シンプルな音楽のシンプルではないリスニング
マーラーを気楽に流し、ライヒを身じろぎもせず聴く


確かにミニマル・ミュージックは難解で停滞さえしていたかつての
「現代音楽」界の風通しをかなり良くしたらしい。
しかしそれは狭い「純音楽」の世界の内のことであって、誰でもが
聴くというものではもちろんなかっただろう。1時間延々と続く音
のさざ波に付き合える聴衆とはつまりどういう人たちかと言えば、
無調性の音楽の複雑極まる音風景のなかにもなんとか面白さを見い
出そうという「訓練」を受けた人々のことである(ポピュラー系か
ら入った人ももちろんいるはずだが)。彼らにしてみれば調性的で
ビートも明瞭で、いやそれどころかビートそのものが音楽的快楽に
なる「現代音楽」なんて、新鮮で耳に心地よいイージー・リスニン
グであったかもしれない。

ところで、ミニマル・ミュージックの最近の聴き手は、テクノとの
重なりを見せている。ライヒの10枚組ボックス・セットや、斬新な
アートワークでのスリーヴなど、以前ならちょっと考えにくかった
状況になってきている。ミニマルの方こそが元祖なのだろうが、テ
クノもまた、簡素化(ある意味での複雑化)、抽象化、そして音楽
それ自体の完結性を気にしないということと同義であるというのが
一つの流れになっていることを見ても、テクノのリスナーがメロだ
のサビだのを音楽に必ずしも求めなくなっているのだろう。

さて、それでは単純な音楽ばかり気楽に流す、つまりはリスナーの
質が、さらには音楽のそれまでが低下したのか?
結論はノー。あるいはシリアス・ミュージックと「おあいこ」のあ
たりだろう。

ミニマルもアンビエントも一般に、要素が少なく単純な音楽である。
確かにそう言えるかもしれない。

しかし単純な音楽を楽しむのは非常に難しい。それだけ能動的な耳
が必要だからだ。この点、これらの音楽を気楽にも聴けるという側
面だけをとりあげて、上演に3日かかるオペラや100ページを超え
るスコアのシンフォニーを聴くという「もうひとつの」「伝統的な」
聴き方しか考慮しないと、勘違いをしてしまう。
こちらから聴く対象へと分け入ること、囲まれた空間に身を置いて
同化するということは、精神活動のかなり深いところでの作業であ
るはずだ。

ステージとクラブの違いと言ってもいいだろう。劇場は「あちらと
こちら」つまりステージと客席の関係。優れて複雑に構築された音
楽をご拝聴するのも偉いが、ハコの一隅にいて音に取り囲まれるな
かで踊らずに思索することもディープだ。同様にミニマルを1時間
聴き続けることで日常とは異化された時間感覚を体験することもま
た、根気のいることなのだ。
そのあたりで複雑な音楽=高尚という図式が崩れる。もともと脆い
図式である。それは作曲、演奏する立場だけから見ているから。聴
取のさまざまなありようを見なければ分からない、新たな音楽の価
値というものがある。

音符がたくさんの音楽を精緻に聴く
楽譜がリピートばかりで単純だが、楽譜さえない音楽だが、深い音

おあいこである。

これほどまでに広まったミニマルとアンビエント。
それなりの理由があるのだ。
お気楽な大衆文化に似つかわしい音楽のようでいて、実は最も能動
的な聴取が要求される/それだけのポテンシャルを持った音楽。

ところで念を押しておきますが、ただただぼんやりしていてもいい
音楽だから快適でもあるのだけれど。

(September 6,1999)
・h o m e・