NO.2613        「キリストのノモス(律法)」      2013/9/1
「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい」(ガラテヤ6:1−2)
 パウロの書簡(13乃至14)の中でロマとガラテヤの二つには共通の課題が取り上げられていると思われています。それは「律法から恵への移行」です。となると「キリストの律法を全うしなさい」という勧めには違和感を持つのではないでしょうか。この点が日本語の訳語、解釈と適用の問題なのです。
 パウロはパリサイ人としてクリスチャンを迫害することを「神から受けた使命」だと思い込みました。人が自分の「思い込み」を「主の導き」だとすることが実際にあります。そこに混乱も起こるのです。パウロはこう述べています。「以前は、私自身も、ナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えていました。 そして、それをエルサレムで実行しました。」(使徒26:9)
「以前」の「すべきだと考えていたことを実行」したパウロは、当時のクリスチャンの迫害のリーダーとして活躍したのです。
 われわれも「以前」の思考、価値観、願い、思いつきの実践をしていた「昔」を振り返ってみる時、その人生こそ「基本的なずれ(罪)」の姿だったと思うでしょう。
 その基本的な「ずれ」を「罪」として自覚し、その生き方の方向を変更することが聖書にある「悔い改め」であり、その生活からの脱却、そのような束縛からの変化こそが「新生体験」とよばれているのです。
 1989年に「単立馬橋キリスト教会会員確認事項」という文書を書きました。馬橋の正式な会員ならば、この文書を確認しているはずです。そこに、こう書いてあります。(それは新井牧師の文章です。)
自由だけを主張すれば、放縦になりかねません。
 規則だけを強調すれば、束縛になります。
「律法」「規則」は確かに束縛になります。馬橋で「新生体験」を確認している方は、自由は聖書に約束されているので了解しているでしょう。しかし、放縦がよいと教えているのではありません。健全なノモスは必要なのです。ここにある「キリストのノモス」(律法と訳されている)は外側からの規則の羅列ではなく「行動を律しまた行動へとかりたてる内部の力、原理、法則、ロマ7;23,8:2,ガラ6:2」(織田 昭ギリシャ語小辞典)です。
 自由のないところには責任もありません。各々が「内部に働かれる聖霊」と知的にも納得している「聖書のみことば」によって、自分にふさわしい生き方を確立して行きましょう。               (新井)