No.2243   『わたしの心だ。きよくなれ。』(マタイ8:1−4)  ‘06/7/23
 現在私たちが教会で使用している第二版は、1978年に出版されたものです。今日の箇所は、新改訳聖書第三版(2004年4月1日出版)で読んでみましょう。5人の翻訳委員会のメンバーが時間をかけて「原典に忠実であろうとする姿勢」を保ちながら翻訳改訂作業をされました。私たちは、改訂されたことばを通して、主からの新しいメッセージを受け取ることができると思います。主に期待して、次の三つのことばに心を留めて、神様の祝福を受けましょう。
1)「ツァラートに冒された人」(第二版では“らい病人”):今日の箇所を理解する鍵となることばです。今回の改訂では、不快語、差別語の見直しが中心になっていますが、特に「らい病人」(第二版)の訳語については、慎重な論議を経て「ツァラート」というヘブル語の原語をそのまま音読みした訳となりました。「皮膚に現れるだけでなく、家の壁や衣服にも認められる現象であり、それが厳密に何を現しているかはいまだに明らかではない。」(三版あとがき)症候です。翻訳委員の1人は「病理的にどうであるかどうかということよりも、いつも潜行している、潜伏しているという人間の霊的な病。そのことを語ろうとしている。「ツァラート」というのは、実は、これが全人類の心の状態ではないかという語りかけを神様はしていると思うのです。」と言っています。つまり、「ツァラートに冒された人」は「霊的な病」を持った私たちを代表していると捉えて良いと思います。
2)「わたしの心だ。」:ギリシャ語の原語では「わたしは意志する」「わたしはそうする」と訳せることばが使われています。イエス様の心、それは「愛する」という「意志」です。イエス様が鞭打たれて肉は飛び散り、血だらけの身体で重い十字架を背負い、激痛に倒れては立ち上がり、十字架に向かい、担ぎ、倒れ、立ち上がり、十字架に近づくことを決して止めない。その姿にイエス様の心を見ます。イエス様は諦めません。十字架を負い続けます。ゴルゴタの丘に向かって進み続けるのです。「わたしはそうする。」と言ったら、その通りに実行するという意志なのです。それは「まことに彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。・・彼は、わたしたちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。・・彼の打ち傷によってわたしたちはいやされた。」(イザヤ53:4、5)とのみことばが成就するためでした。
3)「きよくなれ。」:きよい、ということばには、二つの意味があります。@混じりけのない、純粋な;ナアマン将軍が7回ヨルダン川に身を浸すことを決心した時(U列王5章)心の中はきよくなり「二心」はありませんでした。私たちの心には、神様から来るものではない思い、自分の思い、他人の思い、先入観、隙間に忍び込んでくるサタンの声、不純なものがありませんか。A心の汚れがない;口から出るもの(マタイ15:16−18)、不平不満、うらみ、つらみ、妬み、憎しみなどが、私たちの心を覆っています。きよいとは、これらの「汚れ」がない状態です。きよくすることは、神様にしかできないことです。そして、神の御子であるイエス様は「きよめられなさい。」(ギリシャ語原語では受け身形)とおっしゃることができる唯一のお方なのです。
 私たち1人1人は「ツァラートに冒された人」です。心の中は不純物と汚れで一杯です。痛み、寂しさ、悲しみで、傷だらけです。身体も病んでいます。しかし、イエス様の心を見上げ、聖霊様に満たされるときに、心の内側からきよめられるという約束を信じましょう。新しい週が始まります。「主よ。きよめてください。」と叫びつつ、聖霊によって注がれる愛を受けて「主の愛で」周りの人々を愛せるようにしてください、と祈り求めて進んで行きましょう。    (瀬在)