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シンジが、エヴァ初号機が自分の目の前にいる。 意外にその事態に、アスカは驚いてはいなかった。 フウッ、と一つ息をつく。 そして、 「退きなさい。今なら見逃してあげるわ。」 初号機と対峙する弐号機。そのエントリープラグの中で、アスカはそう叫んでいた。 見逃す? アスカは自分の口から漏れた言葉に驚いていた。 なぜ? なぜここに来て、自分はそんな甘いことをいっているのだろう? 全てを壊すと、そう決意したはずなのに。 そして、 『ごめん。』 そんな迷いと同時に、どこかでそう返事が返ってくることを、アスカは期待していた。 あの頃のシンジであったなら、間違いなくそう答えたであろう。 他人に口答えをする勇気も度胸も持ち合わせてはいない。 ましてやその相手がアスカであるならなおさらである。それがシンジの弱さであり、また優しさでもあることも、アスカは知っていた。 確かめたいのだ。 もう一度だけ。 シンジがあの頃と同じように謝ってくれることで、まだシンジの中に自分の居場所があることを。 あるかもしれないということを。 けれど・・・ 「退くわけにはいかない、それが約束だから。」 それがシンジの答だった。 「何が約束よ!誰と!?ファースト?それともお母さん?それとも・・・」 激昂するアスカに、シンジは静かに答える。 「違うよ。」 一息ついて、 「自分自身に、約束したことだから。」 静かに、けれど力強く、シンジは言い放った。 事実は、けれどアスカの言う通り。 それは、渚カヲルとの約束であり、綾波レイに誓ったことであり、何より母ユイに託されたことである。 が、だからといってシンジが嘘をついているというわけではない。 確かに道を示してくれたのはユイたちかもしれないが、その道を選んだのは他ならぬシンジ自身である。 自分自身で選んだことに価値がある。アスカは知るよしもない、それが、ある人が死の間際にシンジに残した言葉であることを。そして今のシンジにとって、何より大切だということを。だから、 「自分自身が選んだこと、だから後悔はしない。僕は謝らないよ。たとえそれが、アスカを、傷つけることになっても。」 かつて渚カヲルは、人を滅ぼしてまで、自分が生き残ることをよしとしなかった。 それとまったく正反対の決断である。 今のシンジに迷いはない、そしてその瞳には一点の曇りもなかった。 『シンジは、大きくなった。』 ほんの、僅かな間に。アスカはそう、感じていた。 女として、その思いは嫌なものではない。 惚れた男が、一回りも二回りも大きくなって、強くなって自分の目の前にいる。それは喜ばしいことでさえある。 惚れた男・・・ この時始めて、アスカは自分の中のシンジへの想いを素直に認めた。 シンジが好きなのだというその想いを。 それを認めることで、不思議とアスカの気持ちは安らいでいった。 けれど、 シンジの中にはアスカの存在はない。 シンジがここまで強くなれたのもアスカがいたからではなく、アスカ以外の人たちが道を示してくれたからである。 そしてシンジが戦う理由も。 「あんたにできるの?このアタシを倒して先に進むことが。逃げてばっかりだったあんたに!」 「僕はもう逃げないって決めたんだ。レイや、カヲルや、そして、マナを・・・、守る為に。」 何度か逃げようと思った。 いや実際、一度シンジは逃げ出している。 けれどなんとか踏みとどまったのは、もう一度戻ってこれたのは、誰かとの約束などという曖昧なものがあったからではない。 自分自身で選んだ、確かなマナへの想いがあったからだ。シンジはそう信じている。 そして自分を信じることのできる人間、守るもののある人間は強いものだ。 「なら。」 もはやアスカに言葉はない。 今のシンジの中に彼女のいる場所はないのだと、アスカは気付いた。 いや、本当はとうの昔に気付いていたのだ。海岸で首を絞められた、あの時から。 もとよりシンジの中に自分の居場所などなかった。 シンジが自分に求めていたのはユイの、レイの、そしてマナの代り。 そう、シンジにとってアスカは結局誰かの"代り"にしか過ぎないのだということを。いや"代り"にすらなり得ないということを。 レイやマナも結局のところはユイの代りなのかもしれない。 だが、子供が母親の面影を追うのはある意味当然のことであるし、母親に似た人を好きになって、子供は大人になっていくものだ。 その意味で彼女たちとアスカでは決定的に立場が違う。 そのことをアスカははじめから判っていたのだ。 だから、あの時もシンジの元を去った。"代役"である自分にはマナに勝てないと判っていたから。けれどそれを認めたくはなかったから。 さらに追い討ちをかけられるように、アスカは真実を知った。 マナがユイの面影を宿しているのが、ただの偶然ではなかったことを。 シンジとマナが出会い、ひかれ合うのが必然であったことを。 その上で・・・定められた運命にただ従うだけではなく、立ち向かおうとしているシンジのその姿を見れば、シンジとマナの絆の深さを、思い知らされるだけである。 シンジの言葉を聞き、改めてその事実を思い知る。 今、彼女にできることは力づくでシンジを止める事だけ。 が、居場所を失ったアスカと、確かな、新しい居場所を見つけたシンジとでは勝負は既についているようなものであった。 「私にはここで見守っていることしかできない。」 対峙する二機のエヴァを見つめマナはつぶやいた。 自分が今しなければならないことだと分かっていても、やはり彼女にはそれが歯痒かった。 「仕方あるまい。あの頃の私たちも似たようなものだった。子供たちに戦わせ自分たちは後方で指揮をとるだけ。良心が痛んだのも一度や二度ではなかった。彼らにしかできぬこと、と判っていてもな。」 そうつぶやく冬月の顔は苦渋に満ちていた。 「それでも戦わねばならん。未来を守る為に。それが碇やユイくんとの約束だからな。} 「そうですね。そして戦いの形は一つではない。私たちには、私たちの戦いがある。」 言ってはみるが、それで心が軽くなるわけではない。 決心はした、自分がなにを、何のために、なぜするのか、それも理解している。 現実としてシンジの戦う姿を見れば、やはり辛い。 自分一人、逃げている。そんな気がするのだ。 「私は逃げているだけなのかもしれない。」 「それは違うわ、ここにいることこそがあなたにとって一番大切なことなのだから。」 もう一度つぶやいたマナにに答える声がする。 おもわず冬月とマナは声の方を振り向いた。 そこにいた人物は・・・ 「ユイくん・・・」 初号機と弐号機、エヴァンゲリオン同士の戦いは既に終わりを告げていた。 純粋な戦闘力では明らかに初号機が上であった。 ましてやお互いの心の中をかんがみれば、アスカに勝つ見込みなどはない。 しばし対峙していた二機のエヴァ。それが再び動き出したかと思うと、一瞬の後には初号機の前に弐号機は倒されていた。 かつて鈴原トウジの乗った参号機と対峙したときのような、脆さはそこにはない。 だがそれはシンジが冷酷になったということではなく、優しさを捨てたということでもない。 何かを、誰かを守る為の強さ。 その根底にあるのは、やっぱり優しさ。 優しさと弱さは違うものだと気付いたから。だからシンジは、戦える。 その”強さ”をアスカは感じていた。肉体の強さではなく、心の強さ。守るべきもの、帰る場所のあるものだけが持てる強さを。だから・・・敗北を受け入れる気になった。そう、自ら負けることを選んだのだ。 「シンジが戦えるのは帰る場所があるから。そしてシンジやレイちゃんたちが帰ってこれる為に、その場所を守るのがあなたの役目。」 そう語るユイの肉体はむろんこの世のものではない。いわば精神体のようなものである。 そしてその横にカヲルの姿も現れる。 「そう、悔しいけれど、それは僕たちにはできない、君にしかできないこと。けれど君になら、できる。」 カヲルの瞳は寂しげにゆらめく。 彼女たちがここにいる、という"事実"に対する疑問はない。ユイの魂は初号機と共にあり、カヲルの心はシンジの側にいつもいたはずだから。 そしてマナは一度、綾波レイと出会っている、だからこそ今、ここにいることができる。 知りたいのは、今、現れた、その理由。 「力を、貸してくれるのか?」 だがその冬月の問いにカヲルは哀しげな表情を向ける。 「お別れを、言いに来たのです。今度こそ、本当の。」 「ユイ叔母様・・・?」 マナはユイを知らない。だが母によく似たその面影が、彼女に叔母の存在を認識させた。 「これから言う事をよく聞いてほしい、そして覚えていて。」 「いったい、何を?」 「遺言、かしらね。」 そう言ってユイはマナに微笑みかけた。 「私たちはいつもシンジを見守ってきた。あの子の知らないところで。」 「僕たちはその気になればいつでもシンジ君に力を貸せる。でもそれではいけない。」 「死んだ人間が干渉してはならない。生きている者は、生きている者同士、手を取り合っていかなければならない。そしてシンジの手助けをできるのは、マナちゃん、あなたなのよ。」 「はい。」 それはわかっていること。だがそれでもなお、マナの中には悩みがある。 「帰るべき処を守ること。それは母親としての、そして妻としての、仕事なのだから。」 『妻』という言葉に想わず頬を赤くするマナ。 だが次の瞬間には真っ直ぐな瞳でユイを見つめ返す。 見つめられたユイの表情は、だが、硬い。 自分はそれをできなかった、その後悔があるからだろう。 同じ表情を、あの夜、マナはレイの中にも見ていた。 彼女もまた、それを望んでも、もはやそれをすることはできない。 その分、マナは彼女たちより幸せなのだろう。 けれど、 「シンジくんと同じなんだね。」 もの憂げなマナの表情に、カヲルがそう語り掛ける。 辛い辛いと良いながら、現実はこうやってどこか楽をしている気がする、逃げているような気がする。そんなマナの心情を、感じたのだろう。 「あなたは逃げているわけではないわ。それは私たちが知っている。」 「でも!」 「君がいなくなったらシンジくんはどこへ帰ればいいんだい?それにレイちゃんやカヲルくんも。僕たちには絶対にできないこと。命を継ないでいく事。ヒトにしかできない、ヒトにとって最も大切な事。」 「命を継なぐ事・・・」 「レイちゃんにカヲルくん、やがて君の中に宿るであろう命。君とシンジ君の志を継ぐ命。そのためにも君は死んではならない。」 「シンジ・・・」 分かるのだ、分かるからこそ、辛いのである。 シンジだけに戦わせているという事実が。 シンジの身を、危険に晒しているという現実が。 「シンジは死なないわ。」 「え?」 「私たちが守るもの。あそこにいる、レイちゃんと一緒に、ね。」 そう言ってユイは方舟の方を見る。 いや、ユイが見ていたのはそこにいるであろう、綾波レイの姿だったのかもしれない。 「渚さん、ユイ叔母様・・・。」 二人の表情を見つめるマナ。 「言ったでしょう。お別れだって。私たちは私たちの存在にかけてもシンジを守って見せる。」 死んででも、いや既にこの世のものではないのだが、暗に彼女たちはそう示唆しているのだ。 「そんな・・・」 狼狽するマナ。だが反対に冬月は冷静だった。そしてマナの肩に手をかける。 「彼女たちに従おう。そして、我々は我々の為す事を為そう。生きている者として。」 冬月は自分自身に言い聞かせたかったのかもしれない。 彼とて気持ちはマナと同じなのだ。 他の誰かを犠牲にして自分は生き残る。 ユイも、ゲンドウもそうして彼の前から消え、自分はまだここにいる。 けれど、大切なのは死ねなかった事を悔いる事ではない。 死んでいった者たちから託された想いを受け継ぐ事だ。 死んでいった者たちに彼らにしかできなかった事があったように、生きている者には生きている者にしかできない事がある。 そして命を継ないでいく事は、間違いなく生きている者にしかできない事なのだから。 「死んでから後悔したり、やり直したりする事はできんからな。後悔することも、生きている者の特権か。」 徐々に消えていく二人の姿。最後にユイはマナの方を見やる。 「マナちゃん。シンジをお願いね。そして、幸せにね。あなたたちが幸せになる事、それが一番、大事な事なのだから。」 「はい。」 「アスカ!」 初号機を降り、シンジは弐号機へ駆け寄る。エントリープラグを強制射出し、ハッチをこじ開ける。 「アスカ、アスカ!」 エントリープラグの中に横たわるアスカ。致命傷ではない。手加減はしたはず、そう、したはずだった。だが、アスカの傷は思ったより深かった。 「アスカ・・・、まさか、わざと・・・。・・・・・ごめん。」 シンジは悟った。アスカがわざと負けてくれた事を。あのプライドの高い、何より負ける事の嫌いなアスカが。 「なんで?」 だがアスカはそれには答えない。 「バカ・・・シンジ。謝らないんじゃ・・・なかったの?ホンットに・・・あんたは・・・変わらない・・・わ・・・ね。弱虫で・・・優柔・・・不断・・・で・・・情けなくって、・・・でも、・・・優しく・・・て。」 「なんだよ、それ・・・」 涙を流しながら、でも昔と代わらぬアスカに苦笑するシンジ。 だが軽口を叩くほどに彼女の傷は浅くはない。 「アタシに・・・勝った・・・んだから・・・勝ちなさいよね・・・絶対に・・・」 それはアスカの、最後の願い。 勝てないなら、居場所がないなら。せめてシンジの手で殺してほしい。 それしか選ぶ道のなかったアスカのささやかな願い。 一緒に死んで、とは言えなかった。 そんな考えは浮かばなかった。 何故か、シンジには生きていて欲しいと思った。 けれど一緒に生きていく事はできない。だから、せめて・・・ 「アスカを置いてなんて行けないよ!」 『優しいな、シンジは。』 アスカは素直にうれしかった。けれど、 『この優しさはアタシが特別だからじゃない。そして、今のシンジにはその特別な相手がいる・・・。所詮、私は誰かの代り。私が死んでも代りがいる。』 マナの顔が浮かび,"レイ","カヲル"の顔が浮かぶ。 認めたくはない。 けれど認めざるをえない。 彼らがいるからこそ、シンジがこんなに強くなったのだという事を。だからアスカは決心した。 「何を・・・馬鹿な・・・事・・・。あんたは・・・行かなきゃ・・・いけないんじゃ・・・なかった・・・の?この・・・アタシ・・・を・・・倒して・・・も・・・ウウッ」 痛みに顔が歪む。 「でも!」 「行きなさい!・・・同情なんて・・・まっぴら・・・」 『泣いている。あのアスカが。』 強がって見せてはいるが、シンジにはそう見えた。 けれど、だからこそシンジは行く気になった。 本心ではない。本当はシンジに側にいてほしい。そんなアスカの気持ちを見抜きつつ。 ここでアスカにかまけている暇はない。それはレイを、娘を見捨てることに他ならず、そしてマナへの、何より自分自身への裏切りである。 少なくともシンジには、そう思えた。 自らの決断を鈍らせて、あの頃の自分に戻るようなことは、もう、したくはなかった。 「ごめん、アスカ。」 涙を拭いて、けれどその瞳に確かな意志をたたえて、シンジは初号機へと戻った。それがシンジの選択。 そして自分で選んだ以上は迷わない。 それが今のシンジにできる精いっぱいだった。 マナと再会して、マナの大切さを思い知って、自分がアスカを殺そうとした意味を知った。 きわめて残酷なその理由を。 一時の衝動であることには違いない。 ようは子供の論理である。 そして時として子供というのは残酷なものだ。 本当に欲しいものが得られず、欲しくないものを与えられたとき、人はどうするであろうか。 大人なら、それが他人から受け取ったものであるなら尚更、与えてくれた人の事を考える。 欲しくなくとも喜ぶ素振りを見せてみせる。 だが、幼い子供ならそうはしない。 それがいらないと感じたら、それが与えてくれた人の気持ちを踏みにじるものであったとしても、"それ"を受け取れない、破壊さえしてしまうかもしれない。 シンジとて幼い子供ではない。 だが、直前にユイと別れ、レイを失った。 ミサトも死に、好きだといってくれた人々、カヲル、そしてマナももういない。 あの時側にいたのはアスカだけ。 だがアスカでは彼女たちの代わりでしか、いや、代わりにすらなれない。 自分が子供であったから。 我が侭だったから。シンジはそう理解した。 けれどそれは、それほどまでにシンジが彼女たち、とりわけマナを求めていたということに他ならない。 だから、どこかでアスカの気持ちを知っていても、それを受け入れるわけにもいかなかったのだ。 その方が、アスカにとっては辛いことなのだから。 だから、殺そうとした。そうすることで業を、アスカという存在を背負おうとしたのかもしれない。 偽り、詭弁、偽善、傲慢・・・全てはそんなことだと知りながら・・・ けれど、一度はその気持ちを押しとどめた。 それは、アスカの中に、生きようとする心があったからなのか。 そんな事実を認めようとしない、歪んでいるかもしれないが、強い強い意志が、アシカの中にあったからだろうか。 だが今、アスカは自分の手にかかる事を望んだ。 拒絶する意志を失ったのか、それとも、シンジへの想いを素直に認めたからなのか、それはわからない。 そうすることでしかシンジの中に自分がいられないと、悟ったからなのだろうか。 死んでいくことでしか、シンジの心に中に居場所を作れたというのは、アスカにとってはあまりに皮肉なことであった。 けれど、一つだけ言えることがある。 少なくともアスカは、シンジという存在を認めてくれたのだということが。 自分の命をも、託せるほどに。 だからシンジは、もう振り向かなかった。 『ごめんね、ママ。アタシ、また負けちゃった。今からママのところに行くからね・・・』 そっとアスカは目を閉じた。 「死なせはしない。」 そんな声が聞こえてくる。 『ママ。でも、もう駄目。』 次第に意識も薄れていく。 「アスカ、死ぬんじゃない。」 「死なないで、アスカ。」 どこかで聞いた事のある男性の声。母ではない女性の声。 「パ・・・パ?ち・・・がう。・・・か・・・・・・さん?み・・・・・・と?」 その声の主を確認することなく、アスカの意識は暗闇の中へと落ちていった。 |