|
「どや、ハルナ。これが春の陽射しっちゅーもんや。」 そんなトウジの言葉が聞こえているのかいないのか、ハルナは物珍しそうな表情で、青く澄み渡った春の空を見上げていた。 生まれてこのかた、ハルナが知っているのは夏の強く、突き刺すような陽射しだけで、穏やかな、うららかな日の光というものは記憶にはない。 彼女にしてみれば生まれて初めての、春の陽射しなのである。 物珍しいのも無理はない。 ただ、シンジの目にはそんなハルナよりも、トウジの方がどことなく嬉しそうな、というかはしゃいでいる風に映っていた。 それはそれで、無論悪い話ではない。 シンジには兄弟はいなかったが、トウジの気持ちは分かるような気はした。 平和なひととき、その仲の幸福なヒトコマ。 無論今のこの光景が、戦いの合間の、束の間のものであることは、シンジにもわかっている。 わかっているからこそ、そういったものが大切なのだと、だが今のシンジにははっきりとわかっていた。 この光景を守るために戦う、それは明確な意志と力になるのだから。 誰かを、なにかを守ろうとする力、互いを、愛する人を支え合い、思いやる心。 そういったものを、それらの大切さを、シンジは傍らに立つ、彼の妻に、教えられた。 だから、トウジを見つめていたのと同じような穏やかな目で、シンジは横にいるマナに、視線を移した。 だが、今目の前にある光景は、シンジが思うほどに、楽観できるようなものではなかった。 そしてそのことを、マナだけは知っていた。 もちろん、ハルナが救い出されて、こうして兄妹仲睦まじく、穏やかなひとときを過ごしている、というのが悪いと言っているわけではない。 「どうしたの?マナ。」 険しい目でトウジたちを見つめていたマナに、シンジはそう尋ねた。 「え?ああ、うんなんでもないわ。」 「でもなんか、深刻そうな顔して・・・」 「そ、そう?ほ、ほら私一人っ子だったじゃない?だから、ちょっと鈴原くんたちがうらやましかったのかもね。・・・母さんが、いなくなった直後でもあるし・・・」 「あ、・・・ごめん。」 そのマナの言葉は、確かに彼女の心の片隅にあった、真実である。 だからこそ、シンジにはわからなかった。 その言葉の裏側の、もう一つの真実が。 マナが見つめていたのはトウジでも、ハルナでもない。 その二人の傍らに居合わせる、もう一人の人物。 マリィ・ビンセンスであった。 そこまでの経緯がいかなるものであったにせよ、トウジにとってみればマリィはハルナを救ってくれた恩人である。 そしてそのことを、トウジはハルナにも告げ、マリィと三人で春の街に繰り出していたのである。 それは、トウジなりのマリィへの感謝の現れであったに過ぎない。 あるいは感謝の気持ち、というものをどう、それも女性にたいしてどのようにあらわしたら良いのか、わからないから、こうしたのかもしれない。 そういうトウジの行動を咎める権利はマナにはないし、また、口を挟むべき問題ではないのは分かる。 マリィがどういう事をやってきたかはともかく、マリィがハルナを救ったことも事実であることも確かである。 過去の過ちでマリィを責めるつもりも、そうだからといって今の功績を否定するつもりもない。 だいたい自分が過去に犯した罪を振り返れば、他人を責める権利などマナにはありはしない。 当人同士の問題、でもある。 マナの罪をシンジが許し、シンジがマナを受け入れたことを考えるなら、トウジがマリィの罪を許した以上、他人がとやかく言える話ではないのだ。 ただ、それでもマナには一つ、気にかかることがある。 ヒカリの気持ちを、考えるなら。 が、しかし、それこそそれを、マナが言うわけにはいかない。 ヒカリが彼女の親友であり、その辛さが分かるからといって、それを、その気持ちを代弁して見せる権利は、彼女にはない。 自分自身、アスカを押しのけて今の位置にいる。その事実が、あれば。 そういう少女たちの悩みは、だが男たちにはわからない。 悪意があるわけでなく、それは純粋に、鈍感なだけであるのが理由だと分かってはいても、いやむしろそうであるからこそ、マナはそんな男たちの鈍さにほんの少し、苛ついていた。 一方マリィは、そんな今の自分の境遇に、ほんの少し戸惑いをおぼえていた。 トウジにしてみればそれは、彼特有の女の子にたいする接し方の不器用さの結果、ということになるのだろうし、そういうトウジという人間をマリィも良くわかっている。 特別な感情があるわけではない、というのも気付いてはいる。 ただそれでも、どこかでこんな状況を喜んでいる自分があった。 トウジに感謝されている自分、トウジと一緒の時間を過ごしている自分。 それが、自らの犯した罪を償った、当然の行為の、本来なら与えられるべきでないはずの代償なのだとわかって、そこのほんの一抹の罪悪感を抱えながらも。 そしてヒカリにたいする複雑な想いもある。 ヒカリとトウジの関係は、マリィの見ている限り自分が入り込める隙などないようにみえた。 どこか冷静に見ることができるぶん、当の本人たちさえ気付いていない想い、絆を見ることができるからそう思えるのだ。 それはあまりに皮肉な話であり、そしてマリィにとって何ともいえず辛い話でもある。 「私、洞木さん嫉妬してる。こうして当てつけて・・・それをどこかで、喜んでる。」 それが今の、マリィの正直な思いであった。 わかってはいるのだ。 口にこそ出してはいないものの、トウジがヒカリを大切にし、好意を寄せているということが。 最終的にトウジにとって一番ふさわしいのが、ヒカリなのだということも。 わかるからこそ、悔しさを感じるからこそ、どこかでヒカリにたいしあてつけをして見せたいと思う部分がある。 そんなこととしている自分が、どれほど醜いかを自覚していても。 そして、それを自覚してなお、今のこの状況を喜んでいる自分。 そんな自分自身に、マリィは嫌悪感を抱いていた。 が、そんなマリィに、 「はい、お姉ちゃん。」 思い悩む彼女に、ハルナがソフトクリームを手渡した。 トウジが二人に買ってあげたものである。 そして、 「お姉ちゃん、ありがとう。私のこと、助けてくれて。」 屈託のない笑顔で、ハルナはそう言った。 "ありがとう"というその言葉か、それとも"お姉ちゃん"というその言葉か、あるいはその両方か、なにかがマリィの胸を熱くし、そして、マリィはそこからなにかが込み上げてくるのを、感じていた。 そして、一瞬だけ、マリィは自分自身への嫌悪感を、忘れた。 ハルナの件に関する感謝の気持ち、それで、せめて食事ぐらい、とか、なにかをプレゼントしてそういう気持ちを表そうというトウジの気持ちは分かる。 そこにハルナも一緒にいるのだから、デート、などというものでないのもわかる。 けれども、それを見つめるヒカリの胸中は複雑だった。 それ以上に、こんなところで覗き見のようなことをしている自分が、無性に嫌だった。 単純にそれは焼きもちであって、無論状況の違いはあれど、それほど嫌悪するものではない。 だが、嫉妬という心を認めたくないから、そういう心を醜いと思うから、それでも気持ちを止められない自分が、嫌なのだ。 「こうなってみると、アスカの気持ちが・・・良く、わかる。」 不意に、そんな言葉がヒカリの口から漏れる。 結局、その状況に自分が置かれてみなければ、その気持ちなどは分かりはしないものなのだ。 あの時、傷ついたアスカを救おうなどと考えてはいたものの、結局自分がこうなってみて、あの時のアスカを、あの時の自分が救えるはずなどなかったと、ヒカリは痛感した。 「ヒカリ・・・」 そんなヒカリの姿を、ふとマナは目の端に捉えた。 物陰から、寂しそうな瞳でトウジたちの様子を伺っているその姿を見れば、ヒカリの心の中がどうなっているかぐらいは、マナには容易に想像できた。 だがそれは、どんなかんな男とたちにはわかり得る話ではなかった。 もっとも肝心なトウジはもとより、シンジもまた、そうである。 だいたいシンジは、もとより他人の心にたいして鈍感である。 他人を思いやる優しさもあるし、人を傷付けるより自分が傷つく方がいいと思う心もある。 ただ、他人を思いやることと、他人のことを見ぬくということはイコールではない。 無論むやみと他人の心の中を垣間見るのがいいことだとは思わないし、シンジがそういう事を最も嫌うのだということは良くわかっている。 それでも、少しは敏感であって欲しいという思いも、マナのどこかにはあった。 ことマナのことに関していえば、シンジも敏感になったと思うかもしれない。 が実のところ成長はしていてもシンジの本質はあまり変わってはいない。 マナの心の中がわかる、というのは、ここまで培ってきた絆と信頼があってこそ成せることであって、単にシンジにとってマナが特別である、というだけの話でしかない。 もっと言うなら、マナは"他人"ではないのだ。 マナ個人のことに限っていえばそれでいいことだし、こと二人の生活、というふうに限定するなら、それでなにも問題はない。 けれど、世の中はシンジとマナの二人きりではないわけで、そうなれば当然、マナ以外の他人とも接していかなければならない。 そういった時に、シンジはまだまだ未成熟なのだと、痛感するのだ。 そして今、この時も。 「あれ?洞木さん!」 ふと、マナが何かを見ていることに気付き、シンジはその方角を見た。 そして、そこにヒカリの姿があるのを見とめる。 なせ、そこにいるのか、そして今、どんな気持ちを抱えているのか、それがシンジには分からないから、そうやってシンジは声をかけてしまう。 マナが、止める間もなく。 辛い気持ちを抱え、なによりそれを知られるのことが、そんな気持ちを抱えて、嫉妬のこもった目でトウジを見詰めている自分を見られるのことが、今のヒカリにとって何より辛いことなのだと、わからないから。 『碇くん、に・・・マナ?』 声に気付き、ヒカリはその方向を見た。 そして今、自分がしていることを改めて思い出し、思わず目を伏せる。 『なんで・・・?いつから・・・?』 無論シンジやマナに悪意があったわけではないのは分かっている。 おそらくずいぶん前からわかっていながら、それでも黙って見ていてくれていたのが、マナなりの配慮だということも。 シンジが声をかけてきたのが、そんなヒカリの気持ちを見透かしていないからだと、単純にシンジの優しさからなのだいうことも。 第一恨みつらみよりも、自分が今してることへの疾しさのようなものの方が強い。 だが自分への恥ずかしさと同時に、そんなシンジたちへのいくばくかの嫉妬のようなものが、今のヒカリの中にはあった。 悪意がないから余計に腹が立つ、ということではない。 悪意がないとわかっているなら、それを許すことができるのがヒカリという少女である。 けれど、それとはまったく別の問題がある。 それはシンジ、というかマナが、シンジとともにあるということ。 心配してくれているのはわかっている。 それが友人としての、掛け値ない善意であることも。 同情などという安っぽいものでないことも。 だが、ぎりぎりのところでは結局、違うのだ。 マナにはシンジがいて、二人の間にはもう裂かれることのない絆がある。 それは生きていく上で、マナに自信とゆとりを与えてくれている。 それを鼻にかけたり、うぬぼれたりするようなマナではないし、ましてやそれをヒカリに見せ付けるような真似はしないであろう。 だがそれでも、そういうものがそこに確かにあることも、事実なのである。 だから、 「結局、私の気持ちなんて、分からないくせに。」 そうポツリと呟いて、ヒカリは走り出した。 その後ろ姿を、マナは追うことも出来ず、ヒカリは、桜の中に消えていった。 そんなヒカリの様子に気付く事もなく、トウジはハルナとマリィとともに、穏やかなひとときを過ごしていた。 「お兄ちゃん、変わったね。」 どこか嬉しそうに、しかし一抹の寂しさのようなものを込めて、ハルナはそう呟いた。 どこがどう変わったのか、それはハルナには言い表せない。 それはハルナが幼いから、とかそういう問題ではない。 むしろ、大人にはそんなトウジの微妙な変化には気付かなかったかもしれない。 ハルナがトウジの妹であって、そしてなにより子どもであったからこそ、そういったものに気付いたのだと、言えなくもない。 一言で言えば、優しくなった、あるいは丸くなったとでも言おうか。 無論そういう、ごく一般的な表現は、正確には正しくない。 もっともっと一般的な言葉で括ってしまえば、大人になった、という事なのだろうか。 その変化、いや成長というべきか、それはもちろん、ハルナにとって嫌悪するようなものではなく、むしろ歓迎されるべき類の代物である。 けれど、兄でありながら弟のように手のかかっていたほんの五年前の事を思い返せば、そこに一抹の寂しさのようなものがある。 それは、まさしくマリィが危惧した事でもあった。 自分の知らないうちに自分の兄に多大な影響を与えた人物がいる。 シンジやケンスケのような男友達であれば、それはさしたる問題ではなかっただろう。 が、ヒカリは根本的に違うのだ。 兄に思いを寄せる女性、ことと次第によっては、自らの姉となるであろう女性。 幼いとはいっても女の子であるハルナにしてみれば、それはいやがおうにも気になるし、嫉妬する事もあるだろう。 が、マリィが想像していたのより遥かに、ハルナという少女は大人であった。 兄にその変化を与えた人物がいて、それが女性であって、そして、今目の前にいるマリィでないと、ハルナはしっかりと理解していた。 自分か"こっちの世界"に帰ってきて以降、遠慮して兄の側に近づいてこようとしてこない一人の女性。 その女性の存在に、ハルナは既に、いや、ずっと以前から気付いていた。 それが、四号機の中に閉じ込められていたときのことなのか、あるいはそれよりもっと以前の事であるか、今となってはハルナにもわからない。 けれど、ハルナは確かに"洞木ヒカリ"という女性の事を知っていた。 その女性が兄に思いを寄せている事も。 そしてまた、兄もその女性を憎からず思っている事も。 『お兄ちゃん、鈍感だからなあ。』 子どもであるがゆえに、その思考、そして行動には迷いがない。 よく言えば素直で純真、悪く言えば遠慮がない。 けれど、そんな子どもの行動こそが、えてして事態を動かすという事も、ままあった。 ヒカリやマリィやマナたちが、大人の論理に縛られてなにも成す事が出来ない。 その裏側で、ハルナの行動こそが、事態を突き動かしていくのだろうか? 「私が、一肌脱がなきゃね。」 鈴原ハルナは、誰にも知られることなく、密かに、そう決意を固めていた。 |