レゾデト
---->マキコが言いたいコトをテケトーに語る場所.
---->ツッコミ不要.
---->反論不可.



・10月9日

昨日に引き続き「トレインスポッティング」から一日を 初めてみる.
そう言えば随分前にサントラを買った筈だが(映画を観ずに サントラ買ったり本買ったりする訳だ.ひねくれ者め), どこに行った物やら全然見つからない.
「トレイン〜」の若者たちは昨日同様やっぱりヤク漬けで, 死ぬ人数が増えていくことだけがどうやらこの話の進歩 らしい.
なんて言って実は途中で感動してたなんて恥ずかしくて言えない.
書くけど.

母はそんな実にならない本は止めなさい,と言う.
しかし母上,母上がお好きなクーンツもキングも全く実に ならないと思いますが.
大体実になる本なんていうのはF学園時代に読まされて 殆どノイローゼ気味になるくらい心に食い込んだので 懲り懲りなのだ.
うっかり人の生きる意味なんて類の本は読むもんじゃない.
本気で考え出したら袋小路に嵌っちまって出られないから.

帰りにHMVでうっかりローリングストーンズのベストなんざを 買ってしまう.
80年代にはローリングストーンズなんて絶対買わないと心に 決めてたというのに.
いや,別に馬鹿にしているわけではなくて,只のガキが ローリングストーンズ買うのってカッコ悪いじゃない.
俺は音楽判ってるんだぞ,みたいな嫌味があってさ.
なんて考えるのも十分カッコつけなんであって, 取り敢えず大人になったので堂々とローリングストーンズを 買ってみた.
それでもレッチリとかオアシスは買わないぞ,と決めている.
あとストーンローゼーズも!
と思っていたが先日知らないアーティストのCDを視聴してみたら これが存外良かったので買ってしまった.
輸入盤だったので何の説明も無く,誰だコイツ知らない名前,と 思っていたらば,本日,そいつがストーンローゼーズだったことを 知る.
...やっちまった.

またぞろ寒くなってきたのでスタバでスチームミルクを 飲むことにする.
ハロウィンの季節だけあって黒猫の着ぐるみを着た スタバのクマがかぼちゃのポシェットを持っている.
これには勝てない.
一匹ミルクと一緒に買って帰って会社で一緒に仕事を することにした.
マグネットが腹と手足にそれぞれ入っているので 机の上にお行儀良く座ったまま,かぼちゃのポシェットを 引きずってぼーっとしている.
・10月8日

今朝は「トレインスポッティング」を読みながら出社.
昨日まではポール・オースターの「最後の物たちの国で」(だっけ?) を読んでいた.
何もかもが崩壊していく世界でゴミ拾いをしながらどうにか 生きていく女性が主人公の救いがありそうでなさそうで結局 あるのかもしれない大変良い話だ.
が,しかし,朝読む類の本では無い.
朝から身重の主人公が人体解体業者に売られそうになって 窓から飛び降りて逃げて流産なんて話を読むのは流石にどうか と思う.
尤も今朝は「トレインスポッティング」だ.
ジャンキーがクソだのファックだの連発しながらその言葉通りの 生活をそれこそ泥の中を這いずり回るかの如く送っていく話で, 昨日まで読んでた本の比じゃないくらい朝には相応しくない 話題だ.
それも会社に行く時には.
お陰様でM駅に着く頃にはすっかり気持ちが荒んでしまって, 歩き煙草をしているクソ馬鹿野郎どもの延髄に蹴りを入れて やることばかり考えている.
アイツら,肺ガンで死ぬ前に処刑すべきじゃないか.
一体全体,あのクソ野郎ドモは自分の後ろで自分の吐いた 煙を浴びせられる人間のことを考えたことがあるのだろうか.
無論無いに決まっている.
おおよそ感覚なんざ出来るだけ鈍くしておくのが楽な生き方なので あって,歩き煙草なんて迷惑行為を平気な顔で毎朝繰り返す ヤツらの神経は恐竜並に鈍いに違いない.
そもそも人間の吸う息の数%は二酸化炭素なので,自分の 吸う息に連中の息が混じってるかと思うとそれだけでぎゅ うぎゅう詰めの電車に乗るのは御免だと思う.
それでも毎朝電車に乗って出勤しなくてはいけないわけだ.

家に帰ると妹がセンチヒを観ている.
私はどうにもあの子供のきんきん声が嫌いで観ていない.
やっぱり煩いと思う.
どうしてあんなに上擦ったしゃべり方をしなければいけないのか 判らない.

・10月7日

今朝は洗車マシンの中にいるような雨で,とてもじゃない けどコレで外に出るのは阿呆のやることだと二時間休を決め込む.
その間何か身になることでもやっておけばいいものを,ぼうっと ニュースを見て過ごしてしまったので全く意味が無かった.
会社は詰まらないコトに詰まらないコトを上塗りしていく だけなので時々ぱっと帰ってしまえばそれでいいんじゃないか, 楽になるんじゃないかと思うが,悲しいかな,会社を辞めたから って何も変わらないし,何も起こらないのは明かだ.
人生が変わったのはたった一度だけ,小学校からF学園に入学 した時だけで,それだけがこれまでの人生における唯一の救いだ.
F学園で過ごした最後の数年間は苦しくてもがいていたけれど, 出てしまえば矢張り前の方がマシだったわけだ.

A学院から移転の報せが届いた.
厚木校舎も,世田谷校舎も無くなってしまうそうだ(と書いてしまえば A学院なんて回りくどい言い方なんざ必要無いな).
あの学校が私の母校だとは一度も思ったことが無いが(色々な 意味で私はあの学校が好きでは無い),それでもやはり世田谷 校舎が無くなってしまうことにはある種の感傷を禁じ得ない.
そもそも私が卒業した後に立派なテクノロジセンタを建てた 筈で,あれもそうですか,あっという間に壊される運命 だったんですね.
卒業後一度も,いや,正確には会社に入った年の7月辺りから 一度も帰っていないので,世田谷校舎が無くなる前に行こうと 思っているのだが,一人で行くのはなんとも心もと無い.
しかし同期のAはカナダに行って以来連絡を取っていないし, もうひとりのNも今年からカナダに...なんで二人ともカナダ なんだ?
まぁいいか.兎に角私だけが日本で一人鬱々と過ごしている 訳だ.
12月にお別れパーティがあるとのことでちょっと顔を覗かせようかと も思っているが,余程ハイにならない限り自分の性格から言って 無理じゃなかろうか.
ほらね,私の性格も状況も何も変わることなんてありは しないのよ.
もっと最悪なのはT教授に会ったら私は泣くだろうということだ.
向こうが私を苦手だろうが何だろうが,何故かな,あの位の年の 男性に私は好かれた試しが無い,私はT教授を尊敬しているのだ.

出来ることなら昔,F学園でそうしていたように毎朝, 祈りを捧げる時間があればいいのに,と思う.
それは決められた神への祈りでは無く,単に自分を振り返る 時間としての祈りという意味だけど.
教会の椅子の後ろについているあの懺悔に使う跪く台が 私は好きだ.
F学園には無かったけれど飯田橋の教会にはあった.
あの場所が素晴らしい場所だったなんて言わないし, 来ていた人々が良い人々であったとも言わない.
偽善的な連中が多かったし,矢鱈に説教臭い外人と, 偽ブルジョワジーなクラシック男がいたのを覚えている.
何より宗教に凝り固まりすぎた人々は常に片方の耳が聞こえない 状態なのだ.

そう言えば随分前に絶版になっていた(と思う)ユルスナールの 本が次々復刊されて,今,平台に昔と同じ静かなモノクロームの 表紙で並んでいる.
当時,帯に「同性愛」だったか「レズビアニズム」だったか, どっちか忘れたが兎に角その類の煽り文句がついていたのに げんなりして買わなかったのだが,今回はそんなことは無いようだ.
でもまだ買ってない.
カフカの全集もまだ途中までしか買ってない.
そんなどうにも中途半端な本ばかりが積み上がって最近読書を 忘れているようなので,これではいけないと今日から読書週間だ.
大体最近はケチばかりつけてちゃんと読まないという悪癖に 陥っていたきらいがあるので,ちゃんと読んでからケチを つけようと思う.
但し,「海辺のカフカ」だけは別だ.
絶対読むもんか.
村上なんぞに「カフカ」の名前を使われるとは,こんなに腹の立つことも 無い.
「カフカ」という文字が平台どころかタワーのように幾つも 安っぽく積み上げられているのを見ると実に気分が悪い.
カフカは安売りの広告塔にする名前では無い.
カフカという文字の持つ何かしら漠然とした雰囲気を使って 本の題名とするなんて憎むべき所業だ.
村上の本を読む人間のうちどれだけの人間がカフカの本を 読んだことがあるのか.
カフカと言えば変身しか知らない連中が,名前の持つ一種不思議な 雰囲気と村上というネームバリューであの本を買っていき, そのせいで売れ行きランキングだの色々なところであの本 の題名を目にする嵌めになる.
昨今では太宰の役を河上リュウイチと言うべとべとした声の 歌手がやるとか,何かと腹立たしいことが多い.
太宰の名前もカフカの名前も既に商標ラベルのひとつとして 取り扱われる世の中なのだろうか.

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