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「心を強く持って。自分を見失わないで。そうすれば、恐怖にも打ち勝てます。」 電話の向こうで、マナはそう一気に捲し立てた。 「ちょ、ちょっと待ってくれマナくん。いったいどういうことかね?」 言葉の意味を図りかねる冬月。 が、さすがに冬月も経験豊富である。すぐにマナの言いたいことを悟る。 その上で、もう一度冬月はマナに尋ねた。 「どういう、ことかね?」 「リリス、です。」 「リリス?」 その名を反芻し、そして冬月は一つの答えに至る。 「そういう、ことなのか?」 「はい。」 マナが静かにそう頷く。 「サードインパクトの後遺症。いわば、トラウマ。」 「トラウマ、か・・・」 そういって冬月は、受話器から顔を離し、モニターを見やった。 サードインパクト。 シンジや冬月など、直接関わっていた者の他に、もはやその真相を知るものはいない。 サードインパクトが何であったかすら、多くの人々は知らないのだ。 謎の大災害、文字どおりの悪夢。 泡沫のまどろみの中にあった人々にとって、それはまさに夢の中の出来事のよう、としか言いようがなかった。 覚えて、ないのだ。 何かわからない何かがあって、夢を見ていたような気がして、その夢から覚めた時には、世界が"大変なこと"になっていた。 そういう認識しかないし、そうとしか説明ができない。 一応、真実を聞かされた者たち。トウジやケンスケやマリィ、そしてマナ。 彼らとて、知識として知ってはいても、実際に目にしたわけではないから、いまいち漠然としない。 夢。夢の中の出来事。 それがこの恐怖のキーワードでもある。 「人々は無意識のうちに、それを忘れようとした。」 静かにマナはそう語る。 「あの日あった、全てを、か。」 そういう冬月の想いは複雑だ。直接、あの日のことに関わったものとして。 人の防衛本能なのだろう。 夢である、事実ではない、まったく別次元の出来事である。そう思い込むことで、忘れ去ろうとしたこと。 だが、夢と現実は決して正反対な、裏表のことではない。相容れないものではないのだ。 夢は現実の続き。夢の終りは、現実の始まり。 そこに明確な境界線はない。 「自分が溶けていく。心も身体も溶けていく。自分が自分でなくなっていく。それが、怖いんです。人は。」 それがマナの想いである。 シンジや冬月たち、あの日あの場に居合わせたものには、確かにわからない感覚であろう。 結果こそ同じであれ、全てをわかっていたのと、何も知らされず、突然に巻き込まれたものとでは、後々心に負う傷の深さは、まるで違う。 だから、忘れ去ろうとした。 そして、忘れていたからこそ、恐怖するのである。 空いっぱいに映し出されたカヲルの姿。それが、あの日のリリス、綾波レイの姿を喚起させるから。 「そういう、ことか。」 マナと冬月のやり取りを耳にし、マコトたちもそのわけを知る。 自分たちはたしかにあの日あの場所にいた。 それは忘れられないことであり、同時に忘れてはならないことである。 その思い出と共に、たしかに恐怖という感情もそこにはあった。 だが、明確に覚えているからこそ、目の前のカヲルから、リリスを感じることはないし、また、恐怖に打ち勝つための勇気を振り絞る術を、知ってもいた。 しかし、そこに落とし穴がある。 気持ちが通じ合わない。理屈として何に恐怖しているのかをわかっても、それを取り除いてやることは冬月たちにはできないことであった。 「どうすれば・・・」 眉間にしわを寄せ、冬月は考える。 確かに、マナのいうことは正論である。 人々が抱いている恐怖心は、自分がなくなってしまう、そんな感覚への恐れである。 もっとも、時田たちの目的がそもそもそうであるのだから、カヲルを見てリリスを思い起こし、恐怖する、というのもあながち的外れなことではないのだが。 今の状況を打破するためにも、そして最終的に自分たちが勝つためにも、マナのいっていることは必要であるし、まったくもって正しい。 心を強く持って、自分を見失わないように。 "自分"という存在が失われるのが怖いなら、なくならないようにすればいい。 ここにありたい、ここにいたいという思いを強く持てばいい。 自分という存在を肯定してやればよいのだ。 サードインパクトを生き抜き、明確に生きることを、存在することを選んだ今の人々になら、できないことではなかった。 ただし、それを正確に伝えられれば、であるが。 思い、というものは頭の中にあったものを、"言葉"へと変換し、口にした瞬間に、どうしようもない認識のずれを生じてしまう。 だから人は、その思いの丈を、正確に他人に伝えることなどはできない。 頭の中にある言葉を、そのまま他人に転送できればよいのだろうが、それはもはやテレパシーとか呼ばれるものであって、言葉とは言わない。 第一、そんなことは、−存在するかどうか、という議論はおいておいて−エスパーとか呼ばれる人たち以外には、不可能なことであった。 だが、それができなければ、戦うことすらできない。 シンジや冬月たちだけが動けても、どうにもならないのだ。エヴァもない、今は。 「このままでは負ける、か・・・」 「せっかく・・・」 そういってマナは手の中にあった"何か"を強く握り締めた。 赤木ナオコから託された、方舟の対極に位置する、もう一つの神々の遺産。 ミワコや、ユウジと共にようやく手にした、マナの成果。シンジを助けられるはずのもの、であった。 だが、それにどんな意味があるのか、どんな力が秘められているのか、マナはまだ知らない。 青く美しく輝く、小さな石。 サファイアとは違う、その輝きを持った石。 刹那、その石が光り輝いたような感じがした。 それとほぼ同時に、冬月の頭に言葉が飛び込んでくる。 それは、マナの想い。 言葉にできない様々な思いが、冬月の頭に直接響いてきた。 「これ、は・・・?」 しばし驚きつつも、すぐに冬月は平静を取り戻す。 「そうか、単なる言い伝えではなかった、か。」 そう言って静かに瞼を閉じる。 「マナくん。」 再び見開かれたその瞳には、もう、迷いはなかった。 「祈って、祈ることで、ただそれだけで世界が救われるなんて・・・そんなこと・・・」 冬月から託された事。それはマナには信じられなかった。 困難な現状から、冬月は逃避したいだけなのかもしれない、そうも思った。 祈ること。それがマナが、冬月から頼まれたことである。 子供たちへの想い、生きていこうとする強い意志、自分を見失わない心、そしてシンジへの、愛。 それらの全ての想いを込めて、祈って欲しい、願って欲しい。 それが冬月の言葉だった。 まるで夢かのような話だ。 そんなことで世界が救われるはずもない。 救世を望む純真な願いに、神様が答える。そんなことがあるのは御伽噺の中だけである。 だいたいマナは、無論、御伽噺が嫌いなわけではないが、それが作り事であることを十二分に承知している。 別に徹底したリアリストではないから、現実はそんなに甘くはない、などと冷酷に言うつもりはない。 ただ、自分の力で何とかしなくてはならない、いや、何とかしたい、何とかして見せる、という想いがあるのである。 奇跡とは、起きるのを待つものではない、自分の手で、起こすものなのだから。 努力した人間全てに奇跡が訪れるわけではない、が、奇跡を起こした人というのは、すべからく、最後まで希望を捨てずに力の限りをつくした人であるのだから。 だから、祈るだけで何もしないものに、奇跡が訪れるなどとは信じられないし、信じたくはないのだ。 そんな甘い戯れ言は、作りものの中だけにして欲しいから。 そして自分は、まだ何もしていない。そしてまた、今、何もできない。 だから、奇跡など、まだ口にもできない。そう、マナは感じていた。 だが、マナは気付いてはいない。 自分が、ここまでしてきたこと。その祈りの中に込められる願いの重さ。 それが、ここまで努力してきたものだけが持てる想いだということに。 辛い過去、守りたい現在、そして未来。 それは、資格である。奇跡を起こすための。 その資格を、マナは確実に持っているのである。 「マナちゃん・・・」 ミワコがマナに手を差し伸べる。 マナの想いが彼女にも伝わったのか、幾分恐怖は和らいでいた。 「私には何が起きているのか、そしてこれから何が起こるのか、それはわからない。でもね、」 そう言ってマナの手にある青い石を握り締める。 「これが、あなたの意志を伝えてくれる。そんな気がするの。あなたの純粋で、強い想いを。何者にも負けない、心を。」 そのマナの強い想いは、きっとみんなを救うはず。ミワコにはその確信があった。 同じ"女"として。 「ミワコさん・・・」 そう言ってマナは、自分の手の平の上の、小さな小さな石を見つめた。 一人の、これを託してくれた女性の顔を思い起こしながら。 「賢者の石?」 受話器を置いた冬月の口から出たのは、その名であった。 初めて聞くその名に、思わずマヤは聞き返す。 「神々の、遺産の一つだよ。」 そのマヤの問いに、静かに冬月が答える。 「方舟は滅びを司るのと対照的に、賢者の石は希望を象徴する。」 「そんなものが・・・」 「本当にある、などとは思ってはいなかった。"神"と呼ばれた者たちはヒトという種族に絶望していたはずだから。だからこそ、次代の人類に徹底的なまでの管理を施そうとした。」 「でも・・・」 その冬月の言葉に、マリコが口を挟む。 「全て人が絶望していたのではないと、そう思いたいです。私は。」 「そう、そうだな。」 自分も碇ゲンドウも、やはりどこかで人類に絶望していたのかもしれない。だからきっと、そう思ったのだ。そんなものはない、と。 だが、目の前にいるマリコは、そしておそらくあの頃のユイも、そうは思ってはいない。 彼女たちは信じることができるのだ。希望という、形のないものを。 そして、その希望を託された少女もまた、それを信じられる。 だから冬月も、その少女を、マナを、信じることにした。 心から信じるものだけが、他人にも希望を分け与えることができるのだから。 ミワコの想いを受け、マナは祈り始めた。 両手に、その小さな石をしっかりと握り締めて。 何を祈っているのか、具体的に言葉にはできるものではない。 こんなことで、という迷いも、いまだに彼女の中にあった。 その時、 "声"が聞こえた気がした。 意志を託してくれたあの女性の声。それは綾波レイの声に、そして碇ユイの声に似ていた。 「何を、願うの?」 様々な思いがマナの中で渦巻く。 彼女が生きてきた今まで、その中で味わった悲しみ、辛さ、幸せ・・・愛。 それら全てが、彼女という存在を肯定していた。 存在する意味、それを伝えること。 今、彼女にできること、彼女がしなくてはならないこと。 この想いを、全ての人に伝えたい。伝えなければならない。全ての人が、生きていくために。 そして迷いは、強い決意に変わる。 強く強く、マナは祈った。 祈る、というよりも、自分の心の全てを、みんなに伝えようとした、といった方が正しいのかもしれない。 自分がここにありたいと願う。その根底にある、シンジへの想いと共に。 そのマナの想いに答えるかのように、石は大きく輝いた。 そしてマナの思いは伝わる。 世界の、すべてに。 恐怖とはまったく違う感覚。 安らぎを覚えるような、それでいて勇気を呼び起こしてくれるような、優しく、それでいて強い想い。 言葉にできないその"声"を、世界の全ての人が聞いた。 「ママ・・・?」 「マナの、声だ・・・」 シンジにもレイにも、その声は届いた。 そして見た。 恐怖に打ちひしがれていたはずの人々が、ゆっくりだが、確かに立ち上がろうとしている、その姿を。 やがて、人々の心に、マナ以外の声が響き始める。 それは、自分自身の声。生きていこうとする意志。 世界の人々全ての生きる意志が、世界の人全ての心に、響き渡った。 サードインパクトのあったあの日、人々の心は補完されたはずであった。 だが、それはあまりにも不完全。みずからが自覚することのない、補完。 それが、今、完全になっていく。シンジにはそんな想いがしていた。 「希望が、世界に満ち満ちていく・・・」 そう呟くレイの横顔に、シンジは綾波レイを見たような気がした。 あの日、悲しみと絶望に満ちた世界で、それでもシンジに希望を託した、レイの顔を。 『これが、本当にあなたの望んだ世界・・・』 そんなレイの声が、シンジには聞こえた気がした。 その裏にかすかに、喜び、幸せを感じる心が、見えた気がした。 そしてシンジは方舟を真っ直ぐ見つめる。 その瞳に、勇気と希望と、強い、マナへの想いを秘めて。 「そうだ。だからこそ、この世界を守るんだ。そして、それを教えてくれた人々を。なにより、マナを。」 その方舟の中で、 「なによこれ・・・」 アスカにも、その想いは伝わった。 マナの、シンジに寄せる強い想いが。 それに答えるかのような、シンジのマナへの想いが。 その想いの一つ一つが、アスカの心に突き刺さる。 「馬鹿に・・・して・・・」 後にして思えば、この時にアスカは自らの負けを、認めたのかもしれない。 だが、今はそれを表に出すことはしない。 涙を堪え、アスカは一言だけ、うめくように言葉を絞り出した。 「負けない、シンジにもあの女にも・・・負けるわけには、いかないのよ。」 それがこの時のアスカの、精一杯であった。 |