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シンジは雨の中を歩いていた。 信じたくはなかった。 自分とマナの出会いが仕組まれていた事だということを。 それも、人を滅ぼす為に。 「碇の血、か。」 何もかもが、恨めしかった。自分自身も、自分の中に流れる血も、自分に課せられた運命も、父も、母も、叔母も、そしてマナさえも。 このまま死んでしまいたかった。 それが逃げだということも、母やマナへの裏切りだということも判っていた。 雨に打たれ、やがてシンジの意識は闇の中へと落ちていった。 ふと気がつくと、シンジは揺らめきの中にいた。 それがLCLの中だということに、しばらくしてシンジは気付いた。 『僕は、死んだのだろうか。死んで、母さんや綾波のいるここへと来たのだろうか?』 いまだはっきりしない頭で、シンジはそう考えた。 「あなたは死なないわ。」 聞き覚えのある声がして、シンジは振り向いた。 「綾・・・波?」 そこにいたのは、綾波レイ。赤い瞳、水色の髪、シンジの記憶の中にある、本当の、綾波レイ。 「なぜ?」 それが何に対する問いなのか、自分にも分からない。 夢であるのか現実であるのか、その区別さえついてはいない。 だがなんとなく、そこにいるレイは現実であるように、シンジには思えた。 レイだけでなく、後ろにいる二人も。 「僕たちはいつも、君を見守っているよ。」 そういって渚カヲルは微笑んだ。 「あなたはまだ、生きていかなければならない。マナちゃんのためにも、ね。」 そう言って微笑んだユイの顔は、やはりユカに似ているとシンジは感じていた。 「なぜ?」 もう一度シンジは問う。 「あなたは、大切なことを忘れているわ。」 「あの日、LCLの海の中で見たこと。僕らと触れ合った時、同時に君は全ての人々の心にも触れたはずだ。もちろん、霧島さんを含めてね。」 諭すようなレイとカヲルの声は、だが、シンジへのいたわりと、優しさが含まれていた。 「あの時あなたは知ったはずよ、マナちゃんやアスカちゃんの、あなたへの想いを。」 「でも!でも・・・マナは・・・」 「仕組まれた運命だから?確かにそれは事実かもしれない。けれど、どんなに優れていても、人の心までは操れないわ。」 「そうさ、だってそれが出来ていたら、僕は君たちに世界を委ねはしなかった。」 「そして、あなたも、世界を救うことはなかった。」 「あなたが選んだこと、それは"神"の遺志に反することだわ。そしてそれは人の心が自由に操れるなら、起き得るはずがないこと。」 「自分自身で選んだこと、選んだ道に自信を持つんだ。それは運命なんかに強要されたものではないと。」 シンジは思い出していた。目の前でユイたちが語っていること。それはまぎれもなくあの日、LCLの海の中で聞いた言葉。 『そうだ、僕は知っていたんだ。全ての真実を。あの日、カヲル君から、綾波から、そして母さんから伝えられたことを。』 「そう、そしてあなたは約束した。」 「僕たちに。」 優しくレイとカヲルが微笑む。その言葉にシンジは大きく肯いた。 「そう、誓ったんだ。全てを知ったその上で、マナを、守っていくって。」 静かだが、確かなその言葉に、ユイは満足そうな笑みを浮かべた。 「マナが僕を好きだといってくれた気持ち。僕がマナを好きだと思った気持ち。それは偽りの気持ちなんかじゃない。」 そういってシンジは3人を見た。 レイも、カヲルも、ユイも、そのシンジの言葉を聞き届けると、嬉しそうに頷き微笑んだ。 「だから、もう、迷わない。」 「シンジ、シンジ!」 不意に誰かが呼ぶ声がして、シンジは目を開けた。 「マ・・・ナ?」 そこにあったのは、見慣れた顔。 心配そうな、でもどこか嬉しそうな、安らぎと、幸せを与えてくれる、笑顔。 「ここ、は?」 そういってシンジは天井を見上げた。 それは、見知らぬ天井ではない。 いつも見ている、マナとの思い出の詰まった、見慣れた天井。 「僕は、帰ってきたのか?」 「ええ、そうよ。」 ユカが言った通り、シンジは自分で、この家へと帰ってきたのだった。 嵐の中、自分の足で、何より自らの意志で。 「ごめん。」 「なぜ、謝るの?」 「僕は、弱虫だ。いつもいつも逃げてばっかりで。」 「でも、ちゃんと帰ってきてくれた。」 うっすらと目に涙を浮かべ、だがマナは微笑んだ。 そしてシンジの手を握り締める。 「信じてた。帰ってきてくれるって。」 「マナ・・・」 そんな言葉に、シンジはマナの強さを感じていた。 シンジを、自分の気持ちを信じるきる強さを。何より運命に負けない強さを。 「マナは、強いな。」 シンジは、マナの手をしっかりと握り返すと、そう静かに言った。 そのシンジの言葉に、マナはちょっと驚いたような表情を見せる。 だが、その表情はすぐに笑みに変わる。 「シンジが、いるからだよ。」 そういってマナは、優しくシンジにキスをした。 そんなマナの気持ちが、シンジに今一度の決意をさせた。 「マナは、僕が守る。レイも、カヲルも。なにがあっても。」 その強い意志は、だがマナにも一つの決意をさせた。 しかし、それを表に出すことはない。 そしてそんなマナの決意には気付かず、シンジはそっとマナを抱き寄せた。 「マナ・・・」 「シンジ・・・」 お互いの顔を近づけ、もう一度くちづけを交わす。 湖でした、初めてのキスとも、この4年間幾度となく交わしたくちづけとも違う。 大人の、キス。 そのまま、シンジとマナは重なり合い、互いの体を求め合った。 いつの間にか雲は晴れ、月の光が、二人の体を照らし出していた。 そして、碇シンジと霧島マナは、この夜、初めて結ばれた。 ただ満月だけが、見守る中で。 深夜。月がちょうど真上にかかる頃。 真っ暗な寝室の中で、マナは一人、起き出した。 ベットを出て、立ち上がると、襟を正し、乱れた髪を整える。 シンジと別れたあの日、マナは髪を切った。 女性が髪を短くする、というのは、一種の決意の現われでもある。 シンジのことを忘れるためか、それとも忘れないようにするためか、それはマナ自身にもわからなかった。 ただ、寂しさを紛らわすため、そして新しい生活のため、そんな決意がさせたことなのであろう。 シンジと再会して、マナは一度も髪を切っていない。 もうシンジと離れないように、という願懸けの意味もあっただろう。 アスカやミサトを意識した向きもあったかもしれない。 肩まで伸びたその髪を、マナは静かに手に取ると、もう片方の手に、鋏を持った。 それが、いかなる行為で、どんなことを意味するか、見るものがあれば即座に理解しただろう。 だが、疲れからか、シンジは深い眠りに落ち、静かな寝息を立てていた。 空で蒼く輝いている月の他に、誰も見るものはない。 けれど、 「逃げるの?」 不意に声がして、マナは振り向いた。 「綾波、さん?」 そこにいたのはレイではない、綾波レイ。 それほど面識があったわけではないが、マナには一目で分かった。 彼女が、この世のものではない、ということも含めて。 レイはマナを責めているような、それでいてどこか寂しげな瞳を向ける。 そして、 「逃げるのね。」 もう一度レイはそう言った。どこか責めているような口調で。 それはレイにしては珍しく、感情のこもった言葉であった。 「違う!」 思わずマナは大きな声で叫ぶ。そして叫んでから、口を押さえ、シンジの方を見やる。 だがシンジは、それに気付いた様子もなく、規則正しい寝息を立てていた。 「違う・・・もう、嫌なの。足手まといになるのが。誰かに守られるのが・・・」 それは、辛い、辛い思い出。 かつて、マナは軍にいた。 そして幼い頃から訓練を受けていた。 だが、彼女の資質は、優れているとは言えなかった。 人型兵器トライデントのパイロットに選ばれたのも、特に資質を買われたからではない。それに結局乗りこなすことは出来なかった。 スパイとして送り込まれたのも、同じである。 女であったから。 色香で、シンジを惑わす為。ただそれだけである。 しかしマナは、シンジを本当に、心から愛してしまった。 それは、兵士としてはあるまじきことである。 実のところマナは、兵士としては落ちこぼれと言った方が正しかったのかもしれない。 頭は、悪い方ではない。だが、特に体力が優れているわけでもない。 そして何より、兵士としては優しすぎたのだ。 だからいつも誰かに守られていた。ムサシに、ケイタに。 けれど、マナを守ってくれた者たちは、もうこの世にはいない。 シンジを、生まれてはじめて、心から愛した人を、同じ目に遭わせたくはない。 だから、姿を消そうと決心した。 自分が傍にいれば、重荷になるから。 「違わないわ。あなたは逃げているだけ。自分が傷つきたくないから。」 「あなたに!なにが・・・」 レイの言葉に、思わず激昂するマナ。だが、レイの顔を見て、その言葉を止める。 「泣いて・・・いるの?」 表情は変えず、ただ涙を流して立ちつくすレイ。 「好きなのね、シンジのことが。」 「そうかも、しれない。」 涙のわけ。 様々な、想いが交錯する。 生ある身として、シンジの傍にいられないジレンマであろうか。 いや、そうではない。 心の底で、シンジが真に必要としているのが、マナただ一人であるから、である。 どれほど渇望しても、得られないもの。それはマナだけがもてるものであった。 「あなたは、碇君の気持ちを分かっていないわ。」 それはマナにとってよりも、レイにとって辛い言葉である。 シンジの気持ち。マナだけを見ているシンジの想い。それを肯定する言葉。 そんなレイの気持ちは、マナにも痛いほど伝わってきた。 ユイを通して、ある意味血の繋がりがあるから、ではない。 同じようにシンジを想うもの、としての気持ちである。 「碇君にとって一番辛いことは、あなたを失うことなのだから・・・」 マナとて、それがわかっていないわけではない。 けれど、裏切り者と呼ばれても、逃げたといわれても、シンジに生きていて欲しいから・・・ 自分だけが傷ついて、そう、シンジと同じように、そうして他人が幸せになれるならそれで良い。 だが、シンジの気持ちは? それを考えれば、自分はシンジの傍にいるしかない。 そして自分はシンジの傍にいたい。けれど、だからこそ、その道を選べない。そう思うのだ。 甘えたくない。誰かが過酷な運命の中で生きている時に、自分だけ幸せになど暮らせない。 「でもそれは自己満足だわ。自分が傷つくことで、何かをした気になっているだけ。」 そのレイの言葉は、マナの胸に突き刺さった。 どこかで、自分は幸せになってはいけない、という想いがあった。 だが、シンジの幸せは、マナの幸せと同じところにあるのだ。 シンジを幸せにすること。それはマナにしか出来ない、けれどマナになら出来ること。 マナだけに、その権利がある。 その権利を放棄して、自分一人不幸を背負い込んだ振りをする。レイから見れば、自己満足、逃げ以外の何者でもない。 アスカがいたなら、間違いなくマナの頬を叩いていただろう。 レイやアスカが、望んで得られなかったものを、自分から投げ出そうというのだから。 彼女たちにすれば、それは許せることではない。 「幸せになる権利は、誰にでもあるのよ。」 だがレイは、そんな内心の葛藤を押さえ、マナに優しく語り掛けた。 それはマナの気持ちを思いやってのことではない。 全ては、シンジへの想いがなせることである。 けれど逆にそれが、マナを決意させた。 「そうね。私、馬鹿だった。シンジが死ぬって思い込んでた。みんなで、生きるんだよね。シンジを守って死ぬなんてことも言わない。シンジと一緒に生きるの。生きて、みせる。」 生きようと思わないものに、勝利など得られない。 わかっていたはずの事である。 「いいのね、碇君を、あなたに託して・・・」 その言葉の裏に、どれほどの葛藤があるかは計り知れない。 だがマナは。それを知りつつも、大きくはっきりと肯いた。 「そう。」 寂しげな、けれど優しげな笑みを、レイは浮かべる。 「大丈夫。あなたたちは死なせない。もう一人の、私のためにも。」 碇レイ。シンジとマナの血をひく少女。そして綾波レイの魂を受け継いだ少女。 その兄、カヲル。生まれてくる彼らのためにも、死ぬことも、逃げることも許されるはずはない。 「私たちが、守るから。」 そのレイの言葉に、マナはもう一度頷いて、そして決意した。 シンジとともに、レイやカヲルとともに、生きると。 その決意を見届けると、レイは姿を消した。最後に、ユイの面影の映る、笑顔を残して。 蒼く輝く、月の、光の中へ。 「パパ、起きてってば。」 翌朝、シンジはそんなレイの声で目が覚めた。 台所からは、規則正しい包丁の音が響いてくる。 「あ、レイ・・・。」 「おはよう、パパ。朝ご飯の支度、できてるよ。」 そういって微笑むレイ。 「あの、さ。」 「なに?」 「その、パパ、ってのはやめてくれないかな。」 「なぜ?パパはパパでしょう?」 そういっていたずらっぽく微笑む様は、紛れもなく、父親に甘える娘の姿である。 なぜこんな簡単なことがわからなかったのか、思わずシンジは苦笑した。 「?」 そんなシンジの笑みの意味が分からず、首をかしげるレイ。 「さ、行こうか。"ママ"が待ってるよ。」 「うん!」 レイを伴って、シンジはリビングへと向かった。 台所では、マナが朝食の用意をしている。 とっとと席につき、レイは朝食を食べ始める。 「まったく、行儀悪いな、レイは。」 そのシンジの言葉で、マナが振り向く。 そして、笑顔を見せ、 「おはよう。シンジ。」 「おはよう。マナ。」 言葉はそれだけ。笑顔を交わす二人。 お互いに、全てを吹っ切った、そして確かな決意を秘めた、瞳を交わす。 それだけで、お互いの気持ちが分かり合えた。 レイだけが、わけも分からずに、パンを口にくわえたまま、ただただ、父と母の顔を交互に眺めていた。 そしてまた、新しい一日が始まる。 昨日と少しだけ違う、未来への希望の詰まった一日が。 |