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道場生コラム(その5)
守屋 徹
現代における道場の存在意義と我々の目指すもの。
(道場で考えた事)

視覚化されたもの(日常性・映像・マスコミ・プロパガンダ 等)はその部分が増大されて認知にひずみをもたらす。一見、自明に思える出来事、たとえばマスコミによる報道などが、実は真実を伝えてはおらず、その本質は別のところにあったりする。
それならば、目に見えてこない、その物事の本質や人間の心を理解しようと思うと、今度はいかがわしい宗教やカルトの世界に陥る危険が生じてくる。
とりあえず我々が頭で何かを理解しようとするには、どうしても言語やカタチを用いて具象化していかないと理解することができない。いったい我々はどうしたら物事の全体像を正しく捉えて行く事ができるのだろうか。
先日あるバレーダンサーがFMラジオで語っていたが『踊っている自分の「後ろ」の部分を見るようにしている。』のだそうだ。
つまり頭の中での視点を、自分が踊っている姿が見える位置に持ってくらいしのだ(イメージする?)。こうする事によって自分が全体の中で、どの位置にいるのかが分かり、次に何をすればよいのかが分かるらしいのだ。
それは問題解決のスキルと言っても良いかもしれない。そして自分の位置が見えると云うことは、全体としての大局を理解することになるらしいのだ。このような稽古方法は日本舞踊の方法なんだろうか?それとも世阿弥あたりが書いている事なのだろうか?。
我々は道場という『場』において、視覚化できない感覚・技・精神・民族性・歴史・文化・芸術・健康・等を全体として扱う必要性とその可能性を模索している。
それは師範より伝えられる『形』の稽古を通じておこなう作業ではあるが、形は単なるカタチや見せ物として形骸化させてはならない。師範より伝えられる『稽古』の中にこそ、その答えが隠されているのではないだろうか。
ところで一般的に道場と言えば『武道』等を稽古する建物や場所のことである。
道場は『道』の『場』である。『場』とはお互い何かしらの影響を受けあう空間である。道場という空間では稽古を通じてお互いが影響を受けあう。しかしながらその空間における影響は混沌ではなく一定の方向性を有するべきものである。
神話『古事記』の序文によれば『稽古』とは古を稽ふ(いにしへをかんがふ)こと、『照今』(今に照らす)とある。
それは師匠より伝承されうる古来よりの【垂直的関係性】の表現であると想像したい。今、格闘技ではなく何故に武道であり合気道であるのか。格闘技やスポーツではない現代における道場の存在意義と我々の目指すものを考えていきたい。
その【垂直的関係性】とは『道』と同義であると考える。それを視覚的にとらえるには横軸の時系列直線だとなんとなく一神教の終末思想を想像してなじめない。そこで我々の価値観からすれば、垂直的な柱としての宇宙認識・時間・歴史認識の方が適していると考える。縦糸と考えても良いのだろうか?。そしてその縦糸に対してさまざまな歴史的横糸が織りあわされて来たのではないだろうか。
では『垂直的関係性』とは歴史的に何だろうか?以下に思いつく関係性のキーワードを記載してみる。
古事記・日本書紀。
聖徳太子と大化の改新。 “華夷秩序”からの離脱は聖徳太子以来の国是。
国風文化。 万葉集。
神皇正統記。 神ながらの道。
日本語・和歌・大和魂。
南朝 楠正成。
水戸学 尊皇攘夷。
日清・日露戦争 大東亜戦争の再評価 (司馬遼太郎歴史観への批判)
この歴史的流れの中に、唯物史観とは異なる日本的な『垂直的関係性』の歴史を見出す事が可能ではないだろうか。
我々はこの『垂直的関係性』を悠久の歴史と理解する。そしてこの民族の悠久の歴史の中にこそ自らの生を投じることによって、現代の我々が縄文時代以来この日本列島(大八島)で生きて来た先人達と交信し、その意識、価値観を共有していくことができるのではないだろうか。
その事によって、我々が老いる事(生老病死)の意義と、与えられた現在の生を見つめて行くことが可能となるのだ。
この日本列島の自然生態系と垂直的な独自文明圏こそがわが国の『国風(くにぶり)』であり『国柄』『国体』である。我々にとって『大義』とはこの国体を伝承し守りぬくことである。大義を自覚することによって我々は真に心身の衛生を得て、個人としても、国家としても、自立して行く事ができる。そして夜も安眠できるのだ。
稽古は禊(みそぎ)でありこの『垂直的関係性』を会得する手段である。みそぎ(稽古)することによって我々は現在の関係性や考えを固定化せずに、常に生まれ変わって行く事が可能となるのではないだろうか。以前確か『今日の稽古の事は今日忘れろ』と先生が語られていたように記憶している。その真義はよく分からないが、忘れる事も禊(稽古)なのかもしれない。
今日的に『塾』とはなんだろうか。正しく清進塾とは歴史的『大義』を自覚した志のある有為の人材を輩出する、文字どおりの私塾たり得るべきではないだろうか。それは現実的にはむずかしくあっても、その思想性は共に堅持して行きたい。
『志ある老若男女は清進塾に結集せよ。』
『練馬に清進塾あり。ならば共に稽古しようではないか!』
(平成18年5月1日)文章中の我々とは私自身のことです。
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