自分の動きを相手に映せるか


平成2262

 

自分の動きを相手に映せるか。要は取り・受けのとき、その相手を自分に映して見えるかっちゅうことです。それを感じることができたとき、合氣道の合氣が始まると思うんですよ。なんて言っておきながらそんなことあんまり考えていやしないのですけども・・・。

 

そういえば、このごろの私、だいぶん横着になっていました。稽古中の技を取るとき、最後に四方投げになれば、なんだって構わんとでしょう〜。なんて。

けれどもこの間、黒澤先生にいわれた言葉ではっと目が覚めましたよ。や、すぐ覚めたわけじゃないんですけどね。

 

『どうでもいいのではなく臨機応変。そう動くには稽古を真面目に受けて、言われたとおりの動きで体を作らないとならないのだよ。』や〜、経験の差をかんじましたわ。やはり先生、さすが先生。

 

それからね、武田先生が言っていた『稽古の後の稽古が必要。』がなんとな〜く分かったのですよ。稽古の後の稽古は、臨機応変にできる稽古。そう、ここ。ここが大切なんだなと思ったのですよ。それができるようになるには、体を作るための稽古をしっかりしなきゃあなんない。簡単にいうなら、1桁の足し算すらしらない小学生が2桁の足し算をひょいひょいできるはずがないってこと。気がつくのに時間がかかったなあだから合気道に夢中になるんでしょうね、私。

 

そう、ところで、むかしから他人は自分を映す鏡とよく言われるでしょ。仏教でいうのならば、『自分の中に仏がいる。』というやつね。てことは、他人を通すことで自分の仏が映されるっちゅう話になるんだわね。だから他人の仏は自分が映しているっていうわけで自分が他人の仏を映している鏡になっているっていうわけで、ということは自分は他人であって他人は自分でそこに仏が存在していてというややこしい話になってくるんですよね。

 

 何が言いたいのかっちゅうのは、さほど定めていなくって、ただ、邪心も仏心もすべて消し去った鏡が相互に存在したら・・・という話に繋がればいいなっていう余興話。

 

武田先生にきれいに投げられたとき、不思議に笑みがでるでしょう?

 

この疑問に繋げていけて皆さんがついてきてくれているんだったら、余興は成功。

 

私は思うとですよ。すべての心が払われた鏡で向き合ってるからこそ、そこに笑みがでるんじゃないかって。でもって、向き合ってるっちゅうことが本当なら、それは相手が自分で自分が相手のような錯覚に陥ることができてるってわけ。だって鏡やからね。でもまあ鏡でも何でもいいか〜って思っちゃうんですよ。だって笑みですよ、笑み。平和の時代を象徴しているみたいなもんよ。お、そうなると平和な時代の合気道は笑みの道ってことかな。

 

だってね、有事の時代は合気道が鬼の道だったと思うんですよ。『生きるか死ぬかにきれいごとは言ってられん。』という武田先生の言葉は深いもんです。平和が一番だけれども「とかくこの世は」得意の知ったかぶりになっちゃいそうなもんで、誰だ言ったかわからんし曖昧にしてご愛嬌。

 

結局私の言いたいことはね、だからせめて道場での時間くらい平和でいて、笑っていたいなあっていうことです。私の鏡はすぐに曇っちゃいます。そんなときは上を向いて深呼吸これは武田先生が言うてくれた言葉なんですけどね。深呼吸してから、いつもの平和な道場で投げられ、投げられ、笑っていられたら幸せなもんですね。

 

『そろそろですよ、暖かいでしょう。幸せ、しあわせ、平和と書いていたら色んなもんが幸せで平和だなと思えてくるんだなあ・・・ではでは。』



飲んでた父の語ったこと。   口述筆記:石原 未来