Alexander Scriabin (1872-1915)
"Piano Sonatas Vol.1"
Bernd Glemser (piano)
(NAXOS,1996)8.553158



ロシアのピアニスト・作曲家アレクサンドル・スクリャービンのピア
ノソナタ第2番(1897年) 。海面を照らす月光から強いインスピレー
ションを得たと言われる第1楽章終わり近くが、最も美しい時間だ。
動機というには控えめな、拍動のように繰り返される二つの低音が波
の訪れを、中声部が叙情を極めた旋律を、高音の細かなパッセージが
海面に撒き散らされる月光のきらめきを描くという、3層の音楽であ
る。声部は3つだが、横の時間的な絡まり合いの多声ではなく、空間
を描き出す「響き」の音楽として聴こえる。

この3層それぞれが弾き分けられることでかえって全体としてひとつ
の空間を現出させるという、ほとんど理想と言いたいほどの響きを、
グレムザーの演奏で聴くことができる。

高音域での細かな音の連なりは、繰り返される中でひとつ終えるごと
に徐々に輝度を落としていくように響く。日没と入れ換わりに月が淡
く光りはじめる時間の推移を見るかのようなグラデーション。
ひときわ粒の大きな中声部の旋律。よく鳴り渡り、歌う。ピアニスト
がこれほど各声部に異なる色づけをするだけでもスクリャービンが書
いた旋律は自ずと歌うはずなのだろうが、グレムザーはこの旋律をさ
え、上昇下降する「歌の息づかい」で弾く。

音楽の構造が贅沢にも多層であるために、他の声部(とりわけ高音の
輝きに)見とれるうちに聴き手はこのせっかくの旋律を意識の背景に
置いてしまうかもしれない。風景を見る時に起こる、図と地の視点の
移動と転換。それぞれの声部が魅力的だから、どれかひとつに惹かれ
ると他をあきらめなければならないという、だから、繰り返し聴きた
くなるのだということ。こういう演奏を聴いて「声部のバランス」と
いうものの魅惑を味わいたいものである。

そして左手の二つの低音。繰り返し訪れる足もとの波が、背景にまわっ
てはいるがやはりこれはひとつの動機(ここでは文字通り、音楽を流れ
さす「動機」のこと)であり、次への拍動となる。これは音楽の終わり
まで繰り返し刻まれる。高音のパッセージが鈍い光に収束していくよう
に、この低音もやがてくぐもっていく。一時としてとどまっていない、
夕刻の海岸の光線の変化をここにも見るかのようだ。

これまで聴いた10種ほどの同曲異演では3層のどこかにアクセント
が置かれ過ぎてしまうきらいがあったりするが(それだけ演奏至難な
のだろう)、グレムザーほどにそれぞれのレイヤーが分離しながらも
一つの緊密な時間を作り出した演奏は、これまで聴いたことがない。

このディスクに収められている他の作品、例えばソナタ5番における、
複雑なリズムの把握と同時に要求されるダイナミズムの両立や、『幻
想曲』でのロマンティシズムと厚みのある響きなど、聴くべき瞬間を
多く持つ、今後時間が経つごとにスタンダードの位置を占めそうなディ
スクである。


1999.07.05,2007.04.13 revised 1999,2007 shige@S.A.S.






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