日本ナイフ紀行 


 
伊勢



早朝の到着

やはり、のんびりと旅行をするなら国内がよろしいようです。なにせ、下手な外国語で苦労をすることもなく、わけの分からぬ料理で腹をこわす心配も少ないですから。


伊勢に着いたのは夏の早朝、7時過ぎでした。たった一人で、しかもこの時刻に着くというのは、妙な話でありますが、まぁ、私の旅はこんなものです。


宿の手配はあらかじめしてありましたが、まだそこへ落ち着くには早すぎます。しかし、ひとけのない町を、駅前からぶらぶらと商店街のある方向へ歩いていくと、もうすでに何軒かの土産物屋兼業の食堂が店を開けていました。この時間帯にまともな食事ができるとは、いささか驚きました。筋向かいにならんだ二軒のうちの一軒に、私は入りました。

すぐさまおばあさんがでてきて、その日の最初の客を迎えたことが嬉しそうな様子で、お茶ばかりか新聞まで持ってきてくれます。注文はあとでゆっくりとうかがいますよ・・という感じでした。

しかし朝から伊勢エビというわけにもいきません。ごく普通の朝食をたのみ、まずは空腹を満たします。

この店の雰囲気に魅せられた私は、滞在した正味三日間で、夕食を二回、朝食も二回ここでとりました。
結局、松坂牛定食、伊勢エビ定食など、めぼしいところはひととおりためしましたが、やはり大衆食堂であります。冷凍された食材をとかし、加熱処理したものばかりでしたので、「おいしくてたまらない」ということにはなりません。しかし、なんともいえずこの食堂が気に入ったのでありました。


そうだ、ここで習い覚えた、赤味噌とエノキダケを入れたみそ汁は、その後我が家の定番となったのであります。


伊勢は美食の地



伊勢エビ定食




伊勢神宮


私は元々神道に興味を持っておりまして、今を去ること20年前、出雲大社にお参りしたのを皮切りに、10年前には諏訪大社、そして今度は伊勢神宮、というわけで、20年かけて三大大社をすべて訪れたことになります。(ずいぶんとのんびりしたペースであります)。

もちろん三大大社といっても、誰がどういう理由でそう名付けたのかは知りませんし、そのこと自体に特に意味を感じているわけでもないです。もっと面白い神社は、日本中にごろごろしていることでしょう。しかしながら、この三社のスケールの大きさには感心いたしました。

なんの予備知識もなく伊勢にお参りした私は、外宮と内宮が別々の場所にあるということも知りませんでした。

境内には小さなお社が、たくさんあります。





豊受大神宮
宿に入るにも早すぎたので、午前中から私は、食堂のそばにあった外宮の中を散策することにしました。しかし、午前とはいえ、すでに境内は猛暑が忍び寄っていたのでした。

それにつけても、あまりありがたみがわかない神社でした。どうしてでしょうね?暑くて、疲れていたのかな?
ウロウロするのにも飽いた私は、匂玉池の回りにある木陰で、しばしの昼寝をし、ひと心地ついたのでした。



菊一文字本店

そして町中をもう一度ぶらつくうちに見つけたのがこの店でした。名にしおう、菊一文字本店。この有名な包丁屋さんの本店がここにあるとは、このときまで知りませんでした。

私は昔から菊一文字の牛刀と、小出刃を持っているのですが、この店構えを見たからには、立ち寄らずにはいられません。

中に入ってみると、「文化財指定」と書いた札が貼ってあります。奥さんらしいひとに、

「どれが文化財なのですか?」と聞くと、

「この店そのものなんですよ」との答え。

納得せざるを得ない雰囲気です。



三叉路の角にある店でした。



店主が店番をしながら新聞を読んでいる。


現在持っていない形の包丁を、と考えた私は、タコ引きを一本、さらに小細工用の小さな包丁を一本買い求めました。

ウーン・・・、満足 満足。

ところでタコ引きというのは関東風の刺身包丁なのだそうです。
しかし、関西風の柳刃が現在では多く使われるようで、これはあまり見かけなくなりましたね。
私は実際に、タコシャブなんかこれで作ったりします。
しかしどれほどの切れ味でも、生タコの足というのは、軽く凍らせておかないと切りづらいです。



内宮とおはらい(おかげ)横町




猿田彦神社の巫女さん。
彼女が踊っていたのは、観光客のためだったのだろうか?


おはらい横町に入る手前にある、猿田彦神社。
実は伊勢神宮よりも、こちらの方に興味があった。
伝説の男・猿田彦よ、おまえの正体は・・?




翌日はいよいよ内宮を参拝できた。外宮と比べて格段に風情というものがあった。かのライシャワー(ポール・クローデルだったか?)教授だかが感心したという五十鈴川の清流を拝み、森の中を社に向かって歩いていくと、ひととき暑さも忘れそうになる。

予想したよりも遙かに広いところでした。外宮と同様に、敷地の中には数多くの別宮があります。
しかし、お宮自体は特に興味もなかったです。ただただ、森の中の散歩が心地よかった。


赤福とお茶が盆に乗っている

伊勢名物・赤福。
ここは日本酒もおいしかった。お土産にちょっと買いました。


横町の郵便局はクラシックな建物

郵便局前は七夕の飾り付け

電柱に「ねぼけや呉服店」の看板

銀行も江戸時代楓の建物


おはらい横町では、
銀行もこんな感じです。



答志島慕情

翌日はついに見るものもなくなり、海でも眺めようかと早朝から鳥羽港まで行きました。海岸をうろついていると、そこから沖の島に向けて市営の船便があることに気づきました。観光船ではなくて、まさしく市民・島民の生活のための「足」として、それらは活躍していました。

いくつもある便のうち、私はすぐに乗れる答志島(とうししま)行きの船に乗ることにしました。
中には、買い出しのおばちゃんとか、島から船で通学しているとおぼしき子供がたくさん乗っていました。


島の中央にある山の頂上付近には、いつの時代のものかわからない古墳があり、また別の場所には戦国武将の九鬼○×の墓が、胴体と、首の二つ分ありました。関ヶ原の戦いで敗れた彼は、ここに潜伏した後、自害し、その首だけ家康の元に送られ、まずは胴体のための墓ができました。そして、あとで返された首も別の場所に墓を作ってもらったそうです。結局、この島で見たのは、古いお墓が三つというわけかな?

墓見物以外、なにもすることがないので、仕方なく私は島の港へ戻りました。いえ、歩きに歩いて、同じ島の中にある、もうひとつの別の港までたどり着いてしまったのです。
そこへ着いたとき、鳥羽行きの船が、10メートルほども岸壁を離れたところでした。特に急ぐこともなかったので、ボーっと見送っていると、そばにいた切符売りのお姉さんが、私が乗り遅れたのだと思いこみ、

「あんたちょっと、今なら間に合うから・・・」といって、船に向かって大声で戻ってくるように叫ぼうとしました。

「いや、あれに乗る必要はないのです。次の便まで散歩してきますから」
と、私は親切なお姉さんに礼を言って、また海沿いの道を歩き出しました。

それにしても空腹を感じていました。すでに昼ご飯の時間をとうに過ぎていますが、私は食堂を探しました。そしてそれは、見つかりました。


どうやらそこは、人口 3000人の島の、ただ一軒の寿司屋のようでした。
入っていくと、店の中では婆ちゃんが、椅子を並べて一人で昼寝をしてました。伊勢市内といい、島といい、今度の旅の食堂には、必ず婆ちゃんがでてきます。

耳が遠いらしく、大声で呼んでもなかなか起きてくれません。 よもや死んでいるのでは?と思ったころ、私の大声に気づいたおばちゃんが裏口から一人現れました。
ほとんど同時に婆ちゃんもびっくりして飛び起き、椅子から落ちそうになっていました。

二人はインタフォンで住宅から息子&孫らしい若い職人を呼び出しました。
皆、とてものんびりとして人当たりがよく、店は暇そうですが、不潔さはありません。

不思議なことに、カウンターにはネタを並べるべきガラスケースがありません。しかしお勧めはやはり寿司だといいます。
いぶかりながらも 「それじゃ・・・」 と頼むと、その若い職人はバケツとザルを持って、外へ出ていきました。私はそれを呆然として見送りました。

そして私はおばちゃんに
「あの・・・これから魚を・・?」と問いました。

「へぇ、そうです。そとに あれこれと生け簀がありましてん。少しでも活きのいい方がよろしおまっしゃろ? でも、お客はん、急いではるんでっか?」

「・・いえ、ちっとも・・・」

夕方まで帰りの船便もなく、急いだところでどこへ行きようもないです。
私はビールの大瓶をとり、中日新聞を読みながらのんびり待つことにしました。

おばちゃんが引っ込んだ厨房からは、卵を焼く音が聞こえてきました。
島の昼下がりは、ゆっくりすぎていきます。

魚の体温が残っている寿司は、もちろん申し分のないおいしさでした。

2001年7月