道場生コラム(その4)
石原 邦彦

禅と合気道



「合気道は動く禅である。」  と聞いた。

 清進塾に入門して1年目か2年目に、新しく入門してきた人が、何か本の一文らしきを話していたことを思い出す。

 合気道と禅を結びつけること自体が禅問答のようなもので、私は一体何を話しているのかと思って聞いていた。そんな彼は、大いなる謎を残しなんと1日でやめて行った。あれから月日が流れ・・・・といっても2年ほどだが、時々思い出し考えている。

「禅とは何か、 合気道とは、そして道とは。」・・・・と。

 昔、托鉢の僧に話を聞いた。玄関先でオーオーと言い米や金をもらい、経をあげて去る。托鉢の掛け声はオーオーと言う。その意味は、もらえる物はなんでも応じるの「応」らしい。

 私は、意地悪く聞いた。「もし腐ったものを、もらったらどうするのか。」・・・と。

 そんな疑問にも彼は簡単に答えてくれた。「それも頂く」と。

 今あるもので生活する。両親からもらった命で今を生き、玄関に立ってもらった物に感謝して生きる。ただそれだけだ。すごく単純なことである。

 そういえば、禅という字は、「単純なことを示す」と書いてある。 合気道とは・・・・  日が浅く、おぼろげにも解らないが、もしかしたら「そこが禅と一緒なのかも」しれない。

 でも一日入門の彼は、どう思っていたのだろう。もう少し続けていたら何か見えたのか。 なんだか、すごい世界に足を踏み入れたような・・・・。

 しかし合気道と禅が一緒なら、合気道も「単純」な世界のはず。他人の為の悟りでなく自分の為の悟りを探し続ける禅。他人の手を借り自分の世界を作る合気道。私の場合まだまだそこまで行かないが、かつて一度偶然にその世界が感じられた。なんと言っていいのか、力は要らず体が勝手に動き終える世界。それはとっても快感であった。

 でも、一度だけであれから感じられたことはない。 力と力の武道は経験したことがないので分からないが、この感覚を味わえるのだろうか。

 合気道のいいところは、戦っているように見えて戦っていない。また逆もあるが自分の世界を感じるには、このような稽古がいいのかもしれない。なんともすばらしいものを残してくださった、開祖に感謝です。 清進塾で帯びの締め方から習い、5年目の春を迎える。入門して本当によかった。

(後書き) ここに書いたのは、禅と合気道について自分に問いかけた今の私の思いです。何年か経つとその思いも変わるのかもしれません。「単純は複雑の始まり、複雑は単純に至る」というように。

(2007年3月1日)

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