NO2609           「この時代」            2013/08/04
「時代」というのは期間の一時期を区切っている表現です。日本の近代歴史でも、明治、大正、昭和、平成のような元号による区切りがあります。隣国中国にも三国志という書物があります。そのような時代の「歴史認識」を中国の「現代人」がどのくらい持っておられるかは分かりませんが。
「時代」という表現は新約聖書の中だけでも47回は見られます。しかし、その時代区分があるとしても、「時代」という「時期」には「共通の性格」があるので「この時代」と言われたのでしょう。
日本人は人生を春夏秋冬の四季になぞらえることがよくありますが、日本の地球上の位置による表現です。青春を謳歌し、暑い猛暑にもめげずに戦い、実りの秋を迎え、静かな冬に人生を終わって永眠する・・ということになるのです。
「この時代は何にたとえたらよいでしょう。」とイエス様は言われましたが、「時代」と一時期を、「この時代」と言われました。それは旧約時代、新約時代などという期間の区分ではなくて、「時代というもの自体の性格、特徴」を捉えての表現と見るのが妥当でしょう。つまり、どの「時期」にも「時代」という世界観、歴史観があるのです。 どの時代にも「人々」はいましたし、今でもいます。ここでは、それらの人間関係が語られています。
 ここでは「子供たち」の例が使われています。
ある子供たちが、笛を吹きます。この笛は結婚式のための嬉しい曲の笛です。その笛を聞いても踊らなかった人々の反応をみて、今度は弔いの歌を歌います。でも子供たちは悲しみません。
 どの「時代」にも「呼びかける人」があり「反応する人、しない人、呼応する人々」がいるのです、先日の参議院選挙も同じです。求人広告、観光旅行への宣伝も同じです。そして「教会の福音伝達、宣教活動」「開拓伝道」「一地域教会の設立」も同じです。だれかが「呼びかけ」だれかが「応じる」「無視する」「反対する」「攻撃する」などの反応をします。「戦争も始まり、平和交渉・締結」も起こるのです。
 単立馬橋キリスト教会の歴史も同じです。「創設前」「初代」「次世代」という「時代」があるのです。 すでに文書を配布してあります。お読みくださった方があると思います。教会(聖書にある説明されてある教会ならば)はイエス様がお建てになるのです。(マタイ16:18)会堂は建設業者が材料を購入して建てることができます。しかしエクレシヤは(呼ばれた人々の群れ)はイエス様がお建てになります。人がエクレシヤを建てることはできません。そのような思い込みをしている人は「健全な方向転換、悔い改め」をしてください。 (続) (新井)