ヨハネス・ブラームス

二つのラプソディ 作品79
3つの間奏曲 作品117
6つのピアノ曲 作品118
4つのピアノ曲 作品119

ラドゥ・ルプー(ピアノ)


(Decca 417 599-2) 1971,1978


他ジャンルでの大作群にあってピアノ曲はひっそりとした位置を占
めてはいるけれど、多くの変奏曲や練習曲を書いたブラームスはピ
アノ作曲・演奏技法に対する強い関心を持っていた。ショパンが何
の前触れでもない「前奏曲」を書いたように、「間奏曲」と呼びつ
つ、何かの曲の間ではなく独立した音楽として書いた晩年の親密な
小曲の素晴しさはこれまで確かに伝えられてきた。それでもなお、
CDにして実は5枚にはなる(ドビュッシーとほぼ同じなのだ)ブ
ラームスのピアノを聴くことの喜びはもっと宣伝されていい。

とりわけ傑作とされる作品117『インテルメッツォ』(間奏曲)
の3曲が持つ美しさは、左右の手が作る響きの形にある。時代は後
期ロマン派にあって、左手は単なる伴奏ではないということの徹底
ぶりは言うまでもない。3曲に共通するのは、くぐもった背景と、
その深い淵から立ち昇る旋律の澄明さとのコントラストのありかた
だろう。そしてもうひとつ、豊かな残響の美しさが、ブラームスが
ピアノを、ショパンやドビュッシー同様に「響きの楽器」として捉
えていたことを示している。これらの3つの作品を、それぞれにほ
んのすこしのことしか語りえないが、ここにスケッチしてみる。


第1曲、音楽に陰影を与える背景は、旋律と同じ右手がオクターブで挟む形に
よっている。親指と小指のオクターブの間に、旋律線がある。和音としてはあ
る意味で最も控えめで、そして澄んだ8度の音程が、この2音に挟まれた内部
のシングルトーンの旋律を淡く縁どる。オクターブは旋律を色付ける内声部で
はあるが、旋律との関係は演奏や聴き手の意識に応じて時に反転し、明滅する。

第2曲、左右の手にまたがる幅広くゆるやかなアルペジオが上下する。その上
辺のふたつの音にアクセントが置かれ、そのアーチ型の頂点ひとつひとつの連
なりが旋律となる。遠くから近づいてくるアルペジオは、近しいところでは光
を放ち、ペダルで混ぜられるうちに低音のくぐもった音の霧となって消えゆく。
中間部は縦の和音に支えられた、まさに「歌」が聞こえる。

第3曲、再びオクターブから音楽は始まるが、冒頭部分ではこれ自体が旋律と
なる斉唱であり、この低い、平行な動きは内省的で、独白のようだ。中間部で
は動きの大きな旋律が聴かれるなかでもひときわ高音の跳躍が−ここでもまた
オクターブで−幾度となく現われる。旋律の声部よりさらに高い音域にあるこ
のアクセントは、曲集中もっとも澄んだ光となって強い印象を残す。


すっかり手垢のついた賛辞となってしまったようだけれど、「千人
に一人のリリシスト」ルーマニア出身のピアニスト、ラドゥ・ルプー
はかつてこう呼ばれていた。リリシズム=叙情主義は情感赴くまま
にということになるので、演奏中の気分について語られる言葉とし
て解釈される傾向があるけれど、ルプーについてそれを言う場合、
それは演奏前になされる綿密な解釈と、その結果としての音楽の叙
情性にあると考えたほうがいいだろう。演奏中のピアニストの内部
で起こっている感情の動きのダイナミズムはもちろん素晴しい結果
をもたらすこともある。しかしピアニストが音楽を作り上げる段階
で楽譜を深く冷静に読み、そこから得られるだろう響きの効果を追
及し、ライヴにおいては抑制された情感からまさに「叙情的な」再
現芸術をする、というプロフェッショナルな仕事から受ける感動と
いうものも当然、存在するのである。ルプーはその情感豊かな表現
をあらかじめ確信しながら演奏するピアニストということになる。

さて、ブラームスに戻ろう。作品117は確かに「響きの音楽」で
ある。しかしそれはオーケストラ的な大きさ、例えば右手の旋律に
も分厚い和音を付けるといったものではなく、特に第2曲に見られ
るようにペダルで引き伸ばされ混ぜられるくぐもった背景が実に
「音響派」なのである。旋律は主に単音によって、その音の少なさ
ゆえにくっきりと浮かび上がる。深い響きとシンプルな線から成る
ひそやかな音楽である。人間の声域に近しい音域での歌謡的とも言
える旋律と、高音域への跳躍のコントラスト、この叙情と澄明さが
とりわけ魅惑的である。

このペダルを通した柔らかく遠い響きと澄み切った旋律の対比を聴
いてみよう。例えば第二曲、何度か現われる鍵盤の3分の2を占め
るほどの大きなアルペジオは低音まで下り切るまでペダルを踏み続
ける指定が楽譜にはあり、次の瞬間ペダルは上げられる際の、立ち
込める霧が突然晴れるような効果は、ペダルの使用が指だけでは保
持できない故の機能的なものではなく、これはもう響きそれ自体が
要請したものと思いたい。

そしてルプーのブラームスにあって、もうひとつ特にも美しい11
7の第3曲。中間部に現れる、旋律の合間に跳躍する高音域のオク
ターブ。よく響き、最高度に澄みきる。それが8度の和音ではなく
シングルトーンではないかと思わせるほどに透明に発光する。それ
でいて単音より以上の存在感を持つ奇蹟のオクターブを聴かせるこ
の瞬間の連続だけをとっても、このディスクはかけがえのないもの
である。深々とした共鳴に散りばめられた光の点がここにはある。



2003 shige@S.A.S.





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