世界ナイフ紀行 サハ共和国編
 
さいはてのヤクーツク
 
その一
飛行機は落ちなかった

    極東ロシアの玄関口、ウラジオストックからほぼ真北へ 2000 km。 飛行機で3 時間ほどのところにその町はある。実を言えば、ここだけは来たくなかった。前回の出張でも予定に入れられた地域だったが、あーだ、こーだと理由をつけてリストからはずしたのに、ここへ来てついに捕まってしまった。

     ちょうど一年前、はじめてロシアの地を踏んだ私はモスクワのホテルの一室でテレビのニュースを眺めていた。なにぶん英語だったので細かいところはあやふやだが、肝心なところだけははっきり覚えている。

「・・サハ共和国の首都・ヤクーツクへ向かう飛行機が墜落し、乗客乗員七十数名、全員死亡・・」

    ロシアの飛行機は良く落ちることで有名だが、ここらは特に怖い。着陸が成功するたびに乗客から拍手と歓声がおきたりする。事故の原因は様々だ。タンクから燃料が漏れていたり、パイロットが自分の15歳の息子に操縦させていて落ちたり・・・。

    今回もヤクーツクに着いた途端、客席から拍手がおきた。まるで劇場でアンコールの手拍子を受けたオペラ歌手が再び幕の後ろから姿を現すかのように、操縦室のドアが開きパイロットが出てきた。いやいや、その前に子猫が一匹出てきた。パイロットの飼い猫らしい。濃紺の制服のテノール歌手は万雷の拍手のなか、子猫を抱き上げ、そのまま客席の間の花道を通って飛行機の後部出口へと姿を消した。まぁいい。仮にこの猫が操縦していたにせよ、とにかく無事に着いた。片道だけでも無事だった。

    ここは「さいはての・・」という形容がはまりすぎる。鉄道もなく、空路でなければ凸凹路を車で来るか、北極海からレナ川を船で上ってくるしかない。それも千キロ単位の移動になるので、よほどの暇人でない限り飛行機を使うことになる。
    私の郷里から遠くない知床半島の根本に「地の果て温泉」というのがある。ここも車以外の交通手段はない。その路も雪に閉ざされる期間が長いので、温泉付きホテルが開業しているのは夏だけ。露天風呂に入っていてヒグマに襲われた人までいるそうだ。サハはそこと似かよった雰囲気が漂う。単にスケールを千倍くらいにした感じだ。そういう意味でなつかしい気もするのだが、だからといってうれしくなるわけではない。

    商社員に教えられたとおり、ここの秋の彼岸には、池に氷が張る。コートも無しに出掛けた私は町に着くなり市場へ直行し、激安のはずの革のハーフコートを仕入れることにした。トルコから来たという行商人は日本人と見るや当然のごとくふっかけてきたが、なんとか4000円ほどに値切ることができた。とにかくこれがなくては生きていけそうにないのでアシモトを見られたのだ。

(写真)ヤクーツクの市場の前で、買ったばかりの防寒服を着た(写真)

    次の日さっそく客との交渉を持つと、納入機器に求められた条件にはこんな一文があった。

---納入される製品は -65°から +40°の気温に耐えること---

    帰ってきてから、「そんなものあるわけないだろ」 と年輩のエンジニアに一喝された。これでよし、もう二度と行かずにすむ。

    仕事を終えてから立ち寄った 「オホーツク」 という狩猟道具屋では運が良かった。店の名前は網走近辺にある観光客狙いのラーメン屋のようだが、従業員は・・・やはり観光客狙いのラーメン屋のような顔をしていた。つまり、日本人と同じ顔だ。これがエベンキ族だろうか。ヤクート族とはちょっと違うようだ。ヤクートはトルコ人の一族だそうだが、中央アジアのモンゴル人やアイヌの親戚と混ざり合い、ずいぶんと変わってきているようである。もっとも現在のトルコ共和国に住むトルコ人だってギリシャやアラブとの混血がすすみ、本来のトルコ人とは似ても似付かないだろう。それはともかく、例によって狩猟許可証がなければ売れないと断られたが、

「これを買っても狩猟はしない。家で刺し身をつくるだけだ。資源保護の趣旨には反しないのだ」
    と、しつこく食い下がり、ついに丸顔のおばさんに、
「仕方ないねぇ。一本だけ売ってやるよ」
    と言わせることに成功した。

    しかし、しばしば不思議に思うのだが、通訳もいないときに私はいったいどうやって彼らとコミュニケーションしているのだろう。あちらは英語ができるはずもなく、こちらはロシア語がさっぱり。にもかかわらずなんとか通 じている。少なくとも通じていると私は思いこんでいる。あちらもそうらしい。話している間は一所懸命なのでそれを考える余裕がない。そしていつもあとになって首をひねっている。「世界ナイフ紀行」の隠された謎である。

(写真)ヤクートナイフのアップ。ハンドルは白樺。ブレードは短刀のよう(写真)
    それはともかく、ナイフはブレードに = CAXA = (サハと読む) と地名が彫ってあり、細身で長くヒルトレス、ナロータング (ブレードだけ単品で売っているので分かった)。ハンドルは白樺材。片刃だが刃は付いてないので、自分で研ぐこととなった。(帰国してから砥石でエッチラオッチラやっているうち、白樺のハンドルも一緒に削ってしまうミスをやらかした)
    ハンドルはニスを塗った変形八角形である。その材質のせいか、どこかラップナイフに似ている。やはりトナカイとか鹿を解体するのに使うのだろうか。ポイント(切っ先)が鋭すぎてスキニング(皮剥)には向いていないように見えるのだが。

その二
日本刀愛好家にバラ色のお告げ
(写真)博物館前の鯨の骨。20mくらいあっただろうか(写真)     ヤクートナイフを手に入れたあと、私はルリルリ気分で市内をうろつきはじめた。博物館のそとにはなぜか数百年前に捕れたとか言う鯨の骸骨が飾ってあった。ここって、海まで千キロ以上も離れているのに、どうして鯨が…という疑問が当然湧き起こる。その謎を解きあかす鍵は町外れに私を待っていた。
    車でレナ川を見ようと運転手に誘われ、支流の一つを訪ねた。支流と言いながらもちゃんと港やドックがある。漁船も客船も泊まっている。ここから河口まではまだ 2000 km 近くあるはずなのだが、その支流にさえ、千人は乗り込めそうな客船が入っている。あちこちには大きな島が浮かんでいる。
    鯨がここまで来れたのはどうやらこの大河のおかげのようだ。それよりもおどろいたのはそこかしこに見える巨大な砂丘だ。森林資源に溢れ、上質の石炭の産地としても有名なこのヤクートのど真ん中を、大砂丘を携えた大河が蛇行しつつ、貫いている。
(写真)博物館のそばにあったおかしな形の家。二階部分には、横に腕のように飛び出しっている部屋がある(写真)

(写真)レナ川の支流には、1000人くらい乗れそうな客船が停泊している(写真)

    ここに空前絶後の規模でたたらの里(注)を作ることを私は提案したい。否、私は既に提案した。ウラジオストックの某商社の所長に、いかがでしょう ? とやってみた。日本刀の貴重な原料となる玉鋼(タマハガネ)の値段など、ナイフ仲間からの受け売りの知識をあれこれ並べ立て、砂鉄を加工したものが、いかに付加価値の高いものか納得した彼はその話に乗りかけた、が、需要はどれくらいあるんですかと聞き返し、刀以外に使ったという話は聞きませんねぇ・・という私の答えに失望は隠さなかった。

    しかしながら、ここの無尽蔵とも言える川砂を日本へ輸出し、セメントやガラスの原料としてひと稼ぎしたいという地元産業界の希望は大きい。確かにそれでは輸送費が馬鹿にならないので、砂鉄に加工するようなジョイントベンチャーを興せる金持ちは日本にいないものでしょうか。極東開発に力を入れている新潟県や青森県の知事などその気にならないものですかね。
    日本刀の鍛冶ならば「月に三本しか作ってはいけない」などという日本の法規制から逃れて、ここで思いっきり槌を奮うというのも良さそうです。庭付き一戸建ての家(ダーチャ)が 100 万円以内で買えます。ただし、冬の寒さは半端ではありませんが。

(写真)泊まったホテルの裏には、作りかけの分譲別荘地があった(写真)


    砂丘を渡る風はまるで神のお告げのように私には聞こえました。それは未来から聞こえてくる、鉄を焼くフイゴの音だったかもしれません。それにしても、私はいったい、何をしにいったのでしょう。

1995年9月