げてくる。 「シンジお兄ちゃん・・・」 いつの間にかレイもマナの後ろに立ち、シンジとマナのやり取りを心配そうに見つめていた。 「ちょっと待ってよ、私の話も・・・」 「結局マナは、いつだってそうなんだ。僕の気持ちを裏切って。」 そんなことを言いたいわけではない、だが、シンジの言葉は、止まらなかった。 自分でも思っていないことが、次々と口をつく。 レイのこと、カヲルのこと、かつてのムサシのこと。そんないろいろな想いと共に、否定できない、マナへの強い想いが心の中で渦巻いていた。 「他に好きな人が出来たなら、僕の事がいらなくなったなら、そう言えばいいじゃないか!僕の事なんか捨ててしまえば!!」 父さんのように。 そんな想いがシンジにはあった。 だが皮肉にも、父ゲンドウも、そして目の前にいるマナも、決してシンジをいらないなどと思ったことはない。 むしろ何よりも大切だから、傷つけたくないから。そんな配慮が、だが、逆にシンジを不安にさせていた。 ただマナとゲンドウには一つだけ違いがあった。 ゲンドウは他人と分かり合えないと思いつづけていた。"ヤマアラシのジレンマ"である。 だが、少なくともマナは、信じていた。 人は、分かり合えると。 「そんな、そんなわけないでしょう。私はシンジが・・・」 「だったらなんで!・・・レイの、ことだって・・・」 それで、ようやくマナはシンジの気持ちを、シンジの心を知った。 レイに対し焼き餅を焼かないマナ。理由も分からずそれにいらつくシンジ。 言ってしまえばそれは、シンジの、マナへの愛情の裏返しでもある。 『私は、シンジに愛されているんだ。』 マナは、それが素直に嬉しかった。 けれどシンジには、そんなマナの気持ちは分からない。 「マナは、僕の事なんて何も考えてくれていないんだ!!」 その言葉は、マナにとっても衝撃であった。 それが単なる衝動からの言葉、シンジの本心でないと分かっていても。 怒りよりも、マナの心の中には悲しみが広がっていた。 だから、マナは右手を上げた。 パシッ、という乾いた音が響く。 マナは赤く腫れたシンジの頬と、そして振り上げて、結局振り下ろせなかった自分の右手と、そのシンジの前で、涙を溜めて立ち尽くしているレイの姿を見た。 「なんで?なんでそんなこと言うの?」 シンジの頬を叩いた、その右手を震わせながらレイは涙を流していた。 自分のせいでシンジとマナの間に亀裂が入った、そう感じているせいもあるからだろう。だが本当の涙の理由は、 「いつだってママはパパの事を一番に、考えて。パパの事を・・・」 そう叫んでから、自分の言葉を反芻してみる。 「レイ!」 そしてレイは走り出した。 マナもまた、レイのその言葉の意味を反芻してみた。 そして、一つの答えが導き出される。 今まで形にならなかったものが、ここでようやく明確な答えとなった。 なぜ、あれほどまでに素直にレイを認められたか。そしてなぜ、あれほどまでに簡単にカヲルを受け入れられたのか。 常識的に考えれば、あまりに馬鹿馬鹿しい、漫画のような答えである。 だが、そうでなければ説明がつかない。そうであるならば全てが納得がいく。 血の、絆。 たとえそれが時を越えてきたものだとしても、明確な形にならなくとも、確かなものがそこにはある。 シンジがそれを感じ取ればかったのは、シンジが子供であるからではない。 父親と母親の違いである。 母であるからこそ、自分でお腹を痛めて産んだ、いやこれから産むであろう子だからこそ、その匂いが分かるのだ。 「血は、水よりも濃い。よく言ったものね。」 「マナ・・・」 シンジもまた、ようやく事の次第を悟っていた。 「マナは、知ってたの?このこと。」 その問いに、マナは静かに首を横に振った。 「なんとなく、感じていただけ。知っていたわけじゃないわ。」 「僕には、何も分からなかった。」 うなだれるシンジ。そんなシンジをマナは背中から優しく包み込む。 「ごめんね、シンジ。私、シンジの気持ち、分かってなかったね。」 「僕の方こそ・・・あれ、じゃあでも彼、は・・・」 レイに叩かれ、ようやくシンジは冷静さを取り戻していた。 「私の予想が正しければ、多分・・・」 それで、シンジはマナの言いたいことが理解できた。 これが本来の、二人のかたち。 何も言わなくとも、お互いの気持ちは通じ合っている。 また逆に、そう言う想いが強かったからこそ、シンジは悩み、マナは迷ったのだろう。 「行こう、いつまでも娘をほったらかしにしといたら、親として失格だよ。」 そう言ったシンジの微笑みは、今までシンジの忘れていた、そして何よりマナが愛した、その微笑みだった。 「あ、レイちゃん。」 「ヒカリ、さん・・・」 泣きながら走っていったレイは、その途中ヒカリに呼びとめられた。 無論、トウジやケンスケ、マユミ、そしてカヲルも一緒であった。 「レイ!」 後ろからシンジの声もする。そして、 「マナさん。」 と言うカヲルの声で、その後ろにマナがいることも分かる。どうやら二人は仲直り出来たのだということも、走ってくる二人の姿を見てレイは感じていた。 "娘"としての直感であろう。 だが今、レイにとってはもっと重要なことが目の前にあった。 慌ててシンジを追いかけたため、レイはこの時点までカヲルという少年を見ていない。 だが、その聞き覚えのある声を耳にし、レイはカヲルの方を見た。 「お兄ちゃん・・・」 え、っと驚く顔を見せるヒカリたち。だが、対照的にシンジとマナはそれを冷静に受け止めていた。 予想していた、ことだからである。 理屈ではない。理屈でそんな答えは出ては来ないだろう。 けれど、それが親と子の繋がりなのだろう。 だがそのレイの呼びかけに、カヲルは戸惑うだけであった。 そして、 「ようやく見つけたよ。方舟を起動する鍵。渚カヲル。いえ、もはやこの状況では碇カヲルと呼ぶべきなのだろうがな。」 「あなた、誰!?」 暗闇から姿をあらわしたその姿は、紛れもなく時田シロウであった。 「時田さん。」 マナが思わずホッとしたような声を上げる。 冬月の部下で、ワカバの兄。マナにしてみれば、いやここにいる全員にとって、時田は味方であり、それを疑う要素などは何もない。 その言動とて、冬月の元で何かをしていると知っていれば、さして不自然なものではない。 ただ一人を除いては。 だが、レイの知る時田シロウとはあまりにその姿が違っていた。 15年という歳月を考えれば、それも無理のないことである。 だから、初動が遅れた。 時田はごく自然に近づいてくると、ごく普通にカヲルの腕を取った。 「さあ、来ていただきましょう。方舟を浮上させるために。」 その言葉で、レイが時田に飛び掛かる。 「なんで!?」 そのマナの言葉は、レイではなく時田に投げかけられたもの。 「自分が人を導くべき立場にいるといわれれば、こうもする!それに・・・」 そういう時田の言葉には、何か迷いのようなものが見て取れる。 だがそんな些細なことで、惑わされるはずもない。 レイと、マナの動きには躊躇はない。 軍で鍛えられていただけの事はあって、マナの動きは素早かった。レイに続いて時田の動きを止めようと、飛び掛かる。 ただ、かつて加持リョウジが判断したように、マナの軍人としての能力はさほど高いものでない。 更にほとんど素人の時田が相手なら心配ないとはいえ、如何に鍛えられた、とはいえマナも、そしてレイも女の子である。 だから、シンジも、トウジも、ケンスケもそれを見て時田に飛び掛かった。 もともと時田も、頭脳労働が担当の男であるし、鍛えられているわけでも、運動神経が格段にいいと言うわけでもない。 だいたい、加持リョウジのような男ならまだしも、30も半ばになれば体力も落ちてくる。 そんな男が元気な盛りの17,8ぐらいの少年少女を5人も相手にして、勝てる道理などはない。 だが、 「うわっ!」 取り押さえた、と思った瞬間、何かに弾きと飛ばされる。 咄嗟にヒカリはトウジを、マユミはレイを受け止める。 シンジは自分の身もかえりみず、マナの身を庇う。 「ATフィールド?」 うまく受け身をとったケンスケが、起き上がりながらそう叫んだ。 「人は、今一度やり直す時なのだよ・・・」 静かに時田は一言だけそういうと、カヲルとともに闇の中へと溶け込むかのように消えていった。 最後に残した時田の言葉には、なんだか自分の行動に疑いを持っているような感じが、マナとシンジにはしていた。 だが今は、もっと重要なことが目の前にあった。 今、確かめられることが、である。 「なにが、起きてるの?」 トウジの身を支えながら、ヒカリがそうつぶやく。 それが、今ここにいる者全ての共通の疑問。 今この時、もっとも大切な事項であった。 ただ一人、レイを除いて。 そして、知らず知らずのうちにその視線はレイへと集中する。 レイだけが、真実を知っていた。 「シンジお兄ちゃんやマナお姉ちゃん、いえ、パパとママはもう気付いているかもしれませんけど、・・・私は、私とお兄ちゃんは15年後の未来から来ました。」 「パパとママ?」 マユミが思わずそんな疑問を口にする。 「私の本当の名は碇レイ。父の名はシンジ、母の名はマナ。そこにいる二人の、娘です。」 「なぜ、未来から?」 そう尋ねたのはシンジ。 レイが自分の娘だということは微塵も疑っていない。 思えば、自分があんなにまでレイを素直に受け入れられたのも、当然の事なのだろう。 自分と、自分の愛する人との血をひく少女。自分とマナの面影を持つ少女。 安心するのも当たり前だ。 同時に、マナがカヲルに抱いた想いも、シンジは理解した。 「私は、ある男を追って・・・。お兄ちゃんを取り戻すために、パパとママの、敵を討つために。」 「なんや、どういうことなんや!」 「鈴原!」 思わず声を荒げるトウジを、ヒカリがたしなめる。 「止めなきゃ・・・いけないんです。」 そう語るレイの目には、涙が浮かんでいる。 そんなレイの姿を見れば、これ以上追求することは躊躇われた。 自分の娘、と言われれば、シンジやマナにしてみれば尚更である。 だが、真実は知らねばならない。 たとえそれがどれだけ辛く、過酷なものであっても。 知る権利、ではなく知らなければならない義務、がある。 特にシンジやマナにとっては。 それを知っていたわけではないだろうが、シンジたちはなんとなくそんな気がしていた。 どこかで、自分に課せられた運命、と言うものを悟っていたのかもしれない。 その時、不意に 「ここから先は、私が話すわ。子供にばかり押し付けていたら、大人として情けないものね。」 後ろの方で女性の声が聞こえ、全員がその声の方を振り向いた。 穏やかな、それでいて力強い声。 その声に真っ先に反応したのは、マナだった。 「お母、さん?」 その言葉に、今度は一斉に皆がマナの方を見る。 「ひさしぶりね、マナ。」 そういって母は娘に微笑みかけた。 「霧島、ユカと言います。いつも娘がお世話になっています。」 一同の前に姿を見せると、そう言ってユカは頭を下げた。 慌ててシンジたちも会釈を返す。 短く切り揃えた黒髪、白い肌。とても18の娘がいるようには見えない。 思わず赤くなるトウジの足を、ヒカリがつねる。 だが、つねられたのが義足の方だっだのでトウジはまったく気付かない。 「どうして、お母さんが・・・」 「話さなければならないことがあるから、よ。」 そうユカは静かに言うと、シンジの方を振り向いた。 思わずハッとしてシンジはもう一度頭を下げた。 「あ、あの、初めまして、ぼ、僕、碇シンジと言います。マナ、いえマナさんとは・・・」 慌てるシンジにユカは静かに微笑みかけた。 「久しぶりね、シンジ君。」 真っ黒な空から、ポツリポツリと雨が降り始めていた。 |